後記 2021-06-01                   


 

    

 ひとりの老女が海原の果てを見やっていた。
 茶事懐石料理人、半澤鶴子。

 懐石料理、お茶を振舞う茶事行脚の様子を追ったTV番組で、自ら運転する車に茶事の道具を積んで全国行脚、偶然出会った人々に声をかけ、残雪の野原や農家の庭先などに緋毛氈を敷いて茶事を行っているのだそうな。
 自然を満喫しながらの一期一会、行き当たりばったりの旅。
 はんなりとした関西言葉にあいまった楚々とした顔立ちが茶事の行為に入るやいなや、凜として、野面や雑木林、里の空、川、海、人間でないものたちの命、不明瞭な光の戯れを瞬時にとらえ、ほのぼのと広がった静寂の時を清々しく鎮めていくのです。
 聞こえない音をさぐりながら、花の匂いをかぎわけ、生死を託したものの、あるがままを映す日月の次元。
 願わくば、私を置く場所にもそのような時が流れてはくれまいかと思ってみたりもしたのです。

 

   墨絵のような水平線が
   みるみるうちに朱に染まって
   人知れず
   枯れた谷川の畔に座する
   石仏の翳りの奥に
   ささやかな命が宿ってくる

   田中小実昌という
   牧師の息子が暮らした
   瀬戸内の軍港の町はずれ
   十字架のない教会の痕跡を仰ぎ見て
   清廉な墓碑にひざまずく
   自在に吹く風の山陰の斜面
   段々畑の畦道に
   所在なげに転がっていた球根をひとつ拾ってきた
   窓辺の鉢に埋めていたら
   可憐な水仙の花が三輪咲いた

   冬雨が朝の空気を濡らして
   青白く霞んだ丘陵がみえている
   東の硝子窓を少し開けると
   ゆらめきのような淡い匂いが
   かぞえきれないほどの歳月をのせて
   うら寂しい部屋の中に入り込んできた
   よそよそしい気配の
   大気は湿って
   微かに水仙の匂いが混じっている

   あなたは昨日どこへ行っていたのですか
   何を見ましたか
   何を感じましたか
   昨日のいのち
   明日のいのち
   今日は今日のいのちをひたすら歩いて
   ささやかに暮らす日々を聞こう
   そののちに
   また次の日のいのちを訪ね
   もう一度聞こう
   あの赤い実をついばんでいる鳥の名前を知っていますか
   私の名前を知っていますか
   君の名前を知っていますか

   川原に揺らぐ葦のむこう側から
   ふいと
   一羽の青鷺が飛び立って
   真新しい深空間が生まれた
   そこには
   一筋の光と
   うらうらとした時がながれ
   やがて
   稲田をこえた遙か遠く
   山襞に刻まれた明暗模様の記憶の中に
   艶やかなうねりが生まれた

   ときには
   死にゆく者も
   生まれくる者も
   移ろいゆく故郷や
   懐かしい人々
   もろもろは夢のできごと
   美しすぎる黄昏も望めたが
   語らず秘めた歳月の中の
   きれぎれの迷いを見ているばかり
   在りもしない追憶は
   記憶に残す余韻もなく
   たいていはつかの間に消えていった


 誰にとっても生涯忘れ得ぬ光景というものがあるものです。
 もちろん、私にとっても。
 もう、あれは半世紀も前のこと。
 赤坂見附の外科病院、身元の確認を促す声が耳元に届いてくる。顎は深く切れ、片方の足のかかとから飛び出した骨の先が白く尖っている。「うーうー」という重く沈んだうなり声がカーテンで仕切られた部屋に響いている。ビルの屋上から宙を飛んだT君の最期の声。
 あるいはウイスキーと睡眠薬の入り交じった匂いが充満していた西新宿のホテルの一室。机の上に転がった数個のウイスキーの小瓶、睡眠薬の空箱、半分は読み取れなかった便せんの上の震えた文字。彼の人の空しくも叶えられなかった一絞りの願い。
 祭りの日に死んだ父。そ の遺体は、祭りの準備を中断して出迎えてくれる集落の人々の気持ちを慮って、病院の搬送車ではなく、長兄の運転する車の助手席で私の膝の上に抱かれ、柔らかな風の舞う坂の上の古家にひっそりと帰還したのだった。
  それもこれも、それらはみな誰もが思い描かなかった死の光景。
 
  それよりも、なお一際鮮やかに思い起こさせてくれるのは、幼い私の心を異世界に誘ってくれた幻想的な光景です。
 遠い昔、神戸の叔母の家族と芦屋奥池にキャンプに行く途上、芦屋川に添った曲がりくねった道の崖下にささやかな墓地を目にしたのです。それほど多くはない墓碑の間を幾筋かの参道が縫っていました。青々と茂った樹木の下に紅い毛氈が敷かれ、着物姿の女性数名が向かい合って座って、何かの所作らしき動きをしていました。後方には重ね膳が置かれて、茶道具らしきものも見えました。今にして思うとあれは野点だったのでしょうが、墓原のその周りだけが先だってある死の世界の中に浮かんだ命の色だったのです。
 田舎育ちの私には想像だにできないほどの古雅で摩訶不思議な光景でした。死の畔で繰り広げられる宴の艶やかさ、理由のない幽かな昂ぶりに震えながら垣間見た光景、遙かな時を経た今でも、まざまざと思い浮かべることのできる忘れ得ぬ光景です。

 窓際に咲く白い水仙の花をぼんやりと眺めながら、そんなことを思い起こしていると、半澤鶴子の野点の姿が仄かにダブって見えてくるのです。
何ということもない、ただそれだけのこと。
それだけの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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