日本海を久しぶりに見た
山間の若葉のトンネルを列車は走っていく
渓谷にかかる赤い鉄橋
あれは何という山だろう
遠く雪をかむった山稜
水を張った水田に
植えたばかりの苗が風に揺れている
水面に
雲が映る
風が映る
鳥影が映る
森陰に小さな祠が見える
栗林、梅林
青々と生い茂った樹木の間間に
藤の花が若紫の色彩を添えている
秘境の駅という看板を掲げた古びれた木造駅舎
蔦の絡まった赤い鳥居の社
叢に埋もれた路傍の石仏
太平洋側から日本海側へと
のんびりと横断しながら高原を走る
津軽の空
南部の空
最上の空
越後の空
加賀の空
生きながらえてきた
長い年月の営みのように
魂のいどころ
悲しみや心の痛みも
母に抱かれた
童子のころの
小さな寝息
定めを生きた
たったひとつの息づきと
ささやかな命を
柔らかな腕の温もりのように
ふんわりと風に乗せて運んでくれた
東日本大震災の翌年に北海道の旭川を皮切りに、網走、釧路、帯広、札幌、余市、古平、小樽、登別、函館、弘前、浄法寺、一戸、盛岡、釜石、大船渡、気仙沼と、折り畳み自転車を担いで一か月ほどの掃苔と震災地慰霊の旅をしたのはもう十三年も前のことでしたが、過ぎ去ったその歳月と歳月の間には、一か月に及ぶ九州一周や北陸、山陰、四国一周、伊勢・近畿地方への掃苔旅、「文学者掃苔録図書館」の刊行、二年弱の京都移住生活、BS朝日の番組「お墓へ行こう」への出演など、目まぐるしいほど「文学者掃苔録」絡みの時間を忙しく費やしてきました。またその中には長兄、次兄、二人の兄や義兄の死、甥の夭折もありました。
この数年は私自身の体調も芳しくなく「文学者掃苔録」も2022年9月から二年半の休載を余儀なくされました。ようやくこの2月に再開を果たして、これからはぼちぼちと気ままに掃苔の記録を重ねていけたらと思っていたのですが、ゴールデンウィーク少し前に家族二人が新型コロナに罹り、私だけが難を逃れたというものの風邪症状に変わりなく、家族揃って隔離状態という笑えない有様に陥ってしまいました。
連休後半にはコロナの二人は何とか完治したのに、一番軽いはずの私の症状がいつまで経っても回復せず、微熱、纏わりつくような喉元の痛みと息苦しさを抱えたまま鬱々とした日々を送っていたのですが、多分これで最後になるかも知れないという思いで、家族の反対を押し切り、癒えぬままの体をおして一週間にわたる青森、岩手、山形、福島、新潟、富山、石川への掃苔の旅に出かけたのは、連休が明けて二十日ばかりを過ぎた頃でありました。
果敢ない歓びや悲しみも、追い越していった年月の気配、明と暗、喜びあったこと、労りあったこと、悔やみ絶望に浸ったことは、どうにも避けることのできない人の世の習いには違いないのですが、それぞれの季節がまわり、年があけ、数えきれないほどの時を追いやって繰り返した営みの残火が燻り、微かに余韻を孕んだ音や光となって脳裏をよこぎり、あるかなきかの風に乗って四方へと流れていったのです。
津軽の方言詩人と言われた高木恭造、自由奔放に恋愛を重ねて仏門に入った瀬戸内寂聴、軍国主義に抵抗した反戦川柳作家鶴彬、放浪の作家きだみのるの娘を養女にして、その成長過程を描いた作品で直木賞を受賞した三好京三、農民詩人として人生を生きた真壁仁、反骨あふれる歴史・時代小説を描いた早乙女貢、実証的な歴史小説で評価を受けた鷲尾雨工、戦後歌壇の中軸となった宮柊二、早稲田大学校歌を作詞した相馬御風、犯罪者の精神世界や狂気を追求した加賀乙彦、仏教の近代化を目指した暁烏敏、雪の結晶を研究した中谷宇吉郎、そしてまた日本を代表する詩人西脇順三郎、自然主義作家徳田秋声などの墓碑に手を合わせながら安寧を願ってきたのでした。
厳かな沈黙、聖なる塋域に動くものは何もなく、ただ首を垂れるその一瞬の内に迎えたのは、八十年にあと数年で手が届かんとする我が人生に積み重ねてきた愚かさや悔恨を問うてみる心の震えであったのです。
冴えざえとした大気が私の背を包み、墓山に吹き上がってきた一陣の風に舞った枯れ葉が苔むした墓石の上に重なったと思ったら、その名を思い出せぬ間に一羽の鳥が黒い影を残して飛び立ち、重なり合った樹葉の間からわずかに覗く青い空と白い雲が見えている聖域の午後の時、苦悶し、名を成し、命を終えた作家たちの面影が無名の奥から吐く吐息を聞いたような気がして、思わず振り返ってみたのにそこにとどまっていたのは、永遠の静寂とあるがままの古びれた石塊ばかりであったのです。
たった今までそこにいたのに
陽が雲に遮られ
細切れの安らぎが
風になびくころ
あるがままの喜びや悲しみ
恐れや怒り
生も死も
こともなげにやり過ごした
いくたびもいくたびも
そしてまた
おそらくは秘め語らずに
何処かへ去ってゆく
迷い人のように
ヨタヨタと
墓山をくだると
遠く
北の海の
潮騒の音が
耳朶を微かに震わせ
私の旅は終わった
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