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曲直部先生に学んだこと

1997.03.17. 掲載
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66年4月、曲直部先生が阪大第1外科の教授に就任されると、私ども62年入局組の中で内藤、津森、堀口、野村の4名が心臓外科グループに配属され、心臓外科医への道を私も懸命に進んでいました。しかし、68年頃から吹き荒れた大学紛争を経験している間に、大学に留まって心臓外科医になることに疑問を感じるようになり、医局でその気持ちを発表しました。

その後大学紛争は終焉を迎え、大学にも医局にも平和が戻り、曲直部先生からも考え直すようにと言われましたが、一旦表明したことを翻す気持ちにはなれず、71年6月に医局を去りました。

このように自らの意志で医局を出た人間である私が、曲直部先生から学んだことをここに書き記すことにより、謹んで先生のご冥福をお祈り申し上げようと、筆をとりました。

私が先生から学び、いくらか自分の身につけることができたと思えることが三つあります。その一つは「八方破れの構え」です。これは私が勝手にそう呼んでいるだけであり、スマートに言えば「自然体」というのでしょうか。先生の偉大さの根源の一つがここにあると思ってきました。あるがままの自分を見せ、あるがままに行動する、自分の欠点や失敗を隠したり、取り繕うことをしない、ということは自分自身に対する強い信頼がなければできないことです。

二つ目は「新しいことに対するチャレンジ精神」です。心臓外科のパイオニア、国立循環器病センターの創設、看護大学の創設と、先生は次々と新しいことに挑戦され、それを常に実りあるものとされました。

三つ目は「患者に充分説明をする」ということです。先生の診察に付いたことのある者なら、「患者やその家族が納得できるように分かりやすく説明する」ということをいかに先生が大切に考えておられたか思い出すことでしょう。今でこそ「インフォームド・コンセント」が喧しく唱えられていますが、30年も40年も前から先生はそれを実践してこられたのです。

その上、私どものクラスのライターをされていた時には、受け持ちよりも先生の方が患者の状態をよく知っておられることがしばしばありました。このように患者とその家族のことを大切にされてきたからこそ、心臓外科初期の頃のミゼラブルな手術成績にもかかわらず、紛糾することが無かったのだと思っています。

最後に、先生から学んだというより、私に「まじない」効果を与えてくれた先生の言葉を書いておきます。それは、学会発表をする前に「インターハイに出る積りで発表をしてこい」と言っていただいた激励の言葉です。

以来、私が学会で発表する際に何時もこの言葉が脳裏に浮かび、何故かまじないの効果を発揮して、お陰で落ち着いて発表をすることができました。学会だけでなく、講演やいろいろの式典の司会などでも、この言葉を思い出して無事乗り切ることができたのです。先生の言って下さった真意が何かを考えたことはありませんが、とにかく、私にとって有り難いおまじないとなっています。

開業20年を終えたところで、これまでの開業医としてのまとめをして置きたく「野村医院二十年史」を作りました。自分から医局を出て先生にご迷惑をおかけしたことに対するお詫びの気持ちを込めて、93年の暮れにこの二十年史を先生の許にお送りしました。その時には先生ご夫妻がご入院中であることを全く知らなかったのです。

しかし、先生はこれにお目を通して下さった上、電話で妻に「野村君らしく一本筋が通っている」と言って下さいました。 94年2月3日の朝、診察をしているところへ先生の鮮やかな揮毫の額が届けられました。「一筋の道 野村望国手開業二十年を祝す 曲直部寿夫」のお言葉に感激で胸がつまり、涙がこぼれました。先生は不肖の弟子をお許し下さったのだとその時直感したのです。

開業した時に先生からいただいた「扶氏医戒の略」の額は、以来、診察机のすぐ横の壁に掲げています。そしてこの揮毫の額はその上に掲げました。偉大な両先達を思いつつ、これからも診療を続けて参ります。

先生は病床にあって、最後まで医師としての威厳を失わず、周囲の者に気配りをされ、人間として本当に尊敬できるお方だったと、入院中の先生の看護をされた伊藤憲子婦長は話されていました。そのお話をお聞きして深く感動いたしました。

曲直部先生、どうかやすらかにお眠り下さい。


この追悼文は、恩師曲直部寿夫先生が昨年12月に亡くなられ、大阪大学第一外科同窓会の会誌「汲泉」「曲直部寿夫先生追悼特集号」として発刊されることになり、投稿した原稿です。


<1997.3.17.>

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