シルバーバーチの霊訓(一二)
煌く名言集を集めて 総集編

平成16年1月 近藤 千雄(訳)

巻頭言
本書は霊の世界の祝福を受けて物質の世界へ届けられるものです。願わくば今これを手にされたあなたが、本書を読まれることによって心の目を開き魂に感動を覚えられんことを祈ります。生命の物的諸相の背後にあるより高い、より深い、より尊い、そしてより雄大な側面に気づくまでは、その人は暗い霧の中で生きていることになるのです。
シルバーバーチ

祈り
神よ、あなたは全生命の背後におわします。太陽の輝きはあなたの微笑みです。天より降り注ぐ雨滴はあなたの涙です。夜空に煌めく星はあなたの眼差しです。夜の帷はあなたのマントです。そして人の為を思いやる心はあなたの愛にほかなりません。

あなたの霊は全存在に内在しております。森羅万象はあなたの霊の顕現にほかなりません。美しく咲き乱れる花となり、さえずる小鳥の声となって顕現しておられます。あなたへの思いを抱く者ならば、あなたは誰にでも理解できるのでございます。

ああ、神よ。全宇宙を法則によって知ろしめされるあなたは、無窮の過去より存在し、無窮の未来にわたって存在いたします。これまでにあなたは霊の目を持って見る者に真実の姿を顕示され、愛を教え叡智を説き、理解しうる範囲内においてご計画を披露してまいられました。地上天国を築かんと願う者たちの魂を鼓舞し、霊力が生み出す勇気を持ってあなたの進化の仕事に協力するよう導かれました。

又、あなたの使者として私達を地上へ遣わされ、地上の子等の魂を解放し、あなたはいかに身近な存在であるかを認識させる為に、新たな光明、新たな知識、新たな真理、新たな叡智をもたらすべく、高揚と慰安と教化と啓示の仕事を託されました。

願わくはこのサークルをあなたの霊力によって満たし、ここを聖殿としてあなたの真理の輝きを流入せしめ、地上の暗き場所を明るく照らし、平和と知識と叡智をもたらすことが出来ますように。
シルバーバーチ

序 文 ハンネン・スワッハー
われわれがシルバーバーチと呼んでいる霊は実はレッド・インディアンではない。一体誰なのか。今もって分からない。分かっているのは、その霊は大変な高級界に所属していて、その次元からは直接地上界と接触できないために、かつて地上でレッド・インディアンだった霊の身体を中継してわれわれに語りかけている。と言うことだけである。

いずれにせよ、その霊が〝ハンネン・スワッハー・ホームサークル〟と呼称している交霊会の指導霊である。その指導霊が最近こんなことを言った。

≪いつの日か私の地上時代の本名を明かす日も来ることでしょうが、私は仰々しい名前などを使用せずに皆さん方の地上の人間の愛と献身とを獲得し、私の説く真実性によってなるほど神の使徒であることを立証すべく、こうしてインディアンに身をやつさねばならなかったのです。それが神の御心なのです≫

ところで、私とシルバーバーチとの出会いは1924年スピリチュアリズムの真実性を確信して間もない頃のことだった。以来私は毎回一時間余り、シルバーバーチの教えに耳を傾け、導きを受け、助言を頂き、いつしかその霊を地上のいかなる人物よりも敬愛するようになった。

(スワッハーはある日の交霊会に大先輩のノースクリッフ卿が出現してどうしようもない証拠を見せ付けられたことがきっかけで死後の存在を信じるようになった。折しも友人のバーバネルが霊能を発揮し始め、スワッハーの自宅で交霊会を催すようになった。それが〝ハンネン・スワッハー・ホームサークル〟と呼ばれるようになったゆえんである)

シルバーバーチの地上への最初の働きかけは普通より少し変わっていた。スピリチュアリズムを勉強中の18歳の無神論者が、ある時ロンドンの貧民街で行われていた交霊会で冷やかし半分の気持ちで出席していた。そして霊媒が次々といろんな言葉でしゃべるのを聞いて、思わず吹き出してしまった。ところがその中の一人が「そのうちあなたも同じことをするようになりますよ」と戒めるように言った。

その時はばかばかしいと言う気持ちで帰ったが、翌週再び同じ交霊会に出席したら、途中でうっかり眠ってしまった。目覚めると慌てて非礼を詫びたがすぐ隣に座っていた人が「あなたは今入神しておられたのですよ」といってから、続けてこう語った。

「入神中にあなたの指導霊が名前をおっしゃってから、今日までずっとあなたを指導してきて、間もなくスピリチュアリストの集会で講演をするようになると言っておられました」

これを聞いて若者は又笑い飛ばしたが、それが現実となってしまった。

当時はシルバーバーチは多くを語ることが出来ず、それもひどいアクセントだった。それが年を経るにつれて、入神させて語る回数が増えたことも手伝って英語がめきめき上達し、今日ではその素朴で流麗な英語は、私がこれまで聞いたいかなる演説家もその右に出る者はいない程である。

ところで〝霊媒のバーバネルが本当に入神していることをどうやって確認するのか〝と言う質問を受けるが、実はシルバーバーチが我々列席者に霊媒の手にピンを差してみるようにと言ったことが一度ならずあった。恐る恐るそっと指すと、思い切って深くさせと言う。すると当然、血が流れるが、入神から覚めたバーバネルに聞いてもまるで記憶がないし、その跡形も見当たらなかった。

もう一つ受ける質問は、霊媒の潜在意識の仕業でないことをどうやって見分けるのかと言うことであるが、実はシルバーバーチとバーバネルとの間には思想的に完全に対立するものがあるものが幾つかあることが、そのよい証拠と言えよう。例えばシルバーバーチは再生説を説くが、バーバネルは通常意識の時は再生説は絶対にないと主張する。そのくせ入神すると、再生説を説く(晩年は信じるようになった)

些細な事だが、もう一つ興味深い事実を紹介すると、シルバーバーチの霊言を〝サイキックニューズ〟紙に掲載することになって速記録が取られるようになるまでのことであるが、バーバネルがベッドに入ると、その日の交霊会で自分が入神中にしゃべった事が霊耳に聞こえてくるのだった。これには訳がある。バーバネルはもともと入神霊媒となるのが嫌だったのであるが、自分でしゃべったことを後で全部聴かせてくれるならと言う約束をシルバーバーチとの間で取り付けていたのである。速記録が取られる様になると、それきりそういう現象は止まった。

翌日その速記録が記事となったのを読んで、バーバネルは毎度の如くその文章の美しさに驚く―自分の口から出た言葉なのに、この後<シルバーバーチに最敬礼する>(参照)シルバーバーチは教えを説くことに専念しており、病気治療などは行わない。又心霊研究家が求める様な、証拠を意図したメッセージもあまり持ち出すことをしない。誠に申し訳無いが自分の使命は霊的教訓を説くことに限られているので・・・と言って、我々人間の要求の全てに応えられない理由を説明する。

私は最近、各界の人物を交霊会に招いている。牧師、ジャーナリスト、その他あらゆる分野から招待しているが、シルバーバーチと言う人物にケチをつける者は一人としていない。

そのうちの一人で若い牧師を招いた時に私は前もって〝貴方の考える得る限りの難解な質問を用意していらっしゃい〟”と言っておいた。日ごろ仲間の牧師からさんざん悪口を聞かされている〝交霊会〟と言うものに出席すると言うので、この機会に思い切ってその〝霊〟とやらをやり込めてやろうと意気込んできたらしいが、シルバーバーチが例によって〝摂理〟というものを易しい言葉で説明すると、若者はそれきり黙りこんでしまった。難解きわまる神学がいとも簡単に解きほぐされてしまったからである。

さて、そのシルバーバーチを支配霊とする私のホームサークルは、毎週金曜日の夜に開かれる。(当初は週一回、中年からは月一回となり、晩年は不定期となった)その霊言はサイキックニューズ紙に掲載される。その版権が私のホームサークルに所属するのは、サークルとしての使用を目的としてのことではなく、これを世界中に広める為である。今ではシルバーバーチは地上のいかなる説教者よりも多くのファンを持つに至っている。あらゆる国、あらゆる民族、あらゆる肌の色の人種の人々に敬愛されている。

しかし実を言うと一旦活字になってしまうと、シルバーバーチの言葉もその崇高さ、その温かさ、その威厳に満ちた雰囲気の片鱗しか伝える事が出来ない。交霊会の出席者は思わず感涙にむせぶことすらあるのである。シルバーバーチがどんなに謙虚にしゃべっても、高貴にして偉大なる霊の前にいることをひしひしと感ずる。決して人を諌めない。そして絶対に人の悪口を言わない。

キリスト教では〝ナザレのイエス〟と言う人物についてよく語るが、実際には本当のことはほとんど知らずに語っているし、イエスと言う人物が存在した証拠は何一つ持ち合わせない。シルバーバーチはそのイエスを、彼が連絡を取り合っている霊団の中でも最高の霊覚を持つ存在に位置付けている。永年にわたってシルバーバーチと親しく交わってきて私はその誠実な人柄に全幅の信頼を置いているので、われわれはシルバーバーチの言う通り、新約聖書の主役であるイエス・キリストは地上で開始した霊的革新の使命に今なお携わっていると確信する。そう信じで初めて!見よ、私はこの世の終わりまで常にあなた達とともにいる!(マタイ28・20)と言うイエスの言葉の真実の意味が理解できる。今の教会ではこの説明は出来ない。

シルバーバーチの哲学の基本的概念はいわゆる汎神論である。すなわち神は大自然そのものに内在し、不変の法則として全てを支配している。要するに神とはその法則(摂理)なのである。それをシルバーバーチは〝あなた方は大霊の中に存在し又、大霊はあなた方の中に存在します〟と表現する。と言うことは、われわれ人間もみな潜在意識的にミニチュアの神であり、絶対的創造原理の一部としての存在を有していると言うことである。

もっともシルバーバーチは理屈をこねまわすだけの議論には耳を貸さない。人間は何らかの仕事をする為にこの地上へ来ているのだと言うことを繰り返し説き、宗教とは〝人の為に自分を役たてること〟と単純明快に定義する。そしてお粗末とは言えわれわれは、この地上にあって戦争に終止符を打ち、飢餓を食い止め、神の恩寵が世界中にふんだんに行きわたる時代を招来する為の、霊の道具である事を力説する。

“われわれが忠誠を捧げるのは一つの教義でもなく、一個の教会でもなく、生命の大霊その永遠不変の摂理である〟…これがシルバーバーチの終始一貫して変わらぬ基本姿勢である。

シルバーバーチに最敬礼する
モーリス・バーバネル

シルバーバーチの教えはいわば言葉の錬金術、つまりアルファベットの26文字を操って輝くばかりの美しい言葉を生み出す能力の典型である。年がら年中ものを書く仕事をしている人間から見れば、毎週毎週ぶっつけ本番でこれほど叡智に富んだ教えを素朴な雄弁者で説き続けることそれ自体が、すでに超人的であることを示している。

ペンに生きる他のジャーナリストと同様、私も平易な文章ほど難しいものはないことを熟知している。誰しも単語を置き換えたり削ったりし、文体を書き改めたり、字引や同義語辞典と首っ引きでやっと満足のいく記事が出来上がる。ところがこの〝死者〟は一度も言葉に窮することなく、すらすらと完璧な文章を述べていく。その一文一文に良識が溢れ、人の心を鼓舞し、精神を高揚し、気高さを感じさせる。

シルバーバーチは宗教とはお互いに扶助し合う事に尽きると言う。神とは自然法則であり、腹を立てたり復讐心をむき出しにする人間的な神ではないと説く。その言葉に一つ一つがダイヤモンドの輝きに似たものがある。その人物像もまさしく〝進化せる存在〟であり、全人類への愛に満ち、世古たけた人間の目には分からなくても、童子の如き心の持ち主には得心のいく真理を説き聞かせようとする。迷える人類の為に携えてきたメッセージは〝人のために自分を役たてなさい〟と言うことしかないと言いつつも、そのたった一つの福音の表現方法はキリがないかに思えるほど多彩である。

永年にわたってその霊言に親しんできた者として、ますます敬意を覚えるようになったこの名文家、文章の達人に私は最敬礼する。

第1章 霊団の使命
(1) 私達霊団の者も皆さんも、ともに大霊の奉仕者です。ただ私たちは皆さんよりはホンの少しばかり先を歩んでいると言うに過ぎません。そこでこうして引き返してきて、これまでに学んだものの中から皆さんのお役にたつものをお分けしようとしているわけです。

お互いに扶助し合う事が生命の根本原理だからです。互助の精神のないところには荒廃があるのみです。互助の精神のあるところには平和と幸せが生まれます。地上世界はその互助の精神によってあたらしい社会を築かなくてはいけません。原理は至って簡単なのです。人間がそれをややこしくしているのです。

(2) そもそも私たちが地上へ戻ってくる目的はそこにあるのです。すなわち、たった一冊の書物、たった一つの宗教、たった一人の指導者・・・それが地上の人間であっても霊界の存在であっても・・・そういう限られたものに自分の全てを託してはいけない、それよりも神の摂理に従順であるように心掛けなさいと申し上げる為です。それだけは絶対に裏切らない。絶対に間違うと言うことがないからです。

(3) 地上世界にもこれまでに何度となく霊的啓示がもたらされ、そして失われていくと言うことが繰り返されてまいりましたが、今度こそ全面に押し出して二度と失われることのないようにしようとの決意のもとに、大々的な努力がなされております。

私はその為の一個の道具に過ぎません。今度こそ物質万能主義と利己主義の勢力の跋扈を抑制し、人間がややもすると虜になってしまいがちな煩悩に負けないようにする為の努力が為されております。その為には日常生活の中にそうした霊的真理を生かしていくしかないのです。

(4) 私たちがこうした真理の普及に努力するのは、それが霊的真理のみならず物的法則とも密接に係りあっているからです。私達の目から見れば物質界も大霊の支配下の全大宇宙の一部であり、絶望の淵にあえぐ地上人類の苦悩に無関心でいては、宗教心を説く資格はありません。

(5) 私は私をこの地上界へ派遣した霊団の代弁者(マウスピース)に過ぎません。私自身の栄誉とか報償とかを求める気持ちはみじんもございません。誇大に宣伝したり地上時代の偉そうな人物名を名乗ったりする趣味も持ち合わせません。

私はただこれまで申し上げたような霊的真理、永い間忘れ去られていた真理を改めて〝神の真理〟のシールを張って、こうして地上へお届けする為の道具であることに喜びを感じているのです。

(6) 私の役目は私の所属する霊団からのメッセージをお届けすることです。手塩にかけて養成したこの霊媒と私自身の霊力の力量の範囲内で受け取ったものを忠実に伝達する努力を続けてまいりました。私はただお役にたてればそれで良いのです。

もしも私がお伝えするささやかな教えが、人生の嵐の中にあるたった一個の魂の一服の憩いとなり、疑念の嵐をくぐり抜けた後の確信の港となれば、あるいは又、こうした一見何でもなさそうな素朴な霊的真理の聖域の中に幸せを見出し生き甲斐を覚えさせてあげることになれば、父なる神から仰せつかった仕事の幾許かを成就したことになります。

(7) こうして私たちが霊的真理の普及に努力している一方には、この真理そのものよりもそれを伝える道具つまり通信霊の身元の詮索の方が大事だと思っている人が大勢いるようです。

その霊が地上で白人であろうが黒人であろうが、黄色人種であろうがレッド・インディアンであろうが、それでどう違ってくると言うのでしょう。

神の真理が教養豊かな人によって届けられようと無学な人によって届けられようと、それが真理に間違いなければ、純粋の真理でありさえすれば、そんなことはどうでもよいことではないでしょうか。

(8) 私たちは物質の世界の子等がいかにすれば伸び伸びと生きることが出来るか、いかにすれば霊的真理の光に浴することが出来るか、いかにすれば人間の産物である教義への隷属状態から脱け出せるかをお教えしようと努力しているところです。

もとよりそれは容易な仕事ではありません。なぜなら、一旦宗教的束縛を受けるようになると、その迷信の厚い壁を真理の光が突きぬけるには永い時間を要するからです。

(9) 強大な霊の勢力があなた方の物質の世界へさし向けられております。全ての国において霊力の強い働きかけが感じ取れるようになるでしょう。地上世界にはびこる利己主義と無知に対抗して、為すべき大切な仕事があるからです。いずれはそれも征服されることでしょうが、それまでの過程に置いて大変な苦悩があることでしょう。

(10) 皆さんの味方として差し向けられる霊はいろいろです。地上で顔見知りだった人、血縁のあった人、更にはそうした地上的縁とは無関係に、ただ地上人類への愛に動かされてくる高級霊もいます。

背後霊と言うと人間はとかく名前を知っている人達のことを頭に思い浮かべがちですが、その他に、自分の存在を知ってもらいたいとも功績を認めてもらいたいとも思わず、ただ持てる霊力を役たてたい一心から働きかける霊が無数にいることを忘れないでください。

(11) 霊に関わることは慎重な配慮による養成と進歩を要します。急激な変心は長続きしません。私達の仕事は永続性を目標にしているのです。一人また一人と、暗闇から光明へ、無知から知識へ、迷信から真理へと這い出るごとに地上世界が進歩するのです。その一人一人が物質第一主義の棺に打ち込む一本の釘なのです。

(12) 私達が行っている仕事が今後ますます要請されてまいります。地上世界は流血と悲劇と苦悩に溢れております。無明ゆえに神の摂理に沿った生き方をせずに、闇黒と絶望へ向かう道を選択してしまいました。

そこで私達は希望と光明と安らぎと調和へ導く叡智をお教えしようとしているのです。それを地上の人間は無明ゆえに軽蔑しようとします。お届けするメッセージを拒絶します。霊力の働き掛けを否定します。しかしそうした態度にはお構いなく真理は地上へ広がっていくことは間違いありません。大霊を始源としているからです。

(13) 私が使用するこの霊媒の口からもしも皆さんの理性を反発させるもの、神の愛と矛盾すること、愚かしいこと、知性を侮辱するものが聞かれるようになったら、その時はもはや私の時代は終わったこと、私の仕事が挫折したことを意味します。

(14) スピリチュアリズムの活動は、放棄された信仰の瓦礫の中にあって人類が懐疑と猜疑の為にすべてを拒絶してしまうことなく、実と殻、事実と神話とを選り分けて、どの宗教にも包蔵されて居ながら幼稚な人間的想像の産物の下に埋もれてきた霊的真理に目を向けるように導くと言う、大きな使命の一環なのです。

(15) こうして地上世界の為の仕事に従事している私達の多くは、これから先の地上はこうなると言う未来像を見せて頂いております。それを受け入れ能力のある地上の同志へ伝え、挫けがちな心を鼓舞しております。

私が見せて頂いた未来図に比べると現在の地上世界が非常に醜く見えますが、私には地上世界はこれほどまで立派になり得るのだ、こうならねばならないのだと言うことが分かっております。後は時間の問題です。それを早めるのも遅らせるのも人類の自覚一つに掛っております。

(16) 人間はやはり神の摂理に則った生き方をしなければならないのだと思い知るまでは、混沌と破綻と悲劇と崩壊の止む時はないでしょう。私たちは人間も本来は〝霊〟であることを原理とした摂理を説くほかありません。

なぜなら、物的なものが朽ち果ててチリとなった後に残るのは霊的なものだからです。物的なものだけに目を向けている人間は大きな過ちを犯します。なぜなら、その生き方は幻影を追い求めて永遠なるものを忘れているからです。至って簡単なことなのですが、そのことがいまだに理解されておりません。

(17) 人間の心の中には常に〝人間的なもの〟〝霊的なもの〟との葛藤があります。霊的なものが勝てば神との一体感を自覚します。人間的なものが勝った時は空しさを覚えます。

そこで私達は人間を、本人がこれが一番良いと思っている道ではなく、この道の方がより大きな存在価値を発揮するという方向へ導いてあげる必要があるのです。

(18) 身体の健康状態とは別に、皆さんを取り巻いている雰囲気と地上全体を取り巻いている大気が憎悪と凶暴性に満ちていて、私たちが突き抜けるのに苦心惨澹することがあります。霊の眼には世にも恐ろしい様相を呈しております。

私達霊団はそうした病める地上世界・・・貪欲をむき出しにし、利己主義が支配し、本来の霊的属性を発揮している人がホンの一握りしかいない世界を何とかして改めたいと望んでいるのです。

(19) 全生命の基盤となっている永遠の実在に関する知識を広めることは、もとより私達の仕事の一環です。生命は霊であり、霊は生命だからです。

しかし同時に人間は肉体を携えた〝霊〟であり、霊を宿した肉体ではないと言うこと、肉体はその所有者が自我を発揮するための仮の宿に過ぎないと言う事実を、受け入れる用意の出来た人達に教えてあげることも大切な仕事です。

(20) 困ったことに人間は自分に都合のよいことが都合のよいタイミングで生じてくれることを望みます。しかし私達はそういう期待にはお応えしかねます。私達は私たちなりのタイミングがあります。

皆さんよりは先見の明が開けておりますから、皆さんにとってその時点でどうなるのが一番良いかの判断は、皆さん自身より私達の方が上手です。地上の人間の祈りを聞いていると、もしもその通りに叶えさせてあげたら大変なことになりかねないことが沢山あります。

(21) 神も、所詮は人間と言う物的な道具を使用するしかないのです。あなた方は霊力が地上へ働きかける為の道具です。ですから心を開き、受け身的になり、先入観を取り除くことが大切です。人の為に役立ちたいと言う願望を抱くことが大切です。その願望に感応して、その為に必要な援助を届けられます。

(22) 改めて申し上げるまでもないことですが、私たちは皆さん方の献身的奉仕精神に呼応して献身すると言うことに徹しており、その精神が無視されることは絶対にありません。と言って私達による援助は必ずしも皆さんが望んでおられる通りのものとは限りません。

結果的に皆さんにとって好ましい形になるように、まず霊的理解力を培うように努力します。皆さんのわがままに負けて程度を下げた形で妥協するよりも、高度なレベルまで皆さんに向上して頂く方がよいに決まっています。

ここにお集まりの方だけでなく、世界各地の受け入れる用意の出来た人々に、真の自我に目覚めて頂こうと私たちが努力しているそもそもの目的は結局はそこにあるのであり、それが私たちが皆さんに求める理想なのです。

(23) 私達は命令はしません。皆さん方をロボットや操り人形のように扱うことはしません。協力者であってほしいのです。インスピレーションン、コミュニケーション、ヒーリングその他いかなる形にせよ、霊力を地上へ届ける道具としての受容性を伸ばして頂きたいのです。

(24) 皆さんがシルバーバーチとお呼びくださっている私は、霊界の無限の知識のホンの一部を託されているだけです。ですが、皆さんが更に進化すれば、私よりもっと立派な指導霊が、私を利用して一段と高い次元の知識と叡智を授ける手はずを整えております。

(25) もうこれでお終いと言う段階は来ません。完全と言うものは存在しないのです。皆さんも私も進化の途上にあります。そして私より進化した霊の話によりますと、その上にも更に進化した神霊が働いていると言う事です。

(26) 正しい知識を地上に普及させる・・・これが私たち霊団の使命の一環です。一環とはいえ大変な仕事です。霊的実在に関する地上世界の余りの無知に、このまま放置していては大変なことになるとの認識がこちらの世界で広まりました。その無知による弊害があらゆる面で顕著になってきたからです。地上世界だけではありません。

霊界側にもそれが反映され始めたのです。どの宗教も自分のところの教義を信じたものは死後たちまち光輝溢れる霊となって、悩みや労苦から解放されるかに説いておりますが、事実はそうではありません。これほど真実からかけ離れた教えはありません。

(27) 地上世界の無知による弊害を見るに忍びず、これは何としても思い切った手段を講じて霊的実在に関する正しい知識を普及させなければならないとの決断が為されました。私がこうして何十年にもわたってこのサークルで語り続けているものもその一環です。

〝霊的〟と言うと何かつかみどころのない神秘的なものを想像なさりがちですが、そうではなくて実在そのものなのです。何代にもわたって引き継がれてきた誤解、無知、偏見、虚言、虚偽、迷信・・・要するに無数の人類を闇黒の抑圧の中に閉じ込めてきた勢力を取り除かねばなりませんでしたし、今なおそれを続けております。

第2章 人間・死・死後の世界
(1) 人間は身体と精神と霊の三つの要素が一体となったものです。一個の自我に三つの側面があると言うことです。その三者が調和よく機能している状態が健康です。

(2) 人間が〝死〟と呼んでいるのは物的身体が物を言わなくなる現象です。用事が終わって霊との縁が切れ、もとの大地へ戻っていくのですが、往々にしてそれが、霊に十分な準備が整っていないうちに起きるのです。

それはともかくとして、霊は肉体と言う牢から解放されて、それより遥かに精妙な構造をした霊的身体で自我を表現することになります。地上で眠っていた霊的感覚が発揮され始めると、その活動範囲も飛躍的に広がります。

(3) 宇宙はたった一つで、その中に無数の生活の場があります。生命は一つです。ただそれには無数の進化の段階があると言う事です。そうした霊的事実を説明しようとすると言語の不自由さが立ちはだかります。

とは言え、このぎこちない不適切な記号を使用せざるを得ず、結果的には真相がうまく伝えられないと言う事になります。生命は一つです。宇宙は一つです。境界線と言うものは存在しません。国境と言うものはありません。死んでいった人も相変わらず同じこの宇宙で生き続けているのです。

ただ地上とは異なるバイブレーションの世界、異なる意識の段階で生活していると言うことだけです。霊もあなた方の眼には見えなくても同じ地上にいると考えて良いのです。それはちょうど、あなたもご自分で気づかなくても、私と同じ霊界にいると考えても良いのと同じです。

(4) あなたは物質の世界に生きている為に、とかく生命活動を物的なものとして考えがちです。しかし生命の本質は物的なものではありません。生命の基盤は非物質的なものです。

物質をいくら分析しても生命の起源は見つかりません。あなたと言う存在は物質ではありません。身体は物質でできています。しかし本当のあなたは、触れることも見ることも感知することも聴くことも出来ません。真実のあなたは霊なのです。

(5) あなたの行為、あなたの活動、あなたの思念、要するにあなたの生活そのものがあなたと言う実在を形成していくのです。その実在は肉眼では見えませんが、死の過程を経て肉体と永遠に訣別した瞬間から、それが丸裸にされます。それ以上に立派に見せる事も出来ませんし、それ以下に惨めに見られる事もありません。

地上生活によって形成された性格をそっくり携えていくのです。平凡な日常生活の中で培われた霊的資質こそあなたの永遠の財産となるのです。

(6) 死後あなたが赴く界層は地上で培われた霊性にふさわしいところです。使命を帯びて一時的に低い界層に降りることはあっても、降りてみたいという気にはなりません。と言ってそれより高い界層へは行こうにも行けません。

感応する波長が地上で培われた霊性によって一定しており、それ以上のものは感知できないからです。結局あなたが接触するのは同じレベルの霊性、同じ精神構造の者に限られるわけです。

(7) 霊界へ来て何年になるとか、地上で何歳の時に死んだと言ったことは何の関係もありません。全ては霊性の発達程度によって決まることです。そこが地上界と霊界の大きな違いです。

地上ではみんなが同じ平面上で生活し、精神的にも全く異なる人々と交りますが、こちらへ来ると、あなたが交わる相手は霊的に同質・同等の人ばかりです。立派な音楽家の曲が聴けないと言う意味ではなく、生活の範囲がほぼ同等の霊格の者に限られると言うことです。そこには親和力の法則と言う絶対に狂うことのない法則が働いております。

(8) 人間は物的身体と言う牢の中で生活しています。その牢には小さな隙間が五つあるだけです。それが五感です。皆さんはその身体の周りで無数の現象が起きていても、その目に見え、その耳に聞こえ、その肌に触れ、その舌で味わい、その鼻で嗅いだもの以外の存在は確認できません。

ですが実際にはその身体の周りで無数の生命活動が営まれているのです。見えないから存在しないと思ってはいけません。人間の五感では感知できないと言うに過ぎません。

(9) こちらへ来た当初は霊的環境に戸惑いを感じます。十分な準備が出来ていないからです。そこで当然の成り行きとして地上的な引力に引きずられて戻ってきます。暫くは懐かしい環境・・・我が家・仕事場など・・・をうろつきます。

そして大抵は自分がいわゆる〝死者〟であることを自覚していないために、そこにいる人たちが自分の存在に気付いてくれないこと、物体に触っても何の感蝕もないことに戸惑い、わけが分からなくなります。しかしそれも当分の間の話です。やがて自覚の芽生えとともに別の意識の世界にいるのだと言うことを理解します。

(10) 死んで間もない段階では地上にいた時と少しも変わりません。肉体を棄てたと言うだけのことです。個性は同じです。性格も変わっておりません。習性も特徴も性癖もそっくりそのままです。利己的な人は相変わらず利己的です。欲深い人間は相変わらず欲深です。

無知な人は相変わらず無知なままです。落ち込んでいた人は相変わらず落ち込んだままです。しかし、その内霊的覚醒の過程が始まります。いわゆる復活です。

(11) 死後の環境は地上時代の魂の成長度によって決まります。例えば霊の世界では行きたいと思うだけでその場へ行けますが、その行動範囲におのずと霊格による限界があります。

(12) あなたはその地上にある時から立派に霊的存在です。死んでから霊的存在になるのではありません。霊的身体は死んでから与えられるものではありません。死は肉体の牢獄からあなたを解放するだけです。それはあたかも篭の鳥が放たれると同じです。

(13) 人間は肉体を携えた霊であって、霊を携えた肉体ではありません。肉体は霊が宿っているからこそ存在し得ているのです。それは神の火花であり、全ての存在に内在しており、全ての生命を通して顕現しているのです。

(14) 地上と言うところは内部の魂が芽を出し開眼し発達して、肉体の死後に始まる次の段階の生活に耐えられるだけの霊力をつける、その為の体験を得る場所です。

(15) 地上は幼児の学校であり、こちらは大人の学校です。地上では神から授かっている霊的資質を少しでも発揮するように、精神を修養し霊性を鍛錬して他人の為に役立つことをする、その練習をしているのです。

(16) 人間は例外なく心霊的能力を具えております。これは大変大きな意味を持っております。歴史を勉強なされば、この事実は世界の全ての宗教の起源に結びついている基本的真理であることを理解なさるはずです。偉大な宗教家の教えの中には必ずそのことが述べられています。みな同じ始源からのインスピレーションを受けている筈ですから当然のことです。

人間は成就すべき霊的宿命を持った霊的存在であること、そして死ぬ時には地上で自らの力で身に付けた愛、自ら築いた性格、自ら開発した霊的才覚を携えていくと言うことを異口同音に説いております。これこそが全ての宗教の中心的教えではないでしょうか。

しかもそれがすべての宗教において、一つの例外もなく忘れ去られていることも事実ではないでしょうか。膨大な量の教義、神学、教条主義。宗教とは何の関係もない、あるいは宗教として何の価値もない、人間的思考の産物によって置き換えられているのです。

(17) 厳密にいえば霊は身体に宿ると言う言い方は適切ではありません。霊と身体とは波長の異なる存在だからです。本当のあなたは体内にいるのではありません。心臓と肺の間に小さく縮こまっているのではありません。地上で生活するためにこしらえられた物的装置を通して自我を表現している〝意識〟です。

(18) 実際は人間の全てが睡眠中にこちらの世界へ来ております。それは神の配慮の一つで、いよいよこちらへ来た時に環境の違いによってショックを受けないように、未来の環境に慣れさせておくのです。ちょうど子供時代を過ごした土地へ来るとその頃の思い出が蘇ってくるように、睡眠中に訪れていた環境の記憶が蘇ってきます。

(19) 睡眠と言うのは物的身体の操作から霊的身体の操作へとスイッチが切り替わることであり、その意味で、その間は霊の世界にいるわけです。その睡眠中の身体に別の霊が入ってくる心配はありません。あなたがドアを開け放しにして出て行ったあと、誰かがノコノコと入ってきてドアを閉めてしまうと言うような図を想像してはいけません。

そういうものではありません。物的身体は相変わらずあなたの管理下にあります。ただ意識の焦点が別の次元に移っていると言うだけであって、やがて朝になれば意識が戻ります。

(20) 衝撃などで昏睡状態に陥った場合は、霊と身体と正常な関係が破られているわけです。睡眠の場合は朝になれば霊がそういうものと自覚してバイブレーションを落として身体に戻る用意をします。それが正常な関係ですが、昏睡状態の場合は無理やりに身体機能から離され、しかもその機能が破壊されている為に、戻ろうにも戻れないのです。

(21) オーラは身体から出る様々な放射物によって構成されています。実際には無数のオーラがあるのですが、地上界でオーラと言う時は肉体と霊体を包んでいるオーラのことです。あらゆる存在物にオーラがあります。意識を持たない物にもオーラはあります。

(22) 人間のオーラには身体の状態と精神の状態が反映しますので複雑な波動を出しております。オーラを霊視しその意味が読み取れる人には、その人物の秘密が全て分かります。

言ってみれば一冊の書物の頁が開かれているようなものです。思ったこと、行ったことの全てが記録されています。外見をどう繕っても、オーラには本当のあなたがありのままに表れています。

(23) パーソナリティとインディビジュアリティは違います。マスクを意味する〝パーソナ〟を原理とするパーソナリティは物的身体との関係で派生する地上だけの人物像です。

つまり本来の自我であるインディビジュアリティが五感を通して地上で自我を表現しようとしている側面であり、自我の全体を氷山に例えれば、海面上に出ているほんの一部に過ぎません。

(24) インディビジュアリティはパーソナリティよりははるかに大きな存在です。肉体の死後に生き続けるのはパーソナリティではありません。インディビジュアリティを太陽に例えれば、パーソナリティはその太陽が作り出した影ほどの存在です。

死後、インディビジュアリティは地上では表現できなかった潜在意識を徐々に発揮していきます。

(25) 発達にも二種類あることを知らないといけません。精神に関わるものと霊に関わるものです。前者は心霊的能力の発達に過ぎませんが、後者は魂の成長そのものです。

心霊能力が発揮されても魂の成長が伴わなければ、低いバイブレーションの仕事しかできません。両者がうまく組み合わさった時は、優れた霊能者であると同時に偉大な人格を具えた人物となります。


シルバーバーチの祈り

大いなる神よ。無限なるあなたの奇しき摂理が私たちすべての存在を維持せしめております。あなたの愛が私たちのすべてを包摂しております。あなたの叡智が私たちのすべてを導いております。あなたの霊力が私たちのすべてを支えております。あなたの知識がよろめきがちな私たちの足元を照らしてくださっております。

あなたについて、又霊の世界と、それよりさらに小さき物質の世界に顕現されているあなたのお姿についてこれまで啓示して下さった知識に対して、私達は深く感謝申し上げます。

あなたの完璧なる摂理、全てを支え、全てを包摂し、何一つ落ち度もなく、片時も休むことなく、全宇宙とその中での生命活動の一つ一つに配剤されている完璧な律動(リズム)に感謝の念を捧げます。

ああ、神よ。忝(カタジケナ)くもあなたは、いつの時代にも御身について時代相応の啓示をお授け下さっております。その為の使者として、あなたによって物質圏の世界へ派遣され、子等の霊性を鼓舞し、霊的真理へ眼を開かしめんと努力してきた有志の僕に対して、深甚なる感謝を捧げます。

あなたの意図されている生命の豊かさを存分に発揮した生活を送るには、霊的真理の理解をおいて他に道はございません。

ああ、神よ。あなたの叡智の無限性、あなたの知識の崇高性、あなたの真理の永遠性を理解できる者はおりません。地球の全時代の叡智を集めても、あなたには敵いません。

いかなる人物にもあなたの威力は理解できません。私達を生かし機能せしめている内部の霊性は人間の知性を超えたものであり、その大きさも、その深さも計ることはできません。

あなたから授かった霊的生命に感謝いたします。それが私たち子等を互いに結び付け、一個の霊的家族としております。霊と霊、心と心、精神と精神、愛と愛のつながりにおいて、死の淵さえ超えて一体ならしめているのでございます。

又、私たちは有難くもかつて地上を旅した霊たちと幾重にもつながっており、さらにその奥にはあなたを中心とする、物質の束縛から完全に解放された神庁の大組織が存在しているのでございます。

大いなる神よ。私達はあなたの霊力の恩寵の豊かさを身を持って感じ、あなたとのつながりが永遠であるからには、あなたの叡智、あなたの霊力を少しでも多く頂くために、みずからの霊性を少しでも高めんとして祈るものです。この祈りが霊的なものへの意識を維持せしめ、永遠の霊的真理の理解を助け、より一層あなたの御心に適った生き方を可能にするのでございます。

第3章 この世とあの世の係り合い
(1) 無数の生命の相が互いに融合し合っております。境界線の様なものは存在しません。一方の側に物的なものが存在し、他方の側に霊的なものがあって、それが混ざり合っているのです。原理は無線電信と同じです。無数の波長、無数の振動があるのですが、同じ空間を飛び交っております。

その内にどれに反応するかは器機の感度によります。地上の人間は物質の波動の世界に閉じ込められております。物的な波長しか感知できません。霊視能力者は普通の波長より一段と精妙な波長を感知できる人であり、霊聴能力者は普通の音の波長より一段と精妙な波長を感知できる人です。これも霊媒と言う器機の感度の問題です。

(2) 地上世界は永い間の物質中心の感覚によって粗悪な生活の場となってしまいした。もともと人類は数多くの霊的感覚を使用することが出来たのです。

内部の霊妙な能力に気づいていたのです。古い記録をご覧になれば、太古に遡るほど超能力が使用されていたことがお分かりになるはずです。それが物質文明の発達とともに次第に委縮し、今日では霊的バイブレーションがキャッチ出来る人はきわめて少数となりました。

(3) 死後にも生命は存在します。いわゆる故人も今なお生き続けております。地上圏へ戻ろうと思えば戻れますし、現に戻っております。しかし、ただそれだけの表面上のことだけでこの問題をかたづけてはなりません。

なぜ生きつづけることが出来るのか、どう言う過程で蘇るのか、新しい生活にとってそれまでの生活はどう言う影響を及ぼすのか、地上と霊界とはどういうつながりになっているのか、死の門をくぐった後にどう言う体験をしているのか。

・・・地上での言動や思想が向上を促しているか足を引っ張っているか、地上の人間に伝えるべき教訓として何を学んでいるか・・・こうしたことが宗教にも科学にも政治にも経済にも芸術にも国際関係にも影響を及ぼすのです。永い間人類を苦しめてきた問題に新たな光を当てることになるからです。

(4) 人間は本質的には地上にいる時からすでに霊的資質や属性のすべてを所有しております。時たまちらりと発揮することはあっても、大半は居眠り状態で潜在しております。ですから、いかなる形式にせよ、霊が地上と交信する時は、必然的に霊側が犠牲を強いられていることになります。霊的波動を下げて人間の物的波動に近づけざるを得ないからです。

(5) 人類の大半は霊的に高度なものを自らの力で手にすることは不可能です。バイブレーションが余りにもデリケートであり、あまりにも鋭敏であり、余りにも洗練されている為に、よくよく鍛錬されたごく少数の霊覚者によってしか捉えられません。

そこで地上との交信には私達の方からいわば階段を下りなくてはならないわけですが、そうすると当然、霊的な美しさが大きく殺がれてしまいます。

(6) 死ぬ時は決して一人で旅立つのではありません。愛でつながった人々が付き添って、何かと面倒を見てくれます。これには例外はありません。影の世界から首尾よく抜け出て新しい素敵な生活に入れるように手引きする体制が出来上がっております。

(7) 向上進化の道は孤独なものです。が、背後にはあなたを絶対に見棄てることのない霊団が付き添っております。魂を鼓舞する力は霊界から送られておるのです。全てのインスピレーションの始源はこちらにあるのです。

(8) 肉眼で見ることも肉耳で聞くことも肌で触れてみることも出来ませんが、背後にはあなたとの地上的縁のある霊、血縁はなくても無私の愛に動かされた霊が控え、援助し、鼓舞し、もっとも生き甲斐のある生き方へと導いてくれております。

(9) 背後霊にはあなたの困難、問題、願望の全てが分かっております。又、ここが物質の世界であり、それなりの物的必需品と言うものがあることも承知しております。あなたが真理に忠実に生きておれば、飢えや渇きに苦しむことはありません。絶対に必要なものは必ず用意されます。

(10) 〝聖霊に対する罪〟とは霊力の存在を否定することです。霊力はいつの時代にも地上へもたらされているのです。キリスト教は抽象的には霊力の存在を認めていながら、それが世界中の誰にでも届けられるものであるという話になると否定します。

こうして皆さんとの交わりが出来るのも霊力のおかげなのです。ほんの僅かな間とは言え、物質の世界と霊の世界とが目的において一つに調和することを可能にしてくれる、大霊の力なのです。

(11) 〝復活〟は生命の法則の一つです。死の訪れとともに物的身体から離れた魂は全て復活したことになるのです。キリスト一人の話ではありません。

大霊の子の全てに復活があるのです。死の関門を通過すると、物的身体を後にして今度は霊的身体に宿って霊の世界で新しい生活を始めるのです。地上生活は全てそのための準備なのです。

(12) 地球が物的世界の一つとして存在を始めた当初から、神の教えを説くための霊が派遣されてきました。そして各民族、各時代の言語でしゃべりました。

その内容の程度もその国、その時代の要請、その民族の成長と発達の程度に即応したものでした。その方法、手段も理解力に応じたもの、高踏的になり過ぎないものが用意されました。

(13) 人間は墓場を乗り越えて生き続けます。人間も本来は霊だからです。火葬の炎さえその霊を滅ぼすことはできません。物質の世界はもとより、いえ、霊の世界の何を持ってしても、内部に宿る神性、この世に生を受けることによって賦与された生命の炎を消すことは出来ません。

(14) いかなる極悪人といえども〝存在〟そのものを失ってしまうことはありません。神性の花火が衰えて微かに明滅する程度になることがあっても、完全に消滅してしまうことはありません。

なぜなら、大霊と結びつけている神性の絆は永遠不滅のものだからです。いかなる霊も二度と甦れないほど堕落することはありません。又いかに高級な霊とは言えども、その堕落した霊に救いの手を差し伸べるために身を低くすることはできるものです。

(15) 魂が開発され霊的波長が高度になるにつれて、それだけ高度なエネルギー、大きなエネルギーと接触できるようになります。それは見えるものでもなく聞こえるものでもなく、永遠の霊的実在そのものです。それが生命の実在なのです。

人間は生涯の大部分を影を追い求め、幻をとらえようとし、儚いものを後生大事にしながら生きております。本当は静寂の中において、調和の中に置いて、愛の中に置いてこそ、あなたの魂は着実には開発するのです。ゆっくりではあっても、確実であり、間違いがありません。

(16) 物質界の条件が、大きいほうの意識で行われていることを小さいほうの意識で思い出せなくしているのです。人間は死ぬまでは本当の意味で生きているとは言えない程です。が、時として霊が物質の次元から離れて霊界からのインスピレーションに触れることがあります。その時、ほんの一瞬ですが言語を絶した無上の法悦に浸ることになります。

(17) 睡眠中に闇黒の世界を訪れている人がいることは事実です。それは魂の本性がそこの波長にあっていて自然に引き付けられる場合と、一種の犠牲的奉仕精神から自発的にそういう環境に身を置く場合とがあります。

地上に籍をおく人間の霊的身体を利用することによって暗黒界の霊を救う方法があるのです。聖書にはイエスがいわゆる地獄界へ降りていく話があります。睡眠中の話ではありませんが。原理は同じです。

(18) 邪霊に憑依される人は、自らそういう条件を内部でこしらえています。あくまでもその人間個人の問題です。愛と奉仕の精神に燃えた人に高級霊は引き寄せられるのと原理は同じです。

法則はよいことばかりに働くのではありません。崇高な目的に作用する法則が悪い方向に作用することもあります。問題はあなたがどう言う心掛けで居るかに掛っております。

(19) 地上の人間は現実界と霊界とのつながりについての理解が出来ておりません。光り輝く高級霊からのインスピレーションに触れることが出来ると同時に、ふとしたことから無知な低級霊のなすがままになっていることもあります。いずれの場合も同じ摂理の働きなのです。

(20) 皆さんは過去の偉人のことを過ぎ去ったこととしか考えませんが、その人達はその後も同じ情熱を地上の同胞に対して抱き続け、今なお活躍しているのです。


シルバーバーチの祈り

ああ、大いなる神よ。あなたは生命の息吹におわします、全生命の摂理におわします。森羅万象の大中心におわします。万事を賢明(ヨキ)に計らわれる大霊におわします。

あなたは完全なる愛にあらせられ、完全なる叡智にあらせられ、完全なる公正にあらせられます。この全宇宙として顕現なされた完全なる摂理にあらせられます。

過去においてもあなたは、物質の靄にさえぎられることなく霊的波長を捉えることの出来た者に、御身についての啓示を与え給いました。物質の次元を突き抜けて霊の次元へと高揚できる者に、あなたはその大いなる愛を顕現なさっておられます。

あなたは今の時代に霊の道具を絶えず感化なさっておられる如くに、太古においてもその時代にふさわしい賢者を感化なされました。あなたは何時の時代にもふんだんにインスピレーションを啓示され、人間の心を通してあなたの愛を顕現なさらんとしておられます。

それは、ひとえに、子等にとってあなたがいかに身近な存在であるかを理解せしめんとする配慮に他なりませぬ。

ああ、神よ。あなたはこの全大宇宙を造られた大霊におわします。極大なるものの中の極大、極小なるものの中の極小を創造なされました。そして物質の世界に人類なる存在を生みつけられ、その一人一人にあなたの霊性の一部を賦与されました。それはあなたとの不変・絶対の絆であり、人間が地上生活のいかなる困難をも克服する力を有することを意味します。

またあなたは、内在するその霊性を顕現させ、地上におけるあなたの計画を促進する手助けをさせる為に、人間にもあなたの創造活動に参加する能力をお授けになりました。

さらにあなたは、地上の道具としての人間があなたの愛、あなたの叡智、あなたの力、あなたの意図を受けとめんと努力する時は、いずこであろうとあなたの使者を遣わして守護と指導に当たらしめ、鼓舞し高揚して、あなたの摂理を一層正しく地上に行きわたらしめんとなさいます。

ここに集える私どもは、ここを拠点として絶望の淵にいる人、悲しみにくれる人には新たなる希望と慰めを見出させ、人生に疲れた人には新たな力を見出させ、生きる意欲を失った人には新たな憧れを抱かせ、涙を浮かべている人には、生命に死はなく死後も永遠に生き続けるとの知識に喜びを見出させてあげることにより、あなたのお役に立ちたいと願う者たちでございます。

願わくは、ああ、神よ、地上の子等を少しでもあなたに近づける為に自ら物質界へ降りて活躍する者と、霊の世界より働きかけている者との協力によって、あなたの愛が地上に根付くのを妨げんとする諸悪の全てを取り除かしたまわんことを。

ここに、他の同志とともに、あなたの子等に奉仕することによってあなたに奉仕せんとするインディアンの祈りを捧げます。

第4章 宇宙の根本原理―因果律
(1) あなたの霊性の高さは人生を如何に生きてきたかによって決まります。この摂理は全ての人間に例外なく当てはまることであり、どう繕ってみてもごまかしは効きません。私が〝摂理〟と言う時、それは大自然の法則のことを意味し、根本的には原因と結果の法則、すなわち因果律のことです。

自己中心の生活を送れば、その結果としていじけた性格が出来上がります。なぜなら、利己的になることは霊性がいじけていることを意味しているからです。他人を思いやる生活を送れば、それはあなた自身のことも思いやることになります。霊性が高まるからです。この法則に例外はありません。

(2) 摂理は完璧です。ひたすら人の為を心掛けた生活を送っていれば、その人を通して大霊が働きます。あなたもその可能性があり、全ての人に例外なく言えることです。〝それは無理です〟とあなたがおっしゃっても私は〝可能です〟と申し上げます。摂理は完全であり、ごまかすことはできません。その点をよく理解して実行に移さないといけません。

(3) 幸運(ツキ)と言うようなものは存在しません。法則の働きがあるのみです。たまたまそうなったと言うようなことは一つもありません。法則によって規制されている宇宙においては、全ての出来ごとは原因と結果の関係で生じているのです。

(4) 個人であろうと集団であろうと、民族であろうと国家であろうと、摂理に反したことをすればそれ相当の代償を払わねばなりません。私はつねづね摂理の働きは完璧ですと申し上げております。その結果が人間の目には見届けられないことがありますが、私は、原因と結果とが前になり後ろになりしながら機能していることを確信しております。それが法則だからです。

このことは何度も申し上げてきました。が、ここで改めて申あげます。・・・全ては法則であり、神の摂理の働きでしかないのです、と。

(5) 神の摂理に逆らった生き方をする人は、自ら酷しい収穫を刈り取らなければなりません。摂理に素直に従って生きる人は、物的な面においても霊的な面に置いても、幸せと豊かさを手にすることになります。

(6) 流血の悲劇を何度繰り返してもなお懲りない為政者が牛耳る地上では、それが生み出す苦難や悲哀の中で摂理を学ぶしか方法がありません。

本当は愛と互助の精神を発揮する行為の中で学んでほしいのですが、それが出来ない以上、摂理に逆らったことをして痛い思いをするほかありません。

地上で〝偉い人〟が必ずしも霊界で偉いとは限りません。こちらでは魂の偉大さ、霊性の高さ、奉仕的精神の強さが重んじられます。こうしたものは物的な金ぴかの輝きが消えた後も末永く残ります。

(7) 霊的な目が開かれ、霊力によってもたらされる愛を受け、霊的真理の啓示を手にした者がその後で人の為に役立つことを何一つしないようでは、神から大きなお咎めを受けます。

なぜなら、知らずに怠けたのではなく、知って怠けたからです。霊能者の中には折角の霊的能力を銀貨三十枚で売っている人が大勢おります。(マタイ26・14~16)

(8) 既成宗教に籍を置く者はいずれ、これまでの犯した過ちの全てに責任を取らねばならない日がやってまいります。摂理を免れる方法はありません。神の眼は誤魔化せないのです。特に霊の声を聞いた者(心の奥では気づいている人)はその反動は大きくなります。その声に素直に従えない者は、何も知らずに信じている者より大きな報いを受けます。

(9) クリスチャンになったからと言って、それで、〝地の塩〟(地上の人間としての理想像)になったわけではありません。どこかの教会に所属したからと言って〝地の塩〟になるわけではありません。こちらの世界へ来ると、地上でどういう肩書をしていたかなど問題にされません。

特定の教義を擁護しても何にもなりません。評価されるのはただ一つ、地上生活において内部の霊性をどれだけ発揮したかです。

(10) この大宇宙を開闢させた力、物的身体に息吹を与えた神、全天体、全法則の統治者である大霊、千変万化の生命活動となって顕現している霊、人類の全歴史を通じて各時代ごとに様々な予言者や霊媒を通して真理を啓示してきた父なる神、全ての生命に宿り、全ての生命の背後に存在するエネルギー、それほどの偉大な存在が、牧師が数滴の水を新生児に垂らしたからといって喜び、垂らしていないからと言って困った思いをなさることはありません。

(11) 大切なのは各自の良心に恥じない生き方をするかどうかということです。赤ん坊の体に水を二三滴振りかけたからと言って摂理がごまかされるものではありません。原因があって結果が生じる・・・この法則は変えられないのです。

(12) 洗礼によって魂は少しも影響を受けません。他人が代わって魂を成長させることはできないのです。地上生活を生きていく、その生き方によって自分で成長させなくてはいけません。

間違った行為による報いは他人によって取り払ってもらうわけには参りません。それを償うに足る行為と、その過ちがもたらす苦しみに耐えることによって、自ら処理していくほかありません。

(13) 新たに法則をこしらえる必要が生じることは決してありません。全法則が用意されているからです。宇宙の経綸にとって必要なものは今も全て存在しますし、これまでも存在しましたし、これから先も間違いなく存在し続けます。大霊は全知全能ですから、あらゆる存在の相に必要なものは全て予期しておられます。

(14) 摂理は完全であり、自動的に作動します。誰一人それから逃れられる人はいません。自由意思も摂理の中に組み込まれております。その働きは一定の進化の段階まで到達すると分かるようになります。

(15) あなたは個性を築き魂の進化を促進するためにこの物質界へ来ているのです。利己主義の道を選べば、それなりの代償を払わないといけません。

人道主義の道を選べば、人間的成長と言う形で報いがあります。そうしたことは全て摂理のもとに規制されており、いかに立派な教祖様でもその働きを変えることは出来ません。

(16) 身分、職業、血筋、地位や肩書、肌の色や国家の別、こうしたものには一切かかわりなく、人間の全てに〝人のために役立つことをするチャンス〟が用意されています。それを怠ると、それだけの代償を払わされます。その摂理には誰一人干渉することはできません。イエスも言っております・・・〝蒔いた種は自分で刈り取らねばならない〟と。

(17) 当然のことながら過去はいま体験している結果の原因をこしらえたわけですが、その結果に対する現在の対処の仕方が、代わって将来の結果を生み出す原因となるわけです。ですから、今こそ、善い種を蒔くように努力するのです。幼児に説教するようですが、しかし、それが真実なのです。

シルバーバーチの祈り

ああ、真白き大霊よ。あなたの法則が全宇宙を支えております。あなたは全生命の責任者におわします。あなたの創造なされたものだからでございます。物質の世界の子等にもあなたの神性をお授けになられました。

あなたの子等をご自分に似せておつくりになられました、その魂にあなたの霊力を植え付けられ、それが子等を永遠にあなたと結び付けております。それは子等も進化するにつれて、より一層あなたに似た存在となり得ることを意味します。

ああ、神よ。あなたは無窮の過去より全大宇宙を治め、無窮の未来にわたって絶対的な支配者におわします。何となれば、あなたは全生命の始原たる大霊にあらせられるからで御座います。

あなたは全存在を支え、生命の全側面に顕現しておられます。それは物質の世界であろうと、遥か高き次元の霊の世界であろうと、意識ある存在に例外はございません。

このたび私達はあなたのお召しにあずかり、あなたの使者として、地上へご意思をもたらし、ご計画を啓示し、それを実らせるべく派遣されました。

私達は物質の子等と協調活動の中に置いて彼らがあなたを理解し、彼ら自らを理解し、憎み合いから生まれた組織を愛の組織に置き換え、自己中心主義を互助の精神に置き替え、戦争を止めさせて平和をもたらし、飢餓に終止符を打たせて、あなたがふんだんに用意されている恵みが平等に行き亘るようにと願っております。

大いなる神よ。私達は片時とはいえ、こうして低き界層にて生活するあなたの子等と交わる時を得て、彼らとの協調的活動によってより大きな仕事を為し遂げ、悩める者を救い、暗闇の中にいる者に光明をもたらし、弱き者に力を与え、病める者を癒し、人生の嵐の真っただ中にいる者に心の平静をもたらしてあげる仕事に勤しむことが出来ることを深く感謝申し上げます。

ここはまさに魂の安息場所であり光明の聖殿にございます。かくの如き場を得さしめたまいしことに、我々は深く感謝しこの場を通じてご意思の一層の支配を行きわたらせる為に、それを妨げる障害を取り除かんと努力いたす所存でございます。

その目的の為に私どもは祈り、刻苦し、地上の民に奉仕することによりあなたに奉仕せんと願うものです。

ここにあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

第5章 向上進化の原理
(1) 人生の難問の一つ一つを、あなた方が解決を迫られている課題として受け止めなさい。それに挑戦していく過程の中で霊性が磨かれ、発達し、潜在的神性が表面に出て来るのです。順風満帆にことが進んでいる時に感謝する必要はありません。

難問が生じた時こそ感謝すべきです。あなたにとっての挑戦課題が突きつけられたのであり、それを真正面から受け止めることによって、あなたの霊性が一段と磨かれる。その絶好のチャンスだからです。

(2) あなたが人生の嵐に遭遇するのを私達が阻止してあげるわけにはいきません。又その嵐の中で悪戦苦闘するのを私たちが防いであげることも出来ません。そうした試練にあなたがどう対処し、そこから教訓を学ぶために持てる才能をどう働かせるかを、側からじっと見守らねばならないこともあるのです。

(3) 実在に目覚めるには晴天と嵐と言うような対照的な体験が必要です。憎しみも所詮は愛が正しい目的からそれて歪められたものに過ぎません。要は魂の成長に関わる問題です。

(4) 光を見出せるのは闇の中においてこそです。嵐の中にあって初めて平穏無事の有難さが分かります。悲しみを味わって始めて喜びを知るのです。人生は一見すると矛盾しているかに思える両極性で成り立っているのです。

(5) 健康を損うまでは健康のありがたさは分かりません。雨の日の鬱陶しさを耐え忍んで始めて晴天の有難さが分かります。それと同じく、苦難は肉体が自分ではなくそれを操っている霊こそ自分であることを悟るために神が用意した、一種の触媒です。

(6) 地上生活の問題は人間自らの努力で解決していかねばなりません。問題が生じないように私が処置を施してあげるわけには行きません。地上生活の本質そのものが絶えず問題と取り組むように出来ているのです。それと正面から取り組むのです。

内部に潜む霊力を引き出して精一杯頑張るのです。そして、それでもなお十分でない時に始めて、もう一度踏み込んで、無限の宝庫からの援助を求めて祈るのです。

(7) 何の問題も生じないようでは、それは哀れなロボットと同じです。血の通わない操り人形です。あなたの内部には地上で開発すべき可能性が無限に秘められているのです。それは日向ぼっこをしているような呑気な生活、何一つ不自由のない生活の中では開発されません。

嵐の中で必死にかじ取りをしている中においてこそ内部の霊力が呼び覚まされ発達するのです。私にはこんな厳しい説教しか出来なくて申し訳ありません。

(8) 私たちはその場限りの、ただありがたがられるだけの説教はしたくありません。人間はかくあらねばならないと言う、あるがままの真実をお教えする絶好のチャンスだと思って説いているのです。困難こそ有難いのです。真実の自我を見出す最良の手段なのです。

ですから言いにくいことを申すようですが、困難に遭遇したら、よくぞおいで下さいましたと歓迎することです。それは困難のマスクを被った〝友〟なのです。

(9) 霊の褒章がもし簡単に手に入るものであれば、それは手にするほどの価値はないことになります。成就、達成、こうしたものには犠牲が付き物です。ですが、その犠牲には必ず償いがあります。物的に失ったものは、それより遥かに価値のあるものによって埋め合わせがあります。

(10) 大半の人間の魂は居眠りをしております。小さな神性の火花が休眠状態にあります。それを煽って大きく燃え上がらせる必要があります。その触媒となるのが困難であり危機であり悲しみであり別れであり病気です。

(11) 神は地上の人生を、人間であるが故の弱さの限界に到達したかに思う段階で強さを見出すように配剤しております。もはや地上のどこにも頼るべきものが見出せず万事休すと思えた時こそ、魂が霊的真理の光に照らし出される用意が整ったのです。

(12) 地上生活の悩み事から逃れることはできません。必ず生じるものです。それなしには目的地に辿り着けない、踏み石の様なものです。人生の嵐を一つ一つ切り抜けていくうちに霊性が強化され、性格が高尚さを増してまいります。困難こそ霊的な力と成長を身につけさせてくれるのです。

ですから、困難に尻込みしてはなりません。内部から引き出す力と、外部から引き寄せる力とによって克服していくべき挑戦課題として、堂々と受け入れていくことです。

(13) これからも地上には幾つのも大変動が生じます。崩壊もあれば隆盛もあります。皆さんには暗黒と苦難の時代の到来のように思えるかもしれません。〝大変な時代になったー〟そうおっしゃるかもしれません。しかし、そうした変動の背後には地上世界の進化へ向けての大きなエネルギーの働きがあるのです。

(14) 宇宙には進化という目的があります。常に進化しつつあるのです。完成されたと言うものはどこにも存在しません。完成は無限の営みです。

不純なところを一つなくしていく毎に、その奥に更に不純なものを見出します。あなたは永遠に達成されることのない完全性へ向けての無限の進化の道を歩みつつあるのです。従って当然、その時点に置いては何らかの不公平というものが存在することは避けられません。

どこかに荒削りのところがあり、問題があり、困難が伴います、それも全て進化の法則が運用されていくその副産物として生じていることです。

(15) 真面目にあなたなりの最善を尽くすことです。そして他人に対して寛容と慈悲の心を向けてあげることです。それが出来ると言うことが進化しつつある霊の証しです。

人間は誰一人として完全な者はいません。煩悩を具えた存在であり未熟であるが故に、時には的外れのことを考えて間違いを犯すものです。だからこそ寛容と慈悲と受容性と愛が大切となるわけです。

(16) 面倒なことが生じないでほしいと言う願望は人間的煩悩の一つであり、それ自体を非難するつもりはありませんが、面倒なことを毛嫌いし逃避していては、霊的な成長は望めません。成長は困難に堂々と対処し,挑戦を正面から受け止め、そして克服していく中で得られるのです。

(17) 担わされた使命が大きければ大きいほど、遭遇する試練も又大きくなります。そうならざるを得ないのです。人生の上っ面だけを生きている人よりも、霊的な資質に目覚めその意味を理解した人の方が、より大きな貢献を求められるのです。

(18) 真理を知った者は物事が楽に運ぶことを期待してはなりません。霊の威力について何も知らない者よりも大きなことを要求されるのです。

(19) 地上生活のどこかの段階でその人なりの真理の受け入れ態勢が整う時期が来ます。それは神が一人一人に用意して下さる絶好機です。それが時として病気、死別、危機と言う過酷な体験を通して届けられることがあります。しかしそれは魂を目覚めさせるために必要な触媒なのです。

(20) 魂が完全に打ちのめされるほどの出来事は決して生じません。一つ一つの出来事は、いかに困難を極めるものであっても、魂を一層成長させるための手段と心得て下さい。

現実に数多くの問題と困難に取り囲まれているあなたにとっては、そういう受け止め方は決して容易なことではないでしょう。が、その場限りの捉え方ではなく、永遠の価値を持つ尺度があることを忘れてはいけません。それが霊的真理です。

疑念に襲われた時はその真理にしがみつくことです。人間である以上は煩悩を完全に締め出すことは出来ません。が、だからと言ってその煩悩を怠惰の言いわけにしてはなりません。心構え一つで煩悩を力に変えることが出来るのです。

(21) 光と闇、日向と日蔭は一つのものの二つの側面です。闇がなくては光の存在が分からず、日陰がなくては日向の有難さも分かりません。人生の苦難も魂の成長を促すための手段なのです。困難、障害、不利な条件、こうしたものはみな魂の試練です。

それを一つ一つ克服する毎に魂は一段と強さを増し、一段と清さを増し、一段と深みを増し、一段と霊格を高めるのです。

(22) 地上生活での体験を素直に受け止め素直に理解すれば、どれ一つとして魂を向上させないものはありません。一体困難のない世界、試練も痛みも苦しみもない生活が想像できるでしょうか。そこには克服すべきものが何一つなく、従って進歩もなく、ただ堕落あるのみです。

(23) 物的身体に宿っているあなたは地上生活を尺度として物事を受けとめます。地上を去った私たちは地上生活を無限の生命の中のホンの一瞬として位置付けます。みなさんは何事につけ焦点を間違えております。

苦しんでいる人を見て同情し、その痛みを一刻も早く取り除いてあげたいと思う気持ちはごく自然な情として私も咎める気持ちは毛頭ありません。

しかしその時のあなたは〝苦しみ〟という観点からみてその人のことを考え、苦しみの中で過ごす時間は、その苦しみの償いとして得られる霊的な喜びに比べれば、実に些細なものに過ぎないことにお気づきになりません。

(24) もしも借金(カルマ)の全てを返済してしまえば、最早苦しむと言うことのない段階に到達したことになるでしょう。身体が完全無欠になるからです。しかし人間は、地上に置いても、あるいはこちらへ来てからも、次々と借金をこしらえております。

(25) 一つのものに拘泥しないと言うことが大切です。周りに垣根をめぐらして新しいインスピレーションが入らないようにしてしまったらお終いです。求道とは絶え間ない探求です。境界が絶え間なく広がっていくものです。何故なら魂の進化に伴って精神がそれに反応していくからです。

(26) 知識にも真理にも叡智にも成長にも限界というものがないと悟った時、あなたは真に自由の身となります。心の奥では間違いに気づいていること、理性が拒否していることを思い切ってかなぐり捨てることが出来た時、あなたは真の自由を獲得します。

新たな真理の光に照らして誤りであることに気付いたものを恐れずに棄て去ることが出来た時、あなたは自由の身となるのです。

(27) 地上の人間は、古くから伝えられたものだからという、ただそれだけのことで、古い教えに拘り過ぎます。真理と時代とは必ずしも手をとり合って進行するものではありません。子供の時に教え込まれた大切な信仰を棄てるのが難しいものであることは私もよく知っております。

しかし、理性が拒否するものは、いかにいわれのあるものであっても棄て去ることが出来て初めて魂は自由になれるのです。

(28) 永遠の生命の営みには限界と言うものがありません。美しさにも限りがありません。音楽の荘厳さにも限りがありません。魂が進化の階梯を昇れば登るほど、美と調和の世界が自分のものとなって参ります。より進化せる霊にはより大きな調和の世界が待ち受けております。

(29) 低い階梯にいる間は高い階梯のことは意識出来ません。より大きな調和の世界の摂理も自動的に作動するものであり、その働きかけを受けるようになるには、魂の成長によってその次元まで到達するほかはありません。

(30) あなたのこれまでの成長の度合いによってこれから先の成長の度合いが決まります。もっともその成長を遅らせることは出来ますが、いずれにせよあなたがこれから選択する行為は、様々な摂理の絡み合いによって自動的に決まってきます。

その一つ一つが自動的に働くからです。自由意思によって選択しているようで、実はそれまでに到達した進化の段階におけるあなたの意識の反応の仕方によって決定づけられているのです。霊性を自覚するようになった魂は(目先の損得・気楽さを超えて)一層の進化を促す道を選択するものです。

(31) 霊性の進化に伴って自然の摂理を悟って参ります。その第一の反応として、誤った知識、理性が納得できないもの、全知全能なる神の愛と叡智にそぐわないと直感したものは、恐れることなく棄て去ることが出来るようになります。

容器に新しいものを入れるには、その前に古いものを取り出さないといけないのが道理です。自然なものの考え方を妨げるものは容赦なく棄て去らないといけません。かくしてあなたの霊性、あなたの魂が進化し、より高い叡智を受けいれる用意が整います。

(32) 人生が両面性からなると言うことは挑戦の機会があると言うことであり、障害や不利な条件に立ち向かうことになると言うことです。そうでなかったら、素晴らしい内部の神性は永遠に発現する機会がないことになります。

(33) 価値あるものは苦しみと悲しみなしには手にすることは出来ません。地上ならではの教訓を学ぶには、それなりの避けがたい条件というものがあります。

(34) 賢い人間とは体験の全てを魂にとって益になる方向へ転換しようとする人、試練や誘惑から逃げようとせず、内部の力の限りを尽くして困難の克服に当たる人です。その意気込みの中でこそ霊性が進化し強化されるのです。

(35) あなたも大霊の一部であり、無限の神性を宿しております。その神性を発揮するにつれて、より次元の高い摂理との関わり合いが生じてまいります。それは決して低い次元の摂理と矛盾するものではありません。ただ魂がある一定の段階まで進化するまでは無縁というに過ぎません。

(36) 幾百万年とも知れない歳月をかけて、あなたは下等な種から高等な種へと、媒体を徐々に発達させながら、泥の中から天空へ向けて一段一段、ゆっくりと進化してきたのです。その間、少しずつ動物性を棄てては霊性を発揮するという過程を続けてきました。今あなたが宿っている身体がそこまで達するのに果たして何百万年掛ったことでしょう。

しかもまだ進化は終わっていないのです。そして他方において魂の方も進化させなければならないのですが、あなたはそれにこれから何百万年掛けることになるでしょうか。かつてあなたは猿でした。猿そのものだったと言う意味ではありません。猿という種を通して顕現した時代もあったと言う意味です。それも大霊の機構の一部なのです。

生命のあるところには大霊の息吹があります。それなくしては生命活動は存在しません。ただその息吹に段階的な差があると言うことです。発達と開発があり、下等な段階から高等な段階への変移があると言うことです。

(37) 人間のすべてに大霊が宿っております。確かに人間はありとあらゆる形態を通して進化してきて動物時代の名残も宿しておりますが、それよりも遥かに高尚な神性が宿されており、それを機能させ発揮させることが出来れば、あたかも神々が地上を闊歩するかの如くになります。

(38) 進化の頂点を極め〝完全〟と融合してしまったと言う霊を私はまだ一人も知りません。霊性というのは磨けば磨くほど、まだまだ磨くべきものが残っていることに気づくものです。それは意識の領域がますます広がっていくことを意味します。あなたの意識も大霊の一部なのですから、無限の奥行きがあります。

第6章 自由と責任
(1) 大霊は人間の全てに一定範囲内の自由意思を授けて下さっています。あなたは操り人形ではないと言うことです。知性があり、理性があり、判断力、決断力、反省力を有し、自分の意見を主張し、人生体験によって叡智を身につけていくことが出来ます。

(2) 知識には責任が伴うと言うのが私の一貫したテーマです。知識による恩恵を受けたからには、今度はそれをいかに生かすかという責任が必ず生じます。

そこにあなたの自由意思による選択が問われます。それがあなた自身の責任の尺度となるのであり、これだけは他の誰一人として代わってあげるわけにはいきません。

(3) あなたがもし霊的真理についての知識を手にしながらそれに適った生き方をすることが出来なければ、それ相応の代償を払わねばなりません。〝知らなかった〟という言いわけは許されないからです。知識は自動的に責任をもたらします。

真理を知った者はそれだけ余分のものを要求されます。それは言い変えれば、その人への大切な信頼に他なりません。

(4) 物事は善にもなり悪にもなります。そこにあなたの選択権、自由意思、決断力、判断力、を使用する要素があるわけです。それは大霊があなたに与えた神性の一つです。言い変えれば、あなたは神の操り人形ではないと言うことです。

その判断、決断に際して背後霊は、あなたが正しい選択をするよう精一杯の努力をします。しかし時には大切な教訓を学ばせる為に思い通りにさせることもあります。が、その裏にはあなたがきっと無傷で立ち直り貴重な叡智を身につけてくれるとの確信があります。

(5) 〝理屈を言ってはいけません。そう信じればよいのです〟・・・私はそんなことは申しません。反対に神が与えて下さったもの(知的判断力・理性)を存分にお使いになって私をお試しなさい。

しっかり吟味なさい。そしてもしも私の言うことに卑劣なこと、酷いこと、道徳に反することがあれば、どうぞ拒否なさってください、と申し上げます。

(6) 人間は戦争が起きるとすぐに〝なぜ神は阻止してくれないのか〟〝なぜ未然に防いでくれないのか〟とおっしゃいます。が、人間自ら神の摂理を無視する方向を選択した以上は、その責任は人間にあります。やりたいことを勝手にやっておいて、その報いを逃れると言うのは許されません。

摂理は変えられません。蒔いた種は自分で刈り取るのです。利己主義の種を蒔けばそれ相当の結果を刈り取らねばなりません。高慢・嫉妬・怨み・貪欲・悪意・不信・猜疑心・・・こうした種を蒔けば、やがて時を経て戦争と困窮と混乱を生みます。

(7) 自由意思は神からの授かりものです。しかしその使い道を誤るとそれなりの償いをしなければなりません。摂理に則った生活をすれば恩恵を刈り取ります。

逆らった生き方をすればそれ相当のものを刈り取ります。前者は平和と幸福と豊かさをもたらし、後者は悲劇と戦争と流血と混乱をもたらします。

(8) 大霊の神性の種子が人間一人ひとりに植え込まれています。それは畑に植えた種子と同じく、成長に必要な養分を与えれば必ず芽を出し、大きく育ち、やがて見事な花を咲かせ実を結びます。あなた方は一人一人が庭師です。

内部の神性が首尾よく芽を出すかどうか、あるいはいつ芽を出すかは、各自の努力次第です。そこには自由意思というものが許されております。暗闇に閉じ込め、発育に必要な光を当てなければ、大霊の顕現する機会はありません。


シルバーバーチの祈り

ああ、真白き大霊よ。全生命はあなたを中心として巡り、物質の世界と霊の世界との区別なく、人間的存在のすべてがあなたの御胸に抱かれております。あなたは全存在の中心におわします。なぜなら、あなたという存在はすなわち全生命の顕現にほかならないからでございます。

あなたの霊が生命を賦与し、あなたは生命そのものであり、あなたゆえに生命が存在し、あなたなくしては何一つ存在し得ぬのでございます。

ああ、神よ、あなたは全存在を維持しておられます。あなたの叡智が全存在を創造し、あなたの意図が全存在の形態となって顕現しております。あなたのご計画は顕幽の別を超えた全界層を通じて展開しつつ、次第にその実現へ向かっております。

あなたは宇宙の大霊におわします。その大きさは、いかに崇高な精神の持ち主にも、その全容を理解することは出来ませぬ。にもかかわらず、あなたは大なるものの中の極大なものの中に宿られると同時に、小さきものの中の極小のものの中にも宿り給うのでございます。

全宇宙の中にあってあなたの認知なくして生ずるものは何一つございませぬ。なぜならあなたは摂理によって全生命を包摂し、それ故にあなたはいずこにも存在したまい、全存在にいきわたっておられるからでございます。

その摂理を少しでも多く顕現せしめんと願うあなたの僕たる私どもは、地上の有志との協力のもとに、物質の世界と霊の世界との架け橋をより強化し、より多くの使者が地上へ戻り、あなたからの愛と美と安らぎのメッセージを届けんとする大事業の為に、あなたの霊力を賜らんことを祈るもので御座います。

そのかけ橋を渡って地上へ戻るのは、あなたの直属の進化せる天使のみではございません。いまだに地上圏に属する、巡礼の旅の途上にある者も数多くこれに参加しております。

地上の人間の思いが、かつてあなたの愛と霊力を示さんとして地上へ降りた一個の霊へ向けられるこの時期(クリスマス)にあたり、私どもは地上の子等があなたの霊が彼らの内部にも存在し、それが彼らの世界の全障害を取り除くことを可能ならしめることを改めて認識せしめんと願うものです。
彼らがあなたのご意思を生活と行為の中に置いて発現しようと心掛ければ、きっとそれが叶えられることで御座いましょう。

ここに、人にために役立つことをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

第7章 善悪と公正
(1) (善悪の基準について問われて)それは一人一人の問題です。一人ひとりの霊的自我の中に絶対に誤ることのない判定装置(モニター)が組み込まれているのです。

正常な人間である限り、言いかえれば精神的・知的に異常または病的でない限り、自分の行動と思考を監視する絶対に誤ることのない装置が内蔵されております。いわゆる道義心です。

考えること、口にすること、行うことを正しく導く不変の指標です。それがいかなる問題、いかなる悩みに際しても、その都度、自動的に、直感的に、そして躊躇することなく、あなたの判断が正しいか間違っているかを告げます。

それを人間は時として揉み消し、時として言いわけや屁理屈で片付けようとします。しかし、真の自我はちゃんと分かっているのです。

(2) 自分で正しいと思うこと、良心が指示することを忠実に実行しないといけません。最後は自分が自分の裁判官となります。振り返ってみると正しかったこともあれば間違ったことをしていることもあります。しかし動機が人の為ということであれば、例え間違っていても咎められることはありません。動機が何よりも考慮の対象となります。

(3) 何事も動機がその価値を決めます。慈善事業(チャリティ)に気前よく大金を寄付する億万長者は、その行為によって少しも霊性は伸びません。反対に、これは絶対に意義があると信じて、ない金をはたいて援助する人は、その動機ゆえに霊性が伸びます。

苦しむ人を見て止むに止まれぬ気持ちになるのは霊的属性の一つです。愛、情愛、友愛、同情、哀れみ、親切心、奉仕の精神は霊の属性です。それらを表現している時あなたは霊的自我を表現していることになります。

(4) あなた方が道徳的だと考えていることが私たちから見ると非道徳的である場合があります。そこに物の見方の問題があります。私にとって道徳とは、その人がそれまでに悟った最高の原理に忠実に行動しようと言う考えを抱かせる、努力目標のことです。それは親切であろうとすることであり、手助けをしようとすることであり、人の心を思いやることです。

(5) 私は〝悪〟とは同じエネルギーの用途を誤っていることだから許すべきではないという考え方をとります。あなたが〝悪い奴ら〟と思っている人間は未熟な人間ということです。その人達が表現しているエネルギーは成長と改善の為にも使用できるのです。

自分から〝悪人になってやろう〟〝利己主義になってやろう〟と思って悪人や利己主義者になる人は滅多にいるものではありません。悪い人間というのは霊的成長における幼児なのです。

聞き分けのない子供みたいなものです。目に見え手に触れるものだけが全てだと考え、従って物的世界が提供するものを全て所有することによってしか自分の存在を主張できない哀れな人間なのです。利己主義とは利他主義が方向を間違えたに過ぎません。

(6) 〝悪〟とは何かということを見極めておく必要があります。地上生活の究極の目的は〝死〟と呼ばれる現象の後に待ち構えている次の生活舞台(ステージ)に備えて、内部の霊性を開発することにあります。開発するほど洞察力が増します。

霊性が開発され進歩するにつれて自動的に他人に対して寛大になり憐みを覚えるようになります。これは、悪や残忍さや不正に対して寛大であれという意味ではありません。相手は自分より知らないのだと言う認識から生まれる一種の我慢です。

人間は往々にして自分のしていることに意味が分からずに、全くの無知から行為に出ていることがあるものです。そこがあなたの我慢のしどころです。それは悪を放任し黙認してしまうことではありません。

それは我慢ではなく目のまえの現実に目をつむることです。真の意味の寛大さには洞察力が伴います。そして、何時でも援助の手を差し伸べる用意が出来ていなければなりません。

(7) 霊的摂理に反した行為が罪であって、人間がこしらえた教義を無視したからと言って必ずしも罪にはなりません。結婚生活においても霊的な伴侶とは言えない夫婦が居ます。

もしもその夫婦が霊的に傷つけあえば罪になることもあります。問題は視点を何処におくかによって違ってきます。常に霊的真理を基準にして判断すれば、答えは簡単に出るものです。

(8) 故意に悪いことをするよりも無知から犯す間違いの方が多いものです。全体からすれば〝悪人〟と言えるほどの人間はごく少数派に属します。些細なしくじりを裁くために大ナタをふるうようなことは慎まなければなりません。

そういう人を憎むと言うことは、それは罪を犯していることになります。良心が咎めることをするのは全て霊的摂理に反します。

(9) 罪悪はそれを犯す側とそれを受ける側の双方を傷つけます。その原因は往々にして故意ではなく、無知、癇癪、せっかちから犯しているものです。自制心を欠き、冷静さを失っているわけです。後になって〝しまった〟と思うようなことを考え、口に出し、行っているものです。

(10) 最大の罪は他人を身体的のみならず精神的にそして霊的に傷つけることです。他人へは常に善意で接し、何時でも援助の手が差し伸べられるようでないといけません。その手が拒絶されたら、折角のチャンスを自ら拒絶した、その人を気の毒に思ってあげなさい。

(11) 世間がどう言おうと、周りの人が何と言おうと、自分で正しいと思うことをしなさい。その方が都合がよいとか得策だからではなく、心の奥でかくあるべきと確信したこと、良心がそう命じていることを実行すればよいのです。至って簡単なのです。

ところが人間はなぜか複雑なこと、ややこしいことを好みます。もう当たり前になってしまった単純素朴なことを毛嫌いします。私はあくまでも良心の命ずるままに従いなさいと申し上げます。良心こそ神の声であり、善と悪とを選り分け、進むべき道を指示します。

(12) 良心が命じていることは、たとえその方向へ進むと苦難に遭遇することが分かっていても、迷わずに従いなさい。最後にきっといいようになります。難しく考えることはないのです。これ以上簡単な話はありません。

(13) 決断を下さなければならない事態に立ち至った時は、それが特定の少数の人ではなく、全部の人、あるいはなるべく多くの人にとって益になることを動機として判断しなさい。

(14) 霊的知識を手にしながら、その意義を日常生活に生かしていない人のことを気の毒に思ってあげないといけません。かくあるべきと承知していながら、その摂理に則った生き方が出来ない人は、霊的知識を知らない人よりも霊的に大きな罪を犯していることになります。

(15) 霊的実在に目覚めた人ならば、慈悲、寛容、哀れみ、奉仕、協力の実践が大切であること、言いかえれば、単に霊的実在の美しさや豊かさに感心しているだけではいけない事を承知の筈です。霊的真理を知っている人でも利己的人間になる事があり得るのです。

(16) 霊的真理を手にしても、それをそのまま何処かに仕舞い込んでおくのでは、普及の目的は達成されたことになりません。それがその人の生活を照らし悟りを開かせるところまでいかないといけません。霊的知識は普及と実践が伴わないといけません。

なぜなら地上というところは、霊が内部の霊性を発揮するための環境を求めて生まれてくるところだからです。

(17) 地上を暗黒の世界にしている卑劣な行為、抑圧、残虐行為等は、それを受ける側の霊性にとって少しもプラスになりません。同胞を食いものにすることは霊的に間違っております。他人に苦痛を与えることは間違いです。霊的原理は倫理・道徳と切っても切れない関係にあります。一体不離のものです。

(18) ある国で不道徳と言われているものが他の国では不道徳でないことがあります。例えば伝統的宗教によって、罪でもないことが罪とされていることがあります。その宗教が勝手に掲げている教義に反した者に対する、その宗教の内部だけの見解であり行為に過ぎません。

(19) 全ては〝罪〟とは何かという定義に関わる問題です。私に言わせれば、罪とはその行為者それを受ける側の双方に害を及ぼすことです。その行為者の霊性を下げ、同時に他人を傷つける行為です。それには嫉妬心や欲張りや恨みも入ります。要するに罪とは人の為になる行為の反対と思えばよろしい。

(20) 神の摂理は最終的には完全なる公正が行きわたるようになっております。こればかりは誰一人として例外はありません。あなたにも、そして地上に限らず他の全ての天体上の存在の一つ一つに公平な配慮が為されております。

摂理は絶対です。何一つ見落とされることはありません。あなたの霊的成長と発達に必須のものは、それを受け入れる用意が出来た時にはきちんと手に入るように配慮されております。

(21) その昔、“幼な子が彼らを導く事になろう〟(イザヤ書)という教えが説かれました。下らぬ常識で頭でっかちになった大人の愚かしい浅知恵を棄てて幼な子の純真さを取り戻さない限り、地上にあっても霊界にあっても大きな進歩は望めません。

地上では太陽光線の作用の結果に過ぎない肌の色でいろいろと差別が行われております。正面の肌の色だけを見て、その奥の霊性に置いてはみな同じであることを忘れております。

(22) いつの日か地上のあらゆる肌色の人種が融合することでしょう。どの人種にも他の人種に出来ない役割を持っているからです。霊眼を持って見れば、全ての人種が調和し、それぞれの特質、特有の文化、特有の学問を提供し合って生きる時代の到来が見えます。

(23) 私達は大霊を共通の父母とする、全人類の霊的同胞性という福音を説きます。その理解の障害となるのは地上的概念であり、教会という人口的建造物であり、権力の独占であり、暴君の自尊心と横暴です。

(24) 霊的な教訓が地上に広まると言うことは、人種間の隔絶性に終止符が打たれることを意味します。国家間の障壁が取り除かれることを意味します。民族的差別、階級的差別、肌色による差別の撤廃を意味します。

更にはチャーチ、チャペル、テンプル、モスク、シナゴ―クと言った各宗の礼拝、儀式の場の区別も無くなります。何故なら霊的に見ればいずれの宗教も大霊の真理の一部を包摂しており、自分達にとってこの上なく貴重に思えるものも他の宗教が大切にしている真理と少しも矛盾対立するものでないことを理解するようになるからです。

(25) 私たちはみな大霊の子供です。大霊はその内の有る者を赤く塗り、ある者を黄色く塗り、ある者を黒く塗り、そしてある者は何も塗らずにおきましたが、それぞれが大霊の機構の中で存在価値を持っているのです。

いつの日か大霊の摂理が行きわたり、様々な肌色の人種が混ざり合い、愛の心を抱いて共に暮らすようなった時に、世界中に調和が実現します。

その一つ一つの色が何を意味するかを皆さんは理解しておりません。それぞれに大きな目的を持ち、造化の摂理に貢献しております。全ての肌色が融合し、肌色で区別することをせずにその背後の魂を見るようになるまでは、地上に平和は到来しません。

(26) ラベルはどうでもよいのです。形式はどうでもよいのです。口先だけの文句はどうでもよいのです。大切なのは〝行い〟です。〝行為〟です。つまり各自の毎日の〝生活〟そのものです。私は因果律という絶対的な摂理を説きます。つまり誰一人としてその神の摂理の裏をかくことは出来ないのです。ごまかすことはできないのです。

自分が自分の救い主であり、購い主であり、自分の過ちには自分が罰を受け、善行に対する報酬も自分が受けると説くのです。また、神の摂理は機械的に機能し、自動的に作用すると説きます。

すなわち、親切、寛容、同情、奉仕の行為が自動的にそれ相応の結果をもたらして霊性を高め、反対に利己主義、罪悪、不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。

この法則は変えようにも変えられないのです。みっともない執行猶予も安価な赦免もありません。神の公正が全宇宙に行きわたっております。霊的な小人が巨人のふりをしてもごまかせません。死の床での悔い改めも通用しません。


シルバーバーチの祈り

皆様とご一緒に神の祝福を祈念いたしましょう。

ああ、真白き大霊よ、森羅万象がこぞってあなたへの賛美を奏でております。なぜなら生きとし生けるものすべては、あなたの摂理によって生かされており、自然界の律動(リズム)のどれ一つとしてあなたの表現でないものはないからで御座います。

いつの世にもあなた物質の世界においてあなたの愛、あなたの叡智、あなたの知識を輻射出来るだけの能力を具えた者を地上へ遣わされ、あなたの霊性の生ける模範として、人間の心の暗闇にあなたの真理の光をもたらし、あなたの無限なる叡智と愛によって全人類を照らす道具たらしめました。

そしてこのたび、改めてあなたの使者として私どもを遣わされ、あなたとあなたの摂理についての知識を地上へもたらし、地上の子等があなたとのつながりを理解し、ひいては自分自らについて理解し、物質の世界におかれている目的を理解してくれることを望んでおられます。

幸いにして私どもは、地上の子等の中にもあなたの霊性に触れ、その耳、その目、その精神、その心、その魂をより高き生命の波長に合わせ、私どもがあなたから仰せつかったメッセージに耳を傾ける者を見出し、その者達との交わりの場を持つことを得ております。その幸せに深甚なる感謝を捧げます。

第8章 神
(1) 神とは宇宙の自然法則です。物的世界と霊的世界との区別なく、全生命の背後に存在する創造的エネルギーです。完全なる愛であり、完全なる叡智です。神は宇宙のすみずみまで行きわたっております。人間に知られている小さな物的宇宙だけではありません。まだ知られていない、より大きな宇宙にも瀰漫しております。

(2) 神は全生命に宿っております。全存在の内部に宿っております。全法則に宿っております。神は宇宙の大霊です。神は大生命です。神は大愛です。神は全存在です。僕に過ぎない我々がどうして主人(アルジ)を知ることができましょう。ちっぽけな概念しか抱けない我々に、どうして測り知れない大きさの存在が描写できましょう。

(3) あなた方の世界と私たちの世界、まだ人間に知られていない世界を含めた全宇宙が神の法則の絶対的な支配下にあります。その法則を超えたことは何一つおきません。すべてが自然法則すなわち神の摂理の範囲内で起きているのですから、全てが知れるのです。

(4) 完全が存在する一方には不完全も存在します。しかしその不完全も完全の種子を宿しております。完全も不完全から生まれるのです。完全は完全から生まれるのではありません。不完全から生まれるのです。

(5) 神は法則です。万物を支配する法則です。法則が万物を支配しているのです。宇宙の何処にも法則の支配を受けないものは存在しません。地震、嵐、稲妻・・・こうしたものの存在が地上の人間の頭脳を悩ませていることは私も承知しております。

しかしそれらもみな宇宙の現象の一部です。天体そのものも進化しているのです。この天体上で生を営んでいる生命が進化しているのと同じです。物質の世界は完全からほど遠い存在です。そしてその完全は何時までも達成されることはありません。より高く、あくまでも高く進化していくものだからです。

(6) 神は法則であり、その法則は完ぺきです。しかし物質の世界に顕現している部分は、その顕現の仕方が進化の法則の支配を受けます。忘れてならないのは地球も進化しつつあるということです。地震も雷も進化のしるしです。地球は火焔と嵐の中で誕生し、今なお完成へ向けて徐々に進化している最中です。

(7) 日没と日の出の美しさ、夜空に煌めく星座、楽しい小鳥のさえずりは神のもので、嵐や稲妻や雷鳴や大雨は神のものではないなどということは許されません。すべては神の法則によって営まれていることです。

(8) 宇宙は神の反映です。神は宇宙組織となって顕現しているのです。ハエに世の中のことが分かるでしょうか。魚に鳥の生活が理解できるでしょうか。犬に人間のような理性的思考が出来るでしょうか。星に虚空が理解できるでしょうか。

すべての存在を超えた神という存在をあなた方人間が理解できないのは当然です。しかし人間も、魂を開発することによって、一言も語らずとも魂の静寂の中にあってその神と直接の交わりを持つことが出来るのです。その時は神とあなたとが一体であることを悟られます。

それは言葉では言い表せない体験です。あなたの、そして宇宙の全ての魂の静寂の中においてのみ味わえるものです。

(9) 霊それ自体はもともと完全です。宇宙を構成している根源的素材です。生命の息吹です。それがあなた方を通して顕現しようとしているのですが、あなた方が不完全であるが為に顕現の仕方も不完全なのです。あなた方が進化するにつれて完全性がより多く顕現されてまいります。

(10) 法則は完全です。しかしあなた方は不完全であり、従って完全な法則があなた方を通して働けないから、あなたを通して顕現している法則が完全でないということになります。あなたが完全へ近づけば近づくほど、完全な法則がより多くあなたを通して顕現することになります。

こう考えるとよろしい。光と鏡があって、鏡が光を反射している。鏡が粗末であれば光の全てを反射することが出来ない。その鏡を磨いて立派なものにすれば、それだけ多くに光を反射するようになります。

(11) 私は原初のことは何も知りません。終末についても何も知りません。知っているのは神は常に存在し、これからも永遠に存在し続けると言うことだけです。神の法則は完ぺきに機能しております。あなたはもとより完全な光をお持ちです。が、それを磨きの悪い鏡に反射させれば完全な光は返ってきません。

それを、光が不完全だ、光は悪だと言えないでしょう。又内部の完全性を発揮するまでに進化していないと言うに過ぎません。地上で悪と呼んでいるものは不完全な段階で神を表現している〝不完全さ〟を意味するに過ぎません。

(12) 神は愛を通してのみ働くのではありません。憎しみを通しても働きます。晴天だけではなく、嵐も法則の支配を受けます。健康だけでなく病気を通しても働きます。晴天の日だけ神に感謝し、雨の日は感謝しないものでしょうか。

太古の人間は神というものを自分たちの考える善性の権化であらしめたいとの発想から(その反対である)悪魔の存在を想定しました。稲妻や雷鳴の中に自分たちの創造する神のせいにしたくないものを感じ取ったのです。

(13) 神とは法則です。全生命を支配する法則なのです。その法則を離れては何も存在出来ません。あなた方が憎しみと呼んでいるものは未熟な魂の表現に過ぎません。

その魂も完全な法則の中に存在しておりますが、現段階においては判断が歪み、正しく使用すれば愛となるべき性質を最低の形で表現しているまでのことです。愛と憎しみは表裏一体です。
愛という形で表現できるエネルギーは、憎しみを表現する時に使用するエネルギーと同じものなのです。

(14) 善なるもの、聖なるもの、美なるもの、愛、叡智、そのほか人生の明るい側面だけに神が宿っているかに考える旧式の思想は棄てなければいけません。

神の表現をそのように限定すれば、最早絶対神が絶対でなくなります。それは条件付きの神、限定された霊となります。絶対神の本質は無限・全智・全能・不可変・不易であり、それが法則となって絶え間なく機能しているのです。

(15) 神を右手にナザレのイエスを従えて玉座に座している立派な王様の様に想像するのはそろそろ止めなければいけません。其れはもはや過去の幼稚な概念です。宇宙全体、雄大な千変万化の諸相の一つ一つに至るまで絶対的な法則が支配しているのです。神とは法則のことです。

(16) 神は人間的存在ではありません。法則です。それが全生命を支配しているのです。法則なくして生命は存在しません。法則がすなわち霊であり、霊がすなわち法則なのです。それは変えようにも変えられません。そこのところが理解できない人にとってはいろいろと疑問が生じるでしょうけど、成長とともに理解力も芽生えて参ります。

神が善なるものを与え悪魔が邪なるものを与えるという論法ではらちがあきません。ではその悪魔は誰がこしらえたのかという、古くからのジレンマにまたぞろ陥ってしまいます。

(17) 人間的存在としての神は人間がこしらえたもの以外には存在しません。人間的存在としての悪魔も人間がこしらえた以外には存在しません。黄金色に輝く天国も、火焔もうもうたる地獄も存在しません。そうしたものは全て、視野を限られた人間の想像的産物にすぎません。

神は法則なのです。それさえ理解すれば、人生の最大の秘密を学んだことになります。なぜなら、世の中が不変して不可変、全知全能の法則によっておさめられていることを知れば、絶対的公正が間違いなく存在し、宇宙の創造活動の大機構の中にあって一人として忘れ去られることがないことを知ることになるからです。

(18) 存在を可能ならしめて法則なくしては何一つ存在出来ないのが道理です。法則は絶対的に支配しているのです。人間に与えられている自由意思が混乱を引き起こし、法則の働きを正しく見えなくすることはあっても、法則は厳然と機能していますし、又機能してもらわなくては困ります。

(19) 私にとって神とは永遠不変にして全知全能の摂理としての宇宙の大霊です。私はその摂理にいかなる不完全さも欠陥も不備も見つけたことがありません。原因と結果の連鎖関係が完璧です。この複雑を極めた宇宙のあらゆる側面において完璧な配慮が行きわたっております。

例えば極大から極小までの無数の形と色と組織を持つ生物が存在し、その一つ一つが完全なメカニズムで生命を維持している事実に目を向けて頂ければ、神の法則の全構図と全組織がいかに包括的かつ完全であるかを認識される筈です。私にとって神とは法則であり、法則がすなわち神です。ただ、あなたは不完全な物質の世界に生活しておられるということです。

(20) 五感に束縛されている限り、神の存在、言いかえれば神の法則の働きを理解することは不可能です。その限界ゆえに法則の働きが不完全に見えることがあるかもしれませんが、知識と理解力が増し、より深い叡智を持って同じ問題を眺めれば、それまでの捉え方が間違っていたことに気づくようになります。物質の世界は進化の途上にあります。

その過程の一環として時には静かな、時には激動を伴った、様々な発展的現象があります。それは地球を形成していくための絶え間ない自然力の作用と反作用の現れです。常に照合と再照合が行われるのです。存在していくための手段として、その二つの作用は欠かせない要素です。それは実に複雑です。

(21) 私が地上にいた頃はインディアンはみな別の世界の存在によって導かれていることを信じておりました。それが今日の交霊実験会とほぼ同じ形式で姿を見せることがありました。その際、霊格の高い霊ほどその姿から発せられる光輝が目も眩まんばかりの純白の光を帯びていました。

そこで我々は最高の霊すなわち神は最高の白さに輝いているものと想像したわけです。いつの時代にも〝白〟というのは、〝完全〟〝無垢〟〝混ぜ物のない純粋性〟の象徴です。

そこで最高の霊は〝純白の大霊〟であると考えました。当時としてはそれがわれわれにとって最高の概念だったわけです。それは、しかし、今の私にとっても馴染み深い言いかたであり、どのみち地上の言語に移し替えるのであれば、永年使い慣れたものを使いたくなるわけです。ただしそれは人間ではありません。人間的な神ではありません。

神格化された人間ではありません。何かしらでかい存在ではありません。永遠不変の大霊、全生命の根源、宇宙の全存在の究極の実在であるところの霊的なエネルギーであり、それが個別的意識形体をとっているのが人間です。

(22) こうして神について述べてみますと、やはり今の私にも全生命の背後の無限の知性的存在を包括的に述べることは不可能であると痛感いたします。が少なくとも、これまであまりに永い間地上生活にはびこっていた数々の幼稚な表現よりは、私が理解している神の概念に近いものを表現しているものと信じます。

(23) 忘れてならないのは、人間は常に進化しているということ、そしてその進化に伴って神の概念も深くなっているということです。知的地平線の境界がかつてほど狭いものでなくなってきており、神ないし大霊、つまり宇宙の第一原理の概念もそれに伴って進化しております。しかし神自体は少しも変っておりません。

第9章 祈り
(1) 祈りとは神の表現です。具体的に言えば、祈りとは光明あるいは導きを叫び求める魂の止むにやまれぬ切望です。その切望そのものが自動的に扶助を呼び寄せます。なぜならその思念の威力が稼働し始めるからです。それが回答を呼びよせる原因であり、回答が結果です。

(2) 霊の側では人間側がどういう祈りをするかを待つ必要はありません。なぜならば祈りの本質そのものが、その波長の感応する界層の単数または複数の霊を即座に呼び寄せるからです。それも魂の進化の程度によって自然に決まることです。

(3) 祈りの念に感応して呼びよせられた霊は、地上界への奉仕の願望から、その人間が稼働させた威力を増幅させることになります。

霊力の一部である思念の波動がいよいよ大きく活動を開始したわけです。それによって宇宙の霊的エネルギーがその人の進化の程度に応じた範囲での活動を許されることになります。ということは、その人間の手の届く範囲のエネルギーを自由に駆使出来ると言うことです。

(4) その人間の進化の程度次第では、求めている特定の目標に思念を集中する必要がある場合もあります。その方がその人にとって有効であると言うのであれば、私はそれはそれで結構であると申し上げます。しかし、祈りに関して大切なのは、大霊・生命の原理・宇宙の摂理・こうしたものです。

(5) 時折、皆さんは自分の魂にとって為にならないもの、進化を遅らせることになるものを要求されます。それは叶えてあげるわけにはいきません。また時折それを手にするだけの十分な努力をしていないものを要求されます。それも与えられません。

そして時にはそれを手にする用意の出来たものを要求されます。それは、ここという好機を見て与えられます。この様に皆さんが心に抱く祈りは、口に出さずとも神は先刻ご承知なのです。

(6) 赦免を求めて祈っても法則が手直しされることはありません。支払うべき代償は必ず支払わねばなりません。しかし、赦免を求めて祈ると言うことは、自分の間違いに気づいて神の摂理との調和を求め始めたことを意味します。すなわち魂への内省を始めたことになり、それは本当の進化の始まりであると言えます。

(7) 祈りの言葉を何の目的もなしに、繰り返すだけでは、ただ大気中に一定の波動を起こすだけです。が、誠心誠意、魂の底からの祈り、神の御心と一体となり、神の道具として有意義な存在でありたいと願う心は、その波動そのものがその人を神の僕としてよりふさわしく、そしてより逞しくします。祈ると言うこと、真実の自分を顕現すること、心を開くこと、これが背後霊との一体化を促進するのです。

(8) 真実の祈りは人の為に役立つ行為への心の準備であらねばなりません。より高い波長に適合させる為の手段です。といっても私の言う祈りは、何処の誰が書いたのかも分からない、しかも何の意味も分からない文句を繰り返すことではありません。

誠心誠意の祈り、魂の波長を最高度に高めんとする真摯な願いです。その結果として感応するインスピレーションに満たされて、あなたは一段と高い存在となります。

(9) 誠心誠意の祈りは、その行為そのものがより高い波長と感応させます。祈ると言うこと自体が心を開かせるのです。但し、その祈りは心と魂と精神を込めたものであらねばなりません。こうして欲しい、ああして欲しいと言った、ただの要求は祈りではありません。

真実の意味での祈りは大変な霊的活動です。それは何かの目的への手段であって、目的そのものであってはならないと言うのが一番適格な表現かと思います。

(10) 私は無理にでも祈れとは誰にも申してはおりません。祈る気になれないのを無理して祈っても、それは意味のない言葉の羅列に過ぎないものを機械的に反復するだけですから、むしろ祈らない方がいいのです。祈りには目的があります。

魂の開発を促進すると言う霊的な目的です。ただし、だからと言って祈りが人間的努力の代用、もしくは俗世からの逃避の手段となるかに解釈してもらっては困ります。

(11) 祈りは魂の憧憬を高め、決意をより強固にする為の刺戟・・・これから訪れる様々な戦いに打ち克つために守りを固める手段です。何に向って祈るか、いかに祈るかは、本人の魂の成長度と全生命の背後の力についての理解の仕方に関わってくる問題です。

(12) 祈りとは神性の一かけらである自分がその始原との一層緊密なつながりを求める為の手段です。その全生命の背後の力との関係に目覚めた時、その時こそ真の自我を見出したことになります。


シルバーバーチの祈り

真白き大霊よ。あなたは全存在の大源におわします。あなたは太初です。あなたは終極です。すべてのものに存在し、全ての相に顕現しておられます。霊の世界の最高界であろうと、物質の世界の最低界であろうと、そこに何ら相違はございません。

あなたは光明の中に存在すると同時に暗黒の中にも存在します。春に存在すると同時に秋にも存在します。夏に存在すると同時に冬にも存在します。日和の中に存在すると同時に嵐の中にも存在します。あなたは稲妻の中にも雷鳴の中にも存在なさっております。

そよ風の中にもあなたが存在します。小鳥のさえずりの中にもあなたが存在します。風に揺れるこずえにも、小川のせせらぎの中にも存在します。高き山の頂にも大海の深き底にも存在します。無数の太陽の集まる星雲の中にも、煌めく星の一つ一つにもあなたが存在いたします。

あなたは意識の進化の程度の差に関わりなく、全ての生命に宿っておられます。全ての意識の中に顕現しておられるのです。

あなたは愛の中にも憎しみの中にも存在します。叡智の中にも愚かさの中にも宿っておられます。内側にも外側にも存在しておられます。何となれば、あなたは絶対的な大霊にあらせられ、その摂理なくしては何一つ存在し得ないのでございます。

ああ真白き大霊よ。あなたの大きさは到底地上の言語では表現できませぬ。地上のいかなる進化せる人物によってもあなたの全体像を理解することは出来ませぬ。

あなたはいつの時代にも人間の信仰の対象とされ、あらゆる言語によって讃美されてまいりました。多くの人間によって、あまたの聖なる書の中に啓示されてまいりました。物質の霧を突き抜けて〝霊の目〟を持って見通せる者を通じて、あなたは分け隔てなく其々の時代にあなたの摂理を啓示なさってこられました。

ああ、神よ、あなたは今まさに地上世界へ新たにあなたの使節を遣わされ、子等を一層あなたの身近き存在となし、子等があなたを少しでも多く理解し、あなたの霊力を活用することによって、物質の世界へ安らぎと豊かさと幸福をもたらすための新たな啓示を行っておられます。

その道具としてあなたのお役に立つことを願う私どもは、地上の子等との協力によって暗黒の世界へあなたの光明をもたらし、あなたの力、あなたの愛、あなたの摂理を物的宇宙のすみずみまで顕現せしめんと望むものです。

ここに、あなたの子等に仕えることによってあなたに仕えんとするあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

第10章 宗教
(1) 地上では〝宗教に帰れ〟という呼びかけがあるそうですが、真の宗教とは同胞に奉仕することによって大霊すなわち神に奉仕することです。

その為には殿堂も牧師も僧侶も聖典もいりません。そうしたものは奉仕の精神を植え付け同胞への愛の心を強めることにならない限り何の意味もありません。いつどこにいても人の為に役立つことをなさい。同胞の重荷を軽くして上げることをなさい。それが宗教です。

(2) 人の為になることであればどんなことでもよろしい。転んだ人の手を取ってあげることでも、勇気づけの言葉をかけてあげることでもよろしい。霊的なものに関わることでなくても良いのです。

物的なことであっても、それが相手の人にとって意義のあることであり、あなたもそれを嫌々ながらではなく気持ちよくして上げるのであれば、それは立派に神の道具としての役目を果たしたことになります。

(3) 所詮人間は同胞に奉仕することによって大霊に奉仕する以外に、大霊への協力の道はないのです。地上には政治学、経済学、社会学と言った立派そうな名称やラベルをつけた分野があり、それが勿体付けて説かれておりますが、どれもこれも、所詮は言葉の遊戯に過ぎません。

私に言わせればservice(サービス)の一語で全てが片付くのです。人の為に役立つことをする・・・それが宗教です。

(4) サービスの真意を理解した人こそ私は偉大な人物とみなします。霊的自我の発見を目的とする人達だけの話ではありません。極貧の人達を救うこと、病の苦しみを取り除いてあげること、不正や横暴と闘うこと、憎悪と闘うこと、自由を守ること、害悪を取り除き、人間の霊性が神の意図された通りに発揮できるチャンスを用意してあげること、こうしたこともみなサービスです。

(5) 相手が立派な地位にある人であろうと、平々凡々の庶民であろうと、そんなことはどうでもよろしい。とにかく一個の魂を立ち上がらせ、暗闇に居る人に光をもたらし、無知の牢獄に居る人を解放してあげ、お腹を空かしている人を満たしてあげ、渇いたのどを潤してあげ、争いごとを止めさせてあげることが出来れば、あなたは立派に大霊に協力していることになるのです。

(6) あなた方一人一人が大霊の一部であることを忘れてはなりません。一人一人が大霊の仕事に貢献し、大霊の力と愛と知識を地上へもたらすことが出来るのです。自分より恵まれない人の為に力を貸そうと努力する時、大霊の力がみなさんを通して顕現するのです。どの分野でも宜しい。

どこの誰でもよろしい、意気消沈している人を元気づけ、弱った人に手を貸し、暗闇の中に明かりをもたらし、空腹の人に食べるものを与え、身を横たえる所さえない人に安らかな眠りの場を提供してあげれば、それが大霊に協力するゆえんとなります。

(7) 神の働きに何か特別なワクがあって、特殊な経路でしかその恩恵がもたらされないかに考える傾向がありますが、神の力はそれを受け取る波長を持つ人なら誰にでも与えられるものです。要するに神の御心に適った心掛けがカギです。

地上的名声も社会的地位も、肌の色も人種も、国家も階級も関係ありません。どこであろうと、誰であろうと、神の御心に適った人は真の大源から力を授かり、心が啓発され、魂が鼓舞され、造化の仕事に参加させてもらえるのです。

(8) 聖書(バイブル)もなかなか立派な本ですが、もっと立派な本があります。森羅万象がそれです。大霊の摂理によって維持されている大自然の営みです。地上のいかなる書物、それがいかに部厚いものであっても、いかに敬われているものであっても、いかに神聖視されているものであっても、その大自然が教えてくれるものに較べれば物の数ではありません。

(9) そこで私達は大自然の摂理、それだけを説くのです。それをスピリチュアリズムと呼ぼうと何と呼ぼうと、要するにそれが大霊の法則であり、目に目える見えないに関わりなく、生命活動が営まれているあらゆる界層を通じて働いていることを理解していらっしゃれば、それでいいのです。

(10) 宗教界の学者は宗教というものを不可解きわまる一大神秘、難解な用語と教義による上部構造を築き上げ、それが難問と困惑と混乱を生んでおります。しかし宗教の本質、生命の本能的欲求はサービスの一語に尽きます。

(11) サービスすなわち自分を忘れて人の為に役立つことをしようとする心は、大霊の心にほかなりません。今こそ地上世界にはこのサービスの精神が必要です。私達がこうして説きそして自ら実行しているのはそのためです。地上界の靄と暗黒、疑念と不安、悲しみと闘争、苦難と苦痛の背後には永遠の目的があります。それを一つでも多く理解するように努力してください。

(12) 神の存在を信じ、神を讃美する教説を朗読し讃美歌を歌い、日曜日にはきちんと礼拝に出席しているからといって、それだけで霊性が一ミリたりとも伸びるわけではありません。それは他人への思いやりの心を鼓舞して、暗闇の生活から光明の生活へと導いてあげる行為を実践させる、その手段と考えるべきです。

(13) 大切なのはあなたの行いです。そして他のことは信じなくてもこれだけはぜひ信じて下さい。たった一つの魂を光明へ導いてあげたら、あるいは飢えに苦しむ人に食を与え、のどの渇きに苦しむ人に飲み水を与えたら、あるいはまた、肩の重荷を軽くしてあげ、足元の石ころを取り除いてあげたら、それだけで地上の全財産にも勝る大切なことをしたことになるのです。

(14) いかなる教義も魂を拘束します。教義を守るから立派になるのではありません。教義を守らなくても立派になれるのです。人間は教義の名のもとに戦争を仕掛け、教義の名のもとに異教徒を焼き殺してきました。

魂を束縛するもの、精神の手かせ足かせとなるもの、霊性の自由な発現を妨げるものは、いかなるものであっても取り除かねばなりません。

(15) 私がキリスト教に我慢ならないのは、自ら用意した真理普及の場(教会・礼拝堂等)において、すでに地上に啓示されている肝心の霊的真理を説こうとしないからです。言いかえればキリスト教と銘うちながら肝心のキリストを裏切るようなことばかりしているからです。

神の座に祭り上げてしまって、人類が模範としようにも、もはや手の届かない、遥か彼方の天国へ連れて行ってしまっております。それが我慢ならないのです。

(16) 私は牧師になって神に奉仕しようと心掛ける多くの殊勝な人達を非難しているのではありません。その中には偉大な魂の持ち主が大勢います。私が批判するのは真理にとってためにならない組織、使い古された意味のない教義を相変わらず後生大事にして、生き生きとした霊力の発揮される場をなくしている、その体制です。

(17) 教義・ドグマ・教条・儀式・ステンドグラス・祭壇・法冠・コープ(儀式用マント)こうしたものが宗教とどう言う関係があると言うのでしょうか。宗教とは霊性に関わることです。全存在に内在する霊性です。それが千変万化の律動と形態の中で顕現しています。

大自然の営みにも、理想に燃えた指導者や社会革命家の努力にも、それが顕現しているのです。それが教条とどう言う関係があると言うのでしょう。

(18) 私は時折、霊界からの高等な教えとやらばかりを欲しがって自分は隣人・同胞の為に何一つ役に立つことをしない人達に嫌気がさすことがあります。教えに〝高等〟〝低級〟もありません。成長するにつれて神の摂理の働きをより深く理解して行くのです。

難解な教えを騒ぎ求めている人達が、そんなことを止めて地上を少しでも住み良い場所、明るい場所、空腹を抱えた人が飢えを満たし、のどを乾かした人が飲み水にありつき、貧しい人たちがその疲れた身体を横たえる家を得て神の恩恵に浴せるようにして上げれば、それこそ、〝最高の訓え〟を実践していることになるのです。

(19) 教義による束縛は地上世界の病苦の一つです、疾病よりも大きな害悪をもたらします。身体上の病気による苦痛など物の数ではありません。なぜなら、それは魂の病気だからです。霊に〝目隠し〟をしてしまうのです。

(20) 人間はなぜか、神の叡智を見えなくする教義に好んでしがみつきます、不思議なことに牢の中に閉じこめられている方が幸せと思う人がいます。自由とは、自由の有難さが分かった者だけが手にできるものです。

(21) 私は教義も儀式も作法も説きません。神が愛の子等を通して顕現しようとしている事実だけを説きます。いかなる書物や巻き物、ドグマ、特定の指導者や権威、あるいは学識さえも絶対と思ってはなりません。聖遺物を信仰の対象としてはなりません。神の摂理に従うことだけを心掛ければよいのです。それが宇宙で最も大切なものだからです。それが唯一絶対の権威なのです。

(22) 宗教的建造物には過去の無知な時代の産物に過ぎないものが沢山あります。神はいかなる建造物の中にも閉じ込められません。神はどこにでも遍く存在しているのです。石を積み重ね、高い尖塔を立て、ステンドグラスの窓を取り付ければ神が喜ばれると思っているようですが、そんなものよりも、太陽の恵みが子等の心を明るく照らし、雨が作物を実らせることの方が、神はよほど喜ばれます。

ところが、そうした恵みと子等との間にとかく宗教家と政治家と商売人が介在します。こうしたものこそ取り除かねばなりません。今それが次々と取り除かれつつあります。

(23) 霊力の地上への働きかけを過去の話と考えてはいけません。過去の霊覚者を通して働いた霊力が今まさにこうした形で働きかけていることを理解しないといけません。当時の宗教家がその霊力を目の敵にして悪魔の仕業であると決め付けたのと同じように、今日の宗教家はそれとまったく同じ霊力が今まさに働いている事実を認めようとしません。しかし、地上世界もその後進歩したようです。もはや磔刑の手段には出ないからです。

(24) 私達のことを悪魔の福音を説く者と非難する人たちは、二千年前にイエスに対して同じ非難を浴びせた者たちと同列です。私たちはイエスを通して働きかけた大霊の霊力と同じものを携え、同じ霊現象を演出し、そして同じメッセージを説く者です。

すなわち喪の悲しみにある人を慰め、病の人を癒し、暗闇の中にいる人に光明をもたらし、人生に疲れた人には生きる意欲を持たせ、無知の中で模索している人に知識を授けてあげましょう、と言うことです。

(25) 物質の世界に存在するもの、それが物であろうと人間であろうと、又その人がいかに高い地位にあろうと、それを信仰の対象としてはなりません。物質の世界の彼方にあるものへ目を向けなさい。

(26) 私と言う一個の霊、ただのメッセンジャーに過ぎない者にあまり関心を寄せて下さるのは困ります。私の用事はただメッセージをお届けすることでしかないのです。地上の人間はこれまで余りにも永いこと教えそのものよりも教えを説く人物に関心を向け過ぎております。

そしてその人物を誇大に評価し、祭るべきでない地位に祭り上げ、肝心の教えそのものを忘れております。

(27) 私の使命は一個の男女を権威ある地位に祭り上げることではありません。真理と知識と叡智を啓示することです。

私の申し上げることに真理の刻印が押してありさえすれば、私と言う人物が地上で大変高い地位にあった者か卑しい身の上の者であったかはどうでもよいことではないでしょうか。名前・権威・書物、そんなものはもうどうでも宜しい。私が訴えるのは理性のみです。

(28) 私達はもはや書物や人物や権威を拠り所とは致しません。神から授かっている理性、これを拠り所とし、これに訴えかけます。真理と言うものは〝神聖〟のスタンプを押されている書物から文句を引用することで広まるものではありません。理性が納得しないといけません。

もしも私の述べることがあなたの理性にそぐわない時は、あっさりと拒絶なさってください。しかし同時に、私の申し上げていることが人間の最高にして最上の本能に訴えていること、古い時代からの誤った知識を取り除いて、人間にとって大切な霊的真理をお届しようとしていることも分かって頂けるでしょう。

地上で宗教と呼ばれているものは真理を基盤としなければなりません。そして理性の攻撃に耐えきれないものは棄て去らないといけません。


シルバーバーチの祈り

神よ、あなたは法則です。叡智です。愛です。知識です。インスピレーションです。私達があなたを讃美するのは、あなたが全生命の大中心であらせられるからにほかなりません。あなたあっての生命であり、あなたなくして生命は存在しません。

あなたは全生命にみなぎり、あなたの法則が全存在を支え、全存在を包摂しております。あなたは私たち人類のすべてにあなたの霊の一部を賦与され、それが地上の人類のすべてをあなたと結びつけております。

それゆえに、ああ神よ。私達は決して生まれながらにして罪深き存在などではなく、それゆえの恐れから膝を折ってあなたに阿(オモネ)ることもなく、私達はあなたの一部であり、同時にあなたは私達の一部であるとの認識のもとに、浩然の気を持って祈ります。

あなたの子として私どもはあなたの霊性を宿し、それが常により高い顕現を求めて、私達を通じて摂理を成就せんと致しております。

神よ。こうして地上の子等に霊的次元の摂理を啓示する機会をお与え下さったことに深く感謝いたします。この機会のお陰で私達は地上の子等との協力のもとに、あなたの驚異的計画を披露することが出来ます。全人類に、彼らが地上と言う物質の世界に置かれていることの意義を理解させてあげることが出来ます。

正しい知識によって無知をなくさせることが出来ます。霊力によって人間的煩悩を駆逐させることが出来ます。光明によって地上の暗黒を明るく照らし、苦しみと悲劇を喜びと幸福によって置き換えさせることが出来るのでございます。

第11章 力強く生きる為の叡智
(1) 明日のことを思い煩ってはいけません。大切なのは今日です。あなたの為すべきことに能力の限りを尽くしなさい。最善を尽くす・・・私達はこれ以上のことは要求しません。

(2) あなたは人間です。か弱い存在です。しかし、弱いからこそ強いと言うことはどう言うことかが分かるのです。

(3) 真理と言うのは至って単純なのですが、一見すると矛盾しているかに思えることがあります。闇があるから光の存在が分かり、悲しみがあるから喜びが味わえるのです。危機にさらさせるから平穏無事の有難さが分かるのです。

(4) 誰の人生にも道標が用意されております。もしも霧(心の迷い)によってそれがぼやけて、よく見えなくなった時は、いったん足を止めることです。ただの霧ですから、その内晴れて又辿るべき道が見えてきます。雲にさえぎられている時でも太陽は照り輝いているのです。

(5) こうした教えを私が説くのは、その真実性をこの目で確かめているからです。その結果として私は、宇宙の大霊すなわち神とその無限の力に全幅の信頼をおいています。その力は誤ると言うことがありません。人間は欠点のゆえに、弱点のゆえに、汚れゆえにしくじると言うことがあります。しかし失敗は成功する方法を学ぶ手段でもあるのです。

(6) 生命は一本調子のものではありません。不活性のものでもありません。自然は真空を嫌います。生命とは活動であり、発散であり、振動です。常に動きがなくてはなりません。大ていは前向きのもので、時として後退することもありますが、一番いけないのは動きを止めてしまうことです。

(7) 後退のやむなきに至ることはあります。が、後退すると言うことは、そのあとの一段と大きい前進の喜びを教えてくれることでもあります。時には俗世の喧騒から身を引くことも大切です。そして内的自我に静寂をもたらすことが出来るようでないといけません。

(8) 魂は平穏・静寂・平静・受容性・調和の中で最も活発になります。皆さんは目覚めている時よりむしろ睡眠中に霊的活動を活発に行っていることがよくあります。そのとき力と導きを得ておられるのです。

(9) 困難(タフ)な仕事は頑健(タフ)な人間にあてがわれます。タフな人間にやさしい仕事をあたえるのは無駄と言うものです。厳しい使命が与えられると言うことは、その人が霊的に有能であるとの指標です。無知と迷信との戦いに臨む将軍は厳しい教錬によって鍛えられていなければなりません。

さもないとその任に耐えられません。ですから、矛盾しているように思えるかもしれませんが、仕事が困難であればあるほど、それだけ成就されるものも大きいと言うことになります。

(10) 霊的知識を手にした者にとって大切なことは、二度とこの世的な悩みごとのために塞ぎこむようなことがあってはならないことです。悩みごとは影にすぎません。実在ではないのです。実在は霊です。霊とは内部の神性です。それがあなたに生命を与えているのです。内にも外にも霊に勝る潜在力は存在しません。

(11) あなたが人間であり、それゆえに転ぶこともあることは私も知っております。ですが、悩みごとが次第に大きく感じられてきた時、そこでしっかりと踏みとどまり、いかなる悩みごとも、実在である霊の光を曇らせることは出来ないのだと言う認識を新たにすることができれば、心晴れやかとなり絶対に克服して見せるとの信念が湧いてまいります。

これは実に厳しい教訓ではありますが、もし楽に達成できるものであれば、求める価値はないことになります。両手に花とは参りません。何かを成就せんとすれば、まず自我を鍛えないといけません。鍛錬の必要のないほどのものであれば、自我の開発にはつながりません。

(12) 地上での生活は一日一日が挑戦課題であり、いかなる次元の問題であれ、自ら克服すべきものとして受け入れるべきです。内部の霊性さえ発揮させれば、前進を阻むものは何一つありません。

(13) 私が摂理をこしらえているのではありません。私に許されているのは摂理がこうなっていますと申し上げることだけです。毎朝の到来はより高い霊性の開発の可能性を秘めた一日の到来を意味します。

その一日が終わった時に少しでも霊性が高まり、人間的に大きくなり、明日がもたらすものを受け入れるのによりふさわしくなっている、そういう一日とする気迫で毎朝を迎えましょう。

(14) 日々の生活でいかなる問題が生じようと、それによって気が滅入るようなことがあってはなりません。私はバラ色の人生、何の苦労もない楽な人生をお約束することは出来ません。

お約束ができるのは霊的存在としての本来の生き方に徹していれば、必ずや霊的向上が得られるということです。そうなって初めて物質の世界へ誕生してきた甲斐があったことになるのです。

(15) 真理と言うものは童子の如き素直な心になり、無知が生んだ過去の誤った概念から解放された時には、いとも簡単に理解できるものです。

(16) 物質は一種の障害物であると言う見方も出来ます。鈍重で、もどかしくて、活気がありません。それに引きかえ霊は軽快で、繊細で、鋭敏です。が、その霊も地上で自我を表現するには五つの物的感覚を使用しなければならないのです。

例えてみれば巨匠が粗末なバイオリンを使って演奏するようなものです。巨匠の魂には音楽的インスピレーションが湧き出ていても、バイオリンが粗末であるために、その繊細な響きが出せません。人体はまさに土の塊です。しかし、地上で生活するにはそうした器官に宿るしかないのです。

(17) 何時も明るく楽天的で愉快な気分を忘れないようにしてください。うなだれてはいけません。背後霊にとって最も働きかけやすい雰囲気は、陰鬱さや落胆や絶望感のない状態です。そうした陰湿な感情はあなたのオーラを包み込み、背後霊にとって厄介な障害となります。

(18) 賞も罰も自分でこしらえているのです。自分で自分を罰し、自分で自分に褒賞を与えているのです。それがいわゆる因果律、種まきと刈り取りの原理です。その働きは絶対です。

(19) 人のために役立つことをする者に呑気なバラ色の人生は望めません。美しいバラにもトゲがあります。霊的な精進の道は厳しい試練の連続です。進むにつれて見慣れた標識が遠のいていきます。

(20) 種子が暗い土中に植え込まれるのは、生命活動を開始する為の養分を摂取するためです。人間の魂も同じです。死後に始まる本当の生命活動に備えて物的体験と言う魂の養分を摂取する為に、この地上と言う物的世界へ送られてくるのです。

(21) 人生体験の全てがそれぞれに大きな生命機構の一部としての意義を持っております。およそ歓迎したく体験ない、悲しいこと、辛いこと、嘆き、落胆、苦悩、痛み等々も魂にとって掛けがいのない価値を持っております。その有難さは地上にいる間は実感できません。

地上人生の価値の明確な全体像が理解できるようになるのは、肉体を離れて煩悩から解放され、局部に捉われずに全体を眺めることが出来るようになった時です。逆境の中にあってこそ人間性が鍛えられ、悲哀の中にあってこそ、魂が強化されていることが分かります。

(22) その日一日、その場の一時間、今の一分・一秒を大切に生きることです。明日のことを思い患うことなく〝今〟と言う時に最善を尽くすのです。あなたが煩悩を持つ人間的存在であり、未塾であることは、神は先刻ご承知です。だからこそ地上に来ているわけです。

もしも完全であれば今そこに存在していないはずです。地上生活の目的はその不完全なところを一つでもなくして行くこと、それに尽きます。

(23) 人の為に何かをしてあげようとする時、それが当を得たものであれば、それに必要な手段が必ず用意されます。無視されることは決してありません。何もかも自分で用意しなければならないと言うものではありません。何かが生じた時は必ず援助の手が差し伸べられるものです。

(24) 危機に立ち至ったら、それまでの過去を振り返って、お先真っ暗の絶体絶命の時に道が開かれてきたことを思い出して下さい。そこに背後霊の導きがあったのです。それはこの後も決して見棄てることはありません。

(25) 宇宙間の全てのことが知れるようになっております。全てをしろしめすための、高級霊による一大組織があるのです。その中には一度も物質界に降りたことのない霊もおります。全てが大霊の計画の直接の実行者です。

総合的な基本計画と言うものがきちんと出来上がっており、その中にすべてのもの、すべての人間に対する配慮が為されております。私がすべてのことは佳きに計らわれているから安心なさいと申し上げる根拠はそこにあるのです。

(26) 地上のいかなる賢人も、問題のすべてに対する回答を手にすることはできません。三次元の世界に閉じ込められている以上、叡智の全てを手にすることは不可能なのです。その三次元の殻を破らないことには悟れないことがあるのです。

そこに信じることの必要性が生じるわけです。私は〝信仰だけではいけません。信仰に知識を加えなさい〟と申し上げていることは事実ですが、その段階をさらに進むと、その知識にも三次元ゆえの限界がある為に〝信じる〟しかない段階に至ります。すべてを理性で片付けるわけにはいかなくなった時、直感的洞察力の必要性が生じます。

(27) 私が〝信仰〟と言う用語を用いる時、それは何の根拠も論理的背景もなしに、好きなように信じると言う意味ではありません。知識と言う基盤を持ち、霊的実在について疑い抜いた末に生まれる確実な根拠の上に築くものであらねばなりません。

(28) あなたが人の為に役立つことをしようと努力する時、必ず背後には複数の進化せる霊が集結して援助してくれます。決して見棄てておきません。と言って、それで物事が楽に成就されると期待してはいけません。必ず困難は付きまといます。面倒なことも生じます。が、きっと成就されます。

霊の世界からの協力者は決して降参しません。あなたが投げ出さない限り、いつまでも、勝利するまで味方になってくれます。

(29) 地上は困ったこと、厄介なことだらけです。価値観を見失い、優先すべきものを履き違えて居る者が多すぎるために、暗く陰鬱で、しかも暴力沙汰の絶えない、悲しい世界となり果てております。善の勢力と悪の勢力とのせめぎ合いが果てしなく続いているのです。

そうした中で私達が一番頼りにするのは、霊的真理に目覚めた人たちです。邪悪な勢力の攻撃にもたじろぐことなく堂々と対処できるのは、内部に秘められた霊力と、すでに発揮しておられる霊的能力のお陰です。

(30) 私が光栄にも地上世界の霊的新生の仕事に携わってきたこれまでの永い年月を振り返って見て言えることは、いかに陰鬱な影に被われても、それはあくまでも一時的に光を遮っているに過ぎず、永遠の太陽は常に輝いていると言うことです。

これからも皆さんの近親の霊とともに、私も皆さんが最善を尽くしておられる限り、生活に必要なものは不自由しないように取り計らって差し上げます。

(31) 難題に尻込みし、真理普及の厳しい最前線から撤退していく人のことを気の毒に思ってあげなさい。もともと本物の理解が出来ていなかった者ならいざ知らず、一度でも魂が感動し真理の光を見たものであれば尚更気の毒なことです。

私達霊界の者にとって、正しい知識を手にした者がかくあるべきという規準にそぐわない振舞をする姿ほど、見るも悲しいものはありません。

(32) 私達はお互いに欠点を具えた人間的存在です。もしも完全であれば今こうして集い合っていることもないでしょう。完全性の成就は永遠に続く道程です。知識の全てを手にすることは不可能なのです。今あなたが置かれている生活条件そのものが、あなたが獲得し吸収していくものに制約を加えるからです。

(33) 目の前が真っ暗となり、最早物質の世界には頼りになるものは何もないかに思えた時に啓示が与えられます。

それは、まず生命は霊であるが故に死後も永遠に続くものであることを証拠によって得心することに始まり、やがて霊的な恩恵に授かることによって、次は自分のもとを訪れる人々の悩める心を癒してあげることが出来るようになります。その一つ一つの道程に計画があるのです。

(34) あなたの愛する人達、それからあなたを愛してくれている人たちは、〝死〟を境にして物質的には別れ別れになっても、霊的にはいままで通りにつながっております。愛は死よりも強いのです。愛は霊力と同じく宇宙で最も大切なエネルギーの一つです。

(35) あなた方(霊的知識の大切さに目覚めた人)は地上のいかなるものにも勝る力すなわち霊力の特使です。それは有難い名誉であると同時に大変な責務でもあります。頂いている愛と尊厳をいささかでも傷つけることがあってはなりません。

いついかなる時も寛容的で哀れみ深く、同情的で心優しい態度で、霊的真理の普及を心掛けないといけません。それが理解してもらえず冷たくあしらわれた時は、その人のことを気の毒に思ってあげることです。聞く耳を持っている人には大いに援助の手を差し伸べてあげることです。

単純の様で実は奥の深い真理です。何時何処に居ても人の為に役立つよう精一杯尽力する。われわれの側から要求するのはそれだけです。

(36) すげない拒絶にあい酷しい批判を浴びせられても気になさらないことです。その人は折角のチャンスを目の前にしながら、それを受け入れる用意が出来ていなかったことを意味します。

むしろその人のことを気の毒に思ってあげなさい。神は人間の一人一人が地上生活の期間中に必ず一度は生命の基盤である霊的真理を知るチャンスを用意してくださっております。

(37) 霊的なものと物的なもののいずれにも偏らないように配慮しないといけません。物的なことに向けておられる関心よりもっと多くとは申しませんが、せめて同じ程度の関心を霊的なことにも向けるよう努力してください。

敢えて断言しますが、人の為に自分を役たてようとする行為を真摯に、謙虚に、そして敬虔な気持ちで実行する時、その為の手段が得られなくて挫折するということは決してありません。

(38) 人間は宇宙最大の力の貯蔵庫です。霊の力を秘めていると言うことです。それを圧殺したり、征服したり、地上への顕現を阻止したりすることは出来ません。あなたの地上人生が終わった時に、それまでにたった一つの魂でも救ってあげることが出来れば、あなたの地上での存在は無駄でなかったと言えます。

(39) 生命の基盤である永遠の霊的原理を片時も忘れずに、それと調和して生きるように心掛けなさい。それが、“存在〟のより高い次元と調和して生きる者に必ず訪れる冷静さと憩いと落着きと安らぎと内的静寂を確保する道です。

(40) 一旦霊的覚醒に到達したら、高次元の界層およびそこの生活者との間に磁気的なつながりが出来ます。その時からあなたは常に彼らの保護下におかれます。もたらされた啓示にしがみつき、それを全生活の基盤となさることです。

その基盤を揺るがせる力は物質の世界には存在しません。これから訪れる日々もその基盤の上で迎え、不敵の信念で生きることです。地上には何一つ恐れるものはないのです。

(41) 心配からは何一つ良いことは生まれません。心配と恐れはあなたにとって味方ではなく敵です。不屈の心、冷静さ、自信、決意、こうした資質は悟りを開いた魂から生まれるのです。あなたはこれまで立派に導かれてきたのです。これからも導きがあります。

疑念が生じた時は一旦心の働きを止めて内的静寂の世界へ引っ込み、霊的資質の発現を待つのです。この地上人類の霊的覚醒の為の戦いに参加している将校は、戦況がいかに苦しくなっても、盤石の信念をもってその持ち場を死守しないといけません。

その為にこれまで厳しく鍛えられ試練にさらされてきたのです。背筋をまっすぐにしなさい。

(42) 取り越し苦労は最悪の敵です。精神を蝕みます。霊界から送られてくる筈の援助の通路を塞いでしまいます。あなたを包んでいる物的・精神的・霊的雰囲気を乱します。理性の敵でもあります。透徹した人生観と決断力と言う二つの人生最大の味方の妨げになります。

(43) 心配の念が心をよぎった時は、実質のないただの影に過ぎないものとして、一刻も早く放り棄てることです。考えてもごらんなさい。光の方が闇に勝るのです。知識の方が無知に勝るのです。真理は迷信を打ち破り、必ずやその存在価値を発揮します。

(44) 私達がお教えしようとしている人生の秘訣は、今を大切に生きると言うことです。明日のことを思い煩ってはいけません。あなたには霊的知識があります。どこかに仕舞い込んでおいてはいけません。それを全人生の基盤とするのです。その知識が生み出す自信を持って生き、決して悲観的になってはいけませんと言っているのです。

明日と言う一日を素敵な冒険と可能性をもたらしてくれるものとして、力強く迎えるのです。人生は陽気さと快活さに満ちたものでなくてはいけません。心配の念は蹴散らしなさい。心配は無知と迷信の産物です。あなたは光栄にも素晴らしい知識の中で生きられる条件を手にしているのです。

(45) 笑顔のあるところに大霊の働きがあるのです。悩みの中にあっても笑いを失ってはいけません。それが出来るようになれば何事も必ず解決します。このことは私が永い間繰り返し申し上げてきたことです。俗世のことに悩まされて笑顔を忘れるようでは、まだまだ真理を悟ったとは言えません。

(46) 俗世のことは無視しなさいと言っているのではありません。物的世界で自我を顕現させている以上は、その世界での義務と言うものがあります。ただ、自分の中にも大霊が宿っており、それが自分を通じて働くのだと言う、この事実を忘れてはいけません。その力は物的世界のいかなる悩み事をも克服します。

(47) あなたに宿る大霊の力は、それを正しく認識することによってあらゆる邪悪、あらゆる病気、あらゆる障害に打ち勝ちます。そのことは既に二千年前にイエスが説いております。曰く〝神の御国はあなたの心の中にある〟と。

(48) 自分の内部に宿る威力を認識し、それを活用しさえすれば、克服できない困難と言うものはありません。それを如何にすれば活用できるかとなると、まずその能力を開発しなければなりませんが、ただ開発しただけでは駄目です。

高い波長に感応できるものでなければなりません。ではどうすれば良いのか、それは日常生活の中味を人の為に役立つもので満たして行くことです。そう努力することで霊性を高めるのです。自己中心的で俗世的過ぎると、波長は低いものにしか感応しません。

自我を滅却して利他的なことに無心に精励するほど、高い波長のものに感応するようになります。その時内部の神性が発揮されるのです。

(49) 一つの仕事を始めると、遅かれ速かれ難問が生じるものです。しかし克服できないほど大きな問題は生じません。先のことを心配してはいけません。

私も大きな歯車の歯の一つに過ぎません。歯車は確実に回転します。それを動かしている力は物質界と霊界とを包含する大宇宙(コスモス)を経綸している力なのです。その力が森羅万象を生み出したのです。

星雲を、太陽を、惑星を、大洋を、大海を、山を、花を、小鳥を、動物を、そしてあなた方人間を生み出したのです。それほどの大きな力が、あなた一人の人生にてこずるわけがありません。

私たちは人間の挫折を見たくて戻ってきた野次馬ではありません。私たちがお持ちした霊力はすでに地上に根付いております。その力を阻止できるものは地上には存在しません。背後霊に全幅の信頼を置きなさい。

(50) 肚(ハラ)を据えなさい。私がこの仕事を仰せつかった時、これが大変な仕事であること、多分それまでに体験したことのない大きな挑戦課題であることを聞かされました。そして用意された計画の説明を聞かされて私は、〝精一杯頑張ってみましょう〟とお引き受けしました。今はどうでしょう。活字のお陰で霊力が地球のすみずみまで行きわたっております。

(51) 気を引き締めないといけません。あなたは今、利己主義と貪欲と愚行、その他、混乱と悲劇と争いと憎しみの元凶である物質中心思想の恐ろしい産物との激しい戦いに参加しているのです。しなければならないことが山ほどあります。

背後に控える力は物質界の全勢力を結集したものよりさらに強力であるとの認識を持ってことに当たってください。あなたは何一つ恐れるものはありません。

(52) 右を向いたり左を向いたり後ろを向いたりしてはなりません。やってしまったことを悔やむのは間違いです。過去のページはすでに閉じられたのです。もう二度と開くことはできないのです。大切なのは今日です。明日の運命は今この時点で取る態度によって決まるのです。

(53) あなたが一人ぼっちでいることは決してありません。困難の中で一人で悪戦苦闘させられることはありません。例え目に見えず耳に聞こえず肌に感じられなくても、背後霊の影響が常にあなたを包んでおります。霊についての実相を理解しさえすれば地上世界は改革できるのです。

(54) 霊を完全に抑え込む力を持ったものは物質の世界には何一つ存在しません。霊は物的身体が生み出すいかなる力よりも威力があります。物事がうまく運ばないで人間関係が思うに任せぬ時は、いったん喧騒の現実界から静寂の世界へ引っ込むことです。

すると霊界から発せられる強力な愛があなたを包み、霊力を補給してくれます。これであなたはすっかり落着きを取り戻して現実の世界へ臨むことが出来ます。

(55) 物の見方考え方には常に柔軟性がなくてはなりません。柔軟性こそ霊的問題に処していく上での絶対条件です。独断主義は不毛、沈滞に堕していきます。常に自由な精神を維持していかなければなりません。霊力は無限です。これでお終いと言う限界がないのです。

あなた方が地上で手にする知識は死後に待ち受けている膨大な知識の宝に較べれば、そのほんの上っ面をひっかいた程度にすぎません。

(56) 地上人類は自らの力による救済を工夫していかないといけません。出来合い(レディメード)の方法はありません。型にはまった定石的手段と言うものはありません。

その為には先ず無限に展開する生命現象の背後には霊と言う永遠の実在があること、地上の人間は物的次元で営まれる俗世の存在であると同時に、物的身体を通して自我を表現している霊的存在であることを認識しないといけません。

(57) 物的身体も、神が意図されている通りに、地上生活を営む上での必需品を必要なだけ補給してやらないといけません。次にそれに宿る霊があらゆる独断的教理の束縛から解放されて、真実味も霊的価値もないものに忠誠をつくすようなことにならないようにしないといけません。

ひたすら真理の為にのみ精励すべきです。幾千年もの間束縛してきたドグマや教理のことで戦争したり、口論したり、しのぎを削ったりするような愚かしいことは止めないといけません。

(58) たった一つの魂を高揚してあげることが出来たら、喪の悲しみに沈む一つの魂に慰めを与えることが出来たら、意気地のない一つの魂に生きる勇気を与えてあげることが出来たら、人生に疲れ切った一つの魂に生きる力を与えてあげることが出来たら、それだけで十分にやり甲斐のある仕事と言えるではないでしょうか。

(59) 人間の一人一人に、いかなる病気でも治し、いかなる困難をも克服する力が宿されていることが、まだ理解されていないようです。窮地に置いて引き出すことのできるエネルギーの貯蔵庫を具えているのです。神の王国は各自の魂の中にあるのです。

この事実が何と理解されていないことでしょう。その深い自我に触れる方法は神の摂理に則った生き方に徹することです。しかし、どれほどの人がそういう生き方を心掛けていることでしょう。

(60) 生活は〝行い〟だけで成り立っているのではありません。〝言う事〟も〝思う事〟も生活の一部です。行為だけが大事と思ってはいけません。勿論行為が一番大事です。が、口にする言葉も心に思うことも、あなたの一部です。その思念がコントロールできずに、それに振り回されている人間が多いのは悲しいことです。

(61) 霊的真理に較べたら物質界のいかなる貴重品も安ピカものです。これから何千年も先まで生きられてから地上生活を振り返ってご覧になると、地上で欲しくて仕方なかったものよりも、地上で得た知識、地上で身につけた叡智の方が遥かに大切であることがお分りになります。

(62) 目先の結果だけで判断してはいけません。あなた方は物質の眼だけでご覧になっておられます。もし霊の目で見ることが出来れば、一人一人に完全な公正がいきわたっていることがお分かりになるはずです。

私は時折皆さんの祈りに耳を傾けてみることがありますが、もしも神がその願いどおりになさったら却って皆さんにとって好ましくない事態になるのだが、と思うことばかりです。

(63) 同じこの地球上に身を横たえる場所もなく、星空の下で寝なければならない人が大勢いるのです。風雨にさらされている人が大勢いるのです。その日の食べ物にすら事欠いている人がいるのです。そういう現実のもとで、あなたは今の自分の身の上について神に向かって不平を言う資格があると思われますか。

(64) 物質の世界に置いて誰かが奇特な行いをしようとする時、霊界に置いてそれを支援しようとする霊がすぐさま馳せ参じます。善行が無駄に終わることは決してありません。何故なら霊界側では人類の向上の為に役立つことをする人に何時でも援助の手を差し伸べる用意が為されているからです。

(65) あなたにとって全く見知らぬ霊、名前すら聞いたことのない霊でありながら、あなたの為に力になってあげたい一心で来てくれる霊が大勢いるものです。そういう霊は名乗りたがりませんし、見返りと言うものを一切期待しないものです。

(66) 人生は地上生活の間に何度か暗い影の時代を送らねばならないようになっているのです。その影の中に入ったら、それは人生の一部であって全部ではないことを自分に言い聞かせなさい。陰は太陽の光があるからこそ出来るのです。あなたの目には見えなくても太陽は輝いているのです。

(67) 陰は束の間の存在です。永久に続くものではありません。そのうち消えて、又光があなたの存在を照らします。手にした霊的知識、不変の基本的真理にしがみつき、地上生活で絶対に避けられない様々な問題に真正面から対処しなさい。

(68) 問題も困難も厄介なことも生じないような人生はあり得ません。地上がそういうところだからこそ、あなたもこうして生まれてきているのです。大切なのはそれへの対処の仕方です。内在する神性を呼び覚まして解決策を見出し正しい方向を選択する、そういう対処の仕方が大切です。そのことはよくご存じの筈です。

なのにそれが実行できずにいます。難問や心配事に足を取られて身動きできなくなり、実在でないただの影をやたらに大袈裟なものに考えてしまいます。物的なものはことごとく霊的実在のおぼろな反影であり、幻に過ぎません。

(69) 物質それ自体に存在はありません。霊によって活力を与えられて始めて存在を得ているのです。霊こそ生命であり、あなたが受けておられるエネルギーも宇宙の生命力とまったく同じものです。その意味であなたも創造活動に参加しているのです。正しい生き方、正しい考え方が身につけば、霊力がもたらしてくれる無限の恩恵に浴することが出来るのです。

(70) 正しい生き方、すなわち霊的知識に順応した日常生活を送れば、自動的にあなたは霊的に、精神的に、物質的に必須のものを思い通りに手にすることが出来るようになります。物的なものを最優先させようとする考え方がそもそも間違いなのです。

物的世界に置かれている人間としての義務、あるいは自我の表現器官としてのその身体にとって大事なものも無視しなさいと言っているのではありません。心に宿す思念が霊的摂理に順応したものであれば、霊と精神と身体とが調和し一体となって働くので、必要なものは必ず手に入るようになると言っているのです。

(71) そもそもあなたがこの地上へ生まれてきたのは、陰性のもの、邪悪なものを克服して霊的に一段と強くなる為です。それが容易に達成されるとは申しておりません。大変難しいことです。しかし霊的価値の高いものがそう簡単に達成される筈がありません。なぜなら、それには霊的視野と焦点を常に誤らないようにする為の強烈な精神的鍛錬を要するからです。

(72) 純粋に物的な弱みがバランスのとれた生き方を困難にさせる時期があることは確かです。が、それも内部の霊力を駆使することによって必ずや克服できます。その内部の兵器庫にはマイナスに作用するものと葛藤に必要な武器の全てが揃っており、これに勝るものはありません。

(73) 気楽な道は前途に霊的な目標を持たない人に任せればよろしい。霊的な鍛錬とそれに伴ってもたらされる霊的な豊かさを求める者には、厳しい道が用意されます。霊的褒賞は気楽な道を求める者にはもたらされません。もしそうでなかったら、その褒章はあえて求めるほどの価値はないことになります。

戦いを挑み苦しみ抜いた末の勝利を得る方が、何の挑戦課題もなく呑気に生きているより遥かに上です。魂が自我に目覚め、内在する神性が表現の機会を得るには、必死に努力するその最中に置いてです。

(74) いかなる事態に立ち至ろうと、それはあなたにとっての挑戦課題として受け止めなさい。魂はその根源において神性を帯びているが故に、その挑戦を真正面から受け止め克服し一段と強力になっていくだけの力を秘めております。いかなる事態も歓迎し、決して悲観的になったり愚痴をこぼしたりしてはいけません。

あなたほどの霊的知識を備えた方ならば、毎朝の訪れを内的な喜びを持って迎えることが出来てしかるべきです。永遠の魂を傷つけるほどの事態は決して起こり得ないからです。

(75) 偉大な霊ほど困難な地上生活を耐え忍ばねばなりません。魂の偉大さは試練と洗練の過程を経ずしては達成されません。つまり霊性の強度が見せかけのものでないことを、その美と光輝と雄大さの中で示せるようでないといけないのです。困難は魂にとって薬です。

身体にとっても薬になることがあります。内部の潜在力を表面に呼び出す為の挑戦課題です。かくしてその人は成長し発達し開眼して神性が発揮されるようになります。

(76) 地上生活の究極の目的は失敗から教訓を学び、転んでは立ちあがり、日々の生活の中の冒険的な出来事に一つ一つ対処し、しかも他方に置いては、自分が本来は霊であり肉体は道具に過ぎないこと、従って大切なのはその霊に及ぼす影響であることを忘れずに、常にそれを優先させて基本的な霊的真理にしがみつくことです。

(77) 霊と精神と身体を支配している自然の摂理と調和した生活を送っていれば、健康が維持されるのみならず、進むべき道をしっかりと踏みしめているとの確信を覚えるようになります。その霊的自覚はますます大きくそして強くなって参ります。それが存在と言うものの、そもそもの目的なのです。

(78) 挫折もまた人生の一コマです。抑止と照合の作用を抜きにした人生はありえません。思い切り前進出来る時期があるかと思えば、進もうにも進めない時期があります。それはそれで意義があるのです。摂理は完ぺきで、必ず作用し、各自がそれ相当のものを受け取るようになっているのです。

(79) 一番厄介なことは、人間が物的なものに浸りきってしまい、人生の全ての基盤である永遠の霊的原理を忘れてしまうことです。あなたがもし思い通りにならないからと言って悩んだり、失望したり、イライラしたりするようであれば、それはまだあなたが一番大切なことは本当のあなたである〝霊〟に係ることでありその〝身体〟ではないと言うことを理解していない証拠です。

(80) 塞ぎこむのは止めなさい。誰の人生も孤独感を味わう時期があるものです。周りにどんなに親しい人が居てくれても孤独に思うものです。が、そこから意気消沈の状態へ落ち込んではなりません。あなたほどの霊的知識を手にされた方なら、地上にも霊界にも、恐れるものは何一つありません。

(81) 物的に孤独だからと言って霊的に孤独であるわけではありません。霊的意識が芽生え潜在的な能力が発現すれば、物的に孤独であっても、辺りに霊的なものがいろいろとあることに気づかれる筈です。その多くは愛と情と血縁の絆によって結ばれていることが分かるようになります。

(82) 真理はたった一人の偉大な人物によって広められるものではなく、物的世界の無数の人間を通して浸透していくように計画されております。霊力の働きかけがある限り人類は常に進歩し続けていることを忘れてはなりません。

その働きかけに魂を鼓舞された人間の思念、欲求、衝動は実に強烈です。外部からのいかなる力によっても抑え込まれるものではなく、これ以後も抑え込まれることは決してありません。今まさに地球全体を新しい思念が無数の人々の魂を揺さぶりつつあります。霊と精神と身体の開放を切望し、当然の権利として主張し、断固として要求する、その思念です。

(83) われわれは、われわれ一人ひとりを使用せんとするより大きくより高い存在の道具であることを忘れないようにしましょう。いわば“導管”の様なものであり、それを通して慰安の芳香が送り込まれ、地上の悲しみを癒します。無限の目的を持った霊力が存在し、それには人類が直面するいかなる問題をも解決する力が秘められていることを忘れないように致しましょう。

(84) 地上はいがみ合い、恨み合いと言った不和に溢れております。悲哀と悲劇と流血の連続です。それで居ながらお互いに、〝我々に平和を与えたまえ〟と祈ります。私は皆さんに、内部に秘められている神性を自覚しなさいと申しあげたいのです。

あなた方のお一人お一人が大霊なのです。大霊の無限の霊力が潜在しているのです。それを開拓し表面に出す努力をすれば、有限であるが故の束縛を克服できる筈です。

(85) 暴風が荒れ狂った後に必ず春の新しい生命が誕生します。見渡す限り雪に被われた荒涼としている時は、春の新鮮さを窺い知ることは出来ません。しかし春は必ず訪れます。

(86) 勇気を持って進みなさい。落胆や失敗がないと言うのではありません。これからも数多くの失敗と落胆があることでしょう。しかし、いかなる事態にあってもあなたの背後には、困難に際しては情熱を、疲れた時には元気を、落胆しそうな時には励ましを与えてくれる霊が控えてくれていることを忘れてはなりません。

一人ぼっちと言うことは決してないと言うことです。大霊が使者を派遣して下さっております。私もその中の一人です。

第12章 落ち穂集
(1) 私達の霊団は悪魔の使いではありません。皆さんを混乱の袋小路に誘い込もうとしているのではありません。理解と自信と安らぎと幸せを生み出してくれる単純な霊的真理をお教えしようとしているだけです。言い替えれば、少しでも神に近づけてくれる摂理を啓示してあげようとしているのです。それが私達の使命なのです。

(2) 皆さんも神の僕です。皆さんの労苦を通して大霊の御心が地上に行きわたるのです。その労苦の中に大きな喜びがあることを知ってください。なぜなら、多くの人々の生活の中にかつては思いもよらなかった新たな希望をもたらしてあげているからです。

皆さんは霊の力が地上へ降下するお手伝いをなさっているのであり、それは神の摂理が正しく地上で作用するお手伝いをしていることにほかなりません。それが物質世界の苦しみや悲しみを取り除くことにもなるのです。

(3) 人間はなぜ光明よりも暗闇を好むのでしょうか。なぜ知識よりも無知を好むのでしょうか。なぜ叡智よりも迷信を好むのでしょうか。なぜ霊の生きた真理よりも形骸化した教義の方を好むのでしょうか。なぜ霊的叡智の泉よりも埃だらけの神学の方を好むのでしょうか。

(4) 地上の人間は流血によって問題が解決されるかに考えますが、これまでの歴史でそのような方法で問題が解決した例(タメシ)はありません。流血は無益であり、結局は徒労に終わります。

なぜ人類は折角神から授かっている理性が使えないのでしょうか。なぜ出来るだけ多くの敵を殺すのが唯一の解決策だと考えるのでしょうか。敵を一番多く殺した者が英雄とされる。・・・地上と言うところは不思議な世界です。

(5) 古い価値基準が棄て去られ、全ての権威が疑義を差しはさまれて影響力を失墜しつつあるこの混乱の時にあって、私達は絶対に威力を失うことも誤ることもない〝摂理〟と言う形での神の概念を説きます。それこそ宇宙の絶対的権威者なのです。物質の世界の人間がその摂理に従って生きるようになれば、平和と秩序が再び支配します。

(6) 地上の人々、なかんずく霊的知識を手にされた方たちが、せめて一度でも、物的五感を超えて、すぐ身の回りにある霊的実在を認識してくれれば、と言う私の願いは切なるものがあります。

(7) 悩みの種が尽きることはありません。だからこそ地上に来ているのです。すなわち問題を一つ一つ片付けていく中で、新たな力、より大きな発展を獲得していくのです。次から次へと生じる問題を挑戦課題として受け止め、一つ一つ処理していくことです。

(8) 私は既に多くの方が直感的に、あるいは理性的・論理的に理解しておられる単純な真理を改めて説いているに過ぎません。その真理の仕入れ先は霊界です。しかもその上層界です。そこでは全ての人が実在を目のあたりにします。

原因と結果とが即座に働き、他への思いやりの多い人が少ない人より偉いとされ、地上時代の見栄や肩書は全て剥ぎ取られ、魂が丸裸にされて、長所も短所も衆目にさらされてしまいます。そういう世界で学んだことをお届けしているのです。

(9) いかなる聖職者も魔法の力は持ち合わせません。水を他の何物にも変えることは出来ません。司祭が赤子の顔に水を二三滴たらしたからと言って、それでその子の地上生活に、あるいは死後の生活に、いささかも変化は生じません。

その二三滴の水は、垂らす前も、垂らした後も、相変わらずただの水に過ぎません。その水の科学的成分を変え法則と違ったことを生じさせる力は、司祭にはありません。

(10) 治療家が苦痛を取り除いてあげることが許されるのは、それが霊的自我の目覚めへ繋がるからこそです。病気を治してあげることが立派な仕事であることは違いないのですが、治療家にはそれよりもっと大切な仕事があります。

その病気が縁で訪れてくる人の魂を目覚めさせ、真の自我を発現させてあげることです。それに比べれば、症状が取れると言うだけの治療は大して重要ではありません。

(11) 大切なのは魂に感動を覚えさせてあげることです。人間は大ていの場合、大霊から授かっている神性の炎が小さく弱くなっております。それを大きく燃え上がらせてあげるのです。その体験の中から新たな悟りが生まれます。

そういう体験をさせてあげる為の特別製の聖衣がいるわけではありません。特殊な養成所に通う必要もありません。ひたすらに人の幸せを願い、少しでも霊的資質を発揮する生活を心掛け、何時でも霊力の通路として使用してもらえる態勢を整えておけば、それだけで良いのです。

(12) 人生で最も貴重なものは入手が最も困難なものです。困難でなかったら貴重とは言えません。もしも霊の褒章が安易に手に入るものであれば価値はないことになります。ですから、困難を歓迎するのです。尻込みしてはなりません。それを逆手にとって支配下に治め、それを克服していく努力の中で、あなたの未開発の能力が引き出されるのです。

(13) 時には思い切り涙を流すことも大切です。感情を発散させることになり、すっきりとして気分が和らぎます。意地を張って感情を押し込めたままにしておくよりも、涙とともにその感情を流し出した方がよいことがあるものです。

(14) 私は地上に大勢の友をこしらえることが出来て、とても幸せ者であると思っております。私はただ、私に送られてきた基本的真理を英語と言う地上の言葉にくるんでお届けしているだけです。受け入れる用意の出来た人が受け取ってくだされば、それでよいのです。

(15) 真理を知らずに間違ったことをしているのであれば、まだ弁護の余地はありますが、聖職者としての義務を知っていながら自分の栄達の方を優先させているものは一体どう弁解するつもりでしょう。

(16) 私たち霊団のものは地上的環境と言うままならぬ条件のもとで精一杯努力しております。そこで、皆さん方に要求するのは〝協力〟のふた文字だけです。私たちが提供するのも〝協力〟です。命令的な指示はしたくありません。強制しようとは思いません。

人の為に役立ち自我の開発にも役立つことをするには人間はどうすればよいかをお教えすることにとって、皆さんの愛と理性に発する協力を獲得したいのです。

(17) 皆さんはキリスト教の聖職者にも、ユダヤ教の聖職者にも、世界のいかなる宗教の指導者にも出来ないことがお出来になります。神は聖なる職にある人だからと言うことで霊力をお授けになるのではありません。霊力を授かるにふさわしい資格を具えた人にお授けになるのです。

(18) 人生のどこかの段階で神は子等に真の自我の発見とその存在意義に目覚める為の機会を提供します。その為の前提条件として、魂の琴線に触れる体験が必要です。

(19) 魂が感動を覚えないうちは、霊力は働きません。ですから、例えば病気そのものは治っても、その体験によって魂が何らかの感動を覚えるまでに至らなかったら、その治療は本来の目的を成就出来なかったことになります。

(20) 私たちがこうして地上へ戻ってきた目的は、物的現象の裏には霊的実在があることを披露することによって、人間が幻影を追い求めることを止め、この千変万化の地上生活の複雑な諸相を律している基本的な真理を学んで下さるように導くことです。

(21) あなたは人間です。過ちを犯します。判断を誤り、しくじることがあります。人間性は頑強に出来上っていない故に、人間は常に弱みを背負って生きています。人間が人間であることの証しは、欠点を持っていると言うことです。だからこそ今あなたは地上へ来ているのです。

(22) 完全性など、とても地上で成就出来るものではありません。ですが、いずれお出でになるこちらの世界の為の霊的な準備となる教訓を学ぶことは出来ます。

(23) 人生は両極性から成っています。作用と反作用、同等と正反対といった具合ですが、それは同じ硬貨(コイン)の両面です。ですから憎しみが愛に変わることがあると同時に、不幸にして愛が憎しみに変わることもあるわけです。両者は同じ力なのです。問題はその力をどう働かせるかです。

(24) このサークルに来られる方に強調しておきたいのは、この私と言う存在は進化の頂点を極めた、従って誤りを犯すこともなくなった、完全な霊の教師ではないと言うことです。そんなものはこの世には存在しません。向上すればするほど、まだその先に向上すべき余地があることに気づくことの連続なのです。

(25) 私が説く真理の最大の価値は、それが宇宙の叡智の宝庫から取り出した崇高なものであると言うことです。と言って私は、それを無理にでも信ぜよとは申しません。私の言う通りにしなさいとは申しません。また、これ以外に神すなわち宇宙の大霊へ近づく道はないなどと豪語するつもりもありません。

(26) 私に断言できること、絶対の自信を持って申し上げられることは、霊的な真理も人間の理性と知性と体験によるいかなるテストにも耐えうるものだと言うことです。と言って、仮にあなたが〝こんなものは受け入れるわけにはいかない〟と拒否なさっても、別にバチは当たりませんから心配は御無用です。

(27) 取り越し苦労はいけません。心配は無知から生まれます。真理を知って〝知識の光〟の中で生きなさい。

(28) イースターは全生命の復活を祝う時です。それは太陽系の全天体が一丸となって、地上世界が悲劇と苦痛と災厄(サイヤク)から復活して、より意義のある人生、真実の生き方に目覚めるようにと祈る、その祈りのシンボルなのです。

(29) 地上世界には霊的新生が大いに必要です。しかし今や大霊の造化の目的の為に自分を役たてたいと言う者が増え、物欲による横暴が駆逐されるにつれて、大霊の意思が除々にではありますが行きわたりつつあります。

(30) 私はイースターのこの時期になると、他の大勢の同志とともに本来の所属界へと舞い戻り、物的条件によって制約された人間の理解力では到底理解できない霊的生命の喜びをしばし満喫し、敬愛する指導者に拝謁し、その崇高なる叡智に触れ、その強烈なる霊力を頂き、

畏(カシコ)き神々の集える審議会へ出席を許され、そこで計画がどこまで進捗したか、どこがうまくいっていないかについてのご指導にあずかり、絶え間なく続く善と悪との戦いの為に案出された次の計画を仰ぎます。

(31) 出来ることならば皆さんをご一緒にお連れして、地上の為に働いている霊団の面々をご覧いただいて、その光輝の素晴らしさをお見せすると同時に、その光輝を発している畏れ多き神霊がかつて地上では何と言う名で呼ばれていたかをお教えしたい気持ちです。しかし、その前に皆さんは、あまりの崇高さに尻込みなさることでしょう。

地上時代の名前はすっかり意味を失っております。それよりも、現実にそうして地上のために活動しておられるその影響力の方が大切です。そうした方々によって催される大審議会の模様を一度でもお目に掛けることが出来たらと思うのですが・・・

(32) 暗黒の勢力と既得権に胡坐(アグラ)をかいている宗教界との戦いのほかに、もう一つ〝心配の念〟と言う敵との戦いもあります。無知から生じる無用の心配の念が無数の人間の心に巣食っております。心配と言うのは想像の世界にしか存在しないものです。実在しないと言う事です。

それで私は心配の念を棄てなさいと繰り返し申し上げるのです。解決できない問題と言うのは絶対に生じません。重すぎて背負えない程の荷は与えられません。常に明るく確信に満ちた雰囲気の中で生活していれば、必ずや援助し導いてくれる勢力を呼びよせます。

(33) 洗礼の儀式は少しも魂を聖めることにはなりません。地上生活にあって少しでも完全に近づくように、日常生活の中で内なる神すなわち霊性を一つでも多く発揮するように努力することから、本当の聖らかさが生まれるのです。

(34) 科学の発達によって精巧な機器が発明され、それによって宇宙の新しい側面が次々と明らかにされるようになりましたが、それは決して新しいものを生み出したわけではありません。無窮の過去から働き続けてきた法則の存在を今になってやっと知ったと言うに過ぎません。

(35) まったく新しいものが創造されると言うことはありません。何が生まれても、それは既に存在していたものの一部分に過ぎません。大自然の法則と一致しないものが発生することは絶対にありません。法則はすべてを包摂しているからです。人間がその存在に気づくか気付かないかの問題です。

(36) クリスチャンがイエスの本当の生き様を見習い始めた時、歴史に画期的な新時代が始まったことになりますが、今のところはまだ始まったとは言えません。私の目にはその兆しが見えないのです。イエスの名を口にするだけではイエスに忠誠を尽くすことにはなりません。

その生き方を見習わないといけません。それが出来ないでいてこの私に〝クリスチャン〟と言う言葉を用いないでください。イエスも言っているではありませんか・・・〝私に向かって主よ主よ言ってくれる者すべてが天国へ召されるわけではない。天の父なる御意志(ミココロ)を実行する者こそが召されるのである〟と。

(37) 全ての存在に神の息吹が掛っております。だからこそ物質界の最下等の生命体も全知全能の神とつながっており、地上で最高の聖人・君子ともつながっていると言えるのです。同じ意味で極悪非道の犯罪人と高潔な聖人とは兄弟なのです。どちらにも同じ神の息吹が宿されているのです。

(38) 霊能養成の為に費やす時間が無駄に終わることは決してありません。何の反応もなくて焦れったい思いをなさる気持ちは私にもよく分かります。が、そうした状態のもとで着実に進歩していることを知って頂きたいのです。背後霊との絆が強化され、霊的感覚が鋭敏さを増しております。成長と開発と進化が一刻の休みもなく続いております。

(39) 知識を求める人にはちゃんとその人なりのものが用意されているものです。ですが、皆さん方のように真理普及の第一線に立つ者は、自ら冒険を求める勇気がなくてはいけません。時には予想もしなかった危険にさらされることも覚悟しなくてはいけません。

未踏の奥地にまで踏み込む用意も必要です。しかも、真理に導かれるところならどこへでもついていき、間違いであることが分かったものは、例え古くから大切にされている教えであっても、即座に棄て去るだけの心の準備が出来ていなくてはなりません。

(40) 患者に手をあてがうと言うことは、言ってみればオモチャ(玩具)で遊ぶ程度のことです。大切なのは患者の魂が、目を覚まして真実の自分を発見することです。私にはこれ以上にうまい表現が思いつきません。

(41) 霊とは内部の神性の火花です。心霊治療はその火花を大きな炎と燃え上がらせる仕事です。それが心霊治療の本来の目的です。

(42) 私のことをいろいろと話題にして下さるのは良いとして、シルバーバーチと言う一個の存在のみに関心を向けるのは良くありません。私は私より遥かに偉大な霊から送られてくるメッセージを皆さん方にお届けしているだけです。

光り輝く存在、大天使団によって組織された政庁があり、大霊の計画の実質上の責任をあずかっているのです。私はその使い走りに過ぎません。そのことを光栄に思ってはいますが・・・・・・

(43) 高級霊は人間を霊的知識をもたらすための手段・・・真理を普及し、間違った考えを改め、迷信を駆逐し、光明を少しでもいきわたらせ、苦痛・悲劇、不幸に終止符を打ち、その結果として幸せと安らぎと繁栄をもたらすための手段とみなしております。

(44) 証拠、証拠とおっしゃいますが、証拠を手にすることと魂の成長とは何の関係もありません。真理を受け入れる能力は、あなたの魂が霊界のどの次元まで突入できるかによって決まります。つまり真理を悟る能力がどこまで進化したかに掛っております。

それを証拠の入手と混同してはなりません。両者は必ずしも並行して進むものではありません。死後にも生命があることを立証する立派な証拠を手にしていながら、霊的には一向に目覚めていない人がいるものです。

(45) あなたは〝霊〟だからこそ生きているのです。霊だからこそ墓場を超えて生き続けるのです。霊だからこそ永遠に生き続けるのです。それには〝教祖様〟は何の関係もありません。生得の権利であり神からの遺産の一つなのです。

(46) 現代の啓示も過去の啓示と同一線上にあります。私たちはイエスが説いた真理を否定していませんし、そのイエスもモーゼの説いた真理を否定しませんでした。われわれの後にくる人も、私たちが今説いている真理を否定することはないでしょう。

しかし未来の子は一段高い進化のレベルにありますから、啓示される真理も今の時代に啓示されている真理より進歩したものであらねばなりません。

(47) 日常生活に置いて霊性を発揮すればするほど大霊に近づきます。あなた方一人一人が大霊の一部であり、従ってあなたと大霊との間に〝仲介役〟と言うものは要りません。

(48) 本当を言うと魂は内部にあるとか外部にあるとかとは言えません。魂とは全宇宙に偏在するものです。〝意識〟です。一個の身体によって束縛されるものではなく、無限の広がりを持つものです。一瞬の間に地球を一周出来ます。

(49) 一体あなたとは何なのでしょう。御存じでしょうか。自分だと思っておられるのは、その身体を通して表現されている一面だけです。それは奥に控えるより大きな自分に較べればピンの先ほどのものでしかありません。

(50) 身体はあなたが住む家だと考えればよろしい。家であってあなた自身ではないと言うことです。家である以上は住み心地をよくしないといけません。手入れがいるわけです。しかし、あくまでも住居であり住人でないことを忘れてはなりません。

(51) あなたはその身体の奥に神の属性である莫大なエネルギーの全てを未熟な形、あるいはミニチュアの形、つまり小宇宙の形で秘めているのです。その秘められた神性を開発してそれを生活の原動力にすれば、心配も不安も悩みもたちどころに消えてしまいます。

なぜなら、この世に自分の力で克服できないものは何一つないことを悟るからです。その悟りを得ることこそあなた方の務めなのです。それは容易なことではありませんが。

(52) 霊の宝は楽々と手に入るものではありません。もしそうであったなら価値はないことになります。何の努力もせずに勝利を得たとしたら、その勝利は本当の勝利と言えるでしょうか。何の苦労もせずに頂上を征服したら、それは征服と言えるでしょうか。

霊的進化と言うものは先へ進めば進むほど孤独で寂しいものとなっていくものです。なぜなら、それは前人未踏の地を行きつつ後の者のために道しるべを残していくことだからです。そこに霊的進化の真髄があります。

(53) 肉体は霊がその機能を行使できるように出来上っております。その形態としての存在はほんの一時的なものです。用事が済めば崩壊してしまいますが、その誕生の時に宿った霊、これが大事なのです。その辺の理解が出来た時こそあなたの神性が目を覚ましたことになります。

肉体的束縛を突き破ったのです。魂の芽が出始めたのです。ようやく暗闇の世界から光明の世界へと出てきたのです。後は、あなたの手入れ次第で美しさと豊かさを増していくことになります。

(54) 人間の大半が何の益にもならないものを求め、必要以上の財産を得ようと躍起になり、永遠不滅の実在、人類にとって最高の財産を犠牲にしております。どうか、何処でもよろしい。種子を蒔ける場所に一粒でも蒔いて下さい。冷やかな拒絶にあっても、相手になさらぬことです。

議論をしてはいけません。伝道者ぶった態度に出てもいけません。無理をして植えても不毛の土地には決して根付きません。根付くところには時が来れば必ず根付きます。小馬鹿にしてあなたに心ない言葉を浴びせた人たちも、やがてその必要性を痛感すれば向こうからあなたを訪ねてくることでしょう。

(55) 人生には目的があります。しかしそれは当事者が操り人形でしかないほど融通性のないものではありません。笛に踊らされる人形ではないのです。人間の一人一人に神の分霊が宿っており、一人一人が無限の創造活動に参加できるのです。

つまりあなたには個的存在としての責任と同時にある一定限度内での自由意思が与えられているのです。自由といっても、大自然の法則の働きを阻止することが出来るという意味ではありません。限られた範囲内での選択の権利が与えられていると言うことです。

運命全体としての枠組みはできております。が、その枠組みの中であなたが計画された予定表(ブループリント)に従いながらどれだけ潜在的神性を発揮するかは、あなたの努力次第と言うことです。

(56) 霊は生命そのものであり、生命は霊そのものです。霊のない処に生命はありません。物質は殻に過ぎません。霊と言う実在によって投影された影に過ぎません。物質それ自体には存在はないのです。

あなたが存在し、呼吸し、動き、考え、判断し、要約し、決断し、熟考することが出来るのは、あなたが霊であるからこそです。霊があなたの身体を動かしているのです。霊が離れたら最後、その身体は崩壊して元の土くれに戻ってしまいます。

(57) 人間と言う形態を通して顕現している生命力は、小鳥、動物、魚類、樹木、草花、果実、野菜などを通して顕現しているものと同じ生命力なのです。いかなる形態にせよ生命のあるところには必ず霊が働いております。

(58) 時として人生が不公平に思えることがあります。ある人は苦労も苦痛も心配もない人生を送り、ある人は光を求めながら生涯を暗闇の中を生きているように思えることがあります。しかしその見方は事実の反面しか見ておりません。

まだまだ未知の要素があることに気づいておりません。私はあなた方に較べれば遥かに永い年月を生き、宇宙の摂理の働き具合を遥かに多く見てまいりましたが、私はその摂理に絶対的な敬意を表します。神の摂理がその通りに働かなくなった例を一つとして知らないからです。

(59) せっかちと短気はいけません。折角の目的を台無しにします。内部から援助してくれる力は静穏な環境を必要とします。物事には一つの枠、つまりパターンがあり、そのパターンに沿って摂理が働きます。宇宙の大霊も自ら定めた摂理の枠から外れて働くことはできないのです。

指導と援助を求める時はそれなりの条件を整えないといけません。そのためには、それまでの経験を活用しなければなりません。それが魂にとって唯一の財産なのです。そして、自分に生命を賦与してくれた力がきっと支えてくれているという自信を持つことです。あなたはその力の一部なのであり、あなたの魂に内在しているのです。

正しい条件さえ整えば、その神性は神からの遺産として、あなたの人生の闘いを生き抜く為のあらゆる武器を用意してくれます。せっかちと短気はその自由闊達な神性のほとばしりの障害となるのです。

神は決してあなたを見捨てません。見捨てるのはあなた方です。貴方が神を見捨てているのです。困難に直面した時、その神の遺産を結集し、必ず道は開けるのだという自信を持つことです。不動の信念を持つことです。そうすれば道は必ず開かれます。

(60) 悲しみは魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味を持つものです。それが魂の琴線に触れた時、一番良く魂の目を覚まさせるものです。魂は物的身体の奥深く埋もれている為に、それを目覚めさせるためにはよほどの体験を必要とします。悲しみ、病気、不幸などは地上の人間にとって教訓を学ぶ為の大切な手段なのです。

もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それは大した価値のないものと言うことになります。悲しみの極み、苦しみの極みに置いてのみ学べるものだからこそ、それを学べる段階まで来ている魂にとって深甚なる価値があると言えるのです。

(61) 人間の生活に過ちはつきものです。その過ちを改めることによって魂が成長するのです。苦難や障害に立ち向かった者が、気楽な人生を送っている者よりも大きく力強く成長していくと言うことは、それこそ真の意味での〝ご利益〟と言わねばなりません。

何もかもうまく行き、日向ばかりを歩み、何一つ思い煩うことのない人生を送っていては、魂の力は発揮されません。何かに挑戦し、苦しみ、神の全計画の一部であるところの地上と言う名の戦場に置いて、魂の兵器庫を開き武器を持ち出すこと、それが悟りを開くと言うことです。

(62) 神は一瞬の休みもなく働き、全存在のすみずみまで完全に通暁しております。神は法則として働いているのであり、晴天の日も嵐の日もともに神の働きです。有限なる人間に神を裁く資格はありません。宇宙を裁く資格もありません。地球を裁く資格もありません。

あなた方自身さえも裁く資格はありません。物的尺度が余りにも小さすぎるのです。物的尺度で見る限りその中は不公平と不正と邪道と力の支配と真理の敗北しかないかに思えるでしょう。当然かもしれません。しかし、それは極めて偏った、誤った判断です。

(63) 霊的真理は単なる知識として記憶しているだけでは理解したことには成りません。実生活の場で真剣に体験して初めて、それを理解するための魂の準備が出来たことになります。どうもその点がよく分かって頂けないようです。種子を蒔きさえすれば芽が出ると言うものではありません。

芽を出させるだけの養分が揃わなくてはなりません。養分は揃っていても太陽と水がなくてはなりません
そうした条件が全部揃った時にようやく種子が芽を出し、成長し、そして花を咲かせるのです。人間にとってその〝条件〟とは辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇の体験です。何もかもうまく行き、鼻歌交じりの呑気な暮らしの連続では、神性の開発は望むべくもありません。

そこで神は苦労を、悲しみを、そして痛みを用意されるのです。そうしたものを体験して始めて霊的知識を理解する素地が出来上がります。そして、いったん霊的知識に目覚めると、その時からあなたはこの宇宙を支配する神と一体となり、その美しさ、その輝き、その気高さ、その厳しさを発揮し始めることになるのです。

(64) 人間は物質の中に埋もれた生活をしているために、バイブレーションが低くなっております。朝目を覚まし、まだ意識が完全に働かないうちから、あれやこれやと煩わしいことや心配事の波に呑み込まれていきます。

大きい悩み、小さい悩み、真実の悩み、取り越し苦労に過ぎぬもの、等々いろいろあります。いずれにせよ全ては一時的なものに過ぎないのですが、そういうものに心を奪われてしまうと、背後霊が働いてくれている事実を忘れ、あなた方の思考の流れの中から霊的要素が閉め出され、霊的流入を遮断する一種の壁をこしらえてしまいます。

(65) 恐怖心は無知の産物にほかなりません。つまり知らないから怖がるのです。ですから、知識を携えて霊的理解の中に生きることです。取り越し苦労の絶えない人は心のどこかにその無知と言う名の暗闇があることを示しています。そこから恐怖心が湧くのです。

人間が恐れるべきものは恐怖心それ自体です。恐怖心は闇の産物です。霊力に不動の信念を持つ魂は恐れることを知りません。

(66) 成長・変化・進化・進歩・開発・発展・・・これが宇宙の大原理です。一口に進化と言っても、そこには必ず潮の干満にも似た動きがあることを知ってください。循環(サークル)運動・周期(サイクル)運動・螺旋(スパイラル)運動・・・こうした運動の中で進化が営まれており、表面は単調のようで内面は実に複雑です。

その波間に生きるあなたも、よせては返す波に乗って進歩と退歩を繰り返します。物的繁栄の中にあっては霊的真理を無視し、苦難の中にあっては霊的進歩を渇望するものです。それは人生全体を織りなす縦糸であり横糸でもあるわけです。

(67) 霊媒現象ばかりが霊力のはけ口ではありません。芸術家を通して、哲学者を通して、あるいは科学者を通しても発現することが出来ます。要するにあなた方自身の霊的自覚を深める行為、あなた方より恵まれない人々の役に立つ仕事に携わることです。

看板は何であってもかまいません。関わる宗教、政治、芸術、経済がいかなる主義、主張を掲げようと問題でありません。実際に行う無私の施しが進化を決定づけるのです。

(68) 地上へ誕生してくるとき、魂そのものは地上でどのような人生を辿るかあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につける上でそのコースが一番効果的であることを得心して、その大我の自由意思によって選択します。

その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを覚悟の上で生まれてきているのです。その人生を生き抜き、困難を克服することが、内在する資質を開発して真の自我、より大きな自分に新たな神性を付加していくことになるのです。

(69) 私が〝魂が承知している〟と言う時、それは細かい出来事の一つ一つまで知り尽くしていると言う意味ではありません。どう言うコースを辿るかを理解していると言うことです。

その道程における体験を通して自我が目覚め悟りを開くと言うことは、時間的要素と、各種のエネルギーの相互作用の絡まった問題です。例えば、予期していた悟りの段階まで到達しないことがあります。するとその埋め合わせに再び地上へ戻ってくることになります。

それを何度も繰り返すことがあります。そうするうちにようやく必要な資質を身につけて大我の一部として融合していきます。

(70) 時には万策尽きて万事休すと諦めかけた、その最後の一瞬に救いの手が差し伸べられることがあります。霊的知識を授かった者は,いかなる苦境にあっても、その全生命活動の根源である霊的実相についての知識が内なる冷静、不動の静寂、千万人といえども我行かんの気概を失うようなことがあってはなりません。

(71) 自分がいかなる存在であるのか、何のためにこの世にいるのかについての正しい認識を失わぬようにしてください。あなた方のようにふんだんに霊的知識に恵まれた方でも、どうかすると毎日の雑事に心を奪われて霊的実相を忘れてしまいがちです。が、それだけは絶対に忘れないようにしなければなりません。

地上と言う物的世界に置いて生活の拠り所とすべきものはそれ以外にはないのです。霊こそ実在です。物質は実在ではないのです。あなた方はその実在を見ることも触れてみることも感じ取ることも出来ないかも知れません。少なくとも物的感覚で感識している具合には感識出来ません。

しかし、やはり霊こそ全ての根源であることに変わりはありません。あなた方は永遠の存在であることを自覚して下さい。生命の旅路に置いてほんの短い一時期を地上で過ごしている巡礼者に過ぎません。

(72) 治療家としてこの世に生を受けたのは、その仕事を通じて神の計画の遂行に参加し、自分が何であるかも自覚せず、何の為に地上に生まれてきたのかも知らず、従って何を為すべきかも知らずに迷っている神の子等に永遠の真理、不変の実在を教えてあげるためです。

これは何にも勝る偉大な仕事です。たった一人でもよろしい。治療を通して霊的真理に目覚めさせることが出来たら、あなたの地上生活は無駄でなかったことになります。一人でもいいのです。それであなたの存在意義があったことになります。

(73) あなた方人間は物的身体を通して自我を表現している霊魂です。霊魂に霊的法則がある様に、身体には生理的法則があります。その法則の働きによって身体に何らかの影響が表れたとすれば、それも原因と結果の法則が働いたことを意味します。

私達は霊力によって手助けすることはできても、その法則の働きによる結果に対しては干渉できません。要するに奇跡は起こせないと言うことです。

大自然の因果律は変えられないと言うことです。神は摂理として、その霊力によって創造した宇宙で一瞬の休みもなく働いております。全てを包摂しており、木の葉一枚落ちるのも摂理の働きがあります。

ありとあらゆる治療法を試みて治らなかった患者が、もし心霊治療によって見事に治ったとしたら、それは奇跡ではなく霊的法則が働いた証しと考えるべきです。

(74) 人間の健康を動物の犠牲のもとに獲得することは神の計画の中にはありません。全ての病気にはそれなりの治療法が用意されております。その神の用意された自然な方法を無視して動物実験を続ける限り、人間の真の健康と福祉は促進されません。

動物はそんな目的の為に地上に生を受けているのではありません。真の健康は調和です。精神と霊と肉体の正しい連係関係です。三つの機能が一体となって働くと言うことです。これは動物を苦しめたり体内からの特殊成分を抽出したりすることによって得られのではありません。

(75) 身体が病むと言うことは、精神か霊かのいずれかに不自然なところがあることを意味します。霊が正常で精神も正常であれば、身体も正常である筈です。身体に出る症状は全て霊と精神の反映です。

これを医学では心身相関医学などと呼ぶようですが、名称はどうでもよろしい。大切なのはいつの時代にも変わらぬ真理です。魂が病めば身体も病みます。魂が健康であれば身体も当然健康です。身体の治療、これは大切ではありません。魂の治療、これが大切なのです。

(76) 私達が地上の人々にもたらすことの出来る最高の霊的知識は人生が〝死〟を持って終了するのではないこと。従って苦しい人生を送った人も失敗の人生を送った人も屈辱の人生を送った人も、みなもう一度やり直すことが出来ると言うこと、言い替えれば悔し涙を拭うチャンスが必ず与えられると言うことです。人生は死後もなお続くのです。

永遠に続くのです。その永遠の旅路の中で人間は内在している能力、地上で発揮しえなかった才能を発揮するチャンスが与えられ、同時に又、愚かにも摂理を無視し他人への迷惑も考えずに横柄に生きた人間には、その悪行の償いをするチャンスが与えられます。

(77) 宗教家とか信心深い人は霊的に程度が高いという考え方が、人間を永い間迷わせてきたようです。実際は必ずしもそうとは言えないのです。ある宗教の熱烈な信者になったからと言って、それだけで霊的に向上するわけはありません。大切なのは日常生活です。あなたの現在の人間性、それが全てのカギです。

祭壇の前にひれ伏し、神への忠誠を誓い、〝選ばれし者〟の一人になったと信じている人よりも、唯物論者や無神論者、合理主義者、不可知論者と言った、宗教とは無縁の人の方が遥かに霊格が高いというケースがいくらでもあるのです。問題は何を信じるかではなく、これまで何を為してきたかです。そうでないと神の公正が根本から崩れます。

(78) いわゆる因果律と言うのは必ずしも地上生活中に成就されるとは限りません。しかしいつかは成就されます。必ず成就されます。原因があれば結果があり、両者を切り離すことは出来ないのです。しかし、何時成就されるかと言う時期の問題になると、それは原因の性質いかんに関わってきます。

すぐに結果の出るものもあれば、地上生活中には出ないものもあります。その作用には情状酌量といったお情けはなく、機械的に作動します。罪を犯すとその罪がその人の霊に記録され、それ相当の結果を生み、それだけ苦しい思いをさせられます。

それが地上生活中に出るか否かは私にも分かりません。それは様々な事情の絡んだ複雑な機構の中で行われるのですが、因果律の根本の目的が永遠の生命である〝霊の進化〟にあることだけは確かです。

(79) 人間生活には三つの側面があります。まず第一に霊であり、次に精神であり、そして肉体です。人間としての個性を存分に発揮するようになるにはこの三つの側面の存在を認識し、うまく調和させる様になった時です。

物的世界にのみ意識を奪われ、物的感覚にしか反応を示さぬ人間は、精神的ならびに霊的な面に置いてのみ獲得される、より大きい、より深い、より美しい喜びを味わうことは出来ません。

反対に精神的なもの,霊的なものばかりの瞑想的生活から生まれる内的満足のみを求め、この世の人間としての責務を疎かにする人間は、一種の利己主義者です。

(80) 人間にとって最大の恐怖心は死でしょう。それが少しも怖いものでないことを知り、生命が永遠の存在であり、自分も永遠の存在であり、あらゆる霊的武器を具えていることを知っていながら、なぜ将来のことを心配なさるのでしょう。

不幸の訪れの心配は、その不幸そのものよりも大きいものです。その心配の念が現実の不幸より害を及ぼしております。

(81) 心霊治療家に為し得ることは、病気の期間を縮めるか、治してしまうか、あるいは、もっと大切なこととして、真理に目覚める用意の出来た魂に感動的な体験を与えることです。

悪事とか懲罰の問題を超えたものがそこにあります。魂そのものの成長に関わる問題です。魂が目覚めるまでは往々にして悲しみや病気がお供することになります。

(82) 期間の問題ではなく〝霊〟そのものに関わる問題です。霊は、何日も何週間もかかって体験するものを僅か二、三秒で体験することが出来ます。霊的なものを物的な尺度で判断することはできません。霊的なものは霊的に判断しなければなりません。霊的なことが原因で発生した現象を地上的な期間を尺度として判断することはできません。

さらに、理屈はどうであれ、治療家が痛みを軽減したり、楽にして上げたり、治してしまうことが出来ると言う現実は、そこに何らかの法則が働いていることの証であり、同時にそれは、その患者の魂がその救いを得る段階まで来ていたことを意味します。偶然とかまぐれとかで起きているのではありません。

(83) 人生は全て法則によって支配されております。天命・宿命・運命・・・こうした問題は何世紀にもわたって思想家の頭を悩ませて参りました。では真実はと言えば、法則の内側にも又別の次元の法則が働いているということです。

宇宙には何人にも動かし難い基本的法則がまず存在します。そして、それとは別に、自由意思を行使できる法則もあります。ただし、自由意思による行為が原因となってそれ相当の結果が生じます。それは絶対に避けることは出来ないと言うことです。

(84) いくら善人でも無知から霊的な罪を犯すことがあります。たとえば、ここに一人の子供、とても気立ての良い子がいて、その子供が炉の中に手を突っ込んだとします。炉の火は、その子が良い子か悪い子であるかのお構いなく、その手に火傷を負わします。

もしその子に、火に手を入れたら火傷をするという〝知識〟があったら、手を突っ込むことはしなかったでしょう。ですから、この場合、火傷をするしないは知識の問題です。

私が因果律の問題は魂の進化の程度によって決まると言う言い方をするのは、そうした要素があるからです。因果律は必ず働きます。信仰とか願望とかにはお構いなく働きます。

(85) いかなる人間にも必ず試練と困難、いわゆる人生の悩みが訪れます。何時も日向ばかりを歩いていて陰を知らないと言う人は一人もいません。ただその人生の難問がどの程度の影響を及ぼすかは、各自の霊的進化の程度に掛っております。

ある人には何でもないことが、あなたには大変に思える場合があります。反対に、ある人には大変に思えることが、あなたには些細なことに思えることもあります。各自が自分なりの運命を切り開いていくのです。

(86) 人間は無数のことに苦しみ、悲哀と苦痛を味わわねばなりません。これは人類の永年の伴侶なのです。遠い昔、どう見ても何一つ苦労はなかったであろうと思われる昔からです。

(87) ヒトは身体的にはすでの人類の頂点に達しております。次は精神的進化と霊的進化です。永い年月をかけて徐々に全人類が自己の心霊的能力に目覚めていくことでしょう。が、ここで〝但し書き〟が必要です。心霊的能力を発揮するようになることが必ずしも霊的進化の程度の指標とはならないと言うことです。
霊的身体の有する能力を全部発揮しても、魂そのものは少しも進化していないと言うこともあり得ます。本当の意味で霊的に進化し始めるのは、人の為に役立つ仕事を目的として霊界のスピリットの協力を得ながら心霊能力を開発した時です。

(88) 霊界から手を差し伸べてよい範囲があり、出しゃばってはならない限界があり、しゃべってはならない時があり、今こそしゃべる時があり、それに加えて必ず、その時々の環境条件による制約があります。しかしそのパターンは厳然としており、指導に当たるスピリットはすべからくそのパターンに従わなくてはなりません。

前もってそういう取り決めがしてあるからです。私も私より遥かに霊格の高い霊団によって計画された枠の外に出ることは許されません。そもそも地上で成就すべきものと判断を下した、もしくは計画したのは、その高級霊団だからです。

光り輝く存在、高等審議会、神庁、天使団・・・どうお呼びになられても結構です。要するに私達が行う全仕事に対して責任を持つ、進化せる高級霊の集団です。私にはもうすぐその方達とお会いする喜びが待ち受けております。

その時まず私の方からそれまでの成果をご報告申し上げ、次に私がどの程度まで成功しどの点に置いて失敗しているかについて言い渡され、それによってこれから先の私の為すべきことを判断することになるのです。
その霊団の上には更に高級な霊団が控え、その上にも又さらに高級な霊団が控えており、連綿として事実上無限につながっているのです。

(89) われわれの目的はいわば〝宗教のリハビリテーション〟です。宗教を無味乾燥で不毛の神学論争から救い出すことです。

宗教間のいがみ合いから救い出し、教理上の論争を超越して実証的事実の基礎の上に真の宗教を確立し、霊界からの啓示を現在ますます増えつつある霊媒を通して地上に普及させ、あらゆる地域の人類に神が今なお働いていること、その恩寵は決して過去の一時期に限られたものではなく、今日でも、いずこにいようと誰であろうと、同じ恩寵に浴することが出来ることを知らしめる、そういう計画があるのです。

(90) 霊界の誰かがそれまでに身につけた知識を伝えて地上世界を少しでも明るくしようと一念発起したとします。その際、その霊が地上で有名人であれば、身元を明かすことを躊躇するものです。少なくとも当分の間は明かしたがりません。

それは、その人が通信を送ろうとするそもそもの目的とは関係のないことであって、そんなことで余計な混乱を生じさせたくないからです。

(91) 霊界通信はその内容によって価値が決まります。身元の証拠を提供することと、霊的知識を提供することとは、まったく別の範疇に属することであることを忘れてはなりません。前者は疑ぐり深い人間を得心させる必要からすることであり、後者は魂に受け入れる用意の出来た人に訴えるのが目的です。

(92) 霊の地上への働きかけは、その為に必要な条件を人間の方で用意するかしないかに掛っています。霊の世界と連絡の取れる条件を用意してくれれば、身近な関係にある霊が働きかけることが出来ます。よく聞かれる不思議な体験、奇跡的救出の話は皆それなりの条件が整った時の事です。

条件を提供するのは人間の方です。人間の側から手を差し伸べてくれなければ、私達は人間界に働きかけることが出来ないのです。

(93) 〝生〟を正しい視野で捉えて頂きたい。その中で〝死〟が果たしている役割を理解して頂きたいと思います。人間はあまりにも永い間、死を生の終わりと考えて、泣くこと、悲しむこと、悼むこと、嘆くことで迎えてきました。私たちは是非ともその無知、死を生の挫折、愛の終局、情愛で結ばれていた者との別れとみなす無知を取り除きたいのです。

そして死とは第二の誕生であること、生の自然な過程の一つであること、人類の進化における不可欠の自然現象として神が用意したものであることを理解して頂きたいのです。死ぬと言うことは生命を失うと言うことでなく、別の生命を得ることなのです。

肉体の束縛から解放されて、痛みも不自由も制約もない自由な身となって地上での善行の報いを受け、叶えられなかった望みが叶えられる、より豊かな世界へ赴いた人のことを悲しむのは間違いです。

(94) 苦痛と老いと疲労と憂鬱から解放された人をなぜ悲しむのでしょう。暗闇から脱して光明へと向かった人をなぜ悲しむのでしょう。霊の本来の欲求である探求心を心行くまで満足できることになった人をなぜ悼むのでしょう。それは間違っております。その悲しみは利己心が潜んでおります。自分が失ったものを嘆いているのです。

自分が失ったものを自分で耐えていかねばならないこと、要するに自分を包んでくれていた愛をうばわれた、その孤独の生活を嘆き悲しんでいるのです。

(95) 皆さんもいずれは寿命を全うしてその肉体に分かれを告げる時が参ります。皆さんの為に尽くして古くなった衣服を脱ぎ棄てる時が来ます。土の束縛から解放されて、死の彼方で待ち受ける人々と再会することが出来ます。

その目出たい第二の誕生にまとわりついている悲しみと嘆き、黒い喪服と重苦しい雰囲気は取り除くことです。そして一個の魂が光と自由の国へ旅立ったことを祝福してあげることです。

(96) あなた方人間こそ〝死者〟です。本当の生命の実相を知らずにいると言う意味で、立派な死者です。神の宇宙の美しさが見えません。地上と言う極小の世界のことしか感識していません。すぐ身の回りに雄大な生命の波が打ち寄せているのです。

愛しい人達はそこに生き続けているのです。そしてその背後には幾重にも高く界層が広がり、測り知れない遠い過去に同じ地上で生活した人々が無数に存在し、その体験から得た叡智を役たてたいと望んでいるのです。

(97) 見えないままで居たければ目を閉じ続けられるのがよろしい、聞こえないままで居たければ耳を塞ぎ続けられるのがよろしい。しかし賢明な人間は魂の窓を開き、人生を生き甲斐のあるものにする為に勇気付け指導してくれる莫大な霊の力を認識することになります。

あなたは神の子なのです。その愛と叡智を持って全宇宙を創造した大霊の子なのです。その大霊とのつながりを強化するのは、あなたの理解力一つです。もしも教会がその邪魔になるのであれば教会をお棄てになることです。

もしも邪魔になる人間がいれば、その人との縁を切ることです。もしも聖典が障害となっていることに気づかれれば、その聖典を棄て去ることです。

(98) 私の説く宗教は実践の宗教です。一日一日の宗教、一日二十四時間、一時間六十分、一分間六十秒、その全てを実践の時とする宗教です。それが私の評価の基準です。それが目標とする理想です。

(99) 人間が地上生活を生き抜き成長していくために必要な真理は、これ以上付け加えるべきものは何もありません。後は真理をより深く理解すること、神とのつながり、及び同胞とのつながりに関してより一層理解を深めることです。新たに申し上げることは何一つありません。

(100) 叡智と言うものは体験から生まれます。十分な体験を経て魂がそれを要求するようになったときにはじめて真理が受け入れられます。それから今度は、その知識をどうするかの段階となります。その知識を他人の為に活用する義務の問題です。

そうした過程は実に遅々としたものですが、人類の進化はそういう過程を経るしかないのです。

(101) もうイエスのような大人物が出現する必要はありません。例えばあのナザレのイエスが今この地上に戻ってきたとしても、多分地上で最も評判の悪い人間となることでしょう。特にイエスを信奉し師と崇めているキリスト教徒から一番嫌われることでしょう。

(102) 大半の人間は地上だけが人間の住む世界だと考えています。現代の生活が人間生活の全てであると思い込み、そこで、物的なもの、いずれは残して死んでいかねばならないものなのに、せっせと蓄積しようとします。

戦争、流血、悲劇、病気の数々も、元はと言えば、人間が今この時点に置いて立派に霊的存在であること、つまり人間は肉体のみの存在ではないと言う生命の神秘を知らない人が多すぎるからです。人間は肉体を通して自我を表現している霊魂(スピリット)なのです。

それが地上と言う物質の世界での生活を通して魂を成長させて発達させて死後に始まる本来の霊の世界における生活に備えているのです。

(103) 宗教家が豁然大悟したと言い、芸術家が最高のインスピレーションに触れたと言い、詩人が恍惚たる喜悦に浸ったと言っても、私達霊界の者から見れば、それは実在の微かな影を見たに過ぎません。

(104) キリスト教会にも奇特な行いをしている真摯な人材は確かに存在します。私が非難しているのはその組織です。それが障害となっており、是非とも取り除かなければならないからです。真の宗教には儀式も祭礼も、美しい歌唱も詠唱も、きらびやかな装飾も豪華な衣装も式服も不要です。宗教とは自分を役たてることです。

同胞のために自分を役たてることによって神に奉仕することです。私はこれまでそれを何度申し上げてきたことでしょう。しかるに教会は人類を分裂させ、国家と階級を差別し、戦争と残虐行為、怨恨と流血、拷問と糾弾の悲劇を生み続けてまいりました。

人類の知識と発明と科学と発見の前進に抵抗してきました。しかし、新しい霊的真理は既に根付いております。もはやその流れをせき止めることはできません。

(105) 神は人間に理性と言う神性の一部を植え付けられました。あなた方(クリスチャン)もぜひその理性を使用して頂きたいのです。大きな過ちを犯しそれを神妙に告白する、それは心の安らぎには成るかもしれませんが、罪を犯したと言う事実そのものはいささかも変わりません。

神の理法に照らしてその歪みを正すまでは、罪は相変わらず罪として残っております。いいですか、それが神の摂理なのです。イエスが言ったとおっしゃる言葉を聖書からいくら引用しても、その摂理は絶対に変えることはできないのです。

(106) あなた(キリスト教の牧師)に理解して頂きたい事は、聖書のテクストのことをうんぬんするよりも、もっともっと大切にすることがあると言うことです。主よ、主よと叫ぶ者がみな敬虔なのではありません。神の意志を実践する者こそ敬虔なのです。

それをイエスは二千年前に述べているのです。なのに今日なおあなた方は、それが一番大切であることを何故信者に説けないのでしょうか。

(107) 動機が何であるか・・・これが最後の試練です。魂の奥の静かな、そして小さな声が反発するが故に戦争に参加することを拒否する人間と、これが国家への奉公なのだと言う考えから、つまり一種の奉仕的精神から敵を殺す覚悟と同時にいざとなればわが身を犠牲にする覚悟を持って戦場へ赴く人間とは、私たちの世界から見て上下の差はありません。動機がもっとも優先的に考慮されるからです。

(108) 地上には幾十億と言う人間がおり、みな成長段階も違えば進歩の速度も違い、進化の程度も違います。従って全ての者に一様に当てはめられる型にはまった法則、物的なものさし、と言ったものは存在しません。

固定した尺度を用いれば、ある者には厳しすぎ、ある者には厳しさが足りないと言うことになるからです。殺人者に適用すべき法律は、およそ犯罪とは縁のない人間には何に係わりもありません。

(109) 神は人間各自に、決して誤ることのない判断の指標、すなわち道義心と言うものを与えています。その高さはそれまでに到達した霊的成長の度合いによって定まります。

あなたが地上生活のいかなる段階にあろうと、いかなる事態に遭遇しようと、それがいかに複雑なものであろうと、各自のとるべき手段を判断する力、つまりそれが自分にとって正しいか間違っているかを見分ける力は、例外なく具わっております。

あなたにとっては正しいことも、他の人にとっては間違ったことであることがあります。なぜなら、あなたとその人とは霊的進化のレベルが違うからです。

徴兵を拒否した人の方が軍人より進化の程度に置いて高いこともあれば低いこともあります。しかし互いに正反対のことを考えながらも、双方ともそれなりに正しいと言うこともあり得るのです。

(110) 再生(生まれ変わり)と言うものが事実であることは私も認めます。それに反論する人達と議論するつもりはありません。理屈ではなく、私は現実に再生してきた人物を大勢知っているのです。

どうしてもそうせざるを得ない目的があって生まれ変わるのです。預けた質を取り戻しに行くのです。ただし、再生するのは同じ個体の別の側面です。同じ人物ではありません。

一個の人間は氷山の様なものだと思ってください。海面上に顔を出しているのは全体のほんの一部です。大部分は海中にあります。地上で意識的生活を送っているのは、海面上の部分だけです。死後再び生まれ出てきた時は別の部分が海面上に顔を出します。

潜在的自我の別の側面です。二人の人物となるわけですが、実際は一つの個体の二つの側面と言うことです。

(111) 私はつねづね人生とは対照の中で営まれていると申し上げております。愛の倒錯したのが憎しみであり、勇気が倒錯したのが臆病です。いずれも本質においては一本の棒の両極を表現したものです。私は又、低く沈むことが出来ただけ、それだけ高く上昇することが出来るとも申しあげております。

臆病を勇気に、憎しみを愛に転換することが出来ると言うことです。人間の精神には様々な複雑な感情や想念が渦巻いております。それをうまくコントロールするところにあなたの成長があり、進化があり、低いものが高いものへと転換されていくのです。

(112) 世間で言うところの成功者になるかならないかは、どうでもよいことです。この世的な成功によって手に入れたものは、その内あっさりと価値を失ってしまいます。

大切なのは自分の霊性の最高のものに対して誠実であること、自分でこれこそ真実であると確信するものに目をつぶることなく、本当の自分自身に忠実であること、良心の命令に素直に従えることです。

それさえできれば、世間があなたをどう見ようと、自分は自分として最善を尽くしたのだと言う信念が湧いてきます。そして、いよいよ地上生活に別れを告げる時が来た時、死後に待ち受ける生活への備えが十分にできていると言う自信を持って、平然として死を迎えることが出来ます。

(113) 名声が何になりましょう。子供のおもちゃの様なものです。何の価値もありません。そもそも名声はどうやって得られるかを考えてごらんなさい。お金があるとか、世間的に出世したと言うことで名が知れたに過ぎません。イエスはそういう名声を一切求めませんでした。先師、聖者、先駆者、改革者と言われた人は名声を求めたでしょうか。

大切なのは、どれだけ人のために役立つことをしたかであって、その人の名前ではありません。ですから、いわゆる有名人の名前を名乗って出る霊には気をつけた方がよろしい、判断の基準は何と名乗っているかではなく、どういう態度でどんなことを説いているかです。

(114) 今地上人類は五感を通して感識する条件下に住んでおります。その五つの物的感覚で自我を表現できる段階にやっと到達したところです。まだテレパシーによって交信し合える段階まで進化していないと言うことです。まだまだ開発しなければならないものがあります。

地上人類は物的手段によって自我を表現せざるを得ない条件下におかれた霊的存在と言うことです。この条件がおのずと思念の作用に限界を生じさせます。何故なら、地上では思念が物的形態をとるまでは存在に気づかれないからです。

(115) 思念は思念の世界に置いては実在そのものですが、地上に置いてはそれを物質でくるまないと存在が認識されないのです。肉体による束縛を全く受けない私の世界では、思念は物質より遥かに実感があります。思念の世界だからです。私の世界では霊の表現、または精神の表現が実在の基準になります。思念はその基本的表現の一つなのです。

勘違いなさらないで頂きたいのは、地上にある限りは思念は仕事や労力や活動の代用とはならないと言うことです。強力な補助とはなっても代用とはなりません。やはり地上の仕事は五感を使って成就していくべきです。労力を使わずに思念だけで片付けようとするのは邪道です。これも正しい視野で捉えないといけません。

(116) あなたはその二つの目で見ているのではありませんよ。又その二つの耳で聞いているのではないのですよ。見たり聞いたりは脳を経由して精神で行っているのです。もしも脳が働かず精神に反応が生じなければ、その肉眼に映る光線は何の意味もありませんし、その肉耳に届けられる波動も全く無意味なのです。脳がレシーバーとしての働きをしてくれた後は、その情報を理解するのは精神なのです。肉眼そのものには〝見る〟能力はないのです。

ただ光線を感知するための媒体に過ぎないのです。カメラのレンズと同じです。自分ではどう言う役目をしているのか知らないまま自動的に機能しているのです。

〝見えた〟と言う認識は、精神がその印象を脳から受け取った時に生じるのです。脳を痛めるとその認識が生じませんから、肉眼だけでは何も見えないことになります。

(117) 時として味方であるべき人物が敵に回ることがあります。又時として、悲しいことですがこの道に携わっている人が本来の目的を忘れて我欲を優先させ、一身上の都合の方が大義より大切であると考えるようになったりします。万が一そういう事態になった時は、それは本来の道を見失ったわけですから、その方の為に陰で涙を流しておあげなさい。

(118) 〝証拠〟などと言っても、ただの用語に過ぎません。確信と言うのは内部から湧き出てくるものです。魂に〝受け入れ準備〟が備われば理解が行きます。その理解こそ大切で、それが唯一の確信です。
科学は刻一刻と変わっていき、その領域を広めつつあります。知識と言うものは固定したものではありません。一方、確信と言うのは、真理と遭遇した時に湧き出る内的な悟りです。

(119) 霊はこしらえるものではありません。過去も未来もなく常に存在しております。霊としてあなたは無始無終に存在しているのです。霊を新たにこしらえなければならなくなったことは一度もありません。無が有になる段階と言うものは、これまで一度もありません。

生命の原動力、精髄、活力そのものである霊は、過去も未来もなく常に存在しております。霊はあらゆる生命現象が生み出されるエネルギー源です。植物も小鳥も樹木も動物も人間も、全てそうです。霊は存在の大原動力です。

(120) 母体に子供が宿された時、それは新しい霊でも新しい魂でもありません。無始無終に存在している永遠の霊の一部です。それが人体に宿って個別性を獲得し、その個体がしばしの間地上で機能するわけです。しかし霊は様々な側面を持つことが出来ます。

その幾つかが地上で再生して本霊であるダイヤモンドに新たな光沢を加えることはあり得ます。その意味では〝先輩の霊〟〝若い霊〟と呼べる霊は存在します。しかし〝新しい霊〟と言うものはこしらえられません。地上での自我の表現機関として新しい身体が提供されるだけです。

(121) 〝死後〟とおっしゃいますが、私は時折地上世界を見渡して、果たして〝死ぬ前〟に生命があるかと思うことさえあります。全く生きているとは思えない人、あるいは、仮に生きていると言えても、これ以上小さくなれない程お粗末な形でしか自我を表現していない人が無数におります。

(122) 良きにつけ悪しきにつけ、あなたの霊的命運を定めていくのはあなた自身です。あなた自身のことに関して最後に責任を負うのはあなた自身です。もしも死の床にあって罪を告白し特別の信仰を受け入れればたちどころに罪が赦されて潔白の身になれるとしたら、それはまさにお笑いものであり、茶番劇と言うべきです。

(123) 物的なことと霊的なことの区別がつかない人は気の毒です。日常生活で悪戦苦闘していても、霊的な平静さと安らぎを忘れないでいることは可能です。

地上のいかなる困難の中にあっても、自分は本来は霊であることを忘れず、その聖域を守ることが出来れば、何時でも内的な安らぎを得ることが出来ます。安らぎは外から得るものではありません。内部から湧き出てくるものです。

(124) 地上の人間が内部に霊的な武器を具えていることを実感することが出来れば、どんなにか充実した生活が送れることでしょうに。それを活用することによって、時には地上的喧騒から身を引いて、冷静さ、落ち着き、平穏、安らぎに浸ることが出来るのです。

(125) 真理普及の第一線に立って苦悩している地上の偉大なる魂は、その戦いがいかに激しく反抗がいかに強烈でも、その中にあって少しも内的な安らぎを失うことはありません。表面上の物的な出来事と霊的原理とを同じ天秤にかけてはいけません。霊が主人で物は従僕です。常に霊の関わる事を優先させなさい。

(126) 解放されなければならないのは女性だけではありません。男性だけでもありません。子供だけでもありません。人類によって苦しめられている動物も開放してやらねばなりません。霊は常に自由であるべきです。物的な何ものによっても束縛されるべきではないのです。

物的身体は霊が存分に自己表現をする手段として与えられているのであり、解放とはそれを制約するもの全てを取り除いてあげることです。

(127) 敵意や敵愾心(テキガイシン)は無知の産物です。そこに理性の働きは見られません。時には恐怖心から出ていることもあります。又時には、〝洗脳〟の結果である場合もあります。

知的抵抗力のない幼い時期に植え付けられたお座なりの教えから一歩も出ることが出来ず、精神がすっかり汚染されているのです。

(128) あなたの説く霊的真理が敵意を持って迎えられた時は、その素晴らしい宝石の光が見えない気の毒な人への適切な言葉を求めて神に祈りなさい。もしもそれが少しでも効果があれば、その人との出会いは無駄でなかったことになります。

もしも何の効果もなければ、それはその人がまだ霊的真理を受け入れる用意が出来ていなかったことを意味します。魂に準備が出来ていない時は、為す術がありません。

(129) 地上の同志の方々にいつも申し上げているのは、私達霊団側としては皆さんが誠心誠意、精一杯努力をすること以上のことは要求しないと言うことです。あなた方は欠点を具えた人間的存在であり、その欠点を一つ一つ取り除いていかねばなりません。しかしそれは大変な時間を要する作業であり、たった一度の地上生活では成就出来ません。

(130) 身体に関わる義務を疎かにしてまで霊的なことに専念しなさいとは決して申しておりません。しかし同時に霊に関わることも大切にしなければならないことも真実です。地上ではその二つとも大切なのです。

(131) 霊的真理の為の闘争は生易しいものではありません。バイブルにも光の勢力と闇の勢力との戦いの話が出ていますが、両者は現実に存在します。が、光の方が強力です。いつかは光が闇を突き通します。しかし時には闇が余りに濃い為に、それを突き通すのにてこずることがあります。

(132) 霊的計画が推進されていく実情を何とかして皆さんにお見せしたいものです。一度ご覧になれば、取り越し苦労などしなくなることでしょう。悲しむことが無くなるでしょう。何事が起きようと、全ては神の叡智で良きに計らわれているとの確信を持つようになることでしょう。

宇宙は無限の叡智を伴った無限の愛の力で支配されております。愛はそれ自体でも崇高さを極めた力ですが、叡智との組あわせによって、必要なものは必ず成就してまいります。

(133) 図太さを失ってはなりません。愚かな人間による抵抗に惑わされてはなりません。むしろ哀れに思い、せっかくのチャンスを失ったことを気の毒に思ってあげなさい。そういう人たちは自らを傷つけ、さらに彼らが生き甲斐として居るものまで台無しにしているのです。が、根気よく、そして図太く生きておれば、その内それも排除されてまいります。

(134) 私の名はシルバーバーチではありません。これは私がバイブレーションを下げて地上世界とコンタクトすることを可能にしてくれる一種の変圧器の役目をしている、かつて地上でインディアンだった霊の名前です。

いずれにせよ名前はどうでもよいことです。私に関する限り名前は何の価値もありません。これまで一度も地上時代の名を明かしたことはありません地上時代の私はインディアンではありません。このインディアンより遥かに古い時代の別の民族の者です。

霊的進化の末に二度と地上世界へ生身に宿って戻ってくる必要のない段階にまで到達いたしました。霊界の上層部には〝神庁〟とでも呼ぶべきものが存在します。それに所属するのは格別に進化を遂げた霊、高級神霊です。その仕事は立案された創造進化の計画を円満に進展させることです。

その神庁からこの私にお呼びが掛り、これまでの進化で私が得たものを一時お預けにして、可能な限り地上圏に近付き、その高級神霊達のメッセンジャーとして働いてくれないかとの要請を受けたのです。

私の役目はその指導霊達の教えを取り次ぎ、一人でも多くの、受け入れる用意の出来た人間にお届けすることです。私は喜んでその要請をお引き受けしました。それが半世紀近くにわたって携えてきた私の使命だったのです。

(135) これは容易ならざる仕事です。私はこれを一つの素晴らしい挑戦課題としてお引き受けしたのです。地上は冷やかな世界です。荒涼として陰鬱な暗い世界です。しかし、その中にあって私達はそこここに愛と好意と友情の炉辺を見出し、そこで魂を温め、そうした地上の灯台から放たれる光輝を見る楽しさを味わうことが出来ております。

(136) 皆さんはついぞこの私の姿をご覧になることがありませんでした。この霊媒の口を使って語る声でしか私をご存じないわけです。しかし信じて下さい。私も物事を感じ、知り、そして愛することのできる実在の人間です。こちらの世界こそ実在の世界であり、地上は実在の世界ではないのです。そのことは、地上と言う惑星を離れるまでは理解して頂けないことかも知れません。

訳者あとがき
シルバーバーチと名乗る古代霊が地上時代の実名も身分も明かさぬまま約半世紀にわたって英国の霊媒モーリス・バーバネルを通じて語り続けた、人類史上空前絶後と言うべき霊言集を翻訳・編纂してきたシリーズも、本巻を持ってひとまず完結する。

再三紹介してきたように、サイキックニューズ社から発行された原書は1938年第一巻を皮切りに〝シルバーバーチ〟に名を冠した第一期のものが十二冊、冠していない第二期のものが1988年8月現在で3冊ある。

第一期は9名のメンバーが独自の視点から編集しているが(うち3名が二冊ずつ)、中には互いに重複する箇所が幾つかあり、それを削除して他のもので補充したり、ページ数が他の倍ほどのものもあって二冊に分けざるを得なかったものもあったりして、結局は私の翻訳シリーズも本巻を入れて同じく12冊となった。

ここで改めて御断りをしておきたいのは、原初の第一巻は桑原啓善氏が『シルバーバーチ言集』と題して同じ潮文社から出しておられる。テキスト風にまとめられ、私の訳し方とかなり趣が異なるが、同じ出版社から同じものが出るのもおかしいので、私はこれを完訳することは遠慮して、他の巻の補充や差し替えに使用したり、本巻の為に名言だけを拾ったりして、一応その大半を取り入れると言う形をとった。又その、〝序文〟はシルバーバーチ交霊会(正式名称は〝ハンネン・スワッハー・ホームサークル〟)の生みの親であるハンネン・スワッハー氏のものなので、その抄訳を本巻に掲げて最後の締めくくりとした。

洋の東西を問わず〝霊言〟と名のつくものは数多く存在する。が、シルバーバーチ(と名のる霊)ほど気取らず、何のてらいもなく、格好も付けず、親しみ深く語りかけながら、しかも威厳を失わず、そして最後までその自分の地上時代の名前も地位も国家も明かさなかった霊を私は他に知らない。

私は今でも、ふと、一体シルバーバーチのどこがいいのだろう、と自問することがある。そして、これと言って取り立てて挙げられるものがないのに、実際に霊言を読み、あるいはカセットを聞くと何とも言えぬ魅力を覚え、知らぬ間に読み耽り、聞き耽り、何時しか体に熱いものが込み上げてきて涙が頬をつたう。スワッハーも〝序文〟の中で述べているが、シルバーバーチに語りかけられると、姿はバーバネルなのに、思わず感涙にむせぶ者が多かったと言う。

確かにそうだったに違いない。何しろひねくれ者の毒舌家として世界にその名を知られ、英国では〝フリート街の法王〟と呼ばれて恐れられていたハンネン・スワッハーその人が一も二もなく参ったと言う事実そのものが、シルバーバーチの大きさを何よりも雄弁に物語っている。更に、頑固おやじの様なバーバネルを霊媒として手なずけたと言う事実も見落としてはなるまい。

ところで、そのシルバーバーチの霊言の素晴らしさに触れた者が心しなければならないのは、霊言集に盛られている真理が真理として受け入れられるか否かは、その人の霊性にとってそれが必要であるか否かによって決まることであって、その素晴らしさの分からない人のことを詰まらない人、分かった人は霊性が高いと言った判断を下すべきではないと言うことである。それはシルバーバーチが何度も言っているように当人の問題である。そして受け入れた瞬間から責任が生じる。

その責任には二つの面がある。一つはその真理の指示する通りを素直に生活の中で実践すること、言いかえれば、自分を正直に生きると言うことであり、もう一つはその知識を縁ある人々を通して広げていくと言うことである。イエスの時代から二千年もたち、人類は少なくとも知的には確実に進化している。そしてこうした出版機構の発達により、書物がかつてのように貧しい人の手に入りにくい時代と違って、誰でも何時でも手に入れられる時代である。そして一人静かに何度でも繰り返して読むことが出来る。

このシリーズを愛読してくださっている方の中には、心に残る言葉を抜き書きにしたりテープに吹き込んだりしていらっしゃる方が少なくないようである。理解しにくい個所や疑問に思う箇所について質問をお寄せになる方も多い。その一つ一つに私なりの理解の範囲内でご返事を差し上げているのは無論であるが、それは、その責任が私にあると自覚しているからであると同時に、そうした関係の中で真理が理解されていくのが、これからの時代の一番正しい、そして有効なあり方だと信じるからである。

カセットテープと言う便利なものも出来て、お陰でシルバーバーチの生の声(と言ってもバーバネルの声を太くしたものに過ぎないのだが)を聞いて、交霊会の雰囲気を味わうことも出来る。そこで気心のあった少人数で読書会や研究会あるいは親睦会と言った形で横のつながりを持っておられる方が多いようである。私はこのことを非常にうれしく思い、今後の発展を祈っている。

ただ一言だけ私見を述べさせていただけば、そうした会の発展が特定の人物を中心とした縦の組織を持つに至るのは感心しないであろう。組織であるがゆえの無用の義務、無用の規約、無用の出費が要求されるようになり、それはシルバーバーチが指摘しているように人類が自らを束縛することを繰り返してきたその轍を、またぞろ踏むことになりかねないからである。

ご自分のワープロで印刷したものを知人・友人に配布しておられる方も多い。その中には、九州の獣医さんで、ペットの死をわが子の死のように悲しんで、見るも気の毒なほど塞ぎこんでいる人達の為に、動物の死後についてシルバーバーチが語っている箇所をワープロで印刷したものを渡してあげていると言う方もいる。素晴らしいことだと思い、私の労が報われる思いがする。きっとシルバーバーチも喜でいることであろう。

シルバーバーチはバーバネルの死とともに地上との縁を切ってしまったわけではない。バーバネルと言う地上の人間の肉体を借りての〝語りかけ〟は終わっても、同じ霊団を従え、それはバーバネルやスワッハーなども加えて、何らかの形で地上の霊的革新の為に活躍している筈である。それはイエスが地上を去ったのちも霊団を組織して大々的に働きかけてきたのと同じで、その延長線上にあると考えればよいであろう。

本書はそのシルバーバーチが地上に残してくれた霊言でまだ紹介されていないものの中から、熟読玩味に値すると私が見たものを選んでまとめたものである。サイキックニューズ紙やツーワールズ紙に掲載されたもので霊言集に取り入れられていないものが多いが、前後の関係と内容理解の上で必要とみたものは、すでに紹介されているものでも加えてある。

特に最後の章は紙面に少し余裕があることが分かったので、全巻に目を通しながら〝これはぜひ〟と思うものを拾って追加した。もしかしたら私の記憶違いで、すでに前に掲載されたもの、あるいはそれに類似したものが混じっているかもしれないが、名言は何辺読んでも価値は薄れないと言う言いわけをさせて頂いて、ご寛容願いたい。結果的には本書一冊にシルバーバーチの霊的教訓のエキスが凝縮されることとなった。

本書を人生の友として末永く座右に置いて頂ければ幸いである。 1988年

新装版発行に当たって
多くの読者に支持され、版を重ねてきた、このシリーズが、この度、装いを新たにして出されることになりました。天界のシルバーバーチ霊もさぞかし喜ばしく思ってくれていることでしょう。
平成16年1月  近藤千雄