地上人類への最高の福音
A.W.オースティン(編) 平成元年五月 近藤 千雄(訳)
平成15年1月5日発行

The Seed of Truth
トニー・オーツセンの編集による『シルバーバーチの霊訓』は、それ以前の霊訓集(潮文社)では取り上げていない霊的問題や事実で、しかも重要なものを取りこぼしがないようにとの配慮からまとめられています。

トニー・オーツセンによるシルバーバーチのシリーズがあったお陰で、私達はシルバーバーチの思想をあますところなく、明確に理解できるようになっています。

本書は1987年にサイキックプレス社から出版された『シルバーバーチの霊訓』の最新版の一つで、日本では他社から『シルバーバーチ 愛の力』として発行され数年間絶版になっていたものの復刻版です。

目 次
日本のシルバーバーチファンの皆さんへ
編者まえがき
巻頭のメッセージ
第1章 この私が誰であるかは、どうでもよいことです
第2章 悟りは苦しみの中から生まれるのです
第3章 知識はすべて、ためになるのです
第4章 偶然・運命の気まぐれ・奇跡・偶発事故というものは存在しません
第5章 人間は生まれる前も、今も、そしてこれからもずっと霊です
第6章 人類は苦しみつつも、一歩一歩、光明へ向けて進化しております
第7章 偉大さの尺度は奉仕的精神の度合いにあります
第8章 魂の挫折感を誘発するのは、精神上の倦怠感と絶望感です
第9章 霊の優位性の自覚にもとづく修養的生活―これが最高の生き方です
第10章 幼児期を過ぎれば、幼稚なオモチャは片づけるものです
訳者あとがき

日本のシルバーバーチファンの皆さんへ
私が思うに、世界の大きな宗教のほとんどが死後の生命を約束しておりますが、それを一個の宗派の信者のみのものとしてではなく人類すべてのものとして、つまり一つの“事実”として証明しているのはスピリチュアリズムだけである――そう申し上げて間違いないでしょう。

その根拠はといえば、すでに他界している愛する人たちがその死後の世界から戻ってきて、いわゆる霊媒――死者の霊の姿を見たり、声を聞いたり、その存在を直感できる人――を通じて、死後もなお立派に生き続けていることを立証してくれているからです。

さて、今世紀初めのことです。みじめな貧民層が軒を並べて生活していたロンドン東部地区に、モーリス・バーバネルという青年が住んでいて、商売のかたわら、ある社交クラブに所属していました。そのクラブには各界の著名人が集まり、誰かが講演をして、それに反論して議論の輪を広げていくのが彼の役目でした。ところが、ある日の会合でスピリチュアリズムについての講演があった時に彼はなぜか、自分はスピリチュアリズムについて何も知らないのでと言って討論を拒否し、半年の猶予をいただきたいと申し出ました。本格的にスピリチュアリズムなるものを勉強してみようと決心したのです。

それからのちの経緯(いきさつ)は長くなりますので割愛させていただき、結論だけを申し上げれば、勉強のために何度か交霊会を訪れているうちに、いつの間にか自分自身が霊媒となっておりました。そして、彼の口を使ってシルバーバーチと名のる高級霊がしゃべるようになり、以来六十年にわたって、毎週一回、晩年は月一回の割で出現し、地上生活と死後の生活に関するあらゆる問題についての教えを説いたのでした。(*詳しくは『霊性進化の道しるべ』巻末のバーバネルの遺稿《シルバーバーチと私》を読まれたい。――訳者)

それが六十年間も続き、その間に説かれた教えがバーバネル亡きあと今なお世界中で愛読されているという事実は、シルバーバーチを指導霊とした交霊会が、まやかしのない、真実そのものに根ざした、よほど堅固なものであったことを物語っております。

残念ながらシルバーバーチは地上時代の姓名を名のらないままで終わりました。自分が説く教えそのもので勝負したいからだと言い、かりに地上時代はファラオ(古代エジプトの王)だったとしても、それを立証する手だてがない以上、結局は意味がないことになる、と言うのです。

シルバーバーチという霊について分かっていることは、三千年前に地上で生活したことがあるということ、それが地上時代にインディアンだった別の霊を霊界側の霊媒として使用し、そのインディアンの立場で通信を送ってきたということだけです。それも本当かどうか分からないではないか、とおっしゃる方がいるかも知れません。確かにその通りですが、六十年間に交霊会に訪れた人の中で霊視力をもった人は、みんな口を揃えて、確かにインディアンの容姿が見えたと述べています。中でも霊視力をそなえた画家のマルセル・ポンサン氏が描いた肖像画は、叡智あふれるインディアンの風貌をしており、それが一応シルバーバーチであるとされています。

シルバーバーチの教えには多くの特質がありますが、私が思うに、その中でもとくに大切なのは、人類は全体として一つの大きな家族であり、民族の別、肌の色の違いに関係なく、地上のすべての人間が霊的に結びついているということです。この事実の理解が無いところに、飢えと戦争が絶えない原因があるというのです。シルバーバーチの説く教えにそった生活が営まれるようになれば、地上世界は平和と豊かさに満ちあふれることでしょう。飢えに苦しむ者も貧しさに泣く人もいなくなることでしょう。

私はこれまでに、シルバーバーチの教えを何冊かの本にまとめましたが、そのたびに、表現の見事さに感嘆させられております。用いる言葉はいたって素朴なのですが、その意味するところが実に深遠なのです。

どうか、日本におけるシルバーバーチの霊言の愛読者の皆さんが、本書の中に新たな安らぎと確信と導きと喜びを見出されるよう、心から祈っております。
トニー・オーツセン


編者まえがき
誰でもよい、町の通りを歩いている人を呼び止めて、三千年前に地上で生活したことのある霊が戻ってきて、人生のあらゆる問題に答えてくれている事実を信じますかと尋ねたら、たぶんその人は一目散に逃げ出すであろう。

しかし、肉体の死が生命の終焉(えん)だと信じている人、最後の息を引き取った時、ローソクの火が消えるごとく生命の火が消えるのだと主張する人は、ほんとに気の毒というほかはない。この地上での寿命など、永遠の生命の流れの中ではホンの一瞬の間に過ぎないからである。

死後にこそ実在の世界があること、そこから地上世界へ戻ってくることもできる、というのがスピリチュアリズムの基本的思想である。それを証明する証拠は十分に揃っているし、歴史をみても、それを裏づける事象は豊富である。

シルバーバーチの地上での使命は、一九八一年の七月十七日の夜、霊媒モーリス・バーバネルの他界をもって終了した。今は霊界にいる両者にとって、二人して地上にもたらした霊的真理が今なおこうして世界中で読まれ、感動を呼び、そして広まって行きつつあることを、どれほど喜んでいることであろう。

シルバーバーチは言葉の錬金術師である。世の中が日増しに暴力的傾向を強めていく現在の地上世界にあって、シルバーバーチが語るその言葉と思想は、まさしく魂のオアシスである。

さらに又、半世紀以上にもわたってシルバーバーチが倦(う)むことなく証明してくれていることは、死者も人間界へ語りかけることができること、地上時代の個性も記憶もすべてたずさえていること、人間と同じように理性を働かせることができる知的存在であること、死後もなお、地上に残した縁者のことを気づかってくれていること、そして、肉体の束縛から解放されて、より大きな視野で生命の実相を捉えているということである。

本書に収められた質問は、例によって多彩をきわめる。シルバーバーチは火葬についてどういう見方をしているか、心霊研究についてどう考えているか、死後にも家屋や書物や食べものがあるのか、苦労は性格の発達にとってやはり必要なのか、“モーゼの十戒”は書き改める必要があるのかないのか、患者は複数の心霊治療家にお世話になってもいいのだろうか――こうした疑問について、シルバーバーチは見事な回答を与えてくれている。

シルバーバーチが返答を断ったり、戸惑ったり、答えに窮したりしたことは一度もない。いかに難解な質問をしても、適切な答えを、説得力をもって当意即妙に与えてくれる。

ジャーナリストの端くれとして私も、文章を書くということに慣れてはいるが、シルバーバーチの霊言を編集していていつも感嘆させられることは、文章を修正したり表現を改める必要がまず皆無に等しいということである。その英文の絶妙さは、まず類を見ない。

私の執務室には心霊画家マルセル・ポンサンによるシルバーバーチのカラーの肖像画(ポートレート)(ということになっているが、実際は霊界の霊媒であるインディアンのもの)が掛けてある。これは、一九三七年にスワッファー夫妻と心霊治療家ビリー・パリッシュ夫妻、それにジャーナリストのポール・ハリス夫妻からバーバネル夫妻に贈られた、クリスマスプレゼントである。

以来四十年以上にわたってバーバネル家の書斎に掛けてあったが、今ではサイキックニューズ社の編集室に掛けてある。そもそもサイキックニューズ紙はバーバネルが創刊したのであるから、ここに飾るのが、バーバネルとシルバーバーチ双方への何よりの敬意のしるしとして適切であろう。

本書に収められた叡智あふれる言葉はかなり以前のものであるが、今もってその輝きを少しも失っていない。身分の上下にかかわりなく、すべての人の魂に訴えるものを秘めている。

願わくば読者が、本書をお読みになることによってご自身の中から新たなる活力と精神力と判断力とを引き出し、さらには心の安らぎと未来への希望を見出されんことを。
トニー・オーツセン


巻頭のメッセージ
わたしの言葉を活字で読んで慰めを得たと言ってくださる方々、それまでは孤独な思いの中で生きてきたつもりが、本当は決して一人ぽっちではなく、霊界からの大いなる愛に包まれていたことに気づいてくださった方々に、わたしからささやかなメッセージを贈りたく思います。

わたしの言葉がたった一人の方の魂の琴線にふれて真の自我が目を覚まし、魂に真の自由をもたらす霊的真理に気づかせてあげたことを知るだけで、わたしは何よりもうれしく思います。無知を追い払うごとに、迷信が退散していくごとに、頑迷さが消えていくごとに、偏狭さが薄れていくごとに、わたしの心は喜びに満たされます。霊力が顕現し、愛が死の障壁を突き通して届けられるのをみて、わたしは喜びに堪えません。

霊的知識が正しく届けられ、地上の善男善女が大霊の愛の存在に気づき、その愛の摂理は、正しく理解すれば、物的世界のいかなる力をもってしても、与えることも奪うこともできない豊かさを見出させてくれることを悟ってくれるごとに、わたしは無上の喜びを覚えます。

このわたしへ静かなる思慕の念をお寄せくださる方々、温かい愛の念を送ってくださる方々、さらには真摯なる祈りの念を届けてくださる方々――残念ながら今すぐその一つ一つに直接の応答はできかねますが、その方々に今この場をお借りして、わたしからの感謝の気持を表明させていただきます。そして、どうか、わたしが引き続いて皆さま方の願いにそうべく努力すること、大霊の摂理と力と安らぎが得られる道へいっそう近づくよう導いてさしあげることを、お誓い申し上げます。

空を雲がよぎり、日の光が陰ります。やがて夜になり、星がまたたき、淡い月の光が夜空を照らします。辺りが闇に包まれ、夜のとばりに被われます。が、やがて又、太陽が昇り、こうこうたる光を放ちます。太陽は輝きを失ってはいなかったのです。見えないところで輝いていたのです。神の摂理は、たとえ皆さんにはそのすべては理解できなくても、一瞬の途切れもなく働き、変わることもないのです。

そう思うとき又してもわたしの魂に大霊への祈りの気持が湧いてまいります。

無始無終に存在し給う大霊よ。わたしどもは、あなたをいっそう深く理解し、あなたの摂理をいっそう広く生活の中で実践することによって、わたしども子等の一人一人に内在するあなたの神性の豊かさと美しさをよりいっそう顕現することになりますよう、ここに祈ります。
シルバーバーチ


第1章 この私が誰であるかは、どうでもよいことです
ある日の交霊会に若いアメリカ軍人が招かれた。アメリカでは知らぬ人のない著名人の息子さんで、何なりと質問してくださいと言われて、シルバーバーチに初歩的な質問をした。まず、シルバーバーチが霊媒のバーバネルの口を借りてしゃベり始めた初期のころのことに言及して、こう質問した。

「最初の質問は簡単です。スワッファーさんから伺った話によりますと、あなたは初めのころは英語があまりお上手でなかったそうですが、どういう言語を話しておられたのでしょうか」

「どこでの話でしょうか。この地上でのことでしょうか、それともわたしの本来の世界でのことでしょうか」

「英語がうまく話せなかったということは、何かほかに表現の手段をお持ちだったはずです。地上ではそれを言語といいますが、それは多分この地上で話しておられたものであろうと私は想像しているのですが……」

「ご覧のとおり、ここに一個の物的身体があります。皆さんはこれを霊媒とお呼びになっています。媒介となる霊的な通路の意味です。あるものが届けられるための仲介の道具ということです。

さて、霊界には幾層にもつらなる生命の世界が存在します。そこに生活する者の霊的成長度によって格付けされている世界です。段階的な上下の差があり――互いに融合し合っておりますが――それぞれの界層には、そこに住まうだけの霊的成長を達成した者がいっしょに生活しています。

死後、こちらでの生活を続けていくうちに次第にこの地上世界から遠ざかり、大なり小なり地上との縁が薄れてまいります。わたしもこの三千年間でそこそこの霊的成長を遂げたのですが、ある時わたしを含む相当数の者にお呼びがかかり、地上へ戻って、虚偽と迷信と無知と誤解と偏見の下敷きとなって忘れ去られている永遠の霊的真理、単純素朴な生命の原理のいくつかを説いて、地上世界を救う手だてを講じてほしいとの依頼を受けたのです。

地上世界へ教えを説くためには、わたしの本来のバイブレーションを下げなければなりません――下げるという言い方は正しくないのですが、皆さんにはこれが一ばん分かりやすいでしょう――それは同時に、わたしの個性の何割かを犠牲にすることになるのです。物的波動の世界へ近づくほど、真の自我、霊的な自我は発揮しにくくなるからです。しかも、地上世界とコンタクトするには、わたしの波長と地上の波長とを中継してくれる役(霊媒)が必要となります。

さて、わたしが時おり戻る本来の界層で使用する意志の伝達手段は、地上の言語とは根本的に異なります。表象とか表形といったものは必要でないのです。ですが、地上の人間にわたしの教えを理解してもらうためには、わたしの方が地上世界の言語を勉強するしかありませんでした。そこでわたしも、その道の専門家(エキスパート)のもとで勉強したのです」

「地上ではどこの国にいらしたのですか」

「それはどうでもよろしい。あなたは、わたしの述べることをご自分の理性に照らして、納得がいけば受け入れてください。もしもわたしの言うことにあなたの常識が反発すればそれは拒否なさることです。わたしに限りません。いかなる霊媒の口から出たことでも、霊的というにはお粗末すぎると思われれば、それは受け入れる必要はありません。

わたしが地上世界での仕事を始めてから、もうずいぶんになりますが、開始当初から直面したハンディは、わたしの説く霊的原理の合理性を唯一の旗印としなければならなかったことです。

その正当性については、どなたとでも議論し証言する用意がありますが、それを何らかの権威を振りかざして押しつけることは致しません。わたしが説くところの中身をよく吟味していただきたいというだけです。それには間違いなく霊的純粋性の太鼓判が押されていること、いかなる検証――理性による検証、叡智による検証、常識による検証のどれをとってみても、ボロの出る心配はみじんもないこと、そこには人生の霊的原理が説かれており、それを実行することによって憎しみと悲劇と不正と利己主義――要するに、今地上にはびこっている邪悪なものすべてを排除することができる、ということを申し上げております。

たとえば、わたしはジュリアス・シーザーですと申し上げたところで、それでわたしの述べていることが少しでも価値を増すかといえば、決してそういうものではありません。真理というものは、立派そうな名前を冠した人が言ったからということではなく、真実であるという事実そのものによって価値が確立されるのです」

「もう一つ質問があります。あなたは本来の世界では別の言語を使うとおっしゃいましたが……」と言いかけると、司会のハンネン・スワッファーがそれを遮って、

「言語といっても、こうした言葉ではなくて思念による言語ですよ。霊ならどこの国の人にでも理解できるのです。そうですね?」とシルバーバーチに向かって言う。するとシルバーバーチがその若い軍人に向かって、ていねいに説明する。

「今あなたはわたしに質問なさっていますが、その時あなたは、まず最初に頭の中に思念を抱きます。その思念の中身はあなた自身にはよく分かっています。つまり何を考えているかが分かっていらっしゃるわけです。ところが、それをこのわたしに伝えようとすると、何らかの表現形式、それも、わたしに理解できるものに置き換えないといけません。それを皆さんは“言語”とお呼びになっているわけです。あなたが使用する言葉は、あなたが頭に抱いた思念を相手に理解してもらえる形式で表現しようとする試みの表れなのです。

そうなると、頭に描いた思念が相手にうまく伝わるか否かは、その人の表現能力にかかってくることになりますが、しかし、たとえシェークスピアほどの才能があっても、思念は非物質的なものであり、それを物質的な言語に置き換えるのですから、そのすべてを表現できるはずがありません。しかも、それを聞く側は聞く側で、その内容を理解するためには、その言葉を通して元の思念を想像しなければなりません。

このように、人間どうしでも、とても厄介な操作が長々と行われているのです。それに加えて、言葉にならない思念でも何とか言葉に置き換えないといけませんから、そこに無理が生じ、誤解が生じます。言葉は必ずしも思ってる通りのことを伝えてはいないのです」

「確かに、おっしゃる通りですね」

「ですから、もしも言葉の中継なしに思うことを伝え合うことができれば、地上世界を悩ませている問題のすべて、とまではいかなくても、その多くが解消されるはずです。言葉による誤解とか思い違いといったものが生じないからです。伝えたいことがそのまま伝わり、外交辞令とか、言葉をにごすといった余計なことをしなくなるはずです。

わたしの世界の言語は思念の言語です。つまり、心と心との直接の交信によって通じ合い、地上時代の習慣から脱け切ると、言葉は使用しなくなります。したがって言語の違いによる混乱が生じないわけです。地上でフランス人だった人がスウェーデン人と、エスキモーだった人がイタリア人と、気楽に通じ合います。地上のように、思ったことをいったん言葉というシンボルに置き換えることなく、そのままで通じ合えるのです。おわかりでしょうか」

「ええ、よくわかりました。では、つい最近霊界入りしたばかりの人と、大昔に他界した人との間はどうでしょうか。やはり簡単に通じ合えるのでしょうか」

「必ずしもそうはいきません。考慮しなければならない要素がいくつかあります。まず、人間は霊をたずさえた肉体ではなく、肉体をたずさえた霊であるという考え方から出発しなくてはなりません。物質の世界に生きている以上、どうしても生命を物質的なものとして捉えがちですが、本質的には生命は物質的なものではなく、その根本は非物質的なものです。あなたという存在は本来は物質ではないのです。肉体は物質です。が、本当のあなたは、今の条件下では触れてみることも、見ることも、聞くこともできません。“霊”なのですから……

さて、その本当のあなたの、その時その時の“質”の程度は、それまでどういう生き方をしてきたかによって決まります。その摂理は、身分上下の隔てなく、すべての人間に当てはまることであり、なん人といえども、それに干渉することはできません。

わたしのいう摂理とは、自然界の法則という意味です。原因と結果の法則、因果律です。自分第一の生活を送れば、その人の霊性にいじけた生活の結果が色濃く出てきます。利己的生活はいじけた霊性を作り出すように摂理が働くからです。反対に、自分を忘れ、人を思いやる生活を送れば、霊性が発達します。そういうように摂理ができ上がっているのであり、そこに例外はありません。

つまり現在のあなたは、これまでのあなたの行為――その身体で行ったこと、心で行ったこと、つまりは生活全体の総合結果であるということです。その本来の姿は地上にいる間は見えませんが、死の敷居をまたいで肉体から切り離された瞬間から、その有りのままの姿がさらけ出されます。高すぎもせず低すぎもしません。地上生活中に自分でこしらえた個性をそっくりそのままたずさえて、こちらへ来られます。あなたにとっての本当の財産とは、地上での日常生活で発揮した霊的資質だったのです。だからこそ摂理は公平なのであり、分け隔てがないのです。いやしくも合理的思考能力をもつ者なら、文句のつけようのない判断基準が用意されているのです。

以上のことから死後のことを想像してください。あなたはそうした霊的本性に合った世界へ赴くのです。特別の使命がないかぎり、それより低い世界へは行きたいとは思いません。が、それより高い世界へは、行きたくても行けません。その時に発揮しているバイブレーションより高いものは発揮できないからです。そういう次第ですから、結局は霊的成長度と霊的能力において同等の人たちと交わることになるわけです」

「ということは、古い時代の人であっても霊的に同格であれば、同じ界層でいっしょになれるということですね?」

「そうです。そういうことになるのです。年代には関係ありません。地上の年齢には関係ありません。すべては霊的成長度によって決まるのです。その点が地上世界とこちらの世界との大きな違いです。今あなたが生活しておられる世界では、精神的にそれぞれに程度が異なる人々が同一平面上で暮らしております。が、こちらへ来ると、同じ程度の人たちといっしょに暮らすことになります。といって、たとえば大音楽家の音楽が聴けなくなるという意味ではありません。生活上で交わる相手が同格の霊性を身につけた者に限られるということです。絶対に誤ることのない霊的親和力の法則によって自然にそう収まるのです」

このあと霊界と地上界との交信についての問題点が議論されてから、シルバーバーチがこう続けた。

「地上界は永い間の物質偏重の生活によって、霊性を鈍らせてしまったのです。人類もかつては目に見えない界層との連絡活動を盛んに行っていたのです。内在する永遠の実在の資質である霊的能力について、ちゃんとした認識があったのです。古い時代の記録、たとえばキリスト教のバイブルを細かくご覧になれば――といって、わたしがバイブルにこだわっていると思われては困りますが――太古にさかのぼるほど、心霊的能力が自然に使用されていたことがわかります。残念なことに、それが他の能力と同じように、使用されなくなるにつれて退化していき、今日では、霊的波動を捉えることのできる人は、ごくごく少数となってしまいました。

今日の人間は“牢(ろう)”の中で暮らしているようなものです。その牢には小さな窓がたった五つしかついておりません。それが五感です。目に見え、耳に聞こえ、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、肌で感じるものだけを実在と思い、それ以外の、身のまわりに起きている無数の出来事には、まったく気づいていらっしゃいません。あなたが存在するその場所、およびその周辺には、次元の異なる世界がぎっしり詰まっていて、そこでも生命活動が活発に展開しているのです。見えないから存在しないと思ってはいけません。あなたの感覚ではその波動が捉えられないというだけのことです。

人間が“死”と呼んでいるのは、その物的身体が活動を止めるというだけのことです。往々にしてそれが、残念なことに、魂に十分な準備ができていないうちに起きることがあります。が、いずれにせよ、死とともに、本当のあなたである霊は肉体という牢から解放され、より精妙な身体、霊的身体――幽体と呼ぶ人もいます――を通して自我を表現することになります。それまでずっと無意識のうちにその時に備えていたのです(※)。あなたがたが“死”と呼んでいる現象は、実は、それまでとは比較にならないほど大きな活動の舞台、生命活動の世界へ誘(いざな)ってくれる門出なのです。なぜなら、その時から霊的能力が本格的に機能を発揮しはじめるからです」

※――これには二つの要素が含まれている。 一つは、母胎内において誕生後の大気中での生活に備えて成長が進行しているのと同じで、各自の肉体の成長とともに幽体が発達し、知的生活によって霊体が発達し、喜怒哀楽の人生体験によって本体が発達している。
もう一つは、毎晩眠りにつくと同時に霊的身体が肉体から脱け出て、霊的世界での勉強や遊び、旅行などを通じて準備している。異次元の体験であるために、特殊な霊能者を除いて、ほとんどがその記憶を顕在意識で捉えることができないが、無意識ではあっても、記憶の層には着々と蓄積されている。


「死後も地上の同じ場所に留まるのでしょうか。それとも、まったく新しい別世界となるのでしょうか」

「宇宙はたった一つです。が、その中に無数の世界が存在するのです。生命はたった一つです。が、それも無数の段階があるのです。こうした霊的実在の問題を扱う際に直面するのが、言語の不便さです。大ざっぱで、ぎこちなくて、意を尽しがたい、ただの符号(シンボル)にすぎないものを使用しなければなりませんので、わたしの本意が伝わりにくいのです。

生命は一つです。宇宙は一つです。そこには限界というものがありません。ここが宇宙の端っこですという、最先端がないのです。ですから、皆さんの視界から消え去った過去の人たちは、今もあなたと同じ宇宙の中で生き続けているのです。しかし、界層が異なります。波長の次元が異なります。次元の異なる意識の中で生活しているのです。それでいて、あなたと同じ場所にいるのです。その肉眼に見えないだけです。それはちょうど、あなた自身は気がつかなくても、あなたは今わたしの世界である霊界にいるのと同じことです。

生命のあらゆる側面が一つに融合しているのです。仕切り線というようなものはありません。その中に物的な側面と霊的な側面とが存在し、同じ場所で融合しているのです。

たとえてみれば、無線の周波のようなものです。あなたのいらっしゃる同じ位置に、周波数の異なる電波が無数に存在するのです。宇宙空間に充満しているのです。が、そのうちのどれをキャッチするかは、受信機の性能一つにかかっています。それと同じで、あなたは今の段階では物的波動に制約されています。それしかキャッチできないのです。霊視能力者というのは同じく光の波動でも物的なものとは次元の異なる、より精妙な波動をキャッチできる人のことです。霊聴能力者というのは、同じく音波でも物的なものを超えた、より繊細な波動をキャッチできる人のことです。すべてはその人の性能にかかっております。

さて、死後のことで、ぜひとも知っておいていただきたいのは、肉体を捨ててこちらの世界――生命の別の側面、いわゆる霊の世界へ来てみると、初めのうちは戸惑いを感じます。思いも寄らないことばかりだからです。そこで、しばらくは地上世界のことに心が引き戻されます。愛情も、意識も、記憶も、連想も、すべてが地上生活とつながっているからです。そこで、懐かしい場所をうろつきますが、何に触っても感触がなく、誰に話しかけても――我が家でも会社でも事務所でも――みんな知らん顔をしているので、一体どうなったのだろうと困惑します。自分が“死んだ”ことに気づかないからです。しかし、いつまでもその状態が続くわけではありません。やがて霊的感覚が芽生えるにつれて、実在への自覚が目覚めてまいります」

この米国軍人には最近他界したばかりの兄弟がいる。その話を持ち出して――

「何度か私は、彼も今いっしょだったらなあとか、この場面をあいつにも見せたいなあ、などと思うことがあります」

「ちゃんと見えてますよ、いつも」

「でも私には、彼が今いっしょにいるということを知る手だてがありません」

「おっしゃる通り、残念ながら、ありませんね。あなたが霊的能力を発達させて、彼の姿を見たり交信したりすることができるようになるしか、方法はありません。彼の方はあなたにない能力が加わっていますから、あなたのことは何もかもわかっています。が、あなたにはまだその能力が発達していませんから、彼のことを知ることができないわけです」

「今のお言葉ですと、私にもその能力が備わっているみたいですが……」

「もちろん備わってますとも。人間のすべてに備わっているのです。わたしは、この事実を知るだけでも革命的といえるのではないかと考えています。世界の著名な宗教家はみなその事実を説いております。偉大な宗教家の教えの根本には、必ずその事実があります。自分自身がそのお蔭でインスピレーションを受けていたからです。みな同じ霊的始源に発しているのです。どの宗教家も基本的にはまったく同じ霊的真理を説いたのです。すなわち、人間は霊的天命を背負った霊的存在であること、死後の、より大きな生命の舞台に備えるために今この地上に来ていること、そして、多くの人から受けた愛と、自らこしらえた性格と、自ら開拓した霊的資質とをたずさえて、この世を後にするということです。

それがあらゆる宗教の中心的な教えではないでしょうか。そして、その基本的な教えがすべての宗教から、一つの例外もなく、忘れ去られているのが事実ではないでしょうか。厖大な量の教義と神学と教条主義――要するに宗教とは何の関係もない、そして宗教として何の価値もない、人間の勝手な説に置き換えられているのです」

では一体どういう心がけで生きるべきかについて、シルバーバーチはこう説いた。

「あなたはまだ、このわたしをよくご存知ではありませんが、すでによくご存知の方に再三申し上げてきたことを、あなたにも申し上げます。自分で判断して、これが正しいと思う生き方をすればよいのです。世間がどう言おうと構うことはありません。まわりの人が何と言おうと気にすることはありません。自分で正しいと思うこと――この方が得だとか都合がよいとかではなく、心の奥でこうするのが本当だと確信した道を選んで、突き進むのです。

いたって単純なことなのです。ところが地上という世界は、その単純なことでは気が済まないところのようです。複雑なもの、込み入ったことがお好きのようです。そろそろ平凡に思えてくると、真実とはもっと難しいものなのではないかと思いはじめます。そこでわたしは、あくまでも良心の声に従いなさいと申し上げるのです。良心とは内部に設置されている、神の監視装置――当人にとっての善と悪とを選り分け、進むべき道を決断するための手段です。

問題はそのあとです。かくあるべきとの良心からの指示を得たら、その方向にいかなる困難が予想されようと、臆することなく、迷うことなく、その指示に従わないといけません。最後はきっとそれで良かったということになるのです。単純なのです。これ以上わかりやすい話はありません。

あなたには、宿命的に、有利な条件と不利な条件とがあります。しかし、同時に、あなたならではの才能をお持ちです。それを他人のために役立てなさい――わたしからはそう申し上げるしかありません。今生きておられる世の中は、涙と苦しみと悲しみと惨めさに満ち満ちております。そうした中にあって、あなたより幸せの少ない人たちのために役立つことをなさることです。

見回してごらんなさい。慰めを求めている人、導きを求めている人、光を求めている人たちが無数にいます。そういう人たちのためにあなたが何かの役に立つかも知れません。自分ではどうしようもない、不幸な境遇の犠牲になっている人が多すぎます。その日の食べものにも事欠く人が多すぎます。ほこりと不潔と病気の中で暮らしている人が多すぎます。思うにまかせない不自由な身体で生きざるをえない人が多すぎます。

もしかしたら、その中にあなたにも手助けしてあげられる人がいるかも知れません。そういう人たちの身になってあげることが大切なのです。そして、あなたなりの手助けをしてあげる――そこにあなたの試金石があります。

いいですか、ほかのことは信じていただかなくても結構ですから、次のことだけは信じてください。あなたが生涯でたった一人の魂に光明を見出させてあげることができたら、たった一人の人間の飢えを満たし、のどの渇きをうるおしてあげることができたら、たった一人の人間の肩の荷を軽くしてあげ、前途に横たわる石ころを取り除いてあげることができたら、それは地上の全財宝にも勝る貴重な行為をしたことになるのです。

そのためにも、これからあなたは霊的実在について少しでも多くの知識を身につける努力をなさらないといけません。残念ながら生涯を暗闇の中で過ごす人が多すぎます。わたしたちはその暗闇にささやかな霊的真理の明かりを灯してさしあげようと努力しているところです。それは無用の闇だからです。地上にも真の天国となる可能性があるのです。それが実現するか否かは、真理を手にした人が生活の中で実行するか否かにかかっております。

わたしからは、ともかくも人のためになることを心掛けなさい、と申し上げます。わたしにとっては、それが唯一の宗教だからです。讃美歌も、聖書も、教会も、礼拝堂もいりません。その種のものは、世の中をより良くしようという気持を起こさせないかぎり、何の意味もありません。真の宗教とは、いつどこにいても、同胞のために自分を役立てることです。

このわたしが誰であるかは、どうでもよろしい。それは関係ありません。もしかしたら地上で大変な人物だったかも知れませんし、つまらぬ人間だったかも知れません。が、身分や姓名は何の意味もありません。わたしの述べた真理があなたにとってお役に立てば、それで満足なのです。わたしの存在価値が発揮されたことになるからです。

さて、わたしとの対話がお役に立ったかどうかは別として、最後に一つだけ申し上げさせていただきましょう。それは、いついかなる時も、あなたの身のまわりには見えざる存在がいてあなたを導き、守護し、あなたの存在価値を最大限に発揮させるべく働きかけているということです。一人ぽっちでいることは決してありません。見捨てられることは絶対にありません。いついかなる時も愛のマントに包まれております。その愛の力は霊の力です。全生命の始源です。太陽を、月を、星を、海を、山を、全生命を、全宇宙を創造した力なのです」

祈り
この果てしなき創造機構の中にあって……

ああ、真白き大霊よ。全生命の背後の崇高なる摂理にあらせられ、森羅万象を創造したまい、全大宇宙のあらゆる営み、あらゆる活動を制約し規制するための、永遠不変の法則を稼動なされた方として、わたしたちは、あなたという絶対的存在に思いを馳せるのでございます。

あなたの心は、ほかならぬその摂理を案出せる心であり、あなたの愛は、ほかならぬその摂理を維持している愛でございます。すべてはあなたに始まり、存在するものはすべてその淵源をあなたに発しております。すべての存在にあなたの霊が浸透し、したがって何一つ忘れ去られることがなく、何一つ等閑(なおざり)にされることがないのでございます。

あなたの崇高なる御業(みわざ)は、大自然の無数の美の広大なパノラマの中に見ることができます。移りゆく四季おりおりの壮観と美の中に、あなたの崇高なる御業を見出すことができます。絶え間なく、休むことなく機能している進化の法則の中にも、あなたの神性が反映しております。

しかし、あなたの神性の最大の顕現は、ほかならぬ人間の霊性の中に見出すことができます。その最高の表現が、人のために己を犠牲にする行為でございます。

あなたは、子等を永劫(ごう)の絆によってあなたご自身と結びつけておられます。その絆は、切ろうにも切れるものではございません。人生のいかなる出来事、たとえ“死”といえども、子等をあなたから、あるいは子等からあなたを切り離すことはできません。生得の資質ゆえに、すべての叡智、すべての愛、すべてのインスピレーション、すべての知識の泉であるあなたと、常に結びついているのでございます。

わたしどもの仕事は、この果てしなき創造機構の中にあって、地上の子等がその存在意義をより多く発揮し、あなたの道具として、あなたの御心を広め、あなたの真理を普及させる上で役立つ力を身につけるように指導することでございます。

その備えができてはじめて、弱き者に援助の手を差しのべ、苦しむ者の心の支えとなり、挫けた者を救い、道を見失った者に指示を与え、飢えに苦しむ者に食べものを、住む家もない者に宿りを提供し、無知の支配するところに知識をもたらし、闇に包まれたところに光をもたらしてあげることができるのでございます。あなたを知らぬ無数の子等があなたの存在に気づき、豊かな理解力をさずかる生き方を見出す、そのカギを手にさせてあげることができるのでございます。

物質の世界と霊の世界との間に横たわる障害を取り払い、あなたの道具を通して豊かなインスピレーションが絶え間なく地上へ届けられ、あなたの愛がふんだんに流入して、それを必要とする者に行きわたり、喪(も)の悲しみの中にある人の涙を霊的摂理の知識によって拭ってあげる――それがわたしどもの仕事でございます。

ここに、あなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

第2章 悟りは苦しみの中から生まれるのです
ロンドンが大空襲を受けた第二次大戦のさ中にも、ハンネン・スワッファー・ホームサークルはいつもと変わることなく、毎週一回の交霊を続けた。

当時〈サイキックニューズ〉の主幹だった霊媒のモーリス・バーバネルは、戦後その時のことを振り返って、「こっちの方も一回も休刊にしなかったからね」と、自慢げに語っていた。前の週の交霊会の記録を大戦中もずっと掲載し続けたことを誇りに思っていたことが、この言葉ににじみ出ている。確かに、そのおかげで高級霊界からの純粋無垢のインスピレーションが紙上に載り、多くの人々に確信と慰安と、そして何よりも、生きる希望を与えたことは間違いないからである。

では、当時の記録の中から幾つか拾ってみよう。シルバーバーチが苦労の大切さを力説することはよく知られているが、ある日の交霊会でも改めてそのことに言及して――

「苦しみの要素も摂理の一環です。いわれのない苦しみを被っていると思っている人も、やはり過去において何らかの形で摂理に反したことをしているからこそ、今のその苦しみがあるのです。それが因果律というものです。苦しみを味わってこそ摂理がわかるのです」

「でも、苦しむことだけが向上の唯一の道ではないと思いますが……」とメンバーの一人が言う。

「もちろんそうです。ですが、大切な道の一つであることは間違いありません。苦難や危険や困難から逃避しようとする人が、わたしには理解できません。目的を達成しようとすれば、あるいは、持てる資質を磨き上げようとすれば、試練の炎をくぐり抜けなければなりません。鍛えられ、しごかれないといけません。それ以外に一体どうすれば本当の性根が確かめられるのでしょうか」

すると別の出席者が――

「“慈悲深き神”という概念を説く人がおり、そういう人にとっては、苦難を通しての人格の陶冶(とうや)などということは無縁のようです」

「神が慈悲深いということを、どこのどなたが説いておられるのか知りませんが、神とは摂理のことです。究極においては慈悲深い配慮が行きわたっておりますが、そこに至る過程においては日照りの日もあれば雨の日もあり、雪の日もあれば嵐の日もあり、穏やかな日もあれば雷鳴の轟(とどろ)く日もあり、酷暑の日もあれば酷寒の日もあり、それがすべて法則によって支配されているのです。

わたしは、それと同じことが愛と憎しみ、怒りと純情についても言えることを説いたことがあります。そこにも大霊の摂理の働きがあるからです。が、それが理解できない人が大勢いらしたようです。大霊が憎しみの中にも宿るということが理解できないのです。しかし大霊は、大霊であるがゆえにこそ、必然的にすべてに宿るのです。摂理なのです。完全なる法則なのです」

「では、その摂理に完全にのっとった生き方をすれば、神の慈悲がわかるのでしょうか」と別のメンバーが述べる。

「もちろん、そういうことになります。ですが、そこまでに至る過程は永遠なのです。そのうちあなたも、地上人生を明確な視野のもとに見つめ直す時がまいります。その時、苦難こそ最も大切な教訓を教えてくれていること、もしもあの時あれだけ苦しまなかったら、悟りは得られなかったであろうことを、しみじみと実感なさいます。辛い教訓ではあります。が、教訓とはそういうものなのです。もしも教訓がラクに学べるものだとしたら、もしも人生に苦労も誘惑も困難もなく、気楽な漫遊の旅だったら、それは頽廃ヘの道を進んでいることになります」

その後の交霊会でも同じテーマが持ち出されて、シルバーバーチはこう語った。

「痛みも苦しみもない人生、辛苦も悲哀もない人生、常に日向を歩き、日陰というものがない人生を送る人は、地上には一人もいません。少なくともわたしは、そういう人を知りません」

すると、こういう質問が出された。

「もしも人格の陶冶にとって苦難が不可欠のものであるとしたら、苦しむことを知らない人たちがいるのは一種の不公平であるように思えますが……」

「苦しむことを知らない人がいる――それはどなたがおっしゃったのでしょうか。苦しみというものは必ずしも第三者の目に見える外面的なものばかりとはかぎりません。心が、精神が、魂が、その内奥で感じるのが本当の苦しみです。人間生活を日常のうわべの現象だけで判断してはなりません。それをどう受け止めていくかは、魂の問題です」

「苦難がそれほど大切なものであり、霊的進化にとって不可欠のものならば、なぜあなたは人の苦しみを和らげてあげる行為を奨励なさるのでしょうか」

「おっしゃる通り、わたしはそのことを大いに奨励いたします。ですが、よろしいですか、わたしは、いつの日かこの地上から全ての苦の要素が取り除かれて完ぺきな世界となると想像するほど愚かではありません。生命の進化は限りなく続くのです。わたしは三千年を生きてきた今、そう悟っているのです。その無限の階梯を登り続けるには、刻一刻と絶え間なく進化していかねばなりません。そして、その進化とは、不完全なものが少しずつ完全になっていくということを意味するのですから、それは当然、苦を伴う過程であるはずです。

そのこととは別に、同じく苦しむのでも、地上には無用の苦しみが多すぎるという事実を指摘したいのです。みずから背負(しょ)い込んでいる苦しみ、みずから好んで無知と愚かさの道を選んだために引き起こしている苦しみ、偏見が生み出している苦しみ、迷信に捉われているために生じている苦しみ――わたしが取り除きたいのは、そうした無くもがなの苦しみです。しかし人間は、本来が進化の要素を秘めた存在ですから、光明へ向けての葛藤の絶えることはありません。何事につけ、創造の過程には苦しみはつきものなのです。

問題は、人間の多くが、自分が今置かれている境遇に不満をかこつばかりで、過去の生活を冷静に振り返り、不満に思える現在の境遇から一歩離れて冷静に反省すれば、この世はすべて闇だ、イヤなことばかりだと思えたその時期こそ、霊的に最も大きく成長していたことが分かるということを、なかなか悟ってくれないことです」

「しかし、場合によっては、苦しみの体験が性格をいじけさせることもあります」

「それは、その体験が魂の本性を引き出すまでに至らなかったということです。それまでに顕現していた側面が、苦難の体験後もまだ真実の自我とはなっていないということです。実在がまだ顔を出していないのです」

別のメンバーが尋ねる――

「霊的な能力の有る人と無い人とがいるのはなぜでしょうか」

「潜在的にはすべての人間が霊的能力を所有しております。人間も本来は霊的存在である以上、それは当然のことです。ただ、人によってその能力が顕在意識の近くまで発達しているためにすぐに発揮される場合があるということです。

ですから今のご質問は“スタイルのいい人と悪い人がいるのはなぜですか”“絵の上手な人と下手な人とがいるのはなぜですか”というのと同じです。その拠(よ)ってきたる原因はちゃんとあるわけですが、それを全部説明するのは大変です」

別の日の交霊会で戦争が話題になったとき、次のような興味ある質問が出た。

「ダンケルクでの英国軍の撤退作戦のとき海が穏やかで、シチリア島での作戦のときも天候が味方してくれたと聞いていますが、これは神が味方してくれたのでしょうか」

「宇宙の大霊はいかなることにも特別の干渉はいたしません。法則、大自然の摂理として働き、これからも永遠に存在し続けます。摂理の働きを中止したり干渉したりする必要性が生じるような事態は一度たりとも生じておりませんし、これからも絶対に起きません。世の中の出来事は自然の摂理によって支配されており、大霊による特別の干渉は必要ありません。もしも干渉が有りうることになったら、大霊が大霊でなくなります。完全でないことになり、混乱が生じます」

「今の質問は、最近多くの高名な方が、ラジオ放送で、神が英国に味方してくれたかのように述べているので、お聞きしてみたのです」

「本当の高名は魂の偉大さが生むものです。それ以外に判断の基準はありません。何を根拠にしようと、大霊が自国に味方するかのように想像してはなりません。大霊とは法則なのです。あなたが正しいことをすれば、自動的にあなたは自然法則と調和するのです。窮地に陥ったあなた一人のために、どこか偉そうな人間的な神さまが総力をあげて救いに来てくれるような図を想像してはなりません。スピリチュアリストを自認する人たちの中にも、いまだにそういう風に考えている人が大勢います」

「一人ひとり進化の程度が異なるので理解の仕方も違ってくるのだと思います」

「ですから、わたしが申し上げていることに賛成してくださらなくても、あるいはわたしが間違っている――とんでもないことを言うヤツだ、と思われても一向にかまわないのです。わたしはわたしの見てきたままの真理を申し上げているだけです。永い永い進化の過程をへたのちに学んだままをお届けしているのです。それがキリスト教やヒンズー教、その他、聞いてくださる方の宗教を混乱させることになっても、それは、このわたしには関わりのないことです。わたしはそういう名称や教義、いかなる宗教の概念にもまったく関心がないのです。わたしはわたしが学んできた真理しか眼中にありません。それがわたしの唯一の判断基準です。

わたしの申し上げることがしっくりこないという方に押しつける気持は毛頭ありません。わたしに知り得たものを、精いっぱい謙虚に、精いっぱい敬虔な気持で披瀝するだけです。わたしが獲得した知識のすべて、叡智のすべてを、受け入れてくださる方の足もとに置いてさしあげるだけです。これは受け取るわけにはいきません、とおっしゃれば、それはその方の責任であり、わたしの責任ではありません」

別の日の交霊会に英国陸軍第八部隊所属の一軍人が招かれた。本来はフリート街の青年ジャーナリストである。早くからシルバーバーチの霊訓に魅せられ、これまでの霊言は読んでないものは一語もないほどだった。そして、輸送船の中で、野営地において、あるいは戦場において、戦友と議論を闘わせてきた。それだけに、シルバーバーチヘの質問には“永遠”の問題など、難解なものが飛び出したが、例によってシルバーバーチは直截簡明に答えている。まずシルバーバーチの方からこう語りかけた。

「あなたは今は英国の軍人でいらっしゃいますが、そのあなたにもぜひ参加していただかねばならない、もっと大きな戦いがあります。幾世紀も前から、真理普及のための強大な霊的軍団が組織されているのです。霊的真理に対して絶対的忠誠心をもって臨めば、あなたの強力な味方となってくれます。

あなたへ届けられる“召集令状”は、人のために自分を役立てることを求めています。勲章は授けてくれません。襟章(バッジ)もつけてくれません。等級もありません。しかし、絶対的な忠誠心と堅忍不抜の献身的精神をもって臨めば、必ずや勝利を手にすることができることを、わたしがお約束します。

どうかあなたも、地上世界を毒している諸悪の駆逐のために、わたしたちの味方になってください。わたしたちの新たな道具として、一命を捧げていただけませんか。あなたの行為によってたった一つの魂でも救うことができれば、それだけであなたの人生は無駄でなかったことになります。わたしたちの仕事はそのようにして推進されていくのです」

「一人の人間のすることはたかが知れてるように思えるのです。軍隊にいると、ただ語り合うことしかできません」

「その、たった一人の人間も、霊の力を背後にすれば大きな仕事ができるのです。わたしは決して、自惚(うぬぼ)れて大きな口をたたいているのではありません。わたしにも謙虚な気持と哀れみの情はあります。わたし自身が、当初はとても無理と思える仕事を仰せつかったのです。地上の方にはまったく無名のこのわたしが、この声と素朴な教え以外には何の資産もなしに、たった一人で地上へ赴き、自分で道具(霊媒)を見つけ、愛と理性のみで勝利してみよと言われたのです。

おっしゃる通り、たった一人のすることです。見た目にはたった一人です。が、その背後には、自分を役立てたいとの願望に燃える者にかならず授けられる強大な霊力が控えております。わたしは、あらゆる逆境と困難と障害の中にあって、一個の人間(バーバネル)に目星をつけました。その人間をわたしの目的にそって鍛練し、さらに試行錯誤をくり返しつつも忍耐強く、真理普及という仕事に協力してくれる人間(サークルのメンバー)を探し求めました。何かの報酬と引き替えに募ったのではありません。献身的精神を吹き込んでみた時の反応だけで選んだのです。そして、ご覧なさい。わずかな年数のうちに、われわれを伝達手段として、誇り高き道具として、霊的真理が全世界に広められました。

かつても、大きな仕事をたった一人で始めた人がいました。その名をナザレのイエスと言いました。その、たった一人の人間が、愛を基本理念とした新しい宗教の規範を地上へもたらしたのです。

たった一人で大きな仕事を始めた人は、ほかにもいます。その名をリンカーンと言いました。彼は奴隷を解放し、あの大きな大陸を一つにまとめました。

いかがですか? たった一人でも大きな仕事ができることを示す例を、もっと挙げてほしいですか。あきらめてはなりません。真理普及というこの大きな闘いにおいて、わたしたちの味方になられた方に“敗北”はありません。時として後退のやむなきに至ることはあるでしょう。が、知識が無知を追い払い、光が闇をかき消しながら、われわれは絶え間なく前進を続けております。

わたしは古い霊です――皆さんからそう見られております。わたしくらいになると、人間の可能性というものが分かります。そのわたしから、あなたに激励の言葉を述べさせていただきます。一切のあきらめの念を駆逐しなさい。そうです、わたしたちには為さねばならない仕事があるのです。偉大な仕事です。よろこんでその手を、その心を、その精神を貸してくださる人々の協力を必要とする、大仕事があるのです。

あなたもぜひ参加してください。あなた自身が手にされた知識を、寛容の精神で他人に披露して、その良さを知っていただくための努力を忍耐強く続けてください。そのうちきっと、少しずつ変革が生じていることに気づかれます。

それしか方法がないのです。集団的暗示や熱狂的説教による陶酔ではいけません。理性と叡智と論理と常識、そして何よりも愛をもって、真実を説くことによって一人ひとり得心させていかねばなりません。結局はそれしかないのです。そう思われませんか」

「そう思います。しかし、それには気の遠くなるような時間が掛かります」

「ある人が言ってますよ、地球はあなたが生まれる前から存在し、あなたが去ったあともずっと存在します、と。その地上での束の間の人生を、なんとか価値あるものにすることに専念なさることです。たった一個の魂のためにあなたの存在を役立てることができれば、それだけであなたの人生は失敗でなかったことになるのです」

「でも、生涯を何一つ他人のために役立つことをしないまま終わる人が大勢います」

「若者はとかくせっかちに考えがちなものです。が、世の中は急激な革命によってではなく、ゆっくりとした進化によって改められていく――それが摂理なのです。わたしは若者特有の熱誠や情熱に水をさすつもりは毛頭ありません。わたしがこれまでに見てきたままを申し上げているのです。ご自分の経験から得られる叡智を道しるべとする――これが一番です。わたしたちが人間を導く上でそれを一番の拠り所としています。だからこそ説得力があるのです。その方針でやってきて、わたしたちは多くの方が感じ取っておられる以上に、大きな進歩を遂げております。

失望なさってはいけません。わたしたちも、決してあなた方を失望させるようなことは致しません。自惚れているのではありません。霊的法則に関する知識を駆使して、霊的資源を活用する用意があるからです。その資源は無尽蔵なのです。それを活用して、どんな境遇に置かれても、それを克服できるよう導き、そして支援して、あなたの存在をできるだけ有効に生かす道を歩んでいただくように致します。

奉仕(サービス)こそ霊の通貨(コイン)です。宗教とは何かと問われれば、わたしは躊躇(ちゅうちょ)なく申し上げます――いつどこにいても人のために自分を役立てることです、と。神学などはどうでもよろしい。教義、儀式、祭礼、教典などは関係ありません。祭壇に何の意味がありましょう。尖塔に何の意味があるのでしょう。ステンドグラスの窓にしたからといって、一体どうなるというのでしょう。法衣をまとったら、どこがどう違ってくるというのでしょう。そうしたものに惑わされてはいけません。何の意味もないのです。

自分を人のために役立てること、それが宗教です。あなたの住むその世界のために役立てるのです。世の中を明るくするために役立てるのです。人の心を思いやり、やさしくいたわり、気持を察してあげなさい。しかし同時に、邪悪なものに対しては敢然と闘ってください。

わたしが地上へお伝えに戻ってきた真理とは、こうした何でもないことばかりなのです。しかし、こうした基本的な真理にしがみついてさえいれば、道を誤ることはありません。霊的知識を広めることです。ときには拒否され、ときには嘲笑され、軽蔑され、愚弄されることもあることでしょう。しかし、気になさってはいけません。そんなことで傷つけられてはなりません。用意のできていない者は当然受け入れることはできません。でも、それであなたは、あなたの為すべきことをなさったのです。

しかし、一方には、それが干天の慈雨である人もいます。そういう人こそ大切なのです。その人たちのお役に立てば、それだけで、少なくともあなたの人生は存在価値をもつことになります。

どうか、わたしがこれまでに述べてきた知識の中から、物的生活の背後で働いている霊的活動、あなたの身のまわりに存在する莫大な霊力、あなた方を善のために活用せんとして待ち構えている霊の存在を認識してください。あなた自身の中に潜在する可能性をしっかりと認識してください。それが、自我の霊的本性のもつ莫大な兵器庫、魂の宝庫を開くカギとなるからです。神の叡智は無限であるということ、宇宙の宝物(ほうもつ)は無尽蔵であるということの意味を、しっかりと理解してください。

わたしたちは金や銀の財宝をお持ちしてあげるわけにはまいりません。が、それより無限大に貴重な、霊的真理という名の宝石をお持ちしております。これは色褪(あ)せる心配がありません。永遠に価値を発揮しつづけます。これさえ携えていれば、人生を生き抜く上での、光輝あふれる照明となってくれます」

「私たち兵士が外地を転戦した時、みんな敵の方が悪いのだと思って戦いました。しかし、考えてみると、その敵もみな、その戦いにかける大義名分があればこそ戦っていたのです。こうした場合、罪の報いはどうなるのでしょうか。われわれは敵が悪いと思って戦い、敵は自分たちこそ正しいと思って戦っているのです」

「いかなる問題においても、わたしたち霊界の者は、地上的観点から見ていないということ、地上的尺度で判断しないということ、人間的な憎しみや激情には絶対に巻き込まれないということ、往々にして人間の判断力を曇らせている、近視眼的無分別に振り回されることは絶対にないことを、まず申し上げておきます。

さらに大切なこととして、いま定住している霊的世界における摂理の働きを体験してきたわたしたちは、地上の人間を悩ませる問題を、人間自身の受け止め方とは違った受け止め方をしていること、あなた方と同じ視野では捉えていないということも知ってください。

以上の大切な前置きを大前提として申し上げますが、そうした問題において何よりまず第一に考慮すべきことは、“動機”は何かということです。自分は正しいことをしているのだと、真剣に思い込んでいる人は、魂に罪過を負わせることにはなりません。いけないことと知りつつも、なおも固執する人間は、明らかに罪過を犯していることになります。なぜなら、道義心を踏みにじり、魂の進化を阻害していることになるからです。わたしたちの目には国家の別はありません。全体が霊的存在で構成された一つの民族であり、一人ひとりが、国家の法律ではなく、大自然の摂理によって裁かれるのです」

「善と悪は、何を規準にして判断したらよいのでしょうか。人間一人ひとりの問題でしょうか、それとも霊的法則の中に細かく規定されているのでしょうか」

「一人ひとりの問題です。一人ひとりの霊的自我の中に、絶対に誤ることのない判定装置(モニター)が組み込まれています。これまでに何度となくこの問題が持ち出されましたが、わたしには一貫して主張している見解があり、それを変更する必要はみじんも認めません。

これまでに獲得した霊的知識を総合的に検討した結果として、わたしはこう申し上げております。すなわち、正常な人間であるかぎり、言いかえれば、精神的・知的に異常または病的でないかぎり、自分の思考と行動を監視する、絶対に誤ることのない装置が正常に働きます。いわゆる道義心です。考えること、口にすること、行うことを正しく導く、不変の指標です。それが、いかなる問題、いかなる悩みに際しても、そのつど自動的に、直感的に、そして躊躇なく、あなたの判断が正しいか間違っているかを告げてくれます。それを人間は、時として揉(も)み消したり、言い訳や屁理屈(へりくつ)で片づけようとします。しかし、真の自我はちゃんとわかっているのです」

このあと議論が発展して難解な哲学的思考(スペキュレーション)の域まで入った時、シルバーバーチは一応それに対応したあと、こう述べた。

「わたしは実用志向のタイプです。現在の地上世界が置かれている窮状を救う上で何の役にも立たない方角ヘ議論が流れかけた時は、いつもお断りしております。わたしは、今地上世界が必要としているのは、基本的な霊的知識であるとみています。人間社会の全組織を改め、そこに巣くっている汚毒、汚物、スラム、不平等、不正を一掃する上で役立つ知識です。そうした環境が人間の霊性の発現を妨げているからです。

地上世界を見回すと、すばらしい花園であるべきところに見苦しい雑草が生い繁り、花がその美しさを発揮する場所がなくなっています。そこでわたしは言うのです――まずそうした基本的な問題と取り組みなさい。戦場で戦ういかなる敵よりもはるかに強力なその敵に、宣戦布告をしなさい、と。

人間の霊性を踏みにじっている敵と戦うのです。人間の霊性を抑圧し、魂を束縛する敵と戦うのです。霊的存在としての基本的権利――神の直射日光を浴び、自由のよろこびを味わう権利を奪う、ありとあらゆる敵と戦うのです。

人間はまずそうした問題に関心を向けるべきです。そしてもし、あなたとの縁によって霊的知識に何らかの価値を見出した人々が、その普及に意欲を燃やしてくれた時は、その方たちにこう忠告してあげてください――基本的な目的は、難解なスペキュレーションを満足させることにあるのではなく、この地上生活において霊的教訓を学べるような環境にすること、言いかえると、現在のように、大勢の者が悲しむべき哀れな姿で霊界へ来るような事態を改めることにあるのです、と」

「私もそう思います。しかし、インドのような国に目をやり、食べるもの、着るものさえ満足に恵まれない民衆のことを思うと、複雑な気持になります。いかにしてインドを救うべきか――これは大変な仕事のように思えます」

訳注――この交霊会が開かれた正確な年月日は判らないが、インドがまだイギリスの植民地として、思想的にも物質的にも苦境にあえいでいた時代であることは間違いない。

「いいえ、霊界からの声と力による導きと援助を素直に受け入れるようになりさえすれば、さほど大変なことではありません。多くの魂を束縛し、怨念と敵意と憎しみを助長し、神の子を迷信と偏見と無知による真っ暗闇の中で暮らさせている教条主義の呪(のろ)いから解放しさえすればよいのです。

永いあいだ“宗教”の名をもって呼ばれてきた古代の神話・伝説にすぎないものを捨てて、その束縛から解放される方法を教え、代わって霊的真理の陽光を浴びる方法を教えてあげれば――宗教の名のもとに行われている欺瞞と誤謬を一掃することができれば、この地上を毒している問題の多くが解決されていきます。わたしは改めてここで、わたしに可能なかぎりの厳粛な気持で申し上げますが、地上世界はこれまで“教条主義”によって呪われ続けてまいりました」

「経済的な側面はいかがでしょうか」

「それも同じ問題の別の側面にすぎません。わたしはどうやら“人騒がせ者”のようです。キリスト教の教えと違うことばかり説いていると批難されております。しかし自分では、そう言ってわたしを批難する人よりも、キリスト教について、その本質をより多く理解しているつもりです。あらゆる問題を煮つめれば、その原因はたった一つの事実を知らないことに帰着するのです。すなわち、人間は本来が霊的存在であり、大霊からの遺産(神性)を受け継いでいるが故に、生まれながらにして幾つかの権利を有しているということです。

その権利は、次の生活の場に備えるために、地上生活中にその属性を十分に発揮させるためのものです。その妨げとなるものは――いかなるものでも排除する――それだけのことです。それをどうお呼びになっても構いません。わたしはラベルや党派には関心はありません。わたしが関心を向けるのは“真理”だけです。

あなたも、わたしと同じ立場に立って、発育を阻害された者、挫折した者、精神を歪められた者、未発達者、何の用意もできていない者が、毎日のようにぞくぞくと霊界へ送り込まれてくるのをご覧になれば、多分わたしと同じように、この繰り返しに終止符を打つために何とかして地上を改革しなければ、という気持になられるはずです。

どうか、その若さで霊的知識を手にされたことを喜んでください。それを人生の冬(晩年)になってようやく手にして悔しがる人が多い中で、あなたは人生の春にそれを手にされました。しかし、それを成就すべき夏が、これから訪れます」

祈り
無知という名の暗闇から生まれる恐怖心を追放し……

ああ、大霊よ。あなたの無限なる知性は、この全大宇宙を案出なされた知性でございます。あなたの摂理は、絶え間ない日常の出来事の全パノラマを規制し統制している摂理でございます。あなたの霊力は、森羅万象を支える力でございます。あなたの無限なる霊は、物的存在に生命を賦与し、なかんずく人間を、動物的段階から引き上げ、霊的自我意識をもつ存在の仲間入りをさせた霊にほかなりません。

わたしどもは、あなたを究極の摂理――不易にして不可変の絶対的法則として啓示いたします。その法則の外側で生じるものは何一つ有りえないのでございます。宇宙のすべての存在が、その法則の不変性に無言の讃辞を向けております。それに加えて、あなたの霊的領域においてより大きな生活体験を積み重ねてきたわたしたちは、生命活動のすべてを律している、ある者がゴッド(神)と呼び、わたしがグレイトスピリット(大霊)と呼んでいる霊力の働きの完全さに、感嘆の讃辞を贈ります。

わたしたちが地上に広げたいと願っているのは、地上生活のあらゆる側面を律しているその摂理についての知識でございます。あなたの子等は、それを理解することによって、あなたがふんだんに用意されている恩恵を存分に我がものとして、生き甲斐を実感し、みずからの手で平和の中で生きることのできる社会組織を創り出すことができるのでございます。

わたしたちは、人間の無知という名の暗闇から生まれる恐怖心を追放し、生命の大機構の中で占める“死”の真の意味を理解させ、内在する霊的可能性に目覚めさせ、本当の自我の無限の霊的資質を自覚してほしいと願っております。それが、人間とあなたの間、および全世界の人間どうしを結びつけている霊的な絆を知らしめることになるからでございます。

あなたの霊が地球全体を取り巻いております。あなたの神性の糸が全存在を貫いております。地上の人間は、誰であろうと、何者であろうと、いずこにいようと、絶対に断たれることのない霊的な絆によってあなたと永遠に結びついているのでございます。

子等とあなたとの間を取り持つ仲介者は要りません。大霊の分霊を宿すがゆえに、あなたが用意されている叡智と愛と知識と真理の無限の宝庫に、自由に出入りすることが許されるのでございます。

わたしたちの仕事は、人間の内奥に存在するその霊性を活気づけ、霊的資質を存分に発揮させ、子等があなたの意図された通りの生き甲斐のある人生を送るように導いてあげることでございます。

そうなって初めて人間は、その霊的責務を果たすことになりましょう。そうなって初めてこの病める世界を癒し、愛と善意を広める上で、同胞としての貢献ができるのでございます。

そうなって初めて人間は、それまであなたの真実の姿を見えなくしていた暗黒に永遠に別れを告げて、悟りの光の中で生きることができるのでございます。

あなたの僕インディアンの祈りをここに捧げます。

第3章 知識はすべて、ためになるのです
シルバーバーチは、永年にわたって、世界中の数え切れないほどの愛読者から、敬愛と賞讃を得てきた。そして今なおその広がりは止(とど)まることを知らないが、これから紹介する二人の子供は、一人は八歳、もう一人は六歳の時からシルバーバーチの大の仲良しで、毎年一回、大体クリスマスの前ごろに交霊会に出席している。

名前は姉がルース、弟がポールといい、ジャーナリストで心霊書も数多く著しているポール・ハリス氏(ペンネームはポール・ミラー)のお子さんで、交霊会に出るようになってすでに六年目になる。奥さんのフェイもスピリチュアリズムに理解があり、一家揃ってシルバーバーチのお友達ということである。

この二人の子供が出席する時は、前もって質問事項を自分たちで考え、大人からの助言や指示は受けないことにしている。では、父親のハリス氏が綴ったある日の交霊会の様子を、そのまま紹介しよう。

ハンネン・スワッファー・ホームサークルの支配霊であるシルバーバーチのそばに二人の子供が立っていた。その二人が、代わるがわる、クリスマスタイム(十二月二十四日~一月六日)のしばしの別れの挨拶をすると、シルバーバーチはまず姉のルースに

「上品さと同時にたくましさを、そして愛と叡智を身につけるようにね」と言い、続いて弟のポールには

「たくましくなりなさい。そして、自分には霊の力が守ってくれてるのだという確信を忘れないようにね」と言い、最後に二人に向かって

「わたしはいつでも、わたしの存在のすべてをかけ、愛の心と霊の力を傾けて、お二人のために尽しますよ」と述べた。

確かに、そう述べたのであるが、こうして活字にしてしまうと、二人の子供が質問し、シルバーバーチが答えるという形で、年一回、六年間も続けられてきた三人の間の情愛の温(ぬく)もりは、その片鱗すら伝えられない。一時間と二十分、二人は真剣そのもので質問し、自分たちの意見を述べた。幼いとはいえ、スピリチュアリズムの真理が二人の生活の一部となり切っているようだ。

二人は質問すべき問題を二人だけで話し合って決め、大人のサゼスチョン(提言、助言)を一切ことわった。その問答が始まった。

ルース「人間が死ぬときの死に方が、霊界へ行ってから影響するのかどうかを知りたいのです。つまり自然な死に方のほうが霊界へ行きやすいのかということです」

「もちろんです。大きな違いがあります。もしも地上の人間のすべてが正しい知識をもち、自然な生き方をすれば――もしもですよ――そうすれば、死に方があっさりとして、少しも苦痛を伴わなくなります。そして、死後の霊的身体を調節する必要もないでしょう。ところが残念なことに、実際はそんなにうまく行っておりません。

地上を去って霊界へ来る人のほとんどが、自分がこれからどうなるのか、自分というのは一体どのように出来あがっているのか、霊的な実在とはどんなものかについて、恐ろしいほど無知なのです。その上、地上で十分な成長をしないうちにこちらへ来る人が、それはそれは多いのです。

そういう人は、わたしがたびたび言っておりますように、熟さないうちにモギ取られた果物のようなものです。ルースちゃんも知っているとおり、そんな果物はおいしくありませんね? 果物は熟せばひとりでに落ちるものなのです。霊が十分に成熟すると、自然に肉体から離れるのです。今わたしのいる世界へ、渋い果物や酸っぱい果物がぞくぞくと送り込まれております。

そのため、そういう人たちをこちらで面倒をみたり、監視したり、手当てをしたり、看護をしたりして、霊界に適応させてあげないといけないのです。みんなが、ちゃんとした知識をもって来てくれれば、わたしのように地上の人間の面倒をみている者は、とても手間がはぶけて助かるのですけどね。ルースちゃんの言う通り、死に方によって大変な違いが生じます。以上のような答えでよろしいですか」

ルース「ええ、とてもよくわかりました」

ポール「昔のインディアンは、儀式のようなことをして雨を降らせることができましたが、それには霊界の人はどのように関係しているのですか。何か関係があるのですか」

「関係ありません。心霊的法則(サイキック・ロー)と霊的法則(スピリチュアル・ロー)とは少し違うのです。まったく同じではないのです。どちらにでも言いかえることができると思っている人がいますが、同じものではありません。

かつてのインディアンは、地上の物的現象に関係した心霊的法則について、よく知っておりました。純粋に物的な現象です。そして、腕のいい熟練したまじない師は、儀式によってその心霊的要素を引き寄せる能力をそなえていたのです。

実は、これは簡単に説明するのが難しい質問なのです。とにかく霊界とは何のつながりもないのです。地上の物的な現象と関係した心霊的な法則とのつながりの方が大きいのです。こんな説明では、ポール君にはよくわからないでしょうね?」

ポール「いえ、わかります。ただ、その心霊的法則というのはどんなものですか」

「やっぱり、そこまで話さないといけませんかね」

ここで、交霊会の終わりが近づくまで大人は口出しをしてはいけないとの約束を忘れて、メンバーの一人が「それはサイコメトリ(※)のようなものでしょうか。あれは必ずしも霊的法則とは関係ないと思うのですが」と尋ねた。

※――ハンカチ、ボタン、帽子、衣服などを手に持つだけで、その所有者についての情報をキャッチする能力で、海外では犯人捜査に応用されて実績をあげた実例がある。これにも霊が関わっている場合と関わっていない場合とがある。日本語では“精神測定”と訳されている。

「例ならばいくらでも挙げられるのですが、この二人の子供にいちばんよく理解してもらえるものを考えているところです。たとえば霊視能力の場合を例にとってみましょう。

霊視がきくといわれる人でも、霊界のものは何も見えない人がたくさんいます。この場合は、心霊的能力の一部にすぎません。ですから、心霊的法則の支配をうけ、心霊的な能力で見るだけで、その背後に霊界の存在とのつながりはありません。他界した人の姿も見えません。肉眼に見えない遠くの情景は見えます。予知もできます。未来をのぞいたり過去の出来事を当てることもできます。ですが、そうしたことが霊界と全然つながっていないのです。生まれながらに備わっている、純粋に心霊的な能力なのです。これでわかりますか」

ここで二人の子供の母親のフェイが「私はそういうことがあるとは、思ってもみませんでした。霊界との関わりなしに言い当てたり見抜いたりすることができるとは知りませんでした」と言う。するとシルバーバーチが――

「でも、事実、そうなのです。この地上界の範囲だけの心霊的能力というのがあるのです。現に、多くの人がそれを使用しております。五感の延長と思えばよろしい。霊の世界とは何の関係もありません。物的法則とつながった心霊的法則、ないしは心霊的要素、の範囲内の現象です。易占い――ほんものの場合の話ですが――あるいは、ほんものの水晶占いで、霊的な働きかけなしに見たり聞いたりすることができるように、心霊的能力を駆使できるまじない師は、ある種の儀式によって物的法則の背後にある力を、その心霊能力と調和させて雨を降らせることができたのです。わたしに説明できるのは、こんなところですが……」

別のメンバーが「実によくわかりました。面白いテーマだと思います。私も、そうした能力がどの程度まで延ばせるのだろうかということに関心がありましたので……」と言うと――

「その可能性は大へんなものです。インドにはヨガの修行者で、すごいのがいます。それでも霊界とは何のつながりもありません。彼らが霊の姿を見たら、たまげることでしょう」

メンバーの一人「霊を見たら、その容姿を述べるのではないでしょうか」

「その時はすでに波長の次元が違います。霊媒現象というのは、霊的なものと心霊的なものとの組み合わせです。その融合作用で霊的通信が行われるのです。霊界と交信する能力は、霊媒のもつ心霊能力だけで行われるのではありません。支配霊ないしは指導霊との協力によって行われるのです」

ポール「すみません。ぼくは頭が悪いものですから、サイキックとスピリチュアルとはどこが違うのか、まだよくわかりません。今まではいっしょだと思っていました」

「似てはいますが、まったくいっしょではないのです。心霊的能力のすべてが開発されても、それが高級霊の指導を受けて、スピリチュアルな目的のために使用されるようになるまでは、それは霊的能力とは言えないのです。ポール君は物的身体のほかに、霊的身体もそなえています。その身体には、生まれつきさまざまな心霊能力が潜在していますが、それが開発され、しかも霊界の力と融合した時、はじめてスピリチュアルと言えるものになるのです」

ポール「死後の世界の界層(レベル)について教えてください。シルバーバーチさんはよくその違いについて話しておられますが、どういう違いがあるのですか」

「成長の度合が違うのです。しかし、その違いは地上のようにものさしで計れるものとは違います。もしわたしがポール君に、愚かな人と賢い人、あるいは、欲張りと聖人との違いを寸法で計りなさいと言っても、そんなことはできませんね?

しかし、それぞれの界に住む霊の成長には大きな差があるのです。こちらでは魂の成長に応じた界層、むずかしい言い方をすれば、その人の知性と道徳性と霊性の程度に合った世界に住むようになります。界層の違いは、そこに住む人の魂の程度の違いだけで、霊性が高ければ高いほど、善性が強ければ強いほど、親切心が多ければ多いほど、慈愛が深ければ深いほど、利己心が少なければ少ないほど、それだけ高いレベルの界層に住むことになります。

地上はその点が違います。物質界というレベルで生活しているからといって、みんなが精神的に、あるいは霊的に同じレベルの人たちばかりとはかぎりません。身体は同じレベルのもので出来あがっていますが、その身体が無くなれば、魂のレベルに似合った界へ行くことになります」

ポール「はい、よくわかりました。もう少し聞きたいことがあります。この地球もそういう界の一つですか、それとも特別なものですか」

「いいえ、特別なものではありません。地上世界も霊的な世界の一部です。なぜかと言うと、霊の住む世界はぜんぶ重なり合っているからです。宇宙に存在する生活の場のすべてが、互いに重なり合い、融合し合っており、霊界とか幽界とか物質界という言い方は、一つの宇宙の違った側面をそう呼んでいるだけです。ポール君はいま物質界にいますが、同時に幽界にもつながっているのです」

ルース「あたしは、この交霊会での質問の準備をしながら、シルバーバーチさんはあたしたちよりはるかに多くのことを、あたしたちが夢にも思わないようなことまで知っておられるのだから、あたしたちの方から質問しなくても、ちゃんとお話してくださるだろうなと思ったりしました」

「ええ、お話しますとも。でも、だから何の質問もしなくていいということになるのですか?」

ルース「なりません。あたしが知りたいのは、子供の頃からスピリチュアリストとして育てられて、あたしたち二人は得をしているかどうかということです」

「ご自分ではどう思っていますか」

ルース「わかりません。だって、あたしは霊の世界に住んでいないでしょ? だから、どんな得をするか、自分ではわかりません」

母親「この子はスピリチュアリズムを知らない生活というものを体験していないものですから、比較ができないのです。その点、シルバーバーチさんは両方がご覧になれます」

「わたしは目を閉じていても見ることができます。わたしが“ご自分ではどう思っていますか”と尋ねたのは、ルースちゃんのお友だちには、死んでからのことを知らない人がたくさんいるからです。そういうお友だちは、ルースちゃんとくらベて得だと思いますか、損だと思いますか」

ルース「霊の世界へ行くときに何の準備もできていないという点では損だと思います。その知識も体験もないからです。でも、それ以外のことはよくわかりません。すみません」

ポール「今ルースが最初に言ったことは、その通りだと思います。でも、それ以外のことでは、損も得もないと思います。死ねばどうなるかがわかっているのは得だけど、そのほかの点では別に変わりはないと思います」

「答えは簡単なのです。知識はすべて、ためになるのです。ところが残念なことに、そうとばかりも言えないことが生じるのです。知識はたしかに喜びと幸せと落着きとをもたらしてくれますが、こんどは、それをどう生かすかという責任ももたらすのです。

知識は、無知から生じる愚かな心配(取り越し苦労)を取り除いてくれます。知識は、自分とは何かを自覚させ、これからどうすべきかを教えてくれます。そして、真理を知らずにいる人を見て気の毒に思うようになります。

真理を知らなかったために罪を犯す人は、もちろんそれなりの償いをさせられますが、真理を知っていながら罪を犯す人は、それよりもっと大きな償いをさせられます。より多くを知っているということが、罪を大きくするのです。ポール君は真理を知っているだけ得です。しかし、これからどういう行いをするかが問題です」

メンバーの一人「それだけは、あなたにもどうしようもないことなのですね?」

「わたしがその摂理を変えるわけにはいかないのです。わたしはただ、摂理がこうなってますよ、とお教えするだけです。これまでわたしは何度か、みなさんが困った事態に陥(おちい)っているのを見て、その運命を何とかしてあげたい、降りかかる人生の雪と雨と寒さから守ってあげたいと思ったことがあります。しかし、それは許されないことなのです。なぜなら、そうした人生の酷(きび)しい体験をさせている力と同じ力が、人生に光と温もりをもたらしてくれるからです。一方なくして他方は存在しないのです。試練の体験を通してこそ、霊は成長するのです」

ルース「シルバーバーチさんにもそれが許されないのは、いいことだと思います。困ったことがあるたびにシルバーバーチさんにお願いしていたら、いつも誰かに頼らないといけない人間になってしまうからです」

ポール「人生の目的がなくなってしまいます」

「そうです。その通りです。ですが、それは、わたしにとって辛(つら)いことなのですよ。そういうお二人も、ほんとうの意味で“愛する”ということがどういうことなのか、愛する人が苦しんでいるのに何もしてあげられないということが、どんなに辛いことかがわかる日が来ることでしょう。

そこでもう一つ、さきほど述べたことに付け加えたいことがあります。これは、ルースちゃん、あなたにお聞かせしたいことです。スピリチュアリズムを知ったことによって生じる一ばん大きな違いは、自分が一人ぼっちでいることが絶対にない、ということを知ったことです。いつどこにいても、霊の世界からの愛と友情と親愛の念を受けているということです。

最善をつくしている時には、かならず霊界からの導きの力が加わっていること、あなたの持っているものから最善のものを引き出し、あなたの人生から最高のものを学び取ってくれるようにと願っている、友愛と親切心と協調精神に満ちた霊が身近に存在してくれているということです。このことがスピリチュアリズムがもたらしてくれる、一ばん有り難いことです。このことを知っただけ、ルースちゃんは、それを知らない人より幸せだということになります」

ポール「これまでの人類は、ずっと男性が女性を支配してきたように思えるのですが、これはなぜでしょうか。原因は何ですか」

「原因は、女性があまりに物ごとを知らなすぎたからです」

ポール「それを改めることができるでしょうか」

「改める必要はありません。これまでも、実際は女性の方が男性をリードしてきているからです」

メンバーの一人「これまで、あなたはそういう捉え方はなさらなかったように思うのですが……」

「ええ。でも、これにはそれなりの根拠があるのです。男性が狩りに出ていた時代の名残りです。つまり男性が家を建て、食糧を取りに出かけねばならない時代においては、男性が絶対的な支配力をもち、お腹をすかして疲れた体で帰ってきた時に、女性が優しく迎えて介抱し、食事を用意してあげていました。男性が行動的で女性が受動的だったために、何かにつけて男性に有利な習慣ができていきました。しかし、今それが変化しはじめ、どちらが上でも下でもない、お互いが補い合うようになっている、という認識が行きわたりつつあります」

ポール「よくわかりました。有り難うございました」

「お二人とは、ずいぶん永いつきあいですね。二本の小さな苗木がまっすぐに育っていくのを、わたしはずっと見てまいりました。そして、お二人が絶え間なく増えていく知識と理解力の中で生きておられるのを見て、うれしく思っております。

まだまだ知らねばならないことが沢山あります。でも、少なくともお二人は霊的な真理に守られて地上生活を送っておられ、その目的を理解し、何をしていても、誠意さえあれば決して挫(くじ)けることはないことを知っておられます。わたしはいつも身近にいて、わたしにできるかぎりの援助をいたしましょう。

今日はルースちゃんとポール君の二人が来てくれて、わたしはほんとにうれしく思っております。わたしがいつも身近にいることを知っていただく、いい機会になるからです。わたしは決して遠くにいるのではありません。お二人がお家(うち)にいる時も、学校へ行っている時も、遊んでいる時も、すぐそばにいることがあります。おかしくて笑い出すような光景を見ることもあります。

ですが、わたしの方から学び取ることも沢山あります。わたしは、まだまだ学ぶことが終わったわけではありません。西洋人の生き方や習慣には興味を引かれることが、いろいろとあります」

母親「私たちは、暖炉に火をくベながら、よくシルバーバーチさんのことを思い出すことがあるのですよ。暖炉の前に集まって、シルバーバーチさんは暖炉やいろりはお好きだろうかね、などと語り合うんですよ」

「わたしはいつも、わたしへ愛情を覚えてくださる方々の愛念によって心を温めております。わたしにとっては、地上で窒息しないために吸入できる唯一の酸素は“愛”なのです。地上へ降りてくるためにお預けにされる喜びを補ってくれる最大の慰めは、みなさんからの愛なのです。わたしの本来の住処(すみか)である高級界の霊的生活の壮厳をきわめた美しさを一度体験されたら、一度でもその世界の恩恵をほしいままにできる生活を体験されたら、悪意と敵意、憎しみと闘争、流血と悲劇に満ちた、この冷たくて陰うつな地上生活は、もう二度とご免こうむりたいと思われるはずです。

そんな世界に身を置いているわたしにとって、みなさん方の真理普及の活動によって魂が目を開かされた人々の心に灯された愛念が、何よりの慰めとなっております。地上世界での仕事は困難をきわめます。冷え切った心、歪んだ心のもち主、わたしたちからの叡智や指導はおろか、みずからの愛すら感じなくなっている人々が大勢います。そうした中にあって親近感や同情心、僚友精神や同志的友情がいかに大きな元気づけとなるものであるか、ご存知でしょうか。みなさんが想像される以上に、わたしにとって力となっております。さらに多くの人々へ手を差しのべていくための糧を供給してくださっていることになるのです。

ならば、道を見失い、同情の言葉に飢え、導きと慰めと希望の言葉を求めて、その日暮らしの生活に明け暮れている気の毒な人たちのことに、常に思いを馳せようではありませんか。そういう方たちはみな、この世に自分一人だけ取り残されたような悲哀の中で生きているのです。そういう人たちこそ、わたしたちが霊力の行使範囲に導くために何とかしてあげなくてはならないのです。憂うつな悲嘆の生活を一変させ、希望の光と真理の感触とをもたらしてあげることができるのです。

ご承知の通り、わたしはこれからしばしの間、地上を去ります(※)。うしろ髪を引かれる思いがいたしますが、しかし、時には高い世界のエネルギーを充電し、同じ使命にたずさわる同輩と協議し、失敗箇所と成功箇所、予定どおりに進行しているところと、そうでないところについて指示を仰ぐことがどうしても必要なのです。その時のわたしは、みなさんからの愛をたずさえて行き、わたしからの愛をみなさんにお預けしてまいります。再び戻ってくる日を心待ちにいたしております。

それでは最後に、みなさんとともに宇宙の最高のエネルギー、わたしたちがその一部を構成している大霊のエネルギーに波長を合わせましょう。そのエネルギー、神の力、大霊の息吹きの恩恵をあらためて意識いたしましょう。その最高の力を受けるにふさわしい存在となるように努力いたしましょう。託された信頼を裏切ることのないように努力いたしましょう。高貴な目的のための道具として恥ずかしくない生き方、考え方、物の言い方を心掛けましょう。そして、いかなる事態に立ち至っても、その神聖な使命を傷つけることのないようにいたしましょう。

双肩に担(にな)わされた使命を堂々と遂行いたしましょう。これから振りかかるいかなる受難にも、人のために己れを役立てたいと望む者は、つねに限りない愛を秘めた大霊と一体であるとの信念に燃えて、不屈の決意をもって立ち向かいましょう」

※――三月のイースターと十二月のクリスマスの二度、シルバーバーチは本来の所属界へ帰って、地上の経綸に当っている高級指導霊による大集会に出席するという。モーゼスの『霊訓』にも、最高指導霊のインペレーターが同じことを述べている箇所がある。神道の祝詞(のりと)の中に“八百万(やほよろず)の神々を神集(かむつど)へに集へ賜い、神議(かむはか)りに議り賜いて……”とあるのは、多分そのことを言っているのであろう。

以上がハリス氏の記事の全文であるが、続いて翌年のクリスマスにもルースとポールが招かれている。シルバーバーチによれば、二人の存在も計画の中に組み込まれており、二人を通して、それなくしては得られない、掛けがえのない力を得ているということである。


その日の交霊会は、クリスマスにはどういう意味があるのかという話題から始まった。というのは、そのころポールの学校でクリスマスについてのお話があり、ポールはその意味がよくわからなくて、家に帰ってから両親に説明を求めたばかりだったのである。

そのいきさつを聞いてシルバーバーチがこう述べた。

「その問題に入る前に知っておいていただかねばならないことがあります。というのも、永いあいだ地上人類を悩ませてきたどうでもよい問題から先に片づけておく必要があるからです。ポール君は“神(ゴッド)”についてよくわからないことがありませんか」

ポール「これまでいろんな人が神についていろんな説き方をしているみたいです。それぞれに違っており、これだと得心のいくものが一つもないのです」

「その通りなのです。忘れてならないのは、人間はつねに成長しており、精神の地平線が絶え間なく広がっているということです。言いかえれば、境界線が取り除かれていきつつあるということです。知識が進歩すればするほど、宇宙そのものと、その宇宙に存在するものとについて、より大きな理解力がもたらされます。

太古においては、人間はまわりの環境についてほとんど知識がなく、自然現象についてはまったく理解していなかったために、何もかも神さまの仕業(しわざ)にしておりました。その神さまについても、人間を大きくしたような存在としてしか想像できませんでした。それが“いけにえ”の思想を生む元になりました。雷が鳴り、稲妻が走るのを見て、神さまが怒っておられるのだと思い、その怒りを鎮めるために、いろいろと生きたものをお供えするようになったのです。

そうした野蛮な小さな考えも次第に大きく成長し、人間は無知の暗闇から脱し、迷信の霧を突き抜け、知識の夜明けを迎えて、宇宙の根源はどうやら人間の想像を超えたものらしいということに気づきはじめました。しかし、だからといって、古い概念がそう簡単に消えたわけではありません。何かすごく大きな男性のような姿をした神さまが宇宙をこしらえたのだという概念が、何十世紀もたった今でも存在しております。

さて、わたしはその概念を一歩進めて、宇宙を創造しそして支配しているのは、男性神でもなく女性神でもなく、とにかく形ある存在ではないと説いているのです。人間的な存在ではないのです。宇宙は法則によって支配されており、その法則は規模においても適用性においても、無限なのです。それは無限の愛と叡智とから生まれたものであり、したがって完ぺきであり、過ったり失敗したりすることがないのです。

わたしは生命とは霊のことであり、霊とは生命のことであり、初めもなく終わりもないと説いております。霊を物質の中に閉じ込めてしまうことはできません。物質というのは霊のお粗末な表現でしかありません。物質界に生きる人間は、視覚と聴覚と嗅覚と味覚と触覚の五つの感覚でしか物事を判断することができませんから、その五感を超えた生命の本質を理解することは無理なのです。

そうした限界の中で生きているかぎり、その限界の向こう側にあるものが理解できるわけがありません。そこで次のような結論となります。すなわち宇宙は自然法則によって表現されていること、その法則の背後にある叡智は完全であること、しかし人間は不完全であるために、その完全さを理解することができない、ということです。人間が一個の形をもった限りある存在である以上、形のない無限の存在を理解することはできないのです。これはとても難しい問題ですが、少しでも理解の助けとなればと思って、申し上げてみました。

人類のすべてが――地球という一個の天体上だけではありません。数え切れないほどの天体上の人間的存在すべてがそうなのですが――わたしのいう大霊、みなさんのいう神(ゴッド)の一部を構成しているのです。大霊とは全宇宙の霊の総合体だからです。これならわかるでしょう?」

ルース「人間は進歩するほど、神について複雑な考え方をするようになり、複雑になるほど、真実から遠ざかっていくのではないでしょうか」

「ほんとうの意味での進歩であれば、そういうことにはなりません。実は“脳”ばかり発達して、“精神”や“霊”の発達がともなっていないことがあるのです。すると頭のいい人が多くなりますが、頭がいいということは、必ずしも偉大な魂、あるいは偉大な精神の持ち主ということにはならないのです。

それは、脳という物質のみにかぎられた発達なのです。そういう発達をした人の中には、複雑なことほど立派であるかに思い込んでいる人がいることは確かですが、ほんとうの発達、精神と魂の発達をともなったものであれば、霊的なことについても、より深く理解するようになります。正しい発達とは、精神的ならびに霊的発達のことをいうのです。そういう発達をしている人は、古い間違った概念を捨てて、ますます真理に近づいてまいります。

いつも忘れずにいてほしいのは、無限の存在である大霊のすべてを、限りある言語で説明することは不可能だということです。大きいものを小さいものの中に入れることはできません。これは当りまえのことです。わかってもらえたかな?

さて、ほかにはどんな質問がありますか」

ルース「人類による最大の発見は何だと思われますか」

「これは難しい問題ですよ。“最大”という言葉の意味がいろいろあるからです。どういう意味での“最大”なのか――物的にか、精神的にか、霊的にか、それを前もって考えてから質問すべきですね。

わたしの考えでは、人類による最大の発見は、人間が動物とは違うことを知ったこと、自我意識というものがあることを知ったこと、霊性を自覚したこと、お粗末とはいえ、身のまわりの現象について知る能力があることに気づいたことです。それが、他のすべての発見へとつながったからです。

いま“霊性を自覚した”と言いましたが、その意味は、人間が肉体だけの存在ではないこと、物質を超えた存在であること、やがて朽ち果てて土に帰っていく物質的容器とは違う存在であることを知ったということです。わたしは、これが何よりも大きな発見であると思います。

しかし、ルースちゃんの質問が、わたしにとっての最大の発見は何かという意味であれば、話はまた違ってきます」

ポール「それを聞きたいです。ぜひ話してください」

「わたしにとっての最大の発見は、地上の多くの人たちが善意と情愛と僚友意識と、そして愛までも、こんなにたくさん持っておられることを知ったことです。また、訴え方が正しければ、その愛を本性から呼び覚ますことができるということ、最高の波長にも反応してくれるということ、気高い品行を志し、気高い思念をもつことができるということ、理想主義、愛他精神、奉仕的精神にも共鳴してくださるものであることを知ったことです。

この冷たくてうっとうしい、およそ魅力のない地上での仕事に打ち込んできた、これまでの永い年月を振り返ってみて、わたしは一度もお目にかかったことがないにもかかわらず、わたしの訓えで救われたという気持から、感謝の愛念を贈ってくださる方々が増えることによって、地上にこうまで温かさがもたらされるものかと、驚きの念を禁じえません。

それほど多くの愛を頂戴することになろうとは、予想もしていなかったのです。わたしにとっては、それこそが感謝の源泉であり、それがわたしをさらに鼓舞し、同時に、もったいないことだという気持にもさせられます。なぜなら、わたしには、それに値するほどのことはしていないという自覚があるからです」

ルースとポールにとって、この答えはさすがに意外だったようである。子供心に、もっと楽しい話を予想していたのであろう。しかし、二人はかえって興味をそそられて、さらに質問する。

ポール「シルバーバーチさんが地上へ降りてこられてから、地上ではどんな変化があり、霊界ではどんな変化がありましたか」

「大ざっぱに言えば、地上における変化は“文明化”といわれる過程でしょう。人類は物質的な面で大きく飛躍しました。大自然の仕組みについて多くの発見をしました。山頂を征服し、海底を探査するようになりました。大陸と大洋を横断するようになりました。物質的な面では非常に高度なものを成就しました。驚異的な発達ぶりだったと言えましょう。

しかし、同じ発達が精神面と霊的な面に見られないのです。人類は、物質と精神と魂のうちの、物質面だけが異常に成長してしまいました。他の二つの側面がそれについていってないのです。それが、利己主義という地上でもっとも厄介な罪を生み出すことになったのです。

さて、こうした事実から学ばねばならない教訓があります。それは、物質面での発達を、全面的でなくてもいいから、霊的ならびに精神的側面にも、ある程度は反映するようにならないかぎり、人類は、みずから生み出したもの、みずからの創造の成果を、平和的な生活の中で味わえるようにはならないということです。そうならないかぎり、地上には混沌と無秩序と不協和音が絶えないということです。善いことをしようという意欲を起こさせ、協調と奉仕の仕事ヘ鼓舞するのは、精神と霊の発達なのです。

精神と霊の発達は利己主義を滅ぼし、代わって霊的教訓をもたらします。精神と霊に宿された才能を開発し、その上で、物質的文明の産物を自分一人のためでなく他のすべての人のために活用するようになれば、いわゆる地上天国が実現します。地上世界のすべての人間が、自分より恵まれない人のために役立てる、何らかの才能をそなえているものです。

さて、その間に霊界ではどんな変化があったかというご質問ですが、これは地上世界のことよりはるかにお答えしにくい問題です。簡単に言ってしまえば、地上とのコミュニケーションの橋をかける仕事がかつてなく組織的となり、二度と地上世界がチャンネル(霊媒・霊能者)の不足から霊界と絶縁状態とならないよう、入念な計画が練られ、そして実行に移されているということです。これ以上の説明は難しいです」

メンバーの一人「霊界においてそうした大きな仕事が成就され、コミュニケーションのための回線が敷設され、計画が順調に推進されていることを知って、わたしたちもうれしく思います。これには優れた霊媒が要請されることになりますが、今それが非常に不足しております」

「道具はそのうち揃います。霊力が多くのチャンネルを通じて恩恵をもたらすようになります。どんどん増えていきます。これまでの成果だけを見て、この程度のもの、と思ってはなりません。決してこの程度で終わるものではありません。昨日よりは今日、今日よりは明日と、ますます大きなことが成就されていきます。それが進歩というものです。われわれも進歩していくのです。“われわれのあとは誰が引き継いでくれるのだろうか?”――そう心配なさる方がいらっしゃるようですが、あなたがたの仕事が終われば、代わって別の人が用意されます。かくして霊力が今日以上に地上へ流れ込み続けます。それは誰にも阻止できません」

ルース「今スピリチュアリズムという形で霊界と地上界との間のコミュニケーションが開かれておりますが、それ以前にも大きなコミュニケーションの時代があったのでしょうか」

「一時的にインスピレーションがあふれ出たことはありますが、長続きしていません。このたびのコミュニケーションは組織的であり、協調的であり、管理・監督が行き届いており、規律があります。一大計画の一部として行われており、その計画の推進は、皆さんの想像も及ばないほどの協調体制で行われております。背後の組織は途方もなく巨大であり、細かいところまで見事な配慮がなされております。すべてに計画性があります。

そうした計画のもとに霊界の扉が開かれたのです(※)。このたび開かれた扉は二度と閉じられることはありません」

※―― 一八四八年の米国での“フォックス家事件”を皮切りに、地球規模の霊的浄化活動が始まったことを指している。

ルース「あたしたちが眠っている間は何をしているのでしょうか」

「皆さんは毎晩、その肉体を後にして別の世界へ行きます。訪れた世界での体験は二種類に分けることができます。一つは教育を目的としたもので、もう一つはただの娯楽を目的としたものです。教育的体験では、いずれ訪れる霊界生活で使用する霊的身体について教わります。娯楽を目的とした体験の場合は、たとえば霊界で催されている、いろいろな会場を訪れます。

いいですか、ルースちゃん、あなたは昨晩、わたしの世界の庭園へ連れて行ってもらったのですよ。それから、ポール君、あなたは音楽を聞きに行ったのですよ」

ポール「二人ともそのことを覚えていないなんて、つまんないですね」

「たしかに、そう思うのも無理ないかも知れませんね。でも、それは肉体から離れている間の異次元での体験を、肉体の脳で理解しようとするからなのです。ポットの水をぜんぶ一個のグラスに入れようとしても入りませんね。それと同じです。でも、夢を注意して見ていると、好いヒントになるものが見つかるはずですよ」

ルース「わけのわからない夢はどう理解したらいいのでしょうか」

「変な夢のことですか? あれは、異次元の体験を脳で思い出そうとする時にそうなるのです。脳は小さな袋のようなものです。霊体が肉体に戻ってきて、その間の体験を脳に詰め込もうとするのですが、小さな袋には全部が入り切れないのです。それをムリして押し込もうとするために、あのような変な形になるのです。夢というのは、訪れた別世界の体験がそのまま現れるのではなく、その断片的な思い出にすぎません」

ポール「シルバーバーチさんのお仕事で、ボクたちにもお手伝いできることがあれば教えてください」

「わたしに愛の念を送ってください。わたしを信頼し、善意の思念を送ってください。それが、わたしの何よりの食べものであり飲みものなのです。ただただ、愛が欲しいのです。善意をいただきたいのです。それさえいただければ、わたしは幸せなのです。しかし、どうぞ、わたしの仕事のことで心配しないでください。自分でちゃんとやりますので……」

ここで、いったん話題が外れてメンバーの人たちと話したあと、再びルースとポールに向かって次のような感動的な教訓を述べた。

「お二人のこれからの人生が日向(ひなた)ばかりだとは申し上げられません。曇りの日もあることでしょう。時には雨にうたれることもあるでしょう。困難なことがあるでしょう。試練に立たされることもあるでしょう。

人生は一本調子のものではありません。色彩もあり変化もあります。障害に出会うことでしょう。何もかもうまく行く楽しい日々もあれば、すべてが絶望的に思える暗い日々もあることでしょう。そうしたさまざまな体験の中でこそ、性格が培(つちか)われるのです。人生を形づくっているさまざまな体験の中で培われるのです。

もしも人生が初めから終わりまでラクに行ったら、もしも乗り切るべき困難もなく、耐え忍ぶべき試練もなく、克服すべき障害もないとしたら、そこには何の進歩も得られないことになります。レースは競い合うからこそ価値があるのです。賞はラクには貰えず、一生けんめい頑張ったあとにいただくから価値があるのです。

そういう価値ある人間になるように努力しなさい。この世に克服できない悩みはありません。ですから、悩んではいけないのです。征服できない困難はないのです。力の及ばないほど大きな出来事は何一つ起きないのです。

一つ一つの経験から教訓を学ぶことです。難しいと思った時は、ひるまず自分にムチ打つのです。それだけ前より強い人間となります。自分が霊であること、それが肉体を通して表現しているのだということ、そして、自分という永遠の霊に傷を負わせたり、害を及ぼしたりするものは、決して生じないということを忘れないことです。

世間でいう“成功者”になるかならないかは、どうでもよいことです。この世的な成功によって手に入れたものは、そのうちあっさりと価値を失ってしまいます。大切なのは、自分の霊性の最高のものに対して誠実であること、自分でこれこそ真実であると信じるものに目をつぶることなく、ほんとうの自分自身に忠実であること、良心の命令に素直にしたがえることです。

それさえできれば、世間がどう見ようと、自分は自分としての最善を尽したのだという信念が湧いてきます。そして、いよいよ地上生活に別れを告げる時が来たとき、死後に待ちうけている生活へのそなえが十分にできているという自信をもって、平然として死を迎えることができます。これが、わたしからのアドバイスです」

ルース「今のお話で、私たちの最後の質問をしなくてもよくなりました」

「さて、わたしはそろそろ行かねばならなくなりました。わたしの去り難い気持はおわかりいただけると思います。せっかくの親しいつながりを、しばらくのあいだ断(た)たねばならないからです。わたしは、もうすっかり地上のお付き合いが好きになってしまいました。しかし同時に、しばらくこのつながりを断たないことには、かえってわたしの存在価値が小さくなることも事実なのです。何となれば、これから先の仕事に必要なエネルギーが摂取できるのは、内奥の世界においてのみだからです。

その世界へ戻ると、わたしは地上へ帰りたい気持が薄らぎます。そこがわたしの本来の住処(すみか)だからです。何しろそこは、天上的なよろこびに満ちた、光輝あふれる世界なのです。しかし、わたしにはまだまだ為さねばならない仕事が残っております。これまでに成し遂げた仕事がそれで良かったのかどうかを確かめたいのです。そこでこれから、霊の絆において親密な同志たちと会ってきたいのです。

わたしの留守中も、どうかわたしのことを忘れないでくださいね。わたしの影響力だけはずっと残っていることを知ってください。そのうち又、わたしみずから引き受けた仕事の推進のために戻ってまいります。皆さんの日常生活を絶え間なく見守り、付き添ってあげるために戻ってまいります。皆さんと生活を共にすることは、わたしにとって楽しみの一つなのです。お役に立つことができることを光栄に思っております。

では、またお会いする日まで、お別れすることにいたしましょう。わたしはいつも愛をもって訪れ、愛をもって去ります。皆さんに神の御恵みの多からんことを!」

ここで参考までに、別の交霊会で子供の宗教教育についてシルバーバーチが語ったものを紹介しておこう。

「今日の子供は明日の大人であるという、ごく当り前の考え方でこの問題と取り組んでみましょう。当然それは、学校教育を終えたあとの社会生活において、その社会の重要な責務を担う上での備えとなるベきものであらねばなりません。

意義ある社会の一員として、いかなる事態においても、社会のため、人類のために貢献できる人物に育てるための知識を授けることが、教育の根本義なのです。それには何よりもまず、宇宙の摂理がいかなるものであるかを説いてやらねばなりません。人間が有する偉大な可能性を教え、それを自分自身の生活と、自分の住む地域社会に役立てるために開発してやらねばなりません。

子供は感受性が強いものです。知能的にも、教えられたことが果たして真理であるかどうかを自分で判断することができません。とても従順ですから、教えられたことは何もかも本当のことと信じて、そのまま呑み込んでしまうのです。

このように、子供を教育することは、実に貴重でしかもデリケートな原料を扱っていることになります。教え込んだことがそのまま子供の性格のタテ糸とヨコ糸となって織り込まれていくのですから、教育者たるものは、まず教育というものの責任の重大さを自覚しなくてはなりません。その子の潜在意識にかかわることであり、教わったことはそのまま潜在意識に印象づけられ、それがその子のその後の思想を築いてゆく土台となるのです。その意味で、筋の通らぬ勝手な訓えを説く宗教家は、動機がどうあろうと、人類とその文明に大きな障害を築いていくことになり、罪を犯していることになるのです。

子供に種々さまざまな可能性が宿されていることを知らない人、霊的真理に通じていない人、子供が大人と同様、本来が霊的存在であり神の子であることを知らない人、宇宙における人間の位置を理解していない人――こうした人に育てられた子供は、健全な精神的発育を阻害されます。

ここで子供の物的生活における必須の要素について語るのは、わたしの領分ではありません。それについては、すでに十分な知識が普及しております。あらゆる分野の科学と、あらゆる分野の生命現象についての教育、地上なりの豊かな文学と芸術と教養の真価を味わえる精神を培う上で役立つもの、それを授けてやるべきであることは明白です。

そこで、宗教の問題にしぼって申せば、宗教とは個々の魂が人生のあらゆる闘いに堂々と対処し、そして克服していく上での指導原理なのですから、教育上きわめて重大な意義を有することは明らかです。子供の一人ひとりが神の一部であり、本質的に霊的存在であるからには、“自由”がもたらすあらゆる恵みを受けて生きるように意図されております。その魂を幼い時期から拘束し自由を奪うようなことをすれば、それは魂の基本的権利を無視することになります。隷属状態に陥らせることになります。霊的奴隷としてしまうことになります。

“自由”こそが教育の核心です。わたしの観るところによれば、宗教についての正しい真理を教わった子供は、自由闊達に成長します。教育にたずさわる人が、子供に真の自由を与えようという意図からでなく、古い神話や寓話への忠誠心を植えつけたいという願望から物事を教えていけば、それは子供の精神の泉を汚染することになります。知性が十分に発達していれば拒絶するはずの間違った教義を教え込むことは、宗教的観点からみても教育的観点からみても、その子にとって何の益にもなりません。

それだけでは済みません。そのうちきっといつか、魂が反発を覚える時期がまいります。無抵抗の幼い時期に間違ったことを教えてくれた人々に対して、背を向けるようになります。幼い魂は、若木のように、たくましく真っすぐに生長するように意図されております。それが間違った育て方をされるということは、存在の根をいじくり回されることであり、当然、生長が阻害されます。

霊について、神とのつながりについて、正しい真理を教えずに、倒れかかった教会を建てなおし、空席を満たそうとする魂胆から、誤った教義を押しつけんとする者すべてに対して、わたしは断固として異議を唱えます。宗教についての真実を申せば、真理のすべてを説いている宗教など有りえないということです。どの宗教も、真理の光のほんの一条(すじ)しか見ておりません。しかも悲しいかな、その一条の光すら、永い年月のうちに歪められ、狂信家によって捏造(ねつぞう)されております。

子供には、宗教とは人のために自分を役立てることであること、ややこしい教義に捉われることなく、まじめで無欲の生活を送り、自分が生活している社会のために尽すことであること、それが神に対して真に忠実に生きるという意味であることを教えてやらねばなりません」

祈り
無用の悲劇に終止符を……

これより大霊の祝福を求めて、お祈りをいたします。変幻きわまりない生命現象の背後に控える摂理と目的とを、地上の子等に啓示するための仕事の一環として、わたしたちが知識と叡智と悟りを広めんとする努力は、大霊のご加護なくしては報われません。

宇宙の大霊なるあなたは、これまで子等によって誤解され続け、誤り伝えられてまいりました。復讐心を燃やし、血に飢え、犠牲(いけにえ)を求め、ある者は可愛がってある者は見捨て、限られた少数の者だけに恩恵を与え、自分に背を向ける大衆は無視する神(ゴッド)として、恐怖の中で崇められてまいりました。

それに代わってわたしたちは、あなたを生命の法則――不変・不滅の自然法則、悠久の過去より存在し悠久の未来へも存在し続ける摂理として啓示いたします。魂の働きを束縛する迷信という名のくさりを解きほどき、魂の目を見えなくしている目隠しを取り除き、魂の耳栓を取りはずし、心の扉を開いて、天命の全うヘ向けての導き手となるべく、より大きな真理、より大きな叡智、より大きな視野を受け入れる用意を整えさせるのは、その知識をおいて他にないとの認識のもとに、その普及に尽力しているのでございます。

わたしたちは、大自然の摂理についての誤解が生み出す無用の悲劇に終止符をうち、当然の権利として人類が手にすべき平和と調和の障害となっている、あらゆる専制的非道、理不尽な既得権、自己中心主義を排除したいと願っております。永いあいだ人類の視野を曇らせ、調和と福祉と協調的生活の達成の障害となってきた、無知という名の霧を晴らすべく努力いたしております。

わたしたちは、持てる力とインスピレーションと愛を、受け入れる用意のある者には惜しみなく授けます。いかなる差別もいたしません。子等が神(ゴッド)と呼んでいるところの父なるあなたの存在に触れて、あなたの聖なる力と叡智を我がものとなし、生活の中にそれを顕現させ、かくして無用の悲しみと悩みと苦しみに代わって、新しい知識、新しい目的、新しい悟りの中で暮らすことになってほしいと、ひたすらに祈るものです。

第4章 偶然・運命の気まぐれ・奇跡・偶発事故というものは存在しません
ハリー・エドワーズ氏のように世界的に名を知られ、第一線の表舞台で活躍している心霊治療家の陰にかくれて、名前こそ表に出ないが着実な治療活動を続けている心霊治療家も少なくない。

そうした地道なタイプの治療家の一人が、奥さんとともに、ある日の交霊会に招かれて、永年の念願だったシルバーバーチとの対話をもつことができた。まずシルバーバーチが歓迎の言葉を述べてから、こう続けた。

「われわれは、ともに一つの目的のために働いている、同志です。このわたしを始めとする霊団とともに、あなたも、今地上を大へんな勢いで席巻(せっけん)している物質万能の風潮に歯止めをかけるために、一致団結して頑張っているところです。霊の威力を応用することによって、人生の意義と目的について、人間の宿命について、さらには人間と大霊とのつながり、人間どうしのつながりについて、より正しい視野を披露してあげることに、今のところ予定通りの成果を挙げることができております。

いかなる形式を取るにせよ、霊力を行使する時は、それは物質中心の考え方が間違いであることを見せつけることになるのです。なぜなら、その行為によってあなたも、わたしと同じく、根本的な真理、すなわち人間も本来が霊的存在であること、人間はミニチュアの神であること、潜在的には神性のすべてを所有しているという、永遠の霊的事実を披露することになるからです。

あなたの場合、病院から見放されて絶望の淵に沈んでいる人々に手を当てがうだけで健康を取り戻させてあげれば、身体を癒してあげると同時に、その人の魂に感動を与え目を覚まさせることにもなるのです。そこに私の使命の一端があるのです。居眠りをしている魂にカツを入れて目を覚まさせ、真実の自分とは何であるかを自覚させることです」

ここでその治療家が自分の治療中の反応について述べると――

「そういう反応を地上の治療家の方たちから聞かされると、私たち霊界側として非常にうれしく思います。霊力の流入は、大体において、やってみないとわからないことです。前もってこうなるという形が決まっているわけではないのです――大まかな原則というものはありますが。エネルギー、力、光線あるいはバイブレーションが霊媒(治療家)を通してどれだけ流入するかは、その時どきの総合的な条件によって決まります。たとえば霊媒自身の健康状態もその一つです。気分が落着いているか、不安を抱いているかも左右します。基本的問題として、その霊媒の霊格の程度が受容力を決めます。

これに加えて、その霊媒のまわりの人たちに関わる環境があります。サークルで行っているとすれば、その一人ひとりのメンバーが何がしかの影響を及ぼします。

このように、いろいろと考慮しなければならないことがありますが、他方には、治してもらう側、患者、苦しんでおられる人がいるわけです。その一人ひとりに、その人なりの霊的条件、精神的条件、および身体的条件があります。こうしたもろもろの条件が、その患者に注入される霊力の質と量を決めるのです。

さて、もう一つ別の要素として、霊媒を通して治癒力が送り込まれ、そして戻される、という一連の操作が、その通路である治療家自身に何の影響も及ぼさないということは絶対に有りえないことを理解しないといけません。治療家はただの“管(くだ)”ではありません。霊と、精神と、複雑きわまる機能をそなえた身体から成る、一個の組織体です。治癒力をもつダイナッミクなエネルギーがそこを通過して、何の反応も生じないはずはありません。

すべては治療家の発達の程度にかかっております。わたしが、霊媒を志す人、治療家になりたいと思っている人に対して、まず第一に経験豊かな指導者のもとで修行することが大切であること、それにプラスして――実はこのことが一ばん大切なのですが――高級な指導霊の協力を得ることができるように、人間性を磨くことが大切であることを繰り返し説くのは、そこに理由があります。最高の結果を生み出すために、適切な治癒力を適切な形で適切な分量だけ流入させるようになるのには、永い年月をかけた厳しい鍛練が必要です。

あなたご自身としては、常に治癒力をより強く発揮したいという願望をもっていなければなりません。日常生活が清廉さと実直さにあふれたものであらねばなりません。身体も、霊の宮として、できるだけ清浄でなければいけません。仕事に熱心なあまり、健康を損ねるようなことにならないよう気をつけないといけません。疲れたら、必要な回復が得られるように、時には休息を取ることも大切です。かくして高級霊の協力が得られる条件が整えば、最高の結果が得られることでしょう。

あなたも霊的存在である以上、あなたの行う治療行為によって、あなた自身も影響を受けるのは当然です。あなたを通過する治癒エネルギーは、とくに精神と肉体に痕跡を残します。大がかりな治療行為が行われた場合は、あなたの持ち前の力だけでは足らないので、霊界から追加分が届けられることになりますが、そんな場合は、一時的にせよ、大きな反応があることは覚悟しないといけません。そのうち調整がなされますが……」

ここでそのゲストがシルバーバーチにお礼の言葉を述べかけると――

「感謝は大霊に捧げなさい。わたしたちはその大霊のために全てを捧げているのですから。わたしたちは大霊の使いにすぎません。ですから、賞讃も栄光も祈りも感謝も、わたしたちが戴くわけにはまいりません。あなたもわたしも、一つの大きな目的のための道具であり、その目的をより容易に、より立派に、そして人をより幸せにするために、お互いの役割を果たそうと努力しているところであることを忘れないように致しましょう」

「いわゆる“奇跡的治癒”の体験談をよく耳にするのですが、私の場合はこれまで一度も奇跡的といえる治病体験がないのです。治り方が違うようです。やはり治療家によって治療方法も異なるのでしょうか」

「治療法にもいろいろと種類があります。が、いずれも同じ“霊の力”の作用である点は変わりません。霊力は無限です。無限ですから、無限のバリエーションがあるわけです。人間でも同じ顔の人は二人といません。双子でさえ、似てはいても、まったく同じではありません。それと同じで、霊力には無限のバリエーションがありますから、それが二人の霊媒を通してまったく同じ働きをするということは有りえないことです。すべてはその場を支配している環境条件によって左右されます。宇宙間のあらゆる出来事は、極大のものも極小のものも、自然法則によって規制されているからです。

このサークルのレギュラーとして、永い間わたしの話を聞いてくださっている方は、このことは、わたしが常づね申し上げているテーマであることをよくご存知です。嫉妬心と復讐心を抱く神、気まぐれで、特定の者だけを可愛がる神などというものは、わたしは知りません。わたしは、宇宙の生命活動のあらゆる側面に自然法則の働きを見てまいりました。物的宇宙だけではありません。わたしの本来の住処(すみか)である霊の世界においても同じです。これまでにわたしが行ってみたところには必ず、自然の摂理が働いておりました。

偶然・運命の気まぐれ・奇跡・偶発事故というものは存在しません。すべては整然とした犯すべからざる連鎖の法則にしたがって働く“因果律”の結果なのです。自然の摂理がこの全大宇宙を支配しており、どこで何が起きようと――昆虫であろうと人間であろうと天体であろうと――すべてにその法則が働いているのです。

そこに人間的願望や意志の入る余地はありません。あなたの考えや見解や願望によってその法則を都合のよいように変えることはできないということです。これまでも変わることなく働いてきましたし、今なお働いていますし、これからも働き続けます。時間は永遠であり、法則もまた永遠です。原因がないという意味での奇跡をわたしは知りません。わたしが知っているのは、霊の力は地上の人間にはまだ啓示されていない、ないしは理解されていない法則によって働きかけ、時にはそれが人間の目には一見すると奇跡と思えるものを引き起こすことがある、ということです。

霊の力は生命力そのものなのです。生命のあるところには霊が存在し、霊が存在するところには生命があります。その霊力を存分に送り届けることができれば、生命力の全資質が持ち込まれるわけですから、そこに奇跡と思えるようなことが起きるわけです。

要するに、別の次元の法則が働くからこそ、そこに思いも寄らなかったことが生じるわけです。あなたは何らかの原因に対する結果を見ておられるわけです。歩けなかった人が自由に歩けるようになり、物が言えなかった人が自由にしゃべれるようになり、目の見えなかった人が見えるようになります。その治癒力は、実はそれまでその患者が呼吸し、物を考え、見たり聞いたりの生活を可能にしていたのと同じ生命力なのです。同じ力が形を変えて働き、再び同じことを可能にさせているだけなのです。

あなたは霊であるからこそ、本来は生命をもたない物的身体を動かすことができているのです。あなたという霊が引っ込めば、いわゆる“死”が生じます。それまで活力を与えていたエネルギーが消えるわけです。それと同じ霊の力を患者の患部に働かせれば、そこに失われていたものを回復させることができる、という理屈になります」

以上の心霊治療の原理に続いて、こんどは具体的な問題について、ハリー・エドワーズ氏とシルバーバーチとの問答の内容から学んでいただきたい。まずエドワーズ氏が尋ねる。

「私がいつも関心を抱いているのは、私たち治療家に何が治せるかではなくて、どうしても治せずにいる病気のことです。どうすればより多くの病気を治し、どうすればそちらの世界の霊医との協調関係を深めることができるでしょうか」

「われわれは偉大にして遠大な目的に向かって協力し合っております。その目的とは、薄幸の人々、虚弱な人々、苦痛にあえぐ人々、寄るべなき人々、悲嘆に首をうなだれ、胸のふたぐ思いをしている人々に、少しでも援助の手を差しのべてあげることです。霊の力は人間を媒体として注ぎ込むチャンスをうかがっております。そのチャンスを見つけると、病気の場合であれば治癒力を見せつけることによって、人間の協力さえ得られれば見えざる世界の威力と光明とをもたらすことができることを示します。

霊の力はすなわち生命力です。生命があるのは霊があるからこそです。霊は生命であり生命は霊です。この途轍(とてつ)もなく広大な宇宙を創造した力も、あなたがたを生かしめ、これから後もずっと生かしめていく力と同じものです。又、あなたがたが愛し合い、物を思い、心を馳せ、判断し、反省し、決断し、勘案し、熟考し、霊感を受け、人間的情感の絶頂からドン底までを体験させてくれる力、それは霊の力なのです。

あなたがた一人ひとりが大霊であり、大霊はあなたがた一人ひとりであると言えます。程度の差があるだけで、その本質、実質においては同じです。人間は言わばミクロの神です。その力が病人を癒すのです。それを分析してお見せすることはできません。何で出来ているかを説明することもできません。わたしに言えることは、それが無限の形態をとって顕現している――なぜなら、生命は無限だから、ということだけです。

霊媒現象のすべてに共通した問題は、その霊的エネルギーのコントロールです。どのエネルギーをどれだけ発現できるかは、その時の条件一つにかかっています。言いかえれば、その霊媒の有する資質と、それをより大きく、より効果的にするための修行を、どこまで心掛けるかにかかっています。わたしたちの側においても、常に新しいエネルギー、新しい放射線、新しい可能性を徐々に導入しては、それを実験(ため)しております。

ですが、それも、霊媒の身体的・精神的・霊的適性によって規制を受けます。受容力が大きければ、それだけ多くのものが導入されます。小さければ、それだけ制限されることになります。

霊力そのものは、自然法則による以外には何の制約も受けません。自然法則の枠組(わくぐ)みから離れて働くことはできないのです。が、その枠組みというのが途方もなく広範囲にわたっており、これまで地上の霊媒を通じて顕現されてきたものよりはるかに多くのものが、いまだに顕現されずに残っております。

わたしが指摘したいのは、多くのまじめで信心深い人々が、神の力はバイブルに記録されている古い時代にその全てが顕現されつくした、と思い込んでいるのですが、それは間違いだということです。啓示はそれ以来ずっと進歩し続けております。現代の霊媒を通して顕現されている霊力の方が、過去の時代のものに較べて、はるかに強大です。

さて、あなた(ハリー・エドワーズ)は豊かな恩恵に浴しておられるお一人です。あなたのすぐ身のまわりで働いている霊の姿をご覧になる霊視力があればよいのだが……と思われてなりません。背後霊の存在に確信を抱き、あなたを導く霊力に不動の信頼を置いておられることは申すまでもないのですが、その背後が誰で、どんな人物であるかをご覧になれたら、もっともっと自信を持たれることでしょう。

訳注――エドワーズ氏の背後霊団の中心的指導霊は、一九世紀の英国の外科医で消毒殺菌法の完成者J・リスターと、フランスの化学者で狂犬病予防接種法の発見者L・パスツールであるといわれる。なおエドワーズ氏は一九七六年に他界している。

古い霊の部類に属するこのわたしが確信をもって言えることは、あなたの地上生活は、今日の絶頂期を迎えるべく、ずっと導かれてきているということです。意図された通りのものを、今まさに成就なさりつつあります。今その目的地にたどり着かれました。あなたの協力なしには成就できない仕事にたずさわっていることを喜ぶべきです。

以上のわたしの話に納得がいかれましたか」

「よくわかります。ただ、そうなると二つの疑問が生じます。一つは、背後霊団は何とかして、われわれ治療家をもっと有効的に改良できないものか、ということです。たとえば、両足とも不自由な子供がいるとします。一方の足は良くなったのに、もう一方の足はどうしても良くならないことがあるのです。どこに問題があるのでしょうか。私は治療家の側に問題があるに違いないと思うのです。なぜなら、一方の足が治せれば、当然もう一方の足も治せるはずだからです」

「治療家の望む通りの結果、あるいは治療霊団がその時に目標とした通りの成果が得られるとはかぎりません。治療家を通して得られる限られた治癒エネルギーで、最大限の治癒効果をあげなければなりません。一つの治療に全エネルギーを集中すれば、一気に効果があげられるかも知れません。が、次の治療のためのエネルギーを溜めるのに長い時間を要することになります。

一つ一つが実験です、とわたしは言っているのです。治療霊団も、前もってこれはこうなるという保証はできません。効果が出ることはわかっていても、どこまで治るかはわかりません。前もって知ることのできない要素がいくつもあるのです。それは治療活動を制約することになるかも知れません。ですが、それまで少しも治らなかったものに治る兆しが見えるだけでも、喜ぶべきことです。

それだけで立派な貢献と言えます。あなたは背後霊に向かって堂々と“さあ、この私を使ってください。みなさんを信じています。あなた方の言う通りにいたします”と公言する資格があります。もちろん、あなたのもとに連れてこられる患者が、魔法のように即座に治れば、こんなうれしいことはないでしょう。が、それは有りえないことです。

問題がいろいろとあるのです。この仕事も言わば開拓者(パイオニア)的な分野に属します。あなたに協力している霊団は、一つ一つの症状の変化を知った上で、さらにテクニックを改良し、効果をあげるために、他の要素を導入しようと忙しく立ち働いております。あなたが治療に当るたびに症状が改善されているのを観察されているはずです」

「おっしゃる通りです」

「協力関係が密接であるほど多くの霊力が伝達されるのが道理なのですが、それを制約する要素として、もう一つの問題が絡(から)んできます。

議論の多い問題に踏み込むことになるのは百も承知ですが、それが事実であるからには、黙って見過ごすわけには参りませんので、敢えて申し上げます。どうしても避けられない要素の一つに、患者自身のカルマ(宿業、因縁)の問題があります。当人の霊的成長の度合いによって決まる、精神と身体の関係です。おわかりでしょうか」

「どうぞ、その先をおっしゃってください」

「そうおっしゃると思ってました。これは実は重大な問題であり、あなたにとっても意外に思えることも含まれております。心霊治療の仕事の大切な要素は、身体を治すことではなくて、魂の琴線にふれさせることです。魂を目覚めさせ、身体への支配力を大きくさせ、生きる目的を自覚させ、霊的存在としての本来の自我を表現させることに成功すれば、これは治療家として最大の貢献をしたことになります。

そのことの方が身体を治すことより大切です。それが治療家としてのあなたの努力の中でも、永遠に残る要素です。人間は精神と肉体と魂とが一体となったものです。これに、その三者が互いに絡み合って生じる、プラスアルファの要素もあります。その影響も忘れてはなりません。

病気というのは、その大半は主として精神と肉体と魂との間の連絡が正しく行われていないことに起因しています。正しく行われていれば、つまり完全な一体関係が保たれていれば、健康と安定性と落着きと機敏性をそなえています。もっとも、そういう人物は地上では滅多にお目にかかれませんが……

さて、あなたのもとを訪れる患者は、その人なりの霊的成長段階にあります。人生という梯子(はしご)の一つの段の上に立っているわけです。それがどの段であるかが、その人に注がれる治癒力の分量を決します。それを決する要素の一つが、わたしのいうカルマ的負債です。

その負債が大きすぎて、あなたにも手の施しようのない人がいます。肉体を犠牲にする、つまり死ぬこと以外に返済の方法がない人もいます。もう一度チャンスが与えられる人もいます。そんな人があなたとの縁で完治するということになる場合もあります。精神的要素のために治らない人もいます。そんな場合は、一時的には快方へ向かっても、また別の症状となってぶり返すでしょう」

「ということは、カルマ的負債の方がその人に注がれる治癒力よりも大きいのだと思います」

「おっしゃる通りです。わたしはぜひその点を強調したいのです。それが当人に賦課された税金であり、みずから綴っている物語(ストーリー)であり、その筋書きは、他の何ものによっても書き変えることはできないということです。

初めにわたしは、すべては法則の枠組みの中に存在すると申し上げました。何事もそれを前提として働きます。人間のいう奇跡は生じません。自然法則の停止も、変更も廃止もありません。すべてが原因と結果から成り立っております。そこに、自由への制約の要素があるわけです。もしも因果関係が何らかの理由でキャンセルできるとしたら、神の公正が根本から崩れます。治療家にできることは、魂を解放し、精神に自由を与えてあげることです。その結果が自然に身体に現れます」

「それがカルマ的負債を返済する一助となるのでしょうか」

「そういうことです。わたしが、心霊治療にとっては、その患者の魂の琴線にふれ、自我に目覚めさせ、生きる目的を自覚させることが一ばん重要な役目です、と申し上げる理由はそこにあります」

「わたしたち治療家が例外なく体験することですが、心の奥底からの喜び、高揚、崇高な情感や理念が湧き出るのを感じることがあります。あなたがおっしゃるのは、その時のことだと思います」

「天と地が融合した極限の瞬間――あっという間の一瞬でありながら、すべての障壁が取り除かれた時、人間は自分本来の霊性を自覚します。すぐその束縛を押し破り、霊の本来の感覚であるところの法悦(エクスタシー)の状態に達するのです」

ここでエドワーズ氏が再びカルマ的負債の問題を持ち出すと、シルバーバーチは、スピリチュアリズムの本来の大きな使命にまで敷延(ふえん)して、こう述べた。

「あなたも、わたしも、そしてこれにたずさわる人のすべてが、それぞれに役割分担を担(にな)っているスピリチュアリズムというものの最大の目的は、人類の魂を呼び覚まして、一人でも多くの人間に本当の自分に気づかせること、自分とは一体なにか、誰なのかを知ることによって、ふだんの日常生活の中において霊の本性と属性を発揮することができるように導いてあげることです。

それによって地上生活のすべてが姿を一変し、利己主義という名の雑草の生い繁る荒野から、理想の花咲くパラダイスへと変わることでしょう。われわれは今それを目的として努力しているのであり、まずまずの成功を収めつつあります。光明を見出す人、真の自我に目覚める人、物的な居眠りの生活から目覚める人――こうした人は人間本来の道を見出し、確信と知識とをたずさえて、本当の意味での巡礼の旅に出る魂であると言えましょう」

この言葉に感動したエドワーズ氏が「これだけお教えいただけば十分です。治るということ自体は重要ではないということですね」と述べると、シルバーバーチが――

「わたしたち霊界の者が人間の苦しみに無関心であると言う意味ではありません。病をかかえた人々の悲劇や苦痛や侘(わび)しさに無頓着でいるわけではありません。が、そうした問題の究極の原因に手をつければ、精神と身体と霊との間の不調和に終止符をうつことができ、そうなれば、地上生活が必要としている光輝がふんだんに注がれるのです。神の子が享受すべく意図されている本来のもの――気高さ、崇高さ、威厳、豊かさ、光輝、美しさを見出すことでしょう。

そうした生活の末に死を迎えれば、来世にそなえるための地上生活の大役を果たしてくれた肉体を、何の苦痛もなく脱ぎ捨てて、気持よく霊界の門をくぐり抜けることができます」

このあとシルバーバーチは、エドワーズ氏の奥さんの方を向いてこう述べた。

「これまでに成就されたことを、奥さんも喜んでください。今この場に集まっている霊界の治療霊団の方が、奥さんの果たされた犠牲的な役割に対して抱いている感謝の気持を、ぜひわたしから伝えてほしいと頼んでおられますよ」

これを聞いて奥さんが「自分はこんなことでいいのだろうかと、時に迷ったこともございました」と述べると、シルバーバーチが――

「わたしは、わたしよりはるかに奥さんを知りつくしている霊から頼まれて申し上げているのです。霊団の人たちは、あなたの心、あなたの精神、あなたの魂を知りつくし、さらに、あなたが捧げられた忠誠心と愛の強さもよくご存知です。

その人たちが言っているのです――ご主人の使命達成を可能にした陰からのあなたの助力に対する感謝の気持を、ぜひ伝えてほしいと。一方が脚光を浴びる立場にあれば、他方はその陰にいなければなりません。陰の存在なくしては、脚光を浴びる人もいないでしょう。わたしたちの目から見れば、人のために為された貢献は、黙って人知れず為されたものであろうと、大勢の観衆を前にして華々しく為されたものであろうと、その評価にいささかの違いもございません」

祈り
美と愛らしさ優雅さと壮麗さとを……

大霊よ。わたしたちは、ひたすらにあなたの有るがままの姿を説き明かさんと努めております。子等が、あなたについての明確な概念を捉えるのを永きにわたって妨げてきた、虚偽と紛(まが)い物と誤解のすべてをはぎ取ってしまいたいからでございます。

子等が自分とは何であるかを知るためには、全生命の背後に控える霊力を認識し、それとのつながりを理解しなければなりません。それは人間的な激情や煩悩に動かされる“神格化された人間”ではございません。一民族の守護神ではございません。エホバ神ではございません。自分のお気に入りの者だけを可愛がる、えこひいきをする神様ではございません。

あなたは宇宙の大霊におわします。根源の第一原理であり、全生命の命運の究極の裁決者であり、王の中の王であり、完全なる愛と叡智の権化(ごんげ)にあらせられます。あなたこそ、この全大宇宙を創造し、その活動のすべての側面を細大もらさず規制する法則を始動なさった方でございます。

あなたは宇宙の全生命に配剤しそして指導する大精神です。あなたは、人間もいずれあなたと同じ完全なる存在へ向けて向上し進化していくことができるように、あなたと同じ生命を賦与なさった大霊にあらせられます。

そのあなたとあなたの摂理とをわたしたちが啓示せんと努めるのは、この宇宙という霊的機構の中にあって人類が占めている真実の位置と、その位置にあって果たさねばならない役割とを、包括的に理解する必要があるからでございます。

あなたは人類をどう猛な四つ足の段階から引き上げ、あなたの分霊を授けることによって神性を賦与し、あなたのご計画の推進に参加できるようになさいました。

人間には、その授かりものを有効に使うべしとの、あなたのご意志が託されております。すなわち内部の霊性を発揮することによって地上に美と愛らしさと優雅さと壮麗さとをもたらし、地上のすべての子等が等しくその豊かな恩恵に浴することができるような環境にしなければならないのでございます。

暗黒も残酷も、貪欲も強欲も悪徳も、地上には無用のものです。そうした悪性腫瘍は、あなたがお授けくださった霊力を行為に移すことによって、すべて取り除くことができるのでございます。

わたしたちが労苦をいとわず地上圏で精励するのは、ほかならぬその霊の威力を子等に実感させるためでございます。その体験を通じて、この地上にあっても天国の美を味わい、墓の向こうに待ちうける、絶対的な宿命としての霊の世界に備えることができるのでございます。

ここにあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

第5章 人間は生まれる前も、今も、そしてこれからもずっと霊です
霊媒の指導霊や支配霊になるのは、霊媒自身より霊格の高い霊ときまっているのか。心霊研究というのは大切なものか。神を、全能で慈悲深い存在と考えてよいか。こうした質問がサイキックニューズ紙の読者から寄せられている。本章ではそうした投書による質問と、それに対するシルバーバーチの回答をまとめて紹介してみよう。

最初に紹介するのは、かの有名な“モーゼの十戒”に関するもので、あれはもう古いのではないか、内容を書き改めるべきではないか、といった意見が添えられていた。シルバーバーチは質問者の意見に同感であると述べてから、こう続けた。

「人類の永い歴史の中のある一時期のために届けられた霊力を、神による最終的な啓示と見なしてはなりません。啓示というものは、時代と民族の理解力に合わせて届けられるもので、継続的かつ進歩的です。理解力の及ぶ範囲内で少し進んだもの、ということです。常に一歩先のものが届けられ、そこまで到達すれば、さらに次の段階のものを、というふうに、無限の梯子(はしご)を登ってまいります。

なのに、かのユダヤ民族がまだ幼い段階にあり、しかもその当時の情況に合わせて届けられたものが、何もかも大きく事情の異なる現代に、どうして当てはまりましょうか。わたしには“一戒”しかありません。お互いがお互いのために尽し合うべし――これだけです」

この回答がきっかけとなって、ひとしきりメンバーの間で議論の花が咲いた。それにシルバーバーチも加わって、こう述べた。

「こうして皆さんのご意見をお聞きしていると、わたしは、出来ることなら霊的ビジョンがどうなっているかをお見せしたいものだと思わずにはいられません。そうすれば、霊の世界に存在する複雑・微妙な組織と、計画が立案され地上の各国に影響力が行使されていく、その背景に行きわたる配慮、絶妙ともいうべき配剤を、まのあたりにすることができるのですが……。永年にわたって蓄積されてきた叡智から生まれる洞察力が総動員されます。が、それでも、時として見込み違いというものがあるものです。わたしたちにも失敗はあるのです。何もかもうまく行くとはかぎらないのです。

しかし、このわたしにかぎって言えば、皆さんからの大いなる愛と敬意を頂戴して、大へん恵まれた成果をあげてまいりました。その愛と敬意のお蔭で、他の霊団の多くが、必死の努力にもかかわらず、使命半ばにして挫折している中で、わたしの仕事はずいぶんラクな思いをさせていただきました。まったくの無名の状態から始めて、今や全世界のすみずみまで広がるに至ったこれまでの道のりを振り返ると、感慨ひとしおというところです。しかし、まだその使命は終わっていないのです。

今でも数多くの大きな問題に直面しております。が、それと闘い、そして克服しつつ、この暗闇に包まれた物質の世界に、ささやかな光明を注いでいくことができております」

次の投書には“大霊の存在を実感するにはどうしたらよいのでしょうか”とあった。これが読み上げられるとシルバーバーチは、間髪を入れず、こう答えた。

「まず第一に、生命の大霊とは何であるかを明確に認識しないといけません。これまでは、それが間違った概念のもとに信じられてまいりました。

もとより大霊を有限の用語で表現することは、必然的に不可能なことです。無限なる存在を有限なる言語で表現できる道理がありません。そこで、いつの時代においても、神の真の姿は捉え難く、限りある地上の人間の理解力では正しく理解することができませんでした。

しかし皆さんも霊的存在であり、内部に神性の火花を宿しており、程度の問題とはいえ、大霊の資質をそなえているからには、生命の全諸相に顕現している崇高にしてダイナミックな生命力を感じ取ることはできるはずです。ただし、それにも程度の差はありますが……

そのための条件として、物的感覚を鎮静させること(精神統一)ができるようにならないといけません。世間の雑音、不協和音、いがみ合い等は、きれいさっぱりと忘れ去らないといけません。内面を穏やかに保ち、あたりを包んでいる崇高な根元的エネルギーに魂をゆだねるコツを身につけないといけません。その段階で内部から湧き出る静寂の醍醐味(だいごみ)――それが生命現象の背後の霊力と一体となった時の実感です。

そこに至るには、時間と忍耐と知識とが必要です。が、あなたのまわりに充満する霊妙にして微妙な霊的生命のバイブレーションを感じ取ることができるようになるにつれて、内部の霊的自我に潜む驚異的可能性に気づくようになります。それが、大霊の存在を実感するということです。しかし、それは容易なことではありません」

次の投書はシルバーバーチがよく使用する“霊の力”についての質問で、“それはタンジブルtangible(触れてみることができるもの)でしょうか。リアルreal(実体感のあるもの)でしょうか”というものだった。

「難しい用語を使用なさいますね。タンジブルとはどういう意味でしょうか。五感に反応するかという意味でしょうか。もしその意味でしたら、“ノー”の返事となります。

リアルなものか? むろんリアルです。知識がリアルであるように、叡智がリアルであるように、進化がリアルであるように、友情がリアルであるように、愛がリアルであるように、実在のエネルギーがすべてリアルであるように、霊力はリアルなものです。霊の世界においてはタンジブルなものですが、地上世界では、霊感者を除いては、感知できません。

霊力は生命を支えているエネルギーです。無知な人、偏見のある人、迷信にひきずり回されている人は、みずから障壁をこしらえ、それが霊力の流れを阻止しているのです。それを取り除くのにどれだけの時を要するかは、その障壁の性質(たち)によって違ってきます。

人によっては、霊的なことについて漠然とした概念すら抱くことなく生涯を終わる人もいます。生命とは霊であり、霊とは生命であり、地上に存在するものはすべて霊力のお蔭であるということが、チラリと脳裏をよぎることもなく過ごします。

そういう人は、霊的実在に対して、すべての感覚がマヒしているのです。言ってみれば物的牢獄の中で暮らしているようなもので、死が解放してくれるまで、その状態が続きます。もっとも、死んだらすぐに実在に気づくというものでないことは、ここにおいでの皆さんはよくご存知と思います。その種の人間は、霊的生活環境に馴染むまでに、相当な調整期間を要します。

中には、地上生活中に時おり、ほんの一瞬のことですが、生命の全諸相を創造し支配し導いている、何かしら超越的な力の存在に気づく人がいます。

さらには、ここにおいでの皆さんのように、霊力の実在について直接的な認識をお持ちで、日々、その恩恵に浴していらっしゃる方がいます。心が、精神が、そして魂が開かれ、この全大宇宙を動かしている力と同じものが自分を通して働きかけ、他の人々の魂を目覚めさせる上で、自分を役立てる用意ができておられる方たちです。

どの力も始源は一つです。全生命活動を動かしている力が、このわたしを今こうしてしゃベらせているのです」

そのシルバーバーチ霊団とサークルとのつながりについて問われて――

「信念に燃えなさい。盲目的な信念ではなく、確実な知識に基づいた信念です。確信です。これは、古くから言われ続けてきた訓えです。もともと、わたしが申し上げていることに新しいものは何一つありません。そこで、改めてここで、それが皆さんの存在の布地に染み込むように、わたしに可能なかぎりの力を込めて、同じ言葉を繰り返します――信念に燃えなさい!

皆さんは皆さんの役目を果たしてください。わたしたちはわたしたちの役目を果たします。絶対に見捨てるようなことは致しません。宇宙にはインスピレーションが充満しているのです。条件さえ整えば、それを自由に我がものとすることができるのです。ところが、そこに取り越し苦労、疑念、不安といったものが入り込みます。そうした不協和音が邪魔をするのです。ですから、それらが心に宿るスキを与えてはならないのです。

為さねばならないことが山ほどあります。それを成就するためには、皆さんがた人間側の堅固な忠誠心による援護がぜひとも欲しいのです。比較的永い年月にわたる経験をもつこのわたしでさえ、克服に手こずる障害が沢山あります。それを乗り越えるには、皆さんがたが忠実であってくださること、信念を崩さないでいてくださること、そして何よりも、恐れることを知らない気魄(きはく)を持ち続けてくださることが不可欠なのです。心配・迷い・不安、こうした弱味が心に根を張るのを許してはなりません。

これからも難問が前途を過(よぎ)ることでしょう。が、皆さんもそれを過って進めばよろしい。いっしょに留まってはなりません。解決できないほど大きな難問、背負えないほど重い荷物というものはありません。弱気になってはいけません。明日がもたらすものを、断固たる意志と不敵な精神で迎えるのです。そうすれば万事うまく行きます。

皆さんの助力を必要とする人が無数にいます。皆さんはいつでも援助の手を差しのべられる用意ができていないといけません。それができてはじめて、自分の存在意義を発揮したことになるのです。どんな大言壮語をしても、人のためになることをしなかったら、自分が得たものを人に与えるということをしなかったら、せっかくあなたに託された霊的知識が教えてくれる生き方をしていないことになるのです。

やるべきことが沢山あります。どうか皆さんも、わたしたちとともに、自分の行為によって生きる愉(たの)しみを知ってくれる人が、ここにも、あそこにもいてくれるのだという喜びに満ちた期待をもって、仕事に邁進(まいしん)いたしましょう。

そして、例によってわたしの心は、大霊への祈りの気持に満たされます。

ああ、大霊よ、あなたの霊力はわたしたちを生かしめている力です。あなたの霊力はわたしたちの魂を高揚させる力です。わたしどもはその力をできうるかぎり豊かに地上へ顕現せしめ、それに気づかずにいる者に、その素晴しさを認識させてあげたいのでございます。

大霊の祝福のあらんことを!」

別の日の交霊会でも、世界中の読者から寄せられた質問が取り上げられた。そのうちの一つは“他界後の行き先はわかったのですが、いったい霊はどこから来るのでしょうか”というものだった。するとシルバーバーチらしい返答が返ってきた。

「その方は本当に他界後の行き先がわかっていらっしゃるのでしょうか。どこへ行くのでしょう?」

この問いかけに、右の投書を読み上げたメンバーが「次の世界へ行くという意味だと思いますが……」と言うと――

「そういうふうに皆さんは“次の世界”などという実にあいまいな用語を用いられますが、生命の世界は一つなのです。それに無数の段階があるということです。皆さんは今も立派に霊界にいらっしゃるのですし、これからも永遠に霊界にいらっしゃるのです。バイブレーションの波長が異なるというだけのことです。同じ意味で、人間は今から立派に霊的存在であり、これからもずっと霊的存在です。“死”が霊にするのではありません―― 一ミリたりともあなたの霊性を高めてはくれません。

人間は生まれる前も、今も、そしてこれからもずっと霊です。現在はその肉体という機関を通して顕現している部分だけを意識していらっしゃるのです。いわゆる“死”のあとの進化にともなって、それまで顕現していなかった部分が次第に発揮されていきますが、“霊”としては、どこかへ行ってしまうわけではありません。どこから来たのでもありません。無窮の過去から存在し、今も存在し、これからも無窮に存在し続けます」

メンバーの一人「地上的表現形態をもつ前はどういう形で表現していたのでしょうか。この質問者が聞きたいのはそのことだろうと思うのです」

「霊としてはずっと存在しているのですが、その物質という形態に宿るまでは、個体としての存在はありません。霊が個別性をもつのは物的身体と連結した時です」

「それは、人間に飼われている動物の個別性が飼い主とのつながりによって促進されるのと同じと考えてよろしいでしょうか」

「結構です」

訳注――動物の霊は種族ごとの類魂としての意識しかなく、死後はその類魂と融合して個別性を失う。が、人間に可愛がられた動物は、その愛によって個別性が強められて、死後もしばらく、そのままの形態を維持している。飼い主の死後、霊界でいっしょに暮らしてますます個別性を強めるが、進化の速度が人間に劣るために、いつかは別れる時が来て、動物はその愛が薄れるにつれて個別性を失い、最後はやはり類魂の中へ融合していく。が、その分だけ類魂が進化を促進され、やがて、類魂全体として人間的身体へ宿る段階がくる。

コナン・ドイルの『妖精物語』の中で、ある体験者が、形体のはっきりしない精霊を目の前にして、素直でやさしい気持になるほど形体がくっきりと、そして生き生きとしてきた、という話がある。それが“愛の力”であり、育児や学校教育も、帰するところは“愛”の問題であることを、さきの人間と動物の進化の話とあわせて、教えているように思える。


別のメンバー「われわれがこの物的身体を失っても、やはり個性を持ち続けるのでしょうか」

「ますます個性が強くなります」

さらに別のメンバー「でも、次第にあなたのおっしゃる大霊の中へ融合していくのではないでしょうか。ますます神性を発揮するのですから……」

「それでもなお個性は残ります。あくまでもあなた自身の潜在的資質を発揮し続けるのです。その顕現の仕方は進化の程度によって決まります。進化するほど潜在的自我が表面へ出てまいります。それは、それだけ完成度が高められるということであり、完成度が高まるほど大霊に近づくということです。

もしもその完成度が限られたものであるとしたら、ある一定の時期がくればあなたも大霊に融合しきってしまうことになりますが、進化とは無限の過程なのです。進化すればするほど、まだその先に進化の余地があることを自覚することの連続です。こうしてあなたは、どこまで行っても、ますます個性を強めていくのです」

続いての投書は“他界した人たちには、私たちから送られる思いやりや祈りが通じているのでしょうか。愛の力を霊界での仕事に使用できるものでしょうか”というものだった。シルバーバーチが答える。

「それは、両者の間に真実の愛または情のつながりがあるかどうかによって違ってきますが、大体において、切なる思いや祈り、幸せを願う気持はその霊に通じ、力になります」

「もう一度やり直すチャンスはすべての人に与えられるのでしょうか」

「もちろんです。やり直しのチャンスが与えられないとしたら、宇宙が愛と公正とによって支配されていないことになります。墓に埋められて万事がお終いとなるとしたら、この世は実に不公平だらけで、生きてきた不満だらけの人生の埋め合わせもやり直しもできないことになります。

わたしたちが地上の人々にもたらすことのできる最高の霊的知識は、人生が“死”をもって終了するのではないこと、したがって苦しい人生を送った人も失敗の人生を送った人も、あるいは屈辱の人生を送った人も、みんなもう一度やり直すことができるということ、言いかえれば、悔(くや)し涙を拭(ぬぐ)うチャンスが必ず与えられるということです。

人生は死後も続くのです。永遠に続くのです。その永遠の旅路の中で、人間は内在する能力、地上で発揮しえなかった才能を発揮するチャンスが与えられ、同時に又、愚かにも摂理を無視し、他人の迷惑も考えずに横柄(おうへい)に生きてきた人間には、その悪業の償いをするチャンスが与えられます。

神の公正は完ぺきです。騙(だま)すことも、ごまかすこともできません。すべては神の眼下にあります。すべてをお見通しです。そうと知れば、まじめに生きてきた人間が何を恐れることがありましょう。恐れることを必要とするのは、利己主義者だけです」

「スピリチュアリズムが現代の世界に貢献できることの中で最大のものは何でしょうか」

「最大の貢献は、大霊の子等にいろんな意味での自由をもたらすことです。これまで隷属させられてきた束縛から解放してくれます。知識の扉は誰にでも、分け隔てなく開かれていることを教えてあげることによって、無知の牢獄から解放してあげます。日陰でなく日向で生きることを可能にしてあげます。

スピリチュアリズムは、あらゆる迷信と宗教家の策謀から解放します。真理を求める闘いにおいて、勇猛果敢(ゆうもうかかん)であらしめます。内部に宿る神性を自覚せしめます。地上のいかなる人間にも、例外なく霊の絆が宿ることを認識せしめます。

憎み合いもなく、肌の色や民族の差別もない世界、自分をより多く人のために役立てた人だけが偉い人とされる世界を築くにはどうすればよいかを教えます。知識を豊かにします。精神を培(つちか)い、霊性を強固にし、生得の神性に恥じることのない生き方を教えます。こうした点がスピリチュアリズムにできる大きな貢献です。

人間は自由であるべく生まれてくるのです。自由の中で生きるべく意図されているのです。奴隷のごとく他の者によって縛られ、足枷をされて生きるべきものではありません。その人生に豊かさがないといけません。精神的に、身体的に、霊的に豊かでなければいけません。あらゆる知識――真理も、叡智も、霊的啓示も、すべてが広く開放されるべきです。生得の霊的遺産を差し押さえ、天命の全うを妨げる宗教的制約によって肩身の狭い思い、いらだち、悔しい思いをさせられることなく、霊の壮厳さの中で生きるべきです」

「スピリチュアリズムはこれまでどおり一種の影響力として伸び続けるべきでしょうか、それとも一つの信仰形体として正式に組織をもつべきでしょうか」

「わたしはスピリチュアリズムが信仰だとは思いません。知識です。その影響力の息吹きは、止めようにも止められるものではありません。真理の普及は抑えられるものではありません。みずからの力で発展してまいります。外部の力で規制できるものではありません。あなたがたに寄与できるのは、それがより多くの人々に行きわたるように、その伝達手段となることです。

それがどれほどの影響をもたらすかは、前もって推し量ることはできません。そのためのルールをこしらえたり、細かく方針を立てたりすることはできない性質のものなのです。(※)

あなたがたに出来るのは、一個の人間としての責任に忠実であるということ、それしかないのです。自分の理解力の光に照らして義務を遂行する――人のために役立つことをし、自分が手に入れたものを次の人に分け与える――かくして霊の芳香が自然に広がるようになるということです。一種の酵素のようなものです。じっくりと人間生活の全分野に滲透しながら熟成してまいります。みなさんは、ご自分で最善と思われることに精を出し、これでよいと思われる方法で真理を普及なさることです」

※――それを人間の浅知恵でやろうとすると、組織を整え、広報担当、営業担当といったものをこしらえ、一つの企業としての体制ができ上がる。その体制を維持するためには資金がいる。そこで、目標が宗教本来のものから逸脱して、いかにして収入増を図るかということに集中するようになり、かくして世俗的宗教――立派な“商売”となり下がっていく。それがいつの世にも変わらぬパターンであることを念頭においてシルバーバーチは警告している。

「支配霊になるのは霊媒自身よりも霊格の高い霊と決まっているのでしょうか」

「いえ、そうとはかぎりません。その霊媒の仕事の種類(大きく分ければ物理的心霊現象か精神的心霊現象か)によって違いますし、また、“支配霊”という用語をどういう意味で使っているかも問題です。

地上の霊媒を使用する仕事にたずさわる霊は“協力態勢”で臨みます。一人の霊媒には複数の霊から成る霊団が組織されており、その全体の指揮にあたる霊が一人います。これを“支配霊(コントロール)”と呼ぶのが適切でしょう。霊団全体を監督し、指示を与え、霊媒を通じてしゃべります。時おり他の霊がしゃべることもありますが、その場合も支配霊の指示と許可を得た上でのことです。しかし役割は一人ひとり違います。“指導霊(ガイド)”という呼び方をすることがあるのもそのためです。

霊言霊媒にかぎっていえば、支配霊はかならず霊媒より霊格が上です。が、物理現象の演出にたずさわるのは必ずしも霊格が高い霊とはかぎりません。中には、地上的要素(物質臭)が強く残っているからこそ、その種の仕事にたずさわれるという霊もいます。そういう霊ばかりで構成されている霊団もあり、その場合は必ずしも霊媒より上とはかぎりません。

しかし一般的に言えば、監督・支配している霊は霊媒より霊格が上です。そうでないと霊側に主導権が得られないからです」

「思念に実体があるというのは事実でしょうか」

「これはとても興味ぶかい問題です。思念にも影響力がある――このことには異論はないでしょう。思念は生命の創造作用の一つだからです。ですから、思念の世界においては実在なのです。が、それが使用される界層の環境条件によって、作用の仕方が制約を受けます。

いま地上人類は、五感を通して感識する条件下に住んでいます。その五つの物的感覚で自我を表現できる段階にやっと到達したところです。まだ、テレパシーによって交信し合える段階までは進化していないということです。まだまだ開発しなければならないものがあります。地上人類は、物的手段によって自我を表現せざるを得ない条件下に置かれた、霊的存在ということです。その条件がおのずと思念の作用に限界を生じさせます。なぜなら、地上では思念が物的形態をとるまでは存在に気づかないからです。

思念は、思念の世界においては実在そのものです。が、地上においては、それを物質でくるまないと存在が感識されないのです。肉体による束縛をまったく受けないわたしの世界では、思念は物質よりはるかに実感があります。思念の世界だからです。わたしの世界では霊の表現または精神の表現が実在の基準になります。思念はその基本的表現の一つなのです。

勘違いなさらないでいただきたいのは、地上にあるかぎりは、思念は仕事や労力や活動の代用とはならないということです。強力な補助とはなっても、代用とはなりません。やはり地上の仕事は五感を使って成就していくべきです。労力を使わずに思念だけで片付けようとするのは、邪道です。これも正しい視野で捉えないといけません」

「物的生活の動機づけとして使用するのは許されますね?」

「それは許されます。また事実、無意識のうちに使用しております。現在の限られた発達状態にあっては、その威力を意識的に活用することができないだけです」

「でも、その気になれば、霊側が人間の思念を利用して威力を出させることも可能でしょう?」

「できます。なぜなら、わたしたちは人間の精神と霊を通して働きかけているからです。ただ、わたしがぜひ申し上げておきたいのは、人間的問題を集団的思念行為で解決しようとしても、それは不可能だということです。思念がいかに威力があり役に立つものではあっても、本来の人間としての仕事の代用とはなり得ないのです。またまたわたしは歓迎されないお説教をしてしまいましたが、わたしが見るかぎり真実なのですから、仕方がありません」

「大戦前にあれだけ多くの人間が戦争にならないことを祈ったのに、阻止できませんでした。あれなどは、その良い例だと思います。ヨーロッパ全土、敵国のドイツでもそう祈ったのです」

「それは良い例だと思います。物質が認識の基本となっている物質界においては、思念の働きにもおのずと限界があります。それはやむを得ないことなのです。ですが他方、わたしは、思念の価値、ないしは地上生活における存在の意義を無視するつもりもありません」

「心霊研究をどう思われますか」

「その種の質問にお答えする時に困るのは、お使いになる用語の意味について、同意を得なければならないことです。“心霊研究”という用語には、スピリチュアリストが毛嫌いする意味も含まれています(※)。こうした交霊会や養成会も、本当の意味での“研究”であると言えます。というのは、わたしたちはこうした会を通じて、霊力がよりいっそう地上へもたらされるための通路を吟味・調査しているからです。

皆さんはわたしたちから学び、わたしたちは皆さんから学びます。動機が純粋な探求心に発し、得られたものを人類の福祉のために使用するのであれば、わたしは、研究は何であっても結構であると思います。が、霊媒を通して演出される現象を頭から猜疑心でもって観察し、にっちもさっちも行かなくなっている研究は感心しません。動機が真剣であれば、それは純粋に“研究”であるといえますが、真剣でなければ“研究”とはいえません。純心な研究は大いに結構です」

※―― 一八四八年のハイズビル事件以後、欧米各国にSociety for Psychical Research(略してS・P・R)という心霊研究のための学術機関が設立されたが、その基本的姿勢があくまでも従来の物質科学の常識を尺度としているために、結果的にただの資料集めの仕事しかしていない。“にっちもさっちもいかなくなっている研究”とはそのことを言っている。フレデリック・マイヤースやウィリアム・クルックス、オリバー・ロッジといった世界的な学者も一時は会長のイスに座っているが、そうした煮え切らない態度に嫌気がさして、すぐに辞任している。

「英国国教会は、スピリチュアリズムには何ら世の中に貢献する新しいものが見当らないといって愚弄(ぐろう)しておりますが、この意見にどう反論なさいますか」

「わたしは少しも“愚弄されている”とは思いません。わたしたちがお届けしたものの中で“新しいもの”が一つあります。それは、人類史上はじめて、宗教というものを証明可能な基盤の上に置いたことです。つまり信仰と希望と思索の領域から引き出して、“ごらんなさい、このようにちゃんとした証拠があるのですよ”と言えるようになったことです。

しかし、“新しいもの”が無いとおっしゃいますが、ではイエスは何か新しいものを説いたのでしょうか。大切なのは新しさとか物珍しさではありません。真実であるか否かです」

「大霊(神)を、全能でしかも慈悲ある存在、と形容するのは正しいでしょうか」

「なんら差し支えありません。大霊は全能です。なぜなら、その力は宇宙およびそこに存在するあらゆる形態の生命を支配する自然法則として顕現しているからです。大霊より高いもの、大霊より偉大なもの、大霊より強大なものは存在しません。宇宙は、誤ることのない叡智と慈悲深い目的をもった法則によって統括されています。その証拠に、あらゆる生命が暗黒から光明へ、低きものから高きものへ、不完全から完全へ向けて進化していることは、間違いない事実です。

このことは、慈悲の要素が摂理の中に配剤されていることを意味します。ただ、その慈悲性に富む摂理にも機械性があることを忘れてはなりません。いかなる力をもってしても、因果律の働きに干渉することはできないという意味での機械性です。

いかに霊格の高い霊といえども、一つの原因が数学的正確さをもって結果を生んでいく過程を阻止することはできません。そこに摂理の機械性があります。機械性という用語しかないのでそう言ったのですが、この用語では、その背後に知的で目的意識をもつダイナミックなエネルギーが控えている感じが出ません。

わたしがお伝えしようとしている概念は、全能にして慈悲にあふれ、完全にして無限なる存在でありながら、地上の人間がとかく想像しがちな“人間神”的な要素のない神です。しかし神は無限なる大霊である以上、顕現の仕方も無限です。あなたがたお一人お一人がミニチュアの神なのです。お一人お一人の中に神という完全性の火花、全生命のエッセンスである大霊の一部を宿しているということです。その火花を宿しているからこそ存在できているのです。ただし、それが地上的人間性という形で顕現している現段階にあっては、皆さんは不完全な状態にあるということです。

神の火花は完全です。それがあなたがたの肉体を通して顕現している側面は、きわめて不完全です。死後はエーテル体、幽体、ないしは霊的身体――どうお呼びになっても結構です。要するに死後に使用する身体と理解すればよろしい――で自我を表現することになりますが、そのときは現在よりは不完全さが減ります。霊界の界層を一段また一段と上がっていくごとに不完全さが減少していき、それだけ内部の神性が表に出るようになります。ですから、完全といい不完全といい、程度の問題です」

「バラも、つぼみのうちは完全とはいえませんが、満開となったときに完全となるのと同じですね?」

「まったくその通りとも言いかねるのです。厄介なことに、人間の場合は、完全への道が限りなく続くのです。完全の域へ到達することができないのです。知識にも、叡智にも、理解力にも、真理にも、究極というものがないのです。精神と霊とが成長するにつれて能力が増します。今の段階では成就できないものも、そのうち成就できるようになります。はしご段を上がっていき、昨日は手が届かなかった段に上がってみると、その上にもう一つ上の段が見えます。それが無限に続くのです。これで完全という段階がこないのです。もしそういうことがあるとしたら、進化ということが無意味となります」

これは当然のことながら論議を呼び、いくつかの質問が出たが、それにひと通り応答したあと、シルバーバーチはこう述べた。

「あなたがたは限りある言語を超えたことを理解しようとなさっているのであり、それはこれからも続けていくべきことですが、たとえ口では表現できなくても、心のどこかでチラリと捉え、理解できるものがあるはずです。たとえば言葉では尽せない美しい光景、画家にも描けないほど美しい場面をチラッとでもご覧になったことがおありのはずですが、それは口では言えなくても心で感じ取り、しみじみと味わうことはできます。それと同じです。あなたがたは今、言葉では表現できないものを表現しようとなさっているのです」

「大ざっぱな言い方ですが、大霊は宇宙の霊的意識の集合体であると言ってよいかと思うのですが……」

「結構です。ただその意識にも、次元の異なる側面が無限にあるということを忘れないでください。いかなる生命現象も、活動も、大霊の管轄外で起きることはありません。摂理ないし自然法則は、自動的に宇宙間のすべての存在を包括するものだからです。たった一つの動き、たった一つの波動――動物の世界であろうと鳥類の世界であろうと、植物の世界であろうと昆虫の世界であろうと、根菜の世界であろうと花の世界であろうと、海の世界であろうと人間の世界であろうと、あるいは霊の世界であろうと――その法則によって規制を受けないものは何一つ存在しないのです。宇宙は漫然と存在しているのではありません。莫大なスケールをもった、一個の調和体なのです。

それを解くカギさえ手にすれば、悟りへのカギさえ手にすれば、いたって簡単なことなのです。つまり宇宙は法則によって支配されており、その法則は大霊の意志が顕現したものだということです。法則が大霊であり、大霊は法則であるということです。

その大霊は、人間を大きくしたようなものでないという意味では非人格的存在ですが、その法則が人間の霊的・精神的・物質的の全活動を支配しているという意味では、人間的であると言えます。要するに、あなたがたは、人類として、宇宙の大霊の枠組みの中に存在し、その枠組みの中の不可欠の存在として寄与しているということです」

「ということは、神の法則は完全な形で定着しているということでしょうか。それとも新しい法則が作られつつあるのでしょうか」

「法則は無窮の過去から存在しています。完全である以上、その法則の枠外で起きるものは何一つ有りえないのです。すべての事態にそなえてあります。ありとあらゆる可能性を認知しているのです。もしも新たに法則をこしらえる必要が生じるようなことがあれば、神は完全でなくなります。予測しなかった事態が生じたことを意味するからです」

「こう考えてよろしいでしょうか――神の法則は完全性の青写真(ブループリント)のようなもので、われわれはそのブループリントにゆっくりと合わせる努力をしつつあるところである、と」

「なかなかいい譬(たと)えです。皆さんは地上という進化の途上にある世界における進化しつつある存在です。その地球は、途方もなく大きな宇宙のほんの小さな一部にすぎませんが、その世界に生じるあらゆる事態にそなえた法則によって支配されております。

その法則の枠外に出ることはできないのです。あなたの生命、あなたの存在、あなたの活動のすべてが、その法則によって規制されているのです。あなたの思念、あなたの言葉、あなたの行為、つまり、あなたの生活全体をいかにしてその法則に調和させるかを、あなたみずから工夫しなければならないのです。

それさえ出来れば、病気も貧乏も、そのほか、無知の暗闇から生まれる不調和の状態がすべて無くなります。自由意志の問題について問われると、必ずわたしが、自由といっても無制限の自由ではなく、自然法則によって規制された範囲での自由です、と申し上げざるをえないのは、そのためです」

祈り
暗闇から光明へ……

ああ、大霊よ。わたしたちは、あなたの無限の叡智、無限の知識、無限の愛を、ささやかな形ででも啓示できればと心を砕いているところでございます。

過去幾世紀にもわたって、開けた洞察力に富む者たちは、目に見えざる、より大きな、より充実せる、より深き生命の界層を垣間見て、それをその時代の言語と慣習と特色の中で表現してまいりました。

いつの時代にもあなたの永遠の真理の証言者、霊力の存在に気づいた者がいたのでございます。ほかならぬその霊力によって鼓舞され、細やかにして微妙・霊妙なる霊波の存在を悟ったのでした。しかし、地上的条件の必然の結果として、そのいずれもが人間の浅知恵によって着色され、夾雑物の下敷きとなってしまいました。

そこで又しても、あなたの僕たるわたしどもは、あなたのメッセンジャーとして、同じ永遠の真理を、こんどこそ汚れのない形で啓示せんとしております。一時期だけの特別の計らいとしてではありません。歴史的事件としてではありません。奇跡的現象としてではありません。あなたの自然の摂理の一環として啓示せんとしているのでございます。

物質界の彼方に広大なる霊の世界が存在する事実を知らせたいのでございます。その世界では、同じくあなたの子等が、向上と進化を重ねた末にいよいよ叡智の始源に近づき、それまでに獲得したものを、受け入れる用意のできた者に分け与えたいと望んでいるのでございます。

かくして地上には今、そうした霊界からの働きかけに反応する者、霊的な光明と知識と慰安と力と導きを広めるための道具たらんとする者が増えつつあり、今後ともますます増え続けることでしょう。わたしたちはぜひともこの任務を遠く広く遂行し、恵まれぬ人々へ手を差しのべるための手段となってくれる者を、一人でも多く霊力の影響下に引き寄せたいと願っております。

わたしたちの目には、心を苦痛と不安で満たされ、悲しみの涙で目を曇らされ、苦悩を背負い、孤独を味わい、暗くうっとうしい地上世界には希望も慰めもないと思い込んでいる人々の姿が見えます。

わたしたちがメッセージを届けるのはそういう人たちです。そういう人たちこそ、その魂に感動を与えてあげ、あなたの無限の摂理と愛と力への確信をもたせてあげ、自分が決して忘れ去られていないこと、あなたの王国ではすべての子等に豊かな配慮がなされていることを確信させてあげたいのでございます。

わたしは今その仕事に献身し、地上にあって、同胞を苦しみから救い、不安を和らげ、喪の悲しみの中にある人を慰め、暗闇から光明へと導かんとしている同志とともに、手を取り合ってまいるのでございます。

第6章 人類は苦しみつつも、一歩一歩、光明へ向けて進化しております
現代は、科学技術の進歩のおかげで、何秒も数えないうちに、ニュースが地球を一周する。何万キロも離れたところで起きたことが、ほぼ同時にテレビに映し出され、ラジオで報じられ、その日の夕刊に載る。問題なのは、そうした素晴しい科学技術の恩恵を活用して報じられるニュースの大半が、暴力行為と悲惨な出来事ばかりだということである。

ところがシルバーバーチに言わせると、それでもなお、人類は進化しつつあるという。ある日、二人のゲストを迎えての交霊会で、そのことに言及してこう語った。

「地上世界は、たった一つの重大な原因によって、着実に改善されております。その原因とは、“霊の力”が働きかけているということです。霊力が注がれた場所、有能な道具(霊媒・霊覚者)を通して霊力が顕現したところには、必ずや霊的刷新の仕事が始まり、その仕事を通して物事の価値観が徐々に変わってまいります。

今からほぼ一世紀前(一八四八年のハイズビル事件)に始まった、大々的な組織体制のもとでの霊力の降下がなかったならば、地上世界はもっともっと深刻な事態に陥っていたはずです。潜在的な更生力が全世界に働きかけてきたからこそ、この程度で終わっているのです。

その潜在力も、最初はわずか数滴から始まりました。それが勢力を集めて小川となり、大河をつくり、海となって、今や枯渇する心配などみじんもない分量で地球を包んでおります。歴史の流れをすっかり変えております。人間生活の視野に革新をもたらしております。それは“霊”という要素、永遠に不変の要素が持ち込まれたからです。それなくしては人生は無意味ですし、不合理ですし、目的がないことになります。

科学・哲学・宗教・美術・倫理・道徳・音楽・文学――要するに人間生活の全分野において、人間は死を超えて生き続けるという事実の立証から生まれる“霊”の優越性の認識が、その意義の捉え方を変えてしまいました。時には後退のやむなきに至ったこともありますが、総体的には前進の一途をたどっており、人類は苦しみつつも、一歩一歩、光明へ向けて進化しております」

ゲストの一人「別の考え方として、もしもこの地球という天体が今よりずっと住み良い世界だったら、むしろ存在意義を失ってしまう――より高い界層へのトレーニングの場としての意味がなくなるのではないでしょうか。つまり、進歩を促す要素として、こうした苦難もなければならない……」

「その考えにも一理ありますが、元来人間というものは、いったん霊性に目覚めたら、つまり永遠の実在を垣間見て、微(かす)かであっても宇宙的計画の一端を知り、無限の宇宙機構の中で占める自分の位置を認識したら、大霊と同様、自分みずからも無限の個性を発揮していく永遠の生命を秘めた、無限の存在であることを知ります。それは言いかえれば、前途には永遠に続く進化の道があることを悟る――その頂点は永遠に見ることができない――行けども行けども登り坂が続く、ということです。おわかりでしょうか」

「よくわかります。でも……」と言って、なおも“大霊への帰一”という飛躍した意見を出した。そこでシルバーバーチが――

「話がずいぶん広遠かつ深遠なものになってまいりましたね。われわれは一人の例外もなく、大霊の一部です。あなたという存在全体が、そして、この宇宙間の全生命の総体が大霊を構成しています。生命の総体から離れて大霊の存在は有りえないのです。

しかし、そう申し上げても、わたしにはそれを証明する手立てがない以上、いくらでも異論が出てくることでしょう。ですから、ここでは、ともかくわたしの言葉をそのまま受けとめていただくほかはありません。

進化の道は限りなく続きます。ここでお終(しま)いという究極がないということです。その点を理解してくだされば、究極における“神との合一”などというものは有りえないことが納得していただけると思います。もしもあなたの個性のすべて――その肉体を通して顕現している小さな一部だけでなく、霊的存在としてのあなたのすべて――が完全の域に達することがあるとしたら、生命活動の計画が何のために案出されたのか、その合理的説明ができなくなります。

生命は永遠にして無限です。不完全な側面を一つ又一つと取り除きつつ、完全へ向けて絶え間なく努力していくのであり、その過程に“終局”はないのです」

「この機械化時代は人類の進化に役立っているのでしょうか。私にはそうは思えないのですが……」

「最終的には役に立ちます。進化というものを一直線に進むもののように想像してはいけません。前進と後退のくり返しです。立ち上がっては倒れるのくり返しです。少し登っては滑り落ち、次に登った時は前よりは高いところまで上がっており、そうやって少しずつ進化していきます。ある一時期だけを見れば、“ご覧なさい。この時期は人類進化の暗い汚点です”と言われるような時期もありますが、それは話のすべてではありません。ほんの一部です。

人間の霊性は徐々に進化しております。進化にともなって自我の本性についての理解が深まり、自我の可能性に目覚め、存在の意図を知り、それに適応しようと努力するようになります。

数世紀前までは夢の中で天界の美を見、あるいは恍惚たる入神の境地においてそれを霊視できたのは、ほんの一握りの者にかぎられていました。が、今や、無数の人がそれを見て、ある者は改革者となり、ある者は先駆者となり、ある者は師となり、死してのちも、その成就のために霊界から働きかけております。そこに進歩が得られるのです」

その点に関してはまったく同感です。進歩はあると思うのです。しかし全体として見た時、地球上が(機械化によって)便利になりすぎると、進化にとってマイナスになるのではないかと考えるのです」

「しかし、霊的進化がともなえば――あなた個人のことではなく人類全体としての話ですが――住んでいる世界そのものにも発展性があることに気づき、かつては夢にも思わなかった豊かさが人生から得られることを知ります。

機械化を心配しておられますが、それが問題となるのは、人間が機械に振り回されて、それを使いこなしていないからに過ぎません。使いこなしさえすれば、何を手に入れてもよろしい――文化・レジャー・芸術・精神と霊の探求、何でもよろしい。かくして内的生命の豊かさが広く一般の人々にも行きわたります。

その力はすべての人間に宿されているのです。すべての人間が大霊の一部だからです。この大宇宙を創造した力と同じ力、山をこしらえ、恒星をこしらえ、惑星をこしらえた力と同じ力、太陽に光を与え、花に芳香を与えた力、それと同じ力があなた方一人ひとりに宿っており、生活の中でその絶対的な力に波長を合わせさえすれば、存分に活用することができるのです」

「花に芳香を与えた力が、ヘビに毒を与えている、という観方もあります」

「わたしに言わせれば、それは少しも問題ではありません。よろしいですか。わたしは大霊があなた方のいう“善”だけを受けもち、悪魔が“悪”を受けもっている、とは申しておりません」

「潜在的には善も悪もすべて、われわれ自身の中に存在しているということですね?」

「人間一人ひとりが小宇宙なのです。あなたもミニチュアの宇宙なのです。潜在的には完全な天使的資質をそなえていると同時に、どう猛な野獣性もそなえております。だからこそ、自分の進むべき方向を選ぶ自由意志が授けられているのです」

「地球という惑星も進化しているとおっしゃいましたが、ではなぜ、霊の浄化のためになお苦難と奮闘が必要なのでしょうか」

「人間が無限の存在だからです。一瞬の間の変化というものは生じません。永い永い進化の旅が続きます。その間には上昇もあれば下降もあり、前進もあれば後退もあります。しかし、そのたびに少しずつ進化していくのです。

霊の世界では、次の段階への準備が整うと、新しい身体への脱皮のようなものが生じます。ですが、その界層を境界線で仕切られた、固定した平地のように想像してはなりません。次元の異なる生活の場が段階的にいくつかあって、お互いに重なり合い融合し合っているのです。地上世界においても、一応みなさんは地表という同じ物的レベルで生活なさっていますが、霊的には一人ひとり異なったレベルにあり、その意味では別々の世界に住んでいるとも言えるのです」

「これまでの地上社会の進歩は、これから先の進歩に較べれば微々たるものに過ぎないのでしょうか」

「いえ、わたしはそういう観方はしたくないのです。比較すれば確かに小さいかもしれませんが、進歩は進歩です。

次のことを銘記してください。人間は法律や規則をこしらえ、道徳律を打ち立てました。文学を豊かなものにしてきました。芸術の奥義をきわめました。精神の隠された宝を突き止めました。霊の宝も、ある程度まで掘り起こしました。

こうしたことは全て、先輩たちのお蔭です。苦しみつつコツコツと励み、試行錯誤をくり返しつつ、人生の大うず巻の中を生き抜いた人たちのお蔭です。総体的にみれば進歩しており、人間は、初期の時代に較べれば豊かになりました。物質的な意味ではなく、霊的に精神的に豊かになっております。そうあってくれないと困ります」

このあと、さらに次のようなコメントを付け加えた。

「嘆かわしいほど無知な人々――自分が霊的存在であることを知らず、したがって“死”の彼方にも生活があることを知らずにいる人々に、そうした基本的な知識を広めるために、われわれがしなければならないことが山ほどあります。

せっかくのこの地上生活を、霊的実在について聞く耳も、語る口も、見る目も持ち合わせないまま終えてしまう、数え切れないほど多くの人たちのことを思うと、何たる悲劇! と叫ばずにはおれません。これは大悲劇です。われわれの努力はそういう人たちに向けられねばならないのです。人生の本当の意義を全うするためには、真実の自分に目覚めないといけないからです」

続いて、もう一人のゲストに向かってこう述べた。女性霊媒として永年の経験をもつ人である。

「今日まであなたを導いてきた力(背後霊)を確信することです。そうすれば、その力の方からあなたを見捨てることはありません。あなたは大変な愛によって包まれております。その愛の力は絶対にあなたを見捨てません。あなたに託されている責務を忠実に果たしているかぎり、その愛の力から見放されることはありません。

愛の力とは何か、どのように作用するのか、どのように規制されているか、どういう摂理のもとに管理されているかは、とうてい言語では説明できません。ただ確実にいえることは、正しい条件――誠実さ、奉仕的精神、知識を基盤とした確信さえあれば、その力があなたを支え、導き、いかなる体験にも力強く対処させ、あなたに託された目的を達成する上で援助してくれるということです」

いよいよその日の交霊会も終わりに近づき、シルバーバーチは最後の締めくくりとして、こう述べた。

「わたしの仕事は、地上へ来てからこしらえた多くの同志――といっても、この声と個性によってしかわたしをご存知ないわけですが――その人たちのお蔭で、ずいぶんラクな思いをさせていただいております。

その同志から送られてくる愛が、わたしにとって大きな力となっているのです。その愛の力こそがこの仕事を続ける上での“資力”なのです。わたしたちの心にあるものは、嘆き悲しんでいる人々、疑念と恐怖にさいなまれている人々のことばかりです。そういう人たちの人生に少しでも安らぎを与えてあげるものをお届けしないことには、わたしたちの心も安まらないのです。

これは大変な仕事です。これを正当な手段で遂行していくことによって、わたしたちも、そして皆さんも、真の意味での大霊の道具となることができるのです。地上世界は“下”からでなく“上”から支配されているのです。地上世界の法律は改正されたり、廃止されたり、無効になったりします。新たな事情が生じて、それに合わせて新たな法律がこしらえられたりします。が、霊の法則は変えられないのです。不変なのです。法則どおりにならないということがないのです。そして、ありとあらゆる事態にそなえられているのです。

ですから、少しも案ずることはありません。そうした絶対的な摂理をこしらえた力、全生命に意義と目的とを与えた力、それがあなたを取り巻いているのです。逆境にあっては、あなたを守るマントとなり、永遠なる愛をもって包み込んでくれる力なのです」

祈り
偽りの神・偽りの教義・偽りの神学に背を向け……

これよりわたしは、古(いにしえ)の予言者を鼓舞し、聖賢や先見者に叡智の輝きに満ちた未来図を見ることを得さしめたのと同じ力を呼び寄せ、人間の無明(むみょう)の心に光明と悟りを与え、迷いを払うべく、完全なる摂理として働くあなたに、深甚なる感謝の祈りを捧げます。

わたしどもが改めて地上に甦(よみがえ)らせたいのは、人間生活を一変せしむるほどの威力、人類を変身せしむるほどの威力を秘めた霊力でございます。それが人間に、あなたの永遠の機構の中で占める位置を理解せしめ、改善と改良と奉仕のために働き、挫折せる者を救い、無力なる者を援助し、飢えに苦しむ者に食を与え、弱き者に力を与え、人類の呪(のろ)いであり文明の汚点である不平等と不公正のすべてを排除すべく、子等に力と勇気と目的意識とを与えてくださるのでございます。

わたしたちは、地上の子等が偽りの神・偽りの教義・偽りの神学に背を向け、あなたの真理の光に導かれて普遍的な宗教を打ち立てることができるように、すなわちあなたを人類全体の父として認識し、人類はすべてあなたの子であるとの理解のもとに、こぞってあなたを崇拝することになるように、あなたの真の姿と彼ら自身についての、より充実せる理解が得られる道へ手引きしたいのでございます。

子等の団結の妨げとなるもの全てを排除したいのでございます。階級の差別、肌色の違い、民族の違いによる分裂をなくし、人間のこしらえた障壁を崩し、新しい光、新しい希望を物質界にもたらしたいのでございます。

同胞の高揚のために心を砕く各界の先駆者や改革者を鼓舞し励まし、彼らが高き霊の世界から導かれていること、その努力には大霊の祝福があることを知らしめたいのでございます。

かくしてわたしどもは、子等を少しでもあなたに近づかしめ、あなたを子等に近づかしめるべく、祈り、そして刻苦するものです。

第7章 偉大さの尺度は奉仕的精神の度合いにあります
延べにして六十年にも及んだ地上での使命の中で、シルバーバーチが当惑した様子や不満の色、いらだちの態度を見せたことは一度もなかった。また、招待されて出席した人を個人的に批判することも絶対になかった。本当の意味での老賢人、慈悲深い魂だった。

その日の交霊会にもゲストが出席していた。そして、死後の世界の存在についてまだ本格的な確信が持てずにいることを正直に告白した。それを聞いて述べたシルバーバーチの回答が、さながらスピリチュアリズムの要約の観があるので、それをそのまま紹介しよう。

「わたしたち霊団の仕事の一つは、地上へ霊的真理をもたらすことです。これは大変な使命です。霊界から見る地上は、無知の程度がひどすぎます。その無知が生み出す悪弊には、見るに耐えないものがあります。それが地上の悲劇に反映しておりますが、実はそれが、ひいては霊界の悲劇にも反映しているのです。地上の宗教家は、死の関門をくぐった信者は、魔法のように突如として、言葉ではつくせないほどの喜悦に満ちた輝ける存在となって、一切の悩みと心配と不安から解放されるかに説いていますが、それは間違いです。真相とはほど遠い話です。

死んで霊界へ来た人は――初期の段階にかぎっての話ですが――地上にいた時と少しも変わりません。肉体を捨てた――ただそれだけのことです。個性は少しも変わっていません。性格はまったくいっしょです。習性も特質も性癖も個性も、地上時代そのままです。利己的だった人は、相変わらず利己的です。どん欲だった人は、相変わらずどん欲です。無知だった人は、相変わらず無知のままです。悩みを抱いていた人は、相変わらず悩んでおります。少なくとも霊的覚醒が起きるまでは、そうです。

こうしたことがあまりに多すぎることから、霊的実在について、ある程度の知識を地上に普及させるべしとの決断が下されたのです。そこで、わたしのような者が永年にわたって霊的生命についての真理を説く仕事にたずさわってきたわけです。霊的というと、これまではどこか神秘的な受け取られ方をされてきましたが、そういう曖昧なものでなしに、実在としての霊の真相を説くということです。そのためには、何世紀にもわたって受け継がれてきた誤解・無知・偏見・虚偽・欺瞞・迷信――要するに人類を暗闇の中に閉じ込めてきた勢力のすべてと闘わねばなりませんでした。

わたしたちは、そうした囚(とら)われの状態に置かれ続けている人類に霊的解放をもたらすという目的をもって、一大軍団を組織しました。お伝えする真埋はいたって単純なのですが、それにはまず、証拠になるものをお見せすることから始めなければなりません。すなわち偏見を捨てて、真摯な目的、真実を知ろうとする欲求をもって臨む者なら誰にでも得心のいくものであることを明らかにしなければなりません。愛する人たちは、そちら側からそのチャンスを与えてくれさえすれば、つまり然るべき通路(霊媒)を用意してくれさえすれば、死後もなお生き続けていることを証明してくれます。

これは空想の産物ではありません。何千回も何万回も、くり返し証明されてきている事実を、有りのままに述べているまでです。もはや議論や論争の枠を超えた問題です。もっとも、見ようとしない盲目者、事実を目の前にしてもなお、認めることができなくなってしまった、歪んだ心の持ち主は論外ですが。

以上が第一の目的です。“事実なら、その証拠をみせていただこう。われわれはもう信じるというだけでは済まされなくなっている。あまりに永い間、気まぐれな不合理きわまる教義を信じ込まされてきて、われわれは今そうしたものに、ほとほと愛想をつかしてしまった。われわれが欲しいのは、われわれ自身で評価し、判断し、測定し、考察し、分析し、調査できるものだ”――そうおっしゃる物質界からの挑戦にお応えして、霊的事実の証拠を提供するということです。

それはもう十分に提供されているのです。すでに地上にもたらされております。欲しい人は自分で手にすることができます。それこそが、わたしがこれまでにあらゆる攻撃を耐え忍び、これからもその砦(とりで)となってくれる“確定的事実”という、スピリチュアリズムの基盤なのです。もはや“私は信じます。私には信仰というものがあります。私には希望があります”といったことでは済まされる問題ではなくなったのです。“事実なのだから、どうしようもありません。立証されたのです”と断言できる人が、数え切れないほどいる時代です。

人類史上はじめて、宗教が実証的事実を基盤とすることになりました。神学上のドグマは証明しようのないものであり、当然、議論や論争がありましょう。が、死後の存続という事実は、まともな理性をもつ者ならば必ずや得心するだけの証拠が揃っております。しかし、証明された時点から本当の仕事が始まるのです。それでお終(しま)いとなるのではありません。まだその事実を知らない人が無数にいます。その人たちのために証拠を見せてあげなくてはなりません。少なくとも、死後にも生命があるという基本的真理は間違いないのだ、という確証を植えつけてあげる必要があります。

墓の向こうにも生活があるのです。あなたがたが“死んだ”と思い込んでる人たちは、今もずっと生き続けているのです。しかも、地上へ戻ってくることもできるのです。現実に戻ってきているのです。

しかし、それだけで終わってはいけません。死後にも生活があるということは何を意味するのか。どのように生き続けるのか。その死後の生活は、地上生活によってどういう影響を受けるのか。二つの世界の間にはいかなる因果関係があるのか。死の関門を通過したあと、いかなる体験をしているのか。地上時代に心に思ったことや言動は、死後、役に立っているのか障害となっているのか。以上のようなことを知らなくてはいけません。

また死後、地上へ伝えるべき教訓として何を学んでいるのか。物的所有物のすべてを残していったあとに、いったい何が残っているのか。死後の存続という事実は、宗教に、科学に、政治に、経済に、芸術に、国際関係に、はては人種差別の問題にいかなる影響を及ぼすのか、といったことも考えなくてはいけません。

そうです、そういう分野のすべてに影響を及ぼすことなのです。なぜなら、新しい知識は、永いあいだ人類を悩ませてきた古い問題に新たな照明を当ててくれるからです。

いかがですか、大ざっぱに申し上げた以上の話が、お役に立ちましたでしょうか」

「お話を聞いて、すっきりと理解がいったように思います」

「もう一つ申し上げたいことがあります。そうした問題と取り組んでいく上で、わたしたちは、暗黒の勢力と反抗勢力、そして、そうした勢力に加担することで利益を確保している者たちに対して、間断なき闘いを続けていかねばなりませんが、同時に、不安とか取り越し苦労といった“恐怖心”との闘いをも強(し)いられているということです。

地上と霊界との間には、その関係を容易にする条件と、反対に難しくする条件とがあります。誤解・敵意・無知――こうした障害は後者ですが、これはお互いの努力によって克服していけるものです。そのためには、わたしたちが存分に力を発揮する上で人間側に要求したい、心の姿勢というものがあります。

人間は肉体をたずさえた霊であり、わたしたちは肉体をもたない霊です。そこに共通したものがあります。“霊”というつながりです。あなたも今この時点において立派に“霊的存在”なのです。死んでから霊になるのではありません。死んでから霊体をさずかるのではありません。死はただ単に肉体という牢獄からあなたを解放するだけです。小鳥が鳥カゴを開けてもらって大空へ飛び立つように、死によってあなたは自由の身となるのです。

基本的には、あなたがた人間にも“霊”としてのあらゆる才能、あらゆる属性、あらゆる資質がそなわっております。今のところ、それが未発達の状態で潜在しているわけです。もっとも、わずかながら、すでに発現しているものもあります。未発達のものをこれからいかにして発現していくか、本当のあなたを表現していくにはどうしたらよいか、より大きな自我を悟り、大霊からのすばらしい遺産をわがものとするにはどうすればよいか、そうしたことをわたしたちがお教えすることができるのです。

しかし、いかなる形にせよ、そうした使命を帯びて地上へ戻ってくる霊は、必然的に、ある種の犠牲を強いられることになります。なぜなら、そのためには波長を地上の低い波長に合わさなければならない――言い変えれば、人間と接触するために、霊的な波長を物的な波長へと転換しなければならないからです。

人類の大半はまだ霊的なものを求める段階まで達しておりません。言い変えれば、霊的波長を感受する能力を発揮しておりません。ごく少数の人たちを除いて、大部分の人々はそのデリケートな波長、繊細な波長、高感度の波長を感じ取ることができないのです。

そこで、わたしたちの方から、言わば階段を下りなければならないのです。そのためには当然、それまでに身につけた霊的なものの多くを、しばらく置き去りにしなければなりません。本当は人間側からも階段を上がってもらって、お互いが歩み寄るという形になれば有り難いのですが、それはちょっと望めそうにありません。

しかし、人間が霊的存在であることに変わりはありません。霊的資質を発揮し、霊的な光輝を発揮することができれば、不安や疑いの念はすべて消滅してしまいます。霊は安心立命の境地においてのみ、本来の力を発揮するものです。

わたしたちが闘わねばならない本当の敵は、実は人間の無用の心配です。それがあまりに多くの人間の心に巣くっているのです。単なる観念上の産物、現実には存在しない心配ごとで悩んでいる人が多すぎるのです。

そこでわたしは、取り越し苦労はおやめなさいと、くり返し申し上げることになるのです。自分の力で解決できないほどの問題に直面させられることは決してありません。克服できない困難というものは絶対に生じません。重すぎて背負えないほどの荷物は決して与えられません。しかも、あふれんばかりの自信に満ちた雰囲気の中で生きていれば、霊界から援助し、導き、支えてくれる、あらゆる力を引き寄せることができるのです。

このように、霊的な問題は実に広大な範囲にまたがる、大きな問題なのです。人生のあらゆる側面にかかわりをもっているのです。ということは、これからという段階にいらっしゃるあなたには、探検旅行にも似た愉しみ、新しい霊的冒険の世界へ踏み込む楽しさがあるということでもあるのです。どうか頑張ってください」

「死後どれくらいたってから地上へ戻ってくるのでしょうか」

「それは一人ひとりの事情によって異なります。こちらへ来て何世紀にもなるのに、自分の身の上に何が起きたかがわからずにいる霊もいます」

「自分が死んだことに気づかないのです」とメンバーの一人が口添えする。するとシルバーバーチが――

「一方にはちゃんとした霊的知識をたずさえた人もいます。そういう霊は、適当な霊媒さえ見つかれば、死んですぐにでもメッセージを送ることができます。そのコツを心得ているのです。このように、この問題は霊的知識があるかどうかによって答えが異なる問題であり、単純にこうですとはお答えできません。

わたしたちが手を焼くのは、死後について誤った概念を抱いたままこちらへ来る大勢の人たちです。自分の想像していた世界だけが絶対と思い、それ以外では有りえないと思い込んでいます。一心にそう思い込んでいますから、それが彼らにとって現実の世界となるのです。わたしたちの世界は、精神と霊の世界であることを忘れないでください。思ったことがそのまま現実となるのです」

ここでシルバーバーチは、メンバーの中で心霊治療能力をもっている人に助言してから、再びさっきの質問者に向かって――

「この心霊治療も、わたしたちの大切な仕事なのです。治療家を通路として霊界の治癒エネルギーが地上の病的身体に注がれるのです。

このように、わたしたちの仕事はいろいろな側面、いろいろな分野をもった、非常に幅の広い仕事です。初心者の方は面食らうこともあると思いますが、間違いなく真理であり、その真実性を悟られた時に、あなたの生活に革命が起こります。

宗教の世界では“帰依(きえ)”ということを言います。おきまりの宣誓文句を受け入れ、信仰を告白する――それでその宗教へ帰依したことになるというのですが、本当の帰依というのは、霊的真理に得心がいって、それがあなたという存在の中にしっくりと納まることをいうのです。

その時からその人は新しい眼を通して、新しい確信と新しい理解とをもって人生を見つめます。生きる目的が具体的にわかるようになります。大霊が全存在のために用意された計画の一端がわかり始めるからです。

ある人は政治の分野において、生活の苦しい人々、社会の犠牲になっている人々、裏切られている人々、寄るべなき人々のために、その霊的知識を生かそうと奮い立ちます。ある人は宗教の世界へ足を踏み入れて、死に瀕(ひん)している古い教義に新しい生命を吹き込もうとします。ある者は科学の実験室に入り、残念ながらすっかり迷路にはまってしまった科学者の頭脳に、霊的なアイディアを吹き込もうと意気込みます。また芸術の世界へ入っていく人もいることでしょう。

要するに霊的真理は人生のすべての分野に関わるものだということです。それは当然のことなのです。なぜなら、生命とは霊であり、霊とはすなわち生命だからです。霊が目を覚まして真の自分を知った時、つまり霊的意識が目覚めた時、その時こそ自分とは何者なのか、いかなる存在なのか、なぜ存在しているのかといったことに得心がいきます。それからの人生は、その後に宿命的に待ちうける、より豊かで、より大きな生命の世界への身仕度のために、“人のために自分を役立てる”ことをモットーとして生きるべきです。

どうぞ、これからも真理探求の旅をお続けください。求め続けるのです。きっと与えられます。要求が拒絶されることは決してありません。ただし、回答は必ずしもあなたが期待したとおりのものであるとはかぎりません。あなたの成長にとって最善のものが与えられます」

最後に出席者全員に向かって、次のような別れの言葉を述べた。

「われわれは大いなる神の計画の中に組み込まれていること、一人ひとりが何らかの存在価値をもち、小さすぎて用のない者というのは一人もいないこと、忘れ去られたりすることは決してないことを忘れないようにしましょう。そういうことは断じてありません。宇宙の大霊の大事業に誰しも何らかの貢献ができるのです。霊的知識の普及において、苦しみと悲しみの荷を軽くしてあげることにおいて、病を癒してあげることにおいて、同情の手を差しのべることにおいて、寛容心と包容力において、われわれのすべてが何らかの役に立つことができるのです。

かくして各自がそれぞれの道において、温かき愛と、悠然たる自信と、確固たる信念をもって生き、道を見失った人々があなたがたを見て、光明への道はきっとあるのだと感じ取ってくれるような、そういう生き方をなさってください。それも人のために役立つということです。

では、大霊の祝福の多からんことを!」

その日の交霊会はそれで終わり、続いての交霊会に出たシルバーバーチは、その間に帰っていた本来の上層界での話に言及して、こう述べた。

「いつものことながら、いよいよ物質界へ戻ることになった時の気持は、あまり楽しいものではありません。課せられた仕事の大変さばかりが心に重くのしかかります。しかし、皆さんの愛による援助を受けて、ささやかながらわたしの援助を必要としている人たち、そしてそれを受け止めてくださる人たちのために、こうして戻ってくるのです。

これまでの暫(しば)しの間、わたしは本来の住処(すみか)において僚友とともに過ごしてまいりましたが、どうやら、わたしたちのこれまでの努力によって何とか成就できた仕事についての評価は、わたしが確かめたかぎりにおいては、満足すべきものであったようです。これからも忠誠心と誠実さと協調精神さえあれば、ますます発展していく大霊の計画の推進に挫折が生じる気づかいは毛頭ありません。

その原動力である霊の力が果たしてどこまで広がりゆくのか、その際限を推し量ることは、このわたしにもできません。たずさわっている仕事の当面の成果と、自分の受け持ちの範囲の事情についての情報は得られても、その努力の成果が果たして当初の計画どおりに行っているのかどうかについては知りませんし、知るべき立場にもないのです。わたしたちの力がどこまで役立ったのだろうか、多くの人が救われているのだろうか、それとも僅(わず)かしかいなかったのだろうか――そんな思いを抱きながらも、わたしたちはひたすら努力を重ねるだけなのです。

しかし、上層界にはすべての連絡網を通じて情報を集めている霊団が控えているのです。必要に応じて大集会を催し、地上界の全域における反応をあらゆる手段を通してキャッチして、計画の進捗(しんちょく)ぐあいを査定し、評価を下しているのです。

かくして、わたしたちにすら知り得ない領域において、ある種の変化がゆっくりと進行しつつあるのです。暗闇が刻一刻と明るさを増していきつつあります。霧が少しずつ晴れていきつつあります。モヤが後退しつつあります。無知と迷信とドグマによる束縛と足枷から解放される人が、ますます増えつつあります。自由の空気の味を噛みしめております。心配も恐怖もない雰囲気の中で、精神的に、霊的に、自由の中で生きることの素晴しさに目覚めつつあります。

自分がこの広い宇宙において決して一人ぽっちでないこと、見捨てられ忘れ去られた存在ではないこと、無限なる愛の手が常に差しのべられており、今まさに自分がその愛に触れたのだということを自覚し、そして理解します。人生は生き甲斐のあるものだということを、今一度あらためて確信します。そう断言できるようになった人が、今日、世界各地に広がっております。かつては、それが断言できなかったのです。

こうしたことが、わたしたちの仕事の進捗ぐあいを測るものさしとなります。束縛から解放された人々、二度と涙を流さなくなった人々が、その証人だということです。これから流す涙は、うれし涙だけです。心身ともに健全となった人々、懊悩(おうのう)することのなくなった人々、間違った教義や信仰が作り出した奴隷的状態から逃れることができた人々、自由の中に生き、霊としての尊厳を意識するようになった人々、こうした人たちは皆、われわれの努力、人類解放という気高い大事業にたずさわる人たちすべての努力の成果なのです。

これからも、まだまだ手を差しのべるべき人が無数にいます。願わくば、われわれの手の届くかぎりにおいて、その無数の人々のうちの幾人かでも真の自我に目覚め、それまでに欠けていた確信を見出し、全人類にとって等しく心の拠(よ)り所となるべき、永遠の霊的真理への覚醒をもたらしてあげられるように――更生力に富み、活性力と慰安力とにあふれ、気高い目標のために働きかける霊の力の存在を意識し、代わって彼らもまた、いずれはその霊力の道具となって、同じ光明をますます広く世界中に行きわたらせる一助となってくれるよう、皆さんとともに希望し、祈り、そして決意を新たにしようではありませんか。

真理はたった一人の人間を通じてもたらされるものではありません。地球上の無数の人間を通じて滲透していくものです。霊力の働きかけがあるかぎり、人類は着実に進歩するものであることを忘れないでください。今まさに人類は、内在する霊的遺産を見出しはじめ、霊的自由をわがものとしはじめました。そこから湧き出る思い、駆り立てられるような衝動、鼓舞されるような気持は、強烈にして抑えがたく、とうてい抑え通せるものではありません。霊の自由、精神の自由、身体の自由にあこがれ、主張し、そして希求してきた地球上の無数の人々を、今その思いが奮い立たせております。

こうして、やがて新しい世界が生まれるのです。王位は転覆され、権力的支配者は失脚し、独裁者は姿を消してまいります。人類はその本来の存在価値を見出し、内部の霊の光が世界中にさん然と輝きわたることでしょう。

それは、抑え難い霊的衝動の湧出(ゆうしゅつ)によってもたらされます。今まさに、それが更生の大事業を推進しているのです。わたしが決して失望しない理由はそこにあります。わたしの目に、人類の霊的解放というゴールへ向けての大行進が見えるからです」

ここでメンバーの一人が「歴史をみても、人類の努力すべき方向はすでに多くの模範が示してくれております」と言うと――

「そうなのです。訓えは十分に揃っているのです。今必要なのは、その実行者です。

そこで、その実行者たるべきわれわれは、悲しみに打ちひしがれた人々、重苦しい無常感の中にあって真実を希求している無数の人々の身の上に思いを馳せましょう。われわれの影響力の行使範囲にまでたどりついた人々に精一杯の援助を施し、慰めを与え、その悲しみを希望に変え、孤独感を打ち消して、人生はまだお終いではないとの確信をもたせてあげましょう。

無限の宝を秘めた大霊の貯蔵庫から、霊力を引き出しましょう。われわれに存在を与え給い、みずからのイメージに似せて創造したまい、神性を賦与してくださった大霊の道具となるべく、日常生活において、われわれ自身を厳しく律してまいりましょう。

われわれこそ、その大霊の計画の推進者であることを片時も忘れることなく、謙虚さと奉仕の精神と、託された信託への忠誠心をもって臨むかぎり、恐れるものは何一つないこと、いかなる障害物も、太陽の輝きの前の影のごとく消滅していくとの確信をもって、邁進(まいしん)いたしましょう」

別の日の交霊会で――

「心霊的能力の発達は人類進化の次の段階なのでしょうか」

「霊能者とか霊媒と呼ばれている人が進化の先駆けであることに、疑問の余地はありません。進化の梯子の一段上を行く、いわば前衛です。そのうち、心霊能力が人間の当りまえの能力の一部となる時代がきます。地上人類は今、精神的発達の段階を通過しつつあるところです。このあとには、必然的に心霊的発達の段階がきます。

人間が、五感だけを宇宙との接触の通路としている、哀れな動物ではないことをまず認識しないといけません。五感で知りうる世界は、宇宙のほんの一部です。それは物的手段で感識できるものに限られています。人間は物質を超えた存在です。精神と霊とで出来ているのです。その精神と霊にはそれなりのバイブレーションがあり、そのバイブレーションに感応する、別の次元の世界が存在します。地上にいる間は物的なバイブレーションで生活しますが、やがて死をへて、より高いバイブレーションの世界が永遠の住処(すみか)となる日がまいります」

「霊界のどこに誰がいるということが簡単にわかるものでしょうか」

「霊界にはそういうことが得意な者がおります。そういう霊には簡単にわかります。大ざっぱに分類すれば、他界した霊は、地上へ帰りたがっている者と帰りたがらない者とに分けられます。帰りたがっている霊の場合は、有能な霊媒さえ用意すれば容易に連絡が取れます。しかし帰りたがらない霊ですと、どこにいるかは突き止められても、地上と連絡を取るのは容易ではありません。イヤだというのを、無理やりに連れ戻すわけにはいかないからです」

別の質問に答えて――

「次のことをよく理解しないといけません。こちらの世界には地上の人間への愛、情愛、愛情、同情といったものをごく自然な形で感じている霊が大勢いるということです。精神的なもの、霊的なものによって結びついている時は、それは実在を基盤とした絆で結びついていることになります。なぜなら、精神的な力や霊的な力の方が、地上的な縁よりも強烈だからです。たとえば、地上のある画家がすでに他界している巨匠に心酔しているとします。その一念は当然その巨匠に通じ、それを縁として地上圏へ戻って、何らかの影響力を行使することになります。

もう一つ理解していただきたいのは、地上時代に発揮していた精神的ならびに霊的資質が何であれ、皆さんが“死んで”その肉体を捨ててしまうと、地上時代よりはるかに多くの資質が発揮されはじめるということです。肉体という物質の本質上、どうしても制約的・抑止的に働くものが取り払われるからです。そうなってから、もしも地上に、右の例の画家のように精神的ないし霊的なものを縁としてつながる人が見つかれば、その拡張された能力を役立てたいという気持になるものなのです。

その影響力を無意識のうちに受けておられる場合もあります。地上の芸術家はそれを“インスピレーション”と呼んできましたが、それが“霊”から送られていることには気づいておられないようです。つまり、かつて同じ地上で生活したことのある先輩から送られてきているという認識はないようです。

これは、わたしの場合にもいえることです。生命の摂理について皆さんより少しばかり多くのことを学んだわたしが、こうして地上へ戻ってきて、受け入れる用意のある人にお届けしているように、わたしより多くを学んでいる偉大な先輩が、このわたしに働きかけているのです。偉大さの尺度は奉仕的精神の度合にあります。いただくものが多いから偉大なのではなく、与えるものが多いから偉大なのです。

どうか皆さんも、可能なかぎりの美徳を地上にもたらすために皆さんを活用しようとしている高級霊の道具である、というよりは、心がけ一つで道具となれる、ということを自覚なさってください。自分が授かっている資質ないしは才能を人類のために捧げたい――苦悩を軽減し、精神を高揚し、不正を改めるための一助となりたい、という願望を至上目的とした生き方をしていれば、何一つ恐れるものはありません。

何が起きようと、それによって傷つくようなことはありません。目標を高く掲げ、何ものにも屈しない盤石(ばんじゃく)の決意をもって、“最大多数の人々への最大限の徳”をモットーにして仕事に当たれば、それが挫折することは絶対にありません」

その日のゲストには、ぜひとも交信したい相手がいて、どうすればそれが叶えられるかをシルバーバーチに尋ねた。すると次のようなアドバイスが与えられた。

「交霊会に出席する際に、特別な先入観を抱いていると、それが交信の障害となります。地上側はあくまでも受信者ですから、会場の雰囲気は受け身的でないといけません。そこへ強烈な思念を抱いて出席することは、言わばその会場に爆弾を落すようなものです。こうあってほしいという固定観念を放射し、それ以外のことを受け入れる余裕がないような状態では、せっかくの交信のチャンネルを塞いでしまうことになります。交信はあくまでもチャンネルを通して届けられるのです。それを塞いでしまっては、交信ができるはずがありません。開いていないといけません。

わたしたちが皆さんに近づけるのは、皆さんが精神的に共感的で受け身的な状態にある時です。言いかえれば、心のドアを開いて“さあ、受け入れの準備ができました。どうぞ”と言える時です。“自分はかくかくしかじかのものを要求したい。それ以外は断ります”といった態度では、交信のチャンネルを制約し、あなたが求めている霊までが出現しにくくなるのです」

「霊媒の中には、霊の姿まで見えているのに、その霊の地上時代の“姓”はよくわからないという人がいますが、なぜでしょうか」

「それは、その霊媒にとっては、ほかのことに較べて“姓”の観念がにがてというまでのことです。要は波動がキャッチできるかどうかの問題です。よく馴染んでいる波動は伝達が容易です。珍しい名前、変わった名前ほど伝達しにくく、したがって受け取りにくいということになります。

もう一つの要素として、霊界から霊媒や霊能者に届けられる通信の多くは、絵画やシンボルの形で送られることが多く、その点、姓名というのは絵画やシンボルで表現するのはほとんど不可能という事情があります。霊視力や霊聴力の確かな霊媒なら、姓名の伝達もうまく行きます。

ただ、忘れないでいただきたいのは、霊媒としての評価は姓名をよく言い当てるかどうかではなくて、その霊についての確かな存在の証拠を提供できるかどうかであることです」

祈り
地上各地に霊の神殿を設け……

ああ、大霊よ。全生命の無限なる始源にあらせられるあなた。全宇宙を創造し、形態を与え、それぞれに目的を持たせ、その全側面を経綸したまうあなた。そのあなたの分霊(わけみたま)をうけているわたしたちは、その霊性を高め、目的意識を強め、あなたとの絆をさらに強く締め、あなたの叡智、あなたの愛、あなたの力でみずからを満たし、あなたの道具として、より大きくお役に立ち、あなたの子等のために尽したいと願うものでございます。

わたしたちは、地上人類に実り多き仕事の機会をもたらす霊的な安らぎと和の雰囲気を回復させ、そのエネルギーを全世界へ福利と協調の精神を広めるために用い、空腹と飢餓、苦悩と悲哀、邪悪と病気、そして戦争という惨劇を永遠に排除し、すべての者が友好と親善の中で生活し、あなたが賦与なされた資質の開発に勤しみ、かくして一人ひとりが全体のために貢献するようになることを願っております。

わたしたちは子等の一人ひとりに潜在しているあなたの神性を呼び覚まし、それを生活の中に自由闊達に顕現せしめたいと念願しております。その神性にこそ、始めも終わりもない、無限の目的と表現をもつ、霊力の多様性が秘められているのでございます。

人間がチリとドロからこしらえられたものではなく、あなたの分霊であることを理解し、その目的のもとに生活を律していくためにも、その霊的資質を甦らせてあげたいのでございます。

愛と理解とをもって悲哀と無知とを追い出し、人間みずからこしらえてきた障害を破壊することによって、生命と同じく愛にも死はなく永遠であることの証を提供したいと望んでいる高き世界の霊が、自由にこの地上へ戻ってこられるようにしたいと願っているのでございます。

地上の各地に霊の神殿(交霊の場)を設け、高き界層からの導きとインスピレーションと叡智と真理が存分に届けられ、人間が人生の目的、物質界に存在することの理由を理解し、宿命的に待ちうける、より高き、より充実せる生命活動の場にそなえて、霊性を鍛えることができるようになることを願うものです。

あまりに永きにわたって霊性を束縛してきた無知と迷信への隷属状態から人間を救い出し、霊的にも、精神的にも、身体的にも自由を獲得し、あなたの意図された通りの生き方ができるようになって欲しいのでございます。

第8章 魂の挫折感を誘発するのは、精神上の倦怠感と絶望感です
今世紀最大の劇作家の一人としてジョージ・バーナード・ショウ(※1)を挙げることに異論を唱える人はいないであろう。この辛辣(しんらつ)な風刺家が“フリート街の法王”(※2)の異名をもつ、同じく劇作家のハンネン・スワッファーのインタビューを受けた――これだけでも大変なニュースだった。

※1――George Bernard Shaw(1856~1950)アイルランド生まれの英国の劇作家・評論家。一九二五年にノーベル文学賞を受賞。辛辣な批評と風刺で知られた。一度来日したことがあり、その時に日本の印象を聞かれて「ああ、日本にも家があるなと思いました」と答えたという。禁煙運動について意見を求められて「タバコを止めるのは簡単だよ。私なんか何度も止めたよ」と答えている。

※2――フリート街というのは英国の新聞社が軒をつらねている所で、つまりは英国ジャーナリズム界の御意見番的存在の意味。ショウとの年齢差は二十五歳で、スワッファーにとっては大先輩だった。


そのインタビューは、ショウが〈タイム〉誌上で、奥さんの死に際して寄せられた多くの悔やみ状に対する感謝の意を表明したあとに準備されたものだった。

当時すでに八十七歳だったショウは、スワッファーに「こんどは自分の番だ。もう悟り切った心境で待ってるよ」と言い、続けて

「わたしなんか、もうどうでもいいという気分だ。あんたもわたしも似たような仕事をしてる。人さんにいろいろと物語ってあげてるわけだ。それはそれで結構なことだが、それで世の中がどうなるというものでもないよ」と付け加えた。

スワッファーが「あなたもいずれ死なれるわけですが、死んだらどうなると思っていらっしゃいますか」と尋ねると――

「死ねばこの世からいなくなっちまうということだ。わたしは死後の存続は信じたことはないし、今も信じていない。死後も生きてると信じている人間で、それがどういうことを意味するかが本当にわかっている人間がいるなんて、わたしには考えられないね」

ここではスピリチュアリズムに関係したものだけを紹介したが、ショウ対スワッファーの対談は大変なセンセーションを巻き起こした。同じ頃に催されたシルバーバーチの交霊会でも当然その話題が持ち出され、興味ある質問が出された。それを紹介しよう。

まず最初の質問は「ショウのようなタイプの人物を待ちうける環境はどんなものでしょうか」というものだった。シルバーバーチは例によって個人の問題にしぼらずに、普遍的なものに広げて、こう語った。

「洞察力に富む人間は、無意識のうちに、さまざまな形で実在に触れておりますから、待ちうける新しい体験を喜びの中に迎えることになります。死んだつもりがまだ生きていることに、最初はショックを受けますが、新しい環境での体験を重ねるうちに、精神的能力と霊的能力とが目覚めて、その素晴しさを知るようになります。

叡智・知識・教養・真理、それに芸術的作品の数々が、ふんだんに、それも地上よりはるかに高度のものが入手できることを知って喜びを覚えます。肉体の束縛から解放されて今やっと本来の自我が目を覚まし、自分とは何かを自覚しはじめ、肉体の制約なしにより大きな生活の舞台での霊妙な愉しみが味わえる――それがいかなるものであるかは、とうてい地上の言語で説明できる性質のものではありません。

とにかく、どの分野に心を向けても――科学であろうと哲学であろうと、芸術であろうと道徳であろうと、その他いかなる知識の分野であろうと、そこには過去の全時代のインスピレーションが蓄積されているばかりでなく、それを受け入れる用意のある者にはいつでも授けるべく、無数の高級霊が待ちうけているのです。

飽きることのない楽しい冒険の世界が待ちうけております。他界して間もないころは、個人的な縁による結びつき、たとえば先に他界している家族や知人、地上に残した者との関係が優先しますが、そのうち、地上界のごとき物的制約を受けることなく広がる自然の驚異に触発されて、目覚めた霊性が急速に発達してまいります」

ショウ対スワッファーという劇的な対面がさまざまな話題を生み、それに関連したさまざまな質問に答えたあと、シルバーバーチはこうしめくくった。

「真理がすべてに優先します。真理が普及すれば虚偽が退散し、無知と迷信が生み出した霧と陰が消えてまいります。現在の地上にもまだ、生活全体をすっぽり包み込む、無知という名の闇の中で暮らしている人が無数におります。

いつの時代にも、霊の力が何らかの形で、その時代の前衛たる者――パイオニア、改革者、殉教者、教育家等々、輝ける真理の旗を高々と掲げた人々の心を鼓舞してまいりました。地上に存在するあらゆる力を超越した霊妙な何かを感じ、人類の未来像を垣間(かいま)見て、彼らはその時代に新たな輝きを添えたのでした。彼らのお蔭で多くの人々が暗闇のべールを突き通して、光明を見出すことができたのでした。彼らのお蔭で、用意のできていた者が、みずからの力で足枷を解きほどく方法(すべ)を知ったのでした。暗い牢獄からみずからの魂を解き放す方法を知ったのです。生活全体に行きわたっていた、うっとうしい空気が消えました。

地上世界の全域に、啓発の勢力が徐々に、実に牛の歩みではありますが、行きわたりつつあります。それにつれて無知の勢力が退却の一途をたどっております。今や地上人類は進軍の一途をたどっております。さまざまな形での自由を獲得しました――身体の自由、精神の自由、霊の自由です。偏見と迷信と無知の勢力から人類を解き放す上での一助となった人はみな、人類の永い歴史の行進を導いてきた、輝ける照明です。

魂の挫折感を誘発するのは、精神上の倦怠感と絶望感です。精神が明るく高揚している時こそ、魂は真の自我を発揮し、他の魂を永遠の光明へ向けて手引きするほどの光輝を発するのです」

さらに“生命力”の問題にふれて――

「生命力が存在することに疑問の余地はありません。生命は、それにエネルギーを与える力があるからこそ存在します。それが動力源です。その本質が何であるかは、地上の人間には理解できません。いかなる科学上の器具をもってしても検査することはできません。化学的分析もできません。物的手段による研究は不可能なのです。

人間にとっては“死”があり、そして“生命”がありますが、わたしたちから見れば“霊”こそ生命であり、生命はすなわち“霊”であるというふうに、きわめて単純に理解できます。物質界というのは永遠の霊の光によって生じた影にすぎません。物質はただの“殻”であり、実在は霊なのです。

意識のなかったところに生命を与えたのが霊です。その霊があなたに自分を意識させているのです。霊こそ大霊によって人間に吹き込まれた息吹き、神の息吹きであり、その時点から自我意識をもつ生きた存在となったのです。

人間に神性を与えているのは、その霊なのです。その霊が人間を原始的生命形態から今日の段階へと引き上げてくれたのです。ただの禽獣(きんじゅう)と異なるのは、その霊性です。同胞に有徳の行為をしたいと思わせるのも、その霊性です。自分を忘れ、人のためを思う心を抱かせるのも、その霊性です。少しでも立派になろうと心掛けるようになるのも、その霊性のお蔭です。良心の声が聞こえるのも霊性があるからこそです。あなたはただの物質ではありません。霊なのです。この全大宇宙の運行と、そこに生活する全生命を経綸している力と同じものなのです。

人間は、その宇宙霊、その大生命力が個別性をそなえて顕現したものです。人間は個的存在です。神性を帯びた炎の小さな火花です。みなさんのいう神、わたしのいう大霊の、不可欠の一部分を占めているのです。その霊性は死によっていささかも失われません。火葬の炎によっても消すことはできません。その霊性を消す力をもったものは、この全大宇宙の中に何一つ存在しません」

さて、当時のジャーナリズム界の第一線で活躍していたスワッファーは、その知名度を生かして、当時の各界の著名人をよく交霊会に招待した。招待された人は、シルバーバーチとの対話もさることながら、まずはスワッファーというジャーナリズム界の大物に直接会えることを光栄に思って出席した人が多かったのも事実である。

その中でも、これから紹介する人は特異な人物の部類に入るであろう。無声映画時代に“世界の恋人”と呼ばれて人気を博した米国の女優メアリ・ピックフォードで、その交霊会の様子はスワッファーによって〈サイキックニューズ〉紙に発表された。以下はその全文である。

映画でも演劇でも芸術作品でも、それが真実を表現し、大勢の人々の心に触れるものをもっておれば、霊界からみれば実に大きな存在価値をもつものであることは、これまで各界で活躍している人を招待した時にシルバーバーチがたびたび強調していることであるが、このたびも又、そのことを改めて確認することになった。以下は、先日催された交霊会の速記録から、興味ぶかい箇所を抜粋したものである。まずシルバーバーチから語りかけた――

「さて、海を渡って(米国から)お出でくださったお客さんに申し上げましょう。今日ここに出席しておられる方々があなたの大ファンでいらっしゃること、又いわゆる死の彼方にいる人たちからも守られていることを、あなたはずっと感じ取ってこられたことはご存知と思いますが、いかがですか」

ピックフォード「よく存じております」

「その愛、その導きがあなたの人生において厳然たる事実であったことを、あなたは幾度も体験しておられます。窮地に陥り、どちらへ向かうべきかがわからずに迷っていた時に、はっきりとした形で霊の導きがあり、あなたは迷うことなく、それに従われました。おわかりでしょうか」

ピックフォード「おっしゃる通りです」

「ですが、実際には、情愛によって結ばれた大勢の人々の愛を、これまで意識なさった以上に受けておられるのです。もしもその全てが認識できたら、あなたのこれまでの生涯がもったいないほどの導きを受けていることがわかるでしょう。又もし、この地上生活であなたに託された使命の全てを一度に見せられていたら、とても成就できないと思われていたことでしょう。それほどのものが、右足を一歩、左足を一歩と、着実に歩んでこられたからこそ、今日まで維持できたのです。

ある程度まではご存知でも、まだ全てはご存知ないと思いますが、わたしたちの世界――そちらの世界から移住してくる霊の世界から見ると、真実の宗教は人のために役立つことをすること、これしかないことがわかります。無私の善行は霊の通貨なのです。すなわち、人のために精一杯の努力をする人は、その誠意によって引きつけられる別の人によって、そのお返しを受けるのです。

あなたは、これまでの人生で大勢の人々の生活に幸せと理解力と知識とをもたらしましたが、その分だけあなたは地上の人だけでなく、はるか昔に地上を去り、その後の生活で身につけた叡智をあなたを通じて地上へもたらしたいと願う、光り輝く霊も引き寄せております。わたしの言っていることがおわかりでしょうか」

ピックフォード「はい、よくわかります」

「こちらの世界では、あなたのような存在を大使(アンバサダー)の一人と考えております。つまり一個の仲介者、大勢の人間との間を取りもつ手段というわけです。目に見えない世界の実在という素朴な福音を、あなたは熱心に説いてこられました。これまで物的障害が再三にわたって取り除かれ、首尾よく前進してこられたのも、あなたのこうした心掛けがあったからです。

そこで、わたしから良いことをお教えしましょう。遠からずあなたは、これまでのそうしたご苦労に有終の美を飾られる――栄誉を賜り、人生の絶頂期を迎えられるということです。あなたの望まれたことが、これからいよいよ結実をみることになります」

ここで、私(スワッファー)が出席する会には必ず出現しているノースクリッフ卿(※)が、シルバーバーチと入れ替ってピックフォードに挨拶を述べた。私は直接は知らないが、ピックフォードが夫君のフェアバンクスと連れだって初めてロンドンを訪れた時、ファンの群れでどこへ行ってもモミクチャにされるので、ノースクリッフがひそかに二人を私邸に泊めたといういきさつがあるのである。

※――英国の有名な新聞経営者で、デイリーメール紙の創刊者。死後、スワッファーがよく出席していたデニス・ブラッドレーの交霊会に出現して決定的な身元確認の証拠を提供した。スワッファーがスピリチュアリズムの真実性を確認したのはこの体験による。そしてその体験記を『ノースクリッフの帰還』と題して出版、大反響を呼んだ。

そのあと、かつての夫君フェアバンクスも出現して、二人の結婚生活の不幸な結末を残念に思っていることを述べた。ここでは、その件についてはこれ以上深入りしないでおこう。とにかく、それを聞いたピックフォードが、シルバーバーチにこう述べた。

「私はかつて地上の人間にも他界した方にも、恨みを抱いたことは一度もありません。恨みに思ったのは、過ちを犯した時の自分に対してだけです」

「ご自分のことをそうダメ人間のようにお考えになってはいけません。今もしあなたの人生の“元帳”を整理することができたら、いわゆる“過ち”といえるほどのものは、無私の徳行や善行に較べると、いたって少ないことがおわかりになるはずです。多くの人々にどれほど良いことをなさってこられたかは、こちらへお出でになるまではおわかりにならないでしょう。

あなたは、数え切れないほどの人々に愉しみを与えてこられました。しばしの間でも悲しみを忘れさせ、心の悩みや痛みを忘れさせ、トラブルやストレスを忘れさせ、人生の嵐を忘れさせてあげました。あなた自身の願望から、あなたなりの方法で人のために役立つことをなさってこられました。人のために役立つということが何よりも大事なのです。

他のすべてのものが忘れ去られ、剥(は)ぎ取られ、財産が失われ、権力が朽(く)ち、地位も生まれも効力を失い、宗教的教義が灰に帰したあとも、無私の人生によって培(つちか)われた性格だけはいつまでも残り続けます。わたしの目に映るのは身体を通して光り輝く、その人格です。

わたしは、そうした善行を重ねてきた魂にお会いできることを大きな喜びとしております。以上が、あなたがみずから“過ち”とおっしゃったのを聞いて私が思ったことです。あなたは何一つ恐れるに及びません。真一文字に進まれればよろしい。あなたも率直なところをお聞きになりたいでしょう?」

ピックフォード「ええ」

「あなたは大金を稼ぐのは趣味ではなさそうですね。あなたの願望は、できるだけの善行を施すことのようです。違いますか」

ピックフォード「おっしゃる通りです」

「その奇特な心がけが、それなりの報酬をもたらすのです。自動的に、です。その目的は、とどのつまりは、あなたに確信を与えるということにあります。何一つ恐れるものはないということです。心に恐怖心を宿してはいけません。恐怖心はバイブレーションを乱します。バイブレーションのことはご存知でしょう?」

ピックフォード「ええ、少しは存じております」

「恐怖心は霊気を乱します。あなたの心が盤石の確信に満ちていれば、霊的知識を手にしたがゆえの揺るぎない決意に燃えていれば、この無常の地上において、その心だけは失意を味わうようなことは断じてありません。

物質界に生じるいかなる出来事も、真のあなた、不滅で、無限で、永遠の霊性をそなえたあなたに、致命的な影響を及ぼすことはできません。あなたは、背後にあってあなたに導きを与えている力が宇宙最大の力であること、あなたを大霊の計画の推進のための道具として使用し、その愛と叡智と真理と知識を、何も知らずにいる人々に教えてあげようとする愛の力であるという、万全の知識をたずさえて前進することができます。

あなたはこれまでに何度か、自分が間違ったことをしたと思って、ひそかに涙を流されたことがあります。しかし、あなたは決して間違ってはおりません。あなたの前途には栄光への道がまっすぐに伸びております。目的はきっと成就されます。わたしの申し上げたことがお役に立てば幸いです」

ピックフォード「本当にありがとうございました」

「いえ、わたしへの礼は無用です。礼は大霊に捧げるべきものです。わたしどもは、その僕(しもべ)にすぎないのですから。わたしはこの仕事の完遂に努力しておりますが、いつも喜びと快(こころよ)さを抱きながらたずさわっております。もしもわたしの申し上げたことが少しでもお役に立ったとすれば、それはわたしが大霊の御心にそった仕事をしているからにほかなりません。あなたとは、またいつかお会いするかも知れませんが、その時はもっとお役に立てることでしょう。

その時まで、どうか上を向いて歩んでください。下を向いてはなりません。無限の宝庫のある無限の源泉から、光と愛がふんだんに流れ込んでいることを忘れてはなりません。その豊かな宝庫から存分に吸収なさることです。求めさえすれば与えられるのです。著述の方もお続けください」

最後にサークルのメンバー全員に向けて、次のような祈りのメッセージを述べた。

「どうか、皆さんを鼓舞するものとして、霊の力が常に皆さんとともにあり、先天的に賦与されている霊的能力をますます意識され、それに磨きをかけることによって幸せの乏しい人たちのために役立て、そうすることによって皆さんの人生が真に生き甲斐あるものとなることを、切に祈ります」

そう述べて、いよいよバーバネルの身体から離れる直前、そろそろエネルギーが尽きかけているのを意識しながら、ピックフォードにこう述べた。

「ご母堂が、あなたに対する愛情が不滅であることを得心してもらえるまでは、このわたしを行かせない(霊媒から離れさせない)と言っておられます。ご母堂はあなたから受けた恩は決して忘れておられません。今その恩返しのつもりで、あなたのために働いておられます。どうしてもわたしを行かせてくれないのですが……」

ピックフォード「でも、私こそ母に感謝いたしております。十回生まれ変わってもお返しできないほどです」

「あなたはもうすでに十回以上、生まれ変わっておられますよ」

ピックフォード「猫より多いのでしょうか。十八回でも生まれ変わるのでしょうかね。こんどこそ、この英国に生まれてくることでしょうよ」

「いえ、いえ、あなたはすでに英国での前生がおありです。が、これはまた別の話ですね」

ピックフォード「あと一つだけ……私のその英国での前生について、何かひとことだけでも……」

「二世紀以上もさかのぼります。それ以上のことは又の機会にしなくてはなりません。もう行かねばなりません。わたしはこれ以上霊媒を維持できません」

どうやらピックフォードは、その二世紀あまり前に少女として英国で生活した前生のことを、ずっと以前から信じていたらしいふしがある。その理由(わけ)はこの私には記憶がない。

とにかく、グラディス・スミスという名でカナダのトロントに生を受けた彼女は、血統が英国人であることを誇りに思っていることだけは確かである。

ハンネン・スワッファー


祈り
人生の本来の在り方としての大冒険に……

ああ、大霊よ。わたしどもは全生命を支える力に波長を合わせ調和せんとする努力の一環として、ここに祈りを捧げさせていただきます。

わたしたちはその力の背後に、絶対的な支配力をもつ知性の存在を認識しております。それは、人間的形態をそなえたものではございません。全大宇宙のありとあらゆる側面の活動を規制する絶対的な摂理でございます。いかなる側面を研究しても、いかなる秘密を掘り起こしても、いかに高く、あるいは、いかに深く探求のメスを入れても、そこにも必ず摂理が存在するのでございます。

新たに見出されたものも、必ずあなたの自然法則の枠組みの中に組み込まれていたものでございます。その意味において、超自然的現象も奇跡的現象も生じ得ないのでございます。法則と秩序によって規制され、その全パノラマがあなたの聖なる霊に抱かれているのでございます。

その霊こそ生命の根源であると認識するわたしたちは、地上の子等にその霊という実在と、その背後の霊的摂理に目を向かしめたいと願っております。その作用(はたらき)を理解することこそ、この物質の世界に新しい光、新しい悟り、新しい希望をもたらす素地となるのであり、それが地上世界を豊かにするのでございます。

地上の多くの人間がそうした霊的実在の素晴しさと喜びに全く無知のまま、せっかくの人生を無為に過ごしております。その知識があれば、悲哀の多くを無くすことができるのです。喪の涙を拭うことができるのです。心の痛みを取り除くことができるのです。肩の荷を軽くすることができるのです。確信と目的意識をもって、人生の本来の在り方としての大冒険に、より賢明に備えることができるのでございます。

それ故にこそ、わたしどもは受け入れる用意のできている人たちのために霊的知識を広め、自分が一人ぽっちでいることは片時もないこと、霊の力の宝庫はいつでも誰にでも出入りできること、崇高なる愛が万事を良きに計らってくれるとの知識から、新たな生きる勇気を得てくれることを望むものです。それがわたしどもの仕事なのでございます。

ここに、あなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

第9章 霊の優位性の自覚にもとづく修養的生活―これが最高の生き方です
「霊界にも組織的な反抗勢力の集団がいるのでしょうか」――の問いに対するシルバーバーチの答えの中で、スピリチュアリズムの敵は地上だけでなく、霊界にもいるという事実が明かされた。シルバーバーチはこう答えたのである。

「いるのです。それがわれわれにとって悩みのタネの一つなのです。組織的反抗といっても、聖書にあるような天界から追放された堕落天使の反乱の話を想像してはなりません。あれは象徴的に述べられたまでです。

残念ながら霊界にも真理と叡智と知識の普及をこころよく思わぬ低級霊の勢力がいるのです。そして、スキあらば影響力を行使して、それを阻止しようとするのです。こうした交霊会のほとんどすべてが、その危険下にあるといってよろしい。ただし、和気あいあいの交霊会――地上のメンバーとこちらの霊団との間の協調関係がしっくりいっているかぎり、彼らのつけ入るスキはありません。

彼らにとって最もつけ入りやすい条件は、交霊会のメンバーの間に意見の衝突があって、雰囲気が乱れている時です。この交霊会も当初はそうでしたが、次第に改善されていきました。

訳注――当初はバーバネル自身が入神させられることを嫌っており、メンバーも奥さんのシルビアのほかに心霊的知識のない知人が二、三人といった状態で、シルバーバーチも試行錯誤の連続だったようである。(*詳しくは『霊性進化の道しるべ』巻末のバーバネルの遺稿《シルバーバーチと私》を参照してください。)

霊媒を通して届けられるメッセージに矛盾が多いのは、そのせいです。一種の妨害行為のせいですから、常に警戒が必要です。霊能開発を一人でやるのが感心しないのも、そこに理由があります。たった一人では、支配霊も指導霊も、邪霊やイタズラ霊を排除しきれないからです。

霊界というところは、一度は地上で生活したことのある人間(霊)で構成されていると考えてよろしい(※)。決して聖なる天使ばかりがいるわけではありません。霊性の粗野なものから至純至高の高級霊にいたるまで、実にさまざまな霊格をそなえた、かつての人間のいる世界です。みんな地上世界から来た者です。ですから、地上世界のすべての人間が清潔で、無欲で、奉仕的精神で生きるようになるまでは、霊の世界にも厄介な者、面倒を見てやらねばならない者が何割かはいることになります。そういう次第なのです」

※――地球に霊界があるように各天体に霊界がある。当然、太陽にも霊界があり、太陽系全体としての霊界があり、銀河系星雲にも霊界がある。さらに何段階もの霊界があって、最後は宇宙全体の霊界があるのであろうが、そこまでいたると、もはやスペキュレーションの域に入る。地上人類にとっては太陽系が事実上の宇宙であり、シルバーバーチも宇宙とか森羅万象といった用語をその意味で用いている。ここでいう“霊界”も地球の霊界の話である。

レギュラーメンバーの一人「でも、せっかくの計画を台なしにするような厄介者を、あなたほどの方でも、どうにもならないのでしょうか」

「可能なかぎりの手は尽します。しかし、その中には、わたしたちとの接触が取れない者が大勢いることを知ってください。関係が生じないのです。霊性が向上して受け入れる用意が整った時にはじめて、われわれの影響力に触れるようになるのです。

誤解のないようにお願いしたいのは、そうした反抗勢力は本来のわたしたち(上層界の霊)には何の害も及ぼせないということです。彼らの勢力範囲は地上界にかぎられています。霊的状態が地上的波動に合うからです。

ですから、彼らが厄介な存在となるのは、わたしたちが波動を下げて地上圏へ近づいた時です。つまり低級勢力が幅をきかしている境涯へ足を踏み入れた時に問題が生じているだけです」

「この地上世界ですと、面倒ばかり起こしている者がいると、何とか手段を講じて更生させようとしますが、そちらではそういうわけにはいかないのですね?」

「それは、たとえば逮捕して、場合によっては死刑に処するということでしょうが、そういう手段では、こちらの世界へツケを回すようなものです」

「でも、場合によっては過ちを悟らせることによって立派に更生させることができます」

「それが思うようにならない場合もあるのではありませんか」

ここで別のメンバーが「懲役という方法もありますが、これだけでは精神の歪みを正し非行を改めさせることはできません。服役はどうやら矯正手段ではなさそうです。それによって心を入れかえさせることに成功するのは、きわめて稀です」と言うと、シルバーバーチが――

「実は地上世界では、そうした非行の元凶を突き止めるのが容易でないのです。自分はうまくすり抜けておいて、罪を他人におっかぶせることができるわけです。

が、こちらではそうは行きません。霊性の進化に応じた界層にしか住めないのです。地上世界ではさまざまな霊格の者が同じ平面上で生活しております。もっとも、だからこそ良い、という側面もありますが……

いずれにしても、そうした妨害や反抗の勢力の存在をあまり大ゲサに考えるのは禁物です。善性の勢力に較べれば大したものではありません。ただし、存在することは確かです。それよりもっと厄介な存在として、地上時代の宗派の教えを死後もなお後生大事に信じて、それを地上の人間に広めようとして働きかける狂信家がいます」

「それが一ばん厄介な存在ということになるのでしょうか」

「いえ、総体的にみれば大したことはありません。彼らの中で死後の自分の身の上の真相に気づいている者は、きわめて少数だからです。大半の者は地上時代にこしらえた固定した精神構造の中に閉じ込められたまま、一種の夢幻の世界で生きております」

別の日の交霊会で、ローマカトリックの信者からの投書が読み上げられた。その筆者はまずスピリチュアリズムに対するローマカトリック教会としての否定的見解を引用したあと、“しかし、もしも霊界との交信が真実であるとしたら、それは地上人類にとって素晴しいことです”という自分の見解を述べ、さらに“死後存続が証明されれば地上に愛が増え、罪悪と戦争が減ることでしょう”と結んであった。

これを聞いてシルバーバーチはこう述べた。

「今一人の人間が、難しい環境の中で少なくとも微かな光を見出し、これまで真実であると思い込んできたものとの関連性を理解しようと努力している事実を、まず喜びたいと思います。

この方は、疑問に思うことを少なくとも正直に尋ねてみるという行為に出ておられます。この段階まで至れば、真理探究が緒(ちょ)についたことを意味します。どうかこの方に、疑問は徹底的に追求し、証明を求め、証明されたものにしっかりとしがみつき、証明されていないもの、理性が承服しないものは、勇気をもって捨て去るようにお伝えください。

この方に伝えていただきたいことが、もう一つあります。お手紙の中にいくつかの引用文がありますが、この方は本当にそれを信じていらっしゃるのでしょうか。それが果たして真実かどうかの証拠がないものについては、“果たして筋が通っているだろうか”と一度はご自分の理性で疑ってみることが大切です。大霊からの授かりものであるその理性が納得しないものは、そこできっぱりと捨て、いかなるテストにも追求にも検査にも批判にも疑念にも耐えてなお残るものだけを基盤として、自分の宗教を打ち立てるのです。

一つ一つ取り挙げると時間が掛かりますので、例として一つだけ取り挙げてみましょう。この方は“神はモーゼにかく言えり……”という文を引用しておられますが、神がモーゼに言ったことが事実であるという証拠はどこにあるのでしょうか。その証拠がないかぎり、あるいは少なくとも信じてよいと断定できるだけの理由が揃わないかぎりは、それを引用してはなりません。理性による判断はそれからのことです。それに、ついでに言えば、かりにそれが証明されたとしても、一体それが今日の時代に適用できるかどうかの問題もあります。

理性による検査と探求をなされば、かつては真実と思い込んでいたものの多くが、何の根拠もないことがわかり、間違いない事実だけを根拠としてご自分の宗教を打ち立てることになります。それならば、疑念の嵐が吹き荒れても、揺らぐことはありません。知識は岩盤のようなものだからです。その方に、わたしからの愛の気持を届けてあげてください。そして、頑張り通すようにと励ましてあげてください」

続いての投書は女性からのもので、いかに小さな体験にも、行為にも、あるいは言葉にも、思念にも、それなりの影響力があるとのシルバーバーチの言葉を引用して、“では一体どうすれば自分の言動に自信が持てるようになるのでしょうか”というものだった。シルバーバーチが答える。

「その方にこうお伝えください――精神的にも霊的にも自己を厳しく修養し、生活のすべての側面を折目正しく規制し、自分は本来は霊であるという意識をもって、行動のすべてに霊の優位性を反映させなさい、と。

霊の優位性の自覚にもとづく修養的生活――これが最高の生き方です。既成のテキストはいりません。魂の成長ということだけを心がければいいのです。大霊からいただいている霊力が顕現し、人間が勝手にこしらえた教義への盲目的信奉者とならずにすみます」

次の質問は、スピリチュアリズムというものが、ただ単に他界した身内の者との交霊だけに終始して、本来の意義と責任を忘れてしまう危険性はないかというものだった。これに対してシルバーバーチはこう答えた。

「知識の使い道を誤るという問題は常に存在します。何事にも正しい使い方と間違った使い方とがあるものです。これは誰しも直面させられる問題の一つです。

自分の個人的な不幸の慰めを交霊会に見出す人がいることは確かです。そして、悲しむ人がその悲しみを慰められること自体、少しも悪いことではありません。死別の嘆きが軽減され、涙を流さなくなるということは結構なことです。喪の悲しみに暮れる人にとって、交霊会が慰めの場となるのを、いけないことと非難するのはよくありません。むしろ必要なことですし、それがその人にとって人生の大きな転機になることもあります。

問題は、胸の痛みが癒え、涙が消え、陰うつさが晴れ、重荷が軽くなってから後のことです。言い変えれば、死後の存続という知識を手にしたあともなお、いつまでも私的な交信の範囲にとどまっているようでは、これは重大な利己主義の罪を犯すことになります。

それがなぜ罪なのか――互いに慰め合うことがなぜいけないのか――そう問われれば、確かにそれ自体少しも悪いことではないのですが、わたしの考えを言えば――これも例によって一般論として申し上げることで、例外はあるかも知れませんが―― 一人の霊媒を通じての霊界との交信が確立されドアが開かれたなら、他の人々にもそのチャンネルを使用させてあげて、多くの人々を啓発する方向で活用すべきです。

三千年におよぶ永い体験によってわたしは、“人を裁くなかれ”という教えが確かに真実であることを確認しております。他人の欠点を指摘することは容易なことです。もっとも、残念ながら、批判されてもやむを得ないだけの条件が揃っているケースもあることは認めますが……。地上の人たちが他人の利己主義に文句を言うのをやめて、自分の欠点を反省し、どうすればそれが改められるかに関心を向けるようになれば、地上はもう少しは進歩することでしょう」

ところで、シルバーバーチの交霊会、正式に言うとハンネン・スワッファー・ホームサークルは、霊媒のバーバネルが入神(トランス)状態に入ることで開会となるが、それに先立って出席者の間である話題について論議が交わされることがある。それをシルバーバーチは霊界で聞いている。やがてバーバネルがトランス状態に入ると、その身体に乗り移ってしゃべるわけであるが、ある日の交霊会に先立って金銭(マネー)の問題が話題になったことがある。やがて入神したバーバネルの口を借りてシルバーバーチがこう語った。

「地上世界で成就しなければならないことは、それを決意した霊性、人間の霊性が原動力となって成就されていくのです。表面的な意識が自覚するとしないとにかかわりなく、内部に秘められた神性の火花が発現を求める、その衝動によるのです。人類の歴史を飾ってきた先駆者はみな、その力を物的なものからではなく、霊的なものから――それは内部からの絶え間ない衝動である場合もあれば、外部からのインスピレーションである場合もありますが――それから得ていたのです。

残念ながら地上世界は、今なお物質万能主義の悪弊から脱け切れずにいます。すべてを金銭的感覚で捉えようとします。財産の多い人ほど偉い人と見なします。人間性ではなく財産と地位と肩書きと家柄によってランクづけします。実際にはまったく永続性のないものばかりです。虚飾にすぎません。実在ではないのです。

本当の価値の尺度は霊的成長度です。それは、その人の生活、日常の行為・言動によって、みずから成就していくもので、それがすべてであり、それしかないのです。お金で徳は買えません。お金で霊的成長は買えません。お金で霊格は高められません。そうしたものは各自が各自の努力で獲得しなければなりません。粗末な家で生まれたか、御殿のような家で生まれたかは、霊的成長には何の関係もありません。

霊的実践の場は、すべての人間に平等に存在します。死んでこちらへ来られると、意外に思えることが沢山あります。地上的な虚飾がすべて取っ払われて、魂が素っ裸にされます。その時はじめて自分の本当の姿を知ります。自分はこうだと思い込んでいたり装(よそお)ったりしていたものとは違います。

といって、わたしは、お金持ちはすべて貧乏人より霊的に劣ると言っているのではありません。そう言うつもりは毛頭ありません。お金は霊的成長とは何の関係もないこと、進化は各自の生活そのものによって決まっていくのであり、それ以外にないことを言いたいのです。困ったことに、地上の人間は、直面する物的問題に心を奪われて、つい間違った人生観をもってしまいがちですが、いついかなる時も、霊的真理を忘れないようにしないといけません。これだけは永続性のある霊的な宝であり、いったん身につけると、二度と奪われることはありません。永遠の所有物となります。

わたしは、霊力が今日のように少数の特殊なチャンネルを通してではなく、当り前の日常生活の一部として、無数のチャンネルを通して地上世界へ注がれる日の到来を、楽しみに待ち望んでおります。その時は“あの世”と“この世”との間の障害物がなくなります。すべての人間に潜在する霊的資質が、ごく当り前のものとして、学校教育の中で磨かれるようになります。生命は一つであるという事実が理解されるようになります。

わたしはそういう世界――地上世界が広大な宇宙の一部であることを認識し、すぐ身のまわりに高次元の世界の生活者を霊視できるような世界――の到来を待ち望んでおります。何と素晴しい世界でしょう!」

ここで質問が出た。

「まったくの赤の他人にスピリチュアリズムの教えを説くにはどうすればよいでしょうか」

これに対してシルバーバーチが「難しい質問ですね」と言うと、司会のハンネン・スワッファーが「それは相手によって違いますよ」と口添えする。するとシルバーバーチが改めてこう説いた。

「人それぞれに要求するものが異なることを、まず理解しないといけません。霊的成長度が一人ひとり異なるからです。ある人は聞かれなくなった声を聞きたい(霊言)と思い、触れられなくなった手をもう一度しっかりと握りしめたい(物質化現象)と思います。今なお愛が続いていることを確認したいのです。そういう人にとっては、自分を愛する人だけが関心の的であり、それはそれなりに、やむを得ないことです。

また一方には、自分の個人的なことよりも、科学的な関心を寄せる人もいます。宗教的観点から関心をもつ人もいます。哲学的な観点から関心をもつ人もいます。まったく関心を見せない人もいます。こうした人それぞれに対応した答え方があります。

わたしたちの側から申し上げられることは、次のことだけです。生命は墓の向こうでも続いていて、あなたは個性をもった霊としてずっと存在し続ける――このことは間違いない事実であり、筋の通ったものであれば、どんな手段を講じてもよいから、わたしたちの言っていることが本当かどうかを試されるがよろしい。最終的には、理性ある人間ならば誰しも納得がいくはずです。理性を欠いた人間には、つける薬はありません、と」

「現代の霊的教訓はイエスの教えに匹敵するものでしょうか」

「そもそも現代の人たちがなぜ遠い昔の本に書いてあることを信じたがるのかが、わたしには理解できないのです。それが真実であることを証拠だてるものは何一つ存在せず、ただの人間が述べたことの寄せ集めにすぎず、しかも現代にはそぐわない形で表現されているにもかかわらず、それに絶対的な権威があるかのごとく後生大事にしています。実際は、いつの時代にも通用するという保証はひとかけらもないのです。そのくせ、愛する人が生前そっくりの姿を見せ(物質化現象)そして語る(霊言)ことがある話をすると、そういうことは昔の本には出ていないから、という理由で信じようとしないのです」

出席者の一人が「それを信じたら、それまでの信仰を大々的に変更せざるを得なくなるので、しりごみする人がいるようです。それを批難するわけではないのですが、その試金石にあえて立ち向かう道義的勇気に欠けているのだと思います」という意見を述べた。するとシルバーバーチが――

「だとすると、その人は自分を傷つけているだけでなく、自分が愛する人たちをも傷つけていることになります。世の中には、正しい知識を知るよりも嘆き悲しんでいる方がいいという人がいるものです。知識は大霊からの授かりものです。その知識を拒否する人は、自分自身を傷つけることになるのです。“光”を差し出されても、結構です、私は“闇”で満足です、というのであれば、それによって傷ついても、それはその人の責任です」

別の出席者「まず受け入れる用意がいるとおっしゃる理由はその辺にあるわけですね?」

「そうです。わたしの使命には二つの要素があるとみています。一つは純粋に破壊的なもので、もう一つは建設的なものです。永いあいだ人間の魂の息を詰まらせてきた雑草――教会による虚偽の教え、宗教の名のもとに説かれてきた意味のない、不快きわまる、時には冒涜的でさえある教義を破壊するのが第一です。そうしたものは根こそぎ一掃しなければいけません。人生が本来の意義を果たすのを妨げるからです。それが破邪の要素です。

建設的要素は、正しい知識を提供して、受け入れる用意のできた人にとって、それがいかに自然で、単純で、美しく、そして真実味があるかを説くことです。両者は相たずさえて進行します。大切にしている教えの間違いを指摘されると不快な態度を見せるような人は、わたしはご免こうむります。そういう態度でいるとどういう結果になるかを、そちらでもこちらでも、さんざん見てきているからです。

わたしたちにとって、地上世界で仕事をするのは容易なことではありません。しかし今の地上世界は、わたしたちの努力を必要としているのです。どうか、霊の自由と魂の解放をもたらす基本的な霊的真理にしっかりとしがみついてください。精神がのびのびと活動できるようになり、二度と再び、歪んだ、ひねくれた、いじけた生き方をしなくなったことを喜ばないといけません。がんじがらめの窮屈な生き方をしている魂が多すぎます。本来の自我を存分に発揮できなくされているのです。

そこでわたしたちが、無知の牢獄の扉を開くカギをお持ちしているのです。それさえ手にすれば、暗闇の中から這い出て、霊的真理の陽光の中へと入ることができるのです。自由が束縛にまさるのは自明の理です。束縛は間違いであり、自由が正しいにきまっています。教義への隷属を強いる者は明らかに間違っています。自由への戦いを挑む者は明らかに正道を歩んでいる人です。

いかなる人間も、いつかは実在を見出さねばならなくなる時期がまいります。我儘(わがまま)からその時期を遅れさせることはできます。が、永久に避け通すことはできません」

「ということは、人間はすべて――今のところはどんなに品性の下劣な人間でも――そのうちいつかは、霊的に向上していくということでしょうか」

「そうです――永劫の時をへてのことですが……。わたしたちの関心は生命の実在です。影には真の安らぎも幸せも見出せないことをお教えしようとしているのです。影は光があるからこそ存在するのであり、その光とは霊的実在です。無限なる霊の莫大な可能性、広大な宇宙を支配しているだけでなく、一人ひとりの人間に少量ずつ存在している霊性に目を向けてほしいと願っているのです。

本当の宝を見出すのは自分の“内部”なのです。窮地にあって、物的手段が尽きたあとに救ってくれる力は、内側にあるのです。地上の友だちがすベて逃げ去り、自分ひとり取り残され、誰もかまってくれず、忘れ去られたかに思える時でも、背後霊の存在を知る者は、霊の世界からの温もりと親密さと愛があることを思い起こすことができます」

続いての質問に答えて、出席者全員に次のような勇気づけの言葉を述べた。

「皆さんが携わっておられる大いなる闘いは、これからも続きます。こうした霊的真理の絡んだ問題で、意見の衝突や論争が生じるのを恐れてはなりません。いずれは必ず人類の大多数によって受け入れられていくのですが、相手が間違っていることがわかっていながら、論争を避けて大人しく引っ込んだり、妥協したり、口先をごまかしたりすることなく、いかなる犠牲を払っても真理は真理として守り抜くという覚悟ができていないといけません。

結果を怖がるような人間は弱虫です。そんなことでは性格は鍛えられません。霊の世界の道具たらんと欲する者は、迫害されることをむしろ誇りに思うようでなくてはなりません。あらゆる攻撃を、それがどこから来ようと、堂々と迎え撃つのです。胸を張って生き、その毅然(きぜん)たる態度、その陰ひなたのない言動によって、いつでもどこでも試される用意があることを見せつけるのです」

時あたかも春だった。シルバーバーチは春という季節が永遠の希望を象徴するものであることを述べてから、こう結んだ。

「さて、最後に申し上げたいのは、この春という季節は喜ばしい成就の時節だということです。新しい生命が誕生してくるからです。今こそ、まさしく甦りの季節なのです。無数の形態を通して新しい美が息づく時、それは聖なる創造主の見事な芸術をご覧になっているのです。

皆さんは今まさに、自然界の生命の喜びの一つとして定期的に訪れる、新しい創造の夜明けをご覧になろうとしておられます。それには再活性化と、力と、太陽光線の増幅が伴います。絶対的摂理の上に築かれた希望と自信と信頼をもたらす、この新しい生命でご自分を満たされるがよろしい。それは、生命がいかに永い眠りの後でも必ず甦ること、森羅万象を生んだ力は永遠なる存在であること、そして、それと同じものが皆さんの一人ひとりに宿っていることの証(あかし)だからです。

ですから、取り越し苦労や悲観論、うんざりや投げやりの気持などを抱く根拠はどこにもないのです。絶対的な自然法則の確実性に根ざした霊的知識に、すべてをゆだねることです。

大霊の祝福のあらんことを!」

同じく春の季節に行われた交霊会で、次のような、素朴でしかも厳粛さのただようメッセージを述べたことがあった。

「皆さんは今、大自然の華麗なページェントの一シーンをご覧になっているところです。春の美に飾られた大自然をご覧になっているわけです。新しい生命が神なる創造者への賛歌を奏(かな)でているところです。

いずこを見ても、永遠なる摂理の不変性の証にあふれております。雪に埋もれ、冬の暗闇の中で眠りつづけていた生命が目を覚ましはじめます。春の息吹きがいたるところに見られます。神なる園丁(えんてい)が人間には真似ることすらできない腕の冴(さ)えを披露いたします。そしてやがて、つぼみが花と開き、美しさが一面に広がります。

春のあとに夏がつづき、夏のあとに秋がおとずれ、秋のあとに冬がめぐってきます。その永遠のサイクルに進化の要素が伴ってまいりました。これからも進化を伴いつつめぐりつづけます。同じように、皆さんも生命の冬の季節から春を迎え、やがて夏に向かって内部の神性を花開かせてまいります。

こうした規則正しい自然の流れの中に、大霊の働きの確実性を見て取ってください。その大霊の力があなたを通して働くように仕向けさえすれば、言い変えれば、大霊の道具として役立てる用意さえ整えれば、確実な知識にもとづく叡智とともに、豊かな恩恵をわがものとすることができるのです。

地上の人間には失望させられることがあるかも知れません、信頼していた同志から裏切られることがあるかも知れません。国がこしらえた法律や条令によって欺(あざむ)かれた思いをさせられることがあるかも知れません。しかし、大霊は絶対に裏切りません。なぜなら、完全なる摂理として働いているからです。

その働きの邪魔だてをしているのは、ほかならぬ自分自身なのです。自分の無知の暗闇を追い出し、正しい知識の陽光の中で生きなさい。そうすれば、この地上にあって天国の喜びを味わうことができるのです」

祈り
無限にして無尽蔵の霊の宝庫を……

大霊の恩寵が皆さまがた全てに下されますように!

これより皆さんとともに、全生命を生みたまい、その全側面を愛の抱擁の中に収めたもう崇高なる力に向けて、心を一つにいたしましょう。

ああ、大霊よ。わたしたちはあなたについて語らんと欲し、お粗末な表現ながらも、この果てしなき宇宙のすみずみまで浸透せるあなたの崇高さ、あなたの神性、あなたの絶対的法則を啓示するための言葉を探し求めております。

心を恐怖で満たされ、精神を不安で曇らされている男女が、あなたに至る道を知り、あなたを見出し、そして万事はよきに計らわれていること、あなたの配剤に間違いはないとの確信を得ることができますように、わたしたちがあなたの豊かな宝のいくつかを明かしてあげたいのでございます。

これまであなたの真実の姿、一分の狂いも休むことも弱まることもなく働く、完全なる法則としてのあなたを理解することを妨げてきた偽りの教義、愚かな間違い、無知と誤解のすべてを取り払うのも、わたしたちの仕事の一環でございます。わたしたちの目に映る宇宙は、生物であろうと無生物であろうと、ありとあらゆる存在にあなたの配剤があり、同時に、そこに生じるあらゆる事態にも十全なる備えがなされているのでございます。

あなたの目の届かぬ所は一つとしてございません。秘密も謎もございません。あなたは全てをご存知です。なぜなら、全てはあなたの法則の支配下にあるからでございます。わたしたちが指摘するのは、その法則の存在でございます。無窮の過去より作用し、これからも永劫(えいごう)に作用し続ける摂理でございます。

地上の子等がその摂理と調和した生活を送ることによって、すべての暗黒、すべての邪悪、すべての混乱と悲劇が消え、代わって光明が支配することになりましょう。

愛に死はなく、生命は永遠であり、その不滅の愛によって結ばれている者は、墓場で別れ別れになることはないこと、愛が求め合い霊力が働くところには、乗り越えられない障害も、取り壊せない障壁もないことを教えてあげるのも、わたしたちの仕事の一環でございます。

各自がその霊性を磨き、天命として与えられている役割を果たす段階に至るのを待ちうけている、無限にして無尽蔵の霊の宝庫を子等に明かしたいのでございます。

ここに、己を役立てることを求めるあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

第10章 幼児期を過ぎれば、幼稚なオモチャは片づけるものです
生誕後はや二千年もたった今日でさえ、イエスなる人物の正しい位置づけが、スピリチュアリズムにおいても時おり論議の的となる。ある者はイエスも一人間だった――ただ並はずれた心霊的能力を持ち、それを自在に使いこなした勝れた霊覚者だったと主張するし、又ある者は、やはりイエスは唯一の“神の子”だったのだと主張する。

当然のことながら、毎回ほぼ一時間半も続いたシルバーバーチの交霊会においても、たびたびその問題ならびに、それに付随した重大な問題が提出されてきた。出席者は異口(いく)同音に、その一時間半があっという間に過ぎた感じがするのが常だったと言う。

さて、そんなある日の交霊会で、一牧師からの投書による質問が披露された。“シルバーバーチ霊はイエスを宇宙機構の中でどう位置づけておられるのでしょうか。また〈人間イエス〉と〈イエス・キリスト〉とは、どこがどう違うのでしょうか”というのがそれである。これに対してシルバーバーチはこう答えた。

「ナザレのイエスは、地上へ降誕した一連の予言者ないし霊的指導者の系譜(※)の、最後を飾る人物でした。そのイエスにおいて、霊の力が空前絶後の顕現をしたのでした。

※――メルキゼデク→モーセ→エリヤ→エリシャ→イエスという系譜のことを言っているのであるが、こうした霊的系譜は各民族にある。ただ、世界的視野でみた時、イエスが地上人類としては最大・最高の霊格と霊力をそなえていたことは間違いない事実のようで、モーゼスの『霊訓』の中でもインペレーター霊がまったく同じことを述ベている。今スピリチュアリズムの名のもとに繰り広げられている地球浄化と真理普及の運動は、民族の別を超え、そのイエスを最高指導霊とした、世界的規模で組織された霊団によるものである。

イエスの誕生には何のミステリーもありません。その死にも何のミステリーもありません。他のすべての人間と少しも変わらない一人の人間であり、大自然の法則にしたがってこの物質界へやってきて、そして去って行きました。が、イエスの時代ほど霊界からのインスピレーションが大量に流入したことは、前にも後にもありません。イエスには使命がありました。それは、当時のユダヤ教の教義や儀式や慣習、あるいは神話や伝説の瓦(が)れきの下敷きとなっていた基本的な真理のいくつかを掘り起こすことでした。

そのために彼は、まず自分へ注意を引くことをしました。片腕となってくれる一団の弟子を選んだあと、持ちまえの霊的能力を駆使して、心霊現象を起こしてみせました。イエスは霊能者だったのです。今日の霊能者が使っているのとまったく同じ霊的能力を駆使したのです。偉かったのは、それを一度たりとも私的利益のために使わなかったことです。

又その心霊能力は法則どおりに活用されました。奇跡も、法則の停止も、廃止も、干渉もありませんでした。心霊法則にのっとって演出されていたのです。そうした現象が人々の関心を引くようになると、こんどは、人間が地球上で生きてきた全世紀を通じて数々の霊覚者が説いてきたのと同じ、単純で、永遠に不変で、基本的な霊的真理を説くことを開始したのです。

それから後のことはよく知られている通りです。世襲と伝統を守ろうとする一派の憤怒と不快を買うことになりました。が、ここでぜひともご注意申し上げておきたいのは、イエスに関する正しい記録はきわめて乏しいのですが、その乏しい記録に大変な改ざんがなされていることです。ずいぶん多くの、ありもしないことが書き加えられています。したがって聖書に書かれていることには、マユツバものが多いということです。出来すぎた話はみな割り引いて読まれて結構です。実際とは違うのですから……

もう一つのご質問のことですが、ナザレのイエスと同じ霊、同じ存在が今なお地上に働きかけているのです。死後さらに開発され威力を増した霊力を駆使して、愛する地上人類のために働いておられるのです。イエスは“神”ではありません。全生命を創造し人類に神性を賦与した、宇宙の大霊そのものではありません。

いくら立派な地位(くらい)ではあっても、本来まったく関係のない地位に祭り上げることは、イエスに忠義を尽すゆえんとはなりません。父なる神の右に座しているとか、“イエス”と“神”とは同一義であって、置き替えられるものであるなどと主張しても、イエスは少しも喜ばれません。

イエスを信仰の対象とする必要はないのです。イエスの前にひざを折り、平身低頭して仕える必要はないのです。それよりも、イエスの生き方を自分の生き方の手本として、さらにそれ以上のことをするように努力することです。

以上、大変大きな問題について、ほんの概略を申し上げてみました」

メンバーの一人「“キリストの霊”Christ Spiritとは何でしょうか」

「ただの用語にすぎません。その昔、特殊な人間が他の人間より優秀であることを誇示するために、聖なる油を注がれた時代がありました。それは大てい王家の生まれの者でした。“キリスト”という言葉は“聖油を注がれた”という意味です。それだけのことです。(※)」

※――イエスの死後、イエスこそそれに相応しい人物だったという信仰が生まれ、それでJesus Christと呼ばれるようになり、それがいつしか固有名詞化していった。

「イエスが霊的指導者の中で最高の人物で、模範的な人生を送ったというのが、私には理解できません」

「わたしは決してイエスが完全な生活を送ったとは言っておりません。わたしが申し上げたのは、地上へ降りた指導者の中では最大の霊力を発揮したこと、つまりイエスの生涯の中に空前絶後の強力な神威の発現が見られるということ、永い霊覚者の系譜の中で、イエスにおいて霊力の顕現が最高潮に達したということです。イエスの生活が完全だったとは一度も言っておりません。それは有り得ないことです。なぜなら、彼の生活も当時のユダヤ民族の生活習慣に合わせざるを得なかったからです」

「イエスの教えは最高であると思われますか」

「不幸にして、イエスの教えはその多くが汚されております。わたしはイエスの教えが最高であるとは言っておりません。わたしが言いたいのは、説かれた教えの精髄(エッセンス)は他の指導者と同じものですが、たった一人の人間があれほど強力に、そして純粋に心霊的法則を使いこなした例は、地上では空前絶後であるということです」

「イエスの教えがその時代の人間にとっては進みすぎていた――だから理解できなかった、という見方は正しいでしょうか」

「おっしゃる通りです。ランズベリーやディック・シェパードの場合と同じで(※)、時代に先行しすぎた人間でした。時代というものに、彼らを受け入れる用意ができていなかったのです。それで結局は、彼らにとって成功であることが時代的にみれば失敗であり、彼らにとって失敗だったことが時代的には成功ということになったのです」

※――George Lansburyは一九三一年~三五年の英国労働党の党首で、その平和主義政策が純粋すぎたために挫折した。第二次大戦勃発直前の一九三七年にはヨーロッパの雲行きを案じて、ヒトラーとムッソリーニの両巨頭のもとを訪れるなどして戦争阻止の努力をしたが、功を奏さなかった。Dick Sheppardは生前キリスト教の牧師だったこと以外は不明。なおこの当時二人ともシルバーバーチ霊団のメンバーだったことは他の資料によって確認されている。

「イエスが持っていた霊的資質を総合したものが、これまで啓示されてきた霊力の始源であると考えてよろしいでしょうか」

「それは違います。あれだけの威力が発揮できたのは、霊格の高さのせいよりも、むしろ心霊的法則を理解し、かつそれを自在に使いこなすことができたからです。

ぜひとも理解していただきたいのは、その後の出来事、つまりイエスの教えに対する人間の余計な干渉、改ざん、あるいはイエスの名のもとに行われてきた愚行が多かったにもかかわらず、あれほどの短期間に全世界に広まり、そして今日まで生き延びてこれたのは、イエスの言動が常に霊力と調和していた(※)からだということです」

※――ここでは背後霊団との連絡が緊密だったという意味。『霊訓』のインペレーター霊によると、イエスの背後霊団は一度も物質界に誕生したことのない天使団、いわゆる高級自然霊の集団で、しかも地上への降誕前のイエスはその天使団の中でも最高の位にあった。地上生活中のイエスは早くからその事実に気づいていて、一人になるといつも瞑想状態に入って幽体で離脱し、その背後霊団と直接交わって、連絡を取り合っていたという。

かつてメソジスト派の牧師だった人が尋ねる――

「いっそのこと世界中に広がらなかった方がよかったという考え方もできませんか」

「愛を最高のものとした教えは立派です。それに異議を唱える人間はおりません。愛を最高のものとして位置づけ、ゆえに愛は必ず勝つと説いたイエスは、今日の指導者が説いている霊的真理と同じことを説いていたことになります。教えそのものと、その教えを取り違え、しかもその熱烈な信仰によってかえってイエスを磔刑(はりつけ)にするような間違いを何度も犯している信奉者とを混同しないようにしないといけません。

イエスの生涯を見て、わたしはそこに物質界の人間として最高の人生を送ったという意味での完全な人間ではなくて、霊力との調和が完ぺきで、かりそめにも利己的な目的のためにそれを利用することがなかった――自分を地上に派遣した神の意志に背くようなことは絶対にしなかった、という意味での完全な人間を見るのです。イエスは一度たりとも、みずから課した使命を汚すようなことはしませんでした。強力な霊力を利己的な目的のために利用しようとしたことは一度もありませんでした。霊的摂理に完全にのっとった生涯を送りました。

どうもうまく説明できないのですが、イエスも、生をうけた時代とその環境に合わせた生活を送らねばならなかったのです。その意味では完全では有り得なかったと言っているのです。そうでなかったら、自分よりもっと立派な、そして大きな仕事ができる時代が来るとイエス自身が述べている意味がなくなります。

イエスという人物を指さして“ごらんなさい。霊力が豊かに発現した時は、これほどの仕事ができるのですよ”と言える、そういう人物だったと考えればよいのです。信奉者の誰もが見習うことのできる手本なのです。しかもそのイエスは、わたしたちの世界においても今、わたしの知るかぎりでの最高の霊格をそなえた霊(※)であり、自分を映す鏡として、イエスに代わる霊はいないと考えております。

※――地球神界での話。『ベールの彼方の生活』では“各天体にキリストがいる”と述べられている。要するに神庁の最高位の霊のことで、イエスなる人物はそのすべてではないが直接の表現だったということであろう。

わたしがこうしてイエスについて語る時、わたしはいつも“イエス崇拝”を煽(あお)ることにならなければよいが、という懸念があります。それは、わたしがよく“指導霊崇拝”に警告を発しているのと同じ理由からです。

あなたは為すべき用事があってこの地上にいるのです。みんな、永遠の行進を続ける永遠の巡礼者です。その巡礼に必要な身支度は、理性と常識と知性をもって行わないといけません。それは書物からでも得られますし、伝記からでも学べます。ですから、他人がすすめるから、良いことを言ってるから、あるいは聖なる教えだからということではなく、自分の旅にとって有益であると自分で判断したものを選ぶべきなのです。それがあなたにとって唯一採用すべき判断規準です。

このわたしとて、無限の叡智の所有者などではありません。霊の世界のことを一手販売しているわけではありません。地上世界のための仕事をしている他の大勢の霊の一人にすぎません。完全であるとか、間違ったことは絶対に言わないなどとは申しません。みなさんと同様、わたしも至って人間的な存在です。ただ、みなさんよりは生命の道をほんの二、三歩先を歩んでいるというだけのことです。その二、三歩が、わたしに少しばかり広い視野を与えてくれたので、こうして後戻りしてきて、もしもわたしの言うことを聞く意志がおありなら、その新しい地平線をわたしといっしょに眺めませんかと、お誘いしているわけです」

霊言の愛読者の一人から“スピリチュアリストもキリスト教徒と同じようにイエスを記念して〈最後の晩餐〉の儀式を行うべきでしょうか”という質問が届けられた。これに対してシルバーバーチはこう答えた。

「そういう儀式(セレモニー)を催すことによって、身体的・精神的・霊的に何らかの満足が得られるという人には、催させてあげればよろしい。われわれとしては最大限の寛容的態度で臨むべきであると思います。が、わたし自身には、そういうセレモニーに参加したいという気持は毛頭ありません。イエスご自身も、そんなことをしてくれたからといって、少しもうれしくは思われません。わたしにとっても何の益にもなりません。まったくなりません。霊的知識の理解によってそういう教義上の呪縛(じゅばく)から解放された数知れない人々にとっても、それは何の益も価値もありません。

イエスに対する最大の貢献は、イエスを模範と仰ぐ人々が、その教えの通りに生きることです。他人のために自分ができるだけ役に立つような生活を送ることです。内在する霊的能力を開発して、悲しむ人々を慰め、病に苦しむ人々を癒し、疑念と当惑に苦しめられている人々に確信を与え、助けを必要としている人々すべてに手を差しのべてあげることです。

儀式よりも生活の方が大切です。宗教は儀式ではありません。人のために役立つことをすることです。本末を転倒してはいけません。“聖なる書”と呼ばれている書物から、活字のすベてを抹消してもかまいません。讃美歌の本から“聖なる歌”をぜんぶ削除してもかまいません。儀式という儀式をぜんぶ欠席なさってもかまいません。それでもなおあなたは、気高い奉仕の生活を送れば立派に“宗教的人間”でありうるのです。そういう生活こそ、内部の霊性を正しく発揮させるからです。

わたしとしては、みなさんの関心を儀式ヘ向けさせたくはありません。大切なのは形式ではなく、生活そのものです。生活の中で何を為すかです。どういう行いをするかです。〈最後の晩餐〉の儀式がイエスの時代よりさらに遠くさかのぼる由緒ある儀式であるという事実も、それとはまったく無関係です」

別の日の交霊会でも同じ話題を持ち出されて――

「人のためになることをする――これがいちばん大切です。わたしの意見は単純・明快です。宗教には“古い”ということだけで引き継がれてきたものが多すぎます。その大半が宗教の本質とは何の関わりもないものばかりです。

わたしにとって宗教とは、何かを崇拝することではありません。祈ることでもありません。会議を開いて考え出した形式的セレモニーでもありません。わたしはセレモニーには興味はありません。それ自体は無くてはならないものではないからです。

しかし、いつも言っておりますように、もしもセレモニーとか慣例行事を無くてはならぬものと真剣に思い込んでいる人がいれば、それを無理して止めさせる理由はありません。

わたし自身としては、幼児期を過ぎれば、幼稚なオモチャは片づけるものだという考えです。形式を超えた霊と霊との交渉、地上的障害を超越して、次元を異にする二つの魂が波長を合わせることによって得られる交霊関係――これが最高の交霊現象です。儀式にこだわった方法は迷信を助長します。そういう形式はイエスの教えとは何の関係もありません」

祈り
あなたの目の前に人類は一つ……

これより皆さんとともに、可能なかぎりの最高のものを求めて、お祈りいたしましょう。

ああ、大霊よ、わたしどもは、あなたを有るがままの姿、広大なこの大宇宙機構の最高の創造主として、子等に説き明かさんとしております。あなたは、その宇宙の背後の無限の精神にあらせられます。あなたの愛が立案し、あなたの叡智が配剤し、あなたの摂理が経綸しているのでございます。

かくして、生命現象のあらゆる側面があなたの摂理の支配下にあります。この摂理は可能なかぎり、ありとあらゆる状況に備えたものであり、一つとして偶発の出来事というものは起きないのでございます。

あなたはこの宇宙に、あなたの神性の一部を宿した個的存在を無数に用意なさいました。その神性があればこそ、崇高なるものを発揮することができるのでございます。その神性を宿せばこそ、すべての人間はあなたと、そして他のすべての同胞と霊的につながっていることになるのでございます。民族の別、国家の別、肌の色も階級も教義も超えて、お互いに結ばれているのでございます。あなたの目の前に人類は一つなのです。

誰一人として忘れ去られることも見落とされることもございません。誰一人として無視されることも、あなたの愛が届かぬこともございません。孤独な思いに沈むのは、あなたの絶妙な摂理というものが存在し、心がけ一つで誰でもその恩恵にあずかることができることを知らぬからにほかなりません。

子等が霊の目と耳とを開きさえすれば、高級界からの美と叡智と豊かさとが、ふんだんに注がれるのでございます。その高級界こそが、すべてのインスピレーション、すべての啓示、すべての叡智、すべての知識、すべての愛の始源なのでございます。

わたしたちの使命は、子等に内部の神性と霊的本性に気づかせ、地上はいっときの仮住まいであって、永遠の住処(すみか)は霊界にあること、地上生活の目的は、そうした崇高なる霊的起原と誉れ高き宿命に恥じないだけの霊格を身につけることであることを理解せしめて、しかるべき導きを与えることでございます。

ここに、あなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

訳者あとがき
一九二〇年に始まったシルバーバーチの霊言は、当初は霊媒のバーバネル自身が乗り気でなかったこともあって、記録として残す考えはまったくなく、したがって何も残されていない。また、記録として残すほどの内容でもなかったらしい。言ってみればシルバーバーチの練習(リハーサル)に費やされていたようなもので、ハンネン・スワッファーが司会者となってホームサークルを結成してから正式に速記録の係を置くようになり、さらに後になってテープに録音されるようになった。

私の訳で潮文社から出ている全十二巻のシリーズは、八人のサイキックニューズのスタッフが、その記録の中から互いに重複しない箇所をテーマ別に抜粋して構成したもので、その手間の大変さは、思い半ばに過ぎるものがある。が、今こうしてオーツセン一人による新シリーズを訳していきながら気づいたことは、その十二巻に編纂されたもの以外にも、まだまだ素晴しい霊言、胸を打つ言葉がたくさん残っているということである。

が、そうした言わば“取り残し”の部分だけを断片的に拾い出しただけでは、全体としての筋がまとまらないという弊害が生じる。そこでオーツセンは、すでに前シリーズに出ているものでも敢えて削除せずに、その前後の霊言といっしょに引用するという形で新しい趣向をこらしている。前シリーズと異なって、自分一人で編纂した新シリーズを出すことにしたオーツセンの意図が、その辺から読み取れる。

確かに、こうして形を変え角度を変えて読むと、三十年以上も読み続け、そして翻訳までしてきた私でさえ、何かしら新しいものを読む感じがするから不思議である。同時に、一瞬ドキッとさせられる鋭い言葉が出てきて、襟を正させられることがある。つい先ごろ届いたオーツセンからの手紙によると、いま五冊目を手がけているとのことである。一冊でも多く出してくれることを、日本のシルバーバーチファンを代表してお願いしておいた。

さて、ご存知の方も多いことであろうが、私は本書の前に、コナン・ドイルの『妖精物語』を出している。これは俗に“コッティングレー事件”と呼ばれている衝撃的な妖精写真を扱ったものであるが、これが注目を集めたのが一九一七年から三年間ほどのことで、ドイルがその経緯をまとめて出版したのが一九二二年であるから、時期的にはシルバーバーチが出現しはじめた頃と、ほぼ一致する。

と言って、その二つの現象の間に直接のつながりはないであろう。意義の重大性の点でも、かなりの開きがあるであろう。が、一八四八年の米国における“ハイズビル事件”に始まる、地球の霊的浄化活動――これをスピリチュアリズムと呼ぶ――の気運に乗った、計画的なものであることは間違いないと私は見ている。

こうした気運は、今日、当時よりさらに勢いを増して世界的規模で広がりつつある。心霊治療家や、霊言・自動書記等のいわゆる霊界通信の輩出がそれを物語っている。私がこの道に関心を抱きはじめた昭和三十年頃は、霊的なことを口にするのも憚(はばか)られたものであるが、それを思うと、大きな時代の流れを痛感する。

しかし同時にそうなったらそうなったで、また別の問題が生じている。いかがわしい霊媒・霊能者、そして、いかがわしい霊界通信の氾らんである。ほんものが出ると必ずまがいものが出るのは世の常であるから、これもやむを得ないことかも知れないが、私が今もっとも懸念しているのは、テレビジョンという素晴しい発明品も、テレビ局のスタッフの良識いかんによっては、社会に害毒をもたらすような内容の情報やドラマが、無差別に茶の間に持ち込まれることがあるように、言論・出版の自由をよいことに、“売れる”ことのみを当てこんで、理性的に考えればあろうはずもないような霊言や自動書記通信が、無節操に出版されはじめていることである。

危険性の伴う機械には何段階もの安全装置が取り付けられているように、社会の仕組みにもチェック機能があってしかるべきであろう。出版にかぎって言えば、その第一のチェックは出版社に求められるべきであろう。さらには、それを売りさばく書店にもその機能の一端を果たしてもらいたいところである。買う人がいるから売る、といった態度では、倫理・道徳は地に落ちてしまう。もっとも、現在の出版界全体の事情のもとでは、あまり高度な理解を求めるのは無理なのかも知れない。

結局、最後で最大のチェック機能をもつのは“自分自身”ということになる。レッテルやタイトルは何とでもつけられる。中身も、それらしいことを書けば格好はつく。霊言と銘うっているものを、まるで駄菓子でもつまむような調子で読みあさるのが趣味という人は、それはそれでよいが、真実のものを求めているつもりの人のために、次の二つのシルバーバーチの言葉を再び引用しておきたい。

「“光”を差し出されても、結構です、私は“闇”で結構です、というのであれば、それによって傷ついても、それはその人の責任です」

「その(神の)働きの邪魔だてをしているのは、ほかならぬ自分自身なのです。自分の無知の暗闇を追い出し、正しい知識の陽光の中で生きなさい」

短いが、深遠な意味を含んだ言葉である。

平成元年五月