シルバーバーチは語る
A.W.オースティン(編) 近藤 千雄(訳)
平成12年9月1日発行

希有の霊界通信、シルバーバーチの霊訓シリーズの一つ。その内容の深さ広さは人類が手にした最高の真理と言えます。

中でも本書は最も分量が多く、テーマが多岐にわたり(23章)、シルバーバーチの思想の全体を知るのにふさわしいものです。まさにシルバーバーチの入門書と言うべき一冊です。

目 次
巻頭言
編集者ノート
序文 ハンネン・スワッファー
第1章 シルバーバーチの使命
第2章 交霊会の目的
第3章 地球浄化の大事業
第4章 明日の世界
第5章 絶対的摂理の存在
第6章 ヒーリングの問題
第7章 神とは何か
第8章 祈りの効用
第9章 キリスト教のどこが間違っているのか
第10章 人工的教義と霊的真理
第11章 進化の土壌としての地上生活
第12章 死後の世界
第13章 霊界通信の難しさ
第14章 交霊会の舞台裏
第15章 交霊会についての誤解
第16章 睡眠中は何をしているのか
第17章 スピリチュアリズムの第一線で働く人々への励ましのメッセージ
第18章 霊界側から見た戦争
第19章 再生(生まれ変わり)
第20章 青年牧師との論争
第21章 霊界でも祝うクリスマスとイースター
第22章 シルバーバーチ、子供と語る
第23章 さまざまな疑問に答える
シルバーバーチの祈り

巻頭言
本書は霊の世界の祝福を受けて物質の世界へ届けられるものです。願わくば今本書を手にされたあなたが、これを読まれることによって心の目を開き、魂に感動を覚えられんことを祈ります。生命の物的諸相の背後にある、より高い、より深い、より尊い、そしてより雄大な側面に気づくまでは、その人は暗い霧の中で生きていることになるのです。
シルバーバーチ

編集者ノート
ここに集められたシルバーバーチの教えは――シルバーバーチ自身はこれは自分の教えではなく、自分の所属界よりさらに高い界層から送られたものを自分が中継しているに過ぎないと言うのだが――全てを知り尽くした存在による、絶対に誤ることのない言葉として披露するものではない。

そもそも霊的交信なるものの目的は人間の批判的能力を殺(そ)いで盲目的に受け入れることではない。また、新しい宗教をこしらえたいという願望から行うものでもない。霊的啓示というのは固定されたものではなく、常に進歩的で、受け入れる人間の側の能力一つに掛かっているからである。

さて、シルバーバーチは常に人間の理性に訴えることを主義としている。従ってもしもその言説の中に読者の理性が納得しかねるものがあれば遠慮なく拒否するか、さらなる証明が得られるまで留保すればよい。

読者の便宜を考慮して私は、各章に掲げたテーマに関して、数多くの交霊会での霊言から適切なものを拾って編纂した。と言うことは、各章が一つの交霊会(の速記録)をそっくり文章におこしたわけではなく、三十回ないし四十回の交霊会でのシルバーバーチの霊言からの抜粋で構成されていることを承知されたい。

当然その構成に当たっては思想の流れに一貫性をもたせることに意を用いたが、さらに読み易さを考慮して文字を通常のローマン体と肉太のボールド体と斜体のイタリック体の三種類に使い分けた。
一九三八年三月 A・W・オーツセン

序文 ハンネン・スワッファー
われわれがシルバーバーチと呼んでいる霊は実はレッド・インディアンではない。いったい誰なのか、今もって分からない。分かっているのは、その霊は大変な高級界に所属していて、その次元からは直接地上界と接触できないために、かつて地上でレッド・インディアンだった霊の霊的身体を中継してわれわれに語りかけている、ということだけである。

いずれにせよ、その霊が“ハンネン・スワッファー・ホームサークル”と呼称している交霊会の指導霊である。その霊が最近こんなことを言った。

「いつの日か私の(地上時代の)本名を明かす日も来ることでしょうが、私は仰々しい名前などを使用せずに地上の皆さんの愛と献身とを獲得し、私の説く中身の真実性によって確かに神の使徒であることを立証すべく、こうしてインディアンに身をやつさねばならなかったのです。それが神の御心なのです」

もっとも、一度だけ、シルバーバーチがその本名をもう少しで口にしそうになったことがあった。第1章の冒頭に出ている、自分が使命を仰せつかってそれを承知するに至る場面でのことだった。

ところで、私とシルバーバーチとの出会いは、一九二四年にスピリチュアリズムの真実性を確信して間もない頃のことだった。以来私は、毎週一回一時間あまりシルバーバーチの教えに耳を傾け、助言をいただき、いつしかその霊を地上のいかなる人物よりも敬愛するようになった。

シルバーバーチの地上への最初の働きかけは普通より少し変わっていた。スピリチュアリズムを勉強中の十八歳の無神論者が、ある日ロンドンの貧民街で行われていた交霊会にひやかし半分の気持で出席した。そして霊媒が次々といろんな言語でしゃべるのを聞いて、思わず吹き出してしまった。ところがその中の一人の霊が「そのうちあなたも同じようなことをするようになりますよ」と諌(いさ)めるように言った。

その日はバカバカしいという気持で帰ったが、翌週、再び同じ交霊会に出席したら、途中でうっかり居眠りをしてしまった。目覚めると慌てて非礼を詫びたが、すぐ隣に座っていた人が「今あなたは入神しておられたのですよ」と言ってから、こう続けた。

「入神中にあなたの指導霊が名前を名乗ってから、今日までずっとあなたを指導してきて、間もなくスピリチュアリストの集会で講演するようになると言っておられましたよ」

これを聞いてその青年はまた笑い飛ばしたが、それがその後間もなく現実となってしまった。

当初シルバーバーチは多くを語ることができず、それもひどいアクセントの英語だった。それが年をへるにつれて、語る回数が増えたことも手伝って、英語が飛躍的に上達し、今日ではその素朴で流麗な英語は、私がこれまで聞いたいかなる演説家もその右に出る者はいないほどである。

ところで、霊媒のバーバネルが本当に入神していることをどうやって確認するのか、という質問をよく受けるが、実はシルバーバーチがわれわれ列席者に、霊媒の手にピンを刺してみるように言ったことが一度ならずあった。恐る恐るそっと刺すと、思い切って深く刺しなさいと言う。すると当然、血が流れ出る。が、入神から覚めたバーバネルに聞いても全く記憶がないし、その傷跡も見当たらなかった。

もう一つよく受ける質問は霊媒の潜在意識の仕業でないことをどうやって見分けるのかということであるが、実はシルバーバーチとバーバネルとの間には思想的に完全に対立するものが幾つかあることが、そのよい証拠と言えよう。例えばシルバーバーチは再生説を説くが、バーバネルは通常意識の時は再生は絶対にないと主張する。そのくせ入神すると再生説を説く。

些細なことだが、もう一つの興味深い事実を紹介すると、シルバーバーチの霊言が《サイキック・ニューズ》紙に掲載されることになって速記録が取られることになるまでのことであるが、バーバネルがベッドに入ると、その日の交霊会で自分が入神中にしゃべったことが霊耳に聞こえてくるのだった。

これには訳がある。バーバネルはもともと入神霊媒となるのが嫌だったのであるが、自分がしゃべったことを後で聞かせてくれるのならという条件をシルバーバーチとの間で取りつけていたのである。速記録が取られるようになると、それきりそういう現象は止まった。

翌日その速記録が記事となったのを読んでバーバネルは、毎度のごとくその文章の美しさに驚く――自分の口から出た言葉なのに。

シルバーバーチは教えを説くことに専念しており、病気治療などは行わない。また心霊研究家が求めるような、証拠を意図したメッセージも滅多に持ち出さない。誠に申し訳ないが自分の使命は霊的教訓を説くことに限られているので、と言ってわれわれ人間側の要求の全てに応じられない理由を説明する。

最近私は各界の著名人を交霊会に招待している。牧師、ジャーナリスト、その他あらゆる分野から招いているが、シルバーバーチという人物にケチをつける者は一人としていない。その中の一人で若い牧師を招いた時、私は前もって「あなたの考えうる限りの難解な質問を用意していらっしゃい」と言っておいた。その牧師は日頃仲間の牧師からさんざん悪口を聞かされている“交霊会”というものに出席するというので、この機会に思い切ってその“霊”とやらをやり込めてやろうと意気込んで来たらしいが、シルバーバーチが例によって“摂理”というものを易しい言葉で説明すると、若者はそれきり黙り込んでしまった。難解きわまる神学がいとも簡単に解きほぐされてしまったからである。

さて、そのシルバーバーチを支配霊とする私のホームサークルは毎週金曜日の夜に開かれる。その霊言は定期的に《サイキック・ニューズ》紙に掲載される。その版権が私のホームサークルに所属するのは、サークルとしての私用を目的としてのことではなく、これを世界中に広めるためである。今ではシルバーバーチは地上のいかなる説教者よりも多くのファンをもつに至っている。あらゆる国、あらゆる民族、あらゆる肌色の人種の人々に敬愛されている。

しかし実を言うと、いったん活字になってしまうと、シルバーバーチの言葉も、その崇高さ、その温かさ、その威厳に満ちた雰囲気の片鱗しか伝えることが出来ない。交霊会の出席者は思わず感涙にむせぶことすらあるのである。シルバーバーチがどんなに謙虚にしゃべっても、高貴にして偉大なる霊の前にいることをひしひしと感じる。決して人を諌めない。そして絶対に人の悪口を言わない。

キリスト教では“ナザレのイエス”なる人物についてよく語るが、実は本当のことはほとんど知らずに語っているし、そもそもイエスという人物が実在した証拠は何一つ持ち合わせていないのである。

そのイエスをシルバーバーチは、彼が連絡を取り合っている霊団の中でも最高の霊格を持つ存在と位置づけている。長年にわたってシルバーバーチと親しく交わってきて、私はその誠実な人柄に全幅の信頼を置いているので、われわれはシルバーバーチの言う通り、新約聖書の主役であるイエス・キリストは地上で開始した霊的革新の使命に今なお携わっていると確信している。

そう信じて初めて(マタイ伝の最後に出ている)「見よ! 私はこの世の終わりまで常にあなたたちと共にいる」というイエスの言葉の真実の意味が理解できる。今の教会ではこの説明は出来ない。

これから紹介するシルバーバーチの教えを読まれるに当たってあらかじめ知っておいていただきたいのは、その全てが真っ暗闇の中で語られ、それがベテランの(盲人用の)点字速記者によって書き留められたという事実である。

元来じっくり語りかけるシルバーバーチも時には早口になることもあり、そんな時は付いて行くのは大変だったろうと察せられるが、あとで一語たりとも訂正する必要はなかった。もとよりそれはシルバーバーチの英語が完ぺきだったことにもよるであろう。が、通常の英語に直した時に要求される作業は句読点を書き込むだけで、しかもその位置はいつも、極めて自然に決まるような文章の流れになっていたというから驚きである。

シルバーバーチの哲学の基本的概念は、いわゆる汎神論である。すなわち神は大自然そのものに内在し、不変の法則として全てを支配している。要するに神とはその法則(摂理)なのである。それをシルバーバーチは「あなた方は大霊の中に存在し、また大霊はあなた方の中に存在します」と表現する。と言うことは、われわれ人間も潜在的にはミニチュアの神であり、絶対的創造原理の一部としての不可欠の存在を有しているということになる。

もっともシルバーバーチは理屈をこね回すだけの議論には耳を貸さない。人間は何らかの仕事をするためにこの地上へ来ているのだということを繰り返し説き、宗教とは「人のために自分を役立てること」と単純明快に定義する。そして、お粗末とは言えわれわれは、今この地上にあって、戦争に終止符をうち、飢餓を食い止め、神の恩寵が世界中にふんだんに行きわたる時代を招来するための、霊の道具であることを力説する。

「われわれが忠誠を捧げるのは一つの教義でもなく、一冊の書物でもなく、一個の教会でもなく、生命の大霊とその永遠不変の摂理です」――これがシルバーバーチの終始一貫して変わらぬ基本姿勢である。

それはサークルのメンバーの構成からも窺われる。当初のサークルは六人で構成されていたが、その中には三人のユダヤ人がいた。スピリチュアリズムでは民族の違いも宗教の違いにも頓着しないことの表れである。残りの三人も懐疑論者で、うち一人はメソジストの牧師だった人物で、スピリチュアリズムの真理を知ってメソジストの教義が信じられなくなり、サークルのメンバーになる前に脱会している。

シルバーバーチは、気分転換の意図もあってか、時おり自分以外の人物にも語らせている。《デイリー・メール》の創刊者ノースクリッフ、英国の小説家ゴールズワージー、同じく英国の小説家ホール・ケイン、政治家だったギルバート・パーカー、米国のジャーナリストだったホーラス・グリーリー、英国の聖職者ディック・シェパード、かの有名な大統領リンカーン、その他、サークルのメンバーの親しい知人などが声で出現している。

長年のメンバーである私は、シルバーバーチが前回での約束を忘れたという事実をついぞ知らない。そして、大切な真理を平易にそして人生に役立つ形で説くという本来の使命から一瞬たりとも逸脱したことがない。

第1章 シルバーバーチの使命
〔高級霊団から使命を仰せつかったシルバーバーチが地上圏での活動の準備と開始に至るまでの経緯について語る〕

ずいぶん前の話になりますが、他の多くの指導霊と同じように私も、地上圏に降りて協力者の一団を集め、霊的メッセージを地上界へ届ける仕事を引き受けてくれないかとの懇請を受けた時、私はそれを使命としてお引き受けしました。

そのためにはメッセージを受け取ってくれる霊媒を探し出す必要があることも知らされました。そこで私は霊界の記録簿を調べ、この霊媒に白羽の矢を立てました。

それはこの霊媒がまだ母胎に宿る前の話です。私はその母胎に宿る一瞬を注意深く待ち、いよいよ宿って自我を発現し始めた瞬間――と言っても、まだほのかな明り程度のものに過ぎませんでしたが――から私なりの影響力を行使し、今日まで続いている一体関係がその時から始まったのです。

私はこの人間の霊とその小さな精神の形成に関与しました。誕生後も日常生活のあらゆる側面を細かく観察し、互いの一体関係を促進し、物の考え方や身体上の癖を呑み込むように努めました。つまり私はこの霊媒を霊と精神と肉体の三面から徹底的に研究したわけです。

次に私がしなければならなかったことは、この霊媒を霊的真理の理解へ向けて指導することでした。まず地上の宗教を数多く勉強させました。そして最終的には彼はそのいずれにも反発を覚えて、いわゆる無神論者になってしまいました。が、それはそれなりに当人の精神的開発にとって意味があったのです。これで霊言霊媒となるべき一通りの準備が整いました。

ある日私は、周到な準備のもとに初めて彼を交霊会へ出席させ、彼の口を使って私の意思を発言してみました。いかにもぎこちなく、内容もつまらないものでしたが、私にとっては実に意義深い体験だったのです。

その後は回を追うごとにコントロールがうまくなり、今ご覧の通りにまでなりました。今ではこの霊媒の潜在意識に邪魔されることなく、私の考えを百パーセント伝えることが出来ます。

さて、先ほど申した通り私はさる筋から使命を仰せつかったのですが、その時こう言われたのです。

「そのためには、あなたは物質界まで波動を下げなければならないし、また、適当な道具を見出してから、その霊媒と霊的に親近性のある人間を数名見出して、その霊媒を通してあなたがメッセージを語る場を用意しなくてはなりません」と。それがあなた方です。私がここへ陰からお誘いしたのです。

しかし、私が遭遇した困難の中で最大のものは、人間を納得させるような証拠――もちろん物的証拠であって霊的な証明ではありません。地上の人間はまだ霊的な証明ができる段階に達しておりません――を提供するか、それともその霊的証明を理解させるための教えを説く、つまり霊的真理を説くか、この二つのどちらにするかということでしたが、私はあえて困難な方の後者を選びました。

私はその使命をお引き受けした時にこう言いました――これまでの長い霊界生活における多種多様な体験を携えて地上圏へ戻り、慈しみの心で人間に接してみます。まず何よりも理性に訴えたい。言うなれば大人の魂、つまり高い霊性と教養を身につけた人物に訴えてみたい。霊界からのメッセージをできるだけ単純明快な形で説き明かすべく努力します、と。

またこうも述べました――人間の理性が反発を覚えるようなことは絶対に述べないことにしたい。慈しみの心で接し、怒りをもって諌めることだけは絶対にすまい。自ら公言している通り自分が確かに大霊の使者であることを、教訓と模範を垂れることによって証明したい、と。

さらに私は、地上時代の姓名を絶対に明かさないという重荷を自ら背負いました。仰々しい名前や称号や地位、名声は持ち出すまい。私が述べることと態度で私という存在を判断してもらいたいと思ったのです。

実は前回の会合でその先輩の霊たちとお会いしたのですが、その席上で私はお褒めの言葉をいただき、使命が順調に進捗していることを聞かされました。その言葉に私は思わず感激の涙を流しました。しかし、使命が終わったわけではありません。まだまだ為さねばならないことがあります。

他の霊団――私の霊団と同じ仕事に携わっているのですが――による尽力もあって、あなた方の物質界にはかつてよりもより多くの光明が射し、より多くの幸せが生まれ、悲しみが減り、涙が流されることが少なくなりました。死についての無知がわずかながら克服されたことを意味します。

また、多くの魂を鼓舞して、日常生活で高度な自我を自覚させました。正義と真理についての目を曇らせてきた過去の多くの誤った概念を駆逐しました。長年にわたって地上界を毒し続け、愚行によって理性を辱(はずかし)めてきた教義と独断の牢獄から多くの人々を解き放してあげました。

私たちは、特定の者のみを可愛がり、憤怒に燃えて報復したり、疫病をまき散らしたりする神に代わって、慈しみと叡智の始源としての大霊の概念を説くことに努め、そしてそれはある程度まで成功しました。またナザレのイエスを(唯一の神の子としてではなく)偉大なる人間の模範として崇めるべきであると説いてきました。そうした私たちの教えの基本となっている根拠を理解してくださる人も多くなりました。

確かに大きな成果を上げることが出来ましたが、これから為さねばならない、もっと大切な仕事があります。人間は今もって、やらなくてもよい戦をやりたがります。私たちが説く真理を理解し実生活に生かせば、殺し合うなどということは、いの一番に止めるはずです。

飢餓もあります。大霊は十分な恵みを与えてくださっています。なのに、新鮮な空気も太陽の光も入らない粗末なあばら家で生きるか死ぬかの生活を余儀なくされている人がいます。不足と悲嘆と苦痛が多すぎます。

廃絶すべき迷信がまだまだ数多く存在します。心を痛めている人が多すぎます。根絶すべき病気があります。私たちの仕事はまだまだ終わっていません。

私たちはこれまでの成果を喜ぶと同時に、あなた方サークルの協力を得て、さらに多くのサービスが成し遂げられるための力を授かりたいと祈っております。

私はこの地上へ私を派遣した霊団の代弁者(マウスピース)に過ぎず、私という一個の存在としての栄誉とか報賞を求める気持はみじんもありません。誇大に宣伝したり地上時代の偉そうな人物名を名乗ったりする趣味も持ち合わせません。私はただこれまで申し上げたような霊的真理、長い間忘れ去られていた真理に改めて“神の真理”のシールを張って、こうして地上界へお届けするための道具であることに喜びを感じているのです。

私の役目は、私が所属する霊団からのメッセージをお届けすることです。手塩にかけて養成したこの霊媒と私自身の霊力の力量の範囲で受け取ったものを忠実に伝達する努力を続けてまいりました。私はただお役に立てばそれでよいのです。もしも私がお伝えするささやかな教えが、人生の嵐の中にあるたった一個の魂の一服の憩いとなり、疑念の嵐をくぐり抜けてきたあとの確信の港となれば、あるいは又、こうした一見なんでもなさそうな素朴な霊的真理の聖域の中に幸せを見出し、生き甲斐を覚えさせてあげることになれば、父なる大霊から仰せつかった使命のいくばくかを成就したことになりましょう。

第2章 交霊会の目的
〔それにしても一体、シルバーバーチのような高級霊がわざわざ地球圏へ戻ってきて人類を啓発しようとする、その理由は何なのか。それについてはシルバーバーチは単純明快に、それは現在の地上人類にとって最も欠けているもの、裏返せば最も必要としているものは霊的真理についての正しい理解だからだという。では、交霊会の本来の目的についてシルバーバーチの説明を聞いてみよう〕

私は、他の同僚と同じように、さる筋から物質圏での仕事の要請を受けました。その仕事というのは、自分たちの住む地球もろとも破滅へ追いやることばかりをしている人類を救済することでした。

それをお引き受けした私は、以来ずっと皆さんとともに仕事をし、今なおこうして努力しているところですが、その目的とするところは、人間は地上を去っても同じ大霊の懐の中にあって、より高い波動の界層において、より生き甲斐のある生活を営むことになることを人間の得心の行く形で証明し、究極的には今地上で生活している人々すべてが、居ながらにして大霊の一部であることを理解していただくことです。

もっとも、そうした目的で私たちが奮闘している一方には、肝心のこうした教訓よりも枝葉末節のどうでもよいことを詮索することに関心を向ける人が少なくありません。例えばシルバーバーチを名乗っているこの私が一体何者なのか、どの民族に属していたのかといったことです。同じメッセージが地上人類の「白人」と呼ばれている人種から届けられようと「黒人」と呼ばれている人種から届けられようと、黄色人種から届けられようとレッド・インディアンから届けられようと、そんなことはどうでもよいことではないでしょうか。大霊の摂理を届ける者がかつて高い学歴を持っていた人間であろうとなかろうと、要は摂理でありさえすれば、つまり正しい真理であれば、それはどうでもよいことではないでしょうか。

旧約聖書に「狼は仔羊とともに住み、豹は仔山羊のそばに横たわり、仔牛と小獅子が仲良く食み、幼な子がそれらを導く」(イザヤ書十一)とあります。賢(さか)しらぶった人間の愚かな知恵を棄てて幼な子のごとき無邪気さに立ち戻るまでは、この地上にあっても、あるいは私たちの世界へ来ても、大した向上進化は得られません。地上の人間は大霊が授けた太陽と同じ七色の肌に上下の差をつけたがります。肌色だけを見て、霊性においては一つであることを知らずにいます。

人間はなぜ戦争をするのでしょうか。それについてあなた方はどう思いますか。なぜ悲劇を繰り返すのか、その原因は何だと思いますか。なぜ人間の世界に悲しみが絶えないのでしょうか。

その最大の原因は、人間が物質によって霊眼が曇らされ、五感という限られた感覚でしか物事を見ることが出来ないために、万物の背後に絶対的統一原理である大霊が宿っていることが理解できないからです。宇宙全体を唯一絶対の大霊が支配しているということです。ところが人間は何かにつけて“差別”をつけようとします。そこから混乱が生じ、不幸が生まれ、そして破壊へと向かうのです。

前にも申した通り私たちは、あなた方が“野蛮人”と呼んでいるインディアンですが、あなた方文明人が忘れてしまった大霊の摂理を説くために戻ってまいりました。あなた方文明人は物質界にしか通用しない組織の上に人生を築こうと努力してきました。言い変えれば、大霊の摂理から遠くはずれた文明を築かんがために教育し、修養し、努力してきたということです。

人間世界が堕落してしまったのはそのためなのです。古い時代の文明が破滅してしまったように、現代の物質文明は完全に破滅状態に陥っています。その瓦礫を一つ一つ拾い上げて、束の間の繁栄でなく、永遠の霊的摂理の上に今一度築き直す、そのお手伝いをするために私たちは戻ってきたのです。それは私たち霊界の者と同じく物質に包まれた人間にも、大霊の愛という同じ血が流れているからにほかなりません。

こう言うと、中にはこんなことをおっしゃる人がいるかも知れません。「いや、それは大きなお世話だ。われわれ白人は有色人種の手を借りてまで世の中を良くしようとは思わない。白人は白人の手で何とかしよう。有色人種の手を借りるくらいなら、不幸のままでいる方がまだマシだ」と。

しかし、何とおっしゃろうと、霊界と地上界とは互いにもたれ合って進歩して行くものなのです。地上の文明を見ていると霊界の者にも為になることが多々あります。私どもは霊界で学んだことをあなた方にお教えしようと努め、同時にあなた方の考えから成る程と思うことを吸収しようと努めます。その相互扶助の関係の中にこそ地上天国への道が見出されるのです。

そのうち地上のすべての人種が差別なく混じり合う日が来るでしょう。どの人種にもそれなりの使命があるからです。それぞれに貢献すべき役割があるからです。霊眼をもって見れば、すべての人種がそれぞれの長所と、独自の文化と、独自の体系的知識を持ち寄って調和の取れた生活を送るようになる日が、次第に近づきつつあるのが分かります。

ここに集まったあなた方と私、そして私に協力してくれている霊たちはみな、大霊の御心を地上に実現させるために遣わされた“使徒”なのです。私たちはよく誤解されます。同志と思っていた者がいつしか敵にまわることがしばしばあります。しかし、だからといって仕事の手をゆるめるわけには行きません。大霊の目から見ていちばん正しいことを行っているが故に、地上に存在しないエネルギーの全てを結集して、その遂行に当たります。徐々にではあっても必ずや善が悪を滅ぼし、正義が不正を駆逐し、真が偽を暴いていきます。時には物質界の力にわれわれ霊界の力が圧倒され後じさりさせられることがあります。しかし、それも一時のことです。

われわれはきっと目的を成就します。自ら犯した過ちから人類を救い出し、もっと高尚で、もっと気の利いた生き方を教えてあげたい、お互いがお互いのために生きられるようにしてあげたい、そうすることによって魂と霊と精神を豊かにし、この世的な平和や幸福ではなく、霊的に高尚で価値あるものを得させてあげたい、そう願っているのです。

それは大変な仕事ではあります。が、あなた方と私たちを結びつけ一致団結させている絆は神聖なるものです。どうか、父なる大霊の力が一歩でも地上の子等に近づけるように、ともに手を取り合って、大霊の摂理の普及を阻もうとする勢力を駆逐して行こうではありませんか。

こうして語っている私のささやかな言葉が少しでもあなた方にとって役に立つものであれば、その言葉は当然、それを知らずにいるあなた方以外の人々にも、私がこうして語っているように語り継がれて行くべきです。自分が手にした真理を次の人へ伝えてあげる――それが真理を知った者の義務です。それが摂理なのだと私は理解しております。

私とて、霊界生活で知り得た範囲の摂理を英語という言語で語り伝えているに過ぎません。それを耳にし、あるいは目にされた方の全てが私の解釈の仕方に得心が行くとは限らないでしょう。しかし忘れないで下さい。私はあなた方とはまったく次元の異なる世界の人間です。英語という言語には限界があり、この霊媒にも限界があります。ですから、もしも私の語った言葉が十分に納得できない時は、それは、あなたがまだその真理を理解する段階に至っていないか、それともその真理が地上の言語で表現しうる限界を超えた要素を持っているために、私の表現の仕方が十分にその意味を伝え切っていないかの、いずれかでしょう。

しかし、私はいつでも真理を説く用意ができております。地上の人間がその本来の姿で生きて行くには、大霊の摂理、霊的真理を理解する以外にないからです。盲目でいるよりは見える方がいいはずです。聞こえないよりは聞こえた方がいいはずです。居眠りをしているよりは目覚めているほうがいいはずです。皆さんとともに、そういった居眠りをしている魂を目覚めさせ、大霊の摂理に耳を傾けさせてあげるべく努力しようではありませんか。それが大霊と一体となった生き方への唯一絶対の道だからです。

そうした生き方ができれば身も心も安らぎを覚えることでしょう。大宇宙のリズムと一体となり、不和も対立も消えてしまうでしょう。それを境に、それまでとは全く違った、新しい生活が始まります。

知識は全て大切です。これだけ知っていれば十分だ、などと思ってはいけません。私の方では知っていることを全部お教えしようと努力しているのですから、あなた方は吸収できる限り吸収するよう努めていただきたい。こんなことを申し上げるのは決して私があなた方より偉いと思っているからではありません。知識の豊富さを自慢したいからでもありません。自分の知り得たことを他の人々に授けてあげることこそ、私にとっての奉仕の道だと心得ているからにほかなりません。

知識にも一つ一つ段階があります。その知識の階段を一つ一つ昇って行くのが進歩ということですから、もうこの辺でよかろう、と階段のどこかで腰を下ろしてしまってはいけません。人生を本当に理解する、つまり悟るためには、その一つ一つを理解し吸収して行くほかに道はありません。

このことは物質的なことに限りません。霊的なことについても同じことが言えます。と言うのは、あなた方は身体は物質界にあっても、実質的には常に霊的世界で生活しているのです。従って物的援助と同時に霊的援助、すなわち霊的知識も欠かすことが出来ないのです。ここのところをよく認識してください。あなた方も実質的には霊的世界に生きている――物質はホンの束の間の映像に過ぎない――これが私たちからのメッセージの根幹をなすものです。

そのことにいち早く気づかれた方がその真理に忠実な生活を送ってくだされば、私たちの仕事も一層やり易くなります。霊界からのメッセージに耳を傾け、心霊現象の中に霊的真理の一端を見出した人々が小さな我欲を棄て、高尚な大義のために我を犠牲にしてくだされば、なお一層大きな成果を挙げることが出来ましょう。

人間の一人一人が尊い存在であることは言うまでもありませんが、その個人を通して授けられる知識やサービスは無限です。これまで私たちが成し遂げてきたものは、これから成就可能なことに比べれば、ホンのささやかなものでしかありません。大霊の働きに“限界”というものはありません。地上界へ届けられる叡智にも、インスピレーションにも、霊的真理にも、限りがないのです。地上界を満たすべく用意されている強烈な霊力にも制限というものがありません。あとはそれを届ける通路としての、良質の道具が用意されさえすればよいのです。

第3章 地球浄化の大事業
〔本章でもこうした交霊会を通してその霊界通信の背後にもくろまれている世界的規模の計画について語る〕

私たちが携わっている仕事には確固たる目的があります。意図があります。宇宙に絶対不変の摂理が存在することを証明するだけではありません。地上の人間に慰めを与え、霊的知識を広めるという目的もあるのです。物理的法則だけでなく霊的法則も存在することを証明してあげることも私たちの仕事の一環です。

その仕事の前途に立ちはだかるのは、誤った宗教的教義によって築かれた巨大な組織です。何世紀にもわたって続いてきたものを元に戻さなくてはなりません。誤った教義を土台として築かれた上部構造を取り壊さなくてはならないのです。

私たちは物質の世界の子等がいかにすれば伸び伸びと生きることが出来るか、いかにすれば霊的真理の光に浴することが出来るか、いかにすれば人間的産物である教義への隷属状態から脱け出せるかをお教えしようとしているところです。もとよりそれは容易な仕事ではありません。なぜなら、いったん宗教的束縛を受けるようになると、その迷信の厚い壁を真理の光が突き抜けるには、永い永い時間を要するからです。

その霊的真理の宗教的意義を披露することこそ私たちの努力目標です。地上人類がその霊的な重要性を認識すれば、戦争や流血による革命よりも遥かに大きな革命が生じるからです。魂の革命とも呼ぶべきものです。地上の全ての人間が魂としての本来の権利――霊的存在としての自由を享受する権利を我がものとすることになりましょう。その時は、何世紀にもわたって魂の足枷となってきたものが全て取り払われることでしょう。

私たちが忠誠を尽くすのは一つの教義でもなく、一冊の書物でもなく、生命の大霊とその永遠不滅の摂理です。

いずれ、強大な霊力が物質界へと流入します。地上のあらゆる国においてその威力が感じ取られるようになります。利己主義と無知の勢力を迎え撃つという仕事は、並大抵の力では成就できないからです。いつかは必ず克服します。しかし、その途中の段階では大きな産みの痛みは避けられません。

あなた方の味方として大変な数の霊が差し向けられております。その中にはあなた方のよく知っている人々もいます。血縁でつながっている人もいれば、あなた方への愛の念から馳せ参じている人もいます。しかしそれがどういう人であるかについて、あなた方があの人この人と想像なさるのも結構ですが、それ以外にあなた方とは何の縁もゆかりもない人々で、自分の存在を知ってもらいたいとも功績を認めてもらいたいとも思わず、ただひたすら自分を役立てたいというサービスの精神から参加している人が無数にいることを忘れないでください。

地上世界はサウロがダマスカスへ向かう途中で体験したような、目の眩むような閃光で一気に改革されるものではありません。大霊の霊力の道具が増え、そのチャンネルを通して届けられる霊的真理に目覚める人の数が増すにつれて、少しずつ霊的な光明が地上界に行きわたるのです。

霊に係わることは慎重な配慮による養成と進歩を要します。急激な変心は永続きしません。私たちの仕事は永続性を目指しているのです。一人また一人と、暗闇から光明へ、無知から知識へ、迷信から真理へと這い出るごとに地上界が進歩するのです。その一人ひとりが物質第一主義の棺に打ち込む一本のクギなのです。

発達にも二種類あることを知らないといけません。精神に係わるものと霊に係わるものです。前者は心霊的能力の発達にすぎませんが、後者は魂の成長そのものです。心霊能力が発揮されても魂の成長が伴わなければ、低いバイブレーションの仕事しかできません。両者がうまく組み合わさった時は、優れた霊能者であると同時に、偉大な人格をそなえた人物となります。

人間を真の意味で自由にし、大霊から授かった資質を有り難く思わせてくれるメッセージ、あらゆる拘束物や束縛を振り棄てる方法を教えてくれるメッセージ、霊的知識を十分に満喫させてくれるメッセージ、物質界だけでなく死後の世界にも通用する生き方を教えてくれるメッセージ、美と愛と叡智と理解力と真実と幸せをもたらしてくれるメッセージ、そして人のためというサービスの精神を説くメッセージ――私たちは、こうした、形容する用語を超越した素晴らしいメッセージを、地上という物質界へお届けしているところです。

なのに私たちは、大霊の啓示が理解できない人たちによる拒絶に遭っております。彼らは、いつの時代にもそうであったように、霊というものの存在を否定します。

しかし、私たちの行っている仕事は今後もますます要請されてまいります。地上世界は流血と悲劇と苦悩にあふれております。無明ゆえに神の摂理にそった生き方をせずに暗黒と絶望へ向かう道を選択してしまいました。そこで私たちが希望と光明と安らぎと調和へ導く叡智をお教えしようとしているのです。それを地上の人間は無知から軽蔑しようとします。お届けするメッセージを拒絶します。霊力の働きかけを否定します。しかし、そうした態度にお構いなく、真理は地上へ広がって行くことは間違いありません。大霊を始源としているからです。

神の摂理に逆らった生き方をする人は自ら酷しい収穫を刈り取らねばなりません。摂理に素直にしたがって生きる人は、物的な面においても霊的な面においても、幸せと豊かさを手にすることになります。

地上界に蔓延している暗黒の中にあっても決して希望を失うことなく、人類の高揚のためにあなた方とともに働いている霊たち、物質界を少しでも良くしようと心を砕いている霊たちは必ずやその闇を駆逐してくれるとの信念に燃えてください。それは宇宙でも最強の力だからです。

しょせん価値あるものは苦難と悲哀なくしては成就できないのです。教訓にはそれなりの入手方法というものがあることを知らないといけません。私たちは物質界の全側面に突破口を開こうと努力しているところです。私たちのメッセージが各分野の人々の心を明るく照らし、霊の光が広がるにつれて唯物主義の暗黒が消散して行きます。

これまでに得たもので満足してはいけません。良い意味での“不満”は、さらなる進歩への欲求の表れであり、その不満がより大きな知識を呼び込むのです。手にしたものにあぐらをかく者は活力を失います。満足できない者がより大きな自由を求めて苦闘するのです。

「理屈を言ってはいけません。そう信じればよいのです」――私はそんなことは申しません。反対に「神が与えてくださったもの(知的思考力・理性)を存分にお使いになって私をお試しなさい。しっかり吟味なさってください。そしてもしも私の言うことに卑劣なこと、酷いこと、道徳に反することがあれば、どうぞ拒否なさってください」と申し上げます。

たった一個の魂を高揚してあげることができたら、喪の悲しみに沈んでいる一個の魂に慰めを与えることができたら、意気地のない一個の魂に生きる勇気を与えてあげることができたら、人生に疲れ切った一個の魂に生きる力を与えてあげることができたら、それだけで十分にやり甲斐のある仕事をしたことになるのではないでしょうか。

その一方には、私たちがお届けするメッセージに困惑する人、何らかの古い教義に縛られているために逃れようにも逃れられずに戸惑っている人、それでいて自由の呼び声が聞こえて必死にもがいている人が大勢いることも思い起こしてください。

私たちのメッセージはそういう人たちも念頭に置いているのです。それまでは考えも及ばなかった真理があることを知って、それが魂にとって大きな刺激となるのです。いかなる真理も次の真理への踏み石にすぎないのです。

私が今こうして語りかけている霊媒の口から皆さんの理性が反発を覚えるようなこと、大霊の愛の摂理と矛盾するようなこと、愚かしいこと、皆さんの知性を侮辱するようなことが聞かれるようになったら、その時は私の時代も終わり、お役ご免となる日が来たことになりましょう。

何度も申し上げてきたことですが、私自身としては魂が希求する最高の憧憬を挫かせるようなことは何一つ述べたことはないつもりです。私たち霊団の者が常にあなた方の内部の最高のものに訴えるように心掛けているからです。

地上の人間は自らの努力で自らを救済できるようにならなくてはいけません。既成の方法というものはありません。前もって用意されたシステムというものは存在しません。そのためにまず大切なことは、現象として顕現している森羅万象の背後に永遠の実在としての霊が存在していること、人間も物的身体に宿っているという点では物的存在であっても、その身体を通して自我を表現している霊的存在であることを理解することです。

そうなると、まずその身体にとって必須のものを大霊の意図している通りに存分に摂取して健康体にしておく必要があります。その上で今度は既成宗教のドグマや信条から精神を解放する必要があります。実質的な価値、つまり霊的価値のないものに忠誠を尽くすことなく、真実のためにのみ働き、これまで何千年もの長きにわたって地上人類を縛りつけてきた教条やドグマをめぐる戦争や論争や不和を止めにしなくてはいけません。

私たちは大霊を共通の父として、全人類が霊的に同胞であるその福音を説きます。その福音の理解を妨げるのがこの世的概念であり、誤りの上に建てられた教会であり、既得権力の横暴であり、暴君――裸の王様のような暴君の高慢と強権です。

私たちの教えが地上界に広まるということは民族間の離反の終わりを意味します。国家間のバリア(障壁)の消滅を意味します。民族の差別、階級の差別、肌色の区別、さらにはチャーチ、チャペル、テンプル、モスク、シナゴーグ等の区別もなくなります。何となれば、それぞれに大霊の真理を宿しており、他の宗教の真髄は自分の信じる宗教の大切なものといささかも矛盾しないことを悟るようになるからです。

そういう次第ですから、見た目には混乱しているかに見えても、そこから神の意図が具現化し、調和と平和が訪れます。こうしたことを申し上げるのは、あなた方にその壮大な意図の一部――そのために私たち霊界の者がこうして物質の世界へ戻ってきているのです――と、あなた方が今回の地上生活を終えるまでに果たすべき役割とを理解していただくためです。

私たちが説くことは、かつての改革者たち、聖者と呼ばれた人たち、預言者たち、あるいは理想主義者たちが、それぞれの時代に天啓を受けて説いた崇高な教えと完全に合致しております。魂の霊性が高かったゆえにその霊的な視力によって霊的実在を垣間見ることができ、その美しさ、その素晴らしさが逆境と葛藤の中にあって心の支えとなったのでした。

彼らには、いつの日か実現する神の意図が理解できていたのです。だからこそ物質界の子等を高揚すべく努力したのです。犠牲的精神で自分を役立てたということです。

彼らは、ほかならぬその物質界の子等から貶(けな)されることがありました。反抗にも遭いました。嘲笑の的にされることもありました。しかし彼らの成し遂げた仕事そのものは生き続けております。今世界各地で行われている無数の交霊会――この交霊会もその一つです――が、それに参加した人々は忘れ去られても、そこで届けられたメッセージは今後とも生き続けるように、今もなお生き続けております。強烈な霊力が再び物質界に放たれております。地上のいかなる力もその潮流をせき止めることは出来ません。

地上の人間は相変わらず流血によって問題が解決するかに考えているようですが、歴史をご覧になればお分かりのように、流血の手段で問題が解決した例しはありません。流血の行為はムダ以外の何ものでもなく、解決をもたらすことはありません。

人間はなぜ大霊が与えた理性を使わないのでしょうか。なぜ唯一の解決法ができるだけ多くの相手を殺すことだと考え、最も多くの敵を殺した者を英雄として讃えるのでしょうか。地上というところは不思議な世界です。

あなた方の世界は私たちの世界からのメッセージを必要としております。霊からのメッセージ、即ち霊的真理の理解が必要なのです。霊的摂理というものが存在すること、そして自分自身の内部と外部とから導きがあり、困難に遭遇した時に慰安と導きと援助をどこから求めるべきかを知る必要があります。

私たちは私自身への見返りを何一つ求めておりません。何かの恵みが欲しくてこの仕事に携わっているわけではありません。皆さんのお役に立ちたい――具体的に言えば、人類が忘れてしまっている霊的摂理を改めて啓示してあげ、物質界にも存在する霊力を再発見し新たな希望と新たな生命を呼び覚ますことになればと願っているのです。

古い規範が捨て去られ、あらゆる権威が疑念をもって見直され、その威力が衰えつつある今こそ、絶対に働きを止めずまた誤ることもない摂理として顕現している大霊を絶対最高の権威として啓示せんとしているところです。その大霊の摂理にのっとった生き方をしさえすれば、地上界に再び平和と調和が訪れます。

それが私たちの使命の全てというわけではありません。見捨てられた古い信仰の瓦礫の中にあって人間が単なる疑念や不信から全てを拒否することなく、本物と偽物、事実と神話とを選り分け、真に価値あるもの、全ての宗教の内奥に秘められたもの、物質界の人間による想像物の下敷きとなってしまっている霊的真理を我がものとすることが出来るようにするための大規模な仕事の一環であることを知ってください。

その昔、霊覚者たちを鼓舞し洞察力と勇気、奉仕への熱誠と願望を与えた霊力は、今日でも我がものとすることが出来るのです。物質界の人々でも、霊的摂理の働きの中にそれを見出す努力を怠らなければ、必ずや我がものとすることが出来ます。

教会・聖典・教義――こうしたものは今や衰微の一途をたどっております。少しずつ廃棄されて行きつつあります。しかし、霊的真理の権威だけは永遠に変わることはありません。私がこうして地上界へ戻ってきた時に必ず目にするのは混乱と無秩序ですが、鮮明な霊の光――隙間からもれる僅かな光ではなく全てを照らす強力な光――が降りそそぐようになれば、そうしたものは立ちどころに消えてしまいます。

そういう光が得られるというのに、なぜ人間は暗闇を好むのでしょう? 知識が得られるというのに、なぜ無知のままでいたがるのでしょう? 叡智が得られるというのに、なぜ迷信にしがみつこうとするのでしょう? 生きた霊の真理が得られるのに、なぜ教義という生命のない骨を好むのでしょう? 霊的叡智の水が得られるというのに、なぜ神学という濁った水を好むのでしょう。

そうやって自ら選んだ暗闇の中で、自由になれるのにクサリにつながれ、奴隷のような生き方をしている魂が数多くいるのですが、私が案じているのは、そういう束縛の生活にあまりに長く慣れてしまうと、その束縛から解き放たれるのが怖くなってしまうことです。鳥カゴの中で長いこと飼われている小鳥は、その鳥カゴから放たれた時に、もしかしたら飛べないのではないかと心配になるものです。

ですから、束縛から解き放してあげるのは結構なことですが、自由になった時に歩むべき道も用意してあげないといけないのです。何の道標もない場所へ放り出されて、進むべき方向も分からないままの状態に放置してはいけないのです。自由になってもらわなければいけませんが、同時にその自由が導いてくれる道も教えてあげなくてはならないのです。

人間というのは、長いこと束縛の状態に置かれたあとで自由にされると、その自由がうれしくて誰のアドバイスにも耳を傾けようとしなくなるものです。

「イヤ、もう結構です。これまでさんざん懐疑と困惑を味わってきて、今ようやく脱け出たところです。宗教というものにはもうこれ以上係わりたくありません」

そう言って拒否するのです。一種の反動です。

私としては、お届けするメッセージに耳を傾けてくださればそれでよいのでして、私という一個人、メッセンジャーとしてのシルバーバーチへ関心を寄せていただいても有難くありません。

これまでの人類は教えを説くその人物に関心を寄せ過ぎて、過大評価して途方もない地位に祭り上げ、肝心の教えそのものをなおざりにしてきました。

私たち霊団の使命は誰かを権威ある地位に祭り上げることではありません。真理を啓示し、知識を広め、叡智を授けることです。私が史上に名高い人物であろうと無名の人物であろうと、それが何の関係があるというのでしょう。私たちが訴えるのは名前や権威ではなく、理性、これのみです。

人間の知性が反発を覚えるようなことは何も要求いたしません。あなた方の理性に照らして真実とは思えないようなこと、人間としての品位にもとること、卑劣なこと、人類を侮辱するようなことは説いていないつもりです。人類全体を高揚し、宇宙の生命機構の中における人間の存在価値についての正しい概念を大霊との関係で啓示し、地球全体としての霊的一体関係についての理解を得させてあげたいと願っているところです。

私たちは、すぐに聖典の文句を持ち出したり教祖の言葉や権威に頼るようなお座なりのことは致しません。神から授かっている理性を頼りとして、これに訴えます。私たちがお届けする真理は“聖”の文字を冠した書物の言葉を引用することで広められる性質のものではありません。理性に照らして納得が行かなければ、どうぞ拒否してくださって結構です。

しかし、すでに皆さんには私たちが最高にして最善の人間的本能に訴えていること、私たちが求めているのは古い時代からの間違った概念を払い除けて、これなら人間も大事にしてくれるであろうと思われる真理をお届けしていることが分かっていただけているものと信じます。“宗教”と呼ばれているものは“真理”を土台としなくてはいけません。理性による攻撃を受けて脆くも崩れるような土台は、むしろ崩れてしまった方がよろしい。

私は、そのような真理――人間がせっかく手にしながらいつしか見失うということを繰り返してきた真理――を改めて啓示し、物質界の最も重要な位置に据えてあげるべく努力している、一個の道具に過ぎません。

私たち霊団は、今度こそは唯物主義と利己主義の勢力がはびこらないという確信がもてるように努力しております。そのためには人間みずからがその勢力に負けないようにならなくてはいけません。それは、その邪悪な念が住みつかないようにするために、日常生活のすみずみにわたって霊的真理の光で油断なく見張るしかありません。

地上世界は今や破滅に瀕し、混乱の極にあります。絶望と不和と敵意に満ちております。理性が敗走して利己主義が支配しております。私はその理性を取り戻させ、誤った概念に代わって真理を説き、迷信に代わって正しい信仰を説き、暗闇を光明で照らすことによって、人生の闘争に負けそうな人には力を与え、いじけそうな人を健全な精神に立ち戻らせ、人生に疲れ果てた人には気力を回復させ、不当な扱いに苦しめられている人には正当な報いを得させてあげたいと願っているところです。

私たちがお届けする真理は霊的摂理に係わるものだけではありません。物的法則に係わるものもあります。なぜなら、私たちから見れば物的世界も大霊の宇宙の一部であり、その物的世界で苦しんでいる大霊の子等に無関心でいるようでは、真の意味での“宗教的”であるとは言えないからです。私たちの目には人のために役立つことをする人は全て立派な人物ですが、その“役に立つ”ということは真理を普及することだけに限られるわけではありません。他にもいろいろあります。

病に蝕まれた身体で苦しんでいる人々をその痛みから解放してあげる仕事、不正と圧政に闘いを挑む仕事、憎み合いを止めさせる仕事、自由を守り邪を排除し、魂の奥にある大霊の資質を発揮させる仕事、こうした仕事は真の意味でのサービスと言えます。

物質界の人間も本来は霊的存在です。その人間に霊的摂理を教えるためにラップなどの物理的心霊現象から始めなくてはならなくなったことを残念に思います。それほど現代の人間が物的感覚に浸り切り、霊性がマヒしているということです。

あなた方人間も全て大霊の一部なのです。大霊がこう呼びかけていると思ってください――私の摂理は全部ここに用意してあります。これを使えば素晴らしい世界になります。全てを差し上げますから、それを使用して正しいことと間違ったこととを選り分けてください。私の摂理に適った生き方でもよし、反した生き方でもよし、どちらでも試してみられるがよろしい、と。

これまでの人類はどちらを選んだでしょうか。霊界の指導霊は地上界が大霊の意図にそって発展するように、大霊の波動を身につけた者(霊媒・霊能者)を地上へ派遣しているのです。しかし、霊的波動に鈍感になってしまった人類は物的なものにしか反応しなくなっています。

しかし、吹雪が吹き荒(すさ)んだあとには必ず新しい生命の春が訪れます。一面が雪に覆われた荒涼たる原野を目にしている時に春の息吹きは感じられないでしょう。しかし、春は必ず巡ってきます。そして生命の太陽が天空を登ってその威厳が最高潮に達します。今地上界には不満の暗雲が立ち込めていますが、いつかは夢にまで見た春が訪れ、そして充実の夏へと向かいます。

それがいつになるか――早く来るか遅いかは、人間が大霊から授かった自由意志をどう使うかによって決まることです。が、地上の一人の人間が他の一人の人間に救いの手を差し延べようとする時、その背後には数多くの霊が群がってそれを援助し、その気高い心を何倍にもふくらませようと努めます。善行の努力が無駄にされることは絶対にありません。奉仕の精神も決して無駄に終わることはありません。

誰かが先頭に立って藪を切り開き、後に続く者が少しでも楽に通れるようにしてやらねばなりません。やがてそこに道ができ上がり、通るほどに平坦になって行きます。

私は高級界の霊が目に涙を浮かべている姿を時おり見かけることがあります。今こそと思って見守っていたせっかくの善行のチャンスが踏みにじられ、無駄に終わり、いつかはその愚かさに気づいてくれるだろうと願っているのです。

そうかと思うと嬉しさに顔をほころばせているのを見かけることもあります。名もない人が善行を施し、それが暗い地上世界に新しい希望を灯してくれたからです。

私も他の大勢の同志と同じく、すぐそこまで来ている新しい世界を一日でも早く招来せんがために、波動を物質界のレベルに近づけて降りてまいりました。その目的は、神の摂理をお届けすることです。その摂理に忠実に生きさえすれば大霊の恵みをふんだんに受けることが出来ることを教えてあげたいと思ったからです。

この地上界へ降りてきて目にするのは、幸せであるべきところに不幸があり、光があるべきところに暗闇があり、満たさるべき人々が飢えに苦しんでおります。神は必要なものは全て用意してくださっているのです。問題はその公平な分配を妨げている者がいるということです。取り除かねばならない障害が存在するということです。

それを霊界側で取り除いてくれればよいではないかと思われるかも知れませんが、それは私たちには許されないのです。咎め立てすることも許されません。私に許されているのは物的身体に宿っているあなた方に大霊の摂理を教え、どうすればその摂理が正しくあなた方を通して運用されるかを教えてあげることだけです。それが出来る方が地上の悪弊を指摘してその摂理による矯正手段を講じて見せなくてはなりません。

要するにあなた方自ら毎日の生活の中で、霊力を自覚した者はこれだけ立派な生き方ができるのだということを率先して見せることです。

私としては、あなた方に摂理の存在を説き、それがどのように作用するかをお教えすることが出来れば、それで良しとします。その結果として不幸が幸へ転じ、無知による過ちを防ぐことになれば、こうして地上界へ降りてきた努力の一端が報われたことになりましょう。

私たち霊団は決してあなた方人間本来の義務を肩代わりしようとする者ではありません。なるほど神の御心があなた方を通して働いていることを身をもって悟ってもらえる生き方をお教えしようとしているだけです。

私が時おり残念に思うのは、人のための行為に条件をつける人がいることです。例えばこんなことを言う人がいます――「もちろん食べるものに事欠いている人に施しをしますよ。しかしその前に大霊に祈っていただかないとね」と。なぜ大霊に祈るか祈らないかにまで干渉するのでしょうか。お腹を空かしている人には食べるものを施してあげればそれだけで良いのではないのでしょうか。

また、寝る場所もない人に「どうぞウチで寝ていってください」と言ってあげるのは結構なことですが、「しかし、ちゃんとお祈りをしてくださいよ」などと付け加える人もいます。

人生の法則の一つに「物心両面の均衡をはかる」というのがありますが、その知識を手にされている皆さんは、自分みずから均衡をはかったことがおありでしょうか。

スピリチュアリズムを知ったということは地上では推し量ることが出来ないものを手にしたことになります。大霊の真理についての貴重な知識を手にしたことになります。ご自分の魂が大霊の魂とつながっていることを悟られたのです。即ち、ご自分が大霊の一部であることを知ったということです。その上、霊界から派遣されている背後霊団のバイブレーションにいかにして反応すべきかを学ばれたわけです。

それほどのものに比べれば、物的なものは、いかに高価なものであっても、まったくチャチなものです。今は物質界にいる皆さんも、これから霊の世界で計り知れない歳月を生き続けるのです。そのことを思えば、この交霊会を通じて得た知識や叡智は、この地上で物的身体のために一生懸命に求めるものより遥かに貴重なはずです。

何事も見かけの結果だけを見て判断してはいけません。あなた方は物的な目でしか見ることが出来ないのです。もしも霊的な目で見ることが出来れば、人間が一人の例外もなく完全に公正な扱いを受けていることがお分かりになるはずです。私は時おり人間の祈りに耳を傾けてみることがあるのですが、もしも大霊がその願いの通りにしてあげたら却って不幸になるのだが……と思うことがあります。

また私は死の関門をくぐり抜けて霊界入りした人ともよく語り合ってみることがあるのですが、こちらへ来てから地上生活を振り返ってみて大霊に抗議したいと思うような不当な扱いを受けたと文句を言った人は一人もいません。

地上界には大きく分けて三つの問題があります。一つは“無知”、もう一つは“悲しみ”、そして三つ目が“貧しさ”です。この三つは、政治に霊的知識が生かされ、人々もその知識の指し示す通りに生きるようにならないかぎり、地上からなくなることはないでしょう。

しかし、勝利へ向けての波のうねりは止まりません。古い秩序が死滅し、新しい秩序と入れ替わります。新しい世界は着実に到来しつつあります。しかし、新しい世界になったからといって暗い面が完全に消え去ると思ってはいけません。涙を流すこともあるでしょう。心を痛めることもあるでしょう。犠牲を強いられる局面も生じることでしょう。

大霊に係わった仕事は犠牲なくしては成就されません。新しいものを建てるには古いものを壊さないといけません。物的な惨事が続く時代になると人間は霊的なものの基盤を疑い、改めて吟味しはじめるものです。物的な手段がすべて失敗に終わった時、ワラをも掴む思いで、それまで試みられてきた制度を吟味し、そこに頼れるものがないことを知ります。

そこに至ってようやく霊的真理の出番となり、新しい世界の構築が始まります。大霊の摂理が正しく運用される世界です。そこへ至るまでには大きな混乱は避けられません。もっとも、いつの時代にも何の混乱も生じない世界にはなりません。なぜなら、完全に近づくとその先にもっと次元の高い完全性が存在することを知るからです。

質疑応答
――霊界側がスピリチュアリズムの普及を望んでおられるのなら、もっと新聞などを使った宣伝をなさるとよいのではないでしょうか。

これは、これは、驚きました。あなたは霊的知識の普及がどういうものかよくご存じないようですね。知識が普及するということは結構なことです。しかし宣伝効果となると、また話は別です。魂が真理に目覚めて感動するには、それぞれに時機というものがあるのです。

私たちは私たちなりの手段を講じています。計画はきちんと出来あがっているのです。あとはあなた方の世界からの協力が必要なのです。

私たちは魔法の杖で一気に悟らせることはしないことを知っておいてください。魔法の処方箋があるわけではありません。宇宙の自然法則を啓示してあげようとしているだけです。

私たちのメッセージを聞いて魂が感動し、自分を通じて大霊が働くことが可能であることを理解してくださることを望んでいるのです。霊界からの普及活動が休止することはありません。ただ、それは地上界の騒々しい宣伝によって行われるのではなく、魂と心に訴え、霊との一体関係を緊密にすることによって成就されるのです。

――この地球上での体験、即ち戦争、痛み、物心両面の苦しみ、病気、悲しみ、憎しみ、喜び、幸せ等々はみな人類の進歩と進化のために必要不可欠なもので、神の計画の一環なのでしょうか。

それは違います。戦争は大霊がやらせているのではありません。病気は大霊が与えているのではありません。いずれも大霊の子等が自由意志の行使を誤ったために引き起こしているのです。学ぶべき教訓というものがあることは事実です。しかしそれは身の毛もよだつ蛮行や行為に訴えなくても学べます。人間の行為と大霊の行為とを取り違えてはいけません。

――共和国となった現代でも英国は「王室」という体制を維持しておりますが、これは意義のあることでしょうか。

意義のあることです。何事につけ、国民を一体化させるものは大切にすべきです。国家は拠って立つべき共通の要素によって一体化を求め、国民全体が一丸となるべきです。何かにつけて離反させようとする者たちの行為に批判的なのはそのためです。魂が解放されれば自ずと互いに近づき合いたくなるものです。

――霊的プランがあるということを何度も聞かされているのですが、見たところその影響はどこにも見当らないようですが……

それはあなたが物的視点からのみ見ているからです。あなた個人の短い人生を尺度として見ておられるから進展がないかに見えるのであって、私たちは別の次元から見ていますから進展が見えるのです。霊的知識が広まり、霊的なものへの理解が深まり、寛容的精神が高まり、善意が増え、無知と迷信と不安と霊的束縛による障壁が崩れて行きつつあるのが見て取れます。

突如として革命が起きるかに想像してはいけません。そういうものは決して起きません。霊的成長と進歩はゆっくりと進められるものです。絶望する必要もありません。確かに物的文化のすさまじい発達を見ていると絶望感を抱きたくなるかも知れませんが、他方ではその唯物主義の霧を貫いて霊的真理の光が射し込みつつあります。知識が広がり続けるかぎり霊的真理の勝利は間違いありません。

現在の地上人類にとって霊界からのメッセージが大切なのはそのためです。私たちにとって大切なのではありません。あなたたち人間にとって大切なのです。私たちはあなたたちのため、つまり今までの生き方を続けていては痛い思いの中でその代償を支払わねばならなくなる――無知、度を超えた利己主義、故意の残虐行為への代償を支払うことになることをお教えしたいのです。あなたたちをこのまま見て見ぬふりをするわけには行かないのです。

私たちは、人類を破滅に追いやろうと企む邪霊集団ではありません。人間を罪深い存在に貶(おとし)めたり、残忍なことや罪深い行為を唆(そその)かしたりするようなことは致しません。その反対です。内部に宿している大霊と同じ神性と霊力を自覚させ、それをサービスの法則にのっとって活用させ、大霊の計画の推進に一役買っていただきたいと思っているのです。

第4章 明日の世界
〔人類が霊的法則に目覚め、その指し示す方向へ忠実に生きるようになった時の世界はどういう世界であろうか。新しい世界は一人の独裁者、一つの政府、あるいは国際連盟のような組織によってコントロールされる性質のものでないことは明らかである。人間各個による努力の結果として誕生するものであろう。その時の喜びがいかなるものであるか、それをシルバーバーチに語ってもらおう〕

地球人類は今まさに危機の真っ只中にあります。何事につけ誕生には苦しみが伴うものです。新しい秩序の誕生にも大きな苦しみが伴います。その誕生が近づくにつれて苦痛も増大してまいります。

しかし間違いなく言えることは、その新しい世界の種子がすでに地上界に根づいているということです。既得権力の座に安住している者たちがいかなる策を弄しても、それは功を奏さないでしょう。イエスは「天に為される如く地にも為されるであろう」と二千年前に述べております。それがもうすぐ実現しようとしています。

これからも地上には幾つもの大変動が生じます。崩壊もあれば隆盛もあるでしょう。皆さんには暗黒と苦難の時代の到来のように思えるかも知れません。「大変な時代になった……」そうおっしゃるかも知れません。しかし、そうした変動の背後には地上世界へ向けての大きなエネルギーの働きがあるのです。

こうして地上世界のための仕事に従事している私たちの多くは、これから先の地上はこうなるという未来像を見せていただいております。それを受け入れる能力のある地上の同志に伝え、挫けがちな心を鼓舞しております。私が見せていただいた未来像に比べると現在の地上世界がとても醜く見えます。が、私には地上世界はこれほどまで立派になり得るのだ、こうならねばならないのだということが分かっております。あとは“時間”の問題です。それを早めるのも遅らせるのも人類の自覚一つに掛かっております。

そのうち、政治も宗教も科学も学問もある一つのものの側面に過ぎないことが理解できる、新しい人類が現れるでしょう。その人類にとっては痛みも心配も喪の悲しみも不幸もなく、笑顔と明るい笑い声の世界となるでしょう。が、現段階の不幸に満ちた地上世界で最も人徳があるとされる人間は、他人の悲しみを取り除き生活を楽にしてあげられる人です。それほど不幸な人が多いということです。

これまでの人間は、何か良いものを手に入れると、それを人のために使用せずに独り占めにしようと画策し、結果的には、いずれ崩壊するに決まっているような社会組織を構築しようとしてきました。なぜなら、その基盤が間違っているからです。

大霊からいただいた資質を発達させ、それを人のために役立てる方向で使用するようになれば、永遠なるものを基盤とした社会組織が構築されるでしょう。

私たちが説いていることは決して新しいものではありません。霊的な視野をもつ人々がずっと説き続けている古くからある真理です。それを大方の人間が顧(かえり)みようとしなかっただけです。そこで私たちが改めて説き、大霊の摂理というものがあることを指摘する必要が生じたのです。人類は自らの間違った考えによって地上界を破滅の寸前にまで追いやっております。

今こそ人類は大霊とその摂理へ回帰しなくてはいけません。イヤ、すでに回帰しつつあります。私の目には、ゆっくりとではありますが、大霊の摂理が地上界に具現しつつあるのが見えます。

何よりもまず人類が知らなくてはならないのは、大霊の恩寵はみんなで分け合わなくてはいけないということです。現在の地上には今日の食べものに事欠く人がいる一方で、有り余るほど貯えている人がいます。もちろんこれは間違っています。余るほど持っている人は足らない人に分けてあげなくてはいけません。別に難しいことではないと思うのですが……

また既得権を取り壊す必要があります。摂理は寸分の狂いもなく働きます。あなた方が自分のことを忘れて人のために精を出す時、あなた方を通して大霊が働くのです。あなた方だけではありません。人間の全てに言えることです。それは無理ですとおっしゃるかも知れませんが、私は可能だと申し上げます。それが人間としての正しい生き方だからです。摂理は完ぺきで、ごまかすことは出来ません。その摂理を一つでも多く学び、それを実行に移さなくてはいけません。

長いあいだ人類は、本当は取り壊すべきものを構築することに自由意志を行使してきました。その結果として生じた暗闇に、今ゆっくりと大霊の光が射し込みつつあり、混乱と無秩序の中から新しい世界が生まれつつあります。そこには最早や持つ者と持たざる者といった不平等も不公平も差別もなく、大霊からの賜(たまもの)が全ての子等に平等に分け与えられるようになることでしょう。

その新しい世界をどのような用語で呼んでも構いません。要するに大霊の意思に適った世界の成就――大霊の霊力はもとより、新しいタイプの喜び、新しいタイプの人生、新しいタイプの幸せを求める誠心誠意の人間の貢献によって、これ以上霊界へ“出来損ない”(死後に地縛霊となってしまうような人間)を送り込まなくなるような世界のことです。

時としてその誠心誠意の努力が無駄に終わっているような感じを抱かれることがあるかも知れません。しかし、そういう時でも、世界中のあらゆる所で、あらゆる人々が、自覚するしないに関係なく、新しい世界の夜明けのために活用されているのです。大霊は我が子が破滅の道へ向かうのを黙って見ているわけには行かないのです。私があなた方に援助をお願いするのはそのためです。そうした努力を“政治”と呼ぶかどうかは、私には関心はありません。とにかくそうした働きかけは絶え間なく続けられています。地上界と霊界の協力です。もはやそれをストップさせることは不可能です。

そうした一体の努力で私たちが物質界の到るところで大きな仕事を成就していることを誇りに思っております。悲しみに暮れていた心が明るくなっております。地上の暗闇に光が射し込んでおります。知識が無知を、まだ僅かではありますが、駆逐しております。生きる意欲を失った人々を勇気づけ、人生に疲れた人々に力を与え、道を見失っている人々に導きを与え、同胞のためにボランティア的に働いている人々には援助を与えると同時に、その背後には、大霊とその子等のための仕事を鼓舞する霊の大軍が控えているとの自覚を植えつけようとしております。

また私がうれしく思うのは、皆さんが愛しまた皆さんを愛している霊界の人々をこのサークルにお連れして、その人たちが決してこの宇宙から消えてなくなったわけではないこと、死によって愛と情愛と友愛で結ばれている人々が引き裂かれるどころか相変わらず結ばれ続けていることを、これまで以上に確信させてあげることが出来ていることです。

私たちの影響力がどれほど広範囲に広がっているかをお見せできないのが残念です。地上界と霊界とのこうした結びつきを邪魔している障害を取り壊し、障害物を取り除き、そして知識をもたらすことが出来ております。人類を霊的に、精神的に、そして身体的にも自由にする、至って単純な真理です。ご存じのように私たちはただお役に立てば、それだけで満足なのです。無償の献身を通してのみ、地球人類は救われるのです。サービスです。

ここで改めて申し上げておきたいのは、私がただの道具に過ぎないということです。真理、単純な霊的真理、あなた方人間も全生命の源である大霊の一部であるとの認識を植えつけてあげたいと望んでいる大きな霊団の一人に過ぎないということです。大霊はあなた方の内部にあるのです。神性という遺産を引き継いでおり、その潜在的神性が宿されているからこそ大霊の恩寵にあずかる資格があるということ、さらに、それ故にこそその神性を妨げる障害物や慣習を廃絶しなければならないのです。私たちの仕事は魂と精神の自由だけを目的としているのではありません。物的身体も病という束縛から解放してあげることが目的の一つです。

そういう仕事に私たちは献身してきたのです。それが私たちのいうサービスです。私はあくまでも道具の一つに過ぎませんが、私を通して人類に役立つ真理が届けられることを光栄に思っております。皆さんとともにその仕事に携わってきて何年かになりますが、これからもまだまだ続きます。地上界の皆さんと霊界の私たちの連帯によって、今こそ地球人類が必要としているものをお届けしてまいります。あなた方はすでに知識をお持ちです。霊的真理を手にされています。そして、そうした霊的知識には、それをさらに価値あることのために使用する義務が伴うことを忘れないでください。

あなた方の説く真理が疑いを差しはさまれた時は、それには神性のスタンプが押されていること、そして又、その理由は私たちが常に人間の理性に訴えていることを思い出してください。言い変えれば、私たちがお届けするメッセージが、あなた方の品位を落とさせたり知性を侮辱したり、サービスと善性と誠実さの道に背を向けさせるような要素はみじんもないということです。それどころか、人間に内在する神性を認識させ、大霊とのつながりを自覚させることによって、その神性があなた方の日常の行為の全てを律するようにと願っているのです。

霊的真理を常に意識している人たちが一致団結して、物質界に立ち込めている無知の霧を晴らすためにその力を使用すれば、どれほど大きな仕事が出来ることでしょう。善性と有用性とサービスの勢力は常にあなた方の味方であることを自覚して、自信をもって前進してください。

我々の前途にはサービスの分野がいくらでも広がっております。多くの人がお座なりの説教を捨て、古い信仰を信じず、理性的懐疑に耐え得る真理を求めながらも、いずこへ向かえばそれが得られるか、迷いに迷っております。そういう人々にこそ霊的真理と霊的摂理をお届けするのです。内部に宿る霊的資質に気づかせ、自分も神であるということはどういうことなのかを理解させ、憎悪の復讐心に燃える神の前にひれ伏すような卑屈な信仰心を永久に捨て去るように指導してあげることです。

要するに私たちは、大霊の子等のために役立ちたいと願う地上の有志との協調関係を求めている霊的勢力の存在を認識していただき、霊的真理を武器として迷信の全て、暗黒の霧の全てと闘い、霊的真理の光で地上界を照らしていただきたいのです。それが私たちの仕事なのです。私たち地球浄化の大軍には霊力という武器があります。地上界の有志を鼓舞し、導き、心の支えとなり、飢えた魂に心の糧を与え、病に苦しむ人々に癒しを与え、全ての人にインスピレーションと啓示と叡智をもたらすことが出来ます。

人間の側に理解力と受容力がそなわれば、その能力に応じて霊力で満たしてあげることが出来ます。教会に属していようといまいと、どこかの宗教に属していようといまいと、科学者であろうと唯物論者であろうと哲学者であろうと、そうしたラベルにはお構いなく、受け入れる能力のそなわった人を一人でも多く見出して協力者に仕立てて行く用意があります。

第5章 絶対的摂理の存在
〔宇宙は逃れようにも逃れられない自然法則によって支配されている。いかなる霊もその法則を変えたり、それを犯した時に生じる結果から逃れさせてあげることは出来ない。しかし、そうした法則の存在を教えることによって無知から生じる危険から救ってあげることは可能である。シルバーバーチはそうした法則ないしは摂理の中から、例えば引力の法則のような身近なものを取り上げて説き明かす〕

私たちは大霊が定めた摂理をお教えしようとしているのです。それを守りさえすれば物的生活に健康と幸せをもたらすことが出来るからです。教会で説教している人たちはいつの日かその間違いをご破算にしなければなりません。いかなる人間も摂理の働きかけから逃れることはできません。牧師といえども逃れることはできません。なかんずく霊の声を聞いた者(良心の痛みを感じた者)はなおさらのことです。間違っていると知りつつ改めることの出来ない者は、知らずに犯す者より重い責任を取らされます。

魂が目覚め、霊力とともにもたらされる愛の恩恵に浴した人、つまり霊的真理の啓示の恩恵に浴しながらもなお自分中心の生き方に終始している人は、その怠慢に対する罰がそれだけ大きくなります。知らずに犯したのではなく、知っていながら犯しているからです。人のために役立てるべき霊能を授かりながら、それを銀貨三十枚で売っている人が大勢います。

大霊はあなた方すべての内部にあるのです。進化の跡をたどれば確かに人間もあらゆる生命体から進化してきており、遺伝的には動物時代の痕跡も留めておりますが、それを遥かに凌ぐ資質として、大霊から授かった神性を宿しており、それを機能させれば地上にあっても神の如き生き方が可能なのです。

病気に関しても、人間の内部にはいかなる病気でも自らの力で治す治療力と、いかなる困難をも克服する霊力をそなえているのですが、あなた方はまだそれを実感しておりません。いざという窮地において引き出せる霊力の貯蔵庫を持っているのです。神の王国は各自の内部にあるのです。そのことがまったく理解されていないのです。

その貯蔵庫から必要なものを引き出すにはどうすればよいかと言えば、大霊の摂理にのっとった生活に徹しさえすればよいのです。しかし、果たして何人の人がそう心掛けているでしょうか。

人生は行為だけで成り立っているのではありません。口に出して述べること、そして頭や心の中で思考することも大切な要素です。行いだけが責任を問われると思ってはいけません。確かに行いが重大な要素を占めていることは事実ですが、言葉や思念も、あなたという存在の大切な一部です。よく言われるように、人間の多くは思想の主人であるより奴隷となっております。

〔シルバーバーチがよくテーマにするものの一つが、地上人類が肌の色に関係なくみな同胞であるということである。ある日の交霊会でこう述べている――〕

私たちは一人の例外もなく大霊の一部です。そのうちのある者の肌を赤くし、ある者を黄色にし、ある者は無色(白色)のままにしました。しかし、こうしたことも大霊の無限の叡智による計画の一端なのです。

その肌色の一つ一つに意味があり、目的があるのです。しかし今のあなた方にはそれは理解できないでしょう。いつの日か大霊の摂理の理解が行きわたった時点で、すべての肌の色の人々が混ざり合い、互いに愛の心でもって睦(むつみ)み合う日が来ます。

人間を肌の色で見分けるのではなく、その奥の魂で見分けるようになるまでは、地上界に真の平和は訪れません。

このサークルの指導霊も地上のほとんど全ての人種から構成された一つの共和国となっていることにお気づきでしょうか。そのようにした理由は、どの民族も他の民族にないものを所有しており、そのおのおのが独自のものを持ち寄ることによって最高のものが出来あがるという理解に達したからです。黄色人種ならではの貢献の場があり、白人には白人ならではの貢献の場があるということですが、今の段階では地上人類にはこの点の理解が十分ではありません。

あなた方の一人一人が大霊の一部であることを忘れてはいけません。あなた方一人一人が大霊の仕事、大霊の力、大霊の愛、大霊の知識に、その分に応じて貢献できるということです。例えば自分より力の劣る人を少しでも向上させてあげる上で貢献すれば、その分だけ大霊の力があなた方を通して顕現したことになるのです。

それをいかなる形でするか、相手が誰であるか、いずこの暗闇に光明をもたらすかは問題ではありません。挫折した人々を元気づけ、弱っている人々に力を与え、暗闇に光明をもたらし、飢えている人々に食べものを施し、身体を横たえる場所もない人々に休息場所を提供してあげればよいのです。

そうした仕事の一つ一つが大霊の仕事の一部なのです。その仕事に無心にたずさわっている時、それがあなた方の想像を超えた結果を生み出すように、背後に大きな力が引き寄せられて援助してくれます。

大霊が働きかけるのは教会や大聖堂や寺院だけではありません。霊力に反応する人がいれば、そこがどこであろうと大霊は誠意に燃えた高級界の霊団を派遣します。

地上の人間はとかく神の働き場所を限定して考え、特別な資格を持った人々を通してのみ働きかけるかに思いがちですが、地上界へつながる通路さえあれば、どこであろうと、いつであろうと、誰であろうと、その通路を使って働きかけます。

霊力には地上的な差別、階級や肩書き、社会的地位や肌の色、国家や民族の違いなどは関係ありません。その霊力に反応する人であれば、それが誰であろうと、そこがどこであろうと、高級界からの霊力を注ぎ、精神を明るく照らし出し、魂を鼓舞し、神のブドウ園の園丁として使用します。

どうかこの事をしっかりと学び、大霊のため、そして暗闇の中、重圧の下、人生の嵐の中で難儀している大霊の子等のためにという決意のもとに、彼等の重荷を少しでも軽くし、新たな希望、新たな知識、新たな光明、新たな力を届けてあげてください。それを授かった人は身体は新たなエネルギーに溢れ、精神は勇気に溢れ、霊は生気を取り戻して、大霊から授かっている資質の素晴らしさを満喫することになるでしょう。

かくして本当のサービスの喜び、自分自身には何も求めず、ひたすら他人の霊的向上のみを目的とするサービスの醍醐味を味わうことになります。

〔これまで地上人類に知らされていなかった“重大な秘密”――永遠不変の霊的摂理――が明かされる〕

大霊は無限の存在であり、あなた方はその大霊の一部です。もしも完ぺきな信念をもち、正しい人生を送れば、大霊の恩寵にあずかることができます。

地上界の全ての人が完ぺきな信念をもてば、大霊はそれぞれの願いを嘉納されることでしょう。魂が真剣に求め、しかも大霊に対する絶対的信念に燃えていれば、必ずやその望みは叶えられるでしょう。

神の摂理はそのようにして働くのです。つまり摂理に順応した生活を送っていれば、望み通りの結果が生じるようになっているのです。結果が出ないということは、生き方のどこかに摂理に順応していないところがあることの証拠です。

歴史をひもといてご覧なさい。最も低い界層、最も貧しい民の中から身を起こして、厳しい試練の末に偉大なる指導者となっているケースが少なくありません。試練に耐えずして神に不平を言ってばかりいる人を相手にしてはいけません。

もちろん時には挫折して不遇に喘ぐこともあるでしょう。しかし、完ぺきな信念に燃えていれば、いつかはきっとこの世的な不遇から立ち直ることが出来ます。大霊の象徴である太陽に向かってこう言うのです――「私は大霊の一部だ! 私を破滅させ得るものは何もない。永遠の存在なのだ! 無限の可能性を秘めた存在なのだ! 限りある物質界の何一つとして私を傷つけることは出来ないのだ!」と。もしもこれだけのことが言えるようであれば、あなたが傷つくことは絶対にありません。

誰しも心に恐れを抱きつつ出発します。望み通りにならないのではなかろうかという不安です。その不安の念がバイブレーションを乱すのです。しかし「完全なる愛は恐れを取り除く」(ヨハネ一)と言い、「まず神の国とその義を求めよ。そうすればそれらのものは皆お与えくださるであろう」(マタイ六)と言われております。

これは、遥か遠い昔、摂理を完ぺきに理解した人物によって述べられた教えです。それを彼は見事に実践してみせたのです。あなた方も、摂理が働けるような条件を整えれば、必ずや望み通りの結果が得られます。

しかし、もう一つ別の摂理をお教えしましょう。何の代価も支払わずして入手できるものは、この地上界には一つもないということです。霊的能力の値打ちが上がるということは、霊的感度が増すということです。それをおろそかにして金儲けにうつつを抜かすと、そちらの世界では金持ちと言われても、こちらの世界では哀れな貧しい魂になってしまいます。

人間はその内部に何よりも貴重な神性という富を宿しています。大霊の一部です。地上のどこを探しても、それに匹敵する富や宝は存在しません。その魂の内部の鉱脈をいかにして探査し、肉体的本性の奥に埋もれたダイヤモンドを引き出すか、それをお教えしようとしているのです。

そのためには霊の世界の最高の界層のバイブレーションに反応するようになっていただかねばなりません。また、あなた方は一時として一人ぼっちでいることはないこと、周囲には常にあなた方を愛する大勢の人々が見守り、導き、援助し、鼓舞せんとして待機していることを知っていただきたいのです。

そうした中で霊性が開発されて行くにつれて少しずつ大霊に近づき、その摂理と調和して行くのです。

大霊に奉仕すると言っても、それは大霊の子である地上の同胞に奉仕することになります。同胞のために役立つことをしている時、神の無限の腕に抱かれ、その愛に包まれ、それが完全なる安らぎをもたらしてくれることになります。

何の根拠もない、ただそう信じているというだけの信仰では、酷しい試練の嵐に遭えばひとたまりもなく崩れます。が、理性的認識から生まれた信仰には確固たる根拠がありますから、いかなる試練の嵐に遭っても揺らぐことはありません。

証拠を何一つ見なくても信じることの出来る人は幸せです。が、物的証拠を手にした上で目に見えない霊的真実、即ちこの宇宙が愛と叡智から生まれた霊的摂理によって支配されていることを悟った人は、なお一層幸せです。

その意味で、ここにおられる(ハンネン・スワッファー・ホームサークルの)皆さんは完ぺきな信念を持ってしかるべきです。知的認識から生まれた信念だからです。皆さんは霊力の証を手にしておられます。万事うまく行くという信念、大霊の摂理と調和して生きればそれ相当の実りを手にすることが出来るとの信念を持ってしかるべきです。

また皆さんは、無知蒙昧なもの――これを皆さんは“邪悪”と呼んでおられるのですが――に邪魔をされるのではないかとの不安を完全に捨て去ることが出来てしかるべきです。大霊とその摂理の保護のもとに生き、そして行動しておられるからです。

心に邪悪なものがなければ、善なるものしか近づけません。善なるものは善なるものが支配するところにしか存在できないからです。霊界からこの交霊の場に訪れるのは大霊の使者のみです。あなた方を包み込んでいる力、支え導き鼓舞せんとしている力は、大霊から放射されている力です。

その力が試練と苦難に際してあなた方を支えているのです。嵐を鎮めて晴天とし、絶望の暗闇から知識の光明へと導いてくれるのも、その力です。皆さんは進歩の正道をしっかりと踏みしめておられます。不安に思うことは何一つありません。

完全なる愛は恐れを取り除く、とイエスは述べていますが、正しい知識も恐れを打ち払います。恐怖は無知から生じるものだからです。愛と信念と知識のあるところに恐怖心は生じません。進化した魂はいついかなる時も恐れるということを知りません。人生のいかなる局面に際しても、自分は大霊であるがゆえに克服できないものはないとの確信があるからです。

恐怖心は魂の牢獄をこしらえます。ですから恐怖心が頭をもたげかけたら、その波動に巻き込まれることなく、それを抑え込み、信念をもってこう自分に言って聞かせるのです――「自分は大霊なのだ。地上の出来事などで動揺などしない。魂に宿る無限の霊力でいかなる困難も凌いでみせる」と。そういう力をあなた方は授かっているのです。その無限の力を見限ることほど勿体ない話はありません。

大霊の法則は物的なものと霊的なものの両方を支配しております。宇宙という大霊の王国にはそういう区別はないのです。物的生命を霊的生命から切り離して考えてはいけません。本来は別個のものではないのです。一つの大生命があり、それに幾つもの側面があるに過ぎません。物的なものは霊的なものに反映し、霊的なものは物的なものに反映します。

しかし、霊力を秘めた人間が遭遇する苦難には、いついかなるところにあっても大霊のために役立つことをしている限り克服できないものはないとの信念が確固たるものになるには、あなた方もまだ距離がありそうです。

実は私が「人間に克服できないほどの苦難はない」と言う時、それは、因果律の原理から見て取り除かれてしかるべきものであればという意味です。そこで、もしも苦しみが余りにも耐え難いものであれば、こう理解してください。それを取り除いてあげるべく私も、向上進化の歩みを止めてでも努力してみますが、むしろそれに耐え抜き、その苦境の中で悟るべきものは何かを真剣に考える方が、より賢明であるということです。この短い地上人生のことだけを考えてはいけません。永遠の生命を視野に置くことです。

物質界の人間も、物的であると同時に、神性を宿していることを理解すれば、地上生活がどれだけ生き易くなることでしょう。悩み事は立ちどころに消え去り、障害物も取り除かれることでしょう。ところが人間は内部に宿している霊的な力を信じません。あなた方のいう“人間味”は地上世界でのみ通用することで、内部に宿る霊力は大霊に属するものです。

その昔イエスは「地上を旅する者であれ。地上の住民となる勿れ」と言いました。が、地上人類はその意味が理解できないために、言い変えれば、死後の存続に磐石の信念が持てないために、摂理が成就されないのです。例えば金持ちをうらやみ、彼らには悩みがないかに思いがちです。悩みというものが相対的なものであることに気がつかないのです。大霊の摂理は金銭でごまかすことはできません。

あなた方は個性の強化のために地上界へ来ているのです。その強化は日々の難問にどう対処するかによって決まります。その時に忘れてならないのは地上界で生じる難問には人間の魂に内在する霊力で克服できないものはないということです。いかなる難題も所詮は地上界での出来事であり、物的波動のレベルです。それに引き換えてあなた方は神の一部であり、神性を宿しているからです。

安らぎはただ一つ、大霊と一体になった者に訪れる安らぎです。大霊のリズムで鼓動し、大霊の意志のままに行動し、魂と精神が大霊と一つになっている者にのみ訪れます。そういう時は大霊の摂理と調和しているのです。それ以外に安らぎは得られません。

この私にできることは、その摂理がどうなっているかをお教えすることだけです。イエスは二千年も前に天国は自分の中にあると言いました。外部のどこかにあるのではないのです。ましてや混とんとした物質界には存在しません。魂の内部に見出されるのです。

神の摂理は完ぺきなバランスを保ちながら働いていますから、いかにごまかそうとしても、それは不可能です。罰せられるべきものが見逃されたり、報われるべきものが見落とされたりすることはありません。物的な目で永遠を裁いてはいけません。より大なるものを見ずして小さなものを裁いてはいけません。

束の間の地上的な喜びと恒久的な霊的価値とを混同してはなりません。地上的な喜びは安ピカで一時のものに過ぎません。あなた方の思考はその地上的なものを規範にしがちですが、私たちは霊の目で見ます。あなた方に気に入ってもらうために摂理を曲げて説くわけにはまいりません。

死んで霊界へ戻ってきた者に尋ねてごらんなさい。誰しもが「摂理は完ぺきです」と答えるはずです。そして二度と地上へは再生したがりません。人間はとかく外面的な事情が平穏であってほしがりますが、私はあなた方の内面に潜在する恒久的な安らぎを見出させてあげたいと努めております。最大の富は霊に内在する宝(霊的資質)です。

常に何か不満を抱いている人がいるものです。地上世界だけではありません。こちらの世界でも同じです。それは自分の不完全さに気づいている証拠です。神の道具としてまだまだ十分でないという意識があるからです。そうした自己との葛藤を通して霊性の不完全さを克服し、神性の開発が可能になるのです。

まだ為すべきことがありながら私たちが平気で傍観していられると思いますか。生きる上で欠かせないものに事欠いている物質界の大霊の子を見て、私たちが心を痛めずにいられると思いますか。神の名のもとに間違った教えが説かれているのを聞いて無関心でいられると思いますか。

光があるべきところに暗闇があり、自由でいられるはずの者が強欲で自らの魂をがんじがらめにし、どこを見ても混乱し無秩序状態の地上界を見て、私たちが心を痛めずにいられると思いますか。

何とかしてあげないといけない――多くの大霊の子がせっかく授かった霊的資質を封じ込められている地上界に大霊の愛を流入させねば……と思うからこそ私たちも苦しむのです。大霊は必要なものは充分に用意してくださっております。なのに、それを授からない人がいるということです。他の者が飢えているのに自分だけは充分に手にして平気でいられるようでは、その魂は霊格が高いはずはありません。

私たちの仕事でいちばん辛いのは、時としてあなた方が苦しんでいるのを傍観させられることです。それがその魂にとって大切な葛藤であるがために、私たちにも手出しが許されないのです。あなた方がその葛藤に勝利すればそれは私たちにとっても勝利であり、あなた方が敗北すればそれは私たちにとっても敗北なのです。あなた方の葛藤は私たちの葛藤でもあるということです。にもかかわらず指一本あなた方を援助することは許されないのです。

そんな時、私は涙を流していることがあります。救いの手を差し延べてはいけないことが分かっているからです。それが摂理だからです。苦しんでいる本人よりも私の苦痛の方が大きいことがあることを知ってください。

自分で「これが正しい」と思うことをなさっていれば、それ以上のことは出来ないにきまっています。もしも他の人を立てて自我を滅却しなければならないと観念した時は、そうなさい。いつかその埋め合わせがあります。

いずれにしても私が皆さんに代わって問題を解いてあげるわけには行かないのです。それは皆さんの自由意志に干渉することになるからです。例えばこの霊媒(バーバネル)の私生活に関連して私がああしろこうしろと指示するようになったら、それはこの霊媒のもつ自由意志がなくなったも同然です。と言うことは、それきり進歩しなくなるということです。

あなた方一人一人の内部に宿された霊性が発達するのは、日常生活で生じる問題をいかに解いていくか、その努力をしている時です。何もかもラクに片づいているうちは成長しません。

ただし、私にも干渉を許される局面があります。この霊媒を通じての私の使命に係わる問題が生じた時は、チャンネルとしてのこの霊媒の自由を確保すべく、邪魔を排除する手段を講じます。この霊媒の霊性の進化に係わる時は、それはこの霊媒の自己責任ですから、あくまでも自分で解決して行かねばならないということです。

〔別の日の交霊会で――〕

こうした霊的問題に携わる人で、地上の人間の心身両面にわたる健康を維持するための霊的摂理を説く人は、大きな責任を負っていることになります。それを勘違いしたり怠ったりすると、地上生活中ないしは死後にその代償を支払わされます。

例えば時おり私がうんざりさせられることの一つに、霊界からの“高等な教え”ばかりを求めて、それを同胞のために役立てることをしない人がいることがあります。人間は成長するにつれて大霊の摂理の働きを理解していくのであって、教えそのものに“高い”も“低い”もありません。

そうやって勿体ぶって真理の追求ばかりをしている人たちが、地上を少しでも住みやすい世界に、つまり飢えや渇きから解放し疲れた身体を癒せる家に住めるような世界にするために行動を起こすようになれば、それこそ“最高の教え”を実践することになるのですが……

〔人間界の問題の大半は自由意志の使用法を誤っていることから生じていることを強調して――〕

人間は戦争が起きると「なぜ大霊は止めさせないのか」とか「なぜ未然に防いでくれないのか」と思うようですが、大霊の摂理を無視している以上、責任は人間自身にあるのです。

行為が生み出す結果は絶対に避けられません。私たちとて、その摂理を改めることはできません。蒔いたタネが生み出すものは自分で刈り取らねばならないのです。利己主義というタネを蒔けば、それ相当のものを刈り取らねばなりません。高慢・嫉妬・怨恨・貪欲・敵意・不信・猜疑心――こうしたものが積もり積もれば、いつかは戦争・難題・不和といったものを生み出します。

私たちはそうした摂理をお教えするために地上界へ降りて来ているのですが、その目的が理解できない人たちから、冒頭で述べたような、咎め立てをするような不満を聞かされます。しかし、私たちとしては大自然の摂理を明かすこと以外には何の意図もありません。と言うのも、地上界を支配しているのは大霊の摂理以外の何ものでもないからです。それを宗教と呼ぼうと科学と呼ぼうと哲学と呼ぼうと同じことです。

その摂理に逆らった生き方をする人は、一個の人間であろうと大勢の集団であろうと、民族全体であろうと国家全体であろうと、いつかはその代償を支払わねばなりません。その摂理の働きが完ぺきであることは常々申し上げている通りです。その働きが人間の目には目えないことがあるかも知れません。しかし、原因と結果は必ず連鎖して働きます。摂理がそのようになっているのです。こうしたことは何度も申し上げてきたことです。摂理、大霊の摂理以外に何もありませんと改めて申し上げるのは、そういう理由からです。

私たちの使命は神とは何かを明らかにすることですが、それは、神すなわち大霊の摂理を明らかにする以外に方法はありません。が、大霊の摂理を知ることによって、それと調和した生活が可能になります。もちろん自由意志が与えられていますから、摂理に従うか否かはあなた方の選択に任されています。一個人であろうと集団であろうと同じことです。

ただ言えることは、何事もその摂理にのっとって計画し、それに反することのないようにしなければならないという、この単純な認識が行きわたるまでは、地上界に混乱と破滅と惨事の止むことはないということです。

私たちとしてはそうした永遠の霊的真理をお教えすることしか出来ませんし、またそれで良いと考えております。なぜなら、物的なものが崩壊しチリとなった後も残り続けるのは霊的真理のみだからです。物的なものだけに目を奪われている者は大きな過ちを犯しております。幻影を追いかけ、永遠の実在を忘れているからです。霊的真理といっても至って単純なことばかりです。なのに地上界の人間は今もってそれが理解できておりません。

それを学ぶにはいろいろな道がありますが、苦痛と落涙、流血と悲劇を体験しないと学べないというのであれば、それもやむを得ないでしょう。私としては、出来ることなら愛と奉仕の精神を通して霊的資質を発揮する中で学んでほしいところです。しかし、それが出来ないとなれば、摂理に逆らった手段によって痛い思いをしながら学ぶしかないでしょう。痛みという代償と引き換えに学ばねばならないということです。

地上界で大人物と言われた人が霊界でも大人物と言われるわけではありません。こちらの世界での偉大さは魂の偉大さ、霊性の高さ、サービス精神の大きさで計られます。物的世界が消滅した後も末永く生き続けます。

自由意志は大霊から賜った権利です。が、その使用を誤ると代償を支払わねばなりません。同じことが地上世界の百事全般にも言えます。摂理にのっとった手段を取れば豊かな恩恵を賜ります。もし間違った手段を取ると、それ相当の結果を刈り取らねばなりません。前者は平和と幸福と豊かさをもたらし、後者は悲劇と戦争と流血と混乱を招きます。

私たちは、本来なら大霊の子等の教育者であるべき階層の者たちから軽蔑されております。大霊の名のもとに大霊の愛を携えてきたと述べていることが気に入らないらしく、本来なら大歓迎されてよいはずなのに、逆に拒絶されております。お役に立ちたいとの願望に燃えて、地上人類が自らの力で自らを救うための摂理と霊力の存在をお教えしようとしているのですが……

しかし、霊的な無知に浸り切り、儀式や作法に取り囲まれ、あまつさえ神の霊力が今日でも地上界に降りることを否定するようでは(英国国教会では神は紀元六六年まで地上に働きかけ、それ以後はいかなる働きかけもしないという信仰がある)、その代償は目に見えております。

私たちはそういうことを説く御仁には用はありません。人のために役立つことを願う人々の味方であり、何かと敵対する態度に出る人たちの敵です。私たちは愛と奉仕の翼に乗って降りてまいります。愛と奉仕の仕事こそ私たちが果たさねばならないのです。

それには困難と障害が立ちはだかるであろうことは覚悟しております。しかし必ず克服します。潮流のように満ちては引くことを繰り返すことでしょうが、最後は必ず勝利します。

私たちだけでは大きな仕事はできませんが、あなた方地上の人々と協力すれば、幾ばくかの仕事はできます。たった一人の魂を救ってあげるだけでもいいのです。暗闇にいる人に光明をもたらしてあげれば、弱っている人に力を貸してあげることが出来れば、あるいは逆境に喘ぐ人に慰めとなる教えを授けることが出来れば、それがたった一人であっても価値ある貢献をしたことになるのです。

〔自由意志にも制約があるのは、個人によって人生の出来事の流れに一定の傾向があるという意味か、と問われて――〕

傾向の流れ、言わばバイブレーションがあるのは事実ですが、それは宿命的にどうしようもないものではありません。人間はさまざまな放射物や影響力にさらされていて、その多くが何らかの影響を及ぼすことは事実です。しかし、大霊は人間の一人一人にご自身の一部、霊性の一部を与えてくださっていて、各自の進化のレベルで自由意志を適切に行使すれば、その霊性の開発の道で生じるいかなる障害も克服できるはずです。あなたが大霊であり、大霊があなたであると言ってもよいのです。

譬えて言えば、大地に蒔かれた種子は、その生長を促すものを与えれば芽を出し、生長し、美事な花を咲かせます。それと同じで、あなたという存在の中に大霊の種子が植え込まれています。あなた方自身が庭師です。その種子がいつ花を咲かせるか、あるいは果たしてうまく花を咲かせるかは、あなたの手入れ一つに掛かっています。そこに自由意志による選択が許されているということです。

せっかくの種子を暗闇の中に置き去りにし、生長に必須のもの、即ち無私の善行ということに何の努力もしない生活では、大霊があなた方を通して顕現していないことになります。

〔苦難の価値について問われて――〕

あらゆる体験があなた方の永遠の人生模様の一部を構成します。その永遠の人生をあなた方はとかくこの世だけの出来事によって判定しようとします。その皮相だけを見て偶発的な出来事の連続のように思うようですが、何回かにわたる地上生活の全てを通して一本の糸が貫かれていることにお気づきになりません。

調和を基本的摂理とするこの大宇宙にあっては、あなた方一人一人が大霊の計画に貢献しているのです。地上生活での出来事は、時には辛さと絶望、痛みと悲惨さに満ちていることもあるでしょうが、その全てが、永遠の旅路に向かうための試練なのです。

暗黒と光、陰と日向といった、まったく対照的なものも、実は一個の統一体の側面の反射に過ぎません。陰なくしては日向も有り得ず、光なくしては暗黒も有り得ません。それと同じ理屈で、困難は魂が向上するための階段です。困難・障害・ハンディキャップ――こうしたものは魂の試練なのです。それを克服した時、魂はより強くなり、より純粋になり、より充実し、かくして進化が得られるのです。

無限の可能性を秘めた魂の潜在的資質が、困難も苦痛もなく、陰も悲しみの体験もなしに発現すると思われますか。発現するはずがありません。

悲哀の極みをなめ尽くして初めて、魂の奥底からの喜びが味わえるのです。生命の階段を低く下りるほど、それだけ高く上がれるのです。地上人生の陰と思える体験を多く味わうほど、それだけ日向の喜びがひとしお身にしみるのです。

全てのことが霊性進化の肥やしになるのです。そのうち皆さんも肉体の束縛から解放されて曇りのない目で地上人生を振り返る時がまいります。その時、紆余曲折した一見取り留めもない出来事の絡み合いの中で、その一つ一つがちゃんとした意味をもち、皆さんの魂を目覚めさせ、その可能性を引き出す上で意義があったことを、つぶさに理解なさるはずです。

人間が体験する苦難の中で、正しく理解し正々堂々と立ち向かって何の益ももたらさないものは一つもありません。一体、困難も試練もない物的世界というものが想像できるでしょうか。そういう世界では何の進化もありません。克服すべきものが何もありません。あるのは堕落のみです。


〔シルバーバーチはいかなる生命も神聖であることを繰り返し説いている。ある祭日の日の交霊会で狩猟が話題となり、メンバーの一人が質問した〕

――私はキツネ狩りをしたことがありますが、間違ったことをしたことになるのでしょうか。

すべて生命あるものは神のものです。いかなる形にせよ生命を奪うことは許されません。

――でも、ウチのニワトリを二十羽も食い殺したのですが……

では仮に私がそのキツネに銃を与えて、二十羽もニワトリを食べたあなたを撃ち殺せと命令したらどうなりますか。地上のすべての生命には大霊によって食すべきものが平等に与えられています。人間が飢えに苦しむのはキツネが悪いのではなくて人間自身の考えが間違っているからです。

地上人類がさらに進化すればそうした間違った欲望は消滅するでしょう。キツネやニワトリを人間がこしらえることが出来れば、それを人間が食べても咎める者はいないでしょう。人間がニワトリやキツネを殺してもよいというのが道理であるとしたら、同胞も殺してよいという理屈になります。生命は人間のものではありません。大霊のものです。生命を奪う者はいつかはその責任を取らなくてはなりません。

――オーストラリアではウサギの異常繁殖が脅威となっておりますが、これについてはどうでしょうか。

人間は本来そこにあるべきでないものを勝手に持ってきて、それがもたらす不都合について文句を言います。私の地上の故郷である北米大陸についても言えることで、白人が自分たちにとっては良くてもインディアンにとっては良くないものを持ち込みました。

戦争も白人がもたらしたものです。それからインディアンが“火酒”と呼んだもの(ウィスキー、ジンなどアルコール分の強い酒)その他、不幸をもたらすものを持ち込みました。白人がやってきて人を撃ち殺すことは正義であるかに吹聴するまでは、銃で撃ち殺すということなど知らなかったのです。

そのうち人間も宇宙のあらゆる生命――動物も小鳥も魚も花も――が神の計画の一部を担っていることを知る日が来るでしょう。神の創造物としてそこに存在していることを認識するようになるでしょう。

第6章 ヒーリングの問題
[ヒーリング・パワー(治癒力)はわれわれ人間のすべてに内在しているという。しかし何の努力もなしにそのパワーが発揮できる人と、いくら養成会に通っても一向に発揮できない人がいる。その違いについてシルバーバーチが説明する]

人間は本質的には霊ですから、一人の例外もなく霊的資質が内在しております。その資質が、ある人においては他の人より表に出やすい状態にある場合があります。意識的に開発する努力によってその資質――“プシケ”と呼んでも“霊能”と呼んでもよろしい――が発現し、その人間と背後で働く霊団との間の協調性が緊密になります。

と言うことは波動の一体化の次元が高くなり、精密になり、緊密になるということです。霊的光波が一つの美しい調和状態にブレンドし、その次元が頂点に達した時に霊界の医師団と地上のヒーラーとが完全に一体化します。その完全な状態に少しでも近づくほど霊団とヒーラーとを通して使用できる治癒力の次元が高くなり、大きくなり、強力になります。(これは特に霊的治療家について述べたもので、他の治療法、例えば磁気療法などには必ずしも当てはまらない――編者)

[ヒーリング一般については、ある日の交霊会でこう述べている]

いかなる方法にせよ、ヒーリングによって治るということは、まだ霊界へ帰る時機が熟していないことを意味し、身体の苦痛を通して魂が成長する上で必要な体験が終わったことを意味します。もとより、霊界入りするまでに体験しなければならないことは他にもあります。身体の苦しみのみが人間の体験の全てでないことは言うまでもありません。

治療家が患者の痛みを取り除いたり和らげたりすることが許されるのは、その体験を通して患者の魂に真の自我に目覚めるチャンスを与えてあげることが出来るからです。病気を治すということは確かに偉大な仕事ですが、もっと偉大な仕事として、患者の魂に生命の実感を覚えさせることが出来るのです。その仕事に比べれば、身体が癒えた時に覚える喜びは大して重要ではありません。

物的身体に宿っている皆さんは今生きている地上生活のことだけを考えます。それに引きかえて、地上を去った私たちは、地上生活を無限に続く生活の中のわずかな一時期として捉えます。皆さんがとかく物を見るその焦点を間違えるのはそのためです。

例えば苦難の渦中にある気の毒な人を見て同情心が湧くのを覚えるのは当然のことですし、私はそれを咎めるつもりは毛頭ありません。しかし、その時のあなたは苦しんでいる姿だけを見て、その苦しみの中で過ごす時間は、その後に償いとして得られる喜びに比べれば実に些細なものであることに気づきません。

また、日陰(苦難)の時間の方が日向(安楽)の時間より長く感じられるようですが、実際はそうではありません。ただ、病気の全てが治るとは限らないことを知っておいてください。何事にも法則(摂理)というものが働いており、患者の中にはいかなる治療家にも治せない人がいるということです。

時機が熟せば、いかなる病気も必ず治ります。それは、魂にとって死の彼方の生活体験を必要とする時機が至れば、いくら健康な身体でも魂をとどまらせられなくなるのと同じです。全ては大霊の摂理で定められているのです。あなた方もその摂理の一翼を担っているのです。なぜなら、あなた方自身が大霊の一部だからです。

もちろん借金(カルマ)を全て返してしまえば一切の苦痛と縁がなくなるでしょう。身体が完全な健康状態になるからです。しかし、地上にあってもこちらの世界にあっても、人間は何らかの借金をこしらえているものです。

質疑応答
[まずシルバーバーチが病気の原因について語る]

物的身体と霊的身体とは密接につながっております。両者は絶え間なく反応し合っております。物的身体はその存在自体を霊的身体に依存しておりますが、霊的身体は物的世界での顕現を物的身体に依存しております。つまり霊的身体の成長を決定づけるのは、物的身体を通して得られた体験です。

――物的身体はエーテル体を原型としているのでしょうか。

そうです。

――すると病気になった時に治療するのはエーテル体の方でしょうか。

それが全ての霊的治療の原則です。必ずしもそうでないこともあります。時には純粋に物的原因によるものがあり、そこに医学の入る余地があるのですが、物的身体に影響を及ぼすものは霊的身体にも影響を及ぼし、同様に、霊的身体に影響を及ぼすものは物的身体に影響を及ぼします。

――すると必ずしもエーテル体を治療する必要はないということでしょうか。

必ずしも必要ではありません。要は原因がどこにあるかによります。霊体に原因があれば霊体を治すことによって肉体の病気も治ります。が、純粋に肉体的原因から生じているのであれば、霊的手段よりも物的手段の方が効果が出やすいでしょう。

あなたは今この時点ですでに一個の霊的存在です。しかし、あなたの存在を表現する時は霊的身体と同時に物的身体を用いているのですから、物的世界の感覚を受けとめるには物的身体の世話になっているわけです。地上世界で起きていることは全て物的身体に反応し、それがさらに霊的身体へと反応します。

同じように、霊的身体に反応したことは全て物的身体にも反応します。そうしたエネルギーの作用と反作用が絶え間なく発生しているのです。物的・精神的・霊的の三種類のエネルギーが絶え間なく交錯しているということです。

――伝染性の病気は純粋に物的原因によるのでしょうか。

そうとは限りません。病気には物的原因ではなく霊そのものから発しているものもあります。

――例えばどんな原因でしょうか。

利己主義、どん欲、金銭欲といったものです。イエスが「あなたの罪はもう許されましたよ」と(癒された患者に)述べた話はご存じと思いますが、病気の原因には物的なものと霊的なものの二種類があることを知らなくてはいけません。両方とも同じ方法で治すことができますが、物的な方法の方が容易なケースもあります。

ただ、霊的身体が病むとか物的身体の病気の原因になると表現しましたが、霊的身体そのものが実際に病気になっているわけではありません。物的身体との調整がうまく行っていないというだけのことです。それがバイブレーションを乱し、物的身体との関係の阻害の度が過ぎると、物的身体に病気が発生するということです。怒りを抱くと脾臓を傷めますし、嫉妬心は肝臓を害します。

そうしたものが原因となって調整不良が生じるのです。それまでしっくり行っていたバランスが崩れて調和が乱れます。その崩れ方があまりにひどいと霊体が肉体を通してその表現が不可能になり、死が生じます。

――片腕を失った場合、それはエーテル体にどういう影響を及ぼすでしょうか。

直接の影響はありませんが、肉体の腕が欠けたことによって、エーテル体の腕としての機能を果たせなくなります。だからといって取り返しのつかない事態になるわけではありません。埋め合わせは必ずできます。ただ、そのためには色々な要素を考慮しなければなりません。

人間は物的身体と霊的身体、そして両者を結びつける生命の糸、この三つの要素から成り立っています。病気や虚弱や老化が物的身体をむしばみ、霊的身体との調和が崩れはじめます。それは霊体が肉体から離れるための自然な成り行きです。病気にも純粋に肉体的のものと精神的なものと霊的なものとがあります。腕の骨折は霊的治療でも治せますが、物的処置の方が簡単でしょう。

――遺伝性の病気は神の公正の原理と矛盾しませんか。

地上へ生まれ出る時に授かる身体は、授かるべくして授かったものです。つまり前世の中身に照らして相応しいものを携えて新たな地上生活を始めるのです。ですから、遺伝性の病気をもって生まれたからといって、それを不利と見るのは間違いです。当人の霊的進化にとって必要な人生を送らせるような身体を授かっているのです。

――霊的治療でも治る人と治らない人がいます。魂の進化という観点から見て両者は質的に異なるからでしょうか。

そうではありません。地上を去るべき時機が到来したら、いかなる治療家もそれを阻止することは出来ません。

――でも、治療家の世話にならなかったらもっと早く死んでいたと思えるケースがあるようですが……

数日とかそこいらの話です。永遠の生命に照らしてそれがどれほどの意味があるのでしょう?

――すると霊的治療そのものが不要ということになりませんか。

それは違います。なぜなら、人のためになることをすることは大霊の心を顕現させることになるからです。病気の多くは必ずしも魂の進化の低さのせいではありません。単に無知から大霊の摂理に反することをしたからに過ぎないものがあります。それは、魂の進化の程度がその摂理の存在を理解する段階まで到達していないためであるという観方もできます。魂の進化が進んで完全に摂理にのっとった生き方ができるようになれば、病気はしなくなります。

――同じ原因で病気になりながら、一方は治療家によって治り、もう一方は(治療家との縁がなくて)治らないというのは不公平ではないでしょうか。

あなたは病気になった人が霊的治療家のところへ行くのは偶然のしわざだと思っておられるのですか。偶然というものはあなた方の世界にも私たちの世界にも存在しません。断言します――大霊の摂理は完ぺきです。そのうちあなたも摂理の働きをつぶさに理解して、私と同じように、その完ぺきな摂理を生み出した完ぺきな愛の存在に気づいて、驚異の念で陶然となることでしょう。

誰しも――この私も含めてのことですが――暗闇の中で模索し、時たま光を見出し、摂理を洞察し、驚異の念に打たれます。しかし、暗闇の中にいて摂理の存在に気づかない時は、偶然とか偶発の出来事であると考えたがります。が、改めて申し上げますが、偶然というものは存在しません。

そう言うと、では自由意志はどうなるのかとおっしゃるに相違ありません。お答えしましょう。人間にも自由意志はあります。しかし、自由のつもりでいても、それはその段階での魂の進化の程度に支配されているのではないでしょうか。自由とは言っても魂の成長度によって規制されているということです。宇宙をすみずみまで支配している法則によって縛られているといってよいでしょう。いかに巨大な星雲であろうと、極微の生命体であろうと、その法則から遁(のが)れることはできません。何一つ遁れることはできません。大霊の摂理は完ぺきなのです。

――霊的治療と磁気治療とはどこが違うのでしょうか。

まったく違います。磁気治療は治療家自身から出る磁気エネルギーによって治します。霊的治療は治療家の波動が霊界の治療家の波動と一体となり、通常では物質界の圏内には届かない治癒エネルギーがその治療家を通して流入するのです。

――一卵性双生児が同じ病気になり、医学では不治と宣告されたとします。その場合でも、二人ともそちらのエネルギーで治せますか。

私にはどちらとも断言できません。痛みを和らげたり病気を完治させたりする霊的エネルギーが存在することは事実ですが、それが効力を発揮するには、その通路となる治療家の適合性が問題となります。現段階の地上界では、大霊の最高の治癒エネルギーは使用できません。治療家が霊的に向上するにつれて、より高いレベルのエネルギーが使用できるようになります。霊界の問題であると同時に地上界の問題でもあるのです。詮ずるところ我々はみな媒体に過ぎません。この霊媒(バーバネル)の背後に私がいるわけですが、私の背後には私より霊格の高い霊が何人も控えており、その霊たちの背後にはさらに格の高い霊が控えており、その連鎖は無限の彼方にまで延びているのです。

[治療家のW・T・パリッシュの新しい治療所の開設に際して贈られたシルバーバーチのメッセージ]

本日、私は謹んでこの治療所を大霊とその子等のために奉納いたします。ここは物質と霊の二つの世界が融合して一つとなる神聖なる場所であり、大霊の力が顕現する場所であります。

私はこの治療所を心の病める人々、魂の病める人々、そして身体の病める人々、また苦悩の中にいる人々、暗闇の中にいる人々、人生に疲れ生きる気力を失っている人々のために奉納いたします。この場所に来て愛の光に包まれ、癒しを得ることでしょう。

また私はこの治療所を、意気消沈している人々を元気づけ、挫折している人々を奮い立たせ、弱気になっている人々に勇気を与え、疲労こんぱいしている人々の顔に笑みを取り戻させてあげる場として奉納いたします。

どうか皆さんもこの治療所をレンガとモルタルでできた建造物としてではなく霊的聖堂として見てください。壮大な尖塔もなく、神々しく思わせるものは何一つありませんが、神の霊力の宝庫として祝福されたことによって、ここはまさに「神の館」となったのです。

この四つの壁で囲まれた部屋で偉大なるサービスが為されるのです。人生の闘いに疲れ果てた人々、心身ともに衰弱しきった人々、激痛と病魔に苦しむ人々が幾度も訪れることでしょう。

最後の、そして一縷(る)の望みを託して訪れるのです。その人々に霊の力が新たな活力を与えることでしょう。気分を一新し、元気百倍、それまで霊の活動を妨げてきた物的障害が取り除かれることでしょう。

目の見えなかった人が光を見出し、耳の聞こえなかった人が聞こえるようになり、手足の不自由だった人がその不自由さから解放されることでしょう。新たなる希望が湧き出ることでしょう。霊力が人生に立ち向かう勇気を与えるからです。

さらに大切なこととして、魂の琴線にふれて霊が開眼します。ほとんど光らしい光を発していなかった大霊の炎が勢いよく燃え上がり、その体験が新たな悟りをもたらすのです。

そうした仕事をするのに特別仕立ての式服をまとう必要はありません。大学へ通って学問を修める必要もありません。必要なものは自分を役立てたいという熱誠、霊の資質を発現させたいという願望です。

それがあなたのバイブレーションを高め、物質界のために使用されるべきエネルギーの通路として役立てることになるのです。

第7章 神とは何か
〔スピリチュアリストの中にもシルバーバーチの説く神の概念が理解できない人がいるようである。次の質疑応答が参考になるであろう〕

質疑応答
――大霊というのは「誰」なのでしょうか「何」なのでしょうか。あらゆるものに内在する愛、愛の精神ないしは情でしょうか。

大霊とは宇宙の自然法則です。全生命――物質界のものと霊界のもの全て――の背後の創造的エネルギーです。完全なる愛であり、完全なる叡智です。それが全宇宙のすみずみまで行きわたっているのです。人間の知り得た限りの小さなものであろうと、まだ物質界には明かされていないものであろうと、同じです。

あらゆる生命体に大霊が充満しています。あらゆる存在に大霊が内在しています。あらゆる法則の中にも大霊が内在しています。大霊は大霊です、生命です、愛です、全てです。従僕に過ぎないわれわれが一体どうして主人を表現できましょう? ちっぽけな概念しか抱けないわれわれが、どうして広大無辺の存在を表現できましょう?

――スズメ一羽が落ちて死ぬのも大霊はご存じということですが、この地球上の全人口の一人一人の身の上に起きることを神はどうやって知り得るのでしょうか。ましてや、すでに他界した数え切れない人たちの身の上のことまで果たして知り得るのでしょうか。

人間が「神」と呼んでいるのは実は宇宙の自然法則のことです。私の言う「大霊」です。大霊は万物の生命の中に内在しております。生命の全てが大霊であると言ってもよろしい。生命そのものはその事を自覚していますから、大霊は全生命のことを知っていることになります。スズメの生命も大霊ですから、大霊はスズメが落ちるのを知っていることになります。大霊は風にそよぐ木の葉でもありますから木の葉も大霊であることになります。

地上界の全て、霊界の全て、宇宙間のもの全て、そしてまだあなた方に知らされていない世界を通じて、大霊の法則が絶対的に支配しております。その法則から離れて何一つ生じません。全てが法則の範囲で生じていますから、大霊は全てを知っていることになるわけです。

――あなたは、大霊はあらゆるものの中に存在する、全存在の根源である、愛にも憎しみにも、叡智の中にも愚かさの中にも存在する、とおっしゃっています。その論法でいくと、間違ったことをする人間も正しいことをする人間も大霊の摂理の中で行動していることになります。同じことが戦争と憎しみを煽動する者と平和と愛を唱道する者とについても言えるように思います。となると誰一人として神の摂理を犯す者はいないことになりますが、この矛盾をどう説明されますか。

一方に「完全なるもの」があり、他方に「不完全なるもの」があります。しかし、不完全なるものもその内部に完全性の種子を宿しております。なぜなら完全性は不完全性から生じるものだからです。完全性は完全性から生まれるのではなくて不完全性から生まれるのです。

生命の旅路は進化です。進歩です。向上を求めての葛藤です。発達・発展・拡大・拡張です。あなた方が善だとか悪だとか言っているのは、その旅路における途中の段階の高い低いの善に過ぎません。終着点ではありません。あなた方の判断はその中途の不完全な理解力によって行われているのであって、善だと言ってもその段階での善であり、悪だと言ってもその段階での悪に過ぎません。その段階での判断に過ぎません。その時の事情との関連で判断した結果であって、その事情から離れればまた別の判断をするかも知れません。しかし、いかなる事情にも大霊が宿っているということです。

――すると地震にも大霊が関わっているのでしょうか。

大霊とは法則です、摂理です。それが全てを支配しています。摂理に関わりなく生じるものは何一つありません。

地震、雷、嵐――こうしたものが地上の人間の理解力を惑わしていることは私もよく承知しております。しかし、それらも大霊の支配する宇宙で発生しているものの一部です。宇宙は、そこに生を営む者が進化するように、やはり進化しています。中でもこの物質界は完全からほど遠い存在です。まだまだ完全性には届きません。これからも高く高く進化して行くのです。

――大霊も進化しているということでしょうか。

それは違います。大霊は摂理であり、その摂理は完ぺきです。ただ、物質界で顕現している部分が「顕現の仕方」において進化しつつあるということです。その点をよく理解してください。地球も進化していて、地震や雷などの天変地異はその進化のしるしであるということです。地球は火焔と嵐の中で誕生して、今もなお完成へ向けてゆっくりと進化しているのです。

日の出と日の入りの美しさ、夜空に輝く天の川の美しさ、小鳥のさえずりの愉しさに大霊の存在を偲びながら、雷雨や嵐や稲妻は大霊とは関係ないというのでは理不尽です。全ては大霊の法則の働きによって生じているのです。

その意味では、堕落した人間や同胞に害を及ぼすような人間も大霊の責である、と言ってもあながち間違いではありません。しかし忘れないでいただきたいのは、人間の一人一人に、霊性の進化の程度に応じてそれ相応の自由意志が与えられているということです。霊的段階を高く上れば上るほど、自由意志を行使できる範囲が広くなります。つまり現在のあなたは、霊的に言えばそこまでが限界ということです。が、その段階で生じる困難や障害は、大霊の一部を宿しているが故に全てを克服できるのです。

霊は物質に優ります。霊が王様で物質は従僕です。霊は全てに優ります。全生命が生み出されるエッセンスです。霊は生命であり、生命は霊です。

――大霊はこの宇宙とは別個に存在するのでしょうか。

そうではありません。宇宙は大霊の物的反映に過ぎません。大霊は物的宇宙と霊的宇宙にまたがる全体の統一原理です。

ハエに地球が理解できるでしょうか。魚に小鳥の生活が分かるでしょうか。犬が人間のように理性を働かせることが出来るでしょうか。星に空全体が分かるでしょうか。人間的知性を遥かに超えた大霊があなた方に理解できるでしょうか。

それはできないに決まっています。でも、口に一言も発することなく、皆さんの魂の静寂の中で霊が大霊と交わることが出来るまでに霊性を磨くことは可能です。その瞬間には皆さんと大霊とが一つであることを実感します。それがどういうものであるかは人間の言語では説明できませんが、自分の魂と森羅万象とが一つであることを静寂の中で悟ります。

――霊は、意識ある個性をそなえるためには物質との接合が必要なのでしょうか。

その通りです。意識をそなえるためには物的媒体をまとって、物的体験をしなければなりません。それによって物質から霊へと進化するのです。物質との合体が物的個性を通しての表現を可能にするという意味です。霊は物質をまとうことによって初めて自我を自覚するのです。

――そうなると大霊はわれわれを通して体験を得ているということでしょうか。

それは違います。あなた方の進化がすでに完ぺきなものに影響を及ぼすことはありません。

――でも、われわれは皆、大霊の一部です。その一部の進化は全体に影響を及ぼさないでしょうか。

あなたを通して顕現している部分に影響を及ぼすに過ぎません。その一部も本来は完ぺきなものですが、あなた方を通しての顕現の仕方が不完全だということです。霊はそれ自体は完ぺきです。宇宙の根源的要素です。生命の息吹きです。ただ、あなた方が不完全であるがために、あなた方を通しての顕現の仕方が不完全ということです。あなた方が進化するにつれて、より完全なものが顕現するようになります。あなたが霊を進化させているのではありません。霊が自我を顕現するための媒体を進化させていると言ってよいでしょう。

――霊が自我を発現するための物的媒体にもいろいろな形態があるということでしょうか。

その通りです。摂理は完ぺきなのです。が、あなたを通して顕現している摂理は、あなたが不完全であるがゆえに不完全なのです。完ぺきな摂理はあなたを通して顕現できません。しかし、あなたが完全へ向けて進化するにつれて、大霊の摂理がより多くあなたを通して働くようになるのです。

鏡と光の譬えで説明しましょう。鏡は光を反射するものですが、鏡が粗悪であれば光の全てを反射することが出来ません。鏡を磨くことによってより多くの光が反射するようになります。

全存在が絶え間なくより一層の顕現を求めて努力しているのです。すでに申し上げたと思いますが、生命(霊)とは黄金のようなものです。つまりその本来の姿を現すまでには原鉱を砕き、手間を掛けて磨き上げなくてはなりません。「原鉱はいらない、黄金だけくれ」――こんな要求は通りません。

――しかし、われわれにも何が善で何が悪かの概念はあると思いますが……

それは、その時での概念です。進化の過程で到達したその段階での顕現に過ぎません。さらに進化すれば捨て去られます。完全なる摂理が、正道から外れた媒体を通して顕現しようとしている、その不完全な表現に過ぎません。私が完全にも不完全にも存在意義を認めるわけはそこにあります。

――ということは、神は、その原初においては必ずしも善ではなかったということでしょうか。

私は“原初”については何も知りません。“終末”についても何も知りません。知っているのは、大霊は常に存在してきて、これからも常に存在し続けるということだけです。その摂理の働きは完ぺきです。仮にあなたが完ぺきな光を放っても磨きの悪い鏡では完ぺきに反射してくれないという譬えはお分かりいただけると思います。それを、光が不完全だ、悪だ、とは言えないでしょう。それと同じで、内部には完全な霊を宿していても、媒体を通してそれを完全な形で表現できないだけのことです。人間が“悪”と呼んでいるのは“不完全”のことです。大霊の表現が不完全だということです。

――宇宙には創造力をもつ一個の存在、ないしは一人の絶対的存在がいるだけで、われわれには創造力はないという考えは正しいでしょうか。

大霊は無限の過去から存在し、無限の未来にも存在します。全生命が大霊であり、大霊は全生命です。あなた方に一体何が創造できましょう。しかし、霊性が進化するにつれて、より美しく、より高く向上します。進化の程度が低いほど宇宙における存在の位置が低くなります。

第8章 祈りの効用
〔祈りの効用の問題はスピリチュアリズムに限らず、あらゆる宗教においてもよく論じられるテーマである。つまり祈れば神が必ず聞き届けてくださるかということであるが、祈りの作用にも摂理があり、その摂理に適えば効果を生み、適わなければ何も生じないということを知っている人は少ないようである。本章も質疑応答の形で祈りの問題を検討してみる〕

質疑応答
――祈るということは大切でしょうか。

その祈りがどういうものであるかによって答えが異なります。決まり文句のただの繰り返しでは空気に振動を起こすだけです。が、魂の奥底からの誠心誠意の祈り、大霊との交わりを深め、大霊の道具としてより有用な存在となりたいとの願望から出た祈りは、その祈りそのものが霊性を強化し、大霊の道具としてより相応しい存在にします。その種の祈りは自我を顕現せんとする行為であり、心を開く行為であり、私たち霊側との結束を固めることにもなります。

――おっしゃるのは、祈りが生み出す結果は主観的なものだけで客観的なものは生み出さないということでしょうか。人間性を高めることはあっても具体的なものは生み出さないのでしょうか。

祈りの本質は、人のためのサービスという行為へ向けて魂を整えることです。より高度なエネルギーと調和するための手段です。誰かが作文した祈りの文句を意味も分からずに繰り返すのではなく、全身全霊をこめて可能なかぎり高い次元の波動に合わせようとする行為のことです。それに呼応して注ぎ込まれるインスピレーションに満たされて霊性が強まります。

――人のために祈るということも何か効用があるのでしょうか。

あります。真摯な祈りは決して無駄にはなりません。意念には生命力が潜在しているからです。

――治療家による遠隔治療の祈りには特別な効果があるのでしょうか。

あります。これまでのご質問は一般個人の祈りを念頭にお答えしてまいりましたが、同じことがどの祈りにも当てはまります。要するに祈るということは霊的エネルギーを放出することですから、それを霊的治療家の背後霊団も活用しています。

――他の手段では得られないものを祈りによって霊界から授かることは可能でしょうか。

衷心からの祈りは、その祈りそのものの力によって波動を高め、より高度なエネルギーを活用することが出来るようになります。祈るという行為そのものが魂を開かせるのです。もちろん全身全霊をこめた祈りのことです。お決まりの文句の繰り返しでは祈りとは言えません。真実の祈りは偉大なる霊的行為です。祈りはあくまでも手段であって目的ではない――これが最も正しい表現でしょう。

祈りの言葉はたった一言しかありません。「何とぞ私を人のために役立てる方法を教え給え」――これです。「大霊のため、そして大霊の子等のために一身を捧げたい」――この願いより崇高なもの、これ以上の愛、これに勝る宗教、これより深い哲学はありません。どのような形でもよろしい。大霊の摂理の霊的な意味を教えてあげることでも、飢えに苦しむ人に食べるものを与えてあげることでも、あるいは暗い心を明るく晴らしてあげることでもよろしい。人のために役立ちさえすれば、形式はどうでもいいのです。

自分のことより他人のためを優先し、自分の存在を意義あらしめるほど、それだけ霊性が発達します。それはあなた方の一人一人の内部に宿る大霊が発揮されるということです。至って単純なことなのです。ところが人間は教会を建立し、何やら難しい説教をします。私にも理解できない難解な用語を用い、また、これぞ宗教とばかりに仰々しい儀式を行います。

そんなことよりも、生きる意欲を失くしている人のところへ出かけて行って元気づけてあげ、疲れた人に眠る場を与え、飢えに苦しむ人の空腹を満たしてあげ、渇いた人の喉を潤してあげ、暗闇に閉ざされた人の心に明るい真理の光を灯してあげることです。そうしたことを実行している時、あなたを通して大霊の摂理が働いていることになるのです。

――祈りがまったく叶えられないように思えることがあるのですが、なぜでしょうか。

人間各自の内面では常に“人間臭いもの”と“神性を帯びたもの”との間で葛藤があります。後者が勝てば大霊と一体となった喜悦を味わいますが、前者が勝った時は味気なさを味わいます。そうした中で私たちは、本人がこうなってくれればよいのだがと思う方向よりも、こちらから見てこうなった方が本人の存在価値をより大きく生かすことになるという方向に導かねばならないことが、よくあります。

この(サークルが開かれている)家には毎日毎夜、一団の霊が訪れています。その一人一人が高い世界への向上の権利を一時的に放棄して、地上の暗闇に光明をもたらすべく、ここに光のサークルをこしらえるための環境づくりに携わっているのです。そうした使命に比べれば、地上の些細なトラブルなどは物の数ではありません。

一方には身体を横たえる場所もなく、家らしい家もなく、青空天井の下で寝なければならず、身体が風雨にさらされる者がおり、また一方には身体を養うだけの食べものにありつけない者がいるというのに、あなた方がこうあってほしいと祈るその願いが、大霊の目から見て大事だと思いますか。

皆さんにこれだけは忘れないでいただきたいと思うのは、皆さんの一人一人が大霊の素晴らしい計画に参画し、わずかではあってもその意匠に織り込んでいるという事実です。いつの日か全体が織り上がった時には、地上の全人類の肌の色が見事にブレンドして織り上がっていることが分かるでしょう。その時こそ完全な地上世界となった時です。

さて、ご質問の、何の反応もない時のことですが、実はその時でもそれなりに刺しゅうは織り込まれているのです。毎日毎夜、地上界の巨大な織物は休むことなく織り続けられ、ついには地上全体を被うまでに至る、その一端を皆さんも担っているのです。

もう一つの見方として、地上の人間はとかく、もしその通りに叶えてあげたら魂の成長にとって良くないこと、進歩を遅らせることになるものを要求しがちです。これは叶えてあげるわけにはいきません。また、そんなものを手にする資格のないものを要求していることもあります。これも叶えられません。さらには、こちら側ですでに授ける準備をしていて、そのタイミングを図っているものを要求することもあります。大霊は全ての人間の祈りを、たとえ口に出さなくても、先刻ご承知であることを知ってください。

――各地の教会で繰り返されている祈りは何か効果があるでしょうか。

祈りの言葉を述べる人によって異なります。口先だけの祈りでは、無意味な音声の無駄に終わります。もしも衷心から祈り大霊に近づきたいとの願いから出た祈りであれば、その熱誠そのものが祈りに翼を与え、霊界の深奥へと運ばれることでしょう。

――酒浸りの親を更生させたいという祈りは、仮に幼い子供によるものであっても効果を発揮するでしょうか。

真摯な祈りには必ず霊力が伴うものです。が、その霊力がどこまで物的効力に転換されるかとなると、いろいろな条件を考慮しなければなりません。今おっしゃった例で言えば、その子供の祈りが父親の魂に響くか、それとも霊性が堕落して何の反応も示さないかのどちらかが考えられます。ご質問には私はイエスともノーとも言えません。

――でも、何らかの影響はあるでしょう?

自然に湧き出る祈り、役に立ちたいと願う祈り、知識や光明、叡智、導きを求める祈り、こうした祈りは魂の進化の表れです。あなたの精神はその身体ではなく霊の一部です。霊は大霊の一部ですから神的属性を秘めています。しかしそれを開発するには魂の進化が先決です。それなくしては顕現しません。

――祈りはただ言葉に出しさえすれば霊に聞こえるのでしょうか。それともある種の波動に反応するようなパワーに乗せて放散しないといけないのでしょうか。

祈りとは魂の表現です。そのことを分かり易く説明しましょう。祈りとは光明と導きを求めての魂の叫びです。その行為そのものが回答をもたらすのです。なぜならその行為が思念のパワーを生み出すからです。

そのパワーが原因となって回答を生み出します。その回答が結果です。霊はあなたが何を祈るかを待っているわけではありません。その必要はないのです。祈りの思念そのものが、その波動のレベルの界層の霊に届くのです。あなたの魂の進化の程度に応じた界層です。

当然その霊たちも役に立つことを切望していますから、あなたの思念のパワーにその霊たちのパワーが加わって、一段と強力となります。あなたが生み出した思念が新たな活動を呼ぶわけです。あなたの霊性のレベルに応じた段階での宇宙のエネルギーを動かすのです。と言うことは、そのエネルギーをあなたも活用することが出来るようになったということです。

祈る人の進化の程度によっては、ある一つの理想の要求に向かって意念を集中しなければいけないことがあるかも知れません。その方が有効だという人に私はあえて異議は唱えません。ただ私が申し上げたいのは、大霊、生命の摂理、宇宙の自然法則、こうしたものを基盤にして考えないといけないということです。

大霊は完全なる存在ですから、当然、大霊の摂理・法則も完ぺきです。その完全なる大霊の一部があなた方の内部に潜在していて、その発現を求めているのです。祈りやサービスによってそれを発現させるということは大霊があなたを通して働くということになります。そうしたもの、要するに魂の成長を促すものは全てあなたの霊性の進化を促しているのです。

――全てのものが不変の法則によって支配されているのであれば、大霊に祈っても意味がないのではないでしょうか。と言うのは、祈りとは大霊に法則を変えてくれるように依頼することではないかと思うからです。

それは私が理解しているところの祈りとは違います。祈りとは大霊に近づかんとする魂の願望です。祈りとは自己の内部の大霊を顕現せんとする願望であり、その行為が魂を開かせ、それまで届かなかった界層まで至らしめるのです。

そこには不公平も、えこひいきもありません。内部の大霊をより多く発現し、より多くの恩寵を授かるための、魂の活動です。大霊の恩寵は無限であり、あなたの魂もその無限性を発現せんとする無限なる存在です。

――なぜ人間は神に許しを乞うのでしょうか。摂理を犯せば必然的に罰が与えられると思うのですが……

許されればそれで償いが済むわけではありません。代償は必ず支払わねばならないのですから。許しを乞うという行為は、大霊の摂理と調和しようとする行為の始まりです。内省し、魂が自己批判をしはじめたことの証です。そこから本当の進化が始まります。

第9章 キリスト教のどこが間違っているのか
〔これから紹介するシルバーバーチのキリスト教批判は、いささか酷なのではないかと思われる向きも少なくないことであろう。が、シルバーバーチをよく知る人ならば、シルバーバーチという霊が批判めいたことを口にする時は、よくよくの根拠がある時に限られることをご存じであろう。常に「理性」に訴え、理性が納得しないものに対しては、いかに権威のあるものでも頭を垂れない〕

宗教的信条ないしは教条は、地上界のいわゆる夾雑物の一つです。これは見方によっては疫病や伝染病よりも性質が悪く、身体的な病よりも危険です。なぜなら、それが「魂の病」を生み出しかねないからです。霊性が目隠しをされてしまうのです。

なのに地上人類は、大霊の無限の叡智が存在するにもかかわらず、教条にしがみつきます。もっとも、中には教条に縛られている方が気楽だと考える人もいます。しょせん「自由な人」とは、自由であることの本当の有り難さを知った人のことです。ここにおいでの皆さんは教条の奴隷の状態から脱したことを喜ぶべきです。喜ぶと同時に、今なお奴隷状態にある人を一人でも解放してあげるべく努力してください。

私たち霊団の者は皆さんにいかなる教義も儀式も作法も要求しません。ただひたすら大霊の愛の実在を説くだけです。それが、大霊の子等を通して発現すべく、その機会を求めているからです。そのためには、いかなる書物にもいかなるドグマにも縛られてはいけません。いかなるリーダーにもいかなる権威にも、またいかなる巻物にもいかなる教義にも縛られてはなりません。

いかなる聖遺物を崇めてもいけません。ただひたすら大霊の摂理に従うように心がけるベきです。摂理こそが宇宙で最も大切なものだからです。宇宙の最高の権威は大霊の摂理です。

教会と呼ばれているものの中には中世の暗黒時代の遺物が少なくありません。そもそも大霊はいかなる建築物であってもその中に閉じこめられる性質のものではありません。あらゆる所に存在しています。石を積み重ね、その上に尖塔をそびえ立たせ、窓をステンドグラスで飾ったからといって、大霊が喜ばれるわけではありません。

それよりも、大霊が用意してくださった太陽の光が子等の心を明るく照らし、大霊が注いでくださる雨が作物を実らせることの方が、よほど喜ばれます。ところが、残念なことにその大霊の恩寵と子等との間に、とかく教会が、政治家が、そして金融業者が介入します。こうしたものを何としても取り除かねばなりませんし、現に今まさに取り除かれつつあります。

霊力を過去のものとして考えるのは止めにしないといけません。ナザレのイエスを通して働いた霊力は今なお働いているのです。あの時代のユダヤの聖職者たちは、イエスを通して働いている霊力は悪魔の力であるとして取り合いませんでしたが、今日の聖職者たちもスピリチュアリズムでいう霊力を同じ理由で拒絶します。しかし、地上界も進歩したようです。その霊力を駆使する者を十字架にかけることはしなくなりました。

イエスが放った光輝は、あの時代だけで消えたのではありません。今なお輝き続けております。そのイエスは今どこにいると思われますか。イエスの物語はエルサレムで終わったとでも思っておられるのでしょうか。今なお苦悩と混乱と悲劇の絶えない地上界を後にして天上界で賛美歌三昧に耽っているとでもお思いですか。

私たち霊界の者からの働きかけを信じず悪魔のささやきかけであると決めつけているキリスト教の聖職者たちは、その昔ナザレのイエスに同じ非難のつぶてを浴びせたユダヤ教の聖職者たちと同列です。イエスは私たちと同じ大霊の霊力を携えて地上界へ降誕し、同じ奇跡的現象を起こして見せ、同じようなメッセージを届けました。即ち、喪の悲しみに暮れる人々を慰め、病める人々を癒し、暗闇に閉ざされた人々に光をもたらし、人生に疲れた人々には生きる勇気を与え、何も知らずにいる人々には霊的知識を授けてあげなさい、と。

私たちもあなた方も皆、大霊への奉仕者です。その点は同じです。ただ私たちは進化の道程においてあなた方よりも少しばかり先を歩んでおります。そこでその旅先で学んだ知識と叡智を教えてあげるべく舞い戻ってきたのです。奉仕、即ちお互いがお互いのために自分を役立てるというのが、生命原理の鉄則だからです。奉仕精神のないところには荒廃あるのみです。奉仕精神のあるところには平和と幸せが生まれます。地上界は、互いに奉仕し合うことによって成り立つような生活形態を目指さないといけません。それは本当はいたって簡単なことなのですが、なぜかそれが難しい形態となっております。その元凶が実は組織宗教なのです。

誠に残念なことですが、「神の使徒」をもって任ずるキリスト教の聖職者たちには一から学び直してもらわねばならないことが沢山あります。彼らは何の根拠もない基盤の上に神学体系を築き上げました。まさに「砂上の楼閣」です。それがスピリチュアリズムの真理の攻撃にあって危うく崩れそうになるのを必死に支えようとしているのです。

そもそも土台が間違っているのです。イエスなる人物を作り話で取り囲んでいるに過ぎません。そうすることでイエスをゴッドと同じ位の座に祭り上げたのですが、その根拠に何の正当性もありませんから、その非を指摘されると、理論的にはそれを撤回せざるを得ません。しかし、いよいよ撤回するとなると、内心、大きな恐怖心に襲われるのです。

「それを失ったら、あとに何も残らない……」彼らはそういう危惧を抱くのです。が、それは大きな勘違いです。もしも事実という基盤、即ち大自然の摂理の上に成り立っていれば、撤回しなければならないものは何一つないはずです。

ここにこそ私たちが地上界へ舞い戻ってきた理由があるのです。いかなる人物であろうと一個の人間に忠誠を捧げてはいけない。いかなる書物であろうと、いかなる教会であろうと、それのみにこだわってはいけない。いかなるリーダーであろうと、たとえ霊界の存在であっても、絶対的に服従してはいけない。絶対的忠誠を捧げるべきは宇宙の摂理である。なぜなら、これだけは謬(あやま)ることもなければ裏切ることもないから、ということを教える必要があるからです。

だからこそ私たちは大自然の絶対的摂理・法則の存在、それのみを説くのです。それを「スピリチュアリズム」と呼ぼうと何と呼ぼうと構いません。大霊が定めた、宇宙間のありとあらゆる次元、目に見える世界であろうと霊界と呼ばれている界層であろうと、果てしない宇宙のすみずみまでも張り巡らされている摂理・法則であることを理解していただけば、それでよろしい。

地上界ではリーダーが重んじられてきました。それは決して悪いことではないのですが、問題はその偉大さが過大評価されて、そのリーダーが全能視されるようになってから面倒が生じはじめました。そのリーダーの教説が絶対視されるようになり、それが科学者を、思想家を、そして精神だけは自由でありたい、理性が反発するものは受け入れたくないと思っている真っ正直な人々に窮屈な思いをさせることになりました。

そこで私たちは大霊の摂理の存在を強調するのです。その摂理の正しい理解こそが全知識を調和させるからです。科学者や哲学者、自由思想家、その他いかなる分野の人でも反発を覚えさせることはありません。永遠に不変で謬ることのない、大霊の働きを土台としているからです。

こうした、一見何でもなさそうな私たちの働きかけ、即ち宇宙の絶対的摂理を説くということの背後に、地球浄化に携わる高級霊団の叡智を読み取ってください。地上人類は叡智と理解力が向上するにつれて、大霊の摂理に従って生活を規制していくようになります。摂理に忠実に従うことの大切さを悟るようになります。言い換えれば、地上界で生み出される悲劇や飢え、苦難や悲嘆の原因は、大霊の摂理が素直に守られていないという、ただそのことに尽きることを悟るようになるでしょう。

そうした不幸は大霊の庭にはびこる雑草のようなものでして、せっかくの美しさを台無しにしてしまいます。それを取り除くには理解力の進歩が先決です。そこで私たちがこうして大霊の摂理の存在を説くのです。人類の魂を解き放し、精神的に自由にしてあげるためだけではありません。身体的にも大霊の法則と調和して生きていけるようにしてあげたいのです。

キリスト教に私が我慢ならないのは、説くチャンスはいくらでもありながら、本当の事実を信者に明かそうとしないからです。

また私が我慢ならないのは、本来はその代弁者たらんとしているはずのナザレのイエスを裏切るようなことばかりしていることです。

さらに許せないのは、そのイエスを神の座に祭り上げて、物質界の子等の手の届かない存在としてしまっていることです。これではイエスが意図した人間としての生き方の模範ではなくなってしまうからです。

本当なら教会の入り口には「我等が忠誠を捧げるのは真理、ただ真理のみ」とあるべきところを、実際には「我等は信条を説き、教義を旨とし、儀式を重んじ、祭礼を絶対視する」と書かれております。教会はまるで真理に敵対するための手段となっております。

決して私は、聖職者になって神に仕えたいと真摯に望んでいる人を非難しているのではありません。そういう人が少なからずいることは私もよく知っております。私が非難しているのは「組織」です。真理への道を閉ざし、古い慣習を温存し、霊力という活力溢れるエネルギーの入る余地をなくしている、硬直した教会の体質です。

そんな教会にどうして霊力が受け入れられましょう? そこには「立入禁止区域」というものが設定されているのです。

私たちは宇宙の大霊と自然法則の存在を説きます。その法則の働きの証をお見せする道具のようなものです。そしてナザレのイエスの本来の人となりをお教えして、イエスもやはり大霊の道具であり、地上の人間も大霊から授かった霊力を発揮しさえすればイエスと同じ生き方が可能ですと申し上げているのです。

信条・ドグマ・教義・儀式・祭礼・ステンドグラス・祭壇・法冠・外衣――こうしたものが一体宗教と何の関係があるというのでしょう? 宗教とは霊性に関わるものです。全ての創造物に宿り、生命のあらゆるリズムと現象となって顕現している霊性、大自然のあらゆる側面に顕現し、人類の進歩のために寄与している理想主義者や改革者を鼓舞している霊性、それが一個の教義と何の関わりがあるのでしょうか。

自由であるということがどういうことであるかを悟らねばなりません。魂を牢に閉じこめてはいけません。周囲を垣根で取り囲み、新しいインスピレーションを拒絶するようなことをしてはいけません。真理の道は永遠に尽きることのない探求です。その境界線は無限に広がり続けます。魂が進化するほどに精神もそれに反応していくものです。

知識にも真理にも、叡智にも成長にも、これでおしまいという極限がないことを悟った時、その時こそ本当の意味で「自由」となるのです。内心では間違っていると感じていること、理性が得心しないことを潔く捨て去った時、その時こそあなたは「自由」となるのです。知性が反乱の雄叫(おたけ)びを上げたのです。新しい真理の光で自分の間違いに気づき、怖じけることなくそれを捨て去った時、あなたは本当の意味で「自由」となるのです。

知識は、それを求める用意の整った魂には自由に分け与えられるものです。が、そのためには大いなる冒険の旅に出る覚悟が要求されます。当てもない求道の旅です。冒険と危険への覚悟も必要です。人跡未踏の地を歩まねばならないかも知れません。しかし、真理の指し示す所へは臆することなく突き進み、間違いと分かったものは、たとえ何千年ものあいだ金科玉条として大切にされてきているものでも、潔く捨て去る勇気がなくてはなりません。

地上人類は古い神話や伝説を、ただ古くからあるものというだけの理由で大切にしすぎております。真理と年代とは必ずしも手を携えて進むものではありません。幼少時代に教え込まれ大切にしてきた信仰を捨て去ることが容易でないことは私もよく承知しております。しかし、魂が真に自由になるには、理性が納得しないものは潔く捨て去ることが出来るようでなくてはなりません。

(教義や儀式などの形骸にとらわれて)霊界からの生きたエネルギーに直に接することを知らないが故に、地上界はどれほど霊性を失ったことでしょう。迷信や無知の壁を切り崩さんとする私たちの努力は、これから先、一体どこまで続けなければならないのでしょう?

もっとも、あなた方が想像するほど長くは掛からないでしょう。周りを見回してご覧なさい。崩壊の兆しが至る所に見られます。堅牢を誇った見栄の象徴の砦が、今まさに崩れ落ちつつあります。そのうち皆さんの真理の雄叫びが、それを完全に突き崩してしまうことでしょう。

質疑応答
――キリスト教でもそうですが、古い時代の偉大な宗教家の最期はとかく自然現象が伴い、神話や伝説に登場する神々の名前と結びつけられているのですが、なぜでしょうか。

それは、地上の人間が自分たちのリーダーには超自然的な能力があったと信じたくて、太古の神話や伝説を借用したからです。大自然の現象にも法則があるということを知らなかったのです。この人こそ我等が救世主、と信じた人物を凡人の手の届かない位置に祭り上げたかったのです。それで互いに神話・伝説を借用しあったのです。しかし、どう飾ったところで大霊の使者が届けた教えに何の影響も及ぼしておりません。その時代その時代にふさわしい真理と叡智と愛を反映していたからです。

――そうした人物の生死が、冬のあとに春が訪れるように、自然界の営みに従って繰り返されているように思えるのは、ただの偶然でしょうか。

頭に浮かべておられるのが、例えばナザレのイエスが処刑された時に大嵐になって稲妻が走ったという話でしたら、それは作り話です。ですが、死んでいった人物の霊が戻ってくるというのであれば、それは事実です。大霊の使者が何度も舞い戻ってくるというのは、よくあることです。

――聖霊に対する罪というのは何でしょうか。

聖霊の存在を否定することです。

――聖霊とはそもそも何なのでしょうか。

物質界へ注がれる霊力のことです。キリスト教では抽象的な意味でその存在を認めていながら、それが人類の誰にでも注がれるものであることは否定します。こうして皆さんと語り合うことを可能にしているのが霊力なのです。ほんの一時的ではあっても霊界と地上界とが一つの目的のために一体となることを可能にしてくれるのです。

――聞くところによりますと、洗礼を受けることによって死後その宗派の霊の一団が迎えてくれて、新しい環境を整えてくれることになるそうですが、もしそうだとすると、洗礼を受けていない者はどうなるのでしょうか。

この大宇宙を動かし、物的身体に生命の息吹を吹き込んだ大霊、宇宙の全天体とその動きの法則を司る大霊、ありとあらゆる次元の生命として顕現している大霊、太古から預言者や霊覚者を通して顕現している大霊、全存在の内部と背後に存在する大霊、その大霊が、一個の人間に水滴が垂らされているか否かでお困りになることはありません。

大切なのは地上生活を最高の摂理に忠実に生きたか否かです。赤子に二、三滴の水を垂らしたからといって、それで摂理が変えられるわけではありません。摂理は絶対に変えられません。原因にはそれ相当の結果が生ずるというのが大原則です。

――キリスト教は多くの奇特な人物を生み出していませんか。

そういう人物はクリスチャンになろうとなるまいと立派だったはずです。

――でも、イエスの教えに従おうと心掛けることで立派になった人物もいるのではないでしょうか。

ナザレのイエスを本当に見習うようになった時、その時から人類の歴史はまったく新しい時代を画することになるでしょう。今までの所まだそこまでは至っておりません。少なくとも私にはその兆しが見えないのです。帰依すると公言しているイエスその人を裏切るような生活を送っている人たちのことを、この私の前で「クリスチャン」と呼ぶのは止めてください。イエス自身こう述べているではありませんか――「私に向かって主よ、主よ、と呼びかける者の全てが天国に召されるわけではない。天にまします父の意志を実践する者が召されるのである」と。

――教義というものにあまりこだわらず、無欲で立派な人生を送っているクリスチャンも無数にいると思うのですが……

そういう人はクリスチャンとしては立派とは言えないでしょう。いわばダメなクリスチャンですが、人間としては立派です。教義は必ず足枷になるということを忘れないでください。教義を重んじることで立派になるのではありません。教義を無視しても立派になれるのです。キリスト教国では教義の名のもとに殺し合いと火刑が行われてきました。魂を縛るもの、魂を閉じこめるもの、魂の自由な顕現を妨げるものは、すべからく排除しなくてはいけません。

――ハンセン病患者の居留地へすすんで赴く牧師はどう理解したらよいのでしょうか。

そういう牧師は教義に動かされて赴くのではありません。魂の奥にやむにやまれぬものを感じるからです。宗教は教義ではありません。教義が宗教ではありません。

――イエス・キリストは教会が言っている通り「神の唯一の御子」なのでしょうか、それとも我々と同じ人間であって、ただ並外れた霊的能力を持っていたということなのでしょうか。

ナザレのイエスは大霊の使命を帯びて物質界へ降誕した多くの大霊の使者の一人でした。そして地上で為すべき仕事は果たしましたが、それで使命の全てが終わったわけではなく、今なお霊の世界から働きかけております。

そのイエスを祈願の対象とするのは間違いです。祈願は大霊に捧げるべきであって、大霊の使者に捧げるべきではありません。

またイエスも大霊が定めた自然法則、全ての人間がこの地上界へ誕生するに際してお世話になる法則の働きで誕生しております。この地上界へ生まれ、生き、そして霊界へと旅立って行くに際しては、いかなる人間も大霊の自然法則の働きに与(あずか)るのです。(イエスだけが例外というわけではないということ)

――そのことを立証する言葉が聖書の中にあるのでしょうか。

私が忠誠を捧げるのは大霊の摂理のみです。今もって聖書の片言隻語(へんげんせきご)にこだわる御仁は、大霊というものが今なお活動し、鼓舞し、顕現しつつあるという事実に理解が行くまで放って置くしかありません。

大霊の摂理は今も働いており、ふさわしい道具さえあれば、かつてと同じように大霊の霊力がいつでも流入するのです。あなた方の聖書も立派な書物かも知れませんが、もっともっと素晴らしい書物があるのです。森羅万象がそれです。大霊の法則によってその千変万化の壮大な営みが維持されています。いかに立派な書物も、いかに大切にされている書物も、いくら権威あるものとされている書物も、比ベものになりません。

――イエスは今どこにいるのでしょうか。また何をしているのでしょうか。

「ナザレのイエス」と呼ばれた人物を通して顕現した霊は、二千年前に開始した使命を成就すべく今なお地上界へ働きかけております。その間、数え切れないほど十字架にかけられており、今なお毎日のように十字架にかけられております(その本当の教えが踏みにじられているということ)。しかし、その霊も大霊の一部ですから、地上界へ平和と幸せをもたらすべく、地上の道具を通して今後ともその影響力を行使し続けます。

――あなたが「ナザレのイエス」とおっしゃる時、それはあのイエスと呼ばれた人物その人のことですか、それとも彼を通して働いている霊力のことですか。

イエスと呼ばれた人物のことです。ただし、その後その霊格は飛躍的に進化を遂げ、地上時代とは比較にならないほど意識の次元が高くなっております。地上時代に顕現した意識は必然的にその時代のレベルに同調させられました。とは言え、人類史上でイエスほど霊性が多く発現した人物はいませんし、その発現の次元がイエスほど高度だった人物もいません。

――この二千年の間でですか。

後にも先にもいません。大霊の顕現としては地上界が賜った最大級のものです。といって私たちはそのナザレのイエスその人を崇拝することは致しません。そのイエスを通して顕現した霊力に敬意を表するのです。イエスの存在価値は、その人物を通して顕現した霊力が空前絶後のものだったことにある、というのが私たちの認識です。

――霊界では、さらなる啓示のためにイエスのような指導者を地上へ派遣する計画があるのでしょうか。

時代が異なれば、それに対応して別の手段を講じることになります。忘れてならないのは、現代の地上界は(イエスの時代に比べて)遙かに複雑化しており、国家間の相互依存の傾向が大きくなっておりますから、それなりの対応が必要だということです。民族性の違い、人生思想や生き方の違い等を考慮しなくてはなりません。

一口に霊界からのメッセージといっても、それぞれの国を取り巻く環境・特徴・民族的慣習に対応したものでなくてはなりません。それに、言語その他の制約も受けます。しかし、そうしたものの背後を取り仕切っているのは、イエスの時代と同じ霊力です。

キリスト教ではイエスが「死者」から蘇り、「死後」に姿を見せ、「死」の彼方にも生命があることを証明して見せたことで、そのイエスを崇拝の対象としているわけです。十字架にかけられた時の傷跡まで見せております。その後も弟子たちに姿を見せております。

そうしたことはキリスト教会でも、たとえ証明できなくても信じています。(イエスが神の御子だったからこそ生じた)奇跡だったと信じているわけです。しかし、実はこうして私たちが地上界へ戻ってきて死後の存続を証明し、大霊は無限・絶対の存在であり、その摂理は永遠に不変であること、イエスが蘇ったごとくに全ての人間が蘇るものであることを立証しているのも、同じ法則の働きによることを知ってください。

〔国教会のカンタベリ大主教がラジオ放送で「組織宗教へ帰れ」と訴えたことについて、シルバーバーチが次のようなコメントをした〕

地上界では「宗教に帰れ」という呼びかけがあるそうですが、真の宗教とは同胞に奉仕することによって大霊に奉仕することです。そのためには殿堂も牧師も僧侶も聖典もいりません。そうしたものは奉仕の精神を植え付け同胞への愛の心を強めることにならない限り、何の意味もありません。いつどこにいても人のために役立つことをすることです。同胞の重荷を軽くしてあげることです。それが宗教です。

私は、すでに地球人の多くが直感的にあるいは理性と論理的思考によって悟っている、単純明快な真理を繰り返し説くだけです。私は三千年もの長きにわたって、地上界より遙かに高遠の世界で生活してきました。そこでは常に実在に直面させられ、因果律が即座に作動し、人のために役立つことを心掛ける者が必ず報われます。そういう世界で学んだ真理をお届けしているのです。そこでは地上時代の地位や肩書きといった飾りものが全て剥ぎ取られ、魂はその有りのままの姿を衆目にさらされ、長所と短所が一目瞭然となります。

私はそういう生活の場――本当の価値が認められ、ごまかしが通じず、不公平の存在しない世界からやってまいりました。金持ちも貧乏人もいません。いるとすれば霊性の豊かな人と貧弱な人だけです。強者も弱者もいません。いるとすれば霊的に強い人と弱い人だけです。地上界で大切にしていたものが遠い過去のチリとなって忘れ去られ、永遠の霊的実在のみが存在している世界です。

振り返ってあなた方の世界を見回してご覧なさい。悲惨と絶望の窮状、悲しみと苦悩に満ち溢れております。ということは、手を差し伸べるべき奉仕の場がいくらでもあるということです。無知がはびこり、権力の乱用が大手を振ってまかり通り、偏見がのさばっております。一方に飢餓に苦しむ者がおり、他方には持ちすぎているが故の苦に喘いでいる者がいます。病苦にさいなまれている者、内部に宿る霊を発現する術を知らずに不幸をかこっている者がいます。貧困と苦痛に打ちひしがれ、「クリスチャン」と自負する人々にとって恥さらしとも言うべき、あばら屋で暮らしている人々をご覧なさい。

忘れないでいただきたいのは、そうした地上界も「神の王国」の一つになり得るということです。平穏と豊かさに満ちた「神の国」に変えるための潜在力が秘められているのです。ただ現状は、利己主義という名の雑草が生い茂り、その潜在力が発現を妨げられています。

そこで私たちは皆さん方に奉仕というものを要求するのです。自分を捨て、我欲を捨て、地上的なものよりも天上的なものを優先させ、お一人お一人が大霊のメッセンジャーとなっていただきたいのです。お一人お一人が改革の責務を担い、生活に明るさと生きる喜びと笑い声に溢れさせ、無知と迷信を駆逐して代わって霊的知識を普及させ、暗闇の中で生きている人々に霊的真理の光明をもたらし、恐怖心も喪の悲しみも病気も知らない、愛に包まれた生活の場としていただきたいのです。

第10章 人工的教義と霊的真理
〔英国国教会内部にも教義の解釈の仕方について意見の衝突がある。そこで二十五人の神学者が十五年の歳月を費やして、国教会としての統一見解をまとめる作業を続け、一九三八年一月にようやく「英国国教会の教義」と題する大部の報告書を発行した。その中の幾つかが読み上げられるのを聞いてから、シルバーバーチがその一つ一つにコメントを加えた〕

・「イエス・キリストの復活」は人類史上における極めて特殊な神の御業である。

そんな結論に達するのに十五年も掛かったのですか。ナザレのイエスを裏切っているのは自らクリスチャンと名乗っている人たちである、とはよく言ったものです。

「復活」は生命の法則の一環です。死の到来とともに全ての魂が復活するのです。イエス一人の特殊なものではありません。大霊の子すべてに生じるものです。順序がくれば全ての者が死の関門を通過し、物的身体を置き去りにして、霊的身体で新しい生活を始めます。その死後の生活に備えて、地上生活の間じゅう刻一刻と準備をしております。

イエスが自然法則に反したことをしたことは一度もありません。そもそもイエスが地上界へ降りてきたのは自然法則を体現して見せるためでした。イエスの全ての行為、全ての教えは、大霊の摂理の一部でした。イエス自身こう述べているではありませんか――「こうしたことは皆あなた方にも出来るし、もっと大きな現象も出来るようになるであろう」と。

そのイエスを大霊の子等の近づけない天界の遙か高い位置に持ち上げることは、せっかく彼が地上へ降誕した意義を完全にぶち壊してしまうことになります。なぜなら、イエスの地上人生の究極の目的は、地上の人間が内部の大霊を発現すればこれほどのことが可能なのだという、その手本を実行して見せることにあったからです。

そしてイエスは、霊界へと戻ったあと再び同じ姿を地上の縁ある人々に見せました。これをキリスト教では「復活」と呼ぶのですが、イエス以前にも死後に姿を見せた例は数多くありますし、イエス以後にも数え切れないほどあります。

この宇宙に「特別のもの」というものは存在しません。全てが大霊の法則によって経綸されているのであり、何かが発生したということそれ自体が、法則というものが存在することを証明しているのです。

・洗礼は、幼児洗礼であっても、罪へ陥(おとしい)れる影響力の支配から逃れる手段である。聖人とされる人物でも、もし洗礼を受けていなければ、その意味で欠陥があることになる。

いかなる牧師も魔法の力は持ち合わせません。水を水以外のものに変える力はありません。赤子の額に水を二、三滴振りかけたからといって、それでその子の人生――地上だけでなく死後も含めて――に何の変化も生じるわけではありません。振りかける前も振りかけた後も、ただの水です。牧師にはその成分を変える力はありませんし、法則と違った結果を生み出させる力もありません。

霊性というものは洗礼によって何ら影響を受けません。他人が代わって進化させることが出来るというような性質のものではありません。各自が物質界で送る生活の「質」によって自分で磨くものです。自分の行為が生み出す結果を他人が取り除いてあげることは出来ません。自分で償い、自分で報いを受けることによって精算して行かねばなりません。

「聖人」と呼ばれることと洗礼とは何の関係もありません。物質界における日常生活の中で、可能な限り完全に近い行いをすることによって、少しでも多く神性を発揮する人が「聖人」です。

・当委員会は、神がその気になれば奇跡を生じさせることが出来るという点では一致を見たが、果たして奇跡的現象というものが(心霊学的に)起きるものであるか否かについては意見が分かれた。

さらにもう十五年討議すれば委員会も結論が出せたのでしょうか。何という情けない話でしょう!(聖書にいう)盲人が盲人を手引きしているようなものとは、まさにこのことです。その程度の者たちが人類を手引きしているのです。そして、果たして奇跡的現象というものが起きるものか否かが分からないと、他人事のように言います。(原因がないという意味での)奇跡は存在しません。これまで一度も発生しておりませんし、これからも絶対に生じません。

大霊はあくまでも大霊です。宇宙の絶対的法則であり、その働きは完璧です。完全無欠性によって産み出されたものだからです。その完全無欠性から生まれた法則が万一機能しなくなったら、宇宙は大混乱を来します。大霊が予測しなかった事態が生じて創造機構の手直しを余儀なくさせられることがあるとしたら、大霊は完全無欠でなくなり、不完全ということになります。

(キリスト教でいうように)もしも選ばれた少数の者を寵愛するために奇跡を生じさせなければならないとしたら、大霊は分け隔てをするいい加減な神だったことになり、全生命の背後の無限なる存在ではなかったことになります。

委員会のメンバーは、そのお粗末な概念でもって大霊をつまらぬ存在に仕立てております。法則の裏側にも法則があることを知らず、霊力の存在を知らず、その驚異的な威力を目の当たりにしたことがないために、霊媒を通して演出される現象が理解出来ないのです。

どうやらメンバーたちはイエスにまつわる現象(しるしと不思議)が今日の物理法則と矛盾するところから、「奇跡」というものを考え出さないといけなくなるようです。霊的法則というものが存在することさえ理解すれば、大霊は昔も今も、そして未来永劫にわたって不変です。日常生活の中で霊的資質を発揮すれば、誰にでも大霊の力の恩恵に浴することが出来るのです。

・奇跡は秩序の破壊ではなく神の意思の表現であり、それが自然界の新たな秩序を決定づけることになる。それゆえ決して不合理なものでも気まぐれなものでもないのである。

委員会のメンバーに欠けているのは、宇宙の全法則は無窮の過去から存在し無窮の未来まで存在し続けるという事実についての理解です。地上人類が新しい法則を発見したといっても、それは性能のよい器機の発明によって、それまで知らなかった宇宙の生命活動の一端を知ったというに過ぎないのであって、決して新しいものを創造したわけではありません。無窮の過去から存在していたものを見出したというに過ぎません。

新たに何かを創造するということは絶対に不可能です。いかなるものも、すでに存在していたものの一部に過ぎません。また、大霊の法則を破って何かが発生することも絶対にあり得ません。人間がその存在を知ると知らぬとに関係なく、無窮の過去から全法則が用意されているのです。

従って大霊が新たに法則を考案する必要はありません。宇宙の経綸に必要な法則は無窮の過去から用意されていますし、未来にも用意されています。大霊は完全無欠であるが故に、考え得る限りのあらゆる存在の側面に備えた法則を用意しておられます。

・クリスチャンの立場からすれば聖書は神の特殊な啓示として、唯一無二のものである。

何という精神の暗さでしょう! 一体どこまで迷信の暗闇に閉ざされているのでしょう! その暗闇の何と深いことでしょう! 彼らを取り囲む迷信の暫壕(ざんごう)の、何と頑強なことでしょう!

物質界というものが出現して以来、多くの神の使徒が地上界へ降誕して大霊の真理を啓示してきました。当然それはその時代の言語で告げられました。その啓示の内容は時代の必要性に応じたものであり、その国の事情に応じたものであり、その国民の精神的・霊的発達程度に応じたものでした。要するにその啓示の意味が理解され易い形で――程度が高すぎて手が届かないことにならないようにとの配慮のもとに――届けられていました。

しかし宇宙は絶え間なく進化しております。地上人類が成長し進化すれば、その度合いに応じて新たな指導者、新たな預言者、新たな霊覚者が派遣され、その時代の必要性に応じたビジョン、理想、予言、メッセージ、インスピレーション、霊的真理等が授けられます。

この循環にはお終いというものがありません。なぜなら大霊は完全無欠であり、完全へ向けての進化に終わりはないからです。

新たな啓示は古い啓示とは一貫したもので、矛盾するものではありません。今私たちが説いている真理はナザレのイエスが説いたものを否定するものではありません。そのイエスもモーゼの説いた真理を否定しておりません。そして私たちの後に現れるであろう次代の指導者は、今私たちが説いている真理を否定することはないでしょう。

しかし、明日の大霊の子等は今日の子等よりも一段と高い進化の過程にありますから、その時代に説かれる真理は、今あなた方に明かされているものよりも一段と進歩的なものになるに相違ありません。

・クリスチャンにとってキリストは唯一の、そして不可欠の(神との)調停者である。父(神)とキリストとのつながりは直接的であったが、我々クリスチャンとのつながりはキリストを介して行われる。

これは間違いです。大霊は各人の中に存在するのです。同時に各人が大霊の中に存在しているのです。イエスも「神の王国はあなた方の中にある」と述べているではありませんか。クリスチャンがなぜこうまでイエスの教えを理解していないのでしょう!

(クリスチャンだけでなく)いかなる人間も大霊から切り離されることはありませんし、大霊が人間から切り離されることもありません。

いかに重い罪を犯したからといって、それで大霊から切り離されることは絶対にありません。人間と大霊とを結びつけている絆は切ろうにも切れないものであり、従って罪ゆえに宇宙の孤児となってしまうことはありません。

人間と大霊との絆は、内部にある神性を日常生活の中で発現するにつれて強くなるものです。あなた方一人一人の内部に大霊の分霊が宿されているのであり、大霊と人間との間に調停者が介入する必要などないのです。

ナザレのイエスはそんな目的のために降誕したのではありません。人間はいかに生きるベきか、内部の神性をいかにすれば発現できるかを教えるために地上界へ降りたのです。

キリスト教神学はまさしく物質界にとって「呪い」です。人類にとって大きな手枷・足枷となります。魂を牢に閉じこめてしまいます。それから逃れる道は、霊的啓示を学ぶことによって人工的教義と信条の愚かさに目覚めることです。有限の人間的精神が無限なる大霊の啓示をしのぐことは絶対にありません。

・「キリストの復活」は永遠の生命の可能性を裏付けるものである。

またしても何というお粗末な認識でしょう! 人間は内部に大霊の分霊をやどしているからこそ存在し得ているのです。物質は霊のお蔭で存在しているのです。霊は永遠の実在です。破壊することもなく、破滅することもなく、永遠にして無限なる存在です。

霊であるからこそ墓場を越え、火葬の炎の向こうまで生き続けるのです。物質界にも霊界にも、内部に秘められた神性を破滅させるものはありません。大霊から賜った不変不滅の贈り物だからです。

あなた方が今生きているのは霊だからこそです。死後に生き続けるのも霊だからこそです。霊であればこそ永遠に生き続けるのです。誰かの特別の恩恵を受けて永遠の生命を授かるのではありません。産まれながらにして授かっている権利であり、大霊からの遺産です。

なぜかクリスチャンは、宇宙の創造主たる大霊、千変万化の大宇宙の営みを経綸する霊力を小さな存在にしようとしています。その意味がお分かりですか。物質界でわずか三十三年を生きた人物と同列に扱っていることです。しかもその無限の恩恵が一人の人物を信じた者だけに授けられると説いています。何たる情けない神、何とみみっちい教義でしょう!「宗教」という用語をこれほど辱める教義もありません。イエスご本人がどれほど悲しみと嘆きの涙を流しておられることでしょう。今もってクリスチャンはイエスを磔の刑に処し続けております。

自らを「クリスチャン」と名乗ったからといって、それで「地の塩」(模範的人間)になるわけではありません。教会に通うようになったからといって、それだけで「地の塩」になるわけではありません。地上で授かったラベル(名誉ある地位や肩書き)は霊界では通用しません。教義を厳正に守ったからといって何の徳にもなりません。大切なのはただ一つ――日常生活でどれだけ大霊の資質を発現させたか、それだけです。

・「讀罪」の教義の根源にあるのは、それが本質的に神の御業であり、神がキリストの調停によって人類と和解し給うたとの確信である。

これはどういう意味なのでしょう? 嫉妬と怒りに燃えた神を宥(なだ)めすかすために最愛の子を血の犠牲にしなければならなかったという、あの古い説話の焼き直しですか。大霊は怒りっぽい人間よりもっと残酷で無慈悲だとでも言いたいのでしょうか。我が子と和解するのに血の犠牲を要求なさるのでしょうか。大霊とイエスをこれほど哀れな存在とする説はありません。

イエスが愛と慈悲と優しさに満ちた「父」のごとき存在と説いた大霊のご機嫌を取るのに、なぜ血を流さなくてはならないのでしょうか。地上の人間は、一人の例外もなく、自分の努力で性格を築き、自分の努力で霊性を進化させて行くために地上界へ来ているのです。

利己的な生き方を選ベばそれなりの代償を払わなくてはなりません。人のために役立つ道を選べば、個性の発達という形で報われます。そのように摂理が出来上がっているのであり、いかに地位の高い指導者といえども、それを変えるわけには行かないのです。

それ以外の教えは全て卑怯と不公正の教義です。もしも間違いを犯したら、潔くその代価を支払えばよろしい。屁理屈をこねて責任を他人に転嫁するようなことをしてはなりません。

私たちの世界では霊性の高い者が低い者よりも高いレベルの界層にいます。それ以外にありようがないのです。もしも自己中心の生活を送った者が、死の床での信仰の告白一つで、生涯を人のために捧げた人よりも高い界層に行けるとしたら、それは大霊を欺き、完全な公正が愚弄されたことになります。

勿論そんなことがあろうはずはありません。人生はあなた自身が形成していくものです。どういう地位にあろうと、職業が何であろうと、生まれが高かろうと低かろうと、肩書きが何であろうと、肌の色や民族や国家が何であろうと、そういうものは一切お構いなく、人のために役立つチャンスはいくらでもあります。為すべきことを怠ったら、それ相当の代償を支払わされます。その摂理の働きに介入できる者はいません。

最後にイエスの言葉を引用して終わりとさせてください――「自分が蒔いたタネは自分で刈り取らねばならない」

〔当日の交霊会を総括してシルバーバーチがこう述べた〕

真理というものは、童子のような心になりきって古い概念から生じた誤った信仰を捨て去ってしまえば、実に簡単に理解できるものです。言い換えれば、新しい教義や信条をこしらえるというのではなく、正しいことは正しいこととし、それを否定することでいかなる犠牲を強いられることになろうと、それを幼子のような素直な心で受け入れる態度で臨めば、容易に理解できるものです。

いかなる宗教であろうと、何らかの教義に忠誠を誓った人たちが必ずしも真理を理解する上で有利な立場にあるとは言えません。なぜなら魂というものは、信仰を誓った時の忠誠心と、そこに満足を得たいと希(ねが)う心との間の葛藤に悩み苦しむことがあるものだからです。

私は皆さんに、二千年前にイエスが説いた真理と、今地上界のリーダーと目されている人たちが説いている教説とを比較して、イエスの教えがいかに単純であるかに着目していただきたいのです。

私たちも単純なメッセージをお届けしています。理性にもとらず、知性を侮辱することもないメッセージです。それは自然の結果として、私たちが当初から主張しているもの、即ち簡単な霊的真理であることの証拠にほかなりません。

その中でも第一に申し上げているのは、地上界の人たちがいちばん願っていること、即ち他界した縁ある人々が今も生き続けていること、言い換えれば生命に「死」というものは存在しないという事実です。

次に申し上げているのは、霊力は(二千年前だけでなく)今もなお人類の高揚のために献身している人々を鼓舞しているという事実です。霊力の働きが人生を生き甲斐あるものに、そして調和の取れたものにする上で「豊かさ」をもたらしてくれているのです。

さらに私たちは霊的治療エネルギーによって、病魔と闘っている人々の苦しみと痛みを和らげてあげています。こうして私たちは地上の人々に互いに助け合う生活の送り方をお教えする意図のもとに結集した、神の使徒なのです。

要するに私たちは、これまでの人類の歴史において大霊のインスピレーションに接した人々が説いたものを繰り返して説いているまでです。宇宙には神の絶対的法則というものがあることをお教えし、それがどういう形で働いているかを証明して見せているのです。同じ法則を使用して、過去に起きた現象が現在でも起こせることを実際にお見せしているのです。

しかし現実には、本来その人たちこそ霊力の恩恵を受けるべきであるはずの聖職者たちがそれを拒絶しております。神学という名の隔離された世界に閉じこもっております。教条主義という名の修道院に身を隠しております。

彼らは、内心、怖いのです。スピリチュアリズムという名の真理が広まれば僧侶も牧師も主教も大主教も要らなくなることを知っているのです。そんなものがいなくても、スピリチュアリズムの知識さえあれば各自が大霊の道具となることが出来るからです。

しかし、本日国教会の「報告書」を一部だけでも聞かせていただいて、教条主義が徐々に勢力を失い、代わって私たちの教えが広がりつつあることを改めて確信いたしました。

第11章 進化の土壌としての地上生活
〔キリスト教神学には「原罪」という教義がある。最初の人類であるアダムとイブが神の掟を破って犯した罪によって霊長の座から転落したという説であるが、シルバーバーチはそれを否定し、人類も霊として発生して以来ずっと進化の旅を続けており、その旅に終着点はないと説く〕

種子が暗い土中に埋められるのは、養分を摂取して発芽後の生長に備えるためです。それと同じく、人間的生命の種子が物質界という暗黒の世界に生まれてくるのは、霊界へ戻ってからの進化に備えて地上的体験を積むためです。

地上的体験は、いかなる種類のものであっても、大きな宇宙機構の中で得られる要素の一つであることに違いはありません。悲しみ・落胆・挫折……こうしたものは人間的心情からすればあって欲しくないものかも知れませんが、魂の進化にとっては掛け替えのない貴重な体験なのです。

勿論その一つ一つの体験の最中にあってはそうは思えないでしょう。人生体験の価値を明確に認識できるのは、こちらへ来てその全体像を見つめることが出来るようになった時です。逆境の中にあった時こそ性格が試され、悲哀の中にあった時こそ魂が強化されていたことを知るものです。

私たちは生命の旅を、肉眼ではなく霊的生命の知識に照らして見つめます。賢明な人間とは全ての体験を魂の養分として摂取する人のことです。辛いことや煩悩の誘惑に負けることなく、霊性の全てを傾けて困難に立ち向かう人です。その気迫に満ちた生き方の中でこそ霊性が磨かれ進化するのです。

摂理は完璧であり、自動的に働きます。誰一人として逃れられる者はいません。自由意志そのものすら摂理の一つであり、その働き具合は、洞察力を具えた進化の階梯にある者には明瞭に見て取ることができます。

自由意志を行使できるといっても、あくまでその時点までに到達した進化の階梯において許される範囲内でのことです。何でも好きに出来るというものではありません。各自が到達した進化の階梯によって自ずから制約があります。

あなた方も大霊の一部であり、発現すべき無限の神性を秘めております。その神性が発現した分だけ、より高い次元の摂理との関わり合いが生じます。その摂理はそれまでの低次元の摂理と矛盾するものではありません。霊性が進化したが故に関わり合うことになる摂理ということです。

無限というのは文字通り限りがないということです。美にも音楽の粋にも限りというものがありません。霊性が進化するにつれて美の世界、調和の世界のより高度なものが鑑識できるようになります。向上するに従ってより大きな調和の世界が待ち受けていることです。

低い次元にいる者が高い次元のことを鑑識することは出来ません。が、高い次元にいる者が低い次元のことを鑑識することはできます。宇宙の全側面を経綸している摂理は自動的に働きますが、それぞれの次元で作動している摂理は、その次元まで霊性を高めないことには理解できません。

それまでの魂の成長度が、これからの成長を選択する自由を与えてくれます。しかし、その選択をするのはあなたの自我意識であって、それは地上生活にあっては肉体の脳を通して顕現している意識です。ですから、いわゆる人間的煩悩が入り込む可能性もあるわけです。そうした要素の絡み合いの中で刻一刻と自動的に選択がなされているのですが、霊的自覚が芽生えている魂は、さらなる向上を促す道を選択するものです。

このようにして人間は、霊性の進化を通して大自然の摂理・法則を学んで行きます。まず、それまで信じていたものの中で間違っているもの、理性が反発するもの、愛と叡智の権化である宇宙の大霊にそぐわないものを捨て去ります。

新たな知識を取り入れるに先だって、それまでの古い知識を点検しなければなりません。そして自然な思考を妨げるものを全て取り除かないといけません。そこでようやく魂が成長し、新たな知識を取り入れる用意ができたことになります。

このサークルにご出席の皆さんは順調に魂が成長し、大霊の無限の叡智に接する機会が多くなっております。霊的現象を演出するための法則の働きについても学んでおられます。もちろん日常生活における摂理の働きについても学んでおられます。進歩するだけ、それだけ多くの知識を手にすることになります。

皆さんからシルバーバーチと呼ばれているこの私がお届けしている知識は、無限といってよいほどの界層に存在する知識のうちのごく一部にすぎません。皆さんの成長の度合いがこの私の知識では満足しきれないほどになれば、私に代わって一段と高い界層の霊団が、より高度な知識と叡智をお届けすることになるでしょう。

そこには、これでお終いという最後の界層は存在しません。これ以上はないという完全の域は存在しません。あなた方も、そしてこの私も、刻一刻と進化向上しております。そして私より高い界層まで進化している霊から聞いた所によれば、その霊たちの背後にはさらに高級な霊の世界が控えているとのことです。とにかく終着点というものは存在しないのです。もし存在するとしたら、創造進化という宇宙の大原則が崩れてしまいます。

しかし、その全ての段階に大霊の息吹があります。だからこそ物質界の最下等の生命体から聖人君子に至るまで大霊につながっていると言えるのです。聖人だけではありません、いかなる極悪人も、限りなく美しい心の持ち主も、内部に大霊(神性)を宿しているという意味で、兄弟姉妹なのです。全ては摂理で成り立っており、そこから逃れられる者は一人もいません。その意味で全人類がつながった存在なのです。

動物にはそれぞれの種に共通したグループ・スピリットがあります。あなた方一人一人が一匹の猿だったとか魚だったとか小鳥だったというのではなく、そのグループ・スピリットの一部だった時期があるということです。

質疑応答
――本人には何の罪もないのに、さまざまな障害をもって生まれてくる子供がいるのはなぜでしょうか。

身体という外形だけで魂の価値を判断してはいけません。魂の進化と、それが地上生活で使用する身体の進化とを混同してはいけません。父親または母親、あるいは双方から受け継いだ遣伝的法則の結果として障害をもって生まれてくることがあるのは事実ですが、それが魂の進化を阻害することはありません。

障害をもって生まれてくる子供には、その魂にそれなりの埋め合わせの原理が働いているものです。正常な身体を持って生まれた子供よりも優しさ・寛容心・他人への思いやり等の強い性格をしていることがあります。永遠の時を尺度とした、因果律の一環としての「埋め合わせの原理」というものがあり、それは逃れようにも逃れられません。

次代の子孫に物的身体を提供する責任を担っている両親は、可能な限り完全な身体を提供すべきですが、仮にそれが出来なかったとしても、埋め合わせの原理が働きます。

――知的障害をもって生まれ、責任ある生活が営めない人は、死後どうなるのでしょうか。私たちは地上生活での行いと試練への対処の仕方で評価されると聞いておりますが……

物的なことと霊的なこととを混同して考えるためにそのような疑問が生じるのです。脳細胞に障害があるために引き起こされる混乱は地上次元だけの話であって、宿っている霊は、脳という器官に欠陥があるために自我を正常に表現できなくても、霊的な意味での自分の責任は自覚しているものです。

大霊の摂理はあくまでも魂の進化を大前提として機能します。地上的な尺度ではなく永遠の叡智を尺度として因果律が働くわけです。従って、地上的な善悪の基準では「悪」とされる行為でも、魂そのものに責任がなければ、霊的には「悪」とは見なされません。

例えば発狂状態で他人または自分自身の生命を奪った場合、それは知的判断力を司る器官がしかるべき機能を果たせなかったのですから、その霊は責任を問われません。私の世界(霊界)では魂の動機を最優先して判断されます。動機を基準とする限り、判断を誤ることはありません。

――物的器官の欠陥によって地上生活による教訓を学べなかった霊は霊界でどういうことになるのでしょうか。

器官の欠陥のために魂が学ぶべき教訓を意識的に学ぶことが出来なかった、つまり物的体験の価値が失われた、ということです。しかし、埋め合わせの原理は働いております。

――私たちは地上生活のさまざまな試練をくぐり抜けながら形成した性格を携えて霊界へ行くわけですが、精神異常者の場合はどうなるのでしょうか。

魂の進化の程度と動機を基準として裁かれます。

――飲んだくれや精神異常者のいる薄汚い環境の中に生を受けて、過酷な人生を歩まされる子供がいる一方には、美しいものに取り囲まれた環境に生を受けて、何の不自由もない人生を送る子供もいます。この不公平はどう理解したらよいのでしょうか。

魂の進化は環境ではなく霊的自覚によって魂そのものに刻み込まれて行くものです。ところが人間はとかく物的環境で判断しがちです。高い身分に生まれようと低い身分に生まれようと、人のために役立つことをするチャンス、即ち内部の霊性を発揮し自我に目覚めるチャンスは、どういう環境でも訪れるものです。その時こそが真の幸不幸の判断の基準を当てはめるべき時です。物的基準で計る限り地上界は不公平だらけに思えるかもしれません。しかし、体験の価値は魂の琴線に触れるか否かに掛かっており、だからこそ苦難の中にある時こそ霊性が磨かれるのです。

――でも、なぜ悪人が栄えるのでしょうか。

それもまた、地上的尺度による見方です。物的に恵まれた生活をしている人の魂が悩みも苦しみも痛みもないかに思える根拠は何なのでしょう? いつも笑顔を絶やさないからでしょうか。豪華な邸宅に住んでいるからでしょうか。紫の衣と亜麻糸の布がそのまま満ちた足りた魂を表すのでしょうか。永遠の基準は霊の基準であり、物質の基準ではありません。そうでないと神の公正が存在しないことになります。

――しかし、悪徳や飢えなど、低俗なものばかりの環境よりは恵まれた環境の方が、動機も善なるものが発揮しやすいに決まってると思うのですが……

私はそうは思いません。その証拠に、私が見る限り地上の偉人はほぼ間違いなく低い身分の出です。霊覚者と呼ばれる宗教的指導者にいたっては、まず間違いなく低い階層から出ています。葛藤を余儀なくさせられる困難が多いほど、それだけ魂が成長するものです。霊的自我に目覚めるのは常に酷しい環境を克服せんとする葛藤の中においてこそです。人生を外面から見てはいけません。内部から見るようにしてください。

――人間の霊性と肉体的生命とは同時進行で進化して来たのでしょうか。

両者は進化の系統が異なりますが、ある一定の段階までは同時進行でした。というのは、霊が肉体器官を通して自我を表現するためには、ある一定の段階までの肉体機能の進化が必要だったからです。

――死後にも向上進化があるとなると、邪悪な動機から罪を犯して堕落することもあり得るのでしょうか。

もちろんですとも! すでに霊の世界に来ていながら、何百年、時には何千年もの間、地上時代と同じ煩悩を抱き続けている者が少なくありません。貪欲や怨念が捨てきれず、霊的摂理を理解しようとしません。霊的なものに対する感性が芽生えないのです。身は霊界にありながら、意識的には完全に地上圏で生活しており、しかも下降の一途をたどっております。

――下降するだけ下降すると最後は消滅してしまうのでしょうか。

いいえ。大霊の火花が明滅するほど小さくなることはあっても、消滅してしまうことはありません。大霊との霊的な絆は永遠に切れることはありません。いくら下降しても、二度と向上出来なくなるということはありません。また、いくら向上しても、そうした最低界の魂に救いの手を差し伸べることが出来なくなるということはありません。

――個的生命は、ありとあらゆる界層を通過し、遂に大霊と融合帰一して個性を失った後、無機質の要素となって宇宙にばらまかれるのでしょうか。

私は、完全性と融合するほど完成の域に到達したという霊は一人も知りません。霊性を磨けば磨くほど、さらに磨くべき領域があることを知るものです。言い換えれば意識に開発する余地があるということです。意識は大霊の一部ですから無限の奥行きがあり、究極の完全性というものは存在しません。

――複数の個霊が進化して、どこかで一個のグループとして融合し、個性を失うということはあり得るのではないでしょうか。

私の知る限りでは、あり得ません。ただ、次のようなことは確かにあることです。ある重大な仕事が持ち上がり、その達成のために一丸となった霊の集団が各自の知識と情報を持ち寄り、そのうちの一人が全体を代表して行動するというケースです。その仕事の進行中は残りの者のアイデンティティは薄れて一つになっています。しかし、それもその仕事の期間中だけのことです。

――ぺットが死後も存続することは事実だそうですが、他にも存続する動物がいるのでしょうか。

います。地上でぺットのように可愛がられて、死後も人間に混じって生きている動物がいるものです。人間の情愛を受けて一種の人間的性格(パーソナリティ)を発現するようになった動物は、そのパーソナリティを携えて死後も人間の霊に混じって生きております。しかし、長続きはしません。ほんの一時期のことで、やがてその「種」の母体であるグループ・スピリットの中に融合していきます。

大霊の分霊である人間は、その霊的遺産のおかげで、まだ霊的意識が芽生えていない動物にも死後に存続する霊力を授ける能力が具わっていることを知ってください。本来の進化の過程が始まる時期よりも一歩早く進化を促すことが出来るのです。それが「愛の力」なのです。

――ぺットは別として、一般の動物も個別的に死後に存続するのでしょうか。

しません。

――そうなると、全く世話をされていない動物とか虐待されている動物と大霊との関係はどうなっているのでしょうか。「創造した者」と「創造された者」という関係から見て、そういう動物の生命に大霊の愛ないしは公正がどういう形で表れているのでしょうか。

地上の人間の理解力の及ばないテーマを説明するのはとても困難です。かつて私は「グループ・スピリット」という用語を用いたことがあります。動物は死後その中に融合していくのですが、ただ単に合流するのではなく、地上生活での体験について動物界なりの埋め合わせの原理(因果律)が働くのです。もっとも、あくまでも動物の次元での話でして、人間の進化とは次元が異なります。

よく考えてごらんなさい。例えば大切に飾られる花と、ほったらかしにされて枯れていく花との違いは、あなた方は問題にされません。その背後にも摂理が働いているのですが、それは説明したところで人間の理解力の及ぶところではありません。しかし、ちゃんと因果律が働いているのです。

――動物の因果律も一匹一匹に働くのでしょうか。

いいえ、種のグループ全体として働きます。受けた苦痛がグループ・スピリット全体の進化を促します。

――グループ全体として扱われるとなると、中には虐待されたものとそうでないものとがいれば、因果律の働きに偏りが生じるはずで、その辺が理解できません。

それぞれのグループは似たような体験をしたもので構成されています。

――虐待されたグループとそうでないグループがあるということでしょうか。

あなた方の身体もさまざまな形態の細胞が集まって全体を構成しています。それと同じで、グループは一つでも、いろいろな性格をしたものから成り立っているということです。

――下等動物がなぜ存在するのか、またそれが創造されながら自然淘汰されて行くという現実は、宇宙が神の愛によって経綸されているという事実と、どう辻褄を合わせたらよいのでしょうか。

人間には自由意志が与えられています。大霊から授かった霊力を駆使し、正しいことと間違ったこととを判断する叡智を働かせることによって、地上界をエデンの園にすることができます。それを怠り、地上界を汚れとほこりだらけにしておいて、その責任を神に押しつけて良いものでしょうか。

――創造進化の大業が殺戮の血に染められてきたという事実のどこに神の愛のしるしが見出せるのでしょうか。

なぜその様に一部だけを見て全体像を見ようとしないのでしょうか。創造進化があるという事実そのものが、神の愛のしるしと言えるのではないでしょうか。そういう考えに思い当たったことはないのでしょうか。低い次元から高い次元へと進化するという事実は、摂理の背後の力が愛であるということの証拠ではないでしょうか。

――なぜ神は地震や火山の爆発などの発生を許すのでしょうか。

その様に「なぜ神は……」という問いを発する時、あなた方は大自然の摂理・法則の働きそのものに疑義をはさんでいることになることを忘れないでください。私は、その摂理・法則というものが存在すること、そしてその摂理・法則の働きに関わる私の体験をお教えしようとしているだけです。地震というのは物質界の進化を調整する作用の一つです。物質界はまだ完成の域に達していないのです。

――そうすると地震による死者は地球の進化の犠牲者ということになります。公正と言えるでしょうか。

死者になることが悲劇であるかのようなご意見ですが、その辺が私には理解できません。私に言わせれば魂にとって大いなる自由を獲得する機会です。

――地震の犠牲者はその時が他界する時機だった、というふうに受け取ってよろしいでしょうか。

結構です。ただ、そういう形での死を迎えたことには、幾つかの前世での所業がからんでおります。

――我々より霊的に進化している、あるいは劣っている人間的存在が住んでいる天体がありますか。

ありますとも! あなた方より進化している人間的存在の住む天体は沢山あります。地球と呼ばれている惑星はこの大宇宙に存在する無数の惑星の一つに過ぎません。しかも、地球より劣っている天体は一つあるだけです。

――よくあることですが、重要だと思う一連の仕事を進めようとすると、しつこく邪魔が入ることがあります。なぜでしょうか。

価値あること、成就するに値するものほど、達成するのが難しいものです。楽には達成させてくれません。困難があり、妨害があり、邪魔が入るものです。

それもこれも、人間形成の一環なのです。それらにどう対処するかによって魂の成長が決まります。魂の奥に潜在する最高のものが簡単に引き出せるとしたら、それは価値あるものとは言えません。

ですから、とにかく挫けないことです。内在する霊的資質を活用して克服できないほど大きな困難や障害は絶対に生じません。他人が故意に用意する邪魔も、内在する力を発揮して立ち向かえば、必ずや消滅します。あなた方は地上生活において本来の自分のほんの一部しか発揮していないことがお分かりになっていません。

――今なお無数の新生児が生まれてすぐに、あるいはその後に、間引きの慣習とか、その他もろもろの原因・理由で死んでおります。そういう子供が生まれてくることに一体どういう意味があるのでしょうか。

物的なものさしで判断するかぎり、永遠の生命原理は理解できないでしょう。地上のいかなる賢者といえども、地上的知識を超えたことは分かりません。霊的叡智の光が見える段階まで進化すれば大霊の計画に納得が行くでしょうが、現段階では地上のいかなる覚者もガラス越しにおぼろげに見ているだけで、まだ理解はできておりません。

お聞きしますが、小学生の実力を判断するのに、その子が通った六年間の成績だけを見て、卒業後のことは考慮しないものでしょうか。あなた方にも、この後この地上より遙かに素晴らしい生活が待ち受けているのです。美にあふれた世界、色彩にあふれた世界、愛が叶えられる世界、真摯な願いが必ず成就される世界、地上で叶えられなかった事が実現する世界です。そうした世界をごらんになるまでは、大霊に批判がましい事を言ってはなりません。

――あなたが指導霊と仰いでおられる高級霊団は、時にはこの交霊会を訪れる事があるのでしょうか。

いえ、じかにお出でになることはありません。通信網で連絡し合っているだけです。この霊媒(バーバネル)が私とあなた方とをつなぎ、私があなた方とその高級霊団とをつないでいるように、その高級霊団はこの私と、その霊団よりさらに高級な霊団とをつないでいます。それが内奥へ向かって私の目の届かないところまで幾重にもつながっているのです。

――私たち人間もその最高の次元まで到達する時が来るのでしょうか。

最高の次元まで到達するということはあり得ません。その辺のことは、あなた方にはまだ理解は無理です。地上でのあなた方は本来の自我のほんの一部分しか顕現していません。全部を顕現しようにも、その媒体がまだ具わっていません。

私が本来の所属界へ奥深く戻るほど、それだけ多く本来の私を取り戻すことになります。それで年二回、クリスマスとイースターに本来の所属界へ帰るのです。

あなた方は今この地上で、進化向上を目指して霊界へと旅立つ準備をしているところです。一人また一人と、縁ある人々が旅立って行きます。その時、取り残された気持になって寂しい思いをするのは無理からぬことかも知れません。しかし、その人たちは死後、本格的に自我を開発するための旅を続けていることを忘れてはいけません。

――それにしても、なぜそんなに早く死んでいくのでしょう? 地上で学ぶべきものを学んでいないように思えるのですが……

そういう死に方をする子供たちは(前世で)何か摂理に反したことをしているのです。それを償うには、そうした体験を通して大霊の戒めを学ぶしかないのです。もしもその戒めが簡単に学べるとしたら、人類は自分の犯した罪の償いをしようという願望が芽生えなくなるでしょう。そして何世代も経ないうちに、大霊の意志がこの地上に顕現しなくなってしまうことでしょう。

霊性というものは苦悶と病苦と悲哀の体験を通して初めて覚醒するものです。かくして自我に目覚めた魂は他人の苦しみに心を配る、大きな魂へと成長するのです。やりたい放題の人生を送り、夢まぼろしの幸せを追い求めている魂は、いつかは実在を学ぶために過酷な体験をさせられる時がまいります。贅を尽くした安楽の日々を送っている人を見て羨ましがることはありません。その行く先には過酷な人生が待ち受けているのです。

地上界にせよ霊界にせよ、魂はありとあらゆる体験を積まねばならないようになっているのです。いかなる体験にも必ず学ぶべきものがあります。世俗の酸いも甘いも噛み分け本当の自我を確立して初めて、魂の奥の間に入ることを許されるのです。

それは確かに難しいことです。しかし、難しくないはずがないのではないでしょうか。聖人君子になるのが簡単でしょうか。真理の殉教者となるのが簡単でしょうか。宗教的指導者や社会革命家となるのが簡単でしょうか。簡単であろうはずがありません。苦難から逃れようとするような人間に人を導く資格はありません。

第12章 死後の世界
〔シルバーバーチはよく死後の世界の素晴らしさを語る。そして、われわれ人間も睡眠中によく訪れているという。ただ、脳を中枢とした意識には、特殊な能力を具えた者を除いて、ほとんど思い出せないという〕

私たちがお届けする霊の世界からの贈り物を十分に理解なされば、私たちをして、こうして地上へ降りて来る気にさせるのは、あなた方のためを思う気持以外の何ものでもないことが分かっていただけるはずです。いったい誰が、ただの酔狂で、素晴らしい光の世界からこの地上界へ降りて参りましょう。

あなた方はまだ霊の世界の本当の素晴らしさを知りません。肉体の牢獄から解放され、痛みも苦しみもない、行きたいと思えばどこへでも一瞬の間に行ける、考えたことがすぐに形をもって眼前に現れる、追求したいことに幾らでも専念できる、お金の心配がない……こうした世界は地上には譬えるものがないのです。その楽しさは、あなた方はまだ一度も味わったことがありません。

肉体に閉じこめられた者には、美しさの本当の姿を見ることができません。霊の世界の光、色彩、景色、樹木、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがどれほど美しいか、あなた方はご存じない。それでいてなお、死を恐れます。

人間にとって死は恐怖の最たるもののようです。が実は、人間は死んで初めて生きることになるのです。あなた方は自分では立派に生きているつもりでしょうが、実際にはほとんど死んでいるのも同然です。霊的なものに対しては死人のごとく反応を示しません。小さな生命の灯火(ともしび)が粗末な肉体の中でチラチラと輝いてはいますが、霊的なことには一向に反応を示しません。ただ、徐々にではあっても成長はしています。私たちの働きかけによって、霊的な勢力が物質界に増えつつあります。霊的な光が広まれば、当然暗闇が後退していきます。

霊の世界は人間界の言語では表現できない面があります。譬えるものが地上に見出せないのです。あなた方が「死んだ」といって片づけている者たちの方が、今では生命の実相について遙かに多くを知っております。

この世界に来て、芸術家は地上で求めていた夢をことごとく実現させることができます。画家も詩人も思い通りに才能を発揮することができます。地上の抑圧からすっかり解放され、天賦の才能がお互いのために使用されるようになるのです。そこで使用される着想の素晴らしさは、ぎこちない地上の言語ではとても表現できません。心に思うことが即ち霊の言語であり、それが電光石火の速さで表現されるのです。

金銭の心配がありません。生存競争というものがありません。弱者がいじめられることもありません。霊界での強者とは、弱者に手を差し伸べる力があるという意味だからです。失業などというものもありません。スラム街もありません。利己主義もありません。宗派もありません。教典もありません。あるのは大霊の摂理だけです。それが全てです。

地球圏へ近づくにつれて霊は思うことが表現できなくなります。正直言って私も地上界へ戻るのは気が進まないのです。なのに、こうして戻ってくるのは、そう約束したからであり、地上界の啓蒙のために少しでも役立ちたいという気持があるからです。そして、それを支援してくださるあなた方の私への思慕の念が、せめてもの慰めとなっております。

死ぬということは決して悲劇ではありません。むしろ今その地上で生きていることこそ悲劇といっても良いくらいです。大霊の庭園が利己主義と強欲という名の雑草で足の踏み場もない状態となっていることこそ悲劇です。

死ぬということは、肉体という牢獄に閉じこめられていた霊が自由になることです。苦しみから解き放たれて霊本来の姿に帰ることが、果たして悲劇なのでしょうか。天上的色彩を見、言語で説明のしようのない天上の音楽を聞けるようになることが悲劇でしょうか。痛むということを知らない身体で、一瞬のうちに世界を駈け巡り、霊の世界の美しさを満喫できるようになることを、あなた方は悲劇と呼ぶのでしょうか。

地上のいかなる天才的画家にも霊の世界の美しさの一端なりとも絵の具では表現できないでしょう。いかなる音楽の天才にも天上の音楽の旋律の一つたりとも表現できないでしょう。いかなる名文家にも天上の美を言語で表現することはできないでしょう。そのうちあなた方もこちらの世界へ来られます。そしてその素晴らしさに驚嘆なさるでしょう。

地上は今まさに五月。木々は新緑に輝き、花の香りが漂い、大自然の恵みに溢れております。その造化の美を見て皆さんは感嘆なさいます。

しかし、その美しさも霊の世界の美しさに比べれば至ってお粗末な、色褪せた模作程度に過ぎません。地上の誰一人として見たことのない花があり、色彩があります。そのほか小鳥もいれば植物もあります。小川もあれば山もありますが、どれ一つ取っても地上のそれとは比較にならないほど美しいのです。

そのうち皆さんもその美しさをじっくり味わえる日が来ます。その時はいわゆる「幽霊」になっているわけですが、その幽霊になった時こそ、本当の意味で「生きている」ことになるのです。

実は、あなた方は今でも毎夜のように霊の世界を訪れているのですよ。ただ思い出せないだけです。この体験は、死んでこちらへ来た時のための準備なのです。その準備なしにいきなり来るとショックを受けるからです。来てみると、一度来たことがあることを思い出します。肉体の束縛から解放されると、睡眠中に垣間見ていたものを全意識でもって見ることができます。その時すべての記憶が蘇ります。

質疑応答
――死んでから低い界層に落ち着いた人はどんな具合でしょうか。今おっしゃったように、やはり睡眠中に訪れた時のこと――多分低い界層だろうと思いますが――を思い出すのでしょうか。そしてそれがその人なりに役に立つのでしょうか。

低い界層へ引きつけられて行く人はやはり睡眠中にその界層を訪れているのですが、その時の体験は死後の自覚を得る上では役に立ちません。なぜなら、そういう人の目覚める界層は地上と極めてよく似ているからです。死後の世界は低い界層ほど地上によく似ております。波動が粗いからです。高い界層ほど波動が精妙になります。

――朝目覚めて、睡眠中の霊界での体験を思い出すことがあるのでしょうか。

睡眠中あなたは肉体から抜け出ていますから、当然、脳から離れております。脳はあなたを物質界に繋ぎつけるための中枢器官です。それから解放されたあなたは、魂の発達程度に応じた波動の世界で体験を得ます。その時点では意識をもって行動しているのですが、朝肉体に戻ってくると、もうその体験は思い出せません。その原因は、脳が狭すぎるからです。小は大を兼ねることができません。それで歪みを生ずるのです。

それは、例えて言えば、小さな袋の中に無理やり物を詰め込むようなものです。袋には容量というものがあります。無理やり詰め込むと、入るには入っても、形が歪んでしまいます。それと同じことが脳の中で生ずるのです。ただし、霊格がある段階以上に発達してくると、話は別です。霊的体験を思い出すように脳を訓練することが出来るようになります。

実を言いますと、私はここにおられる皆さんとは、よく睡眠中にお会いしているのです。別れ際に私は「地上に戻ったら、かくかくしかじかのことを思い出すんですよ」と言っておくのですが、どうも思い出してくださらないようです。皆さんお一人お一人にお会いしているのですよ。そして、あちらこちらを案内してさし上げているのですよ。でも、思い出してくださらなくてもいいのです。決して無駄にはなりませんから……

――死んでそちらへ行ってから役にたつわけですか。

そうです。何一つ無駄にはなりません。摂理は完璧です。長年の生活体験をもつ我々は、神の摂理の完璧さにただただ驚くばかりです。神なんかいるものか、といった地上の人間のお粗末なセリフを聞いていると、まったく情けなくなります。知らない者ほど己の無知をさらけ出すものです。

――睡眠中に仕事で霊界へ行く人もいるのでしょうか。睡眠中に霊界を訪れるのは死後の準備が唯一の目的でしょうか。

仕事をしに来る人は確かにおります。それだけの能力を具えた人がいるものです。が、大抵は死後の準備のためです。物質界での体験を積んだあと霊界ですることになっている仕事の準備のために、睡眠中にあちらこちらへ連れて行かれます。そういう準備なしにいきなり霊界へ来ると、ショックが大きくて回復に時間が掛かります。地上時代にあらかじめ霊的知識を知っておくとこちらで得をすると言われるのは、その辺に理由があるのです。ずいぶん長い期間眠ったままの人が大勢います。あらかじめ知識があればすぐに自覚が得られます。

ちょうどドアを開けて日光の照る屋外へ出るようなものです。光のまぶしさにすぐに慣れるか否かの違いと同じです。闇の中にいて光を見ていない人は慣れるのに時間が掛かります。つかまり立ちの赤ん坊のように手探りで行動します。地上時代の記憶が蘇ることはあっても、夢を思い出しているような状態です。

いずれにせよ体験というものは、そちらにせよこちらにせよ、何一つ無駄なものはありません。そのことをよく胸に刻み込んでおいてください。あなた方の心から出た、人のためを思う思念、願い、行為は、いつかはどこかで誰かの役にたちます。その心に感応して同じ心を持つ霊を呼び寄せるのです。

――霊的知識なしに他界した者でもこちらからの思いやりや祈りの念が届くのでしょうか。

死後の目覚めは理解力が芽生えた時です。霊的知識があれば目覚めはずっと早くなります。その意味でも私たちは、無知と誤解と迷信と誤った教義と神学をなくすべく闘わねばならないのです。そうしたものが死後の目覚めの妨げになるからです。そうした障害物が取り除かれない限り、魂は少しずつ死後の世界に慣れて行くほかはありません。長い長い休息が必要となるのです。

また、地上に病院があるように、魂に深い傷を負った人たちを看護してやらねばなりません。人のためによく尽くした人、他界に際して愛情と祈りを受けるほどの人は、そうした善意の波動を受けて、目覚めが促進されます。

――死後の生命を信じず、死ねばお終いと思っている人はどうなりますか。

死のうにも死ねないのですから、結局は目覚めてからその事実に直面するほかはありません。目覚めるまでにどの程度の時間が掛かるかは、魂の進化の程度によって違います。即ち霊性がどれほど発達しているか、新しい環境にどこまで順応できるかに掛かっています。

――そういう人、つまり死ねばそれで万事休すと思っている人の死に苦痛が伴いますか。

それも霊性の進化の程度によります。一般的に言って死ぬということに苦痛は伴いません。大抵は無意識だからです。死ぬときの様子が自分で意識できるのは、よほど霊格の高い人に限られます。

――善人が死後の世界の話を聞いても信じなかった場合、死後そのことで何か咎めをうけますか。

私にはその「善人」とか「悪人」とかの意味が分かりませんが、要はその人が生きてきた人生の中身、つまりどれだけ人のために尽くしたか、内部の神性をどれだけ発揮したかに掛かっています。大切なのはそれだけです。知識は無いよりは有るに越したことはありません。が、その人の真の価値は毎日をどう生きたかに尽きます。

――愛する人とは霊界で再会して若返るのでしょうか。イエスは天国では結婚するとか嫁にやるといったことはないと言っていますが……

地上で愛し合った男女が他界した場合、もしも霊格が同じであれば霊界で再び愛し合うことになりましょう。死は魂にとっては、より自由な世界への入り口のようなものですから、二人の結びつきは地上よりいっそう強くなります。

が、二人の結婚が魂の結びつきでなく肉体の結びつきに過ぎず、しかも両者に霊格の差がある時は、死とともに両者は別れていきます。それぞれの界へ引かれて行くからです。

若返るかとのご質問ですが、霊の世界では若返るとか年を取るといったことではなく、成長・進化・発達といった形で現れます。形ではなく魂の問題になるわけです。

イエスが嫁にやるとか貰うといったことはないと言ったのは、地上のような肉体上の結婚のことを言ったのです。男女といっても、あくまでも男性に対する女性であり女性に対する男性であって、物質の世界ではこの二元の原理で出来上がっていますが、霊の世界では界層が上がるにつれて男女の差が薄れていきます。

――死後の世界でも罪を犯すことがありますか。もしあるとすれば、どんな罪がいちばん多いですか。

もちろん私たちも罪を犯します。それは利己主義の罪です。ただ、こちらの世界ではそれがすぐに表面に出ます。心に思ったことがすぐさま人に知れるのです。原因に対する結果が地上より遙かに速く出ます。従って醜い心を抱くと、それが瞬時に容貌全体に現れて、霊格が下がるのが分かります。そうしたことを地上の言語で説明するのは難しく、先ほど言ったように「利己主義の罪」と呼ぶほかに良い表現が見当たりません。

――死後の世界が地上界に比べて実感があり、立派な支配者、君主、または神の支配する世界であることは分かりましたが、こうしたことは昔から地上の人間に啓示されて来たのでしょうか。

霊の世界の組織について啓示を受けた人間は大勢います。ただ誤解しないでいただきたいのは、こちらの世界には地上でいうような支配者はいません。霊界の支配者は自然法則、即ち大霊の摂理そのものなのです。また、境界線によってどこかで仕切られているわけではありません。低い次元の界層から高い次元の界層へと徐々につながっており、その間に断絶はなく、宇宙全体が一つに融合しております。霊格が向上するにつれて高い界層へと上昇してまいります。

――地上で孤独な人生を余儀なくされた者は死後も同じような人生をおくるのでしょうか。

いえ、いえ、そんなことはありません。そういう人生を余儀なくされるのはそれなりの因果関係があってのことで、こちらへ来ればまた新たな生活があり、愛する者、縁ある者との再会もあります。摂理はうまく出来ております。

――シェークスピアとかベートーベン、ミケランジェロといった歴史上の人物に会うことが出来るでしょうか。

特に愛着を感じ慕っている人物には、大抵の場合、会うことが出来るでしょう。「共感の絆」が両者を引き寄せるのです。

――この肉体を捨ててそちらへ行っても、ちゃんと固くて実感があるのでしょうか。

地上より遙かに実感があり、しっかりしています。本当は地上の方が実感がないのです。霊界が実在の世界で、地上界はその影なのです。こちらへ来るまでは本当の実体感は味わっておられません。

――と言うことは、地上の環境が五感にとって自然に感じられるように、死後の世界も霊魂には自然に感じられるということですか。

だから言っているでしょう、地上よりも実感がある、と。こちらの方が実在なのですから。あなた方はいわば囚人のようなものです。肉体という牢に入れられ、物質という壁で仕切られ、小さな鉄格子の窓から外を覗いているだけです。地上では、本当の自分のほんの一部分しか意識していないのです。

――霊界では意念で通じ合うのですか、それとも地上の言語のようなものがあるのでしょうか。

意念だけで通じ合えるようになるまでは言語も使われます。

――急死した場合、死後の環境にすぐに慣れるでしょうか。

魂の進化の程度によって違います。

――呼吸が止まった直後にどんなことが起きるのでしょうか。

魂に意識がある場合(霊性が発達している場合)は、霊的身体が肉体から抜け出るのが分かります。そして抜け出ると霊的な目が開きます。周りに自分を迎えに来てくれた人たちが見えます。そしてすぐさま新しい生活が始まります。

魂に意識がない場合は、看護に来てくれた霊の援助で適当な場所、例えば病院なり休息所なりに連れて行かれ、そこで新しい環境に慣れるまで看護されます。

――愛し合いながら宗教的因習などで一緒になれなかった者も死後は一緒になれますか。

愛をいつまでも妨げることは出来ません。

――肉親や親戚の者とも会えますか。

愛が存在すれば会えます。愛がなければ会えません。

――死後の生命は永遠ですか。

生命はすべて永遠です。生命とは即ち大霊のことであり、大霊は永遠の存在だからです。

――あなたが住んでおられる界層は地球とか太陽とか惑星とかを取り巻くように存在しているのでしょうか。

そのいずれをも取り巻いておりません。地理的な区域というものがないのです。天球とか惑星のような形をしているわけではありません。無限の次元から成る一つの大宇宙があって、それぞれの次元でさまざまな形態の生活が営まれているのです。それらが幾重にも入り組み融合し調和しています。あなた方は(スピリチュアリズムのお蔭で)そのうちの幾つかを知ったわけですが、まだまだあなた方には想像も及ばない生命活動が営まれている界層が幾つでもあります。

――霊の世界を構成している組織にも地球と同じようにマテリアルな中心部というものがあるのでしょうか

私という存在はマテリアルなものでしょうか。男女の愛はマテリアルなものでしょうか。芸術家のインスピレーションはマテリアルなものでしょうか。音楽の鑑賞力はマテリアルなものでしょうか。こうした問いに対する答えは、あなたのおっしゃる「マテリアル」という用語の意味次第で違ってきます。実感のあるもの、実在性を有するものという意味でしたら、霊の世界はマテリアルなものという答えになります。霊とは生命の最奥の実在だからです。あなたがおっしゃるのは「物質的なもの」という意味だと思いますが、それはその実在をくるむように存在する「殻」のようなものに過ぎません。

――霊の世界も中心部は地球と同じ電磁場ないしは重力場の中に存在していて、地球と太陽の動きとともに宇宙空間を運行しながらヘラクレス座の方向へ向かっているのでしょうか。

霊の世界は地球の回転による影響は受けません。昼と夜の区別がないことでそれがお分かりでしょう。太陽のエネルギーは地球が受けているだけで、私たちには関係ありません。重力(引力)の作用も物質が受けるだけで、霊の世界には無縁です。霊的法則とは別のものです。

――霊が動くスピードに限界がありますか。

時間的ないしは空間的な意味での限界というものはありません。少なくとも霊界生活に慣れた者には限界はありません。どこへでも各自の思念と同じ速さで行けます。思念は私たちにとっては実体があるのです。限界があるとすれば、その思念の波動の高さによる限界です。その次元を超えることは出来ません。言い換えれば、霊性の開発の程度を超えた次元の界層へ行ってみるわけにはいかないということです。それが限界といえば限界ですが、時空の問題ではなく霊的世界での限界です。

――人間的存在が居住する全ての天体は霊的につながっているのでしょうか。

あなた方のいう「霊界」というのは宇宙の霊的側面ということで、それはあらゆる界層の生命活動を包括しております。

――霊界はたった一つだけですか。

霊の世界は一つです。しかし、その表現形態は無限です。地球以外の天体にもそれぞれに霊の世界があります。物的表現の裏側にはかならず霊的表現があるのです。その無限の霊的世界が二重三重に入り組みながら全体として一つにまとまっているのが宇宙なのです。あなた方が知っているのは、その中のごく一部です。知らない世界がまだまだ幾らでも存在します。

――その分布状態は地理的なものですか。

地理的なものではありません。精神的発達の程度に応じて差が生じているのです。もっとも、ある程度は物的表現形態による影響を受けます。

――ということは、私たち人間の観念で言うところの「界層」もあるということでしょうか。

その通りです。物的条件によって影響される段階を超えるまでは、人間が考えるような「地域」や「界層」が存在すると思ってよろしい。

――幼くして他界した我が子がすぐに分かるものでしょうか。

分かります。分かるように装った姿を見せてくれるからです。子供の方はずっと両親の地上生活を見ていますから様子がよく分かっており、真っ先に迎えに来てくれます。

――例えば死刑執行人のような罪深い仕事に携わっている人は霊界でどのような裁きを受けるのでしょうか。

もしもその人が、いけないことだ、罪深いことだ、と良心の呵責を感じながらやっていたら、それなりの報いを受けるでしょう。悪いと思わずやっていたのであれば、別に咎めは受けません。

――動物を殺して食べるということについてはどうでしょうか。

動物を殺して食べるということに罪の意識を覚える段階まで魂が進化した人間であれば、いけないことと知りつつやることは何事であれ許されないことですから、やはりそれなりの報いは受けます。その段階まで進化しておらず、いけないとも何とも感じない人は、別に罰は受けません。知識にはかならず代償が伴います。責任という代償です。

第13章 霊界通信の難しさ
〔シルバーバーチの交霊会にたびたび出席しているメンバーは、その巧みな話術、当を得た例え話、間髪を入れない即妙の返答、そして淀みなく流れ出る名調子の英語に感嘆するのが常であるが、そこに至るまでには霊媒のバーバネルを相手とした、人間界とは異質の霊的な苦労があったという。その苦労話を語ってくれた本章は、霊媒という仕事に携わる者にとっての良きアドバイスとなるであろう〕

あなた方の住む物質界は活気がなく、どんよりとしています。あまりに鬱陶しく重苦しいために、私たちがそれに合わせるべく波長を下げて行くうちに高級界との連絡が切れてしまうことがあります。私の住む光の世界とは対照的に、あなた方の世界は暗くて冷たい、じとじととした世界です。

太陽の本当の姿、太陽の霊体の光輝を、あなた方はまだご覧になったことがありません。あなた方が見ているのはその本体のお粗末な模造程度に過ぎません。ちょうど月が太陽の光を反射して輝くように、あなた方の目に映っている太陽は、私たちの太陽のかすかな反射程度に過ぎません。

こうして地上に降りてきた私は、例えてみればカゴに入れられた小鳥のようなものです。用事を済ませて地上から去って行く時の私は、鳥カゴから放たれた小鳥のように、果てしない宇宙の彼方へ喜び勇んで飛び去って行きます。死ぬということは鳥カゴという牢獄から解放されることなのです。

さて、私があなた方と縁のあるスピリットからの伝言を依頼された時は、そのスピリットのレベルに合わせたバイブレーションに切り換えます。その時の私は単なるマウスピースに過ぎません。状態が良い時は実に簡単です。が、この交霊会が開かれている部屋の近所で何事かが起きると混乱が生じます。突如として連絡が途絶えてしまい、私は急いで別の伝言に切り換えます。ということは、バイブレーションも別のものに切り換えなくてはなりません。

そうした個人的なメッセージの時は、先方の言っていることが手に取るように聞こえることがあります。それは、こうして私が今この霊媒を使ってしゃベっている時のバイブレーションと同じレベルで通じ合っていることを意味します。

しかし、これが高級界からの啓示を受け取るとなると、そう簡単には行きません。私は別の意識に切り換えなくてはならないので、同じバイブレーションを使うわけには行きません。シンボルとか映像、ビジョン、直観といった形で印象を受け取り、それを言語で表現することになります。それは霊覚者が啓示に接するのと非常によく似ております。その時の私は、普段シルバーバーチとして親しんでくださっている意識よりも一段と高い次元の意識を表現しなければならないのです。

例えば画家がインスピレーションに接する時は、普段使用しているものとは別のバイブレーションに反応しています。その状態の中で画家はある種の霊力の作用を受け、それを映像に転換してキャンバスの上に描きます。インスピレーションが去ると、それが出来なくなります。

それと同じで、私が皆さんに霊的真理をお伝えしようとすると、私の意識の中でも高等なバイブレーションに反応できる回線を開き、高級霊がそれを通路として通信を送ってくる。それを私が地上の言語で表現するわけです。

その際、私は所詮この霊媒の語彙(記憶している用語)の制約を受けるだけでなく、魂の進化の程度による制約も受けます。霊媒が霊的に成長すれば、その分だけ、それまで表現できなかった部分が表現できるようになるのです。

今ではこの霊媒のどこにどの単語があるということが分かっていますから、それらを何とか駆使して、私の思ったこと、と言うよりは、ここへ来るまでに用意した思想を百パーセント表現することが出来ます。

この霊媒を通じて語り始めた初期の頃は、一つの単語を使おうとすると、それとつながった別の要らない単語まで出てきて困りました。必要な単語だけを取り出すためには脳神経全体に目を配らねばなりませんでした。現在でも霊媒の影響をまったく受けていないとは言えません。用語そのものは霊媒のものですから、その意味で少しは着色されていると言わざるを得ないでしょう。しかし、私の言わんとすることの内容が変えられることはありません。

あなた方西洋人の精神構造は私たちインディアンとは大分違います。うまく使いこなせるようになるには、かなりの年数を要します。まずその仕組みを勉強したあと、霊媒的素質をもった人の睡眠中をねらって、その霊的身体を使って試してみます。そうした訓練の末に、ようやくこうして入神させてその口を使ってしゃベることが出来るようになるのです。

他人の身体を使ってみると、人間の身体がいかに複雑に出来ているかがよく分かります。一方において心臓をいつものように鼓動させ、血液を循環させ、肺を伸縮させ、脳の血液を適度に刺激しながら、他方では潜在意識の流れを止めて、私たちの考えを送り込みます。容易なことではありません。

初めのうちはそうした操作を意識的にやらなくてはなりません。それが上達の常道というものです。赤ん坊が歩けるようになるには、最初は一歩一歩に全意識を集中します。そのうち意識しなくても自然に足が出るようになります。私がこの霊媒をコントロールするまでにやはり同じ経過をたどりました。一つ一つの操作を意識的にやりました。今では自動的に働いてくれます。

もっとも、他界したばかりの霊がしゃべる時はそこまでする必要はありません。霊媒の潜在意識に思念を印象づけるだけでよいのです。が、それでもかなりの練習が要ります。その練習をこちらの世界の者どうしで行います。そう簡単なものではないのです。こうして霊媒の口を使って語るよりは、メガホンを使ってしゃべる方がずっと楽です。

人間の潜在意識はそれまでの生活によって一つの習性が出来ており、一定の方向に一定の考えを一定のパターンで送っています。その潜在意識を使ってこちらの思想なりアイディアなり単語なりを伝えるためには、その流れをいったん止めて新しい流れをこしらえなくてはなりません。もしも同じような考えが潜在意識にあれば、その流れに切り換えます。レコードプレーヤーで聞くようなものです。その流れに乗せれば自動的にその考えがでてきます。新しい考えを述べようと思えば、新しいレコードに替えなくてはならないわけです。

私にとってこの部屋に入って来るのに壁は別に障害になりません。私のバイブレーションにとって壁は固い物質ではないのです。むしろ霊媒のオーラの方が固い壁のように感じられます。私のバイブレーションに感応するからです。もっとも、私の方はバイブレーションを下げ、霊媒の方はバイブレーションを高めています。それがうまく行くようになるのに十五年も掛かりました。

霊媒のオーラの中にいる間は暗くて何も見えません。この肉体によって私の能力が制約を受けるのです。それで私は、この霊媒が赤ん坊の頃から身につけて行くことをいかに使用するかを勉強しなくてはなりませんでした。もっとも、足の使い方は知る必要がありませんでした。私には足は用事がないからです。必要なのは脳と手だけです。

この霊媒を支配している時に別のスピリットからのメッセージを口移しに伝えることがありますが、その時は霊媒の耳を使うのではなく私自身の霊耳を使います。これも霊媒のオーラと私のオーラの違いの問題です。私のオーラは霊媒のオーラほど濃密でなく、霊媒のオーラの中にいる時でも、他のスピリットが私のオーラに思念を印象づけることが出来るのです。

例えてみれば電話で話をしながら同じ部屋の人の話を聞くのと同じです。二つのバイブレーションを利用しているわけです。同時には出来ませんが、切り換えることは出来ます。

質疑応答
――霊言現象は霊が霊媒の身体の中に入ってしゃベるのですか。

必ずしもそうではありません。大抵の場合、オーラを通じて操作します。

――霊媒の発声器官を使いますか。

使うこともあります。現に私は今この霊媒の発声器官を使っています。拵えようと思えば(エクトプラズムで)私自身の発声器官を拵(こしら)えることも可能ですが、私の場合はエネルギーの無駄になります。私の場合はこの霊媒の潜在意識を完全に私自身のものにしていますから、全身の器官をコントロールすることが出来ます。いわば霊媒の意志まで私が代行し――本人の同意を得ての話ですが――その間だけ身体を預かるわけです。終わって私が退くと霊媒の意識が戻って、いつもの状態に復します。

――霊媒の霊的身体を使うこともありますか。

ありますが、その霊的身体も肉体とつながっています。

――邪魔しようとする低級霊集団から守るためには、列席者にも心の準備が要りますか。

要ります。何よりも大切なことは、身も心も「愛」の一念で一つになることです。そうすれば同じく愛の一念に満たされたスピリット以外は近づきません。

――霊界側でもそのための配慮をなさるのですか。

もちろんです。常に邪魔を排除していなければなりません。あなた方との調和も計らねばなりません。最高の成果を上げるために全ての要素を考慮しなければなりません。その為に私たちは高度に組織された体勢で臨んでおります。

――霊媒は本をよく読んで勉強し、少しでも多くの知識をもった方がいいでしょうか。そんなことをしないで、自分の霊媒能力に自信をもって、それ一つで勝負した方がいいでしょうか。

霊媒の種類にもよるでしょうが、霊媒は何も知らない方がいいという意見には賛成できません。知らないよりは知っている方が良いに決まっています。知識というのは先輩の経験の蓄積ですから、勉強してそれを我がものにするよう努力する方が賢明でしょう。私はそう考えます。

――立派な霊能者となるには日常の生活面でも立派でなくてはいけませんか。

生活態度が立派であればそれだけ大霊の道具として立派ということです。生活態度が高尚であるということは、それだけ内部に宿された神性が多く発揮されているということになるからです。日常生活で発揮されている人間性のレベルが霊能者としてのレベルを決定づけます。

――ということは、霊格が高まるほど霊能者としても向上すると言って良いでしょうか。

決まり切ったことです。生活面が立派であれば、霊能も立派になります。自分を犠牲にする覚悟の出来ていない人間に、いい仕事は出来ません。このことは、こうして霊界での生活を犠牲にして地上へ戻ってくる私たちが身をもって学ばされて来た教訓の最たるものではないでしょうか。

――他界した肉親や先祖霊からの援助を受けるにはどうすれば良いでしょうか。

かつてあなたが愛し、またあなたを愛してくれた人々があなたを見捨てることは決してありません。言うなれば、愛情の届く距離を半径とした円の範囲内から出ることなく、あなたを見守っております。時には近くなり、時には遠くもなりましょう。が、決して去ってしまうことはありません。

また、その人たちの意念があなたを動かしています。必要と見れば強く作用することもありますが、反対にあなたが恐怖感・悩み・心配等の念で壁を拵えてしまい、あなたに近づけなくしていることもあります。悲しみの涙に暮れていると、その涙で霊を遠くへ押し流してしまいます。穏やかな心、安らかな気持、希望と信念と自信に満ちた明るい雰囲気に包まれている時は、きっと大勢の霊が寄ってまいります。

私たち霊界の者はできるだけ地上の人間との接触を求めて近づこうとするのですが、どの程度まで接近できるかは、その人物の雰囲気、人間的成長の度合、霊的進化の程度によります。霊的なものに一切反応しない人間とは接触が取れません。霊的自覚、悟り、ないしは霊的活気のある人間とはすぐに接触が取れ、一体関係が保てます。

それは必ずしもスピリチュアリストばかりとは限りません。知識としてスピリチュアリズムのことは知らなくても、霊的なことが理解できればそれでいいのです。とにかく冷静で受容的な心を保つことです。取り越し苦労、悩み、心配の念がいちばんいけません。そうした低級な感情が周囲にモヤを生みだし、私たちを近づけなくするのです。

――愛し合っていた相手が他界した場合、こちらからの愛念がその霊に通じますか。

一概に「イエス」とも「ノー」とも言いかねます。魂の進化のレベルが問題となるからです。双方が精神的並びに霊的にほぼ同じレベルであれば通じるでしょう。が、あまりに離れ過ぎていれば、界層がまったく違うわけですから通じないでしょう。

――他界した人のことをあまり心配すると向上の妨げになるのでしょうか。

地上の人間に霊界の人間の進歩を妨げる力はありません。霊界の人間は霊界での行為によって向上進歩するのであって、地上の人間のすることとは関係ありません。

――世俗から隔絶した場所で瞑想の生活を送っている人がいますが、あれで良いのでしょうか。

「良い」という言葉の意味次第です。世俗から離れた生活は心霊能力の開発には好都合で、その意味では良いことと言えるでしょう。が、私の考えでは、世俗の中で生活しつつしかも世俗から超然とした生き方の方が遙かに上です。つまり霊的自覚に基づいた努力と忍耐と向上を通じて同胞のために尽くすことが、人間本来のあるべき姿だと思います。

――世俗から離れた生活は自分のためでしかないということでしょうか。

いちばん大切なことは、他人のために己を捨てるということです。自分の能力を発達させること自体は結構なことです。が、開発した才能を他人のために活用することの方がもっと大切です。

――どうすれば霊媒や霊視能力者になれるのでしょうか。

大霊のために自分を役立てようとする人間はみな大霊の霊媒です。いかにして魂を向上させるか――これはもう改めて説くまでもないでしょう。これまで何回となく繰り返して説いてきたことではないでしょうか。

自分を愛するごとく隣人を愛することです。人のために役立つことをすることです。自我を高めるよう努力することです。何でもよろしい、内部に宿る神性を発揮させることです。それが最高の霊媒現象なのです。こうすれば霊視能力者になれるという方法はありません。が、大霊の光が見えるように魂の目を開く方法なら教えられます。それは今述べた通りです。

――これからホームサークルを作りたいと思っている人たちへのアドバイスをいただけますでしょうか。

嫌な思いをすることのない、本当に心の通い合える人々が同じ目的をもって一つのグループをこしらえます。そして週一回、同じ時刻に同じ部屋に集まり、一時間ばかり、あるいはもう少し長くてもよろしい、祈りから始めてそのまま瞑想に入ります。

目的、動機がいちばん大切です。面白半分にやってはいけません。人のために役立たせるために霊力を開発したいという一念で忍耐強く、ねばり強く、コンスタントに会合を重ねて行くことです。そのうち同じ一念に燃えたスピリットの一団と感応し、必要な霊力の開発へ向けて援助してくれるでしょう。

言っておきますが、私どもは人目を引くことばかりしたがる見栄っ張りには用事はありません。使われずに居眠りをしている貴重な霊力を引き出し、同胞のために、人類全体のために有効に使うことを目的とした人たちの集まりには大いに援助いたします。

第14章 交霊会の舞台裏
〔シルバーバーチの交霊会は最初から霊言による説教ばかりだったわけではない。初めのころは数人の知人だけの集まりで、テーブル現象その他の物理的なものもよく見られたようである。その中に混じってシルバーバーチによる霊言が語られるという形を取っていたが、ある時期を境に物理的なものが出なくなり、サークルのメンバーの入れ替えもあって、シルバーバーチによる霊言が中心となって行った。本章ではその舞台裏の霊的な事情が語られている〕

この交霊会には一団のスピリットが携わっております。発達程度もいろいろです。一方には地上圏に近い、多分に物質性を具えたスピリットがいます。霊力を操る上で不可欠のものを用意するのがその役目です。

一方、光輝く高級霊の一団もいます。本来の所属界での生活を犠牲にして、地上のために働いております。こうして交霊会を催している時だけではありません。皆さんの睡眠中も活動しております。少しでも多く霊的真理を地上にもたらすために、いろいろと心を砕いているのですが、それでもまだ闇夜に輝くほのかな明かり程度でしかありません。

にもかかわらず、そうした大霊の使徒が足繁くこの小さな一室に通うのは、ここが素敵な場所だからです。それは建物が大きいとか、高く聳(そび)えているとか、広いとかの意味ではありません。真理という名の光を地上界に注ぐ通路として、ここがいちばん優れているという意味です。こうしたサークルから地上世界は新しいエネルギーを摂取し、それが利己主義や不正、不寛容といった邪悪を取り除く力となっていきます。大霊の摂理に反するからこそ取り除かねばならないのです。

この仕事はこれからもずっと続きます。大霊が計画された(地球浄化の)大事業の一環だからです。皆さんがサークルの一員として選ばれたのは、お一人お一人が特異な体験をお持ちだからで、その特質をうまく融和させると愛と調和と善意による完全な調和体が形成され、それが光の神殿を形成するほどの力を生み出すのです。

これは途方もなく大きな仕事です。大霊の神殿をこしらえつつあるのですから。そのことを直観して神妙な思いをなさることがあるでしょう。そうかと思うと目先が真っ暗になり、いったい何のためにこんなことをしているのか、こんなことをしていて良いのだろうかと煩悶されることもあるでしょう。それも(肉体に宿る人間として)無理もないことですが、忘れないでいただきたいのは、私たち霊団としては、暗闇に閉ざされた地上界へ光明をもたらすべく、片時も休むことなく皆さんの背後で心を砕いているということです。

直接談話現象が上達する(鮮明で長時間持続するようになる)には、繰り返し練習するしかありません。言いたいことがどれだけ伝えられるかは実際にやってみないと分からないものです。ともあれ皆さんは当初からその上達ぶりを実地に見てこられて、本当に恵まれた方たちというべきです。

この現象もバイブレーションの問題でして、言いたいことがどれだけ伝えられるかが目安となります。皆さんの側としては語られたものしか聞こえないわけで、語られずに終わったものは、当然のことながらお分かりになりません。

霊界側にとって最も厄介なのは、話したがる者が多すぎるということです。ほんの少しだけでいいからしゃベらせて欲しがります。「お願いです、一言だけでいいです」と言って迫ります。そこでやむを得ず「では話してごらんなさい」ということになるわけです。

そうした厄介なことはあるにしても、ここに神殿を築く仕事は休むことなく続けられております。エネルギーを蓄えること、いろいろと実験を試みること等々、来る日も来る日も、昼夜の別なく、この部屋での交霊会の準備のために大勢の霊が出入りしております。

そのことにあなた方が気づかないのは、例えばあなた方が電話で対話をしている時、電話機を製造するために働いている人たちのことは念頭にないのと同じです。電話口に向かってしゃベっているだけで良いわけで、先方もそれを聞いて受け答えするだけです。が、実際は大勢の人たちの働きがあったからこそ両者は話が通じるわけです。それと同じです。あなた方にはこちらがマウスピースでしゃベったことが聞こえるだけですが、それを可能にするための仕事は大変なのです。

例えばこちらの化学者は一種の光線を使用します。それを用いて現象を発生させるのですが、その化学的成分は地上のいかなる分析器にも引っかかりません。こちらの化学者もよほど熟練していないと扱えないほど精妙なバイブレーションをしています。ですから、こちらの化学者も一時の油断も許されないのです。

その光線はとても強力なパワーを秘めていますが、このサークルの出席者に危害が及ぶことはありません。霊的身体がそれに順応するような体質になっているからです。そのようにこちらで工面してあるのです。実験の度に順応性が高められております。その光線は皆さん自身には見ることも感じることも出来ませんが、私たちにははっきりと見えております。

そうした霊団の者も含めて、今夜だけで五千人ものスピリットがこの部屋に集まっております。あなた方のよくご存じの方で交霊会というものに関心のある人もいれば、こういう場所があることを今まで知らなくて、今日初めて見学に来たという人もいます。

また、霊媒というものを使用して地上界との間でどのような仕事をやっているかを勉強しに、世界各地から幾つもの霊団がやって来ています。こちらでも地上に働きかける方法についての研究が盛んに行われているのです。霊的エネルギーをいかに活用するかが最大の研究課題です。無駄にしてはならないからです。そのために、こちらからいろんな形で人間に働きかけております。自分では意識しなくても霊界からのインスピレーションを受けている人が大勢います。

地上の偉大な科学者も発明家も教育者も、元をただせば霊界のスピリットの実験道具に過ぎない場合があります。要は法則なり思想なり発明なりを地上に届けることが出来れば良いのであって、どこそこの誰がということはどうでも良いのです。

宇宙は全て協調によって成り立っています。一人だけの仕事というものはありません。だからこそ「霊団」というものを組織するのです。目的に沿って必要なスピリットを集め、そのうちの一人がマウスピースとなって地上に働きかけます。私も私が所属する霊団のマウスピースです。霊団の一人として働く方が、自分一人で仕事をするよりも遙かに楽に、そして効果的にはかどります。仕事の成果はそうした霊団全部の力を結集した結果なのです。

成果が素晴らしいということは霊団としての調和が素晴らしいということでもあります。それは、霊媒の出来がいいということが霊媒と支配霊との調和がいいということであるのと同じです。そうでないと、必ずどこかにきしみが生じます。オーケストラとおなじです。演奏する楽器は一人一人違っていても、ハーモニーさえ取れれば一つの立派なシンフォニーとなります。が、そのうちの一人でも音程を間違えれば、全体が台無しになってしまいます。調和が大切なゆえんです。

質疑応答
――心霊現象を起こすためには出席者の霊的エネルギーを使うそうですが、部屋にある物体からも引き出すのでしょうか。

その通りです。カーぺット、カーテン、書物、時には家具からも引き出します。物質に宿っていない私たちが物質を操るのですから、身近にある物体からエネルギーを引き出して使わざるを得ません。といっても、少しずつです。あまり多くを取り過ぎると、バラバラに分解してしまいます。

――物質化現象が起きる部屋のもの、例えばカーテンなどが異常に早く朽ちるのはそのためですか。

そうです、それが原因です。それでも随分その点に気を使っています。物質化現象では色彩を必要とする時がありますが、これもその場の物体から抜き取ります。そういったことをもっと知っていただくと、私たちが何一つ無駄にしていないことが分かっていただけると思います。しかし何よりも大きな力となるのは、あなた方列席者の内部から湧き出るエネルギーです。これが最大の成分です。

物理霊媒も、霊媒現象の質を向上させると同時に、自分の霊性を強化することも心掛けないといけません。霊性が強化されると、その霊媒から出るエクトプラズムの質まで向上するのです。霊現象は材木や粘土を扱っているのではありません。霊媒の体内にある生命のエッセンスを扱っているのです。思想や性格、知性など、その霊媒の人間性の全てがエクトプラズムに反映するものなのです。

――物質化現象は霊媒現象の中で質的に高いものでしょうか、低いものでしょうか。あなたとしては奨励なさいますか。

何事であれ一人の人間に幸せをもたらし霊的摂理についての知識を与えることになれば、それはそれなりに目的を達成したことになります。高い低いの概念で考えるのはいけません。必要な人にとって役に立つか否かの観点から考えるべきです。

第15章 交霊会についての誤解
〔交霊会を催しても何一つ現象が起きないことがある。すると出席者は時間を無駄に費やしたと不満に思うものであるが、シルバーバーチはそれが誤解であることを指摘して、次のように述べる――〕

交霊会のような場で霊的な一体化を求めて過ごす時間が無駄に終わることは決してありません。何か現象が起きないかと、今か今かと辛抱強く座っておられる時の気持はよく分かりますが、そんな時でもこちら側ではいろいろと工作をしている――つまりホームサークルとしては着々と進展していることを知っていただきたいのです。霊団との絆が強化され、出席者の霊的感受性が鋭くなっております。

目に見える現象が交霊会の目安となるわけではありません。出席者の内的な反応の鋭敏性、つまり霊性の開発と、それを活用する霊団との間の一体性がどこまで深まるかが大切なのです。

ですから、どういう現象が見られたとか、どんな音が聞こえたということは、大して重要ではありません。もっと大切なのは、サークルのメンバーの霊性の開発です。というのも、例えばあなた方は週に一回この部屋で着席しておられるわけですが、それは、より高度なバイブレーションに波長を合わせ、太古からの不変の霊的叡智に触れておられるのですから、魂の開眼を促さないはずがありません。

その叡智すなわち宇宙の霊的摂理は地上という物質界に届けられるべく、常に用意されているのです。ですが、それが実際に地上に届けられるためには、霊媒を含めたこのサークルのメンバーのような通路の存在が必要なのです。

あなた方の魂が開発されてより高度なバイブレーションに反応するようになれば、それだけ高度で強力なエネルギーに触れることになります。そのエネルギーは目にも見えず耳にも聞こえませんが、永遠の霊的実在の一部です。実はそれこそが生命の実在なのですが、人間の大半が朝から晩まで影を追い求め、幻影を捕らえようとし、その場かぎりの満足を得ようとしております。

その点あなた方は、こうして一つの目的をもってこの部屋に集い、静寂と調和と愛の中で魂が一時も休むことなく開発されております。その速度は遅々としておりますが、着々として確実です。内部に宿る大霊が開発され、進化し、その分だけ神性を表現することが可能になってまいります。ナザレのイエスがその昔こう言いました――二人ないし三人の者が集う所には大霊が賜を授けてくださる、と。私たちも同じことを述べているのですが、耳を貸しません。

真理が変わることはありません。変わるのは人間の心です。認識力に裏打ちされた真理は不変です。認識力は大霊から出るものだからです。大霊こそ全てのインスピレーションの中心であり始源です。難しく考えることはありません。始源は一つです。簡単なのです。が、地上界では真理を難しい物としてしまっております。

このサークルの方たちとはすでに何度もお会いしておりますので、私たち霊団との絆が強化されております。その霊団の中には皆さんの知らない人、名前を聞かされても分からない人が大勢いますが、いずれもお役に立ちたいという一心で来ている人たちで、名前を知って貰いたいとも感謝されたいとも思っていません。

そのスピリットたちがこの場を訪れるのは、地上界へ霊的知識を届け、真理の普及を促進し、間違ったことを改め、不幸と迷信を駆逐し、光明を広げ、痛みと苦しみに変わって幸せと平和と福祉をもたらす上で都合の良い手段(霊媒と出席者)があるからです。

その仕事を推進する上で皆さんは大いに役立っているのです。万一何の役にも立っていないように思えた時は、どうか次のことを思い出してください。即ち、大霊への畏敬の念を胸に皆さんがこの部屋に来て、私たちと一時間そこらを共に過ごすということそのことが、ここに霊的神殿をこしらえる上で大きな力になっているということです。

この交霊会に出席しておられる間の時間は、一時として無駄に終わることはありません。調和の心で集う時に蓄積されるエネルギーが大いなる架け橋を築く上で役に立つのです。その架け橋を通って新しい光、新しい力、新しい希望を地上界へ届けんとする霊が大挙して降りて来ます。そのことを忘れないでいただきたいものです。時には冗談を言って笑いの渦を巻き起こしていても、その背後には大きな目的が控えているのです。

その目的とは、大霊の摂理が皆さんの一人一人を通して地上界で正しく機能するようにすることです。皆さんはその目的のために今日まで献身してこられたのです。大霊の摂理を受け入れる用意が大きくなるほど、それだけ多くの霊的エネルギーが地上界へもたらされるのです。

質疑応答
――交霊会で笑いの渦が巻き起こるということは良いことでしょうか。

心が楽しければ楽しいほど、それだけ大霊の心に近いということを意味します。あなた方一人一人が大霊であり、従って物質界のいかなることも、取り返しのつかないほどの影響を及ぼすことはできません。このことを私はこれまでどれほど口を酸っぱくして言ってきたことでしょう。この世的なことに煩わされている限り、その真意は分かっていただけないかもしれません。

この世的なことを無視しなさいと言っているのではありません。この世に生を営んでいる以上それは不可能です。それに、社会の一員としての義務もあります。私が言っているのは、あなた方には大霊が宿っていること、そしてそれを自覚し発現すれば、あらゆる物的なものに超然としていられるということです。

それは、今も言った通り「自覚し発現すれば」あらゆる邪悪に抵抗し、あらゆる病気を克服し、あらゆる障害に立ち向かう力となるのです。しかし、現実にはそれを活用している人間はほとんどいません。イエスは二千年も前に「神の王国は人間の中にある」と明言しているのですが……

――最高の霊現象でも世間では騒がれず理解もされないことがありませんか。

私は「高い」とか「低い」とかの概念で霊現象を評価しません。役に立つか立たないかの観点から見ます。霊的能力は一人でも多くの人に役立たせるために開発すべきもので、その意味で、能力に自信がついたら(少人数のサークルのものにしないで)一人でも多くの人のために活用すべきです。

もっとも、人によっては少人数に限定した方が良いこともあります。サークル以外の大勢の人の注目の的になることに耐え切れない人がいます。が、霊媒現象のそもそもの目的は、霊界から地上界ヘメッセージを届けることですから、多ければ多いだけ、それだけ能力を役立てたことになります。

私は「世間を騒がす」ということにはまったく関心はありません。私の関心事は役に立つこと、即ち人生に疲れた人には生きる力を与え、信仰を失った人には希望を与え、身も心も苦しみに苛(さいな)まれている人には慰めを与えてあげることです。

――自動書記が霊的現象の中でもいちばん信頼性が乏しいようですが、なぜでしょうか。

それはその霊媒の能力の問題です。未熟であれば、地上の人間の想念と霊界から送られてくるメッセージとの区別がつきません。発達程度の問題で、ある一定のレベル以上に発達すれば地上界の想念を払いのけ、霊界からのメッセージを受け取りやすくなります。霊媒が未熟なのに、それを霊側の責任にしてはいけません。私たちの側としては、そちらから提供してくれる道具で仕事をするしかないのです。

――幽界から霊界へと向上していった霊が地上と交信する時は、幽界まで降りて来なければならないのでしょうか。

いえ、いえ、そんなことはありません。メッセージを届けてくれる仲間に依頼します。そうした霊はいつでもそのための道具(霊界の霊媒)を調達できるのですが、条件として、幽界つまり地上界のすぐ次の世界を卒業しているだけでなく、そのレベルを遙かに超えていなければなりません。地上界に近い界層の者だけが地上界と通信できるわけではありません。それより上の界層からでも、地上の霊媒がそのバイブレーションを受け取るだけの感度があれば、通信を送ることが出来ます。

――われわれ人間の知識の範囲は受け入れる能力によって決まるそうですが、そうなると霊的な知識の理解力に欠ける人間は、霊媒を通して証拠を求めるのが賢明ということになるのでしょうか。

証拠と魂の成長とは何の関係もありません。真理を受け入れる能力というのは、具体的に言えば、霊界のどの界層まで至ることが可能かということです。魂がどの程度まで進化しているかということです。それを証拠の追求と混同してはいけません。両者は必ずしも二人三脚とはまいりません。生命が死後にも存続することの証拠を手にしていながら、魂そのものは霊性に目覚めていない人がいるものです。

第16章 睡眠中は何をしているのか
〔睡眠中に体験したことを翌朝思い出せる人が何人いるであろうか。肉体の睡眠中は霊界で活動しているのが事実であるのなら、肉体に戻った時にその間のことを少しでも思い出しても良さそうなものである。実際にはそういうことが滅多にないのはなぜか、シルバーバーチの説明を聞いてみよう〕

脳を中枢とした小さな物的意識では、より大きな霊的意識の中で生じたことを思い出すのは難しいのです。それが物質界の宿命です。死ぬまでは本当の意味で生きているとは言えないと言っても過言ではありません。

ただ、覚醒中であっても霊の波動が高まり、背後霊との一体化が成就されると、一瞬の間ではありますが、物質界では味わえない超越的喜悦に浸ることがあります。

実際には人間の全てが睡眠中に霊界を訪れております。これは霊的身体を死後の環境に適応しやすくするための自然の配慮の一つです。地上でも子供時代を過ごした土地を訪れると懐かしい記憶がゆっくりと蘇ってくるように、いよいよ肉体との縁が切れて霊界の住民となった時のショックを和らげると同時に、地上時代に訪れた時の記憶が次第に蘇ってその環境への適応が促進されるのです。

霊性の発達程度いわゆる霊格は、魂の進化の程度によって決まります。例えば誰でも行きたいところへ行けますが、その行き先の波動の高さや距離は、霊性の開発の程度によって制約があります。暗い界層へ行くこともあります。その場合は二つのケースが考えられます。その人の霊性の程度が低くて、親和力で同じ程度の環境へ引きつけられる場合が一つ。もう一つは、霊性の高い人が救済の目的で自発的にそういう環境へ出向く場合です。

実は死後の世界には、高級霊よりも肉体に宿った人間の霊の方が役に立つ地縛霊が多いのです。バイブルにもイエスがいわゆる地獄へ降りて行った話があります。睡眠中ではありませんでしたが、原理的には同じです。

訓練によって睡眠中のことを思い出せるようになることは不可能ではありませんが、霊的意識を脳の細胞に印象づける作用ですから、これはよほどの集中力を要します。人によって難しさの程度が異なります。物的身体と霊的身体との連携作用がどの程度まで緊密かによります。簡単に思い出せるようになる人は精神的霊媒に適した人と言えます。

質疑応答
――夢について説明していただけませんか。どう考えても霊界での体験の記憶とは思えないものがありますが……

夢には数え切れないほどの種類があります。主のいなくなった脳に残っている残像の反映にすぎないものとか、食べたものの影響など、物理的な説明のつくものもありますが、そうしたものに混じって、霊界での体験が断片的に入っていることがあります。

夢が支離滅裂になりがちなのは、霊界へ行っている間は脳の制約から放たれて別の次元で体験していたのが、再び肉体に戻ってからその記憶を思い出した時に、それが脳の意識に馴染めなくて歪んでしまうからです。

――睡眠中の人間に働きかけるスピリットは、自分の言いつけたことがきちんとその人間の意識に印象づけられたかどうかが分かるものでしょうか。

いえ、必ずしも分かっていないのです。それは、こうした交霊でも同じでして、伝わったかどうかは後になって分かることで、その時点では判断がつきません。日常生活で印象づける場合でも同じです。

――睡眠中に指導霊としばしば会っている割には交霊会での話の中でそのことに言及することが少ないのはなぜでしょうか。

言及しているのです。ただそれが霊的意識の中に印象づけられているために、すぐに脳の意識に上って来ないだけのことです。今は知らなくても、そのうちその記憶が蘇ってくる日がきます。これは、知っているといないとにかかわらず事実は事実であることの良い例です。

――私たちは睡眠中は肉体を離れていて、その間の肉体はいわば「空き家」になっているわけですが、そんな時に地縛霊に侵入されたり憑依されたりすることがないのは、背後霊の誰かが監視してくれているからでしょうか。

当人に憑依される原因がある場合は別として、普通睡眠中に低級霊に憑依されることがないのは、自然の仕組みがそのようになっているからです。

誤解があるようなので注意しておきますが、自我の本体である霊は肉体の「中」にあるのではありません。霊は肉体とはバイブレーションが違うので、内側にあるとか外側にあるとかの表現はできません。心臓と肺の間に挟まれて小さくなっているのではありません。本来のあなたは肉体という器官を通して自我を表現している「意識体」です。

睡眠中はその意識体が肉体ではなく霊体を通して自我を表現しているのであって、その間は霊界のどこかの界層にいるわけです。ですから、その肉体に他の霊が入り込む気遣いは無用です。肉体のドアを開けて外出し、その間に別の者が入り込んでドアを閉めてしまう――そういう図を想像してはいけません。そういうものではありません。意識体は肉体から霊体へと移行したあとも相変わらず肉体を管理しており、その肉体に戻る時間がくれば再び脳とつながった意識を取り戻すわけです。

――と言うことは、憑依する霊は憑依される人間の霊の許しを得て侵入するということでしょうか。

そうではありません。憑依されるのは憑依される霊的原因が内部にあってのことで、それぞれの人間によって違ってくる問題です。

例えばあなた方が愛と奉仕の精神に燃えた時は、そのバイブレーションに感応した高級霊が引きつけられます。それと同じ法則です。法則は善の方向にだけ働くのではありません。悪の方向にも働きます。最大の奉仕を成就するために働く法則が最大の悪逆無道の行為にも働くのです。なぜなら、高く上がれるということは、それだけ下がる可能性があるということであり、下がれるだけ下がれば、その分だけ高く上がれるというのが道理だからです。どちらも同じ法則の働きです。どちらを選ぶかは各自の自由意志によって決まることです。

――予知的な夢はそちら側から「伝達」されるのでしょうか。

そういうこともあります。愛の絆で結ばれた霊からの警告であることもあります。が、物的束縛から放たれた霊的身体が未来の出来事を感知して、それを夢の形で持ち帰ることもあり得ます。

――睡眠中は霊が肉体を離れているのに、どうやって肉体に生気を与え続け、死なないように出来るのでしょうか。

シルバーコード(玉の緒)でつながっていて意識が残っているからです。シルバーコードが切れて霊とのつながりが無くなったら、肉体は生気を失ってしまいます。

――麻酔をかけられている間、霊はどこにいるのでしょうか。

それは分かりません。どこかにいるのでしょう。どれくらい遠くへ行けるか、どんな環境へ行くかは、その人の魂の進化の程度によって違ってきます。

――脳の障害によって生じた無意識状態と睡眠中の無意識状態とは何か違いがあるのでしょうか。

もちろんです。障害によって無意識になった場合は霊と肉体との正常な関係を妨げる何ものかが生じています。一方、睡眠というのは自然な生理現象で、夜になると霊は肉体のバイブレーションが下がることを知っていて、霊界へ行く準備をします。前者は物的身体に障害を与える異常現象であり、後者は正常な人間的営みの一部です。睡眠の場合は霊は自発的に肉体を離れますが、障害による場合は肉体が正常に使用出来ないために、無理やりに追い出されている状態です。

第17章 スピリチュアリズムの第一線で働く人々への励ましのメッセージ
〔シルバーバーチは機会あるごとに、世界中でスピリチュアリズムの普及のために活動している人々に励ましのメッセージを贈っている。本章ではインド、スウェーデン、アメリカで活躍している四人(インドの場合は夫妻)への励ましの言葉を収録した〕

スウェーデンの活動家C・カールソン氏へのメッセージ

『あなたが今夜ここにお出でになったのは、霊力を充電して遠い祖国の中でも暗黒に閉ざされた地域に持ち帰り、少しでも明るくするためです。

ようこそお出でくださいました。霊の世界からあなたに心からの祝福の言葉を贈り、この地上界へ降誕する際に約束された使命に敬意を表したいと存じます。

かく言う私も大霊の仕事を果たすために遣わされたマウスピースに過ぎません。その私から申し上げられることは、これまでに歩まれた道は尋常一様なものではありませんでしたが、その長い年月の間、あなたはずっと霊の世界から導かれて来ているということです。これから成し遂げねばならない仕事も大きく、かつ重いものです。それがどれほどのものか、あなたご自身には想像の及ばないことですが、その達成に当っては、祖国スウェーデンにとって今なさねばならないことは何であるかを熟知している霊界から、しかるべき霊団が派遣されることになります。

が、本来なら歓迎してくれるはずの宗教界からの反抗に遭うなど、これから遭遇する苦難にあなたは胸を痛められることが少なくないことでしょう。また一方、あなたが届けてあげる新しい真理が大霊の子等の役に立って、あなたの心が晴ればれしい喜びに満たされることも少なくないことでしょう。

いずれの場合にせよ、即ち悲しみの涙に暮れている時も、あるいは嬉し涙に暮れている時も、その背後では霊団の者もあなたと共に悲しみの涙を流し嬉し涙を流していることを知ってほしいのです。

遭遇する困難がいかなるものであろうと、行く手を遮(さえぎ)ろうとする障害がいかなるものであろうと、それによって大霊の計画が阻止されることはありませんし、大霊のために働いている地上界と霊界の援助者の士気を挫くこともあり得ません。

もしも途方に暮れるような事態に立ち至った時は、いったん休止して心の平静を取り戻すことが大切です。そのためには霊界からの指導と援助を求めて祈るのです。背後霊団への信頼と確信が絶対である限り、霊力と霊感とによる援助に限界というものはありません。地上の人間が互いに自分を役立てる生き方をして欲しいと私たちが望んでいるように、私たちもそういう時には、総力を上げてあなた達のために頑張ります』

インドの活動家V・D・リシ夫妻へのメッセージ

『あなた方が今健闘しておられるインドには、ほんの僅かな光明しか届けられていません。その光明こそ大霊の光であることを悟った人たちによって、その小さな光明がかろうじて灯し続けられています。それを消さないようにするのは、お二人のように犠牲的精神に燃えた人々の献身的活動です。それが無知と利己主義を駆逐し、代わって「サービス」という名の光明を呼び入れるのです。それが大霊の最大の顕現です。

これは大いなる事業であり、この完遂を阻止できるものは、この物質界には存在しません。インドという国は長年にわたって誤った教えが説かれてきております。それを正すのは容易なことではありません。お二人は決して孤立無援で闘っておられるのではありません。私たちの世界から大勢の者が援護いたしております。むしろ霊の力の方が物質の力より強大です。これまでお二人が敗北を喫したことは一度もありません。

お二人はある目的があって結婚させられております。大きなプランがあって、その一環として一緒にさせられているということです。その目的とは、今もって物的暗黒の中でもがいているインドの無数の魂に新しい光をもたらすことです。

本日このサークルヘ来られたのも、霊界と物質界とが調和すればいかに素晴らしいことが実現するかを目のあたりにしていただくためです。そのためにここへ連れて来られたということです。そして、ここで体験された霊界との接触は、交霊会が終わったあとも続きます。インドに帰られたあともずっとそのパワーを感じ続けられることでしょう。

そのパワーはあなた方を鼓舞し、あらゆる闘いで味方となってくれます。あらゆる障害の克服に力となってくれます。落胆した時、気落ちした時に、元気づけてくれます。大霊とのつながりを強化し、無欲の奉仕に徹する者には、地上のいかなる困難をも克服するパワーからのインスピレーションを授かることを得心なさることでしょう。

要するにあなた方は二人だけの存在ではないことを知ってください。あなた方の闘争は私たちの闘争でもあります。あなた方の困難は私たちの困難でもあるのです。

願わくはお二人の旅に、そしてお二人の使命に、大霊の祝福の多からんことを。大霊の光がお二人の心を明るく照らし、大霊の意図の理解がより一層大きくなりますように。お二人を支援し鼓舞してくださるパワーを確信し、大霊についてのより一層の認識を深めることになる道へ導かれんことを。常に大霊の御手とマントがお二人の身近にあることを感じ取り、大霊のプランのために奉仕する仕事には必ずや保護と導きがあることを悟られんことを祈ります』

それから三年後に再び夫妻がサークルを訪れてシルバーバーチからのメッセージを賜った。

『前回お二人が英国へお出でになった時に結ばれた私との間の絆は、その後も途切れることなく続いております。そして、このあとインドヘお帰りになる時は、さらに新たな熱意と確信を携えて行かれることでしょう。

行く手に障害が山積していると意気消沈してしまいがちであることは、私たちにもよく分かります。今お二人の行く手に横たわる障害の全てが私たちには見えております。同時にお二人が、授かった真理の光に忠実であろうとしてこれまで勇猛果敢に生きて来られたことも、よく存じております。その態度は誠実にして美しいものでさえありました。

行く手が無知の霧で曇らされていることを知った時は誰しも絶望的になりがちであることは、私たちもよく理解しております。が、お二人と私たちとをここで集わせたことの背後には、それを必要とする大いなる事業が待ち受けていることを、ここに改めて念を押して申し上げたいと思います。

「東は東、西は西。両者が相見(あいまみ)えること、さらになし」(英国のノーベル賞作家キップリング)と歌った人がいますが、両者は立派に相見えるのです。霊において一つであり、大霊から見れば西も東も南も北もないからです。人間が勝手に境界線をこしらえているのです。大霊は全ての人類を一つの調和の取れた絵柄に編み上げたいと望んでおられるのです。

お二人は本当に豊かな恵みに浴していらっしゃいます。サービス一筋の道を選ばれたからこそです。お二人はまさに一体となっておられます。手を取り合って奉仕の仕事に携わっておられるからです。大霊のマントに包まれていらっしゃいます。それは霊的な愛のマントであり、盾となってお二人を外敵から守っております。

二人きりで頑張っていると思ってはなりません。背後には霊界からの強力な援軍が控えております。お二人の成し遂げた仕事が消滅することは決してありません。ご自分では失敗の連続のように思えていても、価値ある種子を蒔いておられます。誰かが先頭に立ってジャングルを切り開いて行かねばならないのです。落胆してはいけません。お国に帰られたら、これから歩む人達のために、そのあなた方が切り開いた道をさらに歩みやすくしてあげる仕事に取り組んでください』

憑依による精神病患者の治療に生涯を捧げたカール・ウィックランド博士が秘書のネル・ワッツ女史を伴って出席した。

『本日は二人の忠実な真理の探究者をお迎えして、私はことのほか嬉しく思います。長年のご苦労の多い犠牲的なお仕事で、少しばかり背中が曲がってまいりましたね。が、来し方を振り返れば、間違いなく多くの人々を無知と暗闇から真理と理解力と光明へと導いて来られたことが瞭然と分かる人生を送って来られた、立派なお二人です。

お二人の仕事は終わりました。人々に霊的光明を授ける、偉大で気高いお仕事でした。間もなくその松明(たいまつ)は他の誰かの手に引き継がれることでしょう。成し遂げられたお仕事が消滅することはありません。それは決してあり得ないことです。お二人が生きておられる世代にその価値が認められることを期待してはいけません。先駆者の仕事は常にそういうものです。が、成就されたお仕事はいつまでも生き続けます。

奉仕の人生を終えられた今、来し方を振り返り、ご自分がこの世にいたからこそ救われた人が大勢いることを知ることができます。生きていることそれ自体が暗黒と絶望に思えていた人に希望と健康、そして人生そのものを取り戻してあげたのです。束縛状態から解き放し、自分の生命を取り戻させてあげたのです。牢獄から救い出してあげたようなものです。それは取りも直さず自分が人間に与えている苦しみの大きさを知らずにいた無知な霊をも救ってあげたことになります。

地上界の人間は物質界と霊界とのつながりについての理解が出来ておりません。高次元の霊界から最高の啓示を受けることが出来るように、低次元の霊界の無知な霊の虜になることもあり得るのです。どちらも原理は同じなのです。

お二人は本当に大きな仕事を成し遂げられました。無知との闘いにおいて、本来なら真っ先に協力の手を差し伸べてくれるベき宗教界からの爪弾きに遭われました。しかし、(奥さんを入れた三人の)皆さんは、人類史上において、真理のために闘いながら掛け替えのない宝を遺していった先駆者達のリストの中にその名が列せられる活躍をなさいました。

私の使命も実はあなた方とよく似ております。即ち無知と迷信が生み出した害毒を取り除くことです。そして、代わって霊的知識という掛け替えのない宝を地上界に届けることです。その知識を前にして、無知も最後は逃走するしかありません。

ご存じでしょうか。奥さんを含め、あなた方三人の力で霊的進化の正道に立ち戻ることが出来た人たちの中で、死後あなた方の仕事を霊界から援助するために霊団に加わっていない人は一人もいないという事実です。自分が恩恵を受けたように、今度は自分が恩恵を施したいと思うものなのです。

奥さんがいなくなったからといって寂しく思ってはいけません。家に奧さんがいなくなったと思ってはいけません。今もあなたのお側にいらっしゃいます。霊的にはむしろ生前より身近になっておられます。その目に映じず、その耳に声は聞こえなくても、奥さんの霊はすぐ近くにいらっしゃいます』

一九三七年にグラスゴ-(スコットランド)で開かれた国際スピリチュアリスト連盟の総会において、特別に催された交霊会で各国の代表に次のようなメッセージを送った。

『この度世界中からの代表を一堂に集結させたのは、他ならぬ霊的真理の価値の重大性です。皆さんは互いに語り合い、新たな力と新たな勇気を見出し、新たな理解と希望を携えて、それぞれの母国へ帰って行かれます。

地上界も最早や霊の声に知らぬふりをしていられなくなりました。人類は今まさに重大な岐路に立たされており、いずれを選ぶかの選択を迫られております。

キリスト教は人類を完全に裏切りました。最早や破産状態にあります。科学者も裏切りました。建設どころか破壊することばかりしております。思想家も裏切りました。ただの空理空論に終始しております。政治家も裏切りました。滅私の精神を通してのみ平和が訪れるものであるとの教えが今もって理解できておりません。そうした絶望的状態の中で、遂に大霊の子は真実を求めて絶叫したのです。

そこで私たちは、ここに集まられた皆さんには大いなる信頼が託されていることを改めて認識していただきたいのです。あなた方に背負わされた責任の大きさです。この宇宙で裏切ることのないものは大霊のみです。大霊の霊力を頼りとし、大霊の叡智に導かれ、大霊の愛に支えられている限り、いかなる難問に遭遇しても必ずや解決策を見出すことが出来ます。真の自我、本来の自我、より大きな自我が、自分一人の栄光を求めずに人のために役立ちたいとの願望に燃えるからです。

地上界は争いごとと敵意と不和に満ちあふれております。それでいて一人一人は「平和を!平和を!」と叫び続けています。そうした中で皆さんにお願いしたいのは、内部に無限の可能性、即ち大霊の力が秘められているという事実を改めて自覚することです。あなた方一人一人が大霊なのです。大霊の無限の霊力が皆さんの内部に秘められているのです。それを呼び覚まし顕現しさえすれば、前途に横たわるいかなる制約も打ち砕いてしまいます。

その秘められた大霊の賜物を思い切って花開かせるのです。皆さんの一人一人が自由に使用できる無限の霊力を秘めた、大霊そのものであることを自覚するのです。そうすれば今ようやく夜明けを迎えんとしている漆黒の地上世界の道具として活躍することができます。

人間を頼りにしてはいけません。いかに地位の高い人であっても頼りにしてはいけません。地上界のその向こうへ目をやってください。人類のためを思って待ちかまえている霊達からのインスピレーションに耳を澄ませてください。

前向きの姿勢を忘れないことです。これからも失敗と落胆は決して少なくはないでしょう。しかし、そうした時に忘れてならないのは、背後には霊団が控えていて、困難に遭遇した時には元気づけ、疲れた時には希望と力を与え、落胆している時には魂を鼓舞してくれるということです。見放されることは絶対にないということです。大霊の使者が応援してくれます。

皆さんの中には遠い他国にまで足を運ばれる方もいらっしゃるようですが、霊力が手薄になることは決してありません。人のためという一念に燃えて活動するかぎり、霊力は常に皆さんと共にあり、必要に応じて顕現してくれます。

皆さんのお一人お一人に大霊の祝福のあらんことを。そして、その大霊の愛が皆さんをあたたかく包んで下さっていることに気づかれんことを祈ります。地上界の苦難と試練と混乱に目を奪われることなく、それを達観して、大霊のシンボルである太陽へ目を向けられんことを。

心に愛を、頭に知識を、そして魂に犠牲的精神を満たしてください。そうすれば大霊の意志があなた方を通して顕現し、心が大霊の心と調和して鼓動し、文字どおり大霊と一体となることでしょう。大霊の祝福のあらんことを』

第18章 霊界側から見た戦争
〔シルバーバーチは若者が祖国のために出征していくことを決して咎めないが、戦争そのものがもたらす害悪については機会あるごとに厳しく言及し、地上的問題が戦争によって解決されたことは一度もないことを強調する〕

私たち霊界の者としては戦争が起きる度に霊界が、わけも分からず送り込まれてくる戦死者の魂でごった返す野戦病院のようになってくれては困るのです。

私たちのように地球圏に降りて仕事をしている者は、私たちがお届けしている霊的真理が受け入れられるようになる以外に救いようがないことを痛感いたします。人間の側の努力の問題だということです。私たちが代わってやってあげるわけには行かないのです。摂理に反したことをするとこうなるということを見届けて、地上界で間違ったことをすると霊界でこういう迷惑が生じますよと教えてあげるしかありません。

迷惑とは、霊的に何の準備もできていない魂が霊界へ続々と送り込まれてくることです。そのあまりの酷さに、霊界側としても黙って見過ごすわけには行かなくなったのです。戦死者たちはあたかも熟さないうちにもぎ取られた果実のようなものです。地上界で生活するための道具(肉体)を破壊された魂の傷を、なぜ霊界で癒さねばならないのでしょうか。地上界でやっておくべきことを疎(おろそ)かにしたために生じた面倒な事態に対処するために、なぜ私たちが進化の歩みを止めて地上圏へ戻って来なければならないのでしょうか。

それは、私たちには愛の心、大霊の愛の発露があるからこそです。それが無かったら地上圏でこうして働いてはいないでしょう。その事実を証明するものとしては、スピリチュアリズムの知識しかありません。つまり、それが真実であることを認めてくれない限り、私たちとしては身元を証明するものがないのです。「あなたの言うことはおかしい――これまでの地上の常識に反しているから」と言われては、最早や私たちとしては為す術がありません。

戦争を正当化することは、地上界の問題に限って考えても、できません。ただ破壊するだけだからです。ましてや霊界側へ及ぼす影響を考えた時、絶対に正当化できません。霊は地上界を離れるべき時機が熟した時に肉体から離れるべきであるという摂理に反したことを無差別に行うことになるからです。大霊の子がよくぞあれほど大規模に大霊の摂理を平気で犯すものと、私たちは呆れるばかりです。

実は地上界のそうした愚かな行為が、霊界の無知な低級霊集団を跋扈(ばっこ)させることになることを、皆さんはご存じありません。彼らは進歩と平和と調和を憎み、組織的な態勢で邪魔立てしようと画策しているのです。これを阻止するためには民族的対立をなくし、地上人類は全てが大霊の子であるとの認識をもつことです。対立を生んでいるのは地上的概念であって、大霊は何の差別もしておりません。民族の別なく全ての人類に大霊の分霊が宿っており、それ故に全人類が等しく大霊の子なのです。

地上世界には建設すべきものが幾らでもあるというのに、指導的立場にある人たちはなぜ破壊という手段を選ぶのでしょうか。大霊の摂理に悖(もと)ることをしていては、破壊と混乱を生むだけです。人類はもう充分にそれを見てきたのではないでしょうか。

ここにお出での皆さんには、大霊の計画を地上界に実現するために全力を尽していただきたいのです。大霊が流血を望まれるでしょうか。大霊が、戦争が生み出す悲劇や苦難、失業、飢餓、貧民窟、争いごとを喜ばれるでしょうか。せっかく分け与えてある霊的な恵みが無駄に終わるのを見て大霊が喜ばれるでしょうか。無慈悲にも両親から引き離された若い魂たちが(霊界の救護班の世話になっても)本当の親からは何もしてもらえなくて悲しむのを見て、大霊が何とも思わないものでしょうか。

私たちも大霊の僕として、こうして地上圏へ降りて働いているからこそ言えることですが、私たちがお届けする教えに忠実でありさえすれば、それだけであなた方もこの(地球浄化の)大事業で力になれるのです。

他人の物的生命に終止符を打つ行為は、大霊の摂理に悖ります。殺意を抱いた時、理性が去ります。人間には大霊が宿っておりますが、身体的進化の途上で通過した動物的段階の名残も宿しています。人間の向上進化というのは取りも直さずその動物性を抑え大霊(神性)を発揮できるようになることです。

動物性の跋扈を許しそれに引きずられることになった時は、戦争や紛争、殺人事件などが頻発します。大霊の心が顕現して互いに助け合う風潮になれば、平和と調和が生まれ、生きるための糧も必要な分だけ行き渡ります。

国家とか民族とかで差別してはいけません。いずれの国家も民族も大霊の一部なのです。みな大霊の目から見れば兄弟であり姉妹なのです。こうした私たちの教えは単純で子供騙しのように思えるかもしれませんが、やはり真実です。大霊の摂理を基盤としているからです。摂理を無視して地上界を築こうとしても、混乱と騒動が起きるばかりで、最後は全てが破綻します。

よほどの犠牲的努力が為されない限り地上界はこれからも戦争が絶えないでしょう。人類はそうなるタネを蒔いて来ており、蒔いたタネは人類自らの手で刈り取らねばなりません。原因と結果の法則は絶対にごまかせないのです。物的欲望のタネを蒔いておいて、その結果を免れようとしても、それは許されません。

愛が欲しければ愛のタネを蒔くことです。平和が欲しければ平和のタネを蒔くことです。至るところに奉仕のタネを蒔けば、地上世界は奉仕の精神に溢れることでしょう。大霊の真理はこのように至って単純なのです。あまりに単純過ぎるために却って地上の「お偉い方々」にはその重大性がお分かりにならないのです。

質疑応答
――大戦で戦死した若者の「犠牲」は何の役にも立たなかったのでしょうか。

少なくとも私の目には何の意義も見出せません。休戦後の今の方が「偉大なる戦い」が始まった時より一段と混乱が深まっております。

――あれだけの英雄的行為が無駄に終わることがあって良いものでしょうか。霊的な反響はまったくないのでしょうか。

犠牲となった個人個人には報いがあります。動機が正しかったからです。しかし、忘れてならないのは、地上世界は彼らを裏切っているということです。相も変わらず物質中心の考えにかぶれているために、彼らの犠牲が無意味に終わっていると申し上げているのです。

――休戦記念行事が毎年のように催されていますが、意義があるのでしょうか。

たとえ二分間でも思い出してあげることは、何もしないよりはましでしょう。ですが、ライフルや銃剣、軍隊、花火その他、戦争に結びついたもので軍事力を誇示することによって祝って、一体何になるのかと言いたいわけです。なぜ霊的な行事で祝えないのでしょうか。

――スピリチュアリズム的な催しには賛成ですか。

真実が述べられるところには必ず徳が生まれます。もちろんそれが奉仕的精神を鼓舞するものであればのことです。大見得を切った演説からは何も生まれません。また、それを聴く側も、いかにも自分たちが平和の味方であるかの気分に浸るだけではいけません。

私は「行為」を要求しているのです。人に役立つことをして欲しいのです。弱者を元気づけるようなことをして欲しいのです。病気に苦しむ人々を癒してあげて欲しいのです。喪の悲しみの中にいる人を慰めてあげて欲しいのです。住む家もない人に宿を貸してあげて欲しいのです。地上世界の恥とも言うベき動物への虐待行為を止めさせて欲しいのです。

平和は互助の精神からしか生まれません。全ての人が奉仕の精神を抱くようになるまでは、そしてそれを実行に移すようになるまでは、平和は訪れません。

――不戦主義、即ち参戦を拒否する一派の運動をどう思われますか。

私はいかなる「派」にも与(くみ)しません。私にはラベルというものがないのです。私の眼中には人のために役立つ行為と動機しかありません。お題目に幻惑されてはいけません。何を目的としているか、動機は何かを見極めないといけません。なぜなら、反目し合うどちらの側にも誠意の人と善意の人とがいるものだからです。私が述べる教えは至って簡単なことばかりですが、それを実行に移すには勇気がいります。

霊的真理と霊的摂理を知ることによって断固とした決意を持つに至った時、そして日常生活のあらゆる分野で私利私欲をなくし互助の精神で臨むようになった時、地上に平和と和合が訪れます。

それは一宗一派の主義・主張から生まれるのではありません。大霊の子の全てが霊的真理を理解して、それが日常生活に、政策に、経営に、政治に、そして国際問題に適用していくことから生まれるのです。

私は、これこそ真実であると確信した宇宙の原理・原則を説きます。だからこそ、これを実行に移せばきっとうまく行きますということを、自信をもって申し上げられるのです。皆さんは物質の世界にいらっしゃいます。最終的には皆さんに責任が掛かってきます。私たちはただ誠意をもって指導し、正道から逸れないように協力してあげることしか出来ません。

地上には古いしきたりから抜け出せない人が大勢います。それが宗教的なものである場合もありますし、政治的なものである場合もありますし、自分の想像力で拵(こしら)えた小さな精神的牢獄である場合もあります。

魂は常に自由であらねばなりません。自らを牢獄の中に閉じこめてはいけません。周りに垣根をめぐらし、新しいものを受け入れなくなってしまってはお終いです。真理は絶え間なく探究していくべきものです。その境界は限りなく広がっていきます。魂が進化するにつれて精神がそれに呼応していくからです。

――その魂の自由はどうすれば得られるのでしょうか。

完全な自由というものは得られません。自由の度合は魂の成長度に呼応するものだからです。知識にも真理にも叡智にも成長にも「限界」というものがないと悟れば、それだけ自由の度合が大きくなったことになります。心の中で間違いだと気づいたもの、理性が拒否するもの、知性が反発するものを潔く捨てることが出来れば、それだけ多くの自由を獲得したことになります。新しい光に照らして間違いであることが分かったものを恐れることなく捨てることが出来たら、それだけ自由になったことになります。それがお出来になる方が果たして何人いることでしょう?

――経済的な事情からそれが叶えられない人もいるのではないでしょうか。

それは違います。経済的事情は物的身体を束縛することはあっても、魂まで束縛することは出来ません。束縛しているのは経済的事情ではなくて、その人自身の精神です。その束縛から解放されるための叡智は、受け入れる用意さえあれば、いつでも得られるようになっております。しかし、それを手に入れるための旅は自分一人で出かけるしかないのです。

果てしない旅となることを覚悟しなければなりません。恐怖や危険にさらされることも覚悟しなければなりません。道なき道を一人分け入ることになることも覚悟しなければなりません。しかも真理の導くところならどこへでもついて行き、間違っていることは、それがいかに古くから大事にされてきているものであっても、潔く拒絶する用意が出来ていなければなりません。

――ヨーロッパの大国がみんな完全武装して大戦に備えている中で、英国だけが参加していないのは間違いではないでしょうか。

ですから、あなた方は一国・一民族の概念で考え、私は大霊とその子の概念で考えているということを何度も申し上げてきたはずです。破壊のための兵器をいくらこしらえても平和は得られないと言っているのです。平和を希求する声が高まり、みんなが愛と奉仕の摂理にのっとって生きるようになれば、平和になります。一国・一民族の概念は、私は取りません。全ての民族を一つと考え、大霊の一部という考えに立っております。全ての人類が大霊の子なのです。大霊の摂理を物質界に適用しない限り、戦争と破壊と混乱と破綻の尽きる時は来ないでしょう。

イタリア軍によるアビシニア(現エチオピア)侵攻に関連して出された質疑応答――

――「制裁」という手段をどう思われますか。

私の意見はもうお分かりでしょう。生命は大霊のものであって、人間のものではありません。勝手に生命を奪うことは許されません。摂理に反します。摂理に反したことをすれば、その代償を支払わねばなりません。

――しかし、この場合は動機が正当化されるのではないでしょうか。戦争を止めさせるためという大義があるのですから。

力による制裁のタネを蒔けば、そのタネはさらなる力による制裁を生むだけです。「戦争を止めさせるための戦争」だと当事者は言っているではありませんか。

――では、獣のような連中が無抵抗の人間を殺すのを手をこまねいて見ていろとおっしゃるのでしょうか。

そういう風に、あなた方はよくその場しのぎの手段について私たちの意見を求められますが、私たちは永遠の原理・原則を説いているのです。最初の段階で永遠の原理に基づいた手段を用いていれば、今日のような難題は生じなかったはずです。困った事態になってから「取り敢えずこういう手段を用いてよいか」とおっしゃっても返答のしようがありません。永遠の平和を得るには永遠の原理に基づいた手段を用いるしかありません。

――国際連盟(現在の「国際連合」の前身)は支持すべきでしょうか。

加盟国の代表は本当に平和を希求しているのでしょうか。心の底から、魂の奥底から平和を望んでいるのでしょうか。永遠の原理に素直に従うだけの覚悟が出来ているでしょうか。もしかして自国への脅威となるものを阻止しようとしているだけではないでしょうか。地球と人類全体のためではなく、我が国家と我が民族の富と安全を第一に考えているのではないでしょうか。

私たちは大霊と摂理、そしてその摂理の作用を永遠の規範として皆さんに説いているところです。それ以外にないからです。その場しのぎの手段でも一時的には効果があるかも知れませんが、邪悪な手段からは邪悪なものしか生まれません。

そのうち地上人類も愛こそが邪悪に勝つことを悟る日がまいります。全ての問題を愛の精神で解決するようになれば地上界は平和になります。愛の摂理にもとる欲望は分裂と混沌と破綻を生み出します。その根を正さないといけません。他のいかなる手段をもってしても永遠の平和は訪れません。

――宇宙には戦争を正当化する理由はないのでしょうか。

ありません。戦争は人類が地上で行っているだけで、霊界にはありません。人間が殺意を抱いた時、瞬時にしてその人間の周りに同じ意念に燃えた地縛霊が引きつけられると思って下さい。

一九三七年十一月十一日の「休戦記念日」におけるシルバーバーチからのメッセージ

毎年この日が巡ってくるごとに、戦死者の犠牲が空しいものであることをますます痛感させられます。たった二分間、あなた方は「栄誉ある戦没者」に無言の敬意(黙祷)を捧げ、それからの一年間は忘れ、この日が訪れると棚から下ろして埃(ほこり)をはたき、二分間だけ拝みます。

彼らの犠牲的行為は全て無駄に終わっています。十九年間(一九三七年現在で)十字架に架けられ続けてきたようなものです。それをあなた方は「偉大なる戦争」と呼びます。その偉大さとは殺戮の量、無駄な殺人の多さに過ぎないのではありませんか。全ての戦争を止めさせるための戦争だったとおっしゃいますが、その言葉の何と空しいことでしょう。何という欺瞞に満ちた言葉でしょう。

自分の生命まで犠牲にして祖国のために献身した若者たちが、実際は霊界で辛い幻滅の歳月を送っていることをご存じでしょうか。夢多き青春のまっただ中で肉体を奪われたのです。戦地へ赴いた時は文明を守るのだという理想に燃えておりました。しかし、そうした彼らを、その後の地上世界は裏切り続けております。地球上から戦争はなくなっておりません。栄誉ある戦死者への二分間の黙祷を捧げている最中でも「休戦」はありません。殺戮は二分間の休みもなく続いております。

真の平和は霊的摂理を適用する以外にないということを、地球人類はいつになったら悟るのでしょうか。戦争はもとより、それが生み出す流血、悲劇、混沌、破綻といったものの元凶は「利己主義」なのです。

その利己主義に代わって互いが奉仕的精神を抱き合うことによって初めて平和が訪れること、自国の物的威力を誇示しようとする古い唯物思想を捨て、代わって互いが互いのために生き、強い者が弱い者を助け、持てる者が持たざる者を援助しようとする気風になることによってのみ、平和が訪れることを知らねばなりません。

二分間だけの、それも、心にもない口先だけの敬意だけで、空しく霊界へ送られた者を侮辱してはなりません。和平へ向けていろいろと努力が為されながら、ことごとく失敗しております。が、唯一試みられていないのは、霊的真理の理解による方法です。それが為されないかぎり、戦争と流血が止むことはないでしょうし、ついには人類が誇りに思っている物質文明も破綻をきたすことでしょう。

第19章 再生(生まれ変わり)
〔再生、即ち同じ人間が何度かこの地球へ生まれ出て来るという思想は、スピリチュアリズムでも異論の多いテーマで、通信を送ってくる霊の間でも意見の衝突がある。シルバーバーチはこれを全面的に肯定する一人であるが、輪廻転生説のような機械的な生の繰り返しではなく、進化のための「埋め合わせ」を目的とし、しかも生まれ変わるのは同じ霊の別の意識層の一部であるとする〕

――意識が部分的に分かれて機能することが可能なのでしょうか。

今のあなたという意識とは別に、同じくあなたと言える大きな意識体があります。そのホンの小さな一部が地球という物質界で表現されているのが今のあなたです。そして、あなたの他にも同じ意識体を構成する複数の分霊がそれぞれの意識層で表現されております。

――個々の霊が独立しているのでしょうか。

独立はしていません。あなたも他の分霊も一個の「内奥の霊的実在」の側面です。つまり全体を構成する一部であり、それぞれがさまざまな媒体を通して自我を表現しており、時折その分霊どうしが合体することもあります。(通常意識にはのぼらなくても)霊的意識では気づいています。それは自我を表現し始めて間もない頃(霊的幼児期)にかぎられます。そのうち全分霊が共通の合流点を見出して、最終的には一つに再統一されます。

――その分霊どうしが地上で会っていながらそうと気づかないことがあるでしょうか。

統括霊を一つの大きな円として想像してください。その円を構成する分霊が離ればなれになって中心核の周りを回転しています。時折その分霊どうしが出会って、お互いが共通の円の中にいることを認識し合います。そのうち回転しなくなり、各分霊がそれぞれの場を得て、再び元の円が完成されます。

――二つの分霊が連絡し合うことは出来ますか。

その必要があれば出来ます。

――二つの分霊が同時に地上に誕生することがありますか。

ありません。全体の目的に反することだからです。個々の意識があらゆる界層での体験を得るということが本来の目的です。同じ界層へもう一度戻ることがあるのは、それなりの成就すべき(埋め合わせをすべき)ことが残っている場合に限られます。

――個々の分霊は自らの進化に自らが責任を負い、他の分霊が学んだ教訓による恩恵は受けないというのは本当でしょうか。

その通りです。個々の霊は一つの統括霊の構成分子であり、さまざまな形態で自我を表現しているわけです。進化するにつれて小我が大我を意識して行きます。

――そして、進化のある一点において、それらの小我が一体となるわけですね?

(理屈では)そうです。無限の時を経てのことですが……

――個々の小我の地上への誕生は一回きり、つまり大我としては再生の概念は当てはまっても、小我には再生はないという考えは正しいでしょうか。

それは成就すべき目的いかんに関わる問題です。同じ小我が二度も三度も再生することがあります。ただし、それは特殊な使命のある場合に限られます。

―― 一つの意識体の個々の部分、というのはどういうものでしょうか。

これは説明の難しい問題です。あなた方には「生きている」ということの本当の意味が理解できないからです。実はあなた方にとっての生命は実質的には最も下等な形態で顕現しているのです。そのあなた方には、生命の実体、あなた方に思いつくことの出来るもの全てを超越した意識をもって生きる、その言語を超越した生命の実相はとても想像できないでしょう。

宗教家が豁然大悟(かつぜんたいご)したといい、芸術家が最高のインスピレーションに接したといい、詩人が恍惚たる喜悦に浸ったといっても、私たち霊界の者から見れば、それは実在のかすかな影を見たに過ぎません。鈍重な物質によってその表現が制限されているあなた方に、その真実の相、生命の実相が理解できない以上、意識とは何か、なぜ自分を意識できるのかといった問いにどうして答えられましょう。

私の苦労を察してください。譬えるものがあればどんなにか楽でしょうが、地上にはそれがない。あなた方には、せいぜい、光と影、日向と日陰の比較くらいしか出来ません。虹の色は確かに美しい。ですが、地上の言語で説明の出来ないほどの美しい霊界の色彩を虹に譬えてみても、美しいものだという観念は伝えられても、その本当の美しさは理解していただけません。

――分霊の一つ一つを統括霊の徳性の表現と見てもよいでしょうか。

それはまったく違います。どうもこうした問いにお答えするのは、まるで生まれつき目の不自由な方に晴天のあの青く澄み切った空の美しさを説明するようなもので、譬えるものがないのですから困ります。

――それはマイヤースのいう「類魂」と同じものですか。

まったく同じものです。ただし、単なる魂の寄せ集めとは違います。大きな意識体を構成する集団で、その全体の進化のために各自が体験を求めて物質界にやってくるのです。

――その意識の本体へ戻ったとき、各霊は個性を失ってしまうのではなかろうかと思うのですが……

川が大海へそそぎ込んだ時、その川の水は存在が消えてしまうのでしょうか。オーケストラが完全なハーモニーで演奏している時、例えばバイオリンの音は消えてしまうのでしょうか。

――なぜ霊界の方から再生の決定的証拠を提供してくれないのでしょうか。

こうした霊言という手段によっても説明のしようのない問題に証拠などあり得るでしょうか。意識に受け入れ態勢が整い、再生が摂理であることが明確になって初めて、事実として認識されるのです。こちらの世界にも再生はないと言う者がいるのはそのためです。まだその事実を悟ることが出来る段階に達していないからそう言うに過ぎません。宗教家がその神秘的体験をビジネスマンに語ってもしょうがないでしょう。芸術家がインスピレーションの体験話をまったく芸術的センスのない人に聴かせてどうなりましょう。意識の段階が違うのです。

――再生する時はそのことが自分で分かるのでしょうか。

魂そのものは本能的に自覚します。しかし、知的に意識するとは限りません。大霊の分霊であるところの魂は、永遠の時の流れの中で一歩一歩、徐々に表現を求めています。が、どの段階でどう表現しても、その分量はわずかであり、表現されない部分が大半を占めています。

――では、無意識のまま再生するのでしょうか。

それも霊的進化の程度次第です。ちゃんと意識している霊もいれば意識しない霊もいます。魂は意識していても知覚的には意識しないまま再生する霊もいます。これは生命の神秘中の神秘にふれた問題でして、とても地上の言語では説明しかねます。

――生命がそのように変化と進歩を伴ったものであり、生まれ変わりが事実だとすると、霊界へ行っても必ずしも会いたい人に会えるとは限らないことになり、地上で約束した天国での再会が果たせないことになりませんか。

愛は必ず成就されます。なぜなら愛こそ宇宙最大のエネルギーだからです。愛は必ず愛する者を引き寄せ、また愛する者を探し出します。愛する者どうしを永久に引き裂くことは出来ません。

――でも、再生を繰り返せば、互いに別れ別れの連続ということになりませんか。これでは天上の幸せの観念と一致しないように思うのですが……

一致しないのは、あなたの天上の幸せの観念と私の天上の幸せの観念の方でしょう。宇宙およびその法則は大霊がこしらえたのであって、その子であるあなた方がこしらえるのではありません。賢明な人間は新しい事実を前にすると自分の考えを改めます。自分の考えに一致させるために事実を曲げようとしてみても、結局は徒労に終わることを知っているからです。

――これまで何回も地上生活を体験していることが事実だとすると、もう少しはましな人間であってもいいはずだと思うのですが……

物質界にあっても聖人は聖人ですし、最下等の人間はいつまでも最下等のままです。地上だから、霊界だからということで違いが生ずるのではありません。要は魂の進化の問題です。

――これからも無限に苦難の道が続くのでしょうか。

そうです。無限に続きます。何となれば、苦難の試練を経て初めて神性が開発されるからです。金塊がハンマーで砕かれ磨きをかけられて初めてあの輝きを見せるように、神性も苦難の試練を受けて初めて、強くたくましい輝きを見せるのです。

――そうなると死後に天国があるということが意味がないのではないでしょうか。

今日のあなたには天国のように思えることが、明日は天国とは思えなくなるものです。というのは、真の幸福というものは今より少しでも高いものを目指して努力するところにあるからです。

――再生する時は前世と同じ国に生まれるのでしょうか。例えばインディアンはインディアンに、イギリス人はイギリス人に、という具合に……

そうとは限りません。目指している目的のために最も適当と思われる国・民族を選びます。

――男性か女性かの選択も同じですか。

同じです。必ずしも前世と同じ性に生まれるとは限りません。

――死後、霊界で地上生活の償いをさせられますが、さらに地上に再生してから同じ罪の償いをさせられるというのは本当ですか。神は同じ罪に対して二度も罰を与えるのでしょうか。

償うとか罰するとかの問題ではなくて、要は進化の問題です。つまり学ぶべき教訓が残されているということであり、魂の教育と向上という一連の鎖の欠けている部分を補うということです。生まれ変わるということは必ずしも罪の償いのためとは限りません。欠けているギャップを埋める目的で再生する場合がよくあります。もちろん償いをする場合もあり、前世で学ぶべきでありながら果たせなかったものをもう一度学びに行くという場合もあります。罪の償いのためとばかり考えてはいけません。ましてや二度も三度も罰せられることは決してありません。大霊の摂理を知れば、その完璧さに驚かれるはずです。完璧なのです。大霊そのものが完全だからです。

――自分はこれまでに地上生活を何回経験しているということが明確に分かる霊がいますか。

います。それが分かる段階まで成長すれば自然に分かるようになります。その必要性が生じたからです。光に耐えられるようになるまでは光を見ることが出来ないのと同じです。名前を幾つか挙げても結構ですが、それでは何の証拠にもなりますまい。何度も言ってきましたように、再生の事実は「説く」だけで十分なはずです。

私は大霊の摂理について私なりに理解した事実を述べているだけです。知り得た通りを述べているのです。私の言うことに得心が行かない人がいても、それは一向に構いません。あるがままの事実を述べているだけですから…… 受け入れてもらえなくても構いません。私と同じだけの年数を生きられたら、その人もきっと考えが変わることでしょう。

――再生問題は異論が多いからこれを避けて、死後の存続ということだけに関心の的をしぼるという考えはいかがでしょう?

闇の中にいるよりは光の中にいる方がよろしい。無知のままでいるよりは摂理を少しでも多く知った方がよろしい。向上を目指して奮闘するのが良いに決まっています。死後存続の事実は真理探求の終着駅ではありません。そこから始まるのです。自分が大霊の分霊であること、それ故に何の苦もなく何の変身もなく死の関門を通過できるという事実を理解した時、それで全てがお終いになるのではありません。そこから本当の意味で「生きる」ということが始まるのです。

第20章 青年牧師との論争
ある時キリスト教メソジスト派の年次総会がウェストミンスター寺院のセントラルホールで開かれ、報告や活発な討論が為された。が、その合間での牧師たちの会話の中でスピリチュアリズムのことがしきりにささやかれた。

そのことで関心を抱いた一人の青年牧師がハンネン・スワッファーのもとを訪れ、交霊会というものに一度出席させてもらえないものだろうかと頼んだ。知的な風貌の、人徳を備えた好青年であることが一目でわかる。予備知識としてはコナン・ドイルの『遙かなるメッセージ』を読んだだけだという。

スワッファーは快く招待することにし、次のように述べた。

「明晩の交霊会にご出席ください。その会にはシルバーバーチと名乗る霊が、入神した霊媒の口を借りてしゃベります。その霊と存分に議論なさるがよろしい。納得の行かないところがあれば反論し、分からないところは遠慮なく質問なさることです。そのかわり後でよそへ行って、十分の議論がさせてもらえなかった、などと不平を言わないでいただきたい。質問したいことは何でも質問なさって結構です。その会の記録はいずれ活字になって発行されるでしょうが、お名前は出さないことにしましょう。そうすればケンカになる気遣いも要らないでしょう。もっとも、あなたの方からケンカを売られれば別ですが……」

翌日、約束通りその牧師が訪れた。そして、いつものようにシルバーバーチの祈りの言葉で交霊会が始まった。

「大霊のインスピレーションが皆さんの全てに宿り、その大霊の御心に応えて皆さんのお一人お一人が大霊の一部であることを感じ取っていただけますように。また、いずこに行かれる時もその御心を携えられ、接する人々にその威力を身をもってお示しになられますように」

以下はその牧師とシルバーバーチとの議論である。まずシルバーバーチの方から牧師にこう語りかける。

「この霊媒(バーバネル)にはあなた方のいう聖霊の力がみなぎっております。それがこうして言葉をしゃベらせてくれるのです。私はあなた方のいう復活せる霊の一人です」

牧師「死後の世界とはどういうところですか」

「あなた方の世界と実によく似ております。ただし、こちらは結果の世界で、そちらは原因の世界です」

牧師「死んだ時は恐怖感はありませんでしたか」

「ありません。私たちインディアンは霊覚が発達しており、死が恐ろしいものでないことを知っておりましたから…… あなたが属しておられる宗派の創立者ウェスレーも同じです。あの方も霊の力に動かされておりました。そのことはご存じですね?」

牧師「おっしゃる通りです」

「ところが現在の聖職者は霊の力に動かされておりません。宇宙は究極的には神とつながった一大連動装置によって動かされており、いちばん低い地上界もあなた方のおっしゃる天使の世界とつながっております。どんなに悪い人間もダメな人間も、あなた方のいう神、私のいう大霊と結ばれているのです」

牧師「死後の世界でも互いに認識し合えるのでしょうか」

「地上ではどうやって認識し合いますか」

牧師「目です。目で見ます」

「目玉さえあれば見えますか。結局は霊で見ていることになるでしょう?」

牧師「その通りです。私の精神で見ています。それは霊の一部だと思います」

「私も霊の力で見ています。私にはあなたの霊も見えるし肉体も見えます。しかし肉体は影に過ぎません。光源は霊です」

牧師「地上での最大の罪は何でしょうか」

「罪にもいろいろあります。が、最大の罪は神への反逆でしょう」

ここでメンバーの一人が「その点を具体的に述べてあげてください」と言うと

「神の存在を知りつつもなお、それを無視した生き方をしている人々、そういう人々が犯す罪がいちばん大きいでしょう」とシルバーバーチが付け加える。

さらに別のメンバーが「キリスト教ではそれを聖霊に対する罪と呼んでおります」と言うと

「例の本(バイブル)ではそう呼んでおります。が、要するに霊に対する罪です」

牧師「改訳聖書をどう思われますか。欽定訳聖書と比べてどちらが良いと思われますか」

「文字はどうでもよろしい。いいですか、大切なのはあなたの行いです。神の真理はバイブルだけでなく他のいろんな本に書かれています。それから、人のために尽くそうとする人々は、どんな地位の人であろうと誰であろうと、またどこの国の人であろうと、立派に神が宿っているのです。それこそがいちばん立派なバイブルです」

牧師「改心しないまま他界した人はどうなりますか」

「改心とはどういう意味ですか。もっと分かりやすい言葉でお願いします」

牧師「例えばある人は生涯を良くないことばかりしてそのまま他界し、ある人は死ぬ前に反省します。両者には死後の世界でどんな違いがあるのでしょうか」

「あなた方の本(バイブル)から引用しましょう。蒔いたタネは自分で刈り取るのです。これだけは変えることが出来ません。今のあなたがそのまま構えてこちらヘ参ります。こうだと信じているもの、人からこう見て貰いたいと思っているものではなく、内部のあなた、真実のあなただけがこちらへ参ります。あなたもこちらへお出でになれば分かります」

そう言ってからスワッファーの方を向いて「この人は心眼がありますね」と述べる。スワッファーが「霊能があるという意味ですか」と尋ねると「そうです。なぜ連れてきたのですか」と言う。「いや、彼の方から訪ねてきたものですから」と答えると、

「この人は着実に導かれている。少しずつ光明が見えてくることは間違いありません」と言ってからその牧師に向かって

「インディアンがあなた方のバイブルのことをよく知っていて驚かれたでしょう?」と言うと、「本当によくご存じのようです」と答えた。するとメンバーの一人が「三千年前に地上を去った方ですよ」と口添えする。牧師はすかさず年代を計算して「ダビデをご存知でしたか」と尋ねた。ダビデは紀元前1000年頃のイスラエルの王である。シルバーバーチが答える。

「私は白人ではありません。レッド・インディアンです。米国北西部の山脈の中で暮らしていました。あなた方のおっしゃる野蛮人というわけです。しかし、私はこれまで西洋人の世界に、三千年前のわれわれインディアンより遙かに多くの野蛮的行為と残忍さと無知とを見てきております。今なお物質的豊かさにおいて自分たちより劣る民族に対して行う残虐行為は、神に対する最大級の罪の一つといえます」

牧師「そちらへ行った人はどんな風に感じるのでしょう? 例えば後悔の念というものを強く感じるのでしょうか」

「いちばん残念に思うことは、やるべきことをやらずに終わったことです。あなたもこちらヘお出でになれば分かります。きちんと成し遂げたこと、やるべきだったのに怠ったこと、そうしたことが逐一わかります。逃してしまったチャンスが幾つもあったことを知って後悔するわけです」

牧師「キリストヘの信仰をどう思われますか。神はそれを嘉納(かのう)なさるでしょうか。キリストへの信仰はキリストの行いに倣うことになると思うのですが……」

「主よ、主よと、何かというと主を口にすることが信仰ではありません。大切なのは主の心にかなった行いです。それが全てです。口にする言葉や信じていることではありません。頭で考えていることでもありません。実際の行為です。何一つ信仰というものを持ち合わせなくても、落ち込んでいる人の心を元気づけ、飢えている人にパンを与え、暗闇の中にいる人の心に灯火を灯してあげる行為をすれば、その人こそ神の御心にかなった人と言えます」

ここで列席者の一人がイエスは神の一部なのかと尋ねると――

「イエスは地上に降誕した偉大な霊覚者だったということです。当時の民衆はイエスを理解せず、遂に十字架に架けました。いや、今なお架け続けております。イエスだけでなく人間のすべてに神の分霊が宿っております。ただ、その神性を多く発現している人と少ない人とがいるだけです」

牧師「キリストが地上最高の人物であったことは全世界が認めるところです。それほどの人物が嘘を言うはずがありません。キリストは言いました――“私と父とは一つである。私を見た者は父を見たのである”と。これはキリストが即ち神であることを述べたのではないでしょうか」

「もう一度バイブルを読み返してごらんなさい。“父は私よりも偉大である”とも言っておりませんか」

牧師「言っております」

「また“天にまします我らが父に祈れ”とも言っております。“私に祈れ”とは言っておりません。父に祈れと言ったキリスト自身が“天にまします我らが父”であるわけがないでしょう。私に祈れとは言っておりません。父に祈れと言ったのです」

牧師「キリストは“あなたたちの神”と“私の神”という言い方をしております。“私たちの神”とは決して言っておりません。ご自身を他の人間と同列に置いておりません」

「“あなたたちの神と私”とは言っておりません。“あなたたちは私より大きい仕事をするでしょう”とも言っております。

あなた方クリスチャンにお願いしたいのは、バイブルを読まれる際に何もかも神学的教義に合わせるような解釈をなさらぬことです。霊的実相に照らして解釈しなくてはいけません。存在の実相が霊であることが宇宙のすべての謎を解くカギなのです。イエスが譬え話を多用したのはそのためです」

牧師「神は地球人類を愛するがゆえに唯一の息子を授けたのです」

と述べて、イエスが神の子であるとするキリスト教の教義を弁護しようとする。

「イエスはそんなことは言っておりません。イエスの死後何年も経ってから、例のニケーア会議でそんなことがバイブルに書き加えられたのです」

牧師「ニケーア会議?」

「西暦三二五年に開かれております」

牧師「でも、私が今引用した言葉は、それ以前からある“ヨハネ福音書”に出ていました」

「どうしてそれが分かります?」

牧師「いや、歴史にそう書いてあります」

「どの歴史ですか」

牧師「どれだかは知りません」

「ご存じのはずがありません。一体バイブルというものが書かれる、その元になった書物はどこにあると思われますか」

牧師「“ヨハネ福音書”それ自体が原典です」

「いいえ、それよりもっと前の話です」

牧師「バイブルは西暦九十年に完成しました」

「その原典となったものは今どこにあると思いますか」

牧師「いろんな文書があります。例えば……」

と言って一つだけ挙げた。

「それは原典の写しです。原典はどこにありますか」

牧師がこれに答えられずにいるとシルバーバーチが

「バイブルの原典はご存じのバチカン宮殿に仕舞い込まれたまま一度も外に出されたことがないのです。あなた方がバイブルと呼んでいるものは、その原典のコピーのコピーの、そのまたコピーなのです。おまけに原典にないものまでいろいろと書き加えられております。

初期のキリスト教徒はイエスが遠からず再臨するものと信じて、イエスの地上生活のことは細かく記録しませんでした。ところが、いつになっても再臨しないので遂に締めて、記憶をたどりながらイエスの言ったことを記録に留めたのです。イエス曰く……と書いてあっても、実際にそう言ったかどうかは、書いた本人も確かでなかったのです」

牧師「でも、四つの福音書にはその基本となった、いわゆる“Q資料”(イエス語録)の証拠が見られることは事実ではないでしょうか。中心的事象はその四つの福音書に出ていると思うのですが……」

「別に私は、そうしたことがまったく起きなかったと言っているのではありません。ただ、バイブルに書いてあることの一語一句までイエスが本当に言ったとは限らないと言っているのです。バイブルに出てくる事象には、イエスが生まれる前から存在した書物からの引用がずいぶん入っていることを忘れてはいけません」

牧師「記録に残っていない口伝のイエス語録が出版されようとしていますが、どう思われますか」

「イエスの関心事はご自分がどんなことを言ったかといったことではありません。地上のすべての人間が神の摂理を実行してくれることです。人間は教説のことで騒ぎ立て、行いの方を疎かにしています。“福音書”なるものを講義する場に集まるのは、真理に飢えた人たちばかりです。イエスが何と言ったかはどうでもよいことです。大切なのは自分自身の人生をどう生きるかです。

地上世界は教説では救えません。いくら長い説教をしても、それだけでは救えません。神の子が神の御心を鎧として、暗黒と弾圧の勢力――魂を束縛するもの全てに立ち向かうことによって、初めて救われるのです。その方が記録に残っていないイエスの言葉よりも大切です」

牧師「この世にはなぜ多くの苦しみがあるのでしょうか」

「神の真理を悟るには苦を体験するしかないからです。苦しい体験の試練をへて初めて人間世界を支配している神の摂理が理解できるのです」

牧師「苦しみを知らずにいる人が大勢いるようですが……」

「あなたは神に仕える身です。大切なのは“霊”に関わることであり、“肉体”に関わることでないくらいのことは理解できなくてはいけません。霊の苦しみの方が肉体の痛みよりも耐え難いものです」

メンバーの一人が「現行の制度は不公平であるように思います」と言うとシルバーバーチが

「地上での出来事はいつの日か必ず埋め合わせがあります。いつかは自分で天秤を手にして、バランスを調節する日がまいります。自分で蒔いたものを刈り取るという自然法則から免れることは出来ません。罰が軽くて済んでいる人がいるかにお考えのようですが、そういうことはありません。あなたには魂の内部を見抜く力がないからそう思えるのです。

私が常に念頭においているのは、大霊の法則です。人間の法律は念頭にありません。人間がこしらえた法律は改めなければならなくなります。いつかは変えなければならなくなります。大霊の法則は決してその必要がありません。地上に苦難がなければ、人間は正していくべきものへ注意を向けることができません。痛みや苦しみや邪悪が存在するのは、大霊の分霊であるあなた方人間がそれを克服していく方法を学ぶためです。

もしもあなたがそれを怠っているとしたら、あなたをこの世に遣わした大霊の意図を実践していないことになります。宇宙の始まりから終わりまでを法則によって支配し続けている大霊を、一体あなたは何の資格をもって裁かれるのでしょう」

牧師「霊の世界ではどんなことをなさっているのですか」

「あなたはこの世でどんなことをなさっておられますか」

牧師「それは、その、アレコレと本を読んだり…… それに、説教もよくします」

「私もよく本を読みます。それに今は、こうして大変な説教をしております」

牧師「私は英国中を回らなくてはなりません」

「私は霊の世界中を回らなくてはなりません。さらに私の方は、天命をまっとうせずにこちらヘ送り込まれてきた人間がうろついている暗黒界へも下りて行かねばなりません。それにはずいぶん手間が掛かります。あなたに自覚していただきたいのは、あなた方はとても大切な立場に立っていらっしゃるということです。神に仕える身であることを自認しながら、その本来の責務を果たしていない方がいます。ただ教会の壇上から意味もない説教をしているだけです。

しかし、自ら神の手にゆだね、神の貯蔵庫からインスピレーションを頂戴すべく魂の扉を開けば、あなたは古(いにしえ)の預言者たちを鼓舞したのと同じ霊力によって魂が満たされるのです。そうなることで地上の片隅に、人生に疲れ果てた人々の心を明るく照らす光をもたらすことが出来るのです」

牧師「そうあってくれれば嬉しく思います」

「いえ、そうあってくれればではなくて、事実そうなのです。私はこちらの世界で後悔している牧師にたくさん会っておりますが、皆さん、地上での人生を振り返って、ご自分が本当の霊のメッセージを説いていなかったこと、バイブルや用語や教説にばかりこだわって実践を疎かにしたことを、如実に自覚します。そして、出来ればもう一度地上へ戻りたいと望みます。そこで私は、あなたのような牧師に働きかけることによって新しい時代の真理を地上にもたらす方法をお教えするのです。

あなたは、今まさに崩壊の一途をたどっている世界に身を置いていることを自覚しないといけません。新しい秩序の誕生、真の意味での天国が到来する時代の幕開けを見ていらっしゃるのです。産みの痛みと苦しみと涙が、少なからず伴うことでしょう。しかし最後は大霊の摂理が支配します。あなた方一人一人がその新しい世界を招来する手助けができるのです。なぜなら、人間の全てが大霊の分霊であり、その意味で大霊の仕事の一翼を担うことが出来るのです」

その牧師にとっての第一回目の交霊会も終わりに近づき、いよいよ霊媒から去るに当たってシルバーバーチがこう述べた。

「このあと私もあなたが説教をなさる教会へいっしょに参ります。あなたが本当に良い説教をなさった時、これが霊の力だと自覚なさるでしょう」

牧師「これまでも大いなる霊力を授かるよう祈って参りました」

「祈りはきっと叶えられるでしょう」

以上で第一回の議論が終わり、続いて第二回の議論の機会がもたれた。引き続いてそれを紹介する。

牧師「地上の人間にとって完璧な生活を送ることは可能でしょうか。全ての人間を愛することは可能なのでしょうか」

これが二回目の議論の最初の質問だった。

「それは不可能なことです。が、そう努力することは出来ます。努力すること、そのことが性格の形成に役立つのです。怒ることもなく、辛く当たることもなく、腹を立てることもないようでは、もはや人間ではないことになります。人間は霊的に成長することを目的としてこの世に生まれて来るのです。成長また成長と、いつまでたっても成長の連続です。それはこちらへ来てからでも同じです」

牧師「イエスは“天の父の完全であるが如くに汝らも完全であれ”と言っておりますが、これはどう解釈すべきでしょうか」

「ですから、完全であるように努力しなさいと言っているのです。それが地上で目指すべき最高の理想なのです。即ち、内部に宿る神性を開発することです」

牧師「先ほど引用した言葉はマタイ伝第五章の終わりに出ているのですが、普遍的な愛について述べた後でそう言っております。また“ある者は隣人を愛し、ある者は友人を愛するが、汝らは完全であれ。神の子なればなり”とも言っております。神は全人類を愛してくださるのだから、われわれも全ての人間を愛すべきであるということなのですが、イエスが人間に実行不可能なことを命じると思われますか」

この質問にシルバーバーチは呆れたような、あるいは感心したような口調でこう述べる。

「あなたは全世界の人間をイエスのような人物になさりたいのですね。お聞きしますが、イエス自身、完璧な人生を送ったと思いますか」

牧師「そう思います。完璧な人生を送られたと思います」

「一度も腹を立てたことがなかったとお考えですか」

牧師「当時行われていたことを不服に思われたことはあると思います」

「腹を立てたことは一度もなかったとお考えですか」

牧師「腹を立てることはいけないことであると言われている、それと同じ意味で腹を立てられたことはないと思います」

「そんなことを聞いているのではありません。イエスは絶対に腹を立てなかったかと聞いているのです。イエスが腹を立てたことが正当化できるかどうかを聞いているのではありません。正当化することなら、あなた方(クリスチャン)は何でも正当化なさるんですから……」

ここでメンバーの一人が割って入って、イエスが両替商人を教会堂から追い出した時の話を出した。するとシルバーバーチが続ける――

「私が言いたかったのはそのことです。あの時イエスは教会堂という神聖な場所を汚す者どもに腹を立てたのです。ムチをもって追い払ったのです。それは怒りそのものでした。それが良いとか悪いとかは別問題です。イエスは怒ったのです。怒るということは人間的感情です。私が言いたいのは、イエスも人間的感情を具えていたということです。イエスを人間の模範として仰ぐとき、イエスもまた一個の人間であった――ただ普通の人間よりは大霊の心を多く体現した人だった、という風に考えることが大切です。分かりましたか」

牧師「分かりました」

「私はあなたのためを思えばこそ、こんなことを申し上げるのです。誰の手も届かない所に祭り上げたらイエスが喜ばれると思うのは大間違いです。イエスもやはり我々と同じ人の子だったと見る方が、よほど喜ばれるはずです。自分だけが超然とした位に留まることは、イエスは喜ばれません。人類と共に喜び、共に苦しむことを望まれます。一つの生き方の模範を示しておられるのです。イエスがおこなったことは誰にでも実行できることばかりなのです。誰も付いて行けないような人物だったら、せっかく地上へ降りたことが無駄だったことになります」

話題が変わって――

牧師「人間には自由意志があるのでしょうか」

「あります。自由意志も大霊の摂理の一環です」

牧師「時として人間は抑えようのない衝動によって行為にでることがあるとは思われませんか。そう強いられているのでしょうか。それともやはり自由意志でおこなっているのでしょうか」

「あなたはどう思われますか」

牧師「私は人間はあくまでも自由意志を持った行為者だと考えます」

「人間には例外なく自由意志が与えられております。ただしそれは、大霊の定めた摂理の範囲内で行使しなければなりません。これは大霊の愛から生まれた法則で、大霊の子の全てに平等に定められており、それを変えることは誰にも出来ません。その規則の範囲内において自由であるということです」

牧師「もし自由だとすると、罪は恐ろしいものになります。悪いと知りつつ犯すことになりますから、強制的にやらされる場合よりも恐ろしいことに思えます」

「私に言えることは、いかなる過ちも必ず本人が正さなくてはならないということ、それだけです。地上で正さなかったら、こちらヘ来てから正さなくてはなりません」

牧師「とかく感心できないことをしがちな性癖が先天的に強い人がいるとは思われませんか。善いことをしやすい人間とそうでない人間とがいます」

「難しい問題です。と申しますのは、各自に自由意志があるからです。誰しも善くないことをすると、内心ではそうと気づいているものです。その道義心を無視するか否かは、それまでに身につけた性格によって違ってくることです。罪というものは、それが結果に及ぼす影響の度合に応じて重くも軽くもなります」

これを聞いて牧師がすかさず反論した。

牧師「それは罪が精神的なものであるという事実と矛盾しませんか。単に結果との関連においてのみ軽重が問われるとしたら、心の中の罪は問われないことになります」

「罪は罪です。身体で犯す罪、心で犯す罪、霊的に犯す罪、どれも罪は罪です。あなたはさっき衝動的に罪を犯すことがあるかと問われましたが、その衝動はどこから来ると思いますか」

牧師「思念です」

「思念はどこから来ますか」

少し躊躇してから

牧師「善なる思念は神から来ます」

「では、悪の思念はどこから来ますか」

牧師「分かりません」

「神はすべてのものに宿っております。間違ったことの中にも正しいことの中にも宿っております。日光の中にも嵐の中にも、美しいものの中にも醜いものの中にも宿っています。空にも海にも雷鳴にも稲妻にも宿っているのです。美なるもの善なるものだけではありません。罪の中にも悪の中にも宿っているのです。

お分かりになりますか。神とはコレとコレにだけ存在しますという風に一定の範囲内に限定できるものではないのです。全宇宙が神の創造物であり、その隅々まで神の霊が浸透しているのです。あるものを切り取って「コレは神のものではない」などとは言えないのです。日光は神の恵みで、作物を台無しにする嵐は悪魔の仕業だなどとは言えないのです。神はすべてのものに宿ります。

あなたという存在は思念を受けたり出したりする一個の器官です。が、どんな思念を発するかは、あなたの性格と霊格によって違ってきます。もしもあなたが、あなたのおっしゃる“完璧な人生”を送れば、あなたの発する思念も完全なものばかりでしょう。が、あなたも人の子である以上、あらゆる煩悩をお持ちです。私の言っていることがお分かりですか」

牧師「おっしゃる通りだと思います。では、そういう煩悩ばかりの人間が死に際になって自分の非を悟り“信ぜよ、さらば救われん”の一句で心に安らぎを覚えるという場合があるのをどう思われますか。キリスト教の“回心の教義”をどう思われますか」

「よくご存じのはずの文句をあなた方の本から引用しましょう。“たとえ全世界を得ようと己の魂を失わば何の益かあらん”“まず神の国とその義を求めよ。しからばこれらのもの全て汝らのものとならん”これらの文句は、あなた方はよくご存じですが、果たして理解していらっしゃるでしょうか。それが真実であること、本当にそうなること、それが神の摂理であることを悟っていらっしゃいますか。“神を侮るべからず。己の蒔きしものは己が刈り取るべし”――これもよくご存じでしょう。

神の摂理は絶対にごまかせません。傍若無人の人生を送った人間が死に際の回心でいっぺんに立派な霊になれると思いますか。無欲と滅私の奉仕的生活を送ってきた人間と、わがままで心の修養を一切しなかった人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。“すみませんでした”のひとことで全ての過ちが赦されるとしたら、果たして神は公正と言えるでしょうか。いかがですか」

牧師「私は、神はイエス・キリストに一つの心の避難所を設けられたのだと思うのです。イエスはこう言われ……」

「お待ちなさい。私はあなたの率直な意見をお聞きしているのです。率直にお答えいただきたい。本に書いてある言葉を引用しないでいただきたい。イエスが何と言ったか、私には分かっております。あなた自身はどう思うかと聞いているのです」

牧師「確かにそれでは公正とは言えないと思います。しかし、そこにこそ神の偉大なる愛の入る余地があると思うのです」

「ここの通りを行かれると人間の法律を運営している建物(役所)があります。もしその法律によって、生涯を善行に励んできた人間と罪ばかり犯してきた人間とを平等に扱ったら、あなたはその法律を公正と思われますか」

牧師「私は、生涯まっすぐな道を歩み、誰をも愛し、正直に生き、死ぬまでキリストを信じた人が…… 私は……」

ここでシルバーバーチが遮って言う――

「自分がタネを蒔き、蒔いたものは自分で刈り取る――この法則から逃れることは出来ません。神の法則はごまかすことが出来ないのです」

牧師「では、悪のかぎりを尽くした人間が今まさに死にかかっているとしたら、その償いをすべきであることを、その人間にどう説いてやれば良いのでしょうか」

「シルバーバーチがこう言っていたと、その人に伝えてください。もしもその人が真の人間、つまり幾ばくかでも神の心を宿していると自分で思うのなら、それまでの過ちを正したいという気持になれるはずです。自分の犯した過ちの報いから逃れたいという気持がどこかにあるとしたら、その人はもはや人間ではない、ただの臆病者だと。そう伝えてください」

牧師「しかし、罪を告白するということは、誰にでもはできない勇気ある行為だとは言えないでしょうか」

「それは正しい方向への第一歩でしかありません。告白したことで罪が拭われるものではありません。その人は善いことをする自由も悪いことをする自由もあったのを、敢えて悪い方を選んだ。自分で選んだのです。ならば、その結果に対して責任を取らなくてはなりません。元に戻す努力をしなくてはなりません。紋切り型の祈りの文句を述べて心が安らぎを得たとしても、それは自分をごまかしているに過ぎません。蒔いたタネは自分で刈り取らねばなりません。それが神の摂理です」

牧師「しかし、イエスは言っておられます――“労する者、重荷を背負える者、すべて我のもとに来たれ。汝らに安らぎを与えん”と」

「“文は殺し、霊は生かす”というのをご存じでしょう。あなた方(聖職者)がバイブルの言葉を引用して、これは文字通りに実行しなければならないと説いてみたところで無意味です。今日あなた方自身が実行していないことがバイブルの中に幾らでもあるからです。私の言っていることがお分かりでしょう?」

牧師「イエスは“善き羊飼いは羊のために命すら捨つるものなり”と言いました。私は常に“赦し”の教えを説いています。キリストの赦しを受け入れ、キリストの心が自分を支配していることを暗黙のうちに認める者は、それだけでその人生が大きな愛の施しとなるという意味です」

「神は人間に理性という神性の一部を植え付けられました。あなた方もぜひその理性を使用していただきたい。大きな過ちを犯し、それを神妙に告白する――それは心の安らぎにはなるかも知れませんが、罪を犯したという事実そのものはいささかも変わりません。神の理法に照らしてその歪みを正すまでは、罪は罪として相変わらず残っております。いいですか、それが神、私の言う大霊の摂理なのです。イエスが言ったとおっしゃる言葉を幾らバイブルから引用しても、その摂理は絶対に変えることは出来ないのです。前にも言ったことですが、バイブルに書かれている言葉をイエスが実際に言ったとは限らないのです。そのうちの多くは後世の者が書き加えたものなのです。イエスがこうおっしゃったとあなた方が言う時、それは、そう言ったと思うといった程度のものでしかありません。そんないい加減なことをするよりも、あの二千年前のイエスを導き、あれほどの偉大な人物にしたのと同じ霊力、同じインスピレーション、同じエネルギーが、二千年後の今も働いていることを知って欲しいのです。

あなた自身も神の一部なのです。その神の温かき愛、深遠なる叡智、無限なる知識、崇高なる真理がいつもあなたを待ち受けているのです。何も、神を求めて二千年前まで遡ることはないのです。今ここに在(ましま)すのです。二千年前とまったく同じ大霊が今ここに在すのです。その大霊の真理とエネルギーの通路となるべき人物(霊媒・霊能者)は決して多いとは言えません。しかし、あなた方クリスチャンは何ゆえに二千年前のたった一人の霊能者にばかりすがるのです? なぜそんな昔のインスピレーションだけを大切になさるのです? なぜイエス一人の言ったことに戻ろうとなさるのです?」

牧師「私は、私の心の中にキリストがいて業を為しておられると説いております。インスピレーションを得ることは可能だと思います」

「何ゆえにあなた方は全知全能の神を一個の人間と一冊の書物に閉じ込めようとなさるのです? 宇宙の大霊が一個の人間あるいは一冊の書物で表現できるとでもお考えですか。私はクリスチャンではありません。イエスよりずっと前に地上に生を享けました。すると神は私に神の恩恵に浴することを許してくださらなかったということですか。

神のすべてが一冊の書物のわずかなページで表現できるとお思いですか。その一冊を書き終えた時を最後に神は、それ以上のインスピレーションを子等に授けることをストップされたとお考えですか。バイブルの最後のページを読み終えた時、神の真理のすべてを読み終えたことになるというのでしょうか」

牧師「そうであって欲しくないと思っています。時折、何かに鼓舞されるのを感じることがあります」

「あなたもいつの日か天に在す父のもとに帰り、今あなたが築きつつある真実のあなたに相応しい住処に住まわれます。神に仕える者としてあなたに分かっていただきたいのは、神を一つの枠の中に閉じ込めることは出来ないということです。神、私のいう大霊はすべての存在に宿るのです。悪徳の固まりのような人間も、神か仏かと仰がれるような人間と同じように神とつながっているのです。

あなた方一人一人に神が宿っているのです。あなたがその神の心をわが心とし、心を大きく開いて信者に接すれば、その心を通じて神の力と安らぎがあなたの教会を訪れる人々の心に伝わることでしょう」

牧師「今日まで残っている唯一のカレンダーがキリスト暦(西暦)であるという事実をどう思われますか」

「誰がそんなことを言ったのでしょう? 多くの国が今なおその国の宗教の発生とともにできたカレンダーを使用しております。

私にはイエスを過小評価するつもりは毛頭ありません。今この時点でなさっているイエスの仕事を知っておりますし、ご自身は神として崇(あが)められることを望んでおられないことも知っております。イエスの生涯の価値は人間が模範とすべき、その生き方にあります。イエスという一個の人間を崇拝することを止めない限り、キリスト教は神のインスピレーションに恵まれることはないでしょう」

牧師「キリストの誕生日を西洋暦の始まりと決めたのがいつのことか、よく分かっていないのです。ご存じでしょうか」

(そんなことよりも)私の話を聞いてください。数日前のことですが、このサークルのメンバーの一人が(イングランド)北部の町へ行き、大勢の神の子と共に過ごしました。高い地位の人たちではありません。肉体労働で暮らしている人たちで、仕事が与えられると――大抵は道路を掘り起こす仕事ですが――一生懸命はたらき、終わると僅かばかりの賃金を貰っている人たちです。その人たちが住んでいるのは、いわゆる貧民収容施設です。これはキリスト教文明の恥辱ともいうベき産物です。

ところが、同じ町にあなた方が“神の館”と呼んでいる大聖堂があります。高くそびえていますから、太陽が照ると周りの家はその影に入ります。そんなものが無かった時よりも暗くなります。これで良いと思われますか」

牧師「私はそのダーラムにいたことがあります」

「知っております。だからこそ、この話を出したのです」

牧師「あのような施設で暮らさねばならない人たちのことを気の毒に思います」

「あのようなことでイエスがお喜びになると思われますか。一方にはあのような施設、あのような労働を強いられる人々、僅かばかりの賃金しか貰えない人々が存在し、他方にはお金のことには無頓着でいられる人々が存在するというのに、イエスはカレンダーのことなどに関わっていられると思われますか。

あのような生活を余儀なくさせられている人が大勢いるというのに、大聖堂のための資金のことやカレンダーのことやバイブルのことなどに関わっていられると思いますか。イエスの名を使用し続け、キリスト教国と名のるこの国にそんな恥ずべき事態の発生を許しているキリスト教というものを、あなた方クリスチャンは一体何と心得ておられるのですか。

先ほど教典のことで(改訳版と欽定訳版のどっちが良いかと)質問されましたが、宗教にはそんなことよりもっと大切な、そしてもっと大きな仕事があるはずです。神はその恩寵をすべての子等に分け与えたいと望んでおられることが分かりませんか。飢え求めている生活物資を、世界のどこかでは捨て放題の暮らしをしている人たちがいます。他ならぬクリスチャンが同じようなことをしていて、果たしてキリスト教を語る資格があると言えるでしょうか。

私はあなたが想像なさる以上にイエスと親密な関係にあります。私は主イエスの目に涙を見たことがあります。クリスチャンをもって任ずる者、聖職にある者の多くが、その教会の陰で進行している恥ずべき事態に目を瞑(つむ)っているのをご覧になるからです。その日の糧にすら事欠く神の子が大勢いるというのに、神の館のつもりで建立した教会を宝石やステンドグラスで飾り、その大きさを誇っているのを見て、一体誰が涼しい顔をしていられるでしょうか。

その人たちの多くは一日の糧も満足に買えないほどの僅かな賃金を得るために一日中働き続け、時には夜更かしまでして、しかも気の毒に、その疲れた身体を横たえるまともな場所もない有様なのです。

あなたを非難しているのではありません。私はあなたに大きな愛着を覚えております。お役に立つことならどんなことでもして上げたいと思っております。が、私は霊界の人間です。そして、あなたのように社会へ足を踏み入れて間違いを改めて行くための一石を投じてくれる人物と、こうして語り合うチャンスが非常に少ないのです。

あなたに理解していただきたいことは、バイブルのテキストのことを云々するよりもっと大切なことが沢山あるということです。主よ、主よ、と叫ぶ者みんなが敬虔なのではありません。神の意志を実践する者こそが敬虔なのです。それをイエスは二千年前に述べているではありませんか。なのに今日なおあなた方は、それがいちばん大切であることを、なぜ信者に説けないのでしょうか。大切なのは何を信じるかではなく、何を為すかです。

戦争、不正行為、飢餓、貧困、失業――こうした現実に知らぬふりをしている限りキリスト教は失敗であり、イエスを模範としていないことになります。

あなたは(メソジスト派の)総会から抜け出てこられました。過去一年間、メソジスト教会の三派が合同して行事を進めて来られましたが、せっかく合同しても、そうした神の摂理への汚辱(おじょく)を拭うために一致協力しない限りそれは無意味です。私は率直に申し上げておきます。誤解を受けては困るからです」

牧師「数年前に私たちは派閥を超えて慈善事業を行い、その時の収益金を失業者のための救済資金として使用しました。大したことは出来ませんが、信者の数の割にはよくやっていると思われませんか」

「あなたが心掛けの立派な方であることは私も認めております。そうでなかったらこうしてあなたと二度も議論をしに地上へ戻ってくるようなことはいたしません。あなたが有能な人材であることを見て取っております。あなたの教会へ足を運ぶ人の数は確かに知れております。しかし、イエスは社会の隅々まで足を運べと言っていないでしょうか。人が来るのを待っているようではいけません。あなたの方から足を運ばなくてはなりません。

教会を光明の中心として、飢えた魂だけでなく飢えた肉体にも糧を与えてあげないといけません。叡智の言葉だけでなく、パンと日常の必需品を与えてあげられるようでないといけません。魂と身体の両方を養ってあげないといけません。霊を救うと同時に、その霊が働くための身体も救ってあげないといけません。教会がこぞってそのことに努力しなければ、養うものを得られない身体は死んでしまいます」

そう述べてから、最後にその牧師のために祈りを捧げた。

「あなたがどこにいても、何をされても、常に大霊の御力と愛が支えとなるように祈ります。常に人のためを思われるあなたの心が、大霊からのインスピレーションを受け入れることが出来ますよう祈ります。

願わくは大霊があなたに一層の奉仕ヘの力を吹き込まれ、あなたの仕事の場を光と安らぎと幸せの中心となし給い、そこへ訪れる人々がそこにこそ大霊が働いておられることを感得してくれるようになることを祈ります。

大霊が常にあなたを祝福し、支え、大霊の道に勤しませ給わんことを。願わくは大霊の意図と力と計画について、より一層明確な悟りを得られんことを。

では大霊の祝福を。ご機嫌よう」

第21章 霊界でも祝うクリスマスとイースター
〔一年に二度、クリスマスとイースターの時期に、他の大勢の指導霊とともにシルバーバーチは霊界の内奥で催される大審議会に出席し、それまでの計画の進捗具合が報告され、それに基づいて次の計画が立てられ、助言と共にそれが言い渡される場に立ち会う。そうした審議会の最高責任者が地上で「ナザレのイエス」と呼ばれた人物で、そのイエスから霊的エネルギーとインスピレーションを賜った指導霊たちは、心身ともに新生して地上圏へ戻ってくるという。その時の様子をシルバーバーチがこう語る――〕

その時のイエスの愛情あふれるお言葉――それまでに私たちが成し遂げた成果についての評価を披露され、新たなる力、新たなる希望、新たなるビジョンをもって新たなる目標に向かって突き進むように、と励ましてくださる時のあの温かい愛を、皆さんにも感じさせてあげたいのですが、それが出来ないのが残念です。教会が説く神格化されたイエス・キリストではありません。多くの有志を通して地球浄化の大事業に勤しんでおられる、一人の偉大なる霊です。

その界層は実は私の本来の所属界です。私は、僅かな間とはいえ、その界に戻って活性あふれる霊力の素晴らしさと美しさに触れ、高級界においてのみ可能な生命の実感を味わうことが出来るのです。こんなことを申し上げる私に、自惚れの気持など微塵(みじん)もありません。

たとえ世界中の名画や霊感的作品、物質界のありとあらゆる美術品、さらには自然界の神秘的な美を集めて壮大な美の祭典を繰り広げてみても、それは高遠の世界の美しさに比ベれば、お粗末な模作程度のものでしかありません。

例えば画家がそうした上層界からのインスピレーションに触れたとしましょう。すぐに描きたい衝動に駆られることでしょうが、手持ちの絵の具では種類が足りないことを知ります。何とか混ぜ合わせて、魂で見た色彩を創り出そうとしますが、それも不可能であることを悟ります。霊的な真理や美しさは物的な表現を超えたものだからです。

霊的な喜悦がいかなるものであるかを、どうして地上の言語で説明できましょう? 叡智と理解力、慈悲心と優しさに満ちた上層界のスピリットたち、こちらから伝える前にすベてを読み取ってしまう直観力を具えたスピリットたち、我々の心の奥の奥の思いまで洞察しているスピリットたち、精神の働き、成功と失敗まで知悉(ちしつ)しているスピリットたち、目も眩まんばかりの光輝を放っているそうしたスピリットたちと共に一堂に会した時の喜びを、どうして言語などで説明できましょう?

地上には、そうした魂の体験を叙述する言語がありません。その集会では来し方の数ヵ月間の成果が復習され、新たな計画が作成され、指導霊の一人一人に役割が与えられます。その上で各自が激励の言葉を賜り、再び各自の使命の地へと赴きます。今こうして私は皆さんの協力を得ながら、持てる霊力を駆使して、地上人類を少しでも大霊の御心に近づけるべく努力しているところです。

質疑応答
――その集会に出席される時は地理的な意味で地球を「離れる」のでしょうか、それともバイブレーションを別の次元に変えるのでしょうか。

私が地球圏を去る時は引力との関係が無くなり、地球圏のバイブレーションとも縁が無くなります。こうして話をしている時の私はダブルを使っているのですが、地球を離れる時はそれを脱いで霊体を使用します。その霊体は、こうして語っている間は、言うなればダブルを隠れ蓑(みの)として奥にしまい込んであります。

脱ぎ捨てたダブルは(次に使用するまで)組織が分解しないように私の意識の一部を残して(活性を保たせて)おきますが、本来の私の自我は内奥へ内奥へと次元を高めて、霊的意識を取り戻して行きます。そのためには時間が要ります。地球のバイブレーションから脱するのに時間を掛ければ掛けるほど、戻って行く界層での私の自我意識の次元が高くなるのです。

しかし、いくら頑張ってみても、最初にこの仕事をうけたまわって地球圏ヘ下降してくる以前の意識レベルまで到達したことは、それまで一度もありません。何年も掛かったものを二、三日で取り戻せるはずはありません。

――本来の意識レベルを意図的に下げるというのは大変な犠牲を強いられることでしょう?

おっしゃる通りです。それは、しかし、物質界で頑張っているあなた方のために喜んで支払っている代償です。

――犠牲の中でも最大といって良いほどのものであるに相違ありません。

確かにそうですが、真理に飢えている人がこれほど多いのですから、私は喜んで持てるものを分け与える覚悟です。

想像してみていただけますか。さきに私は地上世界を「お粗末な模作ていど」と申し上げましたが、私の本来の住処である光輝に溢れた世界、絵画も建造物も詩歌も音楽も完全の域に達し、自然界の美しさも可能な限りの調和の域に達し、しかも交わる人々は趣味も性分も相通じる人ばかりという世界から、暗くて陰鬱なこの地上界へと降りてくるのです。そのために私が犠牲にするものがいかほどのものか、およそお分かりいただけるでしょう。

こんなことを私は自惚れて言っているのではありません。僅かな人々でもよい、安らぎと慰めと希望を与えてあげることが出来れば、私は喜んで持てるものをお分けする気持でおります。

――指導霊の大集会をなぜクリスマスとイースターに催すのでしょうか。ナザレのイエスと何か関係があるのでしょうか。

クリスマスとイースターはイエスが地上へ降誕する以前から霊界で祝われております。バイブルで語られている物語とは何の関係もありません。いずれお分かりになる日も来ると思いますが、地球は「リズム」、つまり進歩の法則の一環である「循環」によって支配されております。それは一定のリズムをもって働いており、地上のあらゆる民族の歴史の中のどこかで顕著となり、人々がそれに気づきます。

私が地上にいた頃、インディアンの民族が大切にしていた祭りが二つありました。それをクリスチャンが自分たちのものとして、今イースターとクリスマスと呼んで祝っているわけです。が、その趣旨は異なります。

インディアンはその二つの時期を大霊との最高の交わりが得られる時期であると直感していました。太陽の影響力が最も盛んな時期で、あなた方(西洋人)にはそれは理解できないことでしょう。その時期に何日にもわたって今日でいう「セイアンス」(交霊会)を開催し、大霊からのインスピレーションをふんだんに受けました。

そうしたわけで私たちインディアンは、地上時代に重要視した時期が巡ってくると、仲間たちで集合して祝うのです。もともと太陽崇拝から始まったものですが、太陽はシンボルに過ぎません。生命あるものは小さい物体から天体に至るまで、すべてが互いに影響し合っております。

全ては自然法則に基づいているのです。クリスマスは太陽の誕生を意味するのですが、それは影響力が格別に強くなるということで、新しい時代の始まりを象徴しています。即ち、さきに述べたサイクルの終わりでもあり新しいサイクルの始まりでもあるのです。大集会がその時期に催されるのは、指導霊の全てがかつて地上で自然法則を基本にした宗教をもつ民族に属していたという点で相通じているからです。

クリスマスもイースターもかつては地上世界で催されていたということから霊界でもこの時期を選んでいるのですが、新しい生命の誕生を祝うという目的はいつしか消えて、今では物質界から一時的に撤退して次の仕事のための新たな霊力を授かるという目的のために使用しています。

――それにはどういう人たちが参加するのでしょうか。

主として現在の民族より以前の民族に属していたインディアンと(スピリチュアリズムの)指導霊たちです。現在の西洋世界はそれらの民族に比べて新しく、その世界の人たちにとっては、私たちの祝いは無意味です。

イースターは全生命の復活を祝う時期です。即ち地上世界が悲劇と痛みと悲しみと苦難から脱して生き甲斐ある人生に蘇るようにとの祈りに、全世界の代表が参加する時期です。

地上世界は今こそその蘇りを大いに必要としています。が、大霊の子等が道具となって使用されるその数が増え、物質第一主義の勢力が撤退するにつれて、ゆっくりではありますが霊的摂理が正しく活用されるようになりつつあります。

私が本来の所属界ヘ戻る時は、他の多くの指導霊といっしょに参ります。そして、短い期間ではありますが、あなた方地上人類の限られた能力では理解できない、霊的生活の愉しみを味わい、愛の絆で結ばれた先輩たちのお顔を拝し、その深い叡智を吸収し、申しつけられていた計画がどこまで進捗し、どこがうまく行っていないかを指摘され、これからも果てしなく続く善と悪との闘いのために用意してくださった計画を申し渡されます。

こうして私たちは、地球圏で働く仲間とともに高級霊からの激励をたまわり、自分が役に立つことの喜びに満たされて再びこの地上界へと舞い戻り、こうして皆さんとともに少しでも多くの霊力を地上界へもたらすべく活動するのです。

出来ることならその集会へあなた方もいっしょにお連れして、地上界のために働いている指導霊たちの顔ぶれをご覧に入れたいものです。その全身を包む光輝、大霊によって選ばれた指導霊がどういう霊であるかを知っていただきたいのです。しかし、もしかしたら、そのあまりの威厳にただただ畏れおののくばかりかも知れません。その地上時代の姓名も知らずにおいた方がいいかも知れません。

それよりも、こうして地上にもたらす仕事の中身で私たちを裁いていただく方が良いでしょう。が、私がこのサークルの皆さんに一度でいいからお見せしたいと思うのは、イエスを中心として開かれるその審議会の壮大さです。地球人類のために私たちがどこまでうまくやっているかを知るために、その審議会に集結するのです。

――霊界での祝日としてなぜ地上のイースターを選んだのでしょうか。

私たちが地上のイースターを選んだのではありません。あなた方が私たちのイースターを選んだのです。

――昔は地上全体で同時に催されていたのでしょうか。

インディアン社会の全民族においては同時に祝っていました。その後キリスト教という組織宗教が発生して、太古の自然宗教が用いていたシンボルを採り入れて行きました。全ての宗教の根幹にそれがあることを知ったからです。

――現在でも霊界においては、インディアン社会だけでなく他の全宗教においても、イースターを祝うのでしょうか。

霊界の全界層においてイースターが催されています。地上でクリスチャンだった者は、例の墓場から蘇ったイエスを祝います。そのイエスよりずっと前の時代に地上生活を送った私たちは、その時代の自然宗教のシンボルとしてのイースターを、霊界での大々的な記念祭として祝います。その機会に、それまで明らかにされていなかった叡智を授かります。私たちより霊格の高い指導霊から教えを受けると同時に、同等の仲間と知識を分け合います。

第22章 シルバーバーチ、子供と語る
〔本章では、これまで見せなかったシルバーバーチの意外な一面を紹介しよう。読者にとって、これまでのシルバーバーチは教えを説く霊、慰めと勇気を与えてくれる霊、そして人工のドグマに対して容赦のない批判を浴びせる霊といった印象が強いであろう。本章では二人の子供を相手に語る、優しくて無邪気な側面を見せている。まずシルバーバーチが開会の祈り(インボケーション)から始める。例の大審議会が催されるクリスマスも間近い頃のことだった〕

「あゝ、大霊よ。どうか私どもが童子のごとき素直な心であなたに近づき、愛と叡智に溢れる親へのまったき信頼心をもつ者にのみ啓示される霊的真理を学ぶことができますように。あなたが完全なる叡智と愛と優しさの権化であるとの信仰のもとに、何一つ恐れることなく近づくことが出来ますように」

そう祈ってから、八歳になる姉のルースと、六歳になる弟のポールを左右の膝の上(もちろん見た目にはバーバネルの膝の上)に座らせて、二人の顔に自分の顔をすり寄せながら、こう語った。

「今日はお二人のために本物の妖精を何人か連れてきましたよ。今夜はその妖精たちがお二人が寝ている間もずっと見守ることになっています。今夜はあなた方にもその姿が見えるようにしてあげましょうね。絵本に描かれている妖精ではありません。妖精の国からやって来た本物の妖精ですよ。今夜は大人たち(サークルのメンバー)とは話をしないことにします。この部屋には二人以外は誰もいないことにして会を進めるつもりです。私はよくお二人と遊びにやって来ているのですよ。ウィグワムまで持ってきて……」

ポール「ウィグワムって何ですか」

「テントのことです。私がインディアンとしてこの地球上で生活した時は、ウィグワムの中で暮らしていました」

ルース「シルバーバーチさんはきれいなお声をしてますね。とてもはっきり聞こえます」

「これは私自身の声ですよ。この霊媒の声ではありません。特別に(声帯を)こしらえるのです」

ルース「霊界ではどのようにして話し合うのですか」

「こちらでは話すということはしません。お互いが思ったことに翼をつけて送るのです。あっという間に空間を飛んで行きます。返事も同じようにして届けられますから、言葉は要らないのです。心の中に美しい絵を描いて、それを送ることも出来ます。樹木、花、小鳥、小川、その他地上には無いものも沢山あります。欲しいものはすぐさま作ることが出来ます。必要なものは何でも作れます」

続いてルースは、普通だったら苦しみながら死んで行くはずだったのにシルバーバーチとその霊団のお蔭で安らかに息を引き取った隣人の話を持ち出して、霊界でも面倒を見てあげて欲しいといった趣旨のことを述べた。さらにルースは、後に遺された二人の子供のことも大霊が面倒を見てくれるよう祈っていると述べた。するとシルバーバーチが、二人のことはちゃんと面倒を見ているし、これからも見ていきますと答えた。

ポール「(亡くなった)あの人はシルバーバーチさんのような立派な霊になれるでしょうか」

「それは、なれるでしょう。時間が掛かりますけどね。二、三百年くらいかな」

ルース「ずいぶん掛かるんですね」

「そんなに長く感じますか。慣れれば長く感じなくなりますよ」

ルース「シルバーバーチさんは生まれて何年になるのですか」

「そろそろ三千年になります。でも、まだまだ若いですよ」

ルース「三千歳は若いとは言えないなあ。死んだらみんな霊になるのですか」

「人間は大きな霊に成長しつつある小さな霊なのです」

ポール「でも、僕たちはシルバーバーチさんと同じではないでしょう?」

「私も僕たちもみんな大霊の子であるという点では同じですよ。大霊の小さな一部分です。それがみんな繋がっているのですから、私たちは一つの家族ということになります」

ポール「するとゴッドというのはすごく大きいでしょうね?」

「この広い世界と同じくらい大きいですよ。しかも僕たちの目には見えないところも沢山あるのです」

ポール「ゴッドが大霊をこしらえたのですか」

「そうではありません。ゴッドが大霊なのです。いつどこにでも存在するのです」

ルース「この地球を訪れることもあるのですか」

「ありますとも。赤ちゃんが生まれるたびに訪れています。自分の一部をその赤ちゃんに宿しているのです」

続けて子供たちが、霊の存在を信じていて良かったと思うと言うと、死んでこちらの世界へ来た人たちに守られているお二人は本当に幸せです、とシルバーバーチが言う。

ルース「そちらの世界は地球よりも広いのですか」

「ええ、広いですとも。ずっと、ずっと広くて、しかも、そちらにないものが沢山あります。美しい色、素晴しい音楽、大きな樹木、花、小鳥、動物、何でもあります」

ポール「動物もいるのですか」

「いますとも。でも怖くはありませんよ」

ポール「殺して食べるようなことはしないでしょうね?」

「どんな生き物も決して殺したりなんかしません」

ポール「おなかはすかないのですか」

「全然すきません。あたりに生命があふれていて、疲れを感じたら生命を吸い込めばいいのです。ポールくんは夜ベッドに横になって深呼吸しますね。あの時ポールくんは生命も吸い込んでいるのです」

それから二人は、霊界での生活の記憶がないことを口にし、これはこの地上生活が最初だからではないかという意見を述べた。それからルースが尋ねた。

ルース「人間は何回くらい生まれ変わるのですか」

「ネコと同じくらいですよ。ネコは九回生まれ変わると言われているのは知ってるでしょ?」

ポール「ネコはそのあと何かほかのものに生まれ変わるのですか」

「いいえ、ネコはネコのままです。ですが、ずっときれいなネコになります。ポールくんのような人間の子供も、地上での生活が長いほど霊界へ来た時にきれいになっているのです。霊界というところは醜さも、残酷さも、暗さも、怖いこともない世界です。いつも晴天の国、と言えるでしょう」

ここでポールは「いつも晴天」ということは雨が降らないということになるので、地上だったらみんな死んでしまうと言った。するとシルバーバーチが――

「ポールくんの住んでる地球がすべてではありませんよ。地球は小さな世界で、生命が永遠の旅に出かける出発点にすぎません。ほかにも生命が生活する世界は沢山あります。恒星の世界にも惑星の世界にも、大霊の子が生活している天体はいくらでもあります」

これを聞いてルースが、八歳にしては博学なところを見せて大人たちを驚かせた。

「(週刊紙の)サイキック・ニューズでは『世界は一つ』と言っています」(バーバネルが毎週書いている巻頭の記事のタイトル)

「その通りですよ。ですが、宇宙には数え切れないほどの生命が数え切れないほどの天体で生活していることを知らないといけません。しかも、みんな大霊の子ですから、その意味で一つですし、みんなの中に大霊がいることになるのです」

ルース「こんなにお話をして疲れませんか」

「いえ、いえ、まだまだ話せますよ」

ルース「あたしにも霊の目があるのなら、いつから見えるようになるのでしょうか」

「霊の目もありますし、耳もありますし、手も指も脚もあります。もう一つの身体、つまり霊の身体があるのです。今でも実際には霊の目で見ることは出来るのです。ただ、その物的身体の中にいる限りは、霊の目で見たものを意識できないのです。でも、少しずつ意識できるようになります」

ルース「あたしの霊の目は大きくなるでしょうか」

「大きい小さいは関係ありません。霊の目は遠い遠い先まで見えますよ」

ポール「地球の果てまで見えるのでしょうか」

「望遠鏡みたいなものです。遠くにある物がすぐ近くに見えるのです」

続いてポールが急に話題を変えて尋ねた――

「また戦争が起きるのでしょうか」

「小さい戦争ならいつもどこかで起きています。でも、ポールくんはそんなことを心配する必要はありません。平和のことだけを思い、その思いをその小さな胸の中から広い世界へと送り出すのです。すると世界中の人がそれに触れて平和への願いをふくらませ、それが戦争を遠くヘ押しやることになるのです」

ルース「シルバーバーチさんときちんと会えるようになるのはいつでしょうか」

「もう少し時間が掛かりますね。今でもよく会っているのですよ。それを覚えていないだけです。お二人が寝入ると、私はお二人の霊の手を取って霊界へ連れて行くことがあります。その身体はベッドに横になったまま、お二人は霊界で素敵な冒険をします。が、その身体に戻ると、そのことが思い出せないのです。変な夢をみたなあ、と思うだけです」

ルース「どこへ行っていたのかも分かりませんけど……」

ポール「夢も見ない時があります」

「本当は見てるんだけど、思い出せないのです」

ルース「シルバーバーチさんも霊界へ帰ると、地上の体験は忘れるのですか」

「そうね、霊界に長くいるほど思い出せなくなります」

ポールがまた話題を変えて言う――

「人間はなぜ動物を殺すのか分かりません」

「それは、殺すことはいけないことだということが、まだ分からないからです」

ルース「殺して食べるために飼っている人がいます」

「動物を食べなくても生きて行けるようにならないといけません」

ポール「殺して食べるというのは残酷です」

「どんな生き物でも殺すということは間違いです。決して殺してはいけません」

ルース「霊界というのは素敵なところなのでしょうね」

「それはそれは素敵なところですよ。醜いものや暗いところや惨めなことが全くないところです。美しいもの、輝くようなものばかりです」

ここでルースが改めてシルバーバーチの声が素敵だと言うと、ポールも相づちを打つように、ちょっと珍しい感じがすると言う。さらに二人が、みんな声が違うのはいいことで、もし同じだったら面白くないよ、などと語り合っていると、シルバーバーチが割って入って、みんな違うようでいて、大霊の子という点ではみんな同じですと言い、ただ、小さな身体に大きな霊を宿している人がいるかと思うと、大きな身体に小さな霊を宿している人がいたりしますと言った。

それを聞いてすかさずポールが、霊界にも小びとがいるかどうか尋ねると、そういうものはいない――地上で小びとだった者も霊界へ来ると普通の大きさになる、との返事だった。

替わってルースが、指導霊というのはみんな同じでシルバーバーチさんみたいな人ばかりなのかと尋ねた。するとシルバーバーチが二人に少し離れたところから見ていなさい、と言う。そこで二人が離れて立ってシルバーバーチの顔を見ていると、その顔が次第に変形して、普段のバーバネルとまったく違う容貌になった。面長で、あごが尖っていた。その間、ルースの目にその顔から光が射すのが見えたという。

その現象が終わって二人が再びシルバーバーチの膝に座ると、いつもははにかみやのポールが頬をすり寄せて甘えるしぐさをした。するとシルバーバーチがしみじみと言う――

「大霊というのは今のぼくと私の間にある心――愛に満ちた方なのですよ」

するとルースが「一生涯、霊が存在することを信じ続けようと思うわ」と言う。

「信じ続けられますよ、きっと」とシルバーバーチが言う。

ポールが最初に出た妖精の話題を持ち出して尋ねる。

「今日シルバーバーチさんが連れてきた妖精はみんな同じ色をしているのですか」

「いえ、緑色をしたのもいれば青色をしたのもいます。それから、お二人が見たこともない色をしたのもいます。今夜ベッドに入ってから見えるかどうか試してごらんなさい。今夜はお二人が寝ている間じゅういっしょにいてくれますよ。守ってあげるように言ってありますから……」

そう言ってから、もうすぐ開催される天界での大審議会の話を持ち出して、こう述べた。

「お別れする前に言っておきたいことがあります。もうすぐ私はこの地球を離れて、天界で開かれる大きな集会に出席します。そこには世界中でこうした交霊会で私と同じような仕事をしている指導霊が大勢集まります。そして一人一人、あのイエスと呼ばれている、子供の大好きな方からお言葉をかけられます」

そこまで語った時ポールが、その天界というのは空の高いところにあるのですかと尋ねた。

「そうではありません。ポールくんのすぐ身のまわりにあるのです。ただし望遠鏡でも肉眼でも見えませんけどね」

そう答えてからさっきの話に戻り、こう続けた――

「もうすぐ来るクリスマスの直前に私はこの地球を離れて天界に戻り、イエスさまに会うことになっています。その時私はイエスさまに、地球にはルースという女の子とポールという男の子の友達がいることを告げ、お二人の愛の心を伝えるつもりです。

霊媒を地上に残して出席した指導霊たちは、一段と霊格の高い霊団から仕事の進展具合についての報告と助言をたまわります。そうして得た新しい計画と叡智、そしてより大きな愛と信念と力を携えて地上ヘ戻ってまいります」

「叡智って何ですか」とポールが尋ねると、あたかもその質問をあらかじめ予知していたかのように、

「それは心で理解しているものですよ」と答えた。

偉大なる霊と二人の幼い子供との、自由闊達で微笑ましい対話を大人のメンバーが笑顔で聞いているうちに、その日の交霊会も終わりが近づいてきた。そこでシルバーバーチが二人の頭に手を置いて閉会の祈り(ベネディクション)を述べた。

「大霊の名において二人を祝福いたします。願わくは二人がこれからの人生の最後に至るまで、いま二人を天国にいさしめている無邪気さを失うことのなきよう祈ります。また、いま二人を取り巻いている霊力に今後とも素直に反応して大霊の良き道具となることが出来ますように」

これを聞いてルースが問う――

「天国って、どこにあるのですか」

「天国はね、人間が幸せな気持でいるときに、その人の心の中にあるのですよ」

ルース「じゃあ、悲しんでいるときは天国にいないわけだ」

「悲しむ必要なんかないでしょ? いつだって天国にいることが出来ます。私も、いつも二人の側にいて力になってあげますよ。もし悲しくなったら、私を呼びなさい。すぐに来て涙をふいてあげ、笑顔を取り戻させてあげましょう」

ルース「シルバーバーチさんて、本当に優しい方ですね」

このルースの言葉にシルバーバーチからの返事はなかった。すでに霊媒の身体を離れていたのである。

第23章 さまざまな疑問に答える
〔シルバーバーチの交霊会ではサイキック・ニューズ紙の編集部に寄せられた悩み事や質問が読み上げられて、それにシルバーバーチが答えるということが集中的に行われることがある。その中から幾つかを拾って紹介する〕

自殺の問題

〔まず最初は、愛する伴侶を失って悲嘆に暮れている女性から、いっそ死んでしまいたいという気持を綴った手紙が読み上げられ、司会者が代わって質問する〕

――この方のように最愛の伴侶に先立たれて生きる希望を失った人が、自ら命を断つということは許されるものでしょうか。

許されません。因果律という摂理の働きは完璧ですから、それに忠実に生きなければなりません。摂理というのは完全なる愛である大霊によって統制されており、全ての中に存在すると同時に全てのものを通して働いております。その働きに干渉する権利を有する者はいません。もしも干渉して自殺すれば、それなりの代償を支払わねばなりません。

例えば熟さないうちにもぎ取ったリンゴは美味しくないように、寿命をまっとうせずに無理やりに霊界へ行けば、長い調整期間の中でその代償を支払わねばならなくなります。その上、その伴侶はもとより、他の縁ある人々とも会えなくなります。(利己的な波動によって)周囲にミゾをこしらえてしまうからです。

〔この質疑応答は翌週のサイキック・ニューズ紙に掲載され、それを読んだ当の女性から次のような礼状が届いた〕

「司会をされた方がシルバーバーチ霊に礼を述ベてくださったかどうか存じませんが、こんなに早く、そしてこんなに明快に回答していただいたことに、どうか“後に遺された者”からの感謝の気持をお伝えねがえませんでしょうか。正直に申して、回答を読んだ時は暗たんたる気持になりましたが、今ではお言葉に従って、霊界からお呼びがかかるまで力の限り生き抜く覚悟を決めております」

安楽死は許されるか

〔安楽死についてはスピリチュアリズムの内部でも賛否両論がある。回復の見込みなしと診断された患者を苦痛から少しでも早く解放してあげるために安らかに死なせてあげることは許されるはずだという意見と、霊的治療によって奇跡的に回復する例がある以上は、それは無謀だという意見とがある。シルバーバーチにその是非をただしてみた〕

――回復の見込みのない患者を安楽死させる権利を医者に与えるべきだという意見がありますが、どう思われますか。

まず申し上げておきたいのは、全ての生命は大霊のものだということです。身体が衰えて霊がその身体から解放される時が到来すれば、自然の摂理に従って死を迎えます。

――それを医学的処置によって引き延ばすことは正しいことでしょうか。

間違ってはいません。

――たとえそれによって苦しみも長引かせることになってもでしょうか。

そうです。ただし、忘れてならないことが一つあります。死すべき時が来れば必ず死ぬということ、そして、地上界のいかなる手段をもってしても、その摂理だけは変えられないということです。

――安楽死させることでその患者の死後ないしは来世(次の地上生活)での苦難が大きくなるということはあるでしょうか。

そういうことはありません。霊的準備の出来ていない魂にショックを与え、それが悪影響を及ぼすのです。その悪影響から脱する過程で、もしそういう死に方をしなかったら不要だったはずの調整がいろいろと生ずるのです。

――人間には寿命を長引かせる力は具わっているのでしょうか。

そういう目的で努力する――それは間違ってはいません。ですが、霊が地上界を去る時期が来れば、為す術はありません。

――と言うことは、生き長らえさせるための努力は結局はムダに終わるということでしょうか。

そういうことです。その証拠に、あなたのおっしゃる医学的処置によって寿命を幾らかでも引き延ばすことは出来ても、結局はみんな死んで行くではありませんか。

――でも、少しの間でも生き長らえます。

患者の身体が反応すればのことです。例えば酸素吸入という方法があります。ですが、霊界へ行く準備が整えば、医師にも施す手段はありません。

――死期が決まっていて、魂に準備が整った時に霊界へ行くことになっているのであれば、なぜ人間の寿命が少しずつ延びているのでしょうか。

地上人類も進化しているからです。物的な要素が霊的なものを決定づけるのではありません。霊的な要素が物的なものを決定づけているのです。

産児制限(避妊)は是か非か

〔子供が出来ないようにする“避妊”と、母胎に宿った胎児を中絶する“堕胎”は別であるが、両者とも絶対に許されないことであろうか。何を基準に判断したらよいのであろうか〕

――霊界側では避妊をどう見ているのでしょうか。

人間には自由意志と善悪を判断する道義心(良心)が与えられています。避妊の問題も最後は「動機は何か」に帰着します。「なぜ避妊するのか」――これをじっくり反芻(はんすう)してみることです。大切なのは動機です。それ以外にはありません。

――生命の誕生を制限するということは摂理に反するのでしょうか。

一個の霊が一対の夫婦を通して生まれることになっていて、万一それが避妊によって阻止された場合は、避妊をしない夫婦を通して生まれてきます。摂理は絶対です。その者の霊的進化にとって新しい生命の誕生が不可欠である場合は、阻止しようとしても必ず生まれてきます。そのように望むようになるからです。

――ということは、かりに私のもとに子供が生まれてくる運命になっている時は、子供が欲しいと思うようになるということでしょうか。

そういうことです。あなたの進化の途上において新しい生命の誕生がもたらす影響を必要とする段階に達したからです。

――それは当然、次元の高い進化ということでしょうね?

次元の問題ではありません。明確にしておかねばならないのは、性的快楽のみを求め、子供は邪魔だという考えから避妊するのは、私は賛成しないということです。動機が下卑た利己主義だからです。

――生まれて来る子供にとっても良くないから、という考えはどうでしょうか。

それが動機ということにならないでしょうか。全てのことに動機が問われます。摂理はごまかせません。行為の一つ一つ、想念の一つ一つ、願望の一つ一つが、あなたの魂に刻み込まれるのです。霊の目には歴然と読み取れます。地上界でのそうした行為に関わる動機が、霊界では赤裸々にさらされるのです。

――霊は受胎後どの時点で胎児に宿るのでしょうか。

納得できない方が多いであろうことを承知の上で申し上げますが、精子と卵子とが結合してミニチュアの形で個体が出来上がった時から、その霊にとっての地上生活が始まります。

――知能に欠陥がある場合は地上生活がムダになってしまいます。その欠陥が遺伝的である場合には断種(不妊手術)ということが考えられますが、霊界側ではどう見ているのでしょうか。

私はもとより、宇宙のいかなる存在も、生命の原理を変えることは出来ません。一個の魂が物質界に誕生する段階が来ればかならず誕生します。なぜかとお聞きになるでしょう。そこで私は“再生”との絡み合いを説くのです。それが理由です。

動物ヘの虐待行為

〔摂理を侵しておいて「知らなかった」では済まされない。人間あるいは動物に無謀な痛みを与えることは摂理に反しており、いかなる言い訳をしてもその代償から逃れることは出来ない。以下は動物実験についての質疑応答である〕

――動物実験がますます増えておりますが、どう思われますか。これを中止させようと運動している団体もありますが、霊界からの援助もあるのでしょうか。

人のためになる仕事をしようと努力するとき、そこに必ず霊界からの援助があります。大霊の創造物に対して苦痛を与えることは、いかなる動機からにせよ許されません。ただ、動物実験をしている人の中には、人類のためという一途な気持から一生懸命のあまり、それが動物に苦痛を与えていることにまったく無神経な人がいることも忘れてはなりません。しかし、罪は罪です。

――でも、あなたは動機がいちばん大切であると何度もおっしゃっています。人類のためと思ってやっても罰を受けるのでしょうか。

動機はなるほど結構なことかも知れませんが、摂理を曲げるわけにはいきません。実験で動物が何らかの苦痛を受けていることが分からないはずはありません。それでもなお実験を強行するということは、それなりの責務を自覚しているものと見なされます。動機は人類のためということで結構ですが、それが動物に苦痛を与えているのです。そうした点を総合的に考慮した上で判断が下されます。いずれにせよ、私としては苦痛を与えるということには賛成できません。

――動物は人類のために地上に派遣されてきているのでしょうか。

そうです。同時に人類も動物を助けるために来ているのです。

――動物創造の唯一の目的が人類のためということではないと思うのですが。

それはそうです。人類のためということも含まれているということです。

――動物の生体解剖は動機が正しければ許されますか。

許されません。残酷な行為がどうして正当化されますか。苦痛を与え、悶え苦しませておいて、何が正義ですか。それは私たちの教えとまったく相容れません。無抵抗の動物を実験台にすることは間違いです。

――動物を実験材料とした研究からは、例えばガンの治療法は発見できないという考えは、その通りでしょうか。

摂理に反した方法からは正しい治療法は生まれません。人間の病気にはそれぞれに治療法が用意されています。しかしそれは、動物実験からは発見できません。

――そうした惨(むご)い実験を見ていながら、なぜ霊界から阻止していただけないのでしょうか。

宇宙が自然法則によって支配されているからです。

霊界からの指導の実際

〔シルバーバーチは自分のことはあまり言いたがらないが、自分と同じスピリチュアリズムに携わる指導霊一般については、いろいろと語ってくれている。その中から幾つか拾ってみた〕

――指導霊は世界中で働いているのでしょうか。

もちろんです。ですが、試行錯誤の末にどうにか継続しているというのが実状です。その原因は、せっかく目星をつけた霊能者がどこまでこちらの期待に応えてくれるかは、前もって判断できるとは限らないからです。最後の段階で堕落して使いものにならず、何十年にもわたる努力が水の泡となることがあります。ですが、物質界の至るところで、こちらからの反応に応えてくれる人間を見出して働きかけている霊が大勢います。

――人類の進歩のために働いているのでしょうか。

物質界の進歩のために役だつ仕事の背後には、それに拍車をかけて発展させようとする霊団がつきます。善を志向する努力が何の反応も得られないということは決してありません。人類を向上させたい、人類の役に立ちたい、大霊の子の不幸を軽減してあげたいと思う霊が待機しております。

――政治体制の異なる国々、例えば民主主義の国と独裁主義の国で働いている指導霊の関係はどうなっているのでしょうか。

あなた方は、本来は言葉を道具として使用すべきところを、逆に言葉の奴隷になっていることがよくあります。私たちは大霊の真理を、それが人間を通して顕現することを目的として説いているだけでして、どの国の誰といった区別は致しません。うまく行くこともあれば手こずることもありますが、手にした道具で最善を尽くすしかなく、その能力は千差万別です。その際、民主主義とか独裁主義といったラベルは眼中にありません。どれだけ役に立つかということだけです。

――その際、積極的な働きかけを受けている人物がそれに気づかないということがあるでしょうか。

大いにあります。その事実を知ってくれる方が、知らないままでいるよりも効果が上がります。

――霊力が出しやすくなるのでしょうか。

その人物とのコンタクトが親密になるのです。知らずにいるよりは知っている方が良いに決まっています。光が得られるというのに暗闇にいたがる人がいるでしょうか。泉があるのに、何ゆえに渇きを我慢するのでしょう?

――(シルバーバーチとバーバネルとの関係がそうであるように)指導霊が一人の霊媒の専属となっているケースが多いのはなぜかという質問をよく受けるのですが……

そういう質問を聞くと、私たちがこうして交霊会を催すに当たって駆使する複雑な方法や手段がいかに理解されていないかが分かります。この霊媒(バーバネル)を通して使命を果たすために私が何十年にもわたって準備したことは、ここにお出での皆さんはよくご存じのはずです。誰かの要望にお応えして別の霊媒を一から養成するなどという愚かなことは致しません。

――霊媒の中には能力を十分に発揮できずに、精神的ないしは神経的におかしくなっている人がいるのは、何が原因でしょうか。

身体と精神と霊の三つが調和して働いていないからです。

催眠術のメカニズムと危険性

――催眠術は研究の対象とするに値するものでしょうか。

術師が善意の人で、自分の能力を役立てたいという願望から発しているのであれば問題ないでしょう。催眠術というのは魂の隠れた能力のほんのうわべを軽くたたいている程度のものに過ぎません。

――その隠れた能力というのは何なのでしょう?

私のいう内在する大霊と同じものです。内部に潜む霊力を発揮すれば克服できない困難はないと申し上げている、その霊力です。これは、本来は日常生活での高潔な心がけと滅私の行いによって霊性を高めることで発揮すべきものです。俗に堕するほど、反応するバイブレーションも低くなります。反対に自己犠牲の要素が高まるほど、反応するバイブレーションも高まり、内部の神性が発揮されるようになります。

――その内部の神性というのは、それ自体が独立した思考と行動をする別個の存在でしょうか。

違います。今あなたがその物的身体を通して表現している精神の質によって条件づけられております。通常の地上生活を送っている場合のことです。それが催眠状態になると違ってきます。催眠術師はいわば看守のようなもので、牢のカギを開けて囚人を解き放つ役をしていると思えばよろしい。術師が正しい意図のもとにそうするのであれば神性を刺激することになるので、良いことをしていることになります。が、神性とは反対の獣性を刺激することもあり得ます。いずれにしても地上時代に発揮する意識は、死後に発揮していく大きな自我のほんの一部に過ぎないことを知っておいてください。

――そういうことを聞かされると、いささか不満の念を禁じ得ませんね。

そうでしょう。でも、不満に思うことは結構なことです。うぬぼれから生じる満足は進歩の敵です。

――霊媒能力を発達させる手段として催眠術を活用することは可能でしょうか。また、あなたはそれを奨められますか。

それは、これまでも試みられて来たことです。が、いったん指導霊が付くと地上の催眠術師の出番はなくなります。その種の力を霊媒が受けつけなくなります。その意味で霊媒現象には奨められません。最初から交霊会でスタートして徐々に霊力の影響を受けて行く方がよいと思います。

――催眠術を霊能発揮の近道とは見ておられないわけですね?

もちろんです。この道に“近道”はありません。これは霊とその能力に関わることです。それが今日の段階まで発達するのに何百万年も掛かっているのです。これまで地上世界に不幸が絶えないのは、霊的な側面を無視してきたからです。霊に関わることは慎重な養成とゆっくりとした成長が肝心です。

霊と魂

――人間の物的身体をコントロールしている魂はどこに位置しているのでしょうか。

どこそこにということは言えません。これが魂ですと言える性質のものではないのです。科学者は肉体を解剖すれば発見できるはずだとか、静脈を通って流れているに違いないとか、どこかの臓器から分泌されているのだろうなどと考えているようですが、魂は肉体のどこそこにあると言える性質のものではありません。

――でも肉体の内部にあることは間違いないでしょう?

魂は内部にあるとか外部にあるとか言える性質のものではありません。空間的な“場”をもつものではないのです。魂とは意識のことです。身体という“もの”に制約されるものではありません。無限の広がりをもつと同時に、進化の極地にまで存在するものです。霊的身体で遠隔の地にまで至る時、意識はどこにあるのでしょう? そう言うとあなた方は地上の距離感覚で想像なさることでしょうが、私たちにはそういう面倒がありません。魂に空間はありません。私たちの意識(魂)は意思のおもむくままに、どこででも機能します。

――「魂」(ソウル)と「霊」(スピリット)はどう違うのでしょうか。

私自身はどう呼ぶかはこだわりません。地上の字引は私がこしらえたわけではありません。私のいうソウルとは内部に潜在する大霊のことです。スピリットとはそれが顕現するための媒体です。が、用語は使う人によって別の意味に使われるものです。

――“顕現の媒体”という表現はさておいて、霊の本質は何なのでしょうか。

大霊、あなた方のいうゴッドの一部で、次々と身体(媒体)を替えながら、無限の向上を続けて行く存在です。それは媒体を通して顕現して初めて存在が知れるもので、顕現しない状態の霊について叙述することは不可能です。

――コンシャンス(良心・道義心)とは何でしょうか。

正しいことと間違ったこととを見分ける魂の感覚のことです。自分の霊的進化にとってどちらが好ましいかを計るバランス感覚と言ってもよろしい。魂の指針です。

オーラとは

――オーラとは何ですか。

オーラは身体が発するバイブレーションによって構成されています。一口にオーラと言っても種類が多いのですが、地上世界で知られているのは肉体と霊体が発するオーラです。厳密に言うとオーラを出していないものはありません。意識のない物体でも出しています。身体から出るオーラはその身体の状態を反映していますから、オーラもさまざまに変化しています。オーラが見え、その意味が読み取れる人は、その人物の秘密が全て分かるわけです。健康状態も分かりますし、魂の状態、精神の発達状態も分かります。魂の進化の程度も分かります。オーラが、開いた本のように、何もかも読み取らせてくれます。

またオーラにはあなたの言ったこと、思ったこと、行ったことが全て刻み込まれていますから、それが見える人にとっては、見かけのあなたではなくて、本当のあなたが分かるわけです。

――霊体のオーラも含まれているわけですね。

そうです。肉体のオーラは健康状態とか気性とか習性などに関連したものが多く出るということです。そうしたもの全てがそれなりの色彩を帯びています。

幽霊とは

――修道院の回廊を何者かが歩き回る音のする幽霊話がよくありますが、あれは何でしょうか。

幽霊話には霊のしわざによるものもありますが、今おっしゃったようなケースは、地球のエーテル層に刻み込まれた像が想念の波動を受けて一人歩きをしているものです。しかし、一般に幽霊が出たという場合は、いわゆる地縛霊のしわざです。

時間は実在するか

――時間は実在するのでしょうか、人工の産物でしょうか。

人工の産物ではありません。時間にも幾つもの次元があります。時計で計っているのは人間がこしらえたものですが、時間そのものは実在します。空間も実在です。ただ、人間が計る時間と空間は焦点が限られているので正確ではないというまでのことです。他の要素を採り入れるようになれば焦点が実在に近づきます。

知能障害と罪悪

――脳に障害があるために霊的自我の欲求とは正反対の行動に出ることがあり得ますか。

あり得ます。精神病患者の場合がそうです。が、この場合は魂の進化を阻害することはありません。機能障害のために物質界での表現が阻害されているだけです。魂の進化と、その地上生活での表現とは別であることを考慮しないといけません。

憑依の原因

――邪悪な人生を送った者が死後もまったく良心の呵責を感じないということがありますか。

よくあることです。何百年、時には何千年もの間そのままということが少なくありません。

――そういう霊が地上の人間に取り憑くということがありますか。

ありますが、両者の間に親和関係(因縁)がある場合に限られます。憑依現象というと一方的に霊の側に責任があるかに考えられがちですが、実際は地上の人間の方に原因があることを知らないといけません。憑依されるような条件を用意しているのは人間の方なのです。調和の取れた生活、正しい心がけと奉仕の精神にあふれた生活、我を張らず、欲張らず、独りよがりにならない生活を心掛けていれば、憑依現象は絶対に起きません。

植物に意識はあるか

――花などの植物一般にも意識があるのでしょうか。

ありますが、あなた方のいう意識とは違います。地上ではまだ知られていない種類のバイブレーションに反応する感覚をそなえています。霊感の鋭い人の中にはそのバイブレーションを偶然にキャッチして、花とか野菜などの植物に関して新しい分野を切り開いている人が少なくありません。

占星術は当てになるか

――占星術というのは当てになるのでしょうか。

宇宙間のあらゆる存在物は振動しており、その波動が絶え間なく外部へ向けて放たれています。その波動は何らかの影響力を持ち運んでおります。そうしたバイブレーションの働きにも法則がありますから、それを知ることは役に立つでしょう。

――霊的メッセージと占星術による予言との間に共通するものがありますが、何か関係があるからでしょうか。

真理の顕現の仕方は無限です。真理とは大霊のことだからです。ただ、それが顕現する媒体である人間の進化の程度によって違ってきます。真理の理解は純真で単純素朴な心境にならないと得られません。難解な用語や新しい造語で解説しなくてはならないものは真理ではありません。それは往々にして「無知の仮面」に過ぎないことがあります。

シルバーバーチの祈り
〔シルバーバーチの霊言集が祈りの言葉を欠いていては十全とは言えないであろう。毎週金曜日の夜に開かれる交霊会は、まずインボケーション(会の成功祈願)で始まりベネディクション(感謝の祈り)で閉会となる。ここではその典型的なものを一つずつ紹介しておく〕

インボケーション
願わくは私ども霊団の尽力により、本日もこの交霊会において、霊的世界に属する摂理の働きについて幾ばくかでも明らかにすることが出来ますように。また大霊について、また大霊と森羅万象とのつながりについての理解をより鮮明にすることが出来ますよう祈ります。

大霊よ、あなたは幾世紀にもわたって誤解され、曲解され、矮小化(わいしょうか)され、限りある存在とされてまいりました。そこで今私どもがあなたを完璧なる摂理としての本来のお姿を説き明かさんと致しているところでございます。あなたは生命のあらゆる顕現の根源を司っておられます。宇宙に存在するものは全てあなたの霊力と生命素の供給があればこそ存在しているのでございます。あらゆる次元の創造物があなたの法則によって存在を得ているのでございます。いかに権勢を誇る者も身分の低き者も、いかなる強者も弱者も、小鳥も花も樹木も、風も海も山も丘も、日光も雨も嵐も稲妻も、一つの例外もなく、生命の大霊たるあなたの顕現なのでございます。

全ての存在があなたの霊的イメージの中で創造されているのでございます。それは、全ての存在を通してあなたが顕現しているということであり、あなたが内在すればこそ動き、呼吸し、生きているのであり、また全ての存在があなたの中で息づいているとも言えるのでございます。

いかなるものも、あなたとあなたの子等の間に介入する力を有してはおりませぬ。なぜならば全てのインスピレーション、全ての真理、全ての叡智、全ての啓示、全ての知識が蓄えられている無限なる貯蔵庫は、その蓄えを活用せんと望む者には分け隔てなく開かれているからでございます。

私たちは全ての人間に内在するその宝庫、人間的曲解によって封じ込められてしまっている莫大なるエネルギー、物的存在の障壁を突き破って怒濤の如く顕現して日常生活の中に霊的な絶頂を極めるべく待機しているあなたを、幾ばくかでも明かさんとしているところでございます。

私どもの望みは、あなたの子等の全てが自由で伸び伸びとした、美しい、そしてこの地上に生をうけた目的をよく理解した人生を生き抜き、あなたが用意してくださった豊かな恵みと愉しさと美しさを心ゆくまで我がものとしてくれるよう導くことでございます。

願わくはあなたを子等に少しでも近づけ、また子等をあなたに近づけ、間に横たわる障害を克服し、あらゆる制約と束縛を取り除き、子等があなたの存在に気づき、奉仕的仕事の中であなたを顕現して行くよう導かせ給わんことを。

ここに、あなたの僕インディアンの祈りを捧げます。



ベネディクション
(サークルのメンバーに向かって)

皆さんはこれまで私たち霊団の者の姿も声も感触も、五感によって実際に確認されたことはございませんが、本当の意味での身近な存在であることを知っていただきたいと思います。

私たちが皆さんのすぐ身近にいるという表現は決して誇張ではありません。なぜなら私たちと皆さんとの間には愛の絆があるからです。愛があればこそ皆さんのために尽くし、皆さんを通して、援助を必要としている人々――身体的に弱っている人々、生きる元気を失っている人々、挫折した人々、生きていることの意義を見失っている人々、従来の宗教から何の慰安も得られないまま、それでもなお真理を渇望している人々、さらには、魂は自由を求めながらも、教義とそれに対抗するセクトの教えの狭間で息も絶え絶えになっている人々、そうした人たちのために昼夜の区別なく献身いたしているところです。

私たちの説く真理は大霊の真理であり、果てしなく広がり、制約というものを知りません。また、全ての人々のものであり、誰か特別な者が独り占めできる性質のものではありません。全人類を愛の懐(ふところ)に抱かんとしている真理です。

願わくは皆さんが辺りに充満しているその力、絶え間なく地上界ヘ注ぎ込まれているその愛、皆さんを通して顕現せんとしている真理、地上世界を明るく照らさんとしている叡智に気づかれんことを。

また奉仕的仕事を通して宇宙の巨大なる霊力に近づき、霊的摂理と知識にのっとって生きることによって大霊と一体となり、その忠実なる僕として使命に邁進されんことを。

大霊の祝福のあらんことを。