トニー.オーツセン(編)
1987年4月 近藤 千雄(訳)
More Philosophy of Silver Birch
Edited by Tony Ortzen
Psychic Press Ltd. (1976)
London, England
まえがき
明日から週末となる寛いだ金曜日の夜のことだった。家の電話がけたたましく鳴った。テスター氏からだった。
「彼が行っちゃったよ」テスター氏があっさりとそう言った。
「行った? 病院ですか」
「違う! 連れて行かれたんだよ」
「連れて行かれた? どこへですか?」
そう聞き返しているうちにテスター氏の言葉の衝撃がやっと伝わってきた。動転したのか気が付いたら私は数週間前から止めていた煙草に火をつけていた。そしてもうタイプライターに向かっていた。パチパチという音と、時折通り過ぎる車の音以外は何も聞こえない、静かな永い永い夜がこうして始まった。
1981年7月17日のことだった。
他のスタッフに次々と衝撃のニュースを伝えてから、私はサイキックニューズ社の事務所へ向かった。気が重かった。そして顔は幾分ほてっていた。
しかし今は瞑想したり思い出に耽っている場合では無かった。電話をしなければならない。電報を打たねばならない。明日のサイキックニューズ紙を組み換えないといけない。
そうした用事を一通り済ませた後、また重い足を引きずりながら家に帰った。もう夜明けも近い。私は孤独感を噛みしめながらモーリス・バーバネルの死亡記事を書いた。本人の承諾も得ずに、また求められもしないのに、若輩の私がその仕事を引き受けて、恐縮の気持ちを禁じえなかった。
その日が明けて再びサイキックニューズ社へ出向いてから私は、書斎の中からバーバネルが〝最後に出すべき記事〟として用意しておいた原稿(日本語版(十)「シルバーバーチと私」)を取り出して読んだ。
60年余りにわたって氏は数え切れないほどの交霊会や心霊的な行事で常に最前列席(リングサイド)に座り続け、〝ミスタースピリチュアリズム〟のニックネームをもらっていた。その彼が今、その存在を自ら必死に擁護し賛美し訴えてきた霊界へと旅立ってしまった。
その現実を目の前にして私は、ふと、数年前にその原稿を預かった時のことを思い出した。それを一読した時、〝今度これを読む時はもうこのご老体はあの世へ行ってしまっているんだな〟という感激がよぎったものである。それが今まさに現実となってしまった。霊は肉体の束縛から離れ、その肉体は今は静かに横たわっている。
不思議なことに、数週間前にボス(と我々は情愛をこめて呼んだものである)が私に若かりし頃のことをしみじみと語ってくれた。私には大きな明かりが消えたような想いがした。どうしようもない孤独感と心もとなさが襲ってきた。目の前でドアが閉じられた感じで、これから先、サイキックニューズ社はどうなるのか、誰も知る由もなかった。
私が初めてボスと会ったのは私がまだ二十歳の、ジャーナリストとしての駆け出しの時代だった。以来私は彼から多くのことを学んだ。ジャーナリズムのことだけでなく人生そのものについて教えてもらった。
四十歳ほどの差があったので、互いの関係には祖父と孫のようなものがあった。私が見当違いのことを口にすると、度の強い眼鏡越しにじっと見つめ、ほんの一言二言注意するだけで、全てを若気の至りにしてくれていたようである。
またサイキックニューズ社は五時半が終了時刻で、スタッフは必ずバーバネルの部屋まで来て〝帰っても宜しいでしょうか〟というしきたりになっていたが、私だけはただドアをほんの少し開けて頭を首まで突っ込んだだけで、何も言わなくても良かった。ボスの方もちらっと私の方へ目をやってにっこりと笑って頭をコクンとするだけだった。
バーバネルほど精力的に仕事をした人間を私は知らない。何時も誰よりも早く来て、帰るのはいつも最後だった。そうした中にあっても部下の誕生日はちゃんと覚えていて、上等のたばこをプレゼントする心遣いを忘れない人だった。
私の人生を運命づけた二十歳の誕生日のことを今も鮮明に思い出すことが出来る。ボスが昼食をご馳走してくれると言うので一諸に出かけると、珍しくパブ(ビールと軽食のでる社交場)へ行った。
アルコールは滅多に口にせず、こういう場所へは一度も来たことのない人なので驚いたが、さすがに自分はトマトジュースと〝ピクルス抜き〟のサンドイッチを注文した。そして私への誕生日のプレゼントとして、今夜シルバーバーチの交霊会へ招待しよう、と言った。それが私にとって最初のシルバーバーチとの出会いだった。
シルバーバーチはこの病める、お先真っ暗の、混乱した地上世界にもたらした慰安と高揚の大きさは到底言葉では尽くせるものではない。あらゆる民族、あらゆる時代、あらゆる文化に通用する永遠、不変の真理である。
しかしそれは同時に霊媒モーリス・バーバネルとその献身的な伴侶だったシルビア・バーバネルの功績でもあった。この二人の〝神の僕〟は真に勇気のある魂だった。今もそうであろう。そしてこれからもずっとそうであろう。二人は任されたブドウ園でコツコツと厳しい仕事に精励して、次の仕事場へ旅立っていった。
バーバネルにもいろいろと欠点があった。われわれもみな同じである。彼自らよく言ったものである。
「ラクダに自分のコブは見えないものだよ」
が、彼は何ものも恐れず、何ものにも媚びることなく、神の計画の推進のためにシルバーバーチと共に大きな役割を果たした。このコンビは文字通り地球の隅々の無数の人々に声をかけ、人生に疲れ悩める人々に希望を、暗く沈んだ心に一条の光明を、そして混乱と疑念の渦巻く所に平穏と確信をもたらした。
今二人は霊界にいる、さしあたっての地上での使命を全うしたばかりである。図太い神経と決意と確信を持って説いた霊界の美しさと恵みと叡智をゆっくりと味わっていることであろう。
引き続いて二人の旅の無事を祈る。そして、ささやかながら、われわれからの愛と敬意と賞賛の気持ちを手向けよう。
訳者注-これは全十巻のシリーズが完了したあとすぐに始まった、オーツセン編集による新シリーズの第一巻Silver Birch Companionの〝まえがき〟(要約)である。
その後さらに二冊出版されているが、この第一巻はなぜか前シリーズのうちのWisdom of Silver Birch(日本語版「三」巻)とMore Teachings of Silver Birch(同「五」)から抜粋ばかりで構成されており(〝まえがき〟の中でもそう断っている)、したがって改めて訳出する意味がない。が、今お読みになられてお分かりの通り、その〝まえがき〟はバーバネルの人柄をしのばせる内容になっており、同じオーツセン編の本書の〝まえがき〟として代用させていただいた次第である。
第1章 シルバーバーチの自己紹介
私の名はシルバーバーチではありません。これは私がバイブレーションを下げて地上世界とコンタクトすることを可能にしてくれる一種の変圧器の役目をしている、かつて地上でインディアンだった霊の名前です。
いずれにしても名前はどうでもよいことです。私に関する限り名前は何の価値もありません。これまで一度も地上時代の名前を明かしたことはありません。
地上時代の私はレッド(アメリカン)インディアンではありません。このインディアンよりはるかに古い時代の別の民族のものです。霊的進化の末に二度と地上へ生身に宿って戻ってくる必要のない段階まで到達いたしました。
霊界の上層部には〝神庁〟とでも呼ぶべきものが存在します。それに所属するのは別格に進化を遂げた霊、高級神霊です。その仕事は立案された創造進化の計画を円満に進展させることです。
その神庁から私にお呼びがかかり、これまでの進化で私が得たものを一時お預けにして可能な限り地上圏に近づき、その高級指導霊たちのメッセンジャーとして働いてくれないかとの要請を受けたのです。
私の役目はその指導霊たちの教えを取り次ぎ、一人でも多く、受け入れる用意の出来た人間にお届けすることです。私は喜んでその要請をお引き受けしました。それが半世紀近くにもわたって携わってきた私の使命なのです。
その仕事の為に私はこの国の言語である英語を学ばねばなりませんでした。私が地上でしゃべっていた言語は英語ではありませんでした。そこで、出発に際して指導霊から地上で仕事をするには英語をすっかりマスターすること、その文法と構文をよく勉強しておかないといけないと言われました。
私にとって困ったことが一つありました。地上との接触(コンタクト)には霊界の霊媒が必要だと言うことです。私自身が直接地上の霊媒と接触することは不可能だったのです。それは、私が到達した進化の階梯と霊媒のそれとが違いすぎて波長が合わないからです。そこで私はもう一人、変圧器(トランス)に相当する者を必要としたのです。
指導霊達が用意してくれたトランスは地上でレッドインディアンに属していた霊の霊体でした。私に授けられる教えを地上へ伝達するための媒体として、それが一番適切だったのです。
私はインディアンの文明の方が白人の文明よりも優れていると思っておりますが、決して欠点や残忍な要素が全くないとは申しません。しかし極悪非道の文明を移入したその責任は大体において白人に帰さねばならないと考えます。
もとより完全な人種というものは存在しません。完全であったら地上には存在しないでしょう。インディアンにも欠点はありましたが、その人種ならではの貢献をしました。倫理・道徳は高度なものを持っておりました。自然の大切さをよく知り、霊的摂理をよく理解し、人種間の同胞意識には非常に強いものがありました。
インディアンは心霊的法則(サイキック)をよく知っており、その作用についてよく理解しておりました。また霊的法則(スピリチュアル)について更に深い認識がありました。霊界入りする人間全てについて言えることですが、インディアンも因果律に直面させられ、地上での出来事の全てについて償いと罰とを受けました。
自然の摂理から逃れられる人はいません。あらゆる民族、あらゆる国家、あらゆる文化が地上世界をよくする上でそれなりの貢献をしております。言ってみれば大オーケストラの様なものです。一つ一つの楽器がそれぞれの演奏をして美事なハーモニーを出しているのです。
いかに未開あるいは野蛮に思える民族も、開けゆく大機構の中でそれなりの役割を持っているのです。地上の何処にいようと、いかなる人間であろうと、霊的存在であることに変わりありません。
一人の例外もなく霊的本性を宿しており、それが全人類を大霊の家族として一つにまとめているのです。肌の色の違い、言語の違い、民族の違い、国家の違いなどは、霊性と言う基盤における一体性に比べればものの数ではありません。
私は絶対に過ちを犯さない、進化の頂上を極めた霊ではありません。そういうことはあり得ないことです。進化と言うのは永遠に続く過程だからです。これで完全です、と言うピリオドはないのです。向上すればするほど、まだその先に向上すべき余地があることを知るのです。
私達がお届けするのは神の叡智とインスピレーションの宝庫から取り出した崇高な真理です。と言って私達はそれを無理にも信じて頂こうとは思っておりません。私達の言う通りにしなさいとは申しません。宇宙の大霊との調和にとってこれ以上の良い方法はないと断言しているのでもありません。
私達が断言すること、私達の精一杯の思いを込めて断言するのは、霊の真理はいかに厳しい理性と知性と体験によって試されても、それに耐えうるものであると言うことです。私の述べることに対して皆さんが何と反論なさろうと、それによって罰が当たる心配はご無用です。
神は人間に一定限度内の自由意思を与えて下さっています。操り人形ではないのです。知性をお持ちです。理性をお持ちです。自分で判断し、決断し、反省し、自分の意見を形成し、体験から知恵を学んでいく能力をお持ちです。
私達はその能力を通して皆さんの賛同と協力を得たいのです。反発を覚えながらでは困るのです。理性は神から授かった大切な能力の一つだからです。
人生には何事にも二面性があります。光があれば闇があります。安らぎがあれば苦労があります。もしも晴天の日ばかりだったら、晴天の有難さは分からないでしょう。時には嫌な体験を通してあることを学ばれることがあります。
いずれ皆さんもこちらへおいでになって地上生活を振り返った時は、きっとこう思われることでしょう。“一番大切な教訓を学んだのは生活が楽だった時ではなく、嵐が吹きまくり雷鳴が轟き稲妻が走り太陽が雲にさえぎられて、全てが暗く絶望的に思えた時だった〟と。
魂が内在する可能性を発揮するのは逆境の中にあった時こそです。呑気な生活の中では霊性は磨かれません。苦しい道こそ有難いのです。その道を歩み続けるうちに見慣れた道路標識や目印(伝統的な宗教儀式、迷信的概念、生活習慣等)が後へ後へと残されていきます。が、
心の奥では自ら見出して真理を土台とした信念がますます深まりゆくものです。(別のところでは〝霊的進化の旅は孤独なものです。が、行くほどに内なる喜びで心が満たされてまいります〟と述べている―訳者)
過ぎ去ったことは忘れることです。すでに後ろのものとなりました。前にあるものが大切です。言うまでもなく、今あなたが味わっている結果を生み出した原因は過去にあります。しかし同時にあなたは、これから結果を生み出す原因を作りつつあるのです。良い種をまくように努力なさることです。
月並みなことを申すようですが、やはり真実です。取り越し苦労はいけません。心配は無知から生じます。真理の光の中で生きることです。
地上と言うところは、あなたがこれまで大勢の人にいろいろとお世話になったように、他人の為に自分を役たてるチャンスを与えてくれるようになっております。道は必ず開かれます。あなたは人間である以上いろいろ間違いを犯します。弱点をお持ちです。長所ばかりではありません。人間味の本質は欠点があると言うことなのです。だからこそ地上へ来ているのです。
その地上において完全を成就すると言うことは不可能です。しかし、いずれは生活することになる次の世界に備えて、その地上にいるうちに教訓を身につけていくのです。
(ここでその日のゲスト二人がお礼の言葉を述べかけると、それを制して、〝私への感謝は無用です〟と言い、その理由をこう説明する・・・・・・)
私が感謝をお断りするのは、私が非常にいけないと思っている傾向をたびたび見てきているからです。いわゆる指導霊信仰と言うのがそれです。指導霊と言うのは崇拝の対象とされることを望まないものなのです。唯一崇拝の対象とすべきものは宇宙の大霊すなわち神です。
無限なる霊であり、至高の創造主であり、光と愛と叡智と真理とインスピレーションの極致です。本来はそれに向けられるべき崇拝の念を私の様なお門違いのところへ向けられては困ると言うに過ぎません。
私は全知識の所有者ではありません。霊的進化の終点まで到達した分けではありません。まだまだ辿らねばならない道が延々と続いております。ただ、あなた方地上の人間に比べれば幾らかは年季が入っておりますので、私を豊かにしてくれることになった霊的真理を幾つか知っております。
その知識を受け入れる用意の出来ている地上の人たちと分かち合う為に、私はこれまで辿ってきた道を後戻りしてまいりました。私はまだまだ完全ではありません。
相変わらず人間味を残しておりますし、間違いも犯します。しくじることもあります。しかし私は、授かった真理をなるべく多くの人達にお届けするために、私なりの最善を尽くす所存です。
こうして人の為に役たつ仕事に携われるのは光栄なことです。幸いなことに私は、地球浄化の大事業の推進に当たっている霊団からの指示を仰ぎつつ真理を悟ることを許されています。
その霊団がいわば大本営なのです。霊界の政庁に属する高級神霊達であり、造化の大霊の意志の推進という重責を担っているのです。その手先である私を通じて、たった一人でも真理の光を見出すことが出来れば、私にとって大きな喜びです。
・・・あなたがもう一度肉体を纏って誕生なさる可能性はありますか。
ありません、私はもう二度と再生はしません。私にとって地上の年季奉公はもう終わっています。こうして戻ってきたのは皆さんを始め地上の人々の力となり、絶対に裏切ることのない霊的摂理と真理をお教えするためです。
人間が地上を仮の宿とした霊的存在であることをお教えして元気づけてあげたいと思っているのです。その真理の啓示を受けられて皆さんは幸せ者です。その啓示によって人生に視野が一変したことを感謝しなくてはいけません。
私も幸せ者です。お届けする高級界からの教えを受け入れて下さる方をこれほど多く見出すことが出来たのですから。その教えの中には貴重な真理がぎっしりと詰まっているのですが、問題はその価値を知るにはそれだけの受け入れ準備が出来ていなければならないと言うことです。
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霊媒をしている人が孤独感を口にすると次の様な意外な返事が返ってきた―
私の方があなたよりはるかに孤独感を味わっております。私は本来は今この仕事の為に滞在している地上世界の者ではありません。私の住処は別の次元にあります。あらゆる面での生活条件が地上よりはるかに恵まれ、交わる相手や仲間はみな“光り輝く存在〟ですが、その高級霊達と会えるのは、指導を仰ぎにこの地上圏を後にした時だけなのです。地上と言うところは私達にとって何一つ魅力のない世界です。
その指導霊達との相談を終えると、私は再びこの憎しみと強欲に満ちた世界へやって参ります。その時に味わう何とも言えない冷やかさを温めてくれるのは、私への理解と愛の心を向けて下さる同志の皆さんです。それが何とかこの仕事をやり甲斐あるものにしてくれるのです。
そうした同志をこれほど多く獲得できた私は本当に幸せ者だと思っております。私がお届けしているのは私がこれこそ基本的真理であると見ているものばかりでして、それを地上の受け入れる用意の出来た方が理解しやすいように、英語で表現しているだけです。
その中には人間の知性を侮辱したり理性に反発を覚えさせたりするものは何一つありません。全ては愛に発しているからです。愛こそが霊の正貨なのです。愛に発した奉仕が一番尊いのです。これに勝る宗教はありません。
・・・(心霊ジャーナリスト)いつの日かあなたが地上時代の身元を明かされる時が来るのでしょうか。
今のあるがままの私が私です。名前は大切ではありません。大切なのは人の力になってあげられると言うことです。私は自分が役に立っていること、そしてお陰で大勢の同志が出来たと言うことを大変光栄に思っております。
私もこれまで数多くの挑戦すべき課題と困難とがありました。しかし、私はそれを堂々と受け止めてまいりました。何故なら、背後に控えて下さっている霊の力をもってすれば何事も必ず克服できると信じたからです。
あなたも人の力になってあげられる得意な立場にいらっしゃいます。教会や礼拝堂などと言った施設よりも、あるいは科学者や経済学者などよりも大きな貢献ができるお仕事です。宇宙の崇高なエネルギーである霊力の通路となる、掛けがいのない贈物を手にしていらっしゃいます。
霊力は生命の大霊から届けられるのです。霊なくして宇宙には何も存在できません。無限の生命現象を生んでいるのは霊なのです。その霊のもとで人に役たつ仕事に携われる身の上を幸せに思ってください。
**
クリスマス休暇を前にした最後の交霊界の締めくくりの言葉としてシルバーバーチが次の様なお別れの挨拶をした・・・
ご存じのように、この時期は私が一時的に地上にお別れを告げて、私の本来の住処である霊界へ帰る季節です。私にとって皆さんとお別れするのは辛いことです。しかし、これ以後まだまだ続く仕事に備えて霊的バッテリーを充電するために、この地上で得られないものを摂取しに帰ることがどうしても必要となるのです。
霊界へ戻ると、これまでの私の仕事の成果、予定していた計画がどこまで成し遂げられたかが分かります。今の私に断言できるのは、その後同志の数がさらに多くなっていると言うことです。これが私にとって一つの大きな慰めであることは申すまでもありません。
しっかりと背筋を伸ばすのです。うなだれてはいけません。霊力は決して見捨てません。私の声はしばしの間消えることになりますが、私の愛は皆さんとともに留っております。
次にお会いした時・・・地上の区切りで言えば新年になりますが・・・またこれまで通りの厳粛な仕事を再開することになります。
可能な限り高い波長に合わせるように努力いたしましょう。大霊が子等にお授け下さるもの・・・限りなき愛と力と内的安らぎを少しでも多く感得できるように努力いたしましょう。
皆様に大霊の祝福のあらんことを。
第2章 霊媒的能力-霊的知識を得る為の必須の手段
霊媒的能力は霊界側の真理普及の計画にとって欠かすことの出来ないものである。霊媒なくしては地上界と霊界との連絡は不可能である。いかなる教訓も、いかなる証拠も提供できないであろう。その大切さをシルバーバーチが改めて説く・・・・・・
霊媒は人間が霊的宿命を持つ霊的存在であることを証明してくれるものです。凶暴性に満ちたこの病める地上世界に是非とも必要な霊的真理を普及させる上で協力してくださる方にこうしてお会いできることは、私にとって大きな喜びであり、光栄なことでもあります。人助けのチャンスはその心掛けのある人には何処にでも見つかります。
実はあなた方自らが、ここぞと言う時に陰から援助を受けておられることを必ずしも気づいていらっしゃいません。死は情愛によって一度つながりの出来た人との間を裂くことは出来ません。
そのことはあなた方自ら説いていいらっしゃることですから、日常の生活においてもそれを常に念頭に置いた心掛けが大切です。
本来なら最も緊密な同志であるべき人達の敬意と協力が必ずしも得られるとは限らないものです。その時は、せっかく徳積みのチャンスを眼の前にしながらそれを掴み損ねた人のことを気の毒に思ってあげないといけません。
霊的大事業の計画が挫折することはありません。霊の力が退散させられることは絶対にありません。すでにはじまった躍進の歩みが止まるようなことは決してありません。築かれた橋頭堡は着々と強化されております。機会と条件さえ整えば、これからもますます拡大し増強されていくことでしょう。
・・・片付けなければならない障害や、どうしても避けられない困難や反抗があるようです。
だからいいのです。挑戦、障害、困難、失望,焦燥と言ったものに遭遇しないといけないのです。その中には本来そういうものを引き起こしてはならない筈の人達自らが引き起こしているものも、よくあります。しかし、同じ問題で私達霊団の者も常に悩まされているのです。
〝天使も涙する〟という文句をご存じでしょう。私たち霊は、難しい条件の中にあって地上の人間の為に心を砕いているからこそ、思わず涙を流すことにもなるのです。折角の貢献度の高い道を歩み続けながら、ふと脇道へそれて絶好のチャンスを取り逃がしているのです。しかし、それでも計画は進行しています。
・・・私は気がかりなのは、かつてこの道の仕事に献身する素晴らしい人が大勢いたのに、もっと多くを必要とする今、そういう人を見出せないことです。
何故そうなってきたかと言うと、挑戦すべきことや克服すべき障害が少なすぎるからです。だからこそ私は、そういうものを歓迎しなさいと申し上げているのです。こちらへおいでなってから地上生活を振り返ってご覧になれば、ラクだったことには何の感激も覚えずに、むしろ苦しかったことに感謝なさるはずです。ラクだったことはどうでもよかったことばかりです。
・・・霊媒が次々と他界していきました。スピリチュアリズムは霊媒能力が頼りです。新しい霊媒は準備されているのでしょうか。
我々の仕事の背後には高級界の神庁において企画された総合的な計画があることを認識しなくてはいけません。私も何度かその神庁における会議に出席させて頂いておりますが、その計画には、考え得る限りのありとあらゆる要素が考慮されております。
青写真(ブループリント)はちゃんとできているのです。それが地上で着々と実施されてまいります。
無限の叡智を具えた大霊は相対的な自由意思をもつ存在として人間を創造されました。と言うことは人間は自分よがりの物的な欲望ばかりを追い求めたければ、それも許されると言うことです。
そこに選択の余地があると言うことですが、今私は、〝相対的な自由意思〟と言う言い方を意図的に使用しました。私が、〝無限の創造活動〟と呼んでいるものを一時的に邪魔したり遅らせたり妨害したりすることは出来ても、完全に阻止することは出来ないと言うことです。神の計画を地上での実現を阻止することは出来ないのです。
今あなたは霊媒の不足を口にされました。しかし、人類の現在の進化の段階において必要な霊媒は十分に用意されております。最も必要な段階が来れば、さらに多くの霊媒が用意されることでしょう。
もっとも、そうした配慮がなされていると言う事実が必ずしもスピリチュアリズムの組織の視界にはいるとは限りません。ささやかなホームサークルの形をとったり、個人で独自の手段で行われる場合もあります。
そういう人達は自分のことをスピリチュアリストであるとか、霊媒であるとか、霊能者(超能力者)であるとは思っていないかもれません。
この仕事において援助を求める声、知識を広めたいと願う心は、私達に関する限り絶対に無視されることはありません。私達は皆さんの霊的必需品は先刻承知しております。
その時点において是非とも必要とみたものは必ず用意してあげます。ただし、それは私達霊界側の法則に則って私達の判断でタイミングを計って行います。人間界の都合に合わせて行うわけにはいかないのです。
こう申しては失礼かもしれませんが、霊力を何時行使するのが適切かの判断は、あなた方人間には出来ません。全て当人の魂の発達程度によって決められるのです。もし受け入れる用意が出来ていると見た時はただちに行います。もし受け入れる段階ではないと見た時は、私達には為す術がないのです。
地上に霊的教育が欠如していることは間違いありません。また、虚栄心、自惚れ、指導霊崇拝がはびこっていることも残念ながら事実です。基本的な真理が疎かにされて、地上には何の益ももたらさない脇道が開拓されております。
が、あなた方がもし私と同じ位置に立って眺められたら、明日はどうなるかについての一切の心配も恐れも不安も消えてしまうことでしょう。あなたの背後には宇宙最大の霊力が控えているのです。その力は決して裏切りません。
・・・迷いながらも自分で決断を下さなければならないことがあるのです。
そこにあなたの自由意思の要素があるわけです。ご自分で精一杯のことをする・・・私たちから皆さんに要求するのはそれだけです。もしもあなたが完璧に振る舞える方だったら今この地上にはいらっしゃらないでしょう。
あなたは他人の為に役たつことが出来ると言う測り知れない光栄に浴していらっしゃいます。それがあなたにとって地上における最大の貢献です。あなたはその為に生まれて来られたのです。
地上へ誕生してくる魂には例外なく自我の開発の為の機会が用意されております。誰一人としてほったらかしにならないように摂理が出来上っているのです。それは絶対不変ですし、しくじると言うことがありません。
四季は間違いなく巡ります。潮は数学的正確さをもって満ち引きします。花、小鳥、樹木、自然界の全生命がその素晴らしい配剤を生んだ背後の大霊への賛歌を奏でております。私達も決して皆さんをほったらかしには致しません。引き揚げてしまうようなことは致しません。
霊力はすでに地上にすっかりと根付いております。それを打ち消せるものは何一つ存在しません。必ずや初期の目標を成就します。
これまでの永い人類の歴史において、散発的に何度か霊力の奔流が地上へ流れ込みましたが、さまざまな原因からいずれも一過性のもので終わりました。が、このたびばかりは違います。
地上世界は今、進化の過程における一つの危機に差し掛かっております。一触即発の状態にあると言ってよいでしょう。しかし、人類はこれをきっと切り抜けることでしょう。地球の最期、人類の終焉が近づきつつあるかの予言や警告に耳を貸してはなりません。
神は地上の人間によってもたらさせる破壊や損害にも限界を設けております。地球全体を破滅させるほどの力は地上には存在しません。人類全体を殺戮するほどの力は存在しません。人間がいかに複雑で性能のいい科学技術を発明しても、それによって為し得ることにはおのずから限界があります。
霊的な力は人間が製造しうるいかなる物的な力よりも強大です。物質は本性そのものが霊に劣るのです。霊が王様で物質は召使いです。霊こそ実在であり、物質は霊の働きかけがあるからこそ存在出来ているのです。霊が引っ込めば物質は分解します。人類がその危機的段階を首尾よく切り抜ける上で霊が圧倒的な支えとなります。
あなたの人生思想の根幹となるべき霊的知識にまず絶対的自信を置くことです。そしてその知識だけでは処理できない事態が生じた時は、それに信仰(信念)を加えるのです。
手にされた知識を根拠とした信仰です。信仰心も筋が通っていて論理性があり、納得のいくものであれば、それなりの効用はあるものです。
背後霊の存在を信じることです。機が熟した時に必要な援助があります。条件が整い、正当な必要性がある時は、背後霊は地上に物的な結果を生じさせる力があります。私達もそれを何度もお見せしてきました。これからも必要に応じて行使します。
霊的知識を人に説く時は、背後霊は決して見棄てないことをよく言って聞かせてください。ですから、人間の方から背後霊を見棄てないように、と言うことを言い添えて下さい。
お金は足りなければ工面してあげます。折角の奇特な行為のチャンスが資金がない為に失われるようなことには決してなりません。その点をあなたはどう思われますか。必要なだけの資金は不思議に何処からか入るものだと思われたことはありませんか。
霊の道具としての仕事に励んでいる者は、物的生活の必需品にこと欠くことには決してなりません。こちらから用意してあげます。飢えに苦しむようなことには生りません。渇きに苦しむようなことにはなりません。きっと何とか切り抜けられるものです。
ラテン語のsursum corda(スルスムコルダ)と言う言葉をご存じでしょうか。〝汝ら心を上げよ〟と言う意味です。霊の崇高な力、宇宙最大の力、光輝と美と荘厳さと威力に満ちたエネルギーについてはすでに十分な証しをお見せしております。それは絶対に裏切ることはありません。
あなた方は人間としての最善を尽くしておればよいのです。それ以上のことは要求いたしません。そして今のラテン語の通り、決して悲観的にならないことです。
皆さんは太陽の光をご覧になられたのです。もしもそれが雲によって遮られた時は、その雲はいつかは消えて、また明るい太陽が顔をのぞかせるのだと自分に言い聞かせるのです。あなたの目に見えなくても太陽は常に光り輝いているのです。
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はじめて交霊会へ出席したある女性霊媒に温かい歓迎の挨拶をしてから、こう述べた・・・・・・
あなたの為に私が何かのお役に立てば、あなたが神から授かった霊的能力を使って天命を全うしておられるように、私も私の天命を全うしていることになります。
・・・私はとても幸せ者だと思っております。
そうです。私達はみんな幸せ者です。自分を豊かな存在としてくれている霊的知識の所有者だからです。ことにあなたの様な、霊の道具として働いておられる方にお会いすると、私は大変幸せな気持ちになります。
何故なら、私にはその仕事の大変さ、遭遇する困難の厳しさが良く分かるからです。懐疑と困難と絶望から、知識と確信と啓発への巡礼の旅をしてこられた、その大変さを私はよく理解しております。
霊的指導者の人生は全て同じパターンをたどります。むごい仕打ちを受ける試練の時期があります。基盤としていたものが全て瓦礫したかに見えて、悲哀が身にしみ煩悶する危機的な時期もあります。もはや導きと理解を求めるところはいずこにもないかに思うことがあるものです。
いやしくも人の為に生涯を奉げる使命をもつ者は、過酷な試練を体験しなければならないのです。もはやこれ以上は耐えきれないと思うギリギリの淵まで追いつめられ試されなければならないのです。地上のいかなる者からも救いの手は差し伸べてもらえないと思える深淵まで落ちて見なければならないのです。
それに至って初めて魂が目を覚まし、霊界から届けられる豊かさと力と導きと叡智と愛とを受け入れる用意が整うのです。過酷な体験の目的は悲哀の心を芽生えさせることにあるのです。
なぜかと言えば、悲哀の心なくしては霊覚者も治療家も真の意味で人を救う仕事は出来ないからです。
それしか方法がないのです。太陽が燦々輝き、何不自由ない安楽な生活の中で、果たして自我の開発が望めるでしょうか。試練を経ずして魂の崇高性が発揮されるでしょうか。何一つ学ぶことのない生活を送っていて、一体どういう精神的発達が望めるでしょうか。
そのうちあなたも地上生活を振り返って〝厄介な問題こそ有難かったのだ。あの苦労があったからこそ人生の目的を悟り自我の開発の道が見い出せたのだ〟と思われる日が来ることでしょう。
人生の一つ一つに償いがあり、差引勘定がきちんと行われるようになっております。神には絶対に手違いと言うものがありません。過去を振り返ってご覧になれば、この道に携わる他の全ての同志と同じく、あなたの人生も間違いなく霊の導きにあずかっていることがお分かりになります。
他に類のない地上最強のエネルギーの通路となっておられることは名誉なことです。あなたを通じてそのエネルギーが流れるのです。あなたを鼓舞するのです。そのお陰で、寄る辺ない身の上をかこつ人々を元気づけてあげることが出来るのです。
あなた自身もかつてその援助にあずかったのです。それは牧師にも科学者にも思想家にも出来ないことです。何故なら彼らには、悲しいかな、霊の働きかける余地がないからです。
あなたがたった一人の人間に自我を見出させてあげることが出来たら、たった一人の人間を喪の悲しみから救い出してあげることが出来たら、たった一人でも病の人を癒してあげることが出来たら、それだけでもあなたの人生は価値をもつことになるのです。
それを可能にさせる力があなたの身の回りに存在し、あなたを包み、守り、指示を与え、あなたの大切な財産である神性と霊的能力の開発を続けさせてくれることを認識しておられるあなたは、何と恵まれた方でしょう。
・・・優れた霊媒になるためには苦しまねばならないのでしょうか。苦労の連続で生涯を終えている霊媒を数多く知っております。私はスピリチュアリストとしての生活を心掛けてきましたが、霊媒になりたいとは思いませんでした。それが子供を失ってからその気になり始めました。
光を見出すのは暗闇の中にあってこそです。人生は全て両極性です。苦労なくしては魂は自我を見出すチャンスがありません。苦難がその触媒となるのです。霊的に向上し、霊的資質をより多く具え、喜んで自分を犠牲にする覚悟ができるようになる。その手段として用意されるのです。
・・・霊媒は霊媒としての素質を具えて生まれてくる他はないでしょうか。つまり素質がなければ、いくら鍛錬しても無駄なのでしょうか。
能力そのものは生まれながらに具わっていなければだめです。それは授かりものです。しかし人間は、霊の属性を具えていると言う意味においては、皆霊媒です。
(訳者注-日本語で〝霊媒〟と言う場合は物理現象を起こしたり自動書記通信を書いたり、霊言を告げたりする為の〝霊の媒体〟と言う意味に限る傾向があり、心霊治療家や霊視能力者などは含まれないが、英語では霊的な能力を持った人をひっくるめてmediumミーディアムつまり霊媒と呼ぶことが多い。
私はそうした日本での傾向を踏まえて、その時々に応じて訳し分けているが、ここでシルバーバーチが言っていることがミーディアムの本来の意味である。
モーゼスの『霊訓』の続編である『インペレーターの霊訓』に参考になる部分があるので引用していきたい。これはシルバーバーチと同じくインペレーターが入神した時モーゼスの口を借りて語った霊言である。)
≪人間とは何か。人間とは所詮インスピレーションの媒体にすぎません。地上で崇められているいかに立派な人物も、神がその叡智の内、人間にとって適切とみたごくわずかな一部を伝達するための道具にすぎません。その為すところのものは、偉大なるもの、気高き者も全て守護霊の影響でないものはありません。
霊媒が特別の能力ゆえに選ばれることは事実ですが、その能力とて、取り立てて崇めるべき性質のものではありません。ある啓示の為の適切な道具として選ばれ、その啓示が託されたと言うに過ぎません。霊媒自身の功績とすべきものではないと言うことです。
また真に忠実な僕としての心得のある者ならば、そうは思わないものです。ただの媒体、神の啓示の栄誉ある道具に過ぎません。その栄誉も霊界側から見ての栄誉であり、世俗的な意味での栄誉ではありません。神の僕・・・神のメッセージの受け皿として選ばれたと言う意味において、我々の側にとってありがたい存在と言うことです。
その任務を忠実に遂行するにつれて霊媒も恩恵を受け、地上を去って後、今度は自分が神のメッセンジャーとして地上の霊媒にメッセージを届ける役目に相応しい人物として成長していきます。その受け皿はおのずと気高い芳香に満ちております。
その神の僕として仕えれば仕えるほど、その気高さを増していきます。神の真理と言う名の宝石箱として、人間と天使双方から敬意を受けるに足る存在となって参ります。
しかし万が一にも不純なるもの、不正なるもの、臆病あるいは怠惰の要素を心に宿すようなことがあれば、あるいはもし神のみに帰すべき栄光を私(ワタクシ)せんとする傲慢無礼を働くようなことがあれば、
さらには又、俗世への迎合、高慢、不純なる動機を抱くようなことがあれば、その時は神の道具として選ばれた使命によって恩恵を被るどころか絶好の成長の機会を無駄にした不徳によって、大いなる害を被ることになります。
それが不変の神の摂理なのです。大いなる栄誉は大いなる責任を伴うと言うことです。善行の絶好機を手にしながら無為に過ごした者、あるいはそれを故意に悪用した者には、神の意志を知りながらその実践を怠った僕としての災いが降りかかります。
前者が向上するところを後者は下降します。霊的能力は没収され、道徳的にもまた知的にも堕落していきます。栄誉を投げ棄て、そして、恩恵に代わって禍が降りかかります。
それ故、そうした経歴の持ち主が他界した後にもしも通信を送ってくるとすれば、その通信は、その人物の地上での評判から想像されるものよりも必然的に低いものとなりましょう。
地上での彼が語った言葉は彼自身のものではなくインスピレーションによる霊の言葉でした。が、今や神より授かった霊的能力は没収されています。彼の語る言葉は、親和力によって引かれ行く低次元の世界に似つかわしいものとなっています≫
・・・物質中心の考えをしている為に、一生涯、霊的なものに気づかずに終わる人が大勢います。
そういう人の事を気の毒に思ってあげないといけません。折角の地上人生を無駄にしたのです。真の自我を見出せずに終わったのです。それはちょうど正規の義務教育を受けながらそれが身に付かず、卒業後の大人の人生に何の備えもないまま学校生活を終えたのと同じです。
地上は死後に否応なしに始まる次の段階の生活にとって不可欠の準備をさせてくれるところです。一つ一つの体験が進化していくために支払う代価なのです。地上人生は一本調子ではありません。光があれば影があり、日和の日があれば嵐の日がなければなりません。
両極端があり、対照となるものがあるからこそ人生の意義が理解できるのです。作用と反作用は正反対であると同時に相等しいと言われます。人を憎むことの出来る者はそのエネルギーを愛に転換することが出来るのです。愛と憎しみとは同じコインの表と裏です。どちらを選ぶかはあなた次第です。
摂理の働きは完璧です。一つ一つの行為に褒賞があるように、天罰もあります。その摂理をごまかすことはできません。地上では自分を偽り他人をごまかすことが出来ます。しかし、死が化けの皮をはがし、魂のあるがままの姿がさらけ出されます。もはや見せかけは通用しません。
地上にあっても、霊視能力をもった人には仮面の内側の本当の顔が見えます。地上はマスクをかぶった人が多すぎます。
でも、あなたは今そうした人達を救ってあげているのです。人間として正しい道を教えてあげているわけです。人間の可能性を見せてあげているわけです。それから先のこと、つまりその知識を日常生活の中に置いてどう活用するかは、その人自身の責任です。
あなたが考えこむことはありません。常に堂々と胸を張って生きることです。為さねばならないことが沢山あります。悲しいことですが、霊的真理を知らない人が無数におります。その人達をわれわれが何とかしてあげないといけません。
あなたは霊的能力を開発していない他の人々には出来ない貢献ができると言う、測り知れない光栄を担っておられます。毎日のように到来する素晴らしい好機を前に、溢れんばかりの喜びを覚えてしかるべきです。
しかし同時に、知識には責任が伴うことを忘れてはなりません。あなたには崇高な真理が託されているだけではありません。崇高な力、神の力、あらゆる可能性をもった生命力そのものも託されているのです。
自分を改造し、生きる意欲を覚えさせてあげる、そういうお手伝いをするということは、大変な責任を伴う仕事です。ですから、あなたが迷うことがない様に霊界からの導きがあります。きっと道は示されます。迷うことなく突き進みなさい。一日一日が霊的高揚の源泉となる奉仕的仕事の機会をもたらしてくれます。
あなた方も私たちも、ともに大いなる事業に参加しております。地上には為さねばならないことが山ほどあります。これまでにも多くを為し遂げてまいりましたが、これから為さねばならないことに比べれば、まだまだわずかなものです。
頑張らないといけません。そして訪れる機会を逃さず、どこででも人の為になることが出来るようでないといけません。
そして又、霊力と言うものが、其れを自ら手にしてそこから恩恵を摂取した人の生活を本当の意味で豊かにしてくれることを立証するために、お互いの役割を果たさないといけません。
あなたのお仕事は人の為に役立つからこそ尊いのです。更に大きな徳積みの為にもっと大きな力、もっと多くの叡智を求めて神に祈りなさい。そして又、こうして協力している私達の姿が見えず声は聞こえずとも、私達はこれからもあなたを見守り、導き、元気づけ、支援していくことを信じて下さい。
かくしてお互いの協力によって、神の子全てに生きる道を教えるべく意図された計画を成就していくことが出来るのです。そしてその仕事に勤しめば勤しむほど、大霊の絶対的な力に一層調和していくのです。
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別の日の交霊会である霊媒に次の様な励ましの言葉を述べた―
この私について、いささか誇張されたことが宣伝されておりますが、私は全知全能でもありません。あなたと同じく一個の人間的存在です。ただ私は、あなたより少しばかり永い人生を歩み、霊的進化の道をずっと先まで進んでおります。
その結果として私はより多くの知識を獲得し、これこそ地上人類を悩ます問題の多くを解決する上で最も啓発性に富んでいることを知りました。そこで、これまでの道を後戻りして、その知識を受け入れる用意のある人達と分かち合いたいと思ったのです。
あなたの場合、こうした心理がダマスカスへ向かうパウロの場合のような目を眩ます光としてではなく、理性的で、知性を侮辱することのない形で届けられたという点において幸せであったと言えます。
それによってあなたはより広い人生の視野を開かれ、地上への誕生の目的を知り、この地上生活を終えた後に待ち受ける、より大きい、より豊かな生命の世界に備えるためには何をすべきかを理解されました。
その知識を授けられたのは、あなたにそれを受け入れる用意が出来た時でした。それまでのあなたには解決を迫られる危機的状態や問題がいくつもありました。もはや地上にはその解決策は見いだせないかに思える中で、あなたは尚もそれを一心に求めておられました。
そのカギは魂の覚醒にあるのです。大部分の人間の魂は居眠りをしております。活動していないと言うことです。内在する神性の火花を煽らないことには魂の啓発は出来ないのです。
その点火の触媒となるのが危機的体験であり、悲しみであり、別離であり、病気なのです。
人生は相対性の原理で出来上がっております。スペクトルの両極、コインの両面、あなた方が善と呼んでいるものと悪と呼んでいるもの、と言う具合です。いかなる経験にも魂を目覚めさせる上で役たつものを含んでおります。バラ色の人生では駄目なのです。
先ほど述べたような触媒によって魂の琴線に触れる様な所まで行かないと駄目なのです。
あなたは心霊治療家の能力を未発達の状態でお持ちになっています。それを他人の為に役立てる処まで発達させることが出来ます。あなたには為すべきことがいろいろと用意されております。
その為に道が今開かれつつあるところです。すでになすべきことは終わったと思われるかもしれませんが、実際はまだまだ新しいサイクルが始まったばかりであり、それが多くの精神的ならびに霊的褒賞をもたらしてくれることでしょう。
あなたの前途は大いなる可能性に満ちております。あなたにとってのみならず他の人々にとっても測りしれない恩恵をもたらす精神的ならびに霊的冒険へ誘ってくれます。奥さんとのご縁はその為に結ばれたのですよ、ご存知ですか。
お二人は常に導かれ霊感を受けておられることを自覚なさらないといけません。少なくとも扉が開かれ道が示されたことだけはお気づきと思いますが・・・
ここにお集まりの同志の方にいつも申し上げていることですが、私達は私達のやり方で私達のタイミングでことを運ぶしかないのです。魂が自覚するのを辛抱強く待たねばなりません。
それには何十年もかかることがあります。そして、その甲斐あってやっと受容力を発揮し始めると、とたんに人間の方が傲慢になって〝さあ、どしどしやろう〟といった調子で性急にことを運ぼうとします。
私達がそれまで辛抱強く時期の熟するのを待ったことをご存じないのです。私達は霊的な世界から物的な世界へ向けて影響力を行使しなければなりません。
その為の通路として霊媒を使用しなければなりません。もしも適当な霊媒が見当たらなければ、霊感的に導き指示を与えて、せっかくの通路を無意識のうちにでも塞いでしまうことのないよう細心の注意をもって監視しなければなりません。これがまたとても厄介な仕事なのです。
確固たる霊的知識に裏打ちされた完璧な信頼と自信と信仰(信念)とがある時はその通路が開いており、受容性が高いのですが、そこへ不安の念が入り込むと、とたんに雰囲気が乱れて、通路を塞いでしまう要素が生まれます。
取り越し苦労は無知の産物です。霊的知識を携えた者が不安の念を抱くようなことがあってはなりません。同じく悩みの念も、その中身が何であれ、成就されるはずのものを成就されなくしてしまいます。
私は何時も交霊会の開会に際してこう述べています・・・心配、悩み、疑い、不安の念のすべてを、しばし、脇へ置きましょう、と。霊力が存分に、そして自由に流入するのを、そうした念が妨げるからです。
私達を信頼してください。きっと道をお教えします。扉を開いて差し上げます。閉め切られた扉をノックしてみて開かない時は、諦めることです。ノックしてみてすぐに開いた時は、真っ直ぐに突き進まれるが宜しい。
それがあなたにとって正しい道なのです。私達としてはそういう形でしか援助できないのです。良い知恵を絞って導いてあげると言うことでしか援助できないのです。(人間的努力の範囲まで踏み込むわけにはいかないということ―訳者)
あせってはなりません。快く私達の協力者となってくれるだけで良いのです。そうすれば私たちなりの役割を果たします。
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霊聴能力を持っている人に勇気付けの言葉を述べる・・・
背後霊があなたの存在を忘れてしまうようなことは絶対にありません。かつてあなたがいずこへ向かうべきかを悩んだ時、あたかも絶望の淵に落ち込んでしまったかに思えた時にも、しっかりと保護され導かれていたように、前途に横たわるこれからの日々にも霊の力がきっと支援してくれます。
無限なる叡智を具えた大霊から頂いた能力を存分に発揮し続けて下さい。かつて霊力が顕現したことのないところでそれを発揮し、受け入れる用意のある人にもたらす光明をますます増していってください。
あなたのお陰で人生の視野が一変することによってどれほどの恩恵がもたらされるか、あなたご自身にはお分かりになりません。あなたのお陰で霊的知識と言う掛けがいのない啓示がもたらされております。
そのあなたが落胆したり明日はどうなるかなどと言う不安をいささかでも宿すようなことがあってはなりません。あなたは既にこれまでも数々の危機をくぐりぬけて来られました。これからもイザとなれば必ず道が開けます。
あなたは霊力の通路なのです。あなたが存在することによって成し遂げられてきたことを誇りに思うべきです。同時に、あなたの協力のもとにこれから成し遂げられていく仕事を自覚なされば、なお一層誇りに思うべきところです。
あなたも生計を立てていくための費用が要ります。その他、物質の世界であるが故の費用を支払わねばなりません。そのことは私も良く存じております。私が申し上げているのは、そうしたことを悩みの種としてはいけないと言うことです。責任は大いに自覚すべきです。が、心配の念はいささかも抱いてはなりません。
私も今では現代社会ならびにそこでの生活の仕組みをよく知っております。時には(生活費など)物的なものが手に入るよう、ある程度の物的法則を操作しなければならなかったこともあります。
私が何時も強調していること・・・無論聞く耳を持つ人に対してのことですが・・・物的なものは実在の投影もしくは殻に過ぎないと言うことです。
物質は霊によって活力を与えられているからこそ存在しているのです。霊が正常であれば、つまり霊と精神と身体とが調和して機能している限り、物的生活に必要なものは必ず手に入ります。
霊が主人であり物質は従僕です。霊は殿様であって物質は家臣です。霊の方が物質に勝るのです。地上生活に必要な物的必需品まで、無視しなさいと言うのは愚かなことですが、それに心を奪われて精神と霊にとって必須のものを疎かにするのも同じく愚かしいことです。
このことは現在の地上の人間にとって是非とも心しなければならない重大な教訓です。大半の人間が物質を優先させ、霊に関わることはほとんど関心を向けておりません。
霊的実在についての知識を手にした者は、不安、心配、悩みの念を宿すようなことがあってはなりません。この種の感情は陰湿な性質を帯びております。活力に満ちた霊的エネルギーが届けられる通路を塞いでしまいます。生き甲斐のある人生にとって必須の要素が流入する上で不可欠な調和状態を妨げ、乱してしまいます。
視点を何時も永続性の価値をもつものに置くことが大切です。そして、受け入れる用意の出来た人に、いかに生きれば、本来自分のものであるべき生命の豊かさを味わい、地上に借りを残さずに済むか教えてあげる必要があります。
地上を見渡してみますと、霊的に貧しい人が無数におります。物的な貧しさゆえに悲しい思いをすることがあるのは地上の常ですが、霊的な貧しさを見るのも同じく悲しいものです。
心を何時も開放的にして精神に宿された能力を開発しさえすれば、霊の持つ栄光、光輝、威厳、崇高さ、気品に満たされるようになっているのです。そうしてあげること、つまり地上人生を生きていく上に置いて何を優先させるべきかを認識してくださるように配慮するのが私達霊団の使命なのです。
その点あなたは無限なる叡智を具えた大霊からの霊的才能のいくつかを授かっておられる、実に恵まれた方です。そのお陰で主教や牧師よりもはるかに宗教的な仕事をなさっておられます。
悲しみに暮れている人の涙を拭い、精神的ならびに霊的に弱った人に力を与え、病の人を癒し、人生に迷っている人に道を教えてあげて来られました。その人達は、かつてのあなたと同じように、もはやこの世には自分の力になってくれる人はいないと思い込むほどの絶望的段階にあったのです。
そういう人助けをする為の霊的才能を授かるには、自ら苦しみと悲しみを味わうという条件が付きものです。霊の道具として自覚をもつに至るには苦を体験しなければならないと言うことです。
苦の体験の本質は霊的才能を手段として仕事をする者の試金石です。それを耐え抜いて初めて自分のもとを訪れる人の力になってあげることが出来るのです。
霊の僕であることを自覚する者は安楽な人生を期待してはなりません。霊的使命を帯びた仕事に携わっている者は、それが決して楽な道ではないことを覚悟しないといけません。もし楽な道であれば、無理してその道に踏み入れるほどの価値はないでしょう。
霊の褒章は刻苦勉励の末に手に入れなくてはなりません。しかし一度手にしたら絶対に失われることはありません。霊の富は永遠です。
地上で得られる富は地上時代だけの一時的なものでしかありません。霊的な熟練はそう簡単には達成されるものではありません。霊的褒賞もまた簡単に手に入るものではありません。
あなたはこの道に献身する為に生まれて来られました。これまで立派に献身され、今も献身なさっておられます。そうした素晴らしい霊の力の通路となっておられる方とお話しできることは私にとってこの上なく嬉しいことです。
その通路のお陰で霊力が、受け入れる用意のある人に豊かな恩恵をもたらします。受け入れる用意が出来ていなければ、その通路としてのあなたにも為す術がありません。
ある人があなたのもとへ導かれてきたということは、その方にとって掛けがいのない、真の自我の発見のチャンスが目の前にあると言うことです。もしうまくいけば、あなたも大いに喜ばれるが宜しい。万が一失敗に終われば、折角のチャンスが失われたことに密かに涙を流してあげなさい。
あなたにはまだまだ仕事があります。あなたは今まさに天命を全うしつつあります。霊的な仕事に献身出来ていることをこの上ない幸せと思わないといけません。
残念ながら地上には存在の根源である霊的実在について何一つ知らない人間が無数におります。何のために生きているのか、天命を全うするにはどうすべきか、他人に天命を全うさせてあげる為に自分の才能や能力をどう活用すべきか、そうしたことについて全く無知なのです。
そうした現実の中にあって、たった一人でも魂が感動し、ゆっくりではあっても真の自我に目覚めていく、その手段となるたびに、あなたは貴重な貢献をしていることになるのです。
私達霊団の者が四苦八苦の末にこうして地上へ戻ってくる理由もそこにあります。地上人生は道を見失い、物的利己主義と貪欲と強欲の沼地に足を取られ、それが戦争と暴力と憎しみを生んでおります。
霊の優位性を認識し、人間が肉体を携えた霊であることに得心がいく・・・いいかえれば全ての人間が神の分霊であり、それゆえに人類はみな兄弟で姉妹であり、神を父とした母とした一大家族であることに理解がいった時、その時初めて戦争も暴力も憎しみも無くなることでしょう。
代わって愛と哀れみと寛容と協調と調和と平和が支配する事でしょう。
人間界だけではありません。この惑星を共有する動物の世界にもそれが行きわたることでしょう。かくして地上の汚点である動物への虐待行為も影をひそめることでしょう。それが私達の努力の背後に託された目的なのです。
皆さんは気落ちしたり悲観したりする必要は何処にもありません。信念に基づいた希望に胸をふくらませて、常に楽観的であらねばなりません。その信念が盲目的であってはなりません。
理性的検討を加えずに安直に信じているのではいけません。生命が永遠の霊的実在であるとの、最早争う余地のない事実を基盤とした信念であらねばなりません。
・・・〝為せばなる〟の教えを説くある指導者が、物的なものであろうと霊的なものであろうと〝必ずそうなるのだ〟と信じて行えば何事も成就すると述べています。これは心霊的能力(サイキック)の悪用になるのでしょうか。
何もかもが自分の思い通りになるわけがない以上、その指導者の言葉は言い変える必要があります。人間にできることと言うのは自然法則によって一定の限界と言うものが設けられております。
もしもそうした限界がなかったら、この地球を始めとして物的宇宙全体が基盤としている原理の全てを人間が破壊してしまうことも出来ることになります。
私はその“為せばなる〟式の生き方の背景にある積極的なものの考え方に反対しているわけではありませんが、そのつもりになれば何もかも自分の思い通りになると考えるのは愚かです。例えば、人間に太陽が思い通りになるでしょうか。
・・・(霊的能力が出始めたばかりの人)
・・・ごく自然な状態で能力を発揮したいと思っているのですが、昼間はなかなか思うに任せません。やり始めたばかりですので、いろいろと解決しなければならない問題があります。そのうち上手く行くようになると思っておりますが・・・
何ごとも自然と言うことが大切です。気負わず、受け身の心境になり、迷ったり不安に思ったりせず、信念を持つことです。ここまで導いてくれた霊の力はこれから先も裏切ることはしません。あなたをしっかりと保護している愛の腕がほどかれて、あなたをほっぽり出すようなことは致しません。
あなたはあなたなりに自然に振る舞ってください。そうすれば霊側としての役目を果たします。その準備としてまず、〝静寂の時〟をもつように心掛けて下さい。日常生活の喧騒から離れた状態へ身を引くのです。すると内部の霊力がより大きく顕現して、人の為に仕事をする上で必要な落着きと調和と愛と寛容が整います。
あせってはいけません。じっくりと構えるのです。背後霊があなたをここまで導くのにもずいぶん時間がかかったのです。そのうちあなたにも、この道にも総合的な計画があって、我々にもそれに即応した役目があると言うことが分かるようになります。
最後は人間にとってだけではなく私達霊側にとっても好都合に展開するようになっているのです。
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別の日の交霊会で、かつては物理的心霊現象が盛んに見られたのが今日では珍しくなってきたのはどう言うわけかと尋ねられて・・・
それは物的側面の進化の法則だけでなく霊的側面の進化もあるからです。地上世界の思想的動向は頭初と今では大きく変化しております。霊的実在を物的手段で証明して見せなければならない時代には物理的心霊現象が必要でした。
当時の科学者は物的ものさしで測れないものを受け入れる用意が出来ていなかったのです。
今や核融合と言う目に見えない化学反応を利用して大災害も大恩恵も被ることが出来ることを知りました。唯物科学の根底が崩れてしまいました。物質の究極と思っていた原子も、さらに細かく分解されてしまいました。今や科学者も物質は個体でなく、実在は見えざる世界にあることを認めています。
そうした思想的動向と歩調を合わせて、霊的治療が発達し発展しております。それによっても物質を超えた霊力の存在を証明することが出来ます。
・・・心霊能力を軍事面に利用しようとする実験が、とくにソ連において行われておると聞いておりますが、このままいくと実際に心霊能力が好ましからざる方面で使用される危険がありそうです。
私は少しも心配しておりません。私は皆さん方のどなたよりも永く生きてまいりました。その間に見聞し理解したことによって私は、無限なる叡智と愛をもって全星雲、全天体を包摂する大宇宙機構を考案した大霊に対して、大いなる崇高と畏敬と感嘆の念を禁じ得ないのです。
すべての人間、すべての事柄が自然の摂理によって規制されております。それには手落ちと言うものがなく、数学的正確さをもって働き、絶対に間違いを犯しません。宇宙間のありとあらゆる存在がその中に包摂されていますから、何一つ、誰一人として排除されたり忘れ去られたり無視されたりすることがないのです。
壮大な物から微細なものに至るまで、単純な物から複雑なものに至るまで、あらゆる存在を自然の摂理が支配し支え規制しているのです。
地上での人間の行為にも規制と言うものがあります。その自然の規制に背いたことは出来ません。人間が為しうる害悪と破壊の程度にも、その制約による限界が設けられているのです。
そういう次第で私は楽観主義者であり、悲観的考えは持ち合わせません。今おっしゃった実験は軍事的な利用価値を検討するものですが、それによっていかなる害悪がもたらされようと、他方において科学的技術その他あらゆる力を駆使して人類に恩恵をもたらさらんとしている人達によってもたらされる利益の方が大です。
心配してはいけません。心配の念はろくなものをもたらしません。心配の念は魂を蝕みます。心配の念は精神も錆びつかせます。心配の念は折角の霊的援助の通路を塞いでしまいます。地球を始めとして宇宙間のあらゆる天体の責任者は大霊なのです。いつかは善が悪を駆逐します。
・・・するとあなたは、心霊能力が邪悪に使用される可能性があることは否定なさらないわけですね。
大霊はあなた方人間をロボットや操り人形になさりませんでした。一定範囲内の自由意思、選択の自由を与えて下さっています。が、それにも制約があり、限度があります。その摂理に背いたことはできません。
心霊能力と言うものを持ち合わせる以上は、それを悪用しようと思えば出来ないことはありません。ただし、それには責任が伴います。いかなる知識もそれ相当の責任と言うものが付加されずして手に入れることはできません。
第3章 心霊治療-霊的覚醒のための手段
無限なる叡智と愛を具えた大霊は、医学によって〝不治〟の宣告を受けいれた人達にもう一度チャンスを用意してくださっております。
大切なのは魂の琴線に触れることです。そのとき霊の力が、それまであるかないかの状態で明滅していた神性の火花を美しい大きな炎と燃え上がらせ、潜在するエネルギーを活気づけ、それが身体の病を治し、精神に教訓を学ばせ、霊的本性を開発させるのです。
それが首尾よく行われた時は、治療家はその貢献の栄誉を授かったことを大霊に感謝すべきです。
もしも身体は治っても魂を目覚めさせることまでに至らなかった時は、それは残念この上ないことです。その患者は霊的真理に目覚めさせるチャンスを目の前にしながら、それを手にすることが出来なかったことを意味するからです。いずれにせよ治療家は精一杯の努力をして、霊力が存分に流入し神の意志が届けられるようにすることです。
全ての魂が受け入れる用意が出来ているとは限りません。それはあり得ないことです。治療家のもとを訪れる患者をすべてが治せるわけではありません。が、もしも絶望視されていた患者に何かの改善が見られたら、それは、いやしくも思考力と理性とを具えた人間にとって物質より遥かに勝る力が働いたことを示す明確な証拠と言うべきです。
起源においても本質においても霊的であるその治癒力は、今日の地上界へ流入している大切なエネルギーの一つです。地上界は今とても病んでおります。余りに多くの人が調和の乱れた生活環境が生み出すストレスと不自然さによって病気になっております。
自ら〝文明〟と呼んで誇っているものが実は、本来ならエネルギーを供給してくれる大自然から人間を絶縁させているのです。
その為に人間のバッテリーである魂が枯渇しており、それを霊の力によって再充電してあげなくてはならない訳です。それが功を奏してバッテリーが働き始めると、身体と精神と霊との間に調和が戻ります。それが健康です。神はその無限の叡智によって、人体の骨格及びその関連器官を、霊の自然治癒力が働くようにこしらえてあるのです。
その身体と精神と霊と言う三位一体の関係が乱れた時に病気になるのです。健康とは全体の調和状態のことです。
では治療家がその治癒エネルギーの通路となると、どう言うことが起きるのか。生命力すなわち霊の力が治療家を通って患者に流入し、その魂と接触をとり、先ほど述べたバッテリーを補給し、原因はともあれ、乱れてしまった調和を取り戻させるのです。
心霊治療の肝要な点は、治療家自身が苦痛を体験していて、訪れる方々に対する思いやりの心が培われていることです。それが摂理の働く唯一の道なのです。
ここにお集まりの方のどなたよりも永い人生を生きてきた私は、今なお、全存在を包摂する宇宙的摂理を考案した大霊の無限の叡智に感嘆させられることばかりなのです。
平穏の有難さが分かるのは嵐の中に置いてこそです。晴天の気持ちよさが分かるのは雨の日があるからです。このように全てが両極の原理で成り立っているのです。もしも全体が光ばかりだったら、光の有難さは分かりません。そうした違いが分かり自然の摂理の素晴らしさが分かるのは、そのコントラスト、比較対照の原理のお陰です。
そこで苦しみがあるのです。苦しみの中に置いて霊性が目を覚まし、その結果として治病能力が開発され、自分のもとを訪れる人の苦しみも分かるのです。
このサークルへご招待する〝霊の道具〟(心霊治療家)の全ての方に申し上げていることは、明日のことを思い煩ってはいけないと言うことです。治すべき患者はちゃんと導かれてまいります。
自分から出歩いて〝私は治療家です。どなたか治してほしい方はいませんか〟などと触れて回る必要はありません。霊界からの働きかけはそういう方法はとりません。
治療してあげて、取りあえず身体上に痛みや症状が消えれば、それはそれなりに結構なことです。が、それよりさらに一歩踏み込んで、そうした変化が何を意味しているかを患者が理解してくれれば、なお結構なことです。
その段階から患者の霊性が目を覚まし、真の自我を知り、地上に生まれてきた目的を成就し始めることになります。そこが大切な点です。表情が取れればそれはそれなりに結構ですが、霊的実在に目覚めることになれば、なお一層結構なことです。
・・・治る患者と治らない患者とがあるのはなぜでしょうか。
霊的に治る段階まで来ている人とそうではない患者がいるからです。しかし、治りさえすればいいのではありません。心霊治療家の試金石は魂を目覚めさせるか否かです。
・・・明らかに摂理に背いている為に病気になっているケースがあります。一応治療は施してあげるのですが、相変わらず心掛けが間違っている為にぶり返して、また治療を受けにやって参ります。お聞きしたいのは、そうやって何度も治療を繰り返すと言うのも計画の中に組み込まれているのでしょうか。
私達がとるべき態度として一番大切なことは、訪れる患者がどんな人であろうと分け隔てなく援助の手をさしのべることです。それから後のことは、その患者自身の責任に帰すべきことです。身体上の病だけが良くなった場合は、心霊治療家としては失敗だったことになります。本当は魂が目を覚まして活動を開始する様にならないといけません。
つまり治療を受けた結果その患者がそれまでの生活を反省して本来の生き方を学ぶこところまで行かなければ、その治療は失敗したとみなさねばなりません。
治療家を通じて働いている力は身体上の症状を癒すだけでなく精神を癒して、人生とは一体何なのかを理解させることを目的としていることを得心なさるべきです。時間がかかるのです。
・・・と言うことは、おなじことを必要な限り何度でも繰り返すべきだと言うことでしょうか。
治療家は患者を断るような態度をとってはなりません。患者は治療を求めてやってきます。その時治療家は、その患者について勝手な判断を下してはなりません。
治療家の仕事は治療を施すことです。それによって患者の魂が目を覚ませば、そこから啓発が始まります。例え霊的に何の反応も生じなくても、少なくても身体だけは、短期間とはいえ、前よりは良くしてあげたわけです。
いかなる患者に対しても、できるだけのことをしてあげ、決して断ってはいけません。治療家は何時でも患者を迎えてあげる用意が出来ていないといけません。仮に治療の後間違った生活をさらに厄介なことになっても、それはその患者の責任です。
魂と言うものはいつかは必ず目覚める可能性をもっております。なぜならば魂とは大霊の一部であり、各自の内部に宿る神性だからです。それは無限なるものですから無限に発達する可能性を秘めております。それが基本の論理です。
〝治る段階〟とは何かと問われれば、それは金塊が精錬の過程を経て不純物が取り除かれた後に見せる純金の姿と同じだと申し上げます。
もしも人生が一本調子のものだったら、もしも光だけで闇がなかったら、もしも楽しいことばかりで苦しいことがなかったら、食べるものにこと欠かず空腹と言うものを知らなかったら、その光も、楽しいことも、食べられることの有難さも分からないはずです。
人生の目的と可能性について理解をもたらしてくれるのは、その両極性です。愛と憎しみは正反対であると同時に相等しいものです。愛を憎しみに変えることが出来るように、憎しみを愛に変えられることも同時に相等しいものです。
鋼が溶鉱炉から取り出されて鍛えられるように、金塊が製錬されて初めて純金となるように、ダイヤモンドが磨かれて初めて輝きを見せるように、魂も辛酸をなめて初めて真の自我に目覚めるのです。それ以外に、地上で魂が目覚めそして活動を開始する為の手段はありません。
苦痛や困難は不幸なことのように思われがちですが、本当はそうではありません。各自の霊的進化にとってそれなりの役割があるのです。
あなたの為すべきことはあなたのもとに導かれてくる人にあなたなりの援助をしてあげることです。もしその人が〝大人の霊〟であれば、死後の生命の実在についての証拠を提供することによって、愛と生命と同じく不滅であることを教えて慰めておあげなさい。
もしも病弱の人であれば、心霊治療とは物的なはかりでは測れない力が働いていることを実演して見せるものであることを教えておあげなさい。
あなたの望めるのはその為の触媒を提供する懸け橋となることです。もしうまく功を奏すればその人が自我を見出す手助けをしてあげたことになります。それによってあなたは心に大いなる喜びを感じられるはずです。たとえ失敗しても、それはあなたが悪いのではありません。その人は絶好なチャンスを目の前にしながら、まだそれを生かす用意が出来ていなかったことを意味するのです。
・・・特殊な理由から治して欲しいと思わない、だから治らない(と私は考えるのですが)、そういう人は別として、カルマと言うのはどのように働くのでしょうか。治りたい一心で治療を受けていながら一向に良くならない人がいます。これはカルマの性でしょうか、それとも治療家の力不足でしょうか。
これは難しい問題です。なぜかと言いますと、治療行為がおこなわれている時にその背後でどのようなことが為されているのかは、一口では説明できないからです。
ご承知の通り心霊治療の本来の目的は魂の琴線に触れることです。あなたは先の質問で心掛けに問題のある患者のことを持ち出されました。言わゆる〝心身症〟です。身体上の病も大半は内部の不調和が外部に表れているにすぎないものです。
今の地上には過度の緊張やストレス、欲求不満から生じている病気や異常が増えております。純粋に身体に起因している病気はほとんどありません。
霊的治療においては造化の根源から発している霊的なエネルギーを使用します、そのエネルギーの質、量、種類はそれが通過する治療家の霊的発達の程度によって決まります。
次にその病気の原因となっている根本的な事情(カルマその他)によって支配されます。さらにはその時点における治療家と患者双方の精神的ならびに身体的状態によっても影響を受けます。
治療が成功したと言えるのは、患者が霊的な受け入れ準備が出来ていて魂が感動を覚えた時のみです。その時初めて霊的覚醒がもたらされるのです。それ以外は単なる身体上の反応にすぎません。それが一時的な場合もあれば、それきり全治してしまうこともありますが、肝心なのは患者への霊性への影響です。
地上生活そもそもの目的は人類およびその他、ありとあらゆる生命体に宿る霊的要素が、ホンの火花に過ぎなかった状態から揺らめく炎となり、ついには見事な火焔となる為の条件を提供することです。そこで魂が真の自我を見出し、人生が提供する物的な側面だけでなく、さらに大切な霊的側面をも味わうようになります。
さてあなたはカルマの問題を出されました。因果律、種まきと刈り取りの原理のことで、あらゆる生活の場で一時の休みもなく働いております。患者の中には前世から持ち越したカルマ的状態によって病を得ている人がいます。
その因果律が完全に解消されていない場合は、治療は表向きには失敗したような結果となります。もしも完全に解消されていてそれ以上カルマがでなくなっていれば、治療が功をする分けです。それが〝魂に受け入れの用意が出来ている〟と言うことです。
・・・あなたはよく〝心が正常であれば身体も正常です〟とおっしゃっていますが、霊能者もたいてい何処か調子が悪かったり異常を抱えていたりするようです。霊能者であるからにはその心はきっと〝正常〟であろうと思うのです。もしもこの世で苦がカルマの性であるとすれば、それとこれとはどう結びつけたらよいのでしょうか。
霊能者といえども自然の摂理から逃れることはできません。摂理は全ての存在を包摂し、そこには例外も逸脱もありません。病気が生じるのは二つの理由があります。
一つは霊と精神(心)と身体の調和によって健康が維持されている、その調和が崩れていることです。もう一つの可能性は言わゆるカルマです。地上でしか償えない前世での出来事があって、それがまだ解消されていないと言うことです。
理想的な世の中であれば霊能者も理想的な人物なのでしょうが、あなたが住んでおられるのは理想的な世の中ではありません。
・・・心霊治療家の目的は患者の魂の琴線に触れることで、霊と精神とが正常であれば功を奏するとおっしゃっていますが、赤ん坊や動物の場合はどうなるのでしょうか。
やはり同じです。調和を取り戻すには霊が正常であらねばなりません。赤ん坊の場合でも魂の琴線に触れる必要がありますし、動物の場合でも同じです。私には別に問題は見当たりません。
私が先ほど申し上げたのは、永い間患った末に霊的な治療を求めてくる人々についての一般的な話です。心霊治療と言うのは複雑な問題です。そのもっとも純粋な形においては霊から霊を通して霊へ向けて行われます。つまり霊から出たものが治療家の霊を通して患者の霊へ届けられるものです。
さて、これが赤ん坊や動物の病気となりますと、そこに絡んでくる要素が違います。正すべき要素はたいてい霊的状態だけです。それも霊的方法で行うしかありません。
直接身体的に行うわけには行きません(*)健康を取り戻す唯一の手段である霊と精神と身体の調和を妨げている障害物を取り除くために、魂そのものに充電してやらねばなりません。
赤ん坊の場合はカルマの要素が絡んでいることが良くあります。が、この問題はここでは深入りしないでおきます。
(*これはすぐ前のところで、〝長い間患った末に霊的治療を求めてくる人について一般的な話です〟と述べていることと関連したことで、大人の場合はそうした苦しい体験があるので症状がとれるという身体上のことだけでも魂が感動を覚えるが、赤ん坊や動物の場合は、それが維持できないという意味。なおこの問題は再生の問題と深くかかわっているので詳しくは第四巻三章を参照されたい-訳者)
・・・内在する神性を呼び覚ますことによって治癒されると理解しておりますが、今あなたは霊的治療は霊から霊を通して霊へ向けられ、それによって魂が充電されるとおっしゃいましたが、それが大霊から届けられるとなると、それは外部からの影響であるように思えるのですが・・・
治療家自身に具わっているものを使用するのであれば、それは本来の霊的治療ではありません。それは磁気療法(マグネチックヒーリング)とでも言うべき範疇に属します。純粋の霊的治療は大霊から発する霊力の伝導によって行われます。大霊が始源です。発電所です。水源地です。貯蔵庫です。それをスピリチュアルヒーリングと言うのです。
・・・私達はみな大霊の一部であり神性を宿しているのですね。
そうです。皆さんもミニチュアの大霊です。それは間違いない事実ですが、皆さんの内部に宿る潜在力は、大霊から届けられる無限の霊力に比べれば、ごくごく小さなものです。自分で自分を治癒するセルフヒーリングには精神統一と受容性、つまり内在する力を働かせると同時に大霊から送られてくる力を受け入れると言う、内と外とのコンビネーションが必要です。
・・・セルフヒーリングが広まれば治療家のお世話にならなくて済むので、これを開発促進すべきでしょうか。
これは簡単にお答えしにくい質問です。霊的覚醒に関わることだからです。治療家としてあなたの機能は、治癒エネルギーの通路となることです。患者が霊的に治る段階に来ておれば功を奏します。魂が感動し覚醒することによって治ることもあります。
身体上の症状が取れただけではまだ目標が達成されていません。目的は霊的覚醒にあるのです。
・・・感情についてお聞きしたいことがあります。私達が立派と思っている愛国心その他の愛でも、実際は一種の利己主義であることがあります。
何事も動機が大切です。愛国心でも、自分の国家と国民のことだけ考えて、よその国のことは一切眼中にないようでは、それは一種の利己主義です。
最高の指針となるのは人の為に役たつこと、思いやり、謙虚さ、寛容心、協調性と言った形で表現される愛です。愛は宇宙最大の力です。
あなた方は人間です。完全ではありません。完全は地上では絶対に達成されません。絶えず発達し進化し伸びていく存在です。内部には神性を帯びた潜在力が秘められています。また、一定限度内での自由意思も授けられています。
従ってあなたは神の意図された通りのイメージに従って行動して内部の神性を発揮することが出来ますし、低級な感情と欲望の赴くままに生き、永遠の持ちものとはならない俗物を求めるだけの人生で終わることも許されます。それは神が地上の人間の全てに与えられた自由選択の権利です。
しかし人間である以上はその選択を誤ることがあります。そして途中で挫折してしまいます。そこで私達は、善悪の判断に際して〝動機〟を重要視します。神は一人一人に良心と言う絶対に狂うことのない監視装置(モニター)を用意してくださっております。それがあなたの行為が正しいか間違っているかを正確に教えてくれます。
・・・うつ病患者が多いのですが、私達にはどうしたことがしてあげられるでしょうか。
人生に視野を変え、知識を基盤とした信念を持つように指導してあげないといけません。何の根拠もない信念は砂上の楼閣のように、あっさりと崩れてしまいます。知識の上に築いてこそ長続きするのです。
その点皆さんは霊力の証しをご覧になっておられる光栄な方たちです。無限なる力によって案出された崇高な知的計画があることを実感をもってご存知です。その計画はあなた方一人一人を包摂しております。そうした意識をお持ちである以上、常に前途に希望を抱き、楽観して憂うつや恐れと言う暗闇を近づけないようにすべきです。
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サークルのメンバーの中に過労から病気がちになっている人が何人かいることについてシルバーバーチが忠告する・・・
危険信号が見えた時はいつも注意してあげているのですが、それが無視されているのは残念です。が、全ては各自の責任に帰されると言うのが私達の教えの絶対的な基本です。
許されることなら代わって荷を背負ってあげたであろうと思われることが何度あったか知れません。が、霊的向上の道は自分の力で切り開かないといけない以上、それは私には許されないと理解しております。
(女性のメンバーに向かって)あなたの場合この季節(冬)は特に身体を大切にし、酷使しないように注意をしないといけません。休息は大切です。今のあなたにとって大切なのは休息です。それを欠くと霊が地上で機能する為の道具を台無しにしてしまいます。
別に咎めている分けではありません。人生の基盤である不変の摂理の存在を指摘しているだけです。それを怠ると私の義務を果たしていないことになります。
・・・(古くから彼女を知っている方が弁護して)翻訳の仕事が多くて原稿の締め切り期限(デットライン)に間に合わせようとして過労になったようです。
この私にデットラインの話を持ち出されるとは愉快ですね。私が今の世の中をこしらえるわけではありませんし、そこで生活する人の身体も私がこしらえたわけではありません。
ただ、出来上った身体を見ていると実に複雑でありながら見事にまとまった機械であることが分かります。地上のいかなる腕のいい技術者も到底これほどのものはこしらえられないでしょう。
幾億もの細胞が集まって血液、腱、筋肉、その他もろもろの組織をこしらえ、さらに各種のミネラルが昼となく夜となく働いて、霊が効果的に表現される様にしております。
私が思うに地上に存在する機械で、瞬時も休みもなく働きオーバーホール(修理・点検のための解体)されることもないのは人間の体だけでしょう。その度が過ぎると、使い過ぎによる欠陥が生じて使用中止の命令を下さねばならなくなります。
大霊がもし人間に完全であることを望むならば、完全な身体を用意された筈です。が地上と言う処は永遠の進化の為の無数の生活の場の一つに過ぎません。今この地上にある限りは、その身体を大切に維持、管理する責任があります。使いすぎると本来の機能が果たせなくなります。
もう一人の方にも同じことを申し上げたいと思います。悩みや困難に追いまくられるとおっしゃいますが、私は何時も申し上げております・・・〝それは百も承知しております。もしも悩みや困難がなかったら、あなたはこの世にいらっしゃらないでしょう。何故ならそれを処理する為に地上へ来ているのですから〟・・・と。
遭遇しなければならない困難と言うものが必ずあります。それに挑戦することによって内部の貯え、潜在する霊的資質、神的属性の幾つかが呼び覚まされるのです。ですが、度を越してはなりません。からだが〝疲れました。もうこれ以上はむりです〟と訴え始めたら、休息を与えてあげて下さい。
皆さんへの愛の気持ちはあっても代わって生きてあげるわけには参りません。手引きはしてあげます。援助はします。支えにもなってあげます。道を教えてあげることは出来ます。しかし皆さんが自ら背負うべき責任を私が肩代わりしてあげるわけには参りません。
私達の力の限りを尽くして、是非とも必要な守護は受けられるようにしてあげましょう。が、自分のすることには自分で責任をとるのです。
・・・角膜移植には反対ですか。霊的には何ら問題はないように思いますが・・・・・・
私は原則として臓器の移植手術には反対です。他人の為に自分の臓器を提供する方の誠意を疑う分けではありません。
神は霊が地上で自我を表現する為の道具として物体身体をお与えになりました。そこに身体と霊との緊密な関係があるわけです。もしも臓器移植が不可欠のものであったら、心臓や臓器の移植手術に失敗はあり得ないわけです。
角膜の問題はとても厄介です。人間の苦痛に対して冷淡であるかに思われたくないのですが、時として失明の原因がカルマにあることがあります。
何もかもカルマの性にしてしまうのは卑怯だと思われかねないことは私も承知しておりますが、地上でも、あるいは霊界でも、偶然にそうなったと言うものは一つもありません。因果律は絶対であり、あらゆる出来事を規制しております。
目が見えないと言うのも因果律の結果です。目の見えない人が角膜を移植してもらって見えるようになると言うことが霊的に見て果たしてその人にとって良いことであるか否かは、一概に片付ける問題ではなく、議論したら延々と続くことです。
身体的には良いことかも知れません。が、霊的には必ずしも良いこととは言えません。皆さんより永い人生体験をもつ霊界の存在と言う有利な立場から申し上げれば、もっと大切なのは霊的に見て良いことかと言うことです。
・・・それは病気全般についても言えることでしょうか。
カルマが絡んでいるものに限っての話であれば、そうです。その場合は霊的治療も奏功しません。したがって角膜移植をしても視力は戻りません。
・・・しかしもしも臓器移植が許されないとすれば、手術はできなくなります。
人間には自由意思があります。操り人形ではありません。十字路で右へ曲がるか左へ曲がるかは自分で決められます。選択は自由です。もしも神が人間を操り人形にした方が良いと考えていれば、皆さんは操り人形になっていたはずです。
しかし皆さんも私が〝無限の創造活動〟と呼んでいるものに参加するだけの力を秘めているのです。が同時にそれを邪魔し、妨害し、遅らせることも出来ます。ただし変更させることはできません。
・・・医術の発達は良いとしても、肉体をつぎはぎ細工の様にいじくりまわすのは霊的な間違いを犯すことになる可能性があると言うことですね。各自に霊的な存在価値がある分けですから。
私達がお教えしたいと思っているのは、正しくそのことです身体は霊の宮であるからこそ大切なのです。いかなる形にせよその根本的な摂理を犯せば病気は発生します。その代償を支払わねばならないと言うことです。それだけは避けられません。
私は外科医の仕事そのものには反対しているわけではありません。皮膚の移植には反対しません。人を喜ばせてあげたいと言う誠意には反対しません。ただ私が置かれている立場上、全ての問題のその根底にある霊的意義と言う観点から申し上げるしかないのです。
第4章 既成宗教のどこが間違っているか-キリスト教を中心に
〝今もしナザレのイエスが地上へ戻ってきて自分の名のもとに説かれている教えを聞いたら、一体何のことだか理解できないでしょう。その多くはイエスが説いたものではないからです。後世の聖職者たちがでっち上げたものだからです〟
これは聖公会(アングリカン)の牧師がはじめて交霊会へ出席した時にシルバーバーチが語った言葉である。以下その二人の問答を皮切りに、既成宗教のそもそもの間違いは何処にあるのかを総合的に検証してみよう。まず牧師から質問する。
・・・あなたの霊訓によって随分教えられております。私は牧師ですが、ドグマと組織化された宗教と言うものに幻滅を感じております。でも私はキリスト教にもある種の良さを見出しております。そこで果たして教会内に留まって改革の仕事をすべきか、それとも教会を脱退して外部から仕事をすべきかで迷っております。
教会そのものの起源から始めましょう。他の宗教の教会に相当するもの、つまり寺院、教会堂、霊拝堂と同じく、キリスト教の教会も、その昔霊力が地上に降りたと言うことがその起源となっております。
それには聖書に言う〝しるしと驚異〟もしくは〝奇跡〟と呼ばれるものが伴っております。霊力と言うものはその時代の古びた信仰、間違ったドグマへの挑戦と言う形で届けられました。
それが霊的起源であるとの証拠は、病人を癒すこと、迷える者に導きの光を授けること、物質は殻であり霊こそ実在であるという基本原理を教えると言うことで示されたものでした。しかし残念ながら歴史をご覧になれば分かるように、そうした霊力のほとばしりも、ほんの短い期間しか続きませんでした。
そうした中で神学者と言うのが次第に勢力を持ち始め、勝手な教義をでっち上げ、それが純粋な霊性を具えていた啓示と置き換えられていきました。不毛の人間的産物が神の声を押しのけてしまったのです。
その後も〝しるしと驚異〟あるいは〝奇跡〟と信じられるものを伴った霊力のほとばしりがあり、それがまたもや人間的産物によって置き換えられると言うことが何度なく繰り返されました。
そうしたことばかりをしている教会をイエスは〝白塗りの墓〟と表現しました。霊力がすっかり抜き取られているからです。繰り返される作業によって築きあげられた壁の余りに頑強さに、崇高なる霊の力も突き通すことが出来ないのです。そのことをまず率直に申し上げねばなりません。
さて、あなたが一番良い例ですが、それまで信じてきた伝統的な信仰と真っ向から対立する霊的真理に真実性を自覚し始めた時に問題が生じます。
板挟みの状態の中でどう身を処すべきかと言うことになるのですが、あなたに限って言えば、現在の立場に留って、その世界の中であなたに耳を傾ける人を啓発していきなさいと申し上げます。スピリチュアリズムと言う用語を用いる必要はありません。
これは単なるラベルにすぎません。私達はラベルには拘りません。私達の関心は魂を解放すること、大霊の意図される生き方を可能にしてくれる自由を与えてあげることです。
地上世界の問題の大半が物質中心の考え方に起因しています。物的欲望は地上世界を毒する悪性のがんです。これは是非とも人生の基盤が霊であり、物質ではないという知識、理解、悟りによって駆逐しなければなりません。
それなら教会内でもできるはずです。導きを求めてあなたのもとを訪れる人に教えてあげることが出来ます。あなたの今の実力をもってすれば、真の自我を見出す手引きをしてあげられる立場にいらっしゃいます。人間はいつかは必ず自己革新の過程を経なければならないものです。
自分を救うのは自分でしかないのです。誰も救ってはくれないのです。その手引きをしてあげる方法は教会に置いてでも見出せることにお気づきになられます。
教会を去ってしまえば霊媒その他、スピリチュアリズム関係の人達との接触に限られてしまいます。と言うことは、スピリチュアリズムの啓蒙活動の側から言えば、同志が一人増えただけと言うことになります。その点キリスト教会に留まっていれば、伝導の使命を帯びた正式の牧師として、あなたの教会に精神的指導を求めてくる人々に手を差し伸べてあげることが出来ます。
ナザレのイエスは今なお我々のこうした仕事の背後の中心的指導者として活躍しておられます。その他にもかつて地上であなたと同じように牧師の聖衣をまとっていた人が大勢参加しております。
他界後に身に付けた知識と霊力とを携えて、地上の人類に幅広く援助の手を差し伸べる為の道具を求めております。使命感は死とともに終わるものではないのです。
神は人間に〝疑う心〟を具えつけております。真実性を確かめる為の批判的精神です。正直な批判は少しも悪いものではありません。真実を知りたいが為に疑ってかかる人を私達は大いに歓迎します。ですが、口先だけの議論や用語の詮索ばかりする人はご免こうむります。
私はいつでもどこでも援助します。悲しみや苦しみが触媒となって霊性が目覚め始めた魂を見つけ次第援助します。受け入れる用意が出来たからです。
その牧師には夫人の他にもう一人、学校で宗教教育を担当している女性が同伴していた。その女性が尋ねる・・・
・・・私はあなたの霊言集を読み続けております。その中のどこかであなたは、人格神は人間が発明したもの以外には存在しないとおっしゃっています。〝大霊とは法則です〟と述べておられるのですが、別のところでは〝未来永劫にわたって神の愛と愛の神が存在します。
皆さんが愛念を表現するごとに神が自らを顕現なさるお手伝いをしているのです〟とも述べておられます。これらの表現や他のもろもろの言い回しを拝見しておりますと、私にはあなたは神を人格を具えた存在であるかに表現しておられる印象を受けるのですが、その辺を明確にして頂けないでしょうか。
分かりました。でも、これはとても難しい問題です。なぜならば、無限なる存在を有限なる言語で定義することは事実上不可能なことだからです。大霊は人間が考える様な意味での人物的存在ではありません。人間を大きく拡大したような存在ではありません。男性でも女性でもありません。
大霊は宇宙最大の力、無限の知性、愛、慈悲、叡智、要するにありとあらゆる霊的資質の原理の総合的化身です。が、その概念をお伝えしようとすれば、どうしても人間の言語を使用せざるを得ません。もしも私が大霊のことを中性名詞で〝それ〟と呼んだら、男性名詞で〝彼〟と呼ぶよりもさらに厄介な問題が生じます。
物的世界は、他の全ての世界と同じく、絶対不変の摂理によって支配されております。その摂理は無限の過去から存在していましたし、これからも無窮の未来まで存在し続けます。予期しなかった事情が生じて改めざるをえなくなることはありません。
これまでの摂理では間に合わない新たな事態が生じると言うことも絶対にありません。その作用は完璧であり、停止することも、無効になることもありません。無限の知性によって考案されたものだからです。
生命の存在するところには必ず摂理が働いております。原因には必ず結果が生じます。種まきには刈り取りが付随します。その因果関係に干渉して、生じるべき結果を変えてしまうような力をもつ存在はありません。
地上世界のどこで何が起きようと、それも摂理のもとで生じています。突発事故も偶然の出来事もありません。大自然の摂理はありとあらゆるものを包摂しております。
こうした事実は、その背後に崇高なる知性が存在してそれが摂理を生み出し、万物の全側面と全活動を維持・管理していることの証しではないでしょうか。同時にまた、その全摂理を通じて愛が支配し、従って完全なる公正が行き亘っているのに違いないことを暗示してはいないでしょうか。
悪いことをすればそれ相当の罰が与えられるように、善いことをすればそれ相当の報いがもたらされます。
死の床での牧師による最後の儀式も、自然の摂理の働きを変えることはできません。いくら誠心誠意の祈りであっても、それだけで摂理が変えられるものではありません。いかなる教義を忠実に受け入れても、摂理を変えることはできません。
なぜならば摂理は完全な公正が行き亘るように働かねばならないからです。あなたの行為が招いた結果を代わりに背負ってあげられる人はいません。
あなたのすること考えることの一つ一つにあなた自身の責任を取らねばなりません。聖人と罪人とが同じ霊格を具える様なことはあり得ません。霊格をごまかしたり偽ったりすることはできません。そこに神の意志があり、神とはそういうものなのです。
あなたは〝人間性〟を問題にされましたが、神はあらゆる人間に内在していると言う意味では人間性があると言えます。が、神は摂理であると言う意味においては非人間的存在です。ましてや、自分を信じるものは可愛がり、信じないものは意地悪する様な、そんな恨み深い神さまではありません。
摂理によって原因と結果とがきちんと決められております。神はあなたの中に存在するのです。受胎の瞬間から神性の種子が植え付けられているのです。それに芽を出させ、花を咲かせ、豊かな実りをもたらす為のチャンスは、日常生活の中でいくらでも用意されております。
・・・全ての神がふところの中で行われている、と言う言い方は正しいでしょうか。
結構です。神はあらゆる場所に存在します。神の居ない場所と言うものは存在しません。
・・・新約聖書の中(マタイ9・17)でイエスは、古い皮袋に新しいぶどう酒は入れられないと述べております。これとあなたが説いておられることとはどう結びつけたらよろしいでしょうか。
古い皮袋に新しいぶどう酒は入れることは出来ません。古いぶどう酒を新しい皮袋に入れるのです。霊力と言うものを人間が勝手にこしらえた信仰に合わせて働かせることはできません。霊的真理を自分の信仰の型にはめ込むことは出来ません。
いかなる信仰も、いかなる教義も、いかなる名句も、自分がこれは真実ではあり得ないと確信したものは、いかに古くから伝えられているものであっても、拒絶なさらないといけません。
イエスはよく寓話を用いました。が、言わんとしていることはきわめて明瞭です。もしもあなたが霊力の存在を自覚していらっしゃるのなら、もしも霊的真理を確信していらっしゃるのなら、それと食い違う教説は一切説いてはなりません。ただそれだけのことです。
例えば、先ほど大霊について質問がありましたが、大霊とは、どこかで説かれているような三位一体などと言うものではありません。大霊が全てであり、いずこにでも存在します。宇宙の全生命を包摂しております。
もしも神とは三つの部分に分けられると信じているとしたら、その信仰は間違いです。それに、そう信じたからと言っていったいどうなると言うのでしょう。神とは一にして三、三にして一であると信じたら、何か霊的に救われることでもあるのでしょうか。
・・・(最初に質問した牧師)私には何のことだか分けが分かりません。
私にも分かりません。あなたはあなたに啓示された真理に忠誠を尽くすことです。信じられる筈のないものを信じようとするのは、あなたの知性の信用にかかわります。また、あなたの魂の成長にとってプラスにはなりません。
※※
別の日の交霊会に同じく〝国教会の不満分子〟の一人が夫人とともに招待され〝妻とともに生涯忘れ難い夕べ〟を体験した。まずシルバーバーチが歓迎の言葉を述べる・・・・・・。
あなたが私の説く真理のいくつかをご存じであることはよく承知しております。あなたなりの厳しい自己批判と精神的苦悶の末に、過去の教条と教説に背を向けられ、これこそ人生に光明をもたらしてくれると信じる霊的真理を手にされました。
本当を言えばあなたと同じ立場にある他の聖職者たちも、あなたと同じように霊の力とその崇高な真理を手にしてほしいのですが、それが思うに任せないのが残念です。本来ならばその霊力の守衛であり、大霊の大使であり、特使であるべき人達が石の壁を張り巡らして、霊力も真理も突き通せなくしてしまっている光景は、見るも悲しいことです。
当然の結果として教会は冷たく荒涼として、生命力に欠けた不毛の場と化しております。生気あふれる霊力の顕現がそこにないからです。その点あなたは、悲痛な思いを経たうえでのことではりましたが、真理の存在を知ることになりました。それはこれからも引き続き光輝溢れる光を放ち、あなたの辿るべき道を照らしてくれることでしょう。
・・・私どもは大霊があなたの様な高級界の霊を通して語りかけて下さっていると理解しておりますが、人間の歴史を通じて、かつて大霊が霊を経ないで直接語りかけたことがあるのでしょうか。
大霊は個的存在ではありません。大霊は個性を超越した存在です。摂理、愛、叡智、真理の粋(エッセンス)です。巨大な宇宙で休みなく作用している無限の知性です。
それは数限りない自然現象の中に見ることが出来ます。その子等が英雄的行為、滅私の行為、慈悲の行為を通じて、自分より恵まれない人の為に尽くす時、その愛の表現の中にも見ることが出来ます。
又、病の人を癒し、喪中の人を慰め、意気消沈した人を元気づけてあげる時の霊力の流れの中にも見ることが出来ます。
一個の男性あるいは女性として出現することはできません。個々の人間に宿る神性の発現と言う形で、部分的に顕現されることはあり得るわけです。
・・・私たちから大霊に直接語りかけることは出来るのでしょうか。もしできるとしたら、それは私達自身に内在する神性のことでしょうか。
あなたは大霊であり、大霊はあなたなのです。その種類は本質でもなく、顕現の度合いにすぎません。大霊は完全の極致です。あなたはそれに向っての努力を限りなく続けるわけです。従って大霊は内部と外部の双方に存在するわけです。
あなたが愛、寛容心、慈悲、哀れみ、仁と言った神性を発揮すれば、その時あなたは大霊と通じ合っていることになります。何故ならあなたを通じて大霊が表現されているからです。
一方、大霊には無数のメッセンジャー、無数のチャンネルがあります。神意をいきわたらせることを任務とした高級霊の一大組織が張り巡らされております。ですから、もしもあなたが大霊に向かって語りかければ、黙って念じるだけでも、精神統一でも、あるいは声に出して祈ることによってでも、
あなたの意志が大霊に届けられます。声に出すと言うことはよいことです。念じるだけではとかく乱れやすい思念を明確にまとめ、具象化することになるからです。
しかし、声に出す出さないに関係なく、衷心からの切望は大霊に知られると同時に、神意の行政をつかさどる人にある高級霊に届きます。
・・・あなたは霊界でイエスにお会いになったことがありますか。
あります。何度もお会いしております。このことはこのサークルの皆さんにはすでにお話してあります。定期的にクリスマス(冬至)とイースター(夏至)の二度、この地上から引き揚げて、そのイエスが主催される大集会に参列する際に拝謁しております。
今イエスは二千年前に自身が身をもって示しながら、その信奉者をもって任ずる人々によって台無しにされてしまった霊的真理の普及に携わっておられます。
その働きによって二千年前にイエスを通じて顕現したのと同じ霊力による現象(心霊現象及び病気治療)を伴って、その霊的真理が地上に蘇りつつあります。
イエスにとって、またその輩下の神霊にとって、地上の宗教界の指導的立場にある者が基本的な真理について救いようのないほど無知である様子を見ることほど嘆かわしい思いをさせられるものはありません。
あなたは光明を見出されました。そのことを大いに喜ぶべきことです。そして、ここまであなたを導き、間違いない道標を提供してくれた霊力と同じものが、これからも引き続き導いてくれることを信じて下さい。これまでも決して楽な道ではありませんでした。使命を担ったものに楽な道はないのです。
もしも使命を担った者が降りかかる困難を克服できないとしたら、地上の寄生虫的営利第一主義に対抗して霊界から挑んでいるこの霊的大戦の将校としては失敗であることになります。
皆さんの心に温もりと愛とをもたらしてくれた真理、そしてまた、失ったと思っていたのが再び見つかり、さらにここまで導いてくれた愛を、神に感謝しなくてはなりません。
喜んでください。皆さんはバイブル(マタイ6・19)に言う〝虫が食い錆がつく〟ことのない宝を手にされたのです。清澄で光輝に溢れ、永遠に曇ることがなく、決してあなた方の手から離れることはありません。何故なら、苦難の末に手にされたものだからです。
※※
米国から訪れた二人の聖職者―うち一人はキャノン(功績のあった牧師に贈られる名誉称号)・・・に対してシルバーバーチが次の様な歓迎の言葉を述べた・・・
お二人は立派なお仕事をなさっておられます。容易なことではありませんが、今日の米国を広く支配している闇黒を霊の光によって駆逐し、黄金の子牛(富の象徴)に代わって霊的真理を崇拝の対象とするように導くことが是非とも必要です。
なぜ必要か。それは、無数の魂がいずこへ向かうべきかも分からずに絶望の淵を彷徨っているからです。
言いにくいことを敢えて言わせて頂きますが、残念ながら今の米国には、そうした危機的状態にある人達の力となり霊的・精神的・物的自由をもたらしてあげられる牧師は何百人、多分何千人もいないのではないでしょうか。
お二人はいまその仕事に携わっておられるわけです。もともと霊的真理の啓示の場として設立された教会が、人間のこしらえた障害物(教義・経典)の為に霊力の働かない場所となってしまっていることは悲しいことです。
また、霊的問題の指導者、教師、人間の模範であるべき牧師が肝心の霊的基本真理について何一つ知らず、あまつさえ今の時代でも手にすることのできる神のインスピレーションよりも人間の勝手な産物である教義の方を後生大事にしているのも情けないことです。
こんな手厳しいことを私は決して非難するつもりで申し上げているのではありません。あるがままの事実を申し上げ、それが残念であることを指摘しているまでです。
しかし霊的光明はそうした障害を突破して、今や地上に根付いております。これ以後もますます増えていく人間的チャンネル(霊媒・霊能者・心霊治療家)を通じて霊力が流入し続けることでしょう。神の証人は今の時代にも大勢いること、全ての人間が神の恩恵に浴することが出来ることを立証していくことでしょう。
その為には先ず日常生活を、それを受け取るに相応しいものに整えなければならないことも思い知らされていくことでしょう。困難、死別、病苦を体験して初めて、魂にその素地が出来上がるのです。
神学上の教義やドグマの解釈について討論し合うことに生き甲斐を覚える様な人種を相手に、あなたの貴重な時間を浪費してはいけません。何の価値もないことですし、霊性を一欠片たりとも伸ばすことには成りません。不毛で無意味です。
そういう人たちよりも、すでに受け入れる用意の出来た人との出会いを待つことです。そして、そういう人を何時でも受け入れてあげられる準備をしておくことです。いつでもどこでも、真理を説く用意をしておくことが大切です。その上で、もしも拒絶されたら、せっかくのチャンスを目の前にしながらそれを手にすることが出来なかった人を気の毒に思ってあげるがよろしい。
神の摂理は完璧ですから、地上の人間が一人の例外もなく、生涯に一度は必ず真の自分を見出すチャンスに巡り合えるように配慮されております。魂が揺さぶられて神性の火花が炎と燃え上がり、内在する霊の豊かさ、威厳、美しさ、壮大さ、高貴さ、崇高さをいくらでも発揮することが出来ます。
そのチャンスは全ての人に訪れます。そういう人の内たった一人でもあなたが手助けをしてあげることになれば、それは掛けがいのない価値をもつことになります。
霊界には地上の様々な状態・・・動乱、混とん、暴力、破壊、強欲、大欲、嫉妬、要するに人類全体にはびこっている物的優先の産物の処理に深くかかわっている霊団が存在します。宇宙の大経綸組織の一部を担っている霊団です。
人間が真の自我に目覚め、自分とは何なのか、何故この地上に存在しているのか、この地上を天国のような住処にする上で何を為し得るのかを自覚するには、まずそうした物欲優先の産物を根絶しなければなりません。
全ての人間が霊的光明のもとで生きるようになれば、必ずや地上天国が実現するように意図されているのです。
お二人はそれを実現するという壮大な目的の為に貢献する、測り知れない光栄に浴しておられます。そこまで導かれてきたわけです。どんなに辛い思いをしている時でも、どんなにうんざりする思いをさせられている時でも、決して孤独ではないと言うことを忘れてはなりません。
霊の光が常にあなた方の足元を照らし、霊の愛がいついかなる時もあなた方を包み込んでおります。
何度も申し上げていることですが、人の為に役たつことをする人は気高いことです。同胞の為に尽くすことによって、共通の親である大霊の役に立つということほど気高い貢献はありません。これに勝る宗教はありません。
形式を守り、教義に盲従すると言うだけの宗教では何の価値もありません。神の宗教とは自ら世に出て、少しでも住みよい環境にするような行為を心掛けることです。
自分を取り囲む事情が険しくなってきた時・・・闇黒が低く垂れこめ、稲妻が走り、雷鳴が轟き始めた時は、心を静かにして、これまで自分を導いてきた力はきっとこれからも導き続けて、次に進むべき道を示してくれる筈だと言う確信をもつことです。
力強く前進なさい。最善を尽くすことです。それ以上のものは人間に求められていません。しくじった時は立ち直ればよろしい。しくじると言うことは立ち直れることを意味します。皆さんは不完全な世の中の不完全な存在である以上、必ず失敗を犯します。完全へ向けて巡礼の旅は永遠に続くのです。これまでに啓示された真理に感謝しなくてはいけません。
※※
別の日の交霊会でサークルのメンバーが質問した・・・
・・・こうした霊的真理に目覚めた宗教界の指導者は、それまで抱いてきた宗教観を棄て去るべきでしょうか。
各人各個の責任と言うことが絶対的原理の一つです。各自が自分の行為に責任を持つということです。真理をごまかすことはできません。理解の芽生えとともに良心の声が次にとるべき行為を指示します。
その指示を素直に受け止め、なるほどと納得がいったら、何をおいてもその指示に従わなければなりません。それが原理です。その原理を無視している人達を個人的に私が非難することは控えたいと思います。私がそのようなことをするのは適当ではないからです。
・・・非難するのは間違いですが、とるべき態度を説くのは許されるのでないでしょうか。
あなた方の為すべきことは、何時どこにおいても真理を説くと言うことです。人との出会いがそれを目的としている(背後霊によって導かれている)場合があります。
あなたもあなたにとって必要な時にそうした出会いによって救われたのです。そこに摂理の働きがあり、真理はそうした形で広められていくものなのです。
それから後のことは、もうあなたの責任ではありません。地上の人間は一人一人がみな異なった進化と発達の段階を歩んでいるのです。全ての者にアピールするたった一つの真理と言うものはないのです。したがって、こと霊的な問題に関する限り〝集団改心〟と言うことはあり得ないのです。
〝風は思いのままに吹く〟(ヨハネ3・8)と申します。霊力はそれを受け入れてくれるところへ浸透していきます。パン種が絶え間なく働いているのです。各自が各自の成長と進化の段階に応じてその真理の意味するところを理解し、そしてそこから次の段階へと進むほかありません。
大切なのは真理がその人の自我に居場所を見出すと言うことです。前にも申した通り、霊的なつながりは、いったん出来上ったら二度と切れることはありません。それをこしらえることが、霊力が地上へ顕現していく為のチャンネル、つまり通路をこしらえることになるのです。
自分が理解した限りの真理・・・あなた方はもとより私自身もまだそのすべてを理解した分けではありません・・・に照らして行動する以外に道はありません。それ以上のことそれ以下のことも求められることはありません。何度も申し上げておりますように、自分としてのベストを尽くすことです。
それ以上のことが出来るわけはありませんし、またそれ以下のことをすべきではありません。
あなた方が真理を広め、間違いと迷信と無知とを駆逐する為に行う努力の一つ一つに、霊界からの祝福と援助があります。私達がこうして地上へ戻ってきた目的もそこにあります。
それにつけても情けなく思うのは、本来ならば霊的な問題について最も多く知っていなければならないはずの聖職者が、一番無知であることです。
現在の地上世界の既成宗教の全てが委縮し、霊的啓示の根源から余りに遠ざかりすぎて、それを最初に受け止めた霊覚者の教えと、その後継者たちによってゆがめられた教説との間の見分けがほとんどつけられなくなっている現実は、大いに反省すべきであると思います。
私の様な者がこうして地上へ戻ってきて、霊的な教訓、霊的な哲理、霊的な倫理を説き、宗教がその基盤とすべき真実の原理を述べるよう要請されることになったのも、地上の既成宗教その本来の機能を失い、道を求めて訪れる人に神の導きを与えることが出来なくなってしまったことが大きな理由の一つなのです。
そもそもそうした宗教の誕生の基盤となったのが霊力であったのに、選りによってその宗教が作り上げた建造物の中が一番霊力がお留守になっていると言うのは何とも皮肉なことです。
しかもその組織のリーダー達は、他の面(社会奉仕のこと)では殊勝な心掛けの人達かもしれませんが、肝心な霊力に対する受容力に欠け、それを見る目も聞く耳も語る口も持ち合わせなくなっております。
その無知ゆえに今の時代でも聖霊の働きかけがあることを認めようとしません。歴史に語られている大きな事象を起こしたのと同じ霊力が今日でも働きかけているのです。
その点あなた方は光栄にもその強大な霊力の保管者であり頒布者でいらっしゃいます。為政者の無知と盲目ゆえに危機に陥り、今なおその危機から脱しきれずにいる地上世界の為に大切な貢献をしていらっしゃいます。
あなた方のように真理に目覚めた方は世界中に大勢いますが、そういう人の為すべきことは、自分が受けた影響力をさらに他の人々へ広げていくことです。それによって更に大勢の人が自分とはいったい誰なのか、何者なのか、何故この地上に存在しているのかを知り、その目的を成就するには何を為すべきかを理解していくことでしょう。
悲しいことですが今の地上世界には、まるで暗い土中に住むモグラの様に、人生について生きる力の始原について、その目的について何一つ理解せず、生命の持つ物的、精神的・霊的な喜びを味わう術を知らない人が無数に存在します。
・・・(招待された科学者)科学者としてのこれまでの人生は悩みの連続でした。その第一は神の概念で、スピリチュアリズムを知ってからは、あなたが〝大霊〟と呼んでおられるものを信じておりますが、それまではキリスト教の神の概念が受け入れられなくて私なりの概念を抱いておりました。
それは、神とは広い意味での大自然の法則と同一視できる存在であり、キリスト教で説かれているような個体性をもつ存在ではないと言うことです。如何でしょうか。
まず、真実からほど遠いキリスト教の概念から始めてみましょう。ここですぐに問題となるのは、有限の言語では無限なるものは表現出来ないと言うことです。ゴット、神、あるいは私の言う大霊は永遠の存在であり、始めもなく終わりもなく、無窮の過去から存在し、これからの永遠に存在し続けます。
霊ないし生命力も同じように永遠の存在であり、始めもなく終わりもありません。かくして神、生命、霊、こうしたものは常時存在しているもので、時間的にいつから発生したと言う性質のものではないと言うことです。
限りある存在であるあなた方人間には全体を把握すると言うことは不可能ですから、宇宙の背後の壮大な力は、限られた形でしか想像できないことになります。
今あなたは神を大自然の法則と同一視しているとおっしゃいました。しかし神は大自然の法則よりもっと大きい存在です。何故なら、その法則を支配しているのが神だからです。神とはその自然法則と同時にそれが作動する仕組みもこしらえた無限なる知性です。
残念ながら地上の大部分の人間にとって、神はどうしても人間に似た存在とならざるを得ません。個的形態を具えていない存在と言うものが想像できないのです。しかし神は、あなた方が想像する様な個的存在ではありません。あなた方が存在する様な人物的存在ではありません。
神とは非人間的存在でありながら同時に人間性の全てを表現する存在です。これはあなた方には理解できないでしょう。神は全ての生命の中に宿っています。その生命が人間と言う形で個別性をもつことによって、神は森羅万象を支配する法則としてだけでなく、個性をもつ存在として顕現したことになります。
ですから神を一個の存在としてではなく、無限の知性と叡智と真理を具えた実在そのもの、人間の想像しうる限りの神性の総合的統一体と考えて下さい。それは男性でもあり、女性でもあり、個性と言うものを超越しながら同時にあらゆる個性の中に内在しているものです。
神は万物の内側にも外側にも存在しています。神から離れて誰一人存在出来ません。神から切り離されると言うことがあり得ないのです。あなたの中にも存在しますし、雨にも太陽にも花にも野菜にも動物にも、その他いかなる小さいものでも、存在を有する限りは全てのものに宿っているのです。
私が大霊と呼んでいるこの神の概念を伝えるのは至難の業です。あらゆるものを支配し、あらゆるものから離れず、存在するものすべてに内在している崇高な力です。
・・・(もう一人のゲスト)が完全な叡智と知性と愛を具えた不変的な霊であり、全生命を支配し、しかも人間を自分に似せて創造したのであれば、なぜ人間が不完全なのでしょうか。
それはミクロとマクロの問題です。人間は神の完全性の要素をミクロの状態で内蔵しております。人間はそれを発現させ完成させなくてはならないのです。それは無限の時間を要する過程です。
別にむずかしい問題ではありません。人間的精神と霊と身体とが完成された状態で創造されたわけではありません。が、内部に神性と言う完全性の火花が宿されております。その火花を大きな炎に燃え上がらせるために、人生を自然の摂理に順応させるのが人間の務めなのです。
地上の人間が厄介なのは、自分で勝手な神を想像することです。人間的存在として想像する場合でも、女性ではなく男性として想像します。男性である方が女性であるより優れているかに信じているわけです。
神は人間を霊的にご自分に似せて創造されたのです。生命は霊であり霊は生命です。霊的に似せて創造された以上、あなたは永遠に神とつながっており、神性を共有しているのです。
と言うことは必然的に人間は霊的大家族の一員であることになります。同じ神性が宿っているからです。ですから人間は霊的に神に似ているのであり、姿が似ていると言うのではありません。
地上世界を一気に変革することはできません。人々を変えるのも容易ではありません。が、自分を変えることは今すぐからでも始められます。何時何処にいても人の為を心掛けるのです。
力になってあげるのです。自分が教わったものを分けてあげるのです。もしもそれが受け入れられれば喜び、拒否されればその人の思う道を行かせてあげればよろしい。あなたが導いてあげるべき人が次々とあなたのもとに案内して来られるのです。
神は愛と知性をもってこしらえその霊力によって活力を与えている地上世界から分離して存在することはできません。
・・・神は地上世界の人間にはほとほと手を焼いておられることでしょう。
それは今に始まった話ではありません。太古からずっとそうです。しかし、我慢の大切さを説いている私達は、それを自ら実行しなければなりません。もしも皆さんに対する愛がなければ、わざわざこれほど暗い世界へ戻ってくるようなことは致しません。
同時に又、地上に救いの手を差し伸べるべき時期が到来したからこそでもあります。つまり私達の援助を受け入れる準備ができた人がいると言うことです。ただ悲しいかな、魂が目を覚まし真の活動を開始するようになるまでには、霊的絶望の淵を体験しなければならないことがよくあるものです。
霊の光は、これからも媒体のあるところならどこでも照らし続けます。場所によってはほのかな明かり程度に過ぎないこともあります。が、神性を帯びたものであるからには完全に消えてしまうようなことは絶対にありません。
自然の摂理はあなた方の地球だけでなく、あるいは銀河系宇宙だけでなく、全宇宙を支配し経綸しております。神はその無限の叡智をもって全宇宙のすみずみまで配剤してくださっています。心配してはいけません。心配は何の役にも立ちません。そして、少しも事態を改善する事にはなりません。
・・・イエスは何回も再生を繰り返しながら進化した一個の人間だったのでしょうか。それとも地球の創造以前から存在していたのでしょうか。
私に言えることは、イエスを通して発現した霊力は、今日の地上の全ての人間を通して発現している霊力と本質的に置いて全く同じものだと言うことだけです。程度の差、霊的進化の違いはあっても、霊の本質に置いて何の違いもありません。
霊は全て同じです。それが永い年月に多くの個的存在を通して様々な形で再生を繰り返すことはあり得ることです。
・・・祈りの効用について説明してください。
知識の領域を少しでも広めようとする努力、病める人を一人でも多く治してあげたいと思う心、死別の悲しみに暮れる人をもっと慰めてあげたいと言う気持ち、人生に疲れた人があなたと言う灯台を見つけられるように一生の輝きを増したいと言う願い、
いずれも私達が携わっている仕事なのですが・・・こうした真摯な祈りが何の反応もなく見過ごされることは絶対にありません。
あなた方は一人ぼっちではないのです。大軍の一員なのです。我々の背後、見えざる次元には、多分あなたには想像も出来ないほど進化した霊の大集団が控えているのです。あなたも私も、そして私達と志を同じくする者は、何時でもその援助を授かることが出来るのです。
唯一の制約条件は、それを受け入れ吸収する能力です。霊的資質を培うほど、それだけ多くの美しさと輝きと壮大さと高潔さと光沢を身につけることになります。それが魂を刺戟して、地上への誕生とともに賜った遺産である内部の神性をますます発現したいと願う気持ちにさせるのです。
うなだれてはいけません。教会や礼拝堂や寺院よりも、あなたの方がはるかに大きな仕事が出来るのです。皆さんは霊力を発揮することが出来ます。そういう建造物にはそれが出来ません。逆に霊の出口を閉じ、外へ出られなくしている不毛の神学の方を後生大事にしております。
・・・(サークルのメンバー)祈りの対象は自然の摂理であるべきでしょうか。
いえ対象は内にも外にも存在する大霊であるべきです。その大いなる霊力とのより緊密な関係を築くべく、先ほど述べたような真摯な願望と精神統一を通して努力すべきです。より多くの啓示、より多くの知識、より多くの叡智、より深い理解を求めての祈りであるべきです。
そうした祈りは必ず聞き届けられます。何故なら、それを祈願すると言うその事実が、内部の神性の発現を促しているからです。
・・・あることで霊界からの働きかけがあったことを確信することがあるのですが、こちらから別に祈ったわけではありません。どうやって我々の必要性に気付いてくれるのでしょうか。
真摯な祈りは必ずその標的を見出します。皆さんが心から祈る時・・・〝祈る〟のであって何かを〝欲しがる〟のではありません・・・その祈りの念は必ず聞き届けられます。霊視能力をお持ちの方であれば、皆さんの周囲に何らかの絆、親近感、及び特殊な分野での共通の奉仕的精神をもつ霊が何時も待機しているのが分かります。祈りの念がその霊をいっそう身近なものにするのです。
磁気力にも似た吸引力の法則が働くのです。祈ることによって霊がそれに応えて働きかける懸け橋が出来あがるのです。私が何時も取り越し苦労はお止めなさいと申し上げるのはその為です。心配の念はその人の周囲の物的ならびに霊的雰囲気を乱し、私達による援助が届けにくくなるのです。
・・・霊の方では人間が神のお助けを祈るまで待つのでしょうか。それとも祈る祈らないに関係なく、放っておくべき時は放っておき、援助すべき時は援助するのでしょうか。
大自然の摂理は完璧ですから、その機構の中にあって誰一人、何一つ忘れ去られることはあり得ないのです。全ての存在を包摂するように完全な摂理が行きわたっているのです。何一つ、誰一人その外にはみ出ているものはありません。
あなたが神に見落とされると言うことはあり得ないのです。何処にいても神の管理下にあり、全てを包摂する自然の摂理の活動範囲の中にあります。
と言うことは、あなたに必要なものは全て知れていると言うことです。祈ることによって受ける援助は、その時点まで到達した精神的ならびに霊的発達段階に応じたものとなっております。
ただ祈り方についてこちらから注文させて頂くとすれば、黙とうより声に出した方が、その人が本当に目指しているものは何かが明確になるという利点があります。
・・・祈るどころではなくて絶望のどん底に沈んでいるような人はどうなるのでしょうか。神なんかいるものかと思っている場合は援助は届けられないのでしょうか。
人間が神なんかいるものかと思ったからとて、別にどうということはありません。それが神を困らせることはありません。
・・・そういう人にも救いの手は差しのべられるのでしょうか。いろいろな事情から祈ることが出来ない人、あるいは神が信じられない人がいるとします。そしてその人が今苦しい境遇にあり、救いの手を必要としています。こう言う場合はどうなりますか。
援助を受ける能力は神の存在を信じる信じないに関係ありません。その段階での精神的ならびに霊的発達程度によります。それが受け入れるものの中味を決定します。それが最もふさわしいと言うことです。それも原因と結果の関係であり、自然のきまりです。
・・・聖書には多くの真理が語られているのでしょうか。
神の真理と人間の作り話の混ぜ物です。
・・・宗教心をもった人に死後の生命の話を持ち出すと、すぐに聖書から〝死者と語ってはならない〟という文章を引用します。このことをどう思われますか。
二つの要素が重なっております。聖書は永い間に随分いじくりまわされてきました。誤訳があり、脱落があり、それに元来がコピーのコピーその又コピーであると言うことです。誰一人として、原典を持ち出して〝これが聖書の始まりです〟と言える人はいません。
聖書の中には〝この言葉は本物です〟と言えるものは一つもありません。聖書に述べられていることが神の許可を得たものであると言う証拠は何処にもないのです。
身の毛もよだつような話があります。特に旧約聖書がそうです。ペテン、極悪非道、殺人、暴力など、誰が考えてもおよそ神の啓示とは思えない話が沢山あります。
旧約聖書がもし本当のことを述べているとすると、神(ゴット)私の言う大霊は、地上の悪の権化のような暴君でもしそうにない振る舞いをすることがあることになります。ですから、聖書に述べられているからと言って、それだけで正しいと言うことにはならないのです。
もしも正しいと主張をするなら一点の疑問の余地もないまでそれを証明しないといけません。
聖書を絶対とする信仰家に申し上げたいのは、もしも本当に死者と語ってはならないと言うのであれば、ではなぜイエスと三人の弟子が山頂で行った交霊の場に、モーゼとエリヤが出現して語りかけたかということです。モーゼとエリヤはとっくの昔に死んでいるのです。
そのうちのモーゼが“〝死者と語るべからず〟と述べたと言うのですが、そのモーゼ自身が死者であり、それが地上に戻ってきて語っているではありませんか。これは信仰厚き者には困ったことであるに相違ありません。
・・・(質問者が変わる)妻と私の間に子供が出来た場合、宗教問題についてその子にどう教えたらよろしいでしょうか。特に私の場合はキリスト教信仰に全面的には納得していませんし、スピリチュアリズムの真実性を理解しております。
思っているほど難しい問題ではありません。親としてのあなたの責任、その子が自然な成長を遂げるようにして上げることです。幼少期は精神が柔軟な為に、教え込まれたものは思慮分別なしに吸収してしまいます。そういう時期に間違ったことを教えないように、正しい宗教的知識の中で個性を発揮させることが大切です。
ご承知のように幼少期に受け入れたものは潜在意識の中に固着し蓄積して、その後の真理の受け入れの障害となります。私達が人間に真理を教え込もうとする際に一番困るのは、幼少期に受けた間違った教育が無意識のうちに抵抗させる働きをすることです。すっかり根づいてしまっている為に、それを排除するのに大変な時間がかかります。
また時折あるのが一種のカタルシス的反応です。つまり成人してから、それまでに蓄積したものを良いものも悪いものも一切投げ棄てて、世の中の全てのものへの反抗することに快楽を覚えるようになります。
親としてのあなたの責任は、子供の心に間違った教えを植え付けないようにすることです。どうか子供には全ての宗教の基本となっている真理、共通した真理を教え、大きくなって神学的教義を教えられても魅力を感じず、単純、素朴な真理を求めるようになる、そういう素地をこしらえてあげて下さい。
・・・すでに何らかの宗教を教え込まれて育っている人がいます。その教えがもし新しいものの理解を妨げている時は、それをぶち壊すべきでしょうか。
それは難しいでしょう。不幸なことに、そういう人は既に子供時代にいわゆる洗脳されています。これこそ宗教であると信じられている概念を・・・実はそうではなく、ただの神学的上の概念にすぎないのですが・・・疑うことを知らない、従って全く無抵抗の柔軟な精神が、成人していくにつれて固くなっていきます。
やがてその概念はただの概念として所有されている状態から、逆にその人間をがんじがらめに縛り付けるようになります。
だから厄介なのです。と言って、その人が後生大事にしているものをいきなりぶち壊すようなことをしてはなりません。それ以外にもいろいろな宗教的概念があることを教えてあげることです。
宗教の起源については読むべき本が沢山あります。キリスト教徒も、ユダヤ教徒も、仏教徒も、あるいはイスラム教徒も、生まれる国が違っていたら別の宗教の信徒になっていた可能性があることを教えてあげることです。
地上には数えきれないほどの宗教があります。しかし神は一つ、大霊は一つなのです。その神はクリスチャンでもなければユダヤ教徒でもありません。スピリチュアリストでもありません。
真の意味で宗教的であると言うことは、同胞に対してだけでなく動物に対しても思いやりの心をもつことです。他の存在を思いやる心が無いようでは霊性を欠くことになります。
霊能者や心霊治療家が人生の辛酸をなめさせられることが多いその理由の一つは、自ら苦しんで初めて他人への思いやりの心が芽生えるからです。神の道具としての道が常に酷しく、楽をさせてもらえないのは、そこに理由があります。
・・・政治をあずかる人も同じですね。
でも神の道具の方が酷しいでしょう。為政者と言うのは、たとえば他国へ戦争を仕掛けておいて、実際に前線で戦うのは一等兵、二等兵ばかりです。物質偏重思想との戦いにおいても、その最前線で酷しい目にあっているのは為政者ではなくて神の道具なのです。
他人へは哀れみをもって接し、信仰が間違っているからと言ってそれをぶち壊すのではなく、他にもいろいろな信仰があることを教えてあげることです。ハンマーを振り回すのではなく、他にも素晴らしい教えがあることをそれとなく気付かせる手段を考えて下さい。
魂に受け入れる用意が出来ていれば、それが功を奏するでしょう。用意が出来ていなければ、残念ながらその人は霊的にも精神的にも地上では暗闇の中を歩む運命であり、霊界へ来てからも当分は同じ状態が続くことになります。
・・・世界の宗教を統一しようとする運動をどう思われますか。
そうやってまた混乱に混乱を重ねていくのです。一体それがそんなに大事なことなのでしょうか。当時者は自分たちのことを大そう重要な人物と考えているかもしれませんが、霊の力も発揮されないただの建造物では、イエスの言った通り、それは〝白塗りの墓〟でしかありません。
私は儀式や教義が違うからと言うだけで共通の場が持てずにいる人達のことは、あまり構う必要はないと思います。霊は常に一体化の方向へ働きます。仲違いをさせているのは人間の勝手な思想です。霊は、チャンスさえ与えられれば、その統合的意思を働かせるものです。
本来ならば一つの大きな流れであるべきはずのそうした宗教を誕生させた、そもそもの起源が霊力であったことは歴史的事実です。が、それが何世紀も前から支流に分かれてしまいました。もう、そのまま好きな方向へ進むに任せておけばよろしい。
私達は霊力そのものに全幅の信頼を置き、それを唯一の拠り所としております。それが善意の人々を鼓舞し、授かっている才能を駆使して同胞の為に役立たせるように導きます。また、人類に自己革新の道を教えることによって、各自が自分のみならず地上世界そのものを救っていくことになるでしょう。
霊力は建造物を通して流れるのではありません。一般の大衆が、無限の叡智を具えた神から授かった才能を発揮することによって流入するのです。真の自由をもたらし、本当の生き方を教えてくれるのは、その才能の活用以外にはありません。
・・・(質問者代わる)あなたのおっしゃる〝宗教的寛容〟とはどういうものなのでしょうか。と申しますのは、私は〝シルバーバーチの訓え〟と言っても基本的には他の宗教で説かれているものと同じだと信じます。が、それすら独善的で非寛容的であるとみなされる可能性があるのではないかと思うのです。例えば宇宙は自然法則によって支配されていてそれは完全であり、不可変である、と言った事です。
私はこれまで一度たりとも不可謬性(絶対に間違ったことは言わないこと)を主張したことは御座いません。私もあなたと同じく一個の人間的存在です。ただあなた方の理性に訴えるべき真理を説いているだけです。私はこうだと申し上げても、その裏にはそれを拒否したら罰が当たりますという含みは微塵もありません。
これが私が真理だと信じているものです。と言うことしか言えません。それを皆さんに検討して頂く為に提供しているだけです。仮にそれを押し付けて何が何でも受け入れさせようとしても、私達にはその手立てがないのです。
いかなる霊媒であろうと、その霊媒を通して語られたことにあなたの理性が反感を覚えたら、それには構わぬ方がよろしい。神はあなた方には理性と良識と言うものを与えておられます。それを使用すべきです。ドグマと言うのは理性的判断なしに受け入れるべきもののことです。
私は、霊的な教えは知性でもって厳しく是非を判断すべきであると申し上げております。その厳しい詮索に耐えられるものは受け入れられるがよろしい。耐えられなければ拒否なさるがよろしい。それ以外に何か良い方法があるでしょうか。ご利益でしょうか、それとも罰でしょうか。
それはいけません。私達は愛と良識によって共通の場で交われることを確認することによって、皆さんの協力を得なければなりません。
※※
同じ問題について別の交霊会で・・・
皆さんとともに携わっている仕事の大変な重大性を見過ごさないようにしてください。永年にわたって幾億と知れぬ人々の心を束縛と隷属の状態に置いてきた迷信を駆逐しなければなりません。
人間は本来ならば肉体と精神と霊の調和がもたらす、のびのびとした喜びの中で生活すべきなのです。霊的真理を知ることによって本当に自分とは誰なのか、何なのか、いずこへ向かいつつあるのかを理解し、心の豊かさを味わうことが出来る筈なのです。それがその迷信の為にほとんど不可能な状態になっているのです。
その仕事は、皆さんに辛酸をなめさせることになります。しかし困難は薬なのです。私達霊の者も、こうして地上との接触が得られるようになるまでには大変な苦労がありました。
世界各地でそうした努力が為され、そして成功しております。今では世界中に霊の光が灯されております。霊力が届けられていない国はもはや一国もありません。
霊力の道具は往々にして隠密裏に仕事をしなければならないことがありますが、仕事は着実に運ばれてまいりました。その真実性に否定の余地がないからです。
そういう次第で、困難と言うのは霊の心の資質、神から授かった才能を発揮させる為の挑戦として歓迎なさることです。皆さんの内部には地上最大の力が潜在的に宿っているのです。
いかなるハンディキャップも、いかなる障害も、いかなる困難も、その潜在力で克服できないものはありません。もしもそれまでに開発したものでは敵わないほどのものであれば、祈ることによって、さらに強力な援助を要請することが出来ます。
※※
宗教の教義の問題が取りあげられ、それがただの人間的産物であり、人間性の霊的向上にとって何の益もないのに、そのツケは結局霊界へ回されてくる事実を指摘して・・・
地上の大半の人間が生命とは目に見え手に触れるものにあると考えております。その当然の結果として、人生には深い目的などはないと信じています。
それに加えて不幸なことは、肝心の霊的・精神的指導者たるべき人達が、これまた、霊的実在について無知なのです。その証を見たことも聞いたこともなく、従って人に説くことも出来ないのです。今日では宗教とは教義のことであると思われており、それが後生大事にされている為に、肝心の霊力が働く余地がないのです。
教義と言うのは人間の考えによって作りあげられたものです。霊力は大霊から発せられますから、神性を帯びております。ですから本来は霊力による啓示の方が教義に優先されるべきなのです。
現代の地上世界には義務教育を行う国が沢山あります。子供たちは一つの目的つまり学校を出た後の社会生活に適応できるような教育を実施する為のカリキュラムの中で学習する為に学校へ通います。
それを首尾よく学んだ子は、大人になって必ず直面する問題を、ある程度の理解をもって迎えることが出来ます。きちんと学ばなかった子は卒業後の人生に備えが出来ていません。
あなたの地上生活は霊の幼稚園の様なものと思えばよろしい、真の自我である霊が私達の世界つまり霊界での生活に備える為に、この地上で学習するのです。
しかし現実には、あまりに多くの人間が何の備えもなくやって参ります。その為、こちらで改めて教育しなければなりません。地上でも,学校へ行かなかった大人に基本から教え直すのは難しいものですが、此方へ来た人間に基本的な霊的教育をするのは、それより遥かに困難となります。
死後にも生活があり、そこでは地上生活の言動の一つ一つについての責任を問われると言うことを知れば、それからの人生観は一変するに違いありません。いえ、一変すべきなのです。
聖書には〝大地とそこに満つるものは主のものなり〟(コリント①10・26)と言う言葉があります。一度手にしたら、霊的知識はいくらでも人にあげても減ることはありませんが、地上の富は、人にあげればそれだけ減ります。そこに霊的財産と物的財産の違いがあります。
物的財産はいくらためても、それを永久に所持することはできません。地上に生きている間だけの管理人であり預かり人であるに過ぎません。失うことがあります。盗まれることがあります。価値が下がることがあります。色褪せていきます。美しさを失います。いずれにしても、何時までも自分のものではあり得ないのです。
それに引き換え霊的財産は、一旦手にしたら永遠に失うことはありません。
※※
〝真理〟は必ずしも全ての人に受け入れられるものではないことを説いて・・・
真理は霊の方にそれを受け入れる用意が出来るまでは、真理として受け入れることが出来ません。これは真理のあらゆる側面について言えることです。真理とは無限性をもつものですから、その全体を理解するには永遠の時を要します。それがまた無限の過程なのです。
受け入れる用意の出来ていない人に真理を押し付けることは出来ません。そこには必ず混乱、論争、討論、議論と言ったものが生じます。が。それにもそれなりの意義があります。
その混乱の中から、受け入れる用意のある人にとっての真理が出てきます。その用意と言うのは霊的進化の程度、発達段階によって決まります。それは自分が自分で決めていくと言うのが宿命です。
もしも私がある人達にとっての真理を説き、それを聞いてあなたが〝私には信じられません〟と正直におっしゃっても、私は少しも不愉快には思いません。あなたへの愛の気持ちはそれによっていささかも減りません。
なぜなら、あなたはこの地上に置いてあなたなりの理性、あなたなりの良識を使い、納得しないものは拒絶することで自己開発するようになっているという理解が私にはあるからです。
その最終的な裁定者として私が敬意を表しているところの理性によってあなたの賛同を得ることが出来なければ、それは私が役に立たなかったことを意味します。
・・・私もこうした霊的真理を説きたいと思いながら、今、同じ問題に逢着しているように思います。難しさを痛感しております。教会で説くにしても、サークルで説くにしても、これが真理なのだ、これ以外にはないと信じて話します。その際、これが自分の信じていることであると述べて、後は(押しつけがましいことは)何も言わない方がよろしいのでしょうか。
そうです後は各自の判断に任せることです。
・・・拒絶されてもかまわずに置くと言うことですね。
真理と言うものは拒絶されたからと言って少しも損なわれるものではありません。そういう人は受け入れる用意が出来ていないのです。ですから、待ってあげるのです。そして霊性の火花を煽ってみる程度に留めるのです。それ以上のことは出来ないのです。それで何の反応もなければ、その人のことを気の毒に思ってあげないといけません。
・・・スピリチュアリズムの組織には事務的なことや物的な問題が多すぎるのはなぜでしょうか。その種のことは(霊的知識のない)事務員を雇うことで処理できることなのですが、肝心の霊的指導者はどうやって探せば良いのでしょうか。霊的飢餓と言うものもあることを痛感しております。
聖書の言葉をご存知ですか。良くご存じの言葉を引用してみましょう。〝まず神の国とその義を求めよ。しからば他のものも全て添えて与えられん〟(マタイ6・33)これはどう言う意味だと思われますか。
・・・まず、第一に霊的なものを求めなければいけないことだと思います。たぶん私達は方向を間違えているのだと思います。
霊が王様で物質は従者です。霊は物質に先じるものです。霊的に正しければ物的な面もおのずと整います。要はどちらを優先させるかの問題です。お金が不足したからと言って大義が台無しになると言うことはありません。霊性が発揮されるには先ずおかねが無くてはいけない、という発想から金儲けを優先させても、事はそう運びません。
私達は物的エネルギーを操りながら皆さんのもとへやって参ります。私達のバイブレーションは速くてデリケートなので、この遅鈍で緩慢なエネルギーを操る要領を会得しなければなりません。このサークルの方なら、必要とあらば私達が物質を操ることが出来ることをご存知です。(訳者注-シルバーバーチの交霊会でも初期の頃は〝霊の威力〟を見せるために物理的心霊現象を演出していた。とくにテーブルを動かすことは末期に至るまでひんぱんにおこなっていた)
もう一つ聖書の言葉を引用しましょう。〝大地とそこに満つるものは主のものなり〟・・・物的なものは何一つとしてあなたのものではないと言うことです。本当の意味で自分のものとすることは出来ないのです。例え手に入れたとしてもあなたのものではありません。あなたは地上生活中はただの財産管理人に過ぎません。全ては大霊のものなのです。
心から人の為と言う気持ちになれば、必要なものはそのうち必ず揃うものです。霊的なものを優先した仕事をする人は必ず私達が援助の手を差し伸べていることを知ってくださる筈です。
自然の摂理として誰一人見落とされるようなことも忘れ去られることもないようになっているのです。その神の力を信じて、その意思が働く通路を神に提供してあげて下さい。
・・・随分簡単なことのようにおっしゃいますが…。
事実簡単なのです。地上にはややこしく考えるのがお上手で、分かった様な分からないような結論を出される御仁が多すぎます。そこで、幼な子のごとき素直さを持って問題の核心に一直線に突き進む態度が要請されることになるのです。〝幼な子のごとくあらずんば〟・・・(マタイ18・3)と言うわけです。
私達霊界の者は人の為に役立つことをしている人の努力を無駄に終わらせたことは一度もありません。必要なものは必ず手に入ります。それは私達がこれまでに数知れず試されてきていることです。霊的なものも物的な物も、必要なものは必ず手に入れて差し上げます。
あなた方はあなた方の役割を果たしておればよろしい。私達は私達の役割を果たします。
(訳者注-ここで言う〝私達霊界の者〟とは各自の背後霊のことと考えればよい。つまり守護霊を中心として、同じ霊系や地上的縁でつながった霊の集まりがあって、その霊達が本人の地上での天命を全うさせる為に、いろいろと世話をやいてくれている。そのことだけを考えると万事がうまく行きそうに思えるが、地上世界と霊界との関係には二つの絶対条件があり、それがことを厄介にしている。一つは自由意思の要素であり、もう一つは波長の原理である。
守護霊と言えども本人がどうしてもやりたいと思うことを止めさせることは出来ないし、やりたくないと思うことを無理やりやらせることも出来ない。守護霊も摂理を無視したことは許されないのである。
もう一つの波長の原理と言うのは、先ほどのシルバーバーチの〝心から人の為と言う気持ちになれば必要なものはそのうち必ず揃うものです〟と言う言葉に暗示されている。そこには〝正しい心掛け〟と言うものが要請されているわけである。それが波長を整える作用をするのである。シルバーバーチが心配の念を抱いてはいけませんと口を酸っぱくして言っているのも同じ原理を言っている。
そのこととは別に、シルバーバーチが言及していないことで私から注意を促しておきたいことがある。それは金銭上の問題は高級霊ほど苦手なので、守護霊は直接には関与せずに配下の霊、それもどちらかと言うと地上臭の抜けきっていない、霊に任せると言うことで、その意味でも我々は霊のことを高級・低級のみで安直に区別してはならない。それぞれに得意不得意があり、〝役に立つことを〟をしているからである。
もとよりそうしたことは原則として守護霊の管理下で行われていることであるから、その通りに行っていれば間違いはないが、本人の方が欲の皮が突っ張り見栄や慢心が出始めたら、波長の原理でもはや守護霊の管理下から離れ、同じ波長をもつ低級霊、それも邪心をもった悪霊に操られることになる。
必要以上の金が儲かったり、思わぬ大金が転がり込んだり、預金が面白いほど増え始めたら危険と思わなければならない。それはいわば欲望の肥満体になることであり、魂は活力を失い、霊的病が出始める。悪霊の思うつぼにはまったのである。
シルバーバーチが〝人の為に役立つ〟と言う心掛けを説く裏にはそういう意味合いも含まれていると理解されたい)
・・・確かに私はあなたから大きな援助と叡智のお言葉を頂いて感謝いたしております。
あなたには霊視能力があります。願わくばその能力がもう少し広がって、神の計画の推進に当たっている神庁の組織、高級神霊の働きの一端を垣間見ることがお出来になればよろしいのですが、・・・そうすれば一瞬たりとも狼狽したり、一欠片も心配の念を宿すことが無くなる筈です。
それは私はこの目で見ているのです。これまでの実際の成果を逐一知っているのです。
私はここで満身の力を込めて断言いたします。真理普及という大義に身を捧げておられる皆さん方は、宇宙最大の力、生命力そのものの援助にあずかることが出来るのです。それはもはや義務と言うべきものと心得るべきです。
すなわち、それを賢明に、有意義に使うのです。あなたの生活の範囲内で触れ合う人達の全てに導きの手を差し伸べるのです。もしもその手が拒絶されれば、それはそれで宜しい。その人の思う道を進ませてあげればよろしい。
その辺の判断はあなた方の叡智の光と良識に照らしてなさるがよろしい。動機が全てを決します。動機が正しければいかなる事態が生じようと最後は必ず勝利します。
人生には二つの大切な要素があります。一つは知識であり、もう一つは信仰(信念)です。知識の裏付けのない信仰は〝折れた葦〟(マタイ12・20その他)のようなもので、いざと言う時に頼りになりません。が知識に信仰を上のせする・・・これが最高の組み合わせです。
あなたは人生とその意義についての理解をもたらしてくれた知識はすでにお持ちです。が、それとて、これから先あなたが入手していくべき知識に比べれば、ほんの一欠片に過ぎません。そこでその不足を補うための信仰と言うものが必要となります。
しかしそれも、あくまで事実に即した知識を根拠とした信仰です。軽々しい信仰、理不尽な信仰、知性を侮辱する様な信仰ではなく、事実を根拠とした信仰、つまりかくかくしかじかの事実がある以上はそう信じて良い筈だという論拠をもった信仰です。それはあなたにとって大切なものです。
本日お集まりの方の中には、このことを耳にタコが出来るほど聞いておられる方がいらっしゃいます。さぞかしうんざりしされることでしょうが、でもやはり真実です。平凡な真理は、たとえ何度繰り返しても真理です。繰り返すことによって真実性が減じることはありません。
私から申し上げたいのは、皆さんは有限の世界で生活する有限の存在だと言うことです。無限の知識から手にすることのできる分量は、みなさんが霊的・精神的に到達した発達段階によって制限されます。
これまでに受け入れられた知識はしっかりと吟味したうえで真実であると確信されたものです。その知識の上にまだ掲示されずにいるものに対する信仰心(信念)を築くのです。それは理不尽なものではありません。立証可能な事実を土台としています。
地上の人間の態度を見ていてもどうも理屈に合わないと思うことの一つは、物的な惰眠から目覚めるまでにはさんざん時間がかかっているのに、一旦目覚めると、今度は急にせっかちになることです。どんどんことが運ぶことを期待するのですが、そうはまいりません。
霊的な進歩は着実でないといけません。近道と言うものはないのです。一歩一歩をしっかりと足固めしながら進まないといけません。一歩進むごとに次に進むべき方向が開けます。
これまでに啓示していただいたものを基盤にして,ひとまずそれに甘んじるのです。そしてもしも疑問が生じたら・・・きっと生じるものです、あるいはもし疑念が湧いたら・・・必ず湧くものです。
そしてもし困難が厄介な頭をもたげ始めたら、あわてず我慢するのです。霊の力は物質に勝ることを忘れないことです。霊界から働きやすい条件さえ提供してくれれば、いかなる障害も、いかなる困難も、いかなるハンディキャップも、霊の力で克服できないものはありません。
そもそも教会と言うものが存在するようになったのは、霊力は様々な形で顕現したからです。奇跡と思われた現象も、霊力によって演出されていたのです。が、今日の教会にはそれが見られません。かつて〝聖地〟と呼ばれたところも今は霊的砂漠となり、オアシス一つ見当たらない不毛の土地となっております。
しかし神の摂理は少しも変わっておりません。そこが〝聖い処〟とされたのは霊力が崇高な形で顕現したことによって神聖視されたからです。それと同じ霊力が今あなた方を通して顕現し、大きな恩恵をもたらしつつあるのです。
私はそれぞれの宗教会に置いて真面目に勤しんでいる人達を非難しようとは思いませんが、その人達は苦しんでいる世の中の人達の為に役立つことは何もしておりません。教義は無味乾燥です。ドグマは不毛です。視野は旧態依然としており、新しい流れがどんどん通り過ぎていきつつあることに気づきません。
われわれは地上の多くの場所で悪性の癌を生み出している貪欲、強欲、私利私欲、が一掃された新しい世界の到来を告げる使者なのです。
あらゆる宗教的行為の中の最高の行為として〝人の為に自分を役たてること〟を掲げ、互いに扶助し合い、寛容(ユル)し合い、人間と動物の区別なしに全ての哀れみの心をもつべきであると説きます。ほんとにその気になれば地上天国は叶えられるのです。
それが今私達が皆さんに協力のもとに携わっている仕事です。俗世の悩みに襲われ、暗闇に閉ざされて気が滅入り、疲れ果てあるいは塞ぎこみそうになった時は、霊的知識を手にした皆さんは、このまま野放しにしたら地上を破滅状態に陥れかねない物質第一主義の風潮に挑む、戦いに選ばれた霊の大群の一員である事を思い出して下さい。奮い立たないといけません。
いつまでも絶望感に浸ってはいけません。私達は決して見殺しにはしません。援助を届ける通路さえあれば、奇特な心掛けを無為に終わせることは致しません。必要とあらば、いかなる援助でも致します。このインフレの時代にも皆さんに不足の思いをさせないように配慮しております。
われわれは大事な仕事に携わっているのです。すでに何度も申し上げていることですが、大義に身を捧げることは気高いことであることを今こそ肝に命ずべきです。人間の気高さは人の為に役立つことをすることから生まれるのです。
地上の人間は自己改善によって自らを救済するようにならないといけません。また地上生活ならではの恩恵の全てが味わえるようになるのは、協調と互助と言う霊的原理を実行するしかないことを理解しなければなりません。物的恩恵のことだけを言っているのではありません。精神的ならびに霊的恩恵も味わえます。
人間は精神的にも身体的にも霊的にも自由であらねばなりません。私達はいかなる形であっても〝隷属〟と言うものを許しません。人間は自らの束縛状態を自らの力で説かないといけません。
その為には先ず自分を生かしめている力が地上世界の他の全ての存在、生きとし生きるものすべてを生か占めている霊力と同じであることを、しっかりと認識しないといけません。霊力がそれら全てを取り巻き、全てを一体とさせ、その存在の究極の責任者である宇宙の大霊すなわち神の前に置いて一つにしているのです。
私達が生命の実在について霊的な実感をもたらしてあげる為に行っている仕事の背景には、そうした事実があるのです。その目的はそうたやすくは達成されません。
なぜなら、こうした教訓は困難、危機、病気、死別などを体験して初めて学べるものだからです。絶望の底に叩き落とすような苦悩でありながら、実は真実の自我を見出す為の手段なのです。
ですから皆さんには是非ともやって頂かねばならない役目があります。が、それにはたっぷりと時間をかけないといけません。我々の背後には宇宙最大の力、大霊の霊力が控えております。後退させられることはあります。潮は満ちるだけではありません。
必ず引きます。それと同じですが、霊力の働きが止まってしまうことはありません。常に働きかけております。
生命のある者には霊があります。停滞と不活発はわれわれの敵です。なぜなら、そういう条件下では霊力は流入しないからです。あなた方は私達に通路を提供し、その通路を通って霊力が流入するのです。私達がほしいのは献身的な協力者です。操り人形ではなく、私達が協力するように私達に協力してくれる、自発的参加所です。
奉仕は霊の通貨です。宗教とは自分を役たてる行為であり、またそうあるべきです。そうでなかったら宗教は何の意義もありません。
・・・(若い女性のゲスト)あなたのおっしゃる通り私達は生命を唯一の生命力すなわち神から受けていますから、みんなして愛と奉仕を目的とすれば、すべてが上手く収まると思うのです。そこでお聞きするのですが、平均的な一般人もこうした深い霊的な教えを理解する必要があると思われますか。
一般の人には私達が同じ神から生命力を受けていると言う一つの事実を理解させ、それを生活の基盤として、さらに大霊についてより多く知るように持っていけば、スピリチュアリズムだのキリスト教だのと言う形で理解するよりも、非常に多くの人が理解できるのではないかと思うのです。
おっしゃることは本質的に結構な事ですし、異議を唱える人は誰一人いないでしょう。ですが、人間は一人一人成長と開発と発達と進化の程度が異なるのです。ある人にとってすぐに受け入れられることが、別の人からは拒絶されることもあります。もしも全員が画一的なレベルにあるのであれば画一的なメッセージですむでしょうけど・・・
たとえば、ある人は大霊とは愛と叡智の極致であると説いて、それがすんなりと受け入れられても、神の存在を頭から信じない人は即座に否定するでしょう。ですから、メッセージを与える場合は、内容をその人の受容力に応じたものにしないといけません。
あなたが説くことの単純な素朴さがアピールする人もいるでしょうし、しない人もいるでしょう。人によっては世の中の不公平、さまざまな矛盾、一見無実と思える人の受難、利己的な人間がうまく罰を免れている現実を指摘して、それは一体どうなるのだと言うかもしれません。そこであなたは、延々と骨の折れる議論に巻き込まれてしまいます。
そういうタイプの人には霊的実在の動かし難い証拠、たとえば、〝不治〟の宣告を受けた病気が治った人の例を持ち出すに限ります。実際に慈悲または愛の働きを見せた非物質的エネルギーの存在だけは認めざるを得ないでしょう。
もう一つ大切な事があります。知識と叡智と真理は無限に存在しますから、人間が手にする分量にも限界はないと言うことです。うわべだけを見る限りでは不変的な愛のテーマは単純に思えるかもしれませんが、その内側はとても複雑です。その複雑な裏側の理解の必要性を痛感するようになるのは、それだけの理解力が具わってからのことです。
・・・言い替えれば、あらゆる学派や宗派はそれなりの存在価値があると言うことですね。それぞれが、ある一定水準に達した者に何かを与えるようになっている・・・他の者には満足できない宗教でもその人には満足出来ると言うことなのでしょう。
無限なる霊は無限の表現形態をとります。生命全体が段階的になっているのです。あなたは休みなく進化しつつあります一段上がるごとに、その上にもう一段あることを知ります。山頂を一つ克服してみたら、その向こうにもっと高い山頂が見えてくる、と言っても良いでしょう。
人類は異なる成長段階にある者で構成されています。したがって、全ての者にアピールする一つの教えと言うものは提供できないのです。相手がどの程度のものを受け入れる用意が出来ているかを見極める必要があります。あなたの説く思想がそれである人もいるでしょう。
別の論拠を持ち出してそれに論ぱくする人がいるかもしれません。そういう人には五感に訴えるもの・・・何か常識を超えたもので、根源は霊的でも顕現の仕方が物質的なものを持ち出さないといけません(奇跡的な病気治療など-訳者)。
しかし、いかなる能力を駆使するにせよ、要はその人の成長の機会を与えることになれば、それが一番大切なことです。
第5章 霊界から見た地上の科学
ウィリアム・クルックス、オリバー・ロッジ、その他の世界的科学者が心霊現象を調査研究したビクトリア時代(ビクトリア女王が王位にあったのは1837~1901年であるからスピリチュアリズム勃興からほぼ半世紀と重なる-訳者)と違って今日では神霊能力がいわば顕微鏡的精密さをもって厳しく観察されているが、霊界では地上の科学をどう見ているのであろうか。まず科学者の質問から始めよう。
・・・私は人の為に役立つことをするのが大切であることはあなたの霊言集で読み、かつてそう信じておりますが、それと同時に大切なのは知識を集積すること、つまり学問だと思います。霊界では学問はどう言う具合に行われるのでしょうか。この物質界を科学的に研究するには実験ということをしますが霊界でも実験を行うのでしょうか、それともやはり純粋に精神的なプロセスで行われるのでしょうか。
知識は大霊と同じく無限に存在します。それには終止符(ピリオド)を打つところがありません。進歩すれば、さらに多くの知識を手にする資格が出来ます。頂上を求めて永遠に登り続ける様なもので、ここが頂上だと思ったら、その上に別の頂上が見えると言うことの連続です。知識、進化、発達、開発、発展・・・こうしたものは全て永遠のプロセスです。
この物質ではAをBでやってみたらどういう結果が出るかと言うことを知る為に実験を行いますが、物質界のやり方とは全く異なります。なぜかと言いますと、私達の関心は〝霊〟が見せる千変万化の顕現の仕方に向けられているからです。ある意味では何時も実験をしていると言えます。
簡単な例をあげてみましょう。霊界には死後もなお、地上の病気で苦しんでいる人を救うことに専心している医師がおります。その医師達は地上で身に付けた技術があります。人体のメカニズム、その働き具合を様々な反応の仕方についての知識も備えております。
さて一方、こちらの世界には地上にない種類のエネルギー、程度を異にする霊力、つまり生命力があり、それに地上で得た知識を組み合わせて地上の患者を治すことを研究しております。それは患者に応じて様々なエネルギーを組み合わせる、絶え間ない実験であると言えます。
強すぎてもいけないのです。強すぎると、それが通過する治療家に障害が起きます。治療家の受容力が発達し、より高い運動速度、威力、どう呼ばれても結構ですが、それに耐えられるようになると、治療エネルギーの強度を増すことが出来ます。
ここでも又言語を超越したものを表現する為の用語を見つけるのに苦労しますが、要するにこちらの世界でも常に実験し、休みなく知識を増やす努力をしております。
※※
別の日の交霊会でシルバーバーチが〝一世紀前の科学的宇宙像は今日とは雲泥の差があります〟と述べたのに対して・・・
・・・それはこれから科学者も物的次元の研究から高度な次元へと進歩していくことを意味しているのでしょうか。
(原子の様な)目に見えない世界とその未開発の潜在的エネルギーの研究が進むにつれて、自らの論理でそうならざるを得なくなるでしょう。科学者が霊的に成長すればその途方もないエネルギーを善の方向へ使用する方法も分かってくることでしょう。
そうするうちに自分自身にもそうした無尽蔵の見えざる能力が潜在していることを知って、次第にその開発へ目を向けるようになるでしょう。外部にあるものは内部にあるものが顕現したに過ぎません。
(驚異としか言いようのない人体も内部にある霊すなわち生命力が顕現したものであることを言っている―訳者)
その生命力は物質のように切り刻むことは出来ません。分割して別々の容器に入れておけるような性質のものではありません。原子の生命も本質的には人間や動物や花や樹木の生命と同じようなものです。全体が一つの生命体であり、それが無限の形態で顕現しているのです。
・・・地上の科学者はもうそのレベルまで理解が達しているでしょうか。
いえ、まだまだですが、理解している人もいます。オリバー・ロッジなどは現象の裏側の実在についての霊的な理解が出来た科学者のよい例です。
・・・今後その理解が科学者一般に行きわたるまでには多くの人間と多くのものを犠牲にすることになるのでしょうか。
いえ、科学者のすることにも限界があります。どんなに間違ったことをしても地球全体を破壊してしまうまでには至りません。自然の摂理によって、地上でなされる被害は一部の人間が考えているほど恐ろしいものとはならないようになっているのです。
しかも究極的には大霊の意志が地上に行きわたることになっているのです。その計画を挫けさせる人間は地上にはいません。遅らせることは出来ます。邪魔することも出来ます。しかし大霊を支配することは出来ません。
大自然と摂理の働きについていくばくかの見識を得たわれわれは、いかなる事態が起きようと、あるいは人間がいかに愚かしいことをしでかそうと、大霊の意志は必ず行きわたるとの信念をもつことが出来ます。そしてその摂理によってますます多くの愛と哀れみと慈悲と互助とが地上で行使されるようになります。
科学も絶対に誤りを犯さない分けではありません。科学者とて間違いを犯す可能性をもった、ただの人間にすぎません。私は科学を神のごとく絶対視してはいません。地球には科学者が言っているような終末はありません。永遠に存在し続けます。
いかがです、あなたも科学者の見解が間違っていた例をいくつかご存じでしょう?
・・・私は科学者ではないのですが、正直言ってその点を真剣に考えさせられることがありました。
科学者の間違っていた例をいくつかご存じなのでしょう。
・・・実にたくさんあります。
ですから地球の未来について科学者が述べたからと言って、それが必ずしも正しいという保証は何処にもないのです。
(訳者注-部分的にしか紹介されていないので、この前にどういう対話があったのかは憶測の域をでないが、私の推測では、例えば最近さかんに警告されていれる、スプレイなどに使われているフロンガスによる成層圏の破壊の問題が出て、このまま破壊が進めば紫外線が大量に地球に届いて、地球の生物が死滅するという説が出されたのであろう)
※※
ローデシアから訪れた科学者に向かって・・・
これまでたどられたあなたの足跡も、背後霊によって暗闇から光明へと導かれてまいりました。これは低く下がれるだけ高く上がれると言う償いの法則によって本当の意味での人間的向上が得られる過程の一環なのです。
光を見出すのは闇の中においてこそです。喜びを見出すのは悲しみの中に置いてこそです。真実の自我を見出し始めるのは、地上にもはや頼りになるものは何もないと思えた時です。
これは人生の両極性と言う、魂が真の自我を見出す為の原理の一つです。果てしない宇宙に展開する生命活動の一つ一つが、規律づけられた何らかの役割をもっております。嵐も晴天と同じく、なくてはならないものなのです。
闇も、光と同じく、無くてはならないものです。人間性が鍛えられるのは苦しい試練の中に置いてこそです。その両極性を体験して初めて成長し始めるのです。
私は非理屈を言っているのではありません。大霊がその無限の叡智によって地上の人類の為に案出した進化の法則がそうなっていると言うことを申し上げているのです。言いかえれば、必要なものは時が熟せば与えられると言うことです。
困難、試練、試金石、障害こうしたものは魂がその潜在的資質を開発する為に欠かせない体験です。一種の触媒を提供してくれるのです。
これまでを振り返ってご覧になれば、最大の窮地と思えた時に道が開かれ、真実の自我を発揮する方向へと導かれていることに気づかれる筈です。同じ道を辿った人からあなたがそうして援助して頂いたように、今度はあなたが人に手を差し伸べてあげるチャンスが与えられることになるでしょう。
その神が意図されている仕組みなのです。すなわち集団ではなく一人一人が自我の開発を促す永遠の真理を手にし、さらにそれを縁ある人に授けていくと言う仕組みなのです。
援助を求める人を絶対に拒否してはなりません。同時に、例え援助の手を拒否されても、それは折角の自己革新のチャンスを目の前にしながら、その人がまだ受け入れる用意が出来ていなかった為にそれを生かしきれなかったのですから、気の毒に思ってあげることです。
あなたはそれだけの物を授かることが出来たことを喜ばないといけません。同時にそれとて,これから先あなたを待ち受けている無限の真理のほんの一欠片に過ぎないことを知ってください。まだまだ掘り起こすべき霊的財産が山ほどあるのです。人の為に尽くすチャンスも数多く与えられてまいります。
※※
別の日の交霊会で・・・
私たちは片時も休むことなく研究に勤しんでおります。特に病気治療、霊視能力、入神現象(トランス)の質を高める為の新しい方法、アイディアを実験しております。しかし所詮はそちらから提供してくれる材料次第です。そこには自由意思と個人的義務の問題も絡んでおります。
私達はそちらから提供して頂くものより多くのものをお返ししております。それが私達の義務なのです。扶助し支援すると同時に、人間としての基本的な必要品に言欠くことのない様に計らうことになっております。それから先のことは本人が決めることです。
(あくまで謙虚に神の道具として辛抱するか、金銭欲や虚栄心といった煩悩に負けて堕落していくかは、自由意思と個人的義務の問題であって、そこまで立ち入ることは許されていないと言うこと-訳者)
私達はあくまでも謙虚に献身してくれる道具が欲しいのです。何度も申し上げていることをここで改めて申し上げますが、献身こそ霊の正貨です。大義の為に献身することこそ気高いのです。なぜならその時あなたの内部の神性を発揮していることになるからです。
私たちからお願いしたいのは、倫理的意識を出来るだけ高く持って頂きたいと言う事です。私は常に皆さんを成就というゴールへ向けて、ゆっくりではありますが確実に進歩するように援助しています。申し上げていることは至って単純なことです。
人間として最善を尽くしていて下されば良いのです。そうすれば私達の協力のもとに、縁あって訪れてくる人の力になってあげることが出来るのです。
第6章 霊界でも祝うクリスマスとイースター-その本来の意味
クリスマスもイースターも本来は宗教的祭礼であるが、今では物質的観念に汚染されてその基本的な光彩をすっかり失っている。
本書で紹介する講演でシルバーバーチはその本来の意義を説明し、それが霊界においてどのように祝われているかを語っている。シルバーバーチらしく最後は、狼と子羊とが一緒に寝そべるような平和、つまり地上天国という理想を説き、その為には人類が愛と哀れみと慈悲と責任感を持たねばならないことを力説している・・・・・・
私達地上の霊的啓蒙活動に従事している霊団の指導的立場にある者は、キリスト教で言うクリスマスとイースターに相当する時期に霊界の奥深く帰還するならわしになっております。
ご承知の通りその二つの祝祭はキリスト教よりさかのぼる太古に置いて、一年を通じての太陽の勢いの変化を神の働きかけの象徴と受け止めたことがその起源です。
太古において太陽がその輝きを最高に発揮する時期(夏至、6月下旬、旧暦5月下旬)が〝復活〟(ヨミガエリ)の時、つまり大自然が賛歌を奏で、見事な美しさを披露する時とみなされました。言いかえれば、蒔かれた種がそのころに華麗なる成長を遂げると考えたのです。
それに呼応して冬至(12月下旬、旧暦1月中旬)があります。最高の輝きを見せた太陽が衰え始めると、大自然はエネルギーを蓄え、根を肥やしながら季節の一巡の終わりを迎えると考えたのです。来るべき夏至にその成長ぶりを披露するのに備えると言うわけです。
そういうわけでクリスマスは永い一年の巡りの終わりであると同時に、太陽の誕生、新たな生命が地上に誕生する、その最初の兆しを見せる時期だと、太古の人は考えました。
この二つの時期は太古において大切な意味をもっておりました。と申しますのは、〝神のお告げ〟はその二つの時期に授けられると信じられたからです。あなた方現代人は太陽の持つ神秘的な影響力をご存じありません。
太古の人はその時期に今で言う交霊会を何日にもわたって大々的に催したものでした。その時期にたっぷりと啓示を頂いたのです。
そこで私達霊団の指導的役割を担う者は、誕生に相当する人生で最も大切なこの時期(クリスマス)に一堂に会して祝い合うのです。その始まりは太陽の影響力への賛美と言うことでしたが、それは一種の象徴(シンボル)であり、実質的には生命が他の生命へ及ぼす影響力、物質が他の物質へ及ぼす影響力、惑星が他の惑星へ及ぼす影響力などが含まれております。
特に一年のこの時期が選ばれたのは、私達に協力してくれている霊達の地上時代に属していた民族が大自然の摂理を基盤とした宗教をもっていたからです。古い時代の私達にとっては太陽の誕生の祝いが最大の祝いでした。
それは新しい年の始まりに他ならないからです。四季のめぐりの終わりであると同時に新しい巡りの始まりでもあるわけです。
そうした祝いがかつて地上で催されていたことから、これを霊界でも祝うことになりました。もとより、今では霊的な意味をもつようになっております。つまり新しい生命の誕生を祝うのではなく、地上から一旦引き上げて、新しい光を地上へもたらす為に霊力の回復を図ることを目的としております。
今この仕事に従事している霊団の者は、地上時代は西洋文明を知らない古い民族に属していましたから、(キリスト教的祝いとは違って)この時期を地上から引き揚げて私達の本来の所属界へ帰還する機会としております。
帰還すると評議会のようなものを開き、互いに自分たちの霊団の経過報告をし、どこまで計画通りに行き、どこが計画通りに行っていないかを検討し合います。それとともに新たな計画を検討し合います。私達を地上へ派遣した神庁の方々とお会いするのもその時です。
その中にかのナザレのイエスの雄姿があるのです。イエスは今なお人類に古来の大真理すなわち、〝愛は摂理の成就なり〟を教える大事業に携わっておられます。そのイエスが私たちの業績に逐一通じておられるお言葉を述べられ、新たな力、新たな希望、新たなビジョン、新たな目的をもって邁進するようにと励まして下さる時のそのお姿、そのお声、その偉大なる愛を、願わくば皆さんにも拝し聞きそして感じ取らせてあげられればと思うのですが・・・・・・
もとよりそれはキリスト教にとって神の座に祭り上げられているイエスではありません。数知れない道具を通して人類に働きかけておられる、一個の偉大なる霊なのです。
その本来の界に留まっているのは短い期間ですが、私はその間に改めて生命力溢れる霊力、力強さと美しさに溢れるエネルギーに浸ります。
それに浸ると、生命とは何かがしみじみと感じ取れるのです。私はそのことをあくまで謙虚な気持ちであるがままに申し上げているつもりです。見栄を張る気持ちなどひとかけらもございません。
仮に世界最高の絵画の全て、物質界最高のインスピレーションと芸術的手腕、それに大自然の深く且つ壮大な美しさを全部集めて一つにまとめてみても、私の本来の所属界の荘厳美麗な実在に比べれば、至ってお粗末な反映程度のものでしかありません。
芸術家がインスピレーションに浸ると、手持ちの絵具ではとても表現できそうにないことを痛感して、魂で感じ取ったその豊かな美しさを表現するための色彩を求めますが、それは地上の何処にも存在しません。霊的な真理と美しさは物的なものでは表現できないのです。
そうした界層での私の霊的な高揚状態がどうして言語などで表現できましょう。大霊の光輝を全身から放っている存在となっているのです。(章末注参照)
叡智と理解力と慈悲と優しさに満ち、人間の側から訴えられる前に全てを察知し、心の中を読み取り、心の動きに通じ、成功も失敗も知り尽くしております。
全ての宗教の根幹であり、イエスの教えの集約でもある、かの愛の名言(愛とは摂理の成就なり)は、全生命の主、無限の創造者たる大霊の名において私達もその真実性を宣言するものです。
かくして私達は本来の霊的状態へ戻り、本来の環境である光彩と喜びと光輝と笑いと豊かさと崇高さと荘厳さを味わいます。その中に浸り、その喜びを味わい、私達にとってはごく当たり前の状態である壮観を取り戻します。それが私達のお祝いです。
助言を頂き、感激を味わい、気分を一新し、元気百倍し、心身ともにすっかり生き返った私達は、やおら冷ややかで陰鬱でじめじめとして味気ない、暗い地上へと赴き、厚く包み込むそのモヤと霧を払い、真理の光を輝かせる為の仕事を再開します。
地上のクリスマスシーズンにも愛の精神の発露が見られないわけではありません。それが親切と寛容の形をとり、また施しの精神となって表現されております。旧交を温め、縁を確認し合い、離れ離れになったものが一堂に会すると言うことの中にもそれが見られ、又、かつての恨みあいはもう忘れようという決意をさせることにもなります。
しかし残念でならないのは、それに先立って大量の動物が殺害されることです。もの言わぬ神の子が無益な犠牲とされていることです。〝平和の君〟キリストの誕生がそうした恐ろしい虐殺によって祝われると言うことは何と悲しいことでしょう。
なぜ平和を祝うために罪もない動物の血が流されねばならないのでしょう。これはまさに地上世界の磔刑(ハリツケ)です。罪なき動物に流血の犠牲を強いて平和を祝うとは・・・
いつの日か愛と哀れみを慈悲と責任感とが人間を動かし、助けを求める動物たちへの態度を改めることになるでしょう。そうした資質が発揮されるようになって始めて、罪もない動物への容赦ない流血と残酷と無益な実験も行われなくなることでしょう。地上に真の平和が訪れ、狼が子羊と並んで寝そべることになりましょう。
訳者注-シルバーバーチはよく〝光り輝く存在〟shining onesと言う言い方をする。日本で言う〟八百万の神々〟西洋で言う〝天使〟で『ベールの彼方の生活』第三巻<天界の政庁>編ではその存在の様子がアニメ風に語られている。
ただ注意しなければならないのは,その通信霊のアーネルやシルバーバーチが述べているのはあくまでも地球神界つまり地球の創造界のことで、その上には太陽神界があり、さらにその上には太陽系が属する銀河系神界があり、さらには星雲が幾つか集まった規模の神界があり、最後は(少なくとも理屈の上では)宇宙全体の神界があることになる。
シルバーバーチはその内奥界を含めた宇宙をCosmos(コズモス)と呼び物的宇宙をUniverse(ユニバース)と呼んで使い分けているが、そのコズモスは無限・無辺であるとも言っている。
こうなると人間の粗末な脳味噌などではもはやついていけない。アーネル霊さえ〝茫然自失してしまいそうだから、これ以上想像力は広げるのは止めましょう〟と言っているほどである。
先ほどシルバーバーチが〝私はあくまで謙虚な気持ちであるがままに申し上げているつもりです。見栄を張る気持ちなどひとかけらもございません〟と述べたことにはそうした背景がある。もはや〝謙虚〟などと言うことを超越した次元の話である。
第7章 人類の宿題-地上天国の建設
科学技術の急速な発達は目を見張るものがあるが、最近の情勢を見ていると、それがうっかりすると今よりさらに恐ろしい戦争と破壊の凶器をこしらえることになりかねない気がする。人間の人間に対する非人間的行為が相変らず後を絶たない。
果たして完全に終止符が打たれる日が来るだろうか。お互いが霊的兄弟であり、姉妹であると言う認識のもとに暮らせる真に平和な時代が本当に来るのだろうか。殺し合いは避けがたい人間の宿命なのだろうか。戦争は正当化されうるものだろうか。霊界はこうした地上世界をどう見ているのだろうか。
本章はこうした問題についてのシルバーバーチの知恵に耳を傾ける事にしよう。
・・・今日の世界の風潮、物的利益優先の考え、暴力、そのほか〝文明国〟と呼ばれる国においてますます増加しつつある恐ろしいことを憂慮する人達へ何かメッセージを頂けないでしょうか。果たして希望はあるでしょうか。
大霊の御心は必ず行き亘ります、と申し上げます。人類の霊的革新及び動物問題の改善の仕事に携わる者、無駄な苦しみから救い、残虐行為を止めさせ、何時どこにいても人の力になってあげる仕事に献身する者は、絶対に弱気になってはいけません。と申し上げます。
地上天国は何時の日かきっと成就されますが、それはゆっくりとした段階を経ながら、そして時には苦痛を伴いながら成就されてまいります。おっしゃるような暴力、混乱、衝突、戦争、残虐行為が増えつつあるのは、今地上世界がオーバーホール(修理・点検の為の全面的解体作業)の過程にあるからです。
すでに多くの伝統的思想が葬り去られました。若者は自由を求めて騒ぎたてております。又、あまりにも永い間手枷足枷となってきた制度、しかも何の努力もしない一部の階層の特権をこしらえている制度に対する不満がもはや制御できなくなっております。
そうしたるつぼの真っただ中にいる人間にとっては、その背後の神の意図を読み取ることは難しいことです、しかし歴史を振り返ってご覧になってみれば、そこには段階的な進化の跡があることに気づかれる筈です。
総合的に見て人類はかつてより親切と寛容心が増え、その一方に置いて偏見と残虐行為と抑圧政策がのさばっております。これは物的宇宙の進化の仕組みの一環なのです。つまり対立する勢力が激突して、そこからより良いものが生まれ、全体として進化していくと言うことです。
気を落としてはなりません。大切なのは霊的真理と霊力とが世界の多くの土地にしっかりとした足場を作り、退却させられることがない様にすることです。それが至る所に恵み多い影響力を及ぼし、全体としてパン種の働きをし続けます。
その影響力が浸透するにつれて暗闇と無知と暴力と蛮行を追い払い、地上世界を汚している醜悪と邪悪を駆逐していくことでしょう。
明るい希望と楽観の根拠が何時でも十分に揃っているのです。何故なら大霊の働きは休む時がないからです。
・・・我々がスピリチュアリズムと呼んでいる神のメッセージが届けられたのも、その働きの表れだと私は思います。
それでこのたびの大事業を敢行する決断が下されたのです。それも、これまでに幾度かあったような一時的暴発に終わらせてはならないと言うことになっているのです。ですから、一旦根付いたものは徹底的に地固めが行われ、地上の永続的な要素となっていくことでしょう。
・・・地上世界には渦巻状(スパイラル)に進化しているように思います。
おっしゃる通りです。その渦巻の一番底は恐ろしい様相を呈していても上層部は実に明るい展望が開けております。落胆してはいけません。霊的知識を携えた者が絶望感を抱くようなことがあってはなりません。このことは既に何度も申し上げてまいりました。大霊は宇宙創造の当初からずっと地球を管理しておりますから、次に為すべきことはちゃんとご存知です。
もう一つの側面もあります。人間社会のあらゆる分野で古い概念が覆され廃棄されて行きつつあります。その多くはあまりに永い間人間を迷わせてきた間違った概念です。これから徐々に愛と善の勢力が欲得づくの勢力に取って代わり、生活状態が改善されていくことでしょう。
大切なのは取り越し苦労をしないと言うことです。心配の念は私達霊界から援助する者にとって非常に厄介な障害です。拒否的性質があります。腐食性があります。恐れ、心配、不安こうしたものはその人を包む物的、精神的、霊的雰囲気を乱し、私達が近づくのを一段と困難にします。
真理を知ったものは、それがわずかであっても・・・例え多く知ったとて、無限の真理からすれば多寡が知れています・・・いついかなる事態に直面しても、穏やかで平静で受容的態度を維持すべきですし、又、そう努力すべきです。
全生命に存在を与えている霊力よりも強力なものはないと、断固たる自信に満ちていなければなりません。
何度でも繰り返し申し上げられる私からのメッセージがあるとすれば、それは、心配の念を棄てなさい。そうすれば内部に静寂が得られます。内部が静寂になれば外部も静穏になります。と言うことです。
・・・暴漢やチンピラによる被害が多くて、散歩に出るにも防具を用意しなければならないのかと本気で考えている始末です。ぶん殴られて金を巻き上げられるのを許すわけにはいきません。そういう時はやり返すべきでしょうか。
悪を大目に見たり暴力を助長することになって良いと言うことは絶対にありません。剣を取るものは剣にて滅ぶと申します。あなたの身体は霊が地上で自我を実現する唯一の手段ですから、それを守るのはあなたの義務ですが、そのことに限らず、地上生活に関わる全て自分の理性によって判断しなくてはなりません。
ですから、ご自分で正当だと思う手段によって身を守って良いことは言うまでもありませんが、同時にそうした愚かな若者、自分のしていることの理非曲直も弁えないほど道を間違えている若者のことをかわいそうに思う心も忘れてはなりません。
それは一種の群集心理、劣等感から生まれるヒステリー症状です。つまり自分たちの存在を認めさせる唯一の手段としてそういう態度に出て関心を引こうとする、幼稚な自己憐憫の情です。
もとより私達には暴力への同情心はひとかけらもありません。霊力は暴力と言う形では表現されません。霊力も常に冷静、平穏、安らぎ、落ち着いた自信の中で表現されるものです。そうした心理状態が調和を醸し出し、物質の世界と霊の世界との間の障害を取り除くのです。
それとは反対に暴力は調和を乱します。激情を噴出させます。挙句にその反動が自分に戻ってきます。本人にとって何一つ良いことはありません。これも物質的偏重思想の副産物です。
暴力的になっているのは若者だけではありません。若者はその元気さゆえに衆目にさらされやすくて非難の的にされているだけです。暴力的傾向は私利私欲の追及に目がくらんで人間としての道を見失っている、病める地上社会の一症状です。
無明の中で、他人の幸福に全く無頓着に、ますます暴力的になって参ります。しかもそれは人間どうしだけでなくて、可哀そうにも、何の罪のない動物にも向けられています。
それは若者が見せているような破壊的エネルギーがたまたまその方向へ切り替えられているにすぎないという考え方は、大変な見当違いです。全体の調和と言うことを考えないといけません。
他の存在への(慈善)チャリティの心を発揮するには貧乏人の存在が必要なのだと言う意見がありますがそういうものではありません。仁愛の心があって初めて慈善が施せるのです。哀れな人の姿を見ないと慈善の心が生まれないと言うものではありません。
若者がその持てる強烈なエネルギーを社会の為に活用する分野は沢山あります。不幸なことに、正しい指導を受けていない若者が多すぎるのですが、正しい指導を受けた場合、そして又、霊的な動機付けから行動した場合は、大人が心を洗われる思いをさせられるようなことをやってのけます。
若者が若者としてのベストを見せた時は、敬服に値するものを発揮します。道を誤ると手の施しようのないほど惨めなことになります。皆さんは暴力やテロ行為の生み出す陰湿さに巻き込まれないようにしないといけません。
超然とした態度、俗世にあって俗世に染まらない生き方を心掛け、自分の霊的本性、神から授かった潜在的可能性を自覚して、せめて皆さんだけでも、小さいながらも霊の灯台となって、導きの光を放ってあげて下さい。
・・・戦争はどう理解したらよいのでしょうか。
無限なる叡智と愛を具えた大霊は地球人類を創造するとともに、ある範囲内での自由意思を授けられました。同時に大霊は、人間が個的存在としていかに生きるべきかについての誤りない指標としての神性が開発されるように、人類全体の霊と精神と身体とに配剤なさっております。
大霊は人間をただの操り人形・・・選択する自由も力も持たない、機械仕掛けの様な存在にすることもできたのですが、大霊は自由選択を与えて下さいました。しかし自由選択があると言うことは、同時に自分の行為への責任もあると言うことになります。
あなたは〝善いこと〟をしてもいいし〝悪いこと〟をしてもいいのです。善と悪とは一つのコインの表と裏の様なものです。愛と憎しみ、光と闇、嵐と静けさもそうです。これを両極性と言います。そのどちらを選ぶかはあなたに選択権があるということです。
そこで戦争のことですが、あなたはその動機に立ち帰って、こう自問するのです・・・〝なぜ戦争をしなければならないのか〟〝両者が共通して求めているものは一体なんなんのか〟〝それは互いに相手を支配することなのか〟
そうした問いにあなた自身が考えて答えを出さないといけません。所詮はあなた方の世界です。パラダイスにするも地獄とするもあなた方次第です。どちらを選ぶ自由と、どちらにも出来る手段を具えているからです。
・・・私個人では出来ません。一人の人間ではどうしようもありません。
〝個〟が集まって地上人類が出来上っているのです。一人でも多くの〝個〟が貪欲と強欲と残虐と横暴を止めれば、その数だけ平和に貢献するのです。あなたはあなたの生活あなたの行為、あなたの言葉、あなたの思念に責任を負うのです。
他人のしたことで償いをさせられたり報酬を受けたりすることはありません。それが摂理なのです。
平和を求めて祈り、霊界の高級霊の道具として協力しようとなさる努力は必ず報われます。人間の協力を得て初めて霊力を地上へ届け、戦争や暴力行為、その他、地上の文明を混乱させ存在を脅かすものすべてに終止符を打たせることができるのです。
しかし、これより先もまだまだ地上から戦火の消えることはないでしょう。なぜなら、人類全体が一つの巨大な霊的家族であると言う、この単純な真理が未だに理解されていないからです。
肉体は撃ち落とせても霊は死なないのです。この事実が世界各地の国政を預かる人達によって理解され、その関連分野を通じて実行に移されるようにならない限り、戦争の勃発は避けられないでしょう。
人間が人間に対して行う非人間的行為に対して、私達は何の責任もありません。これは因果律の働きが片付ける問題です。勿論人類にとって〝より良き時代〟は到来します。是非ともそうあらねばなりませんが、失望のどん底から一気に幸福の絶頂へと一夜の内に転換する様なわけには参りません。一歩一歩の段階的過程を経るほかありません。
霊的真理を理解する人が増えるにつれて、その知識に則った生き方をする人が増え、その人達の生活が依存している各種の制度も、霊と精神と身体がその幸福と成長と成熟にとって必要な体験が得られるように改善されていくことでしょう。
あなた方がスピリチュアリズムと呼んでおられる霊的思想が前世紀(1848年)に勃発したのもそこに目的があります。それはかつての様に突発的ですぐに立ち消えになるようなものではなく、総合的な計画のもとに行われて、すでに霊力は完全に地上に根付いております。
これからもその前線基地は誇張し続け、ますます多くの人間がその恩恵に浴することになるでしょう。
ある人は〝黄金時代〟と呼び、ある人は〝地上天国〟と呼んでいるものは、いつかは成就されます。それまでにどれほどの時が掛るかは、私の口からはあえて予言しないでおきましょう。ただ、物的進化が絶え間なくその目的を果たしつつあるように、それと並行して霊的進化もそれなりの役割を果たしつつあることを申し上げておきます。
・・・人間はどの程度まで殺すことが許されているのでしょうか。
〝許されている〟と言う言い方は感心しません。確かに人類には自由意思が与えられておりますが、それは条件付きであり制約があります。やりたいことは何をやっても良いと言う意味での、無制限の自由ではありません。
そもそも自由意思の授与は、人間が大自然の創造の過程に参加し、大自然の摂理と調和して生き、健康と理解と悟りを得て天命を全うするために神の計画の一環なのです。そうでなかったら進化も発展もありません。
自由意思がなかったら皆さんは成長と進化のチャンスのない、ただの操り人形となってしまいます。せいぜいロボットの様な行動しか出来ませんが、自由意思があると言うことは、その行使の仕方に責任をもたねばならないと言うことになります。
殺すという行為は、例えやむを得ない事情があるにしても、いけないことであることは明らかです。生命を与える力はないのですから、奪う権利もない筈ですが、酌量すべき情状というものがあることも事実です。
霊的に進化するにつれて人間は、霊的実在についての知識を基盤とした明確な原理に則って生きなければならないことを自覚するようになります。所詮完璧な生き方を望むべくもありませんが、改善の余地は大いにあります。
地球は生命活動の場の一つに過ぎません。これからももっともっと多くの生活の場を体験することになっております。
それが永遠に続くのです。地上生活なんかいい加減に送ればよいと言っているのではありません。あなたが送るべき全生活のほんの一欠片にすぎないことを申し上げているのです。
その地球をよりよい生活の場とする為に努力なさってください。地球は宇宙の惑星の中で最も進化の程度の低い部類に属しますが、それなりの進化の目標があります。
同時に、進化とは永遠の過程でもあります。完全と言うことは永遠に達成できないのです。なぜなら、完全に近づけば近づくほど、その先にまだ達成すべきものがあることを知るからです。
・・・(ゲストの一人)我々スピリチュアリストは形骸化しつつある古い宗教と対決し反抗することに多大な時間とエネルギーを注ぎ込んでいるようですが、もう一つの宗教である・・・信奉者は宗教と呼ばれることを拒否なさるかもしれませんが・・・マルキシズムないしはコミュニズム(共産主義者)については全く言及しておりません。
今では少なくとも思想上の共鳴者は三分の一にも達しています。既成宗教のいずれより遥かに頑強で、その影響力は強烈です。これこそ純粋な唯物観を説いている点で、我々の本当の敵ではないかと思うのですが。
コミュニズムと言うのは何の事でしょうか。
・・・マルクスとレーニンとエンゲルスの著作を基にした政治的、経済的、ならびに社会的思想と言ってよいかと思います。
もしもコミュニズムが真の協調性を意味し、階級上の差別もなく、住民がお互いに助け合う心をもった社会のことであるとすれば、現在の地上世界で思想的にコミュニズムを標榜している国家には、そういうものは存在しておりません。私の言わんとするところを明確に述べてみましょう。
地上世界の問題のそもそもの根源はマテリアリズム(物質偏重・唯物思想)にあります。皆さんはそれと真っ向から対立するスピリチュアリズムを提起して唱導なさっているわけです。そして霊が実在であることが単なる理論ではなくて事実であることの証拠を提供しております。
私と同じく皆さんは、ナザレのイエスをリーダーとする神庁の霊団によって考案された霊的大計画の一環として、霊力を地上に送り届けるだけでなく、そこにしっかりと根付かせ、いかなる地上の勢力が例え束になってかかっても、それを駆逐出来ないようにする為に、本日もこうして集まっているわけです。
今まさに世界中にその為の霊的橋頭堡が設営され地固めされつつあります。それはさらに多くの橋頭堡を築く為です。霊力はすでに地上にしっかりと根付き、その恵み深い影響力を発揮しております。公的には禁じられている国々においてすら働いており、これからも働き続けます。
皆さんは明日の事を思い煩う必要はどこにもありません。最善を尽くして私達に協力してくだされば良いのです。その内に徐々にではありますが、地上の癌である物欲が除去されていきつつあることに気づかれるでしょう。
・・・(もう一人のゲストが息子から依頼された質問として)共産主義者(コミュニスト)の指導霊と言うのも存在するのでしょうか。
そういう質問をされて私がどう言う受け取り方をするかを説明しますので、しっかりと理解してください。
私はラベルと言うものには全く関心がありません。私にとっては何に意味もありません。地上世界ではラベルが大切にされます。・・・共産主義者、社会主義者、保守党、労働党、スピリチュアリスト、セオソフィスト、オカリスト、などなど挙げていったらキリがありません。
しかし大切なのはラベルではなく、その中身です。コミュニストと言う用語の起源は、物的財産は共有するのが正しいと信じた遠い昔に遡ります。それ自体はとても結構なことです。
如何でしょう。有り余るほど持っている人が足りない人に分けてあげると言うのは公正なことではないでしょうか。教師と言うのは持てる知識を持たざる生徒に譲ってあげようとする人のことではないでしょうか。
分かち合うと言うのは立派な原理です。私達霊がこうして地上へ戻ってくるそもそもの目的も、やはりそこにあります。皆さんは私たちから学び、私達は皆さんから学ぶと言うことです。
聖書にも〝地球とそこにあるものは全て主のものなり〟(コリント①10・26)とあります。これは人間は地上のものは何一つとして所有できない・・・自分のものとはなり得ないことを意味します。地上にいる間だけ、リースで所有しているようなものです。永遠に自分のものではありません。
地上のゴタゴタはみんなが自分が一番いいと思うものを少しでも多く自分のものにしようとする・・・一番悪いものを欲しがるものはいません。・・・そこから生じております。その結果として強欲、貪欲、私利私欲が王座に祭り上げられ、物欲第一主義が新しい神として崇拝されることになります。
地上には物欲優先の副産物が、見るも痛ましいほどはびこっております。悲劇・卑劣行為・飢餓・栄養失調・残虐行為・動物実験、こうしたものは全て物欲を優先させることから生じる恐ろしい産物です。
皆で分け合うと言う理念は結構なことです。共産主義者(コミュニズム)と言う用語そのものに怯えてはいけません。初期のクリスチャンには全財産を共有し合った時期が、少しの間でしたがありました。と言うことは我らのことをコミュニストと呼んでも良いことになります。
一つの理念をもつことと、それを実現するために拷問や抑圧や迫害や専制的手段を用いることとは別問題です。そこに大事な違いがあります。
ですからご質問に対するお答えは、定例の恩恵をおしみなく分かち合うべきであると信じて働いているコミュニストの指導霊はいます、と言うことになります。そこに何ら問題とすべきものはないと思います。
※※
別の日の交霊会で戦争がもたらす地上と霊界双方の弊害について語る―
私達は霊界が再び傷ついた魂の病院となるのは御免こうむります。こうして地上の皆さんとともに仕事をしている私たちから申しあげたいことは、皆さんは私達がお教えしていることの全てを地上生活に取り入れていくだけの用意が出来ていなければならないと言うことです。
私達が代わりにやってあげるわけにはいかないのです。私達は人間のしている間違ったことがもたらす結果が分かります。地上でそういうことをしていたら霊界へ来てからこうなりますよ、と言うことをお教えすることしかできません。
そのことをわざわざこうして地上へ戻ってきて教えねばならないのは、戦争のもたらす結果が破綻と害悪でしかないからです。霊界へ送り込まれてくるのは霊的に未熟な魂ばかりです。
言ってみれば熟さないうちにもぎ取られた果実の様なものです。地上で使用していた肉体と言う表現機関を破壊されて分別を失った魂を一体なぜ私達が癒してあげなければならないのでしょうか。
人間が人間としての義務を果たさないが為に霊界へ送り込まれてくる未熟な魂の世話をしに、一体なぜ私達が巡礼の旅先からこの地上へ後戻りしなければならないのでしょうか。
もしも私達の愛の心がなければ、つまりもしも大霊の愛が私達を通して表現されなかったとしたら、こうして同じ大霊の子である地上の皆さんと交わるようなことはしないでしょう。
どうか私達の説く真理を唯一の判断基準として私達を裁いて下さい。〝あなたの教えは間違っている・・・われわれの常識に反するから〟などと言う幼稚なことは言ってはなりません。
霊界にとっての迷惑はさておいても、地上での戦争を正当化することが許されるわけがありません。物質的な面に限ってみても、ただ破壊するのみです。
霊界にとっても正当化の根拠はありません。なぜならば、神の摂理への干渉にほかならないからです。霊はその期が熟した時に肉体から離れるべきであるとの摂理に、よくも平気で逆らえるものだと呆れます。
皆さんもかくあるべきと言う原理を何としても擁護しなくてはなりません。分別のない人達に霊の仕事の邪魔を許してはなりません。ご存じでしょうが、進歩と平和と調和を求めて戦う私達霊団の向こうを張って、それを阻止せんとする組織的な邪霊集団もいるのです。(巻末注参照)
地上世界は人類と言うものを民族別に考えず、全てが大霊の子であると言う観点から考えないといけません。障害をこしらえているのは人間自身なのです。大霊ではありません。大霊は人間一人ひとりに神性を賦与しているのです。したがって人類の全てが大霊の一部なのです。
地上は建設すべきものが山ほどあると言うのに、上に立つ〝お偉方〟はなぜ破壊することばかりしたがるのでしょう。大霊はそうした人間の行為の全てを規律的に治める為の摂理を用意しております。それに干渉する様なことをしてはなりません。逆らったことをすれば、その結果は破壊と混乱でしかありません。そのことは(世界大戦で)目のあたりにしたばかりではないでしょうか。
ここにお集まりの皆さん方の一人一人が積極的にその影響力を行使して、大霊の計画の推進の為に尽力する人達を先導して頂きたいのです。大霊が流血を望まれると思いますか。戦争による悲劇、苦痛、失業、飢餓、貧民窟を大霊が望まれると思いますか。子等が味わえる筈の恵みを奪われて喜ばれると思いますか。
殺意が芽生えた時、理性が去ります。人間には神性が宿っていると同時に、動物進化の名残としての獣性もあります。人間としての向上進化と言うのは、その獣性を抑制し神性をより多く発揮できるようになることです。獣性が優勢になれば戦争と衝突と殺人が横行します。
神性が発揮され、お互いに援助し合えるようになれば、平和と調和と豊かさが得られます。
地上世界を国別、民族別に考えてはなりません。全てが大霊の一部であることを教えないといけません。皆大霊の子なのです。海で隔てられていても大霊の前では兄弟であり姉妹なのです。私達の教えは単純です。しかし真実です。自然の摂理に基づいているからです。
摂理を無視した方法で地上世界を築こうとすると混乱と無秩序が生じます。必ず破綻をきたします。
忍耐強い努力と犠牲を払わないことには、これからも数々の戦争が起きることでしょう。種をまいてしまった以上は、その産物を刈り取らねばなりません。因果律はごまかせないのです。
流血の争いと言う種を蒔いておいて平和と言う収穫は刈り取れません。他国を物理的に支配せんとする欲望の張り合いをしながら、その必然の苦い結果を逃れるわけには参りません。
愛の種を蒔けば愛が実ります。平和の種を蒔けば平和が実ります、互助の種を地上の至る所に蒔いていけば、やがて互助の花が咲き乱れます。
単純な真理なのです。あまりに単純すぎる為に、却って地上の〝お偉方〟を当惑させるのです。
・・・〝大戦〟(※)で戦死した人達の犠牲は何一つ良い結果を生み出さなかったでしょうか。(※英語で〝大戦〟Great Warという時は第一次大戦のことをさすが、ここでは第二次大戦も含む戦争一般のこととして訳した-訳者)
何一つありません。今の世界の方が〝偉大なる戦争〟勃発以前より更に混とん状態に近づき、破壊が増しております。
・・・数多くみられた英雄的行為が無駄に終わってしまうこともあり得るのでしょうか。霊的に何の報いもないのでしょうか。
その犠牲的行為をした当事者個人にはあります。動機が正しかったからです。ただ忘れないで頂きたいのは、そうした英雄を後世の人が裏切っていることです。犠牲を無駄に終わらせています。その原因は相変わらず物的欲望を優先しているからです。
・・・毎年のように〝終戦記念日〟の催しがありますが、少しは役に立っているのでしょうか。
たとえわずか二分間であっても、まったく思いださないよりは増しでしょうが、その日をライフル銃と銃剣と花火と言う、戦争で使用する軍事力の誇示で祝って、一体どうなると言うのでしょう。何か霊的な行事で祝えないものでしょうか。
・・・同じ日にスピリチュアリストの集会で行っている記念行事を続けることには賛成なさいますか。
真実が表現されているところには必ず価値あるものが生まれます。説教も奉仕的精神を生むものであれば結構です。ただ聴くだけで終わる説教は無意味です。聴衆をいかにも平和の味方であるかの気分に浸らせるだけのきざな説教ではいけません。
私が望むのは実際の活動を生み出すような説教、人の為に役立つことをしたいと思わせるような説教、弱者に勇気を与えるような説教、喪の悲しみに暮れる人を慰めてあげる様な説教、住む家さえない人達の心の支えとなるような説教、物質界の汚点である虐待行為の全てに終止符を打たせるような説教です。
お互いがお互いの為になることをする以外に平和の道はありません。全ての人間が互助の精神にみたされ、人の為になる行為を実践するまでは、平和は到来しません。これまで続けられてきた終戦記念日も、今日では次の戦争の準備の為の小休止でしかありません。
・・・不戦主義(兵役拒否)の運動に賛成なさいますか。
私はどの〝主義〟にも属しません。私にはラベルはありません。名目に惑わされはいけません。その目的としているものは何か、何を望んでいるのか、そこが大切です。なぜなら敵と味方の双方に誠実で善意の人がいるからです。
私たちの教えは至って単純ですが、それを実行に移すのは勇気がいります。一つの糸口をつかんだら、つまり霊的真理を知ることによって覚悟を決め、物的生活のあらゆる事柄に奉仕と無私の精神で臨めるようになれば、地上に平和と和合が招来されます。
それは主義・主張からは生まれません。神の子がそうした精神の真実性を悟り、それを日常生活に置いて、工場に置いて、政府機関に置いて、あらゆる国家政策において応用していくことによってはじめて実現されるのです。
私たちにできることは、これこそ真実に基づいていると確信した原理を説き、それを応用すれば、必ずや地上世界に良い結果がもたらされることを自信をもって申し上げるのみです。
その地上世界にいるのはあなた方です。最後の責任はあなた方にあります。しかし皆さんが人の道を誤ることさえなければ、私達も精一杯の愛と厚意をもって導き、万全の協力をおしまないことだけはお約束します。
訳者注=私が英国三代霊訓と呼んでいる『シルバーバーチの霊訓』と『ベールの彼方の生活』と『霊訓』のうち、邪霊集団の存在について一番強く説き警告しているのは『霊訓』である。その中から参考とすべき箇所を部分的に紹介しておきたい。通信は自動書記によるインペレーターからのもの。
≪すでに聞き及んでいようが、今汝を中心として進行中の新たな啓示の仕事と、それを阻止せんとする一味との間に熾烈なる反目がある。我々霊団と邪霊集団との反目であり、言い替えれば人類の発達と啓発の為の仕事と、それを遅らせんとする働きとの戦いである。それはいつの時代にもある善と悪、進歩派と逆行派との争いである。
逆行派の軍団には悪意と邪心と欺瞞に満ちた霊が結集する。未熟なる霊の抱く憎しみによって煽られるものもいれば、真の悪意と言うよりは悪ふざけ程度の気持ちから加担する者もいる。
要するに程度を異にする未熟な霊が全てこれに含まれる。闇の世界より光明の世界へと導かんとする、われわれを始めとする他の多くの霊団の仕事に対して、ありとあらゆる理由から阻止せんとする連中である。
汝にそうした存在が信じられず、地上への影響の甚大さが理解できぬのは、どうやらその現状が汝の肉眼に映らぬからのようである。となれば汝の霊眼が開くまでは、その大きさ、その実在ぶりを如実に理解することは出来ぬであろう。
その集団に集まるのは必然的に自爆霊、未発達の類である。彼らにとって地上生活は何の益ももたらさず、その意念の赴くところは彼らにとっては楽しみの宝庫とも言うべき地上でしかなく、霊界の霊的な喜びには何の反応も示さぬ。
かつて地上で通いなれた悪徳の巣窟をうろつき回り、同質の地上の人間に憑依し、哀れなる汚らわらしき地上生活に浸ることによって、淫乱と情欲の満足を間接的に得んとする。(中略)
一方、人間の無知の産物たる死刑の手段によって肉体より切り離された殺人者の霊は、憤怒に燃えたまま地上をうろつき回り、決しておとなしく引っ込んではおらぬ。毒々しき激情をたぎらせ、不当な扱いに対する憎しみ・・・その罪は往々にして文明社会の副産物に過ぎず、彼らは其の哀れなる犠牲者なのである・・・を抱き、その不当行為への仕返しに出る。地上の人間の激情と生命の破壊行為を煽る。次々と罪悪をそそのかし、自分が犠牲者となったその環境の永続を計る。(中略)
かくの如く地上の誤りの犠牲となって他界し、やがて地上へ舞い戻るこうした邪霊は、当然のことながら進歩と純潔と平和の敵である。われらの敵であり、われらの仕事への攻撃の扇動者となる。至極当然の成り行きであろう。
久しく放蕩と堕落の地上生活に浸れる霊が、一気に聖純にして善良なる霊に変わり得るであろうか。肉欲の固まりが至純なる霊に、獣の如き人間が進歩を求める真面目な人間にそう易々と変われるであろうか。それがあり得ぬことぐらいは汝にも分かるであろう。
彼らは人間の進歩を妨げ、真理の普及を阻止せんとする狙いに置いて、他の邪霊の大群とともに、まさに地上人類と我々の敵である。真理の普及がしつこき抵抗にあうのは彼らの存在のせいであり、汝にそうした悪意の影響力の全貌の認識は無理としても、そうした勢力の存在を無視し、彼らに攻撃のすきを見せることがあってはならぬ≫
第8章 最後の晩餐
訳者前置き-本章はシルバーバーチの交霊会を録音したカセットテープSilver Birch Speaks<シルバ-バーチは語る>の全訳である。原書では部分的に分散して紹介されているが、本書ではまとめて全部紹介することにした。シルバーバーチの交霊会は初期の頃は速記のみで、その後は速記と録音とによってすべて保存されているが、市販用にカセットテープに収められたのは、これまでのところこれが唯一である。
最後の晩餐という見出しは、たまたま出席者の数がキリストの最後の晩餐の時と同じ十三人だったので、リーバ女史がそう呼んだのであるが、シルバーバーチの霊訓の最後を飾るものとしてもふさわしいので、そのまま用いた。訳文の中で(後注1,2,3,4)として章末にまとめたものには英文テクストをお持ちの方への配慮である。
なおカセットテープと英文テクストをご希望の方は巻末の〝訳者あとがき〟を参照されたい。入神したバーバネルに乗り移っていよいよ話せる用意の整ったシルバーバーチが冒頭に呼びかけているサム・デニスSam Dennisは司会者で、他のカセットでも司会やインタビュアーの役をしている人である。(この八章の会話行頭の・・・はすべてサム・デニス氏)
最初に女性の声でこのカセットの内容についても解説があり、最後に〝それではシルバーバーチ霊に語っていただきましょう〟と結んだあと、シルバーバーチの次のような言葉で会が始まる。(カッコ内はすべて訳者による)
サム・デニスさん、始めることに致しましょう。
・・・よろしくお願いします。(後注1)
皆様に大霊の祝福のあらんことを。
本日もいつもの順序で会を進めることとし、悩みごとや厄介なこと、心配ごとや不安はとりあえず脇へ置いて頂きましょう。そしてお互いが可能な限り和気あいあいの内に最高のものを求めんとする願望に置いて一つとなるように努力いたしましょう。【次第に開会の祈り(インボケーション)にはいる】
無限なる愛と叡智の根源である大霊を超えるものは誰一人、何一つ存在し得ません。その大霊こそが、私達の住まうこの果てしなき宇宙の責任者であらせられ、その無限なる知性が、巨大と微細とを問わず、また複雑と単純とを問わず、ありとあらゆる存在を支配し規制する摂理の全てを創案し維持しておられます。それが、およそ例外と言うものを知らない不変不動の法則に従って一糸乱れることなく働いているので御座います。
私達はその崇高なる力に深甚なる敬意を表するものでございます。その力が驚異的真理を啓示し、それが私達の精神の領域を広げ、自分とは一体誰なのか、又、何者なのかについてのより大きな理解を与え、更には、われわれの全てをその懐に抱きかつ支配する崇高なる力について一層明瞭なる心象を抱かせてくれるところとなりました。
その驚異的機構の中にあっては誰一人、何一つ、見落とされることも忘れ去られることも、あるいは無視されることもございません。いずこにあろうと、ありとあらゆる存在が扶養と供給を受けるよう配慮されているのでございます。
同時に私どもは、いついかなる時も私達の背後に強大なる高級霊団が控えていることも認識致しております。その望むところはただ一つ、私達の為に力を貸し、代わって私達が恵まれぬ人達の為に力を貸すようになる、と言うことでございます。
私たちはこれまで多大の援助を受け、慰めを与えられ、導きを得てきたからには、今度は代わって私たちが授かった才能の全てを駆使して、死別の悲しみの中にある人には慰めを、病の苦しみの中にある人には癒しを、悩める人には導きを、人生に疲れた人には力を、道を見失える人には道しるべを与え、彼らを取り巻く暗闇に光輝溢れる真理の光明をもたらしてあげる心の用意を常に整えさせ給わんことを。
ここに、常に己を役たてることのみを願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。
本日こうして皆さんのもとへ参り、霊の世界からの愛とメッセージをお届けできることを嬉しく思います。今夜の集まりの特別な目的(市販の為の録音をすること)はよく存じております。そこで私は、私の言葉をお聞き下さる方々の為に、私の使命ならびに私と同じ願いに動かされている霊団の使命の背後に託された目的をまずご説明するのが適切と考えた次第です。
(それを冒頭の祈りの中で簡単に述べたと言うこと)
霊的なことはこれが初めてという方々に申し上げたいのは、私は皆さんと同じ一個の人間的存在であると言うことです。ただ私は、私の言葉をお聞きくださっている方のどなたよりも永い人生を生きてまいりました。
そしてこの地上より遥か彼方の世界における経験のたまものとして私は、あなた方が神と呼んでおられる大霊、ならびにその大霊の意志を究極において是非とも行きわたらせるために案出された大自然の摂理について、いくばくかの知識を手に入れました。
その経験の結果学んだものを、私は受け入れて下さる方に喜んでお分けしたいと思います。何かのお役に立つものと考えるからです。私はいかなる意味においても神さまのような存在ではございません。
私はまだまだ人間的要素を残しており、誤りも犯せば弱点もあり不完全です。皆さん方のどなたとも同じように、まだまだ完全へ向けての永い道のりがあります。それは無限に続く道です。
しかし私は、他の同僚と同じように、これまでに辿ってきた道を後戻りして、その間に得た真理と叡智と知識の幾許かを披露して、それを皆さん方にお分けするようにとの要請を受けたのです。
と同時に、私達に協力してくださる方々の援助を得て、千変万化の生命形態のすべてを支配する崇高なる霊力を利用して、霊媒的能力を持つ人々を通じて恵み深い目的を果たすように手筈を整えることも出来ます。
過去においても同じ霊力が流入して、今日の人が奇跡とみなしているところの驚異的な現象を演出いたしましたが、ここで申し上げておきたいのは、いかなる現象にも自然法則と言うものが働いており、それはいかなる力によっても停止されたり廃止されたりすることはあり得ず、原因に従って結果が生じると言う整然たる因果律に則って働くほかはないと言うことです。
過去において発生したものも、それがいかに目を見張らせるものであろうと、いかに度肝を抜くようなものであろうと、いかに途方もないものであろうと、いかに驚異的なものであろうと、必ず自然法則の働きによって生じていたのです。
その法則は物質の領域においてだけでなく、霊的領域においても絶え間なく働いており、条件さえ整えば、霊的法則(スピリチュアル)・心霊的法則(サイキック)・反物質的法則(アストラル※)・エーテル的法則を総動員して、かつては奇跡と呼ばれ、今日では交霊会において霊媒的能力によって演出される、言わゆる心霊的現象を起こすことが出来ます。
(※物的身体と霊的身体とをつなぐ媒体を複体(ダブル)と呼んでいるが、これがエーテル的な反物質体で出来ている。ここではその生理的法則のことを言っている)
さて、霊媒と言うのは霊的能力を授けられている人間のことで、それをバイブルの中で使徒パウロがうまく説明しております(コリント①12)。こうした能力は神から授かるものであり、授かった者はそれを開発することによって神の恵みが届けられる通路として使用されることが可能となるわけです。
霊媒による現象は全て霊力の作用によります。従ってそれを今ご覧になっている皆さんは、かつて〝聖なる地〟と呼ばれた地方において起きていたのとまったく同じ現象を見ていることになるのです。大霊は不変です。自然の摂理も不変です。
それが今も昔と同じく作用している事は、かつて(三千年前に)この地上で生活したことのあるこの私が今こうして霊力を利用することによって霊媒を通じて皆さんに語りかけることが出来ると言う事実が証明しております。
もう一つご説明したいことがあります。それは、私達は途方もなく大きい霊的組織の一翼を担っており、総合的な計画とでも申し上げたいものを推進していると言うことです。
その基本計画は、霊力が引き続き地上へ流入してますます多くの人々の元へ行きわたり、無知と過りと迷信を駆逐して正しい真理と知識の光明のもとへ誘い、かくして地上へ生を受けたその目的に沿って各自が神の意図された通りに生き天命を全うするようにもくろまれているのです。
霊力は人間の記憶を絶した遠い過去の時代から間断なく地上へ流入しております。ただ、これまではそれが一時的で散発的なものに過ぎませんでした。
驚異的な出来事も、神技のような現象も、啓示された教えも、その時代その民族にあったものが授けられたのでしたが、やがてそれが朽ち始めます。せっかく啓示されたものに政治的、神学的、時には国家的利害の絡んだ、意図的な作為がなされたのです。
しかし今は違います。先ほど申し上げた総合的計画と言うものがありますから、霊力はすでに地上に立派に根付いております。なぜか。どうしてもそうしなければならない必要性が生じているからです。
組織的宗教は数多く存在しますが、地上の人間に真の自我を見出させ、生命の根源である神性を発揮させるような理想に沿って生きる、その指針を提供することは出来ませんでした。何よりもまず〝霊性〟が日常生活の中で顕著とならないといけません。
皆さんの住んでおられる地上と言うところは、とても暗い世界です。騒乱と暴力沙汰が絶えず、貪欲と妬みに満ちております。大霊の代わりに富の神が崇められております。今なお間違った偶像が崇拝の対象とされています。
すでに地上にもたらされている証拠を理性的に判断なされば、生命は本質が霊的なものであるが故に、肉体に死が訪れても決して滅びることはあり得ないことを得心なさるはずです。
物質はただの殻に過ぎません。霊こそ実在です。物質は霊が活力を与えているから存在しているに過ぎません。その生命源である霊が引っ込めば、物質は瓦礫してチリに戻ります。が、真の自我である霊は滅びません。霊は永遠です。死ぬと言うことはあり得ないのです。
死は霊の第二の誕生です。第一の誕生は地上へ生を受けて肉体を通して表現し始めた時です。第二の誕生はその肉体に別れを告げて霊界へ赴き、無限の進化へ向けての永遠の道を途切れることなく歩み始めた時です。
あなたは死のうにも死ねないのです。生命に死はないのです。不滅の個霊としてのあなたはその肉体の死後も生き続け、あなたと言う個的存在を構成しているものは全て存在すると言う事実を立証するだけの証拠はすでに揃っております。
死後も立派に意識があり、自覚があり、記憶があり、理性を働かせる愛を表現する力が具わっています。愛は神性の一つなのです。愛はその最高の形においては神々しさを帯びたものとなります。そして、生命と同じく、不滅です。
私たち霊団はなぜこの地上へ戻ってくるのか? 数々の心痛と難題と苦悶と災難と逆境の渦巻く地上世界へ永遠に別れを告げることは、いとも簡単なことです。しかし、私たちは地上人類への愛があります。そして又、それに劣らない愛の絆によってあなた方と結ばれている霊(地上的血縁で繋がっている霊や類魂)も存在します。
教会で行われている婚礼では“死が二人を別つまで〟と言う言い方をしますが、もしも二人が霊的に結ばれていなければ、死が訪れる前から二人は別れております。そこに愛があれば二人を別れさせるものは何もありません。愛は宇宙における強力なエネルギーです。ひたすら人類の為と思って働いている霊界の高級霊を動かしているのも愛なのです。
私達は自分自身のことは何一つ求めません。崇拝して頂こうとは思いません。敬っていただこうとも思いません。もしも私達が何かのお役にたてば、そのことを神に感謝していただき、ご自身が恩恵を受けたそのお返しに同胞へ恩恵を施してあげて下されば、それでいいのです。
今地上にはびこっている欲望は是非とも愛と置き換えないといけません。なぜならば愛は霊性の表現の一つだからです。愛はいろいろな形をとります。哀れみ、奉仕、友情、協力などです。人間は誰であろうと、いずこにいようと、お互いがお互いになくてはならない存在です。肌の色、階級、国家、言語、こうしたものは物質的な相違に過ぎません。
霊的に言えば皆さんはお互いにつながり合った関係にあります。人類は一大霊的家族を構成しているのです。なぜなら、霊性という共通の要素が、神とのつながりと同じように、きっても切れない絆によってしっかりとお互いを結びつけているからです。
その力は、とかく離反させるそうした物的相違のいずれよりも強力です。皆さんはその霊力を最大限に発揮させなければいけません。真の自己革新とはなにかを知らなくてはいけません。
物的欲望に拘らないと言う意味で〝我を棄てる〟ことが必要です。(後注2)それは〝霊の宮〟である身体を養う為の物的必需品まで捨てなさいと言う意味ではありません。
しかしそれと同等に〝永遠のあなた〟である霊の属性も大切にしなくてはいけません。あなたに潜在する神性を最大限に発揮し、あなたの存在の本来のあり方である同胞関係を実践しなくてはいけません。魂は白色でも黄色でも黒色でも赤色でもありません。魂には特殊な色も人種上の差別もありません。
この事実をよく理解し実践しなくてはなりません。人類の優越性はその内部の神性を開発し、それを愛と哀れみと思いやりの形で他の同胞のみならず、同じ地球上に住む動物に対しても発揮するようになって初めて得られるのです。
地上の至る所で行われている無益な残虐行為と乱獲は止めないといけません。真の平和は人類がその霊的起源と天命に恥じない行為を実践できるようになった時に訪れます。
私が申し上げることは全て、皆さんの日常生活に少しでも理解と知識と真理と叡智をもたらしてあげたいと言う一念から出ているのですが、それの基本となっている原理の中には、皆さんが子供の時から教えられてきた神学的な教義やドグマや信条と対立するものがあることは充分に考えられます。
私たちは皆さんの理性に訴えているのです。もしも私たちの言うことと態度にあなた方の知性を侮辱し理性を反発させるようなものがあれば、それはどうぞ受け入れないでください。私たちはあなた方の理性、あなた方の知性による納得を得たいのです。
その上でなら、私達の仕事の協力者として、神の意志を地上に行きわたらせるための道具となっていただけるでしょう。そしてそれが地上平和の到来を促進することになりましょう。
かくして霊的資質を十分に発揮するようになれば、その当然の結果として、豊かさと光輝と落着きと決意と自覚と内的安らぎが得られます。なぜならば、それは神が生み出した摂理と調和していることを意味し、さらには、各自がその一部を宿している神性の大源である神そのものと一体となっていることになるからです。
神の祝福のあらんことを。
サム、以上で私が用意してきたものは終わりました。聞こえますでしょうか。
・・・ええ、よく聞こえております。
それでは、もし何かご質問があれば・・・みなさんご用意はよろしいでしょうか。
・・・結構です。用意はできております。結構です。
もし質問なさりたいことがあれば、精いっぱいお答えしましょう。
・・・これは多くの知人から聞かれることで、とても厄介になっている問題ですが、つまり人間いつ死んだと言えるのかという問題です。最近の新聞やテレビでも、いつ本当に死んだことになるかについて医師や法律家の間で随分議論されております。
心臓が停止したら死んだことになると言う人もいれば、脳死を持って本当に死だと主張する人もいます。あなたは何を持って〝死んだ〟と判断すべきだとお考えですか。・・・この地球と言う惑星へ別れを告げる時、つまり物的身体と別れるのは・・・
分かりました。ご承知の通り人間には霊が宿っています。その身体を生か占めている、神性を帯びた存在です。そして、その霊によって活力を与えられて初めて存在を得ている物的身体を具えています。
すでに述べましたように、霊が最終的に引っ込んだ時・・・この〝最終的〟と言うところをここでとくに強調しておきます。なぜなら一時的ならば毎晩寝入るごとに引っ込み、朝目が覚めると戻っているからです・・・霊が最終的にひっこんでしまえば、物的身体は活力源を失うので、死が訪れます。
さて、いわゆる〝霊視能力〟を持った人が見ると分かりますが、霊体と肉とをつないでいるコード(玉の緒)が霊体から次第に離れるにつれて伸びていき、それがついに切れた時、両者の分離が最終的に完了します。その分離の瞬間が死であり、そうなったら最後、地上のいかなる手段を持ってしても、肉体を生き返らせることはできません。
・・・そもそもこの問題が生じたのは臓器を提供する技術が新たに開発されたからです。今日では医師は生きた心臓とか腎臓を頂戴する為に人が死ぬのを待っているという状態です。そこで問題となるのが〝この人は本当に死んでいるのか〟〝もう臓器を摘出することが許されるか〟と言うことで、それが医師を悩ませる深刻な問題となっているわけです。
臓器移植については私も良く存じております。そして又、その動機が立派である場合が多いことも知っております。ですが、私は、人間のいかなる臓器も他人に移植することには反対であると申し上げざるを得ません。
そもそも死と言うのは少しも怖いものではありません。死は大いなる解放者です。(このあたりから〝大勢いるのです〟と言うところまで、おかしさをかみ殺した言い方でしゃべっている)
死は自由をもたらしてくれます。皆さんは赤ん坊が生まれると喜びますが、私達の世界ではこれから地上へ生まれていく人を泣いて見送る人が大勢いるのです。同じように、地上では人が死ぬと泣いて悲しみますが、私達の世界ではその霊を喜んで迎えているのです。
なぜならば、死の訪れは地上生活が果たすべき目的を果たし終えて、次の霊界が提供してくれる莫大な豊かさと美しさを味わう用意がこの霊に具わったことを意味するからです。
・・・もう一つ、多くの人を悩ませているのは、死後の死体の取り扱いの問題です。人によっては、死体をいじくりまわす前は一定の時間そっとしておいてあげる必要があると信じており、そういう人達は、今日の医学界では人が死ぬとさっさと実験室へ運びこんで医学実験ないしは教材として使用する傾向があるので心配している訳です。死後すぐに死体をいじくりまわすと魂または霊に何らかの害があるでしょうか。
それはその霊が霊的なことについての知識があるか否かによって違います。何も知らない場合は一時的に障害が及ぶことがあります。なぜかと言えば、例え肉体と霊体とをつないでいるコードが切れても、それまでの永年にわたる一体関係の名残で、ある程度の相互作用が続いていることがあるからです。
一般的に言えば、霊的に全く無知だった人の場合は、埋葬ないし火葬を行う前に三日間は合間を置くことを勧めます。それから後はどうなさろうと構いません。死体を何かの役に立てる為に提供したいのであれば、それは当事者がそう決断なさればよろしい。
ただ次のことも申し添えておきます。人間には生まれるべき時があり、死すべき時があります。もしもその死すべき時が来ておれば、たとえ臓器移植をしても、肉体をそれ以上地上に永らえさせることは出来ません。
・・・それと同じ関連した問題として、〝突発事故〟による死の問題があります。例えば百二十人の乗客を乗せた飛行機が離陸して十五分後に爆発して全員が即死したとします。この場合は乗客の魂または霊にどう言う影響があるでしょうか。
今申し上げたのと全く同じことです。霊的実在についての知識がある場合は何の影響もありません。知識のない人はショックによる影響があります。しかし、いずれ時の経過とともに意識と自覚を取り戻します。
・・・天命をまっとうしないうちに突発事故で他界した場合、次の再生が早まることになるのでしょうか。
私はその〝突発事故〟と言う用語が気に入りません。原因と結果の要素以外には何も働いていないからです。たまたまと思われるものも因果律の作用に過ぎないものです。再生の問題についてですが、これは大変複雑な問題で、もっと時間を頂かないと充分なお答が出来ません。
・・・最後に・・・最近私はルドルフ・シュタイナーの本を読んだのですが、その中で彼は〝死者へ向かって読んで聞かせる〟と言う供養の仕方を説いております。この〝読んで聞かせる〟ことの効用についてご教示を仰ぎたいのですが。
〝死者〟と言うのは何のことでしょうか。
・・・ですから、物的身体から離れて霊界へ行った人たちです。
ああ、なるほど!私はまた、目の前に横たわっている死体に、向かって読んで聞かせるのかと思いました。(ここでシルバーバーチは独特の含み笑いをする)
・・・違いますよ!。
そうすることで一体どうなると言っているのでしょうか。(後注3)
・・・何人かの弟子たちが他界した親類縁者へ向けて毎日かなりの時間、あるいは教えを読んで聞かせると言うのです。それを聞くことで、その親類縁者の霊が良い影響を受けると考えているわけです。
別に害はないでしょうが、たいして益になるとも思えません。こちらの世界には受け入れる用意の出来た人なら誰でも知識が得られるように、沢山の施設が用意してあります。受け入れる素地ができていなければ受け入れることは出来ません。それをそちらでしようと、こちらでしようとそれは同じことです。そうでしょう、サム、師は弟子に応じて法を説くほかはないわけでしょう。
(訳者注-)原則的にはシルバーバーチの言っている通りかもしれないし、事実、霊界ではわれわれの想像を超えた規模で地縛霊の救済が行われているのであるが、それとは別に、愛着を覚える人間に意識的にあるいは無意識のうちに寄り添ってくる霊がいて、その人間が考えていることや読んでいるものによって感化されるということは実際にあるようである。背後霊がそう仕向けるのである。
その意味からも私は、読経のように形式化するのは感心しないにしても、例えばシルバーバーチの霊言を、繰り返し読んだり祈りの言葉を声に出して唱えることは、自分の魂の高揚になるだけでなく、聞いてくれているかもしれない霊にとっても勉強になると考えている。
シルバーバーチは〝よくあなた方はご自分で想像しておられる以上に役に立っておられますよ〟と言っているが、それはそういう意味も含まれているのではないかと考えている)
・・・全くおっしゃる通りです。では最後に、霊体への心霊治療についてお伺いします。医学では物的身体しか治しませんが、最近エーテル体(※)の治療を熱心に行っているところもあります。それは可能なこと、実際にあり得ることでしょうか。
(※霊的身体にも幾つかはあるが、セオソフィ―などではその一つをエーテル体と呼んでいる。一方、英米の心霊家には肉体以外の身体を総合してエーテル体と呼んでいる人が多い。が、ここでは〝複体〟(ダブル)と言う肉体と幽体との接着剤に当る反物質体のことを言っている。チャップマン氏の〝霊体手術〟も実際にはこの複体を手術している)
本当の霊的治療の仕組みは至って単純です。人間は肉体をたずさえた霊であり、霊をたずさえた肉体ではありません。その肉体が健康を損ねる、つまり病的状態となって、その結果苦痛を覚えるようになったら、それは健康を保たせている調和あるいは円満性が崩れているという単純な事実の現れです。
又人間には霊と肉体だけでなく精神もあります。霊が自我を表現し肉体を機能させる機関です。
(別のところでは〝コントロールルーム〟のようなものですと言っている)
さて霊的治療に置いては大始源から発せられる霊的エネルギーが霊的な治療の力を持つ治療家に送られ、それが治療家を通して今度は患者の霊へ向けて発射されます。
その仕組みは〝霊から霊を通して霊へ〟と言うふうに、至って単純に表現することが出来ます。すべての操作が霊的なものなのです。
霊は生命力ですから、不調和状態・・・調和を阻害している何か、障害となっている何かがあって精神と霊と肉体と言う三つの側面が有効に機能していない状態・・・を改善して調和状態を取り戻させようとします。それが功を奏すると、一体性つまり健康が患者に戻ります。
それをエーテル体(複体)を通して行うか霊体を通して行うかは、単なる技術上(テクニック)の問題に過ぎません。肝心なことは霊力が患者の霊を再充電して、本来の能力を取り戻させ調和を回復させることです。
・・・どうもありがとうございました。
ほかに質問はありませんね。(少し間を置いて)よろしい。それでは、これからサークルの皆さんにお一人ずつお話することに致しましょう。(これがいつものしきたりで、個人的な相談を受ける。それは当然カセットには省略されている)
・・・有難うございます。
いえ、お礼はよろしい。私はお礼は頂戴しません。
(個人的相談が終わって閉会の祈り(ベネディクッション)で締めくくる)
私のすべての同志に対して、私からの愛の気持ちをお届したいと思います。その方たちの多くはまだ一度もお会いしたことがございません。しかし皆さんからお寄せくださる愛と好意の念を私はいつも有難く思い、それがあればこそこうして地上での仕事ができていると言う事実を知っていただきたく思います。
これは容易ならざる仕事です。私はこれは一つの素晴らしい挑戦としてお引き受けしたのです。地上は冷やかな世界です。荒涼として陰鬱で暗い世界です。しかし、その中にあって私たちはそこここに愛と好意と友情の炉辺(ロバタ)を見出し、そこで魂を温め、そうした地上の灯台から放たれる光輝を見る楽しさを味わうことが出来ております。
又新参の方々には〝導きを祈り求めなさい。知識を祈り求めなさい。真理を祈り求めなさい。必ずや授かります〟と申し上げたいと思います。昔から〝求めよ、さらば与えられん。叩けよ、さらば開かれん〟と言われておりますが、これはまさしく至言です。
それではこれをカセットでお聞き下さる方々ならびに本日ここにおいでの皆様にも、常に大霊の祝福のあらんことを。(後注4)
注1、直訳すれば「私に声をお掛けくださってありがとう」となるが、ここはデニス氏個人ではなく交霊会の司会者としてお挨拶と取るべきところ。
注2、直訳すれば「欲望が物的で物的であると言う意味において〝我〟を忘れないといけない」となるが、裏返せば本文のようになる。
注3、この言葉には、〝さっきの話ではその点が分からなかった〟というニュアンスが含まれている。
注4、原文では同じ文句のくり返しになっているが、すぐ前の言葉から、訳文のような気持ちで述べていることが推察される。
訳者あとがき-
本書はトニー・オーツセン編の第八巻とパム・リーバ編の第十巻の双方からカットしておいたもので構成した。と言って、残りものの寄せ集めと言うわけでは決してない。第十二巻の〝名言集〟を除けばこれが実質的に最後となるので、〝最後を飾るにふさわしいもの〟を取っておいたと言うのが本当のところである。
シルバーバーチの霊言はどの巻のどの説を読んでも、そこに必ず〝やっぱりシルバーバーチだ〟と思わせる雰囲気が漂っているが、これまで私は日本人としての訳者の立場から、日本人の読者感覚を念頭に置いて、一冊一冊に特徴を持たせるように編集の仕方に工夫を凝らしたつもりである。
そのために本章のように複数の編者によるものが何冊かあるが、もとはと言えば全てハンネン・スワッハー・ホームサークルによって保管されている速記録とテープ録音から各編者が思い通りに抜き出して編纂したものであり、それを私が更に日本語シリーズ用に再編集したわけで、問題は無いであろう。そうした編集方針については現在のサイキックニューズ社の代表であるトニー・オーツセンと会った時に口頭で諒解を得てある。
さて八章の〝最後の晩餐〟は奇しくもキリストの最後の晩餐の時と同じく13人で行われた交霊会のもので、これがSilver Birch Speaks<シルバーバーチは語る>と題するカセットとなって発売されている。意外なことに、シルバーバーチのカセットはこれまでのところこれ一巻しか出ていない。〝SB1〟と言う記号が入っているところを見ると〝SB2〟〝SB3〟をこれから出す予定であることが推察される。そう望みたいものである。
それはともかくとして、リーバ女史は原典でその三分の一程度を、内容に応じて各章に分散して紹介しているが、私はその全部を私自身が筆録して翻訳し、本章で一挙に紹介した。
と言うのも、『古代霊は語る』の巻末で私がシルバーバーチの声のカセットも出ていることを紹介したのがきっかけで、それを聞きたいと言う方から購入方法の問い合わせが多く届いた。が、地方によっては面倒なことになって再度問い合わせてくることが多いので、いっそのこと私が一括で購入して実費でお分けすることを考えた。
そこまで考えが進むと、今度はその全文を英文ワープロで印刷したテクストを添えてあげようと言う老婆心が出てきた。そこで今年の正月三カ日を返上して文章に書き写した。が、インディアン独特の発音のために私にはどうしても聞き取りにくい箇所があるので、全文をコピーしたものを東京在住のシルバーバーチの大フアンで同じカセットを愛聴しておられる康米那(カンナ)女史(インド舞踊の名手で英国人のご主人とともに世界各地を回って公演しておられる)のところへ送って、ご主人と一緒に目を通して頂いた。
おかげでまず完璧ともいえるものが出来上がり、自信を持って公表することが出来る。ここにあらためて康米那(カンナ)女史とご主人に深く感謝の意を表したい。
カセットとテクストをご希望の方は実費として1500円を添えて左記あてに申し込まれたい。カセットを既にお持ちでテクストだけと言う方は、実費として100円切手を同封のうえ申込まれたい。
果たしてどの程度の申し込みがあるか予測がつかないが、ある一定の数、例えば一ダースに達することに締め切って注文を出すと言う形にしたいと考えている。従って少しの間お待ちいただくことになることを予めご承知置き頂きたい。
[申し込み先]〒721福山市西深津町7-3-39 近藤 千雄