シルバーバーチの霊訓(八)
A.W.オースティン(編)
1987年4月 近藤 千雄(訳)

More Philosophy of Silver Birch
Edited by Tony Ortzen
Psychic Press Ltd.(1979)
London, England

まえがき
本書はハンネン・スワッハー・ホームサークルでの過去七年におけるシルバーバーチの霊言の速記録を読み返し、ふるいにかけ、そしてまとめ上げたものである。夏期を除いて、交霊会は月一回の割合で開かれた。

私のねらいはシルバーバーチの哲学と教訓を個人的問題、及び国際的問題との関連においてまとめることである。選んだ題目はなるべく多岐にわたるように配慮した。シルバーバーチはとかく敬遠されがちな難題、異論の多い問題を敢えて歓迎する。それをぎこちない地上の言語の可能性を最大限発揮して、分かり易い、それでいて深遠な響きを持った言葉で解き明かしてくれる。

私はこの穏やかな霊の聖人から受けた交霊会での衝撃を非常に印象深く思いだす。開会前のバーバネル氏の落ち着かぬ様子を見るに見かねて目を逸らすことがしばしばだった。いつもはジャーナリズムとビジネスの大渦巻ど真ん中に身を置いて平然としている,この精力的でエネルギッシュ過ぎるほどの人物がシルバーバーチに身を委ねんとして、その訪れを待っている身の置き所のなさそうな何分間は、本人にとっては神の裁きを待っている辛い瞬間のようで、私には痛々しく思えるのだった。

しかし、シルバーバーチの訪れは至って穏やかである。そしてそのメッセージはいたって単純素朴であるが、今崩壊の一途をたどりつつあるキリスト教の基盤にとっては、あたかもダイナマイトのような衝撃である。十八歳の懐疑論者のバーバネルをある交霊界へ誘って入神させて以来ほぼ半世紀たった今、その思想は一貫して変わっていない。

変わっていないということは進歩がないということではない。その間にいくつかの世界的危険と社会的変革がありながら、それを見事に耐え抜いてきたということは、その訓えの本質的な強固さと実用性を雄弁に物語っていると言えよう。
これからシルバーバーチに登場していただくお膳立てのつもりのこの前書きも、結局はシルバーバーチの霊言を引用するのが一番よいように思われる。ある日の交霊会でシルバーバーチがこの私にこう語ったことがある。

「活字になってしまった言葉の威力を過小評価してはいけません。活字を通して私たちは海を超えて多くの人とのご縁が出来ているのです。読んでくださる私の言葉、と言っても、高級界の霊団の道具として勿体なくもこの私が取り次いでいるだけなのですが、それが、読んでくださった方の生活を変え、歩むべきコース、方角、道しるべとなっております。無知が知識に取って代わり、暗闇が光明に変わり、模索が確信に代わり、恐怖が平静に取って代わります。地上の人間としての義務である天命の成就に向かって踏み出しております。

それ程のことが活字によって行われているのです。それに携わるあなたは光栄に思わなくてはいけません。話し言葉はそのうち忘れてしまうことがありますが、活字にはそれがありません。永久にそこにあります。何度でも読み返して読むことができます。理解力が増すにつれて新しい意味を発見することにもなります。

かくして私たちは、この世には誰一人、また何一つ希望を与えてくれるものはないと思い込んでいた人々に希望の光を見出させてあげることが出来るのです。あなたも私も、そして他の大勢の人々が参加できる光栄な仕事です。それはおのずと、その責任の重さゆえに謙虚であることを要求します。その責任とは、自分の説く霊的真理の気高さと荘厳さと威厳をいささかたりとも損なうようなことは行わないように、口にしないように伝達しないように慎むということです」

そう言う次第で、本書には私個人の誉れとすべきものは何一つない。関係者一同による協力の産物である。では、主役の古代霊、穏やかな老聖人、慈愛溢れる支配霊に登場願うことにしよう。
トニー・オーツセン

訳者注-本書はシリーズの中で一番ページ数が多く、一ばん少ない第一巻に較べると倍以上の霊言が収められている。しかも〝再生〟の章を除いて、重複するところがまったくない。そこでぺージ数をほぼ平均にしたいという潮文社の要望も入れて、わたしはこれを二冊に分けることにした。

というのは、オーツセンが編集したものがもう一冊あるが、これが本書とうって変わってその90パーセントが他と重複するものばかりであること、さらに本書の後半が全霊言集の中から名文句を断片的に厳選して収録してあることから、それとこれと一緒にして最終巻としたいと考えている。

なおサイキックニューズ紙とツーワールズ誌には今なお断片的ながらシルバーバーチの霊訓が掲載されている。その中には霊言集に出てこないものもある。最終巻にはそうしたものも収録してシルバーバーチの〝総集編〟のようなものにしたいと考えている。


第1章 シルバーバーチのアイデンティティ
シルバーバーチとはいったい誰なのか。なぜ地上時代の本名を明かさないのか。アメリカ・インディアンの幽体を使用しているのはなぜか。こうした質問はこれまで何度となく繰り返されているが、二人の米国人が招待された時もそれが話題となった。そしてシルバーバーチは改めてこう答えた。

「私は実はインディアンではありません。あるインディアンの幽体を使用しているだけです。それは、そのインディアンが地上時代に多彩な心霊能力をもっていたからで、私がこのたびの使命にたずさわるように要請された際に、その道具として参加してもらったわけです。私自身の地上生活はこのインディアンよりはるかに古い時代にさかのぼります。

このインディアンも、バーバネルが私の霊媒であるのとまったく同じ意味において私の霊媒なのです。私のように何千年も前に地上を去り、ある一定の霊格を具えるに至った者は、波長のまったく異なる地上圏へ下りてそのレベルで交信することは不可能となります。そのため私は地上において変圧器の役をしてくれる者、つまりその人を通して波長を上げたり下げたりして交信を可能にしてくれる人を必要としたのです。

同時に私は、この私を背後から鼓舞し、伝えられるべき知識がうまく伝えられるように配慮してくれている上層界の霊団との連絡を維持しなくてはなりません。ですから、私が民族の名、地名、あるいは時代のことをよく知っているからといって、それは何ら私のアイデンティティを確立することにはなりません。それくらいの情報はごく簡単に入手できるのです」

では一体地上でいかなる人物だったのか、またそれはいつの時代だったのか、という質問が相次いで出されたが、シルバーバーチはその誘いに乗らずにこう答えた。

「私は人物には関心がないのです。私がこの霊媒とは別個の存在であることだけ分かっていただければよいのでして、その証拠ならすでに一度ならず確定的なものをお届けしております。

(訳者注―たとえばある日の交霊会でバーバネルの奥さんのシルビアにエステル・ロバーツ女史の交霊会でかくかくしかじかの事を申し上げますと予告しておいて、その通りのことを述べたことがある。ロバーツ女史はまったく知らないことなので、バーバネルを通じてしゃべったのと同じ霊がロバーツ女史を通じてしゃべったことになる。つまりシルバーバーチはバーバネルの潜在意識ではない。二重人格の一つではないことの証拠となる)

それさえ分かっていただければ、私が地上で誰であったかはもはや申し上げる必要はないと思います。たとえ有名だった人物の名前を述べたところで、それを証明する手段は何一つ無いのですから何の役にも立ちません。私はただひとえに私の申し上げることによって判断していただきたいと望み、理性と知性と常識に訴えようと努力しております。 もしもこうした方法で地上の方々の信頼を勝ち取ることができないとしたら、私の出る幕ではなくなったということです。

かりに私が地上でファラオ(古代エジプトの王)だったと申し上げたところで、何にもならないでしょう。それは地上だけに通用して、霊の世界には通用しない地上的栄光を頂戴することにしかなりません。私たちの世界では地上でどんな肩書き、どんな財産をもっていたかは問題にされません。要はその人生で何を為したかです。

私たちは魂そのものを裁くのです。財産や地位ではありません。魂こそ大切なのです。地上では間違ったことが優先されております。あなた方のお国(アメリカ)では黄金の子牛(旧約聖書に出てくる黄金の偶像で富の象徴)の崇拝の方が神への信仰心をしのいでおります。 圧倒的多数の人間が神よりもマモン(富の神)を崇めております。それが今日のアメリカの数々の問題、困難、争いごとの原因となっております。

私がもしアリマタヤのヨセフ(*)だったとか、バプテスマのヨハネ(**)だったとか申し上げたら、私の威信が少しでも増すのでしょうか。それともイロコワ族(***)の酋長だったとでも申し上げればご満足いただけるのでしょうか」(*イエスの弟子。**イエスに洗礼を施した人物。***北米インディアンの五つの部族で結成した政治同盟。イロコイ、イロカイオイとも。訳者)

その後の交霊会で「あなたは代弁者(マウスピース)にすぎないとおっしゃっていますが、その情報はどこから伝達されるのですか」との質問に答えて──

「数え切れないほどの中継者を通じて、無尽蔵の始源から届けられます。その中継者たちは真理の本来の純粋性と無垢の美しさが失われないようにするための特殊な仕事を受け持っているのです。あなた方のいう〝高級霊〟のもとに大霊団が組織されています。が、高級などという表現をはるかに超えた存在です。神の軍団の最高司令官とでも言うべき位置にあり、それぞれが霊団を組織して責務の遂行に当たっております。

各霊団の組織は真理が首尾よく地上界へ浸透することを目的とすると同時に、それに伴って霊力がより一層地上へ注がれることも意図しております。生命力といってもよろしい。霊は生命であり、生命は霊なのです。生命として地上へ顕現したものは、いかなる形態であろうと、程度こそ違え、本質において宇宙の大霊と同じものなのです。お分かりでしょうか。

忘れないでいただきたいのは、私達はすべて(今述べた最高司令官による) 指揮、監督のもとに仕事をしており、一人で勝手にやっているのではないということです。私は今、私が本来属している界、言わば〝霊的住処〟から帰ってきたばかりです。その界において私は、私を地上へ派遣した上司との審議会に出席し、これより先の壮大な計画と、これまでに成し遂げた部分、順調にはかどっているところ、しっかりと地固めが出来た部分について教わってきました。

その界に戻るごとに私は、天界の神庁に所属する高級霊団によって案出された計画の完璧さを再確認し、巨大な組織による絶妙の効果に驚嘆の念を禁じ得ないのです。そして、地上がいかに暗く、いかに混沌とし、仕事がいかに困難を極めようと、神の霊力がきっと支配するようになるとの確信を倍加して地上へ戻ってまいります。

そのとき他の同志たち(他の霊媒や霊覚者を通じて地上に働きかけている霊団の支配霊)とともに私も、これからの仕事の継続のために霊的エネルギーを補充してまいります。指揮にあたられる方々から計画が順調に進行していることを聞かされることは、私にとって充足感の源泉です。すでに地上に根付いております。二度と追い帰されることはありません。 かつてのような気紛れな働きかけではありません。絶え間なく地上にその影響力を浸透させんとして働きかけている霊力の流れを阻止できる力は、もはや地上には存在しません。

ですから、悲観的になる材料は何一つありません。明日を恐れ、不安におののき、霊的真理なんか構ってはいられないと言う人は、好きにさせておくほかはありません。幸いにも霊的光明をかいま見ることができ、背後に控えている存在に気づかれた方は、明日はどうなるかを案ずることなく、常に楽観的姿勢を維持できなければいけません」

シルバーバーチは交霊会の途中ないしは終了時にサークルのメンバーや招待客から感謝の言葉を述べられると必ず「私に礼を言うのは止めてください」と言う。ある日の招待客からそのわけを聞かれて・・・

「それはいたって単純な理由から自分で自分に誓ったことでして、これまで何度もご説明してきました。私は自分がお役にたっていることを光栄に思っているのです。ですから、もしも私の努力が成功すれば、それは私がみずから課した使命を成就しているに過ぎないのです。ならば、感謝は私にそのチャンスを与えてくださった神に捧げるべきです。

私は自分の意志でこの仕事をお引き受けし、これまでに学んだことを、受け入れる用意のできている方々にお分けすることにしたのです。もし成功すれば私が得をするのです。わずかな年数のうちに多くの方々に霊的実在についての知識を広めることができたことは私にとって大きな喜びの源泉なのです。

これほどのことが成就できたことを思うと心が喜びに満たされるのです。ほんとうならもっともっと大勢の方々に手を差しのべて、霊的知識がもたらしてくれる幸せを味わっていただきたいのです。なのに地上の人間はなぜ知識よりも無知を好み、真理よりも迷信を好み、啓示よりも教理を好むのでしょうか。それがどうしても理解できないのです。私の理解力を超えた人間的煩悩の一つです。

あなた(質問者)の人生が決して平坦なものでなかったことは私もよく承知しております。スピリチュアリズムという大きな知識を手にするために数々の大きな困難を体験しなければならない―それが真理への道の宿命であるということがあなたには不可解に思えるのではありませんか。決して不可解なことではありません。そうでないといけないのです。

ぜひともご注意申し上げておきたいのは、私は決して叡知と真理と知識の権化ではないということです。あなた方より少しばかり多くの年数を生き、地上より次元の高い世界を幾つか体験したというだけの一個の霊にすぎません。そうした体験のおかげで私は、素朴ではありますが大切な真理を学ぶことができました。その真理があまりに啓発性に富み有益であることを知った私は、それを受け入れる用意のできた人たちに分けてあげたいと思い、これまでたどってきた道を後戻りしてきたのです。

しかし私もいたって人間的な存在です。絶対に過ちを犯さない存在ではありません。間違いをすることがあります。まだまだ不完全です。書物や定期刊行物では私のことをあたかも完全の頂上を極めた存在であるかのように宣伝しているようですが、とんでもありません。私はただ、こうして私がお届けしている真理がこれまで教え込まれてきた教説に幻滅を感じている人によって受け入れられてきたこと、そして今そういう方たちの数がますます増えていきつつあること、それだけで有難いと思っているのです。

私は何一つややこしいことは申し上げておりません。難解な教理を説いているわけではありません。
自然の摂理がこうなっていて、こういう具合に働くのですと申し上げているだけです。そして私は常に理性に訴えております。そうした摂理の本当の理解は、それを聞かれた方がなるほどという認識が生まれた時にはじめて得られるのです。何が何でも信じなさいという態度は私たちの取るところではありません。

霊界からのメッセージが届けられて、その霊がいかに立派そうな名をなのっていようと、もしもその言っていることにあなたの理性が反発し知性が侮辱されているように思われた時は、遠慮なく拒否しなさいと申し上げております。理性によって協力が得られないとしたら、それは指導霊としての資格がないということです」

とくに最近になってシルバーバーチは〝指導霊崇拝〟の傾向に対して警告を発するようになった。その理由をこう述べている。

「指導霊といえども完全ではありません。誤りを犯すことがあります。絶対に誤りを犯さないのは大霊のみです。私たちも皆さんと少しも変わらない人間的存在であり、誤まりも犯します。ですから私は、霊の述べたものでも(すぐに鵜呑みにせず) かならず理性によってよく吟味しなさいと申し上げているのです。私がこうして皆さんからの愛と好意を寄せていただけるようになったのも、私自身の理性で判断して真実であるという確信の得られないものは絶対に口にしていないからです。

私は何一つ命令的なことを述べたこともなければ、無理やりに押しつけようとしたこともありません。私は霊的にみて一ばん良い結果をもたらすと確信した案内指標(ガイドライン)をお教えしているのです。霊的にみてです。物的な結果と混同してはいけません。時にはあなた方人間にとって大へん不幸に思えることが霊的には大へんな利益をもたらすことがあるのです。

人間は問題をことごとく地上的な視点から眺めます。私たちは同じ問題を霊的な視点から眺めます。しかも両者は往々にして食い違うものなのです。例えば〝他界する〟ということは地上では〝悲しいこと〟ですが、霊の世界では〝めでたいこと〟なのです。

人間の限られた能力では一つひとつの事態の意義が判断できません。ですから、前にも申し上げたように、判断できないところは、それまでに得た知識を土台として(すべては佳きに計らわれているのだという) 信念で補うしかありません。しかし、所詮、そこから先のことは各自の自由意志の問題です。自分の生き方は自分の責任であり、ほかの誰の責任でもありません。他人の人生は、たとえ肉親といえども代わりに生きてあげるわけにはいかないのです。その人がしたことはその人の責任であって、あなたの責任ではありません。 もしもそうでなかったら神の判断基準は地上の人間の公正な観念よりお粗末であることになります。

自分が努力した分だけを霊的な報酬として受け、努力を怠った分だけを霊的な代償として支払わされます。それが摂理であり、その作用は完璧です。

こうした仕事を通じて私たちが皆さんにお教えしなければならない任務の一つは、私たち自身は実に取るに足らぬ存在であることを認識していただくことです。どの霊もみな神の使者にすぎないのです。ですから自分以外の誰かがその神の意志と霊力にあやかれるようにしてあげれば、それは自分に課せられた仕事を成就していることですから、その機会を与えられたことに感謝すべきだと考えるわけです。

私がこうしてこの霊媒を使用するように、私を道具として使用する高級霊団の援助のもとに素朴な真理をお届けすることに集中していると、時として私自身の存在が無くなってしまったような、そんな感じがすることがあります。

私はこれまでたどってきた道を後戻りして、その間に発見したものを受け入れる用意のある人たちに分けてあげるようにとの要請を受け、そしてお引受けしたのです。私は絶対に誤りを犯さないなどとは申しません。まだまだ進化のゴールに到着したわけではありません。が、これまでに発見したもの、学んだことを、それが皆さんのお役にたつものであれば、なんでも惜しみなくお分けします。

その教えが悲しみと悩みと困難の中にある人たちの救いになっていることを知るのが、私にとって充足感の源泉の一つなのです。その教えは私個人の所有物ではないのです。

それは全ての者がたどる道があることを教え、その道をたどれば自分自身についての理解がいき、全生命を支配している無限の霊力の存在に気づき、各生命がその霊力の一部をいただいていること、それ故に絶対に切れることのない絆で結ばれていることを知ります。

そういう次第ですから、指導霊ないしは支配霊としての資格を得るにいたった霊は、自分自身が崇拝の対象とされることは間違いであるとの認識があるのです。

崇拝の念は愛と叡智と真理と知識と啓示と理解力の完全な権化であるところの宇宙の大霊、すなわち神へ向けられるべきなのです。神とその子等との間に一層の調和を目的とした感謝の祈りをいつ、どこで、どう捧げるべきかについて、間違いのないようにしないといけません。

もっとも、皆さんからの愛念は大歓迎です。私がこうして使命を継続できているのも地上に愛があるからこそです。その愛を私がいただけるということは、私が託された仕事を成就しつつあるということです。これからも、この冷ややかな地上世界に降りた時の何よりの支えとなる愛の温かさを頂戴しつづけるつもりです。

自我の開発―これが人間としてもっとも大切な目的です。それがこうして私たちが霊界から地上へ戻ってくる目的でもあるのです。すなわち人間に自己開発の方法、言いかえれば霊的革新の方法をお教えすることです。内在する神の恩寵を味わい、平和と調和と協調と友愛の中で生きるにはそれしかないからです。今の地上にはそれとは逆の〝内紛〟が多すぎます。

数からすれば私たちの霊団は比較的少数ですが、計画は発展の一途をたどっております。着実に進歩しております。確実な大道を見出す巡礼者の数がますます増えております。誠に悦ばしいことです」

招待客の夫婦がシルバーバーチの霊言集を読んで感動と勇気づけをうけていることを述べて感謝すると──

「私はマウスピースにすぎませんが、この私を通して届けられた訓えがお役に立っているということは、いつ聞かされても嬉しいものです。私たちがこの仕事を始めた当初はほんの一握りの少数にすぎませんでした。それが地上の皆さん方の協力を得て、素朴ではありますが深遠な霊的真理が活字になって出版されるに至りました。それによって霊的真理に目覚める人が大幅に増えつつあることは何と有難いことでしょう。

地上の霊的新生のための大計画をはじめて教えられ、並大抵の苦労では済まされない大事業だが一つあなたもこれまでに手にしたもの(霊的幸福)を犠牲にして参加してみないかと誘われたとき、私のような者でもお役にたつのであればと、喜んでお引受けしました。

進化の階梯を相当高くまで昇った光輝あふれる存在の中で生活している者が、その燦爛たる境涯をあとにして、この暗くてじめじめした、魅力の乏しい地上世界で仕事をするということは、それはそれは大変なことなのです。しかし幸いなことに私は地上の各地に協力者を見出すことに成功し、今ではその方たちとの協調的勢力によって、そこここに心の温かみを与えてくれる場をもうけることができました。おかげでこの地表近くで働いている間にも束の間の安らぎを得ることができるようになりました。

他の大勢の方々と同じように、お二人からも私がお役に立っていることを聞かされると、こうして地上圏へ突入して来なければならない者が置かれる冷えびえとした環境にまた一つ温かみを加えることになります」

ここでメンバーの一人が「今のご気分はいかがですか」と言い、「こういう質問をした者はいないみたいですね」と述べる。

「有難いことに私は地上の病気や悩みに苦しめられることがありません。私はすこぶる健康です。あなた方のように年を取ることもありません」

──私はそのことをお聞きしたのではありません。(地上圏が冷えびえとしていると聞かされたので、その日の交霊会へ来てみてどんな気分かと尋ねたのであろうが、それにたいする次の返事も何となく噛み合っていない。訳者)

「これからも霊的成長を続けたいと願っております」
・・・悩みごとというのはないのですね。
「この地上へ来た時しかありません」

──死後の世界がそんなに素晴らしいところだとは知りませんでした。地上を去ったときと同じ状態でいるとばかり思っていました。

「同じ死後の世界でも、どこに落ち着くかによって違ってきます。バラにもトゲがあります」
(質問者が〝素晴らしい世界〟のことを a bed of roses 〝バラの花壇〟と表現したのでそう述べた。訳者)

──何の悩みもないのでしょうか。

「あります。が、それもすべて今たずさわっている使命に関わったことだけです。だからこそ時おり地上を去って、私を地上へ派遣した霊団の人たちのもとへ帰り、こんど地上へ行ったらこうしなさいとの指示を仰ぐのです。私たちも数々の問題を抱えています。が、それはすべて神の計画の達成という目的に付随して起きることです」

ここで、最近新しい方法でスピリチュアリズムの普及を始めている二人のメンバーにシルバーバーチが「何かお困りになっていることがありますか」と尋ねると、一人が「大した問題はありません。とにかくお役にたつことができれば嬉しく思っております」と述べた。するとシルバーバーチが…

「あなた方は本当に恵まれた方たちです。私はいつも思うのですが、あなた方のような(真理普及にたずさわる)人たちが、いつか、ご自分の身のまわりで立ち働いている霊の存在をぜひ目のあたりにできるようになっていただきたいのです。そうすれば、たずさわっておられる仕事の偉大さについて一段と認識を深められることでしょう」

──別のメンバーの関連質問に答えて

「私たちはまだまだ舵取りに一生けんめいです。あらんかぎりの力を尽くしております。が、地上的条件による限界があります。やりたいことが何でもできるわけではありません。私たちが扱うエネルギーは実にデリケートで、扱い方が完全でないと、ほとんど成果は得られません。

コントロールがうまくいき、地上の条件(霊媒及び出席者の状態)が整えば、物体を私たちの意のままに動かすこともできます。が、いつでもできるというものではありません。そこでその時の条件下で精一杯のことをするしかないわけです。ですが、最終的な結果については私たちは自信を持っております。

神の地上計画を妨害し、その達成を遅らせることはできても、完全に阻止することはできません。そういう態度に出る人間は自分みずからがみずからの進歩の最大の障害となっているのです。愚かしさ、無知、迷信、貪欲、権勢欲、こうしたものが地上で幅をきかせ、天国の到来を妨げているのです。

物的な面では、すべての人にいきわたるだけのものがすでに地上にはあります。そして霊的にも十分すぎるほどのものがこちらに用意されています。それをいかにして用意のある人にいきわたせるか、その手段を求めて私達は一層の努力をしなければなりません。問題はその受け入れ態勢を整えさせる過程です。何かの体験が触媒となって自我を内省するようになるまで待たねばならないのです。外をいくら見回しても救いは得られないからです。

これまでこの仕事にたずさわっている方々の生活において成就されたものを見ても、私たちは、たとえ一時的な障害はあっても、最後は万事がうまくいくとの自信があります。皆さんのすべてが活用できる莫大な霊力が用意されているのです。精神を鎮め、受容性と協調性に富んだ受け身の姿勢を取れば、その霊力がふんだんに流入し、人間だけでなく動物をも治癒させる、その通路となることができます。

ここにおいでの皆さんの多くはみずから地上への再生を希望し、そして今この仕事にたずさわっておられます。地上にいらっしゃる間に自我の可能性を存分に発揮なさることです。そして最後に下される評価は、蓄積された金銀財宝で問われるのではありません。霊的なパスポートで評価されます。それを見ればあなたの霊的な本性が一目瞭然です」

──霊媒が他界した場合、それまでの支配霊は別の霊媒を探すのでしょうか。

「それは霊媒現象の種類によります。物的現象が盛んだった初期のころは、そうした現象を起こすための難しい技術をマスターした指導霊が大勢いました。その種の霊はそれまでの霊媒が他界すると別の霊媒を探し出して仕事を継続しました。

精神的心霊現象の場合には滅多にそういうことはありません。なぜかというと支配霊と霊媒とのつながりが物理霊媒の場合よりはるかに緊密だからです。オーラの融合だけの問題だけではありません。時には両者の潜在的大我の一体化の問題もあるのです。そんな次第で、霊媒が他界すると同時に支配霊としての仕事も終わりとなります。

そして支配霊は本来の所属界へ帰っていきます。私の場合、この霊媒が私の世界へ来てしまえば、別の霊媒を通じて通信することはありませんし、通信を試みるつもりもありません。なぜならば、この霊媒を通じて語るための訓練に大変な年数を費やしてきましたので、同じことを初めからもう一度やり直す気にはなれません。

私の場合、霊媒との関係は誕生時から始まりました。仕事がご承知のような高度なものですから、まず初期の段階は、通信をできるだけ容易にするために必要な霊体と霊体、幽体と幽体の連係プレーの練習に費やさねばなりませんでした。

そのうち霊媒が生長して自意識に目覚め、人間的に成長しはじめると、今度は発声器官を使用して、どんな内容のものでも伝えられるようにするための潜在意識のコントロールという、もう一つの難しい仕事に取りかかりました」

人間的な年齢でいうと何歳になるのかと尋ねられて・・・

「私がお教えしようとしている叡知と同じ年季が入っているとお考えくださればよろしい。有難いことに私はこうしてお教えしている自然の摂理の驚異的な働きをこの目で確かめることができました。つまり、あなたがこれから行かれる霊的世界において神の摂理がどう顕現しているかを見ております。

その素晴しさ、その大切さを知って私は、ぜひとも後戻りしてそれを地上の方にも知っていただこう・・・きっと地上にもそれを受け入れて本当の生き方、すなわち霊的なことを最優先し、物的なことをそれに従属させる生き方に目覚めてくれる人がいるはずだと思ったのです」

第2章 自由意思 -人間はどこまで自由か
過去幾世紀ものあいだ人間は自由意志の問題に追いかけられ続けてきた。はたして人間は自分の運命を変えることができるのだろうか。絶対的自由というものはあるのだろうか。それとも限定的な自由なのだろうか。これは人間にとってきわめて理解の難しい問題であるが、関心を寄せる方が多いので、本章をこの問題に当てて、シルバーバーチの意見に耳を傾けていただくことにした。

「男性と女性とがお互いに足らざるところを補い合って全体を完成させる・・・理性で解答の出ないところは直感で補う、これは〝補完の摂理〟の一つの側面です。人間には自我の開発のためのチャンスが常に与えられております。それをどう活用するかは本人の自由意志に任されております。

人生に偶然はありません。偶発事故というものはありません。偶然の一致もありません。すべてが不変の自然法則によって支配されております。存在のどの側面を分析しても、そこには必ず自然法則が働いております。人間もその法則の働きの外には出られません。全体を構成する不可欠の一部だからです。

その法則はあなた方が何らかの選択をした際に確実に働いてきました。選択をするのはあなた方自身です。その際あなた方を愛する霊により導きを受けておられます。足元を照らす光としての愛です。それに素直に従えば意義ある人生を歩むことになる、そういう愛です。

愛は生命と同じく不滅です。物的なものはその本性そのものが束の間の存在ですから、いつかは滅ぶ運命にありますが、霊的なものは永遠に不滅です。愛の本性は霊的なものです。だからこそ永続性があるのです。死を超えて存在し続けます。バイブルにあるように愛とは神の摂理を成就することです」

──全ての道は同じ目的地に通じているのでしょうか。それとも目的地というものは無いのでしょうか。

「〝目的地〟と言う用語がやっかいです。私なりに言わせていただけば、すべての道は造化の霊的大始源に通じております。宇宙の大霊、あなた方の言う神(ゴット)は無限なる存在です。となると、完全なる愛と叡知の権化であるその大霊に通じる道もまた無限に存在することになります。

大霊とは生命であり、生命とは大霊です。生命ある存在は誕生によっていただく遺産として神性を宿しております。そして地球という惑星上の全生命は究極において唯一の霊的ゴールに通じる道をたどりつつ永遠の巡礼の旅を続けております。どの道をたどるかは問題ではありません。

巡礼者の一人ひとりが真摯に自我の向上を求め、責任を遂行し、与えられた才能を開発して、その人が存在したことによって他の人が霊的な豊かさを得ることができるようにという、誠実な動機をもって生きればそれでいいのです」

──(核実験のような)人間の行っていることが原因で地球が滅びるのでないかと心配している若者が多いのですが・・・

「この惑星が滅びてしまうことはありません」

──人間が滅びることもないのでしょうか。

「ありません。人類も存在し続けます。人間がこの惑星に対して為しうることは、自然法則によっておのずから限界があります。惑星全体をそこの生命もろともに消滅させてしまうことはできません。しかし、そこにも自由意志の要素が絡んでおります。

つまり内部に宿る神性に目覚めるか、それともそれを無視するかです。無視すれば霊的向上は望めません。霊的な身支度ができないまま私たちの世界へやってまいります。そうしてもう一度初めからやり直さなければなりません。いかなる人間も、たとえ集団組織をもってしても、神の意思の実現を挫けさせることはできません。

その進行を遅らせることはできます。手を焼かせることはできます。妨害することはできます。しかし宇宙を支配しているのは無限なる叡知と愛です。いつかは必ず行きわたります。それが神の意志だからです」

──私たち人類はすでに多くのものを破壊し、それはもう元には戻せません。その多くは私たちの住むこの大地にあったものでした。その大地も限りある存在です。

「しかし、その大地には莫大な潜在的資源が隠されています。まだまだ多くのものが明かされていきます。多くのものが発見されてまいります。人類は進化の終局を迎えたわけではありません。まだまだ初期の段階です。

霊的真理を悟った方は決して絶望しません。それまでに明かされた知識が楽観的にさせるからです。その知識を基礎として、霊力というものに絶対的な信頼を抱くことができるのです。永い人類の歴史には数々の災禍がありました。が、人類はそれを立派に乗り越えてきました。我ながら感心するほどの強靭さをもって進歩してまいりました。これからも進歩し続けます。なぜなら、進化することが自然の摂理だからです。霊的進化も同じ摂理の顕れです」

(別の日の交霊会で)

──自由意志は、例えば宿業(カルマ)によってどの程度まで制約を受けるのでしょうか。

「人生はすべてが自然の摂理によって規制されております。気まぐれな偶然や奇跡などによって動かされているものは何一つありません。すべてが原因と結果、種まきと刈入れです。さもなければ宇宙は混乱状態におちいります。いずこをご覧になっても無限の叡知から生まれた無限の構想の中で自然法則が働いている証拠を見出すことができます。

たとえば四季のめぐりがそれです。惑星と星雲の働きがそれです。潮の満ち引きがそれです。花々の見事な生育ぶりがそれです。それらにすべてが自然法則によって支配されているのです。となれば、その法則の枠組みを超えたものは絶対に起きないということですから、いくら自由といっても、そこにはおのずから限界がある・・・・法則という神の力による制約があることになります。しかし、法則の裏側にも法則があります。物理法則だけではありません。精神的法則もあり、霊的法則もあります。

あなたが生き、呼吸し、存在しているのは、あなたという霊が受胎によって物質と結合して個的存在を得たからです。その個的存在が徐々に発達していきつつあるのです。その発達過程においてあなたには自由意志という要素、つまりその時どきの環境条件の中で道を選択する力あるいは判断力を駆使できることになっております。

あなたが最良にして最高の選択をなされば、あなたの民族のために、世界のために、森羅万象のために、宇宙の霊的発達と進化のために貢献することになります。なぜならあなたの霊は宇宙の大霊の一部だからです。

宇宙のすみずみまで支配している神性とあなたもつながっているということです。あなたはミクロの大霊なのです。大霊が具えている神性のすべてをあなたも所有しており、それを開発していくための永遠の時が用意されているのです。

明日の朝あなたはいつもより一時間はやく起きようと遅く起きようと、あるいは起きずに終日ベットにもぐっていようと、それはあなたの自由です。起きてから散歩に出かけようとドライブしようと、それも自由です。腹を立てるのも自由です。冷静さを取り戻すのも自由です。そのほか、あなたには好き勝手にできることがいろいろとあります。

しかしあなたは太陽の輝きを消す力はありません。嵐を止める力はありません。あなたの力を超えたものだからです。その意味であなたの自由意志にも限界があります。それからもう一つ別の限界もあります。これまでにあなたが到達した精神的ならびに霊的進化の程度です。たとえば人を殺める行為は誰にでもできます。が、その行為に至らせるか否かは、その人の精神的ならびに霊的進化によって決まることです。

ですから、あなたに選択の自由があるとはいっても、その自由はその時点でのあなたの霊的本性によって制約を受けていることになります。宇宙にはこうしたパラドックス・・・ 一見すると矛盾しているかに思える真実・・・がいろいろとあります。自由意志といっても常に何らかの制約を受けているということです。

さてここで私はもう一歩踏み込まねばなりません。あなたがカルマの問題をお出しになったからです。このカルマも非常に大きな要素となっております。なぜなら、地上に誕生してくる人の中にはあらかじめそのカルマの解消を目的としている人が少なくないからです。たとえ意識へのぼってこなくても、その要素が自由意思にもう一つ別の制約を加えております」

──良心の問題ですが、これは純粋に自分自身のものでしょうか、それとも背後霊の影響もあるのでしょうか。

「あなた方人間は受信局と放送局を兼ねたような存在です。純粋に自分自身の考えを生みだすことはきわめて稀です。地上のラジオやテレビチャンネルとかバイブレーション(振動)・・・フリークエンシー(周波数)が適切でしょう・・・があるように、人間にもそれぞれのフリークエンシーがあって、その波長に合った思想、観念、示唆、インスピレーション、指導等を受信し、こんどはそれに自分の性格で着色して送信しています。それをまた他の人が受信するわけです。(地上の人間どうしの場合もある。訳者)

その波長を決定するのは各自の進化の程度です。霊的に高ければ高いほど、それだけ感応する思念も程度が高くなります。ということは、発信する思念による影響も高度なものとなるわけです」

改めて自由意志についての質問に答えて・・・・

「完全に自由な意思が行使できる者はいません。自由といってもある限られた範囲内での自由です。あなたの力ではどうにもならない環境条件というものがあります。魂は、再生するに当たってあらかじめ地上で成就すべき目的を自覚しております。

その自覚が地上で芽生えるまでには長い長い時間を要します。魂の内部には刻み込まれているのです。それが芽生えないままで終わったときは、また再生して来なければなりません。首尾よく自覚が芽生えれば、ようやくその時点から、物質をまとった生活の目的を成就しはじめることになります。
(次章48頁〝訳者注〟参照)

人間の本性を私が変えるわけにはまいりません。その本性は実に可変性に富んでおります。最高のものを志向することもできれば、哀れにもドン底まで落ち込むこともできます。そこに地上へ再生してくる大きな目的があるのです。内部には霊的な可能性のすべてが宿されております。肉体は大地からもらいますが、それを動かす力は内部の霊性です。

人生をどう生きるか。・・・霊のことを第一に考えるか、それとも物質(モノ)を優先させるか、それは本人の自由意思の選択にまかされております。そこに人間的問題の核心があるのですが、援助を求めてやってきた人にあなたは、その選択に余計な口出しをせずに、必要な援助を与えなければいけません。援助が効を奏さなければそれ以上かまう必要ありません。
(それであなたの責任は終わったということです。と別のところで述べている―訳者)

縁あってあなたのもとを訪れたということは、その人にとって自我を見出す絶好機がめぐってきたということです。成功すれば、あなたは他人のために自分を役立てる機会が与えられたことに感謝なさることです。もし失敗したら、その人のことを気の毒に思ってあげることです」

別の招待客がこう尋ねた。──「自由意志はどういう具合に働くのでしょうか。私がこの疑問を抱いたのは Two Worlds の記事の中であなたが〝時間は永遠の現在です〟とおっしゃっているのを読んだからです。もしも私がこれまでの人生をつぶさに点検することができれば、自分が下した決断や因果律の働きのすべてがつながって見えるはずです。またもし未来をのぞくことができれば、これから先のこともすべてわかることになります。もしそうだとすると、どこに私の自由意志の働く余地があるのでしょうか」

「こういう言い方は失礼かも知れませんが、あなたの認識は少し混乱しております。時間は永遠の現在です。過去でもなく未来でもありません。それがあなたの過去となり未来となるのは、その時間との関わり方によります。とても説明しにくいのですが、たとえば時間というものを回転し続ける一個の円だと思ってください。今その円の一点に触れればそこが現在となります。すでに触れたところをあなた方は過去と呼び、まだ触れていないところを未来と呼んでいるまでのことです。時間そのものには過去も未来も無いのです。

〝未来を覗く〟とおっしゃいましたが、それは三次元の物質界との関わりから離れて霊視力ないしは波長の調整によってこれから生じるものを見る、その能力が働いたにすぎません。つまりあなたの行為によって作動させた原因、言いかえれば自由意思が生み出した原因から生じる結果をごらんになるだけです。それは時間そのものには影響を及ぼしません。時間との関係が変わるだけです」

訳者注──〝時間は永遠の現在〟というのは、〝宇宙は無限〟というテーマと同じく、この肉体に宿っているかぎり絶対に理解できないことであろう。ただそれが事実であることを暗示する体験はたしかに存在する。ガケから落下するわずか二、三秒の間にそれまでの全体験をじっくり見てその一つ一つを反省したとか、車にはねられて数メートル飛ばされるその一瞬の間にやはり全生涯を思い出したとかいうのがそれである。

信じられないとこであるが、本人は事実それを体験したのであるから、そういうことも有り得るということを認めざるを得ない。それがシルバーバーチのいう〝三次元の物質から離れる〟ということで、実在の側から見れば別だん驚くほどのことではないのであろう。

逆の見方をすれば、人間というのは所詮は物質によって三次元の世界に閉じ込められた小さな存在だということであろう。がしかし、だからこそこの地球という物的生活環境にもそれならではの体験もあるということになる。


第3章 質問に答える(一) -地上の生活-
本章では誕生から死に至る人間の一生をたどりながら、その間のさまざまな問題を取りあげる。

まず受胎の問題から始めて肉体にまつわるさまざまな疑問、さらには寿命というものがあらかじめ定まっているのかどうか、そして死、それに伴う悲しみといったテーマについて、シルバーバーチの見解を質すことにする。
(小見出しは訳者による)

第1節 発達と進化
──アメーバから今日の人類にいたる進化の過程のどの段階において、霊的存在としての人間が登場したのでしょうか。最初の細胞の中ですでに宿っていたのでしょうか。

「ご質問が人類としての個霊のことを意味しておられるのでしたら、それはアメーバの段階ではまだ存在しておりません。が、生命のあるところには必ず霊が存在します。なぜならば霊とは生命そのものであり、生命とはすなわち霊だからです。最も原始的なものから最高の組織体へ、つまり最も単純なものから最も複雑なものに至るあらゆる発達過程と生命形態を通じて霊が顕現していると言えます。

人間的要素はアメーバの段階的発達の中で発生します。そして人類(ヒト)へ向けて絶え間ない発達過程を続けます。そして人間としての意識に目覚めた段階で、つまり自我意識をもつに至ったときに、いわゆる人間となります。しかし、進化は絶え間なく続いているのです。進化に始まりの一点というものはありません。常に始まりであり、終わりがないのです。なぜなら進化とは完全へ向けての永遠の過程だからです」

訳者注──シルバーバーチは発達development と進化evolution とを区別している。ここでも問題となるのがやはり用語についての認識の仕方であろう。これまでの進化論はあくまで地上の生命にかぎっての話であって、ただ一人アルフレッド・ウォーレスのみが、〝霊的流入〟spiritual influx によって動物が人類へと進化をしたという説を立てた。

スピリチュアリズム的に言えばそれが本当の意味での〝進化〟であって、その段階までは〝造化の霊団〟によってこしらえられた〝種〟が発現し、精霊の働きによって促進される〝発達〟である。それを進化と呼ぶのなら、次元が異なることを認識した上で使用しなければならない。シルバーバーチも重複して用いることがあるが、基本的には霊的向上つまり霊格が上がることを〝進化〟と呼び、その霊が使用する機能が開発されることを〝発達〟と呼んでいる。


第2節 霊が身体に宿る時期
──ではどの段階で身体に宿るのでしょうか。受胎の瞬間でしょうか。それとも胎動期つまり十八週ごろでしょうか。

「この問題はこれまで何度も尋ねられました。そしていつも同じお答えをしております。生命は受胎の瞬間から始まります。そして生命のあるところには必ず霊が存在します」

──受胎の瞬間から霊が宿り、そこから個性が発達していくということでしょうか。

「個性という用語を持ち出されるとまたややこしくなります。生命は霊であり、霊は生命です。両者は二つにして一つです。受胎と呼んでいるものは、そこに生命があるということを意味します。受胎がなければ生命は存在しません。したがって霊は受胎の瞬間に物質に宿ることになります。

その後の発達の問題ですが、これは環境条件によって異なりますのでさらに問題がやっかいです。受胎時に宿る霊も、霊としてはそれまでずっと存在していたのです。ですから、個性の問題は、その個性よりはるかに大きい霊全体のどの部分が表現されるかの問題となります」

──受胎後のどの段階で人間(ヒト)となるのでしょうか。胎内生活の正確に何か月目から人間となるのでしょうか。(三か月後の)胎児はすでに人間と呼べるのでしょうか。

「受胎の瞬間から生命が存在し、したがって霊が存在します。流産とか中絶とかがあっても、それは生命を破壊したことにはなりません。その生命の表現の場をあなた方の世界から私たちの世界へと移しただけです」

──子宮内の生命もれっきとした人間だとおっしゃるのでしょうか。

「潜在的には受胎の瞬間から人間であり、人間性のすべてを宿しております」
・・・受胎の瞬間からですか。

「受胎の瞬間から身体的機能のすべてを潜在的に宿しているごとく、霊的機能もすべて宿しております。霊的機能が存在しなければ身体機能も存在しません。物質は霊の影だからです」

──ということは、霊は誕生に際して地上で使用する身体をみずから選択する自由はないと理解してよろしいでしょうか。

「それは正しくありません。逆に、霊にはあらゆる自由が与えられています。大半のケースにおいて、霊は地上で果たさなければならない目的をもって生れてきます。そしてその仕事に合った身体に宿ります。ただ、自分は地上でかくかくしかじかのことをしようと(*)決意したその仕事に実際に目覚めるまでに相当な時間を要します」

訳者注──*ここでいう決意とは肉体に宿る前の〝霊〟としての意識による決意であって、肉体に宿ってからの脳を焦点とした意識にはそれがなかなか自覚されない。シルバーバーチがそれに目覚めるまでには相当な時間を要しますと述べているのは、必ずしも誕生前の霊としての決意と同じものを記憶として思い出すことを言っているのではなく、食べて働いて寝るだけの物的生活を超えて、何のために生きているのだろうかという疑問をはじめた時点からその段階に入るものと私は理解している。そのうち〝自分はこれでいいのだ〟という得心ともあきらめとも悟りともつかないものを自覚し、同時に生きる意欲が湧いてくる。シルバーバーチはそのことを言っているのであろう。

第3節 物的身体に関連して
「誕生の瞬間から肉体は死へ向かいます。この現象は誰にも変えられません。もともと肉体は不老不死を目指すようには意図されていないのです。本性そのものが儚い存在であることを自覚しております。従わねばならないサイクルというものがあるのです。

まず、ゆっくりと機能的成熟を目指します。成熟すると同時に、やはりゆっくりと、全機能が衰えはじめます。そして、リンゴが熟すると自然に木から落ちるように、肉体も与えられた寿命をまっとうして死を迎えます。何度も申し上げているように、人間は本来そうなるようにできているのです。

私たち霊界の者も完全ではありません。まだ霊的進化の頂点を究めたわけではありません。まだまだ延々と先が続いております。しかし地上での仕事を困難にする物的条件に直面したときは、私たちにできるかぎりのエネルギーを活用して、その克服につとめます。

いつも申し上げ、これからも繰り返し申し上げることでしょうが、私たちといえども全ての知識を手にしているわけではありません。無限に存在するからです。が、地上のあなた方は私たちにない肉体的条件によって制約を受けていますから、手にすることのできる知識はきわめて限られております」

こう述べてから、メンバーの一人で非常に疲れた様子をしている人に向かって・・・・

「休息が不足すると身体がその代償を支払うことになります。その代償の度合いが大きすぎると、完全な休息を要求されて、あなたは床につかねばならなくなります。各人各個の責務という教理を説きながら、その働きに例外があるかのようなことを申し上げるわけにはまいりません。無理して一度に多くのことをなさってはいけません。肉体は所詮は機械です。その限度を超えたことを要求してはなりません」

別のメンバーが意見を述べる。

──疲れすぎると床につかねばならなくなるとおっしゃいますけど、休むわけにはいかないこともあります。休まなくてはいけないことは分かっていても、世話をしてあげなくてはならない人たちとの関係においては、自分より気の毒な状態にあるのを見ていながら自分だけ休むわけにはいきません。

「自然の摂理の働きは変えようにも変えられません。私には皆さんに対する愛があります。もし無かったら今こうしてここにいることもないでしょう。私たちにとって地上という世界は何一つ魅力はありません。なのにこうして戻ってきて皆さんの中に混って皆さんとともに仕事をするのは、皆さんに対する愛があるからです。そうすることで何の利益を受けるわけでもありません。私たちの多くには(*)これまでに身につけたものを惜しげもなく犠牲にして皆さんのお役に立ちたいという願いがあるのです。

(*〝私たち〟とは言わずに〝私たちの多く〟という言い方をしたことには意味がある。『霊訓』のモーゼスの背後霊団をはじめとしてスピリチュアリズムの初期の霊団には、自縛霊の状態からやっと脱したばかりの低級霊が大勢いて、複数の高級霊の監督のもとに物的証拠を見せるための物理現象を担当した。

言うなれば〝勤労奉仕〟のようなもので、ある程度その仕事にたずさわって霊的に向上してくると、代って別の低級霊団が同じ仕事を受けもつというふうにして、よく入れ替りが行われた。

その種の霊にとっては、それまでの怠惰や罪の償いをする絶好のチャンスなのであるが、それを監督・指導する立場の霊にとっては光輝あふれる世界からどんよりとした息も詰まらんばかりの地上圏に降りてくるのは大きな犠牲を強いられることになる―訳者)


私たちは情愛に満ちた心で皆さんを愛しております。しかし、だからといって皆さんの都合のよいように摂理を変えてあげるわけにはまいりません。皆さんは肉体という機械をお持ちです。どんなに優秀な機械でも休息が与えられます。皆さんの肉体のように片時も休むことがないという機械は他にありません。機械は休ませないと故障します。

肉体はあなたのものですから、その健康管理はあなたの責任です。神はそのための能力として知性と理性とを与えてくださっております。宇宙の摂理について知り得たかぎりの真実を有りのままに述べている私を責めてもはじまりません。私は、私が間違いない真理だと信じたものを欺くようなことは申せません。目的とすべき理想、霊的真実に基いた処生訓、それを忠実に人生に応用すれば、霊としての当然の遺産であるべき豊かさをもたらしてくれるもの、それをお教えするだけです。

最終的にどう決めるかはあなたご自身です。私もできるかぎりの援助はいたします。が、時として私たちにも如何ともしがたい情況というものが生じます。あなたの自由意志を無視するわけにはまいりません。側に立ってあなたがなさることを見つめるしかないことがあります。あなたの霊的進化にとってはあなた自身による決断が重大な要素となるからです」

──その際には摂理にもとることをしても許されるのでしょうか。
「そのときの動機が大切な要因となります」

──でも、人間生活においては愛する人を救わんがために、悪いと知りつつも善意から、摂理にもとる行為をせざるを得ないというケースも有り得るのではないでしょうか。

「私に申し上げられることは、あくまで摂理は摂理であるということが摂理である、ということだけです。摂理は摂理であるがゆえに、その摂理どおりに働くしかありません。もしも私が原因と結果の関係に干渉することができるとしたら、これは大変なことになります。良かれと思ってしても、結果的には大へんな害をもたらすことでしょう。摂理は完璧にできているのです。定められた通りに働くのが一ばん良いのです」

──事態を収拾するためにさまざまな法則を集中的に動員することがあるとおっしゃたことがありますが。

「あります。絶対的窮地に陥ったときに救ってさしあげた方が皆さんの中に何人かいらっしゃいます。私たちが干渉できないのは原因と結果の関係です。また、いわゆるお情けというものも一切ありません。
私は指導霊としての立場から、あなたの身体が機械であることを指摘しているのです。休ませてやらねばならないことがあると申し上げているのです。疲労が度を過すと機能が停止します。停止すると再び機能を回復するまでに床についていなければならなくなります。

私がつくづく思うのは、これまでに啓示していただいた真理のすばらしさをみて、*われわれ一同はほんとうに恵まれた者たちだということです。それに加えてわれわれは又、霊力のすばらしさを見ることができました。事態を一変させ、進むべき道を指し示し、導きを与え、各自が天命をまっとうするための理想の生き方を教えてあげることができることを知りました。これはただごとではない大切なことです。

(訳者注=ここでいつものように*〝私たち〟とせずに〝われわれ〟という言い方にしたのは、気持の中でサークルのメンバーも含めているからである。ここではシルバーバーチは、霊団としての霊の力にこれほどすばらしいことができるのかという驚きを抱いている気持を表明している。

前巻の八章の〝シルバーバーチの最大の発見〟の中でも同じことを述べている。人間のために大きな犠牲を払いながら、これほどのことをやらせていただいていることに、その恩恵を受けるサークルのメンバーと共に感謝している気持が私には読み取れるのである。謙虚さが自然に出ていて、読んでいてこちらの方が恐縮させられる)


肉体は霊が自我を表現するための道具です。存分に発揮したいと思われれば、十分な手入れをしなくてはなりません。疲労が重なると本来の機能が発揮できなくなります。そこで神は、その無限の叡知によって、肉体を休息させ、活力を取り戻させるための〝睡眠〟を用意したのです。

地上の四季の移り変わりをよくご覧なさい。秋になると大自然は冬の眠りのための準備をし、春になると再び覚醒め、夏にその壮観を披露します。人体も同じです。休息によって元気を回復しなければなりません。休息はぜひとも必要です」

──ここで過労によって健康を害している二人のメンバーにこう説いた。

「無理をしていることを知りつつも無理を重ねて、けっきょく中途で倒れる人がいるものです。倒れたら休息するほかはありません。私たちはあなた方に自助の心構えを説き、霊と精神にかかわる摂理だけでなく、その肉体を支配している生理的法則にも絶対的に従わねばならないことをお教えしています。それを忠実に守り、霊と精神と肉体が調和状態にあるかぎり、あなた方は健康であり健全です」

メンバーの一人が「どうやら私は言うことを聞かない部類に入るようです」と述べると
「言うことを聞くようにと、神は二つの耳をお与えになったのです。〝スピリチュアリズムには七つの綱領〟(*)というのがあります。その一つに〝各個の責任〟というのがありますが、たぶんこれが七つの中で一ばん大切でしょう。異論や反論の余地のない真実が秘められているからです。あなた方は他人のすることではなく自分のすることに自分一人で責任を取るのです。

あなたの責任を免除してくれるものは誰一人、何一つありません。注意を怠れば、それだけの代償を自分が払わねばなりません。それが原因と結果の自然法則です」

(心霊誌 Two Worlds の創刊者である女性霊媒エマ・ハーディング・ブリテンを通じて地上で社会主義思想家として有名だったロバート・オーエンが提唱した基本原理で、あえて直訳のまま紹介すると次の通りである。

 ①神の父性 ②人類の同胞性 ③霊の交信と天使の支配 ④人間の霊魂の存続 ⑤各自の責任 ⑥地上生活における善行と悪行に対する死後の応報 ⑦すべての霊魂に開かれている永遠の向上。以上を基本として、さらに、キリスト教的信仰を忘れきれない一派や、反対にキリスト教的色彩を徹底的に抹殺したい一派などによって、それぞれに拡大したり敷延したりした綱領もある。訳者)


──各自に責任があるとは知識としては知っていましたが、これまでは他人事のように考え、自分の問題として真剣に自覚したことはありませんでした。これからは心掛けようと思います。

「ぜひ心掛けてください。あなたが自覚するしないにおかまいなく、自然法則は働き続けるものだからです。冷淡なのではありません。法則として定められたように働かざるを得ないのです。それは、私たちがこの仕事を定められた一定の線に沿って、進めざるを得ないのと同じです。

このサークルのメンバーの方には常づね申し上げていることですが、私たち霊団は、私たちのやり易い方法でやるしかありません。あなた方の都合に合わせるわけにはいかないのです。あなた方と同じように私たちも、霊的にみてこれは是非やらなくてはならないと判断したことを行うに際して、やはり一定の法則による制約を受けています。みなさんの生活を蔭で操ることはできます。物質を動かすこともできます。必要とみれば金策もいたします。が、それも一定の自然法則に従って行わねばなりません。

いつも申し上げることですが、人間は自分で正しいと判断したこと、良心が命じたことに素直に従わなくてはいけません。最終的には自分自身が裁判官なのです。反省してみて自分の行ったことはすべて正しかったか、どこかに間違いはなかったかを自分で判断することができるようになっております。動機さえ正しければ絶対に間違ってはいません。何よりもまず動機が最優先されるのです。
(ここで〝間違ってはいません〟というのは霊性を傷つけることはないという意味であって、それによる結果に対しては責任は問われないという意味ではない。訳者)

あなた方も元来が霊的存在であって、それが今は物的身体を通して自我を表現しているにすぎないという、この基本的真理をつねに念頭においてください。霊をたずさえた肉体ではなく、肉体をたずさえた霊だということです。その認識のもとに内部の霊性をできるだけ多く発揮することになるような生活を心掛けることです」

第4節 寿命の問題
みずからも霊媒である人が招かれて、シルバーバーチと語り合った中で「人生は目まぐるしく過ぎていくのに、やりたいことは山ほどあります」と述べると、シルバーバーチがこう語った。

「人生を達観することが大切です。あなたが生まれるずっと以前から質実剛健な先輩がいて道を切り開いてくれていたこと、その人たちもその仕事の大変さを痛感して、自分たちの地上生活が終わったあとはどうなるのだろうかと案じていたことを知らなくてはいけません。

しかし、その人たちが巨木や巨石を取り除いてくれていたからこそ、その道をあなた方はその人たちよりラクに通れるのです。そこであなたがさらに幾つかを取り除けば、それがあなたとしての貢献をしたことになります。あなたのあとにさらに次の人材が用意されていることでしょう。そしてその人たちがさらに多くのものを取り除いていけば、やがてきれいな道ができあがります。

地上は体験学校のようなものです。その地上世界は完全ではありません。あなた自身も完全ではありません。あなたはその不完全な世界で少しでも多くの不完全性を発揮しようとしている不完全な存在です。ですから、自分なりの最善を尽くしておれば、それでいいのです。それ以上のものは要求されません。

縁あってあなたのもとを訪れた人に真の自分というものに目覚めるきっかけを与えてあげることは重大な意味のあることです。つまり人間が神に似せて作られていること、言い変えれば神と本質的に同じものが内在していること、その資質を発揮することによって生活に美と愛と光輝をもたらすことができ、それがすべての体験を価値あるものにするということを理解させてあげることです。

ですから、仕事上の厄介なできごとを、神が与えてくれた挑戦のチャンスとして感謝して受け止めることです。それを処理していくことで結果的にあなたがそれだけ霊的に成長するのです。もしも仕事仲間の中にあなたの信念についていけないという人がいたら、もしもその人の信念に迷いが見えはじめたら、その時は構わず見棄てることです。果たすべき大目的についての荘厳な洞察力を抱き続けている人とのみ仕事をなさることです」

──人間の寿命は前もって決められているのでしょうか。それとも肉体の強健さ、そのほかの要因の問題でしょうか。

「肉体の強健さなども寿命を決定づける要因の中に入っております。物的身体構造すなわち肉体は、魂が成長するための地上的体験を得る上で無くてはならないものです。霊と肉体とは一体不離です。そして地上生活の期間、いわゆる寿命が切れる時期は大方の場合あらかじめ分かっております。

肉体を霊から切り離して考えることはできません。肉体は霊に制約を加え、霊は肉体に生命を与えるという具合に、両者は切っても切れない関係にあります。一個の存在を構成している二つの要素を分離して考えてはいけません。あなたという存在は数々の要素が互いに反応し合いながら一個の総合体を構成しているのです。すべての側面が融合し結合し混ざり合って、あなたという一つの統一体すなわち霊魂を構成しているのです」

──寿命が定まっているということから出る疑問ですが、もしも、たとえば千人の乗客が一度に溺死した場合、その人たちは皆その特殊な時期に死ぬことになっているということになるのでしょうか。つまり彼らの魂の成長のために定められた寿命は同じだったのでしょうか。

「問題は用語です。あなたは今〝定められた〟という言い方をされましたが、そういう言い方をすると、では一体だれが何を基準に、という疑問が生じます。そして多分その裏には神によって摩訶不思議な方法でそう仕組まれるのだという漠然とした考えがあるはずです。が、そういうものではありません。生命現象の広大なパノラマの一つ一つが自然法則によって支配されているのです。

地上の科学者がいかなる説を立てようと、いつかは必ず肉体に死が訪れます。それは霊を解放するという役目を果たすことになるのです。つまり肉体の死は肉体の誕生と同じです。前者は霊の〝退場〟であり、後者は〝入場〟です。

地上では死を悲劇と考えますが、私たち霊の立場からすれば悲劇ではありません。解放です。なぜなら、霊の霊的誕生を意味するからです。地上のあらゆる悩みごとからの解放です。よくよくの場合を除いて、死は苦労への褒章であって罰ではありません。死は何を犠牲にしてでも避けるべきものという考え方は改めなくてはいけません。生命現象に不可欠の要素であり、魂が自我を見出すための手段と見なすべきです」

第5節 命日は記念すべきか
招待客が友人からの質問として「悲しい命日は心の痛みを呼び覚ますだけだから愚かで無意味だという考えはいかがでしょうか」と述べ、それに自分の考えとしてこう付けくわえた。

──今更どうしようもないことは分っているのに年に一回、心の痛みを思い出すのは間違いだと思います。

「その質問者のいう〝悲しい命日〟というのは何のことでしょうか」

──故人が亡くなった日です。その日に何もしたがらない人がいます。改めて悲しい思いをしたくないのだと思います。

「誰にとって悲しいのでしょうか」

──その人を失った家族です。亡くなった本人ではありません。私はあなたのお考えに同感です。亡くなった人を悲しむのは一種の利己主義だと思います。

「一種の自己憐憫の情です。自分自身への哀れみであり、愛するものを失ったことを嘆いているのです。苦の世界から解放された人のために涙を流すべきではありません。もちろん地上生活が利己的すぎたために死後もあい変わらず物質界につながれている人(自縛霊)がいますが、それは少数派に属します。

大部分の人にとって死は牢からの解放です。新しく発見した自由の中で、潜在する霊的資質を発揮する手段を見出します。無知の暗闇でなく、知識の陽光の中で生きることが出来るようになるのです。

過ぎ去った日々の中に悲しい命日をもうけて故人を思い出すとおっしゃいますが、いったい何のために思い出すのでしょう。そんなことをして、その霊にとってどんな良いことがあるというのでしょうか。何一つありません!過ぎ去ったことをくどくどと思い起こすのは良くありません。それよりも一日一日を一度きりのものとして大切に生き、毎朝を霊的に成長する好機の到来を告げるものとして、希望に夢をふくらませて迎えることです。それが叡智の道です」

訳者注──〝シルバーバーチは語る〟と題されたカセットテープの中で司会者が「ルドルフ・シュタイナーの一派では死者に向かってリーディング(仏教でいう〝読経〟で、読心術ではない)をするのですが、何らかの効用があるのでしょうか」と質問したのに対してシルバーバーチは「害もありませんが、さして薬になるとも思いません。こちらはこちらで救済のための施設がたくさん用意されています」と述べている。
たしかに、たとえば『ベールの彼方の生活』を読むと高級霊団が地上各地から地縛霊を大ぜい救出して戻ってくる一行を描写しているところがある。国籍が入り混じっているので服装もさまざまで、救出された者どうしがキョロキョロと互いの衣服を見くらべて不思議そうな顔をするユーモアあふれる場面もある。そのほか慰安や看護のための施設も何度か出てくる。

その観点から言うとシルバーバーチの言う通りなのであるが、私は日本人特有の問題として、供養とか戒名とか院号とかにまつわる日本的しきたりに余りにこだわった地上生活を送った人の中には、向こうへ行ってから自分もそうしてもらわないと気が済まない、いわゆる〝成仏できない〟霊がいて、霊界の指導者を手こずらせていることが多いことは、事実として認めざるを得ないように思う。

この種の地縛霊は日本ではけっして少数派とは言えない。そういう霊は言わば〝わからず屋〟なのであるから、そのわがままをある程度は聞いてやる必要があるので、それは地上の人間の協力を要する問題となってくる。

ただ、シルバーバーチはつねに永遠の時を念頭において説いていることを忘れてはならない。人間が余計な心配しなくても、いつかは霊界の方で何とかします、という意味に解釈すべきであろう。


──肉体に宿っているとそれが悟れないのが悲しいことです。みんな物質に惑わされて、物的なものには価値がないことが理解できないのです。そういう人にとって人生は舞台劇のようなもので、カーテン(幕)が下りるとそれでお終いです。

「それは要するに無知と知識の差です。そこで私どもは出来るだけ知識を広め、その境界線をできるだけ広げていくように努力しているのです。知識を手にすれば、人生を正面から見つめ、そして悟ります。無知のままでいることは暗闇の中にいることです。

私たちはひたすら力になってあげたいと願っているだけに尚のこと嘆かわしく思えるのですが、地上の人間が無知と偏見と、みずからこしらえた迷信という壁に取り囲まれているために、それが目覚めを阻害して、容易に破壊できないのです。その厚い壁は真理も突き通せないのです。嘆かわしいと表現したのは、その人たちの地上の身内の人でも手の出しようがないからです。

そこで死後しばらくはベールのそちらとこちらの双方に悲しみがあります。が、地上を去った者のために涙を流すことはありません。その事実を認識し受け入れることによって死んでいった者を引き止めるようなことが無くなります。感情的障壁をこしらえなくなります。精神と霊を正しく調整することが出来るようになります」

これを聞いてサークルのメンバーが尋ねた。

── 一つの人生の旅が終わったのを見て悲しく思うのが人間の情だと思うのです。それは一時的な情ですから、たとえ悲しんでも、死を嘆いているのとは違うと思うのです。

「私の世界へやって来た人は死が階段を一つ昇った事を意味すること、大きな解放を得たことを理解します。」潜在的能力を発揮するチャンス、地上でなし得なかった仕事をするチャンス、かつては考えられなかったほど生気はつらつとした生活ができるチャンスを得ます。

もちろん地上生活に断絶が生じたことに悲しみの情を覚えるのは当然です。が、他界して行った者に何ら悲しむべきものはないという事実を知ることによって、その悲しみを少しでも小さくすることは出来るはずです。(無理な要求をするようですが)私たちは皆さんに対して常に理想を目標として掲げなければならないのです」

──愛し合う二人のうち片方が先に他界した場合、残された方がのちに他界した時に間違いなく幸せの楽園が待ってくれていると考えてよいでしょうか。

「その通りです。ただし、互いに愛し合っていた場合のことであって、一方的な愛ではそうはなりません。愛はその対象から切り離して存在することはできません。地上というのはほんの一時的な場にすぎません。肉体に不老不死はありえません。

ですから、いずれは地上を去る時が来るのであれば、いよいよその時(死期)が近づいた人を祝ってあげるのが本当なのです。そして又、いずれは自分もあとから行って、地上では想像できない、より大きな光明と美と驚異の世界でいっしょに生活することになることを知ってください」

──そのことを私たちは物的観点から考えなくてはならないところに難しさがあるのです。死ぬまで待つことになりますが、ただ待ってはいられない・・・いろいろと生きるためのことをしなければなりません。生き続けなければならないのです。その辺がとても難しいのです。

「霊的真理を物的観点から考えるとなぜ難しくなるのでしょう?」

──私たちは物的存在だからです。

「でも本質的には霊的存在です。物的身体をたずさえているというだけです。あくまでも霊が上位で肉体は下位です。そうした観点から、お手持ちの知識に照らして、正しい判断を下さないといけません。何ごとも価値あるものは困難がつきまとうものです。霊的褒章が簡単に手に入るとしたら、それは手に入れる価値はないことになりましょう」

──死後の世界について多くのことを聞かされていても、死後に備えた生き方を心掛けている人は少ないように思います。本日お聞きしたことを肝に銘じて、たとえばテレビばかり見ていないで、美術とか工芸に手を染めるなどして今から準備を始めるのも一つの生き方だと思うのですが、何か良いアドバイスをいただけますでしょうか。

「その問題は結局悟りの問題に帰着します。あなたが肉体をたずさえた霊的存在であること、地上はいつまでも住み続ける場ではないこと、物的なものは儚い存在であることを悟れば・・・もしもあなたが、死後、霊としてのあなた、不滅のあなた、神性を宿したあなたが蘇って永遠の進化の旅を続けることの意味を悟ることができれば・・・もしもあなたがそうした悟りに到達すれば、そしてそこで叡智の導きに素直にしたがうことができれば、あなたは自然に死後の生活に備えた生き方をするようになります。あなたの行為はすべてあなたが到達した霊的自覚の程度によって支配されるのです」

第6節 災害・事故による死
──霊的発達程度におかまいなく地震などによって一度に何千、何万もの人が死んでいくのはなぜでしょうか。

「なぜあなたは死をそんなに禍のようにお考えになるのでしょうか。赤ん坊が生まれると地上ではめでたいこととして喜びますが、私たちの方では泣いて別れを惜しむこともしばしばなのです。地上を去ってこちらの世界へ来る人を私たちは喜んで迎えます。が、あなた方は泣いて悲しみます。死は大部分の人にとって悲劇ではありません。しばらく調整の期間が必要な場合がありますが、ともかく死は解放をもたらします。死は地上生活が霊に課していた束縛の終わりを意味します。

あなた方はどうしても地上的時間の感覚で物ごとを見つめてしまいます。それはやむを得ないこととして私も理解はします。しかしあなた方も無限に生き続けるのです。たとえ地上で六十歳、七十歳、もしかして百歳まで生きたとしても、無限の時の中での百年など一瞬の間にすぎません。

大自然の摂理の働きに偶然の出来ごとというものはありません。あなたは霊のために定められた時期に地上を去ります。しかも多くの場合その時期は、地上へ誕生する前に霊みずから選択しているのです」

(霊としての意識と肉体に宿ってからの脳を焦点としての意識とは別である。地上での時間と場所の感覚は脳を焦点とした地上独特のもので、そこから人間的煩悩が生まれる。悟りの程度というのはその地上的感覚による束縛から脱する程度と等しいということであろう=訳者)

──地震その他の災害の話に戻りますが、その災害で生き残る人がいます。が、その人たちはそれから他界するまでの永い年月を苦しみながら生きることがあります。たとえば家を失ったまま我が家を持つことなく生涯を終える人もいます。そうした場合、その人たちはそういう体験を得るためにその土地に生を受けたのでしょうか。

「地上生活にまつわる幸とか不幸のあらゆる体験から逃れることはできません。明るい側面と同時に暗い側面も体験しなくてはなりません。〝蓮の台(ハスノウテナ)〟の生活では魂は成長しません。困難と闘争と危機の時こそ魂は自我を発揮するのです。あなたにはそれが得心できないお気持ちは分ります。地上的感覚でお考えになっているからです。しかし永遠の観点から見れば、恵まれた条件よりも困難な事態の方が有り難いことなのです。」

別の交霊会でもこう述べている。

「私たちの世界の素晴らしさ、美しさ、豊かさ、その壮観と光輝は、地上のあなた方にはとても想像できません。それを描写しようとしても言葉が見出せないのです。ともかく私は矛盾を覚悟の上であえて断言しますが〝死〟は独房の扉のカギを開けて解放してくれる看守の役をしてくれることがよくあるのです。地上の人間は皆いつかは死なねばなりません。摂理によって、永遠に地上に生き続けることはできないことになっているのです。

ですから、肉体はその機能を果たし終えると、霊的身体とそれを動かしている魂とから切り離されることは避けられないのです。かくして過渡的現象が終了すると、魂はまた永遠の巡礼の旅の次の段階へと進んでいくことになります」

第4章 質問に答える(二) ─死後の生活─
「私たち霊の世界の生活がどうなっているか、その本当の様子をお伝えすることはとても困難です。霊の世界の無限の豊かさについて、あなた方は何もご存知ありません。その壮大さ、その無限の様相(バラエティ)は、地上のどの景色を引き合いに出されても、どこの壮大な景観を引き合いに出されても、それに匹敵するものはありません」

本章は死後の生活を主題とした質問と応答のようすを紹介するが、来世の明るい第一印象を伝える上で右のシルバーバーチの言葉がいちばん適切であろう。シルバーバーチはまた霊界を〝完全な計画が完全な形で実施されている現実の例です〟と言い、〝そこに偶然の入る余地がまったくないことがお分かりになるでしょう〟と述べている。以下、それを細かく質して説明してもらうことにしよう。

第1節 霊と霊の関係
──死後の世界ではお互いのコミュニケーションはどのようにして行うのでしょうか。

「こちらへおいでになれば、もはや肉体はありません。肉体そっくりの身体はありますが、言葉は話しません。言葉というものはいたってお粗末な思念の代用品でして、地上に近い下層界を除けば、そういうお粗末な媒体を用いなくても、以心伝心のすばらしい交信方法があります。思念は言葉を超えたものです。

同じように、食べることも飲むこともいたしません。そうやって養わねばならない物的身体が無いからです。身体を大きくする必要がありませんから、蛋白質なんかは必要ではありません。霊的身体がありますが、その養分は置かれた環境から摂取します。

永遠の太陽ともいうべき光源があり、暗闇がありませんから、寝るということもしません。霊的性質が何一つ隠せないという意味において、みんな霊的に素っ裸ということになります。あるがままの姿が知られ、見せかけも代用もカモフラージュもできません。

あなたの交信レベルは霊的に同じレベルの者との間でしかできません。自分より上のレベルの者とはできません。そのレベルまで霊的に成長するまでは、そのレベルの者が受け入れないからです。自分より下のレベルまでおりることはできます。自分の方が霊的にすぐれているからです。

いずれにしても交信は直接的に行われます。あなたが心に抱いたことがそのまま相手に知られ、相手の考えることがそのままあなたに知れます。面倒なことはなにも生じません。
皆さんはこの英国に住んでいて英語をしゃべっています。英語のしゃべれない外国人と会えば言語が違うために意志の疎通ができません。が、以心伝心の交信には言語は不要です。迅速です。厄介なことは何一つ生じません。

私がこうして霊媒を支配している間は、思念や画像や映像やシンボルを私に供給してくれる係がいます。供給という用語が適切かどうか知りませんが・・・私はそれをあなた方の言語に翻訳する訓練ができております。それにはずいぶん長い年月を要しました。支配中は霊媒の語彙の中から適切な用語を見つけ出さねばなりません。

時には霊媒自身が忘れているものもありますが、記憶の層にはちゃんと残っております。が、霊媒から離れてしまえば地上の各種の文献を調べることもできます。必要とあれば地上の大家の書いたものを見つけ出して、イザという時に備えてメモしておきます。この霊媒から離れているかぎりは思念を言葉に翻訳する面倒な手間はいりません」

──どうやってお互いを認識し合うのですか。
「霊的な眼がありますから一人ひとりが認識できます。私たちは盲目ではありません」

──私たちの視力は物的なものなのですが。

「あなた方はその二つの眼で見ているのではありませんよ。またその二つの耳で聞いているのではないのですよ。見たり聞いたりは脳を経由して精神で行っているのです。もし脳が働かず精神に反応が生じなければ、その肉眼に映る光線は何の意味もありませんし、その肉耳に届けられる波動もまったく無意味なのです。

脳がレシーバーとしての働きをしてくれれば、あとはその情報を理解するのは精神なのです。肉眼そのものには〝見る〟能力はないのです。ただ光線を感知するための媒体にすぎないのです。カメラのレンズと同じです。自分ではどういう役目をしているのか知らないまま自動的に機能しているのです。〝見えた〟という認識は、精神がその印象を脳から受け取ったときに生じるのです。脳を傷めるとその認識が生じませんから、肉眼だけでは何も見えないことになります」

──霊界で相手を認識するとき、その人の何を見ているのでしょうか。
「人間と同じ形体です。頭もあり胴体もあります」

──身体はないとおっしゃいましたが・・・・
「物的身体はないと申し上げたのです。霊的身体はあります」

──ということは相手を認識するときは霊体を見ているわけですか。
「もちろんです、みんな同じに見えるわけではありません。一人ひとり違います」

──書物を読むことがあるとおっしゃいましたが、それも思念でできているのですか。

「すべての物体に霊的複製品があります。地上で書かれたものが複製されて納めてある図書館があります。必要が生じるとそこへ行って調べものをして知識を得ます。音楽も絵画もあります。地上にあるものは全てこちらにもあります」

──地上的成長のどの段階で人間の霊体がそちらから見えるようになるのでしょうか。

「それはその段階での霊的覚醒のレベルによって違ってきます。地上と霊界の違いは、地上ではさまざまな発達段階の人がいっしょに生活できることです。こちらでは同じレベルまで発達した者としか会えません。霊的身体は霊格が高くなるほど成熟していきます。

霊界での成長は(老化に向かうことではなく)成熟するということです。ですから、年老いて他界した人はこちらへ来て若返り、若くして他界した人は霊的成熟度に似合った顔つきとなります」

──やはり顔で分るのでしょうか。
「もちろん私たちにも顔があります」

──人間にはなぜ顔があるのでしょうか。

「それは個性というものがそれぞれの魂の刻印だからです。まったく同じ人は二人といません。双子でも霊的には同じではありません。完全へ向けての過程──本質的には無限の過程ですが──顔や形体が無くなるということではありません。個性が崇高さを増し、霊的成熟度が増し、一段と強烈な光輝を発するようになります。その過程を続けていくうちに、上層界には目も眩まんばかりの光輝を発する存在がいることを知るようになります。

私が地上を離れて内的上層界へ帰ると〝神庁〟とでもいうべきものに所属する存在と出会うことがある話をしたことがありますが、そうした霊もみな個性を具えた存在です。個体性を失ってはいません。不完全の要素が少なくなり、完全無欠の要素の占める部分が多くなった段階にまで進化しているのです」

──なぜそちらの世界へ行ってからも身体が必要なのでしょうか。

「霊はその個性に応じて自我を発揮するためには何らかの形体が必要なのです。霊それ自体には個的形体はありません。霊とは生命です。が、その生命が顕現するには人間なり動物なり植物なり花なり、その他ありとあらゆる形体をとる必要があります。霊はなんらかの形体をとらないことには存在が認識されません」

──その形体を永遠に維持するのでしょうか。
「そうです」

──霊界では自分より発達段階の高い者とは接触がないとおっしゃったように思いますが、そうなると、あなたご自身が〝光り輝く存在〟と直々にお会いになる時は何か特別な配慮をしてもらうわけですか。

「いいえ、決してうぬぼれて申し上げるわけではありませんが、私がそうするときは私本来の霊格に戻るというに過ぎません。私はこの地上での仕事への参加の要請を受け、そしてお引き受けしたのです。そのためには当然、本来の私の属性を一時的にお預けしなければなりませんでした。

しかし、そうすることによって、あなた方と同じく、私がよく言及している〝正反対の体験〟を得ることになります。それによって、一層の向上が得られることを願っております。

霊界の生活の全体像をお伝えすることはとても困難です。言語と次元の差が障壁となるからです。たとえば音楽を例にとれば、霊界には地上のいかなる楽器にも出せない音色があります。絵画でも、あなた方には想像もつかない色彩と美があります。それが感識できる人も描写できる人も地上にはいません。地上の人にとって大インスピレーションと思えるものでも、実際はごくごく小さな欠片(カケラ)にすぎません」

招待客が「われわれ人間にとって霊界の本当の姿を理解することが容易でないことは理解できます」と言うと──

「とても難しいのです。しかし、その理解のための準備が睡眠中に行われております。睡眠中は肉体を離れて一時的に〝死ぬ〟わけです。そうすることによって徐々に霊界生活に慣れていきます。そうしないと、いよいよ本当の死が訪れた時に何のことか理解できず、新しい生活環境に順応するのに長い時間を要することになります。

地上にいる間の夜の霊界旅行での体験はぜんぶ潜在意識の中に収められています。それがいつか意識にのぼってきて、霊界があまり不思議に思えなくなります」

ここでサークルのメンバーの中でも一ばん背の高い人が質問する。

──背丈のことをお尋ねします。たとえば六フィートの人間はそちらでもやはり六フィートでしょうか。

「どうやらこの質問には個人的興味が混ざっているようですね。答えはイエスです。物的身体は霊的身体の写しだからです。たたし、そのサイズは霊的発達程度とは関係ありません。身体は巨人でも霊的には小人でもある場合があります」

──他界直後には言語上の問題はありますか。

「あります。いわゆる〝幽界〟つまり地球にもっとも近い界層においてはあります。そこには霊的自覚がほとんど芽生えていない者が住んでおります。まだ言葉が必要だと思い込んでいるので言葉を用いております」

── 一方が英語で話し相手がフランス語で話しても、実際は思念で通じ合っているわけでしょうか。

「もちろんです。もともと思念には言語はないのです。言語というのは思念を単語に移しかえるための道具にすぎません。私たちの世界では思念に実体があり、物質は影のようにしか見えないことをよく理解してくださらないといけません」

第2節 環境との関係
──非物質的世界であれば、その世界はそこに住む者すべてにとって同じものですか、それとも一人ひとりの思念によってこしらえるのでしょうか。もしも私が今あなたの世界へ行ったら、私の目に同じ世界が映るのでしょうか。それとも違う世界でしょうか。

「それはあなたが地上でどの発達段階にあったかによります」

──もしあなたといっしょになったら、そこは私の精神によってこしらえられた世界でしょうか。

「そうとも言い切れません。もしもあなたが今の私と同じ位置、つまり同じ発達レベルにあると仮定すれば、あなたは私に見えるものを見、私が体験するものを体験します。が、今私が住んでいる世界・・・あなたといっしょになると仮定している世界が何で構成されているはまた別の問題です。

これは言語で説明するのは困難です。言語というのはその裏側にある実在をいくらかでも表現しようとして絵画概念やシンボルなどをそれでくるんでみているに過ぎません。

私たちは〝生命とは霊である〟というところから出発いたします。私たちの世界はあなた方の世界と同じく霊というものがあってはじめて存在しているのです。その霊は無限です。したがって無限の顕現をしています。

ところで思念とはいったい何でしょうか」

この質問にゲストが「思念とは私の精神が生み出すものです。精神が何であるかはともかくとして──」と答える。

「それには実体がありますか」
「多分思念は実体のあるものになれる性質をもったものだと思います。初めから実体があるものではないと思います」

「でもあなたは思考しながら自分が思考していることが分ってますね?」
「ええ、思考によって物事を明確にすることができると思います」

「あなたは自分が思考していることを自覚していらっしゃるが、思念は見えることも聞くことも、重さや大きさも計ることもできない、物理的な計算方法がないわけです。なのにあなたの行為のすべてに思念が責任を負っています。思念の方が行為に先行しているからです。思念なくして行為は生まれません。

あなた方の世界では考えたことが行為として具体化します。私たちの世界では考えたことが霊的実在として具現化し、それには、あなた方にとって物質の世界が実感があるように、私たちにとって実感があります。要は相対上の問題です。あなた方にとって物質に実感があるように、私たちにとっては思念に実感があるということです」

ここでメンバーの一人が「思考とは別に物質界には客観的存在物があります。丘のように誰にでも見えるものがあります。霊界にも各自の思考とは別に客観的存在物があるのでしょうか」と聞くと、さきのゲストが「私たちは今この部屋に座っています。そして、そのことをみんな同じように認識しています」と口添えする。

「でも、その認識の仕方は一人ひとり違います。私たちの世界の生活にはさまざまな存在のレベルがあります。といってそれが一つひとつ孤立しているのではなくて、お互いに融合しております。各レベルにおいてあなたのおっしゃる客観的存在物がそこに住む人にとって同じように映ります。丘があり川があり、小鳥がさえずり、花が咲き、樹木が茂っております。そのすべてに実感があります。

それとは別に、思念によって実在物を作り出す力も各自に具わっております。成形力のある思念性の素材によって、自分に必要なものをこしらえることができます。それが、程度問題ですが、それなりの個体性のある実体を具えているのです」

第3節 色即是空
──ということは、あなたの世界も物的と言えるわけですね?
「言えます。物的という用語をどう解釈するかが問題ですが・・・・」

──私の肉体と同じように物質でできているかということです。つまり私が死んでからまとう身体も物質であって原子の回転速度が一段と早いというだけなのでしょうか。

「それもこれもみな、ただの用語にすぎません。〝物的〟とか〝物質〟とかを用いる時はその意味を明確にしておかないといけません。ある意味では霊の世界は〝霊化された物質〟で出来ていると言うことができます。しかし、その時の〝物質〟という用語はあなた方が理解しているのとは違います。また、〝物的身体〟というのも、今あなたがおっしゃった通り原子でできているのです。

原子はさらに細かく分析できますが、そのうち計算器では分析できない段階に至ります。するとその原動力は物的なもの、形あるものではないことになります。つまり物質が形あるものというのはそう見えると言うだけのことになります。固いと思うのは錯覚なのです。

人間にはいろいろな身体があって、それぞれ発達程度が異なります。その肉体から脱け出ると、それとそっくりの幽質の身体をまといますが、それは地上時代からずっと使用し自我を表現していたものです。バイブレーションが地上生活にふさわしい高さだからです。その幽体は地上で肉体が実感があったように、他界直後の生活においては立派に実感があります。

すべては意識している〝場〟の問題です。船に乗っている夢を見れば、眠っている間はそれが現実です。〝夢だった〟と思うのは目が覚めた時です。そして船は幻だったことになります。もしも永遠に夢を見つづけるとしたら、その夢の生活が現実となることでしょう。目が覚めている間は地上生活が実感があるように、その夢の状態が実感があるように思いつづけることでしょう。

今のあなたは夢を見ているのではないという確証はどこにあるのでしょう?もしかしたら、ここにいる人たちといっしょに同じ夢を見ているのかも知れないということも考えられるのです。こんなことを申し上げるのは、地上には霊的実在に目覚めていないという意味で地上生活という夢を見つづけている人間が無数にいるからです。

その夢から覚めてようやく自分は肉体ではないという自覚を得るのです。何度も申し上げているように、あなた方は肉体をたずさえた霊であって、霊をたずさえた肉体ではないのです。これは大変な違いです」

第4節 パーソナリティとインディビジュアリティ
サークルのメンバーが「それに加えて、われわれはもともと Personality(確定した人物像)というものは無いということも大切なことですね」と口添えすると──

「おっしゃる通りです。パーソナリティと言うのは地上にいる間だけのものです。地上生活のために便宜上つけているマスクのようなものです。地上生活が終わればマスクは捨て去ります」

──私は、霊は異なった〝種〟の物的形体を通じて顕現しながら完全へ向けて進化し最後に人間に至るという説を立てているのですが、正しいでしょうか。

「あなたがおっしゃるのは、人間という頂点に達するまで一個の霊があらゆる生命形態を通して表現されてきたという意味でしょうか」

──そうです

「あらゆる生命体というのであれば、それは、私が Individuality(霊的統一体)と呼んでいる場合の個霊としてとはかぎりません。犬とか猫に生命を与えている霊はそれぞれに個別性がありますが、花に生命を与えている霊の個別性とはまた別です。生命あるものには必ず霊があります。

霊は生命であり生命は霊です。霊としてのあなたは無始無終に存在しております。それが現段階において受胎の瞬間から個性ある霊となったわけです。

個霊としてのあなたの進化は今後さまざまな身体を通して続けられます。そして進化すればするほど個性が発現されます。が、その場合の個性は地上で見せていた人物像とは意味が違います。

これはとても理解の難しい問題です。進化の目的は完全性を成就することです。が、その成就の過程は無限に続くのです。進化して不完全なところを一つ取り除くごとに、また新たに取り除かねばならない不完全さに気づき、かくしてこの過程が永遠に続けられるのです。

ここで是非とも認識していただかねばならないのは、パーソナリティとインディビジュアリティとは大きな違いがあるということです。パーソナリティとはインディビジュアリティが物的身体を通して表現している小さな側面のことです。インディビジュアリティがその個性を発揮するために使用する数々の側面のうちの一つで地上にいる間に見せる人物像です。

インディビジュアリティの側面は地上で見せる人物像だけとはかぎらず、他にもたくさんあります。それを、地上を去ってより高い存在の場で進化しながら顕現しつづけていくのです。個性が発現すればするほど地上で見せた人物像は消えていきます。霊格が高くなればなるほど、あなた方が容姿から連想して画くところの人物像が消えていくのです。とても説明が困難です。その真相をうまく表現する用語が見当たらないのです。

こちらの世界はそちらからやってくる人たちによって構成されております。そちらから未発達霊を送り込んでこなければ何一つ問題は起きないのですが、現実には何の準備もできていない、適合性に欠ける無知な霊を次々と送り込んでおります。小学校で学ぶべきだったことを大人になって教えるのは、なかなか難しいものです。(いつまでたっても物分かりの悪い霊がいるその結果として)

あなた方地上の人間は最低から最高にいたる、ありとあらゆる霊的影響力にさらされることになります。が、実際に引き寄せるのは自分と同じ霊格をもった霊だけです。邪悪な人間は邪悪な霊を引き寄せ、心清き人は心清き霊のみを引き寄せます。それが自然の摂理なのです。

自分の肉体が無くなったことに気づかず、霊的には死者同然のような霊が無数にいることを私たちの責任であるかに思っていただいては困ります。それはあなた方が地上でやるべき仕事です。つまり肉体の死後にかならず訪れる次の生活に備えさせるように指導することです。

霊の世界は地理的なものではありません。霊界は七つの界に分かれているなどと、まるで地図でも見るような言い方をする人がいますが、そのようなものではなく、すべてが融合し合っているのです。不完全性を取り除くにつれて、その霊格に似合った境涯へ向上していくのです。

そうして発達を続けていくうちに霊的真理の実相を悟って、もはやその理解のために比較対照というものを必要としなくなる段階に至ります。それは地上においても達成できるものです。つまり知的な思考による理解を超えた〝悟り〟を地上生活中に得ることができます。それは私たちの世界へ来てから比較対照が無くても実在が理解できるようになるのと同じ段階です」

第5節 人類浄化の大計画
──霊界において計画が作製されてそれが地上界で実施されている例をたくさん見ておりますが、それはどういう機構によって行われているのでしょうか。計画の中心的立案者が一人いて全体をまとめているのでしょうか。

「連帯関係にある霊団がいくつもあり、各霊団に一人のリーダーがいます。その全体の総指揮に当たっているのが、かのナザレのイエスで、今なお地上世界の発展のための事業に関わっております。

そのイエスのもとで地上ならさしずめ〝首脳会議〟にあたるものが開かれます。ご存知のように時おり私もその会議に出席するために一時的に上層界へ引き返し、それまでの計画の進展具合を点検し、連帯関係を確認いたします。審議会のようなものです。

マスタープラン(総合的基本計画)というものがあり、私たちに役割分担が当てがわれております。霊格の高さゆえに地上の事業に関与できる〝光り輝く存在〟を一目ご覧に入れたいと思うのですが、残念ながらそれができません。そうした霊団のほかにも、他の形態の生命に関与している霊団もありますが、私が関与しているのは地上人類のための事業です。

計画は完璧です。なぜなら、その立案にあたって完璧な叡智が働いているからです。しかし、それを実現させるにはさまざまな要素を考慮しなければなりませんから、当然の成り行きとして、その進展は遅々としたものにならざるを得ません。自由意志、カルマ、運勢、好み・・・・こうしたものが全て考慮されるのです。

進歩を確実なものにするためには全体への配慮を必要とするのです。その進歩は必ずしも直線的なものではありません。それは有り得ないことなのです。いずれにせよ、こうした中であなた方も神意の成就へ向けての無限の創造過程にいくばくかの貢献をなさっていることを自覚なさるべきです。

雄大な構想のもとにそのマスタープランを推し進めていく事業に参加できることは、この上なく光栄なことです。だからこそ私は皆さんに、明日のことを思い煩うことはおやめなさいと申し上げるのです。いかなる困難、いかなる障害、いかなるハンディキャップ、いかなる反抗に遭遇しても、又、いかなる愚かさ、いかなる無知、いかなる迷信が立ちはだかっても、霊の力によって、万事、かならずうまくいきます。真理はつねに行進しており、その目的成就を妨げることの出来る者は一人もいません。

ですから皆さんは堂々と胸を張り、背後に控える霊力は地上で遭遇するいかなる勢力よりも強大であることを、しっかりと認識なさることです」

このことに関連してサークルのメンバーから幾つかの質問が出された。その回答の中でシルバーバーチは、その大霊団を構成しているのは必ずしも地上生活を体験した者ばかりではないこと、その中での自分の位置についてはこれまでに述べたこと以上のことは述べるわけにはいかないこと、その大事業の計画は遠い昔に立案されたものであることを述べ、こうしたことが地上の人に容易に把握できないのも無理はないという理解を示した。

(『ベールの彼方の生活』第四巻にはその大事業の立案から実施に至る経緯が雄大な筆致で叙述されている。訳者)そしてこう述べた。

「真理に霊的価値が多ければ多いほど、地上の言語による説明が困難となります。私たちはいま霊的な内容のものを扱っているのです。いたってお粗末な表現手段である言語では、地上的要素からはみ出たものは包含できないのですから、用語の意味に限界が生じます」

第6節 神々の世界
──いまおっしゃった上層界よりさらに高級な世界があるのでしょうか。
「あります」

──全部つながっているのでしょうか。
「そうです。無限につながっています」

──階段状(ステップ)に上へ上へと伸びているのでしょうか。
「ステップと呼びたければそう呼ばれても結構です」

──〝光り輝く存在〟とおっしゃった存在も自我を表現する能力を有しているのでしょうか。

「みな個性的存在です。意識をもった存在です。自動人形ではありません。光り輝いております。指導的霊格を具えた高級霊です。大天使団、神の使節です」

──かつてはみな人間だったのでしょうか。
「いえ。バイブルをお読みになれば、天使、大天使のことが述べられています」

──ということは常に霊的存在がいたということでしょうか。
「宇宙のどこを探しても霊でない存在はいません」

──私はどの霊も一度はこの地球という惑星での生活をしなければならないものと思っていました。

「そういうものではありません。あなた方の地球は無数に存在する生活の場の一つにすぎません。一度はかならず地球上で生活しなければならないというものではありません。すべてを抱括したマスタープランがあり、その中から何一つ、誰一人として除外されることも忘れ去られることもありません。

あなた方に見えている星の彼方にも無数の星があります。惑星の彼方にもあなた方がまだご存知ない別の惑星、別の生活の場があります。宇宙は無限に広がっているのです」
(『ベールの彼方の生活』第四巻の274~276頁にこのことが具体的に述べられている。訳者)

──始まりも終わりもないですか。

「霊には始まりも終わりもありません。霊は無窮の過去から存在し無窮の未来まで存在し続けます。バイブルを繙いてごらんなさい。イエスもこう言っております〝アブラハムが生まれる前から私は存在している〟(ヨハネ伝8・58。イエスがユダヤ教のリーダーたちと論争した時の最後のセリフで、アブラハムはユダヤ人の祖とされている人物なので、それより前から存在してたと聞かされてその本当の意味が分からず、生意気なことを言う奴だと石を投げつけるが、イエスは身を隠して逃れた。訳者)

第7節 死後の再会
──私たちはいつかはかつての地上での仲間や親族のいる境涯へと向上して行き、ずっといっしょに暮らせるようになるのでしょうか。

「その人たちと同じ発達レベルまで到達すればもちろんいっしょになれます。こうしたことは収まるべくして自然に収まる問題です。あなたは今これまで霊的に到達した境涯、段階、存在の場を占めているのです。それと同じレベルにある者はみな似たような発達状態にあるのです。

ですから、ご質問に対する答えは、あなたがその人たちと同じ霊的発達段階に至ればいっしょになれます、ということになります。向上の道はつねに開かれております。完全へ向けての、永遠に続く奮闘です」

──ここに愛し合う二人の人間がいて、一方が他方より霊格がはるかに高いとします。死後二人がいっしょになるには発達のおくれている方が待たねばならないのでしょうか。

「その逆がふつうです。霊格の高い方が待つことになります。そこには愛の要素があるからです」

──死んで霊界へ至る過程はどんなものでしょうか。

「死とは物的身体から脱出して霊的身体をまとう過程のことです。少しも苦痛を伴いません。ただ、病気または何らかの異常による死にはいろいろと反応が伴うことがあります。それがもし簡単にいかない場合には霊界の医師が付き添います。そして、先に他界している縁者たちがその人の〝玉の緒〟が自然に切れて肉体との分離がスムーズに行われるように世話をしているのを、すぐそばに付き添って援助します。

次に考慮しなければならないのは意識の回復の問題ですが、これは新参者各自の真理の理解度に掛かっています。死後にも生活があるという事実をまったく知らない場合、あるいは間違った来世観が染み込んでいて理解力の芽生えに時間を要する場合は、睡眠に似た休息の過程を経ることになります。

その状態は自覚が自然に芽生えるまで続きます。長くかかる場合もあれば短い場合もあります。人によって異なります。知識をたずさえた人には問題はありません。物質の世界から霊の世界へすんなりと入り、環境への順応もスピーディです。意識が回復した一瞬は歓喜の一瞬となります。なぜなら、先に他界している縁のある人たちが迎えに来てくれているからです」

第8節 霊的身体について
──幽体の寿命はどうなっているのでしょうか。死後は幽体で生活するわけですが、どのくらいの期間もつのでしょうか。

「それは地上の年数でかぞえるわけには参りません。肉体が老いていくのとは違って、霊的向上に伴って生じる変化だからです。あなたには沢山の身体が具わっています。それらを幽体だのエーテル体だの霊体だのと呼んでおられるのですが、あなたはそのうちのいずれか、つまりそれまで到達した霊的進化のレベルの自我を表現するのに似合ったものを使用します。

そしてさらに進化すると、昆虫が脱皮するようにそれを脱ぎ棄てます。つまりあなたは常にその時点での霊格にふさわしい身体で自我を表現しているわけです。死後の身体はそういう過程をたどります。それが無限に続くのです」

──真の自我は肉体でもなく幽体でもなくて、いったい何なのでしょう?

「どう呼んでみたところで所詮は用語にすぎません。言葉は三次元世界のものですから、言葉を超えたものを完全に表現することはできません。したがって霊とは何かということを正しく表現できる用語がないのです。

霊は物質的なものではありません。三次元的なものではありません。どこそこという存在場所をもつものではありません。身体のように空間を占めているのではないのです。あなた方の物的な感覚によっては、見ることも聞くことも触ってみることもできません。その霊こそ実在なのです。霊とは生命力です。霊とは動力です。霊とは宇宙の大霊の一部なのです。

ですから、あなたがた人間は三位一体の存在ということになります。物的身体があり、霊的身体があり、そして魂(霊)があります。それらをぜんぶ別の用語に置きかえたければそうなさるがよろしい。が、何の意味もありません。用語をいじくり回すにすぎません。魂とは神性の火花です。内部に宿る大霊の一部です。

あなたはその身体ではありません。その身体はあなたではありません。霊的身体はその物的身体が崩壊して大地に戻ったあと、引き続き自我を表現するために使用する媒体です。本当の自我は外側、表面、殻などには存在しません。内部の核、仁、中枢、魂、生命、つまりはあなたに潜在する〝神〟です。

霊は無限の存在であるがゆえに無限の顕現と段階的変化をたどります。一連の身体があり、それをアストラルだのエーテルだのと呼んでおられますが、それも一個の霊が顕現したものなのです。用語に惑わされてはいけません。言葉はただの道具にすぎません」

──肉体と幽体はどこまで似ているのでしょうか。胃液とか聴覚器官とか筋肉とかがもしあるとすれば何かの役に立つのでしょうか。

「何の役にも立ちません。あなた方がその肉体器官を機能させる時それぞれの器官とそっくりの幽質の身体を使用しています。(これを複体「ダブル」と呼ぶことがある。訳者)が、それには筋肉も胃液も聴覚もありません。霊が肉体を通して顕現し機能するための外皮のようなもので、死が訪れると地上での役目が終わったことになりますから、その時点で脱ぎ棄てられて別の身体が用意されます。こうして霊が浄化していくに伴って、その段階にふさわしい表現機関として次々と新しい身体を必要とします。霊的身体はたくさんあるのです」

──たくさんあるとすると、死ぬ時はどうなるのでしょうか。一つひとつ脱け落ちていくのでしょうか。

「進化するごとに身体を脱ぎ替えていきます」

──ということは、われわれは何度も死をくり返すわけですか。

「そうです。ただし霊が死ぬのではありません。表現の媒体が変わるということです」

──いずれは幽体を脱ぎ棄てる時期がくるわけですが、それも死ですか。

「そうです。肉体が役目を終えて棄て去られるのと同じです」

・・・われわれは何度も死ぬわけですね。
「そうなります。が、それは有難いことなのですよ。進歩していることを意味するからです」

──いずれ最後は何の身体もまとわない純粋な霊のみの存在となるのでしょうか。

「私は、その段階には永遠に至らないのではないかと思っています。それに近づく過程の連続だと考えています」

──そこに霊的進化の核心があるのですね?

「人生そのものの根本の目標が進化であり発展であり成長であり学習なのです。進化するごとに、それまでの役目を果たしてきた身体が自動的に脱け落ちて、その進化した段階にふさわしい身体をまとうのです」

──ある意味ではわれわれの皮膚が次々とはげ落ちていくのと同じですね。

「しかも、全身が7年ごとに(細胞が入れ替わって)新しい身体となっております。が、あなたという霊は決して無くなりません」

第9節 霊界の仕事
──霊界にも自分を役立てる機会があるのでしょうか。

「ありますとも! 地上よりはるかに多くの機会があります。こちらには、あなた方の理解を超えた問題がいろいろとあります。霊的宇宙のいたるところに存在する無数の霊・・・病める霊、幼い霊、忘れ去られた霊、孤独な霊、いびつな霊、無知な霊、こうした不幸な霊の面倒を見なければならないのです。なぜこんな厄介なことになるのか、それはあなた方の世界がそういう霊を送り込んでくるからです」

──霊界の人たちも行動範囲に限界があるのでしょうか。それとも自由に宇宙を駆けめぐることができるのでしょうか。旅行もできるのでしょうか。探検もできるのでしょうか。

「もちろん出来ます。ただし、それが出来るだけの資格を手にすればのことです。霊格の問題です。そこに目的意思というものが無くてはなりません」(遊び半分、面白半分の宇宙旅行や探検は許されないということ。訳者)

さらに関連質問を受けてから冒頭に引用した言葉を述べた。すなわち・・・・

「私たち霊の世界の生活がどうなっているか、その本当の様子をお伝えすることはとても困難です。霊の世界の無限の豊かさについて、あなた方は何もご存知ありません。その壮大さ、その無限の様相(バラエティ)は、地上のどの景色を引き合いに出されても、どこの壮大な景観を引き合いに出されても、それに匹敵するものはありません」

──私が思うのに、死後の世界へ行っても、そうした霊界の豊かさを探検する楽しみを捨てて、地上で始めた仕事を続けている者が大勢いるのではないでしょうか。

「そちらで医者だったものがこちらでさらに勉強し、地上での知識をプラスして病気の治療に当たっている人がたくさんいます。それが霊的開発の証しなのです」

第10節 再会時の識別の問題
ここでサークルの女性メンバーの一人が見解を述べたのに対して・・・・・・

「法則というものがあって、それがすべてを規制しているのです。そのうちあなたも何一つ忘れ去られたり見落とされたりすることがないことを理解なさいます。私はいつも大自然の摂理とそれによる経綸の完璧さに感嘆しているのです」

──実は私の妹は出産の際の器具の使い方が悪くて脳に障害を受けました。それはそれは醜い姿になってしまいました。今は他界していますが、私が他界した時にすぐに妹が分るでしょうか。今も地上にいた時と同じ姿をしているのでしょうか。なぜ妹は四十年間もそういう醜い状態で地上生活を送らねばならなかったのでしょうか。

「この種の問題はほんとうは個人的感情を抜きにしてその原理を直接扱えば簡単に片づくのですが、それが出来ないのが残念です。地上に生をうけているいかなる人間も、代償の法則、ときには懲罰と言うべきものから逃れることはできません。ある段階において必ず霊的な貸借の差引勘定が行われ、貸り借し無しの状態となります。そちらで欠陥のあった人はこちらでそれ相当の埋め合わせがあります。

不具といってもそれは肉体上の不完全さであって、精神や霊が不具になることは絶対にありません。何らかの脳の障害によって精神や霊が表現の機会を与えられなかったことから生じる未熟な精神、未熟な霊ならあります。そうした霊は他界した時点ではたぶん幼児のような進化の程度でしょう。しかし、精神または霊には何の障害もありません。

なぜそういうことになったということですが、これはさらに複雑な問題です。因果律、器具の扱い方の間違い、処置の不手際、こうしたものが重なって身体が害され、脳が本来の表現と認識の道具としての機能が果たせなくなったわけです。なぜそうなったのか?もしかしたらカルマが働いていたのかもしれません。が、私は個人的なことにはお答えするわけにはいきません。私はあくまでそれに関わっている原理、原則しか扱えません」

別の人が「この方はご自分が他界した時にすぐに妹さんだということが識別できるかどうかを知りたがっておられます」と言うと・・・・・・

「識別は想像されているほど困難なものではありません。他界してきた人はその人と何らかの縁故のある人たちによって看護されます。その人たちは死期が近づいたことを察知することができ、迎えに出ます。霊というものは自分の識別を容易にしてあげるために一時的にどんな形体でもとることができます。

子供の時に他界して地上の時間にして何十年もたっている場合、その母親が他界してきた時に一時的に他界時の子供の姿になってみせることができます。ですから、それはご心配なさる必要はありません」

──そちらから人間をご覧になる時、私たちの霊体が見えるのでしょうか、人体が見えるのでしょうか、それとも両方が見えるのでしょうか。

「それは一口にはお答えできない問題です。その霊が開発した能力によって違ってくるからです。特殊な能力・・・地上の霊能者が使用する霊視力と同じものをもっておれば人体も見えますが、一般的に言えば霊は人間の霊体を見ている場合の方が多いです。今の私にはこの部屋の物体は何も見えません。ご出席のみなさんの霊体だけが見えております」

──こちらの世界からそちらの世界へ行くとき、そちらの縁ある人たちにそのことを知らせる何かの連絡組織があるのでしょうか。

「そういう人たちは常にあなたといっしょですから、そういう組織は必要ありません。あなた自身が覚悟するずっと以前からあなたの死期を察しております。そしていよいよその時期が到来すると、そばに来て待機します。宇宙で愛ほど強力な引力はありません。愛でつながった人はけっして離ればなれにはなりません」

──ここでその日のゲストの一人で霊媒をしている女性が興味ぶかい質問をした。その霊媒がその日ある婦人の依頼で一カ月前に他界したばかりのご主人を呼び出してメッセージを述べさせたところ、その日の朝はこんなことをした、昼はこんなことをした。夕方はこんなことをした、という内容のものだったという。それで、霊界の生活にもそのように地上と同じ朝・昼・夜の変化があるのかという質問をした。これについてシルバーバーチはこう答えた。

「こちらへ来て間もない初期の段階ではそういうことがあります。まだ新しい霊的環境に順応していないためです。霊界の低い界層、いわゆる幽界の環境は地上とそっくりです。これは新参者が感覚を馴らしていくための神の配慮です。

そうしないと新参者は戸惑うのです。そうしたことから、今おっしゃった人のように、霊界へ来てからも朝と昼と夜の生活があるように思っている霊がいることになります。そう思うからそうなるのです。私たちの世界は思念が実在となる世界です。悟りが芽生えるまではその過渡的な状態がつづきます。それとは別に、あとに残した人の援助がしたくて、あえて霊的向上を望まないというケースもあります。

霊界にも庭園もあれば家もあり、湖もあれば海もあります。なぜかと言えば、もともとこちらこそが実在の世界だからです。私たちは形のない世界で暮らしているのではありません。私たちもあい変わらず人間的存在です。ただ肉体をもたないというだけです。大自然の美しさを味わうこともできます。言葉では表現できない光輝あふれる生活があります。お伝えしようにも言葉がないのです。

ごく自然な形で霊界でも家に住みます。ですがその家は地上生活(の善行・徳行)によってこしらえられたものです。庭園も自然な形で存在します。手入れがいると思えば手入れをします。究極的にはそうしたもの一切が不要であるとの悟りに達しますが、それまではそうした(地上とよく似た)環境の維持に必要な配慮がちゃんとなされております。

もしそうした配慮がまるでなされなかったら、地上から霊の世界への移行は大へんショッキングな出来ごとになってしまいます。

霊界での生活は段階的に向上していくようになっています。各界層、段階、ないし表現の場は、下と上とが地理的にではなく進化的な意味で重なり合い、次第に融合しております。魂が向上し、より高い境涯への適応性が身につくと、自動的にその境涯に置かれるのです。これも完全な叡智の完璧な働きの一例です。何一つ偶然ということがないのです。

(オーエンの『ベールの彼方の生活』第四巻でアーネル霊が、暗黒界から救出された霊の集団によってつくられたコロニーについて次のように述べている。
≪その後もそのコロニーは向上しつつあります。そして増加する光輝の強さに比例して少しずつ位置が光明界へと移動しております。これは天界における霊的状態と場所との相互関係の原理に触れる事柄で、貴殿には理解が困難、いや不可能かも知れません。それでこれ以上は深入りしないことにします≫)

霊的に病んでいる場合はこちらにある病院へ行って必要な手当てを受けます。両親がまだ地上にいるために霊界での孤児となっている子供には、ちゃんと育ての親が付き添います。血縁関係のある霊である場合もありますが、霊的な近親関係によって引かれてくる霊もいます。このように、あらゆる事態に備えてあらゆる配慮がなされます。それは自然の摂理が何一つ、誰一人見捨てないようにできているからです。

地上生活の究極の目的は、人間が霊的成長のある段階において、物的現象の世界のウラ側に存在する実在に気づくように、さまざまな体験を提供することです。大自然の摂理は正常な人間には例外なくその機会が与えられるように働いていることを私は確信しております。

もしそうでなかったら神によって無視されたり恩恵にあずかれない人間がいることになり、そういうことは絶対に有り得ないことだからです。霊が地上に誕生するというその事実が、潜在的にその子供にもいずれ芽生えるであろう霊的自覚が秘められており、そのための機会がこれから与えられていくということを意味しております」

第5章 質問に答える(三) ─倫理・道徳・社会問題─
「私は、自分で正しいと信じて行動するかぎりそれは許されるという考えに賛成です。人間には例外なく神の監視装置(モニター)が組み込まれております。道義心(良心)と呼んでおられるのがそれです。それがあなたの行動が正しいか間違っているかを教えてくれます」

本章では今日の倫理、道徳ならびに社会問題を扱うが、上の引用文がその冒頭を飾るのに最も適切であろう。過去十年あまりのうちに社会的通念が大きく変革しており、それに対して例によって賛否両論がある。まずそのことに関連して質問が出された。

第1節 人種問題
──現代社会の風潮について心配し、あるいは困惑している人が大勢いるのですが、スピリチュアリストとしてはこうした時代の潮流にどう対処すべきでしようか。

「真理を手にした者は心配の念を心に宿すようなことがあってはなりません。地上社会にはずっとトラブルが続いております。霊的な原理が社会秩序の拠って立つ基盤とならないかぎり、トラブルは絶えないでしょう。唯物的基盤の上に建てようとすることは流砂の上に建てようとするようなものです。内部で争いながら外部に平和を求めるのは無理な話です。

憎しみと暴力と敵意をむき出しにして強欲と怠惰をむさぼっている者が群がっている世界に、どうして協調性が有り得ましょう。

愛とは神の摂理を成就することです。お互いが霊的兄弟であり姉妹であり、全人類が霊的親族関係をもった大家族であることを認識すれば、お互いに愛し合わなければならないということになります。そのためにこそ神は各自にその神性の一部を植えつけられ、人類の一人ひとりが構成員となってでき上がっている霊的連鎖が地球を取り巻くように意図されているのです。

しかし今のところ、根本的には人間も霊的存在であること、誰一人として他の者から隔離されることはないこと、進化はお互いに連鎖関係があること、ともに進み、ともに後退するものであるという永遠の真理が認識されておりません。
それはあなた方スピリチュアリストの責任です。常づね言っておりますように、知識はそれをいかに有効に生かすかの責任を伴います。いったん霊的真理に目覚めた以上、今日や明日のことを心配してはなりません。

あなた方の霊に危害が及ぶことはけっしてありません。自分の知っていること、これまでに自分に明かされた真理に忠実に生きていれば、いかなる苦難がふりかかっても、いささかも傷つくことなく、切り抜けることができます。

地上で生じるいかなる出来ごとも、あなた方を霊的に傷つけたり打ちのめしたりすることはできません。ご自分の日常生活をご覧になれば、条件が整ったときの霊の威力を証明するものがいくらでもあるはずです。
残念ながらこうした重大な意味をもつ真理に気づいている人は少数であり、まだ多数とは言えません。
大多数の人間は物量、権力、支配、暴虐、隷属(させること)こそ力であると思い込んでおります。しかし神の子は全て身体と精神と霊において自由であるべく生まれているのです。

霊的真理が世界各地に広がり浸透していくにつれて、次第に地上の神の子もより大きな自由の中で生活するようになり、その日常生活により大きな光輝が見られるようになることでしょう。まだまだ、英国はもとより他のいかなる国においても、話が終わったわけではありません。

進化へ向けての神の力が、これからゆっくりと、そして少しずつ、その威力を見せはじめます。それを地上の人間が一時的に阻止し、阻害し、遅らせることはできます。が、それによって神が意思を変更なさることはありません。

もしそのくらいのことで神の意志が覆(クツガエ)されるようなことがあるとしたら、この地球はとっくの昔に破滅しているでしょう。霊は物質に優ります。神の霊、大霊こそが宇宙の絶対的支配力なのです。そこで私はいつも申し上げるのです。・・・心を強く持ち、背筋を真っすぐに伸ばして歩みなさい。この世に、そして霊の世界にも、恐れるものは何一つありません、と。最後はきっとうまくいきます」

──われわれ真理を語る者は、人種差別や動物への虐待行為といった間違ったことに、もっと攻撃の矛先を向けるべきでしょうか。

「そうです。ただ、その際に大切なことは、そうした残虐行為や不和、差別といったものを攻撃するのは、それが物的観点からではなく霊的観点からみて間違ったことだからであることを前面に押し出すことです。その点、霊的真理を手にされたあなた方はとくに恵まれた立場にあります。人間は霊ですから、その霊の宿としてふさわしい身体をもたねばなりません。となると、そのための教育が必要となります。霊的観点からみて適切な生活環境、適切な家屋、適切な衣服、適切な食事を与えねばならないからです。

動物を虐待することは霊的観点からみて間違ったことなのです、民族差別や有色人種蔑視は霊的観点からみて間違っているのです。魂には色はありません。黄色でも赤銅でも黒色でも白色でもありません。この霊的真実を前面に押し出して説くことが、もっとも大切な貢献をすることになります」

──私が言いたかったのは、マスメディア(テレビ・ラジオ・新聞・雑誌)が有色人種への嫌悪感をあおって、洗脳しようとする危険から身を守らねばならないということです。

「ですから、霊的真理に目覚めれば霊的同胞を毛嫌いすることはできなくなると申し上げているのです」

──より多くを知っているわれわれがしっかりしなくてはならないと思います。
「そうです。知識(の価値)が大きければ大きいほど大きな責任を伴います」

第2節 愛と寛容
──それと、真理に目覚めた者は寛大であらねばならないと思います。
「寛容性は霊性の真髄です。偏狭な信仰のあるところには霊性はありません」

──寛大であれと言うのは結構だと思うのですが、現実の世界において何に寛大であるべきかをよく見きわめる必要があると思います。残虐行為や邪悪な行為に対してはいかなるものでも寛大であってはならないはずです。

「それに、悪とは何かということも見きわめる必要があります。地上生活の究極の目的は〝死〟と呼ばれている現象のあとに待ちかまえている次のステージ(生活舞台)に備えて、内部の霊性を開発することにあります。開発するほど洞察力が深まります。霊性が開発され進歩するにつれて、自動的に他人へ対して寛大になり憐みを覚えるようになります。これは、悪や残忍さや不正に対して寛大であれという意味ではありません。相手は自分より知らないのだという認識から生まれる一種の我慢です。

人間は往々にして自分のしていることの意味が分からずに、まったくの無知から行為に出ていることがあるものです。そこがあなたの我慢のしどころです。しかし、その我慢は悪を放任し黙認してしまうことではありません。それは我慢ではなく、目の前の現実に目をつむることです。真の意味での寛大さには洞察力が伴います。そして、いつでも援助の手を差しのべる用意ができていなければなりません」

──愛と寛容は優しさから生まれます。情愛でつながった者に対しては、われわれはその欠点に対して寛大になります。私はこの寛大さ、これは愛といってもよいと思うのですが、これが現代の世の中にかけていると思うのです。愛と寛容とを結びつけることができれば人類はさらに高揚されると思うのですが・・・・

「同感です。バイブルにも愛とは摂理を成就することである、とあります。愛とは摂理のことです。神の御心です。なぜなら、神そのものがすなわち愛だからです。したがって神の御心に適った生き方をしていれば、それは愛を表現していることになります。

私のいう〝愛〟とは慈悲の心、奉仕の精神、犠牲的精神、要するに自分より恵まれない者のために自分の能力の範囲内で精いっぱい援助しようとする心を言います。自分のことをかえりみず、助けを必要とする人のために出来るかぎりのことをしてあげようとする心、それが愛なのです」

第3節 真の道徳の基準
──現代社会ほど不道徳が露(アラワ)な時代はないと主張する人がいます。霊界でもそう見ておられるのでしょうか。そう主張する人たちは、五十年前あるいは百年前の時代を例にとって、当時は子供が煙突掃除みたいな仕事にいっしょうけんめい従事していたものだと言います。

「不道徳とはいったい何なのでしょう。あなた方が道徳的だと考ていらっしゃることが私たちから見ると大へん非道徳的である場合もあります。そこに物の見方の問題があります。私にとって道徳とは、その人がそれまでに悟った最高の原理に忠実に行動しようという考えを抱かせる努力目標のことです。それは親切であろうとすることであり、手助けをしようとすることであり、人の心を思いやることです。

もとよりそれは人の心を傷つけたり感情を害することではありません。いかなる形においても人の進歩を阻害することであってはならないことになります。後になって恥ずかしく思ったり、自分が手にした真理に忠実でなかったと思うようなことをしてはいけないということになります。

私が理解している道徳とはそういうものです。説くとすればそう説きます。今の社会がこれまでに較べて道徳的か非道徳的かの問題は、道徳というものについての解釈次第で違ってきます。本質において、ある面では経済的ならびに霊的に向上していながら、別の面では遅れていることもあります。進化というものは一直線に進むものではないからです」

──今の世の中は物質中心だと言われています。でも家族を養っていくためにはある程度は物質中心にならざるを得ません。あまりにスピリチュアリズム的になりすぎると経済的に苦しくなることが懸念されるのですが、その境目をどこに設けたらよいのでしょうか。

「まず神の御国と神の義を求めよ。しからば全てそれらのもの汝らに加えらるべし」(マタイ6・33)

──両方とも可能だということですね?

「当然です。が、優先すべきものをちゃんと優先させ、霊的真理を忘れなければ、物質面をおろそかにすることはないはずです。私は物質界に生きる人間としての責務を回避すべきであるかに説いたことは一度もありません。

霊的存在として優先すべきものをちゃんと優先させ、その上で物的人間としての責務も忘れないということであらねばなりません。霊をおろそかにしてもいけませんし、精神をおろそかにしてもいけませんし、身体をおろそかにしてもいけません。責任をもつべきことを回避してはいけません」

第4節 人工中絶と避妊
その日のゲストの一人が産児制限の話を持ち出した。

──人間の誕生は自然法則によって支配されているとおっしゃっておられますが、そうなると産児制限はその自然法則に干渉することになり、間違っていることになるのでしょうか。

「いえ、間違ってはいません。経済的理由、健康上の理由、その他の理由でそうせざるを得ないと判断したのであれば、出産を制限することは正しいことです。この問題でも動機が大切です。何ごとも動機が正当であれば、正しい決着をみます。出産を制限することもその動機が正しければ、少しも間違ったことではありません。しかし、霊の世界には地上での生活を求めている者が無数にいて、物的身体を提供してくれる機会を待ちかまえている事実を忘れないでください」

続いて妊娠中絶の話題が持ち出されると、同じゲストが尋ねた。

──それはどの段階からいけないことになるのでしょうか。
「中絶行為をしたその瞬間からです」

──妊娠してすぐでもいけないのでしょうか。

「とにかく中絶の行為がなされた瞬間から、それは間違いを犯したことになります。いいですか、あなたがた人間には生命を創造する力はないのです。あなた方は生命を霊界から地上へ移す役しかしていないのです。その生命の顕現の機会を滅ぼす権利はありません。中絶は殺人と同じです。妊娠の瞬間から霊はその女性の子宮に宿っております。中絶されればその霊は、たとえ未熟でも霊的身体に宿って生き、生長しなければなりません。

中絶によって物的表現の媒体を無きものにすることはできても、それに宿っていた霊は滅んでいないのです。霊的胎児のせっかくの自然の生長を阻害したことになるのです。もっとも、これも動機次第で事情が違ってきます。常に動機というものが考慮されるのです。

私の住む世界の高級霊で人工中絶を支持している霊を私は一人も知りません。が、動機を考慮しなければならない特殊な条件というものが必ずあるものです。行為そのものは絶対にいけないことなのですが──

あなた方が生命をこしらえているのではないのです。したがってその生命が物質界に顕現するための媒体を勝手に滅ぼすべきではありません。もしも中絶を行っている人たちが、それは単に物質を無きものにしたことで済んだ問題でないこと、いつの日かその人たちは(医師も含まれる。訳者)その中絶行為のために地上に誕生できなかった霊と対面させられることになるという事実を知れば、そうした行為はずっと少なくなると私は考えております。妊娠の瞬間からそこに一個の霊としての誕生があり、それは決して死ぬことなく、こちらの世界で生長を続けるのです」

──今地上で行われている実情を思うと、これは大変なことをしていることになります。
「それが現実なのです」

──堕胎された霊はいつかまた誕生してくるのでしょうか。

「そうです。責任は免れません。物質界への誕生の目的が自我の開発であり、そのせっかくの機会が叶えられなかった場合は、もう一度、必要とあれば何度でも、再生してきます」

第5節 植物人間と安楽死
もう一人のゲストが脳障害のために植物同然となり病院でただ機械につながれて生きながらえている人たちの問題を持ち出して、こう尋ねた。

──そうやって生きながらえさせることは神の摂理にもとるのではないでしょうか。その人たちの霊はどうなっているのでしょうか。肉体につながれたままなのでしょうか。睡眠と同じ状態なのでしょうか。解放してやるべきなのでしょうか。

「地上生活の目的は霊が死後に迎えるより大きな生活に備えることです。自然の摂理と調和した生活を送っていればその目的は達成され、時が熟し肉体がその目的を果たし終えれば、霊はその肉体から離れます。たびたび申し上げておりますように、リンゴは熟すと自然に木から落ちます。それと同じように、霊もその時を得て肉体を離れるべきです。

あなたのおっしゃる脳に障害のある人のケースですが、それは、患者の生命を維持させようとしてあらゆる手段を講じる医師の動機にかかわることです。昔の医師はそれが自分の全職務の究極の目的であるという趣旨の宣誓をしたものです。今でも、地上のいかなる人間と言えども、霊は時が熟してから肉体を離れるべきであるという摂理に干渉することは、霊的な意味において許されません。特殊な事情があって医師がその過程を早めることをする場合がありますが、動機さえ純粋であればその医師を咎めることはできません。

脳に障害を受けた患者は、たとえば動力源が故障したために受信・送信が不能になった機械のようなものです。正常の機能のほんの一部が働いているだけです。脳が障害を受けたために〝霊の脳〟ともいうべき精神が本来の表現ができなくなっているわけです。脳に障害があるからといって精神に障害があるわけではありません。

タイプライターを打っていてキーが故障した場合、それは使えなくなったというだけであって、タイピスト自身はどこにも異状はありません。それと同じです。

要するに精神が大きなハンディキャップを背負っているわけです。正常な生活を送れば得られるはずの成長をその分だけ欠くことになります。その結果こちらへ来てみると魂はその欠けた分の埋め合わせをしなくてはならない状態にあります。いってみれば小児のような状態です。しかし個霊としては霊的に何の障害も受けておりません。

霊が身体を生かしめているかぎり、両者のつながりは維持されます。霊と身体をつないでいる〝玉の緒〟―胎児と母体をつないでいる〝へその緒〟と同じです。が切れると、霊は身体から解放されます。身体の死を迎えた人にとっては霊的生活の始まりであり、地上へ誕生してきた霊にとっては物的生活の始まりです」

──今にも死ぬかに思える人が機械によって生きながらえている例をよく耳にします。

「霊が身体から離れるべき時期がくれば、地上のいかなる機械をもってしても、それ以上つなぎとめることはできません。いったんコードが切れたら地上のいかなる人物も、霊をもう一度つなぎとめる力は持ち合わせません。その時点で肉体の死が生じたのです」

──ここからいわゆる安楽死の問題が持ち出された。ゲストの一人が尋ねる。

──交通事故に遭った人の話をよく記事で読むのですが、病院へ運ばれたあと一命を取り止めてもそのまま植物状態となって、自分の力では何一つできなくなっている人がいます。そのような状態で生きていても霊的に何の成長もないと思うのですが、なぜ地上に居続けなければならないのでしょうか。なぜ安楽死させることが許されないのでしょうか。

「バイブルのどこかにこんな言葉があります〝神が与え、神が奪われる。ありがたきかな神の御名〟
(ヨブ記1・21 バイブルでは〝奪われた〟とあるが引用文は現在形になっている。訳者)

私がこの文句を引用したのは真実そのとおりだからです。人間は生命を創造することはできませんし滅ぼすこともできません。生命が機能するための機関を提供することはできます。その機関を破壊することもできます。しかし生物は神からの贈りものであり、人間のものではありません。生命は神が人間に託した責務です。

なぜ?というご質問ですが、それについては、物的尺度だけで判断を下さないように注意しないといけません。霊の問題は物的尺度では計れないのです。植物同然となってしまった一個の人間をご覧になれば、自然の情として哀れ、同情、慈悲、憐憫をさそわれるのも無理はありません。しかし植物にも生命があり、地上で果たすべき役目があります。そうでなければ存在しないはずです。

一人の人間が事故で負傷する。機能の損傷がひどくて霊が自我を表現できなくなった。この問題をあなたは身体上の問題としてみますか、それとも霊的な問題とみますか。霊的にはそこに果たすべき目的があり、学ぶべき教訓があり、忍ぶべき体験があるのです。たしかに見たところ身体的にはまったく動きが止まっています。しかし霊的な目をもって見ることができるようになるまでは、つまり永遠の価値基準を理解できるようにならないかぎり、あなたの判断はどうしても誤りに基づいたものとなります。

私はいわゆる植物人間を安楽死させることには全面的に、そして文句なしに反対です。ただし、そこにやむを得ない動機がありうることは認めます。しかしそれは問題を解決したことにはなりません。あなたがもし安楽死を実行する時期の決断を誰かに任せたら、それは本来その人が持つべきことの出来ない権利を与えたことになります。その人にはそういう決断を下す義務も与えるべきではないのです」

サークルのメンバーの一人が尋ねる。

── 一人の人間が苦しんでいる時、それ以上苦しまないようにしてあげる義務が私たちにあるのではないでしょうか。

「病気とか異状あるいは虚弱といった身体上のことをおっしゃっているのであれば、現代医学で治すことも改善することもできないものがあることは認めます。しかし、すばらしい効果のある、そして現に成果をあげている治療方法がほかにもいろいろあります。医学的診断のみを判定基準にしてはいけません。そのことをしっかり認識しなくてはいけません。

医師が〝不治〟と診断したものが心霊治療によって完治、または改善されたケースがたくさんあることを皆さんは良くご存知なのですから。

苦しみにはそれ相当の目的があります。苦しみは無くてはならない大切なものなのです。なぜなら、それを通じて魂の目が開かされ、隠れた力を呼び覚まされ、その結果として霊的に、時には身体的に、いっそう強力になってまいります。そうなるべきものなのです。多くの人にとって苦しみは、全人生をまったく別の視点から見つめさせる大きな媒体となっています。

いかなる症状の患者であっても、簡単に〝不治〟と片付けてはいけません。その態度は間違っています。地上の格言にも〝生命あるかぎりは希望がある〟というのがありますが、これは真実です。霊が宿っているかぎり元気を回復させ、再充電し、ある程度まで機能を回復させることができます。

摂理が自然に働くようにしさえすれば、身体は死すべき時機がくれば自然に死にます。霊に身体から離れる準備が出来たからです」

──私が知っているあるガン患者はそろそろ痛みを覚えはじめており、症状は良くないようです。

「でも痛みをやわらげることは可能です。医学的にも手段はあります。ですから痛みだけを問題にするのであれば、それはなんとかなります。そして、たとえ症状が耐えきれない段階に達しても、私たちから見るかぎり、それをもって最終的な宣告を下してはならないと私は主張いたします。

精神構造が限られた分野の教育しか受けていない者(医師・医学者)による宣告が最終的なものであると私がもし申し上げたら、それはこれまで私が説いてきたすべての教説を裏切ることになりましょう」

ここで別のメンバーが「私たちの経験でも手術不能のガン患者が心霊治療によって痛みが取れた例がたくさんあります」と指摘する。

すると先のメンバーが「それは私も認めます。しかし、痛みが取れない例もたくさんあります」と反論する。
「結局われられは霊力についてもっと幅広い知識を求め、より多くを活用し、いざという時のために霊力を貯えておくべきだということではないでしょうか」
「でも、それでは今私がいっている患者を救うことはできません」

ここでシルバーバーチが答える。

「皆さんはいつでも治療を施してあげることができます。祈ることによって助けになってあげることができます。祈りの念にも効果を生むだけの力が秘められているからです。とにかく、いくら医師が理知的であっても、その視野は地縛的ですから、そんな人による悲劇的な宣告をまともに受けとめてはなりません」

さきのメンバーの一人が「苦難が人間性を磨くことをたびたびおっしゃっていますが、そうでないケースもしばしば見受けられます」と異議をはさむと・・・

「私は、苦しみさえすれば自動的に人間性が磨かれるとは決して申しておりません。苦難は地上にいるかぎり耐え忍ばねばならない、避けようにも避けられない貴重な体験の一つで、それが人間性を磨くことになると言っているのです。たびたび申し上げておりますように、晴天の日もあれば雨天の日もあり、嵐の日もあれば穏やかな日もあるというふうに、一方があれば必ずもう一方があるようになっているのです。

もしも地上生活が初めから終わりまで何一つ苦労のない幸せばかりであれば、それはもはや幸せとは言えません。幸せがあることがどういうことであるかが分からないからです。悲しみを味わってこそ幸せの味も分かるのです。苦難が人生とは何かを分からせる手段となることがよくあります。苦難、悲哀、病気、危機、死別、こうしたものを体験してはじめて霊的な目が開くのです。それが永遠の実在の理解に到達するための手段となっているケースがたくさんあります」

──残念なことなのですが、苦難に遭うと不幸だと思い、邪険になり、卑屈になっていく人が多いようです。

「それは結局のところその人の人生に確固とした土台がないからです。人生観、宗教観、それに物の観方が確固とした知識を基盤としておれば、いかなる逆境の嵐が吹きまくっても動じることはないはずです。これも人生の一こまだ、すべてではなくホンの一部にすぎないのだという認識ができるからです」

──結局のところ私が思うに、苦難はその意義が理解できる段階まで到達した人だけが受ければよいということになりそうです。

「そのようなことは神と相談なさってください。この私に言えることは、これまで幾つもの存在の場で生活してきて、自然の摂理は厳格な正確さをもって働いており、絶対に誤ることはないことを知ったということ、それだけです」

別のメンバーが論議に加わる。

──死にたくない患者も大勢いるはずです。たとえ医師が安楽死させる権利を与えられても、その人たちはまず死にたがらないだろうと思われます。

「安楽死の決定権はもともと医師などに与えるべきものではないのです。現実の事実を直視してみてください。大半の医師の物の見方は唯物的です。その医学的知識は人間が身体のほかに精神と霊とから成っていることを認識していない唯物思想を基礎としています。

少なくとも医学界においては人間は脳を中枢とする身体、それに多分ある種の精神的なものをも具えた物的存在であり、霊というものについての認識はゼロに等しいのです。そうした、人生でもっとも大切なことについてまったく無知な人たちに、そのような生死にかかわる決定権がどうして預けられましょうか」

──万一事故で身体が不自由になった場合は死を選びます、と言う宣誓書にサインをする人がいます。
「それはその人の自由意思によって行なう選択です」

──その要請に基づいて医師が実行した場合はどうなりますか。
「問題はありません」

──患者が自由意思によって死を選んだ場合でもやはり因果律が働くのでしょうか。

「いついかなる場合でも因果律が働いています。あなたのこのたびの地上への誕生も因果律が働いたその結果です。これから訪れるあなたの死も因果律の自然な働きの結果であるべきです。それを中断させる、つまり余計な干渉をするということは、自然な因果関係を破壊することですから、当然その償いをしなければならなくなります。

何度も申し上げておりますように、死は霊に準備ができた時に訪れるべきものです。それはリンゴが熟すると実が落ちるのと同じです。まだ熟し切らないうちにもぎ取れば、そのリンゴは食べられません。霊も十分な準備ができないうちに身体から無理やり離されると、それなりのペナルティが課せられます。それを因果律というのです。

人間の判断は物的観察だけに基づいておりますが、人生の目的はもともと霊的なものなのです。人間の勝手な考えで地上から連れ去ってはいけません。人間には全体像が見えません。物的側面しか見えません。一人ひとりに生まれるべき時があり死ぬべき時があります。それもすべて自然の摂理の一環なのです。あなた方が生命を与えるのではありません。ですから勝手に奪うことも許されません。生命は神のものなのです。

神はその無限の叡智によって、各自が公正な裁きを受けるように摂理を用意しておられます。その永遠のいとなみを、この地上生活という一かけらでもって判断しようとすると誤ります。あなた方は霊というもの、およびその霊への反応というものを推し量る手段を何一つ持ち合わせていないです。

苦しみが魂にとって薬になることがあります。それによって魂の本質が試されることになります。潜在する資質が呼び覚まされます。鋼(ハガネ)は炎の中においてこそ鍛えられるのです。黄金は破砕と練磨によってはじめて真の姿を現すのです。

地上生活の出来ごとには必ず目的があります。哀れな姿を見て同情なさるお気持ちは私にも分かります。ですが、地上生活には偶然というものは何一つないのです。それに、いったい誰に、生殺与奪の権利を握る資格があるのでしょうか。医師が判断を誤ることは十分に有りうることです。数々の誤診を犯している現実をごらんになれば分かります。

私たちはあなた方と正反対の観方をすることがあります。肉体の死は霊の誕生という観方をします。混乱状態を進歩と見なし、人間が進歩と思っていることを禍いのタネとみなすことがあります。永遠を物的なものさしで計っても満足のいく解答は得られません。

たとえば、なぜ苦しみがあるのか。いたいけない子供がなぜ苦しまねばならないのか。痛み、病気、面倒、危機、こうしたものがなぜあるのか。そういう疑問を抱かれるようですが、それもすべて霊の進化という永遠の物語の一部なのです。

その中には地上に誕生してくる前に、みずから覚悟しているものもあるのです。霊的な身支度を整える上で学ぶべき教訓を提供してくれる、ありとあらゆる体験を経ないことには成長は望めません。とどのつまりは、それが存在の目的なのです。

こうしたことは前にも申し上げました。光の存在に気づくのは暗闇があるからこそです。もしも暗闇がなければ、光とはいかなるものであるかが分かりません。埋め合わせと懲らしめの原理というのがあります。神は厳正なる審判者です。差引勘定がきっちりと合わされます。決算書を作成するときが来てみると帳じりがきっちりと合っています。

どうか同情心はこれからも持ち続けてください。しかし同時に、見た目に気の毒なこと、理解に苦しむことの裏側にも必ずちゃんとした意味があることを理解するようにつとめてください。

永遠の時の流れの中にあっては、数時間や数日は大して意味はありません。大切なのは魂に及ぼす影響です。たぶんご存知と思いますが、実際は患者よりも側で見ている人の方が苦しみが大きいことがよくあります。患者自身は単に身体上の反応を見せているだけで、あなたがさぞかしと思いやっておられる苦しみは味わっていないものです。

魂に及ぶものが一ばん大切です。と言って、身体上のことに無神経になりなさいと言っているのではありません。身体は霊が地上で自我を表現する媒体です。両者はつねに反応し合っております。身体は霊に影響を及ぼし、霊は身体に影響を及ぼしています。しかし、どちらが上かと言えば、文句なしに霊の方です。霊が王様であり身体は召使いです。

身体にいくら薬品を注ぎ込んでも、別に霊には影響ありません。それによって最終的な身体との分離の時期を少しばかり遅らせることはできるかも知れませんが、霊はいつかは身体を離れなければならないという摂理を変えることはできません。不老不死の妙薬や治療法をいくら求めても無駄です。自然の摂理によって支配されているからです」

第6節 自殺の問題
人為的な死のもう一つのタイプに自殺があるが、レギュラーメンバーによる次の質問をきっかけに、それが続いての話題となった。

──外的な手段によって生命を断つことを非難されるのは当然ですし、私もその通りだと思うのですが、外的な手段を用いずに、心で死のうと決意して死期を待つことも可能です。それも一種の自殺でしょうか。

「各人各個の責任は変えようにも変えられません。因果律は絶対です。原因があれば必ずそれ相当の結果が生じます」

──死後の生命を信じるがゆえに死を歓迎することもあるかも知れません。肉体が手の施しようのない状態となり、そうなった以上もはや医学的手段でいたずらに生命を維持するのを潔しとせず、死を覚悟するのです。

「ならばその時の動機づけが大切なポイントになります。同じ行為でも動機づけによって正当性が違ってきます」

──自殺者のそちらでの状態は不幸で、右も左も分からなくなり、みじめであるということですが、自殺する時の精神状態がすでにそうであったはずですから、死後も同じ状態に置かれても不思議はないと思うのです。では仮に真のよろこびと幸せを感じながら自殺したらどうなるでしょうか。

「その場合は動機が自己中心的ということになります。自然の摂理をごまかすことはできません。こればかりは例外がありません。蒔いたものは自分で刈り取らねばなりません。それ以外にありようがないのです。動機がすべてを決定づけます。その時点において良心が善いことか悪いことかを告げてくれます。もしもそこで言い訳をして自分で自分をごまかすようなことをすれば、それに対して責任を取らされることになります」

ここでゲストの一人が思いがけない角度からの質問をした。

──食べすぎ飲みすぎ吸いすぎは自殺行為だと医者がよく言いますが、これも一種の自殺と見なされるのでしょうか、それとも死というのはあらかじめ定められているのでしょうか。

「答えはご質問の中に暗示されております。もしもあらかじめ定められているのであれば、それが自殺行為であるか否かの問題ではなく、そうなるように方向づけられていたことになります。ですから、それが宿命であれば、そうなるほかはなかったということです。魂そのものはそれと自覚していることも有り得ます」

──私は死が誕生時から知られているのかどうか、また、その後の行いによって変えることができるのかどうか、その辺が確信できません。
「知られているというのは、誰にですか」

──おそらく生まれてくる本人、あるいはそちらに残していく仲間の霊かと思います。

「知られていることは事実です。しかしそれが(脳を焦点とする意識を通して)表面に出て来ないのです。地上生活期間を永遠で割ると無限小の数字になってしまいます。その分数の横線の上(分子)にどんな数字をもってきても、その下のあるもの(分母)に較べれば顕微鏡的数字となります。小が大を兼ねることはできません。魂の奥でいかなる自覚がなされていても、それが表面に出るにはそれ相当の準備がいります。

人間には相対的条件下での自由意思が認められております。定められた人生模様の枝葉末節なら変えることができますが、その基本のパターンそのものを変えることはできません。定められたコースを自分で切り抜けていかねばなりません。

ただ、地上の人間は、一人の例外もなく、絶対的支配力である霊力の恩恵にあずかる機会が与えられております。みずから求めるのでないかぎり、永遠に暗闇の中で苦しめられることはありません。何よりも動機が最優先されます。その行為が正しいか間違っているかは動機いかんに掛かっているのです。その摂理は動かしようがありません」

第7節 死刑の是非
最後に、いつの時代にも社会・道徳・霊的の視点から問題となっている死刑制度がある。それについてシルバーバーチは次のような見解を述べている。

「霊の教訓として私が躊躇なく述べていることは、殺人を犯したからといってその犯人を殺してよいということにはならないということです。地上の人間は正義と復讐とを区別しなくてはいけません。いかなる理由にせよ、霊的に何の用意もできていない魂から肉体を奪って霊界へ送り込むことは、最低の人間的感情を満足させることにはなっても、何一つ意義のあることは成就されません。

正当な裁きを下すべきです。死刑によって一個の人間を霊界へ送り込んでも、その霊を一かけらも進化させることにはなりません。逆に、一段と堕落させ、“目には目を、歯には歯を〟の激情に巻き込みます。

われわれは生命は肉体の死後も生き続けるという動かし難い事実を基盤とした原理を堅持しなくてはいけません。何の準備もできていない人間を霊界へ送り込むことは、ますますトラブルのタネを増やすことになるのです。時には誤審による死刑も行われており、正当な裁きが為されておりません。

生命は神聖なるものです。その生命与奪の権利は人間にはないのです。それをいかに扱うかにあなた方の責任があります。生命は物質から生まれるものではありません。物質が生命によってこしらえられ、存在が維持されているのです。生命とは霊に所属するものです。宇宙の大霊から出ているのです。

生命は神性を帯びているのです。ですから、生命および各種の生命形態を扱うに際しては、憐憫と慈愛と同情という最高の倫理的規範に照らさなくてはなりません。何事をするにも、まず動機に間違いがないようにしなくてはいけません。」

第6章 あすの指導者たち ─若者にどう説くか─
初めて招待された女性が自分の教会に通う十代の若者にはどう霊的真理を説けばよいかを尋ねた。その教会は英国国教会には属しておらず、バイブル中心の教えは説いていないという。

シルバーバーチはこう答えた。

「今日の若者は反抗的なところがありますから、理性と論理に訴えるのが一ばん良いと私は考えます。彼らの気持ちの中には、過去の教えは暗黒の世界をもたらして自分たちを裏切ったという考えがあります。私だったらこうしてお持ちしている霊的真理の背後の理念の合理性を訴えたいと思います。

その際にスピリチュアルリズムとかオカルトとかのラベルや、神秘的、秘教的といった言い方はしない方がよろしい。ただの用語にすぎないのですから。

それよりも、脳と精神の違い、物質と霊の違いを教え、今すでに自分という存在の中に化学的分析も解剖もできない、物質を超えた生命原理が働いており、それが原動力となって自分が生かされているのだということを説くのです。

人間という存在は最も高度に組織化され、最も緻密で最も複雑なコントロールルームを具えた、他に類をみない驚異的な有機体です。その無数の構成要素が調和的に働くことによって生き動き呼吸ができているのです。しかし実は、その物的身体のほかにもう一つ、それを操作する、思考力を具えた、目に見えない、霊的個性(インディビジュアリティ)が存在していることを説くのです。

目に見えている表面の奥に、評価し考察し比較し反省し分析し判断し決断を下す精神が働いております。それは物的なものではありません。人間には情愛があり、友情があり、愛があり、同情心がありますが、これらは本質的には非物質的なものです。

愛を計算することはできません。重さを計ることも、目で見ることも、舌で舐めることも、鼻で嗅いでみることも、耳で聞いてみることもできません。それでも厳然として存在し、英雄的行為と犠牲的行為へ駆り立てる最大の原動力となっております。

あなたの教会へ訪れる若者はまだ、あなたがすでにご存知の霊的真理は何も知らないわけですが、その子たちにまず精神とは何でしょうかと問いかけてみられることです。

それが肉体を超えたものであることは明白ですから、では肉体が機能しなくなると同時にその肉体を超えたものも機能しなくなると想像する根拠がどこにあるか・・・こういう具合に話を論理的に持っていけば、よいきっかけがつかめると思います。

それによって何人かでも関心を抱いてくれる者がいれば、その好機を逃してはいけません。嘲笑やあざけりは気になさらないことです。あなたの言葉を素直に受け入れてくれる者が一人や二人はいるものです。その種子はすぐにではなくても、そのうち芽を出しはじめることでしょう。

それであなたは、自分以外の魂の一つに自我を見出させてあげたことになるのです。私たちは地上の人々が正しい生き方を始めるきっかけとなる、真の自我への覚醒と認識をもたらしてあげることに四六時中かかわっております。それが私たち霊団に課された大目的なのです。

人生の落伍者、死後に再び始まる生活に何の備えもない、何の身支度もできていないまま霊界入りする人があまりにも多すぎるからです」

別の日の交霊会で・・・

──若者に霊的真理へ関心を向けさせるにはどうしたらよいでしょうか。

「私の考えでは、若者は一般的に言って人生体験、とくに身近な人を失うことによる胸をえぐられるような、内省を迫られる体験がありませんから、ただ単に霊の世界との交信が可能であることを証明してみせるという形で迫ってはいけないと思います。我が子が死後も生きているといった一身上の事実の証明では関心は引けません。

私はやはり若者の理性と知性に訴えるべきだと思います。すなわち論理的思考が納得するような霊的真理を提示し、それを単に信じろとか希望を見出せとか要求するのではなく、それが合理的で理性を満足させるものであり、真理の極印が押されたものであることを理解させるために、こちらが説くことを徹底的に疑ってかからせるのです。

私だったらその霊的真理は不変の自然法則によって統制されている広大な宇宙的構想の一端であることを説きます。生命現象、自然現象、人間的現象のあらゆる側面と活動が、起こりうるすべての事態に備えて用意されている神の摂理によって完全なる統制下におかれているということです。

それゆえに地上で起きる出来ごとはすべて法則によって支配されたものであると説きます。つまり原因と結果の法則が働いており、一つの原因には寸分の狂いもない連鎖でそれ相当の結果が生じるということです。奇跡と言うものはないということです。

法則は定められた通りに働くものであり、その意味ではすべてのことが前もって知れているわけですから、奇跡を起こすための法則を廃棄する必要はないのです。

そう説いてから、心霊実験による証拠を引き合いに出して、それが、人間は本来が霊であること、肉体は付属物であって、それに生命を吹き入れる霊の投影にすぎないことを証明していることを指摘します。つまり肉体そのものには動力も生命力もないのです。

肉体が動き呼吸し機能できているのは、それを可能ならしめるエネルギーを具えた霊のおかげなのです。霊は物質に優るのです。霊が王様だとすれば物質は従臣です。霊が主人だとすれば、物質は召使いのようなものです。要するに霊がすべてを支配し、規制し、管理し、統制しているのです。

そう述べてから、更に私は、以上のような重大な事実を知ることは深遠な意義があることを付け加えます。これを正しく理解すれば人間的な考えに革命をもたらし、各自が正しい視野をもち、優先させるべきものを優先させ、永遠の実在である霊的本性の開発と向上について、その仮りの宿にすぎない肉体の維持に向けられている関心と同じ程度の関心を向けるようになることでしょう。
以上のような対応の仕方なら若者も応じてくれるものと私は考えます」

──霊能養成会に参加することはお勧めになりますか。

「初めからは勧めません。最初は精神統一の為のグループにでも加わることを勧めます。その方が若者には向いているのでしょう。瞑想によってふだん隠れているものに表現のチャンスを与えるのです」

──それはうっかりすると、いわゆる神秘主義者にしてしまいませんか。

「もしそうなったら、それは方向を間違えたことになります。それも自由意思による選択に任されるべきことです。若者には若者なりの発達の余地を与えてやらねばなりません。受け入れる準備ができれば受け入れます。弟子に準備ができれば師が訪れるものです」

──現代の若者に対して霊界から特別の働きがあるのでしょうか。それが血気盛んな若者を刺激して、自分でもわけが分からないまま何かを求めようとさせているのではないでしょうか。

「今日の若者の問題の原因は、一つには第二次世界大戦による社会環境の大変動があります。それが忠誠の対象を変えさせ、過去に対して背を向けさせ、いま自分たちが置かれている状況に合っていると思う思想を求めさせているのです。

若者は本性そのものが物ごとを何でも過激に、性急に求めさせます。従来の型にはまったものに背を向け、物質のベールに隠されたものを性急に求めようとします。(LSDのような)麻薬を使って一時的な幻覚を味わうとか、時には暴力行為で恍惚(エクスタシー)を味わうといった過激な方法に走るのも、若者が新しいものを求めようとして古いものを破壊している一例と言えます。

もとより霊的開発に手っ取りばやい方法があるかに思わせることは断じてあってはなりません。それは絶対に有り得ないのです。霊の宝は即座に手に入るものではありません。努力して求めなくてはなりません。霊的熟達には大へんな修行が必要です。それを求める人は、本格的な霊能を身につけるために長期間にわたる献身的修行を要することを認識しなくてはなりません。

若者にはぜひとも物質を超えたものを求めさせる必要があります。物質の世界が殻であり、実在はその殻の内側にあることを認識すれば、それが生への新たな視野をもたせることになるでしょう。そうなった時はじめて若者としての社会へ貢献ができることになります」

──組織的社会に対するそうした若者の反抗についてお尋ねしたいのですが、その傾向は若者が霊界の波長に合いやすくて、知らず知らずのうちに霊界からの指図に反応しているのだという観方をどう思われますか。

「私は若者の反抗は別に気にしておりません。私がいけないと言っているのは若者による暴力行為です」

──若者も愛を基本概念とした神を求めております。彼らの思想は愛に根ざしています。教会中心ではなく神を中心としています。そうではないでしょうか。

「反抗するのは若者の特権です。安易に妥協するようでは若者ではなくなります。追求し、詮索し、反逆しなくてはいけません。地上世界はこのたび幾つかの激変を体験し、慣習が変化し、既成の教えに対する敬意を失いました。

こうした折に若者なりに自分たちの住む世界の統治はかくあるべきだと思うものを求めても、それを非難してはいけません。しかし肝心なのは地上生活もすべて霊的実在が基本となっており物的現実とは違うという認識です。物質にはそれ自身の存在は無いのです。物質の存在は霊のおかげなのです。物質は外殻であり、外皮であり、霊が核なのです。

肉体が滅びるのは物質で出来ているからであり、霊が撤退するからです。老いも若きも地上の人間すべてが学ばねばならない大切な教訓は、霊こそ全生命活動の基盤だということです。地上生活におけるより大きな安らぎ、より一層の宿願成就のカギを握るのは、その霊的原理をいかに応用するかです。すなわち、慈悲、慈愛、寛容心、協調的精神、奉仕的精神といった霊的資質を少しでも多く発揮することです。

人間世界の不幸の原因は物質万能主義、つまりは欲望と利己主義が支配していることにあります。我欲を愛他主義と置きかえないといけません。利己主義を自己犠牲と置きかえないといけません。恵まれた人が恵まれない人に手を差しのべるような社会にしないといけません。それが究極的に今より大きな平和、協調性、思いやりの心を招来する道です。

私は絶対に悲観していません。私はつねに楽観的です。人間世界の諺を使わせていただけば〝ボールはいつも足元に転がっている〟と申し上げます」(フットボールから生まれた言いまわしで、目の前に成功のチャンスが訪れている、といった意味。―訳者)

──若者の関心が物的なものに偏っていること、つまりお金と地位だけを目的としている生き方に批判的であるようにお見受けしますが・・・

「私は若者が悪いと言っているのではありません。彼らは言わば犠牲者です。今日の混乱した世相には何の責任もありません。しかし同時に、彼らが何の貢献もしていない過去からの遺産を数多く相続しております。さまざまな分野でのパイオニアや改革者たちが同胞のために刻苦し、そして豊かな遺産を残してくれているのです。

見通しはけっして救いようのない陰うつなものではありません。確かに一方には世の中を悪くすることばかりしている連中もいますが、それは全体の中の一部にすぎません。他方には世の中に貢献している人々、啓発と叡智とをもたらし、来るべき世代がより多くの豊かさを手にすることができるようにしようと心を砕いている人たちが大勢いるのです」

──私にも子供がいます。私が大切だと思うアドバイスをしても必ずしも受け入れてくれませんが、そうした努力によって私も未来のために貢献できるのだと思うと慰められます。

「とても難しいです。この道に近道はないのです。が、あなたもせめて物的自我から撤退して静かな瞑想の時をもち、受け身の姿勢になることはできます。それがあなたの家族を見守っている霊とのより緊密な接触を得る上で役立ちます」

──問題はけっきょく良い環境を作るということでしょうか。

「若者というのは耳を貸そうとしないものです。若いがゆえに自分たちの方が立派なことを知っていると思い込んでいるのです。それが地上での正常な成長過程の一つなのです。あなただって若い時は親よりも立派なことを知っていると思っていたはずです。若者が既成の権威に対して懐疑を抱くということは立派な成長過程の一つであるということを認識しなければいけません。

(環境うんぬんではなく)けっきょく親として一つの手本を示して、その理由づけができるようでなければいけません。それしか方法はありません。若者も霊的存在としての人間の生き方はこうあるべきだという、幾つかの道があることは認めなくてはいけません。しかし、若者がそのことを理解するのは容易なことではありません」

──我々が真実に間違いないと確信していることでも、それを他人に信じさせることは難しいことです。今こそ必要とされている霊的真理を広く一般に証明してみせるために何とかして霊界から大掛かりな働きかけをしていただけないものでしょうか。それとも、今はその時期ではないということでしょうか。

「その時期でないのではなく、そういうやり方ではいけないということです。私たちは熱狂的雰囲気の中での集団的回心の方法はとりません。そんなものは翌朝はもう蒸発して消えています。私たちは目的が違います。私たちの目的は一人ひとりが自分で疑問を抱いて追求し、その上で、私たちの説いていることに理性を反発させるもの、あるいは知性を侮辱するものがないことを得心してくれるようにもっていくことです。

私たちは立証と論理によって得心させなければいけません。これはその人たちが霊的に受け入れる用意ができていなければ不可能なことです。そしてその受け入れ準備は、魂が何らかの危機、悲劇、あるいは病気等の体験によって目覚めるまでは整いません。つまり物質の世界には解答は見出し得ないという認識を得なければなりません。人間の窮地は神の好機であるといった主旨の諺があります。

私たちはそういう方法でしか仕事ができないのです。一点の曇りもなく霊的真理を確信できた人間は真の自我に目覚め霊的可能性を知ることになると私たちは信じるのです。生命は死後も途切れることなく続くことに得心がいきます。霊的自我に目覚めたその魂にとっては、その時から本当の自己開発が始まるのです。そして霊的知識に照らして自分の人生を規制するようになります。自然にそうなるのです。それによって内部の神性がますます発揮され、霊的に、そして精神的に、大きさと優雅さが増してまいります。

あなたのように霊的な知識を手にした人間は、自分のもとを訪れる人にそれを提供する義務があります。ですが、受け入れる用意のできていない人をいくら説得せんとしても、それは石垣に頭を叩きつけるようなもので、何の効果もありません。手を差しのべる用意だけはいつも整えておくべきです。

もしお役に立てば、そうさせていただいたことに感謝の意を表しなさい。もしもお役に立てなかったら、その人のために涙を流してあげなさい。その人はせっかくのチャンスを目の前にしながら、それを手にすることができなかったのですから。

それ以外に方法はありません。容易な手段で得られたものは容易に棄て去られるものです。霊的熟達の道は長く、遅々として、しかも困難なものです。霊の褒章は奮闘努力と犠牲によってのみ獲得されるのです。
霊的卓越に近道はありません。即席の方法というものはありません。奮闘努力の生活の中で魂が必死の思いで獲得しなければなりません。聖者が何年もの修行の末に手にしたものを、利己主義者が一夜のうちに手にすることが出来るとしたら、神の摂理はまやかしであったことになります。それはまさしく神の公正を愚弄するものです。一人ひとりの魂が自分の努力によって成長と発達と進化を成就しなくてはならないのです。そうした努力の末に確信を得た魂は、もはや霊的真理をおろそかにすることは絶対にありません。

落胆する必要など、どこにもありません。私たちは前進しつづけております。勝利をおさめつつあります。けっして敗けているのではありません。混乱しているのは(真理の出現に)狼狽している勢力です。霊的真理は途切れることなく前進をつづけております。

あなたにこの知識をもたらしたのは、ほかならぬ〝悲しみ〟です。あなたは絶望の淵まで蹴落とされたからこそ受容性を身につけることができたのです。が、今はもうその淵へ舞い戻ることはないでしょう。

それです。それと同じことを他の人々にも体験させてあげるのです。永い惰眠から目を覚まし、受容性を身につけ、神の意図された生き方を始める者が増えるにつれて、徐々にではあっても確実に霊的真理が広がっていっていることを私たちは心からうれしく思っております。

あなた方が大事に思っておられることが私たちにはどうでもよいことに思えることがあります。反対にあなたがどうでもよいと思っておられることが私たちからみると大事なことである場合があります。その違いは視野の置きどころの違いから生じます。分数の計算でいえば、人生七十年も、永遠の時で割れば大した数字にはなりますまい。

ダマスカスへ向かうサウロ(のちのパウロ)を回心させたのが目も眩まんばかりの天の光であったように(使徒行伝9)たった一つの出来ごとが魂の目を開かせる触媒となることがあるものです。それはその時の事情次第です。こうだという厳格で固定した基準をあげるわけにはまいりません。

地上への誕生のそもそもの目的は魂が目を覚ますことにあります。もしも魂が目覚めないままに終われば、その一生は無駄に終わったことになります。地上生活が提供してくれる教育の機会が生かされなかったことになります」

──地上で目覚めなかった魂はそちらでどうなるでしょうか。

「これがとても厄介なのです。それはちょうど社会生活について何の予備知識もないまま大人の世界に放り込まれた人と同じです。最初は何の自覚もないままでスタートします。地上と霊界のどちらの世界にも適応できません。地上において霊界生活に備えた教訓を何一つ学ばずに終わったのです。何の準備もできていないのです。身支度が整っていないのです」

──そういう人たちをどうされるのですか。

「自覚のない魂はこちらでは手の施しようがありませんから、もう一度地上へ誕生せざるを得ない場合があります。霊的自覚が芽生えるまでに地上の年数にして何百年、何千年とかかることもあります」

──親しい知人が援助してくれるのでしょう?

「出来るだけのことはします。しかし、自覚が芽生えるまでは暗闇の中にいます。自覚のないところに光明は射し込めないのです。それが私たちが直面する根本的な問題です」

──彼ら自身が悪いのでしょうか。

「〝悪い〟という用語は適切でありません。私なりにお答えしてみましょう。魂を目覚めさせるためのチャンスは地上の人間の一人ひとりに必ず訪れています。神は完全です。誰一人忘れ去られることも無視されることも見落とされることもありません。誰一人として自然法則の行使範囲からはみ出ることはありません。その法則の働きによって、一つ一つの魂に、目覚めのためのチャンスが用意されるのです。

目覚めるまでに至らなかったとすれば、それは本人が悪いというべきではなく、せっかくのチャンスが活用されなかったと言わねばなりません。私がたびたび申し上げているのをご存知と思いますが、もしも誰かがあなたのもとを訪ねてきて、たとえば病気を治してあげることが出来なかったとか、あるいは他のことで何の力にもなってあげられなかったときは、その人のことを気の毒に思ってあげることです。

せっかくのチャンスを生かせなかったということになるからです。あなたが悪いのではありません。あなたは最善を尽くしてあげるしかありません。もしも相手が素直に受け入れてくれなければ、心の中でその方のために祈っておあげなさい。

何とか力になってあげようと努力しても何の反応もないときは、その方にはあなたのもとを去っていただくしかありません。いつまでもその方と首をつながれた思いをなさってはいけません。それぞれの魂に、地上生活中に真理を学び自我を見出すためのチャンスが用意されております。それを本人が拒絶したからといって、それをあなたが悪いかに思うことはありません。

あなたの責任はあなたの能力の範囲でベストを尽くすことです。やってあげられるだけのことはやったと確信したら、あとのことは忘れて、次の人のことに専念なさることです。これは非情というのとは違います。霊力は、それを受け入れる用意のない人に浪費すべきものではないのです」

その日の交霊会には両親がニュージーランドでスピリチュアリズムの普及活動をしている若い女性が出席していた。その女性にシルバーバーチが〝ようこそ〟と挨拶をしてからこう述べた。

「新参の方にいつも申し上げていることですが、私の教えを(新聞・雑誌で)世間へ公表してくださる際に、私のことをあたかも全知全能であるかに紹介してくださっているために、私もそれに恥じないように努力しなければなりません。しかし実際は私は永遠の真理のいくばくかを学んだだけでして、それを、受け入れる用意のできた地上の人たちにお分けしようとしているところです。

そこが大切な点です。受け入れる用意ができていないとだめなのです。真理は心を固く閉ざした人の中には入れません。受け入れる能力のあるところにのみ居場所を見出すのです。真理は宇宙の大霊と同じく無限です。あなたが受け取る分量はあなたの理解力の一つにかかっています。

理解力が増せばさらに多くの真理を受け取ることができます。しかも、この宇宙についてすべてを知り尽くしたという段階には、いつまでたっても到達できません。

前口上が長くなりましたが、私はあなたのようにお若い方にはいつも、その若さでこうした霊的真理を授かることができたことは、この上なく幸運なことであることを申し上げるのです。これから開けゆく人生でそれが何よりの力となってくれるからです。それにひきかえ、今の時代においてすら若い時から間違ったことを教え込まれ、精神構造が宗教の名のもとに滑稽ともいうべき思想でぎゅうぎゅう詰めにされている若者が少なくないのは、何という悲しいことでしょう。何の価値もないばかりか、霊的進化を促進するどころかむしろ障害となっているのです。

神の教えではなく、人間が勝手にこしらえた教説が無抵抗の未熟な精神に植えつけられます。それが成人後オウムのごとく繰り返されていくうちに潜在意識の組織の一部となってしまうケースが余りにも多いのです。それが本当は測り知れない恩恵をもたらすはずの霊的真理を受け入れ難くしております。

地上生活にとって呪ともいうべきものの一つには、無意味な神学的教説が着々と広まったことだったと断定して、けっして間違っていないと私は考えます。それが統一ではなく分裂の原因となり、お互いの霊的本性の共通性の認識のもとに一体ならしめる基盤とならずに、流血と暴力と抗争と戦争そして分裂へと導いていきました。

それゆえにこそ私は、あなたがこうして霊的真理を手にされたことは実に恵まれていらっしゃると申し上げるのです。あなたは人生の目的を理解し、無限の愛と叡智から生み見出された雄大な構想の中に自分も入っているのだという認識をもって、人生の大冒険に立ち向かうことができます。それは何ものにも替えがたい貴重な財産です。霊的兵器を備えられたのです。

あなたは人生での戦いに臆することなく立ち向かい、いかなる事態におかれても、自分には困難を克服し障害を乗り越え、霊的品格と美質と強靭さを身につけていく力が秘められているとの自信をもつことができます。それであなたも宇宙の大霊に貢献していることになります。

大霊は無限の多様性をもった統一体です。人間一人ひとり異なっていながら根源においては同じです。同じ大霊によって生命を賦与されているからです。が、顕現の仕方は多岐にわたり、まったく同じ個性は二つと存在しません。しかも、いずれも神の遺産として、発達させれば自分より恵まれない者を救うことのできる能力が賦与されているのです。

あなたも例外ではありません。その能力を発達させるのがあなたの義務なのです。必ずしも霊的能力にかぎりません。他にもすべての人間が所有し世の中を豊かにする手だてとすることのできる才能がたくさんあります。地上の人間のすべてがそれぞれに授かっている才能や技能を発揮するようになれば、どんなにか世の中が明るくなることでしょう」

別の日の交霊会で若者の別の側面が話題となった時にこう語った。

「若者は一筋縄ではいきません。あえて言わせていただきますが、ここにおいでの皆さんの誰一人として、若い時に大人を手こずらせなかった方はいません。大人になるにつれて若者特有の反抗的性格が薄らいでいきますが、若い時は大人が世の中をめちゃくちゃにしている──オレたちが建て直すのだ、という気概に燃えたに相違ないのです。

が、成長して理解力が芽生えてくると、知らず知らずのうちに恩恵を受けていることがたくさんあることに気づいて、それに感謝しなければならないと思いはじめます。こうしたことも両極の原理、バランスの原理の一つなのです。つまり若輩と年輩とがそれぞれの役割をもち、男性と女性の関係と同じように、お互いに補足し合うようになっているのです。

人生のしくみは完全なバランスの上に成り立っております。それぞれの存在が正しく機能を発揮すれば全体が調和するようになっているのです。ですから、年輪を重ねた大人は大らかな心、ゆとりのある態度で、これから数々の事を学んでいく若者を見守ってやることが大切であることになります」

その日のゲストとして出席していた心霊治療家の意見に対して──

「発酵素が働いているのです。発酵したエネルギーを若者はどちらへ向けるべきか分かりません。在来の教えが何の効力も発揮しなかったことに不満を抱き、何かを求めようと必死になります。そして霊的なもの、神秘的なもの、目に見えないもの、無形のものに惹かれます。

無意識のうちに惹かれていることもあります。霊的なものだけが与えてくれる充実感を魂そのものが求めるのです。しかし若いがゆえに、それをわけも分からずに性急に求めます。安易な手段で安直な満足を求めてしまいます」

──それでヘロインとかLSDに走るわけですね。

「大人は大らかでないといけません。若者の心を理解し、力になってやらないといけません。もしもあなたが若者の心に霊力を注ぎ、魂に炎を点火してやることができたら、それだけでこの上なく大きな貢献をしたことになります。その若者の地上での生活全体が根本から違った意義をもつことになるのです」

──LSDを使用している若者は邪霊に取り憑かれているようです。

「困ったことに、その種の麻薬は地上と接した幽界の最下層の波長に合った心霊中枢を開かせるのです。それに感応してやってくる霊はその若者と同程度のもの、往々にして地上で麻薬中毒あるいはアルコール中毒だった者で、その状態から一歩も脱出できずに、相変わらずその種の満足を求めているのです。自縛状態から解放されていないのです。

霊的治癒能力は触媒です。身体と霊と幽体との関係が混乱して生じている複雑な状態を解きほぐします。霊と精神と身体の三者が調和すれば健康に向かいはじめます」

別の日にも次のようなことを述べた。

「若者は明日の指導者となるべき人たちです。思考の仕方を正しく指導し、生活全体を正しい視野におさめるようにもっていけば、平和をさらに確固たるものにする上で若者なりの大切な役割を果たすことができます」

第7章 愛すべき仲間たち ─動物─
毎年毎年、世界中で幾百万とも知れぬ動物が〝万物の霊長〟たることを誇る人間の手によって実験材料にされている。霊的に見れば本来人間の仲間である無抵抗の動物を人間が冷酷非情に虐待することは、人間どうしが故意に苦痛を与え合う以上に罪深いことである。血染めの白衣をまとった科学者や研究者は、人間も動物であるという事実に一度でも思いを馳せたことがあるのだろうか。

──あなたのおっしゃるように、もしも自然の摂理が完全であるならば、その摂理にしたがって生きている動物界になぜ弱肉強食というむごたらしい生き方があるのでしょうか。

「おっしゃる通り摂理は完全です。たとえ人間にはその顕現のすべては理解できなくても完全です。(三千年もの)永い経験で私は自然の摂理には何一つ不完全さがないことを知りました。無限の叡智と無限の愛によって生み出されたものだからです。これまで何度も申し上げておりますように、創造活動のありとあらゆる側面に対応した摂理が用意されており、何一つ、誰一人として忘れられたり、放ったらかされたり、見落されたりすることがないのです。

その一つである進化の法則は、存在と活動の低い形態から高い形態への絶え間ない進行の中で働いております。低い動物形態においては、見た目には残忍と思える食い合いの形を取ります。が、進化するにつれてその捕食本能が少しずつ消えていきます。先史時代をごらんなさい。

捕食動物の最大のものが地上から姿を消し、食い合いをしない動物が生き残ってきております。これにはもう一つ考慮すべき側面があります。そうした動物の世界の進化のいくつかの面で人類自身の進化がかかわっていることです。すなわち人類が進化して動物に対する残忍な行為が少なくなるにつれて、それが動物界の進化に反映していくということです」

──(サークルのメンバー)私の観察では、動物の中にも同じ種属の他の仲間より進化していて人間的資質さえ見せているのがいます。

「それは当然そうあってしかるべきことです。どの種属においてもそうですが、進化の世界では未来において発揮されるものを今の段階で発揮している前衛的存在と、現在の段階で発揮すべきものすら発揮していない後衛的存在がいるものだからです。

人類について言えば、天才、革命家、聖賢といった存在が霊的資質を発揮して、あすの人類のあるべき姿を示しております。人間として可能な最高の英雄的精神と奉仕的精神の見本を示しているわけですが、動物の世界にもそれに比肩しうるほどの資質を、他の仲間から抜きん出て発揮するのがいます」

──生命活動の目的が愛と慈悲の心を学ぶことがあるのなら、なぜ大自然は捕食動物のような悪い見本を用意したのでしょうか。

「大自然が悪い見本を用意するようなことはしません。大自然は宇宙の大霊すなわち神が顕現したものです。神は完全です。神の摂理も完全です。大自然は、その本来の仕組みどおりに働けばかならずバランスと調和が取れるようになっているのです。人間が自然と調和して生きれば、地上はパラダイス、神の御国となります。

たしかに捕食動物はいますが、それは〝適者生存〟の摂理の一環であり、しかも大自然の摂理全体のほんの小さな側面にすぎません。自然界の本質は協調です。共存共栄です。たとえてみれば人間は地球の庭師のようなものです。植物の本性に合わせて手入れをしておれば庭は美しくなります。今では人間が捕食動物となっています。何百年もの歴史の中で人間ほど破壊的な生物はおりません」

生命あるものすべてに敬意を抱いている女性のメンバーが尋ねる。

──マラリヤとか眠り病などを予防するために殺虫剤を使用することは間違いでしょうか。

「すべての生命に敬意を抱かなければならないのは言うまでもないことですが、これも動機と程度の問題です。特殊な環境において病気の原因となる虫が発生するので殺虫剤を使用するという場合は、その動機は正しいと言えます。生きるための環境条件を確保する必要を考慮に入れなければいけません。たとえばダニが発生した場合、その家に住む者の健康を確保するという動機からであれば、スプレーで駆除してしまった方がくつろいで暮らせます」

──地上の動物がたとえば気高い情や知性といった人間的要素を発達させた場合でも、死後はやはり動物の類魂の中に帰っていくのでしょうか。それとも遠からず人間界へと進化していくのでしょうか。

「進化も自然の摂理の一部です。これにも一本の本流とたくさんの支流とがありますが、全体としては同じ摂理の一部を構成しております。あなたがた人間に潜在している霊性と動物のそれとは質的にはまったく同じものです。程度において差があるだけで本質においては差はありません。

霊は無限ですから、可能性としては人間においても動物においても驚異的な発現力を秘めておりますが、霊的には両者とも一本の進化の道に属しております。その道程のどの時点で動物へ枝分かれし、どの段階で人間へ枝分かれするかは、誰れにも断定できません。私はそこに取り立てて問題とすべき要素はないと思います」

──動物も人間と同じコースをたどって進化するのでしょうか。

「動物には動物としての進化のコースがあります。それも進化活動全体の背後にある同じパターンの一部です。動物の場合は(進化と言うよりは)一種の発達過程です。もしも私から〝子供はみんな両親と同じように進化するのでしょうか〟と尋ねたら、答えは〝イエス〟でもあり〝ノー〟でもあるでしょう。

子供にはそれぞれにたどるべき人生のパターンがあらかじめ定められております。が、そのパターンの範囲内において、それまでに到達した霊的意識の段階によって規制された自由意志の行使が許されております(それが進化の要素となる―訳者)。霊を宿した存在には無限の可能性があります」(45p参照)

ここでメンバーどうしで意見を出し合っているのを聞いたあとシルバーバーチはさらにこう続けた。

「動物には動物なりの、進化の全過程の中で果たすべき役割があり、それを基準とした進化のコースをたどります。やはり因果律が絶対的要素です。今現在あるものはすべて、かつてあったものの結果です。動物も宇宙進化の大機構で欠かすことのできない存在であり、それは山川草木、海、その他自然界のあらゆるものが欠かせない存在であるのと同じです。

それらを一つにまとめている絆が〝霊〟です。生命は一つなのです。人間は動物とつながっているだけでなく、命あるものとなら何とでもつながっているのです。ただし、それらはそれぞれに定められた進化のコースをたどります。そして、それらがどこまで進化するかは、それぞれの次元での進化の法則によって決まります。花、木、小鳥、野生動物、そして人間と、それぞれに適応した法則があるのです」

──ということは動物にもそれなりの法則を破ることがあるということですね?

「あなた方人間が摂理に背いたことをするのと同じ意味においてのみ、そう言えます。が、やはり因果律は働いております。人間も、摂理を逸脱した行為をすることはあっても、因果律の働きを阻止するという意味で〝摂理を破る〟ことはできません。ダダをこねてるだけです」

(最後の文はKick over the traces という成句を使用している。traces というのは馬の引き皮のことで、人間が摂理に順応できなくてわがままを言うのを、馬が引き皮をきゅうくつに思って蹴ってあばれることに喩えている。訳者)

──動物でも霊的に咎められるべきことをすることがありますか。
「自然法則に逆らったことをすれば、それは有り得ることです。人間に〝ならずもの〟がいるように動物にも狂暴化した動物がいます」

──そういう動物は自分が悪いことをしたことを個的意識の中で自覚するのでしょうか。

「それは知りません。私は動物ではないからです。ともかく善良な動物もいれば邪悪な動物もいるということです。いかなる動物も、いかなる人間も、つまり地上のいかなる存在も完全ではないのです」

(シルバーバーチの答えの中で私が解しかねるものが2,3ある。これがその一つである。自分は動物ではないから知らないという返答は、はっきり言って無責任である。が、シルバーバーチは知らないものは正直に知らないと言う霊であるから、それがこんな素っ気ない返答をすることには何かわけがありそうである。意識の神秘はとうてい人間には理解できないからということでわざとそういう言い方で茶化したのかも知れないし、深入りしてはならないと命じられている問題の一つなのかも知れない。そのいずれであろう。

シルバーバーチ自身、そういうものがあることを別のところで述べているし、『霊訓』のイムペレーターも、自動書記の中でも霊言の中でも、“霊的なことがらの中には人間には知らさない方がよいことも多々ある〟と述べている。訳者注)


──動物が死ぬと類魂の中に帰って行くということを多くの霊が述べておりますが、実際には死後もずっと地上のままの姿を留めていることを示す証拠が沢山あります。この矛盾を説き明かしていただけませんか。

「人間と親密な関係にあった動物にかぎって、個体を具えたままの存続が可能なのです。そうした動物は地上にいる時から、類魂としての本能のまま生きる動物には得られない、個体としての進化が促進されております。それは人間と動物との間で霊的進化を促進し合うという、すばらしい関係の一例といえます。動物が皆さんとともに同じ環境で過ごすということは、そうでない場合よりもはるかに人間らしい個性的な意識を発達させることになるのです。そうした、〝人間的〟表現というものに縁のなかった動物は類魂の中に埋没していきます」

ここでメンバーの一人が「私は人間が進歩して動物の生命についてもっと多くを知るということも、動物の進化を促進することになると思うのです。優しい心が動物に良い影響を及ぼすことはよく分かっているからです。野生の動物の赤ん坊を優しく育てると人間的性質を見せるようになる例がよくあります」と言うと、別のメンバーが「それはすべての生命が一つだからですよ」と言う。するとシルバーバーチが・・・

「それも一本の進化の大木の枝のようなものです。進化の道が枝分かれして発展したものです。そこにおいては、優しさが優しさを呼び、哀れみが哀れみを呼び、愛が愛を呼び、憎しみが憎しみを呼びます。ですから、人間は常に最高の理想を目標としなければいけないことになります。

そう努力することの中で、人間と動物とが進化の道程でお互いに促進し合うことになるのです。それはすべての生命が一つだからです。物質的にはさまざまな区別がありますが、霊的には一つです」

──動物は再生しますか。
「輪廻転生説というのがあるようですが、動物は再生しません」

──動物が死んで、進化を促進してくれた人間との縁が切れたら、その時点から類魂へ帰りはじめるのでしょうか、それとも、どっちつかずの状態に置かれるのでしょうか。

「人間に可愛がられた動物は、霊界でずっと待っていて、その人が他界してきた時に出迎えます。永遠に消滅することのない個的存在を与えてくれた人ですから、必要なかぎりずっと待っています。存続するのはその個的存在です」

──すべての動物は人間との縁を通じて個的存在を獲得するように意図されているのでしょうか。つまり個としての独自の意識をもつということです。

「そうです。人間がその思考とその行為において動物に対する愛を発揮すればするほど、動物の方も愛を発揮するようになり、それこそ、聖書の中のオオカミと子ヒツジの話のように、人間と動物とが並んで寝そべるようになります」

──自分の生命を維持するために人間は植物の生命を奪い、動物の卵や乳を横取りし、もっと酷いこととして、動物を殺して食べざるを得ません。こうした強引な言わばドロボー的生き方は、あなたがよく強調なさっている理性を反発させずにはおかないのですが、これを〝愛の造物主〟の概念とどう結びつけたらよいのでしょうか。

「自分たちで勝手に動物を殺しておいて、神がそうせざるを得なくしているかにお考えになってはいけません。どちらにするかは、あなた方が決めることです。動物を殺さないと生きていけないというものではありません。が、いずれにせよ、答えは簡単です。そうした問題をどう処理していくかによって人類の進化が決まるということです。自分たちのやっていることに疑問を感じるようになれば、その時、あなたの良心が次の答えを出します。

人間は自分のすることに責任を取ることになっており、その行為の一つ一つが、その人の霊性に影響を及ぼします。その際にかならず考慮されるのが動機です。動機にやましいところがなく、どうしても殺さざるを得なかったという場合は、その行為はあなたの成長にプラスに働きます。

霊的摂理は原因と結果の関係、タネ蒔きと刈り入れの原理の上に成り立っており、これは絶対にごまかせません。あなたのすること、考えること、口にすることの一つ一つがそれ相応の結果を自動的に生み出します。そこにごまかしは利きません。悪いと知りつつ間違ったことをした場合は、その結果に対して責任を取らされます。その結果として苦しみは自分で背負わねばなりません。

良い行いをする場合でも、それが見栄から出ているのであれば動機がお粗末でいけませんが、魂の自然の発露として善行を施した場合は、そういう行いをしたという事実そのものが、あなたを霊的に向上させます。それが摂理というものなのです。

私が常づね申し上げているのは、〝殺害〟の観念がつきまとう食糧品はなるべくなら摂取しない方がよいということです。殺すということは絶対にいけないことです。ただし、その動機を考慮しなければならない場合があることは認めます。

霊的向上を望む者は、いかなる犠牲を払っても大自然の摂理と調和して生きる覚悟ができていなければなりません。その摂理は霊的なのです。霊が発揮すべき側面はいつの時代も同じです。愛と慈悲と寛容と同情と協調です。こうした原理にしたがって考えれば、食すべきものを食し、飲むべきものを飲み、正しい生き方に導かれます。しかし最終的に選択するのはあなた自身です。そのために神は自由意思というものをお与えになっているのです」

──動物に投与している抗生物質などの薬品類がめぐりめぐって人間の体内へ入ってきている事実をどう思われますか。

「それは、他の生命に害悪を及ぼすと必ずそれに対して責任を取らされるという、大自然の永遠のサイクルの一環です。他の生命に残酷な仕打ちをしておいて、それが生み出す結果を逃れるというのは許されません。貪欲以外に何の理由づけもなしに動物をオリの中で飼育し、動物としての本来の権利を奪うことは、悪循環をこしらえることにしかなりません。

そのサイクルの中で因果律が生み出すものに対して、人間は苦しい代償を支払わねばなりません。動物であろうと花であろうと小鳥であろうと、自然界全体が育んでくれる最高のものを得るには、慈悲と愛と哀れみと親切と協調しかないのです」

──いわゆる動物実験では本当に役立つものは得られないということを人類が理解する段階はもう来ているのでしょうか。そのことに理解がいけば、それは道徳的ならびに霊的生活における大きな進歩を意味することになるのでしょうか。

「動物実験によって何一つ役立つものが得られないというわけではありませんが、その手段は間違っていると申し上げているのです。何の罪もない動物に残酷な仕打ちをすることは霊的なことすべてに反するからです。
人間は自分のすることに責任を取らされます。動機は正しいといえるケースも沢山ありますし、それはそれとして霊的発達に影響を及ぼします。摂理とはそういうものなのです。がしかし、神は、子等が動物への略奪と残忍な行為によって健康になるようには計画しておられません。それは改めて強調する必要を認めないほど明らかなことでしょう。

学者が道を間違えているのはそこのところです。人間の方が動物よりも大切な存在である。よってその動物を実験台として人間の健康と幸福の増進をはかる権利がある、という弁解をするのですが、これは間違っております。

共存共栄こそが摂理なのです。人間がその責任を自覚すれば、哀れみと慈悲の心が生まれてくるはずです。他の生命を略奪しておいて、その結果として自分の及ぶ苦しみから逃れられるものではありません。略奪行為は略奪者自身にとって危険なことなのです。残虐行為はそれを行う人間にとって罪なことなのです。愛を発揮すれば、それだけ自分が得をするのです。憎しみの念をだせば、それだけ自分が損をするのです。摂理がそういうふうに出来ているのです。

したがって当然、皆さんは動物への残虐行為を減らし、もっと良い方法、哀れみに満ちた手段を教えるための努力をすべきです。人々にみずからの生活を規則正しく自然の摂理と調和して生きる手段を教えてあげれば、みんな元気で健康で明るさいっぱいの人間になれるのです。

霊的にみて間違っていることは決して許されるものではありません。しかし、不完全な世界においてはある程度の間違いと行き過ぎはやむを得ません。そうした中に合って皆さんが、平和と友好と和合と愛の中で暮らすべき全生命の福祉を促進するために闘うべきなのです。愛とは摂理を成就することなのです。

他の生命に残酷な行為をしているかぎり、愛を成就しているとは言えません。ナザレのイエスは自分の敵に対して向けられる愛を最高のものとしました。もとより、これは生やさしいものではありません。情愛、共感、近親感を覚える者を愛することは容易です。しかし、とかく敵対関係になる相手を愛することがもし出来れば、それは神の御心の最高の表現であると言えます。
何ごとにつけ、価値あるものは成就することが困難にできあがっているのです。もしも霊的進化がラクにできるとしたら、それは達成するほどの価値はないことになりましょう」

──敵のことをせめて悪く思わないでいられるようになれば、小さくても進歩は進歩だろうと思います。大部分の人間にとってそれが精いっぱいです。

「おっしゃる通りなのですが、私たちの立場としては、愛と哀れみと寛容の精神を発揮するという理想へ向けて皆さんを導かねばならないのです。それが霊の資質だからです。それが多く発揮されるほど地上は良くなります。ですから、皆さんには可能なかぎりの最善を尽くしていただかねばなりません。たった一人の人間、たった一頭の動物でも救ってあげれば、それは価値ある仕事と言えます」

──霊的に正しければ物的な側面も正しくなるとおっしゃったことがありますが、地上の動物についてそれをどう当てはめたらよいのでしょうか。人間によって虐待され屠殺され誤用されるために生まれてくるようなものです。動物は霊的に何も間違ったことをしていないはずですが。

「そうではありません。動物の霊は、霊は霊でも範疇(カテゴリー)が違います。人間には正しい選択をする責任が負わされています。そこに自由意思があります。進化の計画を促進することもできれば遅らせることもできます。つまり、限られた範囲においての話ですが、地球という惑星でいっしょに暮らしている他の生命をどう扱うかについて自由意志を行使することが許されております。地上は悪用、濫用、誤用だらけです。

その中でも決して小さいとは言えないのが動物への無用の虐待と略奪です。しかし、人間が進化していくにはそうした過程もやむを得ないのです。もしも人間から自由意志を奪ってしまえば、インディビジュアリティを進化させ発展させていくチャンスが無くなります。そこが難しいところなのです」

──そういう事態が生じることが許されるという、そのところが理解できないのです。

「〝生じることが許される〟という言い方をなさるということは、あなたは人間から自由意志を奪い去った方がよいとお考えになっていることになります。くり返しますが、もしも人間が自由意志を奪われたら、ただの操り人形でしかなくなり、内部の神性を発揮することができなくなります。

霊的本性が進化せず、地上生活の目的も果たせません。あなたが地上に生を受けたのは、地上が霊の保育所であり、学校であり、訓練所だからです。さまざまな挑戦にあい、それを克服していく中で自由意志を行使してこそ、霊は進化できるのです」

ここで別のメンバーがディスカッションに加わる。

──人類が過ちを犯しながら学んでいく、その犠牲になるのが抵抗するすべを知らない動物たちであるというのは、我々の限りある知能では不公平に思えてなりません。人間が悪いことをして動物が犠牲を払うというのは、どこか間違っているように思います。

「あなた自身はどうあるべきだとお考えですか」

──人間が動物に対して間違いを犯せば、その天罰は動物ではなく人間の頭上に降りかかるべきだと考えます。

「埋め合わせと懲罰の法則というのがあります。あなたが行う善いこと悪いことのすべてが、自動的にあなたに霊的な影響を及ぼします。大自然の因果律は絶対に免れません。埋め合わせと懲罰の法則はその大自然の中核をなすものです。罪もない人民が支配者の横暴な振舞いによって被る犠牲に対して埋め合わせがあるように、残虐な取り扱いをうけた動物にもそれなりの埋め合わせがあります」

──(別のメンバー)人間はこれから先もずっと動物に酷いことをしつづけるのではないかと思うのですが。

「いえ、そうとばかりとも言えません。他の生命に対する責任を徐々に理解していくでしょう。人間は進化しつつある世界での進化しつつある存在です。絶頂期もあれば奈落の底もあり、向上もすれば転落もします。進化というのは凱旋形(スパイラル)を画きながら進行するものだからです。しかし全体としては少しずつ向上しています。さもないと進化していないことになります。無限の叡智と無限の愛によって、すべてのもの、すべての人間についてしかるべき配慮が行き届くように、ちゃんとした構想が出来あがっていることを認識しなくてはいけません」

ここでさきのメンバーが〝私が言いたかったのは、動物が酷い扱われ方をしているのは人間の過ちだということです。人間も徐々にではありますが動物を食糧にすべきではないことを自覚しつつあります〟と言うと、その日の招待客の一人が〝残酷なことをしたらすぐにそれと気づくようになっていればいいのですが・・・。どうも人間はうまく罪を逃れているように思えてなりません〟という意見を出した。するとシルバーバーチが、

「うまく罪を逃れる人は誰一人いません。摂理は間違いなく働きます。たとえ地上で結果が出なくても、霊界でかならず出ることを私が断言します。因果律はいかなる手段を持ってしても変えられません。永遠に不変であり、不可避であり、数学的正確さをもって働きます。原因があればかならず結果が生じます。それから逃れる人は一人もいません。もしいるとしたら、神は神としての絶対的な資格である〝完全なる公正〟を失います。

その事とは別に、もう一つ私がいつも強調していることがあります。残念ながら人間は宿命的に(五,七十年という)ほんの短い視野しか目に入らず、永遠の観念で物ごとを考えることができないということです。あなた方には地上で発生していることしか見えませんが、その結果は霊界で清算されるのです」

──人間はせっかちなのです。

「そのお気持ちは理解しております。人間が人間としての責任に目覚めるよう、皆さんにできるかぎりの努力をお願いします。オオカミと子ヒツジとが並んで寝そべるような時代が少しでも近づくように努力していただきたいのです。進化を成就しなければならないのです」

──われわれ人間がもっと自然な、もっと神の御心にかなった生き方をするようになれば、こうまで無数の動物が実験材料にされることもなくなると思います。

「その通りです。ですから、われわれは今後とも啓発と真理の普及を、いつどこにいても心掛けなくてはならないのです。その妨げとなるものを一つでも取り除くことができれば、そのたびにそれを喜びにしなければいけません。霊の力は単なる変革をもたらすのではありません。そこに進化があります。地上の人間が大自然とその背後に秘められた莫大な力から絶縁した行為をすれば、それに対する代償を支払わねばなりません。

人間は霊的属性、霊的潜在力、霊的才能をたずさえた霊的存在です。自分だけでなく他の存在、とくに動物の進化を促進することになる生き方をする能力を具えているのです。進化の生き方をする能力を具えているのです。進化の大計画は何としても達成しなければなりません。それを人間が邪魔をして遅らせることはできます。が、完全に阻止することは絶対にできません」

──動物にはよく〝下等〟という言葉が付けられますが、人間より本当に劣っているのでしょうか。まだ人類と同じ進化の段階まで到達していないのでしょうか。と申しますのは、たとえば犬には人間に対する無私の献身と忍耐という資質があります。これはわれわれも大いに学ばされます。進化の道がまったく異なるのでしょうか。

「いえ、進化は全生命が一丸となって歩むものです。進化の法則はたった一つあるのみで、それが生命活動の全側面を規制しております。いつものことながら、用語が厄介です。
〝下等動物〟という用語を用いれば、動物は人間と同じ意識段階まで到達していないことを意味します。たしかに動物には人間のような理性、理解力、判断力、決断力をつかさどる機能が仕組まれておらず、大部分が本能によって動かされているという事実から言えばその通りです。ですから、そうした限られた一つの視点から観れば動物は〝下等〟と考えることができます。しかし、それですべての検証が終わったわけではありません。

動物に教えられることが多いのは当然のことです。動物は忠誠心、愛着心、犠牲心、献身といった資質をけなげに表現しますが、これは人間が学ぶべきすばらしい手本です。しかし人間はそれらを意識的に、そしてもっと高度に発揮できます。なぜなら、動物よりも意識の次元が高いからです。ただし、ここでは霊的意識のことではありません」

──ここでサークルのメンバーが〝動物が人間よりも気高い行為をした感激的な話がたくさんありますね〟と言うと、別のメンバーが〝超能力をもっている動物もいます〟と言う。

するとシルバーバーチが、
「いわゆる埋め合わせの法則の一例です。ある種の能力が欠けていると、それを埋め合わせる別の能力を授かります。目の不自由な方には普通の人にはない鋭敏さが与えられます」

──例えば家で飼われている猫は人間には見えない霊の存在に気づいているのでしょうか。

「もちろん気づいております。人間に見えなくなったのは、あなた方の文明、時としてそう呼ぶのはふさわしくないことがあるのですが、それが人間生活を大自然から遠ざけたことに原因があります。つまり大自然がもたらしてくれる能力と力から人間が絶縁しているのです。そのために文明人は大自然と密接につながった生活をしている人種よりも心霊能力が発達を阻害されているのです。

一般的に言って、家庭で飼われている動物は〝文明の恩恵〟は受けておりません。動物の方がその飼い主よりも自然な超能力を発揮しております。そういうわけで、残念ながら動物の方が霊的存在について人間よりも自然な形で意識しております」

(訳者注:このあと動物愛護運動に夫婦ともども生活をささげて最近奥さんに先立たれた人との対話が紹介されているが、私の推察ではこの人は間違いなく英国のテレビ番組≪サファリ≫の製作者デニス氏で、奥さんが健在のころに一度夫婦して招かれて、シルバーバーチから賛辞を受けた時の様子が、ステラ・ストーム女史が編纂したPhilosophy of Silver Birch by Stella Storm に出ている。これは次の第9巻に予定しているが、理解の便を考えて、その部分をあえてここで紹介しておくことにした。)

「あなた方(Michael & Armand Denis) は肉体に閉じ込められているために、ご自分がどれほど立派な仕事をされたかご存じないでしょう。お二人は骨の折れるこの分野を開拓され、人間と動物との間に同類性があり従ってお互いの敬意と寛容と慈しみが進化の厳律であることを見事に立証されました。

大自然を根こそぎにし、荒廃させ、動物を殺したり(実験で)片輪にしたりするのは、人間のすべきことではありません。強き者が弱き者を助け、知識あるものが無知なる者を救い、陽の当たる場所にいる者が片隅の暗闇を少しでもなくするための努力をすることによって、自然界の全存在が調和のある生命活動を営むことこそ、本来の姿なのです。

その点あなた方は大自然の大機構の中での動物の存在意義を根気よく紹介され、正しい知識の普及によく努力されました。それこそ人間の大切な役割の一つなのです。地上の難題や不幸や悲劇の多くが人間の愚かさと自惚れによって惹き起されていることは、残念ながら真実なのです。

慈しみの心が大切です。寛容の心を持たなくてはいけません。自然破壊ではなく、自然との調和こそ理想とすべきです。人間が争いを起こすとき、その相手が人間どうしであっても動物であっても、結局は人間自身の進化を遅らせることになるのです。人間が動物を敵にまわしているうちは自然界に平和は訪れません。

平和は友好と一致と協調の中にこそ生まれます。それなくしては地上は苦痛の癒える時がなく、人間が無用の干渉を続けるかぎり災害は無くなりません。人間には神の創造の原理が宿っているのです。だからこそ人間が大自然と一体となった生活を営むとき地上に平和が訪れ、神の国が実現する基礎ができるのです。
残酷は残酷を呼び、争いは争いを生みます。が、愛は愛を呼び、慈しみは慈しみを生みます。人間が憎しみと破壊の生活をすれば、人間みずからが破滅の道をたどることになります。ことわざにも〝風を蒔いてつむじ風を刈る〟と言います。悪いことをすればその何倍もの罰を被ることになるのです。

何ものにも憎しみを抱かず、すべてに、地上のすべての生命あるものに愛のある心で接することです。それが地上の限りない創造進化を促進するゆえんとなります。それは、人間がその一部を占めている進化の機構の中で為しうる最大の貢献です。

挫けてはなりません。あなた方の仕事に対して人はいろいろと言うでしょう。無理解、無知、他愛ない愚かさ、間抜けな愚かさ、心無い誹謗、等々。これには悪意から出るものもありましょうし、何も知らずに、ただ出まかせに言う場合もあるでしょう。それに対するあなた方の武器は、ほかならぬ霊的知識であらねばなりません 。所詮はそれがすべての人間の生きる目的なのです。霊的知識を理解すれば、あとは欲の皮さえ突っ張らなければ、神の恩恵に浴することができるのです。

お二人は多くの才能をお持ちです。まだまだ動物のために為すべき仕事が山ほど残っております。地上の生命は全体として一つのまとまった生命体系を維持しているのであり、そのうちのどれ一つを欠いてもいけません。お二人が生涯を傾けておられる動物は、究極的には人間が責任を負うべき存在です。なぜならば、人間は動物とともに進化の道を歩むべき宿命にあるからです。ともに手を取り合って歩まねばならないのです。動物は人間の貪欲や道楽の対象ではないのです。動物も進化しているのです。

自然界の生命はすべてが複雑にからみ合っており、人間の責任は、人間どうしを超えて草原の動物や空の小鳥にまで及んでいます。抵抗するすべを知らない、か弱い存在に苦痛を与えることはぜひとも阻止しなくてはなりません。
装飾品にするために動物を殺すことは、神は許しません。あらゆる残虐行為、とりわけ無意味な殺生は絶対に止めなくてはなりません。物言わぬ存在の権利を守る仕事にたずさわる者は、常にそうした人間としての道徳的原理に訴えながら闘わなくてはいけません。小鳥や動物に対して平気で残酷なことをする者は、人間に対しても平気で残酷なことをするものです。

動物への残忍な行為を見て心を痛め涙を流す人は、いつかはきっと勝つのだという信念のもとに、勇気をもって動物愛護のための仕事を続けてください。多くの残酷な行為が、無知であるがゆえに横行しています。それらは、霊的知識を知って目が覚めればたちどころに消えてしまうものです。また、一つの霊的知識に目覚めると、その知識のもつ別の意義にも目覚めてくるものです。その時こそ魂が真の自由への道を歩み始めた時でもあるのです。

動物と人間とは、進化のある段階でどうしても別れ別れにならざるを得なくなります。地上の年数にして何万年にもなるかもしれませんが、動物と人間とでは霊的進化のスピードが違います。より大きな光を求めて絶え間なく成長していく人間の魂についていけなくて、動物は置き去りにされることになります。

いったん物質のベールをくぐりぬけて霊界入りし霊的生活環境に慣れてくると、つまりあなたを地上に縛りつけていた絆が切れたことを認識すると、進歩しようとする欲求、内部に渦巻く神性を開発しようとする欲求が加速されます。いつどこにいても、修行次第で自分をいっそう役立てることを可能にしてくれる資質を開発しようとします。

その霊的開発の分野において高く昇れば昇るほど、動物はついていけなくなります。そして、死後もなお炎を燃やしつづけていた愛が次第に衰えはじめます。やがて炎がチラチラと明滅しはじめ、最後は同じ種族の中へ融合していきます。

創造物全体の進化を支配する総合的機構は一つあるだけですが、それぞれの顕現の形態にそれなりの異なった進化のコースがあります。人間が成就している個別的意識をもつに至っていない動物には、種族全体としての類魂があります。もっとも、同じ種族の動物でも人間との接触を通じて個別化を促進されて、人間に似た形態の個別的意識をもつに至っているものもいます。

全体としての類魂もいつまでも同じ状態にあるのではなく、つねに進化しております。高級界の神霊が人間に対する責任を自覚しているごとくに人間が地上の全創造物に対する責任を自覚するようになれば、動物の進化が加速され個別化が促進されます。しかし、人間との関係がよほど接近しないかぎり、ある程度まで同一方向ではあっても、進むコースは別々です。進化が進むにつれて類魂の数は少なくなり、個別化された魂が増えてまいります。

全生命を通じて〝霊〟という共通の近親関係が存在します。生命のあるところには必ず霊が存在します。人間の残忍性は動物の進化を遅らせるという形で反映します。それは人間の野獣性がみずからの進化を遅らせるのと同じことです。そのプロセスは同じです。全生命は協調、すなわちそれぞれが自分を役立てるということによって互いの進化に貢献し合うように意図されているのです。

何ごとにつけ動機が重大な要素となります。愛する動物が手の施しようのない状態となっている時、これ以上苦しませるのが忍びなくて地上生命に終止符を打たせる処置を取るのであれば、その動機は正当です。しかし動物の生得の権利を完全に無視して一かけらの同情心もなしに屠殺するとなると、その動機は利己的です。それは人間自身にとっても動物にとっても良かろうはずはありません。

そこで、殺された動物の霊を何とかしてやらねばならなくなります。人間の場合、死産児や天折した子の霊は地上で味わうべきであったものについて埋め合わせが行われますが、動物の場合も同じで、地上で得そこなったものについて埋め合わせがあります。

あなた方はみずからの意志を行使できない生命・・・その愛情と忠誠心と信頼と献身とが不幸にして、自分たちのしていることがいかに間違ったことであるかを知らない人間による情け容赦ない残虐行為によって皮肉な報復を受けている動物の保護のために献身しておられます。動物残虐は人間が気取って〝文明〟などと呼んでいるものにとっての大きな汚点であり、邪悪な汚辱です。

西洋人は私たちレッドインディアンを野蛮人と呼びますが、人間と同じ霊によって生命を与えられ同じ進化の道を歩みながら、一方的に人間によって略奪され苦しめられてきた動物に対するこれまでの人間の態度は、それに劣らず野蛮です。

お二人がこの道に導かれたのは決して偶然ではありません。霊的熟達の極印は哀れみの情にあるからです。哀れみのないところに霊的進化はありません。全ての存在、すべての動物、あらゆる生物、地上に存在する霊的顕現するすべてに対して哀れみの情を向けなくてはいけません。進化の道を少し先まで進んだ者は、共有している世界の不可欠の存在であるすべての人間、すべての生物に対して責任があることを自覚するものです。

抵抗する勢力がいかに強かろうと、障害や困難が見た目にいかに大きかろうと、善いことのために払われた犠牲はけっして無駄にはなりません。今たずさわっておられる闘いは最後には必ずや勝利をおさめます。なぜなら、最後には真実が勝利をおさめるからです。

これからたどられる道もけっして容易ではありません。しかし先駆者たる者、大胆不敵な魂は、気楽な生活を期待したり蓮の台(ウテナ)の生活を夢見たりするようなことがあってはなりません。魂が偉大であるほど、要請される仕事も大きなものとなるものです。

申し上げるまでもないことと思いますが、地上であなた方とともにこの道にたずさわっている同志のほかに、私たちの世界でもあなた方に協力せんとして、霊の大軍が控えております。その先頭に立って指揮しているのが地上でアッシジの聖フランチェスコと呼ばれていた人物です。地上時代にもこの悪弊の改善運動に全身全霊を捧げ、今また霊界からたずさわっているパイオニアには長い長い系譜があるのです。

時として味方であるべき人物が敵にまわることがあります。また時として、悲しいことですが、この道にたずさわっている人が本来の目的を忘れて我欲を優先させ、一身上の都合の方が大義より大切であると考えるようになったりします。万が一そういう事態になった時は、それは本来の道を見失ったわけですから、その人のために蔭で涙を流しておやりなさい。

私たちから要求することは、あなた方に啓示された光明にひたすら忠実であってくださる・・・それだけです。自分を役立てるという目的にひたむきでありさえすれば・・・これ以上の崇高な宗教はないのです・・・自動的に莫大な霊の力を呼び寄せ、それが数々の障害を取り除き、神の慈愛あふれる意志が地上に顕現されることになるでしょう。

生命はその全側面において互いに混じり合い依存し合っております。そこに一種の親族関係ともいうべき密接なつながりがあります。生命は無限ですから、その顕現もまた無限の形態をとっております。どの部分も他と切り離されて存在することはできません。

動物の中には人間との接触を通じて、人間とよく似た個的意識が芽生えているものがいます。もとより人間が動物に個別性を賦与するわけではありません。それは出来ませんが、潜在しているものを加速させることはできます。それは皆さんが精神統一その他の修行によって内部の霊的能力を開発するのと同じです。感性を具えた存在に永遠の資質を賦与することができるのは宇宙の大霊すなわち神のみです。

動物の魂も本質においては人間の魂とまったく同じです。双方とも同じ神から出ているのです。違うのは質ではなく程度です。動物と人間とでは発達の法則が同一方向ではあっても別々になっております。地上に生をうけた目的を果たして霊界入りし、他界直後の余波がおさまると、両者は別れ別れになります。

このように、両者はそれぞれに果たすべき役割があります。人間は地上での人物像、つまり肉体器官を通じての魂の部分的表現が次第に消え、反対に霊的本性が開発され、潜在する完全性がより大きな発現の機会を得ます。永遠の時をへて成就される完全性へ向けて向上するにつれてパーソナリティー(確定した人物像)が減り、インディビジュアリティが増えていきます(92頁参照)。また動物は人間との愛の絆があるかぎり、目的を果たすまで人間とのつながりを維持します。

すべての〝種〟に地上界と霊界とで果たすべき役割があります。何の原因もなしに、つまり偶然に存在するものは一つもありません。神の完全なる構想によって、あらゆる創造物、あらゆる生命がそれなりの貢献をするようになっているのです。用もない種が地上に発生したために絶滅させなければならなくなったなどということは絶対にありません。人間は地上で最大の破壊的動物であってはならない理由はそこにあります。

野性動物と人間との共存共栄が次第に当たりまえのこととなりつつあります。それは人間の動物への愛が大きくなって恐怖の壁が崩されつつある証拠です。人間がもしもこれまでのように動物を屠殺したり狩猟をしたり威嚇したりすることがなかったら、動物の側に恐怖心というものはおきなかったはずです。進化の促進のために人間とのつながりを求める動物もいるのです。身体機能上の進化ではなくて心霊的進化です。

しかし進化とは一直線に進むものではないことを忘れてはなりません。上昇と下降とがあります。スパイラルに進行します。感激的な絶頂にまで上がる時があるかと思えば、悪魔に呪われたようなドン底へ落ちる時もあります。そうした中にも計画は着実に進展し、進化が成就されていくのです。

愛が愛としての本来の威力を発揮するようになれば、すべての創造物が仲良く暮らせるようになります。地球という生活環境を毒し問題を発生させる不協和音と混沌のタネを蒔くのは、人間という破壊主義者、人間という殺し屋です。すべての問題は人間がこしらえているのです。

神が悪いのではありません。動物が悪いのでもありません。人間が自由意思の行使を誤り、(万物の霊長だなどと)勝手に優越性を誇ったためです」

奥さんの他界後、一人で出席したデニス氏にシルバーバーチがこう語りかけた。

「奥さんからの伝言ですが、奥さんはあなたがその後も動物愛護の仕事・・・あなたとともに生涯をかけた、動物への無用で愚かで邪悪な残虐行為を止めさせるための仕事をずっとお続けになっていることを喜んでおられます。これはまさに文明の汚点、恥ずべき汚辱です。全生命の同一性を理解しておられる皆さんは、下等な存在と見なされている動物が本来の権利を存分に発揮できるようにしてあげるための闘争に嫌気がさすようなことがあってはなりません。

虐待、残忍、苦痛、無益な流血への挑戦を続けてください。その価値ある闘争におけるあなたの役割を存分に果たしてください。最後はかならず善意が愚行に打ち勝ちます」

デニス氏「どうもこれまでは残虐行為をしている側の方が勝っているように思えるのは不幸なことです」

シルバーバーチ「光が闇を征服するように、善はかならず悪を征服します。闇の力は光には勝てませんし、悪の力も善の力には勝てません。気落ちしてはなりません。あなたの背後には、かつて地上で同じ仕事に献身し死後も引き続き地上の生命すべてに自由をもたらすために尽力している霊団が控え、味方になってくれております。

プランというものがあるのです。あなたはその成就のための仕事に参加する栄誉を担っておられるのです。最後にはかならず成就されるのです。それを邪魔することはできます。遅らせることはできます。妨害することはできます。しかし、それによって神が計画を撤回なさるようなことは絶対にありません」

デニス氏「私が理解できないのは、霊界では確固とした協力態勢ができているのに、地上で同じ愛護運動にたずさわっているはずの人たちの間に一致団結が見られないことです」

シルバーバーチ「一致団結というのは難しいものです。残念ながら地上においては往々にして原理・原則よりも個人的な考えが優先されます。立派な仕事にたずさわっているものの、時が経つにつれて初心を忘れ、一身上のことばかり考えるようになります。人間の煩悩の一つです。

それは、つまるところ霊的理解力の欠如から生まれております。献身的に取り組んではいるものの、それは自分の思うように進んでいるかぎりの話です。自分の考えが正しいと思うのは良いとして、それが最高でそれしかないと自惚れはじめます。これが、地上で同じ仕事にたずさわっていて、こちらへ来てからもその成就のために援助している霊を困らせる問題の一つなのです。

あなた方に心掛けていただきたいのは、容易なことではありませんが、その種の人間に個人的見解の相違を忘れさせ、基本の原理・原則に立ち帰って、最初にこの仕事に情熱を燃やした時の目標に向かって無心に努力するように指導することです。これは今たずさわっておられる動物愛護の仕事にかぎりません。他の分野においても言えることです。たとえばスピリチュアリズムと呼ばれている思想運動においても、自己顕示欲が強い人がいて、とかく自惚れが原因となって衝突が起きていませんか?

私は善のための努力は絶対に無駄にされないと申し上げます。闘いはかならず勝利をおさめます。なぜならば背後に控える霊力は、それくらいのことでは押し止められないほど強大だからです。いかなる抵抗に遭ってもかならず退却せしめます。

改革は私たちの世界から鼓吹(コスイ)されるのですが、同時に強大な霊力を具えた輝ける存在による祝福と協力とが与えられます。あなたは是非とも為さねばならないことへの情熱を失ってはなりません。善行への励みに嫌気がさしてはなりません。これは大切な事です(嫌気を吹き込み、やる気を無くさせようとする邪霊集団の働きかけがあるから―訳者)勇猛果敢な精神を保持しなければいけません。あなたには為すべきことが山ほどあります。今のところあなたはそれを立派にやってのけておられます。どうにもならないと思える事態にいたってもかならず道が示されます。

私の記憶では、ここにお集まりの皆さんの誰一人として、克服できないほどの困難に遭遇された方はいっらっしゃいません。時にはギリギリの瀬戸際まで待たざるを得ないことがあるかも知れませんが、きっと道は開けます。

いかに美しいバラにもトゲがあります。見たところ不潔なものの中からきれいなものが出てくることがあります。大自然は両極性、多様性、付随的対照物、というパターンの中で営まれております。絶頂があればドン底があり、晴れの日があれば嵐の日があり、無知な人がいれば知識豊かな人がおり、戦争があれば平和があり、愛があれば憎しみがあり、真実があればウソがあり、弱みがあれば強みがあります。それぞれに果たすべき役割があります。

進化の法則はそうしたパターン以外には働きようがないのです。弱点の中に長所を見出すことがあります。暗闇の中でこそ光明が見出せるのです。困難の中にあってこそ援助が得られるのです。夜明け前には必ず闇夜があるというのは陳腐な譬えですが、やはり真実です。これも人生のパラドックスの一つです。
進化というのはそうしたパターンの中でこそ不易の目的を成就していけるのです。

こうしたことを知ったからには、あなたは悲観なさる必要などどこにもありません。残虐行為の当事者たちが自分たちのしていることの極悪非道さを知らずにいることであなたが思い悩むことはありません。あなた自身も気づいていらっしゃらない要素がいろいろとあるのです。あなたも一個の人間に過ぎませんが、内部には神性という黄金の筋金が入っているのです。それこそがあなたの宝庫です。発電所です。イザという時のエネルギー源です。

同志の中に手を焼かせる者がいたら、その人のことを気の毒に思ってやることです。道を間違えているのです。そういう人間を激しい口調で説き伏せようとしてはなりません。素朴な真理を教えてあげるだけでよろしい。そのうち分かってくれるようになります。

あなたは今みずからの自由意思で選択した仕事にたずさわっておられます。神から授かったもっとも大切な贈物の一つと言えるでしょう。もしかしたら理性も思考力も挑戦欲も懐疑心も持てない、ただの操り人形、ロボットのような存在となっていたかも知れないのです。

それが、反対にあなたには無限の神性が潜在的に宿されているのです。何かに挑戦することによってそれを引き出すことができるのです。その時の奮闘努力が霊のはがねを鍛えるのです。掛けがえのない絶好機です。霊がその純金の姿をあらわし神性を発揮することになるよう、どうか今こそあなたの気骨を示してください。

挑戦にしりごみしてはなりません。闘うということは、霊的な目的意識さえ失わなければ、為になるものです。あなたより少しばかり先輩の魂である私から、最後にひとこと激励の言葉を述べさせていただきましょう。いついかなる時も永遠の霊的原理を指標としそれに頑固にしがみついているかぎり、あなたに、絶対に挫折はありません」

その日もう一人動物愛護運動家が招かれていた。その人に向ってシルバーバーチがこう語りかけた。

「本日あなたにお出でいただいたことを非常にうれしく思っております。人類の啓発と、感性を具えたあらゆる形態の生命への慈悲心を教える仕事に献身しておられる神の僕をお迎えすることは大いなるよろこびです。

その仕事が容易ならざるものであること、前途に困難が山積していることは私も良く存じております。しかし、霊の褒章は、困難に直面した時ほど最大限の信念を堅持できる人にしか獲得できないのです。あなたは容易ならざる道を選んでしまわれました。私はけっしてあなたが今それを後悔していらっしゃると申し上げているのではありません。

あなたはこの道をみずからの自由意思で選択なさったことを指摘しているだけです。もう分かっていらっしゃると思いますが、地上で先駆的な仕事にたずさわっている人たちはけっして孤独な闘いを強いられているのではない・・・霊界から大々的に援助を受けている事実を分かってほしいと思っている霊が大勢います。

この分野の仕事は困難をきわめます。改めるべきことが沢山あります。が、残虐行為を一つでも終わらせる、ないしは少なくすることに成功すれば、その分だけ永遠の創造活動に参加したことになるのです。

申し上げるまでのないことと思いますが、地上に共存する動物にも人間と同じように〝奪うべからざる権利〟というものがあります。進化の法則は地上の全生命を包括していること、一つとしてその働きの外にはみ出ることは有り得ないこと、形態はいかにさまざまであっても、すべてが一丸となって前進するものであること、すべての残酷な行為は、それが人間どうしであっても動物への仕打ちであっても、結局は生命の世界全体の進化を遅らせることになる・・・こうしたこともすべてあなたはすでにご存じと思います。

この大切な分野において少しでも進展があれば、それは大きな勝利であるとみなすべきです。私と同様あなたも、人類の進化が動物の世界全体と密接につながっていることをよくご存知です。献身と忠誠をもって人間に仕えている動物たち、また人間の進化によってその進化が促進されるようにと地上に生をうける動物たちに対する責任を人間が無視しあるいは忘れるようなことがあると、それは人間みずからの進化をも遅らせることになるのです。

困難、戦争、貪欲、利己主義、こうした物質万能主義の副産物はすべて、人間が、愛、情け、哀れみ、慈悲、好意といった霊的資質を発揮しないかぎり地上から無くなることはありません。

そうした資質は神からの授かりものなのです。それが発揮できるようになるまでは、人間はみずからを傷つけることばかりします。乱獲や残虐行為に一つ一つが人間どうし、あるいは動物に対して害を及ぼすのは無論のこと、それが人間みずからの進歩を妨げることになるのです。

地上の動物愛護運動の背後には偉大な霊の集団が控えております。そのリーダーといってよい立場にあるのが(*)地上で〝アッシジの聖フランチェスコ〟と呼ばれた人物です。霊界において活発にこの運動を展開しており、他界後に身につけた霊力をフルに活用してあなた方の仕事の成就を援助しております。

(*リーダーといってよい立場、というあいまいな言い方をしたのは、その上にも、そのまた上にも高級霊が控えて指揮しているからである。『霊訓』のイムペレーターも49名の霊団の頭であるが、その上にはプリセプターと名乗る、直接人間界と接触できないほどの高級霊が控えていた。それは多分紀元前9世紀の予言者エリヤであろうとされているが、いずれにせよ最後に行き着くところは、地球圏に限っていえば、地球の守護神である。なお聖フランチェスコは13世紀のイタリアのカトリック修道士で、庶民的愛と清貧を主義とするフランシスコ修道会の創始者―訳者)

問題に直面した時はそれをどう処理するかの決断を下さねばなりませんが、そんな時いちばんお勧めするのは、瞑想状態に入って魂の奥へ引きこもり、神の声に耳を傾けることです。

今あなたがたずさわっておられる仕事は、あなたご自身がお選びになったのです。この分野にも組織、教会、審議会などがいろいろとありますが、そうしたものは本来の機能を果たせないかぎり存在しても無意味です。この種の仕事は内奥の生命、霊的実在についての知識に目覚め、他の生命との霊的なつながりを理解した者が、自分を役立てるという動機一つに鼓舞されて仕事に従事するということであらねばなりません。

以上の私からのメッセージ、といっても、そう伝えるようにと言われたのでお伝えしたまでですが、それが少しでもお役にたてば、その代弁者(マウスピース)となったことを私はうれしく思います。

あなたのように闘いの最前線に身を置く者は、ひるむことのないよう鍛えられ試される必要があるのです。これまでの数々の体験は、そうした試練の中でも肝心な要素として用意されたものでした。すなわち霊の純金を磨いて浮き出させて、イザという時に霊力を引き出し、窮地に陥った時に引きこもって安らぎを得るために、その内奥の力、内奥の避難所の存在に目覚めさせることに目的があったのです」

・・・お言葉はまさに私がいま必要としていることばかりです。きっと、これからの仕事に大いに役立つことと存じます。私たちは時としてどちらの方向を取るべきか迷うことがあるのです。

「その時点で正しいと思われたことをなさればよいのです。ただし、これが正しいということに確信がなくてはいけません。動機が純粋であれば、その後に派生してくるものも善へ向かいます。万が一動機が間違っていたことに気がつかれれば、その時は自分が責めを負えばよろしい。が、闘って敗れ、しかも動機にやましいところがなければ、もう一度気を取り直して闘いを挑むのです。

われわれは闘士なのです。挑まねばならない闘いがある以上は闘士であらねばなりません。しかも、いま挑んでいる闘いは、あらゆる闘いの中でも最大の闘いではないでしょうか。無知と愚行と利己主義と迷信・・・光明に逆らう闇の勢力すべてとの闘いです。抑圧と残虐と略奪と無用の犠牲(動物実験)に対する闘いです。ぜひとも勝たねばならない大規模な闘いです。

あなたがもしたった一つの残虐行為でも止めさせることができれば、あなたの全人生が生き甲斐あるものとなります。その無益な残虐行為こそ、地上から完全に駆逐するまでわれわれは何度でも闘いを挑まねばなりません。見た目にいかに抵抗が大きくても、決してひるんではなりません。かならずや勝利はあなた方のものとなります。

あなた方が望んでいる改革のすべてが、あなたの在世中に成就されるとはかぎりません。しかし、そのうちの一つでも、二つでも、あるいは三つでも成就されれば、あなたが地上に存在した意義があったことになります。
時どき私は、この仕事に没頭しておられるあなた方に、できることなら私たちの世界の動物が一かけらの恐れも怖じ気もなく安らかに仲良く暮らしているところを一度ご覧に入れたいものだと思うことがあります。そこはまさに動物にとって天国なのです」

解説〝再生〟と〝前生〟についての誤解─訳者─
本書の編集者トニー・オーツセンという人はまだ四十そこそこの若い、才覚あふれる行動派のジャーナリストである。この人とは私は二度会っている。一度はバーバネルが健在のころで、そのときはまだ取材記者の一人にすぎなかった。二度目はバーバネル亡きあと編集スタッフの一員として、生来の才覚と若さと、それにちょっぴりハンサムなところが買われて、BBCなどにも出演したりしていた。

そのときはサイキックニューズ社の所在地も現在地に移っていて、一階の書籍コーナーで私がレジの女性に自己紹介してオーツセンに会いたいと言うと、二階の編集室へ電話を入れてくれた。すると間もなく階段を転げ落ちるようなスピードで降りてくる足音がして、あっという間にオーツセンが顔を見せ “よく来た!〟と言って握手を求め、すぐに二階へ案内してくれた。こうした行動ぶりから氏の性格を想像していただきたい。もっともその積極性が時おり〝勇み足〟を生むのが玉にキズなのだが・・・

彼とは今でも月に何度か手紙のやり取りがあるが、つい最近の手紙で彼がついに日本でいう専務取締役、兼編集主任となっていることが分かった。彼もついにかつての親分(バーバネル)のイスに腰掛けたわけである。その昇進ぶりから彼の才覚のほどを察していただきたい。今後の大成を期待している。

さて本書の原典の第三章は〝再生〟に関する霊言が集めてあるが、これは日本語シリーズ第四巻の三章〝再生の原理〟とほぼ完全に重複しているのでカットした。ただ次の二つの質問が脱落しているので、ここで紹介してそれを問題提起の糸口としたい。これは第四巻79ページの「双子霊でも片方が先に他界すれば別れ別れになるわけでしょう」という質問に続いて出された質問である。

──同じ進化の段階まで到達した双子霊がなぜ別れ別れに地上に誕生するのでしょうか。霊界でいっしょになれた段階で、もうこれでずっといっしょで居続けられる、と思うのではないでしょうか。

「おっしゃる意味は、霊的に再会しながら肉体的に別れ別れになるということと理解しますが、それとてほんの一時期の話です。アフィニティであれば、魂のやむにやまれぬ衝動が強烈な引力となって霊的に引き合います。親和力の作用で引き寄せられるのです。身体的には二つでも霊的には一つだからです」

──別れ別れに誕生してくるのも双子霊として向上のためと理解すればよいのですね。

「別れるということに拘っておられるようですが、それは別だん大きな問題ではありません。別れていようと一緒でいようと、お互いが一個の魂の半分ずつであれば、肉体上の違いも人生のいかなる出来ごとも、互いに一体になろうとする基本的なプロセスに影響を与えることはありません。霊的な実在を物的な現象と混同してはいけません。霊にかかわる要素が持続されていくのです」

オーツセンはその第三章を〝再生・・・霊の側からの見解〟と題しているが、この〝霊の側からの見解〟という副題に私はさすがはオーツセンという感想をもった。というのは、現在地上で扱われている再生説や前世うんぬんの問題は、そのほとんどが人間的興味の観点から捉えられたものばかりで、上のシルバーバーチの言葉どおり〝霊的な実在を物的な現象と混同して〟いるからである。そこから大きな誤解が生じているので、本稿ではその点を指摘しておきたい。

第1節 人間には前世は分からない
第六巻の十章で “自分の前世を思い出してそれと断定できるものでしょうか〟という質問に対してシルバーバーチは、それは理論的にはできますと言えても実際にそれができる人は現段階の地上人類にはまずいませんと述べている。ところが現実には洋の東西を問わず、〝あなたの前生は〇〇ですよ〟とか、みずから、〝私は××の生まれ変わりです〟 と平然と公言する自称霊能者が多く、またそれをすぐに真にうけている信者が実に多いのである。「スピリチュアリズムの真髄」の中で著者のレナードがこう述べている。

「この輪廻転生に関して意味深長な事実がある。それは、前生を〝思い出す〟人たちのその前世というのが、大てい王様とか女王とか皇帝とか皇后であって、召使いのような低い身分だったというものが一人もいないことである。中でも一ばん人気のある前生は女性の場合はクレオパトラで、男性の場合が大てい古代エジプトの王という形をとる」

こう述べてからD・D・ホームの次の言葉を引用している。

「私は多くの再生論者に出会う。そして光栄なことに私はこれまで少なくても十二人のマリー・アントワネット、六人ないし七人のメリー・スコットランド女王、ルイ・ローマ皇帝ほか、数え切れないほどの国王、二十人のアレキサンダー大王にお目にかかっているが、横丁のおじさんだったという人には、ついぞお目にかかったことがない。もしそういう人がいたら、ぜひ貴重な人物として檻に入れておいてほしいものである」

これが東洋になると、釈迦とかインドの高僧とかが人気の筆頭のようである。釈迦のその後の消息が皆目わからないのがスピリチュアリズムの間で不思議の一つとされているが、あの人この人と生まれ変わるのに急がしくて通信を送る暇がなかったということなのだろうか、と皮肉の一つも言ってみたくなる。

それにしても一体なぜ高位・高官・高僧でなければいけないのであろうか。またなぜ歴史上の人物でなければ気が済まないのであろうか。マイヤースの通信『個人的存在の彼方』に次のような一節がある。

「偉大なる霊がまったく無名の生涯を送ることがよくある。ほんの身近な人たちにしか知られず、一般世間の話題となることもなく、死後はだれの記憶にも残らない。その無私で高潔な生涯は人間の模範とすべきほどのものでありながら、それを証言する者は一人としていない。

そうした霊が一介の工場労働者、社員、漁師、あるいは農民の身の上に生をうけることがあるのである。これといって人目につくことをするわけではないのだが、それでいて類魂の中心霊から直接の指導を受けて、崇高な偉大さと高潔さを秘めた生涯を送る。かくして、先なる者が後に、後なる者が先になること多し。(マタイ19・30)ということにもなるのである」

オーエンの『ベールの彼方の生活』第三巻に、靴職人が実は大へんな高級霊で、死後一気に霊団の指揮者に付く話が出ている。地上生活中は本人も思いも寄らなかったので、天使から教えられて戸惑う場面がある。肉体に宿ると前生(地上での前生と肉体に宿る前の霊界での生活の二種類がある)がシャットアウトされてしまうからである。『続霊訓』に次のようなイムペレーターの霊言がある。

「偉大なる霊も、肉体に宿るとそれまでの生活の記憶を失ってしまうものである。そうした霊にとって地上への誕生は一種の自己犠牲ないしは本籍離脱の行為と言ってよい」
そうした霊が死後向上していき、ある一定の次元まで到達すると前生のすべてが(知ろうと思えば)知れるようになる。というのがシルバーバーチの説明である。霊にしてその程度なのである。まして肉体に包まれている人間が少々霊能があるからといって、そう簡単に前生が分かるものではないのである。

第1項 たとえ分かっても何にもならない
ところで、かりに人間にそれが分かるとして、一体それを知ってどうなるというのであろうか。一回一回にそれなりの目的があって再生をくり返し、そのつどシルバーバーチの言うように “霊にかかわる要素〟だけが持続され、歴史的記録や名声や成功・失敗の物語はどんどん廃棄されていく。ちょうど我々の食したものから養分だけが摂取され、残滓(ザンサイ)は排出されていくのと同じである。そんな滓(カス)を思い出してみてどうなるというのであろう。

それが歴史上の著名人であれば少なくとも〝人間的興味〟の対象としての面白味はあるかも知れないが、歴史にまったく記されていない他の無名の人物・・・ほとんど全部の人間といってよい・・・の生涯は面白くもおかしくもない、平々凡々としているか、波瀾万丈であれば大抵被害者あるいは犠牲者でしかないのである。

人間的体験という点においては何も歴史的事件にかかわった者の生涯だけが貴重で、平凡な人生は価値がないというわけでは絶対にない。その人個人にとっては、全ての体験がそれなりの価値があるはずである。が、人間はとかく霊というものを人間的興味の観点からせんさくしようとするものである。シルバーバーチが本名を絶対に明かさないのは、そんな低次元の興味の対象にされたくないということと、そういうことではいけませんという戒めでもあるのである。

第2節 再生問題は人間があげつらうべきものではない
再生そのものが事実であることに疑問の余地はない。シルバーバーチは向上進化という霊の宿命の成就のための一手段として、再生は必須不可欠のものであり、事実この目で見ておりますと述べている。私はこの言葉に全幅的信頼を置いている。

また、それを否定する霊がいるのはなぜかの問いに、霊界というところは地上のように平面的な世界ではなく、内面的に無限の次元があり、ある一定の次元まで進化しないと再生の事実の存在が分からないからだと述べている。つまりその霊が到達した次元での視野と知識で述べているのであって、本人はそれが最高だ、これが全てだ、これが真実だと思っても、その上にもまた上があり、そこまで行けばまた見解が変わってくる。

だからシルバーバーチも、今否定している人も自分と同じところまで来れば、なるほど再生はあると思うはずだと述べている。イムペレーターも、このあと引用する『続霊訓』の中で、再生の事実そのものは明確に認めている。そういうわけで私は再生という事実については今さらとやかく述べるつもりはない。その原理については第四巻の三章を参照していただきたい。ただ、世間において、あるいはスピリチュアリズムに関心をお持ちの方の中においても、生まれ変わりというものについて大きな誤解があるようなので、それを指摘しておきたいと思う。

モーゼスの『続霊訓』に次のような一節がある。

「霊の再生の問題はよくよく進化した高級霊によってはじめて論ずることのできる問題である。最高神のご臨席のもとに、神庁において行われる神々の協議の中身については神庁の下層の者にすら知り得ない。正直に言って、人間にとって深入りせぬ方がよい秘密もあるのである。その一つが霊の究極の運命である。

神庁において紳議(カムハカ)りに議られしのちに一個の霊が再び肉体に宿りて地上へ生まれるべきか、それとも否か、そのいずれの判断が下されるかは誰にも分からない。誰にも知り得ないのである。守護霊さえ知り得ないのである。すべては佳きに計らわれるであろう。

すでに述べた如く、地上にて広く喧伝(ケンデン)されている形での再生(機械的輪廻転生)は真実ではない。また偉大なる霊が崇高なる使命と目的とを携えて地上へ降り人間と共に生活を送ることは事実である。ほかにもわれらなりの判断に基づいて広言を避けている一面もある。

まだその機が熟していないからとみているからである。霊ならば全ての神秘に通じていると思ってはならない。そう広言する霊は、みずから己れの虚偽性の証拠を提出しているに他ならない」
(『ベールの彼方の生活』をおもちの方は第四巻六章3〝神々による廟議〟を参照されたい)

高級霊にしてこの程度なのに、こうして肉体に包まれ、シルバーバーチ流に言えば〝五本の鉄格子(五感)の間から外界をのぞく〟程度の地上の人間が、少々霊能が芽生えたからといって、そんなもので再生問題を論ずるのは言語道断なのである。

再生とは少なくとも今の自分と同じ人間がそっくり生まれ変わるという、そんな単純なものではない。心霊学によって人間の構成要素をよく吟味すれば、イムペレーターやシルバーバーチから指摘されなくてもその程度のことは分かるはずである。

そんな軽薄な興味にあたら時間と精神とを奪われるよりも、五感を中心として平凡な生活に徹することである。そうした生活の中にも深刻な精神的葛藤や身体的苦闘の材料がいくらでもあるはずである。それと一生けんめい取り組んでいれば、ごく自然な形で、つまり無意識のうちに必要な霊的援助を授かるのであり、それがこの世を生きる極意なのである。

第3節 悪ふざけをして喜ぶ低級霊団の存在
私が声を大にしてそう叫ぶのは、一つにはそこにこそ人間的努力の尊さがあり、肉体をもって生活する意義もそこから生まれると信じるからであるが、もう一つ、生半可な霊能を頼りにすることの危険性として、そうした霊能者を操って悪ふざけをする低級霊がウヨウヨしているという現実があるからである。『霊訓』に次のような一節がある。

「邪霊集団の暗躍と案じられる危険性についてはすでに述べたが、それとは別に、悪意からではないが、やはりわれわれにとって面倒を及ぼす存在がある。元来、地上を後にした人間の多くは格別に進歩性もなければ、さりとて格別に未熟とも言えない。肉体より離れていく人間の大半は霊性において特に悪でもなければ善でもない。そして地上に近き界層を一気に突き抜けていくほどの進化した霊は、特別の使命でもないかぎり地上へは舞い戻っては来ないものである。地縛霊の存在についてはすでに述べた通りである。

言い残したものにもう一種類の霊団がある。それは、悪ふざけ、茶目っ気、あるいは人間を煙に巻いて面白がる程度の動機から交霊界へ出没し、見せかけの現象を演出し、名を騙り、意図的に間違った情報を伝える。邪霊というほどのものではないが、良識に欠ける霊たちであり、霊媒と列席者を煙に巻いていかにも勿体ぶった雰囲気にて通信を送り、いい加減な内容の話を持ち出し、友人の名を騙り、列席者の知りたがっていることを読み取って面白がっているに過ぎない。

交霊会での通信に往々にして愚にもつかぬものがあると汝に言わしめる要因もそこにある。茶目っ気やいたずら半分の気持ちからいかにも真面目くさった演出をしては、それを信じる人間の気持ちを弄ぶ霊の仕業がその原因となっている。列席者が望む肉親を装っていかにもそれらしく対応するのも彼らである。

誰でも出席できる交霊会において身元の正しい証明が不可能となるのも彼らの存在の所為(せい)である。最近、だれそれの霊が出たとの話題がしきりと聞かれるが、そのほとんどは彼らの仕業である。

通信にふざけた内容、あるいは馬鹿げた内容を吹き込むのも彼らである。彼らは真の道義的意識は持ち合わせない。求められれば、いつでもいかなることでも、ふざけ半分、いたずら半分にやってみせる。その時どきの面白さ以上のものは何も求めない。人間を傷つける意図はもたない。ただ面白がるのみである」

ついでに『続霊訓』からも次の一節を紹介しておこう。これは自動書記通信であるが、モーゼスが「間違った教理を信じ切っている霊が何百年、何千年と、そう思い込んだままの状態でいると聞いて驚きを禁じ得ません。それはよくあることなのでしょうか」と質問したのに対してこう述べている。

「そう滅多にあるものでないのであるが、霊媒を通じてしゃべりたがる霊は、概してそう高度な悟りに到達していない者たちである。理解力に進歩のない連中である。請われもしないのに勝手に地上へ戻ってくるということ自体が、あまり進歩的でないことの証明といえよう。中でも、人間がこしらえた教理によってがんじがらめにされたままやってくる霊は、もっとも進歩が遅い。

真実の教理は人間の理解力に応じて神みずから啓示されるものである。数ある地上の教説や信仰は大なり小なり間違っている。ゆえに(それが足枷となって)進歩が遅々としている者が実に多く、しかも自らはその誤りに気づかないのである。

その種の霊が徒党を組み、その誤りがさらに新たな誤りを生んでいくことがしばしばある。かくして無知と偏見と空理空論が下層界に蔓延し、汝らのみならず我らにとりても厄介なことになっている。というのも、彼らの集団も彼らなりの使者を送って人間界を攪乱せんとするのである。

彼らは必ずといってよいほど敬虔な態度を装い、勿体ぶった言葉を用いる。それがいつしか進歩を阻害し、心理を窒息させるように企んでいるのである。魂の自由を束縛し、真理への憧憬を鈍らせるということにおいて、それは断じて神の見方ではなく、敵対者の仕業である」

五感はたしかに鈍重であるが、それなりの安定性がある。それに引きかえ、霊能というのはきわめて不安定であり、肉体の健康状態、精神的動揺によって波長が変化し、昨日は高級霊からのものをキャッチしていたのがきょうは低級霊に騙されているということがある。まさに両刃の剣である。

ショパンが弾けるというだけの人なら世界中どこにでもいるが、人に聞かせるに足る名演奏のできる人はそう数多くいるものではない。それと同じく、信頼の置ける霊媒、高い霊質と人格と識見とを兼ね具えた名霊媒はそう数多くいるものではない。その一人がステイントン・モーゼスであり、ヴェール・オーエンであり、ジェラルディン・カミンズであり、モーリス・バーバネルである。そのほか地道にやっている霊能者が世界中にいるはずである。

そして、こうした霊媒を通じて通信してくる霊が異口同音に言うのが〝宇宙の神秘は奥には奥があって、とても全てを知ることはできない〟ということである。肝に銘ずべきであろう。

一九八七年四月     近藤 千雄