霊的新時代の到来
A.W.オースティン(編) 平成元年十一月 近藤 千雄(訳)
平成16年10月1日発行
The Spirit Speaks

潮文社発行の『シルバーバーチの霊訓』12巻は8人のスタッフがテーマ別に、重複しないように抜粋して編集しています。そのためシルバーバーチの教えを理解しやすい反面、交霊会の流れが分かりにくく、雰囲気が伝わってこないという欠点がありました。

オーツセンによる新シリーズの『シルバーバーチの霊訓』は、交霊会の内容をそのまま取り上げており、前後の流れと交霊会の雰囲気がいっそう身近に感じられるようになっています。新シリーズには、12巻から抜け落ちていた重要な内容も見られ、霊的真理の理解を深めることができるようになっています。

この本は他社から『シルバーバーチ 愛の絆』として発行され数年間絶版になっていたものの復刻版です。

目 次
編者まえがき
巻頭のメッセージ
第1章 永続性があるのは、唯一、“愛の絆”だけです
第2章 蒔いたタネが実りをもたらすのです
第3章 愛こそがすべてのカギです
第4章 すべての病気にそれなりの治療法があります
第5章 生命の根元、存在の根元、永遠性の根元は“霊”の中にあります
第6章 真理を悟った人間は決して取り越し苦労はしません
第7章 光の存在を知るのは闇があるからです
第8章 真理を知らないでいることは暗闇の中を歩くことです
訳者あとがき

編者まえがき
けさ私は、犬を連れて散歩に出かけた。

「それがどうかしましたか」――そんな声が聞こえてきそうな、どこにでもある話だが、とにかく話の先を聞いていただこう。

私は近くの海岸に沿って歩いた。早朝のことで、はるか彼方の水平線上にかすかにモヤが掛かっている。が、それもやがて日の出とともに消えていく運命にある。

人影はまばらだ。私と同じように犬を連れて散歩を楽しんでいる人が、そこここに見える程度である。が、海上にはカモメが群れ飛んでいる。水面スレスレを飛ぶもの、上空から急降下するもの、大きく翼を広げて旋回をくり返すもの……それらが出す、あの特有の悲しげな鳴き声が、早朝の冷たい風に混じって聞こえてくる。

しかし、そうした小さな動きがくり広げられている、この海という舞台には、泰然自若(たいぜんじじゃく)として、事もなげな趣きがある。そうしたものに超然とした、何か大きな営みを続けている感じがする。それでいて、目に見えるのは寄せては返す穏やかな波の動きばかりで、その波に身をまかせて、赤茶けたのやクリーム色など、色とりどりの小石が退屈そうに行ったり来たりしている。

すっかり日が昇ってから、私はこんどは公園の広場へ出た。ベンチに腰かけて辺りを眺めていると、一羽の蝶が陽光の中でダンスをしているかのように舞っている。辺り一面に季節の気配がする。スイセンが黄色い顔を太陽へ向けている。スイカズラの葉が風に揺れている。チューリップが地面を押し上げて顔をのぞかせている。小鳥が甘くささやき合っている。澄み切った青空を綿のような雲がゆっくりと流れていく。

やがて陽が傾き、たそがれが急ぎ足で近づいてくる。もうすぐ一日もおしまいだ。弱い夕陽の陽だまりで猫がまるくなっている。犬も、今日ばかりはよく歩かせてもらい、よく食べさせてもらったからか、満足そうな顔でしゃがみ込んでいる。が、私の脳裏には、こうした一日の散歩での教訓がよぎる。

何が起きようと、海は満ちては引いていく。太陽は昇り、温もりを惜しげもなく与えては、静かに沈んで、その場をこうこうたる月に譲る。蝶が舞い、小鳥がさえずる。スイセンが、チューリップが、スイカズラが、そのほか無数の植物が大自然の呼び声に合づちを打つかのように、花を咲かせる。犬も猫も、われわれ人間と同じように生まれ、四季おりおりの生活を楽しんでは、遠いようで近い、あの世へ行ってしまう。

私が言いたいのは、要するところシルバーバーチが巧みに、力強く、そしてくり返し説いているように、生命活動はすべて大自然の法則によって支配されているということである。その法則を超えるものは、何一つ、誰一人いないということである。

さて、本書は私にとって(前シリーズから数えて)五冊目になる。編纂しただけであるから、私自身に帰すべき功績は何もない。例によって前シリーズからの抜粋に、“サイキックニューズ”の資料室から新たに取り出して加えた。主として質疑応答の形を取っているものを選んである。

これに私はThe Spirit Speaks(霊は語る)というタイトルを付けた。文字どおり霊が語っているからである。霊媒のモーリス・バーバネルが他界した一九八一年をもって、半世紀にのぼるシルバーバーチ霊の使命も終わったが、その教えは、当時よりむしろ多くの国において、より多くの人々によって読まれていることであろう。

なぜなら、シルバーバーチの教えは、その背景としての根本理念に俗世的な地臭も、宗派的偏見も、人工的障壁も、みじんも見られないからである。
トニー・オーツセン


巻頭のメッセージ
今やこの地上にも、霊力がしっかりと根づいております。その影響力の徴候をそこここに見ることができるようになりました。もう二度と地上から追い出される心配はありません。

過去幾世紀にもわたって、地上に霊力を根づかせようとする努力がくり返し試みられてまいりました。人類のすべてが大霊に近づき、その無限の叡智と知識と愛による恩恵に浴せるようにとの願いからでした。それが、今世紀に至ってようやく成就されたのです。

幾多の障害・障壁・ままならぬ条件が克服されてまいりました。地上世界の至るところに、揺ぎない霊力の砦(とりで)が築かれております。法王が何と言おうと、僧侶が何と言おうと、政治家が何と言おうと、その影響力が地上から消えることは断じてありません。

霊力そのものは永遠・不変に存在しております。それが、その時、その場所、その条件によって、地上への流入が多くなったり少なくなったりいたします。霊力にも満ち引きがあるということです。

が、いついかなる時も、守護霊の任を引き受けた霊との愛の絆があなた方に霊力を引き寄せ、温かく包みこんでいることを忘れないでください。
シルバーバーチ


第1章 永続性があるのは、唯一、“愛の絆”だけです
数十年にわたる交霊会でシルバーバーチに出された質問は、ありとあらゆる分野にわたっていて、文字どおり数え切れないほどであるが、本章が証明するように、シルバーバーチはそれらに対して実に当意即妙に応答している。念のために付け加えておくが、霊媒のバーバネルはその質問について前もって知らされたことは一度もない。

さて、シルバーバーチの霊言はすでに何冊か読んでいるというその日のゲストが、睡眠中にどんなことが起きているのかを尋ねた。するとシルバーバーチが間髪を入れずこう答えた。

「睡眠中の皆さんは、ただの生理的反応から霊的な活動にいたるまで、さまざまな体験をしておられます。あまりにも多種多様であるために、その中から特定して、これは生理的なもの、これは霊的なもの、といったはっきりした判断ができないだけのことです。

睡眠の目的そのものは単純です。身体は一種の機械です。実にすばらしい機械で、地上のいかなる技術者にもこれほど見事な機械は作れませんが、機械である以上は休ませることが必要です。そうしないと機能を維持することができません。

大切なのはその身体の休息中に、霊がその身体から脱け出て活動しているということです。まさに、人間は毎晩死んでいるといってもいいのです。わずかに銀色の紐(シルバーコード)(魂の緒)によってつながってはいても、霊は完全に身体から脱け出ています。そのコードは実に柔軟な性質をしていて、霊はその束縛なしに完全に肉体から解放されています(※)。

その間におもむく先は、それぞれの霊的成長と進化の程度に似合った環境です。が、それがどこであれ、そこでの体験は地上世界の時間と五感の範囲からはみ出たものばかりですから、脳という物的器官では認識できないのです。

シルバーコードが完全に切れて霊界の住民になってしまえば、そうした睡眠中の体験のすべてを思い出すことができるようになりますが、今は断片的にしか思い出せません。霊界ではそれが通常となるわけです」

※――ここで言っているのは心身ともに健全な状態での話であって、病気だったり心配事が根強いと魂の緒が硬直して伸びきらないために、霊体が脱け切れずにウトウトとした状態が続いたり、完全な不眠症になったりする。

「霊界ではお互いをどう呼びかけ合うのでしょうか」

「こちらへ来て、完全に地上圏から脱すると、それまでの霊的成熟度に似合った名称が与えられます(※)。したがって、その名称で霊的成長と進化の程度が知れるわけです。が、名前そのものにこだわることはありません。お互いに有るがままに認識し合っています」

※――シルバーバーチがこんなことを言うのは初めてであるが、名前といっても音声と文字で表現されている地上の姓名とは本質的に異なる。それと同じ意味でのことばも、実は、ある。シルバーバーチが霊界ではことばはいりませんと言っているのは、誤解を避けるためである。『ベールの彼方の生活』の中で通信霊が霊界での名前が地上のことば(この場合は英語のアルファベット)でうまく表現できなくて困る場合がよくあり、各界層に特有のことば、つまり観念や意志の伝達手段があることを明確に述べている。

「人間は現在の人種と異なる人種に生まれ変わることがあるというのは本当でしょうか。もしも本当だとすると、愛する者とも別れ別れになることになり、大変な悲劇に思えるのですが……」

「そういう考え方は、再生というものの真相を正しく理解していないところから生じるのです。決して悲劇的なことは生じません。そもそも地上的な姻戚関係というのは、必ずしも死後にも続くとはかぎらないのです。イエスが地上にいた時、まわりの者が「お母さんがお見えになってますよ」と言ったのに対して、「いったい本当の母とは誰なのでしょう? 本当の父とは誰なのでしょう?」と問うたのをご存知でしょう。

自我のすべてが一度に物質界へ生まれ出てくることは絶対にありません。地上で“自分”として意識しているのは、本来の自我のほんの一かけらにすぎません。全部ではないのです。その小さなかけらの幾つかが別々の時代に別々の民族に生まれ出るということは有り得ることです。すると、それぞれに地上的血縁関係をこしらえることになり、中には幽体の次元での縁戚すらできることもありますが、それでも、霊的な親和関係は必ずしも存在しないことがあるのです。

永続性があるのは、唯一“愛の絆”だけです。血のつながりではありません。愛があり、血のつながりもある場合は、そこには魂が求め合う絆がありますので、両者の関係は死後も続きます。が、血のつながりはあっても愛の絆がない場合は、すでに地上にある時から霊的には断絶しており、こちらへ来ても断絶のままとなります」

「支配霊や指導霊は生涯を通して同じなのでしょうか、それとも霊的成長にともなって入れ替るのでしょうか」

「それは仕事の内容によって異なります。たとえば支配霊――わたしたちはグループないしは霊団を組織していますから、その中心になる支配霊がいます――は言わば代弁者(スポークスマン)として選ばれた霊で、ある特定の霊媒現象を担当して、当人の寿命のあるかぎりその任に当ります(※)。成長過程の一時期だけを指導する霊は、その段階が終わって次の段階に入ると、入れ替って別の指導霊が担当します」

※――ここは自分のケースを念頭において述べている。シルバーバーチはバーバネルの守護霊ではない。このあと(P34)の守護霊に関する注釈を参照。

「あなたは大霊は“摂理”であるとおっしゃりながら、祈りの中では“あなた”と呼びかけておられます。これは人間的存在を意味する用語ですから“矛盾”と受け取る人も多いのではないでしょうか」

「その辺がことばの難しさです。無限で、言語を超越しているものを、限りある言語で表現しようとするのですから……。そもそも霊とは物質を超越したものですから、物質界の言語では表現できないのです。小は大を兼ねることができません。

わたしたちにとって大霊とは、この全大宇宙とそこに存在するもの全てに責任を担う摂理であり、知性であり、力です。男性でも女性でもありません。皆さんが想像するような人格性はありませんが、かといって人間と無縁の存在という意味での非人格的存在でもありません。

あなた方もお一人お一人が大霊の不可欠の要素であり、大霊もあなた方の不可欠の要素なのです。その辺を理解していただこうとすれば、どうしても地上的な表現を用いざるを得ないわけですが、用いているわたしの方では、ことばを超えたものを表現することの限界を、いつも痛感させられております」

「創造主である大霊は、自分が創造したものの総計よりも大きいのでしょうか」

「そうです。ただし、創造は今なお続いており、これからも限りなく続きます。完結したものではありません。これからも永遠に続く営みです」

「ということは、大霊も完成へ向けて進化しているということでしょうか」

「進化という過程で顕現している部分はその過程を経なくてはなりません。なぜなら、宇宙は無限性を秘めているからです。その宇宙のいかなる部分も大霊と離れては存在できません。それも大霊の不可欠の要素だからです。とてもややこしいのです」

「死んで霊界入りする日(寿命)は何によって決まるのでしょうか。定められた日よりも長生きできないとしたら、心霊治療でも治らないことがあるのも、その辺に理由があるのでしょうか」

「おっしゃる通り、それも理由の一つです。霊がいつ物質に宿り、いつ物質から離れるかは、自然の摂理によって決まることです。とくに死期は故意に早めることが可能ですが、それは自然の摂理に反します。

人間は、脳の意識ではわからなくても、いつ生まれいつ死ぬかは、霊の意識ではわかっております。肉体から離れるべき時――これは生命の法則の一環として避けることはできません――が訪れたら、いかなる治療も効果はありません。一般論としての話ですが。

忘れないでいただきたいのは、心霊治療というのはきわめて複雑な問題でして、根本的には身体の病気を癒すのが目的ではなく、魂の成長を促すためのものだということです。魂の体験としては病気も健康も必要です。物議をかもしかねない問題ですね、これは」

「病気も必要というところが引っ掛かります。病気を知らない生活が送れるほど完成された時代も到来すると私は信じます。あなたのおっしゃる病気とは、摂理を犯すこと、と受け止めてよろしいでしょうか」

「人間はいつになっても摂理に違反した行為をいたします。もしも完全に摂理と調和した地上生活を送ることができれば、それは地上で完全性を成就したことになりましょうが、完全性の成就は地上では有り得ないのです。なぜなら地球そのものが不完全だからです。

地球は学習のために通う“学校”です。その学習は、比較対象の体験による以外には有り得ません。日向(ひなた)と陰、嵐と凪(なぎ)、愛と憎しみ、善と悪、健康と病気、楽しみと苦しみといった相反する体験を通して学習していくのです。相対的体験と、その中での試行錯誤の努力を通して、魂が磨かれていくのです」

「そちらから人間をご覧になると、われわれが肉眼で見ているのと同じように見えるのでしょうか、それとも、肉体は見えずに霊体だけが見えるのでしょうか」

「有り難いことに、肉眼で見るようには見えません。わたしたちの目には皆さんは霊的存在として映じております。肉体は薄ぼんやりとしています。こうして霊媒の身体に宿って、その肉眼を通して見る場合は別です。その間は物質の次元にいるわけですから」

「ある人は霊界には無数の“界層”があると言い、ある人は七つしかないと言うのですが、どちらが本当でしょうか」

「霊的なものを物的な用語で定義することはもともと不可能なのですが、この“界層”という用語も誤解を招きます。霊界には地理的な仕切りはありません。“意識の状態”があって、魂が進化するにつれて意識が高まる、ないしは深まっていくことの連続です。一つの意識状態と次の意識状態とは自然に融合しております。そこに仕切り線のようなものはありません。進歩とか開発とか進化というのは、一足跳びにではなく、粗野な面が少しずつ取り除かれて、霊的な側面が表に出てくるということの連続なのです。

むろん未開な時代には、死後の世界は地上と同じように平面的な場所で、地上より高い界層と低い界層があるといった説き方をしたのはやむを得なかったことです。が、死後の世界は宇宙空間のどこかの一定の場所に存在するのではありません」

「病苦がカルマのせいだとすると、それが心霊治療によって治った場合、そのカルマはどうなるのでしょうか」

「そのご質問は論点がズレております。病苦がカルマのせいであれば、そのカルマが消滅するまでは病苦は除かれません。それ以外には考えようがありません」

「ある敬虔(けいけん)なクリスチャンで、とても立派だった女性が、死後、ある霊媒のところへ戻ってきて、ずっと薄闇の中にいて堪(たま)らないと、救いを求めておりました。あれほどの立派な方がなぜ薄闇の中にいるのか不思議でならないのですが、死後の存続の事実を知るチャンスがなかったからなのでしょうか」

「もしもその霊の出現が本もので、ほんとに暗闇ないしは薄闇の中に閉じ込められているとしたら、それは自分の魂の進化の程度の反映です。摂理はごまかせません。そして、“永遠不変の善”の規準は必ずしも“地上の善”とは一致しません。地上には、人間が“悪”だと決めつけているものでも、霊的観点からすれば“善”に思えるものが沢山ありますし、逆に、人間は“善”だと思っているものでも、わたしたちから見れば“悪”だと言いたいものが沢山あります。

たとえばキリスト教では、自分たちで勝手にこしらえた教義を盲目的に受け入れた人のことを善人のような言い方をします。が、実は、それは人間の宗教性の本質を窒息死させる行為にも等しいものです。なぜかと言えば、それではその後の人生は何をやっても“善人”であることを保障することになるからです。自分では正しいと信じていても間違っております。

そういう人工的な規準とはまったく関係のない“基本的善性”というものが存在します。あとに残るのはその基本的善性の方です。倫理・道徳には二種類あります。政治的道徳、経済的道徳、伝統的道徳といった類が一つ。もう一つは霊的要素によって決まる道徳です。あとに残るのは霊的要素のみです」

「“聖痕(スティグマ)”などの現象をスピリチュアリズム的にどう解釈したらよいのでしょうか」

「これは、大体においてその人のサイキ(※)の領域に属する現象です。熱烈な信仰心が精神に宿る心霊的要素を動かして、キリストのはりつけの時の傷跡などが斑点となって、その人の肉体に現れることがあります。物質的なものでないという意味では超常現象といえますが、霊の世界とは何の関係もありません」

※――Psyche 元来は精神ないしは心の意味であるが、精神のもつ不思議な力をさすことが多い。これからサイキック(心霊的)という用語ができたのであるが、シルバーバーチはそれをスピリチュアル(霊的)と区別し、どちらかというとサイキックなものへの過度の関心を戒めている。スプーン曲げとか硬貨の溶解現象といった、最近、日本ではやっている超能力現象は純然たるサイキの領域に属するもので、未開人によるまじないや雨乞いに作用するエネルギーと同次元のものである。スピリチュアルなものと違って霊格や人格とは何の関係もなく起きるものであるから、そういう能力をもつ人を尊敬したり、自分にそういう能力があることを知って偉くなったような気持になるのは危険である。

「霊界通信には、内容的に正反対のことを言っているのがありますが、なぜそうなるのでしょうか」

「霊とはいえ人間的存在です。叡智の頂上をきわめた大天使と交信しているのではないことを知ってください。霊界にはさまざまな発達段階の存在がいて、それぞれに体験が異なりますから、当然、伝える情報も異なってきます。同一の霊からの通信でも、その後の体験によって違ったことを言うことも有り得ます。

他界する際に霊界についてある種の固定概念をもってくる人がいます。そういう人は、その固定観念を抱いているかぎり、そういう環境の中にいますから、交霊会などで意見を述べる機会があれば、その段階での見解を述べることになります。しかし、基本的なことに関するかぎり、矛盾はないはずです」

「スピリチュアリストの中にも相変わらずイエスは神の代理人で救世主であると信じている人がいます。これはスピリチュアリズムの七大綱領(※)と矛盾しませんか」

※――英国の女性霊媒エマ・ハーディング・ブリテンの霊言で述べられたもので、(一)神は全人類の父である。(二)人類はみな同胞である。(三)霊界と地上との間に霊交がある。(四)人間の霊は死後も存続する。(五)人間は自分の行為に自分が責任を取らねばならない。(六)地上での行為には、死後、善悪それぞれに報賞と罰が与えられる。(七)いかなる霊も永遠に進化する。以上の七つのうちの(二)と(五)に矛盾すると言っているのであろう。

「わたしは、何ごとにも寛容的で自主性を重んじるべきであるとの考えから、いかなる信条であれ、そう信じるのだという人にはその道を歩ませ、そうでないという人には、その人の信じる道へ行かせてあげればよいと考えています。信条はどうでもいいのです。教義は大切なものではありません。大切なのは“真実”です。が、地上であれ、霊界であれ、無限の真理のすべてを知り尽すことはできません。ほんの一部しか見えないのです。そして、知れば知るほど、まだまだ知らねばならないことが沢山あることを自覚します。そこで、ますます寛容的になっていくのです」

「バイブルには“神を恐れよ”とありますが、なぜ恐れねばならないのでしょうか」

「“おそれる”という用語の解釈の問題でしょう。神を怖がりなさいという意味ではないと思います。“畏(おそ)れ敬(うやま)う”という意味もあります」

「同じくバイブルの〈主の祈り〉に“悪魔の誘惑に負けませんように”とありますが、これをどう思われますか」

「これは間違いです。悪魔が誘惑するのではありません。自分にそういう要素があるから悪の道にはまるのです。

ここで一言、わたしが感じていることを述べさせていただきますが、こうした質問をお聞きしていると、まだまだ霊的真理がわかっていらっしゃらないようです。いまだに用語や書物や教会に縛られています。わたしたちはそういうものには一切こだわりません。本来が霊的存在である皆さんは、大霊と同じく無限の存在であり、そういう子供っぽい概念から早く脱け出ないといけないと申し上げているのです。

永遠に変わることのない真理を理解しないといけません。それは、古い言い伝えにこだわり、教義や用語や書物を手放すのを恐れているかぎり、できません。そこで、オモチャは幼児の段階では役に立っても、大人になったら、いち早く片付けないといけません」

「霊能開発の修行中の者が霊の救済活動に手をかけることについてはいかがでしょうか」

「未熟な霊媒がそういう重大な仕事に手をつけるのは実に危険で、感心できません。暗闇の中で迷っている霊を救うには、高度な霊能を身につけた霊媒を必要とします。未熟な霊媒だと、その霊媒自身が憑依されて、いろいろと厄介なことになりかねません」

「守護霊についてお話し願えませんか」

「霊が地上へ誕生してくるに際しては、一人の守護天使(※)がつけられます。それは地上でいう“家系”を同じくする者である場合もあれば、“霊的親和性”(霊系)によって選ばれる場合もあります。いずれにしても、両者を結びつける何らかの共通の利益というものに基づいております。

しかし、両者の関係がどこまで親密となるかは、地上の人間の霊的成長しだいで決まることです。守護霊の働きかけをまったく感受できない場合は、霊力を使用して外部環境から操作せざるを得ません。意識的協力が不可能な場合は、無意識のうちにでも協力関係をもたねばなりません。霊界からの働きかけは霊的にしかできませんから、いつどこであろうと、条件が揃った時にその影響力が届けられるように配慮するわけです」

※――Guardian Angel 日本では守護霊と呼び、その守護霊の守護霊、そのまた守護霊とたどっていくと、そうした“類魂”の大もとに行き着く。これを守護神と呼ぶことがある。

いずれにせよ、英語でも日本語でも“守護”という用語が使われているために、何でもかでも“守ってくれる”と誤解されがちであるが、地上にいる当人の成長と進化が絶対的な目標であるから、そのために最も効果的な手段を取ろうとする。それが当人にとっては辛く苦しい体験に思えることもある。

もう一つの誤解は、じっと付き添って見つめてくれているかに想像することである。実際は高級霊ほど仕事が多くて一刻の休みもなく活動している。その中で守護霊としての仕事を引き受けるのであるから、それは兼務の形になり、直接的な仕事は指導霊にまかせることが多い。それでいて当人の心の動きの一つ一つに通じている。

シルバーバーチは霊言現象のための指導霊であり支配霊であって、バーバネルの守護霊ではない。守護霊は別にいたはずで、“わたしよりはるかに霊格の高い方たちの指示により……”といったセリフが見えるので、たぶんその中の一人であろうと私は見ているが、六十年間、一度も表に出なかった。ここにも、シルバーバーチ霊団の次元の高さがうかがえる。

「霊界でも子供の出産があるのでしょうか」

「わたしは一度も見たことがありません。誕生といえるものならあります。しかし、それは霊的復活のことです。出産は地上だけの出来事です。地上は学校だからです」

「ホメオパシー(※)の謎について教えてくださいませんか」

※――Homeopathy 同種療法・同毒療法と訳されている医学用語で、病気の原因物質と同じものを少量だけ使う治療法。

「“謎”というべきものではありません。よくわからないだけのことです。生命の営みについて、われわれもあまり多くを知りません。造化の秘密もまだわかっておりません。何事も、究極のところまでくると“なぜか”はわからないのです。

ホメオパシーも究極的には一種の霊的エネルギーに基づいております。すべてがそうだとは言い切れませんが、突きつめていくと、無限小の世界へ入って行きます。そして、行きつくところまで行きつくと、やはり全生命の根源にたどりつきます。結局それが根源です。

別の側面からみると、この問題も、作用と反作用とは同じであると同時に正反対である、という科学的原則に基づいております。同種と異種とは作用と反作用であり、同じであると同時に正反対、つまり同じ棒(ポール)の両端ということです。“ゲッセマネの園”(※1)は同じポールの一方の端であり、もう一方の端が“変容の丘”(※2)というわけです。両者とも同じ一本のポールなのです」

※1――イエスが苦悩と裏切りにあったオリーブ山のふもとの丘で、人生における最大の苦難の象徴。

※2――イエスがモーセとエリヤの霊と交霊した丘のことで、その時イエスはこの世の人間とも思えない神々しい姿になったという。物的なもの、世俗的なものを克服した霊的勝利の象徴。


「人を殺(あや)めた人が、その後バチが当って殺されたとします。この場合、その人は死んでから改めて殺人行為の償いをさせられるのでしょうか」

「残念ながらご質問者は、霊的生命についてよくご存知ないようです。宇宙は、変えようにも変えられない絶対的な自然法則によって支配されております。その中でも原因と結果の法則(因果律)が基本となっております。つまり結果にはそれ相当の原因があり、原因のない結果というものは有り得ない――言いかえれば、原因はそれに先立つ原因の結果であり、その結果が原因となって新たな結果を生んでいくということです。

このように、各自の運命は自然法則によって決められていくのです。その法則の働きは当人の魂に刻み込まれた霊的成長度に反応します。あなたは今あるがままのあなたです。こうありたいと装ってみてもダメです。地上生活中に行ったことが、すべて、真の自我に刻み込まれています。その行為の価値が魂を豊かにもし、貧しくもします。あなたみずから行ったことが、そういう結果を生んでいくのです。

死によって物的身体から離れると、魂はそれまでに到達した進化の程度をスタートラインとして、新しい生活に入ります。それより高くもなっていませんし、それより低くもなっていません。自然の摂理があらゆる要素を認知しているからです。公正が行きわたるように摂理が自動的に働くのです。

罰せられるのも報われるのも、すべてあなたの行為一つ一つが生み出す結果の表れです。自分の行為によって成長する場合と、成長を阻害される場合とがあるということです。以上がわたしたちの説く教えの核心です」

「天体が人間の宿命や日常生活に影響を及ぼすという占星術の考えを肯定なさいますか、否定なさいますか。もともと占星術は運命判断を目的としたものではないという認識の上での話ですが……」

「わたしは、地球上の天体も、地球上の人間の生命に影響を及ぼしている事実は認めますが、それは、あくまでも物的影響力をもつ放射物に限られています。

その放射物が何であれ、それが霊力をしのぐほど強烈であったり強大であったりすることは有り得ないと信じます。あくまでも霊は物質より上である――霊が王様で物質は従僕である、というのがわたしの考えです。

宿命とおっしゃいましたが、何もかもあらかじめ定められているという意味での宿命はないと考えています。これも用語の問題――宿命という用語をどう定義するかの問題です。宇宙はあくまでも秩序によって支配されていて、人間生活の重大な出来事もその計画の一部であるという意味では、あらかじめ定められていると言えると思います。

そうした宿命的な出来事を生み出す波動や放射物、そしてそれらが人間各自に及ぼす影響を正確に計算しようと思えばできないことはないはずですが、最終的にはやはり霊が絶対優位にあり、物的なものは霊的なものに従属したものであると主張いたします」

「よく問題となる霊と物質との結合の時期を一応受胎の瞬間であるとした場合、その受胎までは霊ないし意識体はどこで何をしていたのでしょうか。そもそも意識体というのは何なのでしょうか」

「生まれ変わり(再生)のケースは別として、霊は、物質と結合する以前から存在していても、その時はまだ個体性はそなえていないということです。物質と結合してはじめて人間的個性(パーソナリティ)が発生するのです。そして、そのパーソナリティの発達とともに内部の個的大我(インディビジュアリティ)が顕現されてまいります。

したがって、ご質問に対する答えは、霊は無始無終に存在していますが、物的身体と結合してはじめて個別性というものを持つことになるということです。ただし、最初に断りましたように、例外として、物的身体との結合が初めてでないケースがあります」

「もしそれが事実で、物質の結合以前には個性がないとなると、霊としてのそうした新しい現象をどうやって意識できるのでしょうか」

「パーソナリティとインディビジュアリティとを区別して理解しないといけません。パーソナリティというのは、永遠の実在であるインディビジュアリティが地上生活中に見せる特殊な側面にすぎません。インディビジュアリティとしては霊的意識体は無始無終に存在しております。が、それが地上に顕現するためにはパーソナリティという地上的形態を持たねばなりません。つまりパーソナリティというのはインディビジュアリティが物的身体を通して顕現している部分で、いわばマスクであって、本当の顔ではありません。あくまでも地上だけの人物像であり、内的実在の物的表現にすぎません」

「となると、再生する目的は、そのパーソナリティを大きくするためでしょうか、インディビジュアリティの方ではなくて……」

「必ずしもそうとは言えません。再生するのはインディビジュアリティの別の部分であることがあるからです。その新しい部分による地上体験によって、全体のインディビジュアリティの開発が促進されるわけです。インディビジュアリティはパーソナリティよりはるかに大きいのですが、この“大きい”というのは霊的な意味でのことでして、その意味はどう説明したところで、地上の人間には理解していただけません」

「では、あなたの知っている方で、この地上へ再生して行った人がいますか」

「います、沢山います。ですが、(上の説明でもわかる通り)それを証明してあげるわけにはいきません。わたしの言葉を信じていただくほかはありません。もちろん、否定なさってもかまいません。真理は、否定されたからといって、いささかも影響はうけません」

「キリスト教的伝統の中で生まれ育ちながら、なお真実を求めている人は、キリストをどう理解したらよいのでしょうか」

「ここでもまた用語が問題となります。どの宗教にせよ、一つの宗教的伝統の中で生まれ育った人は、すでに無意識のうちに偏見というものを持ち合わせていますから、そうした問題を不偏不党の立場で論じるのは至難のことです。

“キリスト”という用語はもともとは“油を注がれた人”という意味であって、これまでに油を注がれた人を数え上げれば大変な数にのぼります。が、ご質問者が“ナザレのイエス”のことをおっしゃっているのであれば、あの二千年前の時代と地域環境の中で、人間としての正しい生き方を霊的に、心霊的に、そして物質的に範(はん)を垂(た)れた、すぐれた人物として敬意を表すべきです。

しかし、イエスなる人物は大霊だったわけではありません。大霊がイエスとなって出て来たのではありません。もしも神学で説かれているように、イエスは大霊が物的身体をまとって出現したのだと信じたら、せっかくのイエスの存在価値はなくなり、無意味となります。

かりに完全無欠の大霊がそっくり人間の形態をとって出現したとすれば、その人物が完全無欠の人生を送ったとしても当り前の話であって、尊敬には値しません。が、皆さんと同じ一個の人物が皆さんと同じように自然の摂理にしたがって生まれ、しかも人間として最高の人生を送ったとなれば、それは人間の模範として、すべての人間の敬意を表するに値する人物であることになります。

啓示というものは、一つの時代、一つの言語に限られたものではありません。あらゆる啓示の始源は一つあるだけです。無限の叡智の宝庫があるのです。太古から現代に至るまでのあらゆる時代に、その国、その民族の条件に合わせて、必要なだけの叡智と知識を啓示する努力が、絶えずなされてきております。その意味でも、過去の啓示にばかり目を向けるのは間違っていることになります。

今この時点で、今いるその場で、永遠の泉からの啓示に浴することができるという事実をよく理解しないといけません」

「今あなたは、大霊だったら完全無欠の人生を送るのは簡単であるとおっしゃいましたが、その言い分だと、神も一個の人間的存在であるという理屈になりませんか」

「ご質問の意味が、神ご自身が人間的形体をまとって出現した――それが、第一だか第二だか第三だか知りませんが、とにかく“三位一体”のいずれかの“位(くらい)”を占めているという神学上の説のことをおっしゃっているのであれば、それは完全無欠の神の化身なのでしょうから、完全無欠の人生を送るのは容易かも知れないが、そんな人生には価値はないと申し上げているのです。ナザレ人イエスの使命の肝心なものが消滅してしまいます。

大霊は人間的な姿格好をしているのではありません。大霊はあらゆる人間的人物像を超越した存在です。ですが、それを人間に説明するためには、わたしは、限りある人間に理解していただける範囲でのことばを使用する以外に方法がないのです」

「“ナザレ人イエス”というのは、結局、何だったのでしょうか。並はずれた霊的才能を持ち、言うこと為すことすべてが背後霊に導かれていた、一個の人間だったのでしょうか。それとも、きわめて霊格の高い高級霊が降臨したのでしょうか」

「どちらも真実です。問題は、イエスの生涯に関する記録はきわめて乏しく、断片的で、その上ずいぶん書き換えられているということです。

イエスの生涯の最大の価値は、心霊的能力と霊的能力(P29参照)を見事に使いこなしてみせたことにあります。心霊的法則と霊的法則を私利私欲や邪(よこしま)なことに使用したことは一度もありませんでした。時には人間性をむき出しにしたこともありましたが(※)、霊的摂理というものを完全に理解しておりました。

歴史的に見れば、彼のような生身の人物による啓示を必要とする時代だったから出現した、と理解すべきです。が、彼がその啓蒙のために使用した霊力は、今あなた方の時代に顕現している霊力とまったく同じものだったのです」

※――不正や邪悪なものを前にした時に見せた激しい怒りのことを言っている。いわゆる義憤であるが、シルバーバーチに言わせれば、動機が何であれ、憤(いきどお)るということは人間的感情であって、その意味でイエスは完全無欠の人生を送ったとは言えないと、別のところで述べている。常識的に考えれば当り前のことであるが、キリスト教ではイエスを無理やり完全無欠な人物にしようとするからそういう言い方をすることにもなったわけである。

「霊能開発に際して、真面目な霊を引き寄せ、邪霊を追い払うにはどうしたらよいでしょうか」

「類は類を呼ぶといいます。あなたの動機が真面目なものであれば、つまり常に最高のものを求め、邪心をもたず、利己的な下心がなければ、親和力の作用そのものが同じような霊を引き寄せます。また、そこには危険性もないことになります。

要するにあなたから出ている雰囲気が、異質なものを近づけなくするわけです。もしも聖人君子に愚かしい霊がつくとしたら、宇宙には摂理がないことになります」

「あなたは、愛する者がいつも私たちといっしょにいてくれているとおっしゃいましたが、その時、彼らは本来の自我の一部ではないかと思いますが……」

「そうです。愛する霊は地上の者を見守りつつ、同時に霊界での生活を営むことができるのです。皆さんのように一個の身体に縛られていないからです。こちらの世界では、意識というものに地上のような制約がありません。皆さんは英国と南アフリカに同時にいることはできませんが、わたしたちにはそれが可能なのです。距離とか行程とかの問題がないからです。

愛する者にとっては、皆さんのもとに来るのは決して辛いことではありません。愛がなければいっしょにいる気にはなれません。愛があればこそ、歩調を合わせて見守る気にもなるわけです」

「霊的な援助は必ず背後霊を通して届けられるのでしょうか――大霊が直接関与するのではなくて」

「大霊による直接の関与などというものは絶対にありません。あなた方が想像なさるような意味での人間的存在ではないのです。

そうではなくて“ヤコブのはしご”(旧約聖書)の話に象徴されているように、最低のものから最高のものへと至る霊的階梯があって、そこに無数の中間的存在がいるのです。上へあがるほど、より神性を帯びた意志と叡智を表現しております。

ですから、人間が心を開き、霊性を開発し、向上するにつれて、より大きな霊力、より大きな知識、より大きな理解力をそなえた高級な存在と連絡が取れるようになるわけです。みな大霊の僕(しもべ)として、この全大宇宙の人間的存在の向上を援助する仕事に、自発的にたずさわっているのです。こちらの世界では、向上進化が進むほど、自分が得たものを他に施すべきであるとの自覚が強くなるのです。

以上がご質問に対するわたしの答えです」

「霊界にも学問のための建造物があるのでしょうか」

「もちろん、ありますとも。こちらの教育システムはいたって単純です。ありとあらゆる分野の知識が得られるように、各種のホール、専門学校、総合大学等が用意されています。そこで教える資格をもつ者は、教育者としての才覚をそなえた人にきまっています。

この無限の宇宙の中のありとあらゆるテーマについての知識が得られるようになっていて、教師も、それぞれの分野にふさわしい資格をもっている者が揃っており、受け入れる用意のある人に分け隔てなく与えられます。どの分野だけ、といった制約はありません。受け入れる用意のある人には何でも与えられます。つまり、唯一の条件は魂の受け入れ態勢です。

地上の皆さんでもその知識に与(あずか)ることができます。皆さんにとって興味のあること、成長と開発と進歩にとって必要な情報と知識を得るのは至って簡単なのです」

「“愛”に発した貢献(サービス)と“責務への忠誠心”に発した貢献とでは、どちらが上でしょうか」

「それは、その“貢献”がどういう性質のものであるかによって違ってきます。その動機を探らなくてはなりませんし、それに、あなたのおっしゃる“愛”とは何かが問題です。愛の最高の形での表現は神性を帯びたものとなりますが、最低の形での表現は利己主義の極致となります。

どんなものであっても、サービスはサービスです。その価値の尺度は、そのサービスを受けた人への作用と、施した人への反作用です。責務への忠誠心に発したものであれば、それはそれなりに立派ですし、愛に発したものも、その愛の対象のみに偏らない、無私・無欲の愛によるものであれば、これ又、動機は立派です」

「心霊治療は別として、スピリチュアリズムの活動は物理的現象を必要としない段階に入ったと言えるでしょうか」

「いえ、いつの時代にも、自分の目で確かめ、手で触れないと気が済まない人、つまり物的次元での証拠を必要とする人のための物的現象が必要です。それは物質以外のものの存在が信じられない人だけに限ったことではなく、五感の領域を超えたものの実在が理解できないように洗脳された科学者についても言えることです。

むろん同じく物的現象でも、時代によって形式の変化はあるかも知れません。が、物的な側面での何らかの形での演出は、いつの時代にも必要です。寄せては返す波のように、歴史はくり返します」

「公開交霊会(※)などで壇上の霊視家が霊からのメッセージを伝える時に“この列の何番目の席の方”といった指摘の仕方でなしに、その方の名前が言えるようになれば、なお証拠性が高まると思うのですが……」

※――シルバーバーチの交霊会のように限定された少人数で行うのを“家庭交霊会(ホームサークル)”といい、広いホールなどで大勢の会衆を前に行うのを“公開交霊会(デモンストレーション)”という。

「もちろん、それに越したことはありません。ですが、バイブルにもありますように、見えるといい聞こえるといっても、人間の能力には限度があります。ご質問者は、霊媒現象というものがその時その場での条件次第で良かったり悪かったりするものであることをご存知ないようです。まず第一に、それまでの霊媒自身の霊格の発達程度がありますし、霊的能力の開発程度がありますし、通信霊が霊媒のオーラとどこまで感応できるかの問題もありますし、支配霊と霊媒との一体関係の程度にもよります。

一つの霊視現象には以上のような要素が絡んでいるのです。問題は、どうすべきかではなくて、その時の条件下でいかにして最高のことを行うかです」

「あなたは、われわれ人間は大霊のミニチュアないしは縮図、未開発の大霊である、といった意味のことをおっしゃったことがあります」こう述べて、続けて質問に入ろうとするとシルバーバーチが――

「あなたは神、わたしのいう大霊であり、大霊はあなたです。発達程度の違いがあるだけです。大霊が所有しているものはすべて、本性(エッセンス)の形であなたにも宿されています。大霊は神性の極致であり、あなたにも同じ神性が宿されています。神性の本質の違いではなく、その神性の発達程度の違いがあるだけです」

「で、その人間がひどい苦痛をともなう精神的障害によって表現機能を奪われているケースがありますが、そんな時は、むしろ早く死なせてあげた方がよいのではないでしょうか」

「その人がいつ死ぬべきであるということを、一体どなたがお決めになるのでしょうか。その責任はだれが取るのでしょうか。この人は二度と正常に戻れませんという判断は、一体だれに下せるのでしょうか。精神と霊とが正常な連絡関係を取り戻して精神的障害が治ってしまう――そういう霊的革新が起きないとは、だれに断言できるのでしょう。

わたしはそういう考えには賛同しかねます。人間が生命をこしらえるのではない以上、その生命を勝手に終わらせる権利は、人間にはありません。次の進化の過程にそなえた体験を積むために割り当てられた期間は、最後まできちんと生きるべきです。ほんのわずかな地上生活でもって永遠の時を査定なさろうとすると、この無限の宇宙について、至ってお粗末でひがんだ観方(みかた)しか生まれてきません」

「そういう行為は、魂に霊的資質を失わせることも有り得るのでしょうか」

「いえ、失うということは有り得ません。表現の器官を失うことによって開発のチャンスを失うことにはなっても、本来の霊的資質を失うことは有り得ません。その分、つまり失われた開発のチャンスは、埋め合わせの原理によって、他の何らかの手段によって与えられることになるでしょう」

「“単純”ということが神の属性であると信じているわたしたちからすれば、霊界の通信者はなぜもっと単純な表現をしてくれないのだろうかと、疑問に思うのです。高級界の神霊のことになると、なぜか直接的な表現を避けるところが見受けられます。たとえば“神”のことを私たちはGod(ゴッド)という用語を用いますが、あなた方はそれを使用せずにGreat White Spirit(グレイト ホワイト スピリット)などと、ややこしい言い方をなさいます」

「複雑で深遠な問題を扱うには、そう単純に片づけられないことがあるのです。たとえば“神”のことをあなた方はゴッドと呼び、わたしたちはグレイト・ホワイト・スピリットと呼びますが、どこがどう違うのか。

わたしにとっては、宇宙の背後に控える無限の力は、“ゴッド”のように、世界中の億単位の人間がそれぞれにまったく異なる概念で使用している用語を用いるよりは、グレイト・ホワイト・スピリット(真白き大霊、ないし無色の大霊、の意)の方が、より正確にその本性を伝えていると考えるのです。単純ということは、それで済まされる場合には大切な要素となりますが、この問題に関するかぎり、わたしはゴッドという単純な用語を避けても非難されるいわれはないと信じます。

高級神霊のことですが、これもなかなかうまい表現が見当らないのです。わたしが知るかぎり、地上には例えられるものが存在しません。あなたはご自分と似たような容姿の人間ばかりを見慣れていらっしゃいますが、わたしが光栄にも時おり連絡を取り合うことを許されている高級霊になると、その容姿をどう表現したところで、あなたには理解していただけないでしょう。

“存在”というと、人間的容姿をそなえたものしか想像できない人間に、全身これ光、ないしは炎のかたまり、といった存在をどう表現したらよいのでしょう。伝えようにも、それをうまく表現する用語が見当らないのです。秘密にしておこうという魂胆があるわけではありません。現在の地上人類の進化の段階では、それとは途方もなく隔たりのある段階の存在は、とても理解できないからにすぎません」

「私の家でサークルをこしらえて、そこへあなたがお出になって人生相談に乗っていただくというのは可能でしょうか」

「それをこの家で行いましょうということで、これまで努力してきたわけです。このわたしを頼りにしてくださるのは有り難いのですが、こうしてしゃべるための霊媒を養成するのに、ずいぶん永い年月が掛かったのです。それがこうして成就されたというのに、また新たな霊媒のために永い年月を掛けるということは、計画の中に組み込まれてはいないようですよ」

「私は霊視能力が欲しいのですが、これまでのところ、うまくいっておりません。熱意が不足しているのでしょうか」

「熱意というのは、あまり強すぎると、えてしてバイブレーションを乱すことがあるものです。健全な能力の開発は、サイキックなものであれスピリチュアルなものであれ、完全な受容性と安らぎと静寂の中で行われるものです」

「献血という行為には何か霊的な意味があるのでしょうか。また、肉体以外にも何か影響はないものでしょうか」

「わたしは、ここで改めて輸血という医療行為に不賛成を表明せざるを得ません。そのわけは、輸血に際して注入されるのは血液だけではなくて、それに付随した幽質の要素も含まれているからです。それは献血者の人間性の一部です。つまり輸血によってその献血者の存在の本性にかかわるさまざまな要素までもが他人に移されることになり、これは、場合によっては好ましくないケースも有り得ます。

人間というのは実に複雑な要素が一個の統一体となった存在でして、入り組んだメカニズムの中で、全体ががっちりとうまく組み合わさっているのです。その大切な要素の一部を他の人間に譲るということは、自然の摂理に反します。なぜなら、肉体と精神と霊の三つの要素の正しい関係の最大の条件である“調和”を乱すことになるからです」

「でも、それによって生命が救われたケースがあるようですが……」

「わたしの気持としては、いかなる方法にせよ、患者を救うという行為の尊さを割り引くようなことは言いたくないのですが、それでも一言だけ言わせていただけば、現在の医学で行われている治療法を絶対と思うのは間違っております。

どうも、医学の世界に不謬(ふびゅう)性のようなものがあるかに考える傾向があるようですね。病気を治す、あるいは生命(いのち)を永らえさせるにはこうするしかないと医者が言えば、それで最終的な断が下されたことになるかに思われているようですが、わたしはそうは思いません。

わたしに言わせれば、人間は本来が霊的存在であり、すべての治療法はその霊性の優位性を考慮すべきであるという原則に立てば、無数といってよいほどの治療法が用意されているのです。肉体というのは霊が使用する機械としての存在しかないのです。

とにかく生命さえ取り止めればいいのだ、という考えに立てば、今の医療行為も正当化されるかも知れませんが、では、そのために行われている身の毛もよだつような恐ろしい、そして人間の霊性にもとる行為は許されるのか、という疑問が生じます」

「生体実験のことでしょうか」

「そうです。目的は必ずしも手段を正当化しません」

「移植手術については、いかがでしょうか」

「患者自身の身体の一部を他の部分に移植するのであれば、結構なことです。生理的要素も幽質的要素もまったく同一のものだからです。ですが、それを他人に移植するとなると、必ずしも感心しません。(人道上はともかくとして)その移植片そのものが問題を生み出すからです。肉体そのものには生命はなく、霊と呼ばれている目に見えない実在の殻または衣服にすぎないことを理解することが、この問題を解決するカギです」

「眼の移植手術をすれば見えるようになるという場合でも、それをしないで、見えないままでいるのが望ましいということになるのでしょうか」

「個々の問題にはそれなりの事情がありますから、それを無視して一般論で片づけるわけにはまいりませんが、わたしたちからすれば、目が見えないというのは、あくまでも相対的な問題としてしか考えておりません。霊的な盲目という問題をどうお考えになりますか。

地上人類の霊的覚醒を使命としているわたしたちの立場からすれば、無数にいる霊的に盲目の人の方をむしろ見下したくなります。そこでわたしは、この問題も当人の魂の進化の程度による、とお答えします。霊的覚醒の段階まで到達している人にとっては、目が見えないということは、別に障害とはならないでしょう。ただ物が見えるというだけの視力よりもはるかに素敵な視野を得ていることでしょう。

皆さんはこうした問題をとかく物的身体の観点からのみ捉えて、永遠という概念を忘れがちです。といって、そのことを非難するつもりはありません。無理もないことだからです。たしかに、目が見えなければ春の華やかさと美しさはわかりません。が、そんなものは、霊の華やかさと輝きに較べれば、物の数ではありません」

「でも、私たちは、今なおこの世界にいるのです」

「その通りですね。ですが、俗世にありながら俗世に染まらない生き方もできることを知ってください」

祈り
愛の絆は死によって切断されることはなく……

ああ、大霊よ。あなたの限りなき愛の深さを誰が測り得ましょう。あなたの奇しき恩恵を誰が説き明かせましょう。あなたの神々しき尊厳を誰が正しく描写し得ましょう。

あなたは限りある理解力を超えた存在にあらせられます。あらゆる限界と束縛とを超越した存在にあらせられます。あなたは無限なる霊――かつて存在したものと、これから存在するであろうもののすべての根源にあらせられるのでございます。

あなたの霊性が“愛”に存在を与え、あらゆる意識的存在にあなたの神性の属性を賦与なされました。人間を理想主義と自己犠牲と奉仕の精神に燃え立たしめるのも、内部に湧き立つあなたの霊性にほかなりません。

このことは、あなたが人間の内部に顕現しておられるということであり、その意味において人間は極微の形態をとった大霊と言えるのでございます。

わたしたちはあなたの子等に、その霊性に秘められた資質と属性と才能のすべてを自覚させてあげたいと望んでおります。その認識なくしては、人間は無知の中に生きていることになるのでございます。武器を持たずに戦場へおもむくのにも似ておりましょう。

それに引きかえ、自己の存在の実相に目覚めた者は、万全の装備を整えたことになり、生きるということの中に美しさと愉(たの)しさと充実感と輝きとを見出すことができるのでございます。

さんさんと輝く陽光のもとに生きられるものを、実在によって映し出される影の中で生きている者が多すぎます。安定性と落着きと自信をもたらしてくれるはずの知識を欠くがゆえに煩悶の絶えない人、内なる嵐にさいなまれ続けている人が多すぎます。

わたしどもがこの地上という物質の世界にもたらしたいのは、その霊的実在についての“知識”でございます。それによって地上の子等が真実の自我を理解し、あなたとのつながり、および同胞とのつながりについて理解し、愛の絆は死によって切断されることはなく、情愛によるつながりも血縁によるつながりも、死後もなお存続するものであることを知ることになりましょう。

それもわたしたちの使命の一環なのでございます。その目的のために、これまで一身を捧げてまいりました。少しでも広く真理を普及させることでございます。子等が知識によって武装し、理性によって導かれ、永遠なる霊力の理解のもとに生きることができますように……そう祈るからでございます。

第2章 蒔いたタネが実りをもたらすのです
シルバーバーチの思想的特徴の一つは“摂理”の存在を強調することである。人間がこしらえた法律は事情の変化に応じて書き改める必要が生じる。が、霊的摂理にはそれは絶対に有り得ないという。そのことを次のように説く――

宇宙の大霊は無限の存在です。そして、あなた方もその大霊の一分子です。不動の信念をもって人間としての正しい生活を送れば、きっとその恩恵に浴することができます。このことに例外はありません。いかなる身分の人であろうと、魂が何かを求め、その人の信念に間違いがなければ、必ずやそれを手にすることができます。

それが宇宙の摂理なのです。その摂理に調和しさえすれば、必ずや良い結果が得られます。もしも良い結果が得られないとすれば、それは摂理と調和していないことを証明しているにすぎません。地上の歴史をひもといてごらんになれば、いかに身分の低い者でも、いかに貧しい人でも、その摂理に忠実に生きて決して裏切られなかった人々が大勢いることがわかります。忠実に生きずして摂理に文句を言う人を引き合いに出してはいけません。

時として酷(きび)しい環境に閉じ込められ、それが容易に克服できないことがあります。しかし、正しい信念さえ失わなければ、そのうちきっと全障害を乗り越えることができます。そんな時は大霊の象徴であるところの太陽に向かって、こう述べるのです――自分は大霊の一部なのだ、不滅なのだ。永遠の存在であり、無限の可能性を宿しているのだ。そんな自分が、限りある物質界のことで挫(くじ)けるものか、と。そう言えるようになれば、決して挫けることはありません。

多くの人間はまず不安を抱きます。本当にそうなのだろうかと訝(いぶか)ります。その不安の念がバイブレーションを乱すのです。 “完(まった)き愛は怖れを払う”(ヨハネ伝) “まず神の御国と義を求めよ。さすれば全て汝のものとならん”(ルカ伝) ――遠い昔、大霊の摂理を完ぺきに理解したナザレのイエスによって説かれた教えです。彼は、勇気をもって実践すれば必ず成就されることを身をもって示しました。あなた方も、その摂理が働くような心構えができれば、何事も望みどおりの結果が得られます。

もう一つ、別の摂理をお教えしましょう。代価を払わずして価値あるものを手に入れることはできないということです。よい霊媒現象を得たいと思えば、それなりの感受性を磨かなくてはなりません。また、この世的な富を蓄積していると、それなりの代価を支払わされます。つまり地上的なものに心を奪われて、その分だけ霊としての義務を怠れば、地上的な富は増えても、こちらの世界へ来てみると、自分がいかにみすぼらしいかを思い知らされます。

人間の魂には宇宙最大の富が宿されているのです。あなた方ひとりが大霊の一部を構成しているのです。地上のいかなる富も財産も、その霊の宝にまさるものはありません。わたしたちは皆さんの中に存在するその金鉱を掘り起こすことをお教えしているのです。人間的煩悩の土くれの中に埋もれた霊のダイヤモンドをお見せしようとしているのです。

できるだけ高い界層のバイブレーションに感応するようになっていただきたい。自分が決して宇宙で一人ぽっちでないこと、いつも身のまわりに自分を愛する霊がいて、ある時は守護し、ある時は導き、ある時は補佐し、ある時は霊感を吹き込んでくれていることを自覚していただきたい。そして、霊性を開発するにつれて宇宙最大の霊すなわち神に近づき、その心と一体となっていくことを知っていただきたい――そう願っているのです。

人間は、同胞のために自分を役立てることによって大霊に仕えることになります。その関係を維持しているかぎり、その人は大霊のふところに抱かれ、その愛に包まれ、完全な心の平和を得ることになります。

単なる信仰、盲目的信仰は、烈しい嵐に遭えばひとたまりもなく崩れ去ることがあります。しかし、立証された知識を土台として築かれた信仰は、いかなる嵐にもビクともしません。

いまだ証(あかし)を見ずして死後の生命を信じることのできる人は幸せです。が、証を手にして、それをもとに、宇宙の摂理が愛と叡智によって支配されていることを得心するが故に、証が提供されていないことまでも信じることのできる人は、その三倍も幸せです。

ここにお集まりの皆さんは、完ぺきな信仰を持っていなければなりません。なぜなら、皆さんは死後に関する具体的な知識をお持ちだからです。霊力の証を手にしておられるからです。そして、この段階までこられた皆さんは、さらに、万事は良きに計らわれていること、大霊の摂理に調和しさえすれば必ず幸せな結果がもたらされるとの信念を持たれてしかるべきです。無明(むみょう)から生まれるもの、あなた方のいう“悪”の要素によって迷わされることは絶対にないとの信念に生きなくてはなりません。自分は大霊の摂理による保護のもとに生き、そして活動しているのだという信念です。

心に邪(よこしま)なものさえなければ、善なるものしか近づけません。善性の支配するところには善なるものしか存在し得ないからです。こちらの世界から近づくのも大霊の使徒のみです。あなた方は何一つ恐れるものはありません。あなた方を包み、あなた方を支え、あなた方に霊感を吹き込まんとする力は、宇宙の大霊からくる力にほかならないのです。

その力は、いかなる試練においても、いかなる苦難においても、あなた方の支えとなります。心の嵐を鎮め、絶望の暗闇から知識の光明へと導いてくれます。あなた方は進歩の大道にしっかりと足を置いておられます。何一つ恐れるものはありません。

完ぺきな信念は恐れを払います。知識は恐れを駆逐します。恐れは無知から生まれるものだからです。進化せる魂は、いついかなる時も恐れることを知りません。なぜならば、自分に大霊が宿るからには、人生のいかなる出来事も克服できないものは有り得ないことを悟っているからです。

恐怖心は、みずからの魂の牢獄をこしらえます。皆さんはその恐怖心を達観し、そのバイブレーションによって心を乱されることなく、完ぺきな信仰と確信と信頼を抱き、独立独歩の気構えで、こう宣言できるようでなければなりません――自分は大霊なのだ。足もとの小さな事情などには断じて迷わされない。いかなる困難も、内部の無限の霊力できっと克服してみせる、と。

その通り、人間はあらゆる環境を支配する力を所有しているのです。それを、何を好んで縮こませるのでしょうか。

大霊は、物的なものも霊的なものも支配しております。大霊の目からすれば、両者に区別はありません。ですから、物の生命を霊の生命から切り離して考えてはなりません。決して水と油のように分離したものではありません。両者とも一大生命体を構成する不可分の要素であり、物的なものは霊的なものに働きかけ、霊的なものは物的なものに働きかけております。

ですから、皆さんのように霊力の恵みを受けておられる方にとっては、いつ、いかなる場にあっても、大霊の存在を意識した生き方をしているかぎり、克服できない困難は絶対にふりかからないという信念に燃えなくてはなりません。

この世のいかなる障害も、大霊の目から見て取り除かれるべきものであれば、きっと取り除かれます。万が一、あなた方の苦難があまりに大きくて耐え切れそうになく思えた時は、こう理解してください――わたしたちの方でも向上進化の足を止めて皆さんのために精一杯の努力はいたしますが、時にはじっとその苦難に耐え、それがもたらす教訓を学び取るように心掛ける方が賢明である場合もある、ということです。

地上の人間のすべてが、自分が人間的煩悩と同時に神的属性もそなえていることを自覚するようになれば、地上生活がどれだけ生きやすくなることでしょう。トラブルはすぐに解決され、障害はすぐに取り除かれることでしょう。しかし人間は、心の奥に潜在する霊力をあまり信じようとしません。人間的煩悩はあくまでも地上だけのものです。神的属性は宇宙の大霊のものです。

その昔、“この世を旅する者であれ。この世の者となるなかれ”と言う訓え(※)が説かれました。が、死後の生命への信仰心に欠ける地上の人間には、それを実践する勇気がありません。金持ちを羨(うらや)ましがり、金持ちの生活には悩みがないかのように考えます。金持ちには金持ちとしての悩みがあることを知らないからです。神の摂理は財産の多い少ないでごまかされるものではありません。

※――身は俗世にあっても俗人となってはいけないというイエスの訓えで、たしかにバイブルにはそういう意味のことを説いている箇所があることはあるが、そっくりそのままの言葉は見当らない。モーゼスの『霊訓』の中でも引用されているところをみると、地上の記録に残っていないだけで、霊界の記録には記されているのであろう。オーエンの『ベールの彼方の生活』の通信霊の一人が、「われわれがキリストの地上での行状を語る時は、霊界の記録簿を参照している」と述べている。ちなみに原文を紹介しておくと――Be in the world,but not of the world.イエスは英語でしゃべったわけではないが、inとofの本来の意味をうまく利かせた名言といえるであろう。

人間が地上にあるのは、人格を形成するためです。ふりかかる問題をどう処理していくかが、その人の性格を決定づけます。しかし、いかなる問題も地上的なものであり、物的なものです。一方、あなたという存在は大霊の一部であり、神性を宿しているわけですから、あなたにとって克服できないほど大きな問題は絶対に生じません。

心の平和は一つしかありません。大霊と一体となった者にのみ訪れる平和、大霊の御心と一つになり、その大いなる意志と一つになった人に訪れる平和、魂も精神も心も大霊と一体となった者にのみ訪れる平和です。そうなった時の安らぎこそ、真の平和といえます。宇宙の摂理と調和するからです。それ以外には平和はありません。

私にできることは摂理をお教えするだけです。その昔、神の御国は自分の心の中にあると説いた人がいました。外にあるのではないのです。有為転変(ういてんぺん)の物質の世界に神の国があるはずがありません。魂の中に存在するのです。

宇宙の摂理は精細をきわめ、しかも完ぺきですから、一切のごまかしが利きません。悪の報いを免れることは絶対にできませんし、善が報われずに終わることも絶対にありません。ただ、永遠の摂理を物質という束の間の存在の目で判断してはいけません。より大きなものを見ずに小さいものを判断してはいけません。

地上での束の間のよろこびを、永遠の霊的なよろこびと混同してはなりません。地上のよろこびは安ピカであり、気まぐれです。あなた方は地上の感覚で物事を考え、わたしたちは霊の目で見ます。摂理を曲げてまで、人間のよろこびそうなことを説くことは、わたしにはできません。

霊の世界から戻ってくる者にお聞きになれば、みな口を揃えて摂理の完ぺきさを口にするはずです。そこまで分かった霊になると二度と物質の世界へ誕生したいとは思いません。ところが人間は、その面白くない物質の世界に安らぎを求めようとします。そこでわたしは、永遠の安らぎは魂の中にあることをお教えしようとしているのです。最大の財産は霊の財産だからです。

どこまで向上しても、なお自分に満足できない人がいます。そういうタイプの人は、霊の世界へ来ても満足しません。不完全な自分に不満を覚えるのです。大霊の道具として十分でないことを自覚するのです。艱難(かんなん)辛苦を通して、まだまだ魂に磨きをかけ、神性を発揮しなければならないことを認識するのです。

何とかせねばならないことがあることを知りながら、心の安らぎを得ることができるでしょうか。地上の同胞が、知るべき真理も知らされずに、神の御名のもとに間違った教えを聞かされている事実を前にして、わたしたちが安閑(あんかん)としていられると思われますか。

光があるべきところに闇があり、自由であるべき魂が煩悩に負けて牢に閉じ込められ、人間の過ちによって惹き起こされた混乱を目(ま)のあたりにして、わたしたち先輩が平気な顔をしていられると思われますか。

わたしたちがじっとしていられなくなるのは、哀れみの情に耐え切れなくなるからです。霊的存在として当然受けるべき恩恵を受けられずにいる人間がひしめいている地上に、何とかして大霊の愛を行きわたらせたいと願うからです。大霊は、人間に必要不可欠のものはすべて用意してくださっています。それが平等に行きわたっていないだけのことです。偉大な魂は、他の者が真理に飢え苦しんでいる時に、自分だけが豊富な知識をもって平気な顔をしていられないはずです。

わたしたちにとって、地上の人間を指導していていちばん辛いのは、時として皆さんが苦しんでいるのを心を鬼にして傍観しなければならないことがあることです。本人みずからが闘い抜くべき試練であるということがわかっているだけに、はたから手出しをしてはならないことがあるのです。首尾よく本人が勝利をおさめれば、それはわたしたちの勝利でもあるのです。挫折すれば、それはわたしたちの敗北でもあるのです。いついかなる時も、わたしたちにとっての闘いでもあるということです。それでいて、指一本、手出しをしてはならないことがあるのです。

このわたしも、人間が苦しむのを見て涙を流したことが何度かあります。でも、ここは絶対に手出しをしてはならない、と自分に言い聞かせました。それが摂理だからです。その時の辛さは、苦しんでいる本人よりも辛いものです。しかし、本人みずからの力で解決すべき問題を、このわたしが代わって解決してあげることは許されないのです。もしもわたしが指示を与えたら、それは当人の自由選択の権利を犯すことになるのです。もしもこの霊媒(バーバネル)個人にかかわることで、わたしが、為すべきことと為すべきでないことをいちいち指示しはじめたら、一人間としての自由意志を奪うことになるのです。その時から(霊媒としては別として)人間としての進歩が阻害されはじめます。

霊性の発達は、各自が抱える問題をどう処理していくかに掛かっています。物事がラクに、そして順調にはかどるから発達するのではありません。困難が伴うからこそ発達するのです。

が、そうした中にあって、わたしたちにも干渉を許される場合が生じます。万が一わたしたちスピリットとしての大義名分が損なわれかねない事態に立ち至った時は、大いに干渉します。たとえば、この霊媒を通じての仕事が阻害される可能性が生じた場合は、その障害を排除すべく干渉します。しかし、それが霊媒個人の霊的進化にかかわる問題であれば、それを解決するのは当人の義務ですから、自分で処理しなければなりません」


別の日の交霊会で、サークルのメンバーの間で植物の栽培が話題となった時、それを取りあげてシルバーバーチがこう語った。

「タネ蒔きと刈り取りの摂理は、大自然の摂理の中でも、もっともっと多くの人に理解していただきたいと思っているものです。大地が実りを産み出していくという自然の営みの中に、大霊の摂理がいかに不変絶対のものであるかを読み取るべきです。大地に親しみ、大自然の摂理の働きを身近に見ておられる方なら、その仕組みの素晴しさに感心し、秩序整然たる因果関係の営みの中に、そのすべてを計画した大精神すなわち神の御心を、いくばくかでも悟られるはずです。

蒔いたタネが実りをもたらすのです。タネは正直です。トマトのタネを蒔いてレタスができることはありません。蒔かれた原因(たね)は、大自然の摂理に正直にしたがって、それ相当の結果(みのり)をもたらします。自然界について言えることは、そのまま人間界にも当てはまります。

利己主義のタネを蒔いた人は利己主義の報いを刈り取らねばなりません。罪を犯した人はその罪の報いを刈り取らねばなりません。寛容性のない人、かたくなな人、利己的な人は、悲寛容性と頑固と利己主義の結果を刈り取らねばなりません。この摂理だけは変えられません。永遠に不変です。いかなる宗教的儀式、いかなる讃歌、いかなる祈り、いかなる聖典をもってしても、その因果律に干渉して都合のよいように変えることはできません。

発生した原因は、数学的・機械的正確さをもって結果を生み出します。聖職者であろうと、平凡人であろうと、その大自然の摂理に干渉することはできません。霊的成長を望む者は、霊的成長を促すような生活をするほかはありません。

その霊的成長は、思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、そして仕事を立派に仕上げることを通して得られます。言いかえれば、内部の神性が日常生活において発現されてはじめて成長するのです。邪(よこしま)な心、憎しみ、復しゅう心、悪意、利己心といったものを抱いているようでは、自分自身がその犠牲となり、歪(ゆが)んだ、ひねくれた性格という形となって代償を支払わされます。

いかなる摂理も、全宇宙を包含する根源的な摂理の一面を構成しております。その一つ一つが大霊の計画にそって調和して働いております。この事実を推し進めて考えれば、世界中の男女が自分の行為に対して自分の日常生活の中で責任を果たすべきであり、それを誰かに転嫁できるかのように教える誤った神学を、一刻も早く捨て去るべきであることになります。

人間は自分の魂の庭師のようなものです。魂が叡智と崇高さと美しさを増していく上で必要なものは、大霊がぜんぶ用意してくださっております。材料は揃っているのです。あとは、それをいかに有効に使用するかに掛かっております」


このように、シルバーバーチにとっては摂理そのものが神であり、神とは摂理そのものを意味する。別の交霊会でもこう述べている。

「人間的な感情をそなえた神は、人間がこしらえた神以外には存在しません。悪魔も、人間がこしらえたもの以外には存在しません。黄金色に輝く天国も、火焔もうもうたる地獄も存在しません。それもこれも、視野の狭い人間による想像の産物です。大霊とは法則です。それを悟ることが人生最大の秘密を解くカギです。なぜなら、世の中が不変不滅・無限絶対の法則によって支配されていることを知れば、すべてが公正に裁かれ、誰一人としてこの宇宙から忘れ去られることが有り得ないことを悟るからです。

大霊がすべてを知り尽しているのも、法則だからこそです。法則だからこそ何一つ見落すことがないのです。法則だからこそ人生のあらゆる側面がこの大宇宙にあってその存在場所を得ているのです。人生の全側面が、いかに些細(ささい)なことでも、いかに大きな問題でも、けっして見逃されることがありません。すべてが法則によって経綸されているからです。

法則なくして何ものも存在し得ません。法則は絶対です。人間の自由意志が混乱を惹き起こし、その法則の働きを見きわめにくくすることはあっても、法則そのものは厳然と存在し、機能しております。わたしは、神学はこれまで人類にとって大きな呪(のろ)いであったと信じます(※)。しかし、その呪われた時代は事実上過ぎ去りました」

※――これは贖罪説を念頭において述べているのであるが、訳者としての立場から、この“呪い”という訳語にいささか抵抗を感じたので、念のため数種類の英語辞典で語原から徹底的に調べた結果、curseという英語も英米人にとってひじょうに強い感情のこもった言葉であることを確認した。モーゼスの『霊訓』の中でインペレーター霊がキリスト教の教義を“呪うべき教義”と表現しているところをみると、地上時代にそういう間違った人工の教義を信じきってしまうと、死後、よほど困った事態が生じるのであろう。

もっとも、両方ともキリスト教国の人間を相手にしているからキリスト教の教義が矢おもてに立たされることになったという事情も考慮する必要があろう。かりにシルバーバーチが仏教国に出現していたら、たぶん同じ厳しさをもってやり玉にあげたであろうと想像される教説が、仏教にも少なからず見受けられる。


別の日の交霊会でも、同じテーマを次のように説いている。

「わたしたちの霊団の使命は、れっきとした目的ないし意義をもつ証拠を提供し、それによって心霊的法則というものが存在することを立証する一方で、生きるよろこびと霊的教訓を授けるということです。物理的法則を超えた別の次元の法則の存在を証明するだけでなく、霊についての真理を啓示するということです。

そうした使命をもつわたしたちは、真っ向から立ち向かわねばならない巨大な虚偽の組織が存在します。過去幾世紀にもわたって積み重ねられてきた誤りを改めなければなりません。人間が勝手にこしらえた教義を基盤として築き上げられてきた虚飾の大機構を解体しなければならないのです。

わたしたちの努力は常に、物質界の大霊の子等に、いかにして魂の自由を見出し、いかにして霊的真理の陽光を浴び、いかにして教義の奴隷となっている状態から脱け出るかをお教えすることに向けられております。これは容易ならぬ仕事です。なぜなら、いったん宗教という名の足枷(あしかせ)をはめられたが最後、迷信という名の厚い壁をつき破って霊的真理が浸透するには、永い永い年月を要するからです。

わたしたちは、霊的真理の宗教的意義をたゆまず説き続けます。その重要性に目覚めれば、戦争と流血による革新よりはるかに強烈な革命が地上世界にもたらされるからです。

それは魂の革命です。その暁には、世界中の人々が授かって当りまえのもの――霊的存在としてのさまざまな自由を満喫する権利を我がものとすることでしょう。

わたしたちが忠誠を捧げるのは、教義でもなく、書物でもなく、教会でもありません。宇宙の大霊すなわち神と、その永遠不変の摂理です。

いずれ、地上世界に強力な霊の力が注がれるようになります。これまではびこってきた利己主義と無知に歯止めをかけるための、大きな仕事が計画されているのです。それはいつかは成就されます。が、その途中の段階においては、大きな産みの痛みを味わわなくてはならないでしょう。

その仕事を支援するために、わたしたちの世界から大勢のスピリットが馳せ参じております。あなた方の顔見知りの人、血のつながりのある人もいれば、愛のつながりによって引かれてくる人もいます。背後霊というと、皆さんはすぐに顔見知りの名前を思い浮かべがちですが、一方には皆さんのまったく知らない人で、ただ自分の力を役立てることにのみ喜びを覚えて援助してくれている人がいることも、どうか忘れないでください。

バイブルにはサウロ(のちのパウロ)がダマスカスへ向かう途中、天からの光に包まれ、目が眩(くら)んで倒れ、それがきっかけで改心する話(使徒行伝)がありますが、世の中はそんな具合に一気に改まるものではありません。一人ずつ霊的真理に目覚め、一人ずつ大霊の道具となっていくという形で、少しずつ光明が広がっていくのです。霊的なものは、大事に育て慎重に広めていく必要があることを銘記しなければなりません。急激な改心は、得てして永続きしないものです。わたしたちの仕事は永続性が生命です。

一個の魂が大霊の道具となった時、一個の魂が暗黒から光明へ、無知から知識へ、迷信から真実へと目覚めた時、その魂は世界全体の進歩に貢献していることになるのです。なぜなら、その一人ひとりが、言わば物質万能主義の棺(ひつぎ)に打ち込まれるクギのようなものだからです。

発達にも二つの種類があることを知ってください。霊そのものの発達と、霊が使用する媒体の発達です。前者は魂そのものの進化であり、後者は単なる心霊的能力の開発にすぎません。霊的進化を伴わない心霊能力だけの発達では、低い次元のバイブレーションしか出ません。両者が相たずさえて発達した時、その人は偉大な霊能者であると同時に、偉大な人物であることになります。

わたしたちが霊界からたずさえてくるメッセージは、地上人類にとって実に素晴しい恩恵をもたらします。魂を解放し、大霊からの遺産(神的属性)の素晴しさに目を開かせます。あらゆる足枷と束縛を捨てるように教えます。霊的真理の本当の有り難さを教えます。物的生活の在り方と同時に、霊的生活の在り方も教えています。美と愛と叡智と理解力と真理と幸福をもたらします。人のために――ひたすら人のために、と説くメッセージです。

ところが、そのメッセージをたずさえてくるわたしたちが、大霊を正しく理解していない人々、霊の働きかけの存在を信じない人たちによって拒絶されております。それは、いつの時代にもよくある話です。

他方、現在の地上の状態は、そうしたわたしたちの働きかけをますます必要としております。流血につぐ流血、そしてその犠牲となった人々の涙の絶えることがありません。無明(むみょう)ゆえに、地上人類は大霊の摂理にしたがった生き方をしておりません。暗黒と絶望の道を選択しております。そこでわたしたちが、希望と光明と平和と調和をもたらす知識をたずさえてきたのです。にもかかわらず、無知ゆえにわたしたちを軽蔑します。わたしたちのメッセージを拒絶します。わたしたちを背後から導いている強大な霊的組織力の存在に気づいてくれません。しかし、霊的実在を教える大真理は、かならずや勝利をおさめます。

摂理に逆らう者は、みずからその苦(にが)い実りを刈り取ることになります。摂理にしたがって生きる者は、物的・霊的の両面において豊かな幸せを刈り取ります。

暗黒が蔓延している地上にあって、どうぞ希望を失わず、あなた方とともに人類の高揚のために働いている多くの霊、物的世界を改善しようとしている霊の努力はかならずや実ることを信じてください。その背後に控える霊力は、宇宙で最も強力な力なのです。

価値あるものは、苦難と悲哀なしには達成できません。地上は地上なりの教訓の修得方法があるのです。それを避けて通るわけにはいきません。今、霊的勢力が地上全土にわたって活動を開始しつつあり、あらゆる地域の人々に霊的メッセージが届けられ、その心を明るく照らし、その光が広まるにつれて、物質万能主義の闇を追い払ってまいります。

わたしたちは、罰の恐ろしさをチラつかせながら説得することはいたしません。恐怖心から大人しく生きる、そんな卑屈な臆病者にはなってほしくありません。内部に宿る神性を自覚し、それを発揮することによって霊性を高め、一段と崇高な真理と叡智を身につけていただくことを目指しております。

そのためにはまず、これまでに得たものに不満を抱くようにならなければなりません。なぜなら、今の自分に満足できず、さらに何かを求めようとするところに、より高い知識を得る可能性が生まれるからです。満足する人間は進歩が停滞します。満足できない人はさらに大きな自由へ向けて突き進むことになります。

わたしたちは決して“理知的に難しく考えずに、ただ信じなさい”とは申しません。反対に、“大霊から授かった理性を存分に駆使して、わたしたちを試しなさい。徹底的に吟味なさい。その結果、もしもわたしたちの述べることの中に低俗なこと、邪険なこと、道義に反することがあると思われたら、どうぞ拒絶してください”と申し上げております。

わたしたちは、ただひたすら、“より高潔な生活”――自己犠牲と理想主義を志向する生活を説いております。もしそのことをお認めいただけるならば、それは、わたしたちの教えの中身に大霊の極印(ごくいん)が押されていることを証明するものと言えましょう。

たった一個の魂を目覚めさせてあげることができれば、悲嘆に暮れる者をたった一人でも慰めてあげることができれば、怖(お)じ気づいた人の心を奮(ふる)い立たせ、人生に疲れた人に生きる勇気を与えることができれば、それだけでも努力の甲斐があったことになるのではないでしょうか。

わたしたちのメッセージを聞いて心に動揺をきたし、困惑し、わけがわからなくなりながらも、先入的信仰によって身動きが取れなくなっている人が大勢います。しかし、その人たちも、牢獄に閉じ込められた魂へ向けて呼びかける自由の声を耳にして煩悶しております。

そういう人たちにこそ、わたしたちのメッセージを届けてあげるべきです。思いも寄らなかったものが存在することを知って、それを必死に求めようとする、そのきっかけとなります。真理とはすべて踏み石の一つにすぎません。

この霊媒の口をついて出る言葉に、もしもあなた方の理性が反発を覚えるもの、大霊の愛の概念と矛盾するもの、愚かしく思えるもの、あなたの知性を侮辱するものがあるとすれば、それは、もはやわたしの出る幕でなくなったことを意味します。わたしの時代は終わったことになります。

この交霊会も、これまでに数え切れないほど催されておりますが、その間わたしの口から魂の崇高な願望と相容(あいい)れないことを述べたことは、ただの一度もないと確信しております。わたしたちは常にあなた方の魂の最高の意識に訴えているからです。

地球人類は地球人類なりに、みずからの力で救済手段を講じなくてはなりません。できあいの手段はないのです。前もって用意されたお決まりの救済手段というものはないのです。そのためには、これが生命現象だと思い込んでいる自然界の裏側に、目に見えない霊的実在があること、そして、物質界に生活している人間は物的存在であると同時に霊的存在であり、物的身体を通して自我を表現している霊であるという事実を、まず理解しなくてはなりません。

物的身体は、大霊の意図された通りに、生活上の必需品をきちんと揃えることによって、常に完全な健康状態に保たねばなりません。一方、霊は、あらゆるドグマと信条による足枷から解放されねばなりません。そうすることによって実質的価値、つまり霊的に見て意味のないものに忠誠を捧げることなく、真実なるもののためにのみ精を出すことになり、過去幾千年にもわたって束縛してきた信条やドグマをめぐっての下らぬいがみ合い、仲違(たが)い、闘争を無くすことができます。

わたしたちは、大霊を共通の親とする全人類の霊的同胞性を福音として説いております。その理解を妨げるものは地上的概念であり、虚偽の上に建てられた教会であり、特権の横領(※)であり、卑劣な圧制者の高慢と権力です。

※――宗教が組織化されるに伴って内部に権力構造が生まれる。それは人間的産物にすぎないのであるが、それを宇宙の絶対者から授かったものと錯覚し、そう宣言しはじめる。それを“横領”と表現した。

わたしたちの教えが理解されていくにつれて、民族間の離反性が消えていくことでしょう。各国間の障壁が取り除かれていくことでしょう。民族の優劣の差、階級の差、肌色の違い、さらには教会や礼拝堂や寺院どうしの区別も無くなることでしょう。それは、宗教には唯一絶対の宗教というものはなく、世界の宗教の一つ一つが宇宙の真理の一端を包蔵しているのであり、自分の宗教にとって貴重この上ない真理が他の宗教の説く真理と少しも矛盾するものでないことを理解するようになるからです。

そうしていくうちに、表面上の混乱の中から大霊の意図(プラン)が少しずつ具体化し、調和と平和が訪れます。こんなことを申し上げるのも、あなた方にその大霊のプランの一部――わたしたちが霊の世界からたずさわり、皆さんのお一人お一人が地上において果たさねばならない役割を正しく理解していただきたいからです。

わたしたちが説いていることは、かつて人類の進歩のために地上に降りた各時代の革命家、聖者、霊覚者、理想主義者たちの説いたことと、少しも矛盾するものではありません。彼らは霊的に偉大な人物でしたから、その霊眼によって死後の生命を予見し、その美しさが魂の支えとなって、あらゆる逆境との闘争を克服することができたのでした。地上世界にいずれ実現される大霊のプランを読み取り、その日のために物質界の子等の魂を高揚させるべく、一身をなげうったのでした。

彼らも悪しざまに言われました。援助の手を差しのべんとしたその相手から反駁され、嘲笑されました。しかし、その仕事は生き続けました。それはちょうど、今日、世界各地の小さな部屋で行われている、このサークルのような交霊会の仕事が、そのメンバーの名が忘れ去られたのちも末永く生き続けるのと同じです。強大な霊の力がふたたび地上世界へ注ぎ込まれはじめたのです。いかなる地上の勢力をもってしても、その潮流をせき止めることはできません。

人間は、問題が生じるとすぐ、流血の手段でかたをつけようとします。が、そんな方法で問題が解決したためしはありません。流血には何の効用もありませんし、したがって何の解決にもなりません。なぜ大霊から授かった理性が使えないのでしょう。なぜ相手をできるだけ多く殺すこと以外に解決法が思いつかないのでしょうか。なぜ一ばん多くの敵を殺した者が英雄とされるのでしょうか。地上というところは実に奇妙な世界です。

地上にはぜひともわたしたちのメッセージが必要です。霊のメッセージ、霊的真理の理解、自分の心の内と外の双方に、霊的摂理と導きがあるという事実を知る必要があります。そうと知れば、迷った時の慰めと導きと援助をいずこに求めるべきかがおわかりでしょう。

こうした仕事において、わたしたちは自分自身のことは何一つ求めません。栄光を求めているのではありません。地上の人たちのために役立てば、という願いがあるだけです。永いあいだ忘れられてきた霊的真理を改めて啓示し、新しい希望と生命とを吹き込んでくれるところの霊的エネルギーを再発見してくださるようにと願っているだけです。

今や、これまでの古い規範が廃棄され、あらゆる権威が疑問視され、その支配力が衰えつつある中で人類は戸惑っておりますが、そんな中でわたしたちは、絶対的権威者であるところの宇宙の大霊の存在を、決して機能を停止することも誤ることもない法則という形で啓示しようとしているのです。地上世界がその法則に順応した生活規範を整えていけば、きっと平和と調和とが再び支配するようになります。

そうした仕事は、廃棄された信仰の瓦礫(がれき)の中にいる人類が、不信感と猜疑心からその全てを棄ててしまうことなく、真なるものと偽なるもの、事実と神話とを見分け、永いあいだ人類の勝手な想像的産物の下に埋もれてきた真に価値あるもの、すべての宗教の根底にあるもの、霊についての真理を見出すように指導するという、わたしども霊団に課せられた大きな使命の一環なのです。

霊の力――太古において人類を鼓舞し、洞察力と勇気、同胞のためを思う情熱と願望を与えたその力は、今日においてもすぐ身近に見出せる摂理の働きの中に求めようとする心掛け一つで、わがものとすることができるのです。

教会の権威・聖典の権威・教理の権威――こうしたものが今ことごとく支配力を失いつつあります。次第に廃棄されつつあります。しかし、霊的真理の権威は永遠に生き続けます。わたしがこうして戻ってくる地上世界は騒乱と混沌に満ちていますが、霊の光が隙間から洩(も)れるようなささやかなものでなしに、強力な光輝となって地上全土に行きわたれば、そうしたものは立ちどころに治まることでしょう。

なぜ人類は、光明が得られるのに、わざわざ暗闇を求めるのでしょう。知識が得られるのに、なぜ無知のままでいたがるのでしょう。叡智が得られるのに、なぜ迷信にしがみつくのでしょう。生きた霊的真理が得られるのに、なぜ死物と化した古い教義を後生大事にするのでしょう。単純素朴な霊的叡智の泉があるのに、なぜ複雑怪奇な教学の埃(ほこり)の中で暮らしたがるのでしょう。

はずせるはずの足枷をはずそうともせず、自由の身になれるはずなのに奴隷的状態のままでいながら、しかも、そのみずから選んだ暗闇の中で無益な模索を続けている魂がいるのです。思うに、そういう人はあまりに永いあいだ鎖につながれてきたために、それを取りはずすことに不安を覚えるようになってしまったのでしょう。永いあいだカゴの中で飼われた小鳥は、カゴから放たれた時、はたして飛べるかどうか不安に思うものです。

足枷をはずすまではいいのです。が、はずしたあと、みずから歩むべき道がなくてはなりません。何の道しるべもなくて戸惑うままに放置されるようなことになってはいけません。わたしたちは彼らの魂の解放を望みますが、その自由が手引きしてくれる方向もよく見きわめてほしいのです。

永いあいだ束縛の中で生きていると、やっと自由を得た時に、もう何の指図も受けたくないという気持になります。そしてこう言います――“もう指図を受けるのはご免です。疑問と迷いの年月でした。それを振り捨てた今、私はもう宗教と名のつくものとは一切関わりたくありません”と。

足枷から解き放たれて迷いが覚めるとともに、激しい反動が起きることもあります。そこで、わたしは、このわたしという一個人、ただの使いの者(メッセンジャー)にすぎない者に過度の関心を寄せられるのを好ましく思っていないのです。わたしはメッセージそのものに全てをかけております。地上の人間はあまりに永いあいだ教えを説く人物に関心を寄せすぎ、超人的地位に祭り上げて、肝心の教えそのものをなおざりにしてきました。

わたしたちはもう、そんな、しょせん人間にすぎない者を超人的地位に祭り上げることはいたしません。真理と知識と叡智をお届けするだけです。このわたしが地上で傑出した人物だったか、それとも哀れな乞食であったか、そんなことはどうでもいいことです。わたしの述べていることに真理の刻印が押されていれば、それでよろしい。名前や権威や聖典に訴えようとは思いません。訴えるのは、あなた方の理性だけです。

人間の知性に矛盾を感じさせるようなことは、何一つ要求いたしません。人間としての道義に反すること、尊厳にかかわること、屈辱感を覚えさせるようなこと、人類を軽蔑するようなことは決して説きません。わたしたちは全人類の意識を高め、地上における一生命形態としての位置、宇宙における位置、創造神とのつながり、一つの家族としての地上人類どうしの同胞関係を正しく理解する上で必要な、霊的真理を明かそうとしているのです。

これまでのように、何かというと聖典の文句を引用したり、宗教的指導者の名前を持ち出したり、宗教的権威をふりかざしたりすることはいたしません。わたしたちは、大霊から授かっている理性を唯一の拠り所として、それに訴えかけます。ただ単にバイブルに書いてあるからというだけの理由で押しつけるような方法は取りません。理性が反発を覚えたら拒否なさって結構です。ただ、よく吟味してくだされば、わたしたちの説くところが、霊的存在として最高にして最善の本能に訴えていること、その目標が、間違った古い考えを洗い落とし、代わって、あとできっと有り難く思ってもらえるはずの大切な真理をお教えすることであることが、おわかりいただけるものと確信します。宗教は真理を基盤とすべきであり、理性の猛攻に抗し切れないようなものは、すべて廃棄すべきです。

わたしたちが霊的真理を説くとき、それは霊的世界の摂理に関わることとしてのみ説いているのではありません。物的世界にも関わるものなのです。わたしたちから見れば物的世界も大霊の創造された宇宙の一側面であり、それを無視して、つまり絶望の淵に沈む人類の苦しみに無関心でいては“宗教的”では有り得ません。そういう人類のために援助の手を差しのべる人はすべて偉大な霊であると言えます。真理を普及することのみが、人のための仕事ではありません。ほかにもいろいろあります。

貧困に喘(あえ)いでいる人々への物質的援助もそうです。病に苦しむ人々の苦痛を取り除いてあげることもそうです。不正と横暴を相手に闘うこともそうです。憎しみ合いの禍根を断ち、人間的煩悩を排除して、内奥の霊性に大霊の意図されたとおりに発現するチャンスを与えてあげる仕事もそうです。

わたしが残念に思うのは、本来が霊的存在であるはずの人間が、あまりに霊的なことから遠ざかり、霊的法則の存在を得心していただくためには、わたしたちスピリットがテーブルを浮揚させたりコツコツと叩いてやらねばならなくなったことです。

あなた方も一人の例外もなく大霊の分霊なのです。ということは、あたかも大霊が次のように語りかけているようなものです――“私がすべての法則を用意し、みなさん一人ひとりに私の分霊を授けてあります。宇宙を完全なものにするための道具はすべて用意してあります。そのすべてを活用することを許しますから、自分にとって良いものと悪いものとを、みずから選択しなさい。それを、私の定めた法則に順応して活用してもよろしいし、無視してもよろしい”と。

そこで大霊の子等は、それぞれ好きなように選択してきました。しかし他方において、霊界から地上の経綸に当っている者は、大霊の計画を推進するために、地上において間違いなく大霊の意図に感応できる人物を送り込まねばなりません。地上の子等はこれまで大きく脇道へそれてしまったために、霊的なことにすっかり無関心となり、物的なことしか理解できなくなっているからです。

しかし、冷たい冬の風が吹き荒れたあとには、必ず春の新しい生命が芽生えるものです。地面に雪が積もり、すべてが寒々とした感じを与える時は、春のよろこびはわかりません。しかし、春はきっと訪れるのです。そして、生命の太陽はゆっくりと天界をめぐって、いつかは生命の壮観がその極に達する時がまいります。

今、地上全体を不満の暗雲がおおっております。が、その暗雲を払いのけて、夢を抱かせてくれる春、そしてそれを成就させる夏がきっと訪れます。その時期を早めるのも遅らせるのも、あなた方大霊の子の自由意志の使い方一つに掛かっております。

一個の人間が他の一人を救おうと努力する時、その背後に数多くのスピリットが群がり寄って、その気高い心を何倍にも膨(ふく)らませようと努力します。善行の努力が無駄に終わることは絶対にありません。奉仕の精神も決して無駄には終わらせません。誰かが先頭に立って薮(やぶ)を切り開き、あとに続く者が少しでもラクに通れるようにしてあげなければなりません。やがて道らしい道ができ上がり、通れば通るほど平坦になっていくことでしょう。

上層界の高級霊が目にいっぱい涙を浮かべて悲しんでおられる姿を、時おり見かけることがあります。今こそと思って見守っていたせっかくの善行のチャンスが踏みにじられていく人間界の愚行を見て、いつかはその愚かさに目覚めてくれる日が来ることを祈りつつ、眺めているのです。そうかと思うと、うれしさに思い切り顔をほころばせておられるのを見かけることもあります。無名の平凡な人が善行を施し、それが暗い地上に新しい希望の灯をともしてくれたからです。

わたしは、すぐそこまで来ている新しい地球の夜明けを少しでも早く招来せんがために、他の大勢の同志とともに、波長を物質界に近づけて降りてまいりました。その目的は大霊の摂理を説くことです。その摂理に忠実に生きさえすれば、大霊の恵みをふんだんに受けることができることを教えてあげたいと思ったのです。

物質界に降りてくるのは、正直言ってあまり楽しいものではありません。光もなく活気もなく、うっとうしくて単調で、生命力に欠けています。たとえてみれば弾力性のなくなったヨレヨレのクッションのような感じで、何もかもだらしなく感じられます。どこもかしこも陰気でいけません。したがって当然、生きるよろこびに溢れている人はほとんど見当らず、どこを見渡しても絶望と無関心ばかりです。

わたしの住む世界は光と色彩にあふれ、芸術の花咲く世界です。住民の心は真に生きるよろこびが漲(みなぎ)り、適材適所の仕事に忙しくたずさわり、奉仕の精神にあふれ、お互いに自分の足らざるところを補い合い、充実感と生命力と喜びと輝きに満ちた世界です。

それに引きかえ、この地上に見る世界は幸せがあるべきところに不幸があり、光があるべきところに暗闇があり、満たされるべき人々が飢えに苦しんでおります。なぜでしょうか。大霊は必要なものはすべて用意してくださっているのです。問題はその公平な分配を妨げている者が存在するということです。取り除かねばならない障害が存在するということです。

それを取り除いてくれと言われても、それはわたしたち霊界の者には許されないのです。わたしたちにできるのは、物質に包まれた人間に大霊の摂理を教え、どうすればその摂理が正しく人間を通じて運用されるかを教えてさしあげることです。本日ここにいらっしゃる方には、ぜひ、霊的真理を知ればこんなに幸せになれるのだということを、身をもって示していただきたいのです。

もしもわたしの努力によって大霊の摂理とその働きの一端でも教えてさしあげることができたら、これに過ぎるよろこびはありません。これによって禍を転じて福となし、無知による過ちを一つでも防ぐことができれば、こうして地上へ降りてきた苦労の一端が報われたことになりましょう。わたしたち霊団は、本来あなた方人間が果たすべき義務を肩代わりしようとしているのではありません。なるほど大霊の摂理が働いているということを、身をもって悟っていただける生き方をお教えしようとしているのです。

そう言うと、ある人はこんなことを言います――“おっしゃる通りです。だから私たちも施しをします。が、施しを受ける者はまず神に感謝しなければいけません”と。施しをしたあと、その相手がそのことを神に感謝しようがすまいが、そんなことはどうでもよいことではないでしょうか。お腹(なか)を空かしている人がいれば食べものを与えてあげる――それだけでよいのではないでしょうか。寝るところに困った人に一夜の宿りを提供してあげる。それは良いことですが、“どうぞウチへ泊っていってください。ですが、ちゃんと神にお祈りをなさってくださいよ”などと、余計なお説教をしてはなりません。

スピリチュアリズムの真理を知った皆さんは、その分だけを物的なもので差し引いて勘定してみたことがおありですか。つまり、あなた方は地上的なものでは計れない貴重なものを手に入れられた。霊的真理という掛けがえのない高価なものをお持ちになっている。自分が霊性において宇宙の大霊と直結していることを悟られた。その分霊であるという事実を悟られた。その大霊の使者の働きかけを受け止める心掛けも会得された。

そうしたことに較べれば、俗世的な宝はガラクタも同然です。あなた方はこれからも永遠に生き続けるのです。すると、この地上で学んだ知識、体験から得た叡智が、俗世で追い求めている物的なものに比して、その永遠の魂にとっていかに大切なものであるかが、おわかりになるはずです。

見かけの結果だけで物事を判断してはいけません。あなた方は“物”の目でしか見ていないのです。“霊”の目でご覧になれば、一人ひとりの人間に完全に公正な配慮がなされていることを知るでしょう。わたしは時おり皆さんをはじめ他の多くの人間の祈りに耳を傾けてみることがあります。そして、いつもこう思うのです――もしも大霊がそのすべてを叶えてあげたら、ゆくゆくはこの人にとってうれしくない結果をもたらすだろうに、と。

地上を去って霊の世界へ来た人たちに質問してみることがあるのですが、霊界から地上生活を振り返ってみて、どうしても納得のいかないことがあると文句を言う人は、一人もいません。

地上世界には今三つの大きな問題があります。一つは無知であり、もう一つは悲劇であり、三つ目は貧困です。この三つは、霊についての認識が政治と結びつき、みんながその新しい知識の指し示す方向で思考し、そして生きるようにならないかぎり、いつになっても無くならないでしょう。

しかし、勝利の潮流は着実に押し寄せてまいります。古い秩序が廃(すた)れ、新しい秩序にその場を譲っていきます。新しい世界は確実に近づいております。しかし、新しい世界になったら地上から暗い場所が完全に無くなると思ってはいけません。相変わらず涙を流す人がいることでしょう。心を痛める人がいることでしょう。大いなる犠牲を求められることもあるでしょう。

大霊の計画に関わる仕事は、犠牲なしには成就されないのです。取り壊しなしには建て直しはできません。人間は大きな悲劇に遭遇してはじめて霊的なことに関心を抱きはじめ、その拠ってきたる源を探ろうとします。つまり、あれこれと物的手段を試みたあげくに、そのすべてが何の役にも立たないと知ると、ワラをもつかむ思いでどこかの宗教団体にすがり、そして、やがて失望します。

そうしたことの繰り返しの中で霊的真理が台頭し、新しい世界――大霊の摂理が正しく機能している世界――の建設が始まります。そうなるまでは、何かと大きな問題の絶えることはありません。しかし、いずれにしても、何も言うことのない完全な世界にはなりません。なぜなら、完全に近づけば近づくほど、その先により高い完全が存在することを知るからです」

祈り
肌の色・民族の別・宗教の違い等の相違点はありながらも……

皆さんとともに可能なかぎり最高のものに波長を合わせるよう、努力いたしましょう。あくせくした日常生活のストレスと不安の念は、取りあえずわきへ置いていただきましょう。取り越し苦労をやめて魂の静寂の中へ戻り、内奥から湧き出る感謝の気持に、しばし、浸ってください。

全生命を創造した霊力に接し、どうか今夜も、この交霊会で述べられること、為されることのすべてが、その霊力の栄光を鳴り響かせ、少しでも、わたしが大霊と呼んでいるところの神に、皆さんとともに近づくことができますよう、祈りましょう。

ああ、大霊よ。宇宙の森羅万象が、あなたの無限の知性によって考案され、あなたの無限の愛によって支えられている摂理の霊妙なる驚異に、深甚なる敬意を表明いたしております。わたしたちも、あなたは存在するものすべてに配剤してくださっているものと理解しております。小さすぎて、あなたの愛も配慮も届かないということは絶対にないと信じております。

肌の色・民族の別・宗教の違い等の相違点はありながらも、全人類は等しくあなたの神性を吹き込まれ、霊という、目に見えなくとも永遠に切れることのない絆で結ばれ、未来永劫(えいごう)にあなたの家族であり続けるのでございます。

そのことは、言いかえれば人間一人一人の中に、互いに結びつける共通の霊的遺産が存在することを意味し、したがって、それを認識することによって、戦争も混乱も流血も悲劇も起きない社会体制を組織し、平和の中で、霊的本性に秘められた才能と徳性と豊かさを開発することを可能にしてくれるのでございます。

願わくば、こうした人類の霊的解放という大事業への献身者の心と精神と霊とに御力を賜らんことを。彼らの仕事が神聖にして気高いものであることを自覚せしめ、彼らの献身によって霧に迷える者に光と援助と知識とをもたらしてあげることができれば、その時こそ彼らがこの地上での存在の意義を成就していることになるとの認識を得させるために、より大きな力と導きを賜らんことを。

同時にわたしどもは、霊の世界の各界層にあって、永きにわたって地上の道具をより大きな奉仕のために鼓舞する仕事にたずさわっている数多くの霊が存在することも、忘れることはできません。その働きによって地上の子等が創造主たるあなたの霊力により一層近づき、真理と悟りとを手にした者すべてに訪れる、光輝あふれる生活の恩恵に浴することができるのでございます。

ここにあなたの僕(しもべ)インディアンの祈りを捧げます。

第3章 愛こそがすべてのカギです
世界の主な宗教はみな死後の生命の実在を説いている。が、その証拠を交霊会で他界した先輩から提供してもらっているのは、スピリチュアリズムだけである。

しかし、ご存知の通り、交霊というものは必ずしもうまく行くとはかぎらない。時には完全な失敗に終わることもある。なぜか。

易しい真理をわかりやすく説くことをモットーとしているシルバーバーチが、ある日の交霊会の開会と同時にこう切り出した――

「今夜は招待客がいらっしゃらないようですので、ひとつ、この機会に皆さんがふだん持て余しておられる疑問点をお聞きすることにしましょう。易しい問題はお断りです。今夜にかぎって難問を所望(しょもう)しましょう」

そこで出された最初の質問は、最近ある霊媒による交霊会が失敗した話を持ち出して、その原因についてだった。すると――

「それは霊媒としての修行不足、見知らぬ人を招待して交霊会を開くだけの力がまだ十分にそなわっていない段階で行ったためです。あの霊媒は潜在意識にまだ十分な受容性がそなわっておりません。霊媒自身の考えが出しゃばろうとするのを抑えきれないのです。支配霊がいても、肝心のコントロールがうまくいっておりません。

支配霊が霊媒をコントロールすることによって行う現象(霊言ならびに自動書記)においては、よほど熟練している場合は別として、その通信には大なり小なり、霊媒自身の考えが付着しているものと考えてよろしい。そうしないと通信が一言も出ないのです」

「潜在意識の影響をまったく受けない通信は有り得ないということでしょうか」

「その通りです」

「すべてが脚色されているということでしょうか」

「どうしてもそうなります。いかなる形式であろうと、霊界との交信は生身の人間を使用しなくてはならないからです。人間を道具としている以上は、それを通過する際に大なり小なり着色されます。人間である以上は、その人間的性質を完全に無くすことは不可能だからです」

「神が完全な存在であるのなら、なぜもっと良い通信手段を用意してくれないのでしょうか」

「本日は難しい質問を所望しますと申し上げたら、本当に難しい質問をしてくださいましたね。結構です。

さて、わたしたちが使用する用語には、それをどう定義するかという問題があることをまず知っていただかねばなりません。おっしゃる通り、神、わたしのいう大霊は完全です。ですが、それは大霊が完全な形で顕現されているという意味ではありません。大霊そのものは完全です。つまり、あなたの内部に種子(たね)として存在する神性は完全性をそなえているということです。ですが、これは必ずしも物質的形態を通して完全な形で表現されてはいません。だからこそ無限の時間をかけて絶え間ない進化の過程をへなければならないのです。

進化とは、内部に存在する完全性という黄金の輝きを発揮させるために、不純物という不完全性を除去し、磨きをかけていくことです。その進化の過程においてあなたが手にされる霊的啓示は、あなたが到達した段階にふさわしいものでしかありません。万一あなたの霊格よりずっと進んだものを先取りされても、それはあなたの理解力を超えたものなのですから、何の意味もないことになります」

「では、人間がさらに進化すれば、機械的な通信手段が発明されるかも知れないのでしょうか」

「その問題についてのわたしの持論はすでにご存知のはずです。わたしは、いかなる機器が発明されても、霊媒を抜きにしては完全とはなり得ないと申し上げております。

そもそも何のためにわれわれが、こうして霊界から通信を送るのかという、その動機を理解していただかねばなりません。それは、何よりもまず“愛”に発しているのです。肉親・知人・友人等々、かつて地上で知り合った人から送られてくるものであろうと、わたしのように人類のためを思う先輩霊からのものであろうと、霊的メッセージを送るという行為を動機づけているものは、愛なのです。

愛こそがすべてのカギです。たとえ完全でなくても、何らかの交信がある方が、何もないよりはいいでしょう。それが愛の発現の場を提供することになるからです。しかし、それを機器によって行うとなると、どう工夫したところで、その愛の要素が除去されてしまいます。生き生きとした愛の温もりのある通信は得られず、ただの電話のようなものになってしまいます」

「電話でも温かみや愛が通じ合えるのではないでしょうか」

「電話機を通して得られるかも知れませんが、電話機そのものに温かみはありません」

「大切なのはそれを通して得られるものではないでしょうか」

「この場合は違います。大切なのは霊媒という電話機と、それを通してメッセージを受ける人間の双方に及ぼす影響です。それに関わる人びと全部の霊性を鼓舞することに意図があります」

「霊媒も含めてですか」

「そうです。なぜなら、最終的には、いつの日か地上人類も、霊と霊とが自然な形で直接交信できるまでに霊性が発達します。それを、機械を使って代用させようとすることは、進化の意図に反することです。進化はあくまでも霊性の発達を通して為されねばなりません。霊格を高めることによって神性を最高に発揮するのが目的です」

「ということは、最高の証拠を得たいと思えば、霊性の発達した霊媒を養成しなければならないということでしょうか」

「わたしは今、“証拠”の問題を念頭において話しているのではありません。人類の発達ということを念頭において話しているのです。人生はらせん状のサイクルを描きながら発達するように計画されており、その中の一つの段階において次の段階のための霊性を身につけ、その積み重ねが延々と続けられるのです。おわかりでしょうか」

「はい、わかります」

「最高の成果を得るためには、顕幽両界の間に互いに引き合うものがなければなりません。その最高のものが愛の力なのです。両界の間の障害が取り除かれていきつつある理由は、その愛と愛との呼びかけ合いがあるからです」

「霊媒の仕事が金銭的になりすぎるとうまく行かなくなるのは、そのためでしょうか」

「その通りです。霊媒は、やむにやまれぬ献身的精神に燃えなければなりません。その願望そのものが霊格を高めていくのです。それが何よりも大切です。なぜなら、人類が絶え間なく霊性を高めていかなかったら、結果は恐ろしいことになるからです。霊がメッセージをたずさえて地上へ戻ってくる、そもそもの目的は、人間の霊性を鼓舞するためであり、潜在する霊的才能を開発して、霊的存在としての目的を成就するためです」

「他界した肉親が地上へ戻ってくる――たとえば父親が息子のもとに戻ってくる場合、その根本にあるのは戻りたいという一念でしょうか、それとも今おっしゃった目的で霊媒を通じてメッセージを送りたいからでしょうか」

「戻りたいという一念からです。ですが、一体なぜ戻りたいと思うのでしょう。その願望も愛に根ざしています。父親には息子への愛があり、息子には父親への愛があります。その愛があればこそ、父親はあらゆる障害を克服して戻ってくるのです。困難を克服して愛の力を証明し、愛は死を超えて存続していることを示すことによって、息子は、父親の他界という不幸を通して魂が目を覚まし、霊的自我を見出します。かくして、単なる慰めのつもりで始まったことが、霊的発達のスタートという形で終わることになります」

「なるほど、そういうことですか。言いかえれば、神は、進化の計画のためにありとあらゆる体験を活用するということですね?」

「人生の究極の目的は、地上も死後も、霊性を開発することにあります。物質界に誕生してくるのもそのためです。その目的に適った地上生活を送れば、霊はしかるべき発達を遂げ、次の生活の場に正しく適応できる霊性を身につけた時点で死を迎えます。そのように計画されているのです。こちらへお出になっても同じ過程が続き、そのつど霊性が開発され、そのつど古い身体から脱皮して霊妙さを増し、内部に宿る霊の潜在的な完全性に近づいてまいります」

「人間の容貌を見ても、その人の送っている邪悪な生活が反映しているのがわかることがあります」

「当然そうなります。心に思うままがその人となります。その人の為すことがその人の本性に反映します。死後のいかなる界層においても同じことです。身体は精神の召使いではなかったでしょうか。はじめは精神によってこしらえられたのではなかったでしょうか」

「霊界の視点からすれば、心で犯す罪も、行為で犯す罪と同じでしょうか」

「それは一概にはお答えできません。霊界の視点とおっしゃるのは、進化した霊の目から見て、という意味でしょうか」

「そうです。ある一つの考えを抱いた時、それを実行に移したのと同じ罪悪性をもつのでしょうか」

「とても難しい問題です。何か具体的な例をあげていただかないと、一般論としてお答えできる性質の問題ではありません」

「たとえば、誰かを殺してやりたいと思った場合です」

「それは、その動機が問題です。いかなる問題を考察する際にも、まず“それは霊にとっていかなる影響をもつか”ということを考慮すべきです。ですから、この際も、“殺したい”という考えを抱くに至った動機ないし魂胆は何かということです。

さて、この問題には当人の気質が大きく関わっております。と申しますのは、人をやっつけてやりたいと思っても、手を出すのは怖いという人がいます。本当に実行するまでには至らない――いわば臆病なのです。心ではそう思っても、まずもって実際の行為には至らないというタイプです。

そこで、殺してやりたいと心で思ったら、実際に殺したのと同じかというご質問ですが、もちろんそれは違います。実際に殺せば、その霊を肉体から離してしまうことになりますが、心に抱いただけでは、そういうことにはならないからです。その視点からすれば、心に思うことと実際の行為とは、罪悪性が異なります。

しかし、これを精神的次元で捉えた場合、嫉妬心・貪欲・恨み・憎しみといった邪念は、身体的行為よりも大きな悪影響を及ぼします。思い切り人をぶん殴ることによって相手に与える身体的な痛みよりも、その行為に至らせた邪念が当人の霊と精神に及ぼす悪影響の方が、はるかに強烈です。このように、この種の問題はその時の事情によって答えが異なります」

「誰かを殺してやりたいと思うだけなら、実際の殺人行為ほどの罪悪性はないとおっしゃいました。でも、その念を抱いた当人にとっては、殺人行為以上の実害がある場合が有り得ませんか」

「有り得ます。これも又、場合によりけりです。その邪念の強さが問題になるからです。忘れないでいただきたいのは、根本において支配しているのは“因果律”だということです。地上における身体的行為が結果を生むのと同じように、精神的ならびに霊的次元において、それなりの結果を生むように仕組まれた自然の摂理のことです。邪念を抱いた人が自分の精神ないしは霊に及ぼしている影響は、あなた方には見えません」

「誰かを、あるいは何かを、“憎(にく)む”ということは許されることでしょうか。あなたは誰かを、あるいは何かを憎むということがありますか」

あとのご質問は答えが簡単です。わたしは誰も憎みません。憎むということができないのです。なぜなら、わたしは大霊の子すべてに神性を認めるからです。そしてその神性がまったく発揮できずにいる人、あるいは、わずかしか発揮できずにいる人を見て、いつも気の毒に思うからです。

ですが、許せない制度や強欲に対しては、憎しみを抱くことはあります。強欲・悪意・権勢欲等が生み出すものに対して、怒りを覚えます。それに伴って、さまざまな思い、あまり褒(ほ)められない想念を抱くことはあります。ですが、忘れないでください。わたしもまだまだ人間味をそなえた存在です。ただ、人間に対しては、そうした想念を抱かないところまでは進化しておりますが……」

「いけないと知りつつも感情的になることがありますか」

「ありますとも」

別のメンバーが「生意気を言うようですが、今おっしゃったことは私にも理解できます。憎むということは恐ろしいことです」と言うと、さきのメンバーが「人を平気で不幸にする邪悪な人間がいますが、私はそういう人間に対しては、どうしても憎しみを抱きます」と言う。するとシルバーバーチが――

「わたしは憎しみを抱くことはできません。摂理を知っているからです。大霊は絶対にごまかせないことを知っているからです。誰が何をしようと、その代償はそちらにいる間か、こちらへ来られてから、支払わされます。いかなる行為、いかなる言葉、いかなる思念も、それが生み出す結果に対しては、その人自身が責任を負うことになっており、絶対に免れることはできません。ですから、いかに見すぼらしくても、卑(いや)しくとも、大霊からいただいた衣をまとっている同胞を憎むということは、わたしにはできません。ですが、不正行為そのものは憎みます」

「でも、実業界には腹黒い人間がたくさんいます」

「でしたら、その人たちのことを哀れんであげることです」

「私はそこまで立派にはなれません。私は憎みます」

別のメンバーが「私はそれほどの体験はないのですが、動物の虐待を見ると腹が立ちます」と言うと、シルバーバーチが――

「そういう行為を平気でする人間は、みずからの進化の低さの犠牲者であり、道を見失った哀れな盲目者なのです。悲しむべきことです」

さきのメンバーが“腹黒い実業家”を念頭に置いて「ああいう連中の大半は高い知性と頭脳の持ち主です。才能のない人間を食いものにしています。それで私は憎むのです」と言う。

「そういう人たちは必ず罰を受けるのです。いつかは自分で自分を罰する時が来るのです。あなたとわたしとの違いは、あなたは物質の目で眺め、わたしは霊の目で眺めている点です。わたしの目には、いずれ彼らが何世紀もの永い年月にわたって受けるべき苦しみが見えるのです。暗闇の中で悶(もだ)え苦しむのです。その中で味わう悔恨の念そのものが、その人の悪業にふさわしい罰なのです」

「でも、いま現実に他人に大きな苦しみをもたらしております」

「では一体、どうあってほしいとおっしゃるのでしょう。人間から自由意志を奪って、操り人形のようにしてしまえばよいのでしょうか。自由意志という有り難いものがあればこそ、努力によって荘厳な世界へ向上することもできれば、道を間違えて、奈落の底へ落ちることも有り得るのが理にかなっているのです」

別のメンバーが「邪悪な思念を抱いてそれを実行に移した場合、それを実行に移さなかった場合とくらべて、精神的にどういう影響があるのでしょうか」と尋ねた。

「もしもそれが激しい感情からではなく、冷酷非情な計算ずくで行った場合でも、いま申し上げた邪悪な人間と同じ運命をたどります。なぜなら、それがその魂の発達程度、というよりは発達不足の指針だからです。たとえば心に殺意を抱き、しかもそれを平気で実行に移したとすれば、途中で思いとどまった場合にくらべて、はるかに重い罪を犯したことになります」

「臆病であるがゆえに思いとどまる場合もあるでしょう?」

「臆病者の場合はまた別です。わたしは今、邪悪なことを平気で実行に移せる人間の場合の話をしたのです。初めに申し上げたとおり、この種の問題は一つ一つに限定して論じる必要があります。心に殺意を抱き、しかもそれを平気で実行できる人と、“あんな憎たらしい奴は殺してやりたいほどだ”と思うだけの人とでは、霊的法則からいうと、前者の方がはるかに罪が重いと言えます」

「あなたご自身にとって何かとても重大で、しかも解答が得られずにいる難問をおもちですか」

「解答が得られずにいる問題で重大なものと言えるものはありません。ただ、わたしはよく、進化は永遠に続く――どこまで行ってもこれでおしまいということはない、と申し上げておりますが、なぜそういうおしまいのない計画を大霊がお立てになったのか、そこのところがわかりません。いろいろとわたしなりに考え、また助言も得ておりますが、正直いって、これまでに得たかぎりの解答には得心がいかずにおります」

「大霊それ自体が完全でないということではないでしょうか。あなたはいつも大霊は完全ですとおっしゃっていますが……」

「ずいぶん深い問題に入ってきました。かつて踏み入ったことのない深みに入りつつあります。

わたしには、地上の言語を使用せざるを得ない宿命があります。そこで“神”のことも、どうしても、わたしが抱いている概念とはかけ離れた、男性神であるかのような言い方をしてしまいます(※)。わたしの抱いている神の概念は、完ぺきな自然法則の背後に控える無限なる叡智です。その叡智が無限の現象として顕現しているのが宇宙です。が、わたしはまだ、その宇宙の究極の顕現を見た、と宣言する勇気はありません。これまでに到達したかぎりの位置から見ると、まだまだその先に別の頂上が見えているからです。

わたしなりに見てきた宇宙に厳然とした目的があるということを、輪郭だけは理解しております。まだ、その細部のすべてに通暁しているなどとは、とても断言できません。だからこそわたしは、皆さんもわたしと同じように、知識の及ばないところは信仰心で補いなさいと申し上げているのです。

“神”と同じく、“完全”というものの概念は、皆さんが不完全であるかぎり完全に理解することはできません。現在の段階まで来てみてもなお、わたしは、もしかりに完全を成就したらそこで全てが休止することを意味し、それは進化の概念と矛盾するわけですから、完全というものは本質的に成就できない性質のものであるのに、なぜ人類がその成就に向かって進化しなければならないのかが理解できないのです」

※――“大霊”the Great Spiritを使用しても“神”Godを使用しても、二度目からは男性代名詞の“彼”“彼の”“彼を”He His Him使用していることを言っている。

「こうして私たちが問題をたずさえてあなたのもと(交霊会)へ来るように、あなたの世界でも相談に行かれる場所があるのでしょうか」

「上層界へ行けば、わたしよりはるかに叡智を身につけられた方がいらっしゃいます」

「こうした交霊会と同じものを催されるのですか」

「わたしたちにも助言者や指導者がいます」

「やはり入神して行うのですか」

「プロセスは地上の入神とまったく同じではありませんが、やはりバイブレーションの低下、すなわち高い波長をわたしたちにとって適切な波長に下げたり光輝を和らげたりして、ラクにしてくださいます。一種の霊媒現象です。こうしたことが宇宙のあらゆる界層において段階的に行われていることを念頭においてくだされば、上には上があって、“ヤコブのはしご”には無限の段がついていることがおわかりでしょう。その一ばん上の段と一ばん下の段は、誰にも見えません」

「霊媒を通じて語りかけてくる霊は、われわれが受ける感じほどに実際に身近な存在なのでしょうか。それとも、霊媒の潜在意識も考慮に入れなければならないのでしょうか。そんなに簡単に話せるものなのでしょうか。私の感じとしては、想像しているほど身近な存在ではないような気がしています。少し簡単すぎます」

「何が簡単すぎるのでしょうか」

「思っているほど身近な存在であるとは思えないのです。多くの霊媒の交霊会に出席すればするほど、しゃべっているのは霊本人ではないように思えてきます。時にはまったく本人ではない――単にそれらしい印象を与えているだけと思えるものがあります」

「霊が実在する――このことを疑っておられるわけではないでしょうね? 次に、わたしたち霊にも個性がある――このことにも疑問の余地はありませんね? では、わたしたちは一体誰か――この問題になると、意見が分かれます。そもそも“同一性(アイデンティティ)”とは何を基準にするかという点で、理解の仕方が異なるからです。わたし個人としては、地上の両親がつける名前は問題にしません。名前と当人との間には、ある種の相違点があるからです。

では一体わたしたちは何者なのかという問題ですが、これ又、アイデンティティを何を基準にするかによります。ご存知のとおり、わたしはインディアンの身体を使用しておりますが(※)、インディアンではありません。こういう方法がいちばんわたし自身をうまく表現できるからそうしているまでです。このように、背後霊の存在そのものには問題の余地はないにしても、物質への霊の働きかけの問題は実に複雑であり、通信に影響を及ぼし内容を変えてしまうほどの、さまざまな出来事が生じております。

※――地上とコンタクトするための“変圧器”のような役目をしているインディアンのことで、言わば霊界の霊媒である。ふだんは一応これをシルバーバーチということにしており、“祈り”の末尾でも“あなたの僕インディアンの祈りを捧げます”と述べているが、“わたし”と言っている一ばん奥の通信霊が誰であるかは、“いつかは明かす日も来るでしょう”と言いつつ、六十年間、ついに明かされることはなかった。

通信がどれだけ伝わるか――その内容と分量は、そうしたさまざまな要素によって違ってきます。まして、ふだんの生活における“導き”の問題は簡単には片づけられません。なぜかと言えば、人間はその時点での自分の望みを叶えてくれるのが導きであると思いがちですが、実際には、叶えてあげる必要がまったくないものがあるからです。一ばん良い導きは、本人の望んでいる通りにしてあげることではなくて、それを無視して放っておくことである場合が、しばしばあるのです。

この問題は要約して片づけられる性質のものではありません。意識の程度の問題がからんでいるからです。大変な問題なのです。わたしはよく人間の祈りを聞いてみることがありますが、要望に応(こた)えてあげたい気持は山々でも、そばに立って見つめているしかないことがあります。時にはわたしの方が耐え切れなくて、何とかしてあげようと思って行動に移りかけると、“捨ておけ!”という上の界からの声が聞こえることがあります。一つの計画の枠の中で行動する約束ができている以上、わたしの私情は許されないのです。

この問題は容易ではないと申しましたが、それは困難なことばかりだという意味ではありません。時には容易なこともあり、時には困難なこともあります。ただ、理解しておいていただきたいのは、人間にとって影(不幸)に思えることが、わたしたちから見れば光(幸せ)であることがあり、人間にとって光であるように思えることが、わたしたちから見れば影であることがあるということです。

人間にとって青天のように思えることが、わたしたちから見れば嵐の予兆であり、人間にとって静けさに思えることが、わたしたちから見れば騒音であり、人間にとって騒音に思えることが、わたしたちから見れば静けさであることがあるものです。

あなた方が実在と思っておられることは、わたしたちにとっては実在ではないのです。お互いに同じ宇宙の中に存在しながら、その住んでいる世界は同じではありません。あなた方の思想や視野全体が物的思考形態によって条件づけられ、支配されております。霊の目で見ることができないために、つい、現状への不平や不満を口にされます。わたしはそのことを咎(とが)める気にはなれません。視界が限られているのですから、やむを得ないと思うのです。あなた方には全視野を眼下におさめることはできないのです。

わたしたちスピリットといえども完全から程遠いことは、誰よりもこのわたしがまっ先に認めます。やりたいことが何でもできるとは限らないことは否定しません。しかし、そのことは、わたしたちがあなた方の心臓の鼓動と同じくらい身近な存在であるという事実とは、まったく別の問題です。あなた方が太陽の下を歩くと影が付き添うごとく、イヤ、それ以上に、わたしたちはあなた方の身近な存在です。

わたしの愛の活動範囲にある方々は、わたしたちの世界の霊と霊との関係と同じく、わたしと親密な関係にあります。それを物的な現象によってお見せできないわけではありませんが、いつでもというわけにはまいりません。霊的な理解(悟り)という形でもできます。が、これ又、人間としてやむを得ないことですが、そういう霊的高揚を体験するチャンスというものは、そう滅多にあるものではありません。そのことを咎めるつもりはありません。これから目指すべき進歩の指標がそこにあるということです。

あなたのご意見は、ちょっと聞くと正しいように思えますが、近視眼的であり、すべての事実に通暁しておられない方の意見です。とは言え、わたしたち霊界からの指導者は常に寛大な態度で臨まねばなりません。教師は生徒の述べることに一つ一つ耳を貸してあげないといけません。意見を述べるという行為そのものが、意見の正しい正しくないに関係なく、魂が成長しようとしていることの指標だからです。

まじめな意見であれば、わたしたちはどんなことにも腹は立てませんから、少しもご心配には及びません。大いに歓迎します。どなたがどんなことをおっしゃろうと、またどんなことをなさろうと、みなさんに対するわたしの愛の心がいささかでも減る気づかいはいりません」

「私たちも、あなたに対して同じ気持を抱いております。要は求道心の問題に帰着するようです」

「今わたしが申し上げたことに、批判がましい気持はみじんも含まれておりません。われわれはみんな大霊であると同時に人間でもあります。非常に混み入った存在―― 一見すると単純のようで、奥の深い存在です。魂というものは開発されるほど単純さを増しますが、同時に奥行きを増します。単純さと深遠さは、同じ一本の棒の両端です。作用と反作用は、科学的にいっても正反対であると同時に同一物です。

進歩は容易には得られません。もともと容易に得られるようになっていないのです。われわれはお互いに生命の道の巡礼者であり、手にした霊的知識という杖が、困難に際して支えになってくれます。その杖にすがることです。霊的知識という杖です。それを失っては進化の旅は続けられません」

「私たちはあまりに霊的知識が身近すぎて、かえってその大切さを見失いがちであるように思います」

「わたしは、常づね二つの大切なことを申し上げております。一つは、知識の及ばない領域に踏み入る時は、その知識を基礎とした上での信仰心に頼りなさいということです。それからもう一つは、つねに理性を忘れないようにということです。理性による合理的判断力は大霊からの授かりものです。

あなたにとっての合理性の基準にそぐわないものは、遠慮なく拒否なさることです。理性も各自の成長度というものがあり、成長した分だけ判断の基準も高まるのです。一見すると矛盾しているかに思える言葉がいろいろとありますが、このテーマもその一つであり、一種の自家撞着(パラドックス)を含んでおります。が、パラドックスは真理の表象でもあるのです。

理性が不満を覚えて質問なさる――それをわたしは少しも咎めません。むしろ結構なこととして、うれしく思うくらいです。疑問を質(ただ)そうとすることは魂が活動していることの証拠であり、わたしにとってそれは喜びの源泉だからです。

さて、わたしは何とか皆さんのご質問にお答えできたと思うのですが、いかがでしょうか」

そう述べてから、その日の中心的質問者だった、かつてメソジスト派の牧師だった人の方を向いて、笑顔でこう述べた。

「いかがでしょう、わたしの答案用紙に“思いやりあり”“人間愛に富む”とでも書き込んでくださいますか?」

祈り
気弱さと煩悩のさ中にあるとき……

ああ、大霊よ。あなたは、形態のいかんを問わず、全生命の創造主にあらせられます。あなたの摂理は全生命を支える無限なる摂理であり、あなたの計画は宇宙の生命活動の全側面に配慮した完ぺきなる計画であり、そのすべてをあなたの愛が育(はぐく)んでいるのでございます。

幾百億という数知れない生命現象をみせるこの宇宙にあっても、あなたの摂理が認知しないものは何一つございません。その存在の扶養と維持と管理にとって不可欠のものは、すべて用意されております。各側面が全体の一部としての機能を果たしつつ、宇宙が一大調和体として活動するための手段も、すべて用意されているのでございます。

その不変・不易にして絶対的な支配力を有する摂理に対して、わたしどもは深甚なる敬意を表します。なぜなら、この果てしなき宇宙にあっても、その摂理の範囲を超えて、いかなる事態も生じ得ないことを知っているからでございます。

わたしどもは、そうした摂理が存在することの意義についてのより深い理解を、あなたの子等にも得さしめたいと念願するものでございます。その摂理の理解によって、自己の存在の目的とあなたとのつながりをより鮮明に認識し、この霊的宇宙機構の中での自己の果たすべき役割を知ることになるからでございます。

それと同時にわたしどもは、あなたの霊性――意識を有し、呼吸し、思考し、生きていることの根源である霊性が子等のすべてに内在しており、それこそが本当の実在であることを知らしめたいのでございます。

あなたによって用意された自我の深奥を知り、あなたとの霊的な絆を理解すれば、子等も内なる霊力を発揮できることになります。それは波涛のごとく湧き出て、あなたの顕現をより大きなものとすることでございましょう。

かくして各自の霊的資質がより大きく発揮され、明るさを増したイルミネーションが生活の中にみなぎり、それまで真理を見る目を曇らされていた暗闇を取り除いてくれることでございましょう。

わたしたちは、援助を必要とする者すべてに手を差しのべ、彼らを悩ます問題のすべてに解決をもたらす知識と悟りの道へ導き、気弱さと煩悶のさ中にあるときに元気づけてくれる力を与え、あなたが常に彼らとともにおられることを知らしめてあげたいと祈るものです。

ここに、あなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

第4章 すべての病気にそれなりの治療法があります
シルバーバーチにとっては、霊媒と心霊治療家と語り合うことほど楽しいことはなかったようである。霊媒は愛する人を失った者に死後の存続の証拠を提供し、治療家は、医学がどう試みても治せない患者を完治させ、あるいは幾らかでも改善してあげることができるからである。

世界にその名を知られていたハリー・エドワーズ氏が当時の助手のバートン夫妻とともにハンネン・スワッファー・ホームサークルを訪れた時も、シルバーバーチは温かく迎えた。氏は今はもうこの世の人ではないが、氏の名前を冠した治療所Harry Edwards Healing Sanctuaryはブランチ夫妻Ray and Joan Branchに引き継がれて、今も同じShere,Surreyで治療活動を行っている。

まずシルバーバーチから語りかけた。

「これまでに成し遂げられたことは確かに立派ですが、まだまだ頂上は極められておりません。あなた方のこれまでの努力が、今まさに花開かんとしております。これまでのことは全てが準備でした。バプテスマのヨハネがナザレのイエスのために道を切り開いたように、これまでのあなた方の過去は、これから先の仕事のため、つまり、より大きな霊力が降下してあなた方とともに活動していくための準備期間でした。

ほぼ完ぺきの段階に近づいている、あなた方三人の信頼心と犠牲的精神とそれを喜びとする心情は、それみずからが実りをもたらします。霊の力と地上の力との協調関係がますます緊密となり、それがしばしば“有り得ぬこと”を成就しております。条件が整った時に起きる、その奇跡的治癒のスピードに注目していただきたいと思います」

エドワーズ「何度も目(ま)のあたりにしております」

「大いなる進歩がなされつつあること、多くの魂に感動を与え、それが誘因となって、さらに多くの人々にも、その次元での成功(※)をおさめる努力がなされつつあります。目標をいつもその一点に置いてください。すなわち魂を生命の実相に目覚めさせることです。それがすべての霊的活動の目標――大切な目標です。

※――病気快癒の体験が魂の琴線に触れ、生命の実相に目覚めること。

ほかのことは一切かまいません。病気治療も、霊的交信を通じての慰めも、さまざまな霊的現象も、究極的には人間が例外なく大霊の分霊であること、すなわち今この時点においても霊的存在であるというメッセージに目を向けさせてはじめて意義があり、大霊から授かった霊的遺産を我がものとし、天命を成就するためには、ぜひともその理解が必要なのです。

それが困難な仕事であることは、わたしもよく承知しております。が、偉大な仕事ほど困難が伴うものなのです。霊的な悟りを得ることは容易ではありません。とても孤独な道です。それは当然でしょう。もしも人類の登るべき高所が、いとも簡単にたどり着くことができるとしたら、それは登ってみるほどの価値はないことになります。安易さ、呑気、怠惰の中では魂は目を開きません。刻苦と奮闘と難渋の中にあってはじめて目を覚ますのです。これまで、魂の成長がラクに得られるように配慮されたことは一度もありません。

あなた方が治療なさっている様子を見て、いとも簡単に行っているかに思う人は、表面しか見ていない人です。今日の頂上に到達するまでには、その背景に永年の努力の積み重ねがあったことは、人は知りません。

治療を受ける者が満足しても、あなた方は満足してはなりません。一つの山を極めたら、その先にまた別の山頂がそびえていることを自覚しないといけません。いかがでしょう、わたしの話は参考になりますでしょうか。あなた方はすでによくご存知のことばかりでしょう」

エドワーズ「わかってはいても、改めて認識することは大切なことだと思います」

「こうした交霊の場は、地上の人間でないわたしたちが、あなたたち地上の人間に永遠の原理、不滅の霊的真理、顕幽の別なく全ての者が基盤とすべきものについて、認識を新たにさせることに意義があります。物質界に閉じ込められ、物的身体にかかわる必要性や障害に押しまくられている皆さんは、ともすると表面上の物的なことに目を奪われて、その背後の霊的実在のことを見失いがちです。

肉体こそ自分である、今生きている地上世界こそ実在の世界であると思い込み、実際は地上世界は影であり、肉体はより大きな霊的自我の道具にすぎないことを否定することは、いたって簡単なことです。刻々と移りゆく日常生活の中にあって正しい視野を失わず、問題の一つ一つを霊的知識に照らしてみることを忘れなければ、どんなにか事がラクにおさまるだろうにと思えるのですが……残念ながら現実はそうではありません。

こうした霊界との協調関係の中での仕事にたずさわっておられる人でさえ、ややもすると基本的な義務を忘れ、手にした霊的知識が要求する規範にかなった生き方をしていらっしゃらないことがあります。知識は大きな指針となり頼りになるものですが、手にした知識をどう生かすかという点に大きな責任が要請されます。

治療の仕事にたずさわっておられると、さまざまな問題――説明できないことや当惑させられること――に遭遇させられることでしょうが、それは当然のことです。わたしたちは地上と霊界の双方の人間的要素に直面させられどおしです。治癒の法則は完全です。が、それが不完全な道具を通して作用しなければなりません。その、人間を通して働かねばならない法則がいかなる結果をもたらすかを、数学的正確さをもって予測することは不可能ということになります。

最善の配慮をもって立てた計画さえも挫折させるほどの、思わぬ事情が生じることがあります。この人こそと思って選んで開始した何年にもわたる準備計画が、本人の自由意志による我儘(わがまま)によって、水の泡となってしまうこともあります。

しかし、全体としては、霊力の地上への投入が大幅に増えていることを喜んでよいと思います。現実にあなた方が患者の痛みを和らげ、あるいは完治してあげることができているという事実、苦しむ人々を救うことができているという事実、お仕事が広がる一方で衰えることがないという事実、たとえワラをもつかむ気持からではあっても、あなたたちのもとへ大勢の人が救いを求めてくるという事実――こうした事実はみな、霊力がますます広がりつつあることの証拠です。

霊力によって魂がいったん目を覚ましたら、その人は二度と元の人間には戻らないという考えがありますが、わたしもそう考えている一人です。言葉では説明しがたい影響、忘れようにも忘れられない影響を受けているものです」

エドワーズ「その最後の段階で、病気の治癒と真理の理解とがうまく噛み合ってほしいのですが、霊的高揚というのはなかなか望めないように思います」

「見た目にはそうです。が、目に見えない影響力がつねに働いております。霊力というのは磁気性があり、いったん出来上がった磁気的なつながりは、決して失われません。一個の人間があなたの手の操作を受けたということは――“手”といったのは象徴的な意味で用いたまでです。実際には身体に触れる必要はありませんが――その時点でその人との磁気的なつながりが出来たということです。つまり霊の磁力がその人の“地金(じがね)”を引きつけたということで、その関係は二度と切れることはありません。

その状態を霊の目、すなわち霊視力で見ますと、小さな畑の暗い土の中で小さな灯りがともされたようなものです。理解力の最初の小さな炎でしかありません。種子が芽を出して、土中から頭をもたげたようなものです。暗闇の中から初めて出て来たのです。

それがあなた方の為すべき仕事です。からだを治してあげるのは、もとより結構なことです。それに文句をつける人はいません。が、魂に真価を発揮させること、バイブルの言い方を借りれば、魂におのれを見出させることは、それよりはるかに大切です。魂を、本当の悟りの道に導いてあげることになるからです」

サークルのメンバーの一人「心霊治療で治った人の中には、魔術的な力が働いたと考える人がいます。つまり治療家を一種の魔術師と考え、神の道具とは考えないわけです」

「それは困ったことだと思います。なぜかと言いますと、そういう受け取り方は、せっかくのチャンスによる、もっと大切な悟りの妨げになるからです。霊的な力が治療家を通して働いたのだということを教えてあげれば、病気が治ったということだけで全てが終わらずに、それを契機にもっと深く考えるようになるところですが……」

エドワーズ「治療後も霊的な治癒力が働き続けている証拠として、時おり、治療時には効果が見えなかった人から、一年もたってから“あれ以来、次第に良くなってきました”という手紙を受け取ることがあります」

「当然そういうことがあるはずです。霊的な成長だけは、はたからはどうしようもない問題なのです。このことに関しては以前にも触れたことがありますが、治療の成功・不成功は、魂の進化という要素によって支配されております。それが決定的な要素となります。いかなる魂も、治るだけの霊的資格がそなわらないかぎり、絶対に治らないということです。からだは魂の僕です。主人ではありません」

「未発達の魂は心霊治療によって治すことができないという意味でしょうか」

「そういうことです。わたしが言わんとしていることは、まさにそのことです。ただ“未発達”unevolvedという用語は解釈の難しいことばです(※)。わたしが摂理の存在を口にする時、たった一つの摂理のことを言っているのではありません。宇宙のあらゆる自然法則を包含した摂理のことを言います。それが完ぺきな型(パターン)にはめられております。ただし、法則の裏側にはまた別の次元の法則があるというふうに、幾重(いくえ)にも重なっております。しかるに宇宙は無限です。誰にもその果てを見ることはできません。それを支配する大霊と同じく無窮なのです。すると摂理も無限であり、永遠に進化が続くということになります。

物質界の人間は肉体に宿った魂です。各自の魂は進化のいずれかの段階にあります。その魂には過去があります。それを切り捨てて考えてはいけません。それとの関連性を考慮しなくてはなりません。肉体は精神の表現器官であり、精神は霊の表現器官です。肉体は霊が到達した発達段階を表現しております。もしもその霊にとって、次の発達段階にそなえる上での浄化の過程として、その肉体的苦痛が不可欠の要素である場合には、あなた方治療家を通していかなる治癒エネルギーが働きかけても、絶対に治りません。いかなる治療家にも治すことはできないということです。

苦痛も大自然の過程の一つなのです。摂理の一部として組み込まれているのです。痛み、悲しみ、苦しみ、こうしたものはすべて摂理の中に組み込まれているのです。話はまた、わたしがいつも述べていることに戻ってきました。日向と日陰、平穏と嵐、光と闇、愛と憎しみ、こうした相対関係は宇宙の摂理なのです。一方なくしては他方も存在し得ません」

※――用語にあまりこだわらないシルバーバーチは質問者の用語をそのまま用いているが、シルバーバーチが好んで用いるのはundevelopedである。霊性の開発が進んでいないという意味であるが、ここでは肉体的苦痛となって現れている霊的罪障(カルマ)が取り除かれる段階まで浄化されていないという意味であるから、unpurifiedつまり“未浄化”が一ばん適切であろう。霊的浄化が終了すれば、肉体的苦痛となって現れていたカルマが霊性開発の触媒としての用を終えて、その苦痛を取り除いてくれる人との縁を呼び込むという。その辺に奇跡的治癒のメカニズムがある。

メンバーの一人「苦しみは摂理を破ったことへの代償なのですね?」

「摂理を“破る”という言い方は感心しません。“背(そむ)く”と言ってください。たしかに人間は、時として摂理への背反を通して学ぶしかないことがあります。あなた方は完全な存在ではありません。完全性の種子を宿してはいますが、それは、人生がもたらすさまざまな境遇に身を置いて、はじめて成長します。痛みも、嵐も、困難も、苦しみも、病気もないようでは、魂は成長しません。

摂理が働かないことは絶対にありません。もしも働かないことがあるとしたら、大霊は大霊でなくなり、宇宙に調和もリズムも目的もなくなります。その大自然の摂理の正確さと完ぺきさに全幅の信頼を置かないといけません。なぜなら、人間には、宿命的にこれ以上知ることのできないという段階があり、それは信仰心でもって補うほかはないからです。

わたしは、知識を論拠として生まれる信仰はけっして非難しません。わたしが非難するのは、何の根拠もないのに信じてしまう、浅はかな信仰心です。人間は知識のすべてを手にすることができない以上、どうしてもある程度の信仰心で補わざるを得ません。

といって、その結果、同情心も哀れみも優しさも敬遠して、“ああ、これも自然の摂理なのだ。仕方ない”などと言うようになっていただいては困ります。それは間違いです。あくまでも人間としての最善を尽すべきです。そう努力する中において、本来の霊的責務を果たしていることになるのです」

続いて幾つかの質問に答えたあと――

「魂はみずから道を切り開いていくものです。その際、肉体機能の限界が、その魂にとっての限界となります。しかし、肉体を生かしているのは魂です。この二重の関係がつねに続けられております。ただし、優位に立っているのは魂です。魂は絶対です。魂とは、あなたという存在の奥に宿る神であり、神が所有しているものは全てあなたもミニチュアの形で所有しているのですから、それは当然のことです」

エドワーズ「それはとても基本的なことであるように思います。さきほど心霊治療によって治るか治らないかは、患者自身の魂の発達程度にかかっているとおっしゃいましたが、そうなると、治療家は肉体の治療よりも精神の治療の方に力を入れるべきであるということになるのでしょうか」

「訪れる患者の魂に働きかけられないとしたら、ほかに何に働きかけられると思いますか」

エドワーズ「まず魂が癒され、その結果として肉体が癒されるということでしょうか」

「そうです。わたしはそう言っているのです」

エドワーズ「では、私たち治療家は通常の精神面をかまう必要はないということでしょうか」

精神はあくまでも魂の道具にすぎません。したがって魂が正常になれば、おのずと精神状態も良くなるはずです。ただ、魂がその反応を示す段階まで発達していなければ、肉体への反応も起こりません。魂がさらに発達する必要があります。つまり魂の発達を促すための、さまざまな体験をしなければならないわけです。それには苦痛が伴います。魂の進化は安楽の中からは得られないのです」

エドワーズ「必要な段階まで魂が発達していない時は、霊界の治療家にも治す方法はないのでしょうか」

「その点は地上も霊界も同じです」

メンバーの一人「クリスチャン・サイエンス(※)の信仰と同じですか」

※――十九世紀半ばに米国女性メアリー・ベーカー・エディによって創始された宗教で、信仰の力一つで治すことを説き、医薬品を禁じ、霊の働きかけも認めない。

「真理は真理です。その真理を何と名付けようと、わたしたち霊界の者には何の違いもありません。要は中身の問題です。かりにクリスチャン・サイエンスの信者が霊の働きかけを得て治り、それをクリスチャン・サイエンスの信仰のお蔭だと信じても、それはそれでいいのです」

エドワーズ「私たち治療家も少しはお役に立っていることは間違いないと思うのですが、治療家を通して患者の魂にまで影響を及ぼすというのは、とても難しいことです」

「あなた方は、少しどころか、大いに貴重な役割を果たしておられます。第一、あなた方地上の治療家がいなくては、わたしたちも仕事になりません。霊界側から見れば、あなた方はわたしたちが地上と接触するための通路であり、一種の霊媒であり、言ってみればコンデンサーのような存在です。霊波が流れる、その通路というわけです」

エドワーズ「流れるというのは、何に流れるのでしょうか。肉体ですか、魂ですか」

「わたしたちは肉体には関知しません。わたしの方からお聞きしますが、たとえば腕が曲がらないのは、腕の何が悪いのでしょう?」

エドワーズ「生理状態です」

「では、それまで腕を動かしていた健康な活力はどうなったのでしょう?」

エドワーズ「無くなっています。病気に負けて病的状態になっています」

「その活力が再びそこを流れるようになったらどうなりますか」

エドワーズ「腕の動きも戻ると思います」

「その活力を通わせる力はどこから得るのでしょうか」

エドワーズ「私たちの意志ではどうにもならないことです。それは霊界側の仕事ではないかと思います」

「腕をむりやり動かしてみてもダメでしょう?」

エドワーズ「力ではどうにもなりません」

「でしょう。そこで、もしその腕を使いこなすべき立場にある魂が目を覚まして、忘れられていた機能が回復すれば、腕は自然に良くなるということです」

メンバーの一人「治療家の役目は、患者が生まれつき具わっている機能にカツを入れるということになるのでしょうか」

「そうとも言えますが、それだけではありません。というのは、患者は肉体をまとっている以上、当然、波長が低くなっています。それで、霊界からの高い波長の霊波を注ぐには、いったん治療家というコンデンサーにその霊波を送って、患者に合った程度にまで波長を下げる必要があります。そういう過程をへた霊波に対して患者の魂がうまく反応を示してくれれば、その治療効果は電光石火と申しますか、いわゆる奇跡のようなことが起きるわけですが、患者の魂にそれを吸収するだけの受け入れ態勢ができていない時は、何の効果も生じません。たとえば曲がったまま硬直している脚を真っすぐに伸ばしてあげるのは、あなた方ではありません。患者自身の魂の発達程度です」

別のメンバー「神を信じない人でも治ることがありますが……」

「あります。治癒の法則は、神を信じる信じないにおかまいなく働くからです」

「さきほど治癒は魂の進化の程度と関係があるとおっしゃいましたが……」

「神を信じない人でも霊格の高い人がおり、信心深い人でも霊格の低い人がいます。霊格の高さは信仰心の多寡(たか)で測れるものではありません。行為によって測るべきです。

いいですか、あなた方は治るべき条件の整った人を治しているだけです。が、喜んでください。あなた方を通じて、知識と理解と光明へ導かれる人は大勢います。全部は治せなくても、そこには厳然とした法則があってのことですから、気になさらないことです。

と言って、それで満足して、努力することを止めてしまわれては困ります。いつも言っておりますように、大霊の意志は愛の中だけでなく、憎しみの中にも表現されております。晴天の日だけが神の日ではありません。嵐の日にも神の法則が働いております。成功にも失敗にも、それなりの価値があります。失敗なくしては成功もありません」

「信仰心が厚く、治療家を信頼し、正しい知識をもった人でも意外に思えるほど治療に反応を示さない人がいますが、なぜでしょうか。やはり魂の問題でしょうか」

「そうです。最後は同じ問題に帰着します。信仰心や信頼や愛の問題ではありません。魂そのものの問題であり、その魂が進化の過程で到達した段階の問題です。その段階で受けるべきものを受け、受けるべきでないものは受けないということです」

エドワーズ「治療による肉体上の変化は私たちにもわかるのですが、霊的な変化は目で確かめることができません」

「霊視能力者を何人集めても、全員が同じ治療操作を見ることはないでしょう。それほど複雑な操作が行われているのです。かりそめにも、簡単にやっているかに思ってはなりません。物質と霊との相互関係は奥が深く、かつ複雑です。肉体には肉体の法則があり、霊体には霊体の法則があります。両者ともそれぞれにとても複雑なのですから、その両者をうまく操る操作は、それはそれは複雑になります。むろん全体に秩序と調和が行きわたっておりますが、法則の裏に別の次元の法則があり、そのまた裏側にさらに別の次元の法則があり、それらが複雑にからみ合っております」

バートン夫人(※)「肉体上の苦痛は魂に影響を及ぼさないとおっしゃったように記憶しますけど……」

※――オリーブ・バートン女史は夫君のジョージ・バートン氏とともに永年エドワーズ氏のもとで助手として活躍し、今は第一線を退いているが、多彩な霊能の持ち主で、エドウィーナという女の子が生まれる直前にその子の守護霊からインスピレーションによる童話を受け取り、それが「子供のための心霊童話」のタイトルで出版され、今なおロングセラーを続けている。いずれ紹介する予定でいる。

「そんなことを言った憶えはありません。肉体が受けた影響はかならず魂にも及びますし、反対に魂の状態はかならず肉体に表れます。両者を切り離して考えてはいけません。一体不離の関係にあります。つまり肉体も自我の一部と考えてよろしい。肉体なしには自我の表現はできないのですから。本来は霊的存在です。肉体に生じたことは霊にも及びます」

バートン夫人「では、肉体上の苦痛が大きすぎて見るに見かねる時、もしも他に救う方法がないとみたら、魂への悪影響を防ぐために故意に死に至らしめるということも、そちらでなさることがあるのでしょうか」

「それは患者によります。実際は人間の気まぐれから、自然法則の順序を踏まずに、無理やり肉体から分離させられていることの方が多いのですが、それさえなければ、霊は、摂理にしたがって、死ぬべき時に自然に肉体から離れるものです」

バートン夫人「明らかに霊界の医師が故意に死なせたと思われるケースがありますけど……」

「あります。しかし、それは“埋め合わせ(バランス)の法則”にのっとって、周到な配慮の上で行っていることです。それでもなお、魂にショックを与えます。そう大きくはありませんが……」

バートン夫人「肉体を離れるのが早すぎたために生じるショックですか」

「そうです。物事にはかならず償いと報いとがあります。不自然な死をとげると、かならずその不自然さに対する報いがあり、同時にそれを償う必要性が生じます。それがどういう形を取るかは個人によって異なります。あなた方治療家の役目は、患者の魂にそれだけの資格ができている場合に、苦痛を和らげてあげることです。その間に調整がなされ、言わば衝撃が緩和されて、魂がしかるべき状態に導かれます」

エドワーズ「絶対に生き永らえる望みなしと判断した時、少しでも早く死に至らしめるための手段を講じることは許されることでしょうか、許されないことでしょうか」

「わたしはあくまで“人間は死すべき時が来て死ぬべきもの”と考えております」

エドワーズ「肉体の持久力を弱めれば死期を早めることになります。痛みと苦しみが見るに見かね、治る可能性もない時、死期を早めてあげることは正しいでしょうか。

「あなた方の辛い立場はよく理解できます。また、わたしとしても好んで冷たい態度を取るわけではありませんが、法則はあくまでも法則です。肉体の死はあくまで魂にその準備ができた時に来るべきです。それはちょうど、柿が熟した時に落ちるのと同じです。熟さないうちにもぎ取ってはいけません。

わたしはあくまでも自然法則の範囲内で講ずべき手段を指摘しております。たとえば、薬や毒物ですっかり身体をこわし、全身が病的状態になっていることがありますが、身体は本来そんな状態になってはいけないのです。身体の健康の法則が無視されているわけです。そういう観点から考えていけば、どうすればよいかは、おのずと決まってくると思います。

何事も自然の摂理の範囲内で処理すべきです。本人も医者も、あるいは他の誰によっても、その摂理に干渉すべきではありません。もちろん、良いにせよ悪いにせよ、何らかの手を打てば、それなりの結果が生じます。ですが、それが本当に良いことか悪いことかは、霊的法則にどの程度まで適(かな)っているかによって決まることです。つまり肉体にとって良いか悪いかではなくて、魂にとって良いか悪いかという観点に立って判断すべきです。魂にとって最善であれば、肉体にとっても最善であるに違いありません」

同じくエドワーズ氏とバートン夫妻が出席した別の日の交霊会で、シルバーバーチはこう強調した。

「霊力の本当の目的は、病気が縁となってあなた方のもとを訪れる人たちの魂を目覚めさせることにあります。自分が本来は霊的な存在であり、物的身体は自分ではないことに気づかないかぎり、その人は実在に対してまったく無関心のまま地上生活を送っていることになります。言わば影の中で幻影(まぼろし)を追いかけながら生きていることになります。実在に直面するのは、真の自我すなわち霊的本性に目覚めた時です。

地上生活の目的は、帰するところ自我を見出すことです。なぜなら、いったん自我を見出せば、それからは(分別のある人ならば)内部に宿る神性をすすんで開発しようとするからです。残念ながら地上の人間の大半は、真の自分を知らず、したがって不幸や悲劇にあうまでは、自分の霊的本性に気づかないのが実情です。光明の存在に気づくのは人生の闇の中でしかないのです。

あなた方がお会いになるのは、大半が心身に異常のある方です。もしも治療を通じてその人たちに自分が霊的存在であるとの自覚を植えつけることができたら、もしもその人たちの霊的本性を目覚めさせることができたら、もしも内部の神性の火花を点火させることができたら、やがてそれが炎となって、その明かりが生活全体に輝きをもたらします。

もとよりそれは容易なことではありません。でも、たとえ外(はず)れた関節を元どおりにしてあげるだけのことであっても、その治療を通じてその人に自分が肉体をそなえた霊であり、霊をそなえた肉体ではないことを理解させることに成功すれば、あなた方はこの世で最大の仕事をしていることになるのです。

わたしたちは肉体そのものよりも、その奥にある霊の方により大きな関心を向けていることを、よく理解していただかねばなりません。霊が正常であれば肉体も健康です。霊に異常があれば、つまり霊と精神と肉体との関係が一直線で結ばれていなければ、肉体も正常では有り得ません。この点をよく理解していただきたいのです。なぜなら、それはあなた方がご苦労なさっているお仕事において、あなた方自身にも測り知ることのできない側面だからです。完治した人、痛みが和らいだ人、あるいは回復の手応えを感じた人があなた方へ向ける感謝の気持も礼も、魂そのものが目覚め、内部の巨大なエネルギー源が始動しはじめた事実にくらべれば、物のかずではありません。

あなた方は容易ならざるお仕事にたずさわっておられるのです。犠牲と献身を要求される仕事です。困難のさ中において為される仕事であり、その道は容易ではありません。しかし、先駆者のたどる道はつねに容易ではありません。奉仕的な仕事には障害はつきものなのです。かりそめにもラクな道、障害のない道を期待してはなりません。障害の一つ一つ、困難の一つ一つが、それを乗り越えることによって、霊の純金を磨き上げるための試練であると心得てください」

エドワーズ「魂の治療の点では、私たち治療家の役割よりも霊界の治療家の役割の方が大きいのでしょうか」

「当然そうなりましょう」

エドワーズ「そうすると、私たちが果たしている役目は小さいということでしょうか」

「小さいとも言えますし、大きいとも言えます。問題は波長の調整にあります。大きく分けて、治療には二通りの方法があります。一つは治癒エネルギーの波長を下げて、それを潜在エネルギーの形で治療家に届けます。それを再び活エネルギーに還元して、あなた方治療家が使用するという方法です。もう一つは、特殊な霊波を直接患者の意識の中枢に送り、魂に先天的にそなわっている治癒力を刺激して、魂の不調、すなわち病気を払いのける方法です。こう述べてもお分かりにならないでしょう?」

エドワーズ「いえ、理屈はよく分かります。ただ、現実に適用するとなると……」

「では、説明を変えてみましょう。まず、そもそも生命とは何かという問題ですが、これは地上の人間にはまず理解できないと思います。なぜかと言うと、生命とは本質において物質と異なるものであり、いわゆる理化学的研究の対象とはなり得ないものだからです。

で、わたしはよく、生命とは宇宙の大霊のことであり、大霊とはすなわち大生命のことだと申し上げるのですが、その意味は、人間が意識をもち、呼吸し、歩き、考える、その力、また樹木が若葉をつけ、鳥がさえずり、花が咲き、岸辺に波が打ち寄せる、そうした大自然の脈々たる働きの背後にひそむ力こそ、宇宙の大霊すなわち神なのだというのです。同じ霊力の一部であり、一つの表現なのです。

あなた方が今ここにこうして生きていらっしゃる事実そのものが、あなた方も霊であることを意味します。ですから、同じく霊である患者の霊的進化の程度に応じたさまざまな段階で、その霊力を注入するというのが心霊治療の本質です。

ご承知の通り、病気には魂に起因するものと、純粋に肉体的なものとがあります。肉体的なものは治療家が直接手を触れる必要がありますが、霊的な場合は今のべた生命力を活用します。ただし、この方法にも限界があります。あなた(エドワーズ)の進化の程度、協力者のお二人(バートン夫妻)の進化の程度、それに治療を受ける患者自身の進化の程度、この三つが絡みあって自然にできあがる限界です。また、いわゆる因縁(カルマ)というものも考慮しなくてはなりません。因果律です。これは時と場所とにおかまいなく働きます」

エドワーズ「魂の病にもいろいろあって、それなりに肉体に影響を及ぼしていると思いますが、そうなると、病気一つ一つについて質の異なる治癒エネルギーが必要なのではないかと想像されますが……」

「まったくおっしゃる通りです。人間は三位一体の存在です。一つは今のべた霊(スピリット)、これが第一原理です。存在の基盤であり、種子であり、すべてがそこから出ます。次に、その霊が精神(マインド)を通じて自我を表現します。これが意識的生活の中心となって、肉体(ボディ)を支配します。この三者が融合し、互いに影響しあい、どれ一つ欠けても、あなたの地上での存在は無くなります」

エドワーズ「一方通行ではないわけですね?」

「そういうことです。霊的ならびに精神的発達の程度にしたがって肉体におのずから限界が生じますが、それを意識的鍛練によって、信じられないほど自由に肉体機能を操ることができるものです。インドの行者などは、西洋の文明人には想像もできないようなことをやってのけますが、精神が肉体を完全に支配し思いどおりに操れるように鍛練したまでのことです」

エドワーズ「心霊治療が魂を目覚めさせるためのものであり、霊が第一原理であれば、霊界側からの方がよほどやり易いのではないでしょうか」

「そう言えそうですが、逆の場合の方が多いようです。というのは、死んでこちらへ来た人間でさえ霊的波長よりは物的波長の中で暮らしている霊が多いという事実からもお分かりの通り、肉体をまとった人間は、よほど発達した人でないかぎり、たいていは物的波長にしか反応を示さず、わたしたちが送る波長にはまったく感応しないものです。そこであなた方地上の治療家の存在が必要となってくるわけです。霊的波長にも物的波長にも感応する連結器というわけです。

治療家にかぎらず、霊能者と呼ばれている人が、つねに心の修養を怠ってはならない理由はそこにあります。霊的に向上すれば、それだけ仕事の範囲が広がって、より多くの価値ある仕事ができるようになります。そのように法則ができ上がっているのです。

ですが、そういう献身的な奉仕の道を歩む人は、必然的に孤独な旅を余儀なくさせられます。ただ一人、前人未踏の地を歩みながら、のちの者のための道しるべを立てて行くことになります。あなたにはこの意味がよくお分かりでしょう。すぐれた特別の才能には、それ相当の義務が生じます。両手に花とはまいりません」

エドワーズ「さきほど治癒エネルギーのことを説明された時、霊的なものが物的なものに転換されるとおっしゃいましたが、その転換はどこで行われるのでしょうか。どこかで行われているはずですが……」

「使用するエネルギーによって異なります。信じられない方もいらっしゃるかも知れませんが、いにしえの賢人が指摘している“第三の目”とか太陽神経叢などを使用することもあります(※)。そこが霊と精神と肉体の三者が合一する“場”なのです。これ以外にも患者の潜在意識を利用して、健康な時と同じ生理反応を起こさせることによって、失われた機能を回復させる方法があります」

※――いずれもヨガでいうチャクラに相当し、全部で七つある。この分野ではセオソフィーの研究が進んでいる。

エドワーズ「説明されたところまでは分かるのですが、その“中間地帯”がどこにあるかがよく分かりません。どこで物的状態と霊的治癒エネルギーとつながるのか、もっと具体的に示していただきたいのです。どこかで何らかの形で転換が行われているに違いないのですが……」

「そんな具合に迫られると、どうも困ってしまいますね。弱りました。わかっていただけそうな説明がどうしてもできないのです。強いてたとえるならば、さっきもいったコンデンサーのようなことをするのです。コンデンサーというのは電流の周波を変える装置ですが、大体あんなものが用意されていると想像してください。エクトプラズムを使用することもあります。ただし、実験会での物質化現象や直接談話などに使用するものとは形態が異なります。もっと微妙な、目に見えない……」

エドワーズ「一種の“中間物質”ですか」

「そうです。霊の念波を感じやすく、しかも物質界でも使用できる程度の物質性をそなえたもの、とでも言っておきましょうか。それと治療家のもつエネルギーが結合してコンデンサーの役をするのです。そこから患者の松果体(※)や太陽神経叢を通って体内に流れ込みます。その活エネルギーは全身に行きわたります。電気的な温もりを感じるのはその時です。

知っておいていただきたいのは、とにかくわたしたちの治療法には決まった型というものはないということです。患者によってみな治療法が異なるのです。また、霊界から次々と新しい医学者が協力にまいります。そして新しい患者は新しい実験台として臨み、どの放射線を使用したらどういう反応が得られたかを、細かく検討します。なかなか捗(はかど)らなかった患者が急に快方へ向かいはじめることがあるのは、そうした霊医の研究成果の表れです。また、治療家のところへ行く途中で治ってしまったりすることがあるのも、同じ理由によります。実質的な治療というのは、あなた方が直接患者に接触する以前にすでに霊界側で大部分が済んでいると思って差しつかえありません」

※――脊柱の先端と二つの大脳葉にはさまれた、直径四ミリ、長さ六ミリほどの円柱形の器官で、霊界との連絡に大切な機能を果たしている。松果腺とも。詳しくはルース・ウェルチ著『霊能開発入門』参照。

エドワーズ「そうすると、もう一つ疑問が生じます。いま霊界にも大勢の医者がいると申されましたが、一方で遠隔治療を受けながら、別の治療家のところへ行くという態度は、治療にたずさわる霊医にとって困ったことになりませんか」

「結果をみて判断なさることです。治ればそれでよろしい」

エドワーズ「なぜそれでいいのか、理屈が分からないと、われわれ人間は納得できないのですが……」

「場合によってはそんなことをされると困ることもありますが、まったく支障にならないこともあります。患者によってそれぞれ事情が違うわけですから、一概に言い切るわけにはまいりません。

あなただって、患者を一目見ただけで、これは自分に治せる、とは判断できますまい。治せるか否かは患者と治療家の霊格によって決まることですから、あなたには八分どおりしか治せない患者でも、他の治療家のところへ行けば全治するかも知れません。条件が異なるからです。

その背景、つまり霊界側の複雑な事情を知れば知るほど、こうだ、ああだと、断定的な言葉は使えなくなるはずです。宇宙の法則には無限の奥行きがあります。あなた方人間の立場としては、正当な動機と奉仕の精神にもとづいて、精いっぱい人事を尽されればいいのです。こうすれば治る、これでは治らない、といった予断のできる者はいません」

エドワーズ「細かい点はともかくとして、私たちが知りたいのは、霊界の医師は、必要とあらばどこのどの治療家にも援助の手を差しのべるのかということです」

「霊格が高いことを示す一ばんの指標は、人を選り好みしないということです。わたしたちは、必要とあらばどこへでも出かけます。それが高級神霊界の鉄則なのです。あなた方も患者を断るようなことは決してなさってはいけません。精神的にも霊的にも、すでに本質において永遠の価値をもった成果をあげておられます。人間的な目で判断してはいけません。あなた方には物事のウラ側を見る目がないのです。したがって、ご自分のなさったことがどんな影響を及ぼしているかもお分かりになりません。

しかし実際には、ご自分で考えておられるよりはるかに大きな貢献をなさっております。あなた方の貢献は、地上で為しうる最大のものに数えられることに自信をもってください。一生けんめい治療なさってもなお反応がなくても、それはあなたの責任ではありませんし、協力者(バートン夫妻)の責任でもありません。すべては自然の摂理の問題です。ご承知のように、奇跡というものは存在しません。すべては無限の愛と無限の叡智によって支配されているのです。

あなたと、協力者のお二人に申し上げます。常に、霊の光に照準を当てるように心がけてください。この世的な問題(※)に煩わされてはなりません。これまでに幾つもの困難に遭遇し、これからも行く手に数々の困難が立ちはだかることでしょうが、奉仕の精神に徹しているかぎり、克服できない障害はありません。すべてが克服され、奉仕の道はますます広がっていくことでしょう。

あなた方のお仕事は、人々に苦痛の除去、軽減、解放をもたらすだけではありません。あなた方の尊い献身ぶりを見て、それを見習おうとする心を人々に植えつけています。そしてそれが、あなた方をさらに向上の道へと鼓舞することになります。わたしたちは、まだまだ霊的進化の頂上をきわめたわけではありません。まだまだ、先ははるかです。なぜなら、霊の力は大霊と同じく無限の可能性を秘めているからです」

※――エドワーズの治療所は治療費を取らず自発的な献金でまかなっていたために、慢性的な資金不足の問題をかかえ、借り入れ金の返済も滞(とどこお)りがちで、運営の危機に直面したことが何度かある。

サークルのメンバー「患者としては、あくまでも一人の治療家のお世話になるのが好ましいのでしょうか」

「それは一般論としてはお答えしにくい問題です。なぜかと言いますと、大切なのはその患者の霊的状態と治療家の霊的状態との関連性だからです。治療法にも、いろいろと種類があることを忘れてはなりません。霊的な力をまったく使用しないで治している人もいます。自分の身体のもつ豊富な生体エネルギーを注入することで治すのです。霊の世界とは何の関わりもありません。それも治療法の一つというにすぎません。

ですから、患者の取るべき態度について戒律をもうけるわけにはいかないのです。ただし、一つだけ好ましくない態度を申せば、次から次へと治療家を渡り歩くことです。それでは治療家にちゃんとした治療を施すチャンスを与えていないことになるからです。わたしたち霊界の者が何とか力になってあげたいと思って臨んでも、そういう態度で訪れる人のまわりには一種のうろたえ、感情的な迷いの雰囲気が漂い、それが霊力の働きかけを妨げます。ご承知のように、霊力がいちばん働きやすいのは、受け身的な穏やかな雰囲気の時です。その中ではじめて魂が本来の自分になりきれるからです」

エドワーズ「一人の治療家から直接の治療を受けながら、別の治療家から遠隔治療を受けるというのはいかがでしょうか」

「別に問題はありません。現にあなたがそれを証明しておられます。他の治療家に治療してもらっている人をあなたが治されたケースがいくつもあります」

バートン氏「私は祈りの念が霊界へ届けられる経路について考えさせられることがよくあります。祈り方にもいろいろあり、とくに病気平癒の祈願がさかんに行われております。その一つとして祈念する時間が長いほど効果があると考えている人がいます。いったい祈りは霊界においてどういう経路で届いているのかを知りたいのです」

「この問題も、祈りの動機と祈る人の霊格によります。ご承知のとおり宇宙はすみからすみまで法則によって支配されており、偶然とか奇跡とかは絶対に起こりません。もしもその祈りが利己心から発したものであれば、それはそのままその人の霊格を示すものであり、そんな人の祈りで病気が治るものでないことは言うまでもありません。

反対に、自分を忘れ、ひたすら救ってあげたいという真情から出たものであれば、それはその人の霊格が高いことを意味し、それほどの人の祈りは高級神霊界にも届きますし、自動的に治癒効果を生む条件を作り出す力もそなわっています。要するに祈る人の霊格によって決まることです」

バートン氏「祈りはその人そのものということでしょうか」

「そういうことです」

バートン氏「大主教による仰々(ぎょうぎょう)しい祈りよりも、素朴な人間の素直な祈りの方が効果があるということでしょうか」

「地位には関係ありません。肝心なのは祈る人の霊格です。大主教が霊格の高い人であれば、その祈りには霊力がそなわっていますが、どんなに立派な僧衣をまとっていても、スジの通らない教義に凝り固まった人間でしたら、何の効果もないでしょう。

もう一ついけないのは、集団で行う紋切り型の祈りです。意外に効果は少ないものです。要するに大霊は肩書や人数ではごまかされないということです。祈りの効果を決定づけるのは、祈る人の霊格です。

祈りとは、本来、波長をふだんより高めるための霊的な行為です。波長を高め、人のために役立ちたいと祈る行為は、それなりの効果を生み出します。あなたが抱える問題は、大霊は先刻ご承知です。宇宙の大霊であるがゆえに、宇宙の間の出来事のすべてに通じておられます。大霊とは大自然の摂理の背後の叡智です。したがって、その摂理をごまかすことはできません。大霊をごまかすことはできないのです。あなた自身さえごまかすことはできません」

バートン夫人「治療の話に戻りますが、患者が信仰心をもつことが不可欠の条件だという人がいますし、関係ないと主張する人もいます。どうなのでしょうか」

「心霊治療にかぎらず、霊的なことには奥には奥があって、一概にイエスともノーとも言い切れないことばかりです。信仰心があった方が治りやすい場合がたしかにあります。霊的知識にもとづいた信仰心は、魂が自我を見出そうとする一種の憧憬ですから、魂に刺激を与えます。あくまで自然の摂理に関する知識にもとづいた信仰のことであって、何か奇跡でも求めるような盲目の信仰ではダメです。反対に、ひとかけらの信仰心がなくても、魂が治るべき段階まで達しておれば、かならず治ります」

バートン夫人「神も仏もいないと思っている人が治り、立派な心がけの人が治らないことがあって、不思議でならないことがあります」

「その線引きは魂の霊格によって決まります。人間の観察はとかく表面的になりがちで内面的でないことが多いことを忘れてはなりません。魂そのものが見えないために、その人がそれまでにどんなことをしてきたかが判断できないのです。治療の効果を左右するのは、あくまでも患者の魂です。

ご承知のとおり、わたしも何千年か前に地上でいくばくかの人間生活を送ったことがあります。そして、死後こちらでそれよりはるかに長い霊界生活を送ってまいりましたが、その間、わたしが何にもまして強く感じているのは、大自然の摂理の正確無比なことです。知れば知るほどその正確さ、その周到さに驚異と感嘆の念を強くするばかりです。一分(ぶ)の狂いも不公平もありません。地上だけではありません。わたしたちの世界でも同じです。差引勘定をしてみれば、きちんと答えが合います。

迷わず、ただひたすら心に喜びを抱いて奉仕の精神に徹して仕事をなさることです。そして、あとのことは全て大霊にお任せすることです。それから先のことは人間の力の及ぶことではないのです。誰が治り誰が治らないかは、あなた方が決めるのではありません。いくら願ってみても、それは叶わないことです。あなた方は、所詮、わたしたちスピリットの道具にすぎません。そして、わたしたちも又、さらに高い神霊界のスピリットの道具にすぎません。自分より偉大なる力がすべてを良きに計らってくださると信じて、すべてをお任せすることです」

最後に、別の日の交霊会でふたたび心霊治療が話題となった時にシルバーバーチが述べた注目すべき霊言を紹介しておこう。

パキスタンから招待された人がこう尋ねた。

「一見なんでもなさそうな病気がどうしても治らないことがあるのはなぜでしょうか」

「不治の病というものはありません。すべての病気にそれなりの治療法があります。宇宙は単純にして複雑です。深い奥行きがあるのです。法則の奥にまた法則があるのです。知識は新しい知識へ導き、その知識がさらに次の知識へと導きます。理解には際限がありません。叡智も無限です。こんなことを申し上げるのは、いかなる質問にも簡単な答えは出せないということを知っていただきたいからです。すべては魂の本質、その構造、その進化、その宿命にかかわることだからです。

地上の治療家から、よくこういう言い分を聞かされます――“この人が治ったのに、なぜあの人は治らないのですか。愛と、治してあげたい気持がこれほどあるのに治らなくて、愛を感じない、見ず知らずの人が簡単に治ってしまうことがあるのは、なぜですか”と。

そうしたことはすべて法則によって支配されているのです。それを決定づける法則は魂の進化と関係しており、魂の進化は現在の地上生活だけで定まるのではなく、しばしば前世での所業が関わっていることがあります。

霊的な問題は地上的な尺度では計れません。人生のすべてを物質的な尺度で片づけようとすると誤ります。しかし、残念ながら、物質の中に閉じ込められているあなた方は、とかく霊の目をもって判断することができず、それで、一見したところ不正と不公平ばかりが目につくことになります。

大霊は完全なる公正です。その叡智は完ぺきです。なぜなら、完全なる摂理として作用しているからです。あなた方の理解力が一定の尺度に限られている以上、宇宙の全知識をきわめることは不可能です。

どうか“不治の病”という観念はお持ちにならないでください。そういうものは存在しません。治らないのは、往々にしてその人の魂がまだそうした治療による苦しみの緩和、軽減、安堵(あんど)、ないしは完治を手にする資格を身につけていないからであり、そこに宿業(カルマ)の法則が働いているということです。こう申し上げるのは、あきらめの観念を吹聴(ふいちょう)するためではありません。たとえ目に見えなくても、何ごとにも摂理というものが働いていることを指摘したいからです」

祈り
無知に代わって知識が支配し……

ああ、大霊よ。あなたはあらゆる定義と説明を超越した存在にあらせられます。なぜならば、あなたの本性は窮まるところを知らないからでございます。いかなる書物も、いかなる教会も、いかなる建造物も、いかなる言語も、あなたのすべてを包摂することはできませんし、あなたのすべてを説き明かすこともできません。

遠い過去において、特殊な才能に恵まれた数少ない人たちは、見えざる世界からのインスピレーションを受け取り、天上界とその住民の生活を垣間(かいま)見ることができました。しかし、それにも、その霊能者たちの知的ならびに霊的進化の程度による限界があり、したがってあなたについての理解には歪(ゆが)みがあり、不正確であり不完全でした。

今わたしどもは、少数ではなく大勢の霊能者を通して、全大宇宙の背後に控える無限なる精神についての、より実相に近い概念を啓示せんと努力しているところでございます。それは、絶対的支配力を有する大自然の摂理であり、その摂理には例外もなく、変更もなく、廃止もございません。

その絶対的摂理が全生命を管理しているとわたしたちは説くのです。物質の世界に顕現している部分だけに限りません。生命活動のあらゆる側面を統御し、すべてがその支配下にあると説いているのでございます。

かくして無限なる精神によって創案され、愛と叡智を通して働いている摂理は、宇宙的生命活動のすべてを認知していることになり、地上に生活する人類もまた、その例外ではございません。しかも、全生命を創造したあなたの霊が地上の子等の一人一人に例外なく宿っているのでございます。その絆は永遠です。子等をあなたと結びつけている絆は、墓場を超えて彼岸の霊界においてもなお続くのでございます。

もしも幸いにしてあなたの子等があなたを正しく理解すれば、彼らみずからを理解することになり、自分自身の存在の中にあなたの完全性のひな型が写し出されていることを知ることになるのですが、それがまだ実現される段階に至っていないのが残念でなりません。より大きな表現へ向けて呼び覚まされるのを待ちながら居眠りの状態で潜在している、言葉では言い表せないミニチュアのあなたなのでございます。

生命の法則をより多く知るにつれて、あなたの子等はその内部の神性をより大きく発現できるような生活が営めることになりましょう。

霊の資質を開拓することにより、高遠の世界の進化せる霊との、より豊かな交わりが得られ、それまでに蓄積した知識と教養と叡智をふんだんにもたらしていただき、地上をより公正に、より豊かに、そしてより美しくする上で力となってくださることでしょう。

そうなることが、無意味な悲劇と不幸と悩みとを無くすことになりましょう。なぜなら、無知に代わって知識が支配し、健康が病気を駆逐し、慰めが悲哀と所を代え、永きにわたって暗黒が支配してきた場所に真理の光が灯されることになるからでございます。

その目標に向かってわたしどもは、同じく地上の子等のために献身する他の霊団とともに、努力しているところでございます。

ここにあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

第5章 生命の根元、存在の根元、永遠性の根元は“霊”の中にあります
春という季節は、シルバーバーチが大自然の生命の復活の象徴としてよく引き合いに出す季節で、ある日の交霊会でも、改めてこのように述べた。

「この季節は、わたしの心が小踊りして、思わず賛歌を口ずさみたくなる時期です。絶頂期(夏)まではまだ間があるとはいえ、自然界が美しく着飾る時期だからです。この芽吹きの中――伸びよう、成長しよう、広がろうとする生命の営みの中にこそ、大霊が宇宙を支配していることの証を見るのです。いずこを見ても、花が、葉が、そして草が、大自然の着実な営みへの賛辞を手向(たむ)けております。大霊の隔てなき恩寵をこれ以上わかりやすく教えてくれるものはありませんし、これほど明確に摂理の狂いない働きを認識させてくれるものはありません。

こうした春の営みを見て皆さんが万事うまく行くのだという安心と自信を抱き、こうして地上へ生まれてきたという事実の中に、あなた方を同胞のために活用せんとする愛と叡智の働きを感じて有り難く思わねばならない理由があるのです。大自然の魔術のように思えて、実は絶対不変の摂理の表れであり、それは無窮の過去から寸分の狂いもなく働き、これから無窮の未来へ向けて地上の人間生活の中で狂いなく展開していくことを知って、身も心も喜びに沸き立つ思いをするようでないといけません」

ここでメンバーの一人が健康を害している友人のことで質問したのに対して――

「自然が要求するものを無視するわけにはまいりません。人間も霊的存在であるとはいえ、今生きているのは物質界です。あなたの霊にとっては、その身体を通して表現するしかなく、その身体は物質で出来ているのですから、ある一定の物質的必要性に応じざるを得ません。運動も必要です。食べるものも必要です。身を宿すところも必要です。光も空気も要りますし、適度の手入れも必要です。疲れた時は休ませてやらねばなりません。器官ないし機能に障害が生じれば、治さなくてはなりません。そうした必要性に無関心でいると、そのうちそのツケが回ってきます。

たとえ医者から薬という薬を貰えるだけ貰っても、それは大霊が用意している治療法の代用にはなりません。痛みは軽減するかも知れません。一時しのぎにはなるでしょう。が、本当の意味での治療にはなりません。痛みを止めることはできます。和らげることはできます。反対に、刺激を与えて興奮させることもできます。が、身体が要求しているのは大自然が与えてくれるものです。わたしが春がもたらしてくれるものを精いっぱい活用しなさいと申し上げるのは、そのためです。

新しい生命の芽生え――それは霊性の発現にほかなりません――これには大自然の強烈な回復力が秘められております。それをご自分の身体に摂取すれば、バッテリーに充電することになります。冬の間どうしても弱まりがちな生命力が増強されます。その時点でしっかりと貯えておけば、夏、秋と過ごし、やがて大自然が――物的活動に関するかぎり――眠りにつく冬に入っても、安心して休めることになります。大霊が有り余るほど用意してくださり、自由に摂取してほしいと望んでおられるものを、存分に我がものとなさることです」

「そうしたことが聡明な人たちでも理解できないのはなぜでしょうか」

「頭脳は聡明でも、心に理解力が欠けている人がよくいるものです。“童子のごとくあらずんば……”といいます。大いなる真理は往々にして単純・素朴であり、心が素直で、ややこしい理屈を必要としない人は、直観的に理解できるものです。

頭脳が明晰すぎると、とかく単純な真理が幼稚に思えて、捨ててしまう傾向があります。これは危険なことです。脳が活発すぎて、単純に片づくものでは物足らなくなり、何やら複雑なものだと脳が仕事らしい仕事を得てうれしくなるのです。本当は、身体が健康であればあるほど、その要求するものが自然の理に適(かな)ったものになるように出来ているのです」

「すると脳の働きも理に適ったものになるわけですね?」

「その通りです。そして、それだけ霊性が発揮されやすくなります。その辺が狂うと、次から次へと厄介なことが生じるようになります。健康な身体ほど、精神と霊が顕現しやすいのです。所詮、地上ではその身体を通す以外に、自我の発現の手段はありません。動物をごらんなさい。ネコは暖かい日向に寝そべり、太陽が動くと、そちらへ移動します。本能的に単純な真理を知っているのです。

不幸にして人類は、文明というものに毒されて、ますます人工的になりつつあります。タバコを吸いすぎます。アルコールを飲みすぎます。刺激物を取りすぎます。こうしたものはみないけません。大自然の要求どおりに生きていれば、身体はそうしたものを要求しません。不自然な生き方をしていると、そういった不自然なものを摂取しなくてはならなくなるのです。食欲をそそるものが要るようになるのです」

話題が変わって――

別のメンバー「スピリチュアリズムの現状に満足なさっておられますか」

「満足することは、まずありません。いかなる分野にせよ、真理が広まっていくのを見るのはうれしいことです。が、皆さんによる組織的活動は今、一つの難しい、魅力に乏しい局面にさしかかっております。勃興当初(十九世紀半ば)の、あの輝かしい魅力も次第に色あせ、方向性が十分に定まっていないようです。わたしが見るかぎりでは、霊的真理の存在を皆目知らずにいる人々に、もっともっと積極的な働きかけが必要ですし、すでに手にしておられる人も、さらに奥の深い真理の啓示を受ける受容力の開発を心がけるべきです。主要道路だけでなく、横道に入ってみることも、これから大いに要請される仕事です。

“スピリチュアリズム”の名称で呼ばれている真理普及運動の根幹であり基盤である霊媒現象(※)の真髄は、一体何であるかをお考えになってみてください。それが正しく理解されているでしょうか。霊的能力をお持ちの方に“人のため(サービス)”の精神がどれほど行きわたっているでしょうか。ご自分の仕事の神聖さを自覚し、畏敬の念をもって携わっている人がどれほどいらっしゃるでしょう。少しはいらっしゃるようですが、悲しいかな、大半の人がそうではないようです。

わたしが望んでいる形での真実のサービス精神に徹している方は、大体において、年輩の方に多いようです。大部分の人はご自分の能力を、悲しんでいる人、困っている人のために使おうとは努力なさっていないようです。こういう局面は一日も早く打破していただきたいものです」

※――“霊媒(ミーディアム)”というと、日本では霊言や自動書記、物理現象などで入神してしまうタイプをさす傾向があるが、西洋では霊的能力者一般をさす。ここでもその意味で用いており、したがって霊視や霊聴や心霊治療も霊媒現象ということになる。原理からいうと確かにその通りである。

このあと、別のメンバーがスピリチュアリズムは得心できないことが沢山あるという意見を述べ「とにかく、わけのわからないことだらけなのです」と言うと――

「たった一度の地上生活ですべてを理解することは不可能です」

「でも、わかっていながら実行できないということが、私にとっては悩みのタネなのです」

「知識――これが不動の基盤です。そして悩みに遭遇して、それがそれまでの知識では解決できない時は、大霊はすべてを良きに計らってくださっている、という信念にすがることです。わからないと思っていたことが、そのうち明確になってきます。これは、決して困難から逃避することではありません」

「それはわかります。私たちはそれぞれに責任ある人間であり、自分のすることすべてに責任を負うわけですが、私が悩むのは、知識を得るばかりで一向に進歩しないということです」

「摂理の裏側に別の次元の摂理があります。大自然の成育、国家ならびに民族の進化をつかさどる摂理とともに、一人一人の人間を支配している摂理があります。これらが裏になり表になりながら働いているのです。無限の叡智というカギを手にしないかぎり、その全体に完全な調和が行きわたっていることを悟ることはできません。が、間違いなく調和が行きわたっているのです」

「私がいちばん理解に苦しむのは、人間と背後霊との関係です。どうも、本当に私たちのことを考えてくれている、あるいは、実際に力になってくれているとは思えないのです――虫が良すぎることもあるかも知れませんが……」

「いかに進化した霊といえども、地上世界に対して為しうることには、一定の限界というものがあります。これには三つの要素がからんでおります。自然の摂理と、その時の環境条件と、本人の自由意志です。環境条件にはさらに、その時どきの特殊な要素がいくつもからんでおります。

しかし、皆さんにはおわかりになれなくても――そして、これはわたしにも証明してさし上げることはできないのですが――目に見えない導き、霊媒を通じてのアドバイスとは違った形での、アイディア、インスピレーション、勇気づけといったものを受けていらっしゃいます。これは実に手の込んだ、難しい操作によって行われ、デリケートなバイブレーションを使用していることを知ってください。しかも、皆さんは、そうした努力を水の泡としてしまうことのできる、自由意志を行使できます」

「そちらから見て意外に思われる、予想外の事態になってしまうこともあるのでしょうか」

「わたしたちにとっても、先のことがすべて分かっているわけではありません。固定した映像の形で見えているわけではないのです。未来の出来事の予見は、ある一定のプロセスによって閃光(フラッシュ)の形でひらめくのです。たとえば、地上でいえば天体望遠鏡をセットし、焦点を合わせ、イザ見ようとすると、雲がよぎって何も見えなくなってしまうようなものです。写真でもそうでしょ? 焦点を合わせて視野を見事にとらえていても、ちょっとした動きでブレてしまいます。

こちらの世界でも人間の視覚器官に相当するものがあり、それが発達すると未来のことを予見することが出来るようになりますが、それには(複数の次元にわたる)大変な調節が必要であり、その操作は至難のわざです。

わたしたち霊団の仕事には一定の基本の型(パターン)というものがあって、それにしたがって行動します。成就すべき目標はよくわかっているのです。そのパターンの枠内でバランスを取るために、押したり引いたり、つねに調節をしなければなりません。たとえてみればチェス(日本の将棋に似たもの)と同じです。駒の進め方がまずかったと分かれば、それを補うために別の駒を進めないといけません。

時には全体が思いどおりに調子よく進むこともあります。が、霊界と地上という両極の間でバイブレーションないし放射物を取り扱うのですから、ひっきりなしに調節が必要です。ただし、目標だけは明確にわかっていますから、たとえ手段に戸惑うことはあっても、不安はありません。だからわたしは、いつも“辛抱しなさい。これで万事おわったわけではありません”と申し上げるのです。

摂理はかならずや決められた通りに働きます。そのようになっているのです。それは、かならずしも皆さんがこうあってほしいと望まれる通りとはかぎりません。わたしには、わたしが成就しなければならない仕事がよく分かっております。皆さんが地上で成就しなければならない仕事も、わたしにはよく分かっております。そして、いずれは皆さんがそれを成就なさるであろうことも分かっております。

たまたまそういう巡り合わせになったというわけのものではありません。そういう計画ができているのです。皆さんにそれが理解できないのは、物質の目を通して眺め、物質的なモノサシで計ろうとなさるからです。このわたしは、皆さんとはまったく異なる側面から眺めております。ですから、皆さんの物的な問題はよく分かりますし、わたしもそれに関わってはいても、基本的には“こうなる”という見通しが、わたしにはあるのです。

差し引き勘定をすれば、大霊は決して計算違いをなさらないことが分かります。宇宙の背後の知性は完ぺきなのです。そのことをしっかりと肝に銘じてください。大霊は決して間違いをなさいませんし、欺かれることも決してありません。一つ一つの出来事に、間違いなく摂理が働きます」

別の日の交霊会でシルバーバーチは、霊と物質の関係という基本的なテーマについて語った。その日のゲストはスピリチュアリズムに熱心な夫婦だった。その二人に向かってこう語った。

「あなた方は物質をまとった存在です。身を物質の世界に置いておられます。それはそれなりに果たすべき義務があります。衣服を着なければなりません。家がなくてはなりません。食べるものが要ります。身体の手入れをしなくてはなりません。身体は、要請される仕事を果たすために必要なものを、すべて確保しなければなりません。

物的身体の存在価値は、基本的には霊(自我)の道具であることです。霊なくしては身体の存在はありません。そのことを知っている人が実に少ないのです。身体が存在できるのは、それ以前に霊が存在するからです。霊が引っ込めば身体は崩壊し、分解し、そして死滅します。

こんなことを申し上げるのは、他の多くの人たちと同様に、あなた方もまだまだ、本来の正しい視野をお持ちでないからです。ご自身のことを、一時的に地上的生命をたずさえた霊的存在であるとは得心しておられません。身体にかかわること、世間的なことを必要以上に重要視なさる傾向がまだあります。

いかがですか、私の言っていることは間違っておりましょうか。間違っていれば遠慮なくそうおっしゃってください。わたしが気を悪くすることはありませんから……」

「いえ、おっしゃる通りだと思います。そのことを自覚し、かつ忘れずにいるということは大変むつかしいことです」と奥さんが言う。

「むつかしいことであることは、わたしもよく知っております。ですが、視野を一変させ、その身体だけでなく、住んでおられる地球、それからその地球上のすべてのものが存在できるのは、ほかならぬ霊のおかげであること、あなたも霊であり、霊であるがゆえに大霊の属性のすべてを宿していることに得心がいけば、前途に横たわる困難のすべてを克服していくだけの霊力をさずかっていることに理解がいくはずです。生命の根元、存在の根元、永遠性の根元は“霊”の中にあります。自分で自分をコントロールする要領(こつ)さえ身につければ、その無限の貯蔵庫からエネルギーを引き出すことができます。

霊は、物質の限界によって牛耳られてばかりいるのではありません。全生命の原動力であり、全存在の大始源である霊は、あなたの地上生活において必要なものを、すべて供給してくれます。その地上生活の目的はいたって簡単なことです。死後に待ちうける次の生活にそなえて、本来のあなたであるところの霊性を強固にすることです。身支度を整えるのです。開発するのです。となると、良いことも悪いことも、明るいことも暗いことも、長所も短所も、愛も憎しみも、健康も病気も、その他ありとあらゆることが、あなたの受け止め方一つで、あなたの霊性の成長の糧(かて)となることがお分かりでしょう。

その一つ一つが、大霊の計画の中でそれなりの存在価値を有しているのです。いかに暗い体験も――暗く感じられるのは気に食わないからにすぎないのですが――克服できないほど強烈なものはありません。あなたに耐えきれないほどの試練や危機に直面させられることはありません。そうした真理を、何らかの形でこのわたしとご縁のできた人に知っていただくだけでなく、実感し、実践していただくことができれば、その人は大霊と一体となり、摂理と調和し、日々、時々刻々、要請されるものにきちんと対応できるはずなのです。

ところが、残念ながら敵がいます。取り越し苦労、心配、愚痴という大敵です。それが波長を乱し、せっかくの霊的援助を妨げるのです。霊は、平静さと自信と受容性の中ではじめて伸び伸びと成長します。日々の生活に必要なものすべてが供給されます。物的必需品のすべてが揃います」

ここでご主人が「この霊の道具(身体)にわれわれはどういう注意を払えばよいかを知りたいのですが……肝心なポイントはどこにあるのでしょうか」と尋ねる。

「別にむつかしいことではありません。大方の人間のしていることをご覧になれば、身体の必要性にばかりこだわって(※)、精神ならびに霊の必要性に無関心すぎるという、わたしの持論に賛成していただけると思います。身体へ向けている関心の何分の一かでも霊の方へ向けてくだされば、世の中は今よりずっと住みよくなるでしょう」

※――豪華なファッション、豪邸、美食、そしてそれを得る為の金儲けなどのこと。

「霊のことを放ったらかしにしているということでしょうか。身体にかかわることは、そうまで構わなくてもよいということでしょうか。それとも、もっと総体的な努力をすべきだとおっしゃりたいのでしょうか」

「それは人によって異なる問題ですが、一般的に言って人間は、肉体にかかわることはおろそかにはしておりません。むしろ甘やかしすぎです。必要以上のものを与えています。あなた方が文明と呼んでいるものが不必要な用事を増やし、それに対応するために、また新たな慣習的義務を背負(しょ)い込むという愚を重ねております。肉体にとって無くてはならぬものといえば、光と空気と食べものと運動と住居くらいのものです。衣服もそんなにアレコレと必要なものではありません。慣習上、必要品となっているだけです

わたしは決して肉体ならびにその必要品をおろそかにしてよろしいと言っているのではありません。肉体は霊の大切な道具ではありませんか。肉体的本性が要求するものを無視するように、と勧めているのではありません。一人でも多くの人に、正しい視野をもっていただき、自分自身の本当の姿を見つめるようになっていただきたいのです。自分というものを肉体だけの存在、あるいは、せいぜい、霊をそなえた肉体だと思い込んでいる人が、まだまだ多すぎます。本当は肉体をそなえた霊的存在なのです。それとこれとでは、大違いです。

無駄な取り越し苦労に振り回されている人が多すぎます。わたしが何とかして無くしてあげたいと思って努力しているのは、不必要な心配です。大霊は無限の叡智であり、無限の愛です。われわれの理解を超えた存在です。が、その働きは宇宙の生命活動の中に見出すことができます。

驚異に満ちたこの宇宙が、かつて一度たりともしくじりを犯したことのない摂理によって支配され、規制され、維持されているのです。その摂理の働きは、一度たりとも間違いを犯したことがないのです。変更になったこともありません。廃止されて別のものと置きかえられたこともありません。いま存在する自然法則はかつても存在し、これからも未来永劫に存在し続けます。なぜなら、完ぺきな構想のもとに、全能の力によって生み出されたものだからです。

宇宙のどこでもよろしい、よく観察すれば、雄大なものから極小のものまでの、ありとあらゆる相が自然の法則によって生かされ、動かされ、規律正しくコントロールされていることがお分かりになります。途方もなく巨大な星雲を見ても、極微の生命を調べても、あるいは変転きわまりない大自然のパノラマに目を向けても、さらには小鳥・樹木・花・海・山川・湖のどれ一つ取ってみても、ちょうど地球が地軸を中心に回転することによって季節のめぐりが生じているように、すべての相とのつながりを考慮した法則によって統制されていることが分かります。

種子を蒔けば芽が出る――この、いつの時代にも変わらない摂理こそ、大霊の働きの典型です。大霊は絶対にしくじったことはありません。あなた方が見放さないかぎり、大霊は決してあなた方を見放しません。

わたしは、大霊の子すべてに、そういう視野をもっていただきたいのです。そうすれば、取り越し苦労もしなくなり、恐れおののくこともなくなります。いかなる体験も魂の成長にとって何らかの役に立つことを知るようになります。その認識のもとに、一つ一つの困難に立ち向かうようになり、そして首尾よく克服していくことでしょう。そのさ中にあってはそうは思えなくても、それが真実なのです。

あなた方もいつかはこちらの世界へ来られるわけですが、来てみれば、感謝なさるのはそういう辛い体験の方なのです。視点が変わることによって、暗く思えた体験こそ、そのさ中にある時は有り難く思えなかったけれども、霊の成長をいちばん促進してくれていることを知るからです。今ここでそれを証明してさしあげることはできませんが、こちらへお出でになれば、みずから得心なさることでしょう。

こうしたことは、あなた方にとっては比較的新しい真理でしょうが、これは大変な真理であり、また多くの側面をもっております。まだまだ学ばねばならないことが沢山あるということです。探求の歩みを止めてはいけません。歩み続けるのです。ただし、霊媒の口をついて出るものをぜんぶ鵜呑(うの)みにしてはいけません。あなたの理性が反発するもの、あなたの知性を侮辱するものは拒絶なさい。理に適っていると思えるもの、価値があると確信できるものだけを受け入れなさい。何でもすぐに信じる必要はありません。あなた自身の判断力にしっくりくるものだけを受け入れればいいのです。

わたしたちは誤りを犯す可能性のある道具を使用しているのです。交信状態が芳(かんば)しくない時があります。うっかりミスを犯すことがあります。伝えたいことのすべてが伝えられないことがあります。他にもいろいろと障害があります。霊媒の健康状態、潜在意識の中の思念、かたくなに執着している観念などが伝達を妨げることもあります。

その上、わたしたちスピリットも誤りを犯す存在であることを忘れてはなりません。死によって無限の知識のすべてを手にできるようになるわけではありません。地上時代より少しだけ先が見通せるようになるだけです。そこで、こうして、皆さんより多く知った分だけをお届けしているわけです。わたしたちも知らないことばかりです。が、少しでも多く知ろうと努力しているところです。

地上より開けたこちらの世界で知った価値ある知識を、わたしたちがこうして皆さんにお授けするわけは、代わってこんどは皆さんが、それを知らずにいる人たちへ伝えてあげていただきたいと思うからです。宇宙はそういう仕組みになっているのです。実に簡単なことなのです。

わたしたちは自分自身のことは何も求めません。お礼の言葉もお世辞もいりません。崇(あが)めてくださっても困ります。わたしたちはただの使節団、大霊の代理人にすぎません。自分ではその任務にふさわしいとは思えないのですが、その依頼を受けた以上こころよくお引き受けし、力のかぎりその遂行に努力しているところなのです」

その日は、二度も夫に先立たれるという悲劇を体験した婦人が招待されていた。その婦人にシルバーバーチがこう語りかけた。

「地上での人生体験の中には、生命の実在に直面させられる酷しい体験というものが、いくつかあるものです。大霊と真実の自我を内と外に求め、宇宙の存在の意図を探り、それがあくまでも謎のままなのか、それとも、れっきとした計画があるのかを知りたくて、なぜそうなのか、なぜこうなのか、なぜ、なぜ、なぜと問い続けます。そのいくつかは解決できても、どうしても分からないものもあります。が、そうして“問う”という事実そのものが、あなたの魂が自覚をもちはじめている証拠なのです。

地上世界は、そうやって魂が勉強する場所なのです。失敗もし、そして願わくば、それから何かを学んでいくのです。犯した間違いを正し、教訓を学び、より立派な行為を心がけ、二度と失敗しないようになっていくのです。そのうち、ある段階まで成長しますと、大切なのは目的の成就そのものよりも、その成就に向けて努力していく過程での体験によって、性格がどう形成されていくかであることに気づくようになります。過酷な体験の末に目からウロコが落ち、真実の価値の評価ができるようになり、最後は、物的なものにはそれなりの価値はあっても、絶対的価値のあるものではないことを悟ります。

暗く辛い人生の体験によって魂がそうした悟りの末に真実の自我に目覚め、大霊とのつながりを強めることになれば、その体験は大いなる価値があったことになります。これから訪れる未来のある時点で過去を振り返ってごらんになれば、辛く苦しくはあっても、霊的理解力の開発の節目となっていた体験を、有り難く感謝するようになることでしょう」

ここでシルバーバーチは、その交霊会の場に、その婦人が可愛がっていたアイリッシュセッター(猟犬の一種)が来ていると述べてから――

「あなたが飼っておられた素敵な犬がやってきましたよ。あなたが可愛がっていたと同じくらい、この犬もあなたに愛着をもっていたのですよ。お見せできるといいのですがね。年も取っていませんし、(死んだ時の)虚弱な様子も見えません――品もあり、格好もよく、気立ての優しい犬ですね。あなたの愛情がそのように進化させたのですよ。

あなたは幸せな方ですね。人間からも愛され、非人間――といってはおかしいですね――この美しい生きものからも愛されて……あなたの人生は人間以外の生きものからの愛によって囲まれております。その種の愛にはまったく反応しない人がいる中で、あなたはとてもよく反応していらっしゃいます」

シルバーバーチはさらに、かのイタリヤの大聖人アッシジの聖フランチェスコもその場に来ていると述べてから――

「驚いたでしょ? この人はすべてのものに愛を抱いている方です。今も、物言わぬ生きものたちの救済のために、霊界で活躍しておられます。動物は、進化の途上における人間の仲間として地上へ送られているのです。それが今しばしば虐待され、苦役(くえき)に駆り立てられ、そして、人類にとって何の益にもならない知識を得るための実験に使用されております」

その日の交霊会の後半で、シルバーバーチはふたたび“無益な心配”のテーマを取り上げた。するとメンバーの一人がこんな意見を述べた。

「私は、あなたが説かれるような立派な生き方をしておりませんので、やはり心配が絶えません。人間が正しい心がけで生きていなければ、背後霊の方もしかるべき指導ができないので、それで心配の念が湧くのだと思います。いけないことだとは分かっているのですが……」

「あなたはご自分のことを実際よりよほど悪く評価なさってますね」

「いえ、私は妄想を抱くタイプではありません。間違っている時は間違っていると、はっきり認識しております。ですから、正しい生き方をしていなければ、当然、心配は絶えないものと覚悟しているわけです」

「わたしは、そうは思いませんね。さっきも言いましたように、あなたはご自分で思っておられるほど悪い生き方はしていらっしゃいません。もっとも、あなたにできるはずの立派な生き方もしていらっしゃいませんけどね。ですが、とかく光を見た人は暗闇の意識が強くなるものです」

「それにも代償を払わないといけませんか」

「いずれ払わないといけないでしょう。摂理には逃げ道はありませんから、犯した間違いに対して、すべての者が代償を払わないといけません」

「そちらの世界へ行けば、また別の形で裁かれるものと覚悟しております」

「お裁きというものはありません。魂がそれにふさわしいものを受ける――因果律です。蒔いたタネを刈り取るのです。地上での行為の結果が死後のあなたを決める――それだけのことです。それより良くもなれませんし、それより悪くもなれません。それより上にもあがれませんし、それより下にもさがれません。あなたの有るがままの姿――それがあなたです。それまでの行為がそういうものを生み出したのです。それだけのことです」

祈り
無窮の過去より永劫の未来に至るまで……

ああ、大霊よ。わたしどもは全生命の大本源、わたしたちをその本性に似せて創造し給い、全人類を愛の抱擁の中に包み給う絶対的な力とのより一層の調和を求めて、その本源へ近づかんとするものです。

あなたは宇宙の大霊におわします。それは窮まるところを知らない存在であるゆえに、わたしどもにはその尊厳のすべてを理解することはできません。崇高さのすべても理解することはできません。しかし、宇宙の森羅万象のすみずみに至るまで、あなたの摂理が絶対的に支配し、目に見えると見えざるとにかかわりなく、不変、不動の自然法則によって規制されていることを認識いたしております。

したがってそこには、偶然のめぐり合わせも不慮の出来事も起こり得ません。すべては、あらかじめ規定され、生命活動の全側面に配剤されたあなたの意匠(デザイン)にのっとっているのでございます。あなたの認知、あるいは、あなたの管理の目の離れて生じるものは何一つございません。いかなる存在も、あなたのもとから連れ去られることも、忘れ去られることもございません。すべてがあなたの慈悲深き計画の範囲に収まるのでございます。

何一つ見落されず、無窮の過去より永劫の未来に至るまで、無限なる知性が考案し無限の叡智によって管理されている原理にしたがって休むことなく機能しつづけるその摂理の恒久性と驚異性に、わたしたちは深甚なる敬意を表するものです。

その絶対的摂理の働きを、受け入れる素地のできた子等に少しでも分かりやすく説き聞かせるのが、わたしどもの仕事の一環でございます。その理解によって目からウロコが落ち、耳栓が取れ、心が開かれ、かくして魂が自己の存在の目的と地上生活で果たすべき役割を教えてくれる大真理のイルミネーションにあふれることになりましょう。

それがひいては、地上世界の悪性腫瘍である暗黒と無知、利己主義と邪心、混沌と破滅、流血と悲劇を廃絶する上で力となることでございましょう。

その目標に向けてわたしどもは祈り、そして精励いたします。

第6章 真理を悟った人間は決して取り越し苦労はしません
熱心なスピリチュアリストである実業家が、ある日の交霊会で質問した。

「背後霊や友人(の霊)に援助を要請するのは、どの程度まで許されるのでしょうか」

「生身の人間である霊媒との接触によって仕事をしているわたしたちは、地上生活における必要性、習慣、欲求といったものを熟知していなければなりません。物的必要性について無とん着ではいられません。現実に地上で生活している人間を扱っているからです。結局のところ、霊も肉体も大霊の僕(しもべ)です。霊の宿である肉体には一定の必需品があり、一定の手入れが必要であり、宇宙という機構の中での役割を果たすための一定の義務というものもあります。肉体には太陽光線が必要であり、空気が必要であり、着るものと食べるものが要ります。それを得るためには地上世界の通貨(コイン)(※)であるお金(マネー)が必要です。そのこともよく承知しております。しかし、次のことも承知しております。

※――“奉仕(サービス)は霊の通貨です”というのがシルバーバーチの決まり文句で、マネーによって物的生活が営まれているように、霊的生活はサービスによって営まれているというのであるが、ここでもそのことを念頭において述べている。

霊も肉体も大霊の僕と申し上げましたが、両者について言えば、霊が主人(あるじ)であり、肉体はその主人に仕える僕です。それを逆に考えるのは大きな間違いです。あなた方は本質的には霊なのです。それが、人間は潜在的に神性を宿していると言われるゆえんです。つまり宇宙の大霊をミニチュアの形で宿していることになります。宇宙という大生命体を機能させている偉大な創造原理が、あなた方一人ひとりに宿っているのです。意識をもった存在としての生命を受けたということが、神的属性のすべてが内部に宿っていることを意味します。全生命を創造し、宇宙のありとあらゆる活動を維持せしめている力があなた方にも宿っており、その無尽蔵の貯蔵庫から必要なものを引き出すことができるのです。

そのためには平静さが必要です。いかなる事態に遭遇しても、心を平静に保てるようになれば、その無尽蔵のエネルギーが湧き出てきます。それは霊的なものですから、あなたが直面するいかなる困難、いかなる問題をも克服することができます。

それに加えて、背後霊の愛と導きがあります。困難が生じた時は、平静な受け身の心を保つよう努力なさることです。そうすれば、あなた自身の貯蔵庫から――まだ十分には開発されていなくても――必要な回答が湧き出てまいります。きっと得られます。われわれはみな進化の過程にある存在である以上、その時のその人の発達程度いかんによっては、十分なものが得られないことがあります。しかし、その場合でも、慌てずに援助を待つことです。こんどは背後霊が何とかしてくれます。

求めるものが正当か否かは、単なる人間的用語の問題にすぎません。わたしたちから見て大切なのは“動機”です。いかなる要求をするにせよ、いかなる祈りをするにせよ、わたしたちが第一に考慮するのは、その動機なのです。動機さえ真摯であれば、つまりその要求が人のために役立つことであり、理想に燃え、自分への利益を忘れた無私の行為であれば、決して無視されることはありません。それはすなわち、その人がそれまでに成就した霊格の表れですから、祈るという行為そのものが、その祈りへの回答を生み出す原理を作動させるのです」

ここでメンバーの一人が「学識もあり誠実そのものの人でも取り越し苦労をしています」と述べると――

「あなたは純粋に地上的な学識と霊的知識とを混同しておられるのではないでしょうか。霊的実在についての知識の持ち主であれば、何の心配の必要もないことを悟らねばなりません。人間としての義務を誠実に果たし、しかも何の取り越し苦労もしないで生きていくことは可能です。のほほんとしていてもよいと言っているのではありません。そんな教えは、かりそめにも説きません。むしろわたしは、霊的真理を知れば知るほど、人間としての責務を意識するようになることを強調しております。しかし、心配する必要はどこにもないと申し上げているのです。霊的成長を伴わない知的発達も有り得るのです」

最初の質問者「あからさまに言えば、取り越し苦労性の人は霊的に未熟ということでしょうか」

「その通りです。真理を悟った人は決して取り越し苦労はしません。なぜなら、人生には大霊の計画が行きわたっていることを知っているからです。まじめで、正直で、慈悲心に富み、とても無欲の人でありながら、人生の意義と目的を悟るほどの霊的資質を身につけていない人がいます。無用の心配をするという、そのことが、霊的成長の欠如の指標であると言えます。たとえわずかでも心配の念を抱くということは、まだ魂が本当の確信を持つに至っていないことを意味するからです。確信があれば心配の念は出てこないでしょう。

偉大なる魂は、泰然自若(たいぜんじじゃく)の態度で人生に臨みます。確信があるからです。その確信は何ものによっても動揺させられることはありません。このことだけは絶対に譲歩するわけにはいきません。なぜなら、それがわたしたちの霊的教えの土台であらねばならないからです。

その基本法則にもとることでも起こり得るかのように説く教えは、すべて間違いです。原因と結果の間には何一つ、誰一人として介入することはできません。あなたの行為の責任を他人の肩に背負わせる方法はありませんし、他人の行為の責任をあなたが背負うこともできません。各自が自分の人生の重荷を背負わねばならないのです。そうであってはじめて正直であり、道徳的であり、道義的であり、公正であると言えましょう。

それ以外の教説はすべて卑怯であり、臆病であり、非道徳的であり、不公正です(※)。摂理は完ぺきなのです」

※――提示された話題を、質問者が考えてもみなかった方向へ広く深く敷延していくのがシルバーバーチの特徴の一つであるが、ここでも単なる取り越し苦労の話をキリスト教の贖罪説に結びつけて、これを厳しく断罪している。イエスを信じて洗礼を受ければ全ての罪をイエスが背負ってくれるから安心なさい、という贖罪説は、心配・不安・恐怖といった人間の煩悩をうまく利用した卑怯な教説であることを述べているのであるが、これはキリスト教に限ったことではなく、“ウチの宗教に入信しさえすれば……”といった勧誘方法は、新興宗教のすべてが使う手段で、言うなれば“商売の手口”である。

「広い意味において人間は他のすべての人に対して責任があるのではないでしょうか。世の中を住み良くするのは、みんなの責任だからです」

おっしゃる通りです。その意味においては、みんなに責任があります。同胞として、お互いがお互いの番人(旧約聖書)であるといえます。なぜなら、人類全体が“霊の糸”によって繋がっており、それが一つに結びつけているからです。

しかし、責任とは本来、自分が得た知識の指し示すところにしたがって人のために援助し、自分を役立て、協力し合うということです。しかるに、知識は一人ひとり異なります。したがって、他人が他人の知識に基づいて行ったことに自分は責任がないことになります。

が、この世は自分一人ではありません。お互いが持ちつ持たれつの生活を営んでおります。すべての生命が混じり合い、融合し合い、調和し合っております。そのすべてが一つの宇宙の中で生きている以上、お互いに影響を与え合っております。

だからこそ知識に大きな責任が伴うのです。知っていながら罪を犯す人は、知らずに犯す人より重い責任を取らされます。その行為がいけないことであることを知っているということが罪を増幅するのです。霊的向上の道は容易ではありません。知識の受容力が増したことは、それだけ大きい責任を負う能力を身につけたことであらねばならないのです。

幸と不幸、これはともに大霊の僕です。一方を得ずして他方を得ることはできません。高く登れば登るほど、それだけ低く落ちることもあるということであり、低く落ちるほど、それだけ高く登る可能性があることを意味します。これは理の当然でしょう」

「“恐れ”というのは、人間の本能的要素の一つです。それを無くせと言っても無理だと思うのです。これは自衛のために用意された自然の仕組みです。動物の世界は“恐れ”に満ちております。それがいけないとなると、ではなぜ、それが動物界の基本的要素となっているのかという疑問が出ます」

「なかなかいい質問だと思います。人間は二面性をもつ存在であり、動物時代の名残と、本来の資質である霊性の二つの要素を、地上生活の中で発揮しております。そして、より高く進化していく上で不可欠の“自由意志”を授かっております。それが内部の神性が発揮されていく必須の条件だからです。

このように人間は、その進化の道程において、持てる資質を利己的な目的に使用するか利他的な目的に使用するかの二者択一を、永遠に迫られることになります。これまでにたどってきた進化の道程において植えつけられた肉体的要素に負けてしまえば、生命の根源そのものである霊性の優位を否定していることになります。

恐怖心は大体において動物的先祖から引き継いだものです。そして、わたしが“動物的先祖”という場合は、物的身体が原初から今日に至るまでにたどってきた進化の全側面をさします。しかし、だからといって、やむを得ないこと、ということにはなりません。たしかに自衛本能としての恐怖心もありますが、まったく無意味で筋の通らない、救いようのない恐怖心もあり、それが困難や危険を増幅し、視野を遮ってしまいます。生活の根底であるべき霊的実在に、まったく気づいていないからです」

「動物の場合は、本性そのものが恐怖心を必要としているという意味でしょうか」

「人間は動物よりはるかに高度の意識を発揮していますから、それだけ精神的側面をコントロールできないといけません。が、動物は、人間に飼われているものは例外として、本能的に行動しています。人間には理性があります。そして、高級界からのインスピレーションを受け取り、叡智と知識を活用することによって、暗黒と無知の産物を無くしていく霊的資質をそなえております」

「動物も、進化すると恐怖心を見せなくなります。人間を恐れるのは虐待行為に原因があるのだと思います」

「わたしが今“人間に飼われているものは例外として”と申し上げたのは、そのことがあったからです。人間との接触によって人間的意識をいくらか摂取して個体性をもつようになり、恐怖心を捨てていきます。そこに“愛の力”の働きが見られるのです。人間が愛を発現することによって、その愛が動物から恐怖心を追い出します。人間は、その自由意志によって動物に無用の恐怖心を吹き込むという罪を犯していることを忘れてはなりません。野生動物でさえも、人間の愛によって恐怖心を捨てていくものなのです。そして、現実にライオンと小羊が仲良く寝そべるようになるのです」

「あなたがおっしゃるように、もしも摂理が完ぺきで、数学的正確さをもって働き、あらゆるものを認知し、誰一人として不公平に扱われることがないようにバランスが取れているとしたら、それはカルマの法則と再生の事実を認めていることになるのでしょうか」

「イエス・ノーの答え方だけで言えば、イエスです」

「ある記事で、きわどい手術をするために医師がその患者の心臓を十五分間ストップさせたという話を読みました。私は、心臓が鼓動をやめたら、その瞬間に霊は身体を離れたはずだと思うのですが……」

「霊が身体から離れはじめると心臓が鼓動を止めはじめるのです。ですが、その離脱の過程はふつう、かなりの時間を要します。自然死の場合の話です。その過程の途中で、一時的に鼓動が止まることがあります。単なる生理反応が原因の場合もありますし、機能上の欠陥が原因の場合もあります。いずれにしても、心臓が止まったから霊が逃げ出すのではありません。逆です。霊が引っ込むから心臓の機能が止まるのです」

「建設的な目的にせよ、原子力を使うために核を分裂させなければなりませんが、それは自然界の調和の原理に違反し、人類自身にとっても危険なことではないでしょうか」

これは非常に難しい問題です。なぜかといえば、それには現在の地上人類に理解できない要素がたくさん含まれているからです。宇宙に調和の原理があり、それを人間が乱すことはできます。が、大自然の摂理の働きを止めたり変えたりすることはできません。わたしが言わんとしているのは、もしも原子核の分裂が不可能だったら、人間が核分裂を起こすことはできなかったということです。

このことに関連して間違いなく言えることは、この核分裂の発見は調和のとれた進化からズレているということです。つまり、まだその時機でなかった――人類の精神的ないし霊的成熟度が十分でなかったということです。もし十分であれば、原子エネルギーの使用にまつわるさまざまな問題は起きないはずです。この、とてつもない発見のおかげで、人類は霊的に受け入れる用意のできていないものを手にしてしまい、それがもとで、大変な危険の可能性を抱えてしまいました。が、各国の命運を握っている指導者たちが、霊的な叡智に目覚めれば解決できるでしょう。というよりは、それしか道はないでしょう」

「私たちは子供の頃から“愛の神”“天にまします父なる神”を信じるよう教えられてきましたが、地上生活を終えた霊が、地上の人間に憑依することが有り得るものなのでしょうか」

「もちろん有り得ますとも」

「愛の神がそれを許すものなのでしょうか」

「大霊とは法則のことです。ある人間的な存在がいて、それはやってよろしい、それはいけません、といった指図をしている図を想像してはなりません。原因と結果の法則で動いている宇宙なのですから、地上と霊界との交信にもちゃんとした原理があります。その原理は“善人にしか使用できません”という規約をもうけるわけにはいかないのです。同じチャンネルを善霊でも悪霊でも使用できるのです。

他界後に地縛霊となってしまうような地上生活を送った場合、それは利己主義やどん欲や強欲が悪いのであって、大霊が悪いのではありません。また、麻薬やアルコールやどん欲がもとで、そういう地縛霊に憑依されるようなことになった場合、それをどうして大霊のせいにできましょう。自分の自由意志でやったことなのですから」

「これからは心霊治療がもっとも重大な分野となるように計画されているのでしょうか」

「迷うことなく“そうです”と申し上げます。これからは、病気に苦しむ人々の治療の分野に霊力を顕現させていく計画が用意されています。病気や障害のために人生が侘(わび)しく、陰うつで、絶望的にさえ思えている人々に、霊的な治癒エネルギーが存在することを証明してあげるのです。

霊力――生命力そのものであり、数多くの治療家(チャンネル)を通して注入される無限のエネルギーは、病気や障害によって痛めつけられ苦しめられている身体に、新たなエネルギーを注ぎ込んで活気づけ、いかに疑ぐり深い人間でも、地上の用語では説明できない力が存在することを認めざるを得なくしてしまいます。皆さんが生きておられる今の時代にぜひ必要だからこそ、そう計画されているのです」

「治療していただくのに、なぜ治療家にお願いしなければならないのでしょうか」

「要請があるまでは対応のしようがないからです。治療に使用するエネルギーは、こちらから呼び入れなくてはならないのです。生命力は宇宙的活動の一環として全宇宙くまなく巡っております。が、その中の一部を一人の患者のために使用するには、知的操作によって、そのエネルギーを誘導しなくてはなりません。したがって、前もってその要請がなくてはなりません」

「要請がなくても、そちらから知的な操作ができるのではありませんか」

「できます。が、治療家という媒体がいないと、それは純粋に霊的次元での操作にとどまることになります。それを地上に顕現させるには、連結体、ないしは通路にあたる媒体がなくてはなりません。たとえば、あなたが奥さんから遠く離れたところにいるとして、奥さんがあなたと連絡を取るにはどうしますか。電話という連絡手段がいるでしょう。それと同じです」

「その要請をなぜ治療家にお願いしなければならないのでしょうか」

「治療家が“焦点”となるのですから、当然そうなります。別の側面から見れば、そもそも霊的治療を要請するということ自体、その患者の魂が霊性に目覚めはじめ、霊的な援助が叶えられることを自覚しはじめたことの兆候なのです。ご存知の通り、霊的治療のそもそもの目的は――わたしたちの仕事はすべてそうなのですが――人間の本性が霊的なものであることに関心を向けさせることにあるのです」

「その覚醒が治癒を呼び寄せるという要因もあるわけですね?」

「その通りです。霊性に目覚めはじめた魂は、当然つながりができるべきエネルギーを自動的に引き寄せるのです」

「“求めよ、さらば与えられん”という言葉はそのことを言っているのでしょうか」

「そうですとも。真摯(しんし)に求めるという行為が、満たされたいという魂の欲求を始動させ、それが、エネルギーが届けられる連鎖反応を起こすのです。祈りが届けられるのです」

「すべての治療家が、たぶん同じ霊的エネルギーを使用しているはずなのに、なぜ治療家によって治り方に差異があるのでしょうか」

「霊力には無限のバリエーションがあります。一人の治療家を通して顕現されるものは、その治療家のもつ肉体的・精神的・霊的資質によって特徴づけられます。気質・霊的進化の程度・性格・人生観――こうした要素が、その人を通過する霊力の質と量とを決定づけるのです。本質的には同じエネルギーですが、真理と同じく、無限の様相を呈するのです」

「患者の態度が治療効果を左右することもありますか」

「もちろんありますとも。霊的治癒力も自然法則の働きにしたがって作用します。その法則が治癒力の強弱を左右することになるのですが、その際に霊と精神と肉体にかかわるさまざまな条件が絡んでまいります。治療家自身だけでなく、患者の条件も絡んでいます。

遠隔治療で患者に知られずに行っても成功した例があることは、わたしもよく知っております。しかし、念のために申し上げておきますが、意識的な自覚はなくても、内奥の魂は自覚しているのです。治療の対象はその魂です。心霊治療はすべて、内部から外部へと働くのです」

「遠隔治療の原理をご説明ねがえませんか」

「目に見えないもの、手で触れることのできないもの、耳に聞こえないものでも実在するものがいくらでもあることが分かってきた現在、霊的放射物が距離に関係なく目標物(患者)へ届けられるのが信じられないというのが、わたしには理解できません。ふだんの肉眼に映じない波長を映像化してくれる器具はいくらでもあります。しかも、それにもきちんとした法則があることも分かっております。

遠隔治療の場合も、確固とした波長、放射物、治癒エネルギー――どう呼ばれてもかまいません――そういうものが使用されており、霊界の専門霊によって治療家を通して患者に注がれるのです」

「自分で自分を治す力は誰にでもあるというのは本当でしょうか」

「潜在的にはみんな持っております。なぜなら、大霊の一部としての霊性を宿しているということは、必然的に生命力ないし原動力を宿していることになるからです。それが機能を正常にします。ですから、それを働かせる方法(こつ)を会得(えとく)しさえすれば、自分で自分を治すことができるという理屈になります」

「心霊治療によって苦しみが取り除かれます。が、一方では、地上人生の教訓を学ぶには苦しみも大切な要素であると説かれています。そうなると、病気が治るということはそのチャンスを奪うことになり、霊的成長の障害となるという理屈にならないでしょうか」

「大自然の摂理の働きには絶対に干渉できません。宇宙は絶対に狂うことも間違うこともない、無限の知性によって規制されております。これだけは避けて通るわけにはいかないものなのです。そこで、それを知らないがために引き起こしている愚かしい過ちによる余計な苦しみ、無くもがなの苦しみが実に多いのです。たしかに地上生活の目的は霊的成長にありますが、その目的を成就する手段はいくらでもあります。苦しみはその中の一つということでして、それしかないわけではありません」

「治療法にも信仰治療、霊的治療、磁気療法、神癒などと、いろいろあるようですが、どこがどう違うのでしょうか」

「大ざっぱに言って、わたしは二つに分類するのがよいと思います。霊界のエネルギーによるものと地上のエネルギーによるものとの、二種類です。催眠療法、磁気療法、暗示療法、こうしたものは治療家自身によるもので、霊界とは何の関係もありません。それはちょうど、心霊能力(サイキック)が霊的能力(スピリチュアル)と違って霊界とは何の関係もないのと同じです。

もう一つの種類は霊界から届けられる治癒エネルギーによるもので、それにもいろいろと治療法があって、それぞれに名称があるようですが、いかなる方法であれ、またいかなる名称であれ、基本的には霊力の作用である点は同じです」

「治癒力を磨くにはどうすればよいのでしょうか」

「我欲を捨て、人のために役立ちたいという心がけで生きることです。霊的能力を開発するための最大の要素は、その“人のために役立ちたい”という欲求です。それは病人だけでなく、同胞すべてに対する愛であり、その愛の中において治癒力が増してまいります」

「治療家がカゼを引いたりインフルエンザにかかったり、その他、いろいろと体調を崩すことがあるのは、なぜでしょうか」

「それは何か摂理に反したことをした、その反応でしょう。治療家も人間です。霊力の道具であるとはいえ、摂理の働きを特別に免れるわけではありません。魔法はありません。摂理は正直に働きます。治療家がそれを犯せば、それなりの結果に直面させられます」

「治療家ですら、自分の病気を治せないことが多いのはなぜでしょうか」

「治療家というのは、大体において霊力の通路にすぎません。霊力の流れを通過させているだけです。治療家でも自分で自分を治せる人はいくらでもいますが、治癒力がその人を通って患者へ流入するというだけの過程では、必ずしもその人自身の病気を治す目的には使用されません。その辺のことは、治療家のタイプによります。

たとえば、治療家が何かの事故で身体機能に障害をきたしたとします。ところが患者の治療には何ら差しつかえがないということがわかった場合、治療家によっては、自分のことはどうでもよいと考えるかも知れません。わたしだったら、そう考えるところです」

「その際、自分は治療家だから、放っといてもちゃんと治してくれるだろうと考えるのは間違いでしょうか」

「“治る”ということは、本来、能動的な作用であって、受動的なものではありません。魂の悟りが原動力となっているものです。真の自我に目覚めるということが重大な要素なのです。目覚める段階までくれば、物的障害を突き破ろうとする欲求が湧いてきます。切望し、希求するその願望を引き出すのが、心霊治療の本来の目的です」

「愛(いと)しい人に先立たれた人には、死後の再会の楽しみがありますが、この投書の質問者には、そういう人がいないとのことです。こういう場合はどうなりますか」

「大霊の摂理は完ぺきです。幾十億年にもわたって、一度も誤ることなく、そして絶え間なく働いてまいりました。この広大な宇宙機構の中にあって、何一つ見落されることもなければ、忘れ去られることもありません。その投書をなさった方も例外ではありません。その摂理には埋め合わせというものがあります。地上で欠けていたものは、こちらへ来て補われます。つねに完全なバランスが取れており、摂理どおりに落着くのです。霊的機構においては誰一人として忘れ去られることはありません」

「ヨガでは身体機能を自在にコントロールする修行をしますが、あれは霊的発達にとって不可欠のものでしょうか。何か役立つことでもあるのでしょうか」

「まず初めのご質問に対する答えですが、これは不可欠のものではありません。身体を鍛練し、自制心を身につけ、物質に対する精神の影響力を披露する方法であって、それによって心霊的能力を開発することにはなりますが、これをやらないとダメというものではありません。方法なら他にいくらでもあります。なお、はっきり申し上げておきますが、このタイプの鍛練方法は西洋人よりも東洋人に向いております」

「それは又、なぜでしょうか」

「本性において、東洋人の方が西洋人より瞑想的であり、興味を持ちやすいからです。大気そのものに、そういうものに馴染ませる要素があるのです。昔からその道の達人が根拠としてきた宗教思想があり、それを自然に身につけているのです」

「西洋人にはそれに匹敵する別の鍛練法があるわけでしょうか」

「身体をコントロールする精神力の存在を教える鍛練は、それが結果的に霊性を開発することになるのであれば、何でも結構であると信じます。ただ、呼吸を止めたり、脈拍や血行を変えたりすることができるからといって、それで霊的に立派になったことにはなりません」

「質問が少し大きすぎるかも知れませんが、西洋人にとってはどういうタイプの鍛練をすべきでしょうか」

「精神統一です。一日一回、少しの時間を割(さ)いて精神を統一し、霊的な力を表面に出す鍛練をすべきだと思います。生活があまりにせわしく、霊的な気分一新をするゆとりが無さすぎます。内側と外側に存在する霊的エネルギーが顕現するのは、精神が穏やかで、受け身的で、控え目になっている時です」

「睡眠状態には、その効果はないのでしょうか」

「霊性の積極的な発達には、効果はありません。睡眠というのは、霊体が肉体から解放されて霊界を訪れ、死後の生活の準備をするために自然が用意してくれた機能です」

「イエスの姿が見えると言いながら死んでいく人がよくいます。最近でも、ローマ法王がイエスの姿を見たと述べておりますが、この“姿”というのは何なのでしょうか。本当にあのイエスなのでしょうか」

「とても興味ぶかい問題です。ですが、言うまでもないことですが、見た、見えた、といっても、それが実際に何であったかの確認はできません。その時の姿が本当にその人であったとはかぎらないからです。そもそも、わたしたち霊の真実の姿を物的形体でお見せすることはできないのですから、したがって映像化してお見せするしかないのです。

たとえば、わたしが霊界で表現している本来の容姿をみなさんに認識していただきたくても、それをお見せする手段がありません。したがって、わたしを視覚に映じる形でお見せすることはできないわけです。同じ意味で、ナザレのイエスが今霊界で顕現しておられるお姿は、地上の手段では表現のしようがありませんから、人間にはお見せできないわけです。そこで、その人間にわかりやすく映像をこしらえて見せることになるわけです。

今日のいかに熱烈なクリスチャンといえども、イエスの現在の本当の姿をお見せしても、まったく意味がありません。イエスさまの姿を見たとおっしゃっても、それはその人が想像しているイエスの姿を見たという意味であり、実体をご覧になったわけではありません。こしらえられた映像を見たわけです。おわかりでしょうか」

「見たと言っている人の思念の投射である場合もあるわけでしょうか」

「その通りです。人間の精神には映像をこしらえる能力がありますから、それが具象化するほど強烈な場合には、そういうことも起こりうるわけです。一つの思念をある一定の次元で保持し続けると、その通りの形体を取るのです。物的形体ではありません。幽質の場合もあれば、霊的な場合もあります。要するに、非物質の世界のいずれかの次元での映像となるわけです」

「死にぎわだから見えやすいということも、原因と考えてよろしいでしょうか」

「そのことに関して二つの事情を忘れてはなりません。一つは、ナザレのイエスが今どういう容姿をしているかを知っている者は、地上には誰一人いないということです。もう一つは、イエスが地上にいた時の容姿についても、誰一人知る者はいないということです。そうなると、これはイエスだと判断する材料は何もないということになります。

たしかに死にぎわには大変な量の心霊的ならびに霊的エネルギーが放出されます。遠くにいる肉親・縁者に姿を見せることができるのも、そのためです。死んだとはいえ、まだ地上的波動の中にいますから、何マイル先であっても、大体の生前の容姿を取ることができるわけです。あくまでも死にぎわにかぎっての話です。イエスの姿が見えたというのも、同じく死にぎわにおける心霊的ならびに霊的エネルギーの放出によって生じる現象です」

「地獄は存在しないと言ってくる霊がいます。そうなると、真っ暗いところとか薄暗い世界というのは何なのでしょうか」

「地獄はあります。ただ、地獄絵などに描かれているものとはかぎらないというまでのことです。未熟な霊が集まっている暗い世界は、もちろん存在します。そこに住んでいる霊にとっては、そこが地獄です。実在の世界です。

考えてもごらんなさい。地上世界を暗黒と悲劇の淵に陥(おとしい)れた者たち、無益な流血の巷(ちまた)としてしまった張本人たち――こういう人たちがこちらへ来て置かれる境遇がどういうものか、大体の想像はつきませんか。

そうした行為の結果として直面させられる世界が天国であろうはずはありません。まさに地獄です。が、バイブルに説かれているような、業火(ごうか)で焼かれる地獄とは違います。行ったことの邪悪性、非道徳性、利己性を魂が思い知らされるような境遇です。それが地獄です。そこで味わう苦しみは、中世の地獄絵に描かれたものより、はるかに耐え難いものです」

「私たちが他界したあと、それまでの背後霊はどうなるのでしょうか。私たちが死ぬと同時に用済みとなるのでしょうか」

「あなたとのつながりが、単に地上での仕事のためのものであれば、死によってその仕事も終わったわけですから、その霊とのつながりも終わりとなります。とくに霊媒の支配霊の場合は、その人間の霊的能力を有効に使用することを目的として付き添うわけですから、霊媒の死と同時につながりは無くなります」

「霊媒を通して支配霊とも親しくなった者にとっても、死とともに縁が切れると聞くと、一抹のさみしさを覚えます」

「わたしは、つながりは終わりとなると申し上げているのであって、それは、縁が切れて別れ別れになってしまうという意味ではありません。地上時代のようなつながりは終わりとなるということです」

「さきほどの方は、そういう意味で述べたのだと思います」

「会いたいと思えば会えます」

「死後も特別な関係が続くのでしょうか」

「支配霊と霊媒、という関係にすぎなかった場合は何も残りません。仕事が終わったのですから」

「お互いに会えなくなるという意味ではないのですね?」

「これまでにも何度も申し上げておりますように、この問題に関する答えは、支配霊と霊媒の霊的発達程度の違いによって異なります。意識の程度とインディビジュアリティに関わる問題でして、これはテーマが大きくなってきます。

あなたがお知りになりたいのは、死後あなたがこのわたしと会えるのか、そして、この霊媒がわたしと会えるのか、ということなのでしょ? もちろん、ここにおいでの皆さんとは再会できるでしょう。が、その時はもう、こうした形でしゃべる必要がないことを期待したいものですね(※)」

※――死後の目覚めと、その後の霊的成長度は各自まちまちであるから、もしかしたら、面会を要請されても、直接の対面はできないことも有りうることを示唆している。

「交霊会で物理的現象を求めている場合の出席者の態度はどうあるべきでしょうか。その場合でも霊視力とか霊聴力を働かせてもよろしいでしょうか。もしいけないとなると、それは意識的に抑えられるものでしょうか。抑えられるとしたら、その方法を教えてください」

「物理的現象を求めている時に精神的現象を起こそうとすると、障害となります。霊視、霊聴、入神談話といったものは抑えて、あくまでも物理的なものが起きるように、辛抱づよく待っていただかねばなりません」

「そのように意識的に抑制できるものなのでしょうか。そのテクニックを教えていただけませんか」

「難しく考えることはありません。精神的心霊能力をもつ人が、精神状態を受け身的にならないようにすればよろしい。この霊媒(バーバネル)がもし拒絶したら、わたしはコントロールできなくなります。いつも受け身の精神状態になってくれるので、ラクに支配できているのです」

「フリーメーソン(※)の団体に加入することをおすすめになりますか」

※――博愛・自由・平等の実現を目指す世界規模の団体。一種の秘密結社で、全容は明らかでない。

「どこかの組合や会派や団体に加入すること自体は何の意義もありません。大切なのは、その人が日常生活で何をするかです。ただし、そういうものに加入することによって、より親切で、より非利己的で、より人のためになる生活を志向することになると思う人は、加入させてあげるがよろしい。

しかし、唯一の、そして厳格な基準は、その人の日常の行為です。為すことのすべてにおいて、責任を負わねばなりません」

「フリーメーソンの教義は、心霊能力の開発にとって有益であるとお考えでしょうか」

「その教義の本当の意味を理解し、他の信者がただの“お題目”と考えているものを霊的開発の糧にすることができれば、それも有益であることになります」

「そういう秘密結社がはびこる風潮は好ましいことでしょうか。真理はすべての者に開かれたものであるべきで、一部の者によって独占されるべきものではないと思うのですが……」

「というよりは、そもそも真理とは独占できる性質のものではないのです。無限なるものであり、これで全部です、などと言える性質のものではないからです。そうした活動は、動機さえ正しければ、秘密のうちに行おうと、公然と行おうと、それは関係ありません。何事も動機によって判断しないといけません。大切なのは各自の人生において何を為すかです。

わたしたちがこうして地上世界へ戻って来たのは、宗教というものを実際的な日常のものにするため、と言ってもいいのです。もう、信条だの、形式だの、儀式だのと結びつける時代ではありません。宗教とは人のためになる行為(サービス)のことであり、人のために役立つことを志向させるものは、何であってもよいということを、ありとあらゆる手段を講じて主張するものです」

「でも、フリーメーソンでは、そのサービスを会員の者の間だけに限っております」

「そのことも知っております。ですが、少なくとも人のために良いことをしていることは事実であり、それはサービスの第一歩です」

「ある霊視家によると、自殺した者ばかりが集まる場所があるそうですが、本当でしょうか。実際にそこを見てきたと言い、正視できないほど惨めだという話ですが……」

「地上生活をみずから中断させた者が集まっている界層が見えたというのは、ある意味では事実かも知れません。同じ意識レベルの者が類をもって集まっているわけですから。

ですが、そこが自殺者の連れて行かれる固定した場所であると考えるのは間違いです。同じく自殺した人でも、動機によって一人一人裁かれ方が違います。一人一人に公正な因果律が働きます。何度も申し上げておりますように、全事情を決定づける要素は“動機”です。それがその人の魂の指標だからです。

宗教的信仰における頑迷さにおいて程度が同じであることから同じ界層に集まっている人たちもいます。その界層へ行けば、そういう人たちばかりがいるわけです。あなたも、あなたの魂の成長度に似合った場所へ行かれます」

「自殺者には互いに引き合う何か共通の要素があるから集まるのではないでしょうか」

「霊的発達の程度が同じだからです。それが死後に置かれる位置を決定づけるのです。霊的にどの程度の魂であるかが、霊界においてどの界層に落着くかを決定づけるのです。こちらでは霊性がそのまま現実となって具象化するからです。

自殺者の中にも霊的レベルの同じ者がいますから、そういう者が集まっている界層を霊視家が見たというのは有り得ることだと申し上げたわけです」

一読者からの投書による質問「私たちは精神的生活が死後もそのまま持続されると信じていますが、精神に異常のある人の場合、とくに永いあいだ錯乱状態にあった人はどうなるのでしょうか」

「精神的に異常のある場合は、精神が地上生活の目的である“発現”のチャンスが与えられなかったということであって、破壊されていたわけではありません。損傷を受けることはありますが、秘められている能力そのものは無傷のままです。発現のチャンスが奪われたということです。

そうした人の場合は、知性が幼児の程度のままでこちらへ来ますので、その発育不足を補うための調整が少しずつ行われます。霊にかかわるものには永遠の傷というものはありません。一時的な状態であり、そのうち調整されます」

「身内の者が出現した時、なぜ霊界での趣味とか研究、今つき合っている人、進歩の程度などについて詳しく話してくれないのでしょうか。何人かの名前をあげたり、花の名前を言ったり、そのうち万事うまく行きますよ、とか、いつもそばにいて力になってあげてますよ、といった簡単なセリフしか言いません。私たちが休日に遊びに行った時の楽しい話を手紙で書き送るような調子で、なぜもっといろいろと語ってくれないのでしょうか」

「それはいささか話が違いますね。もしも、地上との交信が休日の体験を手紙に書くような、そんな簡単なものであれば、もっともっと多くの情報が送れるのですが、残念ながら霊媒を通じて語るのは、手紙で書き送るほど単純なものではないのです。

交信が始まった当初は断片的なものしか語れません。そこで、たとえばあなたがほんの一言でも伝えるチャンスが与えられたとしたら、地上に残した人には“大丈夫よ、みんな元気ですよ”と言ってあげたいと思うのではないでしょうか。それは大いなるメッセージです。とくに初めて霊からのメッセージを聞く人にとっては、大いに意義があります。

ただし、霊は断片的なことしか語らないという言いがかりは、このわたしに関しては当らないと思います。初めのころは断片的でしたが、その後、回を重ねて膨大な量の情報を提供してまいりました。それが多くの書物(霊言集)となって残されております」

祈り
ああ、大霊よ。何はさておき、あなたへの感謝の祈りを捧げることから始めさせていただきます。この驚異に満ちた宇宙のすべてに、あなたの神性の刻印が押されているからでございます。あなたの無限なる知性がこの宇宙を創り出されたからでございます。それを動かすのもあなたの無限なる愛であり、それを維持するのもあなたの無限なる叡智だからでございます。

あなたの霊が千変万化の生命の諸相に行きわたり、その一つ一つの活動をあなたの摂理が認知いたしております。あなたの子等が最高度に魂を高揚された次元において行う行為に顕現されるのは、ほかならぬあなたの神性なのでございます。

あなたは子等のすべてに、あなたの神性の種子を植えつけられました。したがって、この地上生活中のみならず、それを終えたあとの霊の世界においても、あなたと子等の間には、切ろうにも切れない絆があるのでございます。

地上に生をうけている者は、いずこにいようと、いかなる地位にあろうと、階級・肌の色・民族・国家の別なく、すべてあなたの生命の一部であり、あなたの摂理によって維持され、あなたの霊性によって結ばれているのでございます。

かくして子等は、永遠にあなたと結びつけられているのであり、忘れ去られることも、無視されることも有り得ないのでございます。あなたの不変・不易の摂理が、愛と叡智の配剤のもとに支えているのでございます。

わたしどもは、子等が霊と精神と身体を存分に機能させることによって、内部にある神性を自覚し、霊的資質を発現し、あなたから譲りうけた遺産を、豊かで光輝にあふれた人生という形でわがものとしてもらうためには、いかに生きれば良いかを教えたいと念願しているところでございます。

人間は、あなたがその物的器官に宿された霊の資質を行使することによって、物質の領域を超えて高次元の世界の存在と交わることができます。その存在も、かつては物的牢獄に閉じ込められていたのを、今はそれを完全に超越して、愛と奉仕の気持から地上圏へ戻ってきているのでございます。

物質と霊の二つの世界が手を握り合い、霊力の流入を妨げている障害を取り除くことによってインスピレーションをふんだんに摂取し、これまであまりに永きにわたって、あまりに多くの者が閉じ込められてきた憂うつと暗黒を打ち払い、霊の光輝によって人生を豊かにすることができるようになることでしょう。

第7章 光の存在を知るのは闇があるからです
映画女優のマール・オベロンには婚約者(フィアンセ)がいた。そのフィアンセを空港で見送った数秒後に、オベロンの人生に悲劇が訪れた。フィアンセを乗せた飛行機が爆発炎上したのである。事故の知らせを聞いて、当然のことながらオベロンは芒然自失の状態に陥った。

その後間もなく、ふとしたきっかけからハンネン・スワッファーのMy Greatest Story(私の人生最大の物語)という本を手に入れ、その中に引用されているシルバーバーチの霊言を読んで心を動かされた。たった一節の言葉に不思議な感動を覚えたのだった。

オベロンはさっそくスワッファーを訪ねて、できればシルバーバーチという霊のお話を直接聞きたいのですが、とお願いした。その要請をスワッファーから聞いたシルバーバーチは快く承諾した。そして、事故からまだ幾日も経たないうちに、交霊会に出席するチャンスを得た。

その後、さらに幾人かの霊媒も訪ねてフィアンセの存在を確信したオベロンは、その霊的知識のおかげで悲しみのドン底から脱け出ることができた。

では、最初にシルバーバーチの交霊会に出席した時の様子を紹介しよう。当日、スワッファーが交霊会の部屋(バーバネルの書斎)へオベロンを案内し、まずシルバーバーチにこう紹介した。

「ご承知のとおり、この方は大変な悲劇を体験なさったばかりです。非凡な忍耐力をもって耐えていらっしゃいますが、本日はあなたのご指導を仰ぎに来られました」

するとシルバーバーチがオベロンに向かって――

「あなたは本当に勇気のある方ですね。でも、勇気だけではダメです。知識が大きな力になってくれることがあります。ぜひ理解していただきたいのは、大切な知識、大きな悟りというものは、悲しみと苦しみという魂の試練を通してはじめて得られるものだということです。人生というものは、この世だけでなく、あなた方が“あの世”と呼んでおられる世界においても、一側面のみ、一色のみでは成り立たないということです。光と影の両面がなくてはならないのです。

光の存在を知るのは闇があるからです。暗闇がなければ光もありません。光ばかりでは光でなくなり、闇ばかりでは闇でなくなります。同じように、困難と悲しみを通してはじめて、魂が自我に目覚めていくのです。もちろん、それは容易なことではありません。とても辛いことです。でも、それが霊としての永遠の身支度をすることになるのです。なぜなら、地上生活のそもそもの目的が、地上を去ったあとに待ちうける次の段階の生活にそなえて、それに必要な霊的成長と才能とを身につけていくことだからです。

これまでにたどられた道も、決してラクではありませんでした。山あり、谷あり、そして、結婚という最高の幸せを目前にしながら、それが無慈悲にも一気に押し流されてしまいました。

あなたは何事も得心がいくまでは承知しないかたです。生命と愛は果たして死後にも続くものなのか、それとも死をもってすべてが終わりとなるか、それを一点の疑問の余地もないまで得心しないと気が済まないでしょう。そして今、あなたは死がすべての終わりでないことを証明するのに十分なものを手にされました。

ですが、わたしが察するところ、あなたはまだ本当の得心を与えてくれる事実のすべてを手にしたとは思っていらっしゃらない。そうでしょ?」

オベロン「おっしゃる通りです」

「こういうふうに理解なさることです――これがわたしにできる最大のアドバイスです――われわれ生あるものは、すべて、まず第一に霊的存在であるということです。霊であるからこそ生きているのです。霊こそ存在の根元なのです。生きとし生けるものが呼吸し、動き、意識を働かせるのは、霊であるからこそなのです。その霊があなた方のいう神であり、わたしたちのいう大霊なのです。その霊の一部、つまり大霊の一部が物質に宿って、次の段階の生活にふさわしい力を身につけるために地上体験を積みます。それはちょうど、子供が学校へ通って、卒業後の人生にそなえるのと同じです。

さて、あなたも、他のすべての人間と同じく、一個の霊的存在です。物的なものはそのうち色あせて朽ち果てますが、霊的なものは永遠であり、いつまでも残り続けます。物質の上に築かれたものは永続きしません。物質は殻であり、入れ物にすぎず、実体ではないからです。地上の人間の大半が幻影(まぼろし)を崇拝しております。キツネ火を追いかけているようなものです。真実のものを発見できずにいます。こうでもない、ああでもないの連続です。本来の自分を見出せずにいます。

大霊が愛と慈悲の心からこしらえた宇宙の目的・計画・機構の中の一時的な存在として人生をとらえ、自分もその中での不可欠の一部であるとの理解がいけば、たとえ身にふりかかる体験の一つ一つの意義はわからなくても、究極においては全てが永遠の機構の中に組み込まれているのだ、という確信は得られます。

霊にかかわるものは決して失われません。死は消滅ではありません。霊が別の世界へ解き放たれるための手段にすぎません。誕生が地上生活へ入るための手段であれば、死は地上生活から出るための手段ということができます。あなたはその肉体ではありません。その頭でも、目でも、鼻でも、手足でも、筋肉でもありません。つまり、その生物的集合体ではないということです。

それはあなた自身ではありません。あなたという別個の霊的存在が、地上で自我を表現していくための器官にすぎません。それが地上から消滅したあとも、あなたという霊は存在し続けます。

死が訪れると、霊はそれまでに身につけたものすべて――あなたを他と異なる存在であらしめている個性的所有物のすべて――をたずさえて、霊界へまいります。意識・能力・特質・習性・性癖、さらには愛する力、愛情と友情と同胞精神を発揮する力、こうしたものはすべて霊的属性であり、霊的であるからこそ存続するのです。

真にあなたのものは失われないのです。真にあなたの属性となっているものは失われないのです。そのことをあなたが理解できるできないにかかわらず、そしてまた確かにその真相のすべてを理解することは容易ではありませんが、あなたが愛する人、そしてあなたを愛する人は、今なお生き続けております。得心がいかれましたか?」

オベロン「はい」

「物的なものはすべてお忘れになることです。実在ではないからです。実在は物的なものの中には存在しないのです」

オベロン「私のフィアンセは今ここへ来ておりますでしょうか」

「来ておられます。実は先週も来られて、霊媒を通じてあなたに話しかける練習をなさったのです(※)。しかし、これはそう簡単にいくものではないのです。ちゃんと話せるようになるには、大変な訓練がいるのです。でも、あきらめずに続けて出席なさっておれば、そのうち話せるようになるでしょう。ご想像がつくと思いますが、彼は今のところ、非常に感情的になっておられます。まさかと思った最期でしたから、感情的になるなという方が無理です。とても無理な話です」

※――オベロンがスワッファーに出席の申し込みをした時点から霊団側はフィアンセと連絡を取っていたことが、これでわかる。交霊会は毎週金曜日の夜に行われた。

オベロン「今どうしているのでしょう? どういうところにいるのでしょうか。元気なのでしょうか」

この質問に、シルバーバーチは司会のスワッファーの方を向いて、しみじみとした口調で(※)

「このたびの事故は、そちらとこちらの二人の人間にとって、よほどのショックだったようですな。まだ今のところ調整ができておりません。あれだけの事故であれば、無理もないでしょうね」と述べてから、改めてオベロンに向かって――

「わたしとしては、若いフィアンセが、あなたの身近にいらっしゃることをお教えすることが、精一杯あなたの力になってあげることです。彼は今のところ何もできずにおります。ただお側に立っておられるだけです。これから交信の要領を勉強しなくてはなりません。霊媒を通じてだけではありません。ふだんの生活において、考えや欲求や望みをあなたに伝えることもそうです。それは大変な技術を要することです。それができるまでは、ずっとお側に付き添っているだけでしょう。

あなたの方でも、心を平静に保つ努力をしなくてはいけません。それができるようになれば、彼があなたに与えたいと望み、そしてあなたが彼から得たいと望まれる援助や指導が、確かに届いていることを得心なさることでしょう。

よく知っておいていただきたいのは、そうした交信を伝えるバイブレーションはきわめて微妙なもので、感情によってすぐ乱されるということです。不安・ショック・悲しみといった念を出すと、たちまちあなたの周囲に重々しい雰囲気、交信の妨げとなる壁をこしらえます。

心の静寂を保てるようになれば、平静な雰囲気を発散することができるようになれば、内的な安らぎを得るようになれば、それが、わたしたちの世界から必要なものを受けるための最高の条件を用意したことになります。感情が錯乱している状態では、わたしたちも何の手出しもできません。受容性、受け身の姿勢、これが、わたしたちが人間に近づくための必須の条件です」

このあと、フィアンセについて幾つかプライベートな内容の話が交わされてから、シルバーバーチがこう述べた。

「あなたにとって理解しがたいのは、多分、あなたのフィアンセが今はこちらの世界へ来られ、あなたはそちらの世界にいるのに、精神的にはわたしよりもあなたの方が身近な存在だということでしょう。おわかりになりますか。彼にとっては、霊的なことよりも地上のことの方が気がかりなのです。問題は、彼が霊的なことについて何も知らずにこちらへ来たということです。一度も意識にのぼったことがなかったのです。

でも、今では、こうした形であなたが会いに来てくれることで、彼も、あなたが想像する以上に助かっております。大半の人間が死を最期と考え、こちらへ来てからも記憶の幻影の中でのみ暮らして、実在を知りません。その点あなたのフィアンセは、こうして最愛のあなたに近づくチャンスを与えられ、あなたも、まわりに悲しみの情の壁をこしらえずにすんでおられる。そのことを彼はとても感謝しておられますよ」

オベロン「死ぬ時は苦しがったのでしょうか」

「いえ、何も感じておられません。不意の出来事だったからです。事故のことはお聞きになられたのでしょ?」

オベロン「はい」

「一瞬の閃光のうちに終わりました」

スワッファー「この方もそういうふうに聞かされております」

「そうでした。本当にあっという間の出来事でした。それだけに、長い休養期間が必要なのです」

オベロン「どれくらい掛かるのでしょうか」

「そういうご質問には、お答えするのがとても難しいのです。と申しますのは、わたしたちの世界では、地上のように時間で計るということをしないのです。でも、どのみち普通の死に方をした人よりは長く掛かります。急激な死に方をした人はみな、ショックを伴っているからです。いつまでも続くわけではありませんが、ショックはショックです。もともと霊は、肉体からそういう離れ方をすべきではないからです。そこで調整が必要となるのです」

さらにプライベートなメッセージを聞かされたあと――

オベロン「彼は今しあわせと言えるでしょうか。大丈夫でしょうか」

「しあわせとは申せません。彼にとって霊界は精神的に居心地がよくないからです。地上に戻って、あなたといっしょになりたいという気持の方が強いのです。それだけに、あなたの精神的援助が必要ですし、彼自身の方でも自覚が必要です。これは過渡的な状態であり、彼の場合は大丈夫です。霊的な危害(※)が及ぶ心配がありませんし、そのうち調整がなされることでしょう。

宇宙を創造なさった大霊は、愛に満ちた存在です。わたしたち一人一人に存在を与えてくださったその愛の力を信頼して、何事もなるべくしてそうなっているのだということを知らなくてはなりません。今は理解できないことも、そのうち明らかになる機会が訪れます。決して口先で適当なことを言っているのではありません。現実にそうだから、そう申し上げているのです。

あなたはまだ人生を物質の目でごらんになっていますが、永遠なるものは、地上の尺度では正しい価値は計れません。そのうち正しい視野をお持ちになることでしょうが、本当に大事なもの――生命・愛・本当の自分、こうしたものはいつまでも存在し続けます。死は生命に対しても、愛に対しても、まったく無力なのです」

※――邪霊による妨害と誘惑のことで、愛の絆のある霊たちが出迎えてくれるのは、それを防ぐ意味もある。

別の日の交霊会で、英国のみならず海外でも活躍している古くからのスピリチュアリスト(氏名は公表されていない)が招待され、シルバーバーチは「霊的知識に早くから馴染まれ、その道をいちずに歩まれ、今や多くの啓示を授かる段階まで到達された人」として丁重にお迎えした。そしてこう語りかけた。

「思えば長い道のりでしたね。人生の節目が画期的な出来事によって織りなされております。しかし、それもすべて、一つの大きな計画のもとに、愛によって導かれていることに気づいていらっしゃいます。暗い影のように思えた出来事も、今から思えば計画の推進に不可欠の要素であったことをご存知です。あなたがご自分の責務を果たすことができたのも、あなた自身の霊の感じる衝動に暗黙のうちに従っておられたからです。

これより先も、その肉体を大地へお返しになるまでに課せられているあなたの仕事は、とても意義深いものです。これまで一つ一つ段階を追って多くの啓示に接してこられましたが、これから先も、さらに多くの啓示をお受けになられます。これまでは、その幾つかをおぼろげに垣間見てこられたのであり、光明のすべて、啓示のすべてが授けられたわけではありません。それを手にされるには、ゆっくりとした発達と霊的進化が必要です。わたしの言わんとしていることがおわかりでしょうか」

「よくわかります」

「これは一体どういう目的あってのことなのか――あなたはよくそう自問してこられましたね?」

「目的があることは感じ取れるのです。目的があること自体を疑ったことはありません。ただ、自分の歩んでいる道のほんの先だけでいいから、それを照らし出してくれる光が欲しいのです」

「あなたは“大人(おとな)の霊”です。地上へ来られたのはこの度が最初ではありません。それはわかっておられますか」

「そのことについては、ある種の自覚をもっております。ただ、今ここで触れるつもりはありませんが、それとは別の考えがあって、いつもそれとの葛藤が生じるのです」

「わたしにはその葛藤がよく理解できます。別に難しいことではありません。その肉体を通して働いている意識と、あなたの本来の自我である、より大きな意識との間の葛藤です。たわいないこの世的な雑念から離れて霊の力に満たされると、魂が本来の意識を取り戻して、日常の生活において五感の水際(みぎわ)に打ち寄せて、しきりに存在を認めてほしがっていた、より大きな自我との接触が得られます。

さきほどおっしゃった目的のことですが、実は霊の世界から地上圏へ引き返し、地上人類のために献身している霊の大軍を動かしている壮大な目的があるのです。無知の海に知識を投入すること、それが目的です。暗闇に迷う魂のために灯火(ともしび)をかかげ、道を見失った人々、悩める人々、安らぎを求めている人々に安息の港、聖なる逃避所の存在を教えてあげることです。

わたしたちを一つに団結させている大いなる目的です。宗教・民族・国家、その他ありとあらゆる相違を超越した大目的なのです。その目的の中にあって、あなたにもあなたなりの役目が担わされております。そして、これまで数多くの魂の力になってこられました」

「ご説明いただいて得心がいきました。お礼申し上げます」

「わたしたちがいつも直面させられる問題が二つあります。一つは、惰眠(だみん)をむさぼっている魂の目を覚まさせ、地上で為すべき仕事は地上で済ませるように指導すること。もう一つは、目覚めてくれたのはよいとして、まずは自分自身の修養から始めなければならないのに、それを忘れて心霊的な活動に夢中になる人間を抑制することです。大霊は決してお急ぎになりません。宇宙が消滅してしまうことは決してありません。摂理も決して変更になることはありません。じっくりと構え、これまでに啓示されたことは、これからも啓示されていくことがあるとの証明として受け止め、自分を導いてくれている愛の力は、自分が精一杯の努力を怠りさえしなければ、決して自分を見捨てることはないとの信念に燃えなくてはいけません」

この老スピリチュアリストは、今回の交霊に備えて三つの質問を用意していた。次にその問答を紹介しよう。

「私の信じるところによれば、人間は宇宙の創造主である全能の神の最高傑作であり、形態ならびに器官の組織は大宇宙のミクロ的表現であり、各個が完全な組織をそなえ、特殊な変異は生まれません。しかし一体、その各個の明確な個性、顔つきの違い、表情の違い、性向の違い、そのほか知性・身振り・声・態度・才能等の差異も含めた、一見して区別できる個性を決定づけている要素は何なのでしょうか」

「これは大変な問題ですね。まず、物質と霊、物質と精神とを混同なさらないでください。人間は、宇宙の自然法則にしたがって生きている三位一体の存在です。肉体は物的法則にしたがい、精神は精神的法則にしたがい、霊は霊的法則にしたがっており、この三者が互いに協調し合っております。こうして、法則の内側にも法則があることになり、時には矛盾しているかに思えても、その謎を解くカギさえ手にすれば、本質的には何の矛盾もないことがわかります。

法則のウラに法則があると同時に、一個の人間のさまざまな側面が交錯し融合し合って、つねに精神的・霊的・物的の三種のエネルギーの相互作用が営まれているのです。そこでは三者の明確な区別はなくなっております。肉体は遺伝的な生理法則にしたがっており、精神は霊の表現ではあっても、肉体の脳と五官によって規制されております。つまり霊の物質界での表現は、それを表現する媒体である肉体によって制約を受けるということです。かくして、そこに無数の変化と組み合わせが生じます。霊は肉体に影響を及ぼし、肉体もまた霊に影響を及ぼすからです。これでおわかりいただけましたでしょうか」

「だいぶわかってまいりました。これからの勉強に大いに役立つことと思います。では次の質問に移させていただきます。人間はその始源――全生命の根源から生まれてくるのですが、その根源からどういう段階をへてこの最低次元の物質界へ下降し、物的身体から分離したあと(死後)、こんどはどういう段階をへて向上し、最後に“無限なる存在”と再融合するのか、その辺のところをお教えいただけませんか」

「これもまた大きな問題ですね。でも、これは説明が困難です。霊的生命の究極の問題を、物的問題の理解のための言語で説明することは、とてもできません。霊的生命の無辺性を完全に説き明かす言語は存在しません。ただ端的に、人間は霊である、ただし大霊は人間ではない、という表現しかできません。

大霊とは、全存在の究極の始源です。万物の大原因であり、大建築家であり、王の中の王です。霊とは生命であり、生命とは霊です。霊として、人間は始まりも終わりもなく存在しています。それが個体としての存在を得るのは、地上にかぎって言えば、母胎に宿った時です。物的身体は霊に個体としての存在を与えるための道具であり、地上生活の目的はその個性を発揮させることにあります。

霊界への誕生である死は、その個性をもつ霊が巡礼の旅の第二の段階を迎えるための門出です。つまり霊の内部に宿されている全資質を発達、促進、開発させ、完成させ、全存在の始源によりいっそう近づくということです。人間は霊である以上、潜在的には大霊と同じく完全です。しかし、わたしは、人間が最後に大霊の生命の中に吸収されてしまうという意味での“再融合”の時期がくるとは考えません。大霊が無限であるごとく、生命の旅も発達と完全へ向けての無限の過程であると主張します」

「よくわかります。お礼申し上げます。次に三つ目の質問ですが、今おっしゃられたことである程度まで説明されておりますが、人間は個霊として機械的に無限に再生をくり返す宿命にあるというのは事実でしょうか。もし事実でないとすれば、最低界である地上へ降りてくるまでに体験した地球以外における複数の前世で蓄積した個性や特質が、こんどは死後、向上進化していく過程を促進もし、渋滞もさせる、ということになるのでしょうか。私の言わんとすることがおわかりでしょうか」

「こうした存在の深奥にふれる問題を、わずかな言葉でお答えするのは容易なことではありませんが、まず、正直に申して、その輪廻転生論者がどういうことを主張しているのか、わたしは知りません。が、わたし個人として言わせていただけば――絶対性を主張する資格がないからこういう言い方をするのですが――再生というものが事実であることは、わたしも認めます。そのことに反論する人と議論するつもりはありません。理屈ではなく、わたしは現実に再生して戻ってきた人を大ぜい知っているのです。どうしても再生しなければならない目的があってそうするのです。地上にあずけてきた質(しち)を取り戻しに行くのです。

ただし、再生するのは同じ個体の別の側面です。同じ人物とは申しておりません。一個の人間は氷山のようなものだと思ってください。海面上に顔を出しているのは、全体のほんの一部です。大部分は海中にあります。地上で意識的生活を送っているのは、その海面上の部分だけです。死後もう一度生まれてくる時は、別の部分が海面上に顔を出します。潜在的自我の別の側面です。二人の人物となるわけですが、実際は一つの個体の二つの側面ということです。

霊界で進化を続けていくうちに、潜在的自我が、常時、発揮されるようになります。再生問題を物質の目で理解しようとしたり、判断したりしようとなさってはいけません。霊的知識の理解から生まれる叡智の目で洞察してください。そうすれば得心がいきます」

祈り
自然法則の一大パノラマの中に……

ああ大霊よ。無限なる設計者、王の中の王、全大宇宙機構を考案し、叡智によってそれを維持し、愛によってそれを動かしている、崇高なる知性にあらせられるあなた――そのあなたに、わたしたちは少しでも近づき、その無限なる叡智の宝庫から、永遠に続く求道(ぐどう)の旅に必要なものを摂取したいと願っているところでございます。

あなたは無限なる存在であり、あなたについてのわたしたちの認識は必然的に限りあるものとならざるを得ません。したがって、あなたの全体像を理解することは不可能なのでございます。

わたしたちは、果てしなき規模で顕現している宇宙の全生命を経綸する、自然法則の一大パノラマの中にあなたを見出しております。あなたは一部の人間が考えているがごとき、嫉妬心に燃える我儘(わがまま)な暴君ではございません。誰一人として特別に寵愛(ちょうあい)することもなければ、誰一人として特別に呪(のろ)うこともない、無限の知性にあらせられるのでございます。

あなたはその経綸のために絶対的原理を設けられました。原因に対しては必ずそれ相当の結果が自動的に、そして途切れることなく発生するように定められたのでございます。あなたに近づく者、あなたの意志を調和し、あなたの御心を表現する者は、その実りを、静寂と確信とにあふれた生活、輝きと豊かさに満ちた生活の中に刈り取ることになるのでございます。

不幸にしてあなたを見出し得ない者は、暗黒と無知の霧の中に迷い込み、行き先を見えなくする影にいつも取り囲まれていることになるのでございます。

人類の霊的救済に立ちあがったわたしたちにとって、そうした不幸な人々、困窮者、喪の悲しみに暮れている人々、病に苦しむ人々、重荷に耐えかねている人々、道を見失って、いずこへ向かうべきかが分からずにいる人々に手を差しのべることこそ任務と心得ております。進むべき道を照らし出す灯台としての真理を見出させてあげることが、わたしどもの願望なのでございます。

われわれの送り届けようとする霊力が、今、霊的真理と叡智の豊かさを受け入れる用意のある者に広めたいと願う地上の多くの同志を通して、ますます力強く顕現されていることに感謝の意を表したいと思います。

かくして人類は、徐々にではあっても確実に、混沌と利己主義とどん欲と戦争に背を向ける方向へと突き進むことになりましょう。そして霊力がますます人々の生活の中に顕現していくにつれて、平和の勢力がますます勢いを増し、やがて地上天国も現実のものとなることでございましょう。

その目標へ向けてわたしどもは祈り、そして努力するものです。

第8章 真理を知らないでいることは暗闇の中を歩くことです
半世紀以上にもわたって催された交霊会に出席するために、ロンドンのモーリス・バーバネルの私宅を訪れた人は、数も多ければ人物も多彩だった。海外旅行のハイライトとしてやってくる人もいれば、ロンドン市内から気軽に訪れる人もいた。

十一歳のジョン少年もその一人で、これが最初の交霊会への出席だった。幼いときに妹を失い、こんどは父親を不慮の事故で失って、母親と二人きりになったが、母親がシルバーバーチを通じて聞いていた二人からのメッセージをいつもジョンに語って聞かせていたので、十一歳の少年ながら、すでに死後の世界の存在を自然に信じるようになっていた。

まず、シルバーバーチの方からお父さんがここに来てますよと言い、二人ともジョン君と同じようにわくわくしている様子を告げると――

ジョン「ぼくは、妹のことをよく知らないんです」

「でも、妹の方はジョン君のことをよく知ってますよ」

ジョン「ぼくがまだ小さかった時に見たきりだと思います」

「いいえ、その小さい時から、今のように大きくなるまで、ずっと見てきております。ジョン君には見えなくても、妹の方からはジョン君がよく見えるんです。同じように目が二つあっても、ジョン君とは見え方がまったく違うのです。壁やドアを突き通して見ることができるんですから……」

ジョン「そうらしいですね。ぼく、知ってます」

「ジョン君のような目を持っていなくても、よく見えるんです。霊の目で見るのです。霊の目で見ると、はるか遠い先まで見えます」

ジョン「妹は今年でいくつになったのですか」

「それはとても難しい質問ですね。なぜ難しいかを説明しましょう。わたしたち霊の成長のしかたは、ジョン君たちとは違うのです。誕生日というのが無いのです。年齢(とし)が一つ増えた、二歳になった、というような言い方はしないのです。そういう成長のしかたをするのではなく、霊的に成長するのです。言い方をかえると、完全(パーフェクト)へ向けて成長するのです」

ジョン「パーフェクトというのは何ですか」

「パーフェクトというのは、魂の中のすべてのものが発揮されて、欠点も弱点もない、一点非のうちどころのない状態です。それがパーフェクトです」

ジョン「言いかえれば、ピースですか(※)」

※―― peace(ピース)には戦争の反対の平和という一般的な意味以外に、日本語で表現できない精神的な意味がいくつかある。が、十一歳の少年がそう難しい意味で使うはずはないし、さりとて平和でもないので、原語のままにしておいた。

「そうです。パーフェクトになればピースが得られます。しかし実をいうと、“これがパーフェクトです”と言えるものは存在しないのです。どこまで行っても、それは永遠に続く過程の一つの段階にすぎないのです。いつまでも続くのです。終わりというものが無いのです」

ジョン「でも、パーフェクトに手が届いたら、それが終わりとなるはずです」

「パーフェクトには手が届かないのです。いつまでも続くのです。これは、ジョン君には想像できないでしょうね? でも、ほんとにそうなのです。霊的なことには始まりも終わりもないのです。ずっと存在してきて、これからも休みなく向上していくのです。ジョン君の妹も大きくなっていますが、地上のように身体(からだ)が大きくなったのではなくて、精神と霊とが大きくなったのです。成熟したのです。内部にあったものが開発されたのです。発達したのです。でも、身体のことではありませんよ。だから、いくつになったかは地上のことだけで、こちらでは言えないのです。

そんなことよりも、ジョン君に知ってほしいことは、もうわかってきたでしょうけど、妹とお父さんはいつも側(そば)にいてくれているということです。これは、まだまだ知らない人が多い、大切な秘密です。いつもいっしょにいてくれているのです。ジョン君を愛し、力になってあげたいと思っているからです。

このことは、人に話しても信じてくれませんよね? みんな目に見えないものは存在しないと思っているからです。このことを知らないために、地上では多くの悲しみが生じております。理解すれば“死”を悲しまなくなります。死ぬことは悲劇ではないからです。あとに残された家族にとっては悲劇となることはあっても、死んだ本人にとっては、少しも悲しいことではありません。新しい世界への誕生なのです。まったく新しい生活の場へ向上して行くことなのですから……。ジョン君もそのことをしっかりと理解してくださいね。妹のことは小さい時に見たことがあるので、少しは知っているでしょ?」

ジョン「今この目で見てみたいです」

「目を閉じれば見えることがあると思いますよ」

ジョン「この部屋にいる人が見えてるようにですか」

「まったく同じではありません。さっきも言ったように“霊の目”で見るのです。霊の世界のものは肉眼では見えません。霊の世界の音も、肉体の耳では聞こえません。

今お父さんが、とてもうれしいとおっしゃってますよ。もちろんお父さんは、ジョン君のことは何でも知っています。いつも面倒をみていて、ジョン君が正しい道からそれないように導いてくれているのですから……」

ジョン「ぼくに代わって、礼を言ってくださいね」

「今の言葉はちゃんとお父さんに聞こえてますよ。ジョン君にはまだちょっと理解するのは無理かな? でも、ジョン君がしゃべることも、みんなお父さんにはわかるのです。フラッシュとなってお父さんのところに届くのです」

ジョン「どんなフラッシュですか」

「ジョン君が何かを考えるたびに、小さな光が出るのです」

ジョン「どんな光ですか。地上の光と同じですか。ぼくたちの目には見えないのでしょうけど、マッチをすった時に出るフラッシュのようなものですか」

「いえ、いえ、そんなんじゃなくて、小さな、色のついた明かりです。ローソクの明かりに似ています。それにもいろんな色があるのです。考えの中身によって、みんな色が違うのです。地上の人間の思念は、そのように色彩となってこちらへ届くのです。

わたしたちには人間は色彩のかたまりとなって映ります。いろんな色彩をもった一つのかたまりです。訓練のできた人なら、その色彩の一つ一つの意味を読み取ることができます。ということは、隠しごとはできないということです。その色彩が、その人の考えていること、欲しがっているもの、そのほか何もかも教えてくれます」

ジョン「スピリチュアリズムについて知ると、どういう得をするのでしょうか」

「知識はすべて大切です。何かを知れば、知らないでいた時より、その分だけ得(とく)をします。真理を知らないでいることは、暗闇の中を歩くことです。ジョン君はどっちの道を歩きたいですか」

ジョン「光の中です」

「でしたら、少しでも多くの真理を知らなくてはいけません。知識は大切な財産です。なぜなら、生きるための知恵は知識から生まれるからです。判断力が生まれるからです。知識が少ないということは、持ち物が少ないということです。わかりますね?

ジョン君は今、地球という世界に住んでいます。自分では地球は広いと思っても、宇宙全体からみれば、ほんのひとかけらほどの、小さな世界です。でも、その地球上に生まれたということは、その地球上の知識をできるだけ多く知りなさいということなのです。それは、次の世界での生活にそなえるためです。

さて、スピリチュアリズムのことですが、人生の目的は何なのかを知ることは、とても大切なことなのです。なぜなら、人生の目的を知らないということは、何のために生きているかを知らずに生きていることになるからです。そうでしょ? ジョン君のお母さんは前よりずっと幸せです。なぜかというと、亡くなったお父さんや妹のことについて、正しい知識を得たからです。そう思いませんか」

ジョン「そう思います。前よりも助けられることが多いです」

「ほら、ジョン君の質問に対する答えがそこにあるでしょ? さて次の質問は?」

ジョン「地上の人間が発明するものについて、霊の世界の人たちはどう思っていますか。たとえば原爆のことなんかについて……」

「これは大きな質問をされましたね。地上の人たちがどう考えているかは知りませんが、わたしたちが考えていることを正直に申しましょう。

地上の科学者は、戦争のための実験と研究にはっぱをかけられて、その結果として原子エネルギーという秘密を発見しました。そしてそれを爆弾に使用しました。しかし本当は、その秘密は人類が精神的・霊的にもっと成長して、それを正しいことに使えるようになってから発見すべきだったのです。もうあと百年か二百年のちに発見しておれば、地上人類も進歩していて、その危険な秘密の扱い方に手落ちがなかったことでしょう。

今の人類は、まだまだうっかりミスの危険性があります。原子エネルギーは益にも害にもなるものを秘めているからです。ですから、今の質問に対する答えは、地上人類が精神的・霊的にどこまで成長するかにかかっている、ということになります。わかりますか」

ジョン「最後におっしゃったことがよくわかりません」

「では、説明のしかたを変えてみましょう。原子エネルギーの発見は、時期が早すぎたということです。人類全体として、まだ自分たちが発見したものについて正しく理解する用意ができていなかったために、それが破壊の目的のために利用されてしまったのです。もし十分な理解ができていたら、初めから有効な目的のために利用されていたことでしょう。

そこで最初の質問に戻りますが、もしも地上の科学者のすべてが正しい知識、霊的なことについての正しい知識をもっていれば、そうした問題について悩むこともなかったことでしょう。出てくる答えは決まっているからです。霊的な理解ができていれば、その発見のもつ価値を認識して、その応用は人類の福祉のためという答えしか出てこないからです」

ジョン「それが本当にどんなものであるかがわかったら、正しい道に使うはずです」

「その通りです。自分の発明したものの取り扱いに悩むということは、まだ霊的理解力ができていないということです」

ジョン「幽霊と霊とは、どう違うのでしょうか」

「これはとてもいい質問ですよ。幽霊も霊の一種です。が、霊が幽霊になってくれては困るのです。地上の人たちが幽霊と呼んでいるのは、地上生活がとても惨(みじ)めだったために、いつまでも地上の雰囲気から抜け出られないでいる霊が姿を見せた場合か、それとも、よほどのことがあって強い憎しみや恨みを抱いたその念がずっと残っていて、それが何かの拍子に、その霊の姿となって見える場合の、いずれかです。

幽霊さわぎの原因は、大てい最初に述べたタイプ、つまり、地上世界から抜け出られない霊のしわざである場合が多いようです。死んで地上を去っているのに、地上で送った生活、自分の欲望しか考えなかった生活が、その霊を縛りつけるのです」

ジョン「もう質問はありません」

「以上のわたしの解答に、ジョン君は何点をつけてくれますか」

ジョン「ぼく自身がその答えがわからなかったんですから……」

「わたしの答えが正しいか、間違っているか、ジョン君にはわからない――よろしい! わからなくてもかまいません。大切なのは次のことです。

ジョン君は地上の身近な人たちによる愛情で包まれているだけでなく、わたしたち霊の世界の者からの大きな愛情によっても包まれているということです。目には見えなくても、ちゃんと存在しているのです。何か困ったことがあったら、静かにして、わたしか、お父さんか、妹か、誰でもいいですから、心に念じてください。きっとその念が通じて、援助にまいります」

別の日の交霊会で、同じ原爆の問題が取り上げられ、次のような質問が出された。

「国家が、そして人類全体が、原爆の恐怖に対処するにはどうすればよいでしょうか」

「問題のそもそもの根元は、人間生活が霊的原理に支配されずに、明日への不安と貪(どん)欲、妬(ねた)みと利己主義と権勢欲によって支配されていることにあります。残念ながら、お互いに扶(たす)け合い、協調と平和の中で暮らしたいという願望は見られず、自分の国を他国より優位に立たせ、他の階層の者を犠牲にしてでも自分の階層を豊かにしようとする願望が支配しております。

すべての制度が、相も変わらず、唯物主義の思想を土台としております。唯物主義という言葉は、今日ではかなり影をひそめてきているかも知れませんが、実質的には変わっておりません。誰が何と言おうが、この世はやはりカネと地位と人種が物を言うのだ、と考えております。そして、それを土台として、すべての制度をこしらえようとします。永遠の実在が無視されております。人生のすべてを目で見、耳で聞き、手で触れ、舌で味わえる範囲の、つまり、たった五つの感覚で得られる、ほんの僅かな体験でもって判断しようとしています。

しかし、生命は物質を超えたものであり、人間は土くれやチリだけで出来ているのではありません。化学・医学・原子、こうしたもので理解しようとしても無駄です。生命の謎は、科学の実験室の中で解明される性質のものではありません。魂をメスで切り裂いたり、化学的手法で分析したりすることはできません。なのに、物質界の大半の人間は、霊的実在から完全に切り離された生活を営んでおります。物質こそ生命と思い込んで、最も大切な事実、全生命の存在を可能ならしめているところの根元を無視しております。

地上の全生命は、“霊”であるがゆえに存在しているのです。あなたという存在は“霊”に依存しているのです。実在は物質の中にあるのではありません。その物的身体の中には発見できません。存在のタネは身体器官の中を探しても見つかりません。あなた方は今の時点において、立派に霊的存在なのです。死んでこちらへ来てから霊的なものを身につけるのではありません。母胎に宿った瞬間から(物的身体をたずさえた)霊的存在であり、どうもがいてみても、あなたを生かしめている霊的実在から離れることはできません。地上の全生命は霊のおかげで存在しているのです。なぜなら、生命とはすなわち霊であり、霊とはすなわち生命だからです。

死人が生き返ってもなお信じようとしない人は別として、その真理を人類に説き、聞く耳をもつ者に受け入れられるように、何らかの証拠を提供することがわたしたちの使命の大切な一環なのです。人間が本来は霊的存在であるという事実の認識が人間生活において支配的要素とならないかぎり、不安のタネは尽きないでしょう。今日は原爆が不安のタネですが、明日はそれよりもっと恐ろしい、途方もないものとなるでしょう。

が、地上の永い歴史を見れば、力による圧政はいずれ挫折することは明らかです。独裁的政治は幾度か生まれ、猛威をふるい、そして消滅していきました。独裁者が永遠に王座に君臨することは有り得ないのです。霊は絶対であり天与のものである以上、はじめは抑圧されても、いつかはその生得権を主張するようになるのです。

魂の自由性(※1)を永遠に束縛することはできません。魂の自在性(※2)も永遠に拘束し続けることはできません。自由性と自在性は、ともに魂が決して失ってはならない大切な条件です。人間はパンのみで生きているのではありません。物的存在を超えたものなのです。精神と魂とをもつ霊なのです。人間的知性ではその果てを知ることのできない巨大な宇宙の中での、千変万化の生命現象の根元的要素である霊と、まったく同じ、不可欠の一部なのです。

※1―― freedom 外部からの束縛・強制がないという意味での自由。
※2―― liberty 心に囚(とら)われがないという意味での自由。


以上のような真理が正しく理解されれば、すべての恐怖と不安は消滅するはずです。来る日も来る日も煩悶と恐れを抱き、明日はどうなるのかと案じながら生きることがなくなるでしょう。霊的な生得権を主張するようになるのです。霊は本来、自由の陽光の中で生きるべく意図されているからです。内部の霊的属性を存分に発揮すべきなのです。

永遠なる存在である霊が拘束され、閉じ込められ、制約され続けることは有り得ないのです。いつかは束縛を突き破り、暗闇の中で生きることを余儀なくさせてきた障害のすべてを排除していきます。正しい知識が王座に君臨し、無知が逃走してしまえば、もはや恐怖心に駆られることもなくなるでしょう。

ですから、ご質問に対する答えは、とにもかくにも、霊的知識を広めることです。すべての者が霊的知識を手にすれば、きっとその中から、その知識がもたらす責務を買って出る者が出てくることでしょう。不安のタネの尽きない世界に平和(やすらぎ)を招来するためには、霊的真理、視野の転換、霊的摂理の実践をおいて、他に手段は有り得ません。

ストレスと難問の尽きない時代にあっては、正しい知識を手にした者は、“真理の使節”としての自覚をもたねばなりません。残念ながら、豊かな知識を手にし、悲しみの中で大いなる慰めを得た人が、その本当の意義を取り損ねていることがあります。

霊媒能力は神聖なものです。いい加減な気持でたずさわってはならない仕事なのです。ところが不幸にして、大半といってよい霊媒が自分の能力を神聖なものとは自覚せず、苦しむ者、弱き者、困り果てている人たちのために、営利を度外視してわが身を犠牲にするというところまで行っておりません。

また、真理の啓示を受けた者――長いあいだ取り囲まれていた暗闇を突き破って、目もくらまんばかりの真理の光に照らされて目覚めたはずの人間の中にさえ、往々にして我欲が先行して、滅私の精神が忘れられていくものです。まだまだ浄化が必要です。まだまだ精進が足りません。まだまだ霊的再生が必要です。

真理普及の仕事を託された者にわたしから申し上げたいのは、現在のわが身を振り返ってみて、果たして自分は当初のあの純粋無垢の輝きを失いかけてはいないか、今一度その時の真摯なビジョンにすべてを捧げる決意を新たにする必要はないか、時の流れとともに煤(すす)けてきた豊かな人生観の煤払いをする必要はないか……そう反省してみることです。

霊力の地上へのいっそうの顕現の道具として、おのれの全生活を捧げたいという熱意にもう一度燃えていただきたいのです」

祈り
ではお終いに、皆さんとともに、調和と愛の力によって可能なかぎり波長を高め、心配事や悩み事などの雑念を払い、内奥の魂を顕現せしめ、全存在の創造主、全創造物の統治者にあらせられる大霊に近づき、その尊き力と栄光による祝福を賜るべく、お祈りいたしましょう。

ああ、真白き大霊よ。あなたの子であり、あなたに似せて作られているわたしどもは、ささやかな叡智の蓄えに少しでも多くを加えるべく、敬虔さと真摯さと誠意とをもって、あなたに近づかんとしているところでございます。

これまでに学んだ知識は、あなたについての誤った認識を改めさせ、無限なる霊であるあなたに一層近づかせてくれました。あなたの霊妙不可思議な摂理が、あなたがこしらえられたこの宇宙に存在する生きとし生けるものすべてを制御し、規制し、維持しているのでございます。

あらゆる存在が、あらゆる生きものが、あらゆる動物が、あらゆる小鳥が、自然界のあらゆる生命が、あなたの摂理の恒常性と正確さに賛嘆の敬意を表しております。この果てしなき宇宙の全存在に完ぺきな配剤がなされているからでございます。自然界の全側面が、その一つ一つの動きに至るまで経綸している自然法則の命令にしたがって、調和とリズムをもって動いているのでございます。

狂いなき軌道にそって回る恒星、地軸上を自転しつつ公転をくり返す地球、規則正しく巡りくる四季、野菜・果物・花・樹木等々の植物、そしてあなたの神性をミニチュアの形で宿している子等の活動、こうしたものはすべて、荘厳なる全大宇宙を支えるその崇高なる力の発現にほかなりません。

それと同じ力の発現を物質界を超越した高き次元の境涯において見届けてきたわたしどもは、時の経過とともに、賛嘆の念が薄れるどころか、ますます強烈さを増し、この宇宙的大機構の中にあってわれわれなりに貢献せねばという気持を、畏怖の念とともに抱くのでございます。

そこでわたしどもは、こうした教訓を説き、範を垂れ、知識を広めることによって、聞く耳をもつ者、受け入れる用意のある人々に永遠不滅の真理を届け、彼らを一層あなたに近づかせ、また互いに近づかせ、光輝と威厳と尊厳と気高さの中に生きることを可能ならしめたいのでございます。真実の自我に目覚めた者は、ぜひそうあらねばならないのです。

かくしてわたしどもは、無知と頑迷と憎しみを生み出す暗黒を駆逐し、混乱と無秩序、敵意と貪欲を追い払い、破滅へと導く利己的物質万能主義を排除して、愛が支配し霊的真理が息づく平和の中で暮らせる地上天国を招来するために、微力を捧げる所存でございます。

訳者あとがき
シルバーバーチの霊言が始まったのは一九二〇年、霊媒のバーバネルが十八歳の時でしたが、正式に記録に残すことを始めたのは、多分一九三〇年代、つまりハンネン・スワッファーが司会者(さにわ)となって定期的に開催するようになってからであろうと推察されます。

まだテープ録音というものがなかった当初は速記によって記録され、その後テープに録音されて保存されるようになりましたが、一般公開、つまり市販を目的として録音されたものは、“Silver Birch Speaks”と題するカセットが一つあるだけです。これに“S.B.1”という記号がついているところをみると、つづいて“S.B.2”“S.B.3”……と出していく予定だったことが窺われますが、バーバネルが一九八一年七月に他界するまでにそれが実現しなかったのは、返すがえすも残念なことです。

このたびコスモ・テン・パブリケーションの厚意ある企画によって、その唯一のカセットテープの中から冒頭の祈り、いわゆるインボケーションの部分を電話でお聞かせできることになり、大変うれしく思っております。

本来この企画はそのシルバーバーチの生の声――といっても声帯はバーバネルのものなので、本当の意味での“ナマ”とは言えないかも知れませんが、その声も語り口も、ふだんのバーバネルとはまったく異なります――を聞きたいという、多くのファンのご要望にお応えするのが目的で考え出されたものですが、折しもあちらこちらで、シルバーバーチが出たとか、シルバーバーチと語りませんか、といった、言わば霊言のモノマネをして金儲けを企む者が現れはじめた事態に対処する必要が生じてきたことも事実です。つまり、ホンモノを紹介しておこうというわけです。(※現在はコスモ・テン・パブリケーションの企画は行われておりません。代わってハート出版より、CD版が発売されております)

本書の編者のオーツセンがサイキックニューズ紙上でこんなことを言っております。

(要旨)

「いかなる霊媒でも、高級霊をこちらから呼び出すことはできない。愛を絆として、向こうから出てくるのである。どんな霊でも呼び出してみせると豪語する霊媒は、霊能養成会に戻って一からやり直すしかない」

これを裏返せば、低級霊なら呼び出せることになりますが、事実その通りで、神話・伝説上の神さまや天使、歴史上の人物の名をなのって出てくる霊はみな低級霊で、パフォーマンスよろしく、それらしく語ってみせます。中には本当に自分は神さまのつもりで、大まじめで語っているおめでたい霊もいるようですが……

同じく低級霊でも、その種のイタズラ霊とは別に、因縁霊・地縛霊の類も呼び出すことができますが、この場合は霊媒の背後霊団が連れてきて、霊媒の言語中枢が使えるように手取り足取りの指導をしているのであって、その大半が、自分が他人(霊媒)の身体に宿っていることを知らないまましゃべっております。

いずれにしても、低級霊の場合は高次元の話はしませんから、ただ言語中枢を使って低次元のことばかりペラペラしゃべることになります。名前だけは仰々しいのに、言っていることは軽薄短小で、何の感興も湧いてこないという印象をうけるのは、その辺に理由があります。

その点、高級霊になると波長の関係で直接的に霊媒を操作できませんから、シルバーバーチの場合のインディアンのように、霊界の霊媒を使用せざるを得なくなります。その連係プレーがスムーズに行くようになるまでには大変な予備練習が必要ですから、そう易々と出てこられるはずがないのです。そんなわけですから、たとえ三顧の礼をつくしてお願いしても、シルバーバーチはもう二度と出てこないことを、私がここに断言しておきます。

これを別の角度から見れば、高級霊ないしは、そこそこの霊的覚醒を得た霊になると、宇宙というものが厳然たる摂理と計画性のもとに運行していることを知っていますから、お呼びが掛かったからといって、すぐに安請け合いでノコノコと出てきて、わずか三十分や一時間そこらのインタビューに応じるはずはないのです。

これは人間界でも同じではないでしょうか。要職にある人物が、電話一本で、どこの誰だか知らない人のところへ出向くものでしょうか。ましてや“神”や“天使”のタイトルのついた霊がそう簡単に出てくるはずはないのです。うっかり出ようものなら、霊界のお笑いぐさにされてしまいます。もっとも、出ようにも出られないのですから、そんな気の毒なことになる心配はご無用ですが……

結局のところ“霊言”と称しているものには、高級霊による計画的なもののほかに、イタズラ霊によるモノマネ的なもの、低級なのに本人は高級と思っている霊によるもの、腹話術等による詐術的なもの、そして、ただ書いただけの創作もの、こうしたものがあることになります。これは日本に限ったことではありません。モーリス・バーバネル著『これが心霊の世界だ』(潮文社)の中にこんな一節があります。

「詐術にもよく出会った。これには意図的にやっているものもあれば、無意識のうちにやってしまうものもある。いずれにせよ、この世界での詐術を私ほど多く暴いた人間もいないのではないかと思う。私にそれができたのは、取りも直さず、ホンモノを見てきているからである。結局ニセモノはホンモノのコピーなのである。もしもホンモノが存在しなければ、ニセモノも存在しないはずである」

ではホンモノを見聞きする機会のない一般人はどうするか――この問い、ないしは悩みに対して私がいつもお答えしているのは、心霊科学をしっかり勉強してほしいということです。目に見えない知的存在の実在を証拠づけてくれた、十九世紀から二十世紀にかけての英米の科学者による業績に目を通して、霊の実在と死後の存続についての確信と、霊的原理についての理解を身につけていただきたいのです。

それなしに一足飛びに霊言や自動書記といったいわゆる霊界通信を手当り次第に読みあさるのは、言わば、のべつ駄菓子をつまみ食いするようなもので、それでは肝心の食事どきに食欲が出ないように、真偽もわからないまま片っ端から霊界通信の類を読んでいると、ホンモノに出会った時にその良さがわからないということになります。

高級霊による啓示はそうやたらに届けられるものではありませんし、また、そうたくさん必要でもありません。私にとってはこのシルバーバーチの霊言と、このたび改訳新版(上)が発行されたばかりのモーゼスの『霊訓』、それにオーエンの『ベールの彼方の生活』――私の手もとにホンモノと思える霊界通信がいくつもある中で、――この三つだけは何年たっても、何回読んでも、いつ読んでも、生きていることの喜びと、生きる勇気と、宇宙へのロマンをかきたててくれる宝として大切にし、また、こうして日本の同胞のために翻訳してご紹介しているわけです。

このたび、十分とは言えないまでも、そのシルバーバーチのナマの霊言をお聞かせすることができることになって、大変うれしく思います。(中略)これが愛読者の皆さんのシルバーバーチへの親密感を深める縁(よすが)となれば、と心から願っております。
平成元年十一月  近藤干雄