第36節 戦争による中断
長年にわたる離脱体験の中で自分の幽体が霊界旅行から帰ってきて再び肉体に『入り込む』ところを私自身は見たことがない。が、両手が入り込むところは一度だけ見ている。
第二次世界大戦の最中のことであるが、日曜日の真昼に私の店にいて離脱した。気がつくと明るい界で、ある儀式が執り行われるのを見ていた。実に奇麗な芝生の上に色鮮やかな衣装をした人が大勢集まっていた。
その時いきなりバン、バン、という音がして、私は肉体に引き戻された。私はてっきり爆弾が破裂したと思っていたが、肉体に戻ってよく聞いてみると、店のすぐ側を貨物用トラックがエンジン不調でしきりに爆発音を出しているのだった。私は先ほどの儀式がぜひ見たかったので、そのままの姿勢で背後霊に『どうかもう一度連れて行ってください』と心の中で念じた。すると間もなく離脱して同じ場所に来ていた。
再び明るい境涯での幸せそうな人々を見て、その体験の意味が分かり始めた。戦争で疲弊しきった、苦しみと悲しみと不安の地上世界から来てみて私は、地上人類に対する哀れみの情を強烈に感じた。同時に、言わば二つの世界の中間にいて、妙な孤独感を覚えた。つまり私はそこに見ている幸せそうな人々の仲間でもなければ、さりとて、地上の仲間にそういう素晴らしい世界の存在を知らしめることも容易には出来ない。私が霊界にいて寂しい気持ちを味わったのはその時が初めてで、しかもその寂しさはさらに増幅されることになった。
というのは、指導霊が『今回をもって当分の間離脱は中止する。戦争の影響で危険になってきたからである。今回もこれにて帰る方がよい』と言い渡されたからである。これは私にとって大きな衝撃で、慰めと教訓の体験が中止されることに絶望感さえ感じた。指導霊が姿を現して私の側に立ったことにも意義があった。色彩鮮やかな衣装に身を包んだ背の高い霊で、その表情には私の落胆した心境を察しているのが窺えた。
その時ほど霊界の環境の『実質性』と澄み切った美しさを印象深く感じたことはない。同時に、私には虚しさも禁じ得なかった。何か記念になるものを持ち帰れないものかと考えたりした。そんなものがあろうはずはない。しかも時は刻々と過ぎていく。私は思わずしゃがみ込んで両手で土をしっかりと掴んで、よしこれを持って帰ろうと決意した(その時さぞ指導霊は笑って見ていたことであろう!)。
そうした決意をよそに、私の幽体は肉体へと戻され、やがて椅子の中で体重を感じた。続いて握りこぶしのまま腕が肘掛けの上で重さを感じ始め、やがてそのこぶしがほどかれて、まるで手袋の中に突っ込むように、すっぽりと肉体の手の中に入っていった。霊的なものから物的なものへの、この造作もない移行は実に自然で、私は霊界の土が落ちているはずだと思って足下へ目をやったほどだった。
その夜、私は体外遊離が危険であることを実際に霊視させられた。爆撃を受けるのかと思っていたが、そうではなかった。長細い池があって、その中を金魚が一匹だけ泳いでいる。その両側の土手に網を手にした人相の好くない連中がその一匹を捕ろうとして待ち構えている。その金魚が自分だと直感した。
結局戦争という低次元の混乱が霊界の低級界の霊の活躍を広げることになったのだと私は考えている。それに、意識的な旅行をしている時は『玉の緒』を通じての生命力の補給が普通より多く要求されるので、そこに危険性があるということのようである。
私の霊界旅行の再開が許されるようになるまでには、それから少しの間があった。
第37節 上層界の単純素朴さ
光輝に満ちた上層界へ行く程、霊的真理の単純素朴さを思い知らされる。『光輝に満ちた』と表現したのは、その境涯全体に行きわたる明るさがまるで熱帯地方の真昼のように煌々と輝き、それでいて少しも不快感を与えないからである。その境涯へ来て受ける影響はいつも同じである。すなわち真理への悟りが一段と深まるような意識にさせられるのである。
環境そのものから発せられる波長が霊体に心地よい感じを与えてくれるし、そこの住民が自然に発散している友愛の念がさらに幸福感を与えてくれる。その友愛精神にはわざとらしさがなく、オーラの範囲の広さのせいで、少し近づいてもひしひしと感じられる。ただ、辺りの光輝のせいでオーラそのものは目に映じない。私がそれを確認出来たのは低級界へ下りて来られた時に、周りの環境との対照で際立って見えたからである。
その絶え間なく発散される友愛精神は他の存在への無条件の非利己性と思いやりと解釈出来る。
こう言うと単純に響くかもしれないが、その意味するところは絶大である。そこには階級、徒党、派閥といったものが全く存在しない。また、あら探し的態度、一方を弁護し他方を排斥しようとする態度が微塵もない。地上的交雑物のこじりついた宗派、門閥、ドグマといった、地上人類の分裂と流血の原因となってきたものが存在しない。
実に単純な話なのである。地上の数少ない霊的指導者が古くから説いてきた訓えそのままがそこで現実となっているまでで、表現を変えれば『お互いに愛し合う』ということである。これが地上で実現出来たら地上世界が一変するであろうことは容易に想像できる。『天にあるごとく地にあらしめ給え』――幾百億と知れぬ人々がその真の意味を理解しないまま、そう祈ってきた。が、繰り返すが、確かに地上の人間の一人一人がこの上層界の住民と同じように他の存在へ向けて友愛の精神で臨めば、地上人類の意識の次元が高揚されることであろう。
それは決して奇跡とはいえない。何事にも原因があっての結果である。宇宙の大精神すなわち神は極微の原子にいたるまで支配している。かの著名な天文学者ジェームズ・ジーンズは『神秘の宇宙』の中で、『宇宙が一個の巨大な機械ではなく、一つの偉大な思想体系のように思えてきた』と述べているが、至言である。
かつて無線電信が実験段階にあった頃『波長を合わせることが必要』ということが発見された。が、そうしたことに驚いた科学者が他界して霊の世界へ来てみると、そこにも次元の異なる波長をもった霊質の『物』が存在することを知ってさらに驚いている。霊的身体もそれに波長を合わせることによってその界層との接触を得ているのである。
従って波長の合った環境にいる限りその生活は地上と同じく実感があり、そこの存在物は『固い』のである。もっとも、こちらではそれ以外の興味ある発達が色々とある。例えば私の場合は意識が全開し、その界の波長と一致すると、視力が望遠鏡的に鋭くなり、鮮明度と色彩が地上では信じられない程鮮やかとなる。
例えば、ある時一見して地上の壁と変わらないレンガ塀を見ていると、レンガとそれを接合しているモルタルの粒子の一つ一つが鮮明に見えてきた。それが実に美しいのである。写真のプロが見たら焦点も深度と色彩も完璧と言うであろう。
そうした幸福な上層界を霊視した人間が古来それを様々な用語で表現してきている。インドではニルバーナ、西洋ではパラダイス、北欧神話ではバルハラ、ギリシャ神話ではエリュシオン、インディアンの信仰ではハピー・ハンティング・グランド、等々。下層界についても同じく様々な呼び方をしているが、今の私には、歴代の予言者達が実質的に同じ事を言ったのは少しも不思議ではないように思える。
第38節 神の公正
霊界での体験を重ねていると、単なる推測による判断を超えて、そこの住民の生の精神活動の中へ深く入り込んでいく。その結果として私が得た教訓を集約すると、基本的な霊的真理は霊界へ来てから学ぶよりも地上において学んでおく方がはるかに効果的だということである。
不思議に思う方がいるかも知れないが、事実、地上において築いた精神に霊的要素が欠けていると、霊界入りしてからも空のままなのである。そのハンディがどの程度の期間続くかは、『記憶がこしらえる世界』の見出しのところで幾つか例をあげたつもりである。
高い界層へ行くほど知識を多く、かつ幅広く入手出来るようになることは既に述べた。それは、高い波長になるほど高い指導を受け易くなるからである。ある時私は霊界入りしたばかりの人が明るい境涯で静かに座って体力の回復を待っているところを見かけ、その人達の思念とコンタクトしてみた。どうやらそれは『自分はこんなに幸せと楽しさに浴するだけのことをしてきたのだろうか』ということだった。
実は平凡な生活の中でもそれだけのことはしていたのである。神の摂理に決して誤りはないのである。心が友愛に満ち、他人への思いやりの情を失わない限り、たとえ霊とか宗教とかに縁がなくても、霊界へ来ると自動的に同じ波長の境涯へと引き寄せられていくのである。そこは当然明るい境涯であろうし、そこでさらに霊力と知識とを身につけて、進歩も楽しみ容易なものとなることであろう。といって、後に残していく親友や友人との縁が切れる心配は無用である。なぜなら高き者が低き者へ手を差し伸べることは常に可能だからである。
ここでご注意申し上げなければならないのは、私の霊界での体験は主として英国とヨーロッパに関連したものばかりであることである。これは勿論私の思考形態と生活習慣によるわけである。人間各自にそれぞれの波長があるごとく、各国、各民族にもそれぞれの波長がある。それを思うと『神の創造的思念』の広大さは人間的創造力を超越する。
霊界の先輩達はそれを『大数学者であり同時に大芸術家である』と表現しているが、確かにそう表現する他に用語がないであろう。
第39節 自由意志の問題
自由意志は地上にもあり霊の世界にもある。『意志を持つ』ということは『そう望む』ということであり、それを行為に移すか移さないかは別の問題である。ただ、界層が高くなる程善性が強くなる為、その行為が他に害を及ぼすことにはならないが、地上では、私が改めて指摘するまでもなく、色々と他人に迷惑を及ぼすことがある。それは要するに様々な進化の段階にある人間が地上という同一次元で生活しているからであり、行為までは及ばなくても思念だけで他人を傷つけることもありうる。
思念とは一種の電気的衝撃であり、霊的身体の持つテープレコーダー的性質によって記録されていく。ただし、永久的に保存されていくのは自分から発した、言うなれば自家発電的な思念だけで、それが蓄積されていわゆる『霊格』が定まっていく。言い換えれば『口から入るものがその人を汚すことはない。口から出るものがその人を汚すのである』(マタイ伝15・11)
第40節 時間の問題
上層界の思念の速さ、生活のテンポの速さは地上的な時間の感覚では理解出来ないことがある。が、まったく時間を超越しているわけではなく、あくまで相対的な違いであり、地上の時間的経過と並べてみるとその差が分かる。1957年の夏に私は一晩のうちに霊界で実に一週間の休暇を楽しんだことがある。
その時は離脱後に気がついてみると妻と共に、まるでおとぎ話の世界のような水と緑の土地にいた。青々とした芝生の岸辺にいて、目の前を静かなせせらぎが流れ、辺りの樹木の影が水面に映っている。全体が光輝によって美しい陰影が出来、それが全体の美しさを増している。
詩人なり作家なりがこの田園的風景の美しさを叙述すれば何章もの書物となることであろうが、それでもなお十分には言い尽くせないものがあるであろう。なぜなら、その界の霊妙な波長を受ける霊的身体ならではの感覚は、地上のいかなる詩人、いかなる名文家にも分からないからである。
さて、その場を離れる直前に私は『一週間』という感じを受けた。別に霊界には昼と夜の区別はないので日数を数えたわけではないが、何となくそれくらいの時間が経過したような印象を受けたのである。やがて妻と私は空中を移動したが、少し上昇したところでよく見ると、そこはスエズ運河のシナイ側のシャルファという地域の上空だった。そうと分かったのは、第一次大戦中にそこで海水浴を楽しんだことがあったからである。私は妻に戦場でなく楽しい思い出の場を見せることが出来て嬉しかった。
それからさらに上昇し、一面の砂漠を下に見ながら私は妻に『アレキサンドリアの近くにも素敵な浜辺が幾つかあるんだ』と言い、すぐにその一つに言ってみた。そして砂浜に立って海を見つめているうちに霊界での休暇が終わった。そして間もなく私は肉体に戻された。
ずっと上層界へ行けば時間的感覚は無くなるが、右に紹介した地上圏に近い幽界においては、行動の過程に伴って地上に似た一種の時間の経過があるようである。