第6節 霊界の妻と再会
こうした体験を通じて私は、神の摂理の完璧さを学び始めたといえる。最初の離脱体験で二つの霊のオーラが融合した時の以心伝心の素晴らしさを思い出して、私はこうした教訓は全て目に見えない一人の指導霊によって伝えられていることを悟り始め、さらにその後、私の理解力の成長に応じて、その後の全ての霊界旅行が教訓を目標として計画されていたことを知った。

私は、背後霊団はいずれ妻との再会のチャンスを案配してくれるものと確信していたが、それが間もなく実現した。三日後に離脱現象が起き、気がつくとこの度は田舎の小道に立っていた。

離脱現象の特徴の一つとして私が気がつき始めたのは、霊的身体は霊界のある一定範囲を超えると自然にスピードが増すということである。その時もそれを意識することが出来た。その感覚、ないしはバイブレーションは心地よいものだった。

私はまた妻が現れるものと期待していたが、なかなか姿を見せてくれない。そこで私の方から意志を妻に集中して、一言『おいで!』と言ってみた。すると少し間をおいて妻が同じ小道に姿を現し、私の方へ歩み寄ってきた。私は自分のテレパシーによる呼びかけが成功したことが嬉しかった。実に簡単でしかも自然に思えた。多分それはその後の数々の体験の為の一つの練習だったのだろう。

妻も嬉しそうだった。近づいてくるのを見て、妻の容貌が生前そのままであることを確認した。やがて二人のオーラが融合するとある種の変化が生じ、妻の容貌がずっと進歩した霊のそれに変わっていた。それまでに高級霊を何度か見たことがあるが、妻は完成された高級霊の容貌をしていた。間違いなく私のかつての妻である。が今はすっかり違っている。にもかかわらず私は、地上にいた時よりその時の方がより一層、本当の妻を理解していた。

地上の全人生と個性とがオーラの中に記録されており、オーラが融合し合うと、私と共に過ごした永年の生活が甦ってくる程で、たとえ目を閉じていても妻の容貌を正確に叙述することが出来たであろう。妻の方も私を地上時代以上に深く理解してくれていることも分かった。

二人の間に素晴らしい一体関係が出来ていることは、二人が同じ挨拶の言葉と同じ祝福の言葉とを同時に述べあったことから分かった。そうなってからは口を使って喋る手間が省けた。言葉ではじれったい程表現が遅くなった。二人が味わう幸福感がバイブレーションを高めているように思え、霊的一体感の中で信じられない速さで思念をやり取りすることが出来た。

無論こうした体験は私にとっては一時的なものに過ぎないのに、それが極めて自然に感じられた。ところが、後になって私はその間の会話の全てを肉体の脳へ持ち帰ることが出来ないことを知った。その理由については後で述べることにする。とにかく我々夫婦は、最初の出会いの時の失敗のことと、その時の出会いの嬉しさについて語り合ったことは確かである。

二人でどの位の時間を共に過ごしたかは知らないが、そのうちその界層のバイブレーションの高さが私に心地よい眠気を誘い始めた。私はそろそろ時間が来たと感じた。すると身体が穏やかに漂い始めた。この度の別れはいささかの寂しさもなかった――我々夫婦はもう一つの霊的法則を体験したのである。

肉体へ戻り、部屋の暗さと置き時計のカチカチという音を意識しながら、私はその妻との再会と、私が目にした言語に絶した完全さへの驚嘆の気持ちに満たされた。その完全さを説明するかのように、その時、私の精神にあるものが印象づけられた。それは『神の面影』という言葉で、それと共に天井が真珠の如き純白の大理石で出来た巨大な浅浮き彫りで覆われた。

どうやら霊の名匠が宇宙の最高の名匠(神)を讃えているようであった。

第7節 中国人の指導霊
これまで私は、私の初期の体験を順を追って説明してきた。これで私の霊界旅行がどのようにして始まったかがお分かり頂けると思うが、その後の旅行はそれとは全く性格の異なるものとなっていった。

その後、指導霊はどうやら私の霊的身体を肉体から離す要領を会得したようだった。それは私にとっては有り難いことだった。というのは、精神統一を永く続け、その間ずっと意識を保ち続けるということは根気のいることであり、精神的にも疲れることだからである。

ベッドに入ると私はただ気持ちを落ち着け、今夜も新しい体験があることを祈念するだけである。どうやら私は毎晩のようにそれを期待していたのではないかと思う。それは望むべくもないことなのである。後で思い知らされたのであるが、数々の条件が整わなければならなかったのである。しかも、いざ離脱が起きるとなると、背骨を下から上へ強烈な電流が波打つように上昇してきて、首筋の辺りで絶頂に達するか、或はみぞおちの辺りに衝撃を感じ、ベッドを揺らす程に全身が激しく揺れるかの、いずれかの現象が起きる。

その頃、ある霊視能力者を訪ねたところ、年輩の中国人の姿が見えると言い、さらに、

「その中国人があなたをマグネタイズ(磁気を帯びさせる、磁気化する等の意味がある)していると言っています。その意味はともかくとして・・・」と述べた。私にはそのマグネタイズされた時はそれと確認出来た。

その中国人は最初の離脱の時に部屋の中で見かけた背後霊団の一人である。その時の感じはシワが多く笑顔がチャーミングということだった。地上では薬草店を開いていたという。

肉体から離れている時間が次第に長くなっていった。その間必ずしも意識が持続されているわけではない。というのも、一晩のうちに次元の異なる界層を三つから四つも往復することがあり、波長を環境に合わせている間は無意識で、次に意識が戻った時は別の界層にいるのだった。

また離脱中の意識はある種のエネルギーを補充されているかのように、弱ってきたなと思っていると強くなってくる。そのエネルギーが『魂の緒』(肉体と霊体とを繋ぐ銀色をした紐)を通じて肉体から送られてくるのか、それとも指導霊が直接注入してくれるのか、そのへんのことはよく分からない。

指導霊は私の離脱中の体験の全てに通じているとも限らないようである。というのは、プロの霊視家を訪れて霊界での体験を私の指導霊と確認し合うと、知らないことが驚く程多いのである。

霊媒の中には、霊界を訪れると地上生活に嫌気がさすおそれがあるので訪れないことにしている――よくよくのことがある時しか訪れないと言う人がいる。私にはその気持ちはよく分かるが、私の場合は妻に会い我々二人の子供達の為に地上に帰ってくるという生活が出来て有り難いと思っている。

初めのうちは体験のメモを取っていたが、間もなく止めた。というのは、思い出そうと思えば、書き記したもの以上のことを鮮明に、しかも残らず全部を思い出すことが出来ることが分かったからである。霊界で意識的に目撃したことは地上の出来事より遥かに鮮明に、精神に印象づけられている。実に際立った形で思い出され、地上の記憶のように、他の記憶とごっちゃになることがない。

そこで私は、霊界の事情や霊の生活についての霊側からの通信はとかく混乱しているので、地上の人間である自分が見聞きしたことをそっくりそのまま持ち帰れば、いい霊界物語が出来上がると考えた。

ところが実際にやってみると、そう簡単にいかないことが分かった。というのは、霊界の事情についての質問には『イエスでもありノーでもある』と答えざるを得ないものが非常に多いのである。正解はその霊が所属する界層によって異なってくる。同じ問題を扱っても、ある霊にとって『イエス』であることが他の霊にとっては『ノー』であることもあるということである。

第8節 幻覚でないことの証
心霊能力をお持ちでない方が私の体験は果たして本当か、幻覚ではないのかと質問されるのも無理からぬことであろう。そこで私は、ここで二、三の体験を紹介して、その関連性から私の霊界体験が想像上のものでないことを証明しようと思う。もっとも、本当の確信はご自分で体験される以外にないことを一応強調しておきたい。

さて私は、離脱中に地上を見物したいと思ったことはない。霊界の方がはるかに面白いからである。が、一度だけ例外がある。1939年のことであるが、二人の娘が休暇でワイト島へ遊びに行った時のことである。距離にして90マイル程離れている。ある日、昼食を終えてから、二人がいないのを寂しく思いながら椅子に腰掛けて、心の中で娘のところへ連れて行って欲しいと念じてみた。

やがて気がつくと私は二人の娘が歩いているすぐ後ろを歩いていた。辺りの景色は見えなかったが、二人は二、三ヤード離れて何やらキャッチボールのように投げ合いながら歩いている。するとその後ろから他の一人の女性が私を通過して(その時の私は地上の人間であってもいわば幽霊と同じ存在である)娘達の中間を通り抜けた。そのことに気づいていない長女が妹に向かって投げたものが、その婦人の背中に当たった。私はその娘の無礼さにオロオロした。するとその念が一気に肉体へと私を引き戻してしまった――霊的法則に従って。私はすぐさまその日時をメモしておいた。

ワイト島から肉体へ戻るのは三秒程だったらしい。一秒に三十マイルの計算になる。そうでなくてものろまの私が、帰りたくもないのに無理矢理に帰らされたことを思うと、これは大変なスピードというべぎであろう。

その後娘達が休暇から帰ってきて楽しい話に興じている時、私がいきなり長女に、何かを婦人に投げはしなかったかと聞いてみた。すると長女は顔を赤らめ、一方妹の方はクスクス笑いながら『姉さんたらボールを婦人の背中にぶつけちゃったの!』と言った。

娘の説明によると、私がメモを取った日の昼食後、二人が海岸へ行く道の両側に分かれてキャッチボールをしながら歩いていた時に、後ろから婦人が追い越して行くのに気がつかずに投げたボールが背中に当たったのだという。

もう一つの体験は交霊会に出席中のことで、一回きりの体験である。その時の椅子がひどく座り心地が悪いのでまさかと思っていたのであるが、指導霊が私を熱帯地方へ連れていって、ある樹木の下に降ろされた。そこで指導霊がエクトプラズムの詰まったメガホンを私に見せてくれた。それがいわゆる霊力の源であることを示してくれたのである。

その時の時間はほんの僅かで、私はすぐに交霊会の部屋へ戻り、わざと目を開かず、身動き一つしないでおいたのであるが、私の正面にいた年輩の婦人が大変な霊視能力の持ち主で、『私は今あなたが身体から脱け出して戻ってこられるのを目撃しましたよ』と言われた。

夜中に霊界を旅行すると、まだ生きているはずの人々をよく見かけることがある。もっとも魂の緒は見えない。地球から離れて非常に希薄になっているので、余程の高級霊にしか見えないのだと考えている。

次のような興味深い例がある。ある夜肉体を出て霊界の何かの記念パーティに出席していた。そこには昔と今の親戚が大勢いて、その中に現在一緒に暮らしている叔母と、数マイル離れたところで暮らしている甥の姿を見た。

翌朝その叔母が私を見て『昨晩は素敵なパーティに出席したんだけど、あなたもいらしてたわね』と言う。甥の方もそれを確認してくれるかと期待して尋ねてみたが、何一つ思い出してくれなかった。睡眠中は殆ど全ての人が霊的な体験をしているようである。それはいわゆる『夢』とは簡単に見分けがつく。霊的体験は極めて鮮明で、はっきり区別が出来る。

私はそうした体験を霊媒に確認してもらうことがよくある。そのうちの幾つかをあとで紹介するが、ある時、霊界の私の店(後で詳しく説明する)に立っていると突然、強い腕に抱きつかれた。振り返ってみると、霊界の友人の一人のアフリカ人だった。彼の腕から温かい友情が伝わってくる。私も嬉しくて彼のモジャモジャの縮れ毛をかきまわした。そして店の中にいる他の友人達に「おーい、こいつが来たぞ」と大声で言った。

残念なことに、その瞬間に私はその場から引き戻されるのを感じた。必死に抵抗したが肉体に戻されてしまった。それは真昼の離脱で、交通の騒音が原因だった。こうした突然の中止は何回か体験しているが、その原因は必ずしもそうした外的原因ではなく、魂の緒を通じてのエネルギーの補給不足が原因である場合もある。

そのことがあって間もなく、ある女性霊媒のところへ行ったところ、
「ここにアフリカ人が来ています。霊界でお会いしたと言ってますよ。それに、何か妙なことを言っています。あなたが地上に誕生する以前からあなたを知っていたとか・・・」
と言われた。

実はこのアフリカ人は私が心霊学を始めた頃からずっと私についていてくれて、何人かの霊能者によって目撃されている。私自身も霊視したことがあるが、霊界で会ったのはその時が最初だった。

同じく真昼に離脱した時のことであるが、今頃絶対に寝ているはずがないと思われる人を霊界で見かけることがある。どういうことだろうと思っていたらBilocation(バイロケーション)という単語が浮かんだ。これは『一度に二カ所に存在する』という意味である。そういえばスエーデンボルグも同じような体験を述べている。ある町を歩いていた同じ時刻に霊界で別の体験をしていたという。

第9節 その他の体験
一日のうちのいつということなしに体験し始めた霊的交信は、初心者の私にとってびっくりさせられることが多かった。背後霊達は私をありとあらゆる手段を使ってその存在を自覚させ、援助し、教育しようとしているようであった。大体において座り心地のいい椅子にでも腰掛けている比較的静かな時を狙って霊視や霊聴の形をとることが多かった。

が、普通の日常行動をしている最中でも突如として背後霊の存在を認識させ、難題を解いてみせることをすることもあった。そうしたことは霊能養成会に参加しているスピリチュアリストには珍しくないことであるが、ご存知ない読者もおられることであろうから、二、三例を挙げてみよう。

私の家にコンクリートで池をこしらえた時のことである。出来上がった日の夕方それに水を満たしておいたところ、翌朝見るとすっかり水が抜けている。コンクリートは厚目にしたつもりだったので、私の落胆は一通りでなかった。家に入って腰を下し、頭の中で背後霊にどこが悪いのか教えてほしいと頼んでみた。すると目の前に池が霊視され、その片隅から水が漏れているのが見えた。

私は早速外へ出て、その霊視された片隅を点検したが、他の隅と少しも変わったところはない。その時ふと、ポケットナイフで突いてみよう、という考えが浮かんだ。早速試してみるとナイフが簡単に突き刺さった。コンクリートを塗る時に空気を含んで、そこのところが卵形に薄くなっていたことが分かった。塗り直すことで簡単に修復出来たが、背後霊の助けがなかったら恐らく欠陥は見つからなかったと思われる。

年も押しつまったある日のこと、冬に備えて庭の手入れをした後、道具を点検すると、移植用のコテが行方不明であることが分かった。深く掘り起こした時、一緒に埋めてしまったらしい。やむなくそのままにして、翌年の春になり苗床を手入れしようとしてコテがないのに気づいた。その瞬間である。いつもの指導霊の存在を感じ、そのコテの埋められている場所がピンときた。苗床の一つの片隅へ一直線に歩いて行き、少し掘り起こすと出てきた。

私の人生でも特に忙しく立ち働いた時期のことであるが、私への警告の手段として自動車の排気音のような大きな騒音の中でもはっきりと聞き取れる程の声を聞かせてくれた。

例えばオイルパイプが外れているとか、道具箱が開けっ放しになっていて今にも盗まれそうになっているとか、テールライトが外れかかっているとか、死角になっているコーナーから車がやって来ているといったことだった。

ある時その警告を無視したことがあった。どこをどう点検しても落ち度が見当たらないのである。車は調子良く走っていた。そして素晴らしい直線の幹線道路へ出た時に、もう一度警告があった。が、なおも無視して二、三マイルも突っ走ったところでエンジンが弱くなり、ついに止まってしまった。調べてみるとオイルタンクが空になっていた!

予言もよくあった。椅子に腰掛けて寛いでいる時によくあった。あまり頻繁に起きるのでノートにメモしたことがある。

ある夜そのうちの一つが実現した。妻と近所の人と三人が玄関で立ち話をしていた時のことである。数件先の家が火事になった。私はその近所の人が私の予言について何も知らないことを忘れて、うっかりこう言ってしまった――「やっぱり私が見た部屋から出火しましたね」

それを聞いて、それはどういう意味かと尋ねるので、やむを得ず説明した。するとその人は軽蔑の笑みを浮かべたが、ノートを持ち出してきて書き込んである火事とその出火場所のメモを見せた。それを見た瞬間その人の表情が変わった。

そんなことがあって私は、同じく近所で起きる次の出来事の予言をその人に見せざるを得なくなった。二日後その人の奥さんがやって来て、興奮しながら「やはり起きました!」と言う。一瞬何のことか分からずに私は「何が起きたんですか?」と聞くと、「せんだって見せて頂いたメモのことですよ」と答えた。

第10節 幽体離脱のコツ
そうした地上生活での指導とは別に、私の背後霊は霊視力によって色々と教訓を授けてくれており、それが私の人生のあらゆる面でよきアドバイスとなり、なるほどと思わせられることが多い。その背後霊達の容貌や霊格の程度については他の霊視能力者を通じて納得のいく叙述を得ており、私は『はたして神のものか否か、霊を試せよ』との聖書の忠告をいながらにして実行しているわけである。

背後霊が私を首尾よく霊界旅行へ案内出来ている原因は、一つにはその背後霊に対する私の全幅の信頼感があると信じている。無論その信頼感は表面的なものであってはならず、絶対的なものでなければならない。なぜなら、物的精神に印象づけられたものは自動的に霊的精神にまで印象づけられるからである。霊界における思念の影響の大きさを考えれば、万一心の奥に不信の念を宿すと意識的離脱はどうなるか、とても保証は出来ない。霊界でも自由意志が大原則であり、幽体はその念の為に肉体に縛り付けられているのである。

書物を探す時でも指導してくれたことがある。ある時世界の宗教について研究していて図書館へ行ってみた時、何となく霊感を得て、普通なら気がつきそうにない場所から一冊の本を取り出した。それは特別どの宗教を取り扱ったものでもなく、古い中国の本の英訳本で、霊的発達について師が弟子に与えた教訓だった。その教訓が現代のスピリチュアリズムの教訓と完全に一致していることに非常に興味を覚えた。

その中に『霊的旅行』と題するイラストがあった。修行僧が結跏趺坐(けっかふざ)し、その上方に同じ人物の小さな像が描かれ、両者が細い紐で繋がっている。私の背後に中国人の霊がいることは知っていたが、そのイラストはこれといって私に格別の意味のあるものではなかった。

第一、両脚を交差させて座るという姿勢はおよそ私には真似の出来るものではない。私はベッドに横になるか、居心地良い椅子に腰掛けるかして、完全に楽な姿勢でなければならない。なぜかというと、離脱に際して私は肉体感覚をすっかり失うように努めるので、少しでも不快な感覚があるとその状態が達成出来ないのである。先に交霊会の席で座り心地の悪い椅子の中で離脱した話をしたが、あのようなことはあれ一度きりで、私も驚いたほどである。今思うとあれは一つの証拠として、前の席にいた霊視能力者に見せる為だったようである。いずれにせよ長続きはしなかった。

先に私は、多くの人が睡眠中に霊界旅行を体験していてそれを思い出せないだけだと述べたが、次のような訓練をすればそれを思い出す糸口になることが、私自信の体験で分かった。それは、朝目を覚ますと同時に精神を統一して記憶を遡ってみることである。

難しいのは精神を統一することである。私の場合、それが上手くいくと睡眠中の体験を包み込んだオーラが身体を取り囲んでいるのを感じる。物的精神によっても感触が得られる程である。物的精神と霊的精神との間はゴースのような繊細な糸で結ばれており、ちょっとした精神の乱れでそれが切れてしまう。一旦切れてしまうと、もはや回想不可能となってしまうので厄介である。

もう一つのちょっとした訓練も、私自身がやってみてとても効果的であることが分かっている。それは、日中に何か変わった出来事が起きたり、或は変わった光景を見たりした時は――例えばトラックが得たいの知れないものを積んでいるといったことでもよい――今見た光景は地上のことだろうか、それとも霊界のことだろうか、一体自分は本当にそこに居合わせたのだろうかと自問してみることである。

こうした訓練が内部へ向けての意識を開発するのである。これは根気よく続けて一つの習慣にしてしまわないといけない。そうなると霊界へ入った際にその意識が表面へ出て来るのである。

ご承知のとおり私の最大の願望は妻と会って一緒に霊界を探訪することである。そしてそれが二つとも叶えられた。私の場合、肉体から脱け出る際に自分の肉体や魂の緒を一度も見たことがない。それは脱け出る際に極度に受け身の精神となって雑念や辺りの光景を故意に無視しているからである。旅行中も同じ精神状態を保ち続ける。その状態は背後霊が私を各地へ連れて回る上で都合がよいはずである。というのは、霊的活動は全てが思念と同じ作用であり、私の雑念によって離脱が邪魔されたくないのである。そのせいか、本格的に霊界旅行をするようになってまだ一度も途中で中止されたことがない。

予定した目的地にもきちんと到着し、すぐに指導霊がそこの特殊な霊的状態について教えてくれた。背後霊団には私の霊界研究に関してきちんとした予定表が出来ていたようで、当然のことながら私に見せられるのは、地上の教育でも同じだが、その特徴をよく示している、言わば極端な例が多かった。