第11節 睡眠と死の共通点と相違点
私の父は他界後「なぜ人間は死を怖がるのだろうか。寝るのは少しも怖がらないくせに」と私に言ったことがある。大抵の人間は睡眠と死とは何の共通点もないかに考えているが、実際には似通ったところがあるのである。
睡眠中、幽体は肉体の少し上あたりに位置しているが、両者は魂の緒で繋がっている。この『紐』は電圧の実験で見られる二つの電極を繋ぐ長い連続的な閃光とどこか似ており、銀色の輝きをしているので、『銀の紐』(シルバーコード)と呼ばれることがある。朝、目が覚めた時に幽体が肉体と合体する。
死に際しても幽体が上昇するが、肉体機能の停止によってシルバーコードが自然に切れ、幽体はその本性に相応しい場所へ赴くことになる。その際、大抵指導霊が付き添い、死後の環境条件に適応する手助けをする。
よく寝入りばなに落下する感じ、或は『ベッドを突き抜けて落ちる』ような感じを体験する人が多い。これは、今述べた幽体が上昇しつつある時に何かの邪魔――例えば大きな音など――が入って急に肉体に引き戻される。それが落下の感じを覚えさせるのである。
これでお分かりの通り、地上の人間が意識的に幽体と離脱している間は死者の霊とよく似た状態にあると考えてよい。その間の肉体はごく普通の睡眠状態にある。後で叙述する私の体験が証明するように、少なくとも私の場合はそうである。
こうしたことが一般の常識となってしまえば、私の父と同じように「なぜ人間は死を怖がるのだろうか」という疑問が、真実味をもって感じられる。
第12節 記憶がこしらえる世界
初めの頃の訪問先は低級界が殆どで面白味のない世界だったが、それでも、いよいよ肉体に戻る前は必ずといってよいほど明るい境涯ないし界層へ連れていってくれた。これには理由があり、低級界の大気には執着性があってそれが不快な後遺症を生むことがあるからである。
一つの界層へ到達すると私にはすぐにその界の本性が知れる。というのも、幽体は極めて鋭敏で、その界の住民の思念を直接的に感じ取ってしまうのである。低級界の場合はそれが吐き気を催すほどと表現する以外に言いようがないほどの不快感を覚える。地上で味わういかなる不愉快さもそれとは比較にならない。というのも、地上では様々な思念が一度に襲ってくることはないが、霊界ではその界の特殊な思念が一つにまとまって一度に迫ってくるのである。
しかし、やむを得ずしばらく滞在する時は指導霊がその低級な波長を何らかの方法で中和してくれていた。幽界の殆どの下層界においては、私の幽体はそこの住民には見えていない。
下層界は地上とそっくりである。都会あり、町あり、村ありで、いずれも地上の現在のその地域の写しであるように思える。幽体がその界層と同じ波長を整えれば、そこの存在物は全て地上と同じく固く感じられる。
そうした地域性はその地域で他界した住民の精神の働きによって形成される――だから見覚えのある環境となっているのだということを、何かの本で読んだことがあるが、それは事実のようである。同時に、精神というものは細かな点まで再現する写真的ともいうべき記憶性を有していることも事実である。
一例をあげれば、ある町の通りに街灯を見かけたことがあるが、これなどは夜のない世界では不要のはずである。が、地上で見ていたその記憶が自動的に再現するのである。
この無意識の創造力についてある時、霊界の教師と話をしていた時に『その衣服はどこで仕入れられましたか』と聞かれたので、私は真面目に受け止めて地上の洋服店の名前を思い出そうとしたが思い出せなかった。実はその先生はそんなことを聞いたのではなかった。
その後で私の衣服を指差して『よく見てごらんなさい』と言われて改めて見ると、いつもの普段着を着ており、驚いたことに、チューブを強く押さえ過ぎて飛び散った歯磨きが全部取り切れずにシミになって残っているところまで再生されていた。
下層界の住民は大なり小なり霊的真理について無知である。自分が死んだことに気づかない者すらいるほどである。生活環境が変わったことに薄々気づいてはいても、夢幻の境にいるようで、はっきりとした自覚はない。こうした種類の人間は地上時代そのままの常識を携えており、彼らにとって『霊』は相変わらず曖昧な存在である。環境が地上と少しも変わらないからである。
これだけ体験と知識とを得た私ですら、霊界のどこかに到達した時は自覚がはっきりせず、まだ地上にいるような錯覚を抱いていることがある。そのうち前もって知識が表面に出てきて、やっとそこが霊界であることを認識する。
見かけたところ大抵の住民が満足している様子である。体調はいいし疲れを感じることもないからである。が、知識欲も好奇心も持たない。どうやら向上心というものは内部から湧き出るしかないというのが法則であるらしい。いつかはその時期がくるであろうが、地上時代に染み込んだ観念がそのまま霊界生活となっている人が多く、習慣がそのまま持続されているのである。その為、下層界では地上と同じ仕事が見られる――道路工事、工場での仕事、橋の建設、等々。炭坑夫が例の運搬車に乗って機嫌良さそうに鼻歌を歌っているのを見かけたことがある。
ある工場では溶接工が仕事をしているのを見物したことがある。火花といってもごく小さなもので、マスクもいらない程であるが、本人は大真面目で溶接しているつもりだった。見つめている私を見上げて『あんたもここで働いているのか?』と聞くので『いや、いや、ちょっと見物して回っているだけだ』と答えたことだった。
霊の世界では思念が『具体化』するようである。それで『物』が存在するように思える。進化するとその一種の創造力が別の形で活用されることになる。有名な心霊学者のF・W・H・マイヤースが死後送ってきた通信『永遠の大道』の中でこの下層界のことを『夢幻界』と呼んでいるが、至言である。
第13節 無知の報い
霊界旅行は次から次へと不思議なことや奇妙なことが見られるのでさぞ興奮に満ちたものであるかのように想像する人が多いが、事実はけっしてそんなものではない。初めの頃は私の連れて行かれたところは低級な、或は未発達の境涯が多かった。そして今も述べたように、そこは地球にそっくりであり住民もそこを地球とばかり考えているので、そこでの生活は陳腐で退屈極まるものが多く見受けられるが、しかしそこから私は何かを学ばねばならなかったのである。
そうした旅行を体験していると私は死後の世界について地上にいるうちに知っておく必要性をしばしば痛感させられる。例えば誰一人見当たらない学校の校庭の真ん中で二人の掃除婦がおしゃべりをしているのを側で聞いているのは不愉快極まるものである(私の姿は波長の違いで二人には見えない)。二人はもう一人の掃除婦が自分達が掃除することになっている校舎を掃除していることに対して、酷い口調で文句を言い合っているのである。
そこは『夢幻界』である。子供の霊がそんな学校へ通うわけがないのである。が掃除婦達はその誰一人いない校舎が少しも変だとは思わないのである。
私が覗いた工場は従業員でごった返しており、規律も流れ作業もない。みんなてんでに好きなこと得意なことをやっているようであり、また、同じことを何度でも繰り返し行っている。面白いのは、そうした記憶に焼き付いた仕事の思念がそのまま死後に持ち越されている一方で、『さぼる』習慣も持ち越されていることで、ベンチで大勢の者がたむろしているのを見かけた。見張りのいない工場はまさに労働者の天国であろう。
クリスマスが近づいた頃に案内された工場では、子供のおもちゃに色を塗っているところだった。やはり幼い頃のお祭りの季節の記憶がそのまま死後に反映しているようだった。その工場の外には大きな運動場があり、その中央に大きくてがっしりとしたステージが組み立てられているところだった。一体何に使うのだろうと思っていると私の指導霊が静かな口調で『従業員の娯楽の為です』と教えてくれた。
これまでに二度、霊界で『肉屋さん』を見たことがある。動物を屠殺することがありえないはずの世界でそんなものを見かけるのは、霊的知識をかじりかけた人には驚きであろうけど、これも純粋に記憶から生まれる思念の作用の結果であり、立派に実質があるように思えるのである。思念が全ての世界では地上の人間の常識を超えたことがいくらでもあるのである。
肉屋の場合も、お客さんの要望にお応え出来る立派なお店を、という地上時代の強い願望が具現化しているだけである。私が見かけた二つの店は比較的小さいものだったが、店先にはちゃんと肉がぶら下げてあった。輝くような美しい赤味をした肉を見かけたが、それはさしずめ『極上』なのであろう。
こうした夢幻界に何十年、何百年と暮らしている霊が多いということが不思議に思える方が多かろうと思うが、そういう霊を目覚めさせる為に交霊会を開いて招霊してみると、もう地上を去って霊界で生活している事実をいくら説いて聞かせても、断固として否定してかかるというケースがよくあるのである。スピリチュアリストがよく交霊会を開くのもその為である。
第14節 哀れな同胞達
こうした夢幻の境に生きている霊に関連した興味ある体験としては、ある時気がついてみると19世紀の帆船のデッキにいた時の話がある。正確に言うと大きなマストの近くで、少しずつ辺りの様子が分かってみると、帆から垂れ差がっているロープの数の多さにまず驚いた。『コツを知る』ということを『ロープの扱い方を知る』と表現することの意味がなるほどと得心がいった。それから甲板室の近くまで歩いてきた。その中に数人の者がいて、その部屋の酷さに文句を言い合っていた。
私の直感では彼らは港を出て間がないと思われるのに、あてがわれた甲板室が酷過ぎると考えているのである。私は中を覗き寝室を見て、大して悪くはないじゃないかと言ってみたが、それくらいのことで気の済む連中ではなく、これから襲ってくるであろう嵐のことを心配していた。嵐に遭ったのがいつのことなのか、夜番をしたことがあるのかを聞いてみるのも一興であったろうが、どうしてもその気になれなかった。多分そういう質問をどこかでして何の効果もなかったことがあるのであろう。
確かに彼らが文句を言うのも無理はなかった。チーク材で出来た本格的なものではなく、船大工のにわか造りの感じで、とても嵐には耐え切れそうになかった。しかしそうした連中に既に死んで『霊』となっている事実を説得することは、地上の平凡な人間を捕まえて死後の世界の話を聞かせるのと同じで、とても無理である。
初期の頃、私はしばしば、これらある事が起きる直前にその場へ連れて行かれることがあった。背後霊にはあらかじめその出来事が察知できるらしかった。気がつくと私はある建物の外に待たされていて、指導霊はどうやらその中で『指南』を受けているらしかった。それが終わって出てくると、私はまた無意識状態にさせられて、それから予定の地点へ連れて行ってくれた。
ある時、下層界の町で、普段着ではあるが身なりのきちんとした男性を何人か見かけたことがある。容貌と目つきに輝きがあり、円満そのもので、その辺の地域では非常に目立った。一見して私は、高級霊が使命を帯びて下りてきているのだと察した。そして、たまたまその人達の有する霊力の威力を見せつけられたことがあった。
ある時、下層界の町へ連れて行かれ、マーケットの真ん中に置かれた。見るとアフリカ人の男性が台の上に立って群衆に向かって何やら喋りかけていた。ジョークを言ったりおどけてみせたりして、みんなを笑わせて悦に入っていた。そこへ上級界からの使者の一人が通りかかり、チラリとその男の方へ目を向けた。するとその男の顔が憎しみに満ちた顔に一変し、荒々しい言葉を吐いた。
するとその使者は足を止め、厳粛な眼差しをその男へ向けて一言こう述べた――『私を侮辱するでない』、すると驚くべきことが起きた。男はまるで力を抜き取られたようにその場に崩れ、そして群衆の視界から消えた。使者は先を急がれ、角を曲がって姿が見えなくなった。すると間もなく男が必死にもがいて立ち上がり、もう大丈夫とみて、さらに酷い侮辱の言葉を一言吐いてから、再び群衆を相手におどけてみせていた。
ある時は十九世紀のロンドンの貧民街を思わせる通りに連れて行かれた。そこで一人の憂鬱そうな顔をした行商人が鞄を下げて家から家へと歩き回っており、それを、もう一人の長い頬ひげをたくわえた怒りっぽそうな顔をしたビクトリア朝風のダンディな男が見つめていた。
そう見ているうちに突然、そのダンディな男が大股で行商人に近づき、わざと片方の足を思い切り踏みつけた。行商人は痛みで悲鳴を上げ、足を抱えた。その瞬間に靴が消えて素足になっており、しかもその足から血が流れていた。
私はその男の前に立ちはだかって『何ということをするのですか!』と言った。すると『こいつが気に食わんのでな』と呟くように言いながら去って行った。行商人に目をやると、既に興奮もさめて、足には元通り靴を履いていた。やがて鞄を取り上げて、また行商を始めた。
私にはその行商人が痛がったことと出血とが驚きだった。それについての指導霊の説明はこうだった。
あの出来事では強い精神が弱い精神を圧倒し、痛みを与えてやろうと望んだ。それで行商人は傷つけられたという観念を抱いた。そこでつま先を握ろうとする意志が働き、それが自動的に靴を脱がせた。しかも傷つけられたという観念の強さから本人は出血を連想し、それで血が出た。そこへ私が立ちはだかったことで、痛みを与えてやろうという観念が行商人からそれた。それでたちまちのうちに回復した。
この『観念を抱く』作用と、その観念が『具体化する』作用は実に不思議である。ある時は、前にも出たある建物の前で待っているように指導霊に言われて立っていた。他にも数人の者が待っていた。その時私はうっかり霊界に来ていることを忘れて、何気なくポケットに手を突っ込んでタバコを取り出し、火をつけ、一服吸った。その味のひどさといったら、まるで布切れが燃えた時の煙のようで、思わずタバコを捨てた。その様子を見ていた若い男が『もう一度やってみていただけませんか』と言う。私は答えた。『いや、あれはただの地上の癖ですよ』。
この事で不思議なのは、もしもタバコが私の観念によって具体化したものならば、なぜその時いつもの『味』がしなかったのかという点である。指導霊がわざとそうしたのであろうか。後で気がついたことであるが、タバコに火をつけた時ライターに炎が見えなかった。霊界ではモノを燃やす炎を見かけたことがないのであるが、私の推測では、多分、霊質の成分が物質の基本成分であるから、それ以上には崩壊しないのであろう。このことは霊界の植物がしおれない理由と共通しているのかも知れない。
下層界の別の地域へ連れて行かれた時のことである。長い小屋の入り口の外で一団が待っていた。指導霊が私を案内してその一団の人々を突き抜け、さらに入り口のドアも突き抜けて中へ入った。これはいつもながら私が下層界でびっくりすることで、そこの住民からはどんな時に私の姿が見えているのかが自分では分からないのである。
中に入ってみると長いテーブルがいくつか置いてあり、その上に皿がズラリと並べられている。その皿の上には僅かばかりのパンが置いてあり、さらにそのパンの上にほんの僅かばかりのジャムが乗っている。指導霊の説明によると、ここに来る人達は霊界へ来てかなりの期間になるが、そのことが未だに理解出来なくて、そこで食べることへの欲求を少しずつ捨てさせる為に分量を少しずつ減らしているのだった。
ある時は小さい箱の上に腰を下ろしている私のところへ少年がにじり寄ってきた。近づくとドブの中でも歩いてきたのかと思いたくなるような、酷い悪臭がする。その子が私に話しかけようとするので、私は思わず『今ちょっと急いでいるのでね』と言ってその場から逃げた。その時ふと顔を見ると、それは子供ではなくて、萎縮した幽体をした、皺だらけの老人だった。
何年も前のことであるが、とても重々しい雰囲気の場所へ連れていかれたことがある。まるで夕闇のような暗いところだったが、そこにはみすぼらしい倉庫のような建物が立ち並んでいて、その一つを覗くと一団の兵士が軍隊用具を畳んで積み重ねているところだった。指導霊の話によると、彼らは一つ上の界層へ行くところだという。私はその中に顔見知りの兵士を見つけて、近づいて『まだ他に我々の隊の者がいるんですか』と聞いてみた。
その兵士は驚いて辺りを見回した。それで私は彼には私の姿が見えていないことを知った。ただ声だけが聞こえるのである。そのように私は下層界では姿が見えないので、ずいぶん多くの者が私の幽体を通過して歩いている。私には何の反応も感じられないのである。
第15節 喧嘩ばかりしている霊
前にも述べたが、下層界では地上時代の記憶や先入観の似通った者が親和力の作用で同じ境涯に集まって暮らしている。その境涯に身を置いてみると『支配的観念』というものがいかに強烈で顕著であるかがよく分かる。
私がこれまでに訪れた中で一番不快な思いをしたのは、いがみ合う習性が魂にこびりついてしまった気の毒な人間ばかりが住む町だった。その町の通りの一つに連れて行かれると私はいつものようにその土地の性質をすぐに感じ取った。それは、ただただ怖いという感じだった。見回すと――例によって私の姿はその土地の者には見えない――そこら中で罵り合っている。私の幽体の感覚がその土地の波長に近づくにつれて、彼らの思念が伝わってきた。邪悪で、無慈悲で、残忍そのものだった。
どうしようもない土地である。その地域全体の雰囲気が個々の人間の性質をますます悪化させている。私は耐え切れなくて、思わず背後霊に『連れ出してください』と言った。するとすぐに連れ出してくれて、今度は町外れの砂利だらけの土地へ連れてこられた。そこにはネズミや兎などのペット類の檻が沢山置いてあった。何の為かと尋ねると、指導霊の答えは、その辺りの人間は同胞に対しては全く愛情を持っていなくて、時折こうしたペット類を可愛がることがあるということだった。と言ってもそれは、愛というものを悟らせる為に、せめてペットでも飼うように、各自の背後霊が印象づけているのだった。
そこの状態は、人間はかくあるべきというものを全て否定した状態である。死後そのような状態、言い換えれば、そのような波長の界層に赴くに相応しい生活を送っている人間の宿命を考えてみられるがよい。僅かながらも残っていた愛すら奪い去られ、全体の殺伐たる雰囲気の中に呑み込まれてしまう。聖書の次の言葉がぴったりである。
『全て、持てる者は与えられて、ますます豊かにならん。しかれど、持たぬ者はその持てるものをも奪わるるべし』(マタイ25・29)
思念はすぐに幽体に感応する。そしてその思念が強ければ強いほど、その影響も大となる。例えば、真面目な知人同士が楽しい界層で出会えば、互いに楽しい思念を出し合って、それを互いの身体が吸収し合う。受ける側の楽しさが倍加され、それを返す楽しい思念もまた倍加されるわけである。こうした幸福感の倍増過程が電光石火のスピードで行われる界層があることを思えば、同じ法則が今述べた絶望的境涯においても働き、憎しみの念が倍加され、その結果として現出されていく地獄的状態は、およその想像がつくことであろう。
ある時は肉体から出た後、気がついてみると小さな家の外に腰掛けていた。その時はそこがどういう環境なのか、私の身体に何も感じられなかった。背後霊によって絶縁状態にされているらしかった。そのうち突如として私の身体が持ち上げられ、二人の背後霊が腕を交差させたその上に座らされた。そしてその二人の背後霊がおかしそうに笑う声が聞こえるので、私も思わず笑いだしてしまった。顔は見えないが、腕だけは見えていた。それから二人は私を腕に乗せたままその家の周りを走って一周し、それから玄関のところに下ろした。
一体何のことかわけが分からずにいると、その家から背後霊の一人が出てきた。今度は姿が見えた。早速私がここは一体どこなのかと尋ねると『低級思念の土地』と答えてくれた。それから私を案内してくれたのは、延々と続く陰気な湿地帯だった。その時は絶縁状態も切れていた。下水処理場のような悪臭がしてきた。
あちらこちらに哀れな姿をした人達がとぼとぼと元気なく歩き回っていたり、じっと立ち尽くしていたりしている。その土地の波長は実に陰湿である。背後霊が私を連れてくる前にあのようにふざけてみせて明るい雰囲気にしてくれたのもその為であることが理解された。それでもなお私は長く滞在出来ず、いつものように、ひとまず明るい境涯へ案内してもらってから肉体に戻ったのだった。
これは是非とも必要なことだった。と言うのは、私の身体はそれほど低劣な波長にさらされていて、テープレコーダーのような性質の為に、そのままではその低劣な波長がいつまでも残るのである。肉体に戻ってから記憶を辿ってその境涯の体験を思い出すと、程度こそ弱いが、その悪影響を同じ波長で感じ取ることが出来る。
幽界の下層界にはそうした劣悪な波長の境涯がいくつもあり、そこでの体験を述べることすら気が滅入る思いがするが、事実は事実として知っておく必要があることを考えて述べているのである。