第21節 地上とよく似た世界
前章で幽界でも面白みに欠ける下層界での体験を紹介したが、それより少し上層へ行くと、地上とそっくりで、しかも肉体から解放されて比較的自由な活動と霊的可能性を楽しんでいる境涯が存在する。退えい的でもなく、さりとて進化しているとも言えない。言ってみれば『気楽な境涯』で、これを適格に紹介するのは容易ではない。

一般的に言って霊は地上時代の思考の癖や生活習慣にしばらくの間固執するものである。田舎で生活した者は広々とした地域を好み、都会で生活した者は市街地を好むといった具合である。私が見た市街地は地上と同じように住民が大勢いて、ショッピングセンターのあるところなどは特に賑わっていた。

道路には様々な交通機関が見られるが、そこは想像の世界であるから、それを利用するのは地上でそういう機関を利用していた人達が主である。地上の様々な時代に生活した人達が集まっている為に、道路を走っている交通機関も様々な時代のものが見られ、結構楽しくもあり時には滑稽でもある。例えば近代的な車に混じってカーマニアによる手作りの車を見たこともある。

どんな気まぐれな思いつきでも、地上のような費用も労力もなしに楽しめるので、珍妙な格好をした三輪や四輪の車が見られる。それが結構制作者が思った通りに『進む』のである。ある時はノーフォークジャケット(ベルトの付いたシングルの上衣)と1906年頃のニッカーボッカーズ(膝の下にギャザーを寄せ、裾を絞りカフスを付けた半ズボン)の男が自転車に乗り、サドルの横に張り出しの座席をつけて、そこに子供を乗せているのを見かけた。

私は『永久運動機関』(注)を発明しようとして実現出来なかった研究家達は、霊界ではさぞ満足していることであろうと思う。なぜなら、ここではアイディアが全て実現するからである(注:エネルギーを消費しないで永久に動く機関のことで、一時これを求めて研究が行われたが、実現不可能という結論に達した)

これまでの体験で私は身体的な疲労を覚えたことは一度もないが、精神的に退屈感を覚えて気分転換を必要とする場合があるにはある。例えば、ある時非常に幅の広い自動車道をバスで走ったことがある。大変な長い距離で、その帰路で精神的に疲労を覚え始めた。往路で見た沿道の景色をいくつか覚えていたことが却ってまだまだ先があると思わせる結果となり、気分的に果てしないように思えてきた。多分この時の遠乗りはそうした精神状態を体験させる為だったに違いない。

この境涯には様々なタイプの家屋が見られる。相変わらず地上時代に住んでいた住居の感覚から脱け切れない者がいて、その周りに明らかに無用の付属物が見られる。が、一方には可能性に目覚めて、地上とは全く異質のものをこしらえている者もいる。かつての親戚や友人との接触も始まり、当然その結果として交友関係が広大なものとなっていく。

そうした人達が一つのグループをこしらえて、勉強の為に様々なところへ見学に行くということが行われる。最近私もその一つに加わった――というよりは私の背後霊によって体験させられたので、それを紹介しておきたい。

私が加わったグループは十二人から成り、そのリーダー格をしている女性はかつて地上で私の家族と知り合いだった人である。母性的風格の備わった、しっかりとした女性で、地上時代も旅行好きだった。

既に他界している兄と義兄との間に挟まれた形で歩いて行くと、超モダンな建物が見えてきた。全員が中へ入り、少し見学して他の者は出ていったが、私は全体をもっと見たかったので居残った。

そこへ別のグループが通りかかり窓から覗き込んで私を見つめていた。やがてそのグループも中へ入って来て、

その中の一人が私に「ここで何をなさっているのですか」と聞くので

「アダ・メイのグループと一緒に来たのですが、みんな先へ行っております。私だけ残って見学しているところですが、あなた達こそ、ここで何をなさっているのですか?」
と言い返した。

これには一同が笑ったが、その中の何人かの女性達が「ほんと。確かにあの人だわ」と囁き合っているのが聞こえた。それを聞いて私は、私の親戚の者を通じて既に私の噂を耳にしていることを知った。間もなくそのグループも去って行った。

このことに関して興味深いのは、先程アダ・メイという姓名を口にした時、メイという姓がすぐに出てこなかったことである。地上へ戻って来てメッセージを伝える霊が妙に記憶喪失のような態度を見せ、特に地上時代の姓を思い出せないことがあるが、これは置かれた環境条件が本来のものでない為であることが、これで分かる。多分私の場合は肉体から脱け出る際に生命力の一部を肉体に残していくことになるので、記憶も一部が残るのではないかと思う。

第22節 妻とともに
初期の体験であるが、妻と田舎の散歩を楽しんだことがある。お互いにとても楽しい思いをし、同時にそれが極めて地上的色彩を帯びていたので印象に残った。非常に長距離を歩いたということがその一つであるが、もう一つは、地上的習慣から私が途中で紅茶を飲みたい気分になったことである。しかし私はそのことを口に出さずにおいた。ところが気がついてみると妻が茶店のある公園の方へ足を向けていた。その公園の中にバラの花に囲まれた大きな東屋があった。

その東屋に入ってみると、中にもう一組のカップルが休んでいた。私達も一息入れていると、やがて目の前に一杯の紅茶が現れた。それはすぐに消えたが、それでも私には気分転換になった気がした。

幻影ではあったが、格好が完全に整っており、私にはあたかも実際に飲み干した時の味と気分がしたように思えた。その体験で霊体が養分を摂取する方法はこれだなと思ったが、その考え方は間違っていた。私の場合は単に背後霊が私の紅茶を飲みたいという願望を満たし、妻との『外出』をそれで終わりにする為の演出だったのである。

私の霊的身体は訪れる界の思念やバイブレーションに感応するが、感応しないものもある。ある界でマヨネーズを口にしてみたことがあるが、全く風味がなく、まるでチョークと水を混ぜたようなものに感じられた。

また娘と散歩している時に飲料用の噴水を見つけて近づいてみた。するとすぐ側に氷の入ったグラスが置いてあったのでその氷に触ってみたが、冷たさは全く感じられなかった。多分その界の全ての感覚を味わうには、その界の住民とならねばならないのであろう。

私自身はまだ離脱中に地上的な食事風景は見たことがないが、お茶を飲みながらの雑談の風景はよく見かける。精神的なくつろぎを味わうのであり、私自身、妻と共にそれを体験している。

離脱中の体験をどこまで回想出来るかは背後霊にも必ずしも分かっていないと述べたことがあるが、ある時、ふと気がつくと妻と歩いているところだった。そして、我々二人の他に、妻が霊界で面倒を見ている二人の子供も一緒だった。

実はその時に四人で、ロンドンでよく開かれる『理想的ホームの展示会』のようなものを見学に行っての帰りであったが、私はその会場の中での記憶がまったく無く、会場の建物を振り返った時に、ただ非常に明るくて興味深いものだったという印象だけが残っていた。

どうやら、その時点で繊細なバイブレーションが働いているかいないかの違いであるように思える。きっと妻の方では私が展示会の全てを見て記憶してくれていると思っていたに相違ない。どうやら地上的意識のあるなしに関わらず、霊的身体の繊細なバイブレーションが働けば全てを回想出来るようである。

その後で妻の意図を察して『どこかで喫茶店に入ってお茶でも飲もうか』と言うと、妻は『混んでると思うけど・・・』と言った。が、ともかく一軒の喫茶店に入ってテーブルに席を取ると、二人の子供のうちの一人が隣のテーブルにいる幼児と隣り合わせに座った。すると途端に幼児がはしゃぎ出して、ガタガタと音を立てて喜んでいる。私が内心『しまった。反対側に座ればよかった』と思うと、その瞬間その子供が立ち上がって私の思った席のところへ来た。これはテレパシーの作用だったと思われる。

喫茶店を出た後、妻が私を一軒の家に案内した。その家の一室の壁に素晴らしいタペストリが飾ってあった。手で触ってみると絹のような感触がした。すると妻が『それを手に入れられるのに苦労なさったのよ』と言った。どんな苦労なのか分からなかったが、その本人が見つめていたので聞く気になれなかった。

同じ部屋に置いてあるサイドボードの上に何ともいえない色合いのピンクとブルーの花を生けた花瓶がいくつか置いてあった。花の名前は確認出来なかったが、水仙に似た形をしており、ほんの少し花弁を開きかけていて、その芯のところに黄金が被せてあり、あたかも本物の黄金で出来ているみたいな輝きを見せていた。

同じく初期の頃の体験の中で妻と会った時、一緒に公園を歩いていると少し先を二人の女性が歩いていて、どうやら私達二人の噂をしていることが分かってきた。そして最後に一方が『そうなの。奥さんが地上のご主人と二人のお子さんの面倒を見てらっしゃるのよ』と言った。この二人は、霊界ではある人の噂をするとその思念がテレパシーで当人に伝わるということを知らないらしかった。

先程も述べたように、体外旅行をしている間は地名や人名が思い出しにくい。英国西部のグロスターという都市に娘がいて、時折車で訪ねることがある。ある時体外旅行中に妻と話をしていると、四頭のポニーに引かれた小さな馬車が通りかかった。私は妻の方を向いて『あんなのでグロスターまで行ったら、ずいぶん時間がかかるだろうな』と言おうとしたが、グロスターという地名が出て来ない。

咄嗟に私は南西部の地図を思い浮かべて妻が直感してくれればと思った。が、実際はもうそんな必要はなかった。妻には私が伝えようと思ったことは何でもすぐに伝わっており、それでこの時もごく普通に会話が進んだ。

霊と霊との会話は実に素晴らしい。一々言葉を選ばなくてもいいので、伝えたいことがいくらでも伝えられる。極めて自然であり、自発的なので、言葉は滅多に使わなくて済む。もしも口で言うことと本心とを使い分けようと思えば、これは大変な精神的曲芸を必要とすることであろう。

第23節 霊界の私の家と店
始めのところで私は、こうした体験を公表する私の意図は、現代にまだ地上に生活している人間が持ち帰った死後の世界のありのままの姿を紹介することにあると述べた。私の霊界旅行の範囲は実に広くかつ次元が異なるので、その叙述の内容が様々とならざるを得ない。が、これで従来の霊界通信の内容が一定のパターンでないことを理解する上での一助となるであろうことを期待している。そうした差異が地上の人間にとって霊の世界についてのイメージをまとめるのを困難にしてきているのである。

この二十年間の霊界旅行で私が訪れた境涯のバラエティの豊かさは、私自身が改めて何度も驚かされてきている。同じ場所に二度訪れたことは滅多にない。一つ一つの環境が異なったバイブレーションを発しており、それが霊的身体にすぐさま感応する。

私が定期的に訪れている場所は霊界の私の住居、庭、店といった私個人に関わりのあるところだけである。そして当然その辺りの地域も入る。霊的身体の感受性は素晴らしいもので、あたかも『触手』のように自然に働くようである。私の(霊界の)家に入った時などは瞬間的にその場の私固有のバイブレーションを感知する。目で見て我が家であることを確認するのではない。時には無意識のうちに我が家に連れて来られていることがあるが、意識が目覚めた瞬間に我が家だと感じる。

地上で飼っている猫を時折霊界の我が家で見かけることがあるのも、やはり同じ原因、つまり私のバイブレーションがそこに充満しているからだと思われる。猫はあまり変化しないようである。霊界へ来ても相変わらず冷静であり、常に自分というものを守って超然としており、私に対しても『あなたはあなた』といった態度が見られる。

私の店がある境涯は、現実の英国の街と較べても極めて自然と言えると思っている。大体において霊界へ来てまだあまり長くない者が集まっている。どれくらいの長さかと言われても、一人一人進化の度合いが違うので断言出来ない。死後の睡眠状態からようやく目覚めて、さし当たってそこで過ごしているという段階の人達である。そして結構、生活を楽しんでいる様子である。それは地上生活のような煩わしさがないし、生活費を稼ぐ必要もないからである。死後の世界をバラ色の天国のように伝えてくることが多いのも、そうした事情による。

霊界の私の店は地上の店の複製ではない。地上の店よりずっと大きく、造りも違う。が、店に並べてあるのは同じ種類のもので、書籍類と文房具、絵はがきなどである。時折店番として若い女性が二、三人来てくれるが、いずれも地上では知らなかった人達である。売買はお金によるのではなく、何らかの形でお返しをするという形式で行われる。

ある時何気なく店の雑誌を眺めていたところ、The Popularという文字が印象に残った。地上に戻ってからそれが1926年の発行であることを思い出した。少年向けの本で、これで霊界の本には地上の本の複製もあることが明らかとなった。

私の店はまた気楽な集いの場でもある。数ヶ月前に、夜中にそこへ訪れ、客を奥の部屋へ案内したことがある。その客の中には、地上では会っていないが古い親戚の人だと分かる人もいた。そういう人を格別しげしげと見つめることはしなかったが、一人だけ顔をそむけて過ぎ去ろうとする者がいた。そしてそれが実の父であることを直感した。

私は興奮気味に『おや、父さんじゃないの。始め気がつかなかったなぁ』と言った。すると父は笑って返した。その時の容貌から既に相当進化していることを見てとった。背丈も、地上では私より低かったが、その時は私と同じだった。以前会った時は決まって地上的外見を具えていたが、この店は私を試す為に本来の霊界での姿を見せたことは明らかである。繊細さを増した私の霊的身体がその策謀に引っかからなかったというわけである。父の笑いはその笑いだった。

私が田園風景を好むことを知っている背後霊は、時折、低級界からの帰りに休息と回復の為に森の中の泉へ連れて行ってくれた。初めての時、夢遊状態で茂みの中の曲がりくねった道を辿っていくと、泉が湧き出て大きな水たまりとなっているところへ出た。意識状態のままで行けるようになってからは、どこでどっちへ曲がり、次に何がある、ということまで分かるようになった。以来度々連れて行ってもらっているが、どうやら、その土地にも季節があるらしく、泉を取り囲む繁みが高い時と低い時がある。

もっとも地上の暦とは無関係で、まだ冬のような季節を見かけたことはない。既にそこへ数え切れないほど度々訪れていて、まるで『私の庭』のように、どこに何の繁みがあるといったことがみな分かるほどになっている。

第24節 娘とともに
私には十年ほど前に他界した娘がいる。ある時その娘と一緒に素敵な草原を散歩していた。のどかな田園風景が広がり、そこここに羊がいて、花も咲き乱れている。娘が立ち止まってそのうちの一本を摘み取ったのを見るとクローバーだった。が、私の見慣れた赤や白ではなかった。柔らかく深いパステルの陰影があり、それが美しい虹のような印象を与え、近づくと、美しいものを見た時に湧き出る感動と違って、花そのものが与えてくれるある種の嬉しさを感じた。

草原の一角に目をやると一頭の羊がしゃがみ込んで頭を上げ、視力のない目を大きく開けて虚空を見つめていた。完全に毛を刈り取られており、辺りに湿っぽい霜が漂っている。すぐ近くの草の上に白っぽいもの(刈り取られた毛)が輪になって横たわっている。そしてさらにそれを囲むように羊の群れが輪になってしゃがみ込んでいる。

私はすぐに、これは死んで地上から運ばれてきた羊で、周りの羊は、羊の類魂を支配している守護霊が、その羊が目を覚ました時の慰め役としてそこへ連れて来たのだと直感した。その光景に私は何となく哀れさを感じた。死んだ原因を想像するからであろうが、私はその事実は知りたくない心境だった。

娘は地上でも動物が大好きで、今その感情を存分に発揮できて幸せそうだった。いつだったか、霊媒をしている私の友人がその娘からの通信を受け取ってくれていた時に『パパは私がthe porcineと一緒にいるところを見たわね』と言った。

私にはその意味がよく分からないので説明を求めると、霊媒が『お嬢さんは何も言おうとせず、ただ笑っていらっしゃいます』と言う。私はやむなく辞書を引いてみると、豚の一種であることが分かって得心がいった。確かに一度霊界で娘と会った時に子豚が一緒にいた。それが娘の脇を嬉しそうにチョコチョコ歩いていたのである。

嬉しいことに動物にも平和と幸せの境涯がある。人間からのちょっとした情愛にすぐに反応してくれるのも嬉しいことである。これは愛に相関関係があるからで、以前にも説明したことがあるように、与えた愛は何倍にもなって自分に戻ってくるものである。反対に動物を虐待した者は、死後、一種の『自己検診』のようなものをさせられて、辛い思いをすることになる。地上生活での出来事は細大漏らさず魂に刻み込まれているので、絶対に逃れることは不可能なのである。そこから生まれる自己嫌悪感は実に強烈で、それが進歩を遅らせることになる。

他界後間もなく娘は私に、地上の様々な国を訪れ、動物が受けている可哀想な恐ろしい取り扱いぶりを見て、身の毛がよだつ思いをさせられたと語っていた。

そのことに関連して私の指導霊が『彼女は今では地上にいた時よりも人間に対する同情心が強くなっている。なぜ? それは人間及び動物に対する酷い扱いぶりを間のあたりにしたことで、慈悲の心が大きくかつ深くなったからです。強烈な体験を経て初めて本当の慈悲心が芽生えるものです。娘さんは大いに心を痛められ、そして大いなる教訓を学ばれた』と語ってくれた。

私はよく『進歩』という言葉を使用するので、もしかしたら霊界というところがまるで受験勉強のように必死に向上進化を目指して頑張っているかの印象を与えるかもしれないが、実際はそうではない。私がこれまでに述べてきたかぎりの境涯においては『楽しさ』に溢れており、新しい驚異や自分に内在する能力を発見して、それを思いも寄らなかったお土産を頂いた時のように喜ぶということの中に進歩が得られていることを理解して頂きたい。

例えば娘が他界後すぐ語ったところによると、あちらでも絵を描くには絵の具と鉛筆を使用するのが普通であるが、進歩してくると意念の操作によって色彩を直接カンバスに投射することが出来るようになる――今では自分もそれが出来るようになった、という。さらに最近では色彩光線を使用して子供を治療することを研究しているグループに加わっているという。霊体そのものに別に痛みはないのであるが、他界直後は地上の精神的習性の為に、死に際に受けた傷が残っている時があり、色彩光線がその治療に効果を発揮するという。

第25節 霊界の博物館
明るい界層へ来ると霊体が低い界層にいた時より遥かに良い影響を受けるのが分かる。雰囲気にのどかさが増し、住民の生活ぶりに悠長さが見られる。考えることが常に明るく、また、丁度観光旅行や行楽へ行く時のような、全体に和気あいあいとした楽しい雰囲気がよく感知される。既に夢幻を求める段階を過ぎて、新たな驚異と興味の対象に胸躍らせて、霊としての真の喜びを味わい始めている。

ある時はリゾート地へ連れて行かれたことがある。大勢の人が奇麗な浜辺に腰を下ろし、バンドの演奏も聞こえる。波乗りを楽しんでいる者もいれば、沖の方にはヨットも見える。そこは高級霊の監視のもとに、ありとあらゆる望みが叶えられるところらしく、地上でその楽しみを味わう機会のなかったものを満喫することが出来る。

博物館や展示会も沢山あり、私は格別に興味をそそられた。品物はガラスケースに入れられておらず、全てのものがむきだしのまま展示されている。それもそのはずで、こちらでは朽ちたりホコリをかぶったりすることがないのである。自由に手にとって見ることが出来る。

あるホールには、ありとあらゆる種類の器具、道具、機械類が納めてあった。その中には計器や私に理解の出来ないものが布で内張りを張ったケースの中に納められており、どうやらその種のものとしては特別のものらしく、大勢の人が見入っていた。そのホールの中央にはプレス機、ポンプ類、発電機等の大型の機械類が置いてあった。

発明品の歴史を展示してある博物館で私は古いレコードに興味をもった。ワックスのシリンダーが輪切りにしてあり、サウンドトラック(音の出るミゾ)の深さが分かるようにしてある。驚いたのは、それに触れただけで内容が伝わってきたことである。その内容は、主人の入れ歯をくわえて逃げた犬の話を滑稽に物語ったもので、多分、まだ入れ歯そのものが珍しく、それを口にすることすら笑いを誘った時代のものであろう。

こうした霊的身体による反射的なサイコメトリは実に不思議で、私が理解するところによれば、霊界の物体の多くはある程度まで地上の物体が対になっていて、同じバイブレーションと印象を留めているものと考えられる。

ある時小さな図書館に案内された。そしてその中に入った途端、何とも言えない安らぎと静けさを感じた。分厚いカーペットが敷いてあり、その上に四つないし五つの肘掛け椅子が置いてあり、書棚には実に美しい装丁の書物が並べてあった。その側に近づくと『霊的真理』の内容から出る強烈な放射物を感じた。手に取ってみたかったが、既に二人の人が読書中だったので遠慮して引き下がった。

模型の制作者は死後も同じ興味を持ち続けている。霊界では意念が素材であるから、その扱い方を会得した後は、地上にいた時より遥かに容易に仕事がはかどることであろう。ある模型制作者の仕事場を見せてもらったところ、たまたまブランコやメリーゴーラウンドなどの模型の展示会が催されていた。どれも私の手のひらに乗るほどの小さなものばかりであるが、全部本物と同じように動くのである。

数人の少年が池で色んな種類のボートの模型で遊んでいるところを見かけたことがある。見事なものばかりで、あらゆる部品が完全な縮尺で再現されていた。その中に一つだけ奇妙なものが目についたので、よく見てみようと思って近づいて、うっかり水の中に入ってしまった。その瞬間に地上の癖で、ズボンを濡らしてしまったという観念が脳裏を走った。が、そのまま構わず近づいてそれが『中世』の型であることを確かめてから岸へ戻ってみると、靴もズボンも全く濡れていなかった。霊界の水をよく調べてみようと思いながら、つい忘れてしまう。水中に入った時に濡れたように感じたのは地上の先入観念のせいだと考えている。