第31節 霊界での憑依現象
これまでの体験を読まれてお分かりのように、私の存在は徹頭徹尾、背後霊の手中にあるので、思いも寄らないユーモアのある事柄で私が『憑依された』ことが何度かある。意識が残ったままのこともあるし、無意識のうちにさせられることもあるが、ともかく強制的にある役割を演じさせられるのである。

ある時は大勢の聴衆のいるどこかの大きな会場へ連れて行かれ『これからあなたが演説することになっている』と告げられた。私は演説などしたことがないので、いささか不安になった。が、演壇に上がったところから無意識となり、次に意識が戻った時は演説が終わって演壇から下りるところだった。聴衆が私の演説の内容のことでしきりに語り合っていた。ともかく終わったらしいので私はほっとしたのだった。

この境涯になると何かにつけてユーモアがあり、背後霊によるイタズラにもそれが窺われるようになる。ある時ラジオでオーケストラの演奏を聞いていた。何曲か演奏されたが、私の感じとしてはドラムが少しやかましすぎて曲全体を台無しにしているように思えた。

そんなことがあった数日後のことである。離脱中にあるオーケストラのところへ連れて行かれた。団員は私の背後霊によく似た若い人達ばかりで、みんな変にニコニコしているので、私は何か企んでいるなと感じた。そう思っているうちに背後霊の一人が私に憑依し、ドラムのところへ連れて行った。意識は残っていた。同時にオーケストラが演奏を開始し、私は無理矢理にドラマーをさせられた。自分で自分がやっていることが滑稽でならないので私は終始笑い続けていたが、演奏そのものは実に見事だった。曲は短くて直ぐに終わった。終わった後全員がゲラゲラ愉快そうに笑っていたが、私はそれでも『やはり私はドラムは好きになれません』と大きな声で言ったことだった。

別の体験では、気がついてみると聖歌隊のような少年の一団が並んで賛美歌を歌っているところだった。私の知らない曲だったが、不思議に歌詞が次々と口をついて出るのだった。多分その少年達からのテレパシーだったのであろう。

そのすぐ目の前に立派な校舎があった。『解散!』の声と共に少年達は正面玄関から一目散に駆け込んでいくので、一体何があるのだろうと思って私も入ってみた。なんと、そこには食料品を用意した部屋があって、ジンジャービヤとかレモネードとおぼしきものをらっぱ飲みしていた。

私は離脱中に食べたいとか飲みたいとか思ったことは一度もない。ところが、ある時、そのことを我ながら大したものだと思ったところ、すぐその後の離脱が終わってもうすぐ肉体に戻る直前に、突然、少年時代のシーンに引き戻された。お菓子屋さんがあって、私の大好きだったピンクと白のアイスクリームが山と積まれている。私は思わずそれに手を出しかけたその途端に肉体に引き戻された。それで私への教訓が終わった。

些細な笑い話のようで、実はこれには私に対する強烈な戒めで、背後霊団のもつ次元の高いテクニックと強力な霊力を見せつけられたのである。つまり私の過去の中から一つのバイブレーションを選び出し、時間をさかのぼり、当時と同じ幼稚な甘いものへの願望を注ぎ込み、そうしておいて穏やかに私の自惚れをいさめた、というわけである。

第32節 『死』のバイブレーション
一、二年前に何度か続けざまに、他界したばかりでまだ目覚めていない霊に関わる体験をした。死後の目覚めに要する時間は個人によって不思議なほど異なるもので、直ぐに目覚める人と信じられないほど長期間かかる人とがいる。

ある時、離脱して意識が戻ってみたら妻と一緒にベンチに腰掛けていた。二人で話をしているうちに私は何とはなしに『死』のバイブレーションを感じた。非常に不快な感じだった。それを身近に感じるので何となく振り返ってみると、すぐ後ろに男性が横たわっている。見つめているうちに身動きが始まり、やがて目を開いた。私はすぐさま立ち上がって近づき、手を取って立たせてあげた。そして二、三歩歩かせてあげたところへ、近くで待機していた指導霊が来ていずこかへ連れて行った。私は内心喜びと満足感を覚えた。

別の日の体験で、やはり妻と共に数人の無意識状態の子供をある部屋へ運んだことがある。衣服は大人の場合と同じく『普段着』だった。どうやら幽体は地上時代に精神に焼き付いた記憶のうちの最も強烈なものを自動的に纏うようである。その中の一人はくる病のように頭と首が胴にめり込んでいた。が、そういう子の場合でも幽体は正常に復して意識もちゃんと戻る。

その子供達からも、先の男性と同じ放射物、いわゆる『死のバイブレーション』を感じた。そのうちの一人の女の子を抱いて運んでいる途中で、私の腕の中で動きを見せた。思わず妻に『おい、この子が動いたよ』と叫んだ。とっさに私はその子を私の肩まで持ち上げ、片方の手で背中をさすってやった。するとすぐに意識を取り戻し、『お水をちょうだい』と私に言った。

こうした、いかにも子供らしい自然な目覚め方をしたのを見て私は、魂の奥底からの喜びを感じた。そしてその子を部屋で介抱に当たっている女性に手渡した。私はこの子を『お亡くなりになりました』と宣告したのは一体どこのどんな医者だろうと思い、同時に、この子を失ってさぞかし悲嘆に暮れているであろう両親のことを思いやった。

こうした仕事に携わっている霊界の人達は、子供達が自分達の介抱で目を覚まし、地上より遥かに恵まれた状態で新しい生活を始めるのを見て、言いようのない幸福感を味わっている。が、その一方では、地上の両親がそうした死後の我が子の身の上について何も知らずに、ただただ気も狂わんばかりに取り乱していることを思いやって、私は悲しさを禁じ得ない。というのも、彼らにはどうしてあげることも出来ない――両親が自らの力で求め、そして見出していくしかないからである。

幼い子の世話をするのは子供好きの人達である。世話をしながら折を見て地上の両親や兄弟、姉妹のところへ連れて行って地上的情緒を味わわせることもする。地上的な喜びも悲しみも魂の成長にとって必要だからである。全てに埋め合わせの原理が働く。短い人生にもそれなりの埋め合わせが必要なのである。

以上のような体験を、霊媒をしている友人を通じて確認したことがある。他界してくる人間の世話をしている人がその霊媒を通じて次のようなメッセージを送ってきた。

『あなたは霊界の施設へよく来られて、霊波による介抱の様子をご覧になっておられますね。霊波を当てていると幽体が落ち着かなくなり、やがて動き始め、そして目を覚まします』

目覚める時の様子はその通りなのだが、私は霊波を当てていることには気づかなかった。さらにその霊が言うには、私が妻と共に仕事をしていることには、陽の効果と陰の効果とがあるという。私にはよく理解出来ないが、電気的な作用があるらしいことは分かっている。

第33節 『常夏の国』のハイカラ族
私は先にこの辺の境涯を『正常』と呼んだが、その正常さの中にも様々なバリエーションがあることを付け加えておかねばならない。観念が支配する世界であり、様々な性格の人間が混み合っていても、地上時代の習性が相変わらず残っていて、こればかりは『いつまで』という線を引くわけにはいかないのである。

この俗にいう『常夏の国(サマーランド)』はキリスト教で『天国』と呼んでいる漠然とした世界とは似ても似つかぬところである。何の不自由もない世界なのであるが、そういう世界の存在を知ったからといって、それが直ちに魂に大きな影響を与えるわけでもない。地上で霊的なことに全く関心のなかった者は、こちらへ来てもそう簡単に精神的革命は起こらない。精神構造の中にその要素が一欠片もないからである。

その意味では、死後の世界は地上時代に培われた精神がむき出しになる世界ともいえる。内部にあったもの、支配的に働いていた観念が表面に出てくるのである。時には慣習として引き継がれてきたものが固定化し、霊界での進歩の妨げになることもある。

例えば、あるとき私はごく普通の明るさの界へ連れて行かれた。見るとそこは公園で、一見したところなかなか快適で、立派な石造りの門、石庭、鑑賞池、木製のベンチ等が揃っている。が、池を覗いてみてがっかりした。魚が一匹もいない。さらに気がついてみると植物が一本も見当たらない。おまけに人影がまばらである。歩いている者もいればベンチに腰掛けている者もいる。そのどれ一人を見ても身なりは実に立派である。が、その態度には特権階級特有の排他性からくる勿体ぶった威儀とエレガンスの極みを見る思いがする。

ベンチに腰掛けている姿も威儀を正し、どこから写真を撮られてもよいようにと緊張した顔をしている。女性はそれぞれの時代の最高のファッションの帽子をさらに大げさに飾り立てたものをかぶっているが、地上時代の人間味に欠けた生活習慣からくる思考形式が表面に出て、何か冷淡な味気なさを感じさせる。

そう見ているうちに公園の門をくぐって一人の男性が入ってきた。距離は遠かったが、私の幽体の望遠鏡的視力が働いて、上層界からの指導者であることがすぐ分かった。その公園の人達に説教する為に訪れたのである。が、その人が説教を始め、この界より上にもはるかに進んだ境涯があることに言及し始めると、近くにいた人の中から二人の男性がやってきて、その説教者を門の外へ連れ出してしまった。

が、間もなくその説教者がまた入ってきた。そして再び説教を開始すると、また同じ二人が連れ出してしまった。連れ出すといっても、決して乱暴には扱わない。見栄を第一に重んじる習性が人に対する態度を嫌にいんぎんにさせ、さも『これはこれは牧師さま。有り難いお言葉ではございますが、私どもの階級におきましては公園でのスピーチはどうも肌に合いませぬ。どうかお引き取りを』と言わんばかりなのである。

実に不思議な境涯である。他人に対する態度は誠に丁寧である。けっして迷惑は及ぼさない。その辺に環境の明るさの原因があるのであるが、不自然な気取りの固い殻から脱け出ることがいかに難しいことであるかを見せつけられる思いがした。霊的摂理は完全であり、そして単純なのである。が、それを悟るには単純な正直さが要求されるのである。

同じ界で、地上時代にただ食べて飲んで生きること以外に何も考えたことのない人達の住んでいる境涯へ何度か行ってみたことがある。これといった興味を持たなかった――というよりは、興味をもつ精神的ゆとりを持たなかったのである。死後そうした精神構造の者ばかりが集まっているこの境涯に親和性の作用で引き寄せられてきた。生きる為に働く必要がなくなった今、全く何もすることがなく、精神活動が完全にストップしてしまっている。求めればいくらでも興味あることがあるのに、無関心の習癖のついた精神が活動を阻止しているのである。延々と住居が立ち並ぶ通りにも全く活気がなく、見つめている私の幽体に極度の倦怠感とものうさのバイブレーションが伝わってきた。

第34節 霊界の病院
妻との繋がりのせいと思われるが、私は妻の勤める病院へ度々連れて行かれている。病院といっても地上から霊界入りしたばかりの人を介抱する施設である。

ある時その施設をあらためて見学に訪れたことがあった。事務所に行ってみると女性が出て来た。多分理解してくれるだろうと思って単刀直入に、私がまだ地上の人間で一時的に肉体から離れてやって来たことを説明し、妻に会うのが目的であると告げた。

すると、その女性自身もまだ霊界入りして間がないらしく、私の言っていることが理解出来ないで、しきりに私の頭上に繋がっているもの(玉の緒)に目をやっていた。私のような訪問者は初めてらしいことを知った私は時間が勿体ないので、今地上は夜で私は睡眠中の肉体から脱け出てきたことなどを説明した。が、なおも怪訝な顔をし、『少しお待ちください』と言って奥へ入った。

間もなく代わって男性が笑顔で出て来た。一見して霊格の高い人であることが分かった。そして私の事情を直ぐに理解して『結構です。そこの廊下でお待ちになってください』と言って外へ出ていった。待つ程もなく妻がその廊下を歩いてきた。

妻の案内で見学したのであるが、そこは若い女性ばかりの患者を介抱する施設だった。食堂へ入ってみると、丁度食事中で、私も妙な食欲を覚えた。テーブルの間を通り抜けながら患者のオーラとコンタクトしてみたが、死因となった事故のショックや恐怖、病床での苦しみや不安の念が根強く残っていた。

中には地上の病院での消毒液の臭いが漂っている者もいた。事故死した者の腕や首や顔に傷当ての赤い絆創膏の跡がうっすらと残っている人もいた。精神に焼き付いた映像がまだ消えていないのである。

しかし、ホール全体に穏やかな雰囲気が漂い、一人として病人くさい感じを見せていなかった。これは高級界から間断なく送られてくる生命力のせいで、こうした特殊な患者に必要なのである。

見学を終えて施設を去る時、事務所の入り口のところにスタッフ一同が立って見送ってくれた。敬意を表したというよりは、地上からの珍客が物珍しかったようである。

第35節 霊界の動物達
動物は霊の世界へ来ても落ち着くべきところにすぐに落ち着かない。獲物を狙う本能はすぐには消えないからで、獲物を捕らえても無駄であることを繰り返し思い知らされるうちに徐々に消えていく。明らかに自然の摂理は『食う側』よりも『食われる側』に味方しているようである。が、本来の性質が獰猛な動物を見たことがない。

ある時一頭の牛が子牛を連れて歩いているのを見かけた。子牛が極端に小さいので私はその母牛のお腹にいる間に母牛が屠殺されたものと直感した。そこへ一匹の犬が近づいてくると子牛が逃げ出し、犬が追いかけ始めた。ところが犬は足が速いはずのグレイハウンドなのに、子牛の方がどんどん引き離していった。霊の世界では地上的な『機能』よりも逃げようとする『意志』の方が霊的な力をより一層強く引き出すからである。結局子牛は大回りして母牛のところへ戻ってきた。私がその子牛を抱き上げると満足そうな顔で大人しく抱かれていた。私の同情心を感じ取って、大丈夫、という安心感を持ったらしい。

またある時は霊界の友人の家にいた時、窓越しに庭を見ていると一匹のリスが大急ぎで木によじ登った。庭へ出てみると、そのリスは温室へ入ろうとして通りかかった小さな猿から逃げてきたらしい。私は猿が温室へ入らないようにしようとしたが、入ってしまったので大声で『こら、出ろ!』と言ったら、すぐに出て行った。するとその行き先に寝そべっていた三匹の猫がびっくりして一目散に小屋の屋根へ上がった。

猿はその小屋とは別の小屋の周りをうろつき始めた。すると中でバタバタと暴れる音がするので、覗いてみると一羽の鶏が羽を広げて怯えていた。そのうち猿の行方が分からなくなったが、以上のことから私は、小さな猿は霊界でもしばらくの間は『小さい』ままであることを知った。また、リスも猫も鶏も、そうしてこの私も、猿というものがいたずら好きであるという観念を持ち続けていることを興味深く感じた。

『温室』が出てきたが、勿論霊界に温室は全く不要である。が、その持ち主が、この主の植物は温室でなければダメ、という観念を抱いていれば、そこに温室が存在することになる。その友人の家の庭には兎が沢山いて、私の足の周りで遊ぶので踏みつけないように気をつけなければならないほどだったが、同じ庭に小さな熊もいたので私は兎は大丈夫なのかなと心配だったが、みんな愉快そうに戯れていた。

霊界の海は地上の海と感じは変わらないが、川は太陽の反射がないので、泳いでいる魚がよく見える。金魚とかワカマスのように色彩の目立つものを私は見たことがある。小さな人工池で熱帯魚を見たこともあるが、色が実に生き生きとしていて、大きさも地上のものより大きいようである。

私は犬を飼ったことがないが、霊界で印象深い体験をしたことがある。ある時土手に座っているところへ、やや大き目の犬がやって来て私の側に座った。その身体に手を置いた途端、人間に近い情愛と親しみが伝わってきた。芝生にしゃがんで兎と戯れていた時にも、可愛がってほしがる情愛に圧倒されたことがある。

非常に明るく美しい境涯でそこの住民を見つめていた時に、エジプト人とおぼしき男性が通りかかった。容姿端麗で顔が輝いて見えた。その人が毛の長いグレイハウンドを連れていたが、鼻が短くて、私が見慣れているグレイハウンドとは違うように感じ、もしかしたらこれが原種なのかも知れないと思ったりした。