第9章 キリスト教のどこが間違っているのか
〔これから紹介するシルバーバーチのキリスト教批判は、いささか酷なのではないかと思われる向きも少なくないことであろう。が、シルバーバーチをよく知る人ならば、シルバーバーチという霊が批判めいたことを口にする時は、よくよくの根拠がある時に限られることをご存じであろう。常に「理性」に訴え、理性が納得しないものに対しては、いかに権威のあるものでも頭を垂れない〕

宗教的信条ないしは教条は、地上界のいわゆる夾雑物の一つです。これは見方によっては疫病や伝染病よりも性質が悪く、身体的な病よりも危険です。なぜなら、それが「魂の病」を生み出しかねないからです。霊性が目隠しをされてしまうのです。

なのに地上人類は、大霊の無限の叡智が存在するにもかかわらず、教条にしがみつきます。もっとも、中には教条に縛られている方が気楽だと考える人もいます。しょせん「自由な人」とは、自由であることの本当の有り難さを知った人のことです。ここにおいでの皆さんは教条の奴隷の状態から脱したことを喜ぶべきです。喜ぶと同時に、今なお奴隷状態にある人を一人でも解放してあげるべく努力してください。

私たち霊団の者は皆さんにいかなる教義も儀式も作法も要求しません。ただひたすら大霊の愛の実在を説くだけです。それが、大霊の子等を通して発現すべく、その機会を求めているからです。そのためには、いかなる書物にもいかなるドグマにも縛られてはいけません。いかなるリーダーにもいかなる権威にも、またいかなる巻物にもいかなる教義にも縛られてはなりません。

いかなる聖遺物を崇めてもいけません。ただひたすら大霊の摂理に従うように心がけるベきです。摂理こそが宇宙で最も大切なものだからです。宇宙の最高の権威は大霊の摂理です。

教会と呼ばれているものの中には中世の暗黒時代の遺物が少なくありません。そもそも大霊はいかなる建築物であってもその中に閉じこめられる性質のものではありません。あらゆる所に存在しています。石を積み重ね、その上に尖塔をそびえ立たせ、窓をステンドグラスで飾ったからといって、大霊が喜ばれるわけではありません。

それよりも、大霊が用意してくださった太陽の光が子等の心を明るく照らし、大霊が注いでくださる雨が作物を実らせることの方が、よほど喜ばれます。ところが、残念なことにその大霊の恩寵と子等との間に、とかく教会が、政治家が、そして金融業者が介入します。こうしたものを何としても取り除かねばなりませんし、現に今まさに取り除かれつつあります。

霊力を過去のものとして考えるのは止めにしないといけません。ナザレのイエスを通して働いた霊力は今なお働いているのです。あの時代のユダヤの聖職者たちは、イエスを通して働いている霊力は悪魔の力であるとして取り合いませんでしたが、今日の聖職者たちもスピリチュアリズムでいう霊力を同じ理由で拒絶します。しかし、地上界も進歩したようです。その霊力を駆使する者を十字架にかけることはしなくなりました。

イエスが放った光輝は、あの時代だけで消えたのではありません。今なお輝き続けております。そのイエスは今どこにいると思われますか。イエスの物語はエルサレムで終わったとでも思っておられるのでしょうか。今なお苦悩と混乱と悲劇の絶えない地上界を後にして天上界で賛美歌三昧に耽っているとでもお思いですか。

私たち霊界の者からの働きかけを信じず悪魔のささやきかけであると決めつけているキリスト教の聖職者たちは、その昔ナザレのイエスに同じ非難のつぶてを浴びせたユダヤ教の聖職者たちと同列です。イエスは私たちと同じ大霊の霊力を携えて地上界へ降誕し、同じ奇跡的現象を起こして見せ、同じようなメッセージを届けました。即ち、喪の悲しみに暮れる人々を慰め、病める人々を癒し、暗闇に閉ざされた人々に光をもたらし、人生に疲れた人々には生きる勇気を与え、何も知らずにいる人々には霊的知識を授けてあげなさい、と。

私たちもあなた方も皆、大霊への奉仕者です。その点は同じです。ただ私たちは進化の道程においてあなた方よりも少しばかり先を歩んでおります。そこでその旅先で学んだ知識と叡智を教えてあげるべく舞い戻ってきたのです。奉仕、即ちお互いがお互いのために自分を役立てるというのが、生命原理の鉄則だからです。奉仕精神のないところには荒廃あるのみです。奉仕精神のあるところには平和と幸せが生まれます。地上界は、互いに奉仕し合うことによって成り立つような生活形態を目指さないといけません。それは本当はいたって簡単なことなのですが、なぜかそれが難しい形態となっております。その元凶が実は組織宗教なのです。

誠に残念なことですが、「神の使徒」をもって任ずるキリスト教の聖職者たちには一から学び直してもらわねばならないことが沢山あります。彼らは何の根拠もない基盤の上に神学体系を築き上げました。まさに「砂上の楼閣」です。それがスピリチュアリズムの真理の攻撃にあって危うく崩れそうになるのを必死に支えようとしているのです。

そもそも土台が間違っているのです。イエスなる人物を作り話で取り囲んでいるに過ぎません。そうすることでイエスをゴッドと同じ位の座に祭り上げたのですが、その根拠に何の正当性もありませんから、その非を指摘されると、理論的にはそれを撤回せざるを得ません。しかし、いよいよ撤回するとなると、内心、大きな恐怖心に襲われるのです。

「それを失ったら、あとに何も残らない……」彼らはそういう危惧を抱くのです。が、それは大きな勘違いです。もしも事実という基盤、即ち大自然の摂理の上に成り立っていれば、撤回しなければならないものは何一つないはずです。

ここにこそ私たちが地上界へ舞い戻ってきた理由があるのです。いかなる人物であろうと一個の人間に忠誠を捧げてはいけない。いかなる書物であろうと、いかなる教会であろうと、それのみにこだわってはいけない。いかなるリーダーであろうと、たとえ霊界の存在であっても、絶対的に服従してはいけない。絶対的忠誠を捧げるべきは宇宙の摂理である。なぜなら、これだけは謬(あやま)ることもなければ裏切ることもないから、ということを教える必要があるからです。

だからこそ私たちは大自然の絶対的摂理・法則の存在、それのみを説くのです。それを「スピリチュアリズム」と呼ぼうと何と呼ぼうと構いません。大霊が定めた、宇宙間のありとあらゆる次元、目に見える世界であろうと霊界と呼ばれている界層であろうと、果てしない宇宙のすみずみまでも張り巡らされている摂理・法則であることを理解していただけば、それでよろしい。

地上界ではリーダーが重んじられてきました。それは決して悪いことではないのですが、問題はその偉大さが過大評価されて、そのリーダーが全能視されるようになってから面倒が生じはじめました。そのリーダーの教説が絶対視されるようになり、それが科学者を、思想家を、そして精神だけは自由でありたい、理性が反発するものは受け入れたくないと思っている真っ正直な人々に窮屈な思いをさせることになりました。

そこで私たちは大霊の摂理の存在を強調するのです。その摂理の正しい理解こそが全知識を調和させるからです。科学者や哲学者、自由思想家、その他いかなる分野の人でも反発を覚えさせることはありません。永遠に不変で謬ることのない、大霊の働きを土台としているからです。

こうした、一見何でもなさそうな私たちの働きかけ、即ち宇宙の絶対的摂理を説くということの背後に、地球浄化に携わる高級霊団の叡智を読み取ってください。地上人類は叡智と理解力が向上するにつれて、大霊の摂理に従って生活を規制していくようになります。摂理に忠実に従うことの大切さを悟るようになります。言い換えれば、地上界で生み出される悲劇や飢え、苦難や悲嘆の原因は、大霊の摂理が素直に守られていないという、ただそのことに尽きることを悟るようになるでしょう。

そうした不幸は大霊の庭にはびこる雑草のようなものでして、せっかくの美しさを台無しにしてしまいます。それを取り除くには理解力の進歩が先決です。そこで私たちがこうして大霊の摂理の存在を説くのです。人類の魂を解き放し、精神的に自由にしてあげるためだけではありません。身体的にも大霊の法則と調和して生きていけるようにしてあげたいのです。

キリスト教に私が我慢ならないのは、説くチャンスはいくらでもありながら、本当の事実を信者に明かそうとしないからです。

また私が我慢ならないのは、本来はその代弁者たらんとしているはずのナザレのイエスを裏切るようなことばかりしていることです。

さらに許せないのは、そのイエスを神の座に祭り上げて、物質界の子等の手の届かない存在としてしまっていることです。これではイエスが意図した人間としての生き方の模範ではなくなってしまうからです。

本当なら教会の入り口には「我等が忠誠を捧げるのは真理、ただ真理のみ」とあるべきところを、実際には「我等は信条を説き、教義を旨とし、儀式を重んじ、祭礼を絶対視する」と書かれております。教会はまるで真理に敵対するための手段となっております。

決して私は、聖職者になって神に仕えたいと真摯に望んでいる人を非難しているのではありません。そういう人が少なからずいることは私もよく知っております。私が非難しているのは「組織」です。真理への道を閉ざし、古い慣習を温存し、霊力という活力溢れるエネルギーの入る余地をなくしている、硬直した教会の体質です。

そんな教会にどうして霊力が受け入れられましょう? そこには「立入禁止区域」というものが設定されているのです。

私たちは宇宙の大霊と自然法則の存在を説きます。その法則の働きの証をお見せする道具のようなものです。そしてナザレのイエスの本来の人となりをお教えして、イエスもやはり大霊の道具であり、地上の人間も大霊から授かった霊力を発揮しさえすればイエスと同じ生き方が可能ですと申し上げているのです。

信条・ドグマ・教義・儀式・祭礼・ステンドグラス・祭壇・法冠・外衣――こうしたものが一体宗教と何の関係があるというのでしょう? 宗教とは霊性に関わるものです。全ての創造物に宿り、生命のあらゆるリズムと現象となって顕現している霊性、大自然のあらゆる側面に顕現し、人類の進歩のために寄与している理想主義者や改革者を鼓舞している霊性、それが一個の教義と何の関わりがあるのでしょうか。

自由であるということがどういうことであるかを悟らねばなりません。魂を牢に閉じこめてはいけません。周囲を垣根で取り囲み、新しいインスピレーションを拒絶するようなことをしてはいけません。真理の道は永遠に尽きることのない探求です。その境界線は無限に広がり続けます。魂が進化するほどに精神もそれに反応していくものです。

知識にも真理にも、叡智にも成長にも、これでおしまいという極限がないことを悟った時、その時こそ本当の意味で「自由」となるのです。内心では間違っていると感じていること、理性が得心しないことを潔く捨て去った時、その時こそあなたは「自由」となるのです。知性が反乱の雄叫(おたけ)びを上げたのです。新しい真理の光で自分の間違いに気づき、怖じけることなくそれを捨て去った時、あなたは本当の意味で「自由」となるのです。

知識は、それを求める用意の整った魂には自由に分け与えられるものです。が、そのためには大いなる冒険の旅に出る覚悟が要求されます。当てもない求道の旅です。冒険と危険への覚悟も必要です。人跡未踏の地を歩まねばならないかも知れません。しかし、真理の指し示す所へは臆することなく突き進み、間違いと分かったものは、たとえ何千年ものあいだ金科玉条として大切にされてきているものでも、潔く捨て去る勇気がなくてはなりません。

地上人類は古い神話や伝説を、ただ古くからあるものというだけの理由で大切にしすぎております。真理と年代とは必ずしも手を携えて進むものではありません。幼少時代に教え込まれ大切にしてきた信仰を捨て去ることが容易でないことは私もよく承知しております。しかし、魂が真に自由になるには、理性が納得しないものは潔く捨て去ることが出来るようでなくてはなりません。

(教義や儀式などの形骸にとらわれて)霊界からの生きたエネルギーに直に接することを知らないが故に、地上界はどれほど霊性を失ったことでしょう。迷信や無知の壁を切り崩さんとする私たちの努力は、これから先、一体どこまで続けなければならないのでしょう?

もっとも、あなた方が想像するほど長くは掛からないでしょう。周りを見回してご覧なさい。崩壊の兆しが至る所に見られます。堅牢を誇った見栄の象徴の砦が、今まさに崩れ落ちつつあります。そのうち皆さんの真理の雄叫びが、それを完全に突き崩してしまうことでしょう。

質疑応答
――キリスト教でもそうですが、古い時代の偉大な宗教家の最期はとかく自然現象が伴い、神話や伝説に登場する神々の名前と結びつけられているのですが、なぜでしょうか。

それは、地上の人間が自分たちのリーダーには超自然的な能力があったと信じたくて、太古の神話や伝説を借用したからです。大自然の現象にも法則があるということを知らなかったのです。この人こそ我等が救世主、と信じた人物を凡人の手の届かない位置に祭り上げたかったのです。それで互いに神話・伝説を借用しあったのです。しかし、どう飾ったところで大霊の使者が届けた教えに何の影響も及ぼしておりません。その時代その時代にふさわしい真理と叡智と愛を反映していたからです。

――そうした人物の生死が、冬のあとに春が訪れるように、自然界の営みに従って繰り返されているように思えるのは、ただの偶然でしょうか。

頭に浮かべておられるのが、例えばナザレのイエスが処刑された時に大嵐になって稲妻が走ったという話でしたら、それは作り話です。ですが、死んでいった人物の霊が戻ってくるというのであれば、それは事実です。大霊の使者が何度も舞い戻ってくるというのは、よくあることです。

――聖霊に対する罪というのは何でしょうか。

聖霊の存在を否定することです。

――聖霊とはそもそも何なのでしょうか。

物質界へ注がれる霊力のことです。キリスト教では抽象的な意味でその存在を認めていながら、それが人類の誰にでも注がれるものであることは否定します。こうして皆さんと語り合うことを可能にしているのが霊力なのです。ほんの一時的ではあっても霊界と地上界とが一つの目的のために一体となることを可能にしてくれるのです。

――聞くところによりますと、洗礼を受けることによって死後その宗派の霊の一団が迎えてくれて、新しい環境を整えてくれることになるそうですが、もしそうだとすると、洗礼を受けていない者はどうなるのでしょうか。

この大宇宙を動かし、物的身体に生命の息吹を吹き込んだ大霊、宇宙の全天体とその動きの法則を司る大霊、ありとあらゆる次元の生命として顕現している大霊、太古から預言者や霊覚者を通して顕現している大霊、全存在の内部と背後に存在する大霊、その大霊が、一個の人間に水滴が垂らされているか否かでお困りになることはありません。

大切なのは地上生活を最高の摂理に忠実に生きたか否かです。赤子に二、三滴の水を垂らしたからといって、それで摂理が変えられるわけではありません。摂理は絶対に変えられません。原因にはそれ相当の結果が生ずるというのが大原則です。

――キリスト教は多くの奇特な人物を生み出していませんか。

そういう人物はクリスチャンになろうとなるまいと立派だったはずです。

――でも、イエスの教えに従おうと心掛けることで立派になった人物もいるのではないでしょうか。

ナザレのイエスを本当に見習うようになった時、その時から人類の歴史はまったく新しい時代を画することになるでしょう。今までの所まだそこまでは至っておりません。少なくとも私にはその兆しが見えないのです。帰依すると公言しているイエスその人を裏切るような生活を送っている人たちのことを、この私の前で「クリスチャン」と呼ぶのは止めてください。イエス自身こう述べているではありませんか――「私に向かって主よ、主よ、と呼びかける者の全てが天国に召されるわけではない。天にまします父の意志を実践する者が召されるのである」と。

――教義というものにあまりこだわらず、無欲で立派な人生を送っているクリスチャンも無数にいると思うのですが……

そういう人はクリスチャンとしては立派とは言えないでしょう。いわばダメなクリスチャンですが、人間としては立派です。教義は必ず足枷になるということを忘れないでください。教義を重んじることで立派になるのではありません。教義を無視しても立派になれるのです。キリスト教国では教義の名のもとに殺し合いと火刑が行われてきました。魂を縛るもの、魂を閉じこめるもの、魂の自由な顕現を妨げるものは、すべからく排除しなくてはいけません。

――ハンセン病患者の居留地へすすんで赴く牧師はどう理解したらよいのでしょうか。

そういう牧師は教義に動かされて赴くのではありません。魂の奥にやむにやまれぬものを感じるからです。宗教は教義ではありません。教義が宗教ではありません。

――イエス・キリストは教会が言っている通り「神の唯一の御子」なのでしょうか、それとも我々と同じ人間であって、ただ並外れた霊的能力を持っていたということなのでしょうか。

ナザレのイエスは大霊の使命を帯びて物質界へ降誕した多くの大霊の使者の一人でした。そして地上で為すべき仕事は果たしましたが、それで使命の全てが終わったわけではなく、今なお霊の世界から働きかけております。

そのイエスを祈願の対象とするのは間違いです。祈願は大霊に捧げるべきであって、大霊の使者に捧げるべきではありません。

またイエスも大霊が定めた自然法則、全ての人間がこの地上界へ誕生するに際してお世話になる法則の働きで誕生しております。この地上界へ生まれ、生き、そして霊界へと旅立って行くに際しては、いかなる人間も大霊の自然法則の働きに与(あずか)るのです。(イエスだけが例外というわけではないということ)

――そのことを立証する言葉が聖書の中にあるのでしょうか。

私が忠誠を捧げるのは大霊の摂理のみです。今もって聖書の片言隻語(へんげんせきご)にこだわる御仁は、大霊というものが今なお活動し、鼓舞し、顕現しつつあるという事実に理解が行くまで放って置くしかありません。

大霊の摂理は今も働いており、ふさわしい道具さえあれば、かつてと同じように大霊の霊力がいつでも流入するのです。あなた方の聖書も立派な書物かも知れませんが、もっともっと素晴らしい書物があるのです。森羅万象がそれです。大霊の法則によってその千変万化の壮大な営みが維持されています。いかに立派な書物も、いかに大切にされている書物も、いくら権威あるものとされている書物も、比ベものになりません。

――イエスは今どこにいるのでしょうか。また何をしているのでしょうか。

「ナザレのイエス」と呼ばれた人物を通して顕現した霊は、二千年前に開始した使命を成就すべく今なお地上界へ働きかけております。その間、数え切れないほど十字架にかけられており、今なお毎日のように十字架にかけられております(その本当の教えが踏みにじられているということ)。しかし、その霊も大霊の一部ですから、地上界へ平和と幸せをもたらすべく、地上の道具を通して今後ともその影響力を行使し続けます。

――あなたが「ナザレのイエス」とおっしゃる時、それはあのイエスと呼ばれた人物その人のことですか、それとも彼を通して働いている霊力のことですか。

イエスと呼ばれた人物のことです。ただし、その後その霊格は飛躍的に進化を遂げ、地上時代とは比較にならないほど意識の次元が高くなっております。地上時代に顕現した意識は必然的にその時代のレベルに同調させられました。とは言え、人類史上でイエスほど霊性が多く発現した人物はいませんし、その発現の次元がイエスほど高度だった人物もいません。

――この二千年の間でですか。

後にも先にもいません。大霊の顕現としては地上界が賜った最大級のものです。といって私たちはそのナザレのイエスその人を崇拝することは致しません。そのイエスを通して顕現した霊力に敬意を表するのです。イエスの存在価値は、その人物を通して顕現した霊力が空前絶後のものだったことにある、というのが私たちの認識です。

――霊界では、さらなる啓示のためにイエスのような指導者を地上へ派遣する計画があるのでしょうか。

時代が異なれば、それに対応して別の手段を講じることになります。忘れてならないのは、現代の地上界は(イエスの時代に比べて)遙かに複雑化しており、国家間の相互依存の傾向が大きくなっておりますから、それなりの対応が必要だということです。民族性の違い、人生思想や生き方の違い等を考慮しなくてはなりません。

一口に霊界からのメッセージといっても、それぞれの国を取り巻く環境・特徴・民族的慣習に対応したものでなくてはなりません。それに、言語その他の制約も受けます。しかし、そうしたものの背後を取り仕切っているのは、イエスの時代と同じ霊力です。

キリスト教ではイエスが「死者」から蘇り、「死後」に姿を見せ、「死」の彼方にも生命があることを証明して見せたことで、そのイエスを崇拝の対象としているわけです。十字架にかけられた時の傷跡まで見せております。その後も弟子たちに姿を見せております。

そうしたことはキリスト教会でも、たとえ証明できなくても信じています。(イエスが神の御子だったからこそ生じた)奇跡だったと信じているわけです。しかし、実はこうして私たちが地上界へ戻ってきて死後の存続を証明し、大霊は無限・絶対の存在であり、その摂理は永遠に不変であること、イエスが蘇ったごとくに全ての人間が蘇るものであることを立証しているのも、同じ法則の働きによることを知ってください。

〔国教会のカンタベリ大主教がラジオ放送で「組織宗教へ帰れ」と訴えたことについて、シルバーバーチが次のようなコメントをした〕

地上界では「宗教に帰れ」という呼びかけがあるそうですが、真の宗教とは同胞に奉仕することによって大霊に奉仕することです。そのためには殿堂も牧師も僧侶も聖典もいりません。そうしたものは奉仕の精神を植え付け同胞への愛の心を強めることにならない限り、何の意味もありません。いつどこにいても人のために役立つことをすることです。同胞の重荷を軽くしてあげることです。それが宗教です。

私は、すでに地球人の多くが直感的にあるいは理性と論理的思考によって悟っている、単純明快な真理を繰り返し説くだけです。私は三千年もの長きにわたって、地上界より遙かに高遠の世界で生活してきました。そこでは常に実在に直面させられ、因果律が即座に作動し、人のために役立つことを心掛ける者が必ず報われます。そういう世界で学んだ真理をお届けしているのです。そこでは地上時代の地位や肩書きといった飾りものが全て剥ぎ取られ、魂はその有りのままの姿を衆目にさらされ、長所と短所が一目瞭然となります。

私はそういう生活の場――本当の価値が認められ、ごまかしが通じず、不公平の存在しない世界からやってまいりました。金持ちも貧乏人もいません。いるとすれば霊性の豊かな人と貧弱な人だけです。強者も弱者もいません。いるとすれば霊的に強い人と弱い人だけです。地上界で大切にしていたものが遠い過去のチリとなって忘れ去られ、永遠の霊的実在のみが存在している世界です。

振り返ってあなた方の世界を見回してご覧なさい。悲惨と絶望の窮状、悲しみと苦悩に満ち溢れております。ということは、手を差し伸べるべき奉仕の場がいくらでもあるということです。無知がはびこり、権力の乱用が大手を振ってまかり通り、偏見がのさばっております。一方に飢餓に苦しむ者がおり、他方には持ちすぎているが故の苦に喘いでいる者がいます。病苦にさいなまれている者、内部に宿る霊を発現する術を知らずに不幸をかこっている者がいます。貧困と苦痛に打ちひしがれ、「クリスチャン」と自負する人々にとって恥さらしとも言うべき、あばら屋で暮らしている人々をご覧なさい。

忘れないでいただきたいのは、そうした地上界も「神の王国」の一つになり得るということです。平穏と豊かさに満ちた「神の国」に変えるための潜在力が秘められているのです。ただ現状は、利己主義という名の雑草が生い茂り、その潜在力が発現を妨げられています。

そこで私たちは皆さん方に奉仕というものを要求するのです。自分を捨て、我欲を捨て、地上的なものよりも天上的なものを優先させ、お一人お一人が大霊のメッセンジャーとなっていただきたいのです。お一人お一人が改革の責務を担い、生活に明るさと生きる喜びと笑い声に溢れさせ、無知と迷信を駆逐して代わって霊的知識を普及させ、暗闇の中で生きている人々に霊的真理の光明をもたらし、恐怖心も喪の悲しみも病気も知らない、愛に包まれた生活の場としていただきたいのです。

第10章 人工的教義と霊的真理
〔英国国教会内部にも教義の解釈の仕方について意見の衝突がある。そこで二十五人の神学者が十五年の歳月を費やして、国教会としての統一見解をまとめる作業を続け、一九三八年一月にようやく「英国国教会の教義」と題する大部の報告書を発行した。その中の幾つかが読み上げられるのを聞いてから、シルバーバーチがその一つ一つにコメントを加えた〕

・「イエス・キリストの復活」は人類史上における極めて特殊な神の御業である。

そんな結論に達するのに十五年も掛かったのですか。ナザレのイエスを裏切っているのは自らクリスチャンと名乗っている人たちである、とはよく言ったものです。

「復活」は生命の法則の一環です。死の到来とともに全ての魂が復活するのです。イエス一人の特殊なものではありません。大霊の子すべてに生じるものです。順序がくれば全ての者が死の関門を通過し、物的身体を置き去りにして、霊的身体で新しい生活を始めます。その死後の生活に備えて、地上生活の間じゅう刻一刻と準備をしております。

イエスが自然法則に反したことをしたことは一度もありません。そもそもイエスが地上界へ降りてきたのは自然法則を体現して見せるためでした。イエスの全ての行為、全ての教えは、大霊の摂理の一部でした。イエス自身こう述べているではありませんか――「こうしたことは皆あなた方にも出来るし、もっと大きな現象も出来るようになるであろう」と。

そのイエスを大霊の子等の近づけない天界の遙か高い位置に持ち上げることは、せっかく彼が地上へ降誕した意義を完全にぶち壊してしまうことになります。なぜなら、イエスの地上人生の究極の目的は、地上の人間が内部の大霊を発現すればこれほどのことが可能なのだという、その手本を実行して見せることにあったからです。

そしてイエスは、霊界へと戻ったあと再び同じ姿を地上の縁ある人々に見せました。これをキリスト教では「復活」と呼ぶのですが、イエス以前にも死後に姿を見せた例は数多くありますし、イエス以後にも数え切れないほどあります。

この宇宙に「特別のもの」というものは存在しません。全てが大霊の法則によって経綸されているのであり、何かが発生したということそれ自体が、法則というものが存在することを証明しているのです。

・洗礼は、幼児洗礼であっても、罪へ陥(おとしい)れる影響力の支配から逃れる手段である。聖人とされる人物でも、もし洗礼を受けていなければ、その意味で欠陥があることになる。

いかなる牧師も魔法の力は持ち合わせません。水を水以外のものに変える力はありません。赤子の額に水を二、三滴振りかけたからといって、それでその子の人生――地上だけでなく死後も含めて――に何の変化も生じるわけではありません。振りかける前も振りかけた後も、ただの水です。牧師にはその成分を変える力はありませんし、法則と違った結果を生み出させる力もありません。

霊性というものは洗礼によって何ら影響を受けません。他人が代わって進化させることが出来るというような性質のものではありません。各自が物質界で送る生活の「質」によって自分で磨くものです。自分の行為が生み出す結果を他人が取り除いてあげることは出来ません。自分で償い、自分で報いを受けることによって精算して行かねばなりません。

「聖人」と呼ばれることと洗礼とは何の関係もありません。物質界における日常生活の中で、可能な限り完全に近い行いをすることによって、少しでも多く神性を発揮する人が「聖人」です。

・当委員会は、神がその気になれば奇跡を生じさせることが出来るという点では一致を見たが、果たして奇跡的現象というものが(心霊学的に)起きるものであるか否かについては意見が分かれた。

さらにもう十五年討議すれば委員会も結論が出せたのでしょうか。何という情けない話でしょう!(聖書にいう)盲人が盲人を手引きしているようなものとは、まさにこのことです。その程度の者たちが人類を手引きしているのです。そして、果たして奇跡的現象というものが起きるものか否かが分からないと、他人事のように言います。(原因がないという意味での)奇跡は存在しません。これまで一度も発生しておりませんし、これからも絶対に生じません。

大霊はあくまでも大霊です。宇宙の絶対的法則であり、その働きは完璧です。完全無欠性によって産み出されたものだからです。その完全無欠性から生まれた法則が万一機能しなくなったら、宇宙は大混乱を来します。大霊が予測しなかった事態が生じて創造機構の手直しを余儀なくさせられることがあるとしたら、大霊は完全無欠でなくなり、不完全ということになります。

(キリスト教でいうように)もしも選ばれた少数の者を寵愛するために奇跡を生じさせなければならないとしたら、大霊は分け隔てをするいい加減な神だったことになり、全生命の背後の無限なる存在ではなかったことになります。

委員会のメンバーは、そのお粗末な概念でもって大霊をつまらぬ存在に仕立てております。法則の裏側にも法則があることを知らず、霊力の存在を知らず、その驚異的な威力を目の当たりにしたことがないために、霊媒を通して演出される現象が理解出来ないのです。

どうやらメンバーたちはイエスにまつわる現象(しるしと不思議)が今日の物理法則と矛盾するところから、「奇跡」というものを考え出さないといけなくなるようです。霊的法則というものが存在することさえ理解すれば、大霊は昔も今も、そして未来永劫にわたって不変です。日常生活の中で霊的資質を発揮すれば、誰にでも大霊の力の恩恵に浴することが出来るのです。

・奇跡は秩序の破壊ではなく神の意思の表現であり、それが自然界の新たな秩序を決定づけることになる。それゆえ決して不合理なものでも気まぐれなものでもないのである。

委員会のメンバーに欠けているのは、宇宙の全法則は無窮の過去から存在し無窮の未来まで存在し続けるという事実についての理解です。地上人類が新しい法則を発見したといっても、それは性能のよい器機の発明によって、それまで知らなかった宇宙の生命活動の一端を知ったというに過ぎないのであって、決して新しいものを創造したわけではありません。無窮の過去から存在していたものを見出したというに過ぎません。

新たに何かを創造するということは絶対に不可能です。いかなるものも、すでに存在していたものの一部に過ぎません。また、大霊の法則を破って何かが発生することも絶対にあり得ません。人間がその存在を知ると知らぬとに関係なく、無窮の過去から全法則が用意されているのです。

従って大霊が新たに法則を考案する必要はありません。宇宙の経綸に必要な法則は無窮の過去から用意されていますし、未来にも用意されています。大霊は完全無欠であるが故に、考え得る限りのあらゆる存在の側面に備えた法則を用意しておられます。

・クリスチャンの立場からすれば聖書は神の特殊な啓示として、唯一無二のものである。

何という精神の暗さでしょう! 一体どこまで迷信の暗闇に閉ざされているのでしょう! その暗闇の何と深いことでしょう! 彼らを取り囲む迷信の暫壕(ざんごう)の、何と頑強なことでしょう!

物質界というものが出現して以来、多くの神の使徒が地上界へ降誕して大霊の真理を啓示してきました。当然それはその時代の言語で告げられました。その啓示の内容は時代の必要性に応じたものであり、その国の事情に応じたものであり、その国民の精神的・霊的発達程度に応じたものでした。要するにその啓示の意味が理解され易い形で――程度が高すぎて手が届かないことにならないようにとの配慮のもとに――届けられていました。

しかし宇宙は絶え間なく進化しております。地上人類が成長し進化すれば、その度合いに応じて新たな指導者、新たな預言者、新たな霊覚者が派遣され、その時代の必要性に応じたビジョン、理想、予言、メッセージ、インスピレーション、霊的真理等が授けられます。

この循環にはお終いというものがありません。なぜなら大霊は完全無欠であり、完全へ向けての進化に終わりはないからです。

新たな啓示は古い啓示とは一貫したもので、矛盾するものではありません。今私たちが説いている真理はナザレのイエスが説いたものを否定するものではありません。そのイエスもモーゼの説いた真理を否定しておりません。そして私たちの後に現れるであろう次代の指導者は、今私たちが説いている真理を否定することはないでしょう。

しかし、明日の大霊の子等は今日の子等よりも一段と高い進化の過程にありますから、その時代に説かれる真理は、今あなた方に明かされているものよりも一段と進歩的なものになるに相違ありません。

・クリスチャンにとってキリストは唯一の、そして不可欠の(神との)調停者である。父(神)とキリストとのつながりは直接的であったが、我々クリスチャンとのつながりはキリストを介して行われる。

これは間違いです。大霊は各人の中に存在するのです。同時に各人が大霊の中に存在しているのです。イエスも「神の王国はあなた方の中にある」と述べているではありませんか。クリスチャンがなぜこうまでイエスの教えを理解していないのでしょう!

(クリスチャンだけでなく)いかなる人間も大霊から切り離されることはありませんし、大霊が人間から切り離されることもありません。

いかに重い罪を犯したからといって、それで大霊から切り離されることは絶対にありません。人間と大霊とを結びつけている絆は切ろうにも切れないものであり、従って罪ゆえに宇宙の孤児となってしまうことはありません。

人間と大霊との絆は、内部にある神性を日常生活の中で発現するにつれて強くなるものです。あなた方一人一人の内部に大霊の分霊が宿されているのであり、大霊と人間との間に調停者が介入する必要などないのです。

ナザレのイエスはそんな目的のために降誕したのではありません。人間はいかに生きるベきか、内部の神性をいかにすれば発現できるかを教えるために地上界へ降りたのです。

キリスト教神学はまさしく物質界にとって「呪い」です。人類にとって大きな手枷・足枷となります。魂を牢に閉じこめてしまいます。それから逃れる道は、霊的啓示を学ぶことによって人工的教義と信条の愚かさに目覚めることです。有限の人間的精神が無限なる大霊の啓示をしのぐことは絶対にありません。

・「キリストの復活」は永遠の生命の可能性を裏付けるものである。

またしても何というお粗末な認識でしょう! 人間は内部に大霊の分霊をやどしているからこそ存在し得ているのです。物質は霊のお蔭で存在しているのです。霊は永遠の実在です。破壊することもなく、破滅することもなく、永遠にして無限なる存在です。

霊であるからこそ墓場を越え、火葬の炎の向こうまで生き続けるのです。物質界にも霊界にも、内部に秘められた神性を破滅させるものはありません。大霊から賜った不変不滅の贈り物だからです。

あなた方が今生きているのは霊だからこそです。死後に生き続けるのも霊だからこそです。霊であればこそ永遠に生き続けるのです。誰かの特別の恩恵を受けて永遠の生命を授かるのではありません。産まれながらにして授かっている権利であり、大霊からの遺産です。

なぜかクリスチャンは、宇宙の創造主たる大霊、千変万化の大宇宙の営みを経綸する霊力を小さな存在にしようとしています。その意味がお分かりですか。物質界でわずか三十三年を生きた人物と同列に扱っていることです。しかもその無限の恩恵が一人の人物を信じた者だけに授けられると説いています。何たる情けない神、何とみみっちい教義でしょう!「宗教」という用語をこれほど辱める教義もありません。イエスご本人がどれほど悲しみと嘆きの涙を流しておられることでしょう。今もってクリスチャンはイエスを磔の刑に処し続けております。

自らを「クリスチャン」と名乗ったからといって、それで「地の塩」(模範的人間)になるわけではありません。教会に通うようになったからといって、それだけで「地の塩」になるわけではありません。地上で授かったラベル(名誉ある地位や肩書き)は霊界では通用しません。教義を厳正に守ったからといって何の徳にもなりません。大切なのはただ一つ――日常生活でどれだけ大霊の資質を発現させたか、それだけです。

・「讀罪」の教義の根源にあるのは、それが本質的に神の御業であり、神がキリストの調停によって人類と和解し給うたとの確信である。

これはどういう意味なのでしょう? 嫉妬と怒りに燃えた神を宥(なだ)めすかすために最愛の子を血の犠牲にしなければならなかったという、あの古い説話の焼き直しですか。大霊は怒りっぽい人間よりもっと残酷で無慈悲だとでも言いたいのでしょうか。我が子と和解するのに血の犠牲を要求なさるのでしょうか。大霊とイエスをこれほど哀れな存在とする説はありません。

イエスが愛と慈悲と優しさに満ちた「父」のごとき存在と説いた大霊のご機嫌を取るのに、なぜ血を流さなくてはならないのでしょうか。地上の人間は、一人の例外もなく、自分の努力で性格を築き、自分の努力で霊性を進化させて行くために地上界へ来ているのです。

利己的な生き方を選ベばそれなりの代償を払わなくてはなりません。人のために役立つ道を選べば、個性の発達という形で報われます。そのように摂理が出来上がっているのであり、いかに地位の高い指導者といえども、それを変えるわけには行かないのです。

それ以外の教えは全て卑怯と不公正の教義です。もしも間違いを犯したら、潔くその代価を支払えばよろしい。屁理屈をこねて責任を他人に転嫁するようなことをしてはなりません。

私たちの世界では霊性の高い者が低い者よりも高いレベルの界層にいます。それ以外にありようがないのです。もしも自己中心の生活を送った者が、死の床での信仰の告白一つで、生涯を人のために捧げた人よりも高い界層に行けるとしたら、それは大霊を欺き、完全な公正が愚弄されたことになります。

勿論そんなことがあろうはずはありません。人生はあなた自身が形成していくものです。どういう地位にあろうと、職業が何であろうと、生まれが高かろうと低かろうと、肩書きが何であろうと、肌の色や民族や国家が何であろうと、そういうものは一切お構いなく、人のために役立つチャンスはいくらでもあります。為すべきことを怠ったら、それ相当の代償を支払わされます。その摂理の働きに介入できる者はいません。

最後にイエスの言葉を引用して終わりとさせてください――「自分が蒔いたタネは自分で刈り取らねばならない」

〔当日の交霊会を総括してシルバーバーチがこう述べた〕

真理というものは、童子のような心になりきって古い概念から生じた誤った信仰を捨て去ってしまえば、実に簡単に理解できるものです。言い換えれば、新しい教義や信条をこしらえるというのではなく、正しいことは正しいこととし、それを否定することでいかなる犠牲を強いられることになろうと、それを幼子のような素直な心で受け入れる態度で臨めば、容易に理解できるものです。

いかなる宗教であろうと、何らかの教義に忠誠を誓った人たちが必ずしも真理を理解する上で有利な立場にあるとは言えません。なぜなら魂というものは、信仰を誓った時の忠誠心と、そこに満足を得たいと希(ねが)う心との間の葛藤に悩み苦しむことがあるものだからです。

私は皆さんに、二千年前にイエスが説いた真理と、今地上界のリーダーと目されている人たちが説いている教説とを比較して、イエスの教えがいかに単純であるかに着目していただきたいのです。

私たちも単純なメッセージをお届けしています。理性にもとらず、知性を侮辱することもないメッセージです。それは自然の結果として、私たちが当初から主張しているもの、即ち簡単な霊的真理であることの証拠にほかなりません。

その中でも第一に申し上げているのは、地上界の人たちがいちばん願っていること、即ち他界した縁ある人々が今も生き続けていること、言い換えれば生命に「死」というものは存在しないという事実です。

次に申し上げているのは、霊力は(二千年前だけでなく)今もなお人類の高揚のために献身している人々を鼓舞しているという事実です。霊力の働きが人生を生き甲斐あるものに、そして調和の取れたものにする上で「豊かさ」をもたらしてくれているのです。

さらに私たちは霊的治療エネルギーによって、病魔と闘っている人々の苦しみと痛みを和らげてあげています。こうして私たちは地上の人々に互いに助け合う生活の送り方をお教えする意図のもとに結集した、神の使徒なのです。

要するに私たちは、これまでの人類の歴史において大霊のインスピレーションに接した人々が説いたものを繰り返して説いているまでです。宇宙には神の絶対的法則というものがあることをお教えし、それがどういう形で働いているかを証明して見せているのです。同じ法則を使用して、過去に起きた現象が現在でも起こせることを実際にお見せしているのです。

しかし現実には、本来その人たちこそ霊力の恩恵を受けるべきであるはずの聖職者たちがそれを拒絶しております。神学という名の隔離された世界に閉じこもっております。教条主義という名の修道院に身を隠しております。

彼らは、内心、怖いのです。スピリチュアリズムという名の真理が広まれば僧侶も牧師も主教も大主教も要らなくなることを知っているのです。そんなものがいなくても、スピリチュアリズムの知識さえあれば各自が大霊の道具となることが出来るからです。

しかし、本日国教会の「報告書」を一部だけでも聞かせていただいて、教条主義が徐々に勢力を失い、代わって私たちの教えが広がりつつあることを改めて確信いたしました。

第11章 進化の土壌としての地上生活
〔キリスト教神学には「原罪」という教義がある。最初の人類であるアダムとイブが神の掟を破って犯した罪によって霊長の座から転落したという説であるが、シルバーバーチはそれを否定し、人類も霊として発生して以来ずっと進化の旅を続けており、その旅に終着点はないと説く〕

種子が暗い土中に埋められるのは、養分を摂取して発芽後の生長に備えるためです。それと同じく、人間的生命の種子が物質界という暗黒の世界に生まれてくるのは、霊界へ戻ってからの進化に備えて地上的体験を積むためです。

地上的体験は、いかなる種類のものであっても、大きな宇宙機構の中で得られる要素の一つであることに違いはありません。悲しみ・落胆・挫折……こうしたものは人間的心情からすればあって欲しくないものかも知れませんが、魂の進化にとっては掛け替えのない貴重な体験なのです。

勿論その一つ一つの体験の最中にあってはそうは思えないでしょう。人生体験の価値を明確に認識できるのは、こちらへ来てその全体像を見つめることが出来るようになった時です。逆境の中にあった時こそ性格が試され、悲哀の中にあった時こそ魂が強化されていたことを知るものです。

私たちは生命の旅を、肉眼ではなく霊的生命の知識に照らして見つめます。賢明な人間とは全ての体験を魂の養分として摂取する人のことです。辛いことや煩悩の誘惑に負けることなく、霊性の全てを傾けて困難に立ち向かう人です。その気迫に満ちた生き方の中でこそ霊性が磨かれ進化するのです。

摂理は完璧であり、自動的に働きます。誰一人として逃れられる者はいません。自由意志そのものすら摂理の一つであり、その働き具合は、洞察力を具えた進化の階梯にある者には明瞭に見て取ることができます。

自由意志を行使できるといっても、あくまでその時点までに到達した進化の階梯において許される範囲内でのことです。何でも好きに出来るというものではありません。各自が到達した進化の階梯によって自ずから制約があります。

あなた方も大霊の一部であり、発現すべき無限の神性を秘めております。その神性が発現した分だけ、より高い次元の摂理との関わり合いが生じます。その摂理はそれまでの低次元の摂理と矛盾するものではありません。霊性が進化したが故に関わり合うことになる摂理ということです。

無限というのは文字通り限りがないということです。美にも音楽の粋にも限りというものがありません。霊性が進化するにつれて美の世界、調和の世界のより高度なものが鑑識できるようになります。向上するに従ってより大きな調和の世界が待ち受けていることです。

低い次元にいる者が高い次元のことを鑑識することは出来ません。が、高い次元にいる者が低い次元のことを鑑識することはできます。宇宙の全側面を経綸している摂理は自動的に働きますが、それぞれの次元で作動している摂理は、その次元まで霊性を高めないことには理解できません。

それまでの魂の成長度が、これからの成長を選択する自由を与えてくれます。しかし、その選択をするのはあなたの自我意識であって、それは地上生活にあっては肉体の脳を通して顕現している意識です。ですから、いわゆる人間的煩悩が入り込む可能性もあるわけです。そうした要素の絡み合いの中で刻一刻と自動的に選択がなされているのですが、霊的自覚が芽生えている魂は、さらなる向上を促す道を選択するものです。

このようにして人間は、霊性の進化を通して大自然の摂理・法則を学んで行きます。まず、それまで信じていたものの中で間違っているもの、理性が反発するもの、愛と叡智の権化である宇宙の大霊にそぐわないものを捨て去ります。

新たな知識を取り入れるに先だって、それまでの古い知識を点検しなければなりません。そして自然な思考を妨げるものを全て取り除かないといけません。そこでようやく魂が成長し、新たな知識を取り入れる用意ができたことになります。

このサークルにご出席の皆さんは順調に魂が成長し、大霊の無限の叡智に接する機会が多くなっております。霊的現象を演出するための法則の働きについても学んでおられます。もちろん日常生活における摂理の働きについても学んでおられます。進歩するだけ、それだけ多くの知識を手にすることになります。

皆さんからシルバーバーチと呼ばれているこの私がお届けしている知識は、無限といってよいほどの界層に存在する知識のうちのごく一部にすぎません。皆さんの成長の度合いがこの私の知識では満足しきれないほどになれば、私に代わって一段と高い界層の霊団が、より高度な知識と叡智をお届けすることになるでしょう。

そこには、これでお終いという最後の界層は存在しません。これ以上はないという完全の域は存在しません。あなた方も、そしてこの私も、刻一刻と進化向上しております。そして私より高い界層まで進化している霊から聞いた所によれば、その霊たちの背後にはさらに高級な霊の世界が控えているとのことです。とにかく終着点というものは存在しないのです。もし存在するとしたら、創造進化という宇宙の大原則が崩れてしまいます。

しかし、その全ての段階に大霊の息吹があります。だからこそ物質界の最下等の生命体から聖人君子に至るまで大霊につながっていると言えるのです。聖人だけではありません、いかなる極悪人も、限りなく美しい心の持ち主も、内部に大霊(神性)を宿しているという意味で、兄弟姉妹なのです。全ては摂理で成り立っており、そこから逃れられる者は一人もいません。その意味で全人類がつながった存在なのです。

動物にはそれぞれの種に共通したグループ・スピリットがあります。あなた方一人一人が一匹の猿だったとか魚だったとか小鳥だったというのではなく、そのグループ・スピリットの一部だった時期があるということです。

質疑応答
――本人には何の罪もないのに、さまざまな障害をもって生まれてくる子供がいるのはなぜでしょうか。

身体という外形だけで魂の価値を判断してはいけません。魂の進化と、それが地上生活で使用する身体の進化とを混同してはいけません。父親または母親、あるいは双方から受け継いだ遣伝的法則の結果として障害をもって生まれてくることがあるのは事実ですが、それが魂の進化を阻害することはありません。

障害をもって生まれてくる子供には、その魂にそれなりの埋め合わせの原理が働いているものです。正常な身体を持って生まれた子供よりも優しさ・寛容心・他人への思いやり等の強い性格をしていることがあります。永遠の時を尺度とした、因果律の一環としての「埋め合わせの原理」というものがあり、それは逃れようにも逃れられません。

次代の子孫に物的身体を提供する責任を担っている両親は、可能な限り完全な身体を提供すべきですが、仮にそれが出来なかったとしても、埋め合わせの原理が働きます。

――知的障害をもって生まれ、責任ある生活が営めない人は、死後どうなるのでしょうか。私たちは地上生活での行いと試練への対処の仕方で評価されると聞いておりますが……

物的なことと霊的なこととを混同して考えるためにそのような疑問が生じるのです。脳細胞に障害があるために引き起こされる混乱は地上次元だけの話であって、宿っている霊は、脳という器官に欠陥があるために自我を正常に表現できなくても、霊的な意味での自分の責任は自覚しているものです。

大霊の摂理はあくまでも魂の進化を大前提として機能します。地上的な尺度ではなく永遠の叡智を尺度として因果律が働くわけです。従って、地上的な善悪の基準では「悪」とされる行為でも、魂そのものに責任がなければ、霊的には「悪」とは見なされません。

例えば発狂状態で他人または自分自身の生命を奪った場合、それは知的判断力を司る器官がしかるべき機能を果たせなかったのですから、その霊は責任を問われません。私の世界(霊界)では魂の動機を最優先して判断されます。動機を基準とする限り、判断を誤ることはありません。

――物的器官の欠陥によって地上生活による教訓を学べなかった霊は霊界でどういうことになるのでしょうか。

器官の欠陥のために魂が学ぶべき教訓を意識的に学ぶことが出来なかった、つまり物的体験の価値が失われた、ということです。しかし、埋め合わせの原理は働いております。

――私たちは地上生活のさまざまな試練をくぐり抜けながら形成した性格を携えて霊界へ行くわけですが、精神異常者の場合はどうなるのでしょうか。

魂の進化の程度と動機を基準として裁かれます。

――飲んだくれや精神異常者のいる薄汚い環境の中に生を受けて、過酷な人生を歩まされる子供がいる一方には、美しいものに取り囲まれた環境に生を受けて、何の不自由もない人生を送る子供もいます。この不公平はどう理解したらよいのでしょうか。

魂の進化は環境ではなく霊的自覚によって魂そのものに刻み込まれて行くものです。ところが人間はとかく物的環境で判断しがちです。高い身分に生まれようと低い身分に生まれようと、人のために役立つことをするチャンス、即ち内部の霊性を発揮し自我に目覚めるチャンスは、どういう環境でも訪れるものです。その時こそが真の幸不幸の判断の基準を当てはめるべき時です。物的基準で計る限り地上界は不公平だらけに思えるかもしれません。しかし、体験の価値は魂の琴線に触れるか否かに掛かっており、だからこそ苦難の中にある時こそ霊性が磨かれるのです。

――でも、なぜ悪人が栄えるのでしょうか。

それもまた、地上的尺度による見方です。物的に恵まれた生活をしている人の魂が悩みも苦しみも痛みもないかに思える根拠は何なのでしょう? いつも笑顔を絶やさないからでしょうか。豪華な邸宅に住んでいるからでしょうか。紫の衣と亜麻糸の布がそのまま満ちた足りた魂を表すのでしょうか。永遠の基準は霊の基準であり、物質の基準ではありません。そうでないと神の公正が存在しないことになります。

――しかし、悪徳や飢えなど、低俗なものばかりの環境よりは恵まれた環境の方が、動機も善なるものが発揮しやすいに決まってると思うのですが……

私はそうは思いません。その証拠に、私が見る限り地上の偉人はほぼ間違いなく低い身分の出です。霊覚者と呼ばれる宗教的指導者にいたっては、まず間違いなく低い階層から出ています。葛藤を余儀なくさせられる困難が多いほど、それだけ魂が成長するものです。霊的自我に目覚めるのは常に酷しい環境を克服せんとする葛藤の中においてこそです。人生を外面から見てはいけません。内部から見るようにしてください。

――人間の霊性と肉体的生命とは同時進行で進化して来たのでしょうか。

両者は進化の系統が異なりますが、ある一定の段階までは同時進行でした。というのは、霊が肉体器官を通して自我を表現するためには、ある一定の段階までの肉体機能の進化が必要だったからです。

――死後にも向上進化があるとなると、邪悪な動機から罪を犯して堕落することもあり得るのでしょうか。

もちろんですとも! すでに霊の世界に来ていながら、何百年、時には何千年もの間、地上時代と同じ煩悩を抱き続けている者が少なくありません。貪欲や怨念が捨てきれず、霊的摂理を理解しようとしません。霊的なものに対する感性が芽生えないのです。身は霊界にありながら、意識的には完全に地上圏で生活しており、しかも下降の一途をたどっております。

――下降するだけ下降すると最後は消滅してしまうのでしょうか。

いいえ。大霊の火花が明滅するほど小さくなることはあっても、消滅してしまうことはありません。大霊との霊的な絆は永遠に切れることはありません。いくら下降しても、二度と向上出来なくなるということはありません。また、いくら向上しても、そうした最低界の魂に救いの手を差し伸べることが出来なくなるということはありません。

――個的生命は、ありとあらゆる界層を通過し、遂に大霊と融合帰一して個性を失った後、無機質の要素となって宇宙にばらまかれるのでしょうか。

私は、完全性と融合するほど完成の域に到達したという霊は一人も知りません。霊性を磨けば磨くほど、さらに磨くべき領域があることを知るものです。言い換えれば意識に開発する余地があるということです。意識は大霊の一部ですから無限の奥行きがあり、究極の完全性というものは存在しません。

――複数の個霊が進化して、どこかで一個のグループとして融合し、個性を失うということはあり得るのではないでしょうか。

私の知る限りでは、あり得ません。ただ、次のようなことは確かにあることです。ある重大な仕事が持ち上がり、その達成のために一丸となった霊の集団が各自の知識と情報を持ち寄り、そのうちの一人が全体を代表して行動するというケースです。その仕事の進行中は残りの者のアイデンティティは薄れて一つになっています。しかし、それもその仕事の期間中だけのことです。

――ぺットが死後も存続することは事実だそうですが、他にも存続する動物がいるのでしょうか。

います。地上でぺットのように可愛がられて、死後も人間に混じって生きている動物がいるものです。人間の情愛を受けて一種の人間的性格(パーソナリティ)を発現するようになった動物は、そのパーソナリティを携えて死後も人間の霊に混じって生きております。しかし、長続きはしません。ほんの一時期のことで、やがてその「種」の母体であるグループ・スピリットの中に融合していきます。

大霊の分霊である人間は、その霊的遺産のおかげで、まだ霊的意識が芽生えていない動物にも死後に存続する霊力を授ける能力が具わっていることを知ってください。本来の進化の過程が始まる時期よりも一歩早く進化を促すことが出来るのです。それが「愛の力」なのです。

――ぺットは別として、一般の動物も個別的に死後に存続するのでしょうか。

しません。

――そうなると、全く世話をされていない動物とか虐待されている動物と大霊との関係はどうなっているのでしょうか。「創造した者」と「創造された者」という関係から見て、そういう動物の生命に大霊の愛ないしは公正がどういう形で表れているのでしょうか。

地上の人間の理解力の及ばないテーマを説明するのはとても困難です。かつて私は「グループ・スピリット」という用語を用いたことがあります。動物は死後その中に融合していくのですが、ただ単に合流するのではなく、地上生活での体験について動物界なりの埋め合わせの原理(因果律)が働くのです。もっとも、あくまでも動物の次元での話でして、人間の進化とは次元が異なります。

よく考えてごらんなさい。例えば大切に飾られる花と、ほったらかしにされて枯れていく花との違いは、あなた方は問題にされません。その背後にも摂理が働いているのですが、それは説明したところで人間の理解力の及ぶところではありません。しかし、ちゃんと因果律が働いているのです。

――動物の因果律も一匹一匹に働くのでしょうか。

いいえ、種のグループ全体として働きます。受けた苦痛がグループ・スピリット全体の進化を促します。

――グループ全体として扱われるとなると、中には虐待されたものとそうでないものとがいれば、因果律の働きに偏りが生じるはずで、その辺が理解できません。

それぞれのグループは似たような体験をしたもので構成されています。

――虐待されたグループとそうでないグループがあるということでしょうか。

あなた方の身体もさまざまな形態の細胞が集まって全体を構成しています。それと同じで、グループは一つでも、いろいろな性格をしたものから成り立っているということです。

――下等動物がなぜ存在するのか、またそれが創造されながら自然淘汰されて行くという現実は、宇宙が神の愛によって経綸されているという事実と、どう辻褄を合わせたらよいのでしょうか。

人間には自由意志が与えられています。大霊から授かった霊力を駆使し、正しいことと間違ったこととを判断する叡智を働かせることによって、地上界をエデンの園にすることができます。それを怠り、地上界を汚れとほこりだらけにしておいて、その責任を神に押しつけて良いものでしょうか。

――創造進化の大業が殺戮の血に染められてきたという事実のどこに神の愛のしるしが見出せるのでしょうか。

なぜその様に一部だけを見て全体像を見ようとしないのでしょうか。創造進化があるという事実そのものが、神の愛のしるしと言えるのではないでしょうか。そういう考えに思い当たったことはないのでしょうか。低い次元から高い次元へと進化するという事実は、摂理の背後の力が愛であるということの証拠ではないでしょうか。

――なぜ神は地震や火山の爆発などの発生を許すのでしょうか。

その様に「なぜ神は……」という問いを発する時、あなた方は大自然の摂理・法則の働きそのものに疑義をはさんでいることになることを忘れないでください。私は、その摂理・法則というものが存在すること、そしてその摂理・法則の働きに関わる私の体験をお教えしようとしているだけです。地震というのは物質界の進化を調整する作用の一つです。物質界はまだ完成の域に達していないのです。

――そうすると地震による死者は地球の進化の犠牲者ということになります。公正と言えるでしょうか。

死者になることが悲劇であるかのようなご意見ですが、その辺が私には理解できません。私に言わせれば魂にとって大いなる自由を獲得する機会です。

――地震の犠牲者はその時が他界する時機だった、というふうに受け取ってよろしいでしょうか。

結構です。ただ、そういう形での死を迎えたことには、幾つかの前世での所業がからんでおります。

――我々より霊的に進化している、あるいは劣っている人間的存在が住んでいる天体がありますか。

ありますとも! あなた方より進化している人間的存在の住む天体は沢山あります。地球と呼ばれている惑星はこの大宇宙に存在する無数の惑星の一つに過ぎません。しかも、地球より劣っている天体は一つあるだけです。

――よくあることですが、重要だと思う一連の仕事を進めようとすると、しつこく邪魔が入ることがあります。なぜでしょうか。

価値あること、成就するに値するものほど、達成するのが難しいものです。楽には達成させてくれません。困難があり、妨害があり、邪魔が入るものです。

それもこれも、人間形成の一環なのです。それらにどう対処するかによって魂の成長が決まります。魂の奥に潜在する最高のものが簡単に引き出せるとしたら、それは価値あるものとは言えません。

ですから、とにかく挫けないことです。内在する霊的資質を活用して克服できないほど大きな困難や障害は絶対に生じません。他人が故意に用意する邪魔も、内在する力を発揮して立ち向かえば、必ずや消滅します。あなた方は地上生活において本来の自分のほんの一部しか発揮していないことがお分かりになっていません。

――今なお無数の新生児が生まれてすぐに、あるいはその後に、間引きの慣習とか、その他もろもろの原因・理由で死んでおります。そういう子供が生まれてくることに一体どういう意味があるのでしょうか。

物的なものさしで判断するかぎり、永遠の生命原理は理解できないでしょう。地上のいかなる賢者といえども、地上的知識を超えたことは分かりません。霊的叡智の光が見える段階まで進化すれば大霊の計画に納得が行くでしょうが、現段階では地上のいかなる覚者もガラス越しにおぼろげに見ているだけで、まだ理解はできておりません。

お聞きしますが、小学生の実力を判断するのに、その子が通った六年間の成績だけを見て、卒業後のことは考慮しないものでしょうか。あなた方にも、この後この地上より遙かに素晴らしい生活が待ち受けているのです。美にあふれた世界、色彩にあふれた世界、愛が叶えられる世界、真摯な願いが必ず成就される世界、地上で叶えられなかった事が実現する世界です。そうした世界をごらんになるまでは、大霊に批判がましい事を言ってはなりません。

――あなたが指導霊と仰いでおられる高級霊団は、時にはこの交霊会を訪れる事があるのでしょうか。

いえ、じかにお出でになることはありません。通信網で連絡し合っているだけです。この霊媒(バーバネル)が私とあなた方とをつなぎ、私があなた方とその高級霊団とをつないでいるように、その高級霊団はこの私と、その霊団よりさらに高級な霊団とをつないでいます。それが内奥へ向かって私の目の届かないところまで幾重にもつながっているのです。

――私たち人間もその最高の次元まで到達する時が来るのでしょうか。

最高の次元まで到達するということはあり得ません。その辺のことは、あなた方にはまだ理解は無理です。地上でのあなた方は本来の自我のほんの一部分しか顕現していません。全部を顕現しようにも、その媒体がまだ具わっていません。

私が本来の所属界へ奥深く戻るほど、それだけ多く本来の私を取り戻すことになります。それで年二回、クリスマスとイースターに本来の所属界へ帰るのです。

あなた方は今この地上で、進化向上を目指して霊界へと旅立つ準備をしているところです。一人また一人と、縁ある人々が旅立って行きます。その時、取り残された気持になって寂しい思いをするのは無理からぬことかも知れません。しかし、その人たちは死後、本格的に自我を開発するための旅を続けていることを忘れてはいけません。

――それにしても、なぜそんなに早く死んでいくのでしょう? 地上で学ぶべきものを学んでいないように思えるのですが……

そういう死に方をする子供たちは(前世で)何か摂理に反したことをしているのです。それを償うには、そうした体験を通して大霊の戒めを学ぶしかないのです。もしもその戒めが簡単に学べるとしたら、人類は自分の犯した罪の償いをしようという願望が芽生えなくなるでしょう。そして何世代も経ないうちに、大霊の意志がこの地上に顕現しなくなってしまうことでしょう。

霊性というものは苦悶と病苦と悲哀の体験を通して初めて覚醒するものです。かくして自我に目覚めた魂は他人の苦しみに心を配る、大きな魂へと成長するのです。やりたい放題の人生を送り、夢まぼろしの幸せを追い求めている魂は、いつかは実在を学ぶために過酷な体験をさせられる時がまいります。贅を尽くした安楽の日々を送っている人を見て羨ましがることはありません。その行く先には過酷な人生が待ち受けているのです。

地上界にせよ霊界にせよ、魂はありとあらゆる体験を積まねばならないようになっているのです。いかなる体験にも必ず学ぶべきものがあります。世俗の酸いも甘いも噛み分け本当の自我を確立して初めて、魂の奥の間に入ることを許されるのです。

それは確かに難しいことです。しかし、難しくないはずがないのではないでしょうか。聖人君子になるのが簡単でしょうか。真理の殉教者となるのが簡単でしょうか。宗教的指導者や社会革命家となるのが簡単でしょうか。簡単であろうはずがありません。苦難から逃れようとするような人間に人を導く資格はありません。

第12章 死後の世界
〔シルバーバーチはよく死後の世界の素晴らしさを語る。そして、われわれ人間も睡眠中によく訪れているという。ただ、脳を中枢とした意識には、特殊な能力を具えた者を除いて、ほとんど思い出せないという〕

私たちがお届けする霊の世界からの贈り物を十分に理解なされば、私たちをして、こうして地上へ降りて来る気にさせるのは、あなた方のためを思う気持以外の何ものでもないことが分かっていただけるはずです。いったい誰が、ただの酔狂で、素晴らしい光の世界からこの地上界へ降りて参りましょう。

あなた方はまだ霊の世界の本当の素晴らしさを知りません。肉体の牢獄から解放され、痛みも苦しみもない、行きたいと思えばどこへでも一瞬の間に行ける、考えたことがすぐに形をもって眼前に現れる、追求したいことに幾らでも専念できる、お金の心配がない……こうした世界は地上には譬えるものがないのです。その楽しさは、あなた方はまだ一度も味わったことがありません。

肉体に閉じこめられた者には、美しさの本当の姿を見ることができません。霊の世界の光、色彩、景色、樹木、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがどれほど美しいか、あなた方はご存じない。それでいてなお、死を恐れます。

人間にとって死は恐怖の最たるもののようです。が実は、人間は死んで初めて生きることになるのです。あなた方は自分では立派に生きているつもりでしょうが、実際にはほとんど死んでいるのも同然です。霊的なものに対しては死人のごとく反応を示しません。小さな生命の灯火(ともしび)が粗末な肉体の中でチラチラと輝いてはいますが、霊的なことには一向に反応を示しません。ただ、徐々にではあっても成長はしています。私たちの働きかけによって、霊的な勢力が物質界に増えつつあります。霊的な光が広まれば、当然暗闇が後退していきます。

霊の世界は人間界の言語では表現できない面があります。譬えるものが地上に見出せないのです。あなた方が「死んだ」といって片づけている者たちの方が、今では生命の実相について遙かに多くを知っております。

この世界に来て、芸術家は地上で求めていた夢をことごとく実現させることができます。画家も詩人も思い通りに才能を発揮することができます。地上の抑圧からすっかり解放され、天賦の才能がお互いのために使用されるようになるのです。そこで使用される着想の素晴らしさは、ぎこちない地上の言語ではとても表現できません。心に思うことが即ち霊の言語であり、それが電光石火の速さで表現されるのです。

金銭の心配がありません。生存競争というものがありません。弱者がいじめられることもありません。霊界での強者とは、弱者に手を差し伸べる力があるという意味だからです。失業などというものもありません。スラム街もありません。利己主義もありません。宗派もありません。教典もありません。あるのは大霊の摂理だけです。それが全てです。

地球圏へ近づくにつれて霊は思うことが表現できなくなります。正直言って私も地上界へ戻るのは気が進まないのです。なのに、こうして戻ってくるのは、そう約束したからであり、地上界の啓蒙のために少しでも役立ちたいという気持があるからです。そして、それを支援してくださるあなた方の私への思慕の念が、せめてもの慰めとなっております。

死ぬということは決して悲劇ではありません。むしろ今その地上で生きていることこそ悲劇といっても良いくらいです。大霊の庭園が利己主義と強欲という名の雑草で足の踏み場もない状態となっていることこそ悲劇です。

死ぬということは、肉体という牢獄に閉じこめられていた霊が自由になることです。苦しみから解き放たれて霊本来の姿に帰ることが、果たして悲劇なのでしょうか。天上的色彩を見、言語で説明のしようのない天上の音楽を聞けるようになることが悲劇でしょうか。痛むということを知らない身体で、一瞬のうちに世界を駈け巡り、霊の世界の美しさを満喫できるようになることを、あなた方は悲劇と呼ぶのでしょうか。

地上のいかなる天才的画家にも霊の世界の美しさの一端なりとも絵の具では表現できないでしょう。いかなる音楽の天才にも天上の音楽の旋律の一つたりとも表現できないでしょう。いかなる名文家にも天上の美を言語で表現することはできないでしょう。そのうちあなた方もこちらの世界へ来られます。そしてその素晴らしさに驚嘆なさるでしょう。

地上は今まさに五月。木々は新緑に輝き、花の香りが漂い、大自然の恵みに溢れております。その造化の美を見て皆さんは感嘆なさいます。

しかし、その美しさも霊の世界の美しさに比べれば至ってお粗末な、色褪せた模作程度に過ぎません。地上の誰一人として見たことのない花があり、色彩があります。そのほか小鳥もいれば植物もあります。小川もあれば山もありますが、どれ一つ取っても地上のそれとは比較にならないほど美しいのです。

そのうち皆さんもその美しさをじっくり味わえる日が来ます。その時はいわゆる「幽霊」になっているわけですが、その幽霊になった時こそ、本当の意味で「生きている」ことになるのです。

実は、あなた方は今でも毎夜のように霊の世界を訪れているのですよ。ただ思い出せないだけです。この体験は、死んでこちらへ来た時のための準備なのです。その準備なしにいきなり来るとショックを受けるからです。来てみると、一度来たことがあることを思い出します。肉体の束縛から解放されると、睡眠中に垣間見ていたものを全意識でもって見ることができます。その時すべての記憶が蘇ります。

質疑応答
――死んでから低い界層に落ち着いた人はどんな具合でしょうか。今おっしゃったように、やはり睡眠中に訪れた時のこと――多分低い界層だろうと思いますが――を思い出すのでしょうか。そしてそれがその人なりに役に立つのでしょうか。

低い界層へ引きつけられて行く人はやはり睡眠中にその界層を訪れているのですが、その時の体験は死後の自覚を得る上では役に立ちません。なぜなら、そういう人の目覚める界層は地上と極めてよく似ているからです。死後の世界は低い界層ほど地上によく似ております。波動が粗いからです。高い界層ほど波動が精妙になります。

――朝目覚めて、睡眠中の霊界での体験を思い出すことがあるのでしょうか。

睡眠中あなたは肉体から抜け出ていますから、当然、脳から離れております。脳はあなたを物質界に繋ぎつけるための中枢器官です。それから解放されたあなたは、魂の発達程度に応じた波動の世界で体験を得ます。その時点では意識をもって行動しているのですが、朝肉体に戻ってくると、もうその体験は思い出せません。その原因は、脳が狭すぎるからです。小は大を兼ねることができません。それで歪みを生ずるのです。

それは、例えて言えば、小さな袋の中に無理やり物を詰め込むようなものです。袋には容量というものがあります。無理やり詰め込むと、入るには入っても、形が歪んでしまいます。それと同じことが脳の中で生ずるのです。ただし、霊格がある段階以上に発達してくると、話は別です。霊的体験を思い出すように脳を訓練することが出来るようになります。

実を言いますと、私はここにおられる皆さんとは、よく睡眠中にお会いしているのです。別れ際に私は「地上に戻ったら、かくかくしかじかのことを思い出すんですよ」と言っておくのですが、どうも思い出してくださらないようです。皆さんお一人お一人にお会いしているのですよ。そして、あちらこちらを案内してさし上げているのですよ。でも、思い出してくださらなくてもいいのです。決して無駄にはなりませんから……

――死んでそちらへ行ってから役にたつわけですか。

そうです。何一つ無駄にはなりません。摂理は完璧です。長年の生活体験をもつ我々は、神の摂理の完璧さにただただ驚くばかりです。神なんかいるものか、といった地上の人間のお粗末なセリフを聞いていると、まったく情けなくなります。知らない者ほど己の無知をさらけ出すものです。

――睡眠中に仕事で霊界へ行く人もいるのでしょうか。睡眠中に霊界を訪れるのは死後の準備が唯一の目的でしょうか。

仕事をしに来る人は確かにおります。それだけの能力を具えた人がいるものです。が、大抵は死後の準備のためです。物質界での体験を積んだあと霊界ですることになっている仕事の準備のために、睡眠中にあちらこちらへ連れて行かれます。そういう準備なしにいきなり霊界へ来ると、ショックが大きくて回復に時間が掛かります。地上時代にあらかじめ霊的知識を知っておくとこちらで得をすると言われるのは、その辺に理由があるのです。ずいぶん長い期間眠ったままの人が大勢います。あらかじめ知識があればすぐに自覚が得られます。

ちょうどドアを開けて日光の照る屋外へ出るようなものです。光のまぶしさにすぐに慣れるか否かの違いと同じです。闇の中にいて光を見ていない人は慣れるのに時間が掛かります。つかまり立ちの赤ん坊のように手探りで行動します。地上時代の記憶が蘇ることはあっても、夢を思い出しているような状態です。

いずれにせよ体験というものは、そちらにせよこちらにせよ、何一つ無駄なものはありません。そのことをよく胸に刻み込んでおいてください。あなた方の心から出た、人のためを思う思念、願い、行為は、いつかはどこかで誰かの役にたちます。その心に感応して同じ心を持つ霊を呼び寄せるのです。

――霊的知識なしに他界した者でもこちらからの思いやりや祈りの念が届くのでしょうか。

死後の目覚めは理解力が芽生えた時です。霊的知識があれば目覚めはずっと早くなります。その意味でも私たちは、無知と誤解と迷信と誤った教義と神学をなくすべく闘わねばならないのです。そうしたものが死後の目覚めの妨げになるからです。そうした障害物が取り除かれない限り、魂は少しずつ死後の世界に慣れて行くほかはありません。長い長い休息が必要となるのです。

また、地上に病院があるように、魂に深い傷を負った人たちを看護してやらねばなりません。人のためによく尽くした人、他界に際して愛情と祈りを受けるほどの人は、そうした善意の波動を受けて、目覚めが促進されます。

――死後の生命を信じず、死ねばお終いと思っている人はどうなりますか。

死のうにも死ねないのですから、結局は目覚めてからその事実に直面するほかはありません。目覚めるまでにどの程度の時間が掛かるかは、魂の進化の程度によって違います。即ち霊性がどれほど発達しているか、新しい環境にどこまで順応できるかに掛かっています。

――そういう人、つまり死ねばそれで万事休すと思っている人の死に苦痛が伴いますか。

それも霊性の進化の程度によります。一般的に言って死ぬということに苦痛は伴いません。大抵は無意識だからです。死ぬときの様子が自分で意識できるのは、よほど霊格の高い人に限られます。

――善人が死後の世界の話を聞いても信じなかった場合、死後そのことで何か咎めをうけますか。

私にはその「善人」とか「悪人」とかの意味が分かりませんが、要はその人が生きてきた人生の中身、つまりどれだけ人のために尽くしたか、内部の神性をどれだけ発揮したかに掛かっています。大切なのはそれだけです。知識は無いよりは有るに越したことはありません。が、その人の真の価値は毎日をどう生きたかに尽きます。

――愛する人とは霊界で再会して若返るのでしょうか。イエスは天国では結婚するとか嫁にやるといったことはないと言っていますが……

地上で愛し合った男女が他界した場合、もしも霊格が同じであれば霊界で再び愛し合うことになりましょう。死は魂にとっては、より自由な世界への入り口のようなものですから、二人の結びつきは地上よりいっそう強くなります。

が、二人の結婚が魂の結びつきでなく肉体の結びつきに過ぎず、しかも両者に霊格の差がある時は、死とともに両者は別れていきます。それぞれの界へ引かれて行くからです。

若返るかとのご質問ですが、霊の世界では若返るとか年を取るといったことではなく、成長・進化・発達といった形で現れます。形ではなく魂の問題になるわけです。

イエスが嫁にやるとか貰うといったことはないと言ったのは、地上のような肉体上の結婚のことを言ったのです。男女といっても、あくまでも男性に対する女性であり女性に対する男性であって、物質の世界ではこの二元の原理で出来上がっていますが、霊の世界では界層が上がるにつれて男女の差が薄れていきます。

――死後の世界でも罪を犯すことがありますか。もしあるとすれば、どんな罪がいちばん多いですか。

もちろん私たちも罪を犯します。それは利己主義の罪です。ただ、こちらの世界ではそれがすぐに表面に出ます。心に思ったことがすぐさま人に知れるのです。原因に対する結果が地上より遙かに速く出ます。従って醜い心を抱くと、それが瞬時に容貌全体に現れて、霊格が下がるのが分かります。そうしたことを地上の言語で説明するのは難しく、先ほど言ったように「利己主義の罪」と呼ぶほかに良い表現が見当たりません。

――死後の世界が地上界に比べて実感があり、立派な支配者、君主、または神の支配する世界であることは分かりましたが、こうしたことは昔から地上の人間に啓示されて来たのでしょうか。

霊の世界の組織について啓示を受けた人間は大勢います。ただ誤解しないでいただきたいのは、こちらの世界には地上でいうような支配者はいません。霊界の支配者は自然法則、即ち大霊の摂理そのものなのです。また、境界線によってどこかで仕切られているわけではありません。低い次元の界層から高い次元の界層へと徐々につながっており、その間に断絶はなく、宇宙全体が一つに融合しております。霊格が向上するにつれて高い界層へと上昇してまいります。

――地上で孤独な人生を余儀なくされた者は死後も同じような人生をおくるのでしょうか。

いえ、いえ、そんなことはありません。そういう人生を余儀なくされるのはそれなりの因果関係があってのことで、こちらへ来ればまた新たな生活があり、愛する者、縁ある者との再会もあります。摂理はうまく出来ております。

――シェークスピアとかベートーベン、ミケランジェロといった歴史上の人物に会うことが出来るでしょうか。

特に愛着を感じ慕っている人物には、大抵の場合、会うことが出来るでしょう。「共感の絆」が両者を引き寄せるのです。

――この肉体を捨ててそちらへ行っても、ちゃんと固くて実感があるのでしょうか。

地上より遙かに実感があり、しっかりしています。本当は地上の方が実感がないのです。霊界が実在の世界で、地上界はその影なのです。こちらへ来るまでは本当の実体感は味わっておられません。

――と言うことは、地上の環境が五感にとって自然に感じられるように、死後の世界も霊魂には自然に感じられるということですか。

だから言っているでしょう、地上よりも実感がある、と。こちらの方が実在なのですから。あなた方はいわば囚人のようなものです。肉体という牢に入れられ、物質という壁で仕切られ、小さな鉄格子の窓から外を覗いているだけです。地上では、本当の自分のほんの一部分しか意識していないのです。

――霊界では意念で通じ合うのですか、それとも地上の言語のようなものがあるのでしょうか。

意念だけで通じ合えるようになるまでは言語も使われます。

――急死した場合、死後の環境にすぐに慣れるでしょうか。

魂の進化の程度によって違います。

――呼吸が止まった直後にどんなことが起きるのでしょうか。

魂に意識がある場合(霊性が発達している場合)は、霊的身体が肉体から抜け出るのが分かります。そして抜け出ると霊的な目が開きます。周りに自分を迎えに来てくれた人たちが見えます。そしてすぐさま新しい生活が始まります。

魂に意識がない場合は、看護に来てくれた霊の援助で適当な場所、例えば病院なり休息所なりに連れて行かれ、そこで新しい環境に慣れるまで看護されます。

――愛し合いながら宗教的因習などで一緒になれなかった者も死後は一緒になれますか。

愛をいつまでも妨げることは出来ません。

――肉親や親戚の者とも会えますか。

愛が存在すれば会えます。愛がなければ会えません。

――死後の生命は永遠ですか。

生命はすべて永遠です。生命とは即ち大霊のことであり、大霊は永遠の存在だからです。

――あなたが住んでおられる界層は地球とか太陽とか惑星とかを取り巻くように存在しているのでしょうか。

そのいずれをも取り巻いておりません。地理的な区域というものがないのです。天球とか惑星のような形をしているわけではありません。無限の次元から成る一つの大宇宙があって、それぞれの次元でさまざまな形態の生活が営まれているのです。それらが幾重にも入り組み融合し調和しています。あなた方は(スピリチュアリズムのお蔭で)そのうちの幾つかを知ったわけですが、まだまだあなた方には想像も及ばない生命活動が営まれている界層が幾つでもあります。

――霊の世界を構成している組織にも地球と同じようにマテリアルな中心部というものがあるのでしょうか

私という存在はマテリアルなものでしょうか。男女の愛はマテリアルなものでしょうか。芸術家のインスピレーションはマテリアルなものでしょうか。音楽の鑑賞力はマテリアルなものでしょうか。こうした問いに対する答えは、あなたのおっしゃる「マテリアル」という用語の意味次第で違ってきます。実感のあるもの、実在性を有するものという意味でしたら、霊の世界はマテリアルなものという答えになります。霊とは生命の最奥の実在だからです。あなたがおっしゃるのは「物質的なもの」という意味だと思いますが、それはその実在をくるむように存在する「殻」のようなものに過ぎません。

――霊の世界も中心部は地球と同じ電磁場ないしは重力場の中に存在していて、地球と太陽の動きとともに宇宙空間を運行しながらヘラクレス座の方向へ向かっているのでしょうか。

霊の世界は地球の回転による影響は受けません。昼と夜の区別がないことでそれがお分かりでしょう。太陽のエネルギーは地球が受けているだけで、私たちには関係ありません。重力(引力)の作用も物質が受けるだけで、霊の世界には無縁です。霊的法則とは別のものです。

――霊が動くスピードに限界がありますか。

時間的ないしは空間的な意味での限界というものはありません。少なくとも霊界生活に慣れた者には限界はありません。どこへでも各自の思念と同じ速さで行けます。思念は私たちにとっては実体があるのです。限界があるとすれば、その思念の波動の高さによる限界です。その次元を超えることは出来ません。言い換えれば、霊性の開発の程度を超えた次元の界層へ行ってみるわけにはいかないということです。それが限界といえば限界ですが、時空の問題ではなく霊的世界での限界です。

――人間的存在が居住する全ての天体は霊的につながっているのでしょうか。

あなた方のいう「霊界」というのは宇宙の霊的側面ということで、それはあらゆる界層の生命活動を包括しております。

――霊界はたった一つだけですか。

霊の世界は一つです。しかし、その表現形態は無限です。地球以外の天体にもそれぞれに霊の世界があります。物的表現の裏側にはかならず霊的表現があるのです。その無限の霊的世界が二重三重に入り組みながら全体として一つにまとまっているのが宇宙なのです。あなた方が知っているのは、その中のごく一部です。知らない世界がまだまだ幾らでも存在します。

――その分布状態は地理的なものですか。

地理的なものではありません。精神的発達の程度に応じて差が生じているのです。もっとも、ある程度は物的表現形態による影響を受けます。

――ということは、私たち人間の観念で言うところの「界層」もあるということでしょうか。

その通りです。物的条件によって影響される段階を超えるまでは、人間が考えるような「地域」や「界層」が存在すると思ってよろしい。

――幼くして他界した我が子がすぐに分かるものでしょうか。

分かります。分かるように装った姿を見せてくれるからです。子供の方はずっと両親の地上生活を見ていますから様子がよく分かっており、真っ先に迎えに来てくれます。

――例えば死刑執行人のような罪深い仕事に携わっている人は霊界でどのような裁きを受けるのでしょうか。

もしもその人が、いけないことだ、罪深いことだ、と良心の呵責を感じながらやっていたら、それなりの報いを受けるでしょう。悪いと思わずやっていたのであれば、別に咎めは受けません。

――動物を殺して食べるということについてはどうでしょうか。

動物を殺して食べるということに罪の意識を覚える段階まで魂が進化した人間であれば、いけないことと知りつつやることは何事であれ許されないことですから、やはりそれなりの報いは受けます。その段階まで進化しておらず、いけないとも何とも感じない人は、別に罰は受けません。知識にはかならず代償が伴います。責任という代償です。