第5章 絶対的摂理の存在
〔宇宙は逃れようにも逃れられない自然法則によって支配されている。いかなる霊もその法則を変えたり、それを犯した時に生じる結果から逃れさせてあげることは出来ない。しかし、そうした法則の存在を教えることによって無知から生じる危険から救ってあげることは可能である。シルバーバーチはそうした法則ないしは摂理の中から、例えば引力の法則のような身近なものを取り上げて説き明かす〕

私たちは大霊が定めた摂理をお教えしようとしているのです。それを守りさえすれば物的生活に健康と幸せをもたらすことが出来るからです。教会で説教している人たちはいつの日かその間違いをご破算にしなければなりません。いかなる人間も摂理の働きかけから逃れることはできません。牧師といえども逃れることはできません。なかんずく霊の声を聞いた者(良心の痛みを感じた者)はなおさらのことです。間違っていると知りつつ改めることの出来ない者は、知らずに犯す者より重い責任を取らされます。

魂が目覚め、霊力とともにもたらされる愛の恩恵に浴した人、つまり霊的真理の啓示の恩恵に浴しながらもなお自分中心の生き方に終始している人は、その怠慢に対する罰がそれだけ大きくなります。知らずに犯したのではなく、知っていながら犯しているからです。人のために役立てるべき霊能を授かりながら、それを銀貨三十枚で売っている人が大勢います。

大霊はあなた方すべての内部にあるのです。進化の跡をたどれば確かに人間もあらゆる生命体から進化してきており、遺伝的には動物時代の痕跡も留めておりますが、それを遥かに凌ぐ資質として、大霊から授かった神性を宿しており、それを機能させれば地上にあっても神の如き生き方が可能なのです。

病気に関しても、人間の内部にはいかなる病気でも自らの力で治す治療力と、いかなる困難をも克服する霊力をそなえているのですが、あなた方はまだそれを実感しておりません。いざという窮地において引き出せる霊力の貯蔵庫を持っているのです。神の王国は各自の内部にあるのです。そのことがまったく理解されていないのです。

その貯蔵庫から必要なものを引き出すにはどうすればよいかと言えば、大霊の摂理にのっとった生活に徹しさえすればよいのです。しかし、果たして何人の人がそう心掛けているでしょうか。

人生は行為だけで成り立っているのではありません。口に出して述べること、そして頭や心の中で思考することも大切な要素です。行いだけが責任を問われると思ってはいけません。確かに行いが重大な要素を占めていることは事実ですが、言葉や思念も、あなたという存在の大切な一部です。よく言われるように、人間の多くは思想の主人であるより奴隷となっております。

〔シルバーバーチがよくテーマにするものの一つが、地上人類が肌の色に関係なくみな同胞であるということである。ある日の交霊会でこう述べている――〕

私たちは一人の例外もなく大霊の一部です。そのうちのある者の肌を赤くし、ある者を黄色にし、ある者は無色(白色)のままにしました。しかし、こうしたことも大霊の無限の叡智による計画の一端なのです。

その肌色の一つ一つに意味があり、目的があるのです。しかし今のあなた方にはそれは理解できないでしょう。いつの日か大霊の摂理の理解が行きわたった時点で、すべての肌の色の人々が混ざり合い、互いに愛の心でもって睦(むつみ)み合う日が来ます。

人間を肌の色で見分けるのではなく、その奥の魂で見分けるようになるまでは、地上界に真の平和は訪れません。

このサークルの指導霊も地上のほとんど全ての人種から構成された一つの共和国となっていることにお気づきでしょうか。そのようにした理由は、どの民族も他の民族にないものを所有しており、そのおのおのが独自のものを持ち寄ることによって最高のものが出来あがるという理解に達したからです。黄色人種ならではの貢献の場があり、白人には白人ならではの貢献の場があるということですが、今の段階では地上人類にはこの点の理解が十分ではありません。

あなた方の一人一人が大霊の一部であることを忘れてはいけません。あなた方一人一人が大霊の仕事、大霊の力、大霊の愛、大霊の知識に、その分に応じて貢献できるということです。例えば自分より力の劣る人を少しでも向上させてあげる上で貢献すれば、その分だけ大霊の力があなた方を通して顕現したことになるのです。

それをいかなる形でするか、相手が誰であるか、いずこの暗闇に光明をもたらすかは問題ではありません。挫折した人々を元気づけ、弱っている人々に力を与え、暗闇に光明をもたらし、飢えている人々に食べものを施し、身体を横たえる場所もない人々に休息場所を提供してあげればよいのです。

そうした仕事の一つ一つが大霊の仕事の一部なのです。その仕事に無心にたずさわっている時、それがあなた方の想像を超えた結果を生み出すように、背後に大きな力が引き寄せられて援助してくれます。

大霊が働きかけるのは教会や大聖堂や寺院だけではありません。霊力に反応する人がいれば、そこがどこであろうと大霊は誠意に燃えた高級界の霊団を派遣します。

地上の人間はとかく神の働き場所を限定して考え、特別な資格を持った人々を通してのみ働きかけるかに思いがちですが、地上界へつながる通路さえあれば、どこであろうと、いつであろうと、誰であろうと、その通路を使って働きかけます。

霊力には地上的な差別、階級や肩書き、社会的地位や肌の色、国家や民族の違いなどは関係ありません。その霊力に反応する人であれば、それが誰であろうと、そこがどこであろうと、高級界からの霊力を注ぎ、精神を明るく照らし出し、魂を鼓舞し、神のブドウ園の園丁として使用します。

どうかこの事をしっかりと学び、大霊のため、そして暗闇の中、重圧の下、人生の嵐の中で難儀している大霊の子等のためにという決意のもとに、彼等の重荷を少しでも軽くし、新たな希望、新たな知識、新たな光明、新たな力を届けてあげてください。それを授かった人は身体は新たなエネルギーに溢れ、精神は勇気に溢れ、霊は生気を取り戻して、大霊から授かっている資質の素晴らしさを満喫することになるでしょう。

かくして本当のサービスの喜び、自分自身には何も求めず、ひたすら他人の霊的向上のみを目的とするサービスの醍醐味を味わうことになります。

〔これまで地上人類に知らされていなかった“重大な秘密”――永遠不変の霊的摂理――が明かされる〕

大霊は無限の存在であり、あなた方はその大霊の一部です。もしも完ぺきな信念をもち、正しい人生を送れば、大霊の恩寵にあずかることができます。

地上界の全ての人が完ぺきな信念をもてば、大霊はそれぞれの願いを嘉納されることでしょう。魂が真剣に求め、しかも大霊に対する絶対的信念に燃えていれば、必ずやその望みは叶えられるでしょう。

神の摂理はそのようにして働くのです。つまり摂理に順応した生活を送っていれば、望み通りの結果が生じるようになっているのです。結果が出ないということは、生き方のどこかに摂理に順応していないところがあることの証拠です。

歴史をひもといてご覧なさい。最も低い界層、最も貧しい民の中から身を起こして、厳しい試練の末に偉大なる指導者となっているケースが少なくありません。試練に耐えずして神に不平を言ってばかりいる人を相手にしてはいけません。

もちろん時には挫折して不遇に喘ぐこともあるでしょう。しかし、完ぺきな信念に燃えていれば、いつかはきっとこの世的な不遇から立ち直ることが出来ます。大霊の象徴である太陽に向かってこう言うのです――「私は大霊の一部だ! 私を破滅させ得るものは何もない。永遠の存在なのだ! 無限の可能性を秘めた存在なのだ! 限りある物質界の何一つとして私を傷つけることは出来ないのだ!」と。もしもこれだけのことが言えるようであれば、あなたが傷つくことは絶対にありません。

誰しも心に恐れを抱きつつ出発します。望み通りにならないのではなかろうかという不安です。その不安の念がバイブレーションを乱すのです。しかし「完全なる愛は恐れを取り除く」(ヨハネ一)と言い、「まず神の国とその義を求めよ。そうすればそれらのものは皆お与えくださるであろう」(マタイ六)と言われております。

これは、遥か遠い昔、摂理を完ぺきに理解した人物によって述べられた教えです。それを彼は見事に実践してみせたのです。あなた方も、摂理が働けるような条件を整えれば、必ずや望み通りの結果が得られます。

しかし、もう一つ別の摂理をお教えしましょう。何の代価も支払わずして入手できるものは、この地上界には一つもないということです。霊的能力の値打ちが上がるということは、霊的感度が増すということです。それをおろそかにして金儲けにうつつを抜かすと、そちらの世界では金持ちと言われても、こちらの世界では哀れな貧しい魂になってしまいます。

人間はその内部に何よりも貴重な神性という富を宿しています。大霊の一部です。地上のどこを探しても、それに匹敵する富や宝は存在しません。その魂の内部の鉱脈をいかにして探査し、肉体的本性の奥に埋もれたダイヤモンドを引き出すか、それをお教えしようとしているのです。

そのためには霊の世界の最高の界層のバイブレーションに反応するようになっていただかねばなりません。また、あなた方は一時として一人ぼっちでいることはないこと、周囲には常にあなた方を愛する大勢の人々が見守り、導き、援助し、鼓舞せんとして待機していることを知っていただきたいのです。

そうした中で霊性が開発されて行くにつれて少しずつ大霊に近づき、その摂理と調和して行くのです。

大霊に奉仕すると言っても、それは大霊の子である地上の同胞に奉仕することになります。同胞のために役立つことをしている時、神の無限の腕に抱かれ、その愛に包まれ、それが完全なる安らぎをもたらしてくれることになります。

何の根拠もない、ただそう信じているというだけの信仰では、酷しい試練の嵐に遭えばひとたまりもなく崩れます。が、理性的認識から生まれた信仰には確固たる根拠がありますから、いかなる試練の嵐に遭っても揺らぐことはありません。

証拠を何一つ見なくても信じることの出来る人は幸せです。が、物的証拠を手にした上で目に見えない霊的真実、即ちこの宇宙が愛と叡智から生まれた霊的摂理によって支配されていることを悟った人は、なお一層幸せです。

その意味で、ここにおられる(ハンネン・スワッファー・ホームサークルの)皆さんは完ぺきな信念を持ってしかるべきです。知的認識から生まれた信念だからです。皆さんは霊力の証を手にしておられます。万事うまく行くという信念、大霊の摂理と調和して生きればそれ相当の実りを手にすることが出来るとの信念を持ってしかるべきです。

また皆さんは、無知蒙昧なもの――これを皆さんは“邪悪”と呼んでおられるのですが――に邪魔をされるのではないかとの不安を完全に捨て去ることが出来てしかるべきです。大霊とその摂理の保護のもとに生き、そして行動しておられるからです。

心に邪悪なものがなければ、善なるものしか近づけません。善なるものは善なるものが支配するところにしか存在できないからです。霊界からこの交霊の場に訪れるのは大霊の使者のみです。あなた方を包み込んでいる力、支え導き鼓舞せんとしている力は、大霊から放射されている力です。

その力が試練と苦難に際してあなた方を支えているのです。嵐を鎮めて晴天とし、絶望の暗闇から知識の光明へと導いてくれるのも、その力です。皆さんは進歩の正道をしっかりと踏みしめておられます。不安に思うことは何一つありません。

完全なる愛は恐れを取り除く、とイエスは述べていますが、正しい知識も恐れを打ち払います。恐怖は無知から生じるものだからです。愛と信念と知識のあるところに恐怖心は生じません。進化した魂はいついかなる時も恐れるということを知りません。人生のいかなる局面に際しても、自分は大霊であるがゆえに克服できないものはないとの確信があるからです。

恐怖心は魂の牢獄をこしらえます。ですから恐怖心が頭をもたげかけたら、その波動に巻き込まれることなく、それを抑え込み、信念をもってこう自分に言って聞かせるのです――「自分は大霊なのだ。地上の出来事などで動揺などしない。魂に宿る無限の霊力でいかなる困難も凌いでみせる」と。そういう力をあなた方は授かっているのです。その無限の力を見限ることほど勿体ない話はありません。

大霊の法則は物的なものと霊的なものの両方を支配しております。宇宙という大霊の王国にはそういう区別はないのです。物的生命を霊的生命から切り離して考えてはいけません。本来は別個のものではないのです。一つの大生命があり、それに幾つもの側面があるに過ぎません。物的なものは霊的なものに反映し、霊的なものは物的なものに反映します。

しかし、霊力を秘めた人間が遭遇する苦難には、いついかなるところにあっても大霊のために役立つことをしている限り克服できないものはないとの信念が確固たるものになるには、あなた方もまだ距離がありそうです。

実は私が「人間に克服できないほどの苦難はない」と言う時、それは、因果律の原理から見て取り除かれてしかるべきものであればという意味です。そこで、もしも苦しみが余りにも耐え難いものであれば、こう理解してください。それを取り除いてあげるべく私も、向上進化の歩みを止めてでも努力してみますが、むしろそれに耐え抜き、その苦境の中で悟るべきものは何かを真剣に考える方が、より賢明であるということです。この短い地上人生のことだけを考えてはいけません。永遠の生命を視野に置くことです。

物質界の人間も、物的であると同時に、神性を宿していることを理解すれば、地上生活がどれだけ生き易くなることでしょう。悩み事は立ちどころに消え去り、障害物も取り除かれることでしょう。ところが人間は内部に宿している霊的な力を信じません。あなた方のいう“人間味”は地上世界でのみ通用することで、内部に宿る霊力は大霊に属するものです。

その昔イエスは「地上を旅する者であれ。地上の住民となる勿れ」と言いました。が、地上人類はその意味が理解できないために、言い変えれば、死後の存続に磐石の信念が持てないために、摂理が成就されないのです。例えば金持ちをうらやみ、彼らには悩みがないかに思いがちです。悩みというものが相対的なものであることに気がつかないのです。大霊の摂理は金銭でごまかすことはできません。

あなた方は個性の強化のために地上界へ来ているのです。その強化は日々の難問にどう対処するかによって決まります。その時に忘れてならないのは地上界で生じる難問には人間の魂に内在する霊力で克服できないものはないということです。いかなる難題も所詮は地上界での出来事であり、物的波動のレベルです。それに引き換えてあなた方は神の一部であり、神性を宿しているからです。

安らぎはただ一つ、大霊と一体になった者に訪れる安らぎです。大霊のリズムで鼓動し、大霊の意志のままに行動し、魂と精神が大霊と一つになっている者にのみ訪れます。そういう時は大霊の摂理と調和しているのです。それ以外に安らぎは得られません。

この私にできることは、その摂理がどうなっているかをお教えすることだけです。イエスは二千年も前に天国は自分の中にあると言いました。外部のどこかにあるのではないのです。ましてや混とんとした物質界には存在しません。魂の内部に見出されるのです。

神の摂理は完ぺきなバランスを保ちながら働いていますから、いかにごまかそうとしても、それは不可能です。罰せられるべきものが見逃されたり、報われるべきものが見落とされたりすることはありません。物的な目で永遠を裁いてはいけません。より大なるものを見ずして小さなものを裁いてはいけません。

束の間の地上的な喜びと恒久的な霊的価値とを混同してはなりません。地上的な喜びは安ピカで一時のものに過ぎません。あなた方の思考はその地上的なものを規範にしがちですが、私たちは霊の目で見ます。あなた方に気に入ってもらうために摂理を曲げて説くわけにはまいりません。

死んで霊界へ戻ってきた者に尋ねてごらんなさい。誰しもが「摂理は完ぺきです」と答えるはずです。そして二度と地上へは再生したがりません。人間はとかく外面的な事情が平穏であってほしがりますが、私はあなた方の内面に潜在する恒久的な安らぎを見出させてあげたいと努めております。最大の富は霊に内在する宝(霊的資質)です。

常に何か不満を抱いている人がいるものです。地上世界だけではありません。こちらの世界でも同じです。それは自分の不完全さに気づいている証拠です。神の道具としてまだまだ十分でないという意識があるからです。そうした自己との葛藤を通して霊性の不完全さを克服し、神性の開発が可能になるのです。

まだ為すべきことがありながら私たちが平気で傍観していられると思いますか。生きる上で欠かせないものに事欠いている物質界の大霊の子を見て、私たちが心を痛めずにいられると思いますか。神の名のもとに間違った教えが説かれているのを聞いて無関心でいられると思いますか。

光があるべきところに暗闇があり、自由でいられるはずの者が強欲で自らの魂をがんじがらめにし、どこを見ても混乱し無秩序状態の地上界を見て、私たちが心を痛めずにいられると思いますか。

何とかしてあげないといけない――多くの大霊の子がせっかく授かった霊的資質を封じ込められている地上界に大霊の愛を流入させねば……と思うからこそ私たちも苦しむのです。大霊は必要なものは充分に用意してくださっております。なのに、それを授からない人がいるということです。他の者が飢えているのに自分だけは充分に手にして平気でいられるようでは、その魂は霊格が高いはずはありません。

私たちの仕事でいちばん辛いのは、時としてあなた方が苦しんでいるのを傍観させられることです。それがその魂にとって大切な葛藤であるがために、私たちにも手出しが許されないのです。あなた方がその葛藤に勝利すればそれは私たちにとっても勝利であり、あなた方が敗北すればそれは私たちにとっても敗北なのです。あなた方の葛藤は私たちの葛藤でもあるということです。にもかかわらず指一本あなた方を援助することは許されないのです。

そんな時、私は涙を流していることがあります。救いの手を差し延べてはいけないことが分かっているからです。それが摂理だからです。苦しんでいる本人よりも私の苦痛の方が大きいことがあることを知ってください。

自分で「これが正しい」と思うことをなさっていれば、それ以上のことは出来ないにきまっています。もしも他の人を立てて自我を滅却しなければならないと観念した時は、そうなさい。いつかその埋め合わせがあります。

いずれにしても私が皆さんに代わって問題を解いてあげるわけには行かないのです。それは皆さんの自由意志に干渉することになるからです。例えばこの霊媒(バーバネル)の私生活に関連して私がああしろこうしろと指示するようになったら、それはこの霊媒のもつ自由意志がなくなったも同然です。と言うことは、それきり進歩しなくなるということです。

あなた方一人一人の内部に宿された霊性が発達するのは、日常生活で生じる問題をいかに解いていくか、その努力をしている時です。何もかもラクに片づいているうちは成長しません。

ただし、私にも干渉を許される局面があります。この霊媒を通じての私の使命に係わる問題が生じた時は、チャンネルとしてのこの霊媒の自由を確保すべく、邪魔を排除する手段を講じます。この霊媒の霊性の進化に係わる時は、それはこの霊媒の自己責任ですから、あくまでも自分で解決して行かねばならないということです。

〔別の日の交霊会で――〕

こうした霊的問題に携わる人で、地上の人間の心身両面にわたる健康を維持するための霊的摂理を説く人は、大きな責任を負っていることになります。それを勘違いしたり怠ったりすると、地上生活中ないしは死後にその代償を支払わされます。

例えば時おり私がうんざりさせられることの一つに、霊界からの“高等な教え”ばかりを求めて、それを同胞のために役立てることをしない人がいることがあります。人間は成長するにつれて大霊の摂理の働きを理解していくのであって、教えそのものに“高い”も“低い”もありません。

そうやって勿体ぶって真理の追求ばかりをしている人たちが、地上を少しでも住みやすい世界に、つまり飢えや渇きから解放し疲れた身体を癒せる家に住めるような世界にするために行動を起こすようになれば、それこそ“最高の教え”を実践することになるのですが……

〔人間界の問題の大半は自由意志の使用法を誤っていることから生じていることを強調して――〕

人間は戦争が起きると「なぜ大霊は止めさせないのか」とか「なぜ未然に防いでくれないのか」と思うようですが、大霊の摂理を無視している以上、責任は人間自身にあるのです。

行為が生み出す結果は絶対に避けられません。私たちとて、その摂理を改めることはできません。蒔いたタネが生み出すものは自分で刈り取らねばならないのです。利己主義というタネを蒔けば、それ相当のものを刈り取らねばなりません。高慢・嫉妬・怨恨・貪欲・敵意・不信・猜疑心――こうしたものが積もり積もれば、いつかは戦争・難題・不和といったものを生み出します。

私たちはそうした摂理をお教えするために地上界へ降りて来ているのですが、その目的が理解できない人たちから、冒頭で述べたような、咎め立てをするような不満を聞かされます。しかし、私たちとしては大自然の摂理を明かすこと以外には何の意図もありません。と言うのも、地上界を支配しているのは大霊の摂理以外の何ものでもないからです。それを宗教と呼ぼうと科学と呼ぼうと哲学と呼ぼうと同じことです。

その摂理に逆らった生き方をする人は、一個の人間であろうと大勢の集団であろうと、民族全体であろうと国家全体であろうと、いつかはその代償を支払わねばなりません。その摂理の働きが完ぺきであることは常々申し上げている通りです。その働きが人間の目には目えないことがあるかも知れません。しかし、原因と結果は必ず連鎖して働きます。摂理がそのようになっているのです。こうしたことは何度も申し上げてきたことです。摂理、大霊の摂理以外に何もありませんと改めて申し上げるのは、そういう理由からです。

私たちの使命は神とは何かを明らかにすることですが、それは、神すなわち大霊の摂理を明らかにする以外に方法はありません。が、大霊の摂理を知ることによって、それと調和した生活が可能になります。もちろん自由意志が与えられていますから、摂理に従うか否かはあなた方の選択に任されています。一個人であろうと集団であろうと同じことです。

ただ言えることは、何事もその摂理にのっとって計画し、それに反することのないようにしなければならないという、この単純な認識が行きわたるまでは、地上界に混乱と破滅と惨事の止むことはないということです。

私たちとしてはそうした永遠の霊的真理をお教えすることしか出来ませんし、またそれで良いと考えております。なぜなら、物的なものが崩壊しチリとなった後も残り続けるのは霊的真理のみだからです。物的なものだけに目を奪われている者は大きな過ちを犯しております。幻影を追いかけ、永遠の実在を忘れているからです。霊的真理といっても至って単純なことばかりです。なのに地上界の人間は今もってそれが理解できておりません。

それを学ぶにはいろいろな道がありますが、苦痛と落涙、流血と悲劇を体験しないと学べないというのであれば、それもやむを得ないでしょう。私としては、出来ることなら愛と奉仕の精神を通して霊的資質を発揮する中で学んでほしいところです。しかし、それが出来ないとなれば、摂理に逆らった手段によって痛い思いをしながら学ぶしかないでしょう。痛みという代償と引き換えに学ばねばならないということです。

地上界で大人物と言われた人が霊界でも大人物と言われるわけではありません。こちらの世界での偉大さは魂の偉大さ、霊性の高さ、サービス精神の大きさで計られます。物的世界が消滅した後も末永く生き続けます。

自由意志は大霊から賜った権利です。が、その使用を誤ると代償を支払わねばなりません。同じことが地上世界の百事全般にも言えます。摂理にのっとった手段を取れば豊かな恩恵を賜ります。もし間違った手段を取ると、それ相当の結果を刈り取らねばなりません。前者は平和と幸福と豊かさをもたらし、後者は悲劇と戦争と流血と混乱を招きます。

私たちは、本来なら大霊の子等の教育者であるべき階層の者たちから軽蔑されております。大霊の名のもとに大霊の愛を携えてきたと述べていることが気に入らないらしく、本来なら大歓迎されてよいはずなのに、逆に拒絶されております。お役に立ちたいとの願望に燃えて、地上人類が自らの力で自らを救うための摂理と霊力の存在をお教えしようとしているのですが……

しかし、霊的な無知に浸り切り、儀式や作法に取り囲まれ、あまつさえ神の霊力が今日でも地上界に降りることを否定するようでは(英国国教会では神は紀元六六年まで地上に働きかけ、それ以後はいかなる働きかけもしないという信仰がある)、その代償は目に見えております。

私たちはそういうことを説く御仁には用はありません。人のために役立つことを願う人々の味方であり、何かと敵対する態度に出る人たちの敵です。私たちは愛と奉仕の翼に乗って降りてまいります。愛と奉仕の仕事こそ私たちが果たさねばならないのです。

それには困難と障害が立ちはだかるであろうことは覚悟しております。しかし必ず克服します。潮流のように満ちては引くことを繰り返すことでしょうが、最後は必ず勝利します。

私たちだけでは大きな仕事はできませんが、あなた方地上の人々と協力すれば、幾ばくかの仕事はできます。たった一人の魂を救ってあげるだけでもいいのです。暗闇にいる人に光明をもたらしてあげれば、弱っている人に力を貸してあげることが出来れば、あるいは逆境に喘ぐ人に慰めとなる教えを授けることが出来れば、それがたった一人であっても価値ある貢献をしたことになるのです。

〔自由意志にも制約があるのは、個人によって人生の出来事の流れに一定の傾向があるという意味か、と問われて――〕

傾向の流れ、言わばバイブレーションがあるのは事実ですが、それは宿命的にどうしようもないものではありません。人間はさまざまな放射物や影響力にさらされていて、その多くが何らかの影響を及ぼすことは事実です。しかし、大霊は人間の一人一人にご自身の一部、霊性の一部を与えてくださっていて、各自の進化のレベルで自由意志を適切に行使すれば、その霊性の開発の道で生じるいかなる障害も克服できるはずです。あなたが大霊であり、大霊があなたであると言ってもよいのです。

譬えて言えば、大地に蒔かれた種子は、その生長を促すものを与えれば芽を出し、生長し、美事な花を咲かせます。それと同じで、あなたという存在の中に大霊の種子が植え込まれています。あなた方自身が庭師です。その種子がいつ花を咲かせるか、あるいは果たしてうまく花を咲かせるかは、あなたの手入れ一つに掛かっています。そこに自由意志による選択が許されているということです。

せっかくの種子を暗闇の中に置き去りにし、生長に必須のもの、即ち無私の善行ということに何の努力もしない生活では、大霊があなた方を通して顕現していないことになります。

〔苦難の価値について問われて――〕

あらゆる体験があなた方の永遠の人生模様の一部を構成します。その永遠の人生をあなた方はとかくこの世だけの出来事によって判定しようとします。その皮相だけを見て偶発的な出来事の連続のように思うようですが、何回かにわたる地上生活の全てを通して一本の糸が貫かれていることにお気づきになりません。

調和を基本的摂理とするこの大宇宙にあっては、あなた方一人一人が大霊の計画に貢献しているのです。地上生活での出来事は、時には辛さと絶望、痛みと悲惨さに満ちていることもあるでしょうが、その全てが、永遠の旅路に向かうための試練なのです。

暗黒と光、陰と日向といった、まったく対照的なものも、実は一個の統一体の側面の反射に過ぎません。陰なくしては日向も有り得ず、光なくしては暗黒も有り得ません。それと同じ理屈で、困難は魂が向上するための階段です。困難・障害・ハンディキャップ――こうしたものは魂の試練なのです。それを克服した時、魂はより強くなり、より純粋になり、より充実し、かくして進化が得られるのです。

無限の可能性を秘めた魂の潜在的資質が、困難も苦痛もなく、陰も悲しみの体験もなしに発現すると思われますか。発現するはずがありません。

悲哀の極みをなめ尽くして初めて、魂の奥底からの喜びが味わえるのです。生命の階段を低く下りるほど、それだけ高く上がれるのです。地上人生の陰と思える体験を多く味わうほど、それだけ日向の喜びがひとしお身にしみるのです。

全てのことが霊性進化の肥やしになるのです。そのうち皆さんも肉体の束縛から解放されて曇りのない目で地上人生を振り返る時がまいります。その時、紆余曲折した一見取り留めもない出来事の絡み合いの中で、その一つ一つがちゃんとした意味をもち、皆さんの魂を目覚めさせ、その可能性を引き出す上で意義があったことを、つぶさに理解なさるはずです。

人間が体験する苦難の中で、正しく理解し正々堂々と立ち向かって何の益ももたらさないものは一つもありません。一体、困難も試練もない物的世界というものが想像できるでしょうか。そういう世界では何の進化もありません。克服すべきものが何もありません。あるのは堕落のみです。


〔シルバーバーチはいかなる生命も神聖であることを繰り返し説いている。ある祭日の日の交霊会で狩猟が話題となり、メンバーの一人が質問した〕

――私はキツネ狩りをしたことがありますが、間違ったことをしたことになるのでしょうか。

すべて生命あるものは神のものです。いかなる形にせよ生命を奪うことは許されません。

――でも、ウチのニワトリを二十羽も食い殺したのですが……

では仮に私がそのキツネに銃を与えて、二十羽もニワトリを食べたあなたを撃ち殺せと命令したらどうなりますか。地上のすべての生命には大霊によって食すべきものが平等に与えられています。人間が飢えに苦しむのはキツネが悪いのではなくて人間自身の考えが間違っているからです。

地上人類がさらに進化すればそうした間違った欲望は消滅するでしょう。キツネやニワトリを人間がこしらえることが出来れば、それを人間が食べても咎める者はいないでしょう。人間がニワトリやキツネを殺してもよいというのが道理であるとしたら、同胞も殺してよいという理屈になります。生命は人間のものではありません。大霊のものです。生命を奪う者はいつかはその責任を取らなくてはなりません。

――オーストラリアではウサギの異常繁殖が脅威となっておりますが、これについてはどうでしょうか。

人間は本来そこにあるべきでないものを勝手に持ってきて、それがもたらす不都合について文句を言います。私の地上の故郷である北米大陸についても言えることで、白人が自分たちにとっては良くてもインディアンにとっては良くないものを持ち込みました。

戦争も白人がもたらしたものです。それからインディアンが“火酒”と呼んだもの(ウィスキー、ジンなどアルコール分の強い酒)その他、不幸をもたらすものを持ち込みました。白人がやってきて人を撃ち殺すことは正義であるかに吹聴するまでは、銃で撃ち殺すということなど知らなかったのです。

そのうち人間も宇宙のあらゆる生命――動物も小鳥も魚も花も――が神の計画の一部を担っていることを知る日が来るでしょう。神の創造物としてそこに存在していることを認識するようになるでしょう。

第6章 ヒーリングの問題
[ヒーリング・パワー(治癒力)はわれわれ人間のすべてに内在しているという。しかし何の努力もなしにそのパワーが発揮できる人と、いくら養成会に通っても一向に発揮できない人がいる。その違いについてシルバーバーチが説明する]

人間は本質的には霊ですから、一人の例外もなく霊的資質が内在しております。その資質が、ある人においては他の人より表に出やすい状態にある場合があります。意識的に開発する努力によってその資質――“プシケ”と呼んでも“霊能”と呼んでもよろしい――が発現し、その人間と背後で働く霊団との間の協調性が緊密になります。

と言うことは波動の一体化の次元が高くなり、精密になり、緊密になるということです。霊的光波が一つの美しい調和状態にブレンドし、その次元が頂点に達した時に霊界の医師団と地上のヒーラーとが完全に一体化します。その完全な状態に少しでも近づくほど霊団とヒーラーとを通して使用できる治癒力の次元が高くなり、大きくなり、強力になります。(これは特に霊的治療家について述べたもので、他の治療法、例えば磁気療法などには必ずしも当てはまらない――編者)

[ヒーリング一般については、ある日の交霊会でこう述べている]

いかなる方法にせよ、ヒーリングによって治るということは、まだ霊界へ帰る時機が熟していないことを意味し、身体の苦痛を通して魂が成長する上で必要な体験が終わったことを意味します。もとより、霊界入りするまでに体験しなければならないことは他にもあります。身体の苦しみのみが人間の体験の全てでないことは言うまでもありません。

治療家が患者の痛みを取り除いたり和らげたりすることが許されるのは、その体験を通して患者の魂に真の自我に目覚めるチャンスを与えてあげることが出来るからです。病気を治すということは確かに偉大な仕事ですが、もっと偉大な仕事として、患者の魂に生命の実感を覚えさせることが出来るのです。その仕事に比べれば、身体が癒えた時に覚える喜びは大して重要ではありません。

物的身体に宿っている皆さんは今生きている地上生活のことだけを考えます。それに引きかえて、地上を去った私たちは、地上生活を無限に続く生活の中のわずかな一時期として捉えます。皆さんがとかく物を見るその焦点を間違えるのはそのためです。

例えば苦難の渦中にある気の毒な人を見て同情心が湧くのを覚えるのは当然のことですし、私はそれを咎めるつもりは毛頭ありません。しかし、その時のあなたは苦しんでいる姿だけを見て、その苦しみの中で過ごす時間は、その後に償いとして得られる喜びに比べれば実に些細なものであることに気づきません。

また、日陰(苦難)の時間の方が日向(安楽)の時間より長く感じられるようですが、実際はそうではありません。ただ、病気の全てが治るとは限らないことを知っておいてください。何事にも法則(摂理)というものが働いており、患者の中にはいかなる治療家にも治せない人がいるということです。

時機が熟せば、いかなる病気も必ず治ります。それは、魂にとって死の彼方の生活体験を必要とする時機が至れば、いくら健康な身体でも魂をとどまらせられなくなるのと同じです。全ては大霊の摂理で定められているのです。あなた方もその摂理の一翼を担っているのです。なぜなら、あなた方自身が大霊の一部だからです。

もちろん借金(カルマ)を全て返してしまえば一切の苦痛と縁がなくなるでしょう。身体が完全な健康状態になるからです。しかし、地上にあってもこちらの世界にあっても、人間は何らかの借金をこしらえているものです。

質疑応答
[まずシルバーバーチが病気の原因について語る]

物的身体と霊的身体とは密接につながっております。両者は絶え間なく反応し合っております。物的身体はその存在自体を霊的身体に依存しておりますが、霊的身体は物的世界での顕現を物的身体に依存しております。つまり霊的身体の成長を決定づけるのは、物的身体を通して得られた体験です。

――物的身体はエーテル体を原型としているのでしょうか。

そうです。

――すると病気になった時に治療するのはエーテル体の方でしょうか。

それが全ての霊的治療の原則です。必ずしもそうでないこともあります。時には純粋に物的原因によるものがあり、そこに医学の入る余地があるのですが、物的身体に影響を及ぼすものは霊的身体にも影響を及ぼし、同様に、霊的身体に影響を及ぼすものは物的身体に影響を及ぼします。

――すると必ずしもエーテル体を治療する必要はないということでしょうか。

必ずしも必要ではありません。要は原因がどこにあるかによります。霊体に原因があれば霊体を治すことによって肉体の病気も治ります。が、純粋に肉体的原因から生じているのであれば、霊的手段よりも物的手段の方が効果が出やすいでしょう。

あなたは今この時点ですでに一個の霊的存在です。しかし、あなたの存在を表現する時は霊的身体と同時に物的身体を用いているのですから、物的世界の感覚を受けとめるには物的身体の世話になっているわけです。地上世界で起きていることは全て物的身体に反応し、それがさらに霊的身体へと反応します。

同じように、霊的身体に反応したことは全て物的身体にも反応します。そうしたエネルギーの作用と反作用が絶え間なく発生しているのです。物的・精神的・霊的の三種類のエネルギーが絶え間なく交錯しているということです。

――伝染性の病気は純粋に物的原因によるのでしょうか。

そうとは限りません。病気には物的原因ではなく霊そのものから発しているものもあります。

――例えばどんな原因でしょうか。

利己主義、どん欲、金銭欲といったものです。イエスが「あなたの罪はもう許されましたよ」と(癒された患者に)述べた話はご存じと思いますが、病気の原因には物的なものと霊的なものの二種類があることを知らなくてはいけません。両方とも同じ方法で治すことができますが、物的な方法の方が容易なケースもあります。

ただ、霊的身体が病むとか物的身体の病気の原因になると表現しましたが、霊的身体そのものが実際に病気になっているわけではありません。物的身体との調整がうまく行っていないというだけのことです。それがバイブレーションを乱し、物的身体との関係の阻害の度が過ぎると、物的身体に病気が発生するということです。怒りを抱くと脾臓を傷めますし、嫉妬心は肝臓を害します。

そうしたものが原因となって調整不良が生じるのです。それまでしっくり行っていたバランスが崩れて調和が乱れます。その崩れ方があまりにひどいと霊体が肉体を通してその表現が不可能になり、死が生じます。

――片腕を失った場合、それはエーテル体にどういう影響を及ぼすでしょうか。

直接の影響はありませんが、肉体の腕が欠けたことによって、エーテル体の腕としての機能を果たせなくなります。だからといって取り返しのつかない事態になるわけではありません。埋め合わせは必ずできます。ただ、そのためには色々な要素を考慮しなければなりません。

人間は物的身体と霊的身体、そして両者を結びつける生命の糸、この三つの要素から成り立っています。病気や虚弱や老化が物的身体をむしばみ、霊的身体との調和が崩れはじめます。それは霊体が肉体から離れるための自然な成り行きです。病気にも純粋に肉体的のものと精神的なものと霊的なものとがあります。腕の骨折は霊的治療でも治せますが、物的処置の方が簡単でしょう。

――遺伝性の病気は神の公正の原理と矛盾しませんか。

地上へ生まれ出る時に授かる身体は、授かるべくして授かったものです。つまり前世の中身に照らして相応しいものを携えて新たな地上生活を始めるのです。ですから、遺伝性の病気をもって生まれたからといって、それを不利と見るのは間違いです。当人の霊的進化にとって必要な人生を送らせるような身体を授かっているのです。

――霊的治療でも治る人と治らない人がいます。魂の進化という観点から見て両者は質的に異なるからでしょうか。

そうではありません。地上を去るべき時機が到来したら、いかなる治療家もそれを阻止することは出来ません。

――でも、治療家の世話にならなかったらもっと早く死んでいたと思えるケースがあるようですが……

数日とかそこいらの話です。永遠の生命に照らしてそれがどれほどの意味があるのでしょう?

――すると霊的治療そのものが不要ということになりませんか。

それは違います。なぜなら、人のためになることをすることは大霊の心を顕現させることになるからです。病気の多くは必ずしも魂の進化の低さのせいではありません。単に無知から大霊の摂理に反することをしたからに過ぎないものがあります。それは、魂の進化の程度がその摂理の存在を理解する段階まで到達していないためであるという観方もできます。魂の進化が進んで完全に摂理にのっとった生き方ができるようになれば、病気はしなくなります。

――同じ原因で病気になりながら、一方は治療家によって治り、もう一方は(治療家との縁がなくて)治らないというのは不公平ではないでしょうか。

あなたは病気になった人が霊的治療家のところへ行くのは偶然のしわざだと思っておられるのですか。偶然というものはあなた方の世界にも私たちの世界にも存在しません。断言します――大霊の摂理は完ぺきです。そのうちあなたも摂理の働きをつぶさに理解して、私と同じように、その完ぺきな摂理を生み出した完ぺきな愛の存在に気づいて、驚異の念で陶然となることでしょう。

誰しも――この私も含めてのことですが――暗闇の中で模索し、時たま光を見出し、摂理を洞察し、驚異の念に打たれます。しかし、暗闇の中にいて摂理の存在に気づかない時は、偶然とか偶発の出来事であると考えたがります。が、改めて申し上げますが、偶然というものは存在しません。

そう言うと、では自由意志はどうなるのかとおっしゃるに相違ありません。お答えしましょう。人間にも自由意志はあります。しかし、自由のつもりでいても、それはその段階での魂の進化の程度に支配されているのではないでしょうか。自由とは言っても魂の成長度によって規制されているということです。宇宙をすみずみまで支配している法則によって縛られているといってよいでしょう。いかに巨大な星雲であろうと、極微の生命体であろうと、その法則から遁(のが)れることはできません。何一つ遁れることはできません。大霊の摂理は完ぺきなのです。

――霊的治療と磁気治療とはどこが違うのでしょうか。

まったく違います。磁気治療は治療家自身から出る磁気エネルギーによって治します。霊的治療は治療家の波動が霊界の治療家の波動と一体となり、通常では物質界の圏内には届かない治癒エネルギーがその治療家を通して流入するのです。

――一卵性双生児が同じ病気になり、医学では不治と宣告されたとします。その場合でも、二人ともそちらのエネルギーで治せますか。

私にはどちらとも断言できません。痛みを和らげたり病気を完治させたりする霊的エネルギーが存在することは事実ですが、それが効力を発揮するには、その通路となる治療家の適合性が問題となります。現段階の地上界では、大霊の最高の治癒エネルギーは使用できません。治療家が霊的に向上するにつれて、より高いレベルのエネルギーが使用できるようになります。霊界の問題であると同時に地上界の問題でもあるのです。詮ずるところ我々はみな媒体に過ぎません。この霊媒(バーバネル)の背後に私がいるわけですが、私の背後には私より霊格の高い霊が何人も控えており、その霊たちの背後にはさらに格の高い霊が控えており、その連鎖は無限の彼方にまで延びているのです。

[治療家のW・T・パリッシュの新しい治療所の開設に際して贈られたシルバーバーチのメッセージ]

本日、私は謹んでこの治療所を大霊とその子等のために奉納いたします。ここは物質と霊の二つの世界が融合して一つとなる神聖なる場所であり、大霊の力が顕現する場所であります。

私はこの治療所を心の病める人々、魂の病める人々、そして身体の病める人々、また苦悩の中にいる人々、暗闇の中にいる人々、人生に疲れ生きる気力を失っている人々のために奉納いたします。この場所に来て愛の光に包まれ、癒しを得ることでしょう。

また私はこの治療所を、意気消沈している人々を元気づけ、挫折している人々を奮い立たせ、弱気になっている人々に勇気を与え、疲労こんぱいしている人々の顔に笑みを取り戻させてあげる場として奉納いたします。

どうか皆さんもこの治療所をレンガとモルタルでできた建造物としてではなく霊的聖堂として見てください。壮大な尖塔もなく、神々しく思わせるものは何一つありませんが、神の霊力の宝庫として祝福されたことによって、ここはまさに「神の館」となったのです。

この四つの壁で囲まれた部屋で偉大なるサービスが為されるのです。人生の闘いに疲れ果てた人々、心身ともに衰弱しきった人々、激痛と病魔に苦しむ人々が幾度も訪れることでしょう。

最後の、そして一縷(る)の望みを託して訪れるのです。その人々に霊の力が新たな活力を与えることでしょう。気分を一新し、元気百倍、それまで霊の活動を妨げてきた物的障害が取り除かれることでしょう。

目の見えなかった人が光を見出し、耳の聞こえなかった人が聞こえるようになり、手足の不自由だった人がその不自由さから解放されることでしょう。新たなる希望が湧き出ることでしょう。霊力が人生に立ち向かう勇気を与えるからです。

さらに大切なこととして、魂の琴線にふれて霊が開眼します。ほとんど光らしい光を発していなかった大霊の炎が勢いよく燃え上がり、その体験が新たな悟りをもたらすのです。

そうした仕事をするのに特別仕立ての式服をまとう必要はありません。大学へ通って学問を修める必要もありません。必要なものは自分を役立てたいという熱誠、霊の資質を発現させたいという願望です。

それがあなたのバイブレーションを高め、物質界のために使用されるべきエネルギーの通路として役立てることになるのです。

第7章 神とは何か
〔スピリチュアリストの中にもシルバーバーチの説く神の概念が理解できない人がいるようである。次の質疑応答が参考になるであろう〕

質疑応答
――大霊というのは「誰」なのでしょうか「何」なのでしょうか。あらゆるものに内在する愛、愛の精神ないしは情でしょうか。

大霊とは宇宙の自然法則です。全生命――物質界のものと霊界のもの全て――の背後の創造的エネルギーです。完全なる愛であり、完全なる叡智です。それが全宇宙のすみずみまで行きわたっているのです。人間の知り得た限りの小さなものであろうと、まだ物質界には明かされていないものであろうと、同じです。

あらゆる生命体に大霊が充満しています。あらゆる存在に大霊が内在しています。あらゆる法則の中にも大霊が内在しています。大霊は大霊です、生命です、愛です、全てです。従僕に過ぎないわれわれが一体どうして主人を表現できましょう? ちっぽけな概念しか抱けないわれわれが、どうして広大無辺の存在を表現できましょう?

――スズメ一羽が落ちて死ぬのも大霊はご存じということですが、この地球上の全人口の一人一人の身の上に起きることを神はどうやって知り得るのでしょうか。ましてや、すでに他界した数え切れない人たちの身の上のことまで果たして知り得るのでしょうか。

人間が「神」と呼んでいるのは実は宇宙の自然法則のことです。私の言う「大霊」です。大霊は万物の生命の中に内在しております。生命の全てが大霊であると言ってもよろしい。生命そのものはその事を自覚していますから、大霊は全生命のことを知っていることになります。スズメの生命も大霊ですから、大霊はスズメが落ちるのを知っていることになります。大霊は風にそよぐ木の葉でもありますから木の葉も大霊であることになります。

地上界の全て、霊界の全て、宇宙間のもの全て、そしてまだあなた方に知らされていない世界を通じて、大霊の法則が絶対的に支配しております。その法則から離れて何一つ生じません。全てが法則の範囲で生じていますから、大霊は全てを知っていることになるわけです。

――あなたは、大霊はあらゆるものの中に存在する、全存在の根源である、愛にも憎しみにも、叡智の中にも愚かさの中にも存在する、とおっしゃっています。その論法でいくと、間違ったことをする人間も正しいことをする人間も大霊の摂理の中で行動していることになります。同じことが戦争と憎しみを煽動する者と平和と愛を唱道する者とについても言えるように思います。となると誰一人として神の摂理を犯す者はいないことになりますが、この矛盾をどう説明されますか。

一方に「完全なるもの」があり、他方に「不完全なるもの」があります。しかし、不完全なるものもその内部に完全性の種子を宿しております。なぜなら完全性は不完全性から生じるものだからです。完全性は完全性から生まれるのではなくて不完全性から生まれるのです。

生命の旅路は進化です。進歩です。向上を求めての葛藤です。発達・発展・拡大・拡張です。あなた方が善だとか悪だとか言っているのは、その旅路における途中の段階の高い低いの善に過ぎません。終着点ではありません。あなた方の判断はその中途の不完全な理解力によって行われているのであって、善だと言ってもその段階での善であり、悪だと言ってもその段階での悪に過ぎません。その段階での判断に過ぎません。その時の事情との関連で判断した結果であって、その事情から離れればまた別の判断をするかも知れません。しかし、いかなる事情にも大霊が宿っているということです。

――すると地震にも大霊が関わっているのでしょうか。

大霊とは法則です、摂理です。それが全てを支配しています。摂理に関わりなく生じるものは何一つありません。

地震、雷、嵐――こうしたものが地上の人間の理解力を惑わしていることは私もよく承知しております。しかし、それらも大霊の支配する宇宙で発生しているものの一部です。宇宙は、そこに生を営む者が進化するように、やはり進化しています。中でもこの物質界は完全からほど遠い存在です。まだまだ完全性には届きません。これからも高く高く進化して行くのです。

――大霊も進化しているということでしょうか。

それは違います。大霊は摂理であり、その摂理は完ぺきです。ただ、物質界で顕現している部分が「顕現の仕方」において進化しつつあるということです。その点をよく理解してください。地球も進化していて、地震や雷などの天変地異はその進化のしるしであるということです。地球は火焔と嵐の中で誕生して、今もなお完成へ向けてゆっくりと進化しているのです。

日の出と日の入りの美しさ、夜空に輝く天の川の美しさ、小鳥のさえずりの愉しさに大霊の存在を偲びながら、雷雨や嵐や稲妻は大霊とは関係ないというのでは理不尽です。全ては大霊の法則の働きによって生じているのです。

その意味では、堕落した人間や同胞に害を及ぼすような人間も大霊の責である、と言ってもあながち間違いではありません。しかし忘れないでいただきたいのは、人間の一人一人に、霊性の進化の程度に応じてそれ相応の自由意志が与えられているということです。霊的段階を高く上れば上るほど、自由意志を行使できる範囲が広くなります。つまり現在のあなたは、霊的に言えばそこまでが限界ということです。が、その段階で生じる困難や障害は、大霊の一部を宿しているが故に全てを克服できるのです。

霊は物質に優ります。霊が王様で物質は従僕です。霊は全てに優ります。全生命が生み出されるエッセンスです。霊は生命であり、生命は霊です。

――大霊はこの宇宙とは別個に存在するのでしょうか。

そうではありません。宇宙は大霊の物的反映に過ぎません。大霊は物的宇宙と霊的宇宙にまたがる全体の統一原理です。

ハエに地球が理解できるでしょうか。魚に小鳥の生活が分かるでしょうか。犬が人間のように理性を働かせることが出来るでしょうか。星に空全体が分かるでしょうか。人間的知性を遥かに超えた大霊があなた方に理解できるでしょうか。

それはできないに決まっています。でも、口に一言も発することなく、皆さんの魂の静寂の中で霊が大霊と交わることが出来るまでに霊性を磨くことは可能です。その瞬間には皆さんと大霊とが一つであることを実感します。それがどういうものであるかは人間の言語では説明できませんが、自分の魂と森羅万象とが一つであることを静寂の中で悟ります。

――霊は、意識ある個性をそなえるためには物質との接合が必要なのでしょうか。

その通りです。意識をそなえるためには物的媒体をまとって、物的体験をしなければなりません。それによって物質から霊へと進化するのです。物質との合体が物的個性を通しての表現を可能にするという意味です。霊は物質をまとうことによって初めて自我を自覚するのです。

――そうなると大霊はわれわれを通して体験を得ているということでしょうか。

それは違います。あなた方の進化がすでに完ぺきなものに影響を及ぼすことはありません。

――でも、われわれは皆、大霊の一部です。その一部の進化は全体に影響を及ぼさないでしょうか。

あなたを通して顕現している部分に影響を及ぼすに過ぎません。その一部も本来は完ぺきなものですが、あなた方を通しての顕現の仕方が不完全だということです。霊はそれ自体は完ぺきです。宇宙の根源的要素です。生命の息吹きです。ただ、あなた方が不完全であるがために、あなた方を通しての顕現の仕方が不完全ということです。あなた方が進化するにつれて、より完全なものが顕現するようになります。あなたが霊を進化させているのではありません。霊が自我を顕現するための媒体を進化させていると言ってよいでしょう。

――霊が自我を発現するための物的媒体にもいろいろな形態があるということでしょうか。

その通りです。摂理は完ぺきなのです。が、あなたを通して顕現している摂理は、あなたが不完全であるがゆえに不完全なのです。完ぺきな摂理はあなたを通して顕現できません。しかし、あなたが完全へ向けて進化するにつれて、大霊の摂理がより多くあなたを通して働くようになるのです。

鏡と光の譬えで説明しましょう。鏡は光を反射するものですが、鏡が粗悪であれば光の全てを反射することが出来ません。鏡を磨くことによってより多くの光が反射するようになります。

全存在が絶え間なくより一層の顕現を求めて努力しているのです。すでに申し上げたと思いますが、生命(霊)とは黄金のようなものです。つまりその本来の姿を現すまでには原鉱を砕き、手間を掛けて磨き上げなくてはなりません。「原鉱はいらない、黄金だけくれ」――こんな要求は通りません。

――しかし、われわれにも何が善で何が悪かの概念はあると思いますが……

それは、その時での概念です。進化の過程で到達したその段階での顕現に過ぎません。さらに進化すれば捨て去られます。完全なる摂理が、正道から外れた媒体を通して顕現しようとしている、その不完全な表現に過ぎません。私が完全にも不完全にも存在意義を認めるわけはそこにあります。

――ということは、神は、その原初においては必ずしも善ではなかったということでしょうか。

私は“原初”については何も知りません。“終末”についても何も知りません。知っているのは、大霊は常に存在してきて、これからも常に存在し続けるということだけです。その摂理の働きは完ぺきです。仮にあなたが完ぺきな光を放っても磨きの悪い鏡では完ぺきに反射してくれないという譬えはお分かりいただけると思います。それを、光が不完全だ、悪だ、とは言えないでしょう。それと同じで、内部には完全な霊を宿していても、媒体を通してそれを完全な形で表現できないだけのことです。人間が“悪”と呼んでいるのは“不完全”のことです。大霊の表現が不完全だということです。

――宇宙には創造力をもつ一個の存在、ないしは一人の絶対的存在がいるだけで、われわれには創造力はないという考えは正しいでしょうか。

大霊は無限の過去から存在し、無限の未来にも存在します。全生命が大霊であり、大霊は全生命です。あなた方に一体何が創造できましょう。しかし、霊性が進化するにつれて、より美しく、より高く向上します。進化の程度が低いほど宇宙における存在の位置が低くなります。

第8章 祈りの効用
〔祈りの効用の問題はスピリチュアリズムに限らず、あらゆる宗教においてもよく論じられるテーマである。つまり祈れば神が必ず聞き届けてくださるかということであるが、祈りの作用にも摂理があり、その摂理に適えば効果を生み、適わなければ何も生じないということを知っている人は少ないようである。本章も質疑応答の形で祈りの問題を検討してみる〕

質疑応答
――祈るということは大切でしょうか。

その祈りがどういうものであるかによって答えが異なります。決まり文句のただの繰り返しでは空気に振動を起こすだけです。が、魂の奥底からの誠心誠意の祈り、大霊との交わりを深め、大霊の道具としてより有用な存在となりたいとの願望から出た祈りは、その祈りそのものが霊性を強化し、大霊の道具としてより相応しい存在にします。その種の祈りは自我を顕現せんとする行為であり、心を開く行為であり、私たち霊側との結束を固めることにもなります。

――おっしゃるのは、祈りが生み出す結果は主観的なものだけで客観的なものは生み出さないということでしょうか。人間性を高めることはあっても具体的なものは生み出さないのでしょうか。

祈りの本質は、人のためのサービスという行為へ向けて魂を整えることです。より高度なエネルギーと調和するための手段です。誰かが作文した祈りの文句を意味も分からずに繰り返すのではなく、全身全霊をこめて可能なかぎり高い次元の波動に合わせようとする行為のことです。それに呼応して注ぎ込まれるインスピレーションに満たされて霊性が強まります。

――人のために祈るということも何か効用があるのでしょうか。

あります。真摯な祈りは決して無駄にはなりません。意念には生命力が潜在しているからです。

――治療家による遠隔治療の祈りには特別な効果があるのでしょうか。

あります。これまでのご質問は一般個人の祈りを念頭にお答えしてまいりましたが、同じことがどの祈りにも当てはまります。要するに祈るということは霊的エネルギーを放出することですから、それを霊的治療家の背後霊団も活用しています。

――他の手段では得られないものを祈りによって霊界から授かることは可能でしょうか。

衷心からの祈りは、その祈りそのものの力によって波動を高め、より高度なエネルギーを活用することが出来るようになります。祈るという行為そのものが魂を開かせるのです。もちろん全身全霊をこめた祈りのことです。お決まりの文句の繰り返しでは祈りとは言えません。真実の祈りは偉大なる霊的行為です。祈りはあくまでも手段であって目的ではない――これが最も正しい表現でしょう。

祈りの言葉はたった一言しかありません。「何とぞ私を人のために役立てる方法を教え給え」――これです。「大霊のため、そして大霊の子等のために一身を捧げたい」――この願いより崇高なもの、これ以上の愛、これに勝る宗教、これより深い哲学はありません。どのような形でもよろしい。大霊の摂理の霊的な意味を教えてあげることでも、飢えに苦しむ人に食べるものを与えてあげることでも、あるいは暗い心を明るく晴らしてあげることでもよろしい。人のために役立ちさえすれば、形式はどうでもいいのです。

自分のことより他人のためを優先し、自分の存在を意義あらしめるほど、それだけ霊性が発達します。それはあなた方の一人一人の内部に宿る大霊が発揮されるということです。至って単純なことなのです。ところが人間は教会を建立し、何やら難しい説教をします。私にも理解できない難解な用語を用い、また、これぞ宗教とばかりに仰々しい儀式を行います。

そんなことよりも、生きる意欲を失くしている人のところへ出かけて行って元気づけてあげ、疲れた人に眠る場を与え、飢えに苦しむ人の空腹を満たしてあげ、渇いた人の喉を潤してあげ、暗闇に閉ざされた人の心に明るい真理の光を灯してあげることです。そうしたことを実行している時、あなたを通して大霊の摂理が働いていることになるのです。

――祈りがまったく叶えられないように思えることがあるのですが、なぜでしょうか。

人間各自の内面では常に“人間臭いもの”と“神性を帯びたもの”との間で葛藤があります。後者が勝てば大霊と一体となった喜悦を味わいますが、前者が勝った時は味気なさを味わいます。そうした中で私たちは、本人がこうなってくれればよいのだがと思う方向よりも、こちらから見てこうなった方が本人の存在価値をより大きく生かすことになるという方向に導かねばならないことが、よくあります。

この(サークルが開かれている)家には毎日毎夜、一団の霊が訪れています。その一人一人が高い世界への向上の権利を一時的に放棄して、地上の暗闇に光明をもたらすべく、ここに光のサークルをこしらえるための環境づくりに携わっているのです。そうした使命に比べれば、地上の些細なトラブルなどは物の数ではありません。

一方には身体を横たえる場所もなく、家らしい家もなく、青空天井の下で寝なければならず、身体が風雨にさらされる者がおり、また一方には身体を養うだけの食べものにありつけない者がいるというのに、あなた方がこうあってほしいと祈るその願いが、大霊の目から見て大事だと思いますか。

皆さんにこれだけは忘れないでいただきたいと思うのは、皆さんの一人一人が大霊の素晴らしい計画に参画し、わずかではあってもその意匠に織り込んでいるという事実です。いつの日か全体が織り上がった時には、地上の全人類の肌の色が見事にブレンドして織り上がっていることが分かるでしょう。その時こそ完全な地上世界となった時です。

さて、ご質問の、何の反応もない時のことですが、実はその時でもそれなりに刺しゅうは織り込まれているのです。毎日毎夜、地上界の巨大な織物は休むことなく織り続けられ、ついには地上全体を被うまでに至る、その一端を皆さんも担っているのです。

もう一つの見方として、地上の人間はとかく、もしその通りに叶えてあげたら魂の成長にとって良くないこと、進歩を遅らせることになるものを要求しがちです。これは叶えてあげるわけにはいきません。また、そんなものを手にする資格のないものを要求していることもあります。これも叶えられません。さらには、こちら側ですでに授ける準備をしていて、そのタイミングを図っているものを要求することもあります。大霊は全ての人間の祈りを、たとえ口に出さなくても、先刻ご承知であることを知ってください。

――各地の教会で繰り返されている祈りは何か効果があるでしょうか。

祈りの言葉を述べる人によって異なります。口先だけの祈りでは、無意味な音声の無駄に終わります。もしも衷心から祈り大霊に近づきたいとの願いから出た祈りであれば、その熱誠そのものが祈りに翼を与え、霊界の深奥へと運ばれることでしょう。

――酒浸りの親を更生させたいという祈りは、仮に幼い子供によるものであっても効果を発揮するでしょうか。

真摯な祈りには必ず霊力が伴うものです。が、その霊力がどこまで物的効力に転換されるかとなると、いろいろな条件を考慮しなければなりません。今おっしゃった例で言えば、その子供の祈りが父親の魂に響くか、それとも霊性が堕落して何の反応も示さないかのどちらかが考えられます。ご質問には私はイエスともノーとも言えません。

――でも、何らかの影響はあるでしょう?

自然に湧き出る祈り、役に立ちたいと願う祈り、知識や光明、叡智、導きを求める祈り、こうした祈りは魂の進化の表れです。あなたの精神はその身体ではなく霊の一部です。霊は大霊の一部ですから神的属性を秘めています。しかしそれを開発するには魂の進化が先決です。それなくしては顕現しません。

――祈りはただ言葉に出しさえすれば霊に聞こえるのでしょうか。それともある種の波動に反応するようなパワーに乗せて放散しないといけないのでしょうか。

祈りとは魂の表現です。そのことを分かり易く説明しましょう。祈りとは光明と導きを求めての魂の叫びです。その行為そのものが回答をもたらすのです。なぜならその行為が思念のパワーを生み出すからです。

そのパワーが原因となって回答を生み出します。その回答が結果です。霊はあなたが何を祈るかを待っているわけではありません。その必要はないのです。祈りの思念そのものが、その波動のレベルの界層の霊に届くのです。あなたの魂の進化の程度に応じた界層です。

当然その霊たちも役に立つことを切望していますから、あなたの思念のパワーにその霊たちのパワーが加わって、一段と強力となります。あなたが生み出した思念が新たな活動を呼ぶわけです。あなたの霊性のレベルに応じた段階での宇宙のエネルギーを動かすのです。と言うことは、そのエネルギーをあなたも活用することが出来るようになったということです。

祈る人の進化の程度によっては、ある一つの理想の要求に向かって意念を集中しなければいけないことがあるかも知れません。その方が有効だという人に私はあえて異議は唱えません。ただ私が申し上げたいのは、大霊、生命の摂理、宇宙の自然法則、こうしたものを基盤にして考えないといけないということです。

大霊は完全なる存在ですから、当然、大霊の摂理・法則も完ぺきです。その完全なる大霊の一部があなた方の内部に潜在していて、その発現を求めているのです。祈りやサービスによってそれを発現させるということは大霊があなたを通して働くということになります。そうしたもの、要するに魂の成長を促すものは全てあなたの霊性の進化を促しているのです。

――全てのものが不変の法則によって支配されているのであれば、大霊に祈っても意味がないのではないでしょうか。と言うのは、祈りとは大霊に法則を変えてくれるように依頼することではないかと思うからです。

それは私が理解しているところの祈りとは違います。祈りとは大霊に近づかんとする魂の願望です。祈りとは自己の内部の大霊を顕現せんとする願望であり、その行為が魂を開かせ、それまで届かなかった界層まで至らしめるのです。

そこには不公平も、えこひいきもありません。内部の大霊をより多く発現し、より多くの恩寵を授かるための、魂の活動です。大霊の恩寵は無限であり、あなたの魂もその無限性を発現せんとする無限なる存在です。

――なぜ人間は神に許しを乞うのでしょうか。摂理を犯せば必然的に罰が与えられると思うのですが……

許されればそれで償いが済むわけではありません。代償は必ず支払わねばならないのですから。許しを乞うという行為は、大霊の摂理と調和しようとする行為の始まりです。内省し、魂が自己批判をしはじめたことの証です。そこから本当の進化が始まります。