一厘の仕組(地域編)

国有地囲い込み事件経過報告その14

森本 優(2004/12/10)

 


平成16年(ネ)第5654号妨害排除・原状回復並びに損害賠償請求控訴事件

 

控訴人 森本 優

被控訴人 I

 

控 訴 理 由 書

 

 

東京高等裁判所第22民事部 御中

 

平成16年12月3日

控訴人本人 森本 優

 

 

控訴人は、原判決に対する控訴の理由を下記のとおり述べる。

 

1 はじめに、原判決の意味するものについて一言

 

 本件訴訟の土地問題については、地域の年配の方々が真実を一番良く知っている。もし原判決がそのまま確定するようなことになれば、地域の人々、延ては国民の道徳・倫理規範はいよいよ麻痺し、今後国有地の囲い込みは、事実上司法の黙認の下で、当然のごとく進められることになるであろう。

 御庁での公平かつ適切な裁判を求める次第である。

 

2 原判決4頁、2甲事件(1)原告の主張1.イについて

 

 控訴人(原告)森本は「被告Iは、本件土地付近の土地において、水路ぎりぎりまでコンクリートを打って泥揚げ部分を取り込んだ上、本件土地上に本件自動販売機を設置した」との主張はしていない。被告Iは、本件土地において、本件水路(流水部分と畦畔部分が含まれている)中、流水部分ぎりぎりまでコンクリートを打ち、その上に本件自動販売機等を設置した、との主張をしたものである。

 以上のような誤解を与えてしまったのは、訴えの提起当時、I地840−2に沿って存在する本件水路には、国有地としての畦畔部分がI地側にも当然存在していることを前提としていたため、原判決の別紙図面1の赤線で囲まれた範囲内の部分を本件水路中の畦畔部分(本件土地)とみなし、妨害排除等の対象範囲として特定したためである。

 しかし審理の過程で、I地側にあるはずの畦畔部分は、後に述べる通り、地籍調査時に不正に被控訴人I等の所有地に編入され、それが、昭和63年に国土調査による成果として登記されていることを、初めて控訴人森本は知ったものである。

 よって、ここに控訴状訂正申立書を提出し、それに添付した「原判決の別紙図面1を訂正した図面」をもって、妨害排除等の対象範囲としての本件土地の現公図上の位置関係を訂正する次第である。

 

3 原判決9頁、第3争点に対する判断の1(2)について

 

 原判決は、「被告Iは、本件土地を含む被告I地を、昭和54年3月16日T2から買い受けた」「そのころ、被告I地と本件水路との境は明確ではなかった」「昭和63年ころ、被告I地付近について国土調査が行われ、現行どおり被告I地と本件水路の境が決められた」との事実認定をしている。

 そして、その認定材料として、「上記争いのない事実に、証拠(甲1,甲2の2,甲21の1ないし19,乙1の1・2,乙4の1ないし8,乙5の1ないし3,被告I)及び弁論の全趣旨」を挙げている。

 

(一) そこでまず、「被告Iは、本件土地を含む被告I地を、昭和54年3月16日T2から買い受けた」との事実認定を検討するに、原判決3頁の1争いのない事実、甲2の2,甲17の1・2,甲21の1ないし19,乙4の1ないし8は、本事実認定に関しては無関係である。また、乙5の1ないし3の登記関連資料からでは、本来畦畔部分としてあるはずの本件土地まで一緒に、昭和54年の時点で買い受けたと認定することはできないはずである。

 以上から、上記認定は甲1,乙1の1・2,Iの被告尋問での供述、そして「弁論の全趣旨」が主な判断材料となるので、それらを詳しく検討し、疑問点を指摘していきたい。

 甲1に関して、今回提出した甲29の1・2並びに証拠説明書を御覧いただきたい。昭和56年当時の流水部分(畦畔部分を含んでいない)を示した図と、明治20年頃のそれである。

 それらによると、明治20年頃840・841・842として存在していた田は、その後840にまとめられ、昭和54年に840−1と840−2に分筆され、840−2が被控訴人Iに譲渡されたのであるが、どちらの図にも840の土地と流水部分との間には畦畔部分が存在していることが分かるのである。

 とすれば、840−2として分筆され譲渡されたことが反映されている昭和56年版マイラー図面(甲1並びに甲29の1)が作製された時点では、依然として明治時代からの畦畔部分が残っていたと言わねばならず、すなわち、昭和54年の譲渡時においては、水路の一部としての畦畔部分は売買の対象とはなっていなかったことが分かるのである。(平成15年9月9日付被告準備書面第1の※ 印参照)

 ところで、被控訴人Iは、乙1の1(陳述書)の1頁2行目で、「昭和53年T2殿より840−2を自宅建設用地として購入」と述べ、乙1の2(図)でその範囲を示しているのであるが、その図では、甲29の1では畦畔部分とされているところを意図的に青で塗り潰して流水部分に仕立て、流水部分に至るまでの限々のところまで、840−2の範囲が及んでいるかのように見せかけているのが分かるのである。

 この点に関して、平成16年2月5日の被控訴人(被告)Iに対する尋問で控訴人(原告)森本は、おかしな点を指摘しており(I調書48番ないし50番参照)、同時に担当裁判官に対しても、甲29の1と全く同じ様に、流水部分を青の蛍光ペンで塗り潰した昭和56年版マイラー図面を示している。

 また、840−2の売買当時には、まだ河川の改修工事がなく埋め立てもなかったので、昭和56年版マイラー図面が示すように、取水口付近は広い浅瀬が広がっており、従って、妨害排除等の対象範囲となっている本件土地は、当時大半が流水部分として存在していたのである。(I調書42・43番)

 以上から、原判決の「被告Iは、本件土地を含む被告I地を、昭和54年3月16日、T2から買い受けた」との事実認定は明らかに誤りであり、その認定の根拠とする「弁論の全趣旨」に対しても、強い疑いが持たれるのである。

 

(二) 次に、「そのころ、被告I地と本件水路との境は明確ではなかった」との事実認定を検討するに、甲1・甲29の1から、明らかに、昭和54年の売買に際しては、事前に厳密な測量がなされ(I調書3番「隣接河川との境には、目印をつけました」参照)、その資料に基づいて、登記がなされたはずなのである。その意味では、I地と本件水路中の畦畔部分との境は、すこぶる明確であったと言わねばならない。

 であるならば、被控訴人Iは、少なくとも昭和54年の売買当初から、本件水路中の流水部分と840−2との間には、本件水路の畦畔部分があるとの認識を有していたとも言わねばならないのである。(I調書40番「どこからどこまでが畦と川か分からない」参照)

 したがって、原判決の「そのころ、被告I地と本件水路との境は明確ではなかった」との事実認定も、また誤りである。

 

(三) 最後に、「昭和63年ころ、被告I地付近について国土調査が行われ、現行どおり被告I地と本件水路の境が決められた」との事実認定についても、その不当性を指摘しておかねばならない。

 昭和54年の売買から、程なく北側河川(本件水路)の改修工事がなされ、従来河水面であった部分も埋め立てられたため、当時、相当広い幅の畦畔部分(泥揚げ部分)がI地側に存在していた。

 しかし、昭和60年頃の地籍調査(国土調査)を経て、本来I地側にあるはずの畦畔部分がすべて、登記上I地内に編入され、I地は、本件水路の流水 部分に接するまでに拡張されていたのである。そのような事実は、村のほとんどの者が知らなかったもので、今回訴訟を提起してみて初めて明らかになった事実である。(甲17の1・2,乙5の2参照)

 この点に関して被控訴人Iは、平成15年4月17日付け被告準備書面で、「本件の土地を購入した」と主張し、その時期は840−2の土地を買い受けた昭和53年であると主張している。(乙1の1陳述書1頁7段落目)

 しかし、上記3の1.から、そのようなことはあり得ず、その購入の時期に関しては、新旧の畦畔部分の地積の総和とほぼ同じ面積の増加が、I地840−2において地籍錯誤を原因として更正登記(乙5の2)された時、厳密には、その登記がされる3年前の昭和60年頃の地籍調査の時に、本件土地を含むその新旧の畦畔部分を買い受けたものである。しかも、座標値を対岸方向にずらしてもらうという形で。(平成15年9月11日付原告準備書面二、2参照)

 すなわち、T2氏の証言(甲2の1)や、地籍調査時にI地側にも赤い色の付いた杭が打たれていたとの陳述(乙1の1陳述書1頁3段落目)等から推測するなら、測量の時点では、両岸にはほぼ同じ幅の畦畔が存在していたはずなのである。

 しかしその後、座標値(甲17の1・2)に基づき原公図(甲2の2)が作成される段階において、既に何者かによって座標値が対岸にずらされてしまい、その結果、原公図上でも、本来I地側にも存在するはずの畦畔部分は、すべて私有地として840−2のI地に編入され、その分余計に、対岸地権者であるT1側の925−1,926−1方向に畦畔部分が押しやられてしまっていたのである。(平成16年3月3日付原告準備書面二4、並びに控訴状訂正申立書添付資料の訂正図面参照)

 因に、流水部分と畦畔部分とを含んだ本件水路の幅に関して、昭和56年版マイラー図面のもと現公図のものとが同じであることは、市役所の地籍調査課で既に確認済である。(甲9)

 そして、原公図を確認しながら市役所若しくは公民館で調査票に署名・捺印する最終段階において、対岸地権者T1の場合には、市の職員が調査票のみをT1宅に持ってきて、その場で署名・捺印を求めてきたので、原公図がそのようになっていることを確認できないまま、市を信用してT1氏は盲判を押してしまったのである。(甲22陳述書参照)

 そこで、原告であった控訴人森本は、「被告I地と本件水路の境が決められた」以上のいきさつを取り上げ、840−2における上記更正登記は無効であることを立証するために、平成15年3月5日付けで証拠申出書を担当裁判所に提出し、その三・四でそれぞれT2氏とT1氏の証人尋問をお願いした次第であるが、地裁担当裁判官はそれを認めないまま、原判決で一方的に、(適法に)「昭和63年ころ、被告I地付近について国土調査が行われ、現行どおり被告I地と本件水路の境が決められた」との事実認定をなしたものである。

 しかし、そのような訴訟指揮は、公平でも適切でもなく、事実認定そのものさえも放棄したものと言わざるを得ないのである。

 

4 原判決10頁下から11行目、「引水等地役権の設定時期・内容」について

 

(一) まず初めに、本件水路の流路が何時ごろから現在のものに定まり、その水路から甲24(和紙の公図)並びに甲25の7(マイラー図面)に見られるような本件私設用水路が何時開設されるに至ったのか、について検討する。

 古墳時代初期には既に、本件土地から東北方向に300メートル程離れた場所で、水田が切り開かれているので(甲30・二又遺跡)、本件土地付近でも水田が存在していた可能性は高い。

 下って、16世紀の初め頃まで、甲斐源氏(武田一族)の小河原氏が、本件土地が存在する甲府南部の稲積荘という荘園の在地領主となっていたことが記されている。(甲31の1・2)

 因に、小河原氏の拠点は、現在でも地名に反映されている上小河原町・中小河原町・中小河原1丁目・下小河原町の一帯であったと推測される。

 ところで、武田信玄が現れる前の甲府盆地における釜無川・荒川は、しばしば氾濫して甲府南部の稲積荘辺りを襲っていたが、それらの流路は現在のそれとは著しく異なっていたことが分かる。(甲31の1,甲32の1・2・5)

 武田信玄の竜王堤等の治水工事により、初めて、釜無川・荒川は現在ある通りの流路を取るようになり、稲積荘を初めとした甲府南部地域が安定化するようになったのである。(甲32の3・4)

 その後、特に江戸時代に入ってから、釜無川の以前の流路跡である河川敷に、新田が数多く開拓されていったが、それらは、現在の地名で「新田」と名付けられている。(甲32の5

 以上から、武田信玄の治水工事の完成を待って、初めて本件水路の流路が定まり、それに応じて、815ないし818・825等々の田への引水のための本件私設用水路(甲24)が開設されるに至ったものと考えるのが相当である。

 何故ならば、信玄以前には、釜無川・荒川・笛吹川が度々氾濫し、そのためしばしば甲府南部の中小河川の流域も変わってきたであろうし、また、釜無川・荒川は上記の通り現在の流路とはかなり異なっていたのであるから、それらの大きな川から用水を引いていた水路の流路及びその水路からの私設用水路の位置も、当然現在のそれとは異なっていたはずだからである。

 そして、武田信玄時代の治水工事により釜無川・荒川の流路が現在のそれと同じになり、それに応じて各水路が再整備された時期こそが、本件水路の流路が現在のものに定まった時期であると言え、また本件水路に応じて、甲24に見られるような本件私設用水路が開設された時期でもあると考えられるからである。

 つまり、その時期とは、武田氏滅亡の前後であると言えるのである。

 ところで、武田氏滅亡の直後、1582年から1583年にかけて、武田氏旧臣の旧所領が徳川氏によって再び安堵されており、本件土地が存在する小河原では、広瀬美濃守景房が所領を再び安堵されている。(甲33の1ないし3)

 であるならば、明治以降も地役権として保護されることになる物権的権利が、領主広瀬美濃守景房の支配の下、田への本件私設用水路の開設と同時に、田を耕作していた小作人等に与えられたと解するのが相当である。

 田へ水を引く権利は、要役地としての田が田として活かされるためには絶対必要な権利であり、そのことは、領主自身も当然認めていたはずだからである。

 また、それぞれの耕作している田に水を引くため、小作人等が治水工事後流路が定まった本件水路から本件私設用水路を共同で開設し、共同で維持管理してきたのであるから、引水地役権の時効取得ということも考えられるのである。

 

(二) 次に、引水地役権の内容としては以下の通り考える。

 主たる権利として、流水権が認められる。

 更に、従たる権利として、水路(本件水路と本件私設用水路を含む、以下同)及び水路付近地に立ち入り、掃除・泥揚げ・修理等をしたりする権利も認められる。(平成15年3月24日付原告準備書面参照)

 

5 原判決10頁下から13行目「明治時代に上記引水等地役権が設定」について

 

(一) 上記の時期に、本件私設用水路及びその付近地、並びに取水口近辺の本件水路及びその付近地に、引水地役権等が発生したが、その権利関係は明治時代に入っても、国によって承継され、積極的に承認されたものと考えている。(平成15年10月16日付森本調書12番、甲24、平成15年3月24日付原告準備書面添付書類「承役地詳細図」参照)

 

(二) また、この様な地役権は、権利の発生時期が特定できないのが通常であってみれば、明治時代においても新国家と私人との間に、その地役権としての保護に値する事実が存在し続け、かつ新国家がその事実を承認している事実が存在するならば、特段の事情のない限り、新国家とその私人との間で、その事実に対応した地役権の設定契約が新たに暗黙の意思表示の裡になされたと解し、国民の権利を保護していくべきである。(平成15年9月25日付原告準備書面参照)

 この点に関して、「的確な証拠はない」として切り捨てた原判決の判断は失当である。

 

原判決10頁下から9行目、「原告は、被告Iが本件工作物を設置したころ、本件水路の引水等のための泥揚げを、実際にはしていなかった」ことについて

 

 このことは全国的に観察されると思うのであるが、甲府市内でも大抵の場合、水田耕作をしている村落では、大昔から村落一体となって共同して村の用水の整備・管理をしてきており、現在では、自治会単位で、自治会内の水路を掃除している。(甲34の1・2)

 すなわち、自治会内にある複数の組が、それぞれ受持ち範囲の水路を掃除し泥を揚げているのである。(甲34の3)

 当N3自治会でも、当時10組程の組があり、それらの組がそれぞれの受持ち範囲の水路を掃除し泥を揚げているのである。(平成15年10月16日森本調書26番、甲21の1ないし12)

 そして、控訴人(原告)森本が所属している第1組は、本件水路とは別の水路が受持ち範囲として指定されているので、控訴人森本若しくはその家族は、いつもその指定された範囲の泥を揚げ、掃除をしているのである。

 とすれば、自治会内の共同作業として、受持ち範囲は本件水路ではなかったとしても、代々森本も実質上は、本件水路の泥を揚げていたと言うことができるのである。

 この点、原判決は事実関係を正確に捉えていず、失当と言う他ない。

 

7 原判決10頁下から6行目、「引水等地役権の侵害の事実」について

 

 物権的請求権は、物権の円満な実現が妨害され、又はその恐れがある場合に、妨害を生じさせている者、又はその恐れを生じさせている者に対して、物権を持つ者がその妨害の排除等を請求する権利である。

 ところで、引水地役権の内容は、上記4(二)の通り、主たる権利としての流水権と、従たる権利としての、水路及び水路付近地に立ち入り、掃除・泥揚げ・修理等をしたりする権利である。

 とすれば、本件では、主たる権利としての流水権は今のところ侵害されてはいないように見えるが、しかし、従たる権利としての水路付近地に立ち入り掃除・泥揚げ・修理等をする権利は、現に侵害されているのである。

 また、その従たる権利が行使できなくなれば、やがて主たる権利としての流水権も充分に行使できない事態にもなるのである。

 よって妨害排除請求は認められるべきである。

 この点、引水地役権の侵害の事実を認めなかった原判決は、法令の解釈を誤ったものであり、失当である。

 

8 原判決11頁上から3行目、「上記認定事実及び上記証拠に照らすと、甲22と原告の供述のうち上記主張に沿う部分を採用することはできず、原告の上記主張は理由がない」について

 

(一) 仮に、甲29の2(和紙の公図)上の田840・841に接してある畦畔部分が、当初から私有地であったとしても、昭和25年の農地改革の時期に、田840・841の所有者となったT4氏(甲35)と、田825の所有者石原保太郎氏(甲36)並びに田815の所有者となった森本信次(甲37)との、水田管理上共同作業が求められる者同士の間で、田840・841の一部を通る本件私設用水路及びその付近地並びに取水口付近の畦畔部分を承役地として、引水地役権が明示若しくは黙示の意思表示によって設定されていたものと解されるのである。(平成15年12月4日森本調書11・12番、平成15年3月24日付原告準備書面の添付書類「承役地詳細図」参照)

 その後、昭和36年に田825を森本信次が石原氏より買い取ったため、引水地役権は一本化され、それを昭和55年に控訴人森本優が相続した。(甲38)

 一方、田840・841を相続したT2氏からも森本信次は、その田840・841の一部に本件私設用水路を設置していることにつき、了承を得ている。(12月4日森本調書13番)

 ところで、被控訴人(被告)Iは、昭和54年の初め頃、T2氏から土地840−2を、当時畦畔として利用されていた部分も含み、流水部分ぎりぎりまで購入したと主張している。(乙1の1・2)

 しかし、被控訴人Iは、当地近くで生まれ育ち、本件水路並びに当地を熟知していたものであり(I調書34ないし43番)、また購入時期にも、本件水路の状態(甲29の1、I調書5番)や、本件水路(畦畔部分と流水部分)が要役地所有者である森本を初めとした村民によって利用されていることを確認しているのである。(I調書14・40番)

 また、毎年当自治会の担当組によって多量の泥が揚げられていたことも確認していたはずなのであり(甲21の 1ないし12)、更に、本件水路から本件私設用水路を通して森本が取水していたことも、その位置・形状・構造等の物理的状況から客観的に明らかなのだから、840−2の購入当時においても、被控訴人Iは、それらのことを当然確認していたものと言えるのである。

 そしてそのような場合には、引水地役権が設定されていることを知らなかったとしても、特段の事情のない限り、地役権設定登記の欠缺を主張するについて正当な利益を有する第三者に被控訴人Iは当たらないと言うべきである。(12月4日森本調書14・15番、最高裁平成10年2月13日第二小法廷判決)

 従って、被控訴人Iは、引水地役権の制限を受けた所有権を主張し得るに過ぎず、本地役権を侵害している本件土地上の工作物は撤去されるべきである。

 この点、「原告の上記主張には理由がない」とする原判決は失当である。

 因に、被控訴人Iが土地840−2を買い受けて間もなく、河川の改修工事で流水部分が埋め立てられ畦畔部分がその分広くなったが、その場合、承役地の範囲も流水部分沿いに移動したと解するのが相当である。

 この時初めて、本件土地の大半が姿を現したのである。

 

(二) また、昭和25年以降、昭和54年の土地840−2の譲渡までに、何らかの形でT2氏が、国有地としてあった畦畔部分を適法に私有地とした場合についても、その畦畔部分をその後においても、通路として、洗い場として、泥揚げ部分として、森本を初めとした村民並びに自治会が利用していることを、T2氏自身が黙認していたのであるから、本件私設用水路及びその付近地だけでなく、その畦畔として利用されていた部分に対してもT2氏は、引水地役権の承役地として森本が利用することを、暗黙の意思表示によって契約上認めたものと解するのが相当である。

 であるならば、前述通り、購入以前から引水・泥揚げ等の事実を確認していたはずの被控訴人Iは、控訴人森本が有する引水地役権の制限を受けざるを得ないはずなのである。

 従って、たとえ「被告Iは、本件土地を含む被告I地を、昭和54年3月16日T2から買い受けた」としても、被控訴人Iは控訴人森本の引水地役権の制限を受けた土地の所有権を取得したと解すべきであり、その点について何ら触れることなく「原告の上記主張は理由がない」とした原判決は失当である。

 

(三) 因に、河川改修時に流水部分がかなり埋め立てられ、その時、森本が使用している本件私設用水路の取水口部分が、橋の袂まで移動することになったのであるが、その場合、承役地の範囲も、本件私設用水路の延長に伴い拡長し、新しい取水口部分から引水地役権が発生しているものと解されるのである。

 であるならば、本件水路に沿った畦畔部分には地役権が設定されていなかったとされる場合においても、本件私設用水路及びその付近地を承役地とした引水地役権が、既に、昭和25年の時点で設定され、後にT2氏の代においてもその承諾を得ているのであるから、その承役地を侵害する行為は、当然地役権侵害と言わねばならないのである。

 ところで、甲4の1(写真)で明らかな通り、被控訴人Iが管理する本件自動販売機が本件私設用水路に接して設置されているのであるが(I調書29ないし31番)、このような行為は、控訴人森本が有する引水地役権の侵害行為以外の何物でもないのである。(12月4日森本調書11番参照)

 この点からも、原判決の判断は、失当である。

 

9 原判決12頁(2)1.について

 

(一) 以上の事実から、被控訴人(被告)Iは本件工作物を設置して、森本の引水地役権を侵害したものである。

(二) また仮に、引水地役権が認められなくても、農事上の法的保護に値する利益を、国有地の不法占拠という違法行為によって侵害したものである。

(三) 更に、私有地上であったとしても、本件自動販売機等の設置は、控訴人森本の農事上の法的保護に値する利益の侵害であると評価されるべきである。

 この点、被控訴人の主張どおり、本件土地は被控訴人Iの所有にあるから、その土地上に本件自動販売機等を設置しても何ら違法ではないとして、不法行為の成立を認めなかった原判決は失当である。

 そこで控訴人森本は、別途、中間確認の訴えを提起して、本件土地が被控訴人Iの所有に属しないことの確認を求める次第である。

 

10 原判決12頁(2)3.について

 

 原判決は、本件決議並びに本件決議に際しての名誉毀損行為につき、被控訴人Iの共謀関係を認めなかったが、以下の通りの事実が現れているので、再検討をお願いする次第である。また、「原告指摘部分は、被告自治会側の認識と見解を示したものであり、原告に対する不法行為が成立するとは認めがたい」とする部分にも問題があるので後述する。

 

(一) 本件決議に対する共謀関係

【被控訴人IとT2氏との共謀関係】

 昭和60年頃の地籍調査の時、当村でその中心的役割を果たしていたT2氏(平成15年の暮れに死去)は、土地840−2・840−1・845−2の各所有者である被控訴人I・訴外T2・訴外T3の各氏の利益のために、座標値を対岸にあるT1氏所有地925−1・926−1の方向にずらすことによって(甲17の1・2参照)、I地840−2側にあった本件水路の畦畔部分を私有地として取り込み、不正な登記(乙5の2参照)を得たものである。

 その時、被控訴人IとT2氏との共謀関係があったことは、被控訴人I自身が控訴人森本に対して「地籍調査の時に購入した」との回答を寄せていること(甲9)、そして上記3(三)から明らかである。

 また、そのことは、地籍調査後間もなくT2氏と被控訴人Iは、本件水路の流水部分ぎりぎりまでブロック等を積み上げ、元々畦畔部分として利用されていた部分を敷地内に囲い込んできたこと、そして森本側からの苦情に対して両氏とも無視し続けたこと等からも、裏付けられるのである。

 

【被控訴人Iと当自治会役員等との共謀関係】

 次に、被控訴人Iと当自治会役員等との共謀関係については、村の最有力者であったT2氏が、上記地面詐欺行為を闇に葬り去るにめに、それ以降、村内外の人的囲い込みに意を尽くした結果である。

 すなわち、問題が表面化した平成13年の春以降、控訴人森本の相談・調整依頼に対して、T2氏の意を受けていた当自治会役員等主要人物は、ほぼ全員統一行動をとり、事件の隠滅に躍起になっていたのである。

 以下その事実を挙げる。

 平成13年1月10日に、当時自治会長であったK2元被告は、コンクリートを打ち流水部分ぎりぎりまで工作物を設置しようとしていた被控訴人Iの行為に対して控訴人が苦情を入れたところ、本件土地は被控訴人Iの所有であるから、T2がやっている通り、被控訴人Iも流水部分ぎりぎりまで工作物を設置して良い旨発言し、囲い込みを当然なものとして勧めている。(平成15年4月17日付被告準備書面3頁答弁の3参照)

 平成13年6月末頃、当時自治会監事と農事組合長であったK1元被告は、控訴人森本の依頼で調査にやって来た市役所担当職員に対して、本件土地は被控訴人Iの所有であり、何ら不法占拠の事実はないとして、被控訴人Iの囲い込みを積極的に擁護している。(同上4頁答弁の5参照)

 また同じ頃に、本件土地の問題で控訴人森本が、当時農事組合顧問であったM氏に相談・調整のお願をしに行ったところ、M氏から一方的に、この件に関してこれ以上騒ぐなと怒鳴られている。(M調書14ないし16番)

 しかし、長年農事の役員を勤めてきた年配者であれば、本件土地は国有地としての畦畔部分であることぐらいは、誰でも知っていることなのである。それにもかかわらず、以上のような言動がなされたのは、T2氏の意を受けて、被控訴人Iによる本件土地の囲い込みを支援していたからに他ならないのである。(平成15年5月1日付求釈明の申立参照)

 ところで、当時の自治会役員や各種団体役員の顔ぶれは、自治会長がK2元被告であった他は、ほとんど次年度のものと変わらず(甲26平成13年度通常総会資料8・9頁、平成16年1月30日付証拠説明書参照)、また平成14年度からM氏が自治会長に選ばれたが、その手続き自体も、一部の者の意向に左右された不適切なものであったのである。(M調書25ないし29参照)

 以上のように、当時すでに、村内外の人的囲い込みは、ほぼ完了していたものと言えるのである。

 更に、平成14年9月10日付けで、当時自治会長となられていたM氏に、問題となっている現公図の修正と国有地払い下げとを、自治会主導の下で併せて進めることを控訴人森本が提案したところ(丙2(乙2の3資料Cと同じ))、9月28日頃M氏が見えられ、「この文書を読んでK2が「何様のつもりだ」と反撥している。また、「勧告」の使い方も間違っているから、素直にK2の所に行って謝れ」との話を入れて来たのである。

 この点に関して、平成15年4月5日付総会資料(丙9)1頁の1.(4)2.では、「指摘事項(本件土地の利用権のことであろう、控訴人森本註)の具体的根拠の説明を求めた」とされ、また証人尋問でもM氏は、「これは、私が一方的に、これはどういうことですかと原告に話に行ったものです」(M調書7・34番)と答えている。

 しかし、M氏は農事組合の役員を長年勤められ、しかも問題となっている本件土地からは30メートル程しか離れていない場所に生まれ育っていたのであるから(M調書11番)、常識からして、本件土地付近で村の人達が洗い場や通路として利用し(I調書14番)、また、両岸に泥が揚げられていたことも、そして代々森本が本件土地付近から本件私設用水路を通して水を引いていたことも、当然知っていたと言わねばならないのである。

 であるならば、同じ農事組合員として、具体的根拠(法的権利)を云々する以前の問題として、控訴人森本の主張にも道理があるぐらいのことは当然認識していたはずであり、従って、平成14年9月28日の話し合いの時点では、わざわざ利用権の「具体的根拠」の説明を求めるまでもなかったはずである。

 この丙9の「具体的根拠の説明を求めた」との部分は、平成15年1月の訴訟係属後、被控訴人IとK1・K2の両元被告が、担当弁護士との相談の上、控訴人森本には具体的根拠(法的権利)がないと判断したため、自身等にとって都合が良いように、後から強引に総会決議に合わせて挿入されたものなのである。(平成16年6月21日付原告準備書面第二、M調書30・31番参照)

 従って、以上のような総会資料並びに証人尋問での工作も、M氏個人が独自の判断でなしたものではなく、被控訴人I並びにK1・K2の両元被告を初めとした自治会主要役員等と、更には担当弁護士との、共謀の上でなされたものと考えるのが自然なのである。

 次に、平成15年4月5日の自治会総会において、丙9の決議案(2頁の4.(1)(2)(3)通りの決議がなされたのであるが、このような本件決議部分も、当時自治会長であったM氏、及び自治会主要役員であるK1・K2の両元被告、そして被控訴人I等が、共同して積極的に主導したからに他ならないのである。(M調書8・9・30ないし33番)

 その目的は、K2元自治会長に対する全面的支援を打ち出すことにより、K2元被告の行為を正当化した上で、同元被告に関連する訴訟費用・弁護士費用等の負担を自治会の負担とすることで、その負担に対する各自治会員の批判を、徒に裁判所に訴え出た控訴人森本に向けさせ、森本の家族を村八分にしようとしたものである。

 この件に関して、平成16年3月4日付けで、当自治会名義の準備書面が出され、その3頁目の「第2本件決議に関する被告N第3自治会の意見」で、「原告の訴えが被告K2個人であったとしても、同事件に関し、被告N第3自治会は、多大な利害関係を有しているから」「自治会として積極的に支援していくのは当然であって、その旨の決議をしたとしても何ら違法ではない」との主張がなされている。

 しかし、何故論理必然的に「支援」が「当然」であり、「違法ではない」という結論に至るのか。

 K2元自治会長が当自治会の目的の範囲内とは到底考えられない行為により、第三者だけでなく有形的・無形的に当自治会にも損害を与えたような場合には、自治会が有することになるその「多大な利害関係」は、もっぱらK2元被告に対する責任追及という形で現れるのが通常である。そして、そのような行為が犯罪行為や違法行為であったとするなら、それを一方的に支援する総会決議は公序良俗違反(民法90条)として、当然無効と言わねばならないのである。

 しかるに、そのような自明の理を意図的に無視し、上記「自治会の意見」で展開されているような理屈が、当自治会で当然のものとして通用しているのは、T2氏の意を受けた当自治会主要役員等が共同して、T2氏が被控訴人I等に持ちかけた地面詐欺行為を、力ずくでも隠蔽しようとしていたからに他ならないのである。

 当自治会主要役員等、並びに市の幹部職員等、更には政治家までをも取り込みながら、それらの強い政治的支配力によって、当山城地区の良心的な声は圧殺されてきたのである。

 次に、上記自治会準備書面2頁の8番で、「Mは上記段階で、被告Iの土地の問題は、被告N第3自治会の問題である旨受けとめた」とし、また証人尋問でも、「原告が被告自治会に要望したから、その要望を受け止めることを問題とした」(M調書22番)とするが、そうであるなら、何故控訴人森本だけでなく(丙9総会資料1.(4)2.参照)被控訴人I・T2・T3の各氏、更には地面詐欺の当の被害者であるT1氏の主張をも、それぞれ平等に聞き、紛争処理に努めなかったのか。

 また「公図の修正、個人への国有地払い下げについて国への働きかけは、個人の利害関係に関係し、自治会の活動領域ではなく、対応が難しい」(丙9総会資料の1.(2)(2)参照)としながらも、なぜ上記準備書面8番並びにM調書7番では「自治会の問題である」とするに至ったのか。

 それは、一部の者の利益のために、自治会が運営されているからに他ならないのである。(甲26、平成16年1月30日付証拠説明書参照)

 ところで、被控訴人I・K1・K2の三者は、元被告同士という関係だけではなく、上記のような支援関係を持ち、更に平成14年頃から同じ無尽仲間だったと言うのだから(K2調書28番)、平成15年1月から4月5日の総会決議までの間に、当自治会の主要役員であるK1とK2の両元被告は、本件決議部分の決議を主導するにつき(M調書30乃至33)、被控訴人Iと共謀関係にあったと考えるのが自然である。

 この点、本件決議に対する被控訴人Iの共謀関係を認めなかった原判決は、失当である。

 

(二) 本件決議に際しての名誉毀損行為に対する共謀関係

 平成15年4月5日の自治会総会当日に配布された丙9(乙2の2と同じ)の総会資料に、その原案である丙8の3(3月21日説明資料)にはない名誉毀損箇所が挿入されている。

 すなわち、「問題解決に当たって森本氏は文書等による一方的な要求で、対話による趣旨・目的の説明、相談・協力の依頼は皆無」「文書送付のみで対話による相談方策を介在せず、直接訴訟で課題解決を図った」との部分である。

 この部分は、3月21日の組長会議において出された総会決議案(丙8の2・3)を、その後数人で修正したものであるとの証言がM氏からなされている。(M調書34・35番)

 ところで平成15年8月1日付K2陳述書(乙2の1)でも、同じ表現で、控訴人森本の名誉を毀損している。

 すなわち、「原告森本は今回の訴訟を起こすまで、唯の一度も自治会、又自治会長に対して要望・相談等は一切なく」「原告森本は今迄誰一人として相談する事もなく身勝手な思いこみだけで訴訟に持ち込んだ」との部分である。

 そして、それらの部分は、同陳述書2頁上から4行目以降の控訴人森本とK2元被告が話し合いの場を持っている部分の記述と、一般人を基準とするなら、明らかに矛盾するものなのである。

 であるのに、被告尋問でK2は、その論理矛盾した陳述書を、自らの記憶に基づいて自らワープロで書いたと供述しているのである。(K2調書27番)

 しかし、通常の精神の持ち主が自らの記憶を辿るだけであるなら、裁判所に提出する文書に敢えて誤解を生じさせるような書き方はしないはずであろう。

 更にK2は、同時に被告尋問で、「この陳述書は、担当弁護士事務所でチェックを受け、その担当弁護士事務所を通して、担当裁判所に提出した」とも供述している。(K2調書21番)

 ところで、担当弁護士は、本訴訟の答弁書を作成し、その中の「第2請求の原因に対する答弁」の4で、「原告及び森本春代が被告K2宅を訪れ」K2元被告と話し合いの機会を持った事実を、当然把握していたはずなのである。

 それにも拘らず、その不自然なK2陳述書をチェックした上で、それを敢えて裁判所に提出しているのは、当該名誉毀損箇所の挿入に、担当弁護士が積極的に関わっていたからであろう。

 とすれば、総会決議に際しても、K2陳述書とほぼ同じ表現で、名誉毀損行為に及んでいる事実(丙9)と、その名誉毀損箇所の挿入にK2元被告が関与していた疑いが強いことから(M調書31・35番)、その総会決議に際しての名誉毀損行為に対しても、当時既に本事件を担当していた弁護士の関与が強く疑われるのである。

 また被控訴人Iも、乙1の1及び乙7の1の陳述書の中で、強引に事実をねじ曲げ、敢えて自己矛盾を犯しながら、暴行傷害事件のでっち上げを執拗かつ強引に図ってきている。(平成16年4月21付原告準備書面参照)

 このように、同じ手口で控訴人森本の名誉を毀損しようとし、その上おまけに自ら自己矛盾を犯していることさえ、あまり良く自覚されていないようなのであるが(乙7の1、K2調書19番、M調書34乃至38番参照)、それは、取りも直さず、担当弁護士が背後で指揮し、被告であったI・K1・K2の三者を初めとした関係者が、思考停止のまま共同して、総会決議を導き、名誉毀損行為・脅迫行為等に及んだからに他ならないのである。

 更に、原審で元被告等を代理した担当弁護士の事務所が、元被告等並びに地面詐欺に関与した関係者の背後で、原告森本に対して名誉毀損行為・脅迫行為を指揮したと疑われる事例は、この他にもあるのである。(甲28「T3通告書」)

 以上から、本件決議に際しての名誉毀損行為に対する共謀関係は、担当弁護士の統括・指揮の下、被控訴人Iにもあったと言えるのである。

 その点、それを認めない原判決は失当である。

 

(三) 「認識と見解」と名誉毀損

 刑法230条の「事実の摘示」とは、人の社会的評価を害するに足りる一定の具体的事実の存在を示すものと解される。

 であるなら、体験したものとして表示される場合だけでなく、他の事実から推測した結論としての判断・認識・見解として表示される場合や、伝聞・噂として表示される場合にも、事実の摘示があったと考えるのが相当である。

 すなわち、その情報に触れる者をして、その判断・認識・見解・伝聞・噂等の内容となっている事実が、どの程度かにおいて実在するという印象を与える場合には、充分人の社会的評価を害することになるからである。

 従って、真実性の証明(刑法230条の2)の対象は、その判断・認識・見解・伝聞・噂等の内容となっている事実でなければならない。

 ところで、本件決議に際して「問題解決に当たって森本氏は文書等による一方的な要求で、対話による趣旨・目的の説明、相談・協力の依頼は皆無」「文書送付のみで対話による相談方策を介在せず、直接訴訟で課題解決を図った」との部分が挿入された総会資料(丙9)が配布されたが、その部分が「認識・見解」であったとしても、それは、その内容となる事実がどの程度かにおいて実在するという印象を与え、何も知らない一般自治会員がその情報に触れれば、正に控訴人森本は非常識極まりない人物として見做すようになるため、控訴人の社会的評価を充分害する性質のものであることは明らかである。

 とすれば、その部分が挿入された総会資料を配布することは「事実の摘示」といえ、その「認識・見解」の内容となる事実が真実であることを、被控訴人I等が証明しなければならないところ、上記10(一)(二)で述べた通り、その部分が真実であると信じるにつき正当な理由が、被控訴人I等にあったとは到底考えられないのである。

 この点、「認識と見解」を理由に、不法行為は成立しないとして一刀両断に切り捨てる原判決は失当である。

 

11 原判決12頁(2)4.について

 

 原判決は、「被告Iは陳述書においてその認識と見解を示したものであり」「上記認定事実及び弁論の全趣旨に照らすと正当な訴訟活動の範囲内を逸脱するものとはいえず」「本訴においてそれらを書証として提出することが地域住民に流布したものとは認め難い」とする。

 以下その判断の不当性を順次指摘する。

 

(一) 「認識と見解」に関しては、上記10(三)で述べた通りであり、認識と見解であったとしても、その情報に触れる者をして、認識・見解の内容となっている事実がどの程度かにおいて実在するという印象を与え、充分人の社会的評価を害することになる場合には、「事実の摘示」があったとすべきである。

 ところで、被控訴人Iの陳述書で問題となっている部分は、平成15年9月4日付け陳述書(乙1の1)2頁後半部分「鍵を返さなきゃー駄目じゃねーかー!」以降、「腹立たしさを覚え「まだ2日しか借りていないだろう!」と応襲して表に出たところ既に森本は両手をグーに丸め、ボクシングの戦いのような格好で私に近づき、私の胸をそのグーで小突いたのでした」という部分である。

 そしてそれに合わせて、平成15年9月9日に乙6(診断書)が裁判所に提出され、暴行傷害事件のでっち上げが図られたものである。

 そこで控訴人森本は、平成15年9月11日付原告準備書面二4で、疑問点を挙げ、更に平成16年1月14日付で文書送付嘱託の申立書を提出して、そのでっち上げの事実を立証しようとしたのであるが、平成16年2月4日での被控訴人Iの被告尋問において、「病院ではなんともないと言ってくれました」(I調書22番)と自白し、更には、鍵は自身の家の玄関口で手渡したとして(I調書19・60・61番)、I自らが、上記問題部分とは矛盾する供述をしたのである。

 更に、控訴人森本はその場で、暴行傷害事件のでっち上げにつき幾つかの矛盾する点も指摘している。(I調書54・62・63番)

 そのIに対する被告尋問の後で、控訴人森本は、平成16年3月3日付準備書面二5で、被告尋問当日での被控訴人Iによる「胸をそのグーで小突かれたことによって、肋骨が折れたと思うほどの痛みを覚えた」との供述に対して、それでは何故その時点で病院に行かなかったのかと、疑問点を述べたところ、その疑問に対して被控訴人Iから平成16年4月19日に提出されたのが、乙7の1(陳述書)と乙7の2(気象状況)だったのである。

 その陳述書で被控訴人Iは、「平成13年1月27日以降において原告森本が暴力を振るい、グーで突かれた胸の痛みが取れないため、2月13日に病院に行った」との内容の事実を、主張し出したのである。

 それは、暴行傷害があったとされる時期をできるだけ遅らせて、乙6の診断日(2月13日)に近づけるために、乙7の2を使ってこじつけたものであるが、そもそも被控訴人は、答弁書の第2請求の原因に対する答弁の3で、明らかに、問題となっている暴行傷害があったとされる時期を、「平成13年1月11日ころ」と特定しているのである。それを全く無視し、その時期を、できるだけ乙6の診断日に近づけようとする強引かつ執拗な努力は、正にでっち上げ以外の何ものでもないのである。(平成16年4月21日原告準備書面参照)

 ところで、以上の乙1の1及び乙7の1の陳述書で問題となっている箇所は、決して「認識と見解」と言えるようなものではなく、自らが体験したとされる事実の表示であり、原告の社会的評価を著しく害する性質のものである。

 その点についても、原判決の判断は失当であると言わねばならない。

 

(二) 原判決は「正当な訴訟活動の範囲を逸脱するものとはいえず」と言うが、以上のように、被控訴人Iは、控訴人森本を暴行傷害事件の犯罪者に仕立て上げるために、乙1の1(陳述書)、乙6(診断書)、更には乙7の1(陳述書)を提出し、被控訴人I自身が体験したとされる事実を、理由がないことを知りながら、敢えて執拗に摘示してきたものである。

 そして、そのでっち上げが見事成功した暁には、告訴の恐れも充分あったのであれば(平成15年4月17日被告準備書面4頁「原告の平成15年2月12日付準備書面に対する答弁」の2※部分参照)、そのような行為が、どうして正当な訴訟活動の範囲内のものと言えるのか、原判決の挙げる「弁論の全趣旨」を強く疑うものである。

 

(三)  原判決は、陳述書を「書証としての提出」するだけでは「流布」とは言えないとする。

 しかし、「公然」とは、不特定または多数人が認識することができる状態を言うものと解され、更に特定少数に対する事実の摘示であっても、不特定多数の者が知り得る可能性がある場合には、公然性が認められるのである。(最高裁昭和34年5月7日第一小法廷判決)

 であるならば、被控訴人Iが、問題となっているでっち上げ部分を含んだ陳述書を裁判所に提出することにより、その部分が、誰でも傍聴できる公開の、多い時には50〜60人程が詰めかけていた法廷で、取り上げられ尋問を受けることになったのであるから、その時点で、公然性は認められるべきである。(12月4日森本調書31・32番、I調書19ないし22番参照)

 また、たとえ傍聴人がたまたま特定の少数者であったとしても、上記の通り自治会の主要役員等が被控訴人Iに全面的な支援関係を有していたのであれば、そのでっち上げられた事実が村内外の住人に伝播する可能性は、充分あったと言わなければならないのである。

 したがって、陳述書が提出され、問題箇所が法廷で不特定または多数人が認識し得る状態で取り上げられた時点において、初めて公然性が認められるものと解されるので、ここにおいて控訴人森本は、当初名誉毀損の既遂時期を陳述書を担当裁判所に提出した時に求めていたが、これを撤回するものである。

 この点に関して、もし原判決が、公然性が認められるには、現実に「地域住民に流布」することまで求めているとしたら、失当である。

 

 以上の通り、原判決の事実認定並びに法令の解釈には、数多くの誤りがあるので、甲事件原判決中、Iに関する部分は取り消されるべきである。

 

 

以上


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