一厘の仕組(地域編)

国有地囲い込み事件経過報告その6

森本 優(2003/09/12、9/26)

 


(次回期日 平成15年9月12日午前10時00分)

平成14年(ワ)第××号 妨害排除・原状回復並びに損害賠償請求事件

 

原告 森本優

被告 I・K1・K2

 

準 備 書 面

平成15年9月11日

××地方裁判所民事部イ係 御中

 

原告 森本 優

 

一、9月9日付け被告側準備書面に答える。

 

 第2に関して、原告は地役権の時効取得を主張しているわけではないので、もう一度、4月17日付け原告準備書面を御覧いただきたい。

 

二、9月4日付け被告Iの陳述書に反論を加える。

 

1ページ第3段落目に記載されている赤い木の杭が打ち込まれた位置について、地籍調査時には既に河川工事が終わっており、河川の現況も現公図通りになっていたはずなのであるから、お手製の図面ではなく現公図でその位置を示して頂きたい。

 

1ページ第6段落目で、当該紛争地を地籍調査の時に購入したと発言したことを否定していることについて、平成15年1月6日付け訴状補充書の請求の原因第1項第1段で、「被告Iは当該紛争地を購入したと主張しているが(甲9参照)」との原告の陳述に対して、4月17日付け被告側準備書面では「被告Iが本件の土地を購入したことは認める」として裁判上の自白をしている。そして、甲9では初段に「十数年前の地籍調査の時に購入したとの返事」の記載もある。

 ところで、昭和56年マイラー図面8−3図(甲23)には、927番地(当該紛争地の対岸土地)と同8−7図(甲1)の840番地との間に流れている川の流水部分(青)が明確に記載されている。従って、8−7図(甲1)上部の840に接して引かれている帯状のスペースは、流水部分ではなく畦畔(泥揚げ部分)であることは明らかであり、840が分筆され840−2が被告Iに売られた時点では、公共用地としての泥揚げ部分は依然として被告I側の土地に沿って存在していたことが分かる。

 では、泥揚げ部分としての当該紛争地をいつ購入したと言うのか。

 840−2の不動産登記簿(乙5の2)を見ると、昭和54年1月13日に840から分筆され、昭和56年2月27日に地目が変更され、昭和60年前後の地籍調査による座標値を基準にして測り直された新たな地積が、錯誤という原因で昭和63年8月3日付けで登記されている。

 そして地積を見ると、地籍調査前の宅地となった840−2の地積は330.60平米であり、地籍調査後の地積は354.32平米となり、約24平米の増加となっている。昭和56年の測量技術と昭和60年前後のそれとの差はほとんど無いと考えれば、840−2に接する元からの泥揚げ部分と新しく埋め立てられできていた泥揚げ部分との総和にそれはほぼ匹敵する。

 そして、この増加面積に対応する幾許かの金銭のやり取りがあってもおかしくはなく、やはり、前々から被告Iが主張していたとうり、地籍調査の時に、この増加部分即ち840−2に接する泥揚げ部分を買ったと考えるのが自然なのである。それも、国有地払い下げの形ではなく、座標値をずらしてもらうという形で。

 

2ページ第2段落目の、柵3メートル消滅の件について、柵の素材は鉄のパイプで取り付け工事は軽易なものであったので(甲15、開示しない理由の2.)、取り外しも容易にできたであろう。撤去の必要性は、転落防止用のこの柵の存在が畦畔(泥揚げ部分)の存在を証明していたから。

 

2ページ3段落目の、平成13年1月11日前後の喧嘩の件について、簡単に事件をでっち上げないで頂きたい。

 平成15年2月5日付け原告準備書面で述べたとうり、被告Iが取水板二枚を取水口内に投げ込んだのを認めたので、口論となり、被告Iが拳を振り上げてきたので、それを避けるためとっさに身を屈め、それと同時に相手の上腕部を軽く手で押したもので、正当防衛である。(因に、被告Iの鉄拳は、原告森本の左耳を強くこすっている。) そして被告I自身が認めているとうり、原告森本が押したから転んだのではなく、気持ちが動転していたから不覚にもその場に転んでしまったものである。

 ところで、その揉み合いから1ケ月以上も経った時点での診断書(乙6)が、平成15年9月8日付けで発行されている。その内容も、H13年2月13日胸部痛と咳嗽のために胸部レントゲン撮影を受けたというもの。

 いかなる理由で、しかもこの訴訟遂行において一番重要な時期に、このような書証が提出されるに至ったのか理解に苦しむ。

 

3ページ第1段落目3行目の、戦前に830番地の地主も米作りのため当該紛争地に接する取水口から水を引いていたという件について、明治時代の和紙の公図(甲24)及び平成15年3月24日付け原告準備書面の添付書類でもある「昭和30年代の引水・排水経路図」(甲25の7)で示されているとうり(和紙の公図では取水口から825を経て816までの青い部分、昭和30年代の引水・排水経路図では、取水口から825までと、825から816までの枝番号がない青い部分)、上記部分は、現在森本が所有するに至った田に水を引くために設けられた私設の用水路である。

 そして、830の田にまで用水路が引かれた形跡はない。もし戦前まで830の田に同じ取水口から水が引かれていたのが事実であるとしたら、それは、当該私設用水路から引かれた水が815の田に一度落ち、更にその水を、森本の先祖が村落共同体の相互扶助の精神から、830の田に落として上げていたとしか考えられない。

 しかしいずれにせよ、地役権は排他独占的な権利ではないので、水を引きまた川を利用するために、複数人の権利者がその承役地を利用しても構わず、また、830の土地は戦後間もなく畑となり引水の事実もなくなっているので、被告Iが指摘する事実は、本件に関しては何ら影響を与えるものではない。

 ところで、814−2・3、809−2・3、810−2は、昭和60年頃に分筆され道路拡張のために市に提供されて、その部分に新たな用水路が設置されるに至ったものであり、前からあったものではない(甲24・甲25の7参照)。

 その点につき、被告Iお手製の図面(乙1の2)では、以前から用水路になっていたかのように記載されているが、訂正をお願いする。

 

3ページ2段落目前半部分の822−2の引水箇所の件について、原告森本はこの箇所から引水してはいない。昭和30年代の引水・排水経路図で示したとうり排水しかしていない。甲25の1〜7(写真とそのアングル)で示すとうり、当該箇所には引水のための板を張る設備が無く、また側溝壁面に開けられた穴が川底に近いところにある一方、圃場側の土管はある程度高い位置に取り付けられている。さらには、当該箇所の上には20年程前から無花果の木が植えられている。誰が見ても、引水箇所とは思えない場所である。

 

3ページ2段落目後半部分で、「森本だけが農機具を洗っていた」という記述があるが、そのように表現した覚えは無い。公共用地としての畦畔(泥揚げ部分)は、地域住民全員の利益のために供されるべきであり、たとえ都市化に伴いその泥揚げ部分を利用する住民が一人になったとしても、その利益は尊重されなくては困ると申し上げたい。

 

3ページ3段落目のマチ(取水板)の件について、原告森本は大きな取水板一枚を張って取水口から水を引いているわけではなく、十年以上も前から、5cmから10cm程の幅の廃材を何段かに積み上げて水を引いていた。

 被告Iが指摘するとうり、ここ二、三年間、一番底にある板がそのまま引き上げられることなく放置されてしまったことは確かである。しかしそれは、ここ数年間土砂が揚げられなかったため、15cm程に堆積した土砂の中にその板が埋もれてしまい、すっかりその存在を確認できなかったからである(甲21の8〜11参照)。

 ところで、甲21の1〜5で示したとうり、取水板が張っていない所(特に4)でも毎年、これだけの量の土砂が揚がるのであってみれば、被告Iが主張する程、底にあったその板が土砂を溜めるのに威力を発揮したとは考えにくい。

 また、「このマチは川の砂が流れてしまわないように張っておくのだから、勝手にいじるな!」と、原告森本が言った覚えもない。

 過去に何度も、引水中、雨の降らない通常の天気であるにも拘らず取水板を払われたことがあり、その件で、母が無闇に払わないよう被告I宅にお願いに行ったことはあるが(人伝によれば、排水口が低く、高く取水板を張れば川の水が逆流してくるのだろうとのこと)、深く砂を溜めるために取水板を張っているなどとは通常誰も考えてはいない。

 平成15年6月4日付けで、当該紛争地に沿って流れている河川に相当量の土砂が溜っていることの検証の申し立てを裁判所に提出したところ、その翌朝に、土砂が道路から4〜5m程きれいに下流に流されてしまったのを発見したが(平成15年6月13日付け証拠説明書の甲21の12参照)、もしその土砂を流し証拠を隠滅しようとした者がいて、その土砂を下流に流すにつけ高く張られた原告森本の取水板が邪魔になっていたのなら、その土砂を流し証拠を隠滅しようとしたその本人こそが、この取水板は証拠としての土砂を溜めるために張っているのだろうといった妄想に、囚われたということはあったのかもしれない。

 ところで、その朝、原告森本は引水量を調整するために取水口に赴き、土砂がきれいに流されているのを発見するのと同時に、川底にそれまで確認できないまま忘れ去られていた黒づみ朽ちた板(5cm前後の幅のもの)をも発見し、もう使い用が無いほど朽ちてしまっていたので、川底から引き上げ持ち帰った。

 しかし、川底に埋もれ原告森本でさえその時まで確認することができずそのままになっていたその板の存在を、今回陳述書で指摘してきた被告Iは、一体どの様にしてそのことを知るに至ったのか疑問は残る。

 最後に、当該紛争地を泥揚げ部分として空けて頂けるなら、私としても自治会任せにはできないので、森本個人で泥揚げをするつもりである。因に、南西方向にある田に面した側溝約90mは、5〜6年程前から全て森本個人が一人で泥を揚げている。

 

三、8月1日付け被告K2の陳述書及び7月20日付け被告K1の陳述書に反論を加える。

 

 平成15年4月17日付け被告側準備書面において、被告K2は、平成13年1月11日頃、原告森本及び被告Iの面前で、当該紛争地は被告Iの所有地であるから岸ギリギリまで工作物を設置してよい旨発言したことを認めている。(「「訴状補充書」に対する答弁」の3参照)

 また、被告K1は、平成13年6月27日に調査に来た××市役所担当職員に対して、当該紛争地は被告Iの所有地であり、何ら不法占拠の事実はないとして被告Iの囲い込みを積極的に擁護した事実を認めている。(同5参照)

 しかるに、今回の陳述書ではそれらの陳述を撤回しているが、どういうおつもりか。

 原告森本が敢えて提訴に至ったのは、自治会内の話し合いでは、有ったことを無かったことに、無かったことを有ったことに、また黒を白に、白を黒にと、さまざまに事実をねじ曲げられてきたことに対して、見切りを付けたからに外ならない。

 その当自治会の方式なり「常識」を、裁判にまで持ち込めるとお考えであれば、少し見当違いではないのか。

 また、被告K2は陳述書の1ページ4行目で、原告森本が「唯の一度も自治会、また自治会長に対して要望、相談等は一切なく」と述べながら、2ページ7行目以降で原告森本の言い分を聞いている部分があるが、これは論理矛盾なのではないのか。

 そこで裁判上の自白は撤回できないことをもう一度自覚して頂き、再度5月1日付けで原告が出した求釈明の申立事項につき両被告に説明を再度求める。

 「いつ、いかなる経緯の下で、当該紛争地が被告Iの所有地になったことを知るに至ったのか。」

 

以上

 


(次回期日 平成15年10月16日午後2時00分)

平成14年(ワ)第××号 妨害排除・原状回復並びに損害賠償請求事件

 

原告 森本優

被告 I・K1・K2

 

準 備 書 面

平成15年9月25日

××地方裁判所民事部イ係 御中

 

原告 森本 優

 

 

 9月9日付け被告側準備書面で質問を受けた地役権の取得につき以下のとうり答える。

 

 明治20年頃、当該紛争地(国有地)を承役地とした引水地役権が、825の田を初めとする要役地の所有者と明治政府との間で、暗黙の意思表示の形で設定されるに至ったものである。

 

 確かに引水地役権の時効取得も考えられるが、今の判例理論では要役地の所有者等自らが承役地に水路を開設したことが「継続且表現」の要件となっており、原告がそのことを立証せねばならない。しかし、大昔に水路が開設された所では、いつ誰が開設したかを立証することは事実上不可能である。

 そこで原告森本は、9月9日付け被告側準備書面の第2で被告代理人が質問しているようには、引水地役権の時効取得を主張するつもりはない。(その件に関しては、4月17日付け原告準備書面で3月24日付け原告準備書面を訂正している。)

 ところで、水路が開設された時代に、引水のための何らかの権利が発生し、歴史上権力の交替が繰り返されるごとに、その権利は新しい権力によって承認されていったものと考えられる。

 そして直近では、明治維新により近代統一国家が樹立され体制が一新されたが、問題となっている地役権は、その新しい国家においても承認され、暗黙の意思表示の形で新国家と私人との間で新たに設定され直されたと考えるのが妥当である。

 すなわち、明治維新以降新国家は、近代資本主義体制を前提とした自由な所有の概念を確立し、江戸時代に存在した複雑な封建的物権的土地関係を整理・単純化したため、所有権の他には一定の種類の制限物権のみしか認めるに至らなかった。

 しかし、その法的保護が与えられることになった制限物権の一つとして、地役権は明治以降においても認められている。それは、土地の利用関係の調整という時代・体制を超えて問題となる事項をその内容として持っているからである。

 そのため、新国家と私人との間にその地役権としての法的保護に値する事実が存在し、かつ新国家がその事実を承認している事実が存在するのなら、特別の事情のない限り、新国家とその私人との間で、その事実に対応する地役権の設定行為が暗黙の意思表示の裡になされたと解するのが相当である。

 ところで、825を初めとする要役地としての田の所有者は、明治時代以前から当該紛争地に沿って流れる川から田に水を引いていたものと考えられ(甲24明治時代の和紙の公図参照)、新国家も、その公図(明治22年に調製されている)において私設用水路を明瞭に記載しているのであるから、その川からの引水行為の事実を積極的に公に承認したものと言える。

 であるならば、明治20年頃、暗黙の意思表示の形で、国と要役地の所有者との間で、引水のため、当該紛争地上に取水口付近の泥揚げに必要な範囲において(3月24日付け準備書面の添付書類「承役地詳細図」参照)、地役権が新たに設定され直されたものと言える。

 そして原告森本は、その地役権を承継取得したものである。

 

以上

 


 

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