パララックス・ビュー ★★☆
(The Parallax View)

1974 US
監督:アラン・J・パクラ
出演:ウオーレン・ビーティ、ヒューム・クローニン、ポーラ・プレンティス、ウイリアム・ダニエルズ



<一口プロット解説>
ある大統領候補の暗殺現場で取材していた女性アナウンサーが事件の真相に疑問を抱き、主人公ジョー・フレディ(ウォーレン・ビーティ)に相談に来るが、彼女もまた自殺に見せかけて殺される。不審に思った主人公は真相究明に乗り出すが、徐々に彼自身も陰謀に巻き込まれていく。
<入間洋のコメント>
 アラン・J・パクラと言えば、当時中学生であった小生の記憶にも鮮明に残っているあのウォーターゲート事件を題材とした「大統領の陰謀」(1976)で知られるが、「大統領の陰謀」の直前に製作された作品がこの「パララックス・ビュー」である。パララックス(parallax)という用語は、英語の書物を読んでいても滅多にお目にかかる用語ではないが、手元にある英和辞書をめくってみると、[天]視差、[写]パララックス(ファインダーとレンズの間の)と書かれている。「天」とは天文学のことであり、「写」とは写真のことであるから、限られた部門で使用される特殊用語のようである。昨今のカタカナにしたのみという洋画邦題の杜撰さには辟易させられるが、この「パララックス・ビュー」の場合は、語感自体にも不思議な魅惑があり、英語のカタカナ書き(但し定冠詞が省かれているがこれは仕方がなかろう)でも構わないと思わせる数少ない例の1つである。「パララックス・ビュー」は、次回作の「大統領の陰謀」を予言するような内容を持つ政治スリラーであるが、洗脳によって赤の他人を特定の信条に強引に従わせ殺人に関与させるというストーリー展開は、本書でも紹介したジョン・フランケンハイマーの「影なき狙撃者」(1962)を連想させる。但し、1960年代初頭に製作された「影なき狙撃者」とは異なり、「パララックス・ビュー」にはコミュニズムに対する言及はなく、パララックス社という得体の知れない巨大企業が諸悪の根源として登場する。1970年中頃と言えばアメリカではベトナム戦争敗戦やウォーターゲート事件などにより、コミュニズムがどうこう言うより以前に、国内の問題の方が憂慮すべき事態に陥っていた。そのような状況下で製作された当時の政治的なコノテーションの強いアメリカ映画には、コミュニズムに対する言及がほとんどないのはむしろ当然であると言えるだろう。その代わりに「パララックス・ビュー」や「ローラーボール」(1975)では巨大企業が、或いは「コンドル」(1975)や「大統領の陰謀」では政府官僚組織が批判のターゲットになっている。

 さて、それではタイトルにもあるパララックス(視差)とはこの映画の中では一体何を意味しているのだろうか。実はこの映画は、二重の意味で視差を扱った映画である。「パララックス・ビュー」では、主人公の新聞記者ジョー・フレディ(ウォーレン・ビーティ)が大統領候補暗殺に関連する政治的な陰謀に巻き込まれるというストーリーが展開されるが、我々オーディエンスを含めた部外者から見ると、この暗殺事件自体が実は本来の姿とは違うように巧妙に見せかけられているという点において、外部的な視点から見た視差が存在する。主人公が事件の捜査を開始するのは、暗殺された大統領候補をその時現場で取材していた女性アナウンサー(ポーラ・プレンティス)が自殺に見せかけて殺されてしまうからであり、要するに彼自身も最初はこの視差の外側にいたことになる。もう1つの視差として、事件に深入りしていく主人公が次第に彼らの陰謀に巻き込まれ、陰謀を追う立場の彼が知らず知らずの内に身代わりに仕立てられ、最後は陰謀を完成させる人物にされてしまうが、このように主人公の内面から見た視差が存在する。後者に関しては、更に詳細な説明が必要であり、次にそれについて述べよう。

 この映画のターニングポイントとなるシーン、すなわち主人公ジョー・フレディの内面に決定的な視差がクリエートされるのは、陰謀の本拠地であるパララックス社で彼が洗脳されるシーンにおいてである。このシーンで彼は、たとえば平和なのどかなシーンが撮影されたスライドの次に軍隊が撮影されたスライドを見せられたり、「Father」、「Me」、「Country」、「Love」などの感情領域を刺激する言葉がスーパーインポーズされた、ヌードや残虐なシーンを写したスライドが交互にすばやく置換されるスライドショーを見せられたりする。いわば人間の持つシンボル化能力の盲点をつく巧妙なトリックが彼の内面に施されるが、このような識域下操作(サブリミナルテクニック)は、日本ではどうか分からないが実は広告業界では実際に広く利用されていると言われるものであり、単なる絵空事ではない。シンボル化能力の盲点とは、シンボルの持つ多層性をうまく利用すると識域下で人間を操ることが実は可能であるということであり、広告業界などではそのような盲点を巧妙に利用する技術が実用化されている(広告業界におけるサブリミナルテクニックの利用実態については、ウイルソン・ブライアン・キイの著書等に詳しいので興味のある人はそちらを参照されたい)。まず、シンボルの持つ多層性とはどのような意味かを説明する必要があるが、それは次の通りである。シンボルとは記号の一種であり、記号として外面的に提示される形態がまず存在する。たとえば平和ならば「へいわ」という語の並びや発音であり、或いはたとえば鳩のマークのようなイメージでも良いだろう。またそれとは別に、平和という言葉が指し示す具体的な意味内容がある。それ以外にも、平和という用語が繰り返し使用されてきた歴史過程を通して蓄積されたエモーショナルな価値価がある。巧妙な操作とは、たとえばシンボルの持つ外面的提示形態と歴史的に蓄積されてきたエモーショナルな価値価は変更せずに意味内容のみを巧妙にずらしていくと、ある言葉が最初に内包していた意味内容とは異なる意味内容を、最初の意味内容が持っていたエモーショナルな価値価と連合させることが可能であるという点を利用する。たとえば、「father」という語には本来父親という意味があり、父親というイメージに対するエモーショナルな価値価が歴史を通じて蓄積されるが、それまで蓄積されたエモーショナルな価値価を保ったまま「father」という語が指し示す意味内容を少しずつ拡大することによって、祖国であるとか極端な例であれば独裁者までをも父親が持つイメージと連合出来る。これは言葉でなくとも、この映画で利用されているスライドショーのようなイメージが利用されてもよく、意味内容とその表現形態が言葉よりも流動的であるイメージの方が一層効果的であるかもしれない。すなわち、一言で言えばそのような操作により人間の内面に視差がクリエートされることになる。

 勿論、この映画のようにたった一回のスライドショーを見せただけで、実際にそれだけの効果が得られるはずはなかろうが、それはさておきこの洗脳シーンが象徴的に物語っていることは、人間の有するシンボル化能力に基づく意味構成プロセスを巧妙に操作することによって人間の内面に視差をクリエート出来るということである。ここで重要なことは、本人は視差が自分の内面にクリエートされたことに気がつかないことである。何故ならば、本人は新たにクリエートされた視差自体を通して世界を見ざるを得ないからである。広告業界で利用されているサブリミナルテクニックで最も重要な点は、サブリミナルテクニックが用いられているという事実に気付かれてはならないということだそうだが、それが意味することは、サブリミナルテクニックの存在に気付かれない間は、本人は人工的に自分の内面にクリエートされた視差が、自分の本当の見方であると信じているということである。心理学の実験に、ある人を催眠術にかけてその人が生まれてこの方一度も使ったことのないような言葉をある状況下で発するように無意識の内に命令しておくと、実際そのような状況下に置かれると、被験者は本当に命令された通りにその言葉を発してしまうという実験がある。この実験のポイントは、そのような言葉を本当に発してしまうことにあるのではなく、本人は完全に自分の意志でその言葉を発したと思ってその言葉を使用した理由を必死に後から説明しようとする点にある。すなわち、自分の内面に生成された視差に本人は気付くことなく、その視差を自己の見方と同一視していることになる。

 「パララックス・ビュー」では、主人公自身が最後には自分自身を暗殺者の身代わりの位置に置くが、この時自分の行動に疑問をさしはさんでいるのでは決してなく、内面に据え付けられた視差を通して世界を見ている。「影なき狙撃者」もそうだが、この手の映画を見ていると改めて自己のアイデンティティとは何ぞやという哲学的省察に導かれるが、それについては古代から連綿と続いてきた哲学によってすら絶対的な回答が与えられているわけではないので、ここで深入りはしない。1つだけ言えることは、東西冷戦、1960年代後半のカウンターカルチャー運動、ベトナム戦争敗戦、ウォーターゲート事件等を経て、「十二人の怒れる男」(1957)のレビューでも言及したかつての自信に充ち溢れたアメリカというイメージが崩れアイデンティティの危機が取り沙汰されてきた歴史的推移と、「パララックス・ビュー」を始めとする1970年代中頃のアメリカ映画によって語られるストーリー展開との間にパラレルな関係を読み取ることが可能であるということである。すなわち、アメリカのアイデンティティクライシスとでも呼べるような状況をそこから読み取ることが十分可能であるということである。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

2000/06/16 by 雷小僧
(2008/10/18 revised by Hiroshi Iruma)
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