10億ドルの頭脳 ★★☆
(Billion Dollar Brain)

1967 UK
監督:ケン・ラッセル
出演:マイケル・ケイン、フランソワーズ・ドルレアック、カール・マルデン、エド・ベグリー

左:マイケル・ケイン、右:フランソワーズ・ドルレアック

この作品は、「パーマーの危機脱出」(1966)で取り上げたスパイもの映画ハリー・パーマーシリーズの第3作目です。このシリーズのプロデューサーはかのボンドシリーズのハリー・サルツマンであるにもかかわらず(というよりも、ボンドシリーズを製作する以前は「怒りを込めて振り返れ」(1959)や「The Entertainer」(1960)のようないかにもイギリス的な作品を手がけていたサルツマンにとっては、食傷気味のボンドシリーズ製作に対する一種の補償作用の故にとでも言うべきか)、パーマーシリーズ作品ではボンド的なショーマンシップとは正反対のひなびた雰囲気が醸し出されていたことは「パーマーの危機脱出」のレビューで述べました。では3作目の「10億ドルの頭脳」はどうかというと、フィンランドのヘルシンキを舞台とした前半にはそのような傾向が継続されているのを見出すことができますが、後半になるにつれてストーリーがどんどん誇大妄想化していき、ラストは完全なボンドシリーズの世界であるとすら思えるような展開になります。この作品の興味深さの1つは、シンプルな前半からボンド的にド派手な後半への継続的なクレッシェンドにありますが、それについて順を追って見てみましょう。まずスパイ稼業から足を洗って私立探偵になったマイケル・ケイン演ずるハリー・パーマーの安アパートにかつての上司がやって来る前半立ち上がりのシーンは、たとえば「動く標的」(1966)でのポール・ニューマン演ずるルー・ハーパー、「ロング・グッドバイ」(1973)でのエリオット・グールド演ずるフィリップ・マーロー、或いは「さらば愛しき女よ」(1975)でのロバート・ミッチャム演ずるフィリップ・マーローの姿によって描かれるわびしい一人暮らしを思わせ、いわばこの手の私立探偵ものの定石通りと言ってもよいかもしれません(勿論パーマーの本職はスパイであるわけですが)。殊にコーンフレークが散乱する様子が何とも言えない侘しさを湛えていて素晴らしい限りです。それが過ぎると、ヘルシンキを舞台としたメインストーリーに入っていきますが、ビューティフルな雪国フィンランドを背景とした前半の展開は、ボンドガールも裸足で逃げる大輪の花且つ薄幸の美女フランソワーズ・ドルレアックが登場するとはいえ、まだ前作「パーマーの危機脱出」が持っていた抑制の効いたひなびた味が失われてはいません。本筋には関係のない余談になりますが、私めはこの映画を見る度に気になることが1つあって、それは冒頭開始後パーマーがヘルシンキにやって来て電話ボックスで電話をかけようとするシーンについてです。何が気になるかというと、電話ボックスは路上に配置されているわけですが、それと路上を走行する路面電車との間隔が恐ろしく狭いことです。しかも、路面は雪で凍結しているわけです。つまり、下手をしてすってんころりんして、その時たまたま路面電車がやってくればたちまち悲惨な轢死体になってしまうということです。このシーンは間違いなく現地ロケでしょうから、フィンランドではそのような危険な位置に実際に電話ボックスが設置されていたということであり、これは日本でならばまず考えられないでしょう。まあそれは良いとして、ところがパーマーが秘密組織に潜入する後半に入ると徐々にストーリーが、ボンド的にド派手な展開に移行します。何しろ、エド・ベグリー演ずるアメリカはテキサスの石油成金が(ということでイギリス映画であるにも関わらずタイトルが「10億ポンドの頭脳」ではなく「10億ドルの頭脳」なのですね)、誇大妄想的な愛国主義を全面に振りかざして私設軍隊でソビエトに侵攻しようとするという途方もないストーリーがそこでは展開されます。極めつけは、エド・ベグリーの私設軍隊がフィンランドから国境を侵犯してソビエトに攻め込むシーンで、ショスタコーヴィチの第7交響曲の第一楽章の壮大なクレッシェンドが流されていることです。この手の音楽に詳しい人はご存知のように、またこの作品中でもオスカー・ホモルカ演ずるソビエトの将軍(彼は「パーマーの危機脱出」にも登場したキャラクターであり、その意味でもシリーズの連続性が意識されていると言えるでしょう)がパーマーに説明しているように、この「レニングラード」という副題を持つショスタコーヴィチの第7交響曲は、レニングラードがナチスドイツの機甲師団によって包囲されていた時に、まさにその包囲下のレニングラードで初演された作品であり、レニングラード市民にとってはそのような記憶と密接に結び付いた作品だったのです。従って、オスカー・ホモルカ演ずるソビエトの将軍は目に涙を浮かべながらこの曲を聴いているわけです。またソビエト侵攻シーンで流されている第一楽章の小太鼓を伴ったマーチは、レニングラードに迫り来るナチスドイツの足音のメタファーなのです。ということはどういうことになるかというと、このテキサスの誇大妄想愛国者はアドルフ・ヒトラーに喩えられているということですね。この作品が製作された頃は、東西冷戦真っ盛りの頃であり、それを題材として、またそれを誇張歪曲した作品が数多く製作されていたことはこれまで何度も述べてきたことなのでここでは繰り返しません。また「駆逐艦ベッドフォード作戦」(1965)の中で「アメリカ映画の中でアメリカ側が第三次世界大戦のトリガーをかけるような展開になっている点は殊更興味深く、そこには一種のアメリカの自己混乱或いは自己不安のようなものが見え隠れしているようにも思われます」と書いたように、実は何故か東西冷戦を材料としたこの頃のアメリカ映画においてはアメリカ側がトリガーを仕掛けて世界の破局を迎えるという展開が数多く見られたわけですが、それにしてもアメリカの愛国者=アドルフ・ヒトラーという「10億ドルの頭脳」の図式はすさまじいと言わなければなりません。実はこの映画を見ていると何やら近年のブッシュ大統領やその取り巻きのネオコンと呼ばれる人々を・・・と書きかけましたが止めておきましょう。しかしながら、1つ注意する必要があるのは、「10億ドルの頭脳」はアメリカ映画ではなくイギリス映画であるということです。つまり、「駆逐艦ベッドフォード作戦」やそこで取り上げた「未知への飛行」(1964)等のアメリカ映画とは違った意味において「10億ドルの頭脳」は捉えられなければならないということであり、一言で言えばこの作品は壮大なるジョーク作品であるということです。しかも「博士の異常な愛情」(1964)のようなブラックジョークとも異なる真性なるジョークであるということです。というのもブラックジョークと言う時の「ブラック」とは、やはりどこかにシリアスさが含まれているから「ブラック」と言われるのであり、その意味においては「博士の異常な愛情」はその内容にも関わらず極めてシリアスな作品であったということができます。それに対して「10億ドルの頭脳」の誇大妄想的な展開にはシリアスさは全く含まれていないと言っても大きな間違いはないはずであり、ここには東西冷戦に対するシリアスな批判などは微塵も含まれてはいないと言っても過言ではないはずです。これはまさに東西冷戦下に製作されたスパイものでありながらソビエトの存在など影も形も存在しないボンドシリーズの特異性(これについて指摘されることはほとんどありませんが、少なくとも東西冷戦下当時にあってはボンドシリーズが極めて特異な存在であったことは強調されても良いように思われます)と一致するとも言え、大袈裟に言えばこのようなスタンスがイギリスの東西冷戦に対する一種の冷めたスタンスでもあったのだと言えるかもしれません。つまりアメリカは当事者として渦中に巻き込まれ自らの妄想を主観的な立場から大きくしかも捩れて膨らませていたのに対して、同じ西側に属していたとはいえイギリスはやや客観的に事態を眺めてそれを一種のジョークのように扱うことすらあったということです。イギリスから見れば他国であるとはいえ、アメリカの愛国者=アドルフ・ヒトラーなどという図式は、そのような立場を前提としなければ生まれ得ないと言っても良いでしょう。最初に「10億ドルの頭脳」を見た時、ビューティフルなフィンランドの光景(とフランソワーズ・ドルレアック?)をバックとした前半に関してはなかなか良いなと思ったのに対して後半は現代のアクション映画に負けず劣らず滅茶苦茶になるような印象がありましたが、このように考え直してみると後半についても実に馬鹿馬鹿しいが故に実に興味深いと思い直すようになりました。ということで、残念ながらこの映画が製作されて間もなく交通事故で亡くなってしまうフランソワーズ・ドルレアック(ご存知のように彼女はかのカトリーヌ・ドヌーブのお姉様であり、そのドヌーブですら彼女には羨望すら抱いていたようですね)の出演作は多くはないのでその意味でもこの作品は貴重であるということと、「オリエント急行殺人事件」(1974)の音楽も担当したクラシック系の映画音楽作曲家リチャード・ロドニー・ベネットの音楽が印象的であることを最後に付け加えておきます(因みに「オリエント急行殺人事件」のDVD音声解説によると、「オリエント急行殺人事件」の優雅な音楽を聴いたバーナード・ハーマンは烈火の如く怒って「違う、違う、この作品におけるオリエント急行とは死の列車なのだ」と叫んだそうですが、これはヒチコック映画の御用達作曲家であったハーマンの面目躍如とも言える言葉であると同時に、人によって物事の捉え方は大きく異なるということがよく分かるエピソードでもあります)。


2007/04/07 by Hiroshi Iruma
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