合衆国最後の日 ★★☆
(Twilight's Last Gleaming)

1977 US
監督:ロバート・アルドリッチ
出演:バート・ランカスター、チャールズ・ダーニング、リチャード・ウイドマーク、メルヴィン・ダグラス


<一口プロット解説>
核ミサイル基地に刑務所を脱走した男達が押し入り、ミサイル発射を脅迫のネタとしてベトナム戦争時の政府の醜聞にかかわる秘密文書の公開をアメリカ政府に要求する。
<入間洋のコメント>
 監督のロバート・アルドリッチは終始一貫して闘争とサバイバルをテーマとした作品を撮り続けた人であり、従って野郎同士の意地と意地ののぶつかり合いを描いた作品が多いことは映画ファンであればよくご存知のことであろうと思います。それは必ずしも動物学的に♂が主人公である場合に限った話ではなく、「何がジェーンに起こったか?」(1962)のように♀二人が主人公であった場合でも同じことが当て嵌まります。「傷だらけの挽歌」(1971)には、映画史上最強のオバちゃんギャングが登場しますが、このすさまじい女傑などは武闘派アルドリッチの面目躍如たるキャラクターだと言えるでしょう。このような彼の傾向が最も純粋に顕現した作品が「北国の帝王」(1973)であり、何故純粋であるかというと戦争やギャング同士の抗争などというようなそもそも闘争とサバイバルが表面化せざるを得ないようなテーマとは全く関係なく、田舎鉄道の貨車に浮浪者を無賃乗車させるかさせないかなどというような普通の監督さんであればとても映画作品にするとは思えないようなマテリアルを利用して野郎同士の意地の張合いがそこでは描かれているからです。彼の作品は初期のものと日本未公開映画のいくつかを除けば少なくとも一度はほぼ全て見たことがありますが、その意味では「北国の帝王」は面白いか否かは別の話として彼のフィルモグラフィーの頂点を為す作品であると個人的には考えています。その1970年代に製作された彼のもう1つの代表作とも言うべき作品がこの「合衆国最後の日」です(そうそうバート・レイノルズ主演の「ロンゲスト・ヤード」(1974)もありますが、実はこの作品個人的には劇場公開時に見て以来30年以上見ていないのですね)。バート・ランカスター演ずるかつての将校が、ミサイル基地を乗っ取っていわば世界の平和を人質にしてアメリカ政府がかつてベトナム戦争遂行の為にひた隠しにしていた機密書類を公表するように政府を脅迫するというストーリー展開は、やはりアルドリッチ一流の闘争とサバイバルテーマの変奏曲であると考えられます。何しろこの映画では、邦題にあるような合衆国ばかりではなく世界のサバイバルがかかっているのであり、またその根底にはバート・ランカスター演ずる一個人の意地によってそのような状況がクリエートされているからです。

 しかしながら、この作品が彼の他の多くの作品と異なる点はプロット解説からも分かるように政治的なコノテーションが多分に含まれていることであり、個人対個人或いは「飛べ!フェニックス」(1965)のように個人対個人ではなかったとしても基本的には複数の個人間でのサバイバルがテーマとなる極めてシンプルなテーマを持った作品とはかなり異なることです。その点では、又多少なりとも東西冷戦というシチュエーションが根底に存在するという点では、この作品は前回取り上げた「駆逐艦ベッドフォード作戦」(1965)や「未知への飛行」(1964)或いは「博士の異常な愛情」(1964)等の東西冷戦真っ盛りの1960年代に製作された映画に類似した点があるといえるかもしれません。また同じく一将校がアメリカ政府に対してクーデターを起こそうとする「5月の7日間」(1964)などは同様にバート・ランカスターが謀反を起こす将校を演じていることもあってか、この「合衆国最後の日」と非常に似ている印象が個人的にはあります(勿論ストーリー自体は全く違いますが)。面白いのは、前回取り上げた「駆逐艦ベッドフォード作戦」のレビューでも書いたように、これらの作品は東西冷戦が1つのテーマでありながら、憎きソビエトというようなメッセージが敷衍されることにはならず常にアメリカ側の混乱した様子が描かれている点であり、破局のトリガーは常に妄想に捉われたアメリカ側によってかけられている点です。その意味では、アメリカのとある島に住む島民達が、座礁したロシアの潜水艦の乗組員達が島に上陸するのを見てロシアが攻めてきたと勝手に思い込んで島中が大騒動になり、最後はすわ第三次世界大戦勃発かというような展開になる「アメリカ上陸作戦」(1966)などは、基本的にはコメディであることが意図されていながらも、と言うよりもコメディであることが意図されているからこそ当時のアメリカ側の混乱した状況が最も妄想的に反映された作品であると言えるように思われます。東西冷戦が状況的な下敷きとして存在しながら、実際にはソビエトがどうこう言うよりもアメリカ自体の持つ混乱した姿が描かれているという点では「合衆国最後の日」もそれらの1960年代の作品と似たような側面があります。しかし1970年代も後半に入って製作されたこの作品には、1960年代の作品にはなかった要素が反映されるようにもなります。それは、合衆国政府に対する内部批判的な側面であり、このような要素が極めて1970年代的であることは「コンドル」(1975)のレビュー或いは「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」の「批判のターゲットは政府官僚機構 《コンドル》」に書きました。それに対して1960年代の作品においてはアメリカの混乱が描かれてこそあれ、政府機関が批判の対象となることは極めて稀であり(それ稀な例の1つがマーロン・ブランド主演の「侵略」(1963)であることは「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」の「ベトナム戦争と同時多発テロ後の反米感情の高まりを予言? 《侵略》」に書いた通りです)
たとえば前述した「未知への飛行」でヘンリー・フォンダ演ずるアメリカ大統領がニューヨ−クに水爆を落とす決断をしても、そこにはアメリカ大統領や政府に対する批判的メッセージが込められているというわけでは全くありません。しかし1970年代の後半に製作された「合衆国最後の日」では、まさしくその基底に政府に対する不信というメッセージが強く込められていることが明らかです。ラストシーンで狙撃隊の流れ弾に当たった瀕死の大統領(チャールズ・ダーニング)が国務長官(メルヴィン・ダグラス)に政府の秘密書類を公開する約束を守ってくれるか訊きますが、国務長官はそれにYESともNOとも答えないのは象徴的であると言えるでしょう。それはオーディエンスの想像に任せるということなのでしょうが、瀕死の大統領の前で返答しないということはまあNOということなのでしょう。しかもその機密文書とはベトナム戦争に関するものであり、それに関する政府に対する国民の不信は現実世界でもパラレルな現象として存在したわけです。

 要するに、アメリカは建国の精神を忘れてしまったということがここでは大きな問題となっているわけですね。つまり、もともと合衆国憲法を起草したトマス・ジェファーソンらファウンディングファーザー達の頭にあった関心事の1つは、政府が強大な勢力を持ち過ぎることに対する警戒であったはずです。三権分立等の考え方はまさにそこから派生する原理であり、特定の機関があまりにも強大な権力を持ちすぎないようにすることを目的とした権力の分散がそこでは意図されています。また、合衆国憲法修正何条か忘れましたが、憲法によって銃を保持する権利が市民に認められている理由は、政府権力が抑圧的になる兆候が見られた時に備えて市民がそれを阻止する為の手段を所有することを認める点にあったということをどこかで聞きました(これはまあ鉄砲で政府を倒すなどという曲芸が不可能になった今となっては問題ばかりを生む結果となってしまったわけですが)。ここで考える必要があるのは、何故政府という1つの機関の持つ権力が強大になることが悪であると見なされるようになったかについてです。それは一言で言えば近代になって神様が死んでしまったからですね。つまり、権力が正当性を持つためのバックアップとなる根拠が消滅してしまったからであり、かつて王政が王権神授説によって神様のバックアップを得ていたのと同じように権力がその成立根拠を持つことが困難になったからです。要するに、権力はその本質において恣意的なのではないかということが近代に入って明確になってきたということです。では権力とはその本質において恣意的であるに過ぎないとするならば、その正当性の根拠はどこに求めればよいのかということになりますが、その回答は実は根拠はどこを探しても見つからないということです。従ってどのような考え方が発生してきたかというと、何が正当であるかを絶対的に決定することが不可能であるならば、一連の手続きの中で権力のバランスを計り常にダイナミックなチェックを適用しようとする考え方であり、ジョン・ロック、アダム・スミス等から始まって現在で言えばジョン・ロールズなどに至るまで西洋ではそのような考え方が幅広く流布してきたわけです。その例の1つが三権分立の原理であり、この原理は何が正しいかを判断する為の形而上学的な根拠を与えるものではなく、一連のプロセスの中で権力の均衡を計り恣意性が過剰に陥らないようにチェックする手続きを提供するのがその目的です。また同様なことは法的な領域のみではなく経済の領域にも当て嵌まり、価値そのものの絶対的な基準が存在しないのならば一連の仕組みの中で価値の均衡を維持しようとするのがアダム・スミス流の見えざる手の考え方であったわけです。F.A.ハイエクのような自由主義経済の旗手達が社会主義的な計画経済を批判する論点の1つは、まさしく恣意的な権力が一極集中する危険性に関するものでした。ファウンディングファーザー達が起草した憲法の背景には、ヨーロッパにおけるそのような思想が背景として存在していたわけであり、それがまた自由な国アメリカの成立根拠でもあったわけです。つまり逆説的ではありますが、自由が成立するには強大な権力を持つものによるわがままが許されてはならないということです。情報を一挙に独占し市民にはそれについて何も知らせない政府とはまさにそのようなアメリカ建国の精神に反するわけであり、ベトナム戦争の強引な遂行/敗戦やウォーターゲート事件を通じて建国精神と全く相容れなくなてしまった政府に対する不信が一挙に吹き出してきたのが70年代であったわけです。そのような時代的状況が色濃く反映されているのが前述した「コンドル」やこの作品であり、それ故一見娯楽作品に見えるようなこれらの作品の根底には当時の政治的意識(或いはフレドリック・ジェームソン流に言えば政治的無意識)が不可避的に宿っていることが忘れられるべきではないでしょう。

 それから1つ付け加えておきたいことは、この作品では分割画面が実に巧みに利用されていることです。時には何故分割画面を採用するのか分からないようなケースで分割画面が採用されている作品もありますが、この作品を見ているとどのようなケースで分割画面が採用されるべきかがおぼろげながら分かったような気になります。電話シーンが古典的且つ典型的な分割画面の使用例でありこの作品でもそのようなケースで何度か分割画面が採用されていますが、実際には電話はある一時点においては必ずどちらか一方しか話さないので聞く側の受動的な反応も同時に捉えるという意味はあったとしても決定的に分割画面の最大の効果がそれによって得られるわけではないというのが私めの考えるところです。そうではなく、分割画面の本質は、複数の状況が同時進行し、それらをドキュメンタリー的且つ客観的な印象を持って伝えたい場合に最大の効果を発揮するのですね。何故ならば、複数のシーンが同時に提示されることによって、オーディエンスは特定の人物に対する感情移入を行なうことが不可能になり、従って第三者的観点に身を置くことが強制されるからです。この点においては、この作品では政府の爆破工作特殊部隊がバート・ランカスター演ずる主人公達の目を掠めてミサイル発射基地に忍び込むシーンで採用されている分割画面は極めて有効であると言えるでしょう。最後に小言を言わせて頂ければ、私めはこのタイトルのDVD版として国内販売のものを買いましたが(というか海外ではこれを書いている時点でもDVD版は発売されていないはずです)、まず第一に5000円は高いですね(しかも画質もDVDとしてはイマイチのような気がします)。それはまだ我慢したとしても、許せないのは字幕をOFFにすることができないことです。裏面に確かに小さな小さな文字でその旨記述されていますが、こんな小さな字で書かれていれば買う時に見るはずがありません。勿論映画館に行けば字幕は消せないのは当然であり、贅沢病と言われればそれまでかもしれませんが、DVDの良いところの1つは字幕をONにしたりOFFにするというような操作が容易に可能であることであり(英語が聞き取れれば字幕がチラチラするのは邪魔もの以外のなにものでもないわけです)、500円DVDならまだしも5000円DVDでそれができないというのは一体どういうことなのでしょう。このようなプロダクトを販売した会社(日活株式会社となっています)には、そこのところをよーーーーーく考えて欲しいものです。

2007/01/06 by Hiroshi Iruma
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