侵略 ★☆☆
(The Ugly American)

1963 US
監督:ジョージ・イングランド
出演:マーロン・ブランド、岡田英次、アーサー・ヒル、サンドラ・チャーチ、パット・ヒングル



<一口プロット解説>
外交官マック(マーロン・ブランド)は、第二次世界大戦中ともに日本軍と戦ったディオン(岡田英次)の住む反米感情渦巻くある東南アジアの国に赴任する。
<入間洋のコメント>
 2001年9月11日に発生した世界貿易センタービル破壊テロ事件及びその後の推移は、逆説的にもかつて1950年代及び1960年代にしばしば用いられていたUgly Americanというアメリカ人に対する蔑称的な用語を再び思い起こさせるのに十分であったように思われる。逆説的にもとわざわざ述べた理由は、勿論この事件の最大の被害者はアメリカであったにもかかわらず、時間が経過するにつれて第三世界諸国の反米感情が高まってきた経緯があるからであり、ひょっとするとイスラムをはじめとする第三世界諸国はアメリカに対して依然としてこのUgly Americanという語によって示唆されるネガティブな感情を少なからず抱いているのではないかという印象をこの事件の経緯を通じて強く受けた。ところでマーロン・ブランド主演且つ日本人の岡田英次が準主演しているにもかかわらず、ほぼ日本では完全に忘れ去られた感があると言ってもよいこの「侵略」という映画の原題が、「The Ugly American」である。この映画は東西冷戦たけなわの頃に製作された映画であるにもかかわらず、当時何故アメリカ及びアメリカ人がUgly Americanと呼ばれていたかについてのアメリカ人自身の冷静且つ正直な分析を、全編を通じて見出せる当時にあっては極めて稀有な作品である。殊にこの映画が製作された頃は、たとえばスタンリー・キューブリックの「博士の異常な愛情」(1964)やシドニー・ルメットの「未知への飛行」(1964)或はジョン・フランケンハイマーの「5月の7日間」(1964)等に見られるように、確かに映画としては面白いがキューバ危機直後の歪曲された政治状況が必要以上に拡大されて描かれている映画が数多く製作されていた時期であったことを考えてみると、「侵略」という映画がかなり異色であったことが一層よく分かるのではなかろうか。この当時製作された国際政治が絡んだ映画の多くは、冷静な観察眼に基づいて東西冷戦を分析しその上でアメリカの置かれた立場を客観的に精査するというような冷静沈着さとは全く無縁であり、自身でも東西冷戦の渦中に巻き込まれて誇大妄想を極限にまで膨らませたという印象が避けられない作品が多い。それと比較すると、「侵略」は、驚く程客観的且つシニカルな作品である。

 ところで、今ではほとんど忘れられたこの作品のストーリーを覚えている人はほとんどいないものと考えられるので、論を進めるにあたりまずストーリーを紹介しておこう。主人公の外交官マック(マーロン・ブランド)は、かつての戦友で現在では東南アジアのサーカンという国(勿論架空の国であるが撮影はタイで行われたようである)で民衆の絶対的な信望を得るディオン(岡田英次)の知己であるという理由でサーカンにアメリカ大使として赴任する。最初マックは国会での答弁でディオンはコミュニストではないのかという審問に対して、自信を持ってノーと答える。しかし、現地に到着直後反米デモに巻き込まれ命からがら危機を脱出した後、ディオンと会って話をしてみると自分の考え方と彼の考え方がことごとく違っていることに気が付き、大喧嘩になって最後はディオンをコミュニストであると決め付ける。マックはこの後、この国の権力者でディオンが独裁者であると見なしているクエン・サイに会い、経済活性化の名目の元で建設が進められているフリーダムロード(自由の道)をコミュニスト国家との国境に向って建設するように進言する。一方、コミュニスト国家のリーダー達に唆されたディオンは、クエン・サイ政権を倒す為に民衆を蜂起させ首都に向かって進軍させる。ところがコミュニスト国家のリーダー達の真の目的はクエン・サイ政権をディオンに倒させ、しかる後に今度は彼らが一日にしてディオンを倒し(その為に既にディオンの側近に暗殺者を潜伏させている)権力を掌握することにある。単純にディオンをコミュニストと同一視していたマックは、そのような舞台裏のからくりを全く把握出来ず、のみならずフリーダムロードの建設によって格好の機会と口実をコミュニスト達に与えてしまう。クエン・サイ政権がディオンによって倒される寸前にディオンが全くコミュニストなどではなく彼らに利用されていただけであることにマックは気付き、コミュニストの陰謀についてディオンに知らせに行く。結局、ディオンは潜伏していたコミュニストに暗殺されるが、クエン・サイ政権とディオンの率いていた民衆を和解させ、コミュニストの陰謀を打倒することに最後の最後で成功する。

 ストーリーからも窺えるように、この映画にも狡猾なコミュニスト国家というアイデアが登場することには相違ない。しかしながら、この映画の場合そのことはそれ程重要ではない。何故ならば、この映画の最大の焦点はコミュニストの侵略にあるのではなく、原題からも推察されるようにアメリカの侵略にあると言った方が良いからである。侵略とは何も敵対的な直接軍事行動のみを指すのではなく、たとえば経済的侵略や自由主義という名を借りた思想の侵略をも意味する。グローバリゼーションという名目の下で行われる20世紀後半のアメリカの文化や製品の輸出が19世紀や20世紀初頭の植民地主義と異なる点は、後者が物理的なパワーを行使して物理的に土地を占領することであり、それ故パワーを行使している側も行使されている側もその事実が明らかであるのに対し、前者ではカルチャー或いは思想という見えないパワーによる支配であるが故にそれが非常に見えにくい点である。またたとえ見える形であっても、他国の侵略からの保護というオブラートで包まれ曖昧にされている。その点が最もよく分かるのが、マックがディオンと再会した時、考え方が互いに合わず喧嘩になるシーンである。たとえば、何故アメリカはいつもクエン・サイのような独裁者をサポートするのかというディオンの詰問に対し、マックは、彼らをサポートしなければ必ずやコミュニストが隙を窺って権力を奪取するはずであろうからと答える。この考え方はアメリカがコミュニズムに対峙していた1960年代において東南アジアなどにおけるアメリカヘゲモニーの正当化として引き合いに出されていたドミノ理論と同類項であり、パワーポリティクスをベースとするこのような思考様式には、大義名分とは裏腹に肝心の現地住民に対する配慮とは全く無縁であると批判されても仕方がない側面があった。因みに、当時のアメリカが、なぜ東南アジアの国々に傀儡政権を樹立しようとしていたかについては、藤原帰一氏の「デモクラシーの帝国」(岩波新書)に分かりやすい解説があるので参考のために以下に記しておく。

「植民地権力が撤退するという流動的な状況のなかでは、アメリカが手を貸してその地域の国家形成を促進しなければ、共産化の阻止と独立の促進を同時に達成することなど考えられない。国家という枠組が安定していたヨーロッパ諸国を相手にするときとは異なって、アジアへのアメリカの進出は、外部からその地域に政府と国家を形成するという、特殊で困難な課題を担うこととなったのである。そして、まさに外から権力をつくる作業であるだけに、アメリカがそのような介入を行うならば、宗主国に代わって新たな支配を展開する帝国として見られることも避けられない。歓迎を受けるどころか、反撥される可能性もあった。植民地帝国の支持者ではなく、また共産主義にも片寄らない、現地政府の指導者、「協力者」が必要となったのは、そんな手詰まりの状況のなかであった。民衆の厚い支持を集め、民主主義を信奉し、改革的で、共産主義と毅然と戦う、そんな協力者があれば、アメリカの理念も、非公式の帝国としての経済的・戦略的利益も、ともに保全することができるだろう。植民地としては本国に従属せず、だが本国のいうことはきく政府をつくるためには、そのような、いうことをきいてくれる指導者が必要になった」


そして、マックが、ディオンの中に幻想的に見出したのは、まさにこの「協力者」の姿だったのである。

 また、マックの頭の中では、アメリカをリーダーとする自由主義国家群とコミュニスト国家群の二項対立としてしか世界が捉えられていない。表面上はどうであれ、たとえば東南アジアなどのそれ以外の後進地域は、米ソどちらの側が権力を掌握出来るかが実践される一種のプレイグラウンドであるにすぎないと根底では考えられている。またこの二項対立の図式に従えば、民主主義の信奉者である自分達が理解出来ない考え方或は自分達の信条に合わない考え方は、全てコミュニズムとして十派一絡げに扱われる。この喧嘩シーンを一言一句漏らさず聞いていてもディオンはただの一言もコミュニズムについて語っているわけではないことが明らかであるにも関わらず、彼を説得出来なかったマックはかくして彼をコミュニストであると決め付ける。またこれ故、マックはそれ以降の状況判断を全て見誤ってしまうことにもなる。たとえばフリーダムロードの建設はサーカン経済の活性化の為であり軍事的或は政治的な見方に基づいているわけではないと口では言いながらも、建設ルートをコミュニスト国家の方向に向けさせる彼の考え方の基盤には、明らかにアメリカ対コミュニズムという文脈内における政治利用が意図されていることは否定出来ない。ディオンは明らかにマック以上にそのようなからくりをよく理解していて、フリーダムロードの建設は経済の問題であるよりも権力の問題であると喝破する。要するに日頃常にダブルスタンダードの中に染まって暮らしている者は、自分自身ですらそれがダブルスタンダードであることに気が付くことが出来ないのである。そのことに気が付くには大きな代償が必要であり、ダブルスタンダードが当然であると見なされている政治的な操作に慣れ切ったマックは、自分の二枚舌によって出来した状況をコミュニストのリーダー達に逆手に利用され、あわやサーカンがコミュニストの手によって掌握される寸前になってようやく自分の行動様式と現実とのギャップに気付く。また、このダブルスタンダード故に、この映画の中でもアメリカ人はUgly Americanであると見なされ、アメリカが敵視するコミュニストなどでは全くないサーカンの一般民衆からも忌み嫌われているのである。

 ところでマックは、二度それまでの自分の考え方が間違っていたことに気が付く。一度目は、国会の答弁ではディオンは自分達と同じ民主主義を信奉していてコミュニストなどではないと自信を持って返答するが、ひとたびディオンとの個人的なつき合いの中で自分の考え方と彼の考え方が異なることが判明すると、ディオンはコミュニストであり、今までの自分の考え方の方が間違っていて国会で審問を行った議員の方が正しかったと考え直す。これは自由主義国家群とコミュニスト国家群という二項対立に基づいてしか物事を見られなかったマックが、自分達の側にいるものとばかり考えていたディオンが、自分の考え方とはまるで異なる考え方を持っていることが分かった瞬間、必然的にそれまでとは考え方を180度反転させ、ディオン≠アメリカすなわちディオン=コミュニストと考えるようになったことを意味する。つまり、マックが拘泥する自由主義VSコミュニズムというバイナリー思考様式においては、コンピュータ言語でもお馴染みのブーリアン値の如く真と偽という2つの状態しか存在しないということである。それに対して二度目は、前述したような苦い過程を得てディオンは全くコミュニストなどではないことに気が付く。これは、自由主義VS.コミュニズムという単純な二項対立の図式そのものが間違っていることにマックが初めて気付いたことを意味し、アメリカの下僕でもなくコミュニストでもない一般民衆の方が遥かに多いという単純な真実をそこでようやく理解する。かくしてこの映画は、自由主義VS.コミュニズムという単純な図式ですべての物事を判断すれば状況を大きく見誤ることになるという警告が含まれていると考えられるが、この警告は全くの徒労に終わってしまったようである。何故ならば、この映画が製作された翌年、南部ベトナムにゴ・ジン・ジェム政権を擁立していたアメリカはリンドン・ジョンソンにベトナム侵攻のカルテブランシュを与えたとされるトンキン湾事件をきっかけとしてベトナム戦争の泥沼に入っていくからである。また、ベトナム戦争を遥かに越えて21世紀に入ってから発生した同時多発テロ事件後の反米感情の高まりを見ていると、コミュニズムがテロリズムに変わっただけで結局本質的な面は何一つ変わっていないのではないかという疑いを持たれたとしても何の不思議もないような状況が依然として続いているからである。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新加筆した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

2002/01/26 by 雷小僧
(2008/10/16 revised by Hiroshi Iruma)
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