駆逐艦ベッドフォード作戦 ★★★
(The Bedford Incident)

1965 US
監督:ジェームズ・B・ハリス
出演:リチャード・ウイドマーク、シドニー・ポワチエ、マーティン・バルサム、ジェームズ・マッカーサー
左前:エリック・ポートマン、左後:シドニー・ポワチエ、右:リチャード・ウイドマーク

正月そうそうえらく陰惨且つ華々しさの全くない映画を取り上げることにしました。どれ程華々しさがないかというと、女優さんは全く一人も登場しません。それはさておき、偏執狂的なアメリカの駆逐艦艦長がソビエトの潜水艦を追い詰めて最後は人為的ミスで双方ミサイルを食らってお陀仏というストーリー展開は、当然次は第三次世界大戦の勃発が示唆されているのであり、まさしく1960年代中盤の東西冷戦の緊張した中で製作された映画であるという雰囲気を遺憾なく漂わせていますが、それは別としても個人的にはこの作品を見ていると他の様々な映画を思い出します。たとえば偏執狂的な艦長が主人公である点ではハンフリー・ボガートがそのような艦長を演じていた「ケイン号の叛乱」(1954)を、駆逐艦と潜水艦のCat and Mouseの対決を描いている点ではその手の映画の定番である「眼下の敵」(1957)を、東西冷戦状況と北極近辺を舞台としているという点においてかの変人ハワード・ヒューズのお気に入り作であったとも伝えられる「北極の基地 潜行大作戦」(1968)を、等です。比較的近いところでは、「クリムゾン・タイド」(1995)なども挙げることができるかもしれません。しかし、この「駆逐艦ベッドフォード作戦」と雰囲気的に一番似通っている作品は、海が舞台ではありませんが私めの大好きなシドニー・ルメットの「未知への飛行」(1964)です。「駆逐艦ベッドフォード作戦」にしろ「未知への飛行」にしろ東西冷戦の緊張感を100倍くらいに濃縮したドラマをド派手なアクション抜きで見せてくれ、そこにはまさに映画を見る醍醐味があります。興味深い点は東西冷戦を題材とし、しかも悲劇的な結末を迎えるこの当時の作品(この2本の他にも、ブラックコメディであるとは言えども当然「博士の異常な愛情」(1964)も含めることができます)は、既にカラー映画が一般的になっていた1960年代の半ばに製作されているにも関わらず白黒で撮影されているということと、第三次世界大戦勃発のトリガーをかけるのはたとえそれがミスによってであったとしてもアメリカ側であるということです。「博士の異常な愛情」については当て嵌まらないかもしれませんが、白黒が採用された理由の1つは恐らくドキュメンタリータッチを醸し出すためではないかと勝手に想像していますが、そうであるとすれば興味深いことは、今日的な目から見ればほとんど有り得ないように思われる程の誇張がそこにはあるように見えたとしても、当時は十分な可能性があるものと見做されていたことがそれにより示唆されるということです。アメリカ映画の中でアメリカ側が第三次世界大戦のトリガーをかけるような展開になっている点は殊更興味深く、そこには一種のアメリカの自己混乱或いは自己不安のようなものが見え隠れしているようにも思われます。そのことは、この「駆逐艦ベッドフォード作戦」でも巧みに表現されていてソビエトの潜水艦を執拗に追い詰めようとするフィンランダー艦長(リチャード・ウイドマーク)を見ていた元ドイツ軍のUボート指揮官で今はNATOの顧問になっている提督(エリック・ポートマン)が、「あなたは恐れている」というようなことを述べます。すなわちフィンランダー艦長の執拗さの基盤には、一種の自己不安が隠されていることをこのベテランの提督は見抜いているのであり、しかもその提督はかつてアメリカの敵であったドイツの提督であるというところがいかにも示唆的です。要するにアメリカ人ではない人物からの客観的な視点を通して始めて、このパラノイアックな艦長の心の奥底にある不安を見抜くことができたと言わんばかりなのですね。シドニー・ポワチエ演ずるジャーナリストやマーティン・バルサム演ずるドクターも、フィンランダー艦長に批判的な態度を取りますが、その彼らでさえもフィンランダー艦長の傲慢さに対する批判は行なってもその底にある不安までは見抜いていないわけです。ところでそのようなフィンランダー艦長の執拗さや傲慢さが部下にも影響して、誤って対潜ミサイルを発射してしまうという彼の部下である少尉(ジェームズ・マッカーサー)の致命的なエラーに帰結します。この致命的なエラーは一種の言葉の取り違いに起因していて或る意味で笑えますが、通常ならば笑いを誘うようなミクロな間違いが第三次世界大戦という恐ろしくマクロな結果をも引き起こしてしまう状況が存在し得るという恐ろしさがこのシーンには凝縮されています。因みに英語表現に関わることなので恐らく日本語字幕ではその辺がうまくハンドリングされていないのではないかと思われますので(実は国内版のDVDを最近買いましたが字幕をONにしても字幕が画面の下に消えて確認しようがないのですね)そのシーケンスをここで説明しましょう。フィンランダー艦長がソビエトの潜水艦の潜望鏡に体当たりした後更にミサイル攻撃の準備をしようとしたのを見たくだんの元Uボート指揮官顧問が止めに入ったのに対して、フィンランダー艦長が
「Don't worry commodore. Bedford will never fire first. But if he fires one, I'll fire one.(提督心配しなさんな。ベッドフォードが先制攻撃をすることは絶対にない。但し、もしソビエトの潜水艦が先に(「one」すなわちミサイルを)発射するならば、私も発射するつもりだ。)」
それを聞いていたくだんの少尉(彼はいつもフィンランダー艦長に怒られていて極めてナーバスになっています)が、最後の「fire one」の部分だけを耳にして「Fire one!」と復唱しながらミサイルを発射してしまいます。つまり、「1号ミサイル(one)発射(fire)」というような自分に対する命令と取り違えてしまうわけです。このシーケンスは英語で聞いていると結構笑えます。不要かもしれませんが英語が苦手なオーディエンスの為に簡単に説明しておくと、フィンランダー艦長が「But if he fires one, I'll fire one.」と言った時、「one」とはミサイル一般を指す抽象代名詞として使用されています。oneがミサイルを指すのであれば「fire one」だけ聞こえたとすれば「ミサイルを発射せよ」という命令に聞こえるように思われるかもしれませんが、ところが単純にそうはならないのですね。というのも曖昧な抽象代名詞を用いて命令が下されることはないからです。従って、少尉は「fire one」のoneを特定な個物を指すものと誤解しない限りそれを命令とは取らないはずですが、それを1号ミサイルというように解釈してしまうわけです。そのシーケンスがあまりにもあっさりと展開されているので思わず笑えるわけですね。まあいずれにせよ、普通ならば一種の笑い話になるところが第三次世界大戦のトリガーになってしまうとは何とも大変な取り違いであるということになりますが、しかしそのような取り違いが発生する種は、自己不安を心の底に抱いた艦長が偏執狂的に振舞う中で部下達に与えた悪影響というような形態で遥か以前から蒔かれていたのですね。誇張があるとはいえこの映画の怖さは、それと同様な状況が十分に現実にも発生し得るのではないかということが示唆されている点にあります。自己不安という単に心理的であるにすぎない状況が、現実世界における政治的な破局を招来してしまうとすればこれ程恐ろしいことはないわけです。現実の世界では個人単位でならばまだしもアメリカという国単位でそのような事態が発生するはずはなかろうと思われるかもしれませんが、集団幻想的なヒステリックな状況がいつでも発生し得ることは、魔女狩りのような中世の例を挙げずとも、1950年代のマッカーシズムを挙げれば十分ではないでしょうか。但し勿論これについては後世になってからの私めの見解であり、当時この映画の製作者達自身がそのような点を意識してこの作品を製作したか否かは全く別の話です。1つだけこの作品で疑問に思ったことは、ソビエトの潜水艦が放った魚雷がいままさにベッドフォード号に命中する直前のラストシーンで、魚雷を回避する方策は何も考えていなかったのかというシドニー・ポワチエ演ずるジャーナリストの詰問に対してフィンランダー艦長が茫然自失して何も返答しませんが、これには最低でも説明が必要だなと思ったことです。何故ならば、前述したようにそれ以前のシーンでフィンランダー艦長は、相手が先制攻撃を仕掛けたならば報復すると述べているからであり、相手が攻撃してくる可能性は当然既に考慮に入れていたはずだからです。ということはフィンランダー艦長は、先制攻撃されれば報復攻撃を行なうと述べた時、1)そのような事態には絶対にならないと確信していた、2)そのような事態が発生したならば本当に差し違えるつもりだった、3)全く前後の見境なくそのように言った、或いは実際回避策は考えていたがミサイル発射が現実のものとなって4)フィンランダー艦長は事の重大さに始めて気がついて本当に痴呆のようになってしまったかのいずれかになります。個人的には4)か1)であろうと考えていますが、1)であるとするならば余計に彼は妄想的な不安に取り憑かれて行動していたことが示される結果になり、この作品の展開によりマッチした解釈であるように考えられます。何故ならば、相手が浮上してこないと分かった後の彼の行動は窮鼠猫を噛むがごとく相手が先制攻撃に出るのを誘い込むような方法で相手を追い詰めていたにも関わらず、その自らの行動様式に反して相手が先制攻撃してくることなど絶対にないと考えていたとしたならば、それは決定的な自己矛盾であり自己の混乱であるからです。反戦がテーマの作品であることには間違いがないところですが、前述した1950年代に製作された「眼下の敵」のような作品では、過去の戦争を舞台として連合軍側ドイツ軍側ともに厭戦的な艦長を主人公として騎士道的な見地から反戦テーマが敷衍されていたのに対し、キューバ危機後の1960年代半ばに製作された「駆逐艦ベッドフォード作戦」ではコンテンポラリーなセッティングで偏執狂的な艦長を主人公とし、しかも悲劇的な結末で終わるというような生々しい描かれ方がされているのは比較の対象としても面白いところでしょう。この映画には敵であるソビエト側に属する人物は全く登場せず、潜水艦の潜望鏡が2、3回映し出されるのみであるという事実は極めて興味深いところですが、これは何故かと言うとこの作品はソビエト側の如何に全く関係なく自分達の側の混乱した姿を描くことにより反戦テーマを敷衍しようとしたからということでしょう。


2007/01/01 by Hiroshi Iruma
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