北国の帝王 ★☆☆
(Emperor of the North)

1973 US
監督:ロバート・アルドリッチ
出演:リー・マービン、アーネスト・ボーグナイン、キース・キャラダイン、サイモン・オークランド
左:アーネスト・ボーグナイン、右:リー・マービン

アルドリッチが監督した作品には、サバイバル或いは個人的な意地を貫徹する為の闘争というようなテーマが扱われていることが多く、従って主要登場人物が男であろうが女であろうが野郎硬派的な印象を強く与える作品が数多く見受けられます。そのアルドリッチの最初期の作品は、「アパッチ」(1954)、「ヴェラクルス」(1954)という西部劇作品でした。これらの初期の作品で既に、野郎が「意地」を貫徹し命を懸けるという主題が表面化していました。この後「キッスで殺せ!」(1955)というマイク・ハマーものハードボイルド映画があり、国内でもDVDが発売されているようですが個人的には見たことがありません。公開時はあまり評判は芳しくなかったそうですが、ヨーロッパでまず評価された作品のようです。それと同年に、日本劇場未公開映画の「The Big Knife」(1955)がありますが、アルドリッチとしては珍しくクリフォード・オデッツの戯曲をもとにした極めて舞台劇的な色彩の濃い作品です。しかしながら、ジャック・パランス、ロッド・スタイガー、アイダ・ルピノ、シェリー・ウインタースというようなクセ者俳優達が強烈な会話バトルを繰り広げるという点では既に全盛期のアルドリッチを彷彿とさせるものがあります。「攻撃」(1956)は戦争映画ですが、エディ・アルバート演ずる無能な上官に焦点を当て、反戦或いはアンチヒーロー的な側面に重点が置かれた作品でした。ベトナム戦争が泥沼化するより遥か以前にこのようなテーマの映画が製作されていたこと自体が1つのポイントであると云っても良いかもしれません。「The Big Knife」の時と同様、あまり演技派であるようには見えないジャック・パランスが印象的でした。60年代に入ると宗教ものの「ソドムとゴモラ」(1961)がまずありますが、どこかで誰かが述べていたように宗教もの映画は、監督の特徴が際立って反映されることが少ないジャンルであり、この作品でもアドリッチらしさを見分けることは困難であったように覚えています。「何がジェーンに起こったか?」(1962)はご存知のように文字通りアルドリッチの名声を決定付けたとも言える作品であり、ベティ・デイビスとジョーン・クロフォードの女同士の陰惨且つ壮絶な争いは(とはいえ要するにデイビスのクロフォードに対するイジメではありますが)、アルドリッチお得意の闘争サバイバルテーマの変奏曲であると考えてもよいでしょう。彼はこの設定が気に入ったか、フランク・シナトラ、ディーン・マーチン主演のどうでも良さそうな西部劇「テキサスの四人」(1963)を挟んで同工異曲の作品「ふるえて眠れ」(1965)を監督しています。「ふるえて眠れ」では、今度はベティ・デイビスの方がいわばイビラれ役になりますが、但しクロフォードは病気であった故か代わりにオリビア・デ・ハビランドがいじめ役を演じており、丸顔で男で云えばボッチャンボッチャンしたタイプのハビランドは外見からはいかにもおしとやかに見えながらも内実は邪悪な妄想が渦を巻くオールドミスを演じていて、その間に発生するイメージのギャップには極めて興味深いものがあります。ベティ・デイビスもジョーン・クロフォードも60年代は明らかに凋落傾向にあり、両者とも怪しげなホラー作品に何作か嬉々として出演していますが、アルドリッチの作品は60年代の彼女達に最善最良のチャンスを提供したと云っても過言ではないでしょう。砂漠に不時着した飛行機の乗員乗客達がいかにサバイバルするかを描いた「飛べ!フェニックス」(1965)は、アルドリッチの闘争サバイバルテーマが最も純粋な形で表面化した秀作であり、おちょぼ口の俳優ロナルド・フレイザーの妄想の中でダンサーがチラリと登場する以外は女性を全く登場させず、飾り気全く無しのストレート勝負はこれぞ硬派の映画と快哉を叫びたくなります。個人的には子供の頃TV放映で見て以来この映画のファンです。「特攻大作戦」(1967)も徹底的な野郎ムービーですが、戦争映画というよりは「ナバロンの要塞」(1961)や「荒鷲の要塞」(1969)同様アクション映画として扱うべきでしょう。「めぐり逢えたら」(1993)であったか、確かトム・ハンクスが女性映画ファンは「めぐり逢い」(1957)を見て涙するが、男は「特攻大作戦」で感涙に咽ぶというようなセリフを吐いていたように覚えていますが、さすがにこれは私めには少し大袈裟に響きますね。日本におけるハリウッド映画の宣伝に「全米が泣いた」などという誇大妄想化されたフレーズがありますが、アメリカ人がそこまで泣き上戸であればまだしも、この作品のどこで泣こうというのか見当もつきません。アルドリッチは涙腺に訴えなければならないようなヤワな監督さんではないのですね。そもそも、「特攻大作戦」は正直言えば個人的にはとても高い評価を与えられない作品であり、この作品であれば他に素晴らしい映画がアルドリッチには数多くあり、たとえば戦争関連の映画であれば「攻撃」の方が内容的には遥かに興味深いものがありました。日本劇場未公開の「甘い抱擁」(1968)は、外見上はこれまでとは打って変ってレズビアンが主人公の作品ですが、しかしモノホンさんから見た場合これが本当にレズビアン映画であると云えるのかは大きな疑問があるかもしれません。作品自体よりもむしろフェミニストであればこの作品をどう見るのかの方が興味深いような作品であると云えるでしょう。この映画に関するノーラ・エフロンのインタビューに対する主演のスザンナ・ヨークの返答などには興味深いものがありますが、それについてはそちらのレビューを参照して下さい。1970年代に入ると「燃える戦場」(1970)という戦争映画がありますが、高倉健がかなりケッタイな日本軍将校役で出演しているところが唯一の見所でしょう。それよりも、彼の作品としてはマイナーな部類に属し言及されることもそれ程多くはないギャングもの映画「傷だらけの挽歌」(1971)の方が彼らしい作品です。この作品には、映画史上最凶悪とも言えそうなおばちゃんギャングが登場し見ているこちらまでがビビりそうです。1970年代にはそれらの作品やこのレビューで取り上げる「北国の帝王」の他にも、「ロンゲスト・ヤード」(1974)や「合衆国最期の日」(1977)がありますが、それらの作品については既にレビューしましたのでそちらを参照して下さい。さて肝心の「北国の帝王」ですが、これまたほぼ野郎ばかりが登場する作品であり、遭難サバイバル映画の「飛べ!フェニックス」や戦争アクション映画の「特攻大作戦」に女性がほとんど登場しないのは舞台が舞台であるだけに頷ける面もありますが、「北国の帝王」は息抜きに女性が登場していたとしてもそれ程不思議はないだけに、いかにも硬派のアルドリッチならではというところでしょうか。ただ2シーンのみ女性が登場しますが、その内の1つはモデルのようなおねえちゃんが腋毛をそっているところをキース・キャラダインが思わず知らず覗いているという、資本主義的、商業主義的、プレイボーイ誌的に表層的且つ奥行きのない現代的なエロジョークになっていて、その無意味性にはむしろ微笑ましささえあります。いずれにせよ、「北国の帝王」は野郎同士の意地の張り合いというアルドリッチお得意のテーマが、最も純粋な形で結晶した作品であると見なすことができます。そもそも貨物列車の車掌と浮浪者が、無賃乗車をめぐって生命を賭けた死闘を繰り広げるなどという奇怪至極な題材をアルドリッチ以外の誰が映画化しようとするでしょうか。アーネスト・ボーグナインとリー・マービンが凄まじい形相で睨み合うのは、もともと両人共にゴツゴツのいかつい顔をしているだけにただならぬ迫力があります。コメディアンのマーティ・フェルドマンも裸足で逃げそうな程怒りで飛び出したボーグナインの眼球などほとんどコメディすれすれの境界を走っているようにも見えますが、意地と意地の張り合いを極北まで突き詰めるとそれはほとんどコメディにも近くなるということがこの作品を見ていると分ります。ところで、この作品の時代設定は冒頭で「1933 THE HEIGHT OF THE GREAT DEPRESSION」とでかでかと記されているように大恐慌の巨大なインパクトが冷めやらない困窮の1930年代前半に置かれています。DVDバージョンの音声解説を担当しているデイナ・ポーラン氏は、このような時代設定は映画自体にはそれ程大きく反映されておらず、それは単に二人の男の意地の張り合いという原型的(archetypal)な表象をバックアップする為に設定されているに過ぎないと述べています。全体的な印象としては確かにその通りですが、彼の言にも関わらず忘れてならないことは、浮浪者が鉄道沿線にこれだけたむろしているのは、やはり大恐慌という時代背景を抜きにしては考えられないということです。それにも関わらずこの映画に登場する浮浪者達に困窮の表情を見て取ることができないのは、アルドリッチの狙いがそのような社会事象を描くことにはなく、あくまでも個人対個人の意地の張り合いを描くことにあるからであり、デイナ・ポーラン氏もまさにその点を指摘しているわけです。つまり、他の監督さんであれば社会事象への言及の1つや2つを含めても何らおかしくない時代背景が設定されていながら、それを全くしないところにアルドリッチのいかにもアルドリッチらしい点を見出すことができるとも云えます。要するに、1930年代のオレゴンという設定は、格闘技の巨大なリングであるということです。そのリングで格闘するのは勿論前述した主演二人ですが、もう1つ忘れてはならないことは、この作品には主人公二人の関係以外にリー・マービンとキース・キャラダインという関係も描かれていることです。この関係が興味深いのは、本来ならば年齢からみても師弟的な関係にあるべきこの二人が、最後までそのような関係にはならないことです。デイナ・ポーラン氏が的確に解説しているように、何が起ころうがどっしりと構えるリー・マービンに対して始終せわしなく動き廻るキース・キャラダインの間には恐ろしく大きな経験の差があるにも関わらず、キース・キャラダインは自らの高慢さと驕りに気付くことなく、最後にリー・マービンに愛想を尽かされ列車から川に抛り出されてしまいます。この辺りの展開もいかにもアルドリッチ的で、若者の成長などという安易な主題を拒否してまでも、主人公二人の原型的とも云える死闘に焦点が当てられているのです。かくしてこの作品はデイナ・ポーラン氏の用語を借用すれば、極めて原型的(archetypal)でエレメンタルな要素が際立った作品であり、その意味ではロバート・アルドリッチという監督さんの持つ特徴が最も表面化している作品であると云えるように思われます。最後にもう1つ指摘しておくと、オレゴンの自然を背景として疾走する巨大な鉄の塊すなわち蒸気機関車の雄姿は、鉄道ファンには実にほれぼれとします。またアンドレイ・コンチャロフスキーの傑作「暴走機関車」(1985)にも似たようなシーンがありましたが、霧の中で反対方向に全力疾走する長大な貨物列車同士が正面衝突寸前に至るシーケンスはスリル満点です。


2007/12/15 by Hiroshi Iruma
ホーム:http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_actress.htm
メール::hj7h-tkhs@asahi-net.or.jp