博士の異常な愛情 ★☆☆
(Dr. Strangelove)

1964 UK
監督:スタンリー・キューブリック
出演:ピーター・セラーズ、ジョージ・C・スコット、スターリング・ヘイドン、キーナン・ウイン



<一口プロット解説>
気が狂ったアメリカ空軍の将軍が、ソビエト領内への水爆攻撃を指令するが、ソビエトでは領土内で爆撃を受けると自動的にアクティベートされ全世界を破滅に導く最終兵器が密かに開発されていたことが分かる。
<雷小僧のコメント>
まあこの映画は、ほとんどどんな人でもタイトルくらいは知っているのではないかと思われる程有名な作品なのですが、いまだ60年代の映画に関してはどの映画がクラシックと言えるのかはっきりとはしていない中で、一部のミュージカル映画を除くと恐らくこれ程人口に膾炙した60年代の映画はないのではないかと思われるくらい有名ですね。1つはキューブリックのネームバリューということもあるのかもしれませんが、時代的に極めてタイムリーな映画であったとも言えるかもしれません。ご存知の方も多いと思いますが、色合いは異なるとは言えほとんど同じような内容を扱ったシドニー・ルメットの映画「未知への飛行」も同年に製作されており、確かどちらかの製作会社がどちらかの製作会社を訴えたというような話もあったのではないかと覚えています。しかし我々観客の立場からすればそんなことはどうでもいいことであり、仮に実際どちらかがどちらかの剽窃をしたのだとしても(映画産業というのはまあきっと狭い業界なんでしょうから、あいつがこれこれしかじかのスクリプトを書いているぞというような情報はすぐに広がるのでしょうね)、見逃してはならないことは剽窃をして似たような映画を製作しても受けるであろうと判断されるような時代背景があったということです。すなわち、これらの作品はちょうどキューバ危機が発生した頃の作品であり、東西冷戦がこれ程剥き出しに現れた、というよりもあわや冷戦が熱戦に最もならんとしたトラウマ的な経験をした直後(と言っても実は2年ぐらいは後なのですが、いわば丁度そのくらいの期間で効果が現れたとも言えるでしょうか)に製作された作品であるということです。別のレビューでも書いたのですが、そのような世相の煽りを受けた当時の映画の中にはパラノイアックとも呼べるような作品が多く、この両者もそうですが「5月の7日間」(1964)や「駆逐艦ベッドフォード作戦」(1965)、或いはこれはコメディなのですが「アメリカ上陸作戦」(1966)のような当時の国際社会の不安定な様相を裏面に感ずることが出来る数多くの作品が出現した時期でもあるわけです。
そういうわけで、このキューブリックの「博士の異常な愛情」とルメットの「未知への飛行」はストーリー展開が類似しているということは勿論のこと、一般に言われているような前者がコメディで後者がシリアスなドラマという違いも実は表面上の違いにすぎないわけであり(それはむしろルメットの方は社会派監督と言われキューブリックはそうではないというような両者の表現スタイルの相違に起因するのでしょう)、両者とも当時の世相に対する極端且つパラノイアックなリアクションという側面においては極めて類似していたと言えるわけです。まず興味深いのは、西側映画にも関わらず両者ともに水爆戦(原爆戦)が発生するトリガーとなるのは、ソビエトではなくアメリカの方であるという点です。「博士の異常な愛情」においてはスターリング・ヘイドン演ずる気の狂った将軍が勝手に爆撃指令を出したことでストーリーが始まり、「未知への飛行」においては装置の故障か何かでアメリカの爆撃機がモスクワに飛んでいってしまうことにストーリーの端を発しているわけです。穿った見方をすると、もろに「コミュニストの国なんか原爆を撃ち込めばいいのさ」と言うわけにもいかないので、何やら口実を設けてアメリカの爆撃機がコミュニスト国家に水爆を投下するシーンを見たいという願望をこれらの作品が密かに充たしているかの如くでもあるのです。「博士の異常な愛情」におけるジョージ・C・スコット演ずる軍関係スタッフや、「未知への飛行」におけるウォルター・マッソー演ずる軍事政策アドバイザーが、それらのハプニングを利用してソビエトを亡き国にしてしまえと嬉々として語るシーンなどを見ていると、それらの意見の馬鹿らしさを余計馬鹿らしく見せるというよりもむしろひょっとすると観客の無意識的願望を彼らに代弁させようとしているのではないかとすら思えてしまうのです(ちと考えすぎかな?)。また、「博士の異常な愛情」のカウボーイハットを被った爆撃機の機長が帽子を降りながら水爆に跨って一緒に落下していくシーンなどを見ていると、ブラックコメディであるということは分かっていても、アメリカ=カウボーイ=善玉、ソビエト<>(ノットイコール)カウボーイ=悪玉という図式があまりにも見栄見栄で、正義の国家が悪の国家に鉄槌を下すというようなパースペクティブが見え隠れしているのではないかとすら思えてしまうのです。勿論この映画は、最後のキノコ雲が立ち並ぶシーンからも分かるように、このような冷戦状態が続くことがいかに無益、且つ何かハプニングがあればいかに容易に破滅的な状況に陥るかを示唆しているのであり、正義の国家が悪の国家に鉄槌を下すというようなテーマが敷衍されているわけではないというような反論があるかもしれません。しかし、表面上それは確かにその通りであるとしても裏面もまたあるわけであり、最近でもブッシュ大統領によってカウボーイや西部劇的善玉悪玉イメージが比喩的に引用されたことからも分かるように、このようなシンボルが最も有効に機能するのは危機的な時期においてなのです。「博士の異常な愛情」を見ているとたとえば水爆に跨るカウボーイハットの機長やスターリング・ヘイドン演ずる狂った将軍、或いはジョージ・C・スコット演ずる軍関連スタッフ等の混乱したキャラクターには事欠かないのですが、何と言っても極めつけはタイトルにもなっているピーター・セラーズ演ずるマッドサイエンティスト、ストレンジラブ博士でしょう。これらの登場人物は、あたかも当時の東西冷戦に関連するパラノイアックな混乱した物の見方の極大化された権化のようなキャラクターにも見えるわけであり、それがキューブリックによって意図されていたのかどうかは別としても極めて面白い表現であるように思われます。
話が東西冷戦から少しそれるのですが、当時の混乱した見方は何も東西冷戦だけに限られた話ではなく、西側諸国が非西側諸国(西側東側という場合は、資本主義(等価であるはずはないのにこれを民主主義に摩り替えることもよくある)対コミュニズムという対立図式に従った言い方になりますが、ここで西側、非西側という時の非西側にはアジアや中近東も含めた意味での非西側のことを指します)を見る見方についても同様なことが言えるように思います。アメリカに代表される西側諸国が非西側諸国を見る見方と非西側諸国が非西側諸国自身を見る見方が、根本的に異なるということが西側諸国にもようやく理解され始めたのがこの時期からであったと言ってもよいのではないでしょうか。このようなテーマに関しては「オリエンタリズム」を書いたエドワード・サイードあたりが最も得意とするところでしょうが、たとえば「侵略」(1963)のような映画が製作されたのもそのような背景に基いているわけです。西側(アメリカ)が少なくとも表面上は良かれということを口実として非西側諸国に齎す文化や製品は、非西側諸国側に取っては西側(アメリカ)の絶対的な権力の行使としても捉えられ得るということが、それまではそもそもまるで理解されていなかったわけです。19世紀20世紀初頭のインペリアリズムがまさに絶対的な権力の行使であったのと同様なレベルにおいて西側製品西側文化の氾濫も権力の行使と非西側からは見做され得るわけです。但し20世紀後半の西側(アメリカ)の文化や製品の輸出が19世紀20世紀初頭のインペリアリズムと違う点は、後者が物理的なパワーを行使して物理的に土地を占領することであったのに対し(それ故パワーを行使している側も行使されている側もその事実が見え易い)、前者はカルチャー或いは思想という見えないパワーによる支配なのです(まさに見えないが故に、パワーを行使している側も行使されている側もその事実が見難いのですが行使する側は特にそうであると言えるでしょう)。「侵略」の中でマーロン・ブランドと言い争う岡田英次がコカコーラですら1つの侵略であると主張することの意味がブランドには(最初は)さっぱり理解出来ないのですが、まさにそれは自分達が当然であると考えていることが別の見方をすれば全然当然ではないということを理解することが如何に困難であるかを示唆していると同時に、そのような混乱はたとえば政策のようなマクロ的なレベルからたとえばコカコーラのようなミクロ的なレベルまであらゆるレベルで発生し得るし、またそれが故に外見上はあたかも単なる事実関係の表出であると見做される現実的な事象に拘泥すればする程余計に実際には事実関係などでは全くない混乱に巻き込まれざるを得ないということが示唆されているわけです。また、「侵略」のレビューでも書いたように、ブランドは自分の意見と岡田英次の意見が全くあわないことを知った途端、コミュニズムとは何の縁もない彼をコミュニストであると決付けるのですが、これなどはまさに当時の西側(アメリカ)の持っていた非西側諸国に対する見方の混乱を雄弁に語っていると言えるのではないかと思います。少し本題から外れてしまいましたが、これと同様にマクロレベルからミクロレベルに至るあらゆるレベルでの混乱が西側VS東側という対立構造に関する西側の見方の中にもあったのではないでしょうか。勿論、西側VS東側という対立構造においても西側=主、東側=従であるというような権力関係が単純に成り立ち得るとは西側ですら考えてはいなかったのかもしれませんが(だからこそキューバ危機ではアメリカは大きな脅威を受けたわけです)、しかしながらキューバ危機というような西側VS東側という対立構造が最も剥き出しの形で現実的な問題として露出した時点で、それによって少なからず影響を受けた自分達の見方自身の混乱を客観的に見るということは極めて困難なことであり、またそのことはこの映画や「未知への飛行」におけるストーリー展開或いはキャラクターを通しても十分に見て取れるわけです。
ところで、キューバ危機を扱った「13デイズ」(2000)という、最近の映画の中では私目のお気に入りのロジャー・ドナルドソンの映画があるのですが(映画館で見た以外に買って1年経っていない今までにDVDで既に5回は見ています。尚、このDVDの付録ディスクが実に素晴らしく、キューバ危機に関するドキュメンタリーを同時に見ることが出来ます)、何よりも私目がこの映画に関して感心したのはソビエトが崩壊すると同時に東西冷戦という神話も崩壊して始めてこの事件を客観的に扱う映画が現れたなということです(もし、これ以前にもそういう映画があった場合にはご容赦の程を)。このことはキューバ危機当時製作されたこの「博士の異常な愛情」や「未知への飛行」などと比べると余計はっきりするのですね。「博士の異常な愛情」はフィクションであるのに対し「13デイズ」はある程度事実をリクリエートするのが目的である映画なのだからそんなことは当たり前田のクラッカーではないかと思われるかもしれませんが、実はそれこそが私目の言いたいポイントなのです。すなわち、キューバ危機のような大きなトラウマ的体験が生きられた経験として残っている内はそれに対するリアクション的な作品は生れても、それを客観的に把握再構成した作品というのはなかなか現れない、或いは現れ得ないということが言えるのではないかということです(ことに映画という大衆娯楽的側面を持つメディアにおいてはそうです)。そんなことはないだろうと思われるかもしれませんが、そんなことはないということはないことは、たとえばこれを書いている現時点(2002年)において去年の9月11日に発生したテロ事件を客観的に忠実に追った映画が製作されることなどまず考えられないことを考えてみると分かるのではないでしょうか(もしそんな映画を製作したら大スキャンダルになるかもしれません)。製作される可能性があるのは、この事件に対するリアクションとして製作される数々のフィクション的な作品であり(これについては正直言えば映画以外のメディアにおいては必ずしもそうではない場合も考えられ、たとえば「ビンラデンの伝記」のような書物は現実に既に書店で売られていますがそれはそれ程不思議には思われないのですね。それに対しビンラデンの生涯を扱った映画などは多分当分製作されないでしょう。このことはむしろメディアの特質の違いと言えるかもしれません)、それらの作品を未来の時点から振り返って見ると、多くの推測や誤解或いは過剰反応を含んだものであることが分かるかもしれないわけです。まさにこの関係が現時点から見る「博士の異常な愛情」や「未知への飛行」という映画に該当するのではないかというのがこれまで述べてきたことの論点なのですね。
と、ここまで書いてみて気がついたのですが、「博士の異常な愛情」という映画自体についてはほとんど何も書いていませんでした。でもまあ、この映画に関しては60年代の映画といえどもかなりレビューが存在するのではないかと思われますのでそちらを参考にして下さい(何と無責任な)。ただ少しだけ感想を言わせて頂くと、私目はこの作品よりもルメットの「未知への飛行」の方が別の観点からも興味深いのですが、それは「未知への飛行」のレビューを参考にして下さい。またセラーズの3役ですが、タイトルにもなっているストレンジラブ博士での役(タイトルになっているわりには、ストレンジラブ博士として演技している時間は短いのですが)は、いくらブラックコメディでも或いは前段で述べたような混乱を象徴する人物として登場しているとしても、パフォーマンスとしては少しやり過ぎであるような気がします。

2002/10/05 by 雷小僧
ホーム:http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_actress.htm
メール::hj7h-tkhs@asahi-net.or.jp