小さな巨人 ★★★
(Little Big Man)

1970 US
監督:アーサー・ペン
出演:ダスティン・ホフマン、フェイ・ダナウェイ、マーティン・バルサム、リチャード・マリガン

☆☆☆ 画像はクリックすると拡大します ☆☆☆


<一口プロット解説>
リトルビッグホーンの最後の生き残りで、今やゆうに120歳を越える「小さな巨人」が、自分の波乱万丈の生涯を物語る。
<入間洋のコメント>
 先月、保守派ジョン・ミリアスが監督した「風とライオン」(1975)を取り上げ、セオドア・ルーズベルト大統領が主人公の一人として登場するこの作品では、古き良きアメリカを高らかに謳いあげるフロンティア神話の再神話化が意図されている旨を述べました。1890年に消滅が宣言されたフロンティアのイメージが喚起するフロンティア精神の再現を夢見ていたのがルーズベルト大統領であったとすると、ベトナム敗戦やウォーターゲート事件或いはアラブ諸国のオイル輸出規制によるオイルパニックといったアメリカにとって極めてネガティブなイベントが続出した暗い世相の中で、そのルーズベルト大統領を一方の主人公として製作された「風とライオン」という映画もまた、フロンティア精神の再現復活を夢見た作品であったことをそこでは述べました。つまり、「風とライオン」のような保守的な作品が出現する裏には、それなりの時代背景があったということになりますが、実を云えば「風とライオン」が製作されるわずか5年前には、それとは180度正反対の色合いを持つ作品が製作されていた事実に言及しなければそれは片手落ちというものでしょう。アメリカのベトナム敗戦が決定的になる以前の、ベトナム反戦運動をメインとしたカウンターカルチャー運動の時代を背景として、「アメリカ神話」をまさに脱構築するような作品が出現していたのです。「アメリカ神話」と最も密接した映画(のみならず小説でも同様ですが)のジャンルとしてまず第一に思い浮かぶのは西部劇ですが、その西部劇というジャンルに属する作品の中で決定的な「アメリカ神話」の脱構築が行われたとすれば、これに勝るインパクトはないと云えるのではないでしょうか。しかも、アメリカ人であれば、いやそれどころか日本人ですら知らない人は恐らくいないであろう、あの有名な「カスター将軍と第七騎兵隊の最後(Custoer's Last Stand)」という悲劇の英雄神話を徹底的に茶化した西部劇作品が現れたのですね。それが、「小さな巨人」でした。「カスター将軍と第七騎兵隊の最後」という悲劇の英雄神話と述べたことに対して、あれは史実であって神話などではないぞという反論が出そうですが、これから説明するように、「カスター将軍と第七騎兵隊の最後」は史実であると同時に神話でもあり、史実と神話が同居することは必ずしも矛盾ではないのです。草葉の陰でカスター将軍が怒り心頭に発するであろうことを覚悟して云えば、そもそも、カスター将軍の悲劇は、歴史的な文脈に照らしてみれば、さ程大きな意味を持ったイベントではなく、リトルビッグホーンでカスター将軍と彼が率いる第七騎兵隊が全滅したからといって、それで歴史の趨勢に大きな変化が引き起こされたわけでは毛頭ないことは、わざわざ指摘する必要すらないでしょう。彼我の間に決定的な差のなかった18世紀以前であればいざしらず、19世紀も後半になった当時であってみれば、数と技術で圧倒的に勝る白人を相手にして明日はインディアンの方が決定的に打ち負かされる番であろうことは、当のインディアン達にすら火を見るよりも明らかであったのであり、そのことはいみじくも「小さな巨人」のシャイアン族の古老(ダスティン・ホフマン演ずる主人公の育ての親になる老人)も明確に自覚しています。要するに、リトルビッグホーンでのインディアンの勝利は、白人によるインディアンの完全支配を、せいぜい1年か2年程度遅らせただけのことなのですね。それにも関わらず、「カスター将軍と第七騎兵隊の最後」は、映画を始めとしたメディアで、20世紀になってさえも、さも世紀の一大事件であったかのように頻繁に取り上げられてきたのです。これが神話でなくて、一体何であるというのでしょうか。

 「小さな巨人」では、白人の騎兵隊が、インディアンの女子供を虐殺するシーンが何度か挿入されていますが、これらのシーンはまさにそれまで堂々と流通していた「騎兵隊=正義、インディアン=悪」という西部劇の図式を引っくり返すものであることは改めて指摘するまでもないところであり、同年製作の「ソルジャー・ブルー」(1970)などと共に、「アメリカ神話」脱構築の先鋒を担ったことに間違いはありません。しかも「小さな巨人」は、半ばコメディ仕立てでもあり、シリアスな「ソルジャー・ブルー」などに比べると、描かれている内容の重さとそれを表現する表現様式の軽さのアンバランスさがまた強烈なシニシズムを醸し出していて、当時話題になった「ソルジャー・ブルー」などよりも「小さな巨人」の方が脱構築の程度が遥かに徹底的且つ効果的であったように個人的には思います。「小さな巨人」の脱構築がどれだけ徹底していたかは、ダスティン・ホフマン演ずる120歳の老人が語るストーリー自体が、そもそも単なるホラ話であるかもしれないという前提があることからも分かります。「小さな巨人」のプロットは、老けメイクしたダスティン・ホフマン演ずる120歳になる老人が、自分の波乱万丈の生涯をテープレコーダーを抱えた記者に語り聞かせる現代(ここで云う「現代」とはこの映画が製作された1970年のことです)を舞台とする冒頭とラストの外枠部分と、この老人の回想(或いはホラ話か?)が展開される内枠メインストーリー部分(以後メインストーリーと呼びます)とから構成されており、全体として大きな枠構造が取られています。この作品を最初に見た時は、外枠部分は全く必要ないのではないかとつい思ってしまったことを覚えていますが、実はこの作品ではダテに枠構造が採用されているわけではないことに最近になってようやく気付きました。つまり、「アメリカ神話」の脱構築すなわち相対化を徹底化するためにそのような構造が取られていることにふと気が付いたのですね。 次に、それについてゆるりと考えてみることにしましょう。このような構造を取ることの脱神話化効果は、そのような構造を取らなかった「ソルジャー・ブルー」のような作品と比較することによって明白になります。論点を明確にする為に話を単純化しますが、それまでは西部劇におけるインディアンの専売特許として描かれていた女子供の虐殺シーンを、今度は騎兵隊が行うシーンに描き換えて、「騎兵隊=正義、インディアン=悪」という旧来の図式を「騎兵隊=悪、インディアン=正義」として新たに置き換えても、それだけでは神話自体の脱構築にはいささか不十分なのですね。この点については、スロットキンというアメリカ史の専門家の業績を拝借して後で詳しく説明する予定ですが、ここで簡単に述べておくと、何故ならば、それだけでは単にモラルの問題に触れられているだけであり、要するに「騎兵隊だって、こんな悪いことをしていたんだ」と指摘しただけでは、たとえばカスター将軍の人望を失墜させることはできたとしても、「カスター将軍と第七騎兵隊の最後」という神話を生み出す神話生産装置自体を解体することにはならないからです。たとえカスター将軍の人望を失墜させることに成功したとしても、それだけでは無傷のままの神話生産装置が必ずや再起動して第二のカスター将軍を生み出すことは間違いがないからです。勿論、「ソルジャー・ブルー」のような作品は、カスター将軍のような特定の個人を批判の対象としたのではなく、騎兵隊全体をその対象としたのだという反論は可能ですが、それでも問題は変わらないのですね。つまり、騎兵隊全体が批判に晒されたとしても、肝心の神話生産装置が破壊されない限り、騎兵隊に代わる別の神話要素が生み出されるだけだということです。モラル的な批判とは単に具体的な個人や団体といういわば内容的側面に適用される批判に過ぎないのであり、神話という形式(神話が形式であるとはどういう意味かについても後述します)を産出する装置を破壊することにはならないのです。

 「小さな巨人」の凄いところは、「騎兵隊=正義、インディアン=悪」という図式を「騎兵隊=悪、インディアン=正義」という図式に引っくり返すのみではなく、そう見せかけながら更にそのようなモラル的な構図のみによってストーリーを俯瞰すること自体を嘲笑うかのようなハンドリングがなされているところなのです。それが可能になるのが、枠構造という装置を通してなのです。すなわち、「小さな巨人」のストーリーは、120歳のホラ吹き老人のホラ話(tall tale)かもしれないという可能性があることは別としても、ここで語られるメインストーリー自体、あくまでもある一人の人物の目を通して構成された一つのナラティブ(※)に過ぎないことが枠構造によって明確にされているのです。つまり、この作品では、メインストーリーで語られるストーリーがどのようなものであっても、それはある視点から見られ構成された1つのナラティブに過ぎないというメッセージがメタレベルで示されているのであり、ここにはナラティブの相対化が意図されていると云えます。ナラティブを相対化すること、これこそがまさに神話生産装置解体の第一歩なのですね。そもそも、外枠部分のハイテクテープレコーダー(といえども1970年なのでまだオープンリールですが)を前にして物語を語る老人の姿と、インディアンがまだ荒野を闊歩していたリトルビッグホーンの戦い当時のアメリカのフロンティアを駆け回る「小さな巨人」が同一人物であるという前提がもたらす途轍もないアンバランスがオーディエンスにもたらす効果には強烈なものがあります。しかしながら、よくよく考えてみればリトルビッグホーンの戦いは1876年の出来事なので、1970年時点であればそれからまだ100年とは経過していなかったことになります。従って、リトルビッグホーンの生き残りが1970年にまだ生きていたとしても、それは全く不可能であるというわけではないことにふと気付くことができます。この微妙なポイントが、返ってメインストーリーに複雑な影響を与えていて、老人の話は大法螺であるという前提なのか、或いは本当の話であるという前提なのかに関して迷いながらストーリーを追わざるを得ない立場にオーディエンスは置かれます。つまり、オーディエンスはズブズブにメインストーリーの中に引きずりこまれることなく、一歩距離を置いてストーリーを眺めるように強制されることになります。枠構造とは関係なくやや脱線しますが、もう1つ、この作品の一筋縄ではいかない物語叙述様式の例を挙げておきましょう。それはメインストーリーのラストシーンです。このシーンでは、くだんのインディアンの古老が、自分の生涯を閉じようと丘の上でケッタイな踊りを踊った後(上掲画像右端参照)、横になって目を閉じた途端、雨が突然降ってきて、いかにもミステリアスなインディアンの古老が神秘的な大往生を遂げたかとオーディエンスに思わせた次の瞬間、雨粒が彼の目にかかって目を開き、まだ生きていることを知って、「時にはうまくいくこともあるし、そうでない時もある」などと呟きながら死ぬのを諦め、彼の最期を見届けようと傍に付き添っていたダスティン・ホフマン演ずる主人公と生臭い話をしながら丘を下っていきます。このラストシーンに関しても、最初に見た時は思わず????の嵐が頭に去来し、何故このようなシーンが存在するのか不思議に思っていました。しかしながら、今から考えてみればこのシーンの意図は明白であり、つまり正義の騎兵隊などという神話要素を茶化して切り裂いたその返す刀で、今度は「ミステリアスなインディアン」などという別の神話要素も茶化して滅多切りにしているのです。いずれにせよ、それは内容面における茶化しであり、決して神話生成装置そのものの解体であるとはとても云えませんが、騎兵隊であれインディアンであれ、どんな神話要素であれ茶化しの対象とならないものはないというメッセージがこのラストシーンには強烈に篭められているのです。

※ナラティブとは、現代の文芸批評などで頻繁に用いられる用語で、厳密な定義はそれを使用する人の数ほどあると云っても大袈裟ではないかもしれません。辞書的には、物語風に叙述することを意味しますが、この語が現代の文芸批評などで用いられる場合には、単に辞書的な意味のみではなく、文化的アイデンティティ或いは個人的アイデンティの形成にそれが密接に関連するというコノテーションが含まれる為に極めて複雑な意味合いを有しているということは念頭において下さい。たとえば、「自分史」などという個人的には全く好きくない言い方がありますが、「自分史」とは自分のこれまでの経験を記したストーリーであるという以上に、これまた全く好きくない流行言葉を拝借すれば「自分さがし」というアイデンティティ探求を目的とした叙述という意味が濃厚に含まれているわけです。この「自分さがし」を目的とした叙述が、ナラティブの1つであると云えます。これは必ずしも個人ばかりが対象になるわけではなく、最も単純な例を挙げれば、過去数千年に渡って西欧の文化、西欧のアイデンティティの基盤であり続けてきた聖書もまた、1つのナラティブであると捉えられます。殊に聖書は、文芸評論家エーリッヒ・アウエルバッハ等によれば、まさに歴史意識を始動させた原動力なのであり、時間軸に沿って展開される叙述様式の大親玉のようなものと考えられるかもしれませんね。

 次に、前段の前半部分で述べた「ナラティブを相対化することが神話生産装置解体の第一歩になる」という重要な命題についてとくと考えてみることにしましょう。しかしながら、この問いは、一人で回答するにはあまりにも難問過ぎるので、例によってひとの業績を利用させて貰うこととします。ここで利用させて頂くのは、リチャード・スロットキンというアメリカ史家の著したアメリカの神話をテーマとした浩瀚な三部作のほんの一部です。スロットキンの基本スタンスは、アメリカ文化の底流に潜む神話要素を白日の下に晒すことであり、神話要素出現の瞬間をアメリカ史をひも解きながら追っていくことにあります。ここで1つ注意すべきことは、一部で彼のアメリカ史学は、アメリカの有名な神話学者でジョージ・ルーカスも彼から大きな影響を受けたと云われるジョセフ・キャンベルの神話研究のアメリカ史への応用版のように言われることもあるようですが、本人自身はジョセフ・キャンベルや或いはカール・グスタフ・ユングの方法論と自分の方法論は違うと述べています。正直云えばキャンベルに関しては「神の仮面」(青土社)や「The Heroes with a Thousand Faces」(Prinston University Press)などは読んだことがあるとはいえ、それもかなり昔のことで詳細は覚えておらず何とも言えないところですが、ユングの集合的無意識のような歴史から全く乖離した説明原理を持ち込むのではなく、あくまでも歴史の中に神話発生の核を求める点に彼の考え方の特徴があることは確かです。そのような核の1つが、「カスター将軍の最期」ということになるわけです。また、スロットキンはカスター将軍の最期を茶化した「小さな巨人」という映画が持つ脱神話性には大きな注意を払っているようであり、三部作の内、三作目「Gunnfigter Nation」(University of Oklahoma Press)にはしばしばこの作品への言及があり、二作目の「The Fatal Environment」(University of Oklahoma Press)にも冒頭で言及されています。実を云えば、私めが今ここでこのようなレビューを書いているのも、まさにこれらのスロットキンの著作に影響を受けたからでもあり、多くは彼の説に負っていると今になって告白しておきます。但し彼は歴史学者であり映画評論家ではない為、作品内容に直に参照した具体的な指摘はなく、このレビューにおける「小さな巨人」への具体的な言及は全て私めのものであることをお断りしておきます。さて、スロットキンはまず「The Fatal Environment」の冒頭で以下のように述べます。

◎「カスター将軍の最期」は、装いも新たな「フロンティア神話」の一部となった。それは、カスター将軍が生きた時代以前に成立した神話が彼や彼の同時代人達に受け継がれたのと同様に、未来の諸世代に受け継がれていくだろう。
(Custer's Last Stand became part of a renewed and revised Myth of the Frontier, which would be entailed on future generations as the earlier myths had been entailed upon Custer and his contemporaries.)


ここで、スロットキンが述べる「フロンティア神話」とはどういう意味であるかを詳細に説明する余裕もパワーもありませんが(当時のアメリカにおいてフロンティアの存在が有していた意味合いに関しては「風とライオン」のレビューを参照して下さい)、いずれにせよ重要なことは、「カスター将軍の最期」という事件は1つの神話としてアメリカ文化の底流に根付き、後の世代に影響を与えた或いは現在ですら与え続けているということです。それでは、スロットキンは、「神話」という用語をどのような意味で使用しているのでしょうか。それは以下の文を読むと明確になるでしょう。

◎神話とは、何世代もの慣用を通して、それを生み出す社会の文化機能の中心的役割を果たす象徴機能を獲得したストーリーであり、歴史から抽出されたものである。歴史経験はナラティブという形態で保存され、定期的に繰り返し語られることによって、ナラティブは伝統化される。これらの形式的な性質や構造は、次第に慣習化され抽象化され、最終的には強力な喚起作用、共鳴作用を有する一組の「アイコン」へと還元される。
(Myths are stories, drawn from history, that have acquired through usage over many generations a symbolizing function that is central to the cultural functioning of the society that produces them. Historical experience is preserved in the form of narrative; and through periodic retellings those narratives become traditionalized. These formal qualities and structures are increasingly conventionalized and abstracted, until they are reduced to a set of powerfully evocative and resonant "icons".)


ナラティブという用語については、註にて既に説明した通りです。上記引用文の重要なポイントは、

1.神話は歴史から抽出されたものである。
2.歴史的な体験は、ナラティブすなわち物語叙述を通じて文化的な沈殿物として保存される。
3.ナラティブは慣用されることにより更に形式的な構造として抽象化され、エモーショナルな反応を誘発するアイコンとして凝縮される。

にあります。すなわち、神話は、抽象化されたナラティブという形式を通じて、その神話を生み出した文化に所属する構成員に働きかけます。又、ナラティブは具体的な歴史的体験がそのルーツにあったとしても、長い年月をかけて抽象化され形式化されます。従って、ひとたびこのような抽象化が起こってしまえば、文化の底流に抽象化されたナラティブ自体を相対化して解体しない限り、いくら具体的な事象を批判の俎上に載せようが、神話を脱構築することはできないことになります。具体例で云えば、「カスター将軍の最期」という神話の実体は、たとえもともとはカスター将軍の最期という具体的なイベントがそのルーツになっていたとしても、何年もの時が経過するうちにカスター将軍の最期という具体的なイベントとは全く無縁の、具体的な内容を持たない抽象的な構造と化してしまっているということです。そしてその構造は抽象的形式的であるが故に、シンボルとしての強力な情動喚起機能を有しており、そのような空虚な形式を充たす具体的な内容は、今度はカスター将軍の最期という具体的なイベントとは全く無関係な任意のイベントであっても一向に構わないのです。従って、形式の中身を充たす任意のイベントを批判したところで、神話自体はビクともしないのであり、具体的なイベントのモラル面をいくらあげつらったところで、決して神話そのものを解体することはできないのです。有り体に云えば、その段階に至ってしまうと最早、カスター将軍の最期という具体的なイベントを批判的に見るのみでは、「カスター将軍の最期」という神話を相対化し解体するには不十分であるということです。

 この点を明確にする為に、スロットキンから更に引用してみましょう。

◎それ故、神話は、自らの持つ文化機能を遂行するにあたって、個別的で偶然的な経験を、理解や行動に関する普遍的な規則の基礎として一般化する。それは、日常的な歴史事象を、神聖化されると同時に神聖化をもたらす伝説へと変換させることによって達成されるのである。
(Myth therefore performs its cultural function by generalizing particular and contingent experiences into the bases of universal rules of understanding and conduct; and it does this by transforming secular history into a body of sacred and sanctifying legends.)
◎神話の材料は歴史的なものであるが、それらが非歴史的に組織化され神話となる。
(Although the materials of myth are historical, myth organizes these materials ahistorically.)
◎歴史が神話に変換される時に失われるものは、歴史の本質的な前提、すなわち過去と現在の区別そのものである。過去は、隠喩的に現在と等価にされ、現在は、単純に過去と同一化された構造の執拗な繰り返しと見なされるようになる。
(What is lost when history is translated into myth is the essential premise of history -- the distinction of past and present itself. The past is made metaphorically equivalent to the present; and the present appears simply as a repetition of persistantly recurring structures identified with the past.)
◎過去も現在も、無時間的で全ての歴史的な偶然性を超越したものと見られている単一の「法則」すなわち自然の原理を反映する諸事例に還元されてしまうのである。
(Both past and present are reduced to instances displaying a single "law" or principle of nature, which is seen timeless in its relevance, and as transcending all historical contingencies.)


重要な点は、神話は過去や現在が有する歴史的な偶然性をなし崩しにして、それがあたかも普遍的なものであるように見せかけるということです。時間性が全く消去されてしまうということですね。大袈裟な比喩を用いれば、アリストテレス哲学と融合した中世の神学的宇宙論が、時間の持つ偶然性を全く排除して一枚岩的構造理論と化してしまったのと似たような側面があるかもしれません。そのような宇宙観を脱して中世から近代へ移行するのに、莫大な時間と労力が必要であったことに鑑みれば、このような一枚岩的構造がひとたび成立してしまうと、それを解体することが如何に困難であるかが分かるというものでしょう。更にスロットキンは述べます。

◎このようなゲームの規則が、歴史のどの時点でいかに発生したのか、このような規則が隠蔽し捻じ曲げる真の利害や社会関係とは一体何か、ゲームを続けることの歴史的な結果とは何であったのか、これらが理解できれば、次回どこかの隊長やどこかの議員やどこかの大統領がゲームに取り掛かったとしても、もっと適切にそれに対処できるようになるだろう。
(If we can understand where and how in history the rules of the game originated, what real human concerns and social relationships the rules conceal or distort, and what the historical consequences of playing the game have benn, we may be able to respond more intelligently the next time an infantry captain or a senator or a president invokes it.)


ここで言うゲームの規則とは、権威筋にあたる隊長や議員や大統領達が自分達の役割を遂行する上で、パワーの源泉として機能する個々の神話が持つメカニズムのことであり、前述した「ナラティブ」という用語がこれに近いと見なせるでしょう。たとえば、西部劇というジャンルに属する作品のほとんどは、長い間特定のゲームの規則或いはナラティブに従って製作されてきたのであり、決してカスター将軍を「小さな巨人」が描くように茶化して描いたことはなかったのです。上記引用文中にもあるように、神話とはまさに権威筋のパワーの源泉が実は恣意的なものであることを「隠蔽」する為の装置なのですね。そのことを明確に語ったのは、フランスの現代哲学者のルネ・ジラールさんでしたが、どういうわけか不思議なことにスロットキンは、クロード・レヴィ−ストロース、ロラン・バルト、ノースロップ・フライ、ヴィクター・ターナー、クリフォード・ギアーツ、マーシャル・サーリンズ、フレデリック・ジェイムソン、ロバート・ニスベットなどといった神話論に少しでも関係する錚々たるビッグネームに次々に言及しているにも関わらず、何故かジラールさんの名前は全く出てこず、アレレ?と思ってしまいました。ジラールさんによれば、語りたくない本当のことを隠蔽する為の煙幕として語られるのが神話なのであり、それに対して、たとえば聖書は、犠牲という神話で血塗られた欺瞞装置の正体を暴き脱構築を行う為の神話解体装置であったということになります。スロットキンは、もしかするとジラールさんの言う聖書の役割を自著に持たせたいのかもしれません。また上記引用文を読めば、単に「騎兵隊=正義、インディアン=悪」という図式を「騎兵隊=悪、インディアン=正義」に引っくり返しただけでは、何故神話を解体するには不十分であるかが理解できるのではないでしょうか。つまり、それだけではせいぜいがゲームの規則に意図的に反則してちょっと反抗してみましたといった程度のことであり、ゲームの規則が厳然として存在することを当然のことであると意識しながら意図的に反則を犯してゲームの規則に逆らっているというのであれば、一歩もゲームの規則の埒外に立ったことにはならないということです。そして、ゲームの規則に支配された土俵上に立っている限り、土俵に組み込まれたゲームの規則の本質を見破り土俵そのものを解体することは絶対に不可能なのです。せいぜいかつてのストイコビッチさんのようにレッドカードを頂戴して、一試合出場停止になるくらいが関の山で、それではゲームそのものの脱構築には全くならないのです。ゲームの規則にちょいと逆らってみるくらいでは、むしろ返って当のゲームの規則を強化する結果になるのがオチなのですね。まさにここに大きなジレンマが存在するわけですが、ではこのジレンマを脱するにはどうすれば良いのでしょうか。その回答の1つとして、ゲームの規則が語られる論理レベルより上位の論理レベルに立ってしまうという方法が挙げられます。ここに「小さな巨人」で採用されている枠構造の大きな意味があるのですね。枠構造が持つ効果は一般にメタシアター効果と呼ばれます。それについては「残酷の沼」(1967)で説明しましたので詳細はそちらを参照して頂くものとして要点を述べると、メタシアター効果とは、外枠のストーリーが、内枠のストーリーの語られるコンテクストとなる表現様式や表現規則をメタレベルで変更してしまうことを言います。たとえば、内枠で語られるストーリーが如何にとんでもなく馬鹿馬鹿しいものであったとしても、それがある種の外枠ストーリーによって枠取られるだけで、内枠ストーリーの基底的な表現様式が変わって、あら不思議!いかにも自然に見えるようになります。もともと現実には有り得ないようなストーリーが語られるホラーやファンタジーのジャンルで、このような効果を狙って枠構造が採用されることが少なからずあることは、「残酷の沼」のレビューで述べました。西部劇ジャンルでこのような構造が採用された例は他にはほとんど聞きませんが、「小さな巨人」でもまさにこのメタシアター効果が有効に利用されているのです。メインストーリーすなわち内枠部分で展開されるストーリーの西部劇としてのナラティブの一貫性に疑問符が付され、西部劇というジャンルにこびりついている様々なゲームの規則から構成される土俵自体が揺るがされると同時に、一方ではインディアンの女子供が騎兵隊によって虐殺されるなどという残酷なシーンがありながら、他方ではそれを打ち消すかのようなコミックなパフォーマンスが繰り広げられるなどというアンバランスが併置されても、ゲームの規則はおろか映画自体までが脱構築されて木っ端微塵に吹っ飛んでしまったなどという結果に終わらないのは、まさにこの枠構造によるメタシアター効果が効いているからとも云えるでしょう。

 さて、ここで、「小さな巨人」という映画作品そのものには直接は関係しないとしても、大きな疑問がまだ1つ残っていることにふと気が付くのではないでしょうか。つまり、冒頭で述べたように、カスター将軍の悲劇は、歴史的な文脈に照らしてみれば、さ程大きな意味を持ったイベントではなかったにも関わらず、それならば何故それが神話として西部劇などを通して今日まで語り継がれているのかという疑問です。1つには勿論、カスター将軍は、当時「boy general」と呼ばれたように、南北戦争で若くして戦功を積み、また長髪を振り乱し赤いスカーフを巻いていたなど目立ちたがり的なところもあったりなどして(「小さな巨人」のリチャード・マリガン演ずるカスター将軍もかなり変てこな出で立ちをしていますが、誇張があるとはいえ全く史実に反しているというわけでもないようですね)、今風に云えばセレブであったこともあるのでしょう。しかし、単にセレブであったというのみでは、必要条件の1つがやっと充たされたに過ぎず、神話の英雄に祀り上げられるにはそれではとても十分でないことは改めて指摘するまでもないでしょう。そうでなければ、ハリウッドのスターの数だけ神話が生まれてしまうことになるからです。では、他のどのような条件が充たされたが故に、カスター将軍と第七騎兵隊の全滅が神話になり得たのでしょうか。実は、この点を解明することが、まさにスロットキンの三部作の二作目「The Fatal Environment」の大きな主題の1つなのです。この本は、びっちりと埋められた細かな字で(現在の日本の書籍の字の大きさに慣れている人は、文字の並びを見ただけで目を廻すかもしれませんね)本文だけでも500ページあるシロモノであり、ここでその内容を十分に伝えることはほとんど不可能であるとはいえ、このような本をわざわざ買ってむさぼり読むのは専門家か私めのような余程のモノ好きに限られるものと思われるので、以下に簡単にまとめてみましょう。実は、カスター将軍が活躍し始める南北戦争以前のヒーロー像には、フロンティアの内と外を股にかけて活躍する英雄というようなイメージが伴っていました。歴史上の最も有名な人物としてはダニエル・ブーンがその典型として挙げられ、フィクションの世界を取り上げるならば、個人的には全く読んだことがありませんが、フェニモア・クーパーの小説に登場するヒーロー達がそれにあたります。彼らは出自は白人であるとはいえ、フロンティアで危険な生活を送り、インディアンと戦ったり、インディアンの捕虜になったり、インディアンと取引したりしている内に、白人であるよりも、むしろ白人からは野蛮人(savage)であると見なされているインディアンにより近い存在にすらなります。野生の子であるインディアン以上に巧みに自然を利用し、彼ら以上に狡猾に敵を出し抜くことができるようになり、それ故通常とは逆に、味方であるはずの白人から恐れられ、敵であるはずのインディアンから尊敬されることすらあります。このように南北戦争前のヒーロー像には、極めて両義的な側面があり、文明の先遣隊である開拓者の目からすれば本来克服すべきはずの野蛮な自然から、逆に活力を得ていると見なされていたのが当時のヒーロー像であったことになります。このようなヒーロー像はしばしば西部劇でも見かけることができます。たとえば、たまたま最近見た「渡るべき多くの河」(1955)というコメディ調のフロンティア劇では、ロバート・テイラー演ずるフロンティアヒーロータイプの主人公が、瓜実顔美女の典型であるエリノア・パーカー演ずる元気娘(このような役には当時であればモーリン・オハラが最も相応しかったでしょうね)の言い寄りを必死に逃れようとしますが、それは何故かというと結婚して落ち着いてしまうことはフロンティアを股にかけて活躍する彼にとっては一種の死を意味するからです。また、彼が、インディアン以上に巧みに自然を利用し、彼ら以上に狡猾に敵を出し抜くことがいとも簡単にできることを示すシーンもしっかりと挿入されています。このようなフロンティアヒーローとしての資格を、勿論カスター将軍も有していたのですね。従ってインディアン側にも彼の名前はよく知られていたのです。そのような両義的なヒーロー像を持つ彼が率いる第七騎兵隊の全滅は、ある意味で同様に野蛮な自然の象徴であったインディアンの凋落をも皮肉にも暗示するものだったのです。つまり、カスター将軍とともに1つの時代が終わった、そして彼は時代の変わり目の殉教者、悲劇の主人公であったとも見なされたということです。スロットキンは、カスター将軍を弔う鐘の音は、同時にインディアン達を弔う鐘の音でもあったというような言い方をしています。

 しかしながら、それのみでは、カスター将軍はそれまでのフロンティアヒーロー達と何ら変わりがないことになりますが、南北戦争を含めそれ以後の時期に活躍したカスター将軍の場合には、それまで以上に複雑な社会的な問題が絡んでいたのです。まず第一に、肝心要のフロンティアそのものが消滅しつつあったという事実があります。フロンティアの消滅が実際に宣言されたのは、リトルビッグホーンの戦いよりやや先の1890年ですが、南北戦争後は未開拓の土地が急激に少なくなってきていたのです。ということは、それまでは、移民などの人口流入により、既に開拓が完了した地域の人口が増えても、更にその先があると考えればよかったのに対し、もはやそうは問屋が卸さなくなりつつあったということです。無限の土地や資源が利用できるかのような楽観的なムードが、徐々に消えつつあったということです。そうなると、じゃがいも飢饉に追い立てられたアイルランドを始めとした旧大陸からの移民の都市部(スロットキンはメトロポリスという言い方をしています)への流入は、はけ口が次第に閉ざされつつあるが故に、様々な都市問題を引き起こす結果になります。折からの産業の急速な発展の中にあって、資産をほとんど持たないこのようなマイノリティの移民達は、都市の片隅や炭鉱地帯などで下層階級を形成せざるを得なくなります。都市や炭鉱などで問題ばかりを起すこのような下層民は、中上流階級に属する既存の住民の目には、自分達とは全く異なる野蛮な人種であるかのように映り、彼らをインディアンとのアナロジーによって見がちになります。たとえばペンシルバニアの炭鉱夫達のストライキや反抗(これについてはショーン・コネリーが主演した「男の闘い」(1970)が扱っていました)などは、中上流階級の人々にとっては、あたかもインディアンが白人の開拓地を襲うかのように、突発的で暴力的な野蛮人の蜂起以外の何ものでもなかったのです。更に問題を複雑にしていたのが、南北戦争時に解放された黒人奴隷達の存在です。形式的には解放されたとはいえ、彼らも、中上流階級にとっては野蛮な人種であることに変わりはなかったのであり、そもそも、黒人の公民権運動が盛んになるには、それから更に1世紀近くを必要としているのです。かくして、都市部(メトロポリス)や炭鉱地帯における下層民の存在と、フロンティアの外側にいるインディアンの存在は、中上流階級の人々によって、同類項であるように見られる傾向があったのです。つまり、どちらも野蛮人としてです。まさに「アメリカのデモクラシー」の真価がここに問われる事態に陥っていたとも云えますが、いずれにしても当時にあっては、インディアンをどのように扱うかという論点は、都市の下層民をどのように扱うかという論点とも政治的に密接に連動していたということです。このような錯綜した政治状況の網の目に見事に捉われてしまったのが、カスター将軍であったと考えられます。従って、都市の下層民達をコントロールしたい人々にとっては、カスター将軍の死は、インディアンというよりはインディアンを含めた野蛮人を根絶しようとして殉教した殉教者としての意味合いを強く帯びたのですね。「ベケット」(1964)のレビューで、ヘンリー2世が放った刺客の手によって殉死したトマス・ベケットは、歴史における複雑な意味連関の網の目の中に見事に捉えられたと考えられると述べましたが、カスター将軍の死にも少し似たような側面があったと云えるかもしれません。このような歴史的な意味連関の網の目や政治的な要請が複雑に絡んで、神話は形成され強化されていくと考えるべきなのでしょうね。

 いずれにせよ、そのようにして成立した神話を脱構築しようとしたのが、「小さな巨人」や、或いは(カスター将軍とは関係がないはずですが)サンドクリークのインディアン虐殺を扱った「ソルジャー・ブルー」などの丁度1970年代の初頭に公開された西部劇だったということです。正直に云えば、「ソルジャー・ブルー」は10年くらい前にレンタルで借りて以来見ていないのであまり詳細には語れませんが、いずれにしてもこの作品にそれ程インパクトが感じられなかったのでわざわざ個人でビデオやDVDを購入しなかったのに対して、「小さな巨人」にはそれより遥かに大きなインパクトを受けたことは間違いがありません。どちらの作品も、それまでの西部劇の伝統を大きく破る作品として引き合いに出されることが少なからずあるにも関わらず、この印象の違いがどこに由来するのかは長い間よく分かりませんでした。「騎兵隊=正義、インディアン=悪」という図式を「騎兵隊=悪、インディアン=正義」に単純に引っくり返したところで、それだけでは何かが足りない、いやそれどころか結局本質的な面では何も変わっていないのではないか、或いは悪くすれば本来暴かれなければならないものが逆に隠されてより安泰になってしまっているのではないかという直感が働いていたということかもしれません。つまり、「そんなに単純なことなのかな?そんなに単純なことで済むのならばこの俺でも思いつくぞ!」などという生意気な疑問が頭の片隅に常にあったということでしょう。スロットキンの三部作を読んでから分かったことは、まさに西部劇が持つ神話はそんなに単純なものではないということです。そして、それが成功したか否かはとりあえず別としても、その単純でないことに敢えてチャレンジしたのが「小さな巨人」という映画であることも朧気ながら理解できたのです。監督は、「俺たちに明日はない」(1967)でアメリカンニューシネマの先駆者となったアーサー・ペンであり、このような言い方はやや問題ありかもしれませんが、60年代はそれ程当たり障りのない作品を撮っていた「ソルジャー・ブルー」のラルフ・ネルソンとはその点で大きな質の違いがあったと云えるかもしれません。と、例によってややこしいことをくどくど書き連ねてしまいましたが、「小さな巨人」はこれまで述べてきたようにコメディ要素もふんだんにあり、見ていてなかなか楽しい作品でもあります。そうそう、カリカチュア的なカスター将軍を演じているリチャード・マリガン(上掲画像中央参照)は、「アラバマ物語」(1962)などの監督で有名なロバート・マリガンの弟です。ただ、彼が監督した作品の中で個人的に一番好きで最も繰り返し見ているのは「Same Time, Next Year」(1978)ですが・・・。それから西部劇ファンの顰蹙を買いそうなので一言だけ弁解しておくと、何もこのような神話装置が働いているのは西部劇だけだと言いたいわけでもありませんし、また逆の言い方をすれば神話装置が働いているからこそ面白く見ることができるという側面があることも否定することはできません。面白い物語には、多かれ少なかれそのような側面があるのですね。

2008/09/05 by Hiroshi Iruma
ホーム:http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_actress.htm
メール::hj7h-tkhs@asahi-net.or.jp