ターミナル ★★★
(The Terminal)

2004 US
監督:スティーブン・スピルバーグ
出演:トム・ハンクス、キャサリン・ゼタ=ジョーンズ、スタンリー・トゥッチ


<一口プロット解説>
架空の国クラコジアからある目的を達成する為にやってきたビクターは、本国で発生したクーデターの故に、母国に帰ることもアメリカ国内に入ることも許されず、空港で暮らすようになる。
<入間洋のコメント>
 ホームページの名称を「入間洋のホームページ」に変更し「1950−70年代の米英映画と女優に再フォーカスするページ」というサブタイトルを付けて以来、看板に偽りのないようにその年代範囲に入らない作品を取り上げることは意図的に極力避けてきましたが、本日は目出度い正月ということで例外的に久々に近年の作品を取り上げてみました。とはいえいずれにしても、「ターミナル」という作品は、個人的にはオールタイムベスト20には入る作品であると見なしている程実に素晴らしい作品であり、十分に取り上げられてしかるべき作品であることにも間違いがありません。この作品のどこがそれ程素晴らしいかというと、政治的な理由によりニューヨークの空港に足止めを食らってしまった架空の国クラコジア出身の主人公(トム・ハンクス)とそこで働く空港の職員が織り成す人間ドラマという登場人物を視点の中心に据えた見方も勿論可能ですが、それ以上に空港という1つの「場所(place)」が主人公であると見なすことも可能であり、ヒーロー、ヒロインの存在が突出する近年のアメリカ映画にはほとんど見られなくなった独特な視点がそこでは提供されている点においてです。結論を先取りして云うと、この作品は空港という1つの充溢した場所が放つ磁場を描くことにまず第一の強調点が置かれ、それを基盤とした上で魅惑的な人間模様が紡ぎ出されているという点で近年稀にみるユニークな作品なのですね。典型的には近年のハリウッド産アクション映画にカリカチュアとさえ云える程強調され且つデフォルメされて見出されるように、近年の映画においては行動する主人公に焦点があまりにも置かれ過ぎていて、主人公を取り巻く環境としての「場所(Place)」に重きが置かれることがほとんどないことを考えてみると(脚注1)、スピルバーグのこの作品の重要さがより際立つのではないかと思われます。

 では、「主人公を取り巻く環境としての「場所(Place)」に重きが置かれる」とはいったいどのようなことを意味しているのでしょうか。大上段に構えて云うならば、そのような傾向を最も典型的に体現する例として挙げられるのがギリシア悲劇です(とはいえ正直に云えば、ソフォクレス、アイスキュロス、エウリピデスなどの古代ギリシアの著名な悲劇作家の作品を個人的に読んだことは一度もありませんが、しかしながらたとえばJ・P・ヴェルナンなどのその筋の専門家の著作は少なからず読んだことがありギリシア悲劇というテーマにはなかなか興味深いものがあるように考えています(脚注5))。ギリシア悲劇においても主人公として登場する英雄は確かに一個人ですが、バックグラウンドとして登場するコーラスは彼を取り巻く共同体であるポリスという「場(place)」をも表わしており、この両者の間には不断の緊張関係が常に存在します。実を云えばポリス成立期に確立されたギリシア悲劇においては、J・P・ヴェルナンが指摘するようにポリスのように政治的なレベルに属する言説と、ポリス成立以前から存続し続けてきた宗教的なレベルに属する言説が未だに混淆しており、そのような緊張関係は政治的な共同体との間ばかりではなく宗教的な神々との間にも発生し、また政治レベルと宗教レベルの間に発生する矛盾に捉われて悲劇が生じる場合もあります。死を免れることのできない人間たる英雄よりも不死の神々の方が大きなパワーを有しているのは敢えて云うまでもないことであり、従って英雄という一個人に対して神々の声が「運命」として重くのしかかってくるのがギリシア悲劇の大きな特徴の1つとなります。たとえばオラクルすなわち神託(そのような名前の有名なデータベースプロダクト=会社名があることはITエンジニアであれば誰でもご存知でしょうが、そのような恐ろしく傲慢な命名がされたことをただでさえブチ切れやすいゼウスが知ったならば、人間のヒュブリスに怒り狂って必殺技の雷撃をおみまいするのではないでしょうか)によって父親を殺し母親と結婚すると予言されたオイディプスは、彼が個人としてどのような決定をし、どのように振舞おうが決して予言された「運命」から逃れることはできないのです。一言で云えば、ギリシア悲劇においては個人よりもそれを取り巻く「場(place)」が抗し難い程大きなポテンシャルを持っていることを意味し、英雄という個人は「場(place)」が織り成す布置の中に置かれて始めて存在価値を得ることができるわけです。従ってギリシア悲劇に登場する英雄を近代的な個人という概念と同列に置くこと自体が大きな誤りであることになります。前述したJ・P・ヴェルナンらがオイディプス悲劇を精神分析的に解釈することの危険性を強調するのも、1つには近代的な個人や自我という概念を前提とした上で始めて成立し得る無意識などの概念を、そのような前提すら成立しない古代に適用しようとすることに対して警告する為であろうことが分ります(脚注2)。これに対して、「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」の「50年代を代表するメロドラマの巨匠ダグラス・サーク 《悲しみは空の彼方に》」でも少し詳しく書きましたが、かくして個人が独立した存在として確立してはいなかった古代とは違って、「アメリカンドリーム」などというフレーズがいみじくも示すように能動的に自らの力で困難を克服し成功することに大きな美徳が見出されるアメリカにおいては、近代的観点から見れば極めて受動的に見えざるを得ない「運命」のような考え方はむしろ蔑まれる傾向があるように思われます。アクションヒーローは、まさしくそのような個人の実力第一のアメリカ的トレンドの極北に位置する存在であると捉えることができるかもしれません。しかしながら、ギリシア悲劇などというようないにしえの例を何もわざわざ仰々しく掘り起こさずとも、アメリカ映画の中にすらギリシア悲劇的な「運命」というテーマが垣間見られる作品が少ないながら存在します。その一例が、最近日本でもようやく恐ろしい値段のDVDボックスセットが発売され再評価の兆しが見えてきたダグラス・サークの作品です。サークの作品についてはこれまでにも折に触れて紹介してきましたので、ここでそれを繰り返すことはしませんが、彼の作品に登場する主人公は、ほぼ例外なく個人的なパワーを遥かに越えた運命的な相貌の下に置かれていることに大きな特徴があります。サークはもともとヨーロッパ出身なので、そのような反アメリカ的とも取れるような表現が可能であったのかもしれません。

 また「運命」などというような大時代的に響かざるを得ないテーマではなくとも、個人よりも「場(place)」が優先されるタイプの作品が存在します。それは、いわゆるグランド・ホテル形式と呼ばれるタイプの作品であり、このタイプに属する作品においては、一人の絶対的な主人公が登場するのではなく、ある特定の場所(最も典型的なのはその名が示す通りホテルですが)の中で出会う複数の人物達が織り成す人間模様が描かれます。グランド・ホテル形式の作品において重要なことは、単にヒーローやヒロインなどの中心的且つ突出した一人の人物が存在しないというだけではなく、登場人物以上に彼らが織り成す人間ドラマが展開される「場(place)」そのものが極めて重要な意味を担っていることです。これ迄にレビューした作品の中では、デルバート・マンの「旅路」(1958)がそのようなタイプの映画の典型例であり、そこではバート・ランカスター、リタ・ヘイワース、デビッド・ニブン、デボラ・カー、ウエンディ・ヒラー、ロッド・テイラー等のスター達によって、特に誰が主演というわけでもなく複雑な人間模様が繰り広げられます。このような展開が可能であるのも、作品の焦点が田舎のホテルという1つの「場(place)」にあり、それを前提としてそこから人間ドラマが紡ぎ出されるからです。つまり「旅路」においてはホテルという1つの「場(place)」が最初に成立しているが故に、そのままでは個々バラバラな複数の人間ドラマが統合化された意味を持つようになるのであり、裏を返せばその中で繰り広げられる人間模様はむしろ「場(place)」を盛り立てる為の脇役であるとすら考えられます。これに対してアクション映画では、アクションが展開される「場(place)」は常にアクションヒーローによって好き勝手に利用されるだけであり、たとえばアーノルド・シュワルツネッガーやブルース・ウィリスが駆け抜けた後には草木も生えない程に「場(place)」が滅茶苦茶に破壊されてしまうのです。この意味ではアクションヒーローにとっては、「場(place)」は全く目に入ってはいないのであり、そこにはただ「空間(space)」が存在するだけなのです。言い換えれば、アクションヒーローは究極のデカルト主義者(Cartesian)なのですね(何のこっちゃ?)。近年のアクション映画にカーチェイスシーンが多いのも、アクションヒーローを取り巻く環境とは当のアクションヒーローにしてみればその中を高速で移動する抽象的空間でしかないが故に生じる環境搾取の反映であり、従ってそこに環境との相互インタラクションなど望むべくもなく、アクションヒーローの運転する車が駆け抜けた後は、瓦礫の山と化した廃墟しか残されないのです。

 ところで、前段において「場(place)」と「空間(space)」という用語を何の説明もなくお気軽に使用しましたが、では「場(place)」と「空間(space)」とは一体何がどのように違うのかという疑問がムクムクと湧いてくるのは当然のことでしょう。しかしながら、これに返答するのは簡単ではないのですね。何故ならば、実を云えば前ソクラテスのギリシアの時代からポストモダンやフェミニズムが跳梁跋扈する現在に至るまで西洋における思想の歴史は、「場(place)」と「空間(space)」という2つのアイデアの間を揺れに揺れ続けてきた歴史でもある程だからです。その点を明瞭に解説した非常に面白い書物にEdward S. Caseyという人の書いた「The Fate of Place」(University of California Press、邦訳不明)があります。恐らく日本語訳も存在しないこの書物(脚注6)の解説をここで行うつもりは毛頭ありませんが、いずれにせよ「場(place)」という言い方がされる時には常に具体的な何かがその中に存在する充たされた場所を指すのに対し、「空間(space)」という言い方がされる場合、論理的に無限であるような抽象的且つ等質的な空虚な拡がりが前提とされます。勿論、ギリシアの昔からどちらの見方も存在していましたが、「空間(space)」というアイデアが決定的に優勢になるのは近代に入ってからであり、それには有名なデカルトさんやニュートンさん達の活躍が不可欠でした。近代科学はまさに具象性を換骨奪胎した等質空間という抽象性が優勢を占めるようになって始めて可能になったのであり、デカルトさんやニュートンさん達は西欧思想において大きな転回点を為す存在であったと云えるでしょう。しかしながら、20世紀に入ると空虚な抽象的な「空間(space)」よりもむしろトポスとしての位置価が1つの大きな焦点となる「場(place)」の重要性が再び指摘されるようになります。たとえば鬱蒼とした森に囲まれた神社という場所は、同じ広さを持つヘドロにまみれた産業廃棄物処理場とは全く異なるという視点は、「空間(space)」の概念からはこぼれ落ちてしまうのであり、一種の暴力によって排除されたそのような位置価の見直しが、20世紀に入ると重要性を帯びるようになります。Edward S. Casey氏によればフッサール、メルロー−ポンティ、ハイデガー(脚注3)という巨人思想家達を皮切りとして、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、ミシェル・フーコー等の現代のスーパースター思想家達から、ジュディス・バトラー、リュス・イリガライというようなフェミニスト達の考え方に至るまで、「場(place)」の復興が多かれ少なかれ意図されているとも見なすことができるそうです。また科学自身の領域においてすら、20世紀に入るとたとえば物理学などでも古典力学を脱したアインシュタインさんやハイゼンベルクさん達の場の理論や量子論、或いは最近で云えばプリゴジンさんらの複雑系に関する理論などが登場するようになったのも、「空間(space)」から「場(place)」への回帰と何らかの関係があるのかもしれません。「風土」のような概念に馴染んだ日本人にとっては「場(place)」という概念は恐らくむしろ馴染みやすいものがあるのではないかと思われますが、西洋世界においては近代は「場(place)」を抑圧して「空間(space)」を跳梁跋扈させる結果となってしまったという反省が20世紀の現代になってムクムクとやおら頭をもたげてきたようであり、昨今の地球温暖化などの環境問題への注目も、そのような流れの中に位置付けられるでしょう。

 またしても例によって大きく脱線してしまいましたが、空港もしばしば、「場(place)」が優先されるグランド・ホテル形式の作品の舞台になることがしばしばあり、これ迄にレビューした作品の中では「予期せぬ出来事」(1963)や「大空港」(1970)をそのような例として挙げることができます。後者に関しては「エアポート・シリーズ」という一連のパニック映画を生み出したことでパニック映画の元祖であるかのように見なされている面もありますが、むしろグランド・ホテル形式のドラマ作品のバリエーションとして捉えられるべきでしょう。「ターミナル」もタイトル通りに空港を舞台としていますが、登場人物という観点においては明らかにトム・ハンクス演ずるビクターにメインの焦点が当てられているのでマルチ主人公的或いはそれと同じことですがノン主人公的なグランド・ホテル形式ドラマとはやや異なった色合いが確かに存在します。しかしながら、真の主人公は空港という「場(place)」であるという点においては、「ターミナル」もグランド・ホテル形式の作品に近いと見なすことができます。トム・ハンクス演ずる主人公のビクターは、そもそも祖国のクーデターにより、本国へ戻ることもアメリカの地に立ち入ることも出来なくなり、いわば煉獄のような中途半端な宙吊りの状態におかれ、空港という中間地帯に否応なく閉じ込められてしまうのであり、個人ではどうすることもできない運命にもて遊ばれます。しかし、それにも関わらず彼はアクションヒーローのように空港という「場(place)」を己の力で破壊してまで苦境を打開しようとするのではなく、空港という「場(place)」に見事に同化していくのですね。何しろトラブルのタネは他人に押し付けようとするスタンリー・トゥッチ演ずる空港の責任者がわざわざ非公式に脱走の手筈を整えても、空港に留まったままでいるほどです。このようにして彼は、空港という「場(place)」を征服したりそこから巧妙に逃走したりするのではなく、彼自身が空港を体現するような存在になっていきます。最初は疑いの目で見ていた空港で働く職員達も、次第次第に彼に敬意すら抱くようになるのは、彼が空港という「場(place)」を体現するような存在になっていくからです。この作品のタイトルが、たとえば「空港に閉じ込められた男」などというように主人公を示唆するのではなく、「ターミナル」という「場(place)」を強調するものであることは極めて意味深であるように思われます。勿論、確かにこの作品には、かくして空港に閉じ込められた男が、最後には空港から外の世界に足を踏み出してジャズ演奏家のサインを貰うことに成功するという個人的なドラマが展開される部分もありますが、この作品を何度も見ていて思ったのは、ヒューマンな小さなドラマでさえあればこの部分のストーリー展開は実際にはどのようなものであっても差し支えなかったのであろうということです。この作品の唯一の欠陥(脚注4)であると個人的に考えているのは、トム・ハンクス演ずるビクターの持っているピーナッツの缶は一体何なのかなという一種ミステリー的な興味を殊に前半あまりにも煽り立てすぎるので、そのような期待を持ち過ぎて見てしまうと最後に肩透かしを食ってしまうことです。このことは、殊に一番最初に見る場合に当て嵌まり、かくいう私めも最初にこの作品を劇場で見た折に、この点に関してのみは不満を感じたことを覚えています。しかしさっそくDVDを購入して何度も見ている内に、このようなストーリー展開そのものがこの作品の本質なのではなく、ちょっとした小さなドラマであれば何でも良かったのであろうことに気が付きました。従ってピーナッツ缶に対してあまり大きな意味を読み込んではならないことになりますが、初見時にはそのことは予見が困難なのでややmisleadingな面があり、オーディエンスに対して焦点ボケを惹起しそうな印象があります。しかしいずれにせよそれは些細な点であり、映画の面白さが伝わってくるこの作品は昨今の作品の中では最高傑作の1つであると考えており、それどころか冒頭でも述べたようにオールタイムベスト20には入る素晴らしい作品であると見なしています。最近はあまり聞かなくなりましたが某インド出身の監督とか名前ばかりが先行している人気監督達の中にあって、さすがにスピルバーグは只者ではないなということがこの作品を見ていても分りますね。


・脚注1:但し、同じ英語圏でもイギリスなどでは近年においても「場所(Place)」に重きが置かれる作品が時折製作されることがあります。たとえば、広大な屋敷や遺産相続がテーマになるマーチャントアイボリー製作のE.M.フォスター原作の諸作品などがその例になります。
・脚注2:実際日本の大学教授の書いた歴史や文芸評論に関する本や論文などでも、それらが精神分析について敷衍するものではないにも関わらずフロイトやユングが何の前触れもなく突然引用されているのを時折見かけますが、本当にそのような実証が困難な概念をわざわざ導入する必要があるのかと不思議に思うことが少なからずあります。
・脚注3:但し、Edward S. Casey氏は「存在と時間」の頃の初期ハイデガーに関しては、時間という概念に肩入れし過ぎている傾向が強いことを理由にあまり評価はしていないようです。また同様な理由からもう一人の20世紀前半の思想界の巨人であるベルグソンに対する言及はほとんどありません。素人的に考えれば、ハイデガーやベルグソンの時間概念は、「場(place)」の考え方にもどこかで繋がりがありそうな印象もありますが、彼はそうは見なしていないようですね。ハイデガーの考え方に関する素人でも読んで面白い入門書としては、中央大学木田元氏の「ハイデガーの思想」(岩波新書)、広島大学古東哲明氏の「ハイデガー=存在神秘の哲学」(講談社現代新書)を推薦しておきます。
・脚注4:唯一の欠陥と書きましたが、実はこの作品には情状酌量の余地のあるもう1つの問題点が存在します。それは時間経過に関してであり、トム・ハンクス演ずるビクターが空港に足止めを食らってから、最終的に空港の外に出られるようになるまで設定では9か月が経過したことになっているようですが、この作品を実際に見ていると画像として提示されている範囲から論理的に推測され得る日数(すなわち1週間程度)以上の時間が経過しているようにはどうしても思えないことです。従って、かくいう私めもその一人ですが、たとえば英語を全く理解することができなかったビクターが、完璧ではないにしても何故そんなに早く英語が理解できるようになるのか不思議に思ったオーディエンスもかなりいるのではないでしょうか。しかしこのような時間経過の表現に関するこの映画の難点に関しては情状酌量の余地があります。というのも、舞台が空港の建物の内部に限定されている為、時間経過を示す際に通常使われているモンタージュテクニックをこの作品に適用することが極めて困難であるからです。この時間経過イメージをクリエートするモンタージュテクニックに関しては、「ドクトル・ジバゴ」(1965)のレビューに簡単に書きましたのでそちらを参照して下さい。多分製作者側もそのような欠陥に気付いていなかったはずはないでしょうが、たとえばクラコジアでのフラッシュバックシーンを挿入するなど複数の舞台を設定して焦点を散逸させてまで時間経過イメージにこだわるよりは空港という1つの場所に焦点を集中させることの方に大きな意味があると判断したのでしょう。そうであるとすれば、個人的にもその判断は正解であると思わずにはいられないところであり、従って確かに問題点であるとはしても無理にそれを解消することは敢えて戦略的に行わなかったのであろうと解釈しています。
脚注5:このレビューを書いてからおよそ2か月後に中公新書から丹下和彦氏の「ギリシア悲劇」という一般向け(とはいえ新書としては結構ボリュームがあり読みごたえがあります)のギリシア悲劇解説書が刊行されましたので興味がある向きは是非どうぞ。(2008/03/17追記)
脚注6:このレビューを書いてからおよそ半年後に「場所の運命」として新曜社から日本語訳が刊行されたようです。お薦めしたいところですが、アマゾンで調べると\7,245也ということで、この手の訳書が大概そうであるように、これでは専門家か大学図書館かしか購入しないのではないかという値段がついていました。しかも、専門家であればそもそも英語が読めないということはほとんど考えられないでしょうから、それならば一体誰がわざわざ値段の張る邦訳を買うのかななどと思ってしまいます。いずれにしろ、このような興味深い本は、限られた専門家ばかりに読ませておくべきではないように思いますが・・・。(2008/09/07追記)

2008/01/01 by Hiroshi Iruma
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