ペーパー・ムーン ★★☆
(Paper Moon)

1973 US
監督:ピーター・ボグダノビッチ
出演:ライアン・オニール、テイタム・オニール、マデリン・カーン、ランディ・クエイド

左:ライアン・オニール、右:テイタム・オニール

ちょうど、「ペーパー・ムーン」が公開された頃、偶然か何らかの意図が少しでもあったのかよく分かりませんが、ペーパー・XXXXというタイトルを持つ作品が3作程相次いで公開されていました。他の2本は、「ペーパー・チェイス」(1973)と「太陽にかける橋/ペーパー・タイガー」(1975)であり、他にそのようなタイトルを持つ作品は聞かないこともあり、それらが一時期にまとめて登場したことには余計にまぎらわしさが感じられます。無表情な顔付きで三船敏郎が出演しているイマヒャクの「太陽にかける橋/ペーパー・タイガー」を除く他の二本はなかなかに良く出来た作品であり、今日でもそれなりの人気を誇る作品です。「ペーパー・チェイス」に関してはレビューや「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」の「自らも勉強がしたくなる映画 《ペーパー・チェイス》」に書いたのでそちらを参考にして頂くとして「ペーパー・ムーン」について述べると、この作品は詐欺師のモーゼと9歳の少女アディが、アメリカの中南部地方を旅して廻るという、この当時流行っていたロード・ムービーの1つのバリエーションです。因みに詐欺師と弟子のロード・ムービーと云えば「恋とペテンと青空と」(1967)などもありましたが、素性の怪しげなおっさんと少女という奇妙な取り合わせから出来する笑いとペーソスが「ペーパー・ムーン」のエッセンスであり、都会的に洒落た感覚を持ち、且つ過剰なセンチメンタリズムに陥ることのないピーター・ボグダノビッチならではの作品に仕上がっています。この風変わりな主人公二人を演じているのが実の親子であるライアン・オニールとテイタム・オニールであり(映画の中では実の親子という設定ではありません)、後者はこの作品によりアカデミー助演女優賞に輝いています。この作品における役回りという面のみから考えれば彼女はオヤジのライアン・オニールに匹敵するかそれ以上の意味を担っているとも見なせ、助演というよりも主演並みの活躍をみせてくれます。何せ、煙草までスパスパ吸っています。とはいえ、さすがに9歳の彼女に主演女優賞というわけにはいかないでしょうね。因みにこの年のアカデミー主演女優賞は「ウィークエンド・ラブ」(1973)のグレンダ・ジャクソンが受賞しており、さすがに相手があまりにも悪い。それは冗談として、この作品に関してまず留意する必要がある点は、タイトルが「ペーパー・ムーン」であることでしょう。「ペーパー・ムーン」というタイトルは、テキ屋の並ぶ遊園地に店を構えた写真屋でアディがダンボール製の三日月に座って記念写真に収まるシーンから、いわばシネクドック的に取られたものですが、「紙(ダンボール)製の」というフレーズには通常は「本物ではない」というコノテーションが含まれていることに注意すべきでしょう。従って、主人公二人の関係が外見は親子のようでありながら実は親子ではない、或いは彼ら二人がまっとうな仕事につくことなく人の目を欺く詐欺によって生計を立てているというような外見と内実の間にあるギャップがそれによって示唆されているとも考えられます。しかしながら、この作品ではそのようなギャップがネガティブに扱われているわけではなく、むしろニセものでありながらも時にはまさにそうであるからこそ本物がそこに強烈に指向されるというポジティブな評価が存在することに注意すべきでしょう。すなわち、内実とは異なる外見という本来であれば欺瞞として否定的に捉えられる要素が提示されながらも、それがもう一度反転されプラスの価値として捉え直されるような構造がこの作品には内在しているということです。この点はラストシーンで親類の家に世話になることを放棄してまで結局モーゼと一緒にどこへともなく再び旅立っていくアディの姿によく示されています。家庭=真の人生、放浪=虚偽の人生という評価がここでは宙吊りにされているわけです。また、彼らが詐欺をしてまわる姿には、モラル面を含めどのような意味においてもマイナスのコノテーションを持って描かれることがありません。「ペーパー・ムーン」は大恐慌後の不況時代が舞台になっていますが、大恐慌とは1920年代の見かけの繁栄という偽りの金メッキが脆くも剥がれた時に突如襲ってきたのです。従って、筒井康隆流に云えば何が本物であるかという自信が人々の間からガラガラと音を立てて崩れてしまった後のいわば精神の廃墟の時代がこの作品の時代設定になっていることになります。そのような時代に特有な精神的荒廃を背景として、偽り或いはニセモノという否定的な側面をもう一度引っくり返して肯定に変えてしまうのは、弁証法的というよりもむしろ錬金術的な魔術であるという方がピタリであって、その意味ではこの作品ではまさに錬金術的な魔術が描かれているのであり、それがこの作品の最大の魅力でもあるのです。内容面に関してはこれくらいにして、実はこの作品の特徴的な点は表現面にも現れています。そうです、それは寝ていない限り誰が見ても明らかなようにこの作品が白黒で撮影されていることです。実は監督のピーター・ボグダノビッチは、1971年に公開された「ラスト・ショー」(1971)も同様に白黒で撮影しています。考えてみれば1960年代であれば、減っていたとはいえ白黒作品が奇異に見えることはほとんどありませんでした。たとえば、ボグダノビッチより若干年上とはいえほぼ同年代にあたり現在でも現役で活躍しているマイク・ニコルズは1960年代後半「バージニア・ウルフなんかこわくない」(1966)でデビューしますが、この作品は白黒撮影されているにも関わらず白黒で撮影されているという事実が奇異に思われることはありません。これに対して1970年代前半に製作されたボグダノビッチの2本の作品が白黒であるのは決定的に奇異に思われるのですね。というのも1970年代に入ってから、通常の作品が白黒で撮影されることは最早有り得なくなっていたからです。恐らく1960年代後半のどこかで白黒映画がほとんど突然消滅したのであり、少なくとも米英映画に関してはそれ以後は余程の理由がない限り通常の作品が白黒で撮影されることはなくなります。ここで考慮しなければならないことは、殊に古いタイプの監督さんやカメラマンはカラーで撮影するよりも白黒で撮影することを好む場合が多かったということであり、専ら審美的理由により白黒で撮影されることが多かったということです。つまり、カラー映画は映画というメディアに相応しくないと考えていた関係者は少なくなかったのです。またそもそも白黒映画からカラー映画への転換は、必ずしも常に右肩上がりで進行したわけではなく、1954年には一旦カラー作品と白黒作品の割合が5分5分になったあと、その後数年に渡ってカラー作品の割合が減少します。そのような状況があったにも関わらず1960年代後半のどこかで映画が一気にカラー一本やりになってしまった理由の1つは、「The Histories of the American Cinema Volume8, The Sixties」(University of California Press)のポール・モナコ氏によれば、既に以前から映画界ではテレビ放映権による収入により製作費回収の足しにすることが常態化しており、そのテレビが急速にカラー化しつつある中にあって白黒で映画を撮影していたのでは将来的にマイナスであろうと判断されたからだそうです。すなわち、映画の本質とは関係のないところで、かなりキナ臭いおゼゼの問題が絡んでいたということです。何せ現在とは違って当時においてはテレビは映画の最大の敵であったと同時に、皮肉にも映画会社の大きな収入源の1つにもなりつつあったのです。そのような1960年代の急速な時代変遷の中において、面白いのはカラーか白黒かであっちへふらふら、こっちへふらふらしていた監督さん達がかなりいることです。それも、かつての巨匠達です。その代表はビリー・ワイルダー、オットー・プレミンジャー、ジョン・ヒューストン、スタンリー・クレイマーあたりであり、プレミンジャーに至っては一作毎にカラーと白黒が交代したりなどします。あっちふらふらこっちふらふらすることはなかったとは云え、1960年代にカラーに切り替えてからイマイチになったしまったジョセフ・L・マンキーウイッツやエリア・カザンなどもいます(但し前者には「探偵スルース」(1972)、後者には「草原の輝き」(1961)という唯一の例外がありますが)。ヒチコックは1950年代には優れたカラー作品を撮っていましたが、1960年代になると「」(1963)を最後にそれまでの彼の作品を基準にすれば大ハズレを連発し始めます。比較的新しい監督さんの中では、ジョン・フランケンハイマーが決定的に白黒向きであり、「グランプリ」(1966)以降カラーを採用してからはハズレが多くなります。例外的にシドニー・ルメットのみは、白黒であろうがカラーであろうがそれなりの水準を保っていました(とはいえ、彼は多作で玉石混淆のきらいがあるのでハズレもそれなりに多い人ですが)。このようにカラーと白黒の間でソソソクラテスかプラトンかのように悩んだ監督さん達は、カラー撮影が当然になる1970年代になると総くずれの状況になります。確かにワイルダーに関しては「シャーロック・ホームズの冒険」(1970)、「フロント・ページ」(1974)、「悲愁」(1978)などはそれなりに評価できる作品であり、殊に「フロント・ページ」は私めの大好きな作品ですが、そうであったとしても彼の40年代や50年代或いは60年代初頭の作品に比べるとインパクトは遥かに落ちたと言わざるを得ないところでしょう。かくしてカラーを持て余して巨匠達が総くずれになる状況にあって、彼らよりも遥かに若い世代に属するボグダノビッチが堂々と白黒で撮影しているのですね。彼の本来の意図がどこにあるのかは今一つ分らず、「ラスト・ショー」はそれなりに白黒である理由が納得できても、光や影のコントラストが大きくものを言うわけではない昼間戸外が舞台の中心になるロードムービーである「ペーパー・ムーン」が白黒で撮影されているのは普通に考えると理由がないように思われ奇異な印象があります。この作品を前述した巨匠達の内の誰かが撮ったとしたならば、恐らくアナクロニズムであると非難されるのがオチであるように思われ、むしろ実績が当時はまだ少なかったボグダノビッチであるからこそ許されたと考えられかもしれません。それにしてもこの作品、ビジュアル面において変わっているところがあります。というのも、音声解説であったか誰かが述べていることでもありますが、主人公達が通過する町の様子がどこも西部劇のゴーストタウンのようにがらんとして誰一人歩いていないのですね。つまり、背景となる人の動きが全く省略されていて、それがこの作品のビジュアル面に空虚な印象を強く与える結果になっているように思われます。恐らくは不況時代の田舎町の醸しだす空虚さをビジュアル面で必要以上に強調して提示したかったということでしょうか。もしかするとそのあたりにこの作品が白黒で撮影されている動機に関する1つのヒントが潜んでいるのかもしれません。これは手前勝手な個人的想像ですが、カラーで撮影すると偶然に依存する細部のリアリティが目立たざるを得なくなり充満した印象を与える結果になるかもしれず、敢えてそれを避ける為に画面から色を脱色したのではないでしょうか。つまり光と影を強調する表現主義的傾向を持つかつての監督さん達が、グラデーションという表現様式を強調し光と影のコントラストにより空間を充満させる為にも白黒で撮影する必要があったのに対し(従ってカラーで撮影せざるを得ない状況に立ち至ると没落して神々の黄昏状況になってしまうわけです)、ボグダノビッチはむしろカラーを脱色し空間イメージを希薄にする為にわざと白黒で撮影したのではないかということです。カラー映画が当たり前になったところからの引き算によりこの作品が成立したのではないかと言えばさすがに言い過ぎでしょうか。この作品には白黒作品でありながら、たとえばフィルム・ノワール作品のような空間的な立体感がまるでなくフラットな印象がありますが、そのような印象を与えるそのこと自体が彼の狙いであったのではないかということです。そうそうマデリン・カーンのとぼけた味はいつもの通りであり、またデニス・クエイドの兄貴でボグダノビッチ作品に少しずつ顔を出していたランディ・クエイドがこの作品にもわずかながら出演しています。


2008/04/04 by Hiroshi Iruma
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