恋とペテンと青空と ★★☆
(The Flim-Flam Man)

1967 US
監督:アービン・カーシュナー
出演:ジョージ・C・スコット、マイケル・サラザン、スー・リオン、ハリー・モーガン

左:ジョージ・C・スコット、右:スー・リオン

ジョージ・C・スコットといえば、たとえば「パットン大戦車軍団」(1970)や「ホスピタル」(1971)での爆発的なパフォーマンスを思い出しますが、ここに取り上げる「恋とペテンと青空と」では詐欺師を演じていて、これが予想に反してなかなか愉快です。詐欺といっても国家や大会社を向こうに廻しての大胆な詐欺ではなく、対象となるのはその辺のよろず屋の店主や顧客達であり、彼らを騙してせいぜい数十ドルを巻き上げるといったチンケな詐欺であるところが、まず笑えます。たとえば、相棒(マイケル・サラザン)をサクラにしてトランプの絵札当てで地元のよらず屋の顧客達を騙したり、当たりしか出ない福引きを店のオーナーに推薦しておき、何食わぬ顔をして後からその店に入ってきた相棒が、当の福引きで20ドル程儲けたりというような調子なのです。後者のケースなど福引き用のボードを作るのに相当時間がかかりそうに見え、結局それで20ドル程度しか騙し取れないのならば割に合わないようにすら見えます。そのようなのんびりとした雰囲気には、いかにも60年代の映画の趣があり、スタイリッシュなスピード感ばかりを求める現代の映画に見慣れていると逆にフレッシュに見えます。また、「恋とペテンと青空と」には、70年代になってから本格的に流行するロードムービーの趣向もあり、地元ではフリムフラムマンという渾名で知られる詐欺師(ジョージ・C・スコット)と相棒(マイケル・サラザン)が、片田舎を放浪しながら自由奔放に振る舞う様子が生き生きと描かれています。けれども、「恋とペテンと青空と」が70年代のロードムービーと異なるのは、放浪の根拠となる葛藤や自己矛盾が登場人物のパーソナリティ中に全く見出せないことです。すなわち、主人公達は、新たな何かを求めて放浪するのでもなければ、自らの忌まわしい過去や或いは伝統のしがらみから逃れる為に放浪するわけでもないのです。いわば、彼らには履歴がないのです。その証拠に、相棒は、騙しに入った田舎町の有力者の家の娘(スー・リオン)にホの字になって、定住してきちんとした仕事を持つべきという彼女の説得に敢え無く屈し、フリムフラムマンとのそれまでの行状を洗い流す為にわざわざ警察に捕まってしまいます。確かに、ここに葛藤が発生していることに違いはありませんが、その葛藤とは、フリムフラムマンと放浪を続けるべきかそのような生活から足を洗ってまっとうな生活に戻るべきかという葛藤であり、葛藤の結果として自己確認の為に放浪するというわけでは決してありません。要するに、「恋とペテンと青空と」は、70年代のロードムービーとはベクトルが逆を向いているということです。70年代的な図式が「自己矛盾/葛藤−>新たな自己を求める為の放浪」であったのに対し、60年代的な図式は「放浪生活−>まっとうになるか否かの葛藤」であり、しかも後者では、まっとうになるか否かの葛藤は自己の内部から湧き上がってくるのでは決してなく何らかの外在的な要因に起因するのです。「放浪生活−>まっとうになるか否かの葛藤」という図式は、たとえばフレッド・ジンネマンの「サンダウナーズ」(1960)などでも見られる図式であり、同じく放浪がテーマであるとはいえども、60年代の作品と70年代の作品の間では、かなり大きなニュアンスの違いがあります。勿論、「恋とペテンと青空と」はシリアスドラマではなくコメディであるという理由もあるとはいえ、そもそも放浪というテーマがマイルドなユーモアで味付けされている点が60年代的な特徴の1つであるとも見なせます。いずれにしても、全体的には屈託のないユーモア溢れる、いかにも60年代的な愉快な作品です。殊に、老けメイクで出演するノンシャラントなジョージ・C・スコットのパフォーマンスが見所です。


2003/07/05 by 雷小僧
(2008/11/04 revised by Hiroshi Iruma)
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