探偵スルース ★★★
(Sleuth)

1972 US
監督:ジョゼフ・L・マンキーウイッツ
出演:ローレンス・オリビエ、マイケル・ケイン



<一口プロット解説>
ローレンス・オリビエ演ずる探偵小説作家は、自分の奥さんと懇ろになった美容師(マイケル・ケイン)に屈辱を味わわせるために、広大な自分の屋敷に彼を招待する。
<入間洋のコメント>
 たった二人の登場人物だけで2時間の間観客を座席に釘付けにすることが出来る映画はそうざらにはないが、「探偵スルース」がまさにそれである。そもそも登場人物が二人しか登場しない映画そのものがほとんど存在しない。すぐに思い浮かぶ作品は、リー・マービンと三船敏郎が出演した「太平洋の地獄」(1968)くらいのものである。70年代の映画ではロバート・マリガンの素晴らしい作品「Same Time Next Year」(1979)がそれに近いが、主演のアラン・アルダとエレン・バースティンの他にもセリフをほとんど持たない人物が登場し完全な二人劇ではない。いずれにせよ、2時間20分という長さにも関わらず、「探偵スルース」にはローレンス・オリビエ、マイケル・ケインという文字通り二人の俳優しか登場しない。しかも、舞台は探偵小説作家アンドリュー(ローレンス・オリビエ)が住む広大な屋敷とそれを取り囲む迷宮庭園のみに限定されており、ほとんど舞台劇であると言っても大きな間違いはない。これ故、この映画の是非は、この新旧二人のイギリスの名優のパフォーマンス、プロット展開の巧みさ、流麗且つソフィスティケートされた会話廻しに大きく依存する。すなわち、監督、脚本、俳優の意志がうまく統一され且つ高度に統合化されて始めて優れた作品になるという、文字通り映画における超絶技巧が要求されるような作品である。「探偵スルース」は、これらの要素を全て備えている希有な映画だが、そのような面でのこの映画の素晴らしさは既に広く知られたところであり、ここで同じような賞賛を繰り返すことはしない。その代わりに、趣向を変えてこの映画の持つ社会的、心理的側面に言及してみよう。その点に関してまず述べておかねばならないことは、タイトルが「探偵スルース」である為に、一度もこの映画を見たことがない人は、アガサ・クリスティの探偵小説に基づく映画と同類項ではないかと思われるかもしれないが、この映画は純然たる心理ドラマであり、いわゆる探偵ものとは全く違うということである。

 この映画を説明するにあたっては、極めて錯綜したストーリー展開が重要な鍵になる為、それをまず紹介しておくことにする。ストーリーは、探偵小説作家アンドリュー(ローレンス・オリビエ)の住む広大な屋敷に美容師マイロ(マイケル・ケイン)がやってくるところから始まる。アンドリューは、屋敷に付属する迷宮庭園の真中で探偵小説をテープに吹き込みながらマイロを待っているが、マイロの方ではアンドリューの声は聞こえながらもなかなか迷宮庭園の中心に辿り着けない。それもそのはず、迷宮庭園の中心に通ずる順路は存在しないからであり、生け垣の特定の箇所にある仕掛けに気が付かなければ一生中心には辿り着けないようなレイアウトになっているからである。結局、アンドリューの方がマイロを中に招じ入れる。ところで後になって判明するように、アンドリューがマイロを彼の屋敷に招待した真の理由は、彼の奥さんとマイロが懇ろの関係にあることを知り、マイロに屈辱を味あわせてやろうと計画しているからである。既に冒頭から心理劇が始まっているとも言えるが、ここからこの二人の死に至る危険な心理ゲームが始まる。まず、アンドリューがマイロに対して心理ゲームを仕掛ける。すなわち、前半はマイロの方では、アンドリューが危険な心理ゲームを仕掛けていることに全く気が付いていない。アンドリューは保険金が目当てであるように思わせてマイロに自分の奥さんの宝石類を盗ませようとする。けれどもこれは、マイロを亡き者にするに足る口実を得る為のアンドリューの狡猾なトリックであることがやがて分かる。アンドリューは、道化師の服装をして屋敷に押し入ったマイロを取り押さえ、命乞いをする彼の頭に銃口をつきつけ引き金を引く。けれどもこれは空砲で、マイロに膝まずいて命乞いをさせ屈辱を味あわせる為のアンドリューの狡猾なトリックであったことが分かる。この時点を境として、プロットは180度反転する。というのも、ここからは心理ゲームを仕掛けるのは殺人捜査官に扮するマイロの方であり、アンドリューはこの捜査官がマイロであることに最初は全く気が付かない。マイロは、殺人捜査官に扮してアンドリューに屈辱のボディブローを浴びせた後、自分の正体を明かす。けれどもこれはアンドリューに最後の決定的な一打を浴びせるが為であり、マイロはアンドリューに彼の恋人を絞殺しアンドリューが犯人であるように見せかける証拠品を屋敷中にばらまいたと宣告する。アンドリューはそれを聞いて血相を変えてそれらの証拠品を捜し出すが、やがてこれはアンドリューに屈辱を与える為のマイロの狡猾なトリックであったことが判明する。自尊心のかたまりのようなアンドリューに決定的な屈辱を与えマイロの復讐が果たされたように思われたその時、ゲームがゲームではなくなる瞬間がやって来る。すなわち、意気揚々として屋敷を立ち去ろうとするマイロに対し、アンドリューが今度は実弾の入った拳銃を発砲する。マイロを射殺した事実に呆然としたアンドリューが、同じゲームを3度繰り返すことは出来ないと呟いて泣きじゃくるシーンでこの映画は幕を閉じる。

 ストーリー紹介でも述べたように、流れは中間点で180度反転する。すなわち、前半では危険な心理ゲームの主役を演じていたのはアンドリューであり、後半ではそれがマイロに入れ替わる。注意すべきことは、ここでいう心理ゲームとは我々が通常楽しむゲームとは全く異なることである。すなわち、マイロとアンドリューが演じているゲームとは文字通り一方通行のゲームであり、我々が普段楽しむゲームが相互的であるのとは全く異なる。前半ではマイロはアンドリューがゲームをしていることを知らないのに対し、後半ではアンドリューはマイロがゲームをしていることを知らない。これ故、彼らが演じるゲームとは、ある意味において勝者と敗者が最初から決定されているゲームであり、言い換えれば始めからそのゲームを行う理由など全くないようなたぐいのゲームである。このようなゲームとは、どちらかが決定的に破滅しない限りは終らないのであり、ラストシーンがそのことを雄弁に物語っている。すなわち、一方通行的なゲームへの執着の故に、アンドリューはラストシーンで単純にマイロを勝者として立ち去らせることが出来ない。アンドリューの演ずるゲームの中では勝者は常にアンドリューでなければならないからである。言い換えると、彼らが演じているゲームとは双方向性が必須となる社会的な活動と呼べるものでは全くなく、相手を自分の膝の前に屈服させる心理的なパワープレイであることになる。美容師であるという前提からも窺えるように、前半ではマイロは通常の社会的な活動に従事するいわゆる社会人であるように描かれているのに対し、アンドリューは探偵小説作家であり、彼は自らの書く探偵小説の中で様々な心理的パワープレイや巧妙なトリックを生み出し続けてきたに違いない。屋敷にところ狭しと散らばる様々な奇妙なゲームや人形達がいみじくも示すように、現実の世界と想像の世界を混同しているような傾向が彼にはある。マイロとアンドリューのこの違いが、心理的なパワープレイにおける前半部でのアンドリューの圧倒的な優位性を物語っている。けれども後半になると、アンドリューのマインドセットを学んだマイロも同じような心理的なパワープレイを仕掛ける能力を身に付ける。このように考えると、この映画にはたった二人の登場人物しかいない理由が明確になる。すなわち、この映画には三人以上の登場人物が必要となるような社会的な関係が描かれているのではなく、一方向的な心理的パワープレイが描かれているからである。一方向的な心理的パワープレイを駆使する二人の登場人物のみによる心理劇がいかに奇怪なものであるかは、通常の社会的なインタラクションとはどのようなものであるかについて考えてみれば明瞭になる。これについては、たとえば「奇跡の人」(1962)のレビューで取り上げたジョージ・ハーバート・ミードの議論も参考になろうが、同じ議論を蒸し返しても芸がないのでここでは少し趣向を変えて現象学的社会学者アルフレッド・シュッツの議論を参考にしてみよう。

 シュッツは次のように述べる。「我々は、我々の環境であると通常我々が呼ぶ共通的且つ不可分であるような環境の中で暮らしている。かくして我々の住む世界は、我々のどの一人についても単に私的なものとして存在しているわけではなく、まさに我々の眼前にある1つの共通的且つ間主観的な我々の世界として存在している。そしてこの間主観的な世界が構成されるのは、我々の住む世界における共通的な生きた経験である対面的な関係を通してである」。すなわち、シュッツは社会的な関係とは、ある共通の生きた経験に基づいたものでなければならないと述べている。ところが、アンドリューとマイロが演ずるゲームの中では、共通の生きられる経験は全く存在しないのであり、他方が持つ生きられる経験を互いが最初から排除し合って自分だけのゲームを演じているのである。シュッツは続ける。「もし、あなたと私が対面的状況にあるということを私が真に認識しているのであれば、お互いが意識的な経験に同調しているそのあり方、言い換えればお互いの「喚気的な修正モード」について何らかのことを自分が認識していることをも意味する。これは、我々が自身の意識的な経験に参与する方法とは、実際には互いの互いに対する関係を通じて修正されるものであるということを意味する。これはその対面的な状況に直面する私とあなた双方に関して言えることである。何故ならば、あなたが有する私についての認識をあなたが私に伝えてくれる限りにおいて真の社会的関係が成立するからである。この状況が発生し対面的関係が成立するやいなや、互いに新しい方法での自分の経験への参与が開始される。直接経験される社会的な関係を構成する二人のパートナーが相互に相手に関して認知を行うこの喚気的な修正モードは、対面的状況において発生する社会的相互作用に関して特別な意味をもたらす」。シュッツのフレーズを理解するのはそう簡単なことではないが、敢えてチャレンジしてこの映画に関連させた言い方をすると、真の社会的関係を成立させるには、自己と他者から構成される相互関係を通じて自分自身を修正し変化させていく必要があるという可能性を自ら予め受け入れておかねばならないということである。まさにそのような変化の可能性を認めていない或は認めることが出来ないのがこの映画におけるアンドリューとマイロであり、そのような認識の欠乏が最後のカタストロフを生んでしまうのである。

 シュッツの論点に留意しながら、次に心理的パワープレイのマスターであるアンドリューのマインドセットについてもう少し詳しく考えてみよう。彼のマインドセットが熱帯雨林のように錯綜したものであることはこの映画の様々なシーンを見れば明瞭である。それはまず冒頭の迷宮庭園で早くも明らかになる。迷宮庭園自体がかなりひねくれた代物であることは言うまでもないが、しかもこの迷宮庭園には解が存在しない。つまり、ある仕掛けの存在を知らなければ誰もこの迷宮の中心にはたどり着けないのであり、要するにアンドリューは迷宮庭園の中心で象徴される自身の内的世界に外側からのアクセスを許可していない。また彼がこの閉ざされた世界から外の世界へ出向いていくこともまずないであろう。このような閉鎖された内的な空間に閉じ籠っていれば、無数の白昼夢や幻想が出現し培養し増殖するであろうことは心理学を齧ったことがない人でも容易に理解出来よう。彼の屋敷にある奇妙な人形達の中でも最も奇怪なものに、リモートコントロールを用いて手をたたかせたり瞬きさせたりすることの出来る等身大の水夫の人形がある。そもそも人形が等身大であることが奇怪であることは、「肉の蝋人形」(1953)のレビューで述べた。また、リモートコントロールにより拍手させる仕掛けは、アンドリューが必要としているのは相互関係ではなく、解が最初から分かっている自己回帰的な反射作用に過ぎないことがよく分かる。この人形は、一方向性を象徴するという点において、「群衆の中の一つの顔」(1957)の主人公ロンサム・ローズが考案したボタンを押せば自動的に拍手歓声が沸き上がる奇怪な装置にも通ずるものがある。また、ビリヤードを楽しむ時にも、アンドリューは決してマイロにプレーさせることがない。本来二人で楽しむゲームであるにも関わらず彼はそれを一人で完結させてしまう。すなわちアンドリューは決して自分自身のゲーム以外のゲームをプレーすることはなく、彼の屋敷は他人が存在し得る余地が全くない彼だけの内的な世界であると言っても過言ではない。つまりシュッツの述べるような変化の可能性が全く拒否されたところに成立しているのが、アンドリューの内的世界だということになる。それ故、マイロはアンドリューのワンマン領域にいる限り決して彼に勝つことは出来ない。

 けれどもマイロは、空砲でアンドリューに撃たれた瞬間から変化を遂げ、前半の彼には全く思い付きもしなかったような心理トリックを駆使してアンドリューに反撃を開始する。明らかに彼はアンドリューの持つマインドセットを学習したのである。前半は道化師、後半は殺人捜査官というようにマイロは二度変装するが、同じ変装でもその持つ意味は全く異なる。前半変装する道化師とは、他人から笑われる受動的な存在であり、実際にマイロは無理矢理アンドリューに彼のゲームの規則に従って道化師の衣装を着せられてしまう。これに対して後半変装する捜査官はアグレッシブな存在であり、これは文字通りアンドリューではなくマイロ自身がゲームをコントロールする主体に変化したことを意味する。しかしながら、本来の自分ではないものに変装することは、自分本来の資格で社会的なイベントに参加することの拒否を表わしている。すなわち変装することは、本来の自己を隠すことであり、その根底には自分のゲームに従って一方的に他人を踊らせようとする意図がある。社会的な活動が双方向的なものであらねばならないとすると、変装とはこの意味においても社会的な活動では有り得ない。言い換えると変装とは、シュッツが述べるような、社会活動に必須となる変化の可能性を受け入れる能力が要求される状況が本来の自己に到達することに対して、一種の防御機制として機能し得るということである。「探偵スルース」という映画は、そのような社会性のなさ及びその帰結が何たるかということに関する映画であり、極端なことを言えば、この映画は二人劇であるとすら言えない。それ故この映画の中でこの二人が相互理解を示すシーンはただの1シーンですら存在しないのであり、ゲームが終ったと思われたその瞬間ですらゲームは決して終ってはいない。何故ならば、ゲーム終了の宣言とは、ゲームが終了したという相互理解がなければ成立しないからであり、この相互理解の基盤が彼ら二人の間には全く存在しないからである。「アメリカ上陸作戦」(1966)のレビューでも述べたように、同様な状況が個人間ではなくスーパーパワー二大国間の冷戦で発生すれば、それがいかに危険なことであるかがここには暗示されていると捉えることすら可能であろう。すなわち、たった二人の登場人物のみにより、東西冷戦の行き着く果てがシミュレートされていると言えばそれは言い過ぎになろうか。いずれにせよ、考えさせられるところの多い映画である。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

2000/12/10 by 雷小僧
(2008/10/17 revised by Hiroshi Iruma)
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