ウィークエンド・ラブ ★★★
(A Touch of Class)

1973 UK
監督:メルビン・フランク
出演:ジョージ・シーガル、グレンダ・ジャクソン、ポール・ソルビノ、ヒルデガルド・ニール



<一口プロット解説>
ジョージ・シーガル演ずる妻子持ちが、或る日ふとしたことからバツイチの女性(グレンダ・ジャクソン)と出会い週末のアバンチュールを楽しむようになる。
<入間洋のコメント>
 いわゆるロマコメと呼ばれるロマンティックコメディには連綿と流れる長い歴史があるが、それぞれの時代背景に応じてそれぞれの特徴があることにも相違ない。従って、1970年代のロマンティックコメディには1970年代の特徴がある。どのような特徴かというと、ウーマンリブ運動の活発化という時代背景の故か、ロマコメにおいても女性が男性を主導するような展開がしばしば見られるようになったことである。勿論、女性が男性を主導するロマコメは古くから存在していたには違いないが、1970年代のロマコメがそれ以前のものと比較して決定的に異なるのが、男性側がほとんど女性化されたキャラクターとして登場することである。本書でも取り上げた「男性の好きなスポーツ」(1964)も女性主導のロマコメの1つであるが、いかにロック・ハドソンが運動音痴の頼りない男を演じていてもロック・ハドソンはロック・ハドソンであり、むしろ演じているのがカリスマ的なロック・ハドソンであるからこそ、イメージのギャップにより笑いを誘うことが出来たとも言える。ところが1970年代に入ると、演じている主演男優も主演男優が演じている役柄も女性化の程度が大きくなる。その典型例は、ロマコメではあるがスラップスティックの色合いが濃い「おかしなおかしな大追跡」(1972)であり、最初から最後までバーブラ・ストライサンドにおもちゃにされるライアン・オニールの姿は、いくら女性主導のロマコメは昔から存在したとはいえ1960年代までは見出せなかったものである。そもそも「ある愛の詩」(1970)で、1960年代以前であればそれは女役のセリフだろうと言われても仕方がないあの有名なセリフ「愛とは決して後悔しないこと」を平然と吐いたのは彼であり、それを「おかしなおかしな大追跡」の中でバーブラ・ストライサンドに見事にパロられているのは最早何をかいわんやであろう。

 その「おかしなおかしな大追跡」よりもあからさまではないが、1970年代的な傾向を顕著に見出せる典型的な作品が「ウィークエンド・ラブ」であり、それは後に議員にもなるグレンダ・ジャクソンの強烈なオスカーパフォーマンスと、典型的に1970年代的な俳優ジョージ・シーガルの好対照な演技によっても際立っている。「ウィークエンド・ラブ」では、積極的というよりほとんど攻撃的なのは、やさ男風のジョージ・シーガルではなく、マーガレット・サッチャーを演ずるならばこの人しかいないであろうと思わせる女傑グレンダ・ジャクソンの方である。たとえば、最初にカジュアルな関係を結ぶことを提案するのは彼女であり、ラストシーンでクール且つスタイリッシュに颯爽と去っていくのも彼女である。それに対し、彼女が去っていくのを往生際悪く未練気たっぷりに窓から見送っているのは、ジョージ・シーガルの方である。少し以前の映画であれば、役柄が全く逆になっていたはずである。グレンダ・ジャクソンはこの映画で二度目のオスカーを手にするが、このようなファッショナブルで辛辣な独立女性を演じさせると恐らく彼女の右に出る女優はいないであろう。考えてみれば、彼女が活躍した1970年代は、彼女が持つ独立した女性というパーソナリティが、1つの理想の女性像として追い求められ始めた時代であったとも言えるのではなかろうか。彼女のオスカー受賞も、彼女及びこの映画が時代の要請にうまくマッチしていたことの証であろう。またそのグレンダ・ジャクソンの相手をするジョージ・シーガルは、かつてのハリウッドの花形スターであったカリスマタイプの俳優ではなく、どこかにひ弱さを宿すやさ男タイプの俳優である。1960年代後半には、戦争映画、スパイ映画、ギャング映画に出演していたが、彼はいわゆるマッチョタイプの俳優では全くない為、これらの映画ではミスキャスト気味に見えることがしばしばあった。しかし1970年代に入ってロマコメに出演するようになると彼の持っている本来の特徴がうまく活かされるようになる。むしろ女性の後塵を拝することが多く、「ウィークエンド・ラブ」の他にも、「フクロウと子猫チャン」(1970)ではバーブラ・ストライサンドの、「おかしな泥棒・ディック&ジェーン」(1977)ではジェーン・フォンダの、「料理長殿<シェフ>、ご用心」(1978)ではジャクリーン・ビセットの惹き立て役になっている。極めつけは、日本劇場未公開ではあるが海の向こうではカルト的人気を誇るブラックコメディ「Where’s Poppa?」(1970)であり、当時既に70歳を越えていたルース・ゴードン演ずる母親に散々振り回される哀れな男を演じているのが可笑しい。彼の持ち味は、かくして周囲を惹きたたせることであり、ウーマンリブ運動の影響が大きくなり始めた1970年代の男性側のパーソナリティとしては、これ以上ない程の資質を有していた。

 また、「ウィークエンド・ラブ」の1970年代の映画としての特徴的な点はそれだけではなく、アモラルな側面が実にカジュアルに扱われていることも指摘可能である。アモラルな映画と言えば、遥か以前の1950年代であっても、たとえばフランソワーズ・サガンが原作である「悲しみよこんにちは」(1958)のような映画がそのような作品として言及されることがあるが、1950年代当時はそれが主題として扱われていたというところが1970年代とは大きく異なり、アモラルなど物の数にも入らなくなった現代のオーディエンスの目から見ると「悲しみよこんにちは」はいかにも古いという印象を受けざるを得ない。原作がどうであるかは別として、「悲しみよこんにちは」という映画では、英語で言えばlibertine(放蕩者)という語がピタリと当て嵌まるデビッド・ニブン演ずるパーソナリティなど、結局はアウトカースト的な印象が際立つように、すなわち一般社会からは孤立したパーソナティであるように意図的に脚色されていると言わざるを得ない。アモラルさが主題として扱われていたという意味は、まさにそれが一般的ではないと考えられていたからこそ、わざわざ意図的に主題として取り沙汰されたということであり、従ってそこにはどうしても不自然な要素が混入せざるを得ないことになる。それに対し、一言で言えば不倫を扱った「ウィークエンド・ラブ」におけるアモラルであることに対するカジュアルさは、現代のオーディエンスの目から見てもそれ程古いという印象を受けない。というのも、それが主題として突出することなく、実に自然で軽快且つシニカルにハンドリングされているからである。そもそも「ウィークエンド・ラブ」はロマコメであり、ロマコメが不倫のストーリーで味付けされても映画として一貫性を失わないでいられるには、それなりに因襲的な物の見方から解放されている必要がある。モラルとはどちらかと言えば限定的に作用するものであり、何を語っているかということよりも、何を語らないかということに大きく関与する。「ウィークエンド・ラブ」では、勿論昨今よく見かけるポルノまがいのヘビーなものではないが、実にカジュアルにベッドシーンが描かれている。1950年代にしろ1960年代にしろ、たとえばロック・ハドソンやドリス・デイが出演していたロマコメにベッドシーンが挿入されることは有り得なかったのとは対照的である。或いは、いかにケーリー・グラントやロック・ハドソンがプレイボーイを演じていたにしろ、必ず独身貴族を演じており実は奥さんがいたという展開にはまずならなかった。つまりそれでは、ロマコメに要求される瀟洒さが当時の道徳的側面との齟齬から失われ、最早ロマコメとして成立しなくなる可能性が大いにあったからである。そのような点において、不倫という素材を実にカジュアル且つスタイリッシュに料理しているのが1970年代に製作された「ウィークエンド・ラブ」であり、ポルノまがいの映画を見慣れた現代のオーディエンスの目から見ても決して色褪せてはいない。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

2000/08/06 by 雷小僧
(2008/10/18 revised by Hiroshi Iruma)
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