シャーロック・ホームズの冒険 ★★☆
(The Private Life of Sherlock Homes)

1970 UK
監督:ビリー・ワイルダー
出演:ロバート・スティーブンス、コリン・ブレイクリー、ジュヌビエーブ・パージュ、クリストファー・リー

左:ジュヌビエーブ・パージュ、中:ロバート・スティーブンス、右:コリン・ブレイクリー

映画に登場するシャーロック・ホームズは、大概ストレートに扱われることがなく、ここに取り上げる「シャーロック・ホームズの冒険」もその例外ではありません。というよりも、そのような伝統を作ったのが当作品であると考えられるかもしれません。その意味では、邦題の「シャーロック・ホームズの冒険」よりも、原題の「The Private Life of Sherlock Holmes」の方が、実態を正確に表わしています。ビリー・ワイルダーは、以前にも「情婦」(1957)で、ストレートなミステリーではないアガサ・クリスティー作品を取り上げていましたが、ここでもシャーロック・ホームズという世に名だたる名探偵を題材としながら、ストレートな探偵ミステリー映画に満足することがないのです。そこが、ビリー・ワイルダーのビリー・ワイルダーたる由縁かもしれません。では、「シャーロック・ホームズの冒険」のどこが、ストレートな探偵ミステリー映画でないかを説明しましょう。「シャーロック・ホームズの冒険」をよくよく見ていると、シャーロック・ホームズ(ロバート・スティーブンス)は、自分では何も解決していないどころか、結局兄のマイクロフト(クリストファー・リー)がいなければ、ドイツの女スパイ(ジュヌビエーブ・パージュ)に最初から最後まで見事に騙されていたことに気付かざるを得ません。確かに個々の枝葉末節なシーンにおいては、シャーロック・ホームズらしい帰納推理を披露するケースはあります。たとえば、女スパイの掌に残っていた番号をビクトリア駅のロッカーの番号であると推論するシーンなどです。しかし、重要な転回点には、必ず兄のマイクロフトが突如出現し、結局彼が種明かししてしまうのです。因みに、種明かしといっても探偵としてという意味ではなく、実はマイクロフトが事件の中心人物その人なのです。本来、探偵小説においては、一見すると枝葉末節で個々バラバラに見える多数の個別的事象から、主人公である名探偵が、帰納推理を駆使して徐々に1つの大きな全体を類推していくプロセスが大きな流れを構成するのが普通であることはわざわざ指摘するまでもありませんが、「シャーロック・ホームズの冒険」ではそのようなプロセスはどこにも存在しないのです。その為、当作品に登場するシャーロック・ホームズには、思考する人であるよりも、行動する人である印象を強く受けるはずです。行動するとは、必ずしもアクション映画的なアクションを意味するのではありません。たとえば、事件のカギがネス湖にあるとシャーロック・ホームズが見抜くのは、投函した手紙がどのように回収されるかを調べる為に忍び込んだ家で、たまたまネス湖地元の新聞を見かけるからであり、ここには帰納推理は全く存在せず、行動した結果たまたま行き当たった証拠品から子供でも可能な結論を引き出しているに過ぎないのです。すなわち、「シャーロック・ホームズの冒険」には、探偵小説の醍醐味である帰納推理は、瑣末なシーン以外では全く見出されず、むしろ行動によってソリューションが見出される点において行動的だと見なせるのです。また、ネス湖で兄のマイクロフトが潜水艦の実用化の秘密実験を行っている事実を見抜くのは、確かに小人の埋葬やカナリアなどの状況証拠からの帰納推理もあるにはありますが、結局はネス湖にボートを出して怪獣に直に遭遇し、相棒のワトソンが持っていた聴診器でそれが機械であることを知ることによってなのです。というよりも、最後の種明かしは兄のマイクロフトがするのであり、その時ついでにジュヌビエーブ・パージュ演ずる女性がドイツのスパイであることもマイクロフトから始めて知らされるのです。というわけで、「シャーロック・ホームズの冒険」という邦題に関しても、それを付けた人が意識していたか否かは別として、実はこの作品のタイトルとして必ずしも的はずれではありません。そもそも「シャーロック・ホームズの冒険」という言い方は、ある意味で矛盾しています。なぜならば、シャーロック・ホームズは、たとえば「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズの主人公のような冒険家などではないからです。冒険小説の基本には主人公の成長という主題が少なくとも近代以降の作品にはありますが(古代においては必ずしもそれが当て嵌まらないことは、文芸評論家のエーリッヒ・アウエルバッハやミヒャエル・バフチンの著作を読むと分かります)、シャーロック・ホームズのキャラクターとしての成長などというテーマは全くのナンセンスでしょう。従って「シャーロック・ホームズの冒険」というタイトルはストレートに取れば全くのナンセンスなのです。しかしながら、幸か不幸か「シャーロック・ホームズの冒険」は予想されるような探偵小説のストレートな映画化では全くなく、シャーロック・ホームズというキャラクターを逆利用した一種のコミカルなキャラクタースタディなのです。原題から類推されるように、刺激的な事件が何も起こらないので退屈して麻薬の享楽に走るシャーロック・ホームズ、或いはシャーロック・ホームズの女性観などの極めてプライベートな題材に作品の焦点が置かれており、ある意味では作品中で発生する事件には、大した重要性はないのです。すなわち、そのような事件を、シャーロック・ホームズが持ち前の帰納推理能力を用いて颯爽と解決していくことが、作品のポイントではないということです。だからこそ、シャーロック・ホームズが自分の力では何も解決していなくても、そのことがオーディエンスの意識に前面化され、奇妙な印象を与えることがないのです。「シャーロック・ホームズの冒険」以後、シャーロック・ホームズものの映画というと、このタイプのものがほとんどになるので、やはりビリー・ワイルダーの影響は大きかったということでしょう。フルオーケストラのこれ見よ(聞け?)がしの大袈裟な曲を作曲することの多いミクロス・ローザが、ここではバイオリンを主体としたシンプルな曲を作曲しており、適切且つ印象的であることと、性格俳優のクライブ・レビルが相変わらずケッタイな役で冒頭わずかながら顔を見せていることを最後に付け加えておきます。


2003/07/19 by 雷小僧
(2008/11/12 revised by Hiroshi Iruma)
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