宇宙のなかの太陽系の、生命の棲む奇蹟の青い星、地球。その地球が、地球温暖化やピーク・オイルで、さきゆき怪しいのだそうです。地球のうえのユーラシア大陸のはずれの、青い海に浮かぶ奇蹟の島、日本。そこで住んでいるぼくたちにも、無縁の問題ではなさそうです。この星のこの島に生きている毎日をいつくしみつつ感じたこと、思ったことを、あれこれと…
 
   
1.文明の逆行(2010.1.20.) 6.縄文と弥生の連続性(2010.4.13.)
2.都市は滅びる(2010.1.24.) 7.日本海沿岸文化の底力(2010.4.18.)
3.都市と火災(2010.1.26.) 8.適正規模への回帰(1)(2010.5.05.)
4.きのうときょうの都市問題(2010.1.29.) 9.適正規模への回帰(2)(2010.5.10.)
5.都市からの逃亡(2010.2.27.) 10.あらためて文明の逆行を(2010.5.25.)
   

9.適正規模への回帰(2)(2010.5.10.)

   
百円ライターの文明

百円ライターによる火災事故の頻発が問題になっている。問題の1つは、幼い子どもたちの手のとどくところに放置するなど、安全対策がしっかりできていないことだ。もう1つは、いい大人でさえが、こんな簡単な道具をちゃんと使いこなせないことだ。

百円ライターといえども、火をあつかう。百円ライターといえども、機械だ。火は、人間が文明の第1歩で、恐怖をのりこえて使いこなせるようになった、危険ではあるが重大なエネルギーだ。機械とは、人間が文明の第1歩で手にいれた道具を、科学を応用して進歩させたものだ。百円ライターぐらいの単純な道具・機械を満足にあつかえないようでは、複雑高度に進歩発展した危険な文明を、どうやってあつかえるか。

しかし現実には、百円ライターのあつかいで落第するような知能で、人間はけっこう高度な文明の利器をあつかっている。クルマを運転し、エレベーターに乗り、電子レンジを使う。

人間は大人になるまでに、文明の学習をする。這い這いから2足歩行に移るや、砂遊び泥遊びをし、草つみ虫とりをし、あやとり編みものをし、魚釣りボール投げをする。これらは狩猟・採集・漁労・農耕などの基礎的文明の復習だ。過剰な都市文明は、これらの学習の機会を奪った。

焚き火をしたことがない子、ナイフでエンピツを削れない子。文明がもっている基本的な危険を知らないで、現代っ子は育つ。火が都市を焼きつくして地獄を現出すること。ナイフという金属器は人間を殺すこと。ひいては文明が戦争を巻き起こすこと。そういう想像力が育たない。

しかも、商品は「取り扱いが簡単」「地球にやさしい」などといいたがる。こうして子どもたちは、移動するにもクルマのなかで社会とは接せず、格家族のなかでわがままいっぱいに育って、気づいたときには人を殺していたりする。

しかし、中学校1つぶんの人口が基本単位となっている、小さな生態系が生きているコミュニティでは、このような文明教育が自然におこなわれている。小学校高学年から中学校にかけて、ぼくたちは日本海に面した砂丘の松林のなかで、よくキャンプをした。テントや寝具や食器や食料などは、大八車にのせて引いていった。級友のウサギ罠にも見られるように、かつて野や海や山にくりひろげられた文明を、復習するチャンスがぼくたちにはいくらでもあったのだ。

文明の無用と有害

しかし、それですむわけではない。高層住宅から子どもが落ちたというニュースをよく耳にする。これは山野で学習すればいい、という問題ではない。文明は、百円ライターのあつかい方から、原子力発電所の高速増殖炉の運転まで、進歩発展・拡大膨張した。百円ライターをあつかうぐらいの技術で、原子力発電所を動かせないことくらい、だれにでもわかる。しかし、拡大膨張した高層住宅には、百円ライターの技術水準の住民もいるのだ。

電子レンジに濡れたネコをいれて乾かしただの、冷房を効かせすぎてカゼをひいただの、パソコンを買ったが箱にはいったままだの…。そういう人たちにとっては、その文明のアイテムは有害であり、無用だ。

いま、北陸の田園のあちこちで、道路わきに放置されたクルマを、よく見かける。じいちゃんドライバーが起こした事故車だ。

「7.日本海沿岸文化の底力」でふれたように、日本海地帯は、共働き夫婦が多い。福井が1位、山形が2位、富山が3位。これをささえているのが、3世代同居。3世代同居率においても、山形が1位、福井が2位、秋田3位、新潟4位、富山が5位という順位になっている。また自動車の1世帯あたり保有台数も、福井が全国1位、富山が5位だ。これが、まったく裏目にでているのだ。

3世代同居だから、年寄りに運転させる必要はないではないかと思う。しかし、そう簡単にじいちゃんの手助けをする余裕は、共働き夫婦たちはない。そこでついクルマを運転してしまうのだが、そのときはもう文明はじいちゃんの手には負えない。冷たくなったじいちゃんのポケットで着メロが鳴っている。心配した娘からのよびだしなのだろう…。

やたら夜景を美しがる人がいる。ネオンからはじまって、ライトアップ、イルミネーションまで。夜の都市の暗黒は、むかしは怨霊を跳梁させ、いまは犯罪や事故を発生させる。だから都市には、照明が必要だ。都市を愛する人が、明るさを愛するのはわかる。しかし過剰な光は、それほど美しいものだろうか。それでなくとも、企業はPRや広告などで、過剰に都市に光を氾濫させている。

「東京タワーが高い」ことが好きな人が多い。たしかに、バベルの塔以来、高さは文明の1つの成果なのだろう。文明を愛する人が、高い建造物を愛するのはわかる。いま彼らは、東京スカイツリーに狂奔している。これらの塔の場合は、電波を遠くへ飛ばすための高さだ。しかし、テロがアメリカ文明の象徴として破壊した、超高層ビルがそれほど必要なものだろうか。文明は高さを実現することができる。しかし、その高さに住む文化は、そう簡単にはうまれない。

江戸も東京も小さかった

江戸は初期のころすでに、世界の大都市だったけれども、面積は43.95km²。とても小さい。現代の都市は、やたらまわりの田園地帯をとりこんでしまっているから、比較にならないが、ほぼ現在の福井市(536.17km²)の10分の1にも達しない。人口は、現在の福井市(266,754人)なみの20万人ほどだった。東は隅田川、北と西は外堀と溜池、南は江戸湾にかこまれ、中央の台地のうえに江戸城がのっている。江戸城のまわりを大名屋敷・武家屋敷がかこみ、東の隅田川とのあいだに町屋敷がひろがっていた。富士・筑波が見え、川は清く、海が青かった。

江戸末期には、面積は79.8km²とほほ倍になり、人口は100万人を超えた。東へ隅田川をわたって本所・深川ができ、北にむかって浅草・上野・田端・巣鴨ができ、西にも新宿・渋谷がくわわって、いまの山手線のなかに収まるほどになった。面積の63.5%を武家が占め、12.7%を寺社がつかい、町人に与えられたのは17.8%にすぎなかったが、それだけに街はゆったりとして、まだまだ緑に満ちていた。隅田川は大川とよんで親しまれ、河川や水路や運河が多く、両国橋・永代橋・日本橋・京橋がかかり、舟遊びなどもおこなわれて、水都とよぶにふさわしかった。

明治から大正にかけては、江戸は東京市と名前を変え、ひとまわり大きくなったが、まだ山手線をややはみだすていどの大きさだったようだ。とはいえ、東京は膨張をつづけていた。夏目漱石『三四郎』では、東京駅におりたったばかりの三四郎は、「尤も驚いたのは、何處まで行ても東京が無くならないと云う事であった。しかも何處をどう歩いても、材木が放り出してある、石が積んである、(略)凡てのの物が破壊されつつある様に見える。さうして凡ての物が又同時に建設されつつある様に見える」と驚いている。廣田先生は東京について、「廣い許りで汚い所でせう」という。しかし、理科大学の学者の野々宮が引っ越したのが、「頗る遠い」「郊外の」大久保という表現を見れば、まだ東京が適正規模だったことがわかる。

1923(大正12)年の関東大震災は、死者91,802人、行方不明42,257人。この前後に、東京は北と南に、膨張した。近藤富枝『田端文化村』によれば、北の田端が芸術村となる端緒をひらいたのは、陶芸家の板屋波山だったという。茨城生まれの波山は、東京美術学校彫刻家を卒業したあと、金沢工業学校彫刻科主任となった。ここで九谷焼にふれ、本格的に陶芸の道にすすむことになる。東京にもどって田端に住んだ波山のもとに、金沢時代の弟子の吉田三郎たちが集まった。その縁で、室生犀星がきた。これに四高出身の中野重治がつながる。芥川龍之介も引っ越してきた。こうして人脈は芋づる式につながり、作家・詩人・評論家の萩原朔太郎・滝井孝作・堀辰雄・小林秀雄、画家・彫刻家・工芸家の香取秀真・小杉未醒・村山魁太・岩田専太郎が在住した。1927年、芥川龍之介自殺。翌年、室生犀星が軽井沢に去り、最盛期がおわった。

関東大震災は、東京を南に拡張した。大森貝塚などのある洪積世台地の大森山王と、池上本門寺のある台地にはさまれた、まだ田園の名残りのある荏原郡馬込村。九十九谷(つづらだに)とよばれるほど、坂の多い土地だ。いまの環状7号線は、かつて谷中通りとよばれ、これにそって小川が流れていた。近藤富枝が『馬込文学地図』で指摘しているように、規模はちがうが北の田端と景観が似ていた。こんどはここが文人や芸術家が集中するところとなった。

震災直後に、結婚したばかりの尾崎士郎・宇野千代夫妻が馬込村中井に居を定めた。大森駅から2.3q。とても健康健脚とは思えぬ文人たちが、当時は、この距離を歩いた。つづいて、広津和郎・高田保らがきて、田端から室生犀星・萩原朔太郎・北原白秋らが移った。尾崎士郎のゆかりで川端康成・山本周五郎ほかの文士、室生・萩原のつながりで三好達治らの詩人が集まった。画家では、小林古径・川端龍子。そのほか、周辺には高見順・子母沢寛・小島政二郎ほか数えきれない。

そして、大正末期から昭和にかけて、「ダンス、麻雀が流行し、宇野千代、萩原稲子、川端秀子らが断髪し、やがて離婚旋風が吹きまくる」(『馬込文学地図』)。このあたりから、東京の膨張はとめどがなくなる。北は千葉県との境の江戸川、南は神奈川県との境の多摩川にさえぎられて、東京はひたすら西に膨張することになる。1930(昭和5)年には、人口が500万人を突破した。

ダイエット効果

東京都となった1943年、23区の面積は621.98km²と、江戸初期の約14倍、江戸末期の約8倍となった。全体から島々の面積を差し引いた、東京都の現在の面積は、1791.47km²。江戸初期の約40倍、江戸末期の約22倍だ。東京都の現在の人口は、約1,300万人。これは江戸初期を20万人とすれば約65倍、江戸末期を120万人とすれば約11倍だ。もうこうなると、現在と江戸末期との比較において、人口11倍にたいして面積22倍だから、人口密度の点では、2倍の余裕がでたなどといってはいられない。人口も面積も、都市規模としては、はるかに適正を超えてしまっている。

「江戸は富士をランドマークとして偏心的にできている町」(都市学者・藤森照信)だという。その富士を守護神として、江戸がつくられた。東京は富士の御霊信仰でなりたっている。ビル・大気汚染・照明などで、その富士山を見ることが、むずかしくなっている。江戸を生んだ根本の信仰が、規模の拡大や文明の過剰によってなりたたなくなっているのだ。

「あの町 この町 日が暮れる 日が暮れる 今きたこの道 かえりゃんせ かえりゃんせ」。野口有情作詞、中山晋平作曲の歌だ。これはどこの町を歌ったのだろうか。東京にも、かつてはこの風景があった。いや坂道の多い、起伏のある東京だからこそ、あの町も日が暮れた、この町も日が暮れた、という風景を見わたすことができた。いま東京はべったりとビルにおおわれて、こんな風景を見ることはできない。東京から夕暮れが消えた。いま東京の夕暮れは、夜景のはじまりでしかない。

いちばん重要なのは、東京が美しさを失ってしまったということではないだろうか。都市という機能は、美しさなど必要としないというなら、話はべつだ。そして、機能美というものは、たしかにある。東京都心のビル群は美しいといわれれば、その通りだ。しかし、機能美が機能を失ったときを考えると、これはホラーだ。ガラス窓を透して差しこんだ太陽光線が、空調のとまった室内温度を極限まであげる。夜は放射冷却で極端に温度がさがる。まさに東京砂漠。

ピーク・オイルで、都市機能がアウトになるというなら、規模を縮小するしか方法はないのではないか。東京が生きのびるためには、解体・再編しか道はない。「歴史はくりかえさない」だけであって、歴史を逆行することはできる。あえて文明の逆行に挑戦してみる価値はある。「今きたこの道 かえりゃんせ かえりゃんせ」。

東京がダイエットできれば、自殺者が減る、出生率が増える、交通事故が減る、犯罪が減る、パンデミックに強くなる。ヒートアイランド現象が消えて、冷房なしでもやっていける。東京に夕暮れがもどってくる。東京の夜空に星が見えるようになる。

とりあえずは、大都市に集中した人口を、地方に返してもらいたい。

クジラからマグロへ

ぼくには、クルマも携帯電話もない。家にはクーラーもない。古い注文住宅に住んでいる。しかし、べつだん不自由はしていない。

まったく不便でないとはいえない。こんなときクルマがあれば、と思わないこともない。しかし、70歳をすぎた運転は、犯罪だ。パソコンをつかってメールするから、携帯はいらない。山中の分譲地の注文住宅だから、たっぷりと季節の風が通る。簾をかけ、籐の敷物を敷いて、庭に打ち水をして、夏をすごす。1階にいると、じゅうぶんに涼しい。冬は、2階の部屋に低い角度で陽光が差しこみ、室温が30℃ちかくまであがる。夕暮れ、早めに雨戸を閉め、2重のカーテンで、暖気をとじこめる。

日本海沿岸に生まれ育ったので、幼いころはマグロやカツオは食べなかった。しかし、いまは大好物だ。とはいえ、こういう状況になると、食べつづけていいのか疑問がわく。

大西洋のクロマグロ捕獲制限は、中国が動いて否決された。中国は、中上層階級が食べるようになったマグロを確保し、フカヒレのためのサメの捕獲制限をおそれ、さらには太平洋でのカツオ漁にも乗りだすつもりでいる。根本的な解決策をもたない日本にとって、この中国の参入によって、もっと事態が悪くなることは明らかだ。中国政府は人民を食わせるためには、徹底した行動をとるだろう。

かつて江戸前の海からの漁獲では間にあわなくなり、日本人は外洋へ、そして全世界へ乗りだした。アメリカは油をとるだけのためにクジラを殺しつづけて、ついに浦賀にやってきて開国をせまった。沿岸漁業には限界があるにしても、野放図な拡大は国際紛争をまきおこし、大きくはエコロジーの問題にもなる。そのうち、食べられなくなることは確実だ。

外洋へ乗りだすよりも、いまのうちに沿岸のおいしい魚を確保することが先決だ。身近な海のものを、身近な岸の人が食べる。必要以上の量は食べない。きれいに骨をほぐして、のこさずに食べる。頭のなかの、頬のしたの、少量の肉がじつにうまい。のこったら干物にする。漬物にする。この基本にもどることだ。魚はおいしくなければならない。ちょっと魚好きになると、やれキンメだノドグロだといいたがる。魚のブランド趣味などは、やめにしてもらいた。野菜だってそうだ。京野菜のおいしさがわかるのなら、自分の土地の野菜を愛することだ。

マサチューセッツ工科大教授ジョン・ダワーが、こんなことをいっている。「卒論はメルビルの『白鯨』について書きました」。『白鯨』とペリーの日本開国には、密接なつながりがある。「大学3年から4年に進む1958年の夏休みに、若者を対象とする国際理解のプログラムに参加して初めて日本を訪れました。訪問したのは金沢でした」。修士論文で森鴎外を選び、金沢の短大で英語を教え、東京の英語図書出版社に勤める。大学にもどり、ベトナム戦争の影響をうけて、『憂慮するアジア研究者委員会(CCAS)』の創立メンバーの1人となる。『敗北を抱きしめて』などの著作があり、9月には『戦争の文化』(英語版)の出版が予定されている。しかし、「本当は戦争の話はもう書きたくはなかったのです。私の理想は、『方丈記』の鴨長明の生活です」。

このジョン・ダワーの軌跡がおもしろい。メルビル『白鯨』、日本へ、金沢へ、ベトナム戦争、自著『敗北を抱きしめて』『戦争の文化』、『方丈記』の鴨長明の生活へ。彼が、若い時期を金沢ですごしたことは、とても大きかったのではないだろうか。「本当は戦争の話はもう書きたくはなかったのです」と、現代文明の最前線である現代の戦争に、彼は辟易している。そして、日本の鎌倉時代の生活文化を「理想」としている。

ぼくには、鎌倉室町の生活文化にもどるという意識がある。同時に、ぼくの現実生活のなかで、畳・簾・打ち水などの習慣として、いまも鎌倉室町の生活文化が生きている。これは、冷房などの現代文明のアイテムのいくつかを、鎌倉室町の生活文化におきかえているということでもある。ジョン・ダワーは、鴨長明の生活を「理想」としている。日本人のなかでも、というより日本人のほとんどが、これらの習慣をすでに失ってしまっている人が多いと思われる。適正規模への回帰の必要性を理解したとしても、まずこれを「理想」とする手続きが必要かもしれない。

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1.文明の逆行(2010.1.20.) 6.縄文と弥生の連続性(2010.4.13.)
2.都市は滅びる(2010.1.24.) 7.日本海沿岸文化の底力(2010.4.18.)
3.都市と火災(2010.1.26.) 8.適正規模への回帰(1)(2010.5.05.)
4.きのうときょうの都市問題(2010.1.29.) 9.適正規模への回帰(2)(2010.5.10.)
5.都市からの逃亡(2010.2.27.) 10.あらためて文明の逆行を(2010.5.25.)
   
         
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