宇宙のなかの太陽系の、生命の棲む奇蹟の青い星、地球。その地球が、地球温暖化やピーク・オイルで、さきゆき怪しいのだそうです。地球のうえのユーラシア大陸のはずれの、青い海に浮かぶ奇蹟の島、日本。そこで住んでいるぼくたちにも、無縁の問題ではなさそうです。この星のこの島に生きている毎日をいつくしみつつ感じたこと、思ったことを、あれこれと…
 
   
1.文明の逆行(2010.1.20.) 6.縄文と弥生の連続性(2010.4.13.)
2.都市は滅びる(2010.1.24.) 7.日本海沿岸文化の底力(2010.4.18.)
3.都市と火災(2010.1.26.) 8.適正規模への回帰(1)(2010.5.05.)
4.きのうときょうの都市問題(2010.1.29.) 9.適正規模への回帰(2)(2010.5.10.)
5.都市からの逃亡(2010.2.27.) 10.あらためて文明の逆行を(2010.5.25.)
   

6.縄文と弥生の連続性(2010.4.20.)

   
ごはん+みそ汁+たくわんのセット成立までに2,500年

1つの文明が浸透・熟成するために、どれほど時間がかかるかを、コメつまり水稲文明について見てみよう。日本列島に水稲耕作が伝わったのは、どんどん時代がさかのぼって、いまは前10世紀ごろだっただろうといわれている。前650年ごろ近畿圏に到達。日本海沿いに北上し、前400年ごろには青森に到着。そこから太平洋を南下し、関東で水田が確認されるのは前100年ごろだったという(『朝日新聞』09年8月)。

2年まえの2008年は「源氏物語千年紀」だった。1008年に書かれた『源氏物語』に、いくつかの「飯」がでてくる。甑(こしき)で蒸した「強飯(こわめし)」、冷や飯に水をかけた「水飯(すいはん)」、冷や飯に湯をかけた「湯漬け(ゆづけ)」、強飯を卵形に握りかためた「屯食(とんじき)」などだ。『伊勢物語』にもあるように、水でふやかして食べる「乾飯(ほしいい)」は、旅食として用いられていた。このころはまだ、現在の「炊いたごはん」は珍しく、その柔らかさゆえに、これは「強飯」にたいして「姫」とよばれていたという。もちろんコメを常食としたのは貴族階級のみで、庶民は祭りや田植えなどの特別の日にしか口にすることはできなかった。コメの日本上陸から2000年、いまから1000年まえにしてなお、主食としてのコメは、このような状態だったのだ。

平安時代には白米を食べていた貴族も、鎌倉時代の混乱期にはコメの生産が落ち、玄米を食べざるをえなかった。白米を炊いて食べるのが広まりはじめるのは、室町時代も後半に近くなってからだ。そして、食べようと思えば、すべての人がコメを食べることができるようになったのは、ごく最近のことだ。

江戸時代から明治時代にいたっても、東北の太平洋岸では、冷害などによる飢饉に悩まされた。宮沢賢治は、『雨ニモマケズ』で、「一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノヤサイヲ食ベ」と、いかにも質素無欲のように歌っているが、まわりの農民はコメなど口にできなかったのだ。

明治までの日本の経済は、石高で計られた。毎食1合ずつのコメを食べたとすると、365日×3合=1,095合。年間、約1,000合を食べたことになる。1,000合=100升=10斗=1石。正岡子規の句「春や昔十五万石の城下かな」とは、15万人分の食い扶持ということになる。つまり、15万人の兵士を召しかかえることができた。しかし、コメが経済を計る単位であり、収める税(年貢)の単位であるからには、簡単には生産者の百姓の口にははいらない。また、戦中戦後の食糧難時代には、庶民が食べるのは代用食であり、コメは「白い御まんま」とよばれるぜいたく品だった。

「一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノヤサイヲ食ベ」とあるように、ごはんには、みそ汁とたくわんがつきものだ。これが米食の基本形であり、これにさまざまな副食がつく。

みそ(味噌)は、紀元前にシルクロードから中国に伝わり、奈良時代以前に朝鮮半島をへて日本にはいってきた。コメ・ムギ・マメを原料とする。さまざまに形をかえて、コメの普及とともに発酵食品として発達した。みそ汁として常用するようになったのは、室町時代だ。

たくわんもまた、原形は中国から伝わったといわれ、もとは大根の塩漬けだったようだ。これが日本ではコメの普及とともに、干し大根の糠づけとなった。江戸時代の僧・沢庵の発明によるという俗説があるが、これもまた室町時代に完成したものだろう。つまり、ごはん+みそ汁+たくわんという、いかにも日本的な3点セットができあがるには、コメの上陸以後2,500年近い年月がかかっているのだ。

縄文のイヴ

縄文時代から弥生時代へというと、まるでオセロ・ゲームのように、縄文の白が弥生の黒にひっくりかえったように考える人が多い。「ごはん+みそ汁+たくわん」という日本食セットができあがるまでに2,500年もかかったとわかれば、けっして縄文が消えてしまったのではないことがわかる。

水稲耕作は、おおかたは縄文文化を基盤にしてなりたっている。縄文時代には、陸稲をふくむ農耕がすでに起こっていたともいう。

福井県若狭地方に鳥浜貝塚という、いまから6,000〜5,500年まえの、縄文時代前期の遺跡がある。ここから丸木舟・櫂・石斧柄・丸木弓・尖り棒・各種容器・杭・柱などの木製品が出土した。ほかに漆器・漆塗りの櫛、糸・紐・綱、編みもの・縄文ポシェット、イノシシ・シカ・カモシカ・ニホンザル・カワウソ・テン・ウサギ・イタチ・オオヤマネコ・オオカミ・イヌなどの骨、ドングリ・クルミ・トチヒシの実などがでた。裏山からは、ミツバ・ウド・ゼンマイ・フキなどが採れた。まさに森の文化。

丸木舟・櫂で目のまえの海に漕ぎだして、鳥浜人は漁をしたようだ。マグロ・カツオ・ブリ・マダイ・クロダイ、さらにフグの骨が出土している。アワビ・サザエの殻もある。湖や川から獲れたフナ・コイ・ウナギ・ギギなどの骨、マツカサガイ・カラスガイ・マガキ・ヤマトシジミの殻もある。鳥浜人は海の人、漁労の人でもあった。

そして鳥浜人はすでに、農耕の人でもあった。栽培植物の果皮や種子が発見されている。アフリカ原産のヒョウタン、インド原産のリョクトウ(緑豆)、北方系植物とされるゴボウ・アサ、日本には原生種のないシソ、大陸系の植物とされるアブラナ科の1種、エゴマ・ツルマメ・ウリ科の1種などだ。じつに輸入種が多く、原生種が多方面にわたることにおどろく。

もちろん、鳥浜人たちも、あの縄文土器をつかって煮炊きしていた。海や山の幸を食べる、ぼくたち日本人の基本的な味覚は、すでにできあがっていたと考えていいだろう。草の屋根を葺き、木の家を建て、木の家具にかこまれて生活する習慣も、すでにできあがっていたと考えていい。

日本人には、自分たちの国を「瑞穂の国」とよび、コメの生産をもって国のはじめとしたがる気分がある。たしかにコメの生産があるていど確保されるようになって、国家権力がうまれた。そのころの事情をうかがわせる物語が、奈良や京都の古社にはある。土地の娘たちが、外部からきた者にレイプされ、その2人が神社の祖神となる話だ。ミトコンドリア遺伝子をたどれば、アフリカの1人のイヴに達する。日本でも、「紀元2千××年」などとケチなことをいわずに、ミトコンドリア遺伝子をたどれば、はるかな縄文のイヴに達するのではないか。

縄文と弥生の血の攪拌

日本海沿岸を北上、津軽海峡で折りかえして南下した水稲耕作は、紀元前200年ごろ、いまの茨城県あたりでストップした。太平洋岸を北上した水稲耕作は、紀元前1200年ごろ、いまの千葉県あたりでストップした。日本海がわでは順調だった水稲耕作の浸透は、太平洋岸では停滞したものとみえる。

いまの東京湾岸には、貝塚などの縄文遺跡が多い。どうやらここは、むかしからの魚貝加工品生産団地だったようだ。海水をたっぷりふくませて天日で干した魚介類が、塩分・蛋白源として、山地にはこばれた。こうして北関東以北の、海岸から内陸にかけての一帯は、ゆたかな縄文文化にあふれて、なかなか新来の弥生文化にはなじまなかったようだ。

日本列島にコメが普及していくには、沿岸をつたっていく海人族の、船のはたした役割が大きい。むかしの船では、津軽海峡を越えたあとは、太平洋の荒波にもまれて、下北半島・三陸沿岸を寒流にのって南下をするのは困難だった。いまの千葉県銚子のあたりで、寒流はおり返して北にもどる。南からきた黒潮は沿岸からはなれていく。ここで航跡はとだえ、コメの伝播もとだえる。サケの遡上も、房総半島あたりが南限となる。銚子から南ではクロアワビ、北ではエゾアワビと、アワビも住みわける。縄文サケ文化は、ここから北の文化だ。そもそも生態系がちがうのだ。

ここにコメ文明をもちこんだのは、ヤマト政権だった。前方後円墳は、畿内ではすたれたあとも、関東地方ではなおもつくられ、武具をつけた武士・馬を引く人などの埴輪が出土する。こんなところからも、関東人のコメ文明への抵抗がうかがえる。

ヤマトの朝廷が、いまの利根川をはさんで香取神社・鹿島神社の前進基地をつくるなど、北へ勢力を広げようとしたとき、この地域に常陸(ひたち)・新治(にいばり)などの、いかにも新開地らしい名をつけている。筑波山などでおこなわれた歌垣から、とくべつに東歌(あづまうた)をとりあげて『万葉集』に収録している。

坂上田村麻呂によって、蝦夷の王アテルイが滅ぼされたのが、802年。この年、箱根路がひらかれた。しかし、それで関東の騒乱が静まったわけではない。未開の土地を切り拓いても、コメ政権に収奪されてしまう豪族・富裕農民たちは、配下の農民・浮浪人・俘囚を武装させて、自分たちの利益を護ろうとする。こうして馬に乗った武者集団が、坂東の野を駆けめぐる騒乱の時代となる。

その騒乱のなかから頭角をあらわしたのが、平将門だ。939年、将門は常陸・下野・上野の国衙を占領し、国司を追放した。この平将門の乱は、近江三上山の百足退治の伝説で有名な、俵藤太こと藤原秀郷によって鎮圧される。ただし、この乱の終息が俵藤太のような、いわばどっちもどっちの不穏分子の手によるものであったことからも察せられるように、騒乱はまだつづいた。関東が源頼朝によって掌握され、奥州に覇を唱えた藤原三代が滅ぼされたのは、1189年のことだった。この藤原三代は俘囚の血をひくといわれる。

関東に荒れ狂った騒乱のかげで、じつはこのような血の融合がおこなわれていたのだ。そして、この動きは関東だけにかぎられたことではなかった。源氏と平家の戦いは全国にくりひろげられた。南北朝の時代、室町幕府をひらいた足利尊氏と、そのライバル新田義貞の争いなど、争乱は全国にひろがった。『平家物語』と『太平記』の世界だ。

ぼくのふるさとには、『太平記』ゆかりの地がじつに多い。たとえば、新田義貞が深田に馬の足をとられて死んだとされる新田塚。『太平記』の描写がほんとうだとしたら、雨の夕刻、大河・九頭竜川のほとり、水田化がすすんでいた越前の野で、馬に乗ること自体が信じられないが、これはつい関東の野で馬を駆るクセがでてしまったということだろうか。義貞亡きあと、配下の3万余騎が、「心々にぞ落ち行きける」という。母の話によれば、母の実家の川をへだてた対岸の村では、納豆汁を食べる習慣があったそうだ。まわりの村では、納豆を食べる習慣はない。これは、はるかな縄文の名残りか、あるいは関東武士がのこした習慣だろうか。

ぼくが育った町にある湊城(みなとのしろ)、ここから10qほどはなれた高巣城(たかすのしろ)には、新田方の畑六郎左衛門時能がこもって大暴れした。畑六郎左衛門は武蔵国の住人。相撲を好み、狩り・漁を業とし、水練・弓の名人で、犬を自在につかいこなしたという。まささに縄文人。仲間もいわば似たもの同士。さいごは平泉寺・豊原寺の衆徒3千騎に、16騎で戦って、討ち死にしたという。この豊原寺は、のちに立場を変え一向一揆の拠点となった。おなじく南朝方の城となっていた時宗の往生院長崎道場も、のち一向一揆の拠点となった。

このほか北畠親房が陸奥の兵を南朝に加担させようとしたり、この時期の日本列島は、縄文の血と弥生の血が、いっきょに攪拌された時代だった。

こんな研究報告がある(『朝日新聞』2008年2月21日朝刊)。神奈川県鎌倉市由比ガ浜の2つの遺跡で発見された鎌倉時代の61体の人骨、および茨城県東海村の室町時代中ごろの遺跡で発見された49体の人骨。これらの人骨からミトコンドリアDNAを抽出・分析した結果、「縄文人と弥生人の融合は九州で始まり徐々に東に進んだはずで、中世には現代と同じレベルの融合が関東地方にまで進んでいたことを示している」(国立科学博物館人類史研究グループ・篠田謙一主幹)。また、鎌倉の中世人の人骨の形状は、縄文人に似ているともいう。「古い時代から現代まで列島の人間は遺伝的に連続している可能性が高いことが裏付けられた」(聖マリアンナ医科大・平田和明教授)。

親鸞の関東布教

法然(ほうねん)が土佐に、弟子の親鸞(しんらん)が越後に流されたのは、1207年。この流罪さきで親鸞は、のちに恵信尼とよばれる女性と結婚した。1211年、罪を赦された親鸞は、京都にはもどらず、1214年、常陸の下妻・小島・稲田などに住んで布教につとめた。

稲田に行ったことがある。笠間焼きで有名なJR水戸線の笠間駅のとなりに、稲田駅がある。線路の北に、田んぼをまえにした、こんもりとした山があり、その森のなかに寺院がある。ここで親鸞は『教行信証』を書いたという。教えを求める人びとは、常陸を中心に奥州までおよんだ。親鸞は、この人びとを「おんどうぼう(御同朋)」「おんどうぎょう(御同行)とよんだという。

当時の常陸は、コメ文明化の波にあおられ、縄文文明からひきはがされるようにして、新しいコメ農民がうまれていた。親鸞は、その人たちを「おんどうぼう」「おんどうぎょう」とよんで平等視した。越後の女性と結婚した親鸞は、常陸の百姓や武士と交わりながら、この人たちにこそ念仏が必要であり、この人たちこそ苦悩から開放されなければならないと思ったのにちがいない。もしかしたら親鸞は、日本列島の民衆のミトコンドリア遺伝子の彼方まで、視線をのばしていたのかもしれない。そう考えると愉快になる。

親鸞がはじめた浄土真宗が爆発的にひろまったのは、さらに250年あとのことだった。関東武士たちの争乱、それが全国に拡大して、北陸もその舞台の1つとなり、そのなかから百姓たちが争乱の主役として登場。親鸞から8世の蓮如の指導のもと、百姓たちがコメ文明の担い手として、「なもあみだぶつ」を唱えつつ、アイデンティティを確立した。彼らが、「ごはん+みそ汁+たくわん」セットを、まがりなりにも食べられるようになって、はじめてコメ文明が底辺にまでいきわたることになったのだ。

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1.文明の逆行(2010.1.20.) 6.縄文と弥生の連続性(2010.4.13.)
2.都市は滅びる(2010.1.24.) 7.日本海沿岸文化の底力(2010.4.18.)
3.都市と火災(2010.1.26.) 8.適正規模への回帰(1)(2010.5.05.)
4.きのうときょうの都市問題(2010.1.29.) 9.適正規模への回帰(2)(2010.5.10.)
5.都市からの逃亡(2010.2.27.) 10.あらためて文明の逆行を(2010.5.25.)
   
         
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