宇宙のなかの太陽系の、生命の棲む奇蹟の青い星、地球。その地球が、地球温暖化やピーク・オイルで、さきゆき怪しいのだそうです。地球のうえのユーラシア大陸のはずれの、青い海に浮かぶ奇蹟の島、日本。そこで住んでいるぼくたちにも、無縁の問題ではなさそうです。この星のこの島に生きている毎日をいつくしみつつ感じたこと、思ったことを、あれこれと…
 
   
1.文明の逆行(2010.1.20.) 6.縄文と弥生の連続性(2010.4.13.)
2.都市は滅びる(2010.1.24.) 7.日本海沿岸文化の底力(2010.4.18.)
3.都市と火災(2010.1.26.) 8.適正規模への回帰(1)(2010.5.05.)
4.きのうときょうの都市問題(2010.1.29.) 9.適正規模への回帰(2)(2010.5.10.)
5.都市からの逃亡(2010.2.27.) 10.あらためて文明の逆行を(2010.5.25.)
   

8.適正規模への回帰(1)(2010.5.10.)

   
上海万博

日本が「東京オリンピック」「大阪万博」という大イベントをきっかけに、高度成長・環境破壊・バブル崩壊という道を歩いたように、中国もまた、「北京オリンピック」につづいて「上海万博」をはじめた。日本産業館で高級トイレ設備を体験展示するなど、日本はエコロジーに基盤をおいた先端技術を紹介しているそうだ。

この10年で都市部では、見ちがえるほどにきれいになったが、かつては中国のトイレはたしかにひどかった。しかし、日本だって、それほど先行していたわけではない。ポッチャン便所から水洗トイレまで、それなりに時間がかかっている。それなのに、「きれにしましょうね」と、すまし顔の日本の態度に、中国人たちは気を悪くするのではないかと、ぼくなどはハラハラする。

劣悪なオモチャや廉価な繊維製品で、日本がアメリカ人の顰蹙をかっていたのは、ついこのあいだのことだ。平気でアメリカのポピュラーをコピーしていたのは、ついこのあいだのことだ。ノーキョーさんとよばれた団体海外旅行者が世界をのしまわっていたのも、ついこのあいだのことだ。農地を農薬まみれにし、水俣病問題はまだ解決していない。カネミオイル、森永ヒ素ミルク事件、サリドマイド、薬害肝炎事件…。数えればきりがない。にもかかわらず、中国人たちのデザインやキャラクターや音楽の盗作、CDやDVDの海賊版、秋葉原やデパートで買いまくる中国人旅行者、そして毒入りぎょうざ事件にたいする日本人の態度はどうだったか。とても、そういう失敗をかさねてきた経験ある先輩の余裕ある態度ではなかった。日本人は反省していないのではないか。

いま中国の沿岸地帯では、ついこのあいだまで日本の太平洋岸で展開していたことが、再現している。石炭や石油をエネルギーをつかった、人工的な文明の展開であるかぎり、行きつくさきは知れている。先進文明国である中国は、すでに青銅器時代から森林伐採をはじめ、鉄器時代に加速した。万里の長城をつくるレンガを焼くためにも、森の木が切られた。中国の森林率は、1949年には8.6%、2007年には18.21%、2010年には20%に達する見通しだという。はたしてどうなったか。中国に森林はないといっていい。植生はズタズタであり、生態系はこわれている。身のまわりの動植物の貧弱さ。経済の発展と森林の回復は、両立させることができるのだろうか。

もどるべき森林もなく、農地からは切りはなされて、農民たちは都市に流入して、難民化している。内陸と沿岸の経済格差は、ひろがっている。日本で表日本とよばれた太平洋岸が経済発展をとげたとき、裏日本とよばれた日本海沿岸との経済格差がひろがった。これが中国では、日本の10倍以上の13億の人口規模で進行する。その文明の過剰は、想像を絶する。

おそらく中華思想の中国人たちは、聞く耳をもたないだろうが、本来なら日本は、そっちへいったら危ないよとアドバイスしなければいけない立場にある。ところが、日本自体が、まだ方向を見定めてはいない。文明には、もどる道はないと思っているのだ。

さいわいなことに、日本の森林率66.8%にもあらわれているように、日本海沿岸には、もどっていける自然や文化がまだのこっている。ここにこそ活路があるのではないだろうか。

中学校1つぶんの人口

現在の日本には、人口11,623人につき、1つの中学校があるそうだ。そういえば、人口1万人たらずのふるさとの町で中学校に入学したとき、まわりの農山漁村から集まった新しい顔ぶれがクラスメートにまじって、とても新鮮な思いをした記憶がある。

漁村から通ってくる生徒は、登校のときウサギ罠をしかけ、下校のときに獲物をもって帰るのだという。朝陽にかがやくトビウオの群れを語ってくれたこともある。彼らがしゃべることばには、独特のなまりがあった。おそらくあれは、海人ことばだったのだろう。山村の友だちの家の近くには、童話のような牧舎があり、ウシやブタやヤギが飼われていた。日本海に面した砂丘には、ラッキョウ畑・スイカ畑・果樹園がひろがっていた。半径5qほどの円内に、さまざまな文化がひしめいていた。毎日がカルチャー・ショックの連続だった。

歩けば歩ける範囲内に、それぞれの役割をもった村と町が、有機的につながっている。野菜などの農村の生産物は町に集まり、アジなどの漁村の収穫物も新鮮なまま山村にとどく。町は小高い丘のうえにひろがり、大きな神社や寺や城跡がちらばっている。足もとの河口には、もとは北前船の寄港地だった漁港がある。プラトンによれば、理想の国家(ポリス=都市国家)は、アクロポリスの丘のうえから眺めて、見える範囲になければならないそうだ。ぼくの町は、中世の混乱のあと、町衆による自治を獲得したから、城下町にはならなかった。福井大地震のときも、となり村まで家が崩壊したにもかかわらず、ぼくの町はほとんど被害がなかった。さらに小高い部分に、いま小学校・中学校・高校がのっている。

この商人が活躍する港町は、漁民が獲ってきたズワイガニを「越前蟹」、馬糞ウニを「越前雲丹」、砂丘の農民がつくったラッキョウを「三里浜花らっきょう」と、それぞれ付加価値をつけた高級ブランドに育てあげている。このように、町と村のつながりが有機的に機能するためには、中学校1つぶんの人口が基本単位となるのがいいのではないだろうか。これが人間にとってもムリのない生態系といえる。

日本の原風景

「兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川」。小学唱歌『故郷』に歌われている、日本の原風景とされるものも、やはり室町時代に成立したという。

日本人のほとんどに、縄文人の血が流れている。もとは山野に暮らし、洪水で流されてしまうような、軟弱な地盤の土地には住まなかった。農民として土地にしばられ、灌漑用の小川が流れる低湿地に住んで、適応できずに病死していった者も多かったことだろう。この人たちの手にもどってきた山野、それが里山だ。

自分たちの村で、自分たちの力で、コメをつくる。自分たちの意思で、村の生活をきりまわす。コメづくりの農民としてのアイデンティティを確立できた室町時代。このときはじめて、コメづくりに欠かせないものとして、近くの山が村と一体となった。百姓が自由にでいりできる山。薪をつくり、木炭を焼き、木の実・キノコ・野草を採り、ときにはカモ・キジ・ウサギを獲る。縄文の山野を、自分の手もとに引きつけて暮らす、縄文の回復だ。百姓たちの蘇生が目にうかぶ。

藁葺き屋根の農家。まわりにゴザが敷かれた囲炉裏、燃やされる籾殻、自在カギから吊りさげられた鉄瓶、そのなかで煮えたぎる番茶、煙でいぶされた川魚。襖・障子・衝立のある畳敷きの座敷、季節の掛け軸・花をいけた壷・香のくゆる床の間、藁灰のはいった火鉢・炬燵。夏には、団扇・扇子、簾・敷き茣蓙・籐の敷物・油団・蚊帳、蚊遣火。竈にかけた鉄釜で炊かれた、ほかほかの御飯。鉄鍋でことこと煮こんだ野菜のごった煮。つきたての餅に欠かせない臼と杵。粗朶や薪をくべて焚く五右衛門風呂。おばあさんの糸繰り車・機織。土間には草履・草鞋・下駄、蓑・笠・番傘。雪の日のための木製の雪かき・雪靴・竹スキー・橇。

大根・瓢箪・糸瓜・柿・かき餅・タマネギ・ニンニクがぶらさがった軒先。フナ・コイ・アユ・メダカ・ドジョウ・ナマズ・ウナギ・ヤツメウナギ・淡水エビの棲む小川。丸木橋、水車。山の幸が満ちている里山には、ゼンマイ・ワラビ・ヨモギ・ヨメナ・クズ・カタクリなどの野草、クリ・シイ・トチ・クルミ・アケビなどの果実、シイタケ・マツタケ・マイタケ・シメジ・ナメコなどのキノコ類、そしてタケノコ・ジネンジョなどがある。柴刈り・炭焼き・兎狩り・鴨狩り・メジロ捕り・キノコ採りもできる。庭のウメ・モモ・カキ・イチジク・キンカン・ユズ・サンショウ・ミョウガ。田んぼのタニシ・イナゴ・セリも食べられる。

手づくりの梅酒・桑酒・ドブロク・甘酒。焼酎・日本酒・酒粕。スルメ・身欠きニシン・干しアワビ・塩ザケ・干ダラ・干しワカメ・昆布・海苔・塩辛・塩ウニ・カラスミ・糠イワシなどの保存のきく海産物。鮒鮨・豆腐・高野豆腐・ガンモドキ・コンニャク・カマボコ・納豆。

こうした生活風景は、数10年まえまでは、日本の農村にそっくりのこっていた。そして、これはコメ文明の成果であると同時に、その大部分が縄文時代からつづいているものでもある。さすがに五右衛門風呂・草鞋・雪靴などは見かけなくなったが、囲炉裏のある生活を現代生活にとりこむ人はいる。食べものに関しては、すべてがいまも健在だ。この息の長さにはおどろく。

韓国の学者・李御寧(イー・オリョン lee o-young)の『「縮み」志向の日本人』がいうように、これらは、まさに「縮み」の文化だ。しかし、拡大の文明がなにをしたかを考えるとき、この「縮み」こそ、これからの生き方になるのではないだろうか。

文明の中心にいるとき、文明の周辺にいるとき、人は拡大の論理から脱却することができない。これまでの文明は、けっして後戻りはしなかった。こうして、数多くの文明が滅亡していった。内田樹『日本辺境論』は、「日本は辺境であり、日本人固有の志向や行動派その辺境性によって説明できる」。そして、日本人は、この辺境性を生かしていくしかないといっている。太平洋沿岸の文明の進歩拡大によって、日本海沿岸は辺境された。この辺境性を活かさないという術はない。

テレビで見かけたのだが、イギリスにも藁葺き屋根の家があるらしい。『アーサー王伝説』の本場グロスターシャー州。先住のケルト民族の色濃い地方だ。そこで、こういう藁葺き屋根の家に都会から移り住む人がいるのだという。さらには、ネアンデルタール人は現代人とはつながりがなく、2〜3万年まえに絶滅したとされてきたが、さいきんDNAの連続があるとわかってきたようだ。成熟社会イギリスでは、先行人種や先住民族の見直しやら、過去の生活文化への回帰などの動きがあるのだろうか。日本もまた弥生縄文文化を見直し、過去の生活文化への回帰を考えるべきときがきている。いたずらに進歩発展を追い求めるのではなく、日本も成熟社会をめざすべきときがきているのではないか。

コンビニの引っ越し

ぼくの住む分譲住宅の中心に、ついさきごろまで、交番とならんで1軒のコンビニがあった。分譲地ができた当初からよろず屋があり、それがブームにのってコンビニに替わったものだ。なかなか流行っているようであり、ぼくはネット販売の書籍の、受け取り場所として利用してきた。

ところが、いまは灯りが消えている。駐車場がないのが致命的で、このところのコンビニの衰退で、引っ越さざるをえなくなったのだという。引越し先は、これもまた石油業界の衰退でつぶれた、分譲地のはずれのガソリン・スタンドあと。いちおう県道に面して、駐車場があるという条件を充たしているとはいえ、高齢化した住民の利便を考えたら、衰退×衰退、とてもやっていけそうには思えない。

*「コンビニの売上高はそもそも、閉店や新店の影響を除いた既存店ベースでは07年まで8年連続で下がり、来店客数も減る傾向にあった」。「全国のコンビニ11社の2009年の売上高(全店ベース)は、前年比0.6%増の7兆9043億円とほぼ横ばい。特徴的なのが年後半の落ち込みだ」。「客1人あたりの購入金額は、09年は前年比2.2%減の平均578.4円。下落幅は00年と並んで過去最悪だ」。(2010年1月21日『朝日新聞』朝刊)

ふりかえれば、この街から何軒の店舗が消えたことか。最盛期には、交番とコンビニの向かいがわに、銀行・郵便局があった。ここを中心に商店街が形成され、診療所1・歯科医2・薬局2、肉屋2・魚屋2・八百屋2、そば屋2・すし屋2・中華店2・居酒屋2・豆腐屋1・菓子店2、衣料品店1・クリーニング店2・電気店3・理髪店3・美容室1・雑貨屋3・本屋1・文具店1・自転車店1などがならんでいた。分譲地内の買いものだけで、じゅうぶん生活できた。

ところが、モータリゼーションとバブルの崩壊で消えたのが、まず銀行。これが駐車場つきのATMに化けた。バスで10分の場所にスーパーができたことで、たちまち肉屋2軒が血祭りにあげられた。最後までのこった魚屋も、たまに店をひらくのは親父の体調次第のようだ。八百屋も全滅だ。本屋と自転車店も、いまはない。

診療所の医師も歳をとり、代診が多くなった。歯科医もほそぼそとやっている。なんとか無医村状態にはならずにすんでいるが、先行きはあやうい。

そば屋が1軒に減ったものの、がんばっているのは、食べ物屋だ。すし屋・豆腐屋・菓子店そして理髪店など、職人の店がのこっているといえようか。この職人たち自身が老齢化しつつも、身につけた技量にたよってしか生きていけないという事情もあるのだろう。

分譲地の周辺は自然にめぐまれている。散歩で小川のほとりを歩けば、カワセミ・ハクセキレイ・シラサギ・カルガモ・キジ・モズ・ヨシキリ・アオジ・ムクドリ・ツグミ・カワラヒワアなどに出会う。庭にメジロ・ウグイス・ジョウビタキ・シジュウカラがやってくる。かつての商店が健在なら、高齢者が住むには理想的だ。

そして、この分譲地には、小学校が1つと中学校が1つある。むかしからある村落の、いかにも寺小屋から発展したと思われる、古い寺のそばの小学校が1つ。この村をへだてた、もう1つの分譲地にも小学校が1つ。この3つの小学校を中心として、すべての住宅地が、縄文以来の洪積世台地にのっている。じじつ旧村落の畑からは縄文土器のかけらがいまでもでる。分譲地自体が縄文遺跡のうえにのっている。もとは、縄文時代から継続している、典型的な山村だ。安定した生活が、1万年にわたってつづいてきたのだ。

ただ、この分譲地から、肉と魚と野菜がなくなってしまった。野菜についていえば、すぐ目のまえに青々とした野菜畑がひろがっているというのに。個人商店を追いだしたコンビニまでが、なくなってしまった。

この小さな分譲地の40年の歴史をふりかえってみると、モータリゼーションのはたした役割の大きさにおどろく。分譲地のコミュニティとしての機能を、モータリゼーションが破壊した。肉屋2・魚屋2・八百屋2が消えたことからもわかるように、生活文化とくに食文化を破壊した。

かつての分譲地文化を回復するには、肉屋2・魚屋2・八百屋2がもどってくればいい、というわけにはいかないのが問題だ。スーパーやコンビニで売られている肉と魚と野菜は、石油文明にたっぷりと浸された食べものたちだ。しかも、これらの食べものを買いにいくにも、石油が消費される。この過剰な石油のコストが、分譲地の肉屋・魚屋・八百屋をつぶしたのだ。ふたたび分譲地の肉屋・魚屋・八百屋がよみがえるためには、肉と魚と野菜の油ぬきをしなければならない。

大量の石油が、世界のはてから食料をはこんでくるという時代から、身近な産地から食品を確保する時代へ。できるだけ土地のものを食べる。そういう発想が必要だ。

ぼくの分譲地のような、65歳以上の高齢者が半数を占める、いわゆる「限界集落」が、いま7,800あるという。また、「買いもの難民」「買いもの弱者」とよばれる人は、600万人におよぶという。

各地で孤島化・砂漠化したコミュニティが、農協の協力で青空市場をはじめたり、NPO法人の会員組織のコンビニをつくったり、スーパーや病院の協賛金で生活バスを運行するという動きがではじめている。

しかし、それはそれとして、その地域が回復できるのは、どんなに小さくても、その土地に生産性があるかどうかだ。大都市のためだけの、家族を住まわせておいて寝に帰るだけの、ベッド・タウン。いわばカプセル・ホテルやネット・カフェまがいの郊外団地には、将来がないかもしれない。大都市が大都市でなければ、必要のないものだからだ。ぼくの分譲地も、その危険性をはらむ。

大都市の適正規模への回帰には、痛みがともなうのはやむをえない。ぼくの分譲地も、縄文以来の村落に返却しなければばらないかもしれない。

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1.文明の逆行(2010.1.20.) 6.縄文と弥生の連続性(2010.4.13.)
2.都市は滅びる(2010.1.24.) 7.日本海沿岸文化の底力(2010.4.18.)
3.都市と火災(2010.1.26.) 8.適正規模への回帰(1)(2010.5.05.)
4.きのうときょうの都市問題(2010.1.29.) 9.適正規模への回帰(2)(2010.5.10.)
5.都市からの逃亡(2010.2.27.) 10.あらためて文明の逆行を(2010.5.25.)
   
         
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