宇宙のなかの太陽系の、生命の棲む奇蹟の青い星、地球。その地球が、地球温暖化やピーク・オイルで、さきゆき怪しいのだそうです。地球のうえのユーラシア大陸のはずれの、青い海に浮かぶ奇蹟の島、日本。そこで住んでいるぼくたちにも、無縁の問題ではなさそうです。この星のこの島に生きている毎日をいつくしみつつ感じたこと、思ったことを、あれこれと… |
3.都市と火災(2010.2.5..)
江戸の火事 都市を衰退・壊滅させる原因にはいろいろあるが、その1つに火事がある。地震や台風などの天災ともむすびつくし、戦争や征服などの人災ともむすびついて、その被害を増幅させる。過剰な人口・密集する住宅・消火用水の不足・人心の不安定などの、都市がかかえる欠陥ともむすびつきやすい。 「火事と喧嘩は江戸の花」といわれた。あまりの火事の多さからくる、江戸っ子一流の居直りなのか、焼け糞のお国自慢かとも思えるが、あんがい本音らしいところがあるのも、少し気になる。 『ウィキペディア』フリー百科事典によれば、たしかに江戸の火事の頻度はすさまじい。1601年から1867年にいたる267年間に、江戸では49回もの大火が発生した。大火以外の火事もふくめると、267年間で1,798回にのぼる。 そのうちでも、明暦(1657年)・明和(1772年)・文化(1806年)の大火は、江戸三大大火とよばれる。明暦の大火は、死者は最大で107,000と推定されている。江戸の大半が被災し、江戸城天守閣も焼失した。明和の大火は、死者14,700、行方不明4,060。町904が焼失した。文化の大火は、死者1,200、町530、大名屋敷80、寺社80が焼失した。 丸谷才一/山崎正和の対談集『日本の町』(文春文庫)の「東京」篇に、こんな話がでてくる。 山崎 日本橋の湯浅商店──これは享保十一年から明治元年までの百四十数年の間に六回火事になった。つまり二十四年に一回ずつ火事になる。 江戸は、いわば将軍家の軍事基地。さらに各藩の江戸屋敷がおかれ、武士が人口の半分を占めていた。明治2年(1869年)になってもなお、江戸の総面積に占める割合は、武家地68.58%、寺社地15.61%、町人地15.81%だったという。人口100万といわれた世界に名だたる過密都市のうち、50万の町人にあたえられていた面積は、たったの15.81%。 せまい長屋に住み、大刀をたばさんで歩く武士のまえに土下座しなければならない町人にとっては、この過密の心理的な圧迫は、なみたいていのものではなかっただろう。物理的にも、心理的にも、火事と喧嘩が多発する条件はそろっていたのだ。 喧嘩では、幡随院長兵衛vs水野十郎左衛門の、町奴と旗本奴の対立が、歌舞伎や講談に描かれて有名だ。 火事の原因としては、失火・地震・内乱などのほかに、目だつのが放火だ。1723年(享保8年)から翌年にかけての2年間に、放火犯102人が捕えられた。そのうち非人が41人・無宿者が22人。都市に流入してくる下層民が食うに困り、火事の騒ぎに紛れて盗みを働く、火事場泥棒を目的とした放火もあったという。 放火には、こんな変わり種もある。1683年の天和の大火で焼けだされた本郷の八百屋の娘お七は、吉祥寺に避難する。ここで寺小姓に恋をする。やがて本郷にもどったお七は、寺小姓に会いたい一心で、火事になれば会えると、あちこちに放火したといわれる。この罪でお七は、鈴が森刑場で火あぶりになった。この話は、お七と小姓吉三との恋物語として、歌舞伎や落語となって、江戸っ子に親しまれた。 焼けやすい木造の家屋、しかも、それは借家であり、自分のものではない。火事は「江戸の花」であり、また「紅葉」に見立てられることもあったという。それは負け惜しみではなく、あんがい本音であり、江戸の庶民にとっては、娯楽にかわる壮大なスペクタクルだったのかもしれない。 前出の『日本の町』では、江戸の火事を御霊信仰としてとらえている。 山崎 (略)火というのはもちろん怖いものですが、人さえ死ななければ一種の浄めになるんじゃないですか。都市というのは当然垢がたまります。垢がたまってきますと疫病が起こります。京都というのは疫病の町でした。ずっと長いこと、京都の災難は疫病なんです。江戸ではあまりにたびたび火事が起こったので、疫病はあんまり恐ろしくなくなった。都市の垢をザーッと払ってしまうようなところが、火事にあったんでしょうね。 京都の大火 1601年から1867年にいたる267年間に、江戸で49回の大火が発生したのにたいし、おなじ時期に、京都は9回、大阪は6回だったという。ところが、『日本史年表』(吉川弘文館)で見ると、平安時代から鎌倉時代にかけての100年だけで、京都には下表のように大火が頻発している。ほかに天災や飢饉や疫病も起こっている。当時の京都の人口は10〜20万。江戸の人口との比率からいえば、京都もまた、とんでもない災害頻発都市だったといわなければならない。
この時期は、平安時代も盛りをすぎて、藤原道長らの摂関政治が衰えを見せ、1086年には朝廷が院政をはじめている。しかし、いっぽうでは武士が台頭、1156年には保元の乱、1159年には平治の乱が起こり、ついに平家の時代がおとずれた。それもつかのま、1185年には、平家滅亡。1192年には、源頼朝が鎌倉に幕府をひらいた。たった100年のあいだに、めまぐるしく時代が変わった。その時代の変化が、首都を大混乱に陥れたのだった。 鎌倉時代となって、実権が鎌倉に移ってもなお、京都の情勢は安定しなかった。1208年に問注所が焼かれ、京都は大火に見舞われる。さらに1213年、1218年、1245年、1249年と、京都は大火の被害をこうむった。 世界の都市の火災 世界帝国の首都ローマが紅蓮の炎につつまれたのは、ネロの時代だ。火は戦車競技場チルコ・マッシモからでたといわれる。浮浪者の焚き火が引火して、ひろがったのだという。放火犯としてキリスト教徒が処刑された。しかもネロは、焼け跡に豪勢な黄金宮殿を建てた。これによって後世、火災はネロの命による放火だったとされ、さらにはネロは戦車競技でも見るように、けたけた笑いながら火勢をたのしんだという伝説さえうまれた。じっさいには、ネロは陣頭で指揮をとり、被害が広がらないよう的確に対処したのだともいう。 帝王の放火といえば、あのアレキサンダーも、ペルシアの春の都ペルセポリスを陥落させたあと、酒宴のさいちゅうに、女にそそのかされて、松明をもって先頭に立って宮殿に火をつけたという。だが、すぐ後悔して「火を消せ」と命じたが、時はすでに遅く、当時の世界の国際都市ペルセポリスは炎上した。 ギリシアに滅ぼされたトロイは、木馬にひそんでいたギリシア兵士たちが火をつけ、焼け落ちた。以後、現代まで、戦争で焼かれた都市は、数限りない。第2次世界大戦では、1945年3月10日の東京大空襲で、死者8万3793人 、負傷者4万918人、被災者100万8005人、被災家屋26万8358戸。東京35区の3分の1以上の面積(約41km2)が焼失した。B-29爆撃機325機から、38万1300発もの焼夷弾が投下され、木造建築が焼きつくされたのだ。これは東京がうけた106回の空襲のうちの、たった1回の空襲における被害だ。 第2次世界大戦では、東京のほかにも、イギリスの首都ロンドン、ドイツの首都ベルリンなど、数多くの都市が空襲の対象となった。そして、ついに広島と長崎の原爆投下にいきつく。広島原爆は、3月10日の東京大空襲の約9倍相当の規模のエネルギーだったという。広島は壊滅し、14万人が死亡したとされる。長崎では、約7万4千人が死亡、建物の約36%が全焼または全半壊した。 戦争では、都市は敵の攻撃にさらされるだけでなく、味方によって焼かれることもある。1812年のナポレオンのロシア遠征において、ロシア軍はみずからの手でモスクワを焼きはらった。モスクワは9月14日から18日まで、5日間にわたって燃えつづけた。これによってモスクワは完全に都市機能を失った。敵の大都市は、ときには味方の兵を養う最大の兵站基地にもなる。しかし、ナポレオン軍はロシア軍の退却作戦によってロシアの奥深く引きこまれ、さらに敵の焦土作戦によって兵站をも失った。ナポレオンの転落は、ここからはじまったといわれている。 世界のの3大大火は、江戸の明暦の大火(1657年)、ローマの大火(64年)、そしてロンドンの大火(1666年)だといわれる。 ロンドンの大火は、4日間にわたって燃えつづけ、家屋のおよそ85%(13,200戸)が焼失したという。このころのロンドンは、狭い街路をはさんで木造の家が建ちならび、死者は5人と少なかったが、焼失被害が拡大した。これによってロンドンは、道路の幅をひろげ、木造建築を禁止して、家屋はすべてレンガ造りか石造にきりかえた。このためにノルウェーの森が伐られたという。 ロンドンは、大火で木造家屋を棄てた。ニューヨークの世界貿易センタービルは、鉄筋とコンクリートのビルだった。しかし、2001年9月11日、2機の航空機はこれを切りさき、2時間の火災によって、第1ビルから第7ビルまでの、第6ビルをのぞいた6棟が倒壊した。死者は2,752人。 都市は地獄のモデル 人は、天国を描くとき、昼と光と園を描く。地獄を描くとき、夜と火と街を描く。どう見ても地獄絵図は、洋の東西をとわず、都市の火災の阿鼻叫喚を映しだしたもののようだ。このように、都市の火災は悲惨のきわみだ。にもかかわらず、この火事が、「火事と喧嘩は江戸の花」「皇帝ネロのローマ放火説」「アレキサンダーによるペルセポリス炎上」のように、ときにショー的な色彩をおびることがある。 人は、もとは動物たちとおなじように、火を怖れていたことだろう。しかし、やがて、その威力に気づき、その怖れをのりこえて、火をあつかえるようになる。そして、文明を築くにいたる。これが、火をもてあそぶ心理につながったのだろうか。 都市は、文明でつくられている。つまり都市は、火によってつくられているといっていい。人は壮大な都市をまえにして、心をはずませ、かつ、おびえる。あるいは、帝王であろうと、町娘であろうと、ともすれば人は都市に火を放とうとする誘惑にかられる。それは、遠いむかしの火にたいする、ゆれる深層心理のあらわれなのだろうか。 ネオン・夜景・イルミネーション・ライトアップなど、都会の大規模照明に、人は讃嘆の声をあげる。熱源が光源にかわってはいるが、それはもとはといえば、火をあおいだときの心理と同根だろう。文明は、このようにぼくらに、かんちがいを起こさせる。ぼくらは文明の悲惨に讃嘆しかねない。地獄を讃嘆しかねない。 火の残酷さを消して、文明は都市を飾る。ぼくらは装飾の仮面をはぎとった都市の素顔を、ときどきのぞくべきだ。都市が地獄の顔を見せるまえに、都市に健康な素顔をとりもどさせておかなくてはいけない。 |
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