宇宙のなかの太陽系の、生命の棲む奇蹟の青い星、地球。その地球が、地球温暖化やピーク・オイルで、さきゆき怪しいのだそうです。地球のうえのユーラシア大陸のはずれの、青い海に浮かぶ奇蹟の島、日本。そこで住んでいるぼくたちにも、無縁の問題ではなさそうです。この星のこの島に生きている毎日をいつくしみつつ感じたこと、思ったことを、あれこれと…
 
   
1.文明の逆行(2010.1.20.) 6.縄文と弥生の連続性(2010.4.13.)
2.都市は滅びる(2010.1.24.) 7.日本海沿岸文化の底力(2010.4.18.)
3.都市と火災(2010.1.26.) 8.適正規模への回帰(1)(2010.5.05.)
4.きのうときょうの都市問題(2010.1.29.) 9.適正規模への回帰(2)(2010.5.10.)
5.都市からの逃亡(2010.2.27.) 10.あらためて文明の逆行を(2010.5.25.)
   

7.日本海沿岸文化の底力(2010.4.18.)

   
イナカッペの学力上位

小中学校の学力試験では、日本海沿岸地帯の県が、いつでも上位に顔をならべる。体力テストでも、いい成績をのこしている。ちゃんと朝食を食べるなどの、基本的な生活態度がいいともいわれる。住居の広さや住みやすさなどでは、富山・福井などが群を抜く。

日本海沿岸地帯の県では、いずれもコメがうまく、サカナがうまい。大陸からはこばれて脊梁山脈にはばまれた雪は、ゆたかな水を日本海がわの平野にもたらす。日本海の還流と暖流の交差、たっぷりと栄養をふくんだ河川は、ゆたかな沿岸漁場をもたらす。日本列島にゆたかな文明をもたらした海人族は、日本海を北上し、津軽海峡を越えると、太平洋を南下した。こうして日本海沿岸地帯では、神話の時代から、水稲農業と漁業がひろまった。

しかし、自然まかせなのかというと、そうではない。富山はクスリ売りなど、他の追随を許さぬ独特の産業をもっている。そのセンスが富山湾の近代化した漁業にもあらわれている。イカの黒づくり・ナマコの干しコノコなど、サカナ文化も独特だ。コシヒカリが福井発祥であることからもわかるように、福井の農業の歴史は深い。サバ街道を通じて京に送られた海産物は、越前ガニ・越前ウニなどに代表されるように、ゆたかであるばかりでなく質が高い。古くから越前和紙・越前焼き・絹織物などの手工業が発達し、いまも現代の精密工業をささえている。

もともとの古代の文明の先進に加えて、中世から近世にかけて、日本海沿岸に北前船交易が発達し、この地に京・大阪の物流と文化をもたらしたことが大きい。これらの土地では、農業だけでなく、早くから家内手工業が発達したところが多い。

したがって、日本海地帯は、共働き夫婦が多い。福井が1位、山形が2位、富山が3位。これをささえているのが、3世代同居。3世代同居率においても、山形が1位、福井が2位、秋田3位、新潟4位、富山が5位という順位になっている。また自動車の1世帯あたり保有台数も、福井が全国1位、富山が5位だ。日本海岸の鉄道沿線では、農家の庭さきに、数台のクルマが駐車しているのを、いくらでも見ることができる。これも3世代同居という居住形態と経済力がささえているといえる。

この不況のなかで、今春の高校卒業生の就職内定率(昨年12月時点)は、前年同時期とくらべて7.5ポイント低い74.8%だった。そのなかで、富山が91.0%で1位、福井が88.7%で2位、石川が87.1%で4位と、北陸の3県は並外れて高い内定率だった。それぞれ地元産業が雇用を維持していることが大きかったという。

これらの県では、20世紀末に秋田新幹線が開業し、ことし東北新幹線が青森まで全線開通するほかは、北陸新幹線は東京から長野までの部分開業であり、まだ開通していない。山陰には、基本計画はあるそうだが、とても実現はムリだろう。他の都道府県に比較すれば、現代文明といえるものの恩恵を受けること、じつに少ない。

ペリーの黒船が太平洋岸にあらわれて以来、どういうわけか太平洋岸が文明地帯になってしまった。太平洋岸新幹線ルートは、いまや大文明地帯だ。静岡県などは必要もない大空港をそなえている。しかし、このルートの沿線府県では、小中学校の学力向上に手を焼き、どうやれば朝食をちゃんと食べるようにできるかに悩んでいる始末だ。この差は、どういうことなのだろうか。

太平洋沿岸ルートでは、現代文明が普及して、古い文明と置きかわわった。激しい文明の席捲は、文化まで壊した。自動車などの先端産業が不況になると、首切りが横行した。いっぽう富山・福井・石川では、高校生の就職が確保された。富山・福井・石川には、古くからの雇用文化がある。太平洋沿岸地帯では、古い雇用文化が、消失していたのか、通用しなかったのか。新企業形態にふさわしい新しい雇用文化が育たなかったのか。もともとアメリカ風雇用文化には、リストラしか手法はなかったのか。

新しい文明が、それにふさわしい文化をつくりあげるには、時間がかかる。それが浸透するには、さらに時間がかかる。日本海沿岸では、文明と文化の旬はとっくにすぎているが、発酵して熟した文化のうまみが増して、いま、いい味わいになっているといえるかもしれない。超大型企業ならともかく、中小企業までなら、雇用文化も通用している。

ちなみに、大小を問わず社長になるのは、全国で福井県人がいちばん多いという。ぼくは福井県生まれだ。なるほど、まわりを見まわして社長でないのは、ぼくぐらいのものだろう。小なりといえども、父も兄も町工場の社長だった。弟も社長、従兄たちも社長。東京にでてきた友人・知人にも、社長になった者が多い。つまり福井では、従業員であろうと、いつ企業主になるかもしれない。雇用意識に双方向性がなければ生きてはいけないのだ。これが土地の文化であり、すくなくとも地元産業には、むかしから流れている血でありDNAだ。

幕末から明治にかけて、日本を訪れた外国人たちは、いずれも日本人についての好印象を語っている。ヨーロッパ人は不潔をもって非文明としたが、日本人の清潔さ・清潔好きに感心して、色も白くて白人なみの文明人だと持ちあげた。使用人などが盗みをはたらかないこと、失くしたものがもどってくることなどに驚き、倫理観の高さを褒めあげた。茶道などの文化の洗練・優雅から、庶民の親切・やさしさまで、日本人全体の人柄のよさを評価した。ラフカデォ・ハーンなどは、小泉八雲と名をかえて、松江に住み込んでしまったほどだ。

これらの日本人のよき資質は、まずペリーの開国による第1波の文明開化によって、つぎにアメリカの占領以後に流入した第2波の現代文明によって、太平洋岸現代文明地帯ではほぼなくなってしまった。さいわいに日本海岸では、かろうじて、これらのよき資質が残存しているといえる。

それは典型的なイナカッペというだけのことではないか。そういわれれば、べつに反論はない。これらの県のお国なまりは、ほかとくらべて激しいかもしれない。それだけ古い文化をのこしているともいえる。古い文化とはなにか。根底にあるのは縄文・弥生文化だが、つきつめていえば北前船文化だろう。この航路を通じて、日本海沿岸に京都文化が浸透した。しかも、浄土真宗という革命的な宗教によって、それは底辺の庶民にまでいきとどいた。これが、いまも生きている。

コウナゴ売りと一揆

子どものころ、この季節になると、ふるさとの街に、「コウナゴ、いらんかいねぇ」の売り声がやってきた。街の10qほど北東に、北潟湖がある。日本海とつながる汽水湖で、キビナゴ科の小魚のコウナゴが、この季節、5〜6pに育つ。これを塩茹でにしたのをカゴにいれて担ぎ、売りにくるのだ。背にかすかな青みのある、白魚だ。さっと酢醤油をかけて食べる。無数の小さな目がすこし気になったが、無類のおいしさがあった。従兄に電話で聞いたら、いまはもう高級魚だそうだ。

おなじ季節、街の智敬寺に縁日がでた。日向で鼈甲飴や綿飴をなめるのが、うれしかった。智敬寺は「つっきょじ」とよばれるほうが多く、それより「ちかよっさき(近吉崎)」とよばれるほうが、なお多かった。縁日は4月24日から29日までつづいた。このあいだに、寺から吉崎御坊への参詣の旅がでる。

ぼくたちが「よっさき」とよんでいた吉崎御坊(よしざきごぼう)は、長さ5qほどの細長い北潟湖のほとりをたどり、北のはずれの山をのぼったところにある。そのさきは、もう石川県と日本海だ。ここを拠点に、親鸞から8代目の蓮如が、北陸一帯に浄土真宗をひろめた。

吉崎御坊ができたのは1471年。吉崎そのものが港をもち、近くに北前船の良港・三国湊があり、沿岸をつたう船便が北陸各地をむすんだ。ばらばらに分かれていた各派が、組織力にすぐれていたといわれる蓮如のもとにまとまり、門徒衆が吉崎にあつまった。「他屋(のちに多屋)」とよばれる宿泊施設が、またたくまに100〜200棟もできたといわれる。こうして北陸一帯に一揆がひろがっていった。蓮如自身は、危険を避けて、1475年に吉崎を退去。以後、北陸には足を踏みいれていない。

しかし、蓮如がつけた火は、じっさいには蓮如がどう考えていたかはべつに、激しく燃えさかっていった。縄文から弥生へ。そしてコメの生産者になった人びとが、このころにようやくコメ文明のなかで人間として自立しようとしていた。京から伝わってきた浄土真宗は、ごはん・みそ汁・たくわん、そして味噌・豆腐などの食生活もはこんできた。自分たちの村に住み、貧しいとはいえ京とさして変わらぬ食事をしていると知ったとき、彼らは目ざめたのではないか。親鸞の説いた「善人なほもつて往生を遂ぐ。いはんや、悪人をや」に、みずからの拠るべきアイデンティティをもとめたのではないか。悪人とはなにか。都人や貴人は、富も位も暮らしも育ちも善き人だ。これにくらべて、百姓は富も位も暮らしも育ちも悪しき人だ。その悪人でも救われる、往生できる。そう理解して、ぼくたちの先祖は「なんまんだぶ」を唱えたのではなかろうか。

浄土真宗門徒宗の一揆(一向一揆は、弾圧するがわや他宗のいい方だ。浄土真宗信者は、みずからの宗教を一向宗とはよばない。)が、北陸全域にひろがった。1488年ごろから1580年にかけての約1世紀、加賀一国は門徒衆の国とよばれるほど、一揆の勢力が強かった。兼六公園で有名な金沢城は、堅固な寺院が建てられて一揆の拠点となった、「尾山御坊(おやまごぼう)」のあとだ。越前の織田神社あたりから美濃・尾張に流れて実力をたくわえた織田家に、ついに織田信長があらわれて、彼の豪腕によって一揆の息の根がとめられたのは、1582年のことだった。

ぼくのふるさとに、「ほんこうさん」という行事がある。親鸞の命日に本山に参拝する「正忌報恩講」。一般の寺院でおこなわれる「取りこし報恩講」。これらの儀式のあとには「斎の膳(ときのぜん)」がだされる。これが一族家族単位に俗化したのが「ほんこうさん」なのだろう。農事がおわった12月ごろ、その年に亡くなった身内をしのんで、親戚や村の人があつまって宴会をする。母の里の台所には、年季がはいって文様がすりへってはいるが、おどろくべき量の久谷焼・輪島塗りのお椀・1人用のお膳があった。これらの器に、ご馳走が盛られる。

ご馳走といっても、いくらか精進料理の名残りのぬけない、地のものをつかった手づくりの田舎料理だ。大煮しめには、サトイモ・ダイコン・レンコン・ニンジン・ゴボウ・コンニャク、これに斜め半分に切った厚揚げがはいっている。豆腐・高野豆腐・油揚げなどをつかった料理もある。これらは京からつたわった食材だ。ニシンのはいった昆布巻きは、北前船がはこんできた食材。そばを打ち、ぼたもちがつくられる。牛肉もあるが、かわりに馬肉になることもある。子どもたちが喜ぶのは、京風砂糖菓子。

一揆の嵐がすぎさったあとも、このように村の生活には、京風がしみこんでいった。大阪・瀬戸内海・日本海沿岸・松前をむすんだ北前船も、日本海岸各地に畿内の文化をはこんだ。琵琶湖を船で渡ったり、いく筋かの山中の道をたどった『さば街道』も、京と日本海をむすんだ。芥川龍之介の『芋粥』は、若狭まで馬をとばして、うまい芋粥を食べにいく侍の話だ。「京都はもっとも南の北陸」「京文化とは北陸文化」といわれる。このように、コメ文明を基盤として育った京文化は、室町時代の中ごろになると、日本海沿岸一帯の農山漁村にもひろまり、村や街の文化をそれなりの水準にひきあげていたのだろう。

おくのほそ道の日本海

伊賀上野に生まれた松尾芭蕉は、29歳のときに上京すると、まもなく俳人としての地位を確立した。彼は、『野ざらし紀行』『笈の小文』『更科紀行』『おくのほそ道』などの紀行をのこし、まさに「日々旅にして旅を住みか」とした。西行の足跡をしのび、伊勢・吉野に足をふみいれ、ついには『おくのほそ道』で、東北・北陸にまで足をのばしている。江戸をたって平泉にいたる道は、西行が藤原三代につながる自らのDNAをもとめて歩いた道であり、西行亡きあと鎌倉時代から室町時代にかけて起こった武士の争乱のあとをたどる道でもあった。

日本海にでると芭蕉は、鶴岡の城下で俳諧一巻の興行あと、川舟で酒田にくだり、医師の家に泊まった。このときよんだのが、「暑き日を海に入れたる最上川」。酒田は、もとは奥州藤原の一党がひらいたといわれる、北前船の港町だ。「東の堺」とよばれ、町は三十六人衆という自治組織により運営されていた。豪商・本間家ゆかりの美術館がある。これは本間家四代当主が港湾労働者たちの冬期失業対策事業として築造した別荘を、敗戦後の地方文化の向上・発展に寄与するため、昭和22年に戦後初の私立美術館として開放されたものだという。

このあと象潟で西行の足跡をしのんで、「北陸道の雲に望む」。新潟・富山をすぎ、加賀にはいると俳諧の弟子も多く、金沢・小松・山中・大聖寺などに足をとどめている。

「越前の境、吉崎の入江を舟に棹して、汐越の松を訪ぬ」。汐越の松とは、「終宵(よもすがら)嵐に波を運ばせて 月を垂れたる汐越の松」のことだ。ほんとうは蓮如がよんだ歌だが、西行の作だという俗伝もおこなわれていたという。一向一揆の終息のあと100年がすぎている。芭蕉の目に、なにか痕跡は映ったのだろうか。

いまやおとなしく田を耕す百姓の村々をすぎて、福井では俳壇の古老・等栽を訪ねて2泊している。歌枕をたどりつつ、福井から敦賀へ。「あさむづの橋」「玉江の葦」は、越前平野を灌漑し、水稲耕作をひろめた秦氏にかかわりの深い土地だ。「湯尾峠」「燧が城(ひうちがじょう)」は、木曽義仲ゆかりの古戦場・城跡だ。

敦賀では、気比神宮に夜参した。この神社は、応神天皇の父親であり、神攻皇后の夫である、仲哀天皇をまつってある。朝鮮半島とのかかわりをにおわせる。敷かれている白砂は、参詣往来のために、「遊行二世の上人(時宗開祖一遍上人の高弟・他阿上人)」が「みづから草を刈り、土石をになひ、泥渟(でいてい)をかわせて」つくったものだという。時宗は鎌倉末期に起こった、浄土宗の一派だ。阿弥陀を信仰し、念仏を唱える。浄土真宗との近縁、それゆえの相克もあったようだ。この気比神宮で、芭蕉は、「月清し遊行の持てる砂の上」をのこしている。

ここで芭蕉の北陸の旅はおわり、美濃から伊勢にむかうところで、『おくのほそ道』は閉じている。西行と芭蕉の足跡をかさねあせてみると、2人に共通する歴史へのまなざし、地方へのまなざしが感じられるように、ぼくには思われる。

日本海沿岸の人材

丸谷才一/山崎正和『日本の町』のなかで、山崎は、「日本文化はどうも二本の枝でできているといえるのじゃないでしょうか。一本の枝はごく自然に、地形の類似性、それから風土の類似性ということで拡がっていく。これが要するに日本海文化だと思うんです。少なくとも北陸、山陰というのは似たような風景で、京都までつながっています。もう一方、太平洋側の拡がり方というのは、これは政治の力ですね。それこそ征夷大将軍安倍比羅夫いらい、太平洋側というのは「紅旗征戎」の世界なんです」と、総括している。、

この本でとりあげられている町の半分が、日本海岸の町だ。弘前について、山崎は「むしろ江戸という地域は野蛮だったんです。ところが、津軽というのは、いや、津軽だけじゃなく、日本海沿岸の主要な町はみんなそうですけれども、京、大阪につながってて、むしろ当時の第一級の文化がそちらのほうへ先に届いているんですね」「おそらくその後ずっと江戸時代を通じて、あそこは瀬戸内・北陸文化という、つまり北前船の沿岸貿易の文化の北端に属していたんですね」「私は津軽に行ってみると、日本文化の重層性というのがどれもこれも生きているという感じがするんです。(略)二本の正統文化がいちばんきちっと保存されているところかもしれないし、そうかと思うと、われわれの民俗の根源にある原型のようなものも残っているんです」という。

なにしろ青森には、日本有数の巨大縄文遺跡の三内丸山遺跡、亀ケ岡遺跡がある。これに北前船交易による京文化がかさなる。これらが長期にわたって、じっくりと醸しだした文化の深さは、この本でとりあげている金沢・小樽・弘前・松江はもちろんのこと、それ以外の日本海沿岸の都市についても共通だ。

これらの土地の医師やら俳人やらの人材が、江戸から芭蕉をひきつけたように、それぞれの町にはゆたかな人材とその交流がある。丸谷・山崎の2人が、名前を列挙している。

金沢では、文学者の泉鏡花・室生犀星・中野重治(註=福井生まれ、四高出身)、思想家の西田幾多郎・鈴木大拙。小樽では、新撰組の永倉新八、文学者の石川啄木・小林多喜二・坂西志保、画家の三岸好太郎。弘前では、流人の花山院忠長(17世紀はじめの京都の公家)・東源坊(寛永時代)・柳川豊前(対馬半家老)、文学者の太宰治・石坂洋二郎・今東光・今日出海、画家の棟方志巧・萬鉄五郎。松江では、「敗けた人の名前で輝いている国」の例として大国主命・塩冶判官・山中鹿之助、「女性によって立つ国」の例として櫛名田姫(須佐之男命を篭絡)・出雲阿国・小泉セツ(ラフカデォ・ハーンの妻)・玄丹お加代(明治初期の混乱期に政府がわの役人を骨抜きにした、たぶん芸者)・森英恵。

さらにつけくわえれば、芭蕉が北陸の旅をおわりにした敦賀の西に、バラク・オバマが大統領になって名前が知られた、小浜の港がある。いまはむしろ原発銀座として有名かもしれない。ここも神話時代からの歴史を誇る、典型的な北前船寄港地だ。くわしくは、『日本の旅』の『若狭〜琵琶湖「さば街道を行く」』を、ぜひ参考にしてもらいたい。港をつつむ岬には、海幸彦山幸彦の伝説がある。港の「フィッシャーマンズ・ワーフ」には、サバの丸焼き、小鯛のささ漬け、フグの一夜干しなど、若狭の味覚がならんでいる。商店街のまんなかには、「さば街道基点」の石版が埋めこまれている。広場には、幕末の志士・梅田雲浜の銅像と向き合って、『解体新書』の「杉田玄白」の銅像がある。与謝野晶子と競った歌人の「山川登美子」も、この街の出だ。

そして、おどろいたことに、この小さな町に、午前4か寺・午後4か寺、合計8か寺の、1日コースの寺めぐりの定期観光バス「国宝めぐり」が成りたっている。そのなかの1つ神宮寺では、東大寺二月堂の「お水取り」に呼応して、「お水送り」がおこなわれる。東大寺開山の良弁僧正は、この近くの生まれだ。また、羽賀寺は、室町時代の1447年に東北の安倍氏によって再興されたとき、いま寺のしたに見える青田は海で、十三湊から船で直接ここに木材が運ばれきたという。朝鮮半島・東北地方との文化の交流が思われる。

長い時間にわたって、守られてきた環境・文化。それが変わらぬ美しい風景を守り、好ましい生活文化を育み、人材をも生みだしてきた。しかし、事態はあやしくなってきている。『日本の町』のなかに、こんな部分がある。

丸谷 松江の町を夕方歩いていると、ほうぼうで魚を焼いているにおいがする。そのにおいが実に食欲をそそるんですね。いかにあの町の魚がよくて、しかもあの町の空気がいいかっていうことでしょうね。
山崎 そういえばあそこはヤマトシジミの名産地だけども、シジミは自分のうちで食べる分は、宍道湖からいくら獲ってもいいんだそうですね。朝飯のおかずにするんです。あれだけの規模の都会でそうい素朴さを残しているのは珍しいですね。

大切なことは、これらの文化が、いまもなお生きているということだ。日本海沿岸では、こういう息の長い文化が生きのこっている。そしてそれらは消えかかっているかもしれないが、いまならなんとか再現可能かもしれない。それができたらピーク・オイルに対処できるし、ピーク・オイルがきてもこなくても、そのほうが日本人はしあわせになれると、ぼくは考えている。太平洋岸を驀進してきた「「紅旗征戎(こうきせいじゅう)」には、もう遠慮してもらわなければならない。

適正規模の町

5年まえに、ブログ『コロポックル』に、「適正人口」を書いた。これによれば、明治維新のときの日本の人口は、3,300万人。日露戦争のときは、6,000万人。1億人を超えたのは、1970年だった。

「人口がピークをむかえるのは2006年。1億2774万人を頂点に、こんどは人口減少の急降下がはじまる。1世紀後の2100年には半減し、1世紀前の日露戦争のときとおなじ人口になるという」。「少子化・人口減少が問題になっている。おもに基金をささえる若年層の減少によって年金が破綻しかねないという問題としてとらえられている。なんだか、第2次世界大戦中の『産めよ増やせよ』みたいだ。兵士を確保し、戦死者を補充するため、『天皇陛下万歳』を唱えて死んでいく『国の宝』を増産せよ、という論理に似ている」。

これでみると、鎖国していた江戸時代後半には、人口3,000万人が自給自足できた。開国と同時にどっと輸入がふえ、富国強兵の時代がはじまった。それからあとは、日清・日露戦争、日中戦争、太平洋戦争などで領土をふやした。人口はうなぎのぼりにふえたが、いまになって少子化・人口減少が問題だという。この間の文明の進歩発展は、いったい何だったのか。戦争をするため、産業人口をふやすため、だけの人口増加だったのかと、いいたくなる。鉄腕アトムが何人ふえても、人間の負担はすこしも軽減されてはいない。電気洗濯機や掃除機で主婦の労働が軽減されても、亭主がリストラされては、なんにもならない。それなのに、なお人口が足りないという。

しかも、これらの人口の増加は、太平洋岸の工業地帯・大都市に集中した。日本海岸の人口は、ほぼ横ばいだったといえる。そして、このことがかえって、この地帯の生活文化を守ることになったようだ。いっぽう太平洋岸では、大都市への大幅な人口集中が村と街を過疎化し、大都市の核家族化が社会構造を破壊した。さらに、平成の大合併などという施策が、これを増幅した。

昨年の交通事故死数は、減少傾向にあるとはいえ、4,914人。多発しているのは、愛知・北海道・埼玉・東京・千葉。昨年の自殺者数は、前年より504人ふえて、32,753人。多発しているのは、東京・大阪・神奈川・埼玉・愛知だ。10万人あたりの犯罪発生件数では、多いほうから大阪・愛知・東京・千葉・福岡・京都・埼玉・兵庫・茨城、少ないほうから秋田・岩手・山形・青森・石川・島根・富山・長崎・北海道・福井。

好ましいとされる日本海沿岸の都市の規模は、じつに小さい。あの金沢ですら457,709人と、50万人に満たない。小樽134,811人、弘前181,771人、秋田323,996人、酒田市112,124人、富山420,355人、福井267,279人、小浜市30,988人、松江194,245人。小京都・小江戸とよばれる町も、「小」と名乗るだけあって、人口40万人に達する都市はない。

これにくらべて、なにかと問題になる政令指定都市は、新潟市812,105人をのぞけば、日本海沿岸の都市はない。もちろん政令指定都市にして小京都・小江戸とよばれる町はない。

あいかわらず人口の減少がとまらないが、昨年の人口推定では、沖縄・神奈川・千葉・埼玉・東京・滋賀・愛知の7都県だけが増加している。これらの都県の人口が減少すれば深刻なのはわかるが、もともと小規模でやってきた日本海沿岸の県は、影響を最小限にとどめることができるかもしれない。

いっぽう太平洋岸の都市では、ピーク・オイルで石油がつかえないとなると、ひたすらスケール・メリットをもとめて増幅した人口と文明は、まさに死に体となる。画期的な代替エネルギーが登場したところで、根本的な解決にはならない。そろそろ、かぎりない文明の進歩発展という妄想から、目ざめるべきだ。過剰都市については、都市の縮小・解体を考える時期にきている。石原都知事は、過剰な人口や機能を引きとってもらうために、東京都予算を地方にまわすべきだ。

世界の遺跡をたずねれば、文明が使用不能になっときは、廃棄しか方法がないことがわかる。とくに石の文明がそうだ。いっぽう、福井・富山に代表される日本海沿岸地帯の例でわかるように、古い文化は再利用に耐えうる。ぼくたちには古い文化を代用する必要が起こっている。そんなとき参考になるのが、日本海沿岸の都市や村落の生活だ。日本海沿岸の都市や村落の生活とは、縄文の森の生活に発し、古い京都の街の生き方に結晶した、重層した文化のことだ。

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1.文明の逆行(2010.1.20.) 6.縄文と弥生の連続性(2010.4.13.)
2.都市は滅びる(2010.1.24.) 7.日本海沿岸文化の底力(2010.4.18.)
3.都市と火災(2010.1.26.) 8.適正規模への回帰(1)(2010.5.05.)
4.きのうときょうの都市問題(2010.1.29.) 9.適正規模への回帰(2)(2010.5.10.)
5.都市からの逃亡(2010.2.27.) 10.あらためて文明の逆行を(2010.5.25.)
   
         
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