宇宙のなかの太陽系の、生命の棲む奇蹟の青い星、地球。その地球が、地球温暖化やピーク・オイルで、さきゆき怪しいのだそうです。地球のうえのユーラシア大陸のはずれの、青い海に浮かぶ奇蹟の島、日本。そこで住んでいるぼくたちにも、無縁の問題ではなさそうです。この星のこの島に生きている毎日をいつくしみつつ感じたこと、思ったことを、あれこれと…
 
   
1.文明の逆行(2010.1.20.) 6.縄文と弥生の連続性(2010.4.13.)
2.都市は滅びる(2010.1.24.) 7.日本海沿岸文化の底力(2010.4.18.)
3.都市と火災(2010.1.26.) 8.適正規模への回帰(1)(2010.5.05.)
4.きのうときょうの都市問題(2010.1.29.) 9.適正規模への回帰(2)(2010.5.10.)
5.都市からの逃亡(2010.2.27.) 10.あらためて文明の逆行を(2010.5.25.)
   

5.都市からの逃亡(2010.2.27.)

   
ローマ皇帝たちの別荘

埼玉県の団地に住み、都心の会社につとめていたころ、とうぶん戸建のマイホームはもてそうになく、どこか山のほうに安い別荘を買おうかと思ったことがある。長野県茅野に土地だけ買ったが、そこまでで精一杯で、別荘を建てるまでにはいたらなかった。やがて、千葉県の山のなかの分譲地に家を建てた。庭にウグイスのくる自然環境は申し分ないのだが、もよりの駅から東京駅まで、55分。なんだかんだで、家から会社までドァ・トゥ・ドアで1時間半、連絡のよくない時間帯だと2時間もかかった。そうなると、こんどは都内に、睡眠時間を確保するための部屋がほしくなった。一時期アパートを借りたが、長つづきはしなかった。

こういう不満がたまった結果か、ぼくが定年退職すると、カミさんといっしょの海外パック旅行がはじまった。イタリアのカプリ島に行ったときのことだ。この島に、第2代ローマ皇帝ティベリウスが、ヴィラ・ヨヴィスという別荘を建ててひきこもり、あまりローマには顔をださなかったと聞いて、ぼくは自分のサラリーマン時代を思いだした。皇帝とぼくとでは、あまりに立場がちがいすぎるが、朝、目をさまして、「会社に行きたくない」と思う気持ちは、あんがい共通なのかもしれない。

ナポリ一帯は、ローマ上流階級が好んだ土地で、カエサルはバイアに、キケロはポッツォーリに別荘をもっていたという。ナポリ湾岸に散らばる街は、光あふれる南国の景勝地であるばかりでなく、かつてのギリシア植民地であり、ギリシア文化の影響を色濃くのこしていた。あのネロ帝も、しばしばナポリにあらわれ、現代のカラオケ狂いよろしく、みずからギシリア詩劇を演じて、周囲の迷惑をかえりみなかったそうだ。

ぼくら庶民でさえ、会社というのは、たいへんなストレスだ。世界帝国を背負う、皇帝の重責は、なまやさしいものではなかっただろう。くだらない儀式も多かったにちがいない。ローマをはなれたナポリでは、そうした公的な世界と絶縁して、私的な世界にいりびたれる。ぼくに必要だったエスケープは、皇帝にもやっぱり必要だったのだろう。

日本皇室の離宮

日本の皇室もまた、離宮とよばれる別荘を活用したようだ。平城京や平安京は、唐の長安を模したといわれる。その中心の大内裏には、大極殿・朝堂院などの公的な領域と、内裏という天皇が住む私的な領域が並存していた。いわば官庁街のなかに、天皇の官邸兼私邸があったわけだ。内裏には、天皇が政務をとる紫宸殿があり、日常生活をおくる清涼殿があり、さらに藤壺・桐壺などの後宮があった。ここでも公私が混在していた。

したがって、しばしば御所のほかに離宮がいとなまれたのは、もっとものことだ思われる。半島や大陸の文明文化が、さかんに飛鳥京や藤原京や平城京にとりいれられた7〜8世紀には、吉野山に斉明天皇・天武天皇・持統天皇などの離宮がおかれた。吉野山などへの行幸からうまれた、自然を詠みこんだ歌が、『万葉集』にはたくさんとりいれられている。平安時代には、院政がとられたこともあって、嵯峨天皇・宇多天皇・鳥羽天皇らがさかんに離宮をいとなんだ。その周辺からは、『古今集』『新古今集』などの勅撰和歌集がうまれている。

武家の時代になってからも、京都の北東に修学院離宮、南西に桂離宮がおかれた。離宮は、歌合・連歌などの場となって、日本の詩歌の歴史において、大きな役割をはたしただけではない。そこでは笛・太鼓・琴・琵琶などの管弦、雅楽・田楽・猿楽・能楽などの技芸、蹴鞠・囲碁・香あわせ・貝あわせ・百人一首などの遊戯・娯楽がおこなわれた。大陸からつたわった文物が日本的にこなれ、巷間におこなわれていた民俗がとりいれられて洗練された。そして、建築・庭園から料理・酒器にいたるまで、貪欲に至上の私的空間がもとめられた。

ぼくなどは、満員電車に長時間ゆられ、ビルの谷間の東京砂漠で、会いたくもない連中にかこまれて、やりたくもない仕事をする──といった程度のストレスだった。だから、安酒を飲んでウサ晴らししたり、ときどきのズル休みでなんとかごまかせた。しかし、帝王ともなると、その公的な立場からくるストレスは、国家の動向をも左右するほどの重要性をもつ。したがって別荘・離宮を建てるなど、いくらでも金をつかうこともできたはずだ。ところが、帝王たちのストレス解消も、ただ金をつかえばいいというものではなかったらしい。

イスラムの離宮

シリアからレバノンにはいると、かつてローマの穀倉地帯とよばれた、ベカー高原がひろがっている。ここにアンジャール(岩からの水)という、名のごとく水と緑にめぐまれた、美しい遺跡がある。8世紀、ウマイア朝ワリード1世が、保養のためにつくったという離宮跡だ。アンジャールは、ウマイア朝の首都シリアのダマスカスから、地中海にぬける通商路の拠点にあたる。南北385m×東西350mの城壁都市のなかに、隊商宿があり、600もの商店がひしめいていたという。ワリード1世はもっとも版図をひろげたカリフだったから、保養のための離宮とはいえ、副首都のような役割もはたしていたのかもしれない。

これにたいして、おなじ8世紀のウマイア朝の建築で、クセイル・アムラというのがある。レバノンの砂漠のなかにある、泥で固めたような建物だ。あのアラビアのロレンスの『知恵の七柱』には、「詩人の保護で有名な牧人王ハリスの小狩猟館である」と紹介されている。ぼくは旅行記で、「小ぢんまりした建物ながら、温浴・冷浴・サウナなどの浴室、寝室がある。そして、壁の裸婦像。どうやらここは、カリフが狩猟をしたあと、美女たちと戯れた、快楽の館らしい。若いロレンスたちが大笑いしたわけだ」と書いた。

狩猟民族には、ときに砂漠や山野での、野性にあふれた生活が必要だったようだ。中国を征服して元帝国を打ちたてたモンゴル人たちも、ときどき大都(いまの北京)をでて、郊外のパオですごすことを好んだという。サラリーマンのぼくも、笑止なことに山荘などをもちたいと思ったのは、お尻に蒙古青斑をもつDNAのせいだったのかもしれない。

小倉百人一首と坊主めくり

かるたの『小倉百人一首』は、小倉山の山荘の内部をかざるために、藤原定家がしつらえた色紙が、もとになっているそうだ。詠み人の似姿を描いた色紙に、定家みずから筆をとって、それぞれの歌を書きいれたという。近くに常寂光寺・二尊院・祇王寺、幽邃の地の山荘をかざる絵と歌。まさに優雅のきわみだ。

子どものころ、正月に家族と、この『小倉百人一首』で「坊主めくり」をして遊んだ。「姫どうじゃ」「坊主はどうじゃ」というふうに絵札をだすのだが、坊さんはヒール役だった。『百人一首』は、天智天皇から順徳院まで、ほぼ時代順に選ばれている。法師から前大僧正とよばれる者まで、12人の坊さんがいる。この坊さんが、11世紀にはいると、100首中69番目の能印法師あたりから急にふえはじめ、87番目の寂蓮法師までに、12中の半分の6人が続出する。幼いぼくは、坊さん札をつかんでは、さびしくなったものだった。

『小倉百人一首』は、鎌倉時代の初期、1235年ごろに成立したという。日本の11〜13世紀は、貴族が衰退し、院政などで皇室が勢力を盛りかえそうとするが、武家が台頭して、平氏から源氏へとイニシアティヴが移る。後鳥羽院は承久の乱で復権をはかるが、失敗。北は藤原三代の東北王国が消滅し、南をモンゴル侵入の国難が襲った。朝廷は南北にわかれて対立しはじめた。

天台宗を唱えた最澄は比叡山にのぼって延暦寺を、真言宗を唱えた空海は高野山にのぼって金剛峰寺をひらく。法然は浄土宗を唱えて讃岐に、親鸞は浄土真宗を唱えて越後に流された。首都は、平安京から福原(いまの神戸)へ、ふたたび平安京へ、そして鎌倉へと移っている。

坊さん札がふえる時代だったのだ。坊さんがふえただけではない。100首中75番目以降、法師以外に出家した者5人、流罪になった者3人、暗殺された者1人。優雅な『小倉百人一首』が、混乱した時代をじつによく反映している。

この時代のなかで、京に住んだ人びとはどうしたか。都をはなれ、都をのがれ、都を追われた人びと。そのひとたちにとって、都市とはなにだったのだろう。

西行法師

『小倉百人一首』のなかの坊さんの1人・西行は、本名・佐藤義清(のりきよ)。12世紀、鳥羽離宮が院政の中心だったころ、鳥羽院の北面の武士だった。鳥羽天皇の皇后・待賢門院璋子は、義清の主家・徳大寺家の出。璋子は、のちの崇徳天皇をうむが、じつは白河上皇の子だったという。義清は、こうした関係のなかで歌の才能をあらわしていく。白河法皇が亡くなると、鳥羽上皇は藤原長実の娘・得子を後宮にいれ、待賢門院璋子・崇徳天皇母子をうとんじた。こうした皇室内の軋轢を背景に、文武両道にひいでた義清は、23歳で出家する。出家した西行は、1つところには居を定めず、東山・嵯峨・鞍馬などに草庵をむすんだという。

西行は北日本に、2度旅をした。はじめての旅は、頼朝が鎌倉に幕府をひらく半世紀まえの1144年ごろ、27歳のときだった。西行の佐藤家は、俵藤太・藤原秀郷の末裔といわれ、東国の血が流れている。藤原三代も、先祖をおなじくする。西行の北日本への旅は、いわばルーツをたずねる旅だったのかもしれない。そのころの平泉は、北の都として、栄えていた。中尊寺をめぐり、衣川の岸に立ち、衣河館をのぞみ、西行はいまの秋田・山形にまで足をのばしている。乱れる京の都、いまを盛りの平泉。西行の目に、その対比はどのように映ったのだろうか。

やがて、疎外された崇徳天皇は保元の乱を起こし、平家が台頭してくる。その平家の栄耀栄華もすぎて、鎌倉幕府が興る。その間、西行は、高野山や伊勢に草庵をむすんだ。吉野山にも、いくどもはいっている。花と月にあこがれて漂白し、生涯2000首をこえる歌をのこした。このうち月にちなんだ歌は約360首におよぶという。また、桜にちなんだ歌は、『山家集』の春の部の173首のうち、103首におよぶ。『山家集』『西行上人集』ほかにたくさんの歌をのこし、『新古今集』にはいった歌の数は西行がもっとも多いという。

西行は50歳のときに、四国行脚の旅にもでている。主家と縁ある崇徳院は、配流の地・讃岐に眠っている。その御陵をたずねたのだ。崇徳院とのかかわりからうまれた歌が、『山家集』成立の核となっているという。四国では、空海誕生の地である善通寺の山に草庵をむすんで、空海のあとをしのんだ。ひろく民を救おうとする空海の姿にうたれ、もしかすると空海の国際的な視野にまで、心をよせたのかもしれない。

このように西行は、都とは適度な距離をおき、むずかしい政治の流れのなかで、ときには大胆とも思える行動をとりつつ、皇室とも平家とも源氏とも、適切な距離をたもった。

2度目の関東・北日本への旅は、1186年、西行69歳。すでに鎌倉に基盤を築いていた頼朝と、一夜、歓談したといわれる。平泉では、藤原秀衡に会い、東大寺の再建資金として砂金450両を引きだしている。東大寺は、1144年、平重衡の軍勢によって焼きはらわれた。その再建に立ちあがった重源上人に、西行は協力していたようだ。西行は、高野山に草庵をむすんだおり、高野聖とおなじように勧進してまわり、高野山蓮華乗院への寄進などに力をつくしている。2度目の東北行も、そうしたボランティアの1つだったのかもしれない。

政治的に荒廃した時代に、フリーな立場に身をおいて、文化財保護などに力をそそいだ西行は、この4年後、河内国粉川寺で入寂した。73歳。後白河法皇の激励、頼朝の援助、秀衡の寄付などによって、東大寺が再建されたのは、その13年後の1203年のことだった。

鴨長明

『小倉百人一首』には登場しないが、西行よりも37歳年下の鴨長明も、出家した者の1人だ。長明は『方丈記』のなかで、1177年の京都の大火について書いている。「朱雀門、大極殿、大学寮、民部省などまで移りて、一夜のうちに塵灰となりにき」。復興して21年目の大内裏も炎上し、以後2度と復元されることはなかった。それから3年後、こんどは辻風が起こり、3〜4町にわたって大小の家が全壊したという。辻風とは突風あるいは竜巻だったのだろうか。おなじ年、平家は福原に遷都し、京は荒れはてた。その翌年には、連年の旱魃・大風・洪水がかさなり、疫病までくわわって、京だけで42,300余人の死者がでたという。その4年後の1185年には、大地震が起こった。「堂舎塔廟、一つとして全からず」。これら5つの災害・事件は、たった9年間につづけざまに起こった。まさに地獄だった。長明にとって京は、いくたび死んだことになるのだろうか。

30歳をすぎたころ、長明は伊勢・熊野に旅している。西行のあとを慕って、しばらく伊勢に住んだという。熊野に行ったのも、西行の影響なのだろう。都の現状からのがれて、西行の心境をたどりたかったのだろう。

30歳代のなかばには、平家が滅び、政治の実権は鎌倉に移る。下賀茂神社の神職の家にうまれた彼にとって、それは京の都の終焉だったのだろう。都の惨状は長明の心に屈折と陰影を刻んだと同時に、のちに『方丈記』に書くような、都を一歩踏みだした都市観・住居観をいだくようになったと思われる。

40歳代の長明は、後鳥羽院の召しに応じて、藤原定家らとともに、いくつもの歌合にでている。そして、後鳥羽院の好意により、長明は下賀茂神社の河合社の禰宜に推された。かつて彼の父がつとめたことのある職だ。ところが、これに曲折があって実現せず、長明はとつぜん失踪、京都の北の大原に隠棲してしまう。50歳のことだったという。その翌年、後鳥羽院がまさに手ずから編んだ『新古今集』が完成すると、長明の歌10首が、これに入集していた。

長明の劇的な人生の要所に、月があらわれる。『新古今集』に選ばれた月の歌。隠棲のあと後鳥羽院におくられた月の歌。そして『方丈記』の最後の章の「そもそも、一期の月影かたぶきて、余算の山の端に近し」。月もまた、西行に学んだ自己観照のてだてだったのかもしれない。

大原に隠棲のあと、54歳のとき長明は、こんどは京都の南の日野に転居。「和歌・管弦・仏教書」をもちこんで、方丈をむすんだ。ここで書かれたのが『方丈記』だ。

『方丈記』には、質素で健康な生活ぶりが描かれている。念仏・読経に身がはいらぬときは、「みづから休み、みづからおこたる」。琴を「ひとり調べ、ひとり詠じ」、子どもを友として歩きまわり、「茅花(つばな)を抜き、岩梨を取り、零余子(ぬかご)をもり、芹を摘む」。「峰によぢのぼりて」、遠くまで山歩きもした。自分の身のまわりのことは、「おのが身をつかふ」。外出には、「馬・鞍・牛・車と、心をなやますにはしかず」、歩いてでかけた。まさに、いまいうエコロジー生活だ。

下賀茂神社河合社の境内に、この神社と長明とのゆかりから、『方丈記』の記事にもとづいて再現されている方丈。広さは畳5帖半ほど。移動に便利なように、組み立て式になっている。

このような生活をおくりつつ、57歳のときには、鎌倉に旅し、源実朝と対話している。その5年後の62歳で亡くなるまでに、歌書『無名抄』、仏教説話集『発心集』などをのこした。

吉田兼好

長明が死んで67年後に、『徒然草』の吉田兼好がうまれた。兼好は、『小倉百人一首』とはあとの世代だ。鎌倉時代がおわり、後醍醐天皇の建武の新政をへて、室町時代がはじまるまでの動乱の時代、いわば『太平記』の時代を生きた。吉田神社の神職をつとめた下級貴族の出。30歳前後に官を辞し、出家遁世した。修学院や比叡山横川などに隠棲して、仏道に精進し、和歌の道にもはげんだという。『兼好法師家集』に歌をのこしている。

『徒然草』で兼好は、身につけたいものとして、「文の道、作文、和歌、管弦の道」をあげている。「今様は、無下にいやしくこそ」と嫌い、神楽の優雅さを好んだ。笛・篳篥(ひちりき)の音を愛し、「つねに聞きたきは、琵琶・和琴」だという。古い日本文化が好みだったのだろう。

「文は、文選のあはれなる巻々、白氏文集、老子のことば、南華(荘子)の篇。この国の博士どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなること多かり」と、古い中国古典に心をよせ、とくに老荘の思想に興味をもっている。その流れなのか、「おのれをつづまやかにし、奢りを退けて」、生活は簡素であるべきとしている。「名利につかはれて」、あくせく一生をおくるのは、「愚かなれ」といい、「財多ければ身を守るにまどし」ともいっている。

「いづくにもあれ、しばし旅だちたるこそ、目さむる心ちすれ」とする兼好も、2度関東に旅して、かなりな期間にわたって逗留している。金沢文庫では貴重な古文書に接した。そもそも彼は、古典を書写する仕事もしたといわれている。伊勢にも行った。関東にせよ伊勢にせよ、西行と長明の旅の影響が強く感じられる。

「折節の移りかはるこそ、ものごとにあはれなれ」「花はさかりに、つきはくまなきをのみ、見るものかは。雨にむかひて月を恋ひ、たれこめて春のゆくへ知らぬも、なほあはれに情けふかし」「何事も、古き世のみぞしたはしき」。花鳥風月の自然に「あはれ」を感じ、「よろづのことは、月見るにこそ、慰むものなれ」と、月を好むことは、これもまた西行・長明と共通していた。68歳で死去。

京の郊外

『源氏物語』で、光源氏は須磨・明石に、いわば一時的な亡命をしている。薫君は京から遠く宇治に住んだ。紫式部は、王朝の物語のなかで、都には欠けがちな田舎や自然の風情をもりこもうとしたようだ。そのなかで、光源氏は絵を描き琴を弾じ、薫君は経を読んで仏教に心を傾けている。そもそも源氏が紫の上にはじめて逢ったのも、北山の僧都の妹尼が住む庵室でだった。また、宇治川に入水して救われた浮舟は、比叡山に通じる大原に住む、母娘の尼のもとに身をよせることになる。

紫式部のころには、京都盆地をとりかこむ山地に、こうした草庵をむすんで暮らす人びとが、男女をとわずふえていたようだ。

もともと京都東山は、都と鄙(ひな)をへだてる壁だった。ここをでると逢坂関があり、不破関・鈴鹿関がある。この三関が、遠くは縄文世界と弥生世界をわけ、畿内を東日本・北日本からまもる防衛線となっていた。鳥葬の地・鳥辺野があり、のちに六波羅探題がおかれた髑髏ヶ原があった。ここは死後の世界との境界線でもあったのだ。

この東山に、蝦夷と血のつながりがあるといわれる坂上田村麻呂が、清水寺をひらく。伊勢からのぼってきた平家が根拠地をおく。鎌倉幕府が六波羅探題をおく。法然が草庵をむすび、やがて東国に教えをひろめることとなる親鸞が通った。

高野山金剛峰寺や比叡山延暦寺などへ通ずる山野に、聖(ひじり)たちが集まって住む、別所というものができはじめたのは、10世紀ごろだったという。聖とは、高野山や比叡山などの大寺に正式に属した僧ではなく、高野聖などの遊行僧・浄行僧・勧進僧などをさす。比叡山の場合は、京都北東の修学院から大原にぬける、若狭街道ぞいの比叡山西麓に別所ができた。『源氏物語』の浮舟や西行、西行と親交のあった「大原の三寂」とよばれた寂念・寂超・寂然、そして鴨長明や兼好が住んだのも、こういうところだったようだ。

最澄と空海の宗教から、法然と親鸞の宗教へ。そういう流れのなかで、天災・人災の渦巻く京からのがれて、周辺の山地へ避難する人びと、閑寂の地に浄土をもとめる人びと。こうして洛外の東山・大原・北山・西山・宇治に住むのが、皇族や僧侶たちから、いわば素人僧や尼さんまで、どんどん幅がひろがり、ひとつの流れになっていったようだ。

これらの場所は、現代の感覚では、たいした距離ではない。御所からの距離でいえば、大原・宇治・西山まで、それぞれ15kmぐらいのものだ。しかし当時は、鉄道・自動車・電話などはない。歩くか、馬に乗るか。『源氏物語』の薫君や匂の宮は、宇治の浮舟のもとに通うのに、かなりな苦労をしている。山道を歩くことなどを考慮にいれれば、3〜5時間はかかっただろう。往復すれば、1日仕事になる。都との、そういう距離こそが必要だったのだろう。

帝王であろうと庶民であろうと、どのようにすれば都市を住みこなすことができるのか。ぼくには、京の都をめぐっての西行と長明と兼好の生き方が、なんらかのヒントをくれたような気がする。たった3人の例にすぎないけれども、それぞれの都とのかかわりが、都市との距離のとり方が、とても示唆的で興味深い。

月を見る生活

西行と長明と兼好は旅をした。3人とも、関東に行っている。この旅によって、都と鄙(ひな)、都市と田園、中央と地方、西日本と東日本、旧都と新都、貴族と武家といった、対比の目をもてたのではないだろうか。とくに西行は、東北の平泉まで行っている。自分に蝦夷の血が混じっているという意識までもっていたかどうかは疑わしいが、都人(みやこびと)が東人(あづまびと)と軽侮するような差別意識はなかったのではないか。京を唯一絶対のものとする発想からはのがれていたのではないかと思う。不吉な世界への扉として封印されていた東山のむこうへ、踏みだしていったこと自体に、新たな視野が感じられる。

3人ともが伊勢に行っていることにも注目したい。当時の人びとにとって、伊勢神宮がどのように受けとられていたのかはともかく、なにごとかの根源として自然のなかにひそむなにかに、はげしく心をゆさぶられる場所であったのだろう。江戸時代に、仕事を放擲してまでも、「ええじゃないか」と伊勢をめざした、百姓たちとおなじ心情が、そこにはたらいていたのではないか。西行は高野山から、いくども吉野山にはいっている。吉野・熊野もまた、そのような場所だったにちがいない。飛鳥に都をおいた天皇たちが、しばしば吉野に行幸して、『万葉集』に歌をのこしている。平安末期には、吉野は浄土とされた。地獄図絵の都とは対極のものが、そこにはあったのだ。

3人とも歌人だったことも大きい。彼らは歌の道に専念し、深く自然と人間を見つめた。政権が崩壊し、都が壊滅したなかで、かえって芸術とのかかわりを深めていった。芸術によって、自分を持することができたということもあっただろう。文明が崩壊するときも、文化は継続することを痛感したと思う。だからこそ、乱世のなかでの文化の重要性を認識して、西行は東大寺の復興につくしているし、兼好は書写などで古典をまもろうとしたのだろう。

当時の歌の傾向でもあったようだが、3人とも月を詠んだ。そのころは、月の満ち欠けが暦の基本となる陰暦がつかわれていたから、月を見ることが慣習にもなっていた。灯火は少なく、空気は汚れていない。うつくしく澄んだ山間の月。月は地球にとって、もっとも身近な天体だ。宇宙への入口といっていい。その月にむかいつつ、自己観照する。この習慣の意義は大きかったと思う。いまのぼくたちに、うつくしい月と対話できる機会など、めったにない。生の自然、生の宇宙に、じかに接することの大切さ。いまは宇宙飛行士が宇宙から青い地球を見て、かつて月にむかって感じた地球観を回復して還ってくる。

彼らが歌ばかりではなく、ほかの芸術にも興味を示し、これに慰められているのにも注目したい。長明は琴の名手で、手づくりの琴を方丈に持ちこんで、爪弾いた。ときには自然のなかにでかけて、「ひとり調べ、ひとり詠じ」たという。兼好も、「つねに聞きたきは、琵琶・和琴」としている。身近な芸術、とくに音楽は、孤独な草庵の生活には欠かせないものだったことだろう。

彼らはまた、質素な生活をした。3人の身分は下級貴族・下級官吏だったとはいえ、あの当時に、あれだけの旅ができたということは、貧困だったわけではない。しかし、彼らは、ムダのない質素な生活をした。長明の方丈生活は、現代にも通ずる、まさにエコロジー生活だ。兼好も、老荘思想に感銘し、自然で質素な生活を旨とした。そして、この質素・簡素な生活こそが、かえって自然にたいする感性をゆたかにし、好きなように動きまわる自由をつくりだし、長い旅にでる余裕もうみだしたのだろう。

帝王たちが、別荘や離宮で手にいれたものも、ギリシア文化やら、詩歌管弦の世界やら、野性味あふれた自然やらだった。これらは、財力や権力がなくても、手にいれられる。いや、むしろ財力や権力を集中させた都市からはなれたからこそ、手にいれることができたといえる。

都市の人工から、自然へ。都市の文明から、文化へ。その橋わたしをする旅。都市と田園の住みわけ。地球温暖化やピーク・オイルが都市を破壊しようとするとき、ぼくたちは、むしろ文明の過去へ、文化のふるさとへ、立ちかえる必要があるのではないだろうか。高校時代にかじった日本の古典が、こういうときにヒントになるかもしれないというのが、ぼくにはとてもうれしい。

自然からの離陸から、自然への着陸へ

最近読んだ、広井良典『コミュニティを問いなおす』(ちくま新書)に、こんな表がでていた。

コミュニティの形成原理の二つのタイプ

 

農村型コミュニティ

都市型コミュニティ

特質 ”同心円を広げてつながる” ”独立した個人としてつながる”
内容 「共同体的な一体意識」 「個人をベースとする公共意識」
性格 情緒的(&非言語的) 規範的(&言語的)
  文化 文明
関連事項 「共同性」 「公共性」
  母性原理 父性原理
ソーシャル・
キャピタル
結合型(bonding)
(集団の内部における同質的な結びつき)
橋渡し型(bridging)
(異なる集団間の異質な人の結びつき)

ぼくには、都市にたいするものとして、農村だけを対比するのでは足りないようにも思われるが、これからの都市のあり方を考えるときに、参考になるのではないだろうか。

この本のなかで筆者は、「私たちは市場化・産業化という、いわば地域や自然からの”離陸”の時代から、ポスト産業化の時代という、”着陸”の時代を迎えつつあるといえよう」と示唆し、ポスト産業化の時代には、「定常化社会」とよぶべき社会がくるという。そして、「一八世紀前後から現在まで、市場経済の領域は飛躍的な拡大を続けてきたが、それが最近ある種の成熟ないし飽和ともいうべき状況を見せ始めている。背景としては、日本に見られるような人口減少という事態や、資源・環境制約の顕在化という要因があるが、根本的には、”貨幣で計測できるような人間の需要(あるいは欲求)”が、ほとんど飽和しつつあるという状況に目を向けるべきだろう。こうした事態を無視して従来の『景気刺激策』を続けていれば、赤字を拡大させ将来世代にツケを回すのみである」と警告している。

筆者はまた、『朝日新聞』(1.24.朝刊)の書評で、J・ベアード・キャリコット『地球の洞察 多文化時代の環境哲学』(みすず書房)をとりあげ、「環境問題が新たな局面を迎えつつある今、その土台となるような哲学や思想がふたたび問われている」として、この本が『老荘と生命地域主義』『華厳仏教と宇宙の生態学』などというテーマについても論及していることに注目していた。

西行・長明・兼好は、まだ市場化・産業化のはじまるまえの時代の人びとだが、まさに老荘思想の流れの生命感をもち、仏教がみちびく宇宙を見つめた人びとだった。おなじ日本列島に住む者として、彼らが立っていた自然の近くに、ふたたび着陸できる可能性が、ぼくらにはまだある、とぼくは信じたい。

地球温暖化やピーク・オイルは、「定常化社会」よりはるかに過酷な社会を現出するかもしれない。しかし、ぼくはまず自分たちの文化に遡りたいと思う。文明が、それにふさわしい文化を産みおとすまでには、時間がかかる。文明が文化をつくるまえに挫折したときは、とりあえず先行した文化に立ちもどるしかない。

窓のそとから、この街の市長選の、選挙カーの声が聞こえてくる。人口8.7万。財政を立てなおすために、人口をふやさなければならないという候補者もいる。しかし、おおむね、ムダをなくし、効率のいい市制を唱えるようにはなってきた。政令指定都市との合併を主張する者は、表向きはいなくなった。問題は、日本列島のあちこちで、このような街がそれぞれ、これからどんな文化をはぐくむことができるか、にかかっているのではないだろうか。

*リンクさきは、『2人で旅を!』の各旅行記のコラム・ページです。

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1.文明の逆行(2010.1.20.) 6.縄文と弥生の連続性(2010.4.13.)
2.都市は滅びる(2010.1.24.) 7.日本海沿岸文化の底力(2010.4.18.)
3.都市と火災(2010.1.26.) 8.適正規模への回帰(1)(2010.5.05.)
4.きのうときょうの都市問題(2010.1.29.) 9.適正規模への回帰(2)(2010.5.10.)
5.都市からの逃亡(2010.2.27.) 10.あらためて文明の逆行を(2010.5.25.)
   
         
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