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INDEX
 
飛鳥/大西洋クルージング
2月17日(火)
11:50
8:30起床。寝坊である。
今日はドレーク海峡のどまん中をひたすら北上するので丸一日360°海。景色が出るのもよいが、このまま「まるで海、ずっと」というが何だか一番の贅沢な気もする。10Fグランドスパの横のロビーは音楽もかかっていなくて、窓に向って書き物に最適。朝食後、新曲をM's+弦カルの譜面に没頭。隣のフィットネスクラブのイベント終りで人々がぞろぞろと出て来たのを合図に(譜面は半分出来)部屋に戻ると隣からギタレレの音。瀬木も今日は仕事日のようだ。

昼食後、二人麻雀。
再び10Fで曲を仕上げて、そのまま大浴場で司馬遼太郎を読みながらサウナと湯船。外は見渡す限りの海。青の深みはどうだろう。

プロコフィエフ/Pfのためのマーチ(小品)
ハイフェッツ/アメリカントラディショナル(小品)
ラプソティインブルー バイオリン版

Pf LoungeでDavidにつかまっていっぱいセッションした。最後”Sunny”をとても嬉しそうに弾くので可笑しかった。バッハの「6つのバイオリンのソナタ」全20分を10分位にして弾いてくれた同じ男と思えぬ程無邪気である。
無邪気とBachは矛盾しないか ? しないだろう。
アルマンズルンバも面白かった。
明日のショーに出ろと言う。Tammyや僕やBettyまで使って、とにかくやり甲斐のある面白いことをしようとしている。それはいいが、本来の伴奏Pianistのことや、3ヶ月のshow構成をしているProducerのBob、また照明や音響さんのことも考えなくては先々不味いことになるだろう。そこまでは英語で言えないし、内容もごく日本的な事。
「Ask to the producer(Bob) to let us play tonight」これで通じたかなァ。Bobさんに根回ししとこう。

夕食Davidと同席。五嶋みどりの話をいっぱい聞く。
彼はchicagoで30人程弟子をとっているが6才の中国娘がメンデルスゾーンのバイオリンコンチェルトを弾いたり、14才のコリアンボーイがビオラにすごく才能を発揮したり、Asianはstringsにtalentがあると思うそうである。
しかし、米人は(彼は独人だが)英語が話せる度合いというものを考えないで仲良くなるとペラペラまくしたてるので困る。だんだんわかってくるから飛躍的に学習出来ているんだろうけど、脳味噌全開なので長時間もたない。

20:39
日の入りを眺める。未だ水平線に沈む夕日が見られないでいるのは残念な事である。心残りな事である。思い残しである。と嘆じていたら、世良さんの訃報。また一人親しくなり損ねたまま彼岸に。Jazz草創期のビバップの話などを聞きたかったなァ。この船に乗る楽しみの一つでもあったのだが。
2月18日(水)
0:00
Deck Concert良かった。
野外コンサートは数あれど、ドレーク海峡四方海だけ、というのは空前絶後だろう。
「Dry Valley」が気持ち良い。
「風の旋律」はちょっと難しいので景色どころではない。
「虹と雲のバラード」予想以上の大受け。何人もの人が歌ってた。隠れたスタンダードと言えるだろう。
南極の氷の彫刻、アザラシ、ペンギンも見事だったが、その氷で飲んだ水割りが例えようもなく…と言いたい所だが普通。塩辛くないのね。3万年経ってるからね。
息が白い、気が付かなかったが昨日までは白くなかった。南極圏ではチリが殆んどないので息が白くならないそうである。白い息が出るのは(相対上)暖かい所に戻って来た証拠だって、不思議。空気中のチリがないと言う事は紫外線もモロだからお肌のためにはBe Careful. と、これはDavidの談。

コンサート終了後そのままリドカフェのナイトスナックタイムでくつろいでいると、タンゴチーム合流。瀬木に質問集中。スペイン語は何だか会話が進行するだけでAmigoな間が出て良。
メンバーのBirthday Partyをやるから部屋に来いと誘われたが超濃そうなので遠慮。

ラフマ1楽章(全4part)写譜終わる。7頁。残りを計算してみたら21+7+25→53頁もある。
ここまでにしようかな。でも写譜すると眺めるより数段勉強(作曲、編曲、演奏、全側面に)になるからなァ。

11:12
洗濯機に投げ込んで大浴場でスチーム、サウナ、水風呂、洗い。9時20分(30分まで)にビュッフェに滑り込んで野菜とスープとジュース。ピアノラウンジでガーシュイン、ラフマニノフを当って、作った譜面をcheck。
1、2台PfとVln
2、Antarctica Pe ?
3、P-Bop

Tammyが来て座りがけに日本歌曲集のうちどれがいいか、と聞くので“この道”を推薦。合わせてみた。
デッキに出ると最早フォークランド島(東西ある方の西島、ほぼ無人島らしい)を右舷後方に見て北上。海の色が昨日までの濃青から紺碧に変わり、人の世に戻って来たなと思う。見えないが左舷前方はるかには南米大陸があるはず。曇っている雲というのもすごいもんである。頭上全てを覆っているのだ。360°×360°数直線状には無限の点が存在するが、この頭上空間というのはどのように座標決定するんだろうか。
僕にとって無限の平坦さである360°の海と360°×360°の空も、極地の一点なのである。何てこった。
2月19日(木)
17:17
9:15 起床
朝食(ビュッフェ)からそのままスパへ。
竹内先生の南極四方山話後半を聴いてから海を30分見る。
グランドホールが空いていたのでゴールドベルグをみっちりと。24と27をストレートにやってみたら全体にスピードがついた。
全部ノーリピートの45分のバージョンというのはアリかも知れない。
25番、ものすごく入り込めたら最後の8小節がどうしても出てこなかった。
ラストアリアを弾いている時に25小節目左手2拍目の第二声、Eの音が2拍伸ばされている意味がわかった!!
言葉に出来ない「アア、ソウカ」が来た。習慣で離してしまったのだが左手中指があるいはE音が“あと1拍…”と訴えるのをリアルに感じ、ヨハンセバスチャンがためらわずに白丸を書き込んだ様子が見えた気がした。

遅れた昼食はラーメンで、この所定着している「ダブル」。二ヶ所から選べるレストラン両方に行くコース。リドカフェの方はとろろ丼。デッキで食べた後、麻雀。瀬木は緑發ことを「マツリ」という。發が祭に見えるのか微笑ましくある。

2:00からのリハーサルを終えビスタラウンジでお菓子と紅茶。
再びリドカフェのデッキで今度は一人長椅子で(プールサイド)高村薫を読む。佳境。
自分のショーが控えていると勉強も安心してお預けに出来る心境。
今日は典型的なリゾートクルーズデイである事だ。瀬木に貰った地球の歩き方でも読もうか。
飛鳥寄港/プエルトマドリン(アルゼンチン)
2月20日(金)
 
飛鳥/大西洋クルージング
2月21日(土)
7:08
昨日はすごかった。Puerte MadrinというのはPeninsula Valdesの根元にある港町。
貨物用と客船用それぞれ1本ずつの桟橋が長くのびているだけの小規模さなんだが瀬木曰く、このブレノスとパタゴニアの中間にある一帯(CHUT県)がもっとも人気(ジンキ)が良く、住みやすいエリアだそうで、実際僕もそう感じた。
これだけ観光資源があるのに敢えてリゾート化せず、ガソリンスタンドが二軒、レストラン、ショッピングセンターもそれに対応する程度の小ぶりな生活圏。30分車で走ると限りなく広がるパンタ(草原)の校外。それでいて1時間も走るとトレレウの飛行場があるのだから理想的である。
下船してターミナルに行きのシャトルバスを待つが中々来ないので10分くらいなら、と歩いて桟橋の根元まで。なんと早速アザラシ発見。一頭だけが偵察するようにゆるりと体重を水から出してまたのたりと水中に姿を消した。

レンタカー屋に行って半日借りる交渉をすると、80$(米)だと言うのでもう少し安いのはないかと聞くと、3件隣にも店があるから言ってみろと言う。もちろん別経営店である。これは僕の感覚と先入観からすると珍しい。
そちらへ行くと今日は観光シーズンの上に、飛鳥とロイヤルプリンス、豪華客船が二隻も入港していて全車出払っているとのこと。そこで元の店に戻ってその旨告げると、得意な顔もせず「それは大変だなァ」と心配してくれるのである。「何とか70$位にならないか」と頼むと、それは「No」なんである。
と、横から別の店員(こちらは女性)が「私の私用車なら汚れているけど75$で貸すわよ。冷房もないしパワステもパワーウィンドゥもないけど、どう?」と言う。こちらを70$にしてもらって商談成立。

細々と書いたけど要するに僕は感動したのだった。つまり彼らと瀬木の間には余計な付着物のないビジネス関係と、行きずりながら袖摺り合う者同士のひと時の友情があるわけ。
値段は譲れないが客のために他の方法(テ)があるのをフェアに示す。戻って来たら嫌な顔ひとつせず。図に乗って値段を下げないのではなく、彼のビジネスとしての当該の車の値段は下げない。他社員がプライベート車を提供しようと(これは友情にあたる)するのをビジネス側面が妨げない(何らかのやりくりがあるのだろう)。商談成立後は実に親切にルートなど説明してくれ、JAPONかなどと友人会話もあって気持ちよく送り出してくれる。瀬木も「高い」と言ったり「他所に行ってくる」と言ったり。これも僕には出来ないと。

後の事になるが4時帰船に合わせて3時半に車を返しに行くと、そのことは予め了解を得ていたにも拘らず、4時まで閉店の札が掛かっていて扉もLockされている。シェスタなのである。こののんきさもしっかりラテンが入っていて好感が持てた。実務処理には手間取ったけど。

さて、街のインターネットカフェで用事を済ませていよいよバルデス半島へ向けて出発である。
坂を登ったらもう校外で、360°パンタである。道はあくまで真っ直ぐ。前方180°地平線の真ん中に一本の道路が空に続くだけをひたすら走る。昨日までの周り中海の中をひたすら一本の航路を残しながら進むのに何か似ていて、同じように飽きない。同じように頭上全て青空である、人の小ささに幸福さえ感じる。
アスファルトの道は最初の100km。やがて砂利道になる。砂利道と言っても土の道路を切り開いた上に1〜3割程度の小石をまぶしてある。これは雨天の際、道路が泥化する時の為だろう。工事を途中で止めて予算を横流し、などと不謹慎な事をつい考えるのだが、動物の往来を防げない為の処置だそうで、実際羊がのんびりと渡っていく。羊、馬、牛などは家畜。どこまでも広がっているこんな所だと飼われている感じもしないだろう。家畜も幸せだなァと一瞬考えるのは人間の傲慢さだとすぐに思い直した所へ「グワナコだ!」
道路左の小さい茂みにカモシカから角を取り合った動物二頭。そうかこれがグワナコか。絶滅寸前(毛皮が高級品)でバルデスとウスワイアにしか既に生息しておらず、滅多に遭遇しないと言われているグワナコにいきなり出会えて幸先のいい事。

砂利道を70km走って到着して第一目標のPumda Del Gadaで「大声とタバコの禁止」との教えを受けてから涯まで歩くと、点々とゾウアザラシの死体、、、、としか見えないのだが、昼寝。瀬木が3年前に来た時はそこでoff limitだったそうだが、今は砂浜に降りられる。
ボランティアスタッフがいて、海岸で寝ている10頭程(ハーレムだそうだ)の10m手前ぐらいに座れた。立っているのは禁止。
整理された畑の畝のように広がる浅瀬の豊かな海藻から向こうに広がる、あくまで青い海と晴れ渡った水色の空。間近に昼寝のゾウアザラシの一団を前に胡座をかいていると、何やらススーと体に入って来るものを感じる。この体験をJack Moyerと話したかったと思ったのは後の事、地球の呼吸、かな。

瀬木も俺も口には出さぬが、こんまませめて一時間黙ってじっとしていたい。
自らの体を引き剥がすようにして車に戻り、二人でため息。こういう時に無駄な会話をしないのも、…友達の証拠。登った涯がかなりきつかったのもあるけれど、次のプンタセでは涯の上からやはりゾウアザラシの、こちらは3〜5集団が寝そべってるのを眺める。半島にまた小さな半島がくっついて潟(ラグーン)になっているところで、茶色い子供ゾウアザラシもいて、彼らは人間の子供と同じく、大人しく昼寝などしてられない様子で水と戯れている。

ペンギンの集落は諦めて岐路につき、しばらく走ってちょっと道に自信をなくしかけたので、何だか人が集まっている所へ車を止めて道を聞こうとしたら、そこが何の事はないPunta Cero。ペンギンの大集落だった。南極でも遠目に見たが、ここんちのペンギンは土に穴を掘って巣にしているそうである。”鳥”らしい振る舞いである。

砂利道1時間(70km)アスファルト1時間(100km)かけて片道を行くというのは普段の自分では考えられない事だが、天国に行ったり、そこから現世に帰るのに、このくらいは最低必要な距離と時間に思える。
地平線を裂くようにひたすら走るドライブというのも限りなく気持ちいいのである。助手席だし、ビッツでのラブラブツアー日本一周の果てにフォードでバルデス半島で、ある集大成と言うに相応しい、と言っても帰国後また日本一周する。見慣れた日本の山野もまた違って思えることだろう。

アスファルト道に戻る寸前にグワナコが集団でこちらを見ていた。いや、これは嘘。ただ居ただけ。彼らはこちらを見たりしない。見かけたら遠のいて行く。


Music America というAgent-Artist一覧本を手に色々世間話をした。驚いたのは一面を飾って五嶋みどり。Musician of The yearだと言う。
素朴なナショナリズムとしての嬉しさとプラウディな気持ち。これは凄いことですよ。でも、つい先日までいた日本に居た僕が知らなかった、という日本での報道と言うか業界の態勢、ていうのはどうなんだろう。結局、世界と日本はまるでつながってないのね。

11:50
“Like Mike”というNBAを使った映画を見た。なんとかという孤児院の少年が魔法のバッシュー(バスケットシューズ)を手に入れてNBAで大活躍する話。
実に良かった、感動した。アニーを思わせるがそれより断然良かった。引き取ろうとするカップルが“Tomorrow”を歌ったりして、それも洒落がきいていた。ラップがちょっと好きになった。
飛鳥寄港/ブエノスアイレス(アルゼンチン)
2月22日(日)
8:58
ついさっき起きた。いつものように、はねあげ式ベットを片づけながら「明日は下船か」と少し感傷的な自分を発見し、ホームシックには一度もなったことがないのに・・・と不思議なような、苦笑いのような、だった。
この「〜のような、〜のような」という表現は高村薫(が書く文章)によく出てくる。降りる前に船内図書館に返すべく「レディ・ジョーカー」を読み切らなくては。

9:30
朝食後デッキに出る。
ラプラタ川を遡っているのだが、土色、驚。アマゾンも揚子江もこの色だとパーサーが教えてくれた。色もすごいが、周り全部が水平線。周囲すべて水平線の海や見渡す限り地平線、とシリーズのようだが、水平線しか見えないのに川(岸と岸の間を流れるもの)?
ブイが浮いている。その外側は水深5m程度。こんなに広いのに大型船が通れるのは中央何mかの幅で、それでも10m程の水深。ブエノスアイレスという南米一の大都会ひいてはアルゼンチンというイタリア系移民の国が、大航海時代から海戦主体の世界的帝国主義版図拡大競争時代を生き抜いてこれたことの一要因は、この自然要塞に負うところが大きかったに相違ない。

ついでながら、ブエノスアイレスのタンゴチームと撮った写真の僕は、さながらゴッドファーザーの映画に混じったチョイ役の東洋人。ダンサー8人、バンド4人全員がそれぞれにイタリア系の顔立ちで、ハンサムでありながらどうしてもマフィアに見える。
もっとついでながら、知り合って一週間、明日はお別れという昨日の合同showのラストになって、それまで照れて握手ですませていたのを、両頬交互キス、両手背回し抱擁付きにした。男性相手より女性相手の方がより照れますね。

11:10
(地図で見ると)左右に岸を控えたラプラタ川の中央を航行している僕の目に映るのが、果てしない水平線だということを逆算すると、地図上周囲に何もないのかのようなドレイク海峡を渡っていた時も、僕が目にし印象を持った限りない水平というのも、ラプラタ川の川幅の範囲内だったことになるのではないか。ちょっとショック。
無限とは相対であり、永遠とはズームにすぎないのか。

何千年も憎悪と悪徳にまみれて来た人間が尚、純粋でいられる証がバッハの単旋律だとして、その上になお希望を載せきるだけの強さをも、音楽が持ち合わせているのかどうか。
彼自身の心と目と耳は天上の神に向かっていたとはいえ、バッハが書き取った旋律と構築は、実は身の外、広辺遙かなるどこかからの声ではなく、身中奥底の実にミクロなる精密さを辿ることが、宇宙の構成に直接繋がるある回路、システムの発見なのではないか。

13:58
セギのDemo録り順調の所を、EventにつきPf Loungeを出て日光浴。
男Dancer二人ジャグジー、さすがにいい体してる。
セギが一度地平線を測ったことがあるという。地平線上にポツリと見えた低い目標へ走りつくまでの距離は、何とたかだか30kmだというのだ。
ということは、30kmを半径とする円周が世界だ。せまいなあと言うと、それだけの土地を手に入れれば世界制覇の気分で暮らせると言うことだ、と仰る。
30km×2×3.14=188.4km2
たぶんちがうなァ。60km四方だと無条件だろう。
60km×60km=3600km2
不毛?

管理人註※円の面積を求める公式は半径×半径×π。したがって求めたかった面積は、30km×30km×3.14=2826km2。このとき佐山さんが計算したのは円周ですね〜。
飛鳥寄港/ブエノスアイレス(アルゼンチン)
2月23日(月)
8:50
昨日の夜は素晴らしかった。
夕食(6:00)後、下船。ターミナルでインターネット。これは後で街中とくらべるとずいぶん高かった。
セギがペドロ・アスナールのマネージャーとビジネスコールの序(ついで)に、今日のショーでいいのはないかと尋ねると、色々調べてくれた。結果“タンジェーロ Tanguero”というタンゴミュージカルが8:00からある、他はダメだ、月曜日でロクな演し物がない、とのこと。
タンゴには両人共さほど興味もなく、ましてMusicalではSegiに付き合わせるのも悪いと思ったが、とにかく行ってみた。一等席で40ペソ(=1,500円くらい)なので最前列に座り、半分か約一時間経ったら出ようねなどと言ってたら、これが素晴らしくよかったんである。今まで生で見たどのMusicalより、ダンスショーよりよかった。

総勢2ダース程の出演者が端役に至るまで一級品で、歌は3曲あとは音楽と踊りだけでストーリーが実に分かり易く進んでいく。
タンゴダンスの素晴らしさをたっぷり堪能できると同時に、そういうジャンルを超えた現代的な感動に至っている。つまりFusuionしているのだ。
上演時間も(多分)100分ぐらいでコンパクトになっており、これは何によらず門外漢にも耐えられる長さだろうし、それこそ気がつけば終わっていて、実に良。

19:40
ドナート(・エスピノーサ)にビスタラウンジで会えた。旧交を温め、瀬木はウーゴ(・ファルトーソ)のケアでトラブっており不在だったが、単語一つ言っては笑ったり、うなづいたりでなかなかいいもんだった。瀬木が戻ったらまた会おう、ウーゴとやっと初対面できるなァ、と部屋に帰ったが、出発(下船)時間になっても現れず、貸す筈のカフス、もらう筈のCD-ROM(写真500枚程度)の受け渡し出来ぬまま、バスに乗る。
ターミナルで瀬木と遭遇。「よかった間に合った」と空港までのバスに同乗。ペドロ(・アスナール)のNew Albumもらう。何と一曲目に瀬木の“Orasion”。Musician Creditに僕も載っていて嬉。瀬木が部屋に戻れなかったので、写真ROMは3/9以降にお預けだが、会えて良かった。

というのも、空港行きのバスにはASUKA Stuff誰も来ず、あとは自力なのである。まァ、子供じゃないんだから大丈夫なんだが、講演の先生など1dz程の日本人がウロウロせざる得ないところを、臨時コンダクターでAmerican Airlineのカウンター、人によってBusiness、Economyと振り分けられてLine up(整列させる、勢ぞろいさせる)するまでSegiに面倒見てもらった。

下船時に野崎船長と話せたので、水平線までの距離を尋ねたら、常に一定なのは正しくて、それは眼高によるという話。当たり前といえば当たり前だが、妙に納得。そして気になる距離はというと、ASUKAのDeckで20mileくらいだそうだ。kmにすると2倍弱なハズだから、40km未満。瀬木の言ってた車に乗って30kmというのは、ほぼ合っていたことになるだろう。

野崎船長の説明はとてもいい。質問した項目の正しい所と訂正する所、というふうではなく、質問の本質を即座に「ぐい」と掴み出して、その事について簡略に正確に解説を施す、というやり方。成る程これなら言葉尻に対するyes、noから生まれる正反対の解釈や、数値方向などの対応する項目のずれなどは避けられる筈だ。英語にした時には、もっと有効な事だろう。
小さい会話ながら海事に携わる人々の、合理精神を垣間見た気がした。

21:30
事件があった。出国審査に並ぼうかと思っている時に、呼び出された。
スペイン語のアナウンスでも自分の名前が呼ばれるとわかるもので、日本での経験から言うとBoarding(乗り込む)が終わりに近づいて尚来ない客、ということになるが、その時点で21時前なので有り得ない。ここまで同行した日本人の誰かさんが、僕の別行動を知らずに一行に居ないのを気にしての事かと思いつつ、手近の空港スタッフに“僕は佐山雅弘です(Yo soi Masahiro Sayama.)”と言うと、並べと言われてそのまま放送の事は忘れた。後から思えば英語でいいから“今、アナウンスで呼ばれたんだが”と言うべきだったのである。先入観を捨てて為すべき事をする、というたしなみを忘れる事が夥しい。

土産物に失望し、Restaurantも足踏みし、Smoking Areaがあったのを幸いBoarding Gateから遠いのも気にせず、その為だけに持ってきた携帯電話のアラームが鳴るまでのつもりでゆっくりしていたら、今度は女性空港スタッフが僕を呼ぶ。“Yes, I am Sayama.”と言う一言で程度をわかってくれたのだろう。実に丁寧にゆっくりと喋るには、“あなたの友達が困っている様子。電話がつながっているので出てください。”
受け取って「もしもし」と出ると、相手はDavidだった。空港使用税を払うのにCardが受け付けてもらえず、助けて欲しいと言うのである。彼のいつものクセで付帯状況をいっぱい喋るので困った。曰く、僕は明日コンサートがある。3ドルしか手持ちがない。何と言って頼んでもダメなんだ、云々。ただ僕の英語力で、船から偶然同機に乗り合わせる事になった今まで、不思議とスムースに色んな会話ができたのは、逆に、このDavidの饒舌に助けられて、つまり与えられる情報の多さで、何とか彼の言わんとするところを掴めていたのかも知れない。

ともかくそこに行くよ、と告げて、どうやって出入りすればいいかを先程の彼女に聞くと“事態は把握いたしております。一番の早道は、私にお金をお預けになって使いに遣ってください。”
ちょっと意訳しすぎた。“I know the matter. You should better to hand me money. I will go to him.”という所だったと思う。
いや頼りになる人でよかった。20分後に現れたDavidは“I write down a check.”というので“いいよ、またいつか返してくれ。”するとなけなしのはずの$2を渡して“とりあえずこれだけでも。”変わった奴だ、と思いかけて、いや習慣の違いだろうと解釈して受け取った。よくわからなかったが、その後「借りは出来るだけ少なくしたいから」と言ってたようだ。

2000円程のお金をどう返してもらおうかということより、彼がこの始末をどうつけるのかつけないのか、ちょっとした今後の楽しみが出来た。
考えてみれば、初南米大陸の出入り共に予定外の出費と人助けをした事になる。入国時のためのメモを後から見ると、ちゃんと“どこそこのカウンターに行って、Hotel名を言えばよい”という一文があったのだった。眼前の事態におっとりしていようとして、逆に振り回されている。
冷静になれば助かる所を、違った方へ危ない方へ行ってしまう方の人間であることだ。
災害の時には最初に死ぬんだろう、せめておっとりとはし続けていたいもんだ。
 
2月29日(日)
10:30
J.F.Kに居る。折角Business ClassのTicketを貰ったのに、Trandit Timeが短くてAdmiral Clubでゆっくり出来ないのが残念だが、うまく帰り便もBusinessに乗れてLuckyだ。

事の顛末はこう。クライアントからあしがわれる移動Air Ticketは基本的にEconomy。ところが、瀬木が年に5回は地球一周してマイルが貯まりまくっているのを僕のために使ってくれようと、アップグレード申請をしてくれたのだった。でもつまづきがあった。特別優待券が自宅のどこにあるか見つからないのだ。
だめで元々、と瀬木が成田のカウンターで顔見知り(にもなるだろう)の役付きの人に、アップグレードチケットを忘れたんだけど何とかならないかと頼むと、出来るだけの事はしましょうと超親切。

おかげでNRT→San Jose→Dallas→San Tiagoとall Business or First Class。待合時間は特別ラウンジ“Admiral Club”で過ごせた。ここは喫煙室もビジネスデスクも完備してて、5時間くらいの待合せなど何でもないのだ。Miami→BostonがFirstだったけど、Buenos→MiamiはEconomyを受け取ったので、日本からの遠隔操作もここまでかと諦めていたら、一番長い行程のNY→NRTで広いシートは有難い。
“ア<ド>ミラルクラブを使えますか?”を聞いたら通じず“<A>dmiral”だった。でも、次の乗り口や預けた荷物を自分で乗り換えさせなくていいのか等の質問は出来たし、長い道のりの説明も聞き取れたから今日は合格。

ボストン〜N.O.(ニューオーリンズ)を振り返ってみよう。
2月24日(火)
10:30にBoston着。細かい待ち合わせ場所は決めていなかったが、Baggage Claimに来てるんだろうとタカをくくっていたら待ち人現れず。
電話しようとしても、瀬木に教わったクレジットナンバーコールが不可。クレジットカードによる電話もないので、Departure Level(出発階)に移動してCokeを買い乍ら“Telできるコインをおつりにしてくれ”と、やっと25¢コインを2枚スロートしようとしたときに“あァ、居た居た”と登場。国際線ターミナルへ行っていたそうな。自分も同じような勘違いや失態をよくするので文句も言えぬ。

Taxiで辿りついた彼の部屋は案の定乱雑。でも、TVなし、ラジオなし、レコードを主に聴く態勢乍ら、CD、DVDも対応。机一つに勉強の本の山。苦学生の一間暮らしの様子がよろしい。国立(くにたち)ブドウ園に居た友人をrimind(思い出させる)
Berkleeは緑のCampasという訳ではなく、ホール、ロビー、教室の3つのビルがメインストリートの一角を占めている。
荷物を解いてレストランへ行って、スーパーで買物をして夜は自炊して.....と急に普通の生活。夜帯はそれぞれに譜面を書いたり本を読んだり。
2月25日(水)
バスケットを観に行った。途中、山岸(潤史)に頼まれていた日本食料品をコトブキヤで買い込んで試合場に行くと、持ち込めないといわれ、コインロッカーもないのでグッズ陳列ケースの裏側に隠しておいたが、案の定帰りには失くなっていた。

初の生NBAは流石に面白かった。ポール・ピアスの熱くなる様子や、バンホーンの冷静な感じなどTVで見ているよりも何十倍も楽しめる。12分4回とそれぞれの休憩も、次から次へ飽きさせないようにshow upされていて感心した。音楽がいちいちついていて、それは五月蝿かった。試合中も攻撃や守りに合わせて色々音がなったり、大画面に“叫べ”とか“騒げ”とか色々指示が出て、とにかく地元チーム応援一色。ここまでAwayがつらいとは知らなかった。今日ホームチームが、別の時には逆の立場にもなる訳で、はっきりしながらエンターテイメントなんだろう。でも大Booingの中でFree Throwをほぼ決める時の集中力はすごい。
2月26日(木)
アトランタ経由でNew Orleansへ。空港からTaxiでSheraton Hotel、山岸と会う。高円寺の駅前でばったり会ったのと寸分違わぬVibrationだが、さすがに嬉しい。

バーボンストリート等ひととおり歩いてOyster Restaurant、New Orleans Medleyがよかった。ジャンバラヤ、ガンボスープ、ビーンズライス等、カキは2Dzとって5人で食べた。山岸の舎弟的な二人の男性のうち、マサ市川君は道下(和彦)の弟子で何度か会った事がある筈だという。バイトをしながら時々ギグがあり、山岸のボーヤもしている。
フレンチクォーターで土産を集め、ミシシッピー川で記念撮影をして、カジノで少しスって、とまるまる観光客をしてから辿り着いた山岸邸はプール付きのマンション。

近頃とんと会わない金子マリやジョニー(吉長)、ホトケ(永井隆)等の近況を山岸から聞き、日本から送られて来たばっかりのビデオを見るに“世之介とホームランブラザーズ”。居合わせた若者たちを置いてけぼりにして大いに笑う。
ピアニストのよしこ嬢も加わって6人で“チャーリーズステーキハウス”へ。メニューは3種類。T-BoneのLarge、Small、Fillet。フィレというのは骨がついていなくて最もサイズが小さいというのでそれにした。1ポンドはゆうにあった。まず山岸に出て来たT-Boneの小が30cm×40cm×2.5cm。Largeはその1.5倍程もあっただろうか。
日本人一行で牛一頭潰したか?
2月27日(金)
先に目が覚めた。山岸を起こすのも気の毒なので、CDを聴く。
マイルスのキリマンジャロ〜サイレント・ウェイの時期のComplete盤があった。On The CornerはFunkやで、と寝ぼけたオコゼ(寝起きの山岸)が言いながらコーヒーを淹れてくれる。

シャワーを浴びて、ひげを剃ったらBreakfast House、24h朝食が食べられる不思議なような、ありがたいような、いや、あって然るべきだろう。人それぞれに朝食の時間は自由になってよく、それを受け入れる事というのは素晴らしい。旨いし、グリットというおかゆにバターを放り込んだ小鉢が特にうまかった。
ニューオーリンズは食事が旨い。人々が友好的で、けなすよりもその人のいい所を認めてつきあってくれるから、楽でよい。だからこそ若者は、余程自覚を持って自分と対峙せねば進歩や出世をしにくい街ではなかろうか。山岸だって楽しいベと暮らしてたのみでは、現在のメインシーンでの活躍はなかった筈だろう。
12時のハムステーキ朝食を終えて、去年まで山岸の住居だったというエリアのカフェへ。

小春日和か、既に春の入口なのか、日ざしがぽかぽかあたたかい所へ椅子をずらして、カフェラテを片手にライブ情報誌を覗きながらかつて地元のあるmusicianの裏話、ウワサ話など、とりとめもなく話す。
2時間くらいは、のんびりとあっというまに(この2つは矛盾しない)過ぎる。
部屋に戻ってMonkのParis、ColtrainのTV(Casual Jazz)など観る。
1980年に行われた“Original Meters Concert in New Orleans”のビデオ。
ぶっ飛んだ。
ジガブーというドラマーには声も出ぬ。一時間強のコンサートの模様を喰い入るように見ながら、腰はむずむず動いている。このあとのフォーリーの居る時代が見たくてMilesのConcert DVDを見たが、ドラムが軽く聴こえてしょうがなかった。

山岸はRh(リハーサル)に出たので、バスケットを観に行った。
ニューオーリンズホーネッツがインディアナペイサーズを迎え打ち。終始優勢なまま勝った。僕としてはレジ−・ミラーの華麗なラインどりにうっとりした。

きのうのマサ2人、ヨシコに加えてセイジというボストンからの若者 in afro hairと連れ立ってNozakkiというやさ男風のバイトするレストラン“Tokyo”でそこそこ飲んだあと、山岸の演奏が予定されている“Howlin' Wolf”へ。
チキンジョージを2倍ほどにだだっ広くしたような暖かい空間に満員の客が踊っている。バンドは前座の5Tb+SuzaHornのFunk Band。
※文中に登場するこの色の文字は管理人による注釈です。
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