Super Motard

2002年版

& おまけ:『1970年代のオフロードバイク事情:新横浜モトクロス場編』・ヴィンテージモトクロス、1970年代当時の写真集 `04/1

&さらに番外編:『ハンターカブCT110が我が家に!』 `04/7


綺麗だと思ったマシン。`98のハスクTE610、排気量は570cc強。
カジバジャパン、伊藤選手のマシン。年式の新しいタイプより、美しいスタイルだと思うのは、人間が古いせい?
単気筒大排気量マシンの音は、また一種独特。興奮する。
2002年4月湯河原 ビーチサイドグランプリで。走行会模擬レース形式なので、初心者にもとっつきやすそう。みんな楽しそうでした

 100kg強から100数十kgの軽量マシンに大排気量でトルクが太い単気筒エンジン(4st500ccから600cc位の排気量だとライトチューンで60ps位出るらしい。大昔の気違いマッハと言われたKAWASAKIのMACH。が180kg弱+で60psだったからスーパーモタルドマシンが運動能力高くてあたりまえ---人間が古いのでそんな例えしか解らない、、、スマン。因みにMACH。は5000rpmを超えた辺りからのいきなりのトルクの立ち上がりと、吸気排気音は痺れましたね。でも、ブレーキはW1と大して変わらないものだったので、な〜んも効かんし、フレーム剛性低いし、直ぐにステップするし、ラフに扱うと直ぐにおっ立つし..... そんな訳で、今のクオリティの高いバイクに慣れた人が乗ったらホントにちびると思う。MACH。はこえーぞ! でも、そんなのが面白かった。と、書いていたら、`03/4月の別冊モーターサイクリストにMACH。の特集が載っていました。自分が乗ったことのあるのは、初期の黒MACH。貧乏高校生は借りて乗っていた。当時CB750K1も借りて乗っていたが、とにかくMACHは面白かったです。当時は新横浜駅近くの鶴見川河川でMXばかりやっていた自分)。それにロード用のレーシングタイヤでスライドしながら狭いコースを走る。いやあ、興奮しますね。
 再度レースに復帰と意気込んだものの、手持ちのバイクのホイールをいざ17インチ化というときに、家の引っ越しを決めてしまい、大枚が無くなったので頓挫。
 AFAMのスーパーモトホイールキット、20万円弱。一応ボルトオンとは言っているが、そんな簡単ではないはずと脅かされる。わしのバイクはオーストリア製で一寸年式が古いエンデューロレース用のバイクKTM-LC4(カタログスペック43ps ^-^;; )。。。その純正のハブが有るのか(オフロード用のホイールは残しておきたい未練が)。そしてレーシングタイヤを買って、Fブレーキを大経化したら、ウーン、、、部品代だけで全部は30万円は飛ぶ。でも、楽しそうなレースだ。状況が許されれば直ぐにでもやりたい。


 このLC4は400。クラッチレバーは、マグラの油圧に変えてあるので軽い!
同じLC4といわれるシリーズでも、Supercompetition(形式はEXC)なので総減速比は低い。5速で90km/h巡航がやっと。。。レース仕様だもんね、当たり前。なのでFスプロケを14丁から16丁にして、やっと100km/h巡航が可能に(振動が凄いので近場しか行けないが)。もしかしたらミッションも他のタイプと違ってクロスレシオなのかも。特に4−5速間。
 400のエンジンは極スムーズ。オンロードで過激にやるんだったら620の方が良いかも。そういえば当時の620Supercompetitionは、最初から59ps出ていたみたいだから、レースやるにしても、マフラーと吸気系をいじるだけですむでしょうし、自分みたいな素人には必要充分以上でしょう。近年はラインナップが変わっているからSupercompetitionが有るかどうか解らない。LC4のエンジンは、恐らく`87頃(自分も`87のKTM250Enduroに乗っていた時期があるので何となく覚えている)からの歴史があるようだから信頼性が高い。潤滑系も今のモタルドレース様に特化したマシン群とは異なり一般使用に耐えられる造りになっているようだし。自分みたいな怠け者で、資金がないものにはLC4エンジンがいいかもね。LC4の過去のデータについて詳しくは、KTMラインナップの昔からのカタログをデータベース化されている奇特な方がおられるので興味がある方は是非ご覧になって欲しい。こういう方はありがたいです。感謝!


おまけ:
☆『1970年代のオフロードバイク事情:新横浜モトクロス場編』:今やヴィンテージモトクロスと言われている1970年代当時の写真集

 脈絡が無いが、昔の写真の画像データを見付けたので、ついでだから載せちまおう。最近レトロブームで昔のバイクが記事になることも多いから、懐かしいと思われる方も居られるかもしれない。`04/1/13

 これは自分のバイク。友人に非常に安く譲って貰ったものを改造。SUZUKI TS250-3型の輸出仕様。タンクが綺麗な水色で白のラインが入ったもの。F19インチR18インチのロードタイヤ(多分ダンロップ)を履かせて、前後ともフェンダーをアルミの細身のものにして、Fをダウンフェンダーにした。ハンドルもXS650辺りのアップハンドルにしてツーリング用になっており、北海道もこれで走っていった。その後、エンジンを右のTM250のものに載せ替え、チャンバーもレース用のものを付けて少しだけ消音。白バイにはよく目を付けられた。
 ダートトラックレーサー風で格好が良かったが、東名を富士山まで行く予定で追い越し車線を全開で走っていたら、厚木IC手前の海老名辺りで、突然エンジンが焼き付き、リアがロックしかかった。あわててクラッチを切って、なんとか左側の路肩に。。。あとで開けてみたら、コンロッドまで逝っていた。レーサーの為、混合ガソリンだし混合比も薄かったみたいだった。危ねえ危ねえ。(^^;;

 

 こちらは、新横浜駅前の鳥山川と鶴見川の出会いの所にあったMX場の埋め立て跡。MX場が潰されて(`75年頃か?其の後、河原沿いに幾つかコースが出来ては消えた)しまって悔しかったのでドリフトゴッコをして遊んでいた。奥に見えるのが新羽の資生堂のビル。
 バイクはSUZUKIの市販レーサーTM250-2型城北チューンでラジアルフィンのシリンダーヘッドとチャンバーが付いていた。MX仲間に格安で譲って頂いた。自分が浪人生の頃(1976年)だっただろうか。
 SUZUKIは1969年にスウェーデン人のMXライダー、オーレ・ペテルソンと契約してマシン開発を行い、1970年にベルギー人のジョエル・ロベールをRH70(250cc)に乗せて世界チャンピオンになった。その技術でリリースされた市販レーサーのTM250だったので当時は憧れていたマシンを手に入れて無茶苦茶嬉しかった。
 だけど、バイクを乗せて行く車も免許もないから、何時も自走するしかなかった。野を越え山越え住宅街を抜けて移動。高校生の時も土手沿いに学校行く時の足代わりに。
Photo by K.HARA

 

 これは昭和47年(1972年)頃か。バイク仲間と新横浜のMX場の土手の上で。右からYAMAHA DX250、KAWASAKI TR90トレールボス、YAMAHA DS6 250、それから自分の中古で買ったSUZUKI TS250-2輸出仕様だ。
 自分のバイクはFを自分で21インチに組み替え、前後MXタイヤに履き替え、ハンドルを変えて、シートをアルミ板のベースを切って作り表皮を買ってきて切って作り張り替えた。エンジンはキットのチャンバーを入れて、シリンダーのポートを磨きキャブのジェットの番手を大きくした程度。重たいバイクだったが、貧乏高校生にはそれが精一杯。

 MX場で遊んでいると、バイク好きの連中が集まってくる。直ぐに顔見知りになり、模擬レースが始まる。

 ヌタヌタのマディでのスタート風景。みんなノーマル車なので平和なスタートだ。横を向き掛けているのは、SUZUKIのTS400(リリースされたばかり)。トルクの太いバイクでノーマルタイヤはちょっと辛い。

 此処で大勢の友達が出来て楽しい時期を過ごせた。


今のバイクに比べると足周りもフレームも貧弱だし
パワーもないけれど、それはそれで楽しかったなあ。
“みんなで遊べた。”
ナンバー付きで走って行き、みんなで戯れて、ちょっと
汗をかいて、あとは土手に座ってバイク談義。そんな
場所があったのは(それに只だぜ!)本当に幸せなこと
だったのだ、と失ってから解る。今の若い子には、そん
な状況も、そして場所も無い。第一、モノが溢れているしね。
その上、社会は混沌として先行きが見えず、大人達はお金儲け
ばかりに走り、無責任で荒っぽい事ばかりがメディアを賑わす。
大地は泣き叫び、人間は迷走し、夢も持てないような状況だ。
そんな今よりも、少し不便でモノが足らなかった頃の方が、
何故か、みんな幸せそうに見えたのは私の勘違い?
よく解らんが、どう考えてもこの頃の方が
みんな目が活き活きとしていた。



KAWASAKI F21M(250)。川崎初の市販モトクロッサー。ホイールベースが短い。YAMAHAのDT1が出る前のものだったはずだから1968年頃のマシン?

KAWASAKI TR90トレールボス。確か、輸出用のものは
100ccとか120ccとか半端な数字で副変速機も付いて居た。

KAWASAKIのボブキャット?

 昭和45年(1970年)。このバイクはBS90(ブリジストン)だと思う。カリカリのチューンでメチャ早かった。乗っているのは、横浜にあるマルトミモータースのケンちゃんって当時呼んでいたが、確か社長だ。かなりしたたかにやったって噂で、やがて外車を扱う様になり大きくなったらしい。

 この暫く後の頃、マルトミに出入りしていたジョーという名前のブラックのハーフの奴が、東名をCB750で走っていて事故り、内臓が飛び出す様な凄いものだったらしいが、この世に戻ってきたなどという逸話などもある。今はどうしているんだろう。

 このケンちゃんは上手くて、鳥山川沿いのフープス(波状の直線)は、山の上だけを嘗める様に飛んで行っていたので、他のでかいモトクロッサーよりも早かった。
 奥に見えるビルは新横浜駅前のビル。新横駅前は、開発された当初、1,2年で1m以上の地盤沈下が起こり大問題になったところ。それでビルやガソリンスタンドが開業前に潰れて暫く廃墟みたいだった。いまはよくぞ化けましたって感じだが、本当に平気なの?

 

 

 鳥山川沿いのフープス。波状の直線が200m位は続いて居ただろうか。マシンはYAMAHA DT1


鳥山川沿いのフープスは二本あって、此の後に合流して一本になる。

 同じく鳥山川沿いのフープス。乗っているのは同じ人。○野寺氏。マシンも同じDT1だが、この時には野口でフレームをローダウンしていた。
 鳥山川と鶴見川の合流地点にあったバンク付きヘアピン。フープスの直線から入ってくる。

 土手の端から亀の甲橋に向かって観たところ。右に資生堂のビルが見える。冬だとこの写真の左端の所に遠く富士山が望めた。一日練習してくたくたになったところで日が暮れて富士山がシルエットになって行くのを観るのがとても良い気持ちにさせてくれた。

 鳥山川と鶴見川の合流の所にバンク付きのヘアピンから立ち上がってきて、土手を飛び越えるジャンプ。ヘアピンは結構、川にギリギリに作られて居たので飛び出すと川にボチャンだったが、落ちかけた奴は居たものの落ちた話は知らない。奥に見える山は大倉山だろうか。

 その土手を飛び降りて、内側のコースに入る。

 

そして、其の直線の途中のジャンプ。

 当時はノーヘルで練習している人も多かったね。このコースは石少ないし。
 マシンはYAMAHA AT1

ジャンプを飛んだ後の直線。此の後、Rの大きい左コーナーへ進入。
そして、インフィールド?に入る。

亀の甲橋よりの土手の上から新横浜の駅方面に向かって撮った写真。
まだまだビルが少ない。山は篠原町の山。長閑ですなあ。     
この豊かな自然は、其の後人工的なコンクリ製の構造物に入替わった。

コースは、この右下が第一コーナーになるが、土手の内側だけで、凡そ
1km弱位か。この写真の奥になる土手を乗り越えた下の鳥山川沿いの
直線は、土手を傷つけるというので後年は走れなくなったが、其処を
入れれば、全部で1.2km位になった。コースの取り方によっては、土
手を飛び降りる様な具合にも取れたので結構面白かったのだが。   
土質は赤土の硬い路面で、石や砂利は殆ど無かった。なので、雨が降る
と池の様になってしまうこともあり、走るのも大変だったが、真面目に
やればマディの練習になり、アクセルワークやクラッチワークが上手く
なること必至であった。後年、条件が悪いエンデューロレースや、ウッ
ズライディングであまり苦労しなかったのも、ヌルヌルのコースを重た
いマシンでズルズルとスライドしながら走っていたお陰であろう。   

 

 石が少ないので乾いていれば走りやすかった。
 マシンは多分、SUZUKIのTM250-1城北チューンだと思う。

 が、大雨が降ると此の通り。こんな時に走る人間は他には居なかったが、自分はひたすら練習。

そのインフィールド?ね。


 水が抜けてもコースはヌルヌル。当時のマシンはパワーが無い為だったのかコースが荒れなかったので路面は平ら。なのでスムーズにスライドしっぱなし。だけど地表だけがツルツルなので結構マシンコントロールは難しい。1972,3年頃。
 マシンはSUZUKI TS250-1。車両重量乾燥で127kgというスペック。保安部品を外しても120kg弱?

 大雨で殆どエンデューロコースに変更になってしまった。

 この頃にはエンデューロレースなんてカテゴリーは無かったけれどね。

 

 アウト側から撮った写真。DT1。右の写真と同じ人。O寺氏。  野口でフレームローダウンした後のDT1。


同じコーナーで野口チューンのAT1。乗っているのは、確か酒屋さんかな...

 右の土手は鳥山川側。その下に川があって、向こう岸のそのまたずーっと向こうが新横浜駅。
 この土手との間にもう一本ラインもあり、土手を超えて鳥山川脇のフープスを通らない場合に、への字の土手の内側に戻る。今から考えると、大きなギャップはそこそこ有ったけど、細かいギャップはあまり無かったね。ストロークの短い二本サスと今と比較して少ないパワーでは、あまり路面をほじくらなかったのだろうか。その代わり、剛性が弱いこともあるのだろう、リアが横っ飛びに左右に煽られて押さえが効かずに吹っ飛ぶことは良くあった。

 TS250-1とわたしだね。恥ずかしいけど載せた。高校の体育のジャージにジーパン。そしてバレーボール用の膝当て。MXズボンなんて買う金無かったし。親は教員でバイクなんて認めて居なかったから隠れながらだから此がやっと。
 え〜・・・・とっ。やっぱり書くのを止めた。お恥ずかしいからね。

 

 

 

 こちらは野口チューンのYAMAHA AT1(125)のようだ。族が被っているこのお椀型のヘルメットがこの頃は主流だった。というよりもジェット型が普及していなかった。この頃の暴走族(カミナリ族?)は、ヘルメットなど洒落たモノは被っていない命知らずだった。というよりも本当の怖さを知らなかっただけ。。。
 上のライダーの黄色い口元はチンガードなどでは無い。只のタオル。チンガードなんていう概念も無かったね。

 また写真を見付けたらアップしたいが、この頃の時代はマシンが出来上がっていないので、みなトライアンドエラーを繰り返していた。
 高一の頃だったか、MX場で知り合いになった人のマシンを乗せて貰った。野口チューンのDT1なのだが、重心を低くする為にダブルクレードルのフレームを下方に数cm延長してあった。エンジンもカリカリ。他のマシンとは違いますという雰囲気を醸し出していた。流石に乗りやすくコーナーもギャップのあるストレートも安定している。
 一番奥からそのストレートを戻ってくる時に、いきなり駆動が掛からない状態になった。止まってみると延長したフレームのエンジン前方のダブルのパイプが外れてエンジンが落ちかけていた、なんてことも懐かしい思い出だ。

 何時の時代も子供はバイクが大好きだ。このバイクはYAMAHA YGS 50ccか75ccのもの。

 かく言うわたしも、中学校の2年の時にはYGS1 75ccの中古を、自転車屋さんを技術の時間に必用だからと騙して(分かってて騙されて?)お年玉を貯めた7000円か8000円で買い、裏道を通っては新横のMX場に通っていた、、、捕まるまで。

 バイクは裏庭に隠し、道路に出るには階段を下りた。降りるのは未だ良いが、道路から上がる時は階段は上れないので脇の植え込みのタイヤ一本分位のラインの斜面を押し上げていた。
 今、思い返せばクラッチも上手く繋げない頃から階段の上り下りやっていたんジャン(といきなり横浜弁?)。大らかな時代だったよなぁ。って親はガチガチの教員だったけどね。

 

 鳥山川側に土手を斜めに駆け上がるところ。この先は、土手を斜めに駆け下りて、鳥山川沿いのギャップの深い直線を鶴見川に向かって飛んでいく。
 マシンはYAMAHAのDT1野口チューン。この時は未だフレームをローダウンしていないが、此のマシンは後にWクレードルフレームを下に伸ばして重心を下げるチューンを野口モータースが行った(其の後にメーカーのYAMAHAがレーサーのフレームをローダウンしてアップマフラーにした)。高校生の自分はこんなマシンは買えないので、時々乗せて貰った。それにしても昔は他人のマシンをよく乗せて貰っていたけど、初めて会ったガキに乗せてくれた皆さんは太っ腹だよね。感謝!

 

 昔のトランスポーター事情:みんな貧乏だったので、みんなこんな感じだった。でも、ハートは熱く燃えていたんだよね。マシンはSUZUKI TS250-1をチューンしたもの。
 良い音していた。

 こちらはリアカーをカブで引っ張っていた城北ライダースの中村洋二選手のマシン。TS250-3型?の城北チューンだった。タンクはTS90のものが装着されている。中村選手が新横に来る度にスピードを増していったのが良く解った。

 

 その中村洋二選手のコーナリング。けつがでかい人なのでマシンをガッチリ押さえ込んでいく。この時点で、リアのハブはファクトリーのものがついているのが分かる。

 因みに故矢島金次郎氏率いる城北ライダースへは、1971年に家出をして弟子入りを志願しに行ったが、親の承諾がないとダメだと矢島氏に追い返された想い出がある。
 後から考えれば、断られて当然だし、また断られて良かった。土台、体力も運動神経も根性も並以下の自分は早々に挫折していただろうね。

 こちらは化け物と云われたSUZUKI TM400 。乗ってみたかったなあ。奥に見える送電線の奥の方が港北警察。何度か行ったことがある。
 この土手にもお巡りさんがよく遊びに来たものだ。昔は直管でサイレンサー(及び、スパークアレスター:アメリカで森林火災の原因になるからと付ける様になった)なんて付いていなかったからかなりウルサかったしね。

 

 

 KAWASAKIの250TRバイソン。フロントホイールを市販時の19インチから21インチに換えてある。直進性が強そうな感じで走っていた

 SUZUKIのTM250の1型。上のTM400とは見た目では、エクスパンションチャンバーの太さや長さが違うくらいしか解らない

 

 YAMAHAのHT1 90cc

 のんびりした風景で平和そうでしょ

 

 画像を見ながら思い返してみると、やっぱり昔はホワーッとのんびりしていたような気がする。みんな余りカリカリしていなかったしね。情報が少ないので他人とのコミュニケーションの中で得ようとするから人との繋がりが深かったしね。それにセコセコしていなかった。

 それに今のモトクロスやエキストリームみたいに曲芸の様な走りじゃなかったので、敷居が低くてみんなで好き勝手に楽しめた。走れるところは沢山あったし・・・

   
 YAMAHAのDT1。それにしても近所にお咎め無しで走れるところが有ったのは幸せだよね

 新横の土手に来ていたお兄さん。片方はCB50だな。もう1台はなんだろうか。FS1かな。

 

 SUZUKI TS250-1 Photo by K.MURAKAMI

 SUZUKI TM250-2 Photo by K.HARA

 

 KAWASAKI W1S


 YAMAHA YS180→CS180※元ヤマハ神奈川パーツセンター勤務、現オフロードバイクジャーナリストのHARA氏からの訂正。
 そう言えば、日本では半端な此のクラスは“C”だったんだ。125ccはAT1で175ccはCT1だったもんな。

何処で撮影したのだろうか。多分近所だとは思うのだが、、六角橋?。カラーフィルムなので1972〜3年頃か?

※新しく起こした別ページ(ヴィンテージMX&ヴィンテージガレージライフ)でフィーチャーしているHARA氏は、昔からのバイク関連の蔵書を家の中だけは置ききれず蔵にも保管しているというバイクの歴史物には詳しい新横浜モトクロス場出身のオフロードバイクジャーナリストなのだ。

 

MX場に遊びに来たKAWASAKI MACH3 500の輸出仕様のもの。この白のタンクに憧れたね。マッハは足下広くてタンクが狭い、そしてシートはツルツルフラット。 ラフな感じで良いよね。CB750の加速だったら女性受けするしね。マッハじゃ怖いだけね。写真の雰囲気が、いい感じでしょ?

 昔はヘルメットを被っている人自体少なかった。危なかったけど気軽に乗れることは確かだった。交通量自体が少なかったので、無茶さえしなければそんなに飛んでもない事故にはならなかったからかも。ヘルメットを被る自由、被らない自由もあった。今は車も多いし、規制も多いし、渋滞も多いし、で自由からはほど遠い。
 上の写真関連でいえば、マッハはシートにタックが入って居らず表面もツルツルのシートだったため、後ろに同乗するのは結構怖いものがあった。全開なんかにされたら思いっ切り腕に力を入れてしがみついていないと落とされそうだったからだ。CBもマッハも0-400mは12.4秒のスペックだったけど、トルクの立ち上がり方が全然違ったからね。シートのツルツルはスペクタクルを呼ぶためのものだったのか?

 この写真は昭和44年頃。横浜、東横線白楽駅近くの白幡池でのもの。自分はこの畔で育った。鳥や魚やエビ、トンボが無茶苦茶沢山居て遊ぶのに事欠かなかったね。
 バイクはHONDA CL72 250、それからメモにはKAWASAKI90SSとあったが実際にはYAMAHAのHS1 90ではないかと思う。

 日産のサニークーペ。こういう車が走っていた時代。平和だった。

 

 

 

 中学、高校と2台、こんな自転車に改造して山や砂利道、MXコースを走っていた。ドリフトもブレーキドリフトなんかじゃなく、リーンさせていくときの荷重バランスによって、リアを先にブレークさせてドリフトしスリップダウンせずにコーナーを抜ける技もみにつけた(上のようなバイク用のブリッジハンドルだとやりやすい)。オーバースピード、ノーブレーキでカーブに突っ込んでも、スライドすることでブレーキの代わりに為るためにスピードコントロール出来たんだよね。この頃は砂利道なんて幾らでもあったからスライドごっこの練習は幾らでもできた。

 

 上の様な自転車は、中古のスポーツ車を買って、バイク用のハンドルと左右のレバーを取り付けたのを1969年頃に作った。その頃は、MTBなんてものは欠片もなかったから、自分で乗りやすい用に改造したんだよね。タイヤもオフロード用のものなんかなかったし。でも、高校の頃になったら、少し粗いパターンのものが出てきたので、滑りやすい土の上で走りやすくなった。こんな自転車で、ドリフトやジャンプ、ダウンヒル、ウィーリーなどで遊びながら体力と感覚を鍛えていたりした。後年になって同じ頃にカリフォルニアのオレンジカウンティでMTBの原形のものが作られたらしい。時代の流れだったわけだ。

 

 少し時代が進んで1974年か5,6年頃か。MX仲間の慶応ボーイの浜崎氏。相模川の河原、新幹線の陸橋の下流で。
マシンはYAMAHAのYZ125、サスがモノクロスになった後のモノだ。

 こちらはYAMAHAのXT500。これまた貧乏人のわたしに友人が格安で譲ってくれた(が車検が切れたら再度取れなかった)もの。味わい深いエンジンだった。
丹沢の犬越林道で。1980年頃か?

 

 今は通行止めになってしまった玄倉川の上流部から戻るところ。ブーツは日本に一番最初に入った初期の日本向けアルパインスター。当時、世界GP500ccクラスのロジャー・デコスタ−選手(後のスズキMXティームの総監督)が履いていたが、その欧米のものより臑のところの丈が短くベルトの数も1本少ないもの吉村太一選手が履いていた。それと同じものをMX仲間に安く譲って貰ってそれをズーッと履いていた。このタイプのものは臑にステンレスの厚板(後年アルパインスターのトレードマークみたいなものになった)は入っていなかったのが、当時の他のメーカ(海外製品はSIDI位しかなかった:皮が硬いメーカだった)もそんなに良いものは付いて居なかったので、そういうものだと気にしなかった。仲間に臑の骨が折れたのは居なかったしね。このアルパインスターは皮が良いので長持ちしたね。そのお陰でアルパインスターブランドを何足か履き、いまはガエルネが家にある。

 この時は、玄倉川の源流部、熊木沢と箒杉沢の出会い近辺まで入っていった記憶がある。鍋割山の北側、蛭ヶ岳との間くらいだ。
 昔は通行止めが無かったので、此のユーシンや、西に延びる世附川の奥まで行くことができた。世附から山中湖の三国峠の手前、明神峠まではわりと早い時期に通れなくなった覚えがあるが、それでも数度行った記憶がある。その当時でも結構荒れた怖い林道だった。でも、FRの乗用車も走っていた覚えがあるから、その程度はご理解頂けるだろう。
 いずれにしてもこの頃は林道なんて所に車は滅多に通らないしバイクの数も少なく平和だったね。






 

 地元の人に断って登らせて貰った尾根。思いっ切り登ったのは良いけれど、下りは怖いよ〜。だって麓が見えないでしょ。
KTM250 Enduro `87

 この時はMTBで遊びに行った。流行する直前くらいか。此の尾根のダウンヒルするのにやっと担ぎ上げて、上の画像のKTMが辿り着いたところまで行ったが、いざMTBに跨ろうとすると、斜度が強くて前転しそうなのと、一旦走り出したらMTBのタイヤじゃ枯れ草で止まれなさそうでびびってしまった。細い尾根なので、下手に吹っ飛ぶと麓まで滑落しそうな場所なのだ。
 それで、根性無しのわたしは途中からのダウンヒル。一緒に行ったANA整備士のN氏は根性が違ったね。行った!!!

 群れていくツーリングは好きじゃないのであまりやらなかったが、偶にはアホ仲間でジャレながら遊びに行くのも楽しかった。1980年頃か? なんと赤いバイクばっかり揃っているが、左からHONDA XL250(でしたっけ?Fが23インチの奴)、YAMAHA XT500、HONDA XL125、YAMAHA

 1980年代後半か。仲間3人と朝霧高原に遊びに行ったとき。YAMAHA DT200RとHONDAのMTX200。タイヤはノーマルで、半分アタックみたいなもんだけど、楽しかったね。ごついブロックタイアやハイパワーマシンでは荒らしすぎてしまうので、思いっ切り遊べない。この位が平和。

DT125(空冷)、HONDA XL50、そして同じくHONDA XL250の全部で6台。横浜の人間ばかりだが、みんなで半原から津久井を通って413号を青根から犬越路に入り、西丹沢に降りて、それから先に書いた玄倉川の源流部まで入り、秦野周りで帰ってきた。もう、その頃、道志道は舗装されていた(舗装されていない頃は崖崩れで山中湖に抜けられないことも多かった)ので、かなり楽だったが、犬越路が何処も舗装されていなかったので全線ハードに飛ばすとしんどかったね。西丹沢も変なキャンプ場なんか出来ておらず、河原も自然のままで、戯れるのも楽しかった。何もない 中川川から白石沢に掛けての河原は美しかった。

 

 さて、自分が公道で(堂々と?)バイクを乗り始めた1970年頃は、バイクの絶対量が少なかったので、ツーリング先や郊外などですれ違うと、みな互いに熱くピースサインを交わしたものだった。知らない者同士でも直ぐに友達になれたし仲間意識も強かった良い時代だったね。

 それにしても自分はSUZUKIのマシンが多いが、一番最初のTS250ハスラーの質が良かった印象が強いのかも知れない。
 後年、同社のRM250の最後の空冷エンジンのタイプを、これまた中古で手に入れて乗っていたが、ある時(1981,2年頃か?)、MX仲間のオヤジ達水冷のRM125が2台と自分のRM250をいれて3台で富士山を登りに行った。

 太郎坊次郎坊の方から登ったのではないかと記憶するが、一番下から5速全開で登っていき1速まで落ちてスタックするまで直線的に登っていった。Rが火山灰を掘ってバイクが空を向いたところで、斜めに下りながら勢いを付けアールを描きながら上に登っていく。たまにコントロールが効かず大岩に衝突して空を舞うこともあったが、やがて荷揚げ用の雪上車のスイッチバックの跡を見付け何処まで辿り着いた。

 オヤジ達は、最初の1速でスタックした時点で遥か下方も見えるところにスタックしていて登ってこない。火山灰の急斜面では一旦止まってしまうと、Rホイールが地面を掘って登れなくなってしまうので、止まることだけは何とか避けながらスイッチバックをターンしながら徐々に登っていった。このスイッチバックも折り返しのところが狭いし、斜面は急だしで1速を半クラで騙しながらなんとか登れるレベル。
 トライアル車なら兎も角、レーサーにはかなりきつい。だが、当時のトライアル車だったら勢いがつかないので、高度を稼いでスイッチバックまで辿り着くまでが出来るのかどうか。またタイヤもモトクロス用のものでないとフカフカの火山灰ではきついだろうし、また有る程度のパワーが無いと抵抗に負けてしまいそうだから、あとから考えるとこの空冷のRM250は最適だったかも知れない(富士吉田側からはトライアル車で登った人が居たと思うが)。

 さて、観測所の直下まで行った頃に、リアホールとスイングアームの間に大きい岩が噛んでしまいエンジンストップ。これは、これ以上バイクで登るなの神様のサインだと思い、あとは歩いて登ることにした。重たいMXブーツで歩き始めるが、10mも行かない内に気持ちが悪くなり朦朧として歩けなくなった。10分ぐらいだったか横になって休み、また歩き始める。それを何回繰り返しただろう。もうすぐ其処に見えた頂上にたどり着くのにどれだけ時間が掛かったか分からない。急に高度が上がって気圧の変化に対応しきれなかったのと、体力を消耗していたのとで、可なりやばい状態だった。それでも、雪の残る山頂に登りきって目標を達成するが、今度は寒くて身体が動かない。
 すり鉢の内側の風のないところに降り岩の間で横になった。死ぬかもなんて事もちょっと頭を横切ったが、登る前に仲間のオヤジ達が手渡してくれたゲータレード(ポカリスウェットみたいなもの)をザックに入れていたことを思い出し飲んだ。そうしたら少し動ける様になってきたので歩き始め、バイクの所まで下山できた。どうやら必死こいて登ってきたので相当に消耗していたみたいだ。

 再度バイクに乗って跨るが、登るのに必死だった富士山の斜度は可なりのものがある。それも、下を見ると視界全部が急斜面だし、やっている人は分かっていることだけれどバイクに跨っているので更に急斜面に見える。結局、エンブレが効くなんてスピードでは降りられないので、エンジンは掛けずに前後ともブレーキを掛けっぱなし、そしてリアはロックしたままずり落ちてきた。ところが一面の雲海の上で、自分がどちら方面から来たかも分からない。迷ったが雲を抜けて、なんとか景色が分かる様になってやっと来た方向が分かった。それでさらにずり落ちていったら、やっと出発点の駐車場らしきものが見え、やっと車の所まで戻ることが出来たのだった。
 仲間のオヤジ達は、丁度捜索願を出そうと思っていたところだったらしい。自分でも、どの位の時間掛けて登ってきたのかも良く解らない。もしかしたらちょっとやばかったかもという、そんな富士登山だった(誰もカメラを持っていかなかったので証拠写真はない)。
 それから数年して、太郎坊近辺にはロープが張られバイクも車も入れなくなったのだが、富士山にチャレンジしたジムニーがそのままになっていたりして、おバカなことをやる人が更に増えてきてしまったからなのだろう。そういう自然破壊とも云われるである行為をやってきた自分は、いまは超エコロジカルな方向に転換して過去の罪を贖罪する生活になっている。そして罰が当たったのか、相変わらず貧乏の甲斐性無しの生活をしているのである。なので、皆さんも自

 出たばかりだった水冷DT125。お決まりのサニトラ。

 貰ったDT200R YSP仕様。多摩川は、上の画像、拝島橋上流と下の画像、JR中央線立川-日野間の橋の下に渉れるところがあった。
 YSPセロー。多摩川の河原はセロー向きセクションだらけ。

然破壊行為は止めましょうね(もっとも、大勢の登山者が登り登山道を痛めつけ、オーバーユースでトイレの問題を引き起こし、五合目まで沢山の車が行って排気ガスを出しているのと、どちらが酷いかというと絶対数では比較にならないくらいの一般観光客の方が多いだろう)。
 それで、その空冷のRM250はというと、エキゾーストパイプの通るサイドカバーが熱で溶けているくらいで、後日乗ってもピンピンだったのだ。混合オイルはカストロの植物油を少し濃いめにしてあったが、それでもよく保ったものだと思う。これが水冷のマシンだったら噴いてしまって、余程の対策をしていかなかったら無理だったのではないだろうか。

 そんなこともあり、SUZUKIのエンジンは信頼出来るというそういう思いがずーっとある。展示会の時に居たSUZUKIの開発者の人にもこの話をしてお礼を言って、もっと頑張って貰う様にお願いをしたりもした。でも、四輪の市販車はどうなのかなあ。スズキの軽は好きなので、ジムニーやエブリ、キャリーなどを乗って来ているが、そんなにエンジンが良いとも思えないし、知り合いの車のエンジンも煙を吐いて逝かれていたりする。でも、スズキの会社の姿勢自体が好きなのでまだ乗るだろうと思う。
(※此のテキストを書いたのは2002年だが、その後も四駆キャリイをデフロック付きのものに入れ替えたり、嫁さんがジムニーのJA12を買ったりで、軽はスズキばっかりだね。F6Aエンジンの現在12万kmを超えたジムニーのも絶好調。同エンジンのキャリイもそれなりに良いけれど、車屋さんに聞いたところによると、軽トラなどのF6Aエンジンは斜めに置かれているのでコーナーでオイル切れを起こしやすい為にジムニーほどには保たないと言われた。

 `87 KTM 250Enduro 多摩川の河原で。

 その後の1980年代は市販車も水冷になり、コーナーがメチャ速いYAMAHAのDT125水冷でTMなどのレーサーを追い回して遊んでいた。後には遊ぶ河原や山が少なくなった横浜を脱出し、埼玉の蕨と、東京の日野市へ移動。

YAMAHADT200R、Serrow225、オーストリア製のレーサーKTM250Enduro`87などで各地の草エンデューロレースで遊ばせて貰っていた。でも、一番楽しませて貰ったのは日野から八王子に掛けての多摩川沿い。練習コースもあったが、それよりも河原も広く林も多く起伏もあるので、多摩川遡行がタップリと楽しめたんだよね。

 バイクで、ジムニーで、流行始めた頃のMTBで、また犬との歩きで、浅川の合流から上流の拝島橋の先、福生方面へ。また秋川からサマーランドの方まで川を渉ったりしながら遡行出来た。
 ジムニーでの多摩川遡行はラダーレールを使ったり、助手がモンキーをやらないと難しいところが有ったが多摩川沿いを秋川との合流の処まで行けた。
 勿論、やたら地面を掘る様な走り方はせずにグリップ走行である。もっとも、この河原は台風が来て増水すれば、直ぐに地形が変わってしまう様なところだし、それよりも行政が余計な事をして自然の営みを破壊している事を見てきたからバイクのみが悪者になるのはどうかと思う。

 バイクのタイヤが削ったところからも地形が変わってしまったりするけれど、必用かどうかも疑問が残る河川の工事、河原に必用のない公園設置などの工事が行われて林や緑が取り払われて人工の設備がドンドン増えた。其処にいた鳥や獣たちの住処が無くなってしまうんだよね。十数年も同じところで遊んでいると豊かな自然が無理くり力尽くで剥ぎ取られたのを目の当たりにすることになる。

 横浜の鶴見川の河原(一番最後まで手つかずの処が残っていた亀の甲橋下流)が人工物で埋められていくのを観、荒川の河川敷(戸田橋上流や秋が瀬)の走るところが無くなるのを観、多摩川の一番自然が深かった日野から八王子に掛けての河原が陵辱されて居るのを観、そして相模川の河原が変貌していくのをズーッと観てるんだよね。ガキの頃から35年にもなる。それで思うのはバイクなどの車輌による自然破壊より、行政による人工物化の方が遙かに暴力的である事だね。だって、バイクで走っていた大地を全部削って平らにしちまうんだもの。レベルが違うでしょ。

 さあ、スーパーモタルドのレースもかなり熱くなってきて魅力的なマシンが数多くリリースされる様になった。果たしてレースに復活の日が来るのでしょうか。そして年寄りの冷や水にならないでしょうか。まあ、ボチボチとやっていきましょう。

以上


 30年以上前からのMX仲間だったハラ氏が1976年頃に撮ってくれた写真の1枚。ジャンプ撮ってやるから飛んでみなよと、埋め立てられて平らになってしまったMX練習場の盛り土の山(踏み切りが短くて鋭角の為に飛びにくい)から何度かジャンプ。そして最後には失敗し前転して顔面着地。
 それで悄気ている私をヘルメットに映し込んで撮ったもの。このヘルメット越しの姿が、わたしが持っている唯一ハラ氏が写っている写真(ヘルメット中央がハラ氏)。(^-^;;

【番外編】:こんなページをWebにアップして於いたら当時のバイク仲間から、もしかして此のページを書いたのはあの時の○○君?という確認メイルが来た。30年位前迄、新横のMX場で一緒に走っていた友達だ。なあ〜んだ、やっぱり見付かっちまったのかよお。ペンネームで書いていたのになー。尤も、奴が撮ってくれた写真も使っていたから、もしこのページをブラウズすることがあるのだったら、内容からも自分が書いている事がバレるだろーなと思っては居たんだが・・・ 長期ご無沙汰の途中、福島の羽鳥湖近くにあったハトリのエンデューロレースで再会はしていたのだが、あとはバイク雑誌でライターをやっている彼の名前を時々拝見しているだけで付き合いはなかったのだったけれど、やっぱりWebは怖いねえ。。。変な事書けないと再認識。(^-^;; かつてこのサイトの沢登りのページで滑落事故のことを書いたら、後年墜ちたご本人からメイル貰った事があるしね。。。さてさて、その友人ハラ氏はトライアルをやっている知人に、新横浜のモトクロス場のページがWebにあると聞いて検索を掛けたらしい。Web世間は狭いね。
 で、許可を貰ったのでその彼からのメイルを転記。それに補足説明を付けてしまおう。

>> ハラ→高沢 様(爆)
>> フッフッフ、御無沙汰です (^^)/
>> しんよこのページを見たときに、アレッ?この写真ってオレが撮った奴じゃん、なん
>> て思いましてね。あと、ハトリのパドックでお会いしたときに「日野」「コンピュー
>> ター屋」なんていうのを聞いていたので、多分、そうだべなと思ってメールを入れて
>> みました。

>> いやいや、86年頃の羽鳥以来ですから18年振り????
>> ハトリのパドックでは、一応お仕事中だったんで長話デキズ。その後、成田や飯倉、
>> 富士見ランドや桶川、FISCO、今年になって小湊F2なんかも閉鎖になったりで
>> OFFでは遊べませんね。
そーなんだよね〜。とメイルでハラ氏と盛り上がり、オフローダー達は行くところが無くなってモタルドレースに転向する人間が増えているという見解を聞く。でも、オフロードのレースをやっていたわけでない(転倒がそうザラではない)ロードレース派と、レース自体に馴れていない人達が多いらしく、モタードでは転倒したバイクに突っ込んだりして自爆。お互いに怪我するケースが多いらしい(ハイサイドも多いらしいが...)。
 話は変わるが、自分の前で転倒車が居た場合には、 何時までもそれを観ていたらダメなんですぜ。人間の意識下、身体反応っていうのは、観た方に引き寄せられていく(ネガティブでもポジティブでもイメイジ力の結果)ものなので、瞬間的に現状認識を済ませたら対象物(転倒車というネガティブな障害)から眼を外して、自分が逃げる道(進む道)に意識をフォーカスして(イメイジして)最低限のリスクで乗り越えられる様に観る対象を変えないといけないわけ。じゃないと不思議と、怖いと思う対象(この場合、目前の転倒車)に向かっていってしまうものなのである。
 これは交通事故にも当て嵌まるし、マクロに観れば人生での(無)意識上の選択行動パターンでも同様。


 JR横浜線中山駅の裏、三保町にあった三保ランド。元は馬場だったと思うが、車のダートラのコースに変身。借り切ってバイクのレースも出来たので、バイク屋さんやスパゲッティ屋さんが主催して草レースやって遊んでいた。わたし?わたしは毎度一等賞よ。だって、草のそのまた草レースだもん。
 此のコースは山の中にあってロケーションが良いのと、アップダウンがあるので面白かったね。この頃の市販車にはピッタリ。下の画像のバイクは、一番初期のDT200R。ウィークエンドモトクロッサーとかキャッチに有った通りの使い方? 雨の中、ぬかるんだコースの谷間への下りジャンプは楽しかったね〜。でも、其処からの登りにはスタック車が這い上がるのを苦労していた。
 三保町は緑区だが、隣の旭区の上白根町までは山続きで、オフ車で走り回るのに場所は事欠かなかった。独りでも走りに行ったし、仲間ともよく連れ立って遊びに行っていた。その当時は走るところには本当に恵まれていたね。港北ニュータウンでさえ、造成中には走り回るところがあちこちに在ったからね。

 このDTは酷使の末、段々圧縮が抜けていった。するとウッズライディングの微妙な登りの時は、正しく二輪二足で少しずつ這い上がるのにもエンジンが極低回転でも超粘った。それは、4stセローのファイナルを下げたものよりも低速で粘るので山のアタックに最適のマシンだったのだ。

>> 今は、87DT200R 86CT110が現役で、87ハスク430、95GAS
>> GAS、73ブルタコなんかの御不動様が朽ちる途中ですワ。
>>
>> HPのKTM、良い(笑) スペックの引用先の●●さんはよく知ってます。彼は9
>> 3LC4と97LC4を持ってるけど、子供が3人で●●●●相模川中心の38歳位
>> のサラリーマン。で、トシニシヤマは今年からバイクやめちゃったし〜
●●さんには、勝手にリンク張ったのでご挨拶のメイルをすることにします。それから、このページの最初の処に張ったリンクはKTMのカタログの頁へいきなり飛んでいるのでリンク先を此処に改めます。
 ●●さんのサイトのトップ頁はこちらです。“Team左キック


>> ・ツツミさんは懇意にしてもらってるんですが、最近行ってません。景気?体調?
>>  今年も国際A級250でツツミモータース看板入りのTZが2台走ってます。
横浜、小机の堤モータースは2stのクランクのバランスとりのエキスパート。2stが規制掛かって4stにみんな移行しているので偏屈職人の堤さんピーンチ。だれか仕事出して上げてくれー。

>> ・赤いDT250JRのガキが佐藤信哉なんですよ。伝説のシルバー200に最年少
>>  の16歳で出場して完走しちゃった。しんよこエライ!→その後に暴走族に
此奴、中学生の時にはYAMAHAの市販レーサーDT250JRという、YAMAHAがYZを出す前にリリースしたレーサーを持っていたんだよなあ。フレームは野口モータースが行っていたものと同じ手法でローダウン化をメーカーも行った。中学生の彼は当時結構速かったよ。口も可なりのもんだったけどね。

 下記に登場するKMCの茅野さんという方は当時有名でバイク雑誌にもよく登場していた。
 ハラ氏から当時聞いた面白い話では、ある日KMCのメンバーと林道を走っていた茅野氏がコーナーの出会い頭、乗用車と鉢合わせ。すかさずマシンをスライドさせて倒し、車の下に潜り込んだ茅野氏。
「痛え!」と苦しむ茅野氏に乗用車の運転手さんが下りてきて「平気ですか!」
痛がってブーツを脱ぐ茅野氏。靴下を脱ぐとなんと足の親指が無い。もちろん乗用車の運転手さん真っ青。「痛いよお!!!」とのたうち回る茅野氏。

 でも本当のところは、元から事故の為に茅野氏の親指は無かったんだそうだ。と悪戯が好きな茅野氏の話。その方が富士山にトライアラーで登っていたんだね。
 当時、バイク雑誌の記事では読んだ事があったのだと思う。それでバイクでの富士登山について改めて業界通のハラ氏に確認。
※KT250はKAWASAKI、RL250はSUZUKIのトライアルマシン。

>>> ・富士山にKT250で登ったのが上溝のKMCの茅野徹さん。O誌で紹介されたY
>>>  Zの原さんは、今は赤城の南面にて自給自足(家庭菜園が900坪〜)
>> O誌の記事は読んだんだと思うけど忘れちまった。
>> YZはどんなやつ?空冷、水冷、何cc?
>
>高山病症状が出てゲロ吐いたとか。76の空冷YZ250です。その後、GT250
>のエンジンを無理やり載せて走ってみたけど、無理が多すぎたようで。
>
>> 茅野さんは富士吉田側からだっけ? 登山道を登ったんだっけ?
>KT250と連れのRL250で吉田口から。1日かかったとか。
>
>> YZはどっちから登ったの? モトクロッサーで登山道は辛いよね?
>> YZの原さんはどうやって登ったんですか?
>
>太郎坊から直登。行きは1時間、帰りは馬返しで15分(笑)早朝アタックだったん
>だけど、時間が余ったんで2回目にもチャレンジ。測候所の職員が呆れて「なんだよ、
>お前らまた来たの? ん〜、出前頼めばよかったなぁ」その頃は月2回ぐらい登って
>いたそうです。ときには同行者が帰路に霧にまかれて、それでもおそるおそる降りた
>ら着いてのが富士宮だったりしたそうです(角度がほんの少し違ってただけ)それか
>らクルマを停めて事情を話し、太郎坊まで先導してもらってRMで公道を走って帰っ
>てきたそうです。そういえば測候所の建物が道の駅「富士吉田」のトナリ(チト上)
>に移設され、資料館になってます。

 勢いシートはハーレーのスポーツスター883の昔のタイプが手元にあったので、それをCT110に付けてみた。見た目に違和感はない。そのシートの長距離試乗ついでにGFを後ろに乗せタンデムで道志の413号を抜け山中湖手前の平野廻りで三国峠の処にCTを置き、それから足でゆっくり明神山に登ってきた。残念ながら富士山は雲の中。帰りは道志の湯で温泉に入りゆっくりする。それで峠道を往復してみて883のシートはCTには合わない事を確認。ステップの位置が手前気味なのか膝が下がるので、内股は当たるしズボンが攣れて大事なところに圧迫感があるしで結構辛かった。座る位置の自由度が少ない合わないシートでは無理が股下を圧迫する。アンコを改造するか元のシートに戻すか?
 883のシート自体は、ドリルで二つ孔を開けるだけで、あとはボルトナットのところで工夫すれば割と簡単に付く。
 燃費は非常に良いみたいで、家から明神山往復を二人乗りでしても、タンクの4.5リットルは使わなかったみたいなので、リッター当たり20km近くは走っているかも。

 そういうことをおやりになった方が、今は家庭菜園で自給自足の生活!わたくしめも至らぬながらバイクで富士登山してナチュラリストに開眼し(似非?)、自給生活の準備段階。ホラ、宇宙に出た飛行士には、宇宙空間で神を感じたという人も多いじゃないですか。それかなあ。富士に登ると地に足が付いた考え方が出来る様になるとか?
 でも、宇宙に出た宇宙飛行士には精神異常になる人も割と居るみたいだしねー。。。取り敢えず、、、、わたしはギリギリのところで踏ん張っています。(^o^;;

 何れにしてもやるときゃ或るレベルまではやりきらないと、先が見えないし、大転換もきかないのよ。机上の理屈や建前で能書き垂れている(自分の本心を風呂敷包みに刳るんで脇に置いて)事を自分自身で自覚出来ない偽善者が一番タチ悪いんだよね。ああ、楽しい時代を過ごせて幸せだった! なんて開き直って...どーするんだ。

 以上

更におまけで番外編を追加:
☆『ハンターカブCT110が我が家に!』---サンキュウ、キュウちゃん

 道志川の源流に近い方。山伏峠手前の河原で。
 もうこの歳になるとバイクで川を渉るなんてお茶目はやらない。エアクリーナーダクトがリアキャリアの処にあるCTだとしても、ただでさえ錆びてボロボロの此のバイク(CTのメッキや塗装が良くない事と共に横浜は酸性雨の濃度が濃いんだってさ)に追い打ちを掛ける様なマネはやらないくらいには賢くなった

`04/7/15追記:そのハラ氏が持ってきた`86USA仕様CT110オンボロバージョンが右の写真。
 ハラ氏がCTを持っているって言うので、わたしが物欲しそうにしていたら、メイルでCTの程度をアナウンスしてきた。それで、お金は有る時払いの催促無しだったらいいけどって声高に言っていたら、ある日突然CTを持って家にやってきた。
 此のCTあちこちがやれているが、走って止まるのには問題ない。取り敢えず動く。でも、あちこち不備があるので、今後かなり整備の手を入れないといかんなあと思っているところ。

 ハラ氏には前記のKTM LC4に追金を少しくれれば昔お世話になったお礼にお安くCTと交換してあげるよと言ったのだが、今手持ちが無いという。お互い貧乏はいやだねー。ところが、KTMを早く横浜まで持って来いと言っている。さては乗るだけ乗ってKTMを売り飛ばすつもりだな。(^-^;; 儲かるなあKZ! その前にこっちでLC4売り飛ばしちまうかな。どーする? ハラ氏がKTMの追金を払うのが早いか、誰かが買って行ってしまうのが早いか。売れなかったら、また車検を取って乗り潰すかな。どーするべー。一般公道ではCT110の様なノンビリしたバイクが自分には合っているなあ。過激な乗り物はサーキットで乗るだけが平和かも・・・

 更にCTの良い点は、シーソー式のシフトペダルだ。登山靴でもサンダルでもシフトに困る事はないし、親指の甲の部分を痛めなくても済む。履き物を選ばないバイクっちゅうのは便利だね。登山に沢登りに山菜キノコ採りに河原でのエビ採りにもCTが活躍か。神奈川県は林道に立派なゲートが出来ている上に、その行き止まりの林道脇の駐車スペースに困る事が多いからこういうバイクは意外と便利なんだよね。
 昔、カブの90と50を貰って乗っていた事がある(何故かホンダのバイクはお金出して買う気にならなくて...)。両方とも河原の土手を横や斜めにも自由自在に走り回ったし、田圃の畦道でも前後タイヤをドリドリしながらカーブを曲がっていた。2台ともステップは固定の太い鉄の棒にゴムステップが挿してあるだけだからバイクが寝ると前後タイヤとステップの鉄の棒で三点支持になりながらコーナーを曲がるんだよねー。でもアスファルトでそんな事をするとステップが火花散らしてスパッと滑って持って行かれてカブが後ろ向きに半回転して転倒するので逆にステップがジャマなんだけどね。カブ90は実用的で良い足代わりだったし結構速かったからね。でも、トレーリングアームのFサスと非力なFブレーキが怖かったので此のCTではとても安心。でも、アップのエキパイとサブミッションのせいでステップの幅が広いので違和感があるがそれは仕方がないか。。。。。by Recycler

 

☆サイト内関連ページ☆
・ヴィンテージMX&ヴィンテージガレージライフ・・・バイク仙人の館、探訪。“蘊蓄オフロードバイクジャーナリスト、HaraQzo氏の秘められた生活”`08---36年位前に新横浜駅近くにあったモトクロス練習場で一緒に走っていた仲間、hara氏。ヴィンテージモトクロッサーとヴィンテージトライアラーに囲まれた生活、そのhara氏のヴィンテージなガレージライフを覗く。---`08/5/5
・ヴィンテージモトクロスの風景2007年4月版:旧友がヴィンテージモトクロスにエントリーしているというので見学してきた。すわ!病気再発か?`08/6
・スーパーモタルド(昔、あめりかでスーパーバイカーズと言っていた)`02 & おまけ:『1970年代のオフロードバイク事情:新横浜モトクロス場編』+『ハンターカブCT110が我が家に!』---CTがやってきた経緯 `04
・CT110ハンターカブのその後---整備と部品交換。たかがCT、されどCT。足(たる)を知れと言われても..`05---いい加減な整備とパーツ交換でも相当に調子よくなってしまい、、、ノンビリ走る為の足代わりどころか、遅い車が走っていると捲りだす始末(^-^;;---`05/8/吉日.
・新規格以前の四駆軽トラのお薦め---其の一。身も心も軽く、農的生活には四駆軽トラ。良い“足”を手に入れる。って、ちょっと一般的でない角度からの道具としての四駆軽トラの見方。なんでそんなページまで作るかなぁ・・・`04/12/3
・新規格以前の四駆軽トラのお薦め---其の二 ---スピリチュアル軽トラ-ライフ。良い“足”を手に入れたら---`05/1
・手打ち鉈他、造林用の良い道具類を手に入れる`01/2---刃物は使ってなんぼ。使わなければ良さは解らない
・良い“箕”を手に入れる?---を追加。昭和28年より前の箕をリサイクル屋さんで手に入れたのだが、もしかして漂白の民と言われるサンカの人達の作ったもの!と期待したのだけれど。。。「手打ち鉈他、造林用の良い道具類を手に入れる」の追加記事内の続編--`04/10/9
・肥後の守の使い易い点?---家の近所の金物屋さんに寄ったら肥後の守で竹とんぼを作っていた。切り出し小刀などより意外と使い易い肥後の守の形状とは???って、大したことではないのだけど取り敢えず書いてみました。(^-^;;--`04/12/5
・東京マタギ、ナイフメーキング教室?`06/3:熱可塑性樹脂カイデックスを使ったシース(鞘)作り& 山菜キノコ採り教室の風景
・小さいけれど本物。ミニ沼田鉈「鍛冶屋の誇りが籠もっている鉈?」`06/8---“趣味のミニ鉈”とは書いてありますけれど
・東京マタギ深瀬教室の仲間とのキノコ&蕎麦の会 `07/11/20---裏々キノコ教室:性格悪い奴はキノコ採れない伝説。楽しい仲間とのキノコ採りの風景と、少しばかり美味しく出来るようになった蕎麦打ちのプチ自慢。性格悪い奴ほど能書きが多い!!!って、、、誰のこと?
・“山仕事の道具と技術、智慧は、自給と自衛の基本”(社)全国林業改良普及協会刊 森と暮らすNo.2「ノウハウ図解山仕事の道具」(`08/6/10発行)のお薦め-----自給自足、半農半X、田舎暮らし、農的生活指向の方々に必須? 自然と共に暮らそうと思ったら山と木々があってこそ。本書は、山主や林家向けの入門編の本だが、山の作業と道具に関わることから安全管理まで全てを網羅している。当サイト管理者も、鍛冶屋の智慧や、道具類の修理修復、熱可塑性樹脂カイデックスを使った鉈や道具類の鞘(シース)作りのページを70頁ほど書かせて貰った。実践的な智慧が籠もった本なのでお薦めする。---`08/6/11
・騙された渓(メタボリック沢登り)ぎょうじゃにんにくぎょうざはどうじゃ?の巻 2008年7月:沢には原初の汚されていない美しい風景があり、そして美味しいものが沢山ある。天気にも恵まれ、楽しい仲間たちと行けば、それは天国さ。それにしても荷物重てぇなあ。一泊なのになんでこんな荷物背負ってるんだろ。足下が良きゃいいけど、ちょっと滑ったら滑落だぜ。俺等なんか勘違いしていないかなー。


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