原始・古代から平安時代
鎌倉・南北朝時代
室町と戦国・安土桃山時代

鎌倉・南北朝時代

鎌倉幕府成立後わずか7年で頼朝は世を去ります。頼朝の死後頼朝の家臣であった人々の権力争いが始まります。 13人の合議制にはじまる梶原景時の乱、 頼家と関係した比企能員の乱、そんな中に畠山重忠も北条時政によって 謀反人にさせられ重忠の嫡男重保はじめ郎党ことごとく殺されてしまいました。この事件は北条時政・義時父子の 対立の一つと考えられています。重忠が 討たれたその夜には時政と一緒になって重忠を鎌倉におびき寄せた稲毛重成が、 責任を追及されて三浦義村に殺されています。結果時政も鎌倉から 追放されることになりました。その後、 父時政を追放した義時は侍所別当和田義盛も 葬らせてしまいます。そして実朝暗殺とこのあたりの事件は黒い ベールに隠された謎が多くしそんでいますが最終的に義時が 北条執権政治を確立するのでした。

1221年後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発します。いわゆる承久の乱ですがこの鎌倉幕府最大の危機に 鎌倉方は上洛して朝廷を攻めるか、 あるいは足柄・箱根あたりで朝廷軍を迎え討つか意見がわかれました。 この時北条政子は武蔵の武士達にT上洛せずは、更に官軍を敗り難きかUと上洛を勧め幕府の方針は上洛に決定しました。 この戦で武蔵の国の武士達が数多く参戦しています。 上洛軍のうち東山道軍は鎌倉街道上道をおびただしい兵馬が通ったことでしょう。 承久三年の宇治河合戦では県下の武蔵武士たちは勲功を挙げその名を都人に知らしえたことでしょう。宇治河合戦交名に見られる 諸氏だけでも秩父氏、小代氏、河越氏山口氏、須黒氏、成田氏、猪俣氏、金子氏、仙波氏、安保氏等々。


承久の乱以後、北条泰時が政治改革を行ないました。連署、評定衆を置き、1232年に最初の武家法典「御成敗式目」を 制定したのでした。五代目の執権北条時頼は対抗勢力である 三浦氏を滅ぼし、これは宝治合戦といいますが時頼は専制の 土台を作り上げるのでした。その後時宗貞時と執権北条氏の専制体制が続きますが2度にわたる元寇の以後、 幕府の専制体制はゆらぎはじめます。この間御家人に人望があつかった 安達泰盛が滅ぼされる霜月騒動などが起こります。 御家人の窮乏により御家人が幕府から離反するようになり、 北条貞時徳政令などで御家人貧困を一時的ではあるが 場しのぎをするのでした。そんな中公家勢力の分立、 得宗専制体制の強化等が幕府滅亡の引き金となります。

鎌倉時代は日本の歴史の中でも政権が貴族から武士に変わった時代です。社会制度が改まったように宗教や文化の面でも大きな変革がありました。中でも仏教に関しては鎌倉新仏教と呼ばれる宗派が登場してきます。平安時代末期に法然により浄土宗が開かれた後に鎌倉時代始め頃に親鸞浄土真宗を広めます。一方建久2年(1191)に宋より帰国した栄西は禅宗である臨済宗を広めます。鎌倉時代半ば頃には道元が同じ禅宗の曹洞宗を広めています。当初栄西の禅思想は布教を禁止させられますが、執権北条時頼は宋より蘭渓道隆を招き旧仏教から完全に独立した最初の禅宗寺院である建長寺を建立し臨済禅は権力者に受け入れられ京都・鎌倉に五山の寺院が建てられます。そんな中で建長年間頃に日蓮日蓮宗を説き『立正安国論』を掲げます。これは権力批判と解され文永8年(1271)に佐渡に配流されてしまいます。この時、日蓮が佐渡へと向かった道が鎌倉街道上道であると伝えられています。上道の各地には日蓮の伝承が多く残されています。そして鎌倉街道でもう一人忘れてならない一遍時宗があります。鎌倉街道上道沿いには時宗の寺院が数多くあります。その総本山が藤沢の遊行寺です。又同寺の所蔵する『一遍上人絵伝』には上人の勧めで大勢の人々が道普請に従事している模様が描かれていて街道研究の重要な資料ともなっています。


1324年後醍醐天皇は倒幕の計画を企てていましたが、六波羅探題に漏れ失敗に終わります。この事件は「正中の変」といいます。 その後も天皇はあきらめず、再び「元弘の変」で倒幕に失敗します。二度の倒幕に失敗した後醍醐天皇は隠岐に流されてしまいますが、 天皇の忠臣楠木正茂護良親王が挙兵し、各地で反幕府勢力が蜂起します。後醍醐天皇は伯耆の名和長年をたよって脱出した後、 幕府の源氏一族の御家人足利高氏は幕府に反旗をひるがえし 六波羅探題を攻め落としました。その頃これも源氏一族で上野国の御家人、 新田義貞が倒幕の挙兵をし鎌倉街道上道を鎌倉へと攻め上ります。義貞は小手指原で幕府軍を破り、 分倍河原でも勝利しそのまま鎌倉を めざし1333年、時の執権北条高時ら一族280名あまり東勝寺で自害しここに鎌倉幕府は滅亡しました。


その後後醍醐天皇による建武の新政が始まりますが、しかしこの政策は武士をはじめ公家また農民にまで不満をつのらせる ものでありました。そんな中、北条高時の子時行が鎌倉幕府の再興を 期して信濃から兵を従えて鎌倉街道上道を鎌倉目指して攻め上り、 鎌倉を占領する中先代の乱が起こりますが、これは一時的なものでした。足利尊氏はこの乱を鎮圧した後、天皇の建武政権に 反旗をひりがえします。後醍醐天皇は新田義貞を大将に尊氏追討を行いますが 湊川の戦いで楠木正茂と新田義貞は破れてしまいます。 尊氏は持明院等の光厳上皇の院宣を得、後醍醐天皇は吉野に逃れ南北朝の対立へと拡大します。このころ足利尊氏は征夷大将軍に 任ぜられ室町幕府が成立します。

尊氏・高師直足利直義の争いである観応の擾乱の後関東では南朝の宗良親王をいたたく新田義興・義宗らが挙兵し、 尊氏・高麗経澄軍と鎌倉街道上道沿いで両軍の戦いがつづきますが 高麗原・小手指原の戦いで尊氏方が勝利しほぼ決着をみます。 この戦いの最後の戦場地とされるのが鳩山町の笛吹峠です。ところで室町幕府の政治機関で関東を統治する鎌倉府が置かれたことにより 鎌倉時代以後もしばらく鎌倉はやはり関東の政治的中心であったことから鎌倉街道は重要な交通路には変わりなかったのです。 鎌倉府の首長は鎌倉公方と呼ばれ始め足利尊氏の子基氏が任命されます。 その頃はまだ、南朝の新田氏らと鎌倉街道上道沿いで 鎌倉公方と衝突がつづきます。入間川辺は両軍が衝突する要衝の地であったので、足利基氏はこの地をおらえるためしばらく ここに移りすみます。これが入間川御所と呼ばれるものです。 1365年下野の宇都宮氏の家臣、越後守護職芳賀禅可入道高名は 守護職を免職された不満から鎌倉公方基氏と対立し現在の毛呂山町の 苦林野で合戦となります。禅可の子二人が率いる芳賀軍は 小人数ながら勇敢に戦いましたが一族の多くを失い敗北してしまいます。 南北朝のさなかその危機を乗り切るために幕府は 半済令なるものを出します。これによって守護が国内の荘園・公領の年貢の 半分を兵糧米として徴収し、それを家臣の国人などに 分け与えます。そして守護は国司の権限を奪ってゆき国全体を支配する 守護大名へと成長していくのです。後の戦国大名の中には この守護大名から出ているものがあります。

武藏国における南北朝の対立は応安元年(1368)の武藏平一揆の乱を最後として終わりを遂げます。この反乱は越後と上野で挙兵した新田氏に応じて、武藏国の河越・高坂さの平氏が河越を中心におこした反乱でした。南北朝以後関東では前述のとおり鎌倉府がおかれその補佐役として関東管領がありました。先の苦林野の合戦で敗退した 芳賀禅可は越後国の守護でしたが基氏によってその守護職は上杉憲顕が 勤めるようになり関東管領にも任命され以後関東管領は 上杉氏が勤めることになります。上杉氏の中にあって山内上杉氏は守護として上野国を本拠地としていたため、鎌倉と上野国を 結ぶ鎌倉街道上道は後の公方足利氏と関東管領上杉氏争い、 あるいは上杉氏内部の争いで合戦の舞台となることが多かったのです。 都では足利義満が将軍の時が室町幕府の最盛期でした。南北朝の合体、三管領・四職の制と。

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