道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 毛呂山・川角・苦林野  ◆◆◆◆◆◆

延慶(えんきょう)の板碑

この板碑には私は随分と苦労させられました。板碑を探して初めて訪れた時は、場所がわからず諦めて帰りました。その後、3度目にしてようやく発見することが出来たのです。この板碑まで案内してくれた地元のおじさんは、特別に強い印象が残っています。自力では見つけられないと畑仕事をしていたおじさんに板碑のことを尋ねました。そのおじさんは時代劇に出てくる侍のように「ちょんまげ」をしていたのです。今時に珍しい髪型だと思いましたが、そのおじさんは親切で、わざわざこの板碑の前までつれて来てくれたのでした。この板碑は3メートルもある大きなもので、もとは近くの崇徳寺跡にあったそうです。延慶の紀年銘が刻まれていることから「延慶の板碑」と呼ばれています。元の板碑の立っていた所を発掘していて、2個の古瀬戸の瓶子が発見されています。一つは空で、もう一つには火葬骨が入っていて、しかも火葬骨には刀傷の痕があったそうです。板碑が墓塔として建てられた例として注目させています。

毛呂山町川角の越辺川近くにある延慶の板碑

下の写真は毛呂山町大類の道端にある神明台の庚申塔、馬頭観音、及び板碑などです。この辺りの畑の中には、ところどころに小型の古墳があるのが確認できます。東方の山林の中にある十社神社辺りにかけて大類古墳群があり、この付近はかって塚原と呼ばれていたそうです。今は晴れた日には西に秩父の山々が望め、のどかな風景が広がるところです。この北側一帯は南北朝時代に合戦が行われたところで、苦林野古戦場跡地と呼ばれています。県道玉川坂戸線のガソリンスタンドの近くの小川の橋は古戦場橋と呼ばれています。

大類の石仏類(この付近が苦林野古戦場跡地)

苦林野古戦場碑

県道玉川坂戸線近くの塚原古墳群にある前方後円墳の墳丘上には、苦林野古戦場碑が立っています。ここは北朝貞治2年(1363)に、鎌倉公方足利基氏の軍勢三千余騎と、下野の豪族芳賀入道禅可の軍勢八百余騎とが戦った古戦場です。太平記の中にも語られていて、戦いがあまりにの激戦で、多数の戦死者が出たといわれています。後世の文化10年に、戦死者の霊を弔う追悼碑がここに建てられました。芳賀氏は天武天皇の皇子の系統であった清原氏に始まり、代々朝廷に仕え、平安時代中期に下野へ配流後、芳賀氏を名のったとされています。南北朝の時に宇都宮氏と供に北朝につき、観応の擾乱の時に直義軍を破り、功労で越後国守護に任命されますが、公方基氏が越後国守護を上杉憲顕に任命したので芳賀氏は不服とし戦になったといいます。古墳は戦の時に物見塚として使われたと伝えられています。

苦林の前方後円墳上にある苦林野古戦場碑

毛呂山町を流れる越辺川近くの鎌倉街道上道は、越辺川が幾度と氾濫を繰り返し、現在はその道筋を正確に辿ることは出来ません。毛呂山町の大類グラウンド脇の道から、鳩山町今宿の西側辺りを繋いでいたと『歴史の道調査報告書』には書かれています。私が鎌倉街道上道に興味を持ち始めた頃、毛呂山養護学校傍の越辺川に架かる橋の対岸に、ゴミ焼却施設の不気味な煙突が立っていましたが、いつの間にか、その煙突は取り壊させたようです。またこの付近には乗馬場があります。話によると越辺川は以前は鮎もいた綺麗な川であったといいます。越辺川左岸の渡河地点には幾つかの説があるようですが、その中のひとつには、かって「コークミ」と呼ばれた掘割状遺構の一部が残っていたところがあったようですが、現在ではその「コークミ」とも、どの辺りだったのやら、昔話になってしまいました。

越辺川西岸の水田地から奥武蔵の山並みを望む

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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