道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 川越・池辺  ◆◆◆◆◆◆

所沢市内の上道の本道から分岐した堀兼道は、現在の西武線新狭山駅付近で幾つかの道筋に分かれていて、どの道筋が本来の堀兼道の続きなのか現在までの調査研究ではっきりしていないようです。川越市の大袋新田の遺構と思われるところを通った道筋は、池辺宿中を通り、小ヶ谷の最明寺の近くを抜けて、初雁橋辺りで入間川を渡ります。その先は河越館跡へと続く道です。『新編武蔵風土紀稿』の大袋新田の項に「略、馬綱の村にて東は河越、西は入間川村への綱立をなせり、又古老の傅へに鎌倉の古街道なりとて、村の西端に近き頃迄少しく道の形残りしが、今は畑となりて其蹟は失へりと伝」とあります。この頃すでに街道跡も畑となってしまっていたということのようです。左の写真は大袋の東陽寺より南の道端にある石地蔵尊で江戸時代のもののようですが旧街道が通っていたことを偲ばせてくれるものです。

川越市大袋の東陽寺より南の地蔵尊

先のページでも触れたように、堀兼道の前身は古代の東山道武蔵路であったとする説があります。堀兼道は所沢市内で上道から分岐して、川越市大袋新田の遺構迄は地図で見る限りは殆ど直線で繋がっています。また川越市的場には現在は開発で消えた女堀遺跡というのがあって、南北に大きな堀の跡が発掘により確認されています。その堀は東山道武蔵路の側溝の跡とする説もあるようです。堀兼道の直線を更に北へ伸ばすと、坂戸市石井の勝呂廃寺跡や東松山市野本の将軍塚古墳などと繋がるのです。これら古代の史跡を直線で結ぶ掘兼道は、鎌倉街道というよりは、古代の道そのものだったのかも知れません。

東陽寺の門

池辺熊野神社と梶原淵

川越市大袋の東陽寺は曹洞宗の寺院で山号を孤峰山と称します。この寺の西側を通り寺の北側で東に折れ池辺の鎮守熊野神社前に至る道が鎌倉街道と伝えられて来ているようです。左の写真は東陽寺の西側を通った後に東に折れ熊野神社前に向かう道です。熊野神社のすぐ裏側には北東に向かう小道があり、その道沿いに梶原淵と呼ばれる弁天池があります。池辺の地名は昔ここに大きな池があったことから来ているといいまが、梶原淵はその大きな池の一部が残ったものだと伝えています。その淵はその名の示すように、源頼朝の参謀であった梶原影時が、この村の池で馬に水を与え、脚を洗ったという伝承から名付けられたそうです。しかし何故この地に梶原影時が登場するのか詳しいことはわかりません。

川越市池辺の熊野神社近くの道

石橋山の戦いで敗戦した頼朝は、土肥実平らと供に洞窟に身を隠します。しかし大庭の兵に洞窟の中を見つけられたのでしたが、その兵は中には誰もいないといい、頼朝は難を逃れたといわれます。その兵こそが梶原平三影時だったのです。梶原影時は鎌倉幕府創立当時に頼朝に仕えた側近の一人です。しかし彼は嫌われものとして見られることもあるようです。よく知られた話として、頼朝に義経の行動を悪く讒言した人物が影時で、それが為に兄頼朝に義経は討たれたという見方があるようです。また無実の罪で殺された上総介広常を殺害したのも頼朝の命とはいえ影時でした。結局、彼は頼朝亡き後、結城朝光が忠臣は二君に仕えずといった事を頼家に讒言しようとして、その他の御家人達からも嫌われ、鎌倉から追放されることになるのです。何かと悪役ばかりが目立つ人物ですが、政治的、策略的に優れた武将であったことは間違えありませ。

池辺の熊野神社

後世に梶原影時が悪玉とし、畠山重忠が善玉として語り継がれて来たようです。影時と重忠の対比として次のような話があります。文治5年(1189)に奥州の藤原泰衡を攻めた時に泰衡の郎従由利八郎が捕らわれます。宇佐美実政と天野則影が捕らえたのは我と双方主張し合ったので、頼朝は影時に命じて由利八郎に尋ねさせました。しかし影時の態度が無礼千万であったので、由利八郎は怒って返事をしませんでした。影時は真っ赤になって頼朝にその事を話すのですが、頼朝は今度は重忠に尋ねさせます。重忠は捕虜とはいっても礼儀正しく、敷皮を譲っておだやかに尋ねたので由利八郎は正直に答えたといいます。このような話は後に影時が悪玉とされ、重忠が善玉とされてきた過大評価につながったものなのでしょう。

熊野神社裏の「景時駒洗いの池」

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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