道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 川越・河越館跡  ◆◆◆◆◆◆

河越館跡

河越氏は平安時代の末に秩父平氏を祖とする重隆がこの地(河越館跡)、現在の川越市上戸に館を構え、河越氏を名乗ったことに始まるとされています。12世紀中頃に、京都の新日吉社に河越荘を寄進し、代々その荘官として勢力を振るいました。河越氏は武蔵の国の中でも畠山氏や江戸氏と並び武蔵国府の在庁官人を統轄する留守所総検校職を相伝した有力武士でした。現在の河越館跡は国指定史跡になっていて、近年史跡整備に向けた発掘調査が行われ、平安時代末から戦国時代に至る館の移り変わりが明らかになってきています。

川越市上戸の河越館跡

現在の河越館跡に建つ常楽寺は、鎌倉時代の後半に開かれた時宗の寺です。後に時宗15代上人尊恵(そんね)が訪れ、「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と書かれた念仏算を配り大勢の人々で賑わうこともあったといいます。

館跡から出土した遺物として注目される物は中国製の白磁・青磁と呼ばれる磁器の破片、瀬戸焼・渥美焼・常滑焼の土器片、特に大阪府枚方市楠葉で焼かれた瓦質の焼物片では、東国で出土した瓦器坏として、特別な宴や儀式のために西国より取り寄せられたものと考えられ、東日本全体でも鎌倉以外はほんの数例しかないそうです。また「かわらけ」と呼ばれる素焼きの皿は宴や儀式の場で使い捨てられた物で中世を象徴する器です。

河越館跡の常楽寺

下の写真は館跡西北に残る土塁です。発掘場からは入間川につながると思われる大堀などが検出されています。入間川岸にあるということで、舟による物資入出が行われた可能性があります。又発掘すると縦横に掘が出現し後世に幾度となく堀が掘られたことが確認されています。その他発掘調査では常楽寺を取り巻くように15・16世紀代の墓が発見され、多数の板碑が出土していて、この当時に寺を中心に板碑が立ち並ぶ葬地の景観であったと考えられています。これらの板碑の多くは井戸や掘、墓抗に投げ込まれ状態で見つかっているようです。

ここより西にある京都の新日吉社を勧請したという現在の日枝神社の前を鎌倉街道が通っていたといいます。この道は堀兼道を延長したもので、川越市の広谷から坂戸市の青木、塚越、赤尾を通り、東松山市の古凍に続いていた道てあるといわれています。

河越館跡の土塁

治承4年(1180)、源頼朝の挙兵に当たり河越重頼は最初畠山重忠らと共に敵対しましたが、長井の渡で頼朝に服従を誓いました。その後重頼・重房は木曽義仲追討のため京に上り範頼・義経と共に院の御所六条殿に駆けつけています。更に重頼の娘は義経と婚姻関係を持ちますが、頼朝と義経の対立から義経縁者である事が禍いして、重頼らは滅ぼされてしまいます。河越氏の勢力は一時衰えますが、鎌倉時代中期には、高野山に町石を建てたことで知られる経重の頃には勢力を回復します。南北朝の応安元年(1368)に河越氏や高坂氏らの「平一揆」が河越館に立てこもり、鎌倉府に反旗を翻しますが、あえなく敗れてしまいます。これ以後河越氏は政治の舞台から姿を消すことになります。

河越重頼・源義経・義経正室の供養塔

追記・・・・・・・・
このホームページ作成当初からそれ以降に、河越館跡では幾度も発掘調査が行われ、遺跡の特徴が徐々に明らかになってきています。平成21年11月に「国指定史跡河越館跡史跡公園」が開園して、常楽寺の北側・上戸小学校の西側に、発掘調査で見つかった堀などが復元されています。河越氏の時代(中世初期)の遺構は上戸小学校からその西側へかけての範囲で確認されているようです。上戸小学校内に資料展示室も設けられ、発掘で出てきた土器や陶磁器などの遺物も展示されています。 常楽寺の境内には河越重頼・源義経・義経正室の供養塔があらたに建てられ、さらに河越館跡活用事業として、年に一度(11月頃)史跡内にて「河越流鏑馬」が行われるようになりました。

河越館跡と常楽寺

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

PAGE TOP