道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 児玉・玉蓮寺・八幡神社  ◆◆◆◆◆◆

児玉町の鎌倉街道上道はJR八高線児玉駅近くの西側街中を通っています。陣街道から小山川を渡った街道はコンクリート工場のある対岸から西北に向かう細道がそれであるといいます。しばらく進むと街中を通る旧国道にでます。その旧国道を西へしばらく進むと右手に折れる小道があり、その小道の手前で下の写真の赤い鳥居がありそこは稲荷神社です。奥の方にあるお堂は地蔵堂と下八幡社で地蔵堂の中には鎌倉時代末期頃の地蔵菩薩蔵があり、また天文2年(1533)の銘のある鰐口も保管されています。

児玉町稲荷社と下八幡社・地蔵堂

身馴川を北へ渡ったところに下八幡社がかって存在していましたが川の氾濫により現在は地蔵堂脇に移されたようです。ここの稲荷神社や地蔵堂がある付近は鎌倉街道上道と上杉道の分岐であったようです。上杉道は児玉で上道から分岐し西へたどり新宿付近で神流川を渡り上杉氏居城がある平井(群馬県藤岡市平井)へ向かう鎌倉街道のひとつです。

稲荷神社の裏手を抜けて北に向かう小道は鎌倉街道らしい雰囲気のある細道です。この先でやや広い通りにでてそこからさらに北に向かう道が駅前まで続く旧街道です。そのあたりの旧街道西側には日蓮上人ゆかりの玉蓮寺と東石清水八幡社があります。両寺社とも鎌倉街道上道と深い関連のあるところです。

児玉町稲荷社裏の旧街道

東石清水八幡宮

この八幡社は平安時代後期に源頼義、義家親子が奥州征伐に向かう途中この地に立ち寄り、帰陣のさいに再びここに立ち寄り、社殿を建立し京都の石清水八幡宮を勧請したと伝えています。境内には江戸時代の高札場跡があり以前は街中にあったものだそうです。現在の社殿は本殿・幣殿・拝殿が連結した複合社殿です。また青銅制の鳥居は下野佐野天命の鋳物師により鋳造されたもとだといいます。境内には鯉が沢山泳ぐやや大きめの池があります。

東石清水八幡神社

玉蓮寺境内の一角に日蓮上人御足洗の井戸と呼ばれる井戸があります。文永8年(1271)に佐渡に流罪となった日蓮上人は鎌倉から鎌倉街道上道をたどりここまでやってきました。この土地に館を構える児玉六朗時国は彼の邸宅を日蓮上人に宿として迎えたそうです。そのときに日蓮上人はこの井戸で御足を洗いになられたと伝えています。

玉蓮寺の日蓮上人御足洗の井戸

玉蓮寺

玉蓮寺は前述のとおり日蓮上人が佐渡に流罪となったとき児玉六朗時国が彼の邸宅を宿として日蓮上人を迎えそのときに時国は日蓮に帰依していたとされます。上人赦免の折りには鎌倉に帰る途中に再びここに立ち寄り時国は上人を武蔵国久米川宿まで見送っていたそうです。時国は上人入寂後、家の傍らに草堂を建て自ら日蓮の像を刻んで拝し、その後邸宅を寺院としたのがこの玉蓮寺であるといいます。

玉蓮寺

玉蓮寺境内には新しい日蓮上人の像があります。日蓮という人は日本史で習う鎌倉新仏教のひとつ日蓮宗を開いた人であることは知られています。しかしなぜ上人が佐渡に流罪となったのかその経緯は彼の著書『立正安国論』が書かれたことから迫害を受けるようになったということです。他の宗派の批判や国家論を説いたことから殺されかけますが不思議と難を逃れ佐渡流罪ということになったといわれます。そして佐渡流罪中に『開目抄』を書き永遠に目覚めたということです。

玉蓮寺境内の日蓮上人像

玉蓮寺境内には西側と北側に墓地があり寺の東側から北西に向かって鎌倉街道上道が通っています。寺の境内には墓石や石塔が多く散在しています。本堂裏手の北側の墓地に下の写真の大きな板碑があります。高さ2メートル超え釈迦如来を示す梵字が刻まれ、嘉元2年(1304)の紀年銘と一千部の法華経を読誦して地主4人の冥福と塔婆を建てた者達の功徳を願って建てた旨が刻まれているようです。この板碑は造立の目的を具体的に知ることができる貴重なもののようです。

玉蓮寺墓地の板碑

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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