道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 神川・元阿保  ◆◆◆◆◆◆

神川町を通って群馬県の藤岡市に至る鎌倉街道上道は幾つかの道筋が伝えられています。その内もっとも本道として有力なものは八日市の熊野神社南の分岐点で西側の道を行き八高線の西に出て神川町役場の南を通り肥土付近で神流川を渡るルートです。そしてもうひとつは元阿保を通るルートがあります。この道は熊野神社南の分岐点を東に行き現在の国道254号線にでてさらに八日市の信号を左に曲がり元阿保に至るものです。この道は先の肥土付近で神流川を渡河するルートよりも道沿いに石塔類や石仏も多く近世の川越・児玉往還でもあります。

神川町元阿保の阿保氏館に向かう街道

阿保氏館跡

神川町元阿保には阿保氏という武蔵武士が住んでいました。阿保氏は武蔵七党の丹党に属していました。現在阿保氏館跡付近に下の写真の小さな社と説明案内版があります。館跡は発掘調査で堀の一部や井戸跡等が確認されています。現存する館の遺構は堀と推測される用水路が見られるのみですが阿保氏館跡の西側一体の街並はいにしえの趣を感じさせてくれます。ただここを通る街道は館跡を突き抜けることになり、鎌倉時代の中世初期の道と考えるには疑問も残るようです。

阿保氏館跡付近

産塚

阿保氏館跡の北に産塚と呼ばれるところがあります。現在そこには石碑と小さな祠があります。その昔、阿保の館が児玉の秋山の豪族に攻められました。そのとき館主の正妻は井戸に身を投げて自殺しました。身籠もった側室は捕らえられこの塚まで連れてこられて生きたまま埋められてしまったといいます。その後この塚の近くに幽霊がでるという噂が立つようになりました。その幽霊は赤子を抱きながら「この子にお乳をやってもらえませんか」と人に頼むのだそうです。人々は恐れ塚に産八幡様を祀り側室と赤子の霊を慰めたそうです。それ以来幽霊はでなくなったといいます。

元阿保にある産塚

阿保神社

阿保神社はもとは六所明神と称していました。阿保氏館跡から少し北に行った道沿いにあります。阿保氏は鎌倉幕府の有力御家人で北武蔵のこの地を本拠地として活躍していました。阿保氏に関しての資料としては、承久の乱の時に北条義時は箱根・足柄の両関を固めて官軍に備えるか、それとも上洛すべきか迷っていたとき尼御台(北条政子)は、武蔵の豪族阿保刑部丞実光をはじめとする武蔵国勢の到着を待って至急上洛するように進めたという話があります。また元弘3年(1333)の分倍河原の合戦のとき幕府方に付いた阿保道堪父子が新田軍より大将の北条泰家を守るためにしんがりを務めて関戸で討ち死にした話があります。

阿保神社

丹党の阿保氏をはじめ武蔵七党とは武蔵国を本拠として活躍した同族的武士団の総称です。武蔵七党が歴史に登場してくるのは前九年の役のとき横山党の経兼・忠兼兄弟が源義家に従い軍功があったこと、また野与党の恒永も陸奥の合戦で源氏に従軍して戦死している等、この頃までに武士として成長し清和源氏とのあいだに封建的主従関係が締結していたようです。武蔵七党の先祖は国司として赴任してきた人達などで、現在の警察のような検非違使、押領使、追捕使などは国司が兵仗したものです。彼らが武士化して行くのは東国では律令体制が揺らぎ治安が極度に悪化したためです。国司の子孫は土着し地方豪族となり武士化したものが武蔵七党だといわれています。武蔵七党には横山、猪俣、野与、村山、西、児玉、丹、私市、綴の九党が挙げられ、その内から幾つかの七党の組み合わせがあったようです。

※武蔵七党については『武蔵武士-そのロマンと栄光-』福島正義 著を参考にさせていただきました。

阿保神社前の道

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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