私と家族の近況



*あしがらみち*

2017年 後半分:最新は11月度


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12月度 (Dec. 31, 2017)

皆様のご健勝とご発展をお祈りします。  2018年元旦




 今年もまた、アッと言う間に終わろうとしています。 齢を重ねるほど、「 歳月が進みゆく速さ 」 が速くなってゆきます ( その逆でも退屈で困るのでしょうが )。

 昨年の今頃、「 自分が撮った写真を使って自分で年賀状を印刷し、手書きで一枚一枚宛名を書く 」 などということが、果たして来年もできるのだろうかなどと考えていましたが、幸いにも、今年もそれがまた出来ました。 今年もメールアドレスをお持ちの方には、すべてメールでこの年賀状を送ることにして、労力を少なくさせて頂きました。 パソコンを買い、使い方を勉強し、 プロバイダーに料金を払うという 「 努力と出費 」 をしていらっしゃる方々を、そうでない方よりも粗略に扱ってしまう?結果となり、私としては、申し訳ないというか、ちょっとした違和感を感じるのですが・・・

 幸い、夫婦そろってほどほどに元気で、子たち孫たちを招いて賑やかに明るく新年を迎えられそうで、本当に幸せなことです。 世界中に悲惨な運命に翻弄されている人たちが沢山いるというのに・・・ また同期の友人たちの約半数が既に鬼籍に入り、残った人も多くが車椅子に乗ったり介護施設に入ったりしているというのに・・・

 それにしても、この一年の間に亡くなった友人や、伴侶を失って 「 喪中 」 の報せをくださった友人・知人がなんと多いことか! 私が出す年賀状、年賀メールの数は、昨年より確実に一割は減っています。

 11月以降、脊柱管狭窄症 ( 坐骨神経痛ではなかったようです ) で左脚のあちこちが痛かったため、ウォーキングに支障をきたしていると書きました。 その後、治療のための体操を続けた結果、 半月ほどでほとんど快癒し、筋肉が衰えないよう毎日5000歩のウォーキングを再開しましたが、その時、残る僅かな痛みのために歩幅が短くなってしまっているように感じました。

 私は70歳代前半までゴルフをやっていましたが、その当時は普通に100歩歩くと丁度80ヤードでした。 1ヤードが約91.5cmですから、当時は1歩が73cmだったということです。  歩数に0.8を掛けるとヤードになるのでプレイ中は便利でした。

 その後80歳を過ぎて計ったら、1歩がほぼ65〜70pでしたので、先月まではウォーキングの時には65cmとして歩行距離に換算していました。 所が、上記のように最近歩幅が狭くいなっているように感じたので計って見たら、 ちょうど60cmでした。 歩道の敷石が30cm角なので、物差を使わなくてもすぐにわかったというわけです。

 歩幅が年々狭くなってきている・・・これも肉体の老化が私に突き付けた冷酷な現実の一つです。 だが、もうこれ以上歩幅が狭くなったら、典型的な 「 老人型トボトボ歩き 」 になってしまいます。  「 それだけは何が何でも防ぐ! 」 と決意し、痛みの軽減と共に、意識的に歩幅を大きくとろうと努めた結果、年末にはまた65cmに戻りました。

 ゆっくり体をいたわりながらの大掃除も済ませたし、年賀状は先週出し終わったし、子供たち、孫たちを迎える正月の準備もできたし、年賀メールはもうすっかり出来上がっていて、 除夜の鐘が聞こえてくる直前にワンクリックすればよいだけになっているし、この 「 ホームページ12月度分 」 をアップロードすれば今年中にやるべきことはすべて終わりです。  最近、私のホームページに毎月目を通してくださっていると仰ってくださった方に、続けざまに3人お会いしました。 勿論、ほかにも沢山いらっしゃることでしょう。  とても嬉しいことです。 ありがとうございます。 皆様、どうか良い新年をお迎えください。

今月も、前半は脚の痛みのため、あまり歩くことができませんでした。 後半になって、ようやく元のように日に5000歩
歩けるようになりました。 そういうわけで、今月の平均値は一日4845.3歩ということになりました。 昨年元日以降の
まる2年間の総歩行距離は 2335.2kmです。 この距離は、九州最南端の佐多岬を出発し、 主に高速道路を使って
青森まで来た後、青函トンネルを抜け北海道に上陸したくらいの距離です ( 高速道路もトンネルも勿論歩けませんが )。

11月度 (Nov. 30, 2017)

 10年前、旧東海道500kmを歩き通した時のような体力はもうないけれど、どこか面白いところを歩いてみたいと思っていたら、ある旅行会社のパンフレットに、 「 富士山すそ野グルリ一周ウォーク 」というのがあったので、それに参加しようかなと思い、検討してみました。

 すると、順序は任意ですが全部で17回に分けて歩くのだそうで、真夏や真冬を避けて月に1回か2回のペースで参加していたら、歩き終わるまでに2年くらいかかってしまいます。 自分の年齢を考えたら、これは無理です。

 では自分一人で歩いたらどうかと考えましたが、自分の車でこの地域まで行くとなれば、歩いた後で、また車を駐車しておいた元の地点まで戻らなくては家に帰れません。  公共交通機関はどうかというと、自宅からこの一周のコースの付近にかけては、鉄道や路線バスがほとんど走っていませんから、これらを使って往復することも出来ません。

 そこで仕方なく、一泊2日で車で一周してみようと考えました。 あちこち寄り道せず一周だけなら約120kmで、若い人なら1日で回れるのだそうですが、私たちは、ゆっくりと一泊2日で回ることにしました。

 とは言え、ただぐるりと一周ドライブするだけでは能がありません。 そこで、富士山の周囲に沢山ある 浅間 ( せんげん ) 神社 のうち、主なものだけでも順に訪ねてお参りしようと考えつきました。

 浅間神社とは、富士信仰に基づいて 富士山を神格化した浅間大神 ( 浅間神 )、 または浅間神を記紀神話に現れる木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)と見てこれを祀る神社だそうで、北海道から広島にかけて全国には約1300社もあるとのことです。*

 当然のことですが、その多くは静岡、山梨およびその近県に散在しており、静岡県富士宮市の富士山本宮浅間大社が総本宮とされています。 富士山には、古来いくつもの登山道がありますが、 各登山道の登り口にはそれぞれ浅間神社があって、登山者はまずそこに参拝し無事安全を祈ってから登山をしたと言われています ( 下記 )。 もちろん、富士山の頂上にも浅間神社はあります ( 富士山頂上浅間大社奥宮 )。

 表口 ( 富士宮口 ) :富士山本宮浅間大社
 村山口:富士根本宮村山浅間神社
 南口 ( 須山口 ) :須山浅間神社
 御殿場口:新橋浅間神社
 東口 ( 須走口 ) :東口本宮冨士浅間神社
 北口 ( 吉田口 ) :北口本宮冨士浅間神社

 富士山は西の富士宮口が正面 ( 表口 ) だったと、今回初めて知りました。 頂上の 「 富士山頂上浅間大社奥宮 」 も、富士宮口から登りきったところに在るようです ( 東口、北口などからの登山道の頂上には、 奥宮の末社の富士山頂上久須志神社というのが在るとのこと )。

 いろいろと調べた末、私は、次の9つを選んで、この順に ( 時計回りに ) 参詣しながら富士山を一周ドライブすることにしました。

 @ 静岡県御殿場市 新橋浅間神社
 A 静岡県裾野市 須山浅間神社
 B 静岡県富士宮市 山宮浅間神社
 C 静岡県富士宮市 富士根本宮村山浅間神社
 D 静岡県富士宮市 富士山本宮浅間大社
 E 山梨県富士河口湖町 富士御室浅間神社
 F 山梨県富士河口湖町 河口浅間神社
 G 山梨県富士吉田市 北口本宮富士浅間神社
 H 静岡県駿東郡小山町 東口本宮富士浅間神社

 出かけたのは11月9〜10日で、ちょうど紅葉が見ごろの頃で、ことに山梨県内では神社の境内などで美しい紅葉が見られました。 各神社では参拝するだけではなく、 朱印帳を持参して記帳していただきました ( 40年ほど前に多くの社寺の朱印を集めていた当時は、どこの社寺のものも流れるような、美しい筆跡でしたが、今回は残念ながらそういうのにはお目にかかれませんでした。  政治家でもTVに出てくる評論家でも、以前は多くの人が達筆でしたが、現在はそういう人に殆どお目にかかりません )。

 総走行距離は自宅から出発 ( =終着 ) 点まで往復する距離を加算すると丁度200kmでした。 夫婦が8:2くらいの比率で運転しましたが、合計167歳の老夫婦にとって、 半分以上は初めての不慣れな道 ( しかも、なぜかあちこちが工事中で迂回させられた ) を一日100km走るのは、やはりちょっと無理だったようで、帰宅後は二人とも数日間グッタリと疲れました。  たぶんもう二度とこの種の過激なことはしないでしょう。 なお、参詣その他に要した一日の歩行距離は5000歩 ほどでした。 左上の写真は、巨木に囲まれて静かな森の奥にひっそりと佇むAの須山浅間神社です。

*:富士山は古くは 「 福慈神 」、「 不尽神 」 などと記載されるような霊妙な神山・日本鎮護の神山であったが、奈良時代末から火山活動が活発化し、火山神 ( 浅間神 ) としての信仰 ( 浅間信仰 ) が全国に広がった。  「 浅間 ( あさま ) 」 の語源については諸説あるが、長野県の浅間山のように火山を意味するとされる。 「 あさま 」 は古称で、「 せんげん 」 は中世以降から用いられたとされる。 ( Wikipediaから抜粋させて頂いた )

今月も、先月書いたアレルギーと神経痛のため、前半はあまり歩くことができませんでした。 後半になってようやく日に4000歩
以上なんとか歩けるようになりました。 そういうわけで、今月の平均値は一日3903.0歩ということになりました。 昨年元日以降の
総歩行距離は 2237.6kmです。

10月度 (Oct. 31, 2017)

 4日に、ロータリークラブの例会でのスピーチを終えました ( 内容は先月記載 )。 パワーポイントでの画面 ( 文章と画像 ) の作成と上映も問題なくできました。  私ももう85歳、恐らく、数十人もの方の前で公式にしゃべるのは、今回のスピーチが最後でしょう。 30分では話したい事の半分くらいしかしゃべる時間がありません。 自然と早口になってしまいましたが、 手許のメモもなしに大事な事は漏らさず話せたようです。 ワードとエクセルは毎日使っていますが、自分でパワーポイントを使って何かを作ったのは今回が初めてです。 新しい体験が一つだけ増えました。

 私は在米中、入らないかと誘われて、移住先の米国南東部の小都市にあるロータリークラブに入会しました。 そこで7年半、約百人の会員中たった二人の外国人会員の一人として ( もう一人はイタリア人 ) 活動しました。  最初のうちは、難しい話が聞き取れなかったので、もっぱら体を使う奉仕活動に精を出しました。 ロータリークラブもプロ野球同様、米国が発祥の地ですが、プロ野球の選手風に表現すれば、 私は過去に 「 日米通算12年 」 のロータリアン歴ということになります。

  米国在住中に日本に出張した際に、米国のクラブのバナー ( それぞれのクラブが持っているクラブごとの小旗 ) を持参して日本のこのクラブの例会に出席した時にプレゼントしたのでしたが、 それが25年も経った今も残っていて、他の多くの外国のクラブから寄贈されたバナーとと共に壁に飾ってありました。 ずっと以前に自分が持ってきたことすっかり忘れていたので、それを見つけて本当に驚き、また、 往時を懐かしく思い出したことでした。

 いよいよ秋の彼岸も過ぎ、涼しくなってきました。 季節の変わり目だからか、いや、それ以上にもう十分すぎるほど高齢になったからでしょう・・・小学校から大学までの数多くの同窓生たちの訃報が次々に舞い込んできます。  ところが、私の体力も当然のことながら衰えてきていて、ごく近くで行われるもの以外、通夜にも葬儀にも出られません。 無理して遠方まで日帰りで出かけたら、疲れて翌日寝込んでしまうだろうと思うからです。  ですから、花を送りご遺族に哀悼のお手紙を書くくらいしかしません。 「 年をとったら転ぶな、風邪ひくな、義理を欠け 」 という岸信介氏の養生訓 の第三項を自分への言い訳に使っています。 また、訃報ではないまでも、当人や配偶者が入院したとか手術を受けたとか、介護される生活に入ったとかの報せも次々にやってきます。  そのたびに、自分たち夫婦がまだ今のところ、どうにか元気で生活していられることを、本当に有難いことだと思わずにはいられません。

 「 70歳代と80歳代とでは、見える景色が全く違う 」 と、私が最近、あちこちで60〜70歳代の 「 若い 」 友人達に話しているのは、次のようなことを指しているのです。  上記のスピーチで話したように、私は74歳から77歳にかけて、旧東海道を1日に15kmほど、真夏でもひとりで歩きました。 それなのに今は、一日に速足で5000歩のウォーキングがやっとですし、 たった100km先の親友の葬儀にも行きません。 70歳代には頻繁に長い海外旅行に出かけましたが、80歳以降は日本国内の離島に旅する元気すらなかなか出てきません。  70歳代は60歳代の延長線上にありました。 でも、80歳代は70歳代の延長線上にはなかったのでした。

 それでもカホルは、まだ頭も足腰もほどほどに健康なのに、何もしないで生きていては世間様に申し訳ないと、先月から近くの小学校で、木曜日の始業前に低学年の児童への 「 絵本の読み聞かせ 」 をするという、 ボランティアを始めました。 先輩のボランティアたちは、ほとんどが自分の娘と同じ年齢 ( ちょうど子育てが終わった50歳代 ) だそうです。 そのほかに水曜日は女声コーラスに参加し、 土曜日には 「 固有名詞が直ぐに出てこなくなった 」 とボヤきながら、英会話学校で外人や日本人の友人たちと、社会問題の討論などをしています。 自宅では毎日のようにピアノと声楽の練習をしています。  とにかく 「 夫婦合算で167歳 」 で、両名とも毎日のように体のここが痛いあそこが痛いと嘆きながらも、こうやって元気でいられるのは、本当に幸せなことのようです。

 今月はもう一つ、幸せなことがあるはずでした。 50年近く前の研究所勤務時代の部下の方たちが、十数人も・・・中にはずいぶん遠方からの方も・・・集まって、 毎年1回の楽しいバーベキューの会を開いてくださるはずだったのですが、台風22号の来襲により中止となり、実に残念でした。  お互いに会社を辞め仕事を離れてからすでに久しいのに、半世紀近く前の 「 人と人とのきずな 」 が今も切れずに保たれていることが、奇跡のように嬉しく思われます。  あの当時は、今と違って、職場が単なる仕事上のつながりだけではなく人間同士のつながりの場でもあった時代だったのかもしれません。 来年を期待して、あと一年は丈夫でいられるように頑張ります。

今月のウォーキングですが、10日までの10日間は、52472歩/10日、平均 5,247.2歩/日でしたのに、11日になって、最近体のあちこちに
できていた湿疹が 医師の診断では花粉や枯葉などのアレルギーだろうとの診断。11月一杯は山野を歩くことと、下着の洗濯物を屋外に干すことを
禁止されました。 山野を歩いてはいけないと言われても、当家は山野の中にあるのです。 おまけに、左の腰の辺りが痛み出し坐骨神経痛だと診断
されました。 仕方ないので、自宅やショッピングセンターの中を2〜3千歩歩くことで妥協することとしました。  そういう次第で今月の平均値は、
一日平均3633.7歩ということになりました。 昨年元日以降の総歩行距離は2161.5kmです。

 
9月度 (Sept. 30, 2017)

   小田原北ロータリークラブから、例会で30分ほどのスピーチをして欲しいと依頼されました。 テーマは特に指定しないということでしたので三つほど当方の案を送ったら、 そのうちの 「 旧東海道500kmひとり歩き 」 というのがよいだろうということになり、10年ほど前の旧東海道歩きのことを思い出しながら、 その準備作業に、長い楽しい時間を費やしまし元気でいることに  写真や地図を幾つも紹介しようと思いましたが、現在はパワーポイントで作ったものを、自分のノートパソコンを持参して投影するというやり方だというので、その分野の勉強をやり直して展示資料を作成し、 古いけれどまだ動くノートパソコンの調整も行いました。

 20年ほど前、米国から帰国した直後は、あちこちの会社や大学に呼ばれて講演をしましたが、当時はこういう時にはオーバーヘッドプロジェクター ( OHP ) を使いました。  今回調べてみると、OHPの投影機はもう殆ど造られていないし売られてもいないようです。 原稿作成用の透明プラスティックシートは数社から売られていますから、まだ使う人がいなくなったわけではないようですが。  写真がフイルムからデジカメに移行したのと同じような現象ですね。

 10年前、私は旧東海道を歩く前に、道がどこをどう通っているか、どこにどんな江戸時代の遺産があるかなどにつき、事前に毎回徹底的に資料を調べましたし、  歩いている時もまた、現地でよく調べ直して、それを帰宅後ホームページその他に詳細に記録していました。  今回の準備作業中に、ある見知らぬ女性からメールが来ました。 その方は東海道検定という試験も受け、東海道ウォーキングツアーのガイドをしているそうですが、私の書いた資料も読んで参考にされているようでした。

 このスピーチについては、10月4日の本番が終わった後、10月度に書きます。 ところが、案文を準備していたある日、私はふと、35年ほど前の事を思い出しました。  当時このロータリークラブの会員だった私は、一度だけ、他の会員たちの前でスピーチをしたことがありました。 そして、その時話した内容を整理して、その後1984年に、 私はある雑誌に短い文章にまとめて掲載したのでした1ページ目 2ページ目
( Google Chrome 又は Microsoft Edge で開いた場合、小さなサイズで現われたら、+印を使って拡大してお読みください )

 私は当時、この短い文章の最後を 「 したがって、中国人が日本人や米国人と同じ様には写真を楽しむことは無理だろう 」 という言葉で一旦結んだのでしたが、そんなことを書いたら、中国大使館あたりから会社にクレームが来て、飛んでもないことになるかも知れないと考え直し、 「 銀を現状の1/10〜1/20しか使わないで済む写真技術の開発が実現すれば中国人も写真を楽しめるようになることだろう 」 という趣旨の結語に書き直しました。

 その後15年ほど経ち、21世紀に入る頃になると、「 銀を基本原料としては使わない写真技術 」 *、すなわちデジタルカメラ+カラープリンターの技術レベルが急速に進歩し、また、映画や医療用レントゲン写真、 その他の画像記録分野でも、銀に依存しない優れた新技術が次々に開発・実用化されてきて、当時の銀資源不足に対する私の懸念は、幸いにも杞憂に終わりました。 今や中国人が世界中で写真を撮りまくっています。

 当時、私は、中国人が米国人並みに自動車に乗ったら、世界の石油資源は何年で枯渇するだろうとか、中国人の成人男性が絹のネクタイを何本かずつ買ったら、当時の世界の1年分の生糸の生産量がすべて使われてしまうとか、 中国で日本同様に電気洗濯機が普及したら、どういう問題が起きるだろうかとか、種々の計算をして前記のスピーチの際に紹介しましたが、それらの問題も、環境汚染問題や漁業資源問題など以外は、 資源節減技術や代替方式の開発と普及、発電所の増設その他により、概ね解決されながら今に至っているようです。

 当時中国はまだ本当に貧しい国でした。 上記の文章を書いた年の5年ほど前に私が訪中した際の北京市では、人々はまだ全員が紺の人民服で、街に自動車は殆ど見かけず、通勤時は自転車の洪水でした。  会議中に部屋の暖房が効きすぎて暑くなり、通訳の若い女性が人民服の上着を脱いだ時、セーターに大きな穴がいくつもあいていて、彼女が真っ赤になったのを、今も覚えています。  工場の技術者クラスの人たちでさえ、写真は質素なブローニーカメラで、白黒写真をごくたまに冠婚葬祭等にあたり、1本 ( 12コマ ) 撮るだけだと言っていました。  その中国が、僅々40年後の現在、世界第二の経済大国、世界第一の自動車購買国になっていることを思うと、まさに隔世の感を抱かずにはいられません。

 今から40年後に、日本は、そしてこの世界は、いったいどんな風にに変わっている事でしょうか。

 今年は夏の日照時間が際立って少なかったので、裏の田んぼはてっきり不作だろうと思っていましたが、どうにかなったようです。 彼岸花だけは、彼岸の時期を絶対に忘れずに咲きますね。 かつて住んでいた米国南東部でも、9月20日ごろになると牧場の片隅で咲いていました。

*:基本原料としては銀を使わないとは言え、デジタルカメラも、通常その重量の0.3〜0.4% ( 1〜数グラム ) ほどの銀を使って作られています。 すべての電子機器は少量の銀をいろいろな用途に使って作られています。

 
今月のウォーキングは153,579歩/30日、平均 5,119.3歩/日でした。 天候不順の今月も、
一日平均5,000歩以上を実現できました。 昨年元日以降の総歩行距離は2,088.3kmです。

8月度 (Aug. 31, 2017)

 二階の寝室のベランダに、7月初めから9月末にかけて、大きな日除けの白い布を張るのが、この10年ほどの習わしでしたが、8月下旬のある日、強い日差しのために部屋があまりに暑くなったとき、 今年はそれをしていなかったことに気づいて驚きました。 齢のせいで物忘れが激しくなって忘れたのではないようです。 今年の7月から8月前半にかけて、ほとんど夏の日差しが部屋に差し込むことがないほど、 毎日毎日曇りか雨ばかりだったから年中行事を思い出さなかったのです。 今からでも張ろうか、もうあとひと月だから今年は止めようか・・・今後数日の気温の様子を見て決めようと思います ( 結構面倒な仕事なので )。  とにかく、今年は異常気象ですね。

 最近、何度か書いたのが、公共交通機関の少ない 「 地方 」、つまり 「 田舎 」 に住む私のような高齢者は、日頃の買い物やときたまの通院に不可欠の自動車の運転を、一体いつ止めるべきなのか、 また、止めたら日常生活はどうなってしまうのか、その対策はあるのか、という切実な問題です。

 もちろん、高齢者の健康度には個人差が大きく、80代でも心身が殆ど衰えていない人もいれば、60代ですでに心身の衰弱が進んでいる人もいて、年齢だけで一概に運転能力を決め付けることはできませんが、 皮肉なことに、衰えが進んでいる人ほど ( 遠くまで歩いて行けないので )、車を自 分で運転する必要性の度合いが却って大きいのです。 これこそが最大の問題点なのです。

 夫婦で話し合いの結果、幸いまだ心身共にほぼ健康な私たちは、あと数年間は、注意深く、自宅の近所だけに限って運転しよう。 しかし、その場合も、「 より安全な車、すなわち、 下記のような安全対策の諸機能が備わった車に変えて、不幸な事故の発生確率と万一の場合の被害の程度を極力減らすべきだろう 」 という事になり、5年間愛用した ( これらの安全装置・機能がまったくついていない ) 小型車を売り払い、最新の安全装置一式* を備えた、同程度に小型の車を購入しました。

 周囲からの 「 もういい加減で運転免許証を返上したら・・・ 」 という無言の視線を感じる中で、「 せめてあと数年間はこれで 」 と、苦渋の決断?をしたわけです。

*:物体及び人体に対する衝突・追突防止用自動緊急ブレーキ、前後左右の視界の死角除去および移動物検知機能付きモニター&ビデオミラー、 アクセル/ブレーキ踏み間違い衝突防止機能、車線逸脱警報装置、前後左右の接近物体検出・警報発生装置などです。

 今回分かったことは、現状では、いくら金を出しても、使用中の中古車にこれらの安全装置・機能を取り付けてもらうことは、どのメーカーでも殆ど不可能であること、 これらの装置の開発と装着については、残念ながら現状では、自動車メーカーにより、また、同じメーカー内でも車種により、大きな差があることなどでした。

 全くの個人的予測ですが、今後1〜2年の間に、すべての新車には、上記の、あるいはそれ以上の安全装置群が半ば義務的に完備されるようになり ( 希望としては、その種の車に対しては税金や保険料が優遇され )、 その後それらの車種が路上で主力を占めて行くにつれて、交通事故は件数、被害規模とも大幅に減るのではないかと思います。

 というわけで、新車の購入が終わり、その日から、すいている道路や広い駐車場まで出かけて行っては、これらの先進的機能の取扱いと車両運転感覚とに慣れるために、夫婦とも多少の時間と努力を費やしました。  頻繁に警報音が鳴るので、カホルは胃の調子が少しおかしくなるほどでした。 5年前に前の車を買った際は、ハイブリッド、燃費、エコなどが車種選択の際のキーワードでしたが、今回は安全、事故予防、 アラウンドビューモニターなどがキーワードで、 燃費などは二の次どころか考えもしませんでした ( 今度の車も燃費は結構優れているのですが )。

 話変わって新幹線。 私たちが駅のプラットホームに立って列車を見るとき、あるいは高架の線路を疾走しているのを地上から眺めたりする場合、正面と側面しか見えませんから、 新幹線はいつも車両全体が真っ白なのかと思っていましたが、先日名古屋駅のそばの高層ホテルに泊まった時、窓から見下ろしたらなんとまあ・・・他の2本の列車も同じような汚い屋根でした。

 つまらない話だと思う方もいるでしょうが、私には面白かったので、写真を載せました。 新幹線の車体の外側はどうやって洗っているのか調べてみると、鉄道の自動洗車装置は、自動車用のトンネル型洗車機とは異なり、 架線やパンタグラフとの接触を避けるよう、左右からだけ洗剤、水シャワーと回転ブラシで洗う方式がほとんどだそうです。 屋根の上は、パンタグラフと架線の摩耗粉 ( 銅、アルミ、カーボン等 ) などにより汚れますが、 回転ブラシが届かないのでほとんどの汚れが残ります。 屋根まできれいに真っ白になるのは、大規模な分解検査で工場に入り、再塗装がなされた直後だけだそうです。

今月のウォーキングは157,305歩/31日、平均 5,074.4歩/日でした。 雨と暑さの続く今月も、一日平均5,000歩以上を実現できました。
昨年元日以降の総歩行距離は1,988.5kmです。

7月度 (Jul. 31, 2017)

   2012年から使っている Windows 7 のノートパソコンが、5年目を迎えた今年の初め頃、なんとなく調子が悪くなり、そろそろ寿命が来ているらしいという直感が働きました。  「 壊れる前に・・・ 」 と考え、新しく同系の Windows 10 のノートパソコンを買い込み、何日もかけて設定やカスタマイズを終えたのが今年の2月。 ところが使い慣れた古い方のパソコンが案に相違してなかなか壊れなかったので、 6月まで使い続けていました。 でも、せっかく買ったのだし、何かキリの良い日に・・・と考え、今年が半分終わった6月30日に、その時点での完全なバックアップを取った上で、7月1日、 いよいよパソコンの乗り換えを実行しました。  というわけで、ある日突然パソコンが壊れて慌てふためくという事態は未然に避けられました。 今は、新しいパソコンというものは、こんなにもサクサクと、速く動いてくれるものかと、 改めて実感しながらこれを書いています。

 でも、新品のパソコンを実際に自分の好みの状態で使えるようにするまでの登録、設定、ソフトのダウンロード/インストール、種々の調整、カスタマイズ等の、数日にも及ぶ重労働を実行できるのは現在の85歳が限界で、 次に行うとすれば90歳前後になっているはずの私には、たとえ生きていたとしても、もう自分ひとりでそれが出来る知力も気力も体力もないだろうと思われます。  ということは、これが私にとっては生涯最後のパソコンだろうということです。 私がまだ動くこのパソコンを残して先にこの世を去るのか、それとも、このパソコンが壊れたあと、 私がパソコンなしの生活を暫時送り続けるのか・・・また話が湿っぽくなってしまい失礼いたしました。

 では、代わって少しは元気な話を・・・カホルが、60年も前、まだ若い頃二人であちこち登った北アルプスを、もう一度、間近に眺めてみたいというので、2泊3日で白馬と上高地に行ってきました。  のろい蒸気機関車に引かれた夜行列車の3等客車 * とオンボロバスの乗り継ぎの代わりに、新幹線 ( 長野駅下車 ) と直行の大型観光バス、 すし詰めの粗末な山小屋ではなく、瀟洒な洋風ホテルの個室に泊まるという、 この60年間の日本の発展と生活レベルの向上をまざまざと実感する旅でもありました。




栂池自然園のキヌガサソウ  栂池自然園のミヤマキンポウゲ  岩岳のゆり園

栂池自然園から白馬連峰  上高地から焼岳  上高地梓川から穂高連峰(頂上部の雲が晴れた一瞬)

 60年前の登山は、今のそれとは大変な違いでした。 私を何度も北アルプスに連れて行ってくれた友人は、東大山岳部のOBでしたが、彼は、朝、山小屋を出発してから夕方次の小屋につくまで半日間、 ほとんど水を飲ませてくれませんでした。 「 水を飲むと、体力が落ちるから 」 という理由でした。 現在は、「 こまめに水を飲むことが熱中症防止のためにも不可欠 」 とされていますが、 私たちは彼の指示を守って渇きを必死に我慢しながら歩き続けました。 誰一人倒れなかったのは皆が健康で若かったからだとしか思えません。 当時は野球部の練習でも、他のスポーツでも、 真夏の練習中でさえ、水を一切飲ませないのが当たり前だったように思います。

 夏のシーズンは、山小屋はどこも満員で、夜寝るときは広い部屋一面に敷き詰めた布団の上に、刺身を大皿に隙間なく並べたような状態で、見知らぬ男女がまじりあって横になりました。  もちろん、昼の登山中とほとんど同じ服装のままで寝ました。 夜中にトイレに起きて戻ってくると、もう自分が横たわる隙間がなくなっていたりしました。  そうそう、登山靴は、米軍の頑丈な革製軍靴の余剰品を払い受け、改造して底にトリコニーなどの鋼鉄製の鋲を打ったものを東京で買ってきました。 現在の軽い布製のキャラバンの何倍も重かったと思います。

 20歳代前半の私は、この重い靴を履いて、尾根筋の西穂山荘から上高地の梓川まで、通常2時間以上かかる下り道を、一気に速足でピョンピョンと駆け降りて30分で走破した後、 梓川の冷たい清流に浸した手拭で快く上半身の汗を拭った思い出があります。 あんな無茶をして膝を痛めなかったのも、やはり若かったからだとしか思えません。

 ともあれ、3日間とも好天に恵まれて、ツアー参加者中最高齢の、2人合計167歳の夫婦は、落伍することもなく連日一万歩ほど歩き、無事戻ってきました。 帰宅の翌日は二人とも体中あちこち痛くなり、グッタリ寝込みました・・・ でもアルプスの山々はきれいでした。 行けてよかった 歩けて良かった 無事に帰れてよかった


ゴンドラで 「 上った 」 ( 「 登った 」 ではない ) 岩岳頂上 後方は白馬連山


*: 私は、当時使ったあと大事に保存してあった、1957年版の 「 北アルプス登山関係時刻表 」 という茶色く古びた印刷物を今見ています。  「 中央線汽車時刻表 」 という部分を見ると、まだ全線電化はされていなかった頃の松本駅発新宿方面行きの汽車は、一日にたった9本しかありませんでした。 松本から新宿までは7時間半〜8時間を要し、 夕方松本を発車する列車はその日のうちに新宿に着けないので、大月駅や下諏訪駅どまりでした。 そのあとの夜20:28発と22:39発の2本は夜行列車となり、翌朝4:00と4:45に新宿駅に着いています。  現在はどうでしょうか。 特急 「 スーパーあずさ 」 と同 「 あずさ 」 という電車が計17本も通っています。  それぞれ約2:35と約2:45ですべてその日のうちに新宿駅に着きます( 一部は東京駅まで、さらに1本は千葉まで運行しています )。  なお、辰野−塩尻間が電化されて中央東線全線が電化されたのはこれより8年後の1965年5月のことでした。

今月のウォーキングは163,004歩/31日、平均 5,258.2歩/日でした。 今月も一日平均5,000歩以上を実現できました。
昨年元日以降の総歩行距離は1,886.3kmです。 今月からは仮想の旧街道の旅はとりやめます。 それにしても、毎日の積み重ね
というのは大きいですね。 東京日本橋から青森県西北の竜飛岬まで約818kmを、毎日5千歩歩けば8カ月足らずで歩ききれるのです。

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このコラムは、もともとはグリンウッドで働く友人たちとそのご家族向けに、私や家族の動静、 日本や特に足柄地域の出来事などをお知らせしようと、97年初めから「近況報告」 という名でEーMAILの形で毎月個人宛てに送っていたものです。 98年2月以降はホームページに切り替え、毎月下旬翌月分に更新してきました。 ところが最近、日本に住むグリンウッドをご存じない方々も多くご覧になるようになってきたので、 同年7月から焦点の当てかた、表現などをを少し変えました


この先です。