私と家族の近況
私と家族の近況

*あしがらみち*

2009年 前半分:最新は6月度



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6月度

 自宅の近辺のたんぼでは、植えられたばかりの稲苗の間を無数のおたまじゃくしが泳いでいます。 孫と連れだって何匹か捕まえて来て観察したら、水の中に無数の1mmほどのみじんこが泳いでいるではありませんか。 数mmの糸ミミズもいます。 水面に浮かんでいる草色の藻というか、浮き草も採ってきました。 インターネットで調べたら、これらすべてが雑食性のおたまじゃくしの餌だったのですね。

 6月初めには1cmくらいの細い体だったのが、田んぼから数日おきに餌を含んだ水を汲んできて換えてやっているうちに、どんどん頭が大きくなり、月半ばには遂に脚が生えてきて、下旬25日には小さな蛙になり全員自分で飛び出して逃げてゆきました。

 

近くの田んぼの周辺には色とりどりの 「 たちあおい 」 が咲き誇っています。 そして遠くには 「 あじさい 」 が・・・

 今月も3回、1日と7日と18日に旧東海道を歩きました。 JR高塚駅→新居宿新居宿→二川宿 、それに以前スキップしていた 金谷宿→掛川宿 です。 これで、日本橋から三河 ( ということは遂に愛知県 ) の二川までの約300kmを歩いたことになり、お江戸日本橋から京の三条大橋までのちょうど60%を踏破したことになります ( 残りは200km )。 18日に歩いた行程の前半・・・金谷から菊川までの石畳の登り降りはなかなか楽しいものでした。 とくに菊川の石畳の道は地元の方々により平成12年に発掘、調査、整備され江戸時代後期のものと判明したものです。 周りの景色も美しく、歩いている間じゅう幸せいっぱいでした。


 金谷から掛川までの 「 小夜の中山 」 の難所は、カホルにとっては脚力的に無理なので、その間は掛川の 可睡ゆりの園 や近くの可睡斎を見学していました。 ゆりの園は6年前の5月31日に2人で訪れたら時期的に早すぎて入園せず帰ったので、もう一度挑戦したわけです。 今回の6月18日は満開で満足できたとのことです。


この2つの写真は、もちろん、カホルが撮ったものです。

 下旬のある日、座敷の前の濡れ縁の上に黒いしみがいくつか落ちているのに気付き、上を見上げたら野球のボール程の大きさの丸いハチの巣が軒の裏にぶら下がっているではありませんか。 細クビの備前焼の一輪ざしを逆さにしたような形です。 さっそくインターネットで調べたらなんとこれはスズメバチ *1の巣でした  市役所からハチ防護服を借りてきたり、ハチ専用の強力な殺虫剤スプレイを買ってきたり・・・ インターネットの記事をたくさん読んで知識を付けた後、夜になってハチどもが巣に戻ったころを見定めて手順通り簡単にせん滅し巣を除去することができました。 女王蜂1匹を含む成虫7匹、さなぎと卵各10個ほどが住んでいました。 それにしても、気づかずにいれば、ある日、近寄って刺されたであろう可能性も高く、まだ巣が小さくハチの数も少ないうちに早期に気づいたのは幸いでした。 危ない所でした。


左:1階の軒の裏のこんなところに巣が  右:ウルトラマンいざ出陣

*1: せん滅後、インターネットの図鑑で調べたところ、関東地方以西に生息する8種のうちモンスズメバチと判明
5月度

 いよいよ新茶の季節となりました。 私の住んでいる地方も、静岡、宇治、狭山ほどではないけれど、ちょっとした茶どころなので、新茶を買ってきて賞味し、親戚や知人たちに差し上げたりもしました。 今年はなぜか例年より晩かった裏の田んぼの田植えも、30日にすべて終り 「 窓を開ければ一面の青田 」 となりました。 多分、オタマジャクシや蛙を食べるためでしょう。 さっそく鴨が飛んでき田の中を歩きまわっています。 明日からもう6月です。

 以前から気になっていた自宅の庭の花壇。 夫婦そろってこの方面のセンスに欠けるので、どこからどう手をつけたら良いものか分からず、以前から気になってはいたものの、なかば諦め気味でした。 ところが、4月の末に何故か一念発起して、本を買ってきて読み、園芸用の資材を売る店に通い、ついに狭い庭ですが5月連休に全面掘り起こしひっくり返して、二人で3時間×4日で何とか作り直してみました。 幸いギックリ腰にもならず、ご覧のような花壇が出来上がりました。 左の方の花壇は以前住んでいた米国のサウスカロライナ州の形に似ていると思うのですが、そう思っていただけるかどうか・・・

 

 すっかり花の虜になってしまい、完成翌日の5日には2人で 大船の県立フラワーセンター に行ってみました。 駅から歩いて往復したので、軽いウォーキングにもなりました。 ポピーやバラやシャクヤクが盛りで美しさを堪能できました。 現在65歳以上は無料ですが、7月からは¥100になるそうです。 県の財政も苦しいのでしょうか。

 

 5月1日の人間ドックの結果はまずまずでした (*) し、旧東海道歩きを今月は3回実施しました。 11日には 袋井宿から見附宿を通って天竜川左岸まで 、21日は 同右岸から浜松宿を抜けてJR高塚駅まで 、共に約15kmほどを歩きました。 カホルも行程の一部を一緒に歩きました。 6月も1日には 高塚駅から舞坂宿経由新居 ( あらい ) 宿まで の12kmほどを歩く予定です。 これで、4月23日再開以降、1カ月余りで53kmほど歩く事になります。 下の写真は11日に江戸から61里目にある袋井市の木原一里塚 ( 10年程前に復元再建されたもの ) の前で撮った写真です。


 14日には、カホルと2人で久しぶりに映画を見て来ました。 「 おくりびと 」 は、封切られて以来評判が高く、その上、今年2月にはアカデミー賞を獲得したりもしたのでロングランが続いていましたが、さすがに今月半ばで全国のほとんどの映画館が一応上映をやめることになったようです。 というわけで、滑り込みで観に行きました。 予期にたがわぬというか、予期以上というか、大変素晴らしい映画で、アカデミー賞獲得も当然と思いました。 私が映画を観ながら涙を流したのは今回が生涯2回目の出来事でした。 一度目はまだ20歳前後のことで、もう題名は忘れたけれど、あるフランスの純愛ものの映画でした。 昔から、私はどんな小説を読んでも、TVドラマを観ても、 涙を出した記憶など殆どない人間なのですが、今回の涙は多分、[ 私の高齢化 ] × [ 私にも身近になった 「 死 」 を扱った内容 ] × [ 出来栄えの良さ ] という3重の相乗作用のためだったのでしょう。

*:毎年5月に人間ドックを受けますが、体重は、努力の結果次のように順調に減ってきていますし、胴周りは3年前と比べると少なくとも5cmは減りました。 2006:78.3kg、2007:76.9kg、2008:73.3kg、2009:69.4kg  ダイエットの方法は、昼食をバナナ1本だけに減らすというものです。 朝夕はしっかり食べています。 しかし、身長も、青年時代と比べると何と3cmも短くなっています。 高齢化と共に脊椎の間隔が狭くなってきているためのようです。
 
4月度

 11日と15日の2回、それぞれ年1度の大学の同期会があり、どちらも私が幹事長+カメラマンみたいな役目をしているので、準備に、また事後処理に多忙な月でした。 無事終ってホッとしています。 止むをえないことですが、それぞれ24%、21%の友がすでに他界しています。 参加者数も徐々に減ってきています。 まあ、元気に友達の世話をできるうちは幸せだと考える事にしていますが・・・

 12日には墓地への母の納骨も済ませ、身辺の多忙さにも一区切りがつきましたので、半年近くも中断していた旧東海道ウォ−キングを23日に再開しました。 日頃1日に40分以上歩くように努め、足腰を鍛えてはいますが、それでも昨年よりは準備不足だと思ったので、「 小箱根 」 とも言われる金谷から掛川までの 「 小夜の中山 」 の難所 ( 山道14km ) はあと回しにして、 掛川から袋井までの平らな11.6km をまず歩いてみましたが、当然ながら問題なくこなせました。 次回からは1回16kmくらいに延ばしてみようと思います。

 昨年まで一緒に歩いていた仲間たちは全員大井川を越えたところでリタイアしてしまったので、今回からはすべて単独行です。 従って天気予報をみながら前日に決めて出掛けられるので、雨に降られる心配はありません。 他人のペースを気にせず一人でサッサと歩くこともできます。 以前のように月1回ではなく、毎週のように出かける事もできます。 というわけで、何とか今年秋には京の三条大橋に辿り着きたいものと考えています。

 ところで、私も最近まで知らなかったのですが、袋井は宿場の数で数えても、距離的に計算しても、お江戸日本橋と京の三条大橋とのちょうど中間なのです。 私はようやく中間点に達したということです。

 13日には、カホルと2人で大井松田インターのそばの大井町を歩きました。 梨の花が満開でした。 とある路地で、道ばたの家の庭を覗いたら蜜蜂の巣箱が沢山並んでいて、ハチが群れ飛んでいましたので、その家の門をたたき 「 ハチミツを売ってくれるか 」 と尋ねたら、いろいろなサンプルを出してきたので、ひと瓶買ってみました。 まだまだこの近辺には自然が残っています。

 中旬にはカホルと家のすぐ近くの日帰り温泉 「 おんりーゆー 」 に、また26日には娘夫婦と4人で箱根大平台の日帰り温泉に行きました。 そうそう、3月末の旅行で旨い物を貪欲に食べて増えてしまった体重も、2週間で元に戻りました。 明日5月1日は1年ぶりの人間ドックです。 昨年より5kg近く体重を減らしましたから、或いは好結果が出るのではと期待しています。

3月度

 先月書いたように、母の葬儀は仏教とは関係なく行いましたが、それでもやはり 「 49日 」 という感覚は無視できず、今月の半ばまではおおむねおとなしくしていました。 後半に入りゴルフを再開したら、たった3カ月のブランクなのに初心者同様のスコアに転落、後期高齢者にとってはたった3カ月の中断でさえ致命的なのだという事を実感しました。 3ラウンド目でようやく以前のスコアに戻りました。

 カホルが頑張って準備していた独唱の発表会も7日に無事済みました。 あれやこれやでいろいろと区切りがついたので、月末から4月の初めにかけて、カホルと2人で8泊9日間の国内旅行に出かけました ( そのため、このページのアップロードも4月5日に遅れこみました )。 新幹線で倉敷に行き、そこから小さなレンタカーでスタートし、しまなみ海道沿いに瀬戸の島々を回って四国に入り、今治から大洲を経由し佐田岬を往復、八幡浜からはフェリーで九州の臼杵に渡り、佐賀関や国東半島、耶馬渓などを回りながら大分、中津を訪れました。 さらに関門海峡を渡って山口市の周辺を観光して広島がゴールという経路で、以前から気になっていた町や島や岬を丁寧に観て回ることができました。

 とくに、日本一長い岬と言われる全長50kmの佐田岬の先端に在る灯台を訪ねることは2年越しの夢でした。 また、中津は高校時代に 「 福翁自伝 」 を読んだ時以来、一度訪ねたかった町でした。 駅前の銅像 ( 顔は一万円札のそれとはちょっと違う ) を眺め、福沢諭吉旧居を訪ねたことで、60年前に出された宿題をようやく解いたような気分でした。

 初日と最終日を除く7日間に1050km、1日平均150kmを2人で交替しながらの走行でしたから、あまり疲れませんでしたし、何よりも無事故で走り切れたことは幸いでした。 カーナビの便利さも改めて痛感しました。 お天気にも恵まれ、9日間一度も雨に逢わなかった上、どこでも桜が満開の美しい日本の自然を満喫できました。  写真は ここからご覧下さい。 それにしても、日本の交通網は便利になったものです。 向島、生口島、大三島、大島の4つの島の古い寺、博物館、美術館、展望台などを1日半かけて丹念に見て回りましたが、船に全く乗らずにこれが出来るという事は、やはり凄いことです。

 食いしん坊の私のことですから、夫々の町で特産の旨いものを予め探しておいて食べ歩きました。 どれも誠に結構でした ( 旅館の夕食メニューは原則的に 「 あてがいぶち 」 なので、8泊のうち6泊はホテルに泊まり、外で食事をするようにしました )。 そのため、1月上旬71.5kg、2月上旬70.5kg、3月中旬69.5kgと、今年に入っても順調に毎月1kgのペースで減量出来ていた体重が71kgまで増えてしまい、再び苦難の道が始まります。

日目主な観光先宿泊地味わったその土地の名物
大原美術館、民芸館、倉敷の町並み倉敷ままかり料理多種、しゃこ
向島、生口島、大三島大三島めばる、たこ、おこぜ
大島、大洲市内の臥龍山荘ほか大洲かじか、鮎*、うなぎ
佐田岬、保内、八幡浜八幡浜鯛茶漬、うちわえび、じゃこ天
佐賀関、臼杵磨崖仏大分関あじ、関さば、まて貝、豊後地鶏
国東半島、宇佐八幡宮、耶馬渓、青の洞門中津鱧 ( はも ) 料理多種
関門海峡、山口市内の瑠璃光寺ほか山口ふぐの白子、鯛、さより
錦帯橋、原爆ドーム、平和記念資料館広島かき料理多種

*:さすがにこれは季節はずれのため冷凍ものでした。


2月度

 ご経験のある方はお分かりでしょうが、母の死のあと、なんだかんだといろいろな法的な届や手続きがあって、私だけでなく妹も弟も大変でした。 将来自分が死んだとき、子供たちもこんな面倒な思いをするのだろうか?と考えると、正直 「 いや 」 ですね。 こういう煩わしさは、ふだんは感謝している近代的な法治国家の 「 恩恵 」 に対する 「 受益者負担? 」 とでも考えるべきなのでしょうか。 それでも、2月に入ると、自分のしたい事が出来る時間的、精神的な余裕がようやく少しづつですが生まれて来ました。 高校生の孫に毎週末に数学を教える仕事?も再開しました。



2月1日朝、雨戸を開けたら雲ひとつない快晴。 早速愛車で15分、足柄峠 ( 759m )
に駆けあがり富士山を眺め、50分ほど金時山麓の山道を歩いてきました。

 母の葬儀は無宗教で行いましたので、いわゆる四十九日という考えは特にありませんが、やはり葬儀の後しばらくは 「 喪に服し 」 慎み深く暮らさなくてはいけないのかな・・・などと考えたりもします。 でも、母は100歳近くまで生き、最期まで家族に手厚く見守られながら自室で老衰のため静かに去っていったのですから、残された私たちもそれほど悲しくはありません。 母だって、たぶん 「 やっと楽になれたよ。 長いこと、あなたたちの時間を拘束して済まなかったね。 これからは自分のためだけに存分に時間を使って生きておくれ 」 と言ってくれているように思うのです。 子供の私だってもう後期高齢者、長い余命など残っていない可能性が大なのですから、毎朝母の遺影に線香をあげるだけにして、いわゆる喪に服すのはやめようと考えています

 というわけで、2日にはカホルと新宿の末広亭に行って一日楽しみ、昨秋以来の心身の疲れを癒してきました。 権太楼やさん八は良かったけれど、トリの扇橋は老齢のせいか体調でも悪いのか迫力がありません。 昔鈴本で聴いた時は感動したのに・・・  ハチャメチャな落語だけれど、私と同年代の川柳川柳 ( かわやなぎせんりゅう ) の噺は抱腹絶倒でとても面白い。 つられて彼の 「 天下御免の極落語 」 という本を売店で買ってきて二人で読みましたが、これもまたとても面白かったです。 末広亭には落語大好き人間の孫たちも連れて3月にまた行くつもりです。

 その次には、かねてから一度行きたいと思っていた「 小田原おでん本店 」 にカホルと2週続けて行ってきましたが、食い物の美味いまずいの批評を公開の席で口にすることは余り好きでないので、止めておきます。

 5日には熱海の梅園から来宮駅経由海岸まで歩いて梅園の梅と満開の 熱海桜 を観てきましたし、翌週は東名高速の大井松田 I C横の 松田山の斜面に咲く河津桜 ( 下の写真 ) を愛でてきました。 好みもあるでしょうが、私は河津桜の方が色がきれいだと思います。 どちらも沢山のメジロが群れ飛んできて蜜を吸っていました。



 4月には、私が幹事をしている大学の同期会が立て続けに2つ開かれます。 その準備もだいぶ忙しくなってきました。 でも、健康で元気だと認められて幹事に推され、忙しく飛びまわるということは、考えてみれば幸せなことです。 この1年の間にも、もう何人かの同級生たちが他界されているのですから・・・

 さあ、2月はこういう風にして、数カ月間止まっていたエンジンも徐々に回転し始めました。 体重も1月、2月と各1Kgずつ減って、遂に70Kgちょうどまで減って来たことですし、3月からは旧東海道歩きもゴルフも再開出来たらなあと考えています。

1月度

 1月19日の朝、小田原市内の介護付有料老人ホームの個室で母が静かに亡くなりました。 98歳と3カ月、最近50日ほどはもう口から食事をすることも出来ず、点滴だけによる生命維持でした。 昨年暮以来、何度も医師から 「 いつ死んでもおかしくない 」 とか 「 あと数時間でしょう 」 などと言われながらも、登山などで鍛えた強靭な体力でそのつど回復し、ついに年を越して周囲を驚かせたりしてきたので、もう私も親族たちも全員覚悟はできていました。 皆が毎日交替で見舞いに行ってもいましたし、100歳近く生きられたのだし、冷静にその死を受け止める事ができました。

 最近はほとんどの人が病院のベッドの上で死を迎えると思われますが、母の場合は子供たちがお願いして、「 第二の自宅 」 とも言えるこの施設の自室で、家族やスタッフの手厚い看護、介護のもとで安らかに死んでもらえれば・・・という事に半年ほど前から決めていました。 それが幸い希望通り叶いましたし *、もう何も不満はありません。 考えてみれば、つい数十年前まではほとんどの人が家族に見守られながら自宅の畳の上で死んでいったわけで、別に病院のベッドが冷たいとは申しませんが、母の場合は大変 「 幸せな死に方 」 だったと考えています。

 「 老衰 」 は死亡診断書の死因にはなりにくいとかで、便宜上、昨年11月に一時入院した時の 「 肺炎 」 になっていますが ( この超高齢で肺炎になればまず助からないと決まったものですが、医師の診断を覆した母はとっくに治っていて )、担当医師によれば 「 実際は老衰としか言いようがありません 」 とのことでした。 2年8カ月間お世話になったこの施設の個室で、すべてのスタッフが、本当に頭の下がるような暖かい、心のこもった丁寧な看護、介護を続けて下さいました中で静かにスッと息を引き取った事が、「 幸せな死に方 」 だと申したいわけです。

 施設に入る前も含めて最近5年ほどの 「 老老介護 」 についての感想は、( 母が生きている間はやはり書けなかった部分もあるので ) 近いうちに文章にまとめてみたいと考えています。

 そういうわけで、昨年の12月10日以降は、私もカホルも何も自分の事に手をつけられませんでした。 明日死ぬかも知れない母を抱えて年末は年賀状もクリスマスカードも 「 作れず出せず 」 で終わりましたし、ゴルフも旧東海道歩きも何もかも、全ていったん中断となりました。 というわけで、今月度はもう何も他に書くことがありません。

 24日には子、孫、ひ孫などの親族だけで簡素に、しかし心のこもった葬儀を行いました。 私は父や祖父が死んだのとちょうど同じ数え年77歳で、本来なら自分の葬儀が行われてもおかしくない年齢の後期高齢者なのに、喪主として100歳近い超高齢者の葬儀を執り行わなくてはなりません。 このときほど改めて高齢化社会を実感したことはありませんでした。 母の遺志も汲んで、簡素な無宗教の家族葬にしたので、お寺さんや会社・近隣などの会葬者に気を遣う事もなく、比較的楽でしたが、それでも終ったあとはさすがに疲れを感じました。 2月からは二人とも徐々に以前の生活に戻れることでしょう。

*:そうは言っても、周囲の人が見ていられないほど辛く苦しそうな状態になってしまったら、余命はほとんどないと分かっていても、やはり入院させようかと悩むことになります。 実際、昨年11月末も見かねて入院させたわけでしたが、こういう他人の命にかかわる判断上の悩みは、本当に体験してみないと分からないものです。 最期をそういう悩みを持たずに迎えられたのが母にとっても私たちにとっても幸せだったということです。

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このコラムは、もともとはグリンウッドで働く友人たちとそのご家族向けに、私や家族の動静、 日本や特に足柄地域の出来事などをお知らせしようと、97年初めから「近況報告」 という名でEーMAILの形で毎月個人宛てに送っていたものです。 98年2月以降はホームページに切り替え、毎月下旬翌月分に更新してきました。 ところが最近、日本に住むグリンウッドをご存じない方々も多くご覧になるようになってきたので、 同年7月から焦点の当てかた、表現などをを少し変えました

この先です。