私と家族の近況



*あしがらみち*

2013年 後半分:最新は12月度


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12月度 (Dec. 30. 2013)

 「 フユザクラ 」 は一名コバザクラとも呼ばれ,ヤマザクラとマメザクラの雑種と推定されているようです。 我が家の近くでも、 あちこちに散見され、ススキの穂、山茶花の花、紅葉したモミジなどの晩秋・初冬の風物とサクラの花とが一緒に写った写真を撮るのは、大変面白い取り合わせなのですが、 写真を見た人はほとんど誰も、これがサクラだとは気付いてくれませんので、他人に見せても仕方ないというところが残念です。  昨日 ( 30日 ) はカホルと近くの丘の上をウォーキングした時、一枝小さいのを折ってきて父母の仏壇に供えました。

 フユザクラは関東では晩秋から初冬にかけて咲き、この写真は12月1日に撮ったものです。 この写真では分りませんが、遠景の山はきれいに紅葉しています。

 カホルが、先生について長いこと勉強している声楽の発表会が7日にありました。 昨年秋から今年の秋口まで、ほぼ1年間、身体じゅうあちこち痛かったのですが、 それにめげず、一生懸命に練習を続け頑張りました。( 下の写真 )

 このページは 「 12月度 」 ですが、アップロードするのが12月の30か31日、皆様がご覧になるのは来年の正月です。 したがって、年始の挨拶状は、 この12月度の最後尾に載せます。 次の2014年1月度のページに載せると、1月末日のアップロードなので、ご覧頂くのが2月になってしまうからです。  高齢化による根気と体力の衰えが主な理由で、私がメールアドレスを持っていらっしゃる方には年賀状をメールで出すことに切り変えて以来、そろそろ10年になります。  私の場合ですと、友人、親戚等の内、メールアドレスのある方とない方の比率は、だいたい6対4くらいです。 この年代にしては前者が多い方だと思います。

 全ての方々がメールアドレスをお持ちなら話は簡単なのですが、世の中はそう好都合には出来ていないので、やはり、年賀ハガキを買い、印刷し、 宛名を書いて投函するという作業は無くなりません。 私の体力と根気が完全に無くなるまで、このメールとハガキの2本立て体制は続くことになるのでしょう。  では、皆様、良いお年をお迎えください。

 新しい年を迎えるにあたり私が祈ることはただ一つ・・・福島の原発の 「 あと始末 」 が、ゆっくりでもいい、小さなトラブルならあってもいいから、 新たな甚大な災害は絶対に起きずに、最終目標に向かって着実に進んで行って欲しい・・・それだけです。

 智恵と意志と努力と時間と予算の5つを尽くせば、世の中のほとんどの事・・・法律、外交、社会問題、景気、科学技術、福祉、教育、天災、その他、 どのような分野の困難な課題であっても、不足を補い、誤りを正し、また修復、改善、進歩を遂げることは不可能とは言えません。  しかし、あの壊れた原発にもし何か次の甚大事故、甚大災害が起きたり、巨大な天災が襲ってきたりしたら、私たちが上記の5つをいくら尽くしても、 「 もう何も手をつけることすら出来ず 」、今後何百年、何千年にもにわたって続く、復旧不可能で悲惨極まりない状況が発生し、 日本国内のみでなくこの地球上の他の地域までもが再起不能のダメージを受けると考えるからです。

 最後に・・・今年も、毎朝起床直後に必ず体重を測るなど努力した結果、元旦から大晦日までの1年間に、僅かですが1.5kgの体重を減らすことが出来ました。

 



日本郵便の年賀ハガキインクジェット用(¥60)は感心しませんね。  市販の用紙なら表現できた鮮やかな赤色が
濁ってしまい、ガッカリでした。 右下のコメント:「 庭のボケの花は、正月にはもう咲き始め、初夏まで咲き続けます。」


11月度 (Nov. 30. 2013)

 熱射病になるといけないからと、朝5時半に起きてウォーキングをしていたのが、7〜8月。 それからたった3カ月しかたっていないのに、 11月上旬になると 「 寒いから昼間、日の高いうちに歩こう 」 というふうに変ってしまいました。 季節 ( 感 ) がある日本という国は、 常夏の国などよりは幸せだとは思うのですが、齢を重ねるほどに季節の変化への対応が面倒で辛いものとなる事は事実です。

 11月上旬と言えば、ある日、用事があって郵便局に行ったら、もう年賀状の束を提出しているご婦人がいました。 なにごとも早め早めに済ませておきたいタイプの私でさえ、 これにはびっくりしました。 これに刺激された訳でもありませんが、11月末にはパソコンによる年賀状のデザインを完成させました。  でも、印刷や宛名書きはきっと年末ギリギリになることでしょう。

 8月末に弟が亡くなりましたので、「 喪中につき年賀状を欠礼・・・ 」 という考えも一瞬頭をよぎりました。 4年前の母の死の際は翌年の年賀状を欠礼しました。  今回もう一度、この年賀状欠礼についての慣行をいろいろと詳細に調べた末、 きょうだいの死の翌年に年賀状を出すか出さないかは、最終的には私の考え方次第だと理解したので、年賀状は今年も例年通り出し、また皆さまから頂くことにしました。  但し、「 賀 」 とか 「 慶 」 とか 「 おめでとう 」 とかいう類いの文字は今回は当方としては使わないことにしました。  こういうのを 「 年賀状 」 ではなく 「 年始状 」 と言うのだそうです。  でも、恐らく、受け取った方はその違いにお気付きにならないことでしょう。 もちろん、頂く年賀状は、どのようなお言葉、絵柄のものでもすべて有難く頂戴致します。

 こんな話題が続いて恐縮ですが、今月の16日、夫婦同士で親しくお付き合いしていた西湘地区の某有力企業の創業者のK氏が亡くなりました。  何でも言い合える仲の、本当に気持ちの良い方でした。 電話で訃報を知らせてくださった娘さんは、私ども夫婦が米国のサウスカロライナ州に住んでいた頃、 隣のノースカロライナ州の山間部の超保守的な* 小さな町にホームステイしていて、それは余りハッピーなステイではなかったようでした。  となりの州と言っても、米国は広大ですから、飛行機で半日がかりで私どもの家に遊びに来て数日滞在してくれ、多少のお慰めをしたと思いますが、それももう、 20年ほども前のことです。 歳月の過ぎ去る速さを感じるばかりです。

 例年のことですが、11月は各種の同窓会のラッシュです。 今年も、大学の研究室の仲間、大学の学科同期生 ( これはなんと毎月の月例 )、会社のOBたち、旧職場の仲間たち ・・・と4つも開催され、大忙しでした。 はるばる東京まで出かけられる体力がまだあることに感謝!  インフルエンザワクチンの注射も済ませましたし、2人きりのお祝いでしたが、結婚55周年記念のちょっぴり豪勢なディナーにも出かけました。 今年も残すところあとひと月、 元気に過ごすように致します。

左の写真:2010年10月29日 信州木曽の開田高原で撮影


 9月度の記事の中に載せた、弟の遺作の絵に関して、もっと他の作品を見たいとおっしゃる声が幾つかありましたので、晩秋にちなんだものを2点載せます。  下の小さな画像をクリックすれば大きな画像が現れます。 この拡大された画像を閉じれば元の画面に戻ります。 どちらの絵も、虫が喰った葉が多いことに気付きます。  病魔にすっかり侵されてしまった彼の肉体が、ここに無意識に反映されているのではないかと思うと、不憫でなりません。

「 栗 」 「 柿 」

*:有色人種に対し未だに強い差別が残る、学校では地動説や進化論を聖書の記述に反するとして教えない、 プロテスタントキリスト教の数宗派以外の宗教に排他的、酒の売買や飲酒を法律で一年中厳格に禁じる・・・など、多様な米国社会の中でも特殊な地域です。

10月度 (Oct. 31. 2013)

 当家は幸い、低いゆるやかな尾根の背 ( 海抜60mほど ) にあるので 「 水はけ 」 は良く、崩れて落ちてくるような崖も近くにはありません。 台風が関東地方を通る時も、 なぜかいつもこの辺りには暴風が吹きません。 その上、関東大震災でも、当時数十軒あった農家は一軒も損害を受けなかったという事を最近知りました。 強い古い地盤の土地で、 地震の揺れが少ないように感じています ( 造成の手は全く加えられていません )。

 40年以上前に、偶然通りかかった時に目にした素晴らしい眺望に惚れ込んで、つてを頼りに地主に頼み込んで決めたのは、このように災害に強い土地だったのでした。  当時は天災のことなど、全く考えても見なかったのでしたが、不幸な大災害続きの現在、いろいろなことを考え合わせると、これは実に幸運な選択でした。

 そんなわけで、日本中あちこちに大災害をもたらした近年の異常気象の中でも、有難いことに毎日安心して暮らせています。  平野部ではないので、たぶん竜巻も起こらないでしょう。 唯一の心配は近づいていると言われる富士山の噴火です。  これは、地震などと違い 「 自分で事前にある程度の被害軽減策を講じることが出来ない 」 という点で、特異な天災と言えます。

 カホルの体調がある程度良くなってきたので、月初めには車で伊豆の湯ヶ島まで出かけ、温泉宿に一泊してきました。 月末には岡山まで往復し、 1年ぶりに孫たちに会うことができました。 せっかく時間と金をかけて遠くまで出たのだから、単なる岡山往復だけでは勿体ないと、かえりがけに名古屋で降りて、 知多半島の先端の方の温泉にも一泊してきました ( 下の写真 )。 つい4年前にはスコットランドまで1週間以上もの旅ができるだけの体力があったのに、 今は国内をうろうろと旅するのにも体調を考えながら怖々・・・という 「 ていたらく 」 です。 それでも、他人に助けていただかなくてもあちこち動きまわれるだけ、 「 アラハチ 」 ( 四捨五入したら両名とも80歳 ) としてはまだ幸せな方だと思うことにしました。


周りに何もない静かな宿の露天風呂に浸かって眼下の穏やかな海を
見つめていると 「 極楽とはこういうことか 」 という気さえしてきます。



、夕暮れ間近、静寂の遠い海面に、ときどき大きな船、小さな舟が行きかいます。


9月度 (Sept. 30, 2013)

 8月の末に5人きょうだいの一番末の弟が亡くなりました。 弟となると身近なので、両親が亡くなった時とはまた別の感慨がわいてきます。

 日本が最も華やかだった時代、商社マンとして活躍していましたが、40代半ばで肝硬変、50過ぎで脳梗塞を発症し退職、その後まもなく肝臓がんとなり、 車椅子で15年ほどを過ごし、その間、何度も何度も手術を繰り返して67歳まで生きながらえました。

 右半身不随の身で、自宅で独学で、不自由な左手で絵を描き始め、努力を重ねて晩年にはなかなか上手な絵が描けるようになりました。  正規の絵画の教育を受けていないという点で、全てが独学であり自ら 「 在野派 」 と称した中川一政画伯に憧れていたのでしょうか、 奥さんが運転する車に乗り、不自由な体で、茨城県の牛久市から神奈川県の真鶴町の中川一政美術館までわざわざ観に来たこともありました。



 私自身はというと、自治会役員としての雑用に明け暮れてしまったひと月でした。 少し涼しくなったので、ウォーキングは、月半ば以降は早朝でなく夕方に行うことにしました。  朝5時半起床を夏の間2カ月近く続けましたが、その早起きの苦痛から解放され、ホッとしています。 彼岸花 ( 曼珠沙華、リコリスとも ) は今年も律儀に9月23日に見ごろを迎えました。


8月度 (Aug. 31, 2013)

 高1の孫が半月ほどオーストラリアにホームステイに行って、元気に帰ってきました。 ややシャイな性格なので心配していましたが 「 自分の話した事は皆通じた 」 と、 自信がつき、終始楽しく元気にホスト一家と過ごしてきたようなので、一安心しました。 それにつけても今の子供たちは( ごく一部の人たちを除けば ) 本当に幸せです。  その幸せが当たり前のように思えていること自体が、逆に不幸なのでないかと心配になることさえあります。

 私が中学生だったあの年の夏・・・敗戦の年1945年の夏はどうだったでしょうか。 父が兵役に出た後、分かれて3カ所に住んでいた家族は転々と引越ししながら結局、 群馬県高崎市郊外のある農家の屋根裏の、もと養蚕をやっていた薄暗い空間にゴザを敷いただけの一部屋に集まり、5人肩を寄せ合って、 食糧不足と栄養失調とノミの大群の襲撃にさいなまれながら暮らしていました。

 そこから疎開先の中学に通っていた「 疎開っ子 」の私は、教師や配属将校などによる連日の狂いじみた体罰や軍事教練に耐えつつ、それでも歯を食いしばって通学していました。  毎日のように空襲に追いまくられ、おちおち授業も受けられなかった中学の初年度、毎週5日も農家に寝泊りして勤労奉仕の畑仕事に明けくれていた中学最初の夏休み、 畑で働いているとき、超低空飛行の米軍艦載機に機銃掃射され命からがら桑畑に逃げ込んだ記憶・・・その他もろもろの、悲惨で、前途が真っ暗だった少年時代のすべてを、 しっかり孫たちに伝えておこうと、今月は分厚い 「 戦時回想録 」 のファイルを作ってパソコンに納めました。

 ちょうどこの頃、慶応義塾大学の2年生から学徒出陣で海軍に投じパイロットになった私の従兄は、沖縄方面で特攻隊員として出撃し、21歳で、敗戦直前のある夏の日に散華しました。  彼の 「 新しき光に生きむ をさな子の 幸 ( さち ) を祈りて我は散らなむ 」 という勁 ( つよ ) く 優しい辞世の歌* を思い起こすたびに、 彼よりたった10年ほど遅く生まれたお陰で、大学卒業間近の頃 ( ちょうど彼が戦死した歳のころ ) 以降はようやく 「 新しき光 」 が射し始めた日本に私は生き、学び、 働くことができた事を思うにつけ、今も感謝の気持でいっぱいです。


*:この遺詠には戦後、山田耕筰、大中寅二という2人の高名な作曲家によりそれぞれ曲が付けられました ( 上左は墓地に建てられた石碑、上右は後者の譜面 )。  また、学生時代の親友でその後慶応義塾大学の塾長になられた石川忠雄氏が、日本経済新聞に掲載の 「 私の履歴書 」 の中で、 1994年2月6,7日の2日にわたって彼の想い出を語りその死を追悼して下さいました。 せめてもの慰めです。 ( 碑文の前半: 此ほど久し振りに新聞を見て次の世を になふをさな子に輝かしき世界をあたへるは我らの責務なりと感じて ) なお、敗戦直後の楽譜は現在のようなコンピューター出力ではなく、職人の手書きで清書されたもの。  複写機などないので、貴重な 「 現物 」 です。 紙質も恐ろしく悪く、茶色に変質し、今にも破れそうな状態です。

 上記の孫などは、生まれた時からずっと、光に当たりっぱなしとも言える世界で生きています。 衣食住すべてが一応 ( 人によっては十分に ) 満たされ、 毎日のように空から爆弾が降ってくることも、教室から工場や農村に強制労働奉仕に狩りだされる事もなく、同年代の異性と道端で立ち話ししただけで叱られるというわけでもなく、 勉強やスポーツに打ち込みたいだけ打ち込む事が出来るという身の上が、どれほど有難い幸せな状態なのかを、よくよく理解し噛みしめてほしいと思ったから、 上記の 「 戦時回想録 」 を書いたのです。

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 ウォーキングは朝の5時半から6時半の間 ( 毎日コースを変えて3km余りを速足で約40分 ) と決めたら、まだ路面のアスファルトは熱くなっていないし、 太陽は低いので影が長くて路面は日陰だらけだし、至極快適です。  残念なことに快適でない点も二つだけあって、一つは、毎朝、起床にあたってものすごい意志の力が必要だという事、 もう一つは早朝犬を散歩させる人が多いので、毎朝数回は道端の新鮮な糞を目にしなくてはならない事です。 飼い主たちは夕方の散歩では人目が多いので始末して行くようですが、 朝は誰も見ていないので、そのままに放置してゆく人もいるらしいのです。 そんな不快感も、帰宅後の爽快なシャワーと共に流し去るようにしていますが・・・

 その後は、日中は努めて屋外を歩かず、風通しの良い涼しい部屋で過ごすことにして、熱射病とはほぼ無縁の生活が構築出来ました。 どうしても駄目な時には勿論、 エアコンのお世話になりますが、当家は裏がずっと先まで水田なので、出始めた稲穂の上を通って、開け放した大きな窓の網戸ごしに吹きこんでくる風は思いのほか涼しいのです。  夕立の後などは日中でも時に肌寒さを感じるほどです。 最近の住宅は構造上の理由で窓が小さいので気の毒ですが、当家は開口部の大きな伝統的な木造建築なので、 涼風は家の中を縦横に吹き抜けます。

 デパート、スーパー、書店等を頻繁に訪れ、店内をあちこち歩きながら品物を眺めて回るのも安あがりな 「 運動+納涼 」 の知恵です。 「 同好の士 」 も少なくないようです。  そして月に1回くらいですが、近くの箱根や湯河原の温泉に行って露天風呂に浸かり、涼しい部屋で冷たいビールでも飲めば、今年の猛暑のもとでの熱射病対策はおおむね完成です。


樹齢2000年と言われる山北町の箒杉 ( ほうきすぎ )

 
7月度 (Jul. 31, 2013)

 地元自治会の夏祭りの準備、実施、片づけ・・・これらは自治会の組長の一人である私の主な仕事の一つなので、「 疲れた。疲れた 」 と弱音を吐きながら夫婦そろって手伝っている間に、 7月の上・中旬がアッという間に過ぎてしまいました。 こういう役職にも定年のようなものが必要になる日は近いことでしょう。  そんな中、毎日のウォーキングはというと、ご老体が猛暑の中で頑張って熱中症で倒れたりしたらみっともないし 「 はた迷惑 」 なので、 今年の夏は早朝か夕方に歩くことに変更しました ( と書いたけれど、やってみると実際は夕方はまだ暑くて駄目。 朝6時頃に統一しました )。


 ところが、15年間働き続けてきた居間のエアコンは、私同様ご老体なのに日中猛暑の中頑張り続けたためか、遂に壊れてしまい、やむなく新しいのを買うことになって、 想定外の出費が発生しました。

 店頭で眺めているときは、エアコンは、TV、冷蔵庫、洗濯機などに比べると、大きさや中身の割に随分高価だなと不審に思っていたのでしたが、 据え付けの当日になったら、大きな室外機 ( +配管工事 ) があることに気がつき納得。 室外機はなぜかどの店でも店頭に並べていませんから、その存在をすっかり忘れていました。  でも考えてみるとエアコンの機能上の主役は、実は室外機なんですね。  エアコンてぇのは、実力派の役者が脇役にまわり、人の目につきにくい、雨風の当たる屋外で黙々と働いているという 「 けなげな家電 」 なのです。


朝早く歩けば開いたばかりのハスの花に出会えるというおまけも

 家電製品の寿命はと調べてみると、一般的に10年前後と言われ、一番短い液晶TVや洗濯機で7〜8年、最も長い冷蔵庫で12〜15年程度とされているようです。  上記の居間のエアコンは15年ももったのですから、立派だと褒めてやらなくては・・・  当家の冷蔵庫も、やはりもう15年も働らき続けています。 3年前に製氷装置が不調になったときに、メーカーの修理の人に 「 治してもまたすぐ壊れそうです。  省エネタイプの新品に買い換えた方が得ですよ 」 と言われたのですが、治せば使えるのに 「 モッタイナイ 」 と考えて修理させたら今も元気に動いています。  しかし、今度具合が悪くなったら、これもたぶん買い換えることになるでしょう。

 2年前に地デジ化に伴い買った薄型液晶TVはともかく、今回のエアコン、近く買いかえるであろう冷蔵庫や洗濯機 ( 現用の洗濯機は平均寿命の2倍もの15年目にして時々哀しげな異音を発生し始めた ) ・・・これらの新たな寿命は、恐らく私たち夫婦の余命より相当長いはずです。  なければ困るから壊れたらすぐに新品を買わなければなりませんが、これでは社会的には何か大きな無駄をしているような感じがします。  最近はいつもこんな風にばかり物事を考えてしまうのですが、おかしいでしょうか。 これも歳のせいでしょうか。

 シェーバーと電動ハブラシも、調べてみると家電製品の分類に入るようで、平均寿命は3〜5年程度のようですが、在米中に購入して以来ですから、 両者とも数えるともう20年近く、私は一つの品物を使い続けています。  日本と米国では電圧も差し込みプラグの形状もほとんど同じなので、こうして使い続ける事が出来ているわけです。 電動ハブラシは1日3回毎食後必ず使用し、 シェーバーは普通の3枚刃の簡易カミソリを使うのが面倒くさいと思った朝 ( つまり前の晩睡眠不足だったとき ) だけ、週に2回ほど使ってきました ( 刃は3回ほど更新しました )。  電動ハブラシは数分間×約2万回もの酷使に耐え、最近ようやく、ときどき異音を発するようになってきたので、買い換える気になっていろいろ調べているところです。  この何とも丈夫な2つの製品は、共にドイツのB社のものですが、やはりドイツの品物は出来が頑丈なんですかね。

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このコラムは、もともとはグリンウッドで働く友人たちとそのご家族向けに、私や家族の動静、 日本や特に足柄地域の出来事などをお知らせしようと、97年初めから「近況報告」 という名でEーMAILの形で毎月個人宛てに送っていたものです。 98年2月以降はホームページに切り替え、毎月下旬翌月分に更新してきました。 ところが最近、日本に住むグリンウッドをご存じない方々も多くご覧になるようになってきたので、 同年7月から焦点の当てかた、表現などをを少し変えました


この先です。