2008年 前半分:最新は6月度
6月は1日に出発し16日帰国と言う日程で、毎年恒例の ( 高齢のではありませんよ! ) イタリア単独 個人旅行をしてきました。 今年は前々から計画をあたためていたシチリア島に行き、四国よりも35%ほど広いこの島のおもな都市25ほどを訪れ、歩き回って来ました。 いくつかの印象深い項目についての記録や感想はここに、また、撮ってきた美しい景観の写真の一部はここに掲載しました。 前半、あまり張り切って毎日10km前後も歩いていたためか、旅程半ばで右ひざが内出血して膨れ上がりました。 ほとんど痛くないのでそのまま医者にも行きませんでしたが、後半は主にタクシーを使って足をいたわりながらの旅でした。 帰国後医者に行ったら 「 あまり見たことがない 」 と首を傾げられ3カ所を転々。 結局たまった赤い水を1回抜いた後、半月ほどで自然に治りました。 やはり、後期高齢者はあまり頑張ってはいけないと痛感しました。 このため、下旬に予定されていた東海道53次のウォーキング ( 富士→由比 ) やゴルフ、同期会などは残念ながらすべて欠席 ![]() 月末には昨年暮に夫婦一緒に入れてもらった冠動脈のステントの半年目のチェックがあり、私はOK。 カホルは今回また1本追加と言う破目になりましたが、それも問題なく完了し、ともかく現在2人とも無事で元気です。 先月受けた人間ドックで眼底の精密検査をしろと言われましたがこれも精密検査の結果OK。 老母の医療的処置につき担当医に相談に行ったり、珍しく歯医者に行ったり、いづれにしても、6月後半は毎日のように医者の顔ばかり見ていました。 こんなに各分野の医療技術が進歩したおかげで、母も私たちも長生きしていますが、これは社会全体にとって本当に良いこと、幸せなことなのかどうか、時々考えてしまう今日この頃です。 半月のイタリア旅行中、昼食はごく軽いものに抑えていましたが、朝夕は結構食べた上に、シチリア独自の白ワインを体験学習しようと毎夕食時に1本をほとんど全部飲んでいたためでしょう。 あんなに毎日歩いてたのに帰国したら2.5kgも肥っています! ひざが痛いので上半身の運動しか出来ないから、節食に励んで10日間で出発前の値に戻しました。 それにしてもシチリアの料理は実に美味しいですね。 新鮮なエビやマグロの前菜、生ウニ、イワシ、マグロの卵などを和えたパスタ ( 写真の順 ) などの味は、今も忘れられません。 とにかく、14日間毎日、地元のイタリア人に聞いては評判の良い魚料理のレストランを紹介して貰い、食べ漁っていました。 日本食が食べたいなどとは一度も考えませんでしたが、練りワサビと醤油、箸は日本から持参して必要に応じて使いました。 笑われるのを覚悟で以下にそのごく一部の写真を載せます ( 2番目のはハムではありません。 本マグロとカジキの燻製です )。 なお、シチリアの男女のメタボの人の率は、私の独断的観察によれば日本の3〜5倍はあります。 肉とバターの北イタリアに比べ、魚とオリーブ油のシチリアは健康的だと聞いていましたが、お菓子だってカッサータやカンノーロ *1 は凄く美味しいし、これほど旨いワインと魚と甘い物をあれだけ沢山食べていれば、メタボも当然と思いました。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() *1: 「 カンノーロでなくカンノーリではないの? 」 と思われる方がきっといらっしゃると思いますが、単数形が cannolo で、複数形が cannoli です。 私は一度に一個しか食べなかったもので・・・ 東京・東京・関西という順番を繰り返して毎年1回行われる大学の同期会が、今年は神戸で開かれました。 久しぶりに関西に行き、主に関西在住の旧友たちと会いましたが、やはり3年ぶりに会うと、自分を含めたそれぞれの 「 老い 」 を ”しっかりと” 感じてしまいます。 その後あちこち回りましたが、京都と名古屋で撮った写真を1枚ずつ載せます。 京都の東寺の木造の五重塔はすでに5代目だそうで、それでも400年近く経っても立派に残っていますが、名古屋駅前の最も前衛的な 「 モード学園スパイラルタワーズ 」 は今から400年後に果たして残っていることでしょうか? ![]() ![]() もう20年も前のこと、米国在住時代、アトランタ市内の寿司屋 「 すし福 」 のカウンターで偶然隣あわせに座ったのが縁で知り合った秋田県出身で当時米国で独りで働いていたS子さん・・・その後米国で、また日本で、ずっと私たち夫婦は彼女と仲良く付き合ってきました。 その後彼女がハワイ島に移住したので、 01年 と 04年 の2回、私たちはハワイ島に彼女を訪ねました。 その間、彼女は03年に現地で米人と結婚しましたが、3年前に新築した自宅に是非泊まりに来てくれと私たちを招き続けて下さっていたので、私たち二人の 「 心臓の修理 」 も終ったところで今回、5月中旬にハワイ島を訪ね、新築の素敵な新居に泊めてもらって、6日ほどを過ごして帰ってきたというわけです。 そういう経緯なので、私たちはハワイに3回、延べ3週間以上も滞在していながら、いつもハワイ島やマウイ島ばかりを観光していました。 所が、普通日本人がハワイと言うと、ワイキキや真珠湾のあるオアフ島のことなので、一度オアフ島も見ておかないと 「 友達と話が合わない 」 とカホルが言い出し、今回は帰りがけにちょっとだけオアフ島にも立ち寄りました。 でも、私たちの好みからすると、オアフ島の豪華なホテル、ビーチ、繁華街などより、ハワイ島やマウイ島の 「 秘境 」 的な地域と静寂そのものの民宿の方が遥かに素晴らしいように感じられます。 秘境と言えば、今回初めてハワイ島のワイピオ渓谷を訪ねたので、その写真をご紹介します。 ハワイ島では、最近キラウェア火山の活動が活発化し、火口から煙が常時大量に噴き出していて、これが上空の湿気に混じってうす黒い霧となり島の上空を覆っていました。 火山 ( volcano ) に因る霧 ( fog ) だというので、地元では vog と呼んでいました。 おかげで、ハワイらしい紺碧の青空の写真はあまり撮れませんでした。 このハワイ旅行から帰ってきたのが21日、この日はたまたま私の誕生日です。 「 喜寿 」 というのは、昔風に 「 数え年 」 で77歳ということなので、私もついにめでたく喜寿を迎えたことになります。 自分でも改めて驚き、感慨にふけるばかりです。 そして11月になれば、私たち夫婦の 「 金婚式 」 がやってきます。今年は私にとっては 大変な年 なのです。 でも、この年齢でもお蔭さまで元気にしています。 連休さなかの4日には、いつもの仲間と都合が合わなかったので、独りで旧東海道の元箱根の関所跡から三島宿までの15kmほどを歩いてきました。 これで、途中のスキップしていた部分がなくなり、1年間で日本橋から富士市まで歩いたことになります。 遅々としたペースですが、あと2年以内に京都に辿り着きたいと思っています。 ![]() ![]() まるで決まっているかのように月曜だけ雨が降る週が4回続いたため、月曜開催と決まっている東海道五十三次のウォーキングは延び延びになってしまい、3月は遂に一度も歩けませんでした。 そして、 後回しにしていた 箱根湯本の三枚橋から元箱根まで の雪も消えた登り道を歩いたのは4月21日のことでした。 冠動脈の狭窄は昨年暮に解消したとは言え、天下の険の登りは、やはり後期高齢のこの身には苦しいかも・・・と懸念していましたが、それは杞憂でした。 一昨年の秋に孫と一緒に低い山に登った時の息苦しさを思うと、本当に嘘のようで、医療技術の進歩に改めて驚きます。 昨年の8月に同じコースを上から下に向って降りた時と比べても、むしろひざ関節への衝撃や滑って転倒する懸念やが少ないだけ、時間的にはともかく、精神的・肉体的負荷には大差はないと感じました。 このあと、次回5月連休に、元箱根から三島の宿まで下れば、すでに冬の間に歩き終っているその先のコースにつながることになり、全長約126里 ( 約500 km ) の 旧東海道五十三次の30%ほどを1年かかって歩いた ことになります。 獲らぬ狸の皮算用と言われそうですが、単純計算だと、あと2年半ほどさきの78歳の秋に京都に着けることになります。 ただ、静岡以西を歩くときは日帰りは無理で、一回につき一泊2日で12km×2日=24kmくらいを歩くことになるでしょうから、もう少し早く達成できるかな? それにしても江戸時代、こんなに狭くて急峻で歩きにくい箱根八里の悪路を、老若男女の旅人たちたちが、冬であろうが雨天であろうが、よくもまあ歩いたものだと、何度考えても不思議でなりません。 しかも、普通の体力の人なら小田原を朝暗いうちに出発し、箱根を登り降りして三島までの31.4kmを、夕方までに 「 歩き通す 」 のが当り前だったのです。 ましてや、駕籠や馬まで含んでいる千人規模の参勤交代 (*1) の大名行列など、ここを通ると考えただけでもうんざりする行事を毎年やってのけているのです。 幕府が早くから石畳の整備等の箱根路のインフラ整備につとめたのも、参勤交代を強要する側としては当然の事だったと思います。 とは言え、平らな石でなく大きな丸い石を不規則に敷いてわざと歩き難くするなど、防衛上の配慮をしたという説もあります。 軽い肺炎で入院中の老母も12日間毎日見舞いに行きましたが、どうやら退院できてひと安心。 カホルが半年くらい夢中で練習に励んできた女声コーラスの発表会も成功裡に無事終りました。 私の方は同期会の一泊旅行の準備と実施の幹事長の役目も滞りなく果たせたし、運転免許証更新のための高齢者講習も順調に終ったし、ハワイ島在住の米国の友人が建てた新しい邸宅に泊まりに行くための旅行の手配も出来たし、最近やたらと増えたロシア語のスパムメールの完全撃退法も完成したし、合間を見て小田原城址公園で開かれた 「 第4回おでんサミット 」 にも出席したし(*2)・・・お蔭さまで忙しいが平穏な月でした。 外食の機会も多かったのですが、体重もなんとか横ばいに保てました。 (*1): 参勤交代については、 ここを読むと非常に面白い し、物知りになれます。 (*2): おでんというものは、調理と食べさせ方が非常に難しいですね。 大根やこんにゃくは別として、練りものその他は、ちょっと長く煮込んだら味が外にしみ出してしまって抜けがらみたいになってしまいます。 このサミットのような屋外の屋台での量産型のクッキングでは 「 おいしい! 」 と感心させるような味を提供する事はしょせん無理でしょう。 私の舌にとって、今回ダントツに美味しかったのは、皮肉にも全国から参集した数ある 「 おでん 」 のうちの一つではなく、老舗 「 籠清 」 の 「 揚げたて串揚げ 」 ( ¥150 : 写真の手前から二つ目 ) でした。 ![]() ![]() ようやく暖かくなってきました。 近くの狩川の両岸の土手沿いに171本植えられている早咲きの 「 春めき桜 」 ( 別名:足柄桜 )*1 も樹勢は年ごとに立派になってきて *2、20日ころには、満開になりました。 これが散り始める頃、いよいよ染井吉野の開花が始まります。 春めき桜の特徴は、その美しいピンク色と、花の密度 ( 数 ) の大きい事と、染井吉野などにはないほのかな香りと、そして少々の風や雨では散らない花の寿命の長さだと思います。 この花が散ると、すぐに染井吉野の開花が始まります。 *2: 上の写真は左が昨年、右が今年です。 ほぼ同じ場所から撮りましたが、カメラも違うし、花弁の色の違いはご勘弁下さい ( 右の方が本物の色に近い )。 桜は成長が速いものですが、それにしてもたった1年でグングンと伸びているのが分かります。 自宅近くの山は一面の杉林ですが、私はなぜか幸い花粉症の気はないので、毎日のように外を歩くことができます。 冬の間中断していたゴルフも再開しました。 東海道のウォーキングについては、今月は富士から岩淵、蒲原、由比と古い美しい昔の宿場跡の残っている地域を歩く計画でしたが、予定日も次の週も小雨が降ってしまい4月に延期となりました ( 昔の旅人たちは蓑笠程度の不完全な雨具で、雨でもグングン歩いたのでしょうね。 現代の旅人の何と軟弱であることよ! ) でも、昨秋以降の運動と節酒・節食・筋トレのおかげで今月も体重を1.5kg減らせました。 2年前より5.5kg、1年前より4.1kg減です。 5kgのお米の袋を抱えると結構重いですよね。 以前はあれを腹に巻いて歩いていたということになるのでしょうか。 ![]() ![]() こんなことではいけない・・・ちっとは勉強もしなくっちゃ、ということで、近づくイタリア個人旅行 ( 今年はシチリア島をゆっくりと一周の予定 ) に備えて毎日イタリア語の猛勉強を再開。 驚いたことに昨年あれほど沢山覚えた内容は見事にほとんど忘れ去っていました。 20代前半までに学習したいくつかの言語の力は、今でも全く衰えていない自信があるのに、70歳になってから勉強したイタリア語の力は 「 賽の河原 」 の小石の塔のように、何度やり直してもひと月も使わないでいるとそのたびに崩れ去ってしまい、何回覚えなおしてもしっかり身に付かないのです。 若い皆さん、勉強は若いうちにしないとだめですよ! 頭脳の老化というのは恐るべきものです。 ところで、先月この欄で、電柱や電線が日本美しい景観をどれほどひどく損ねているかについて書きましたが、殆ど同じ趣旨のことを、ある高校生が 「 電線なくし広い空のある日本に 」 という題で新聞に投書しているのを見つけましたので、その一部を引用させていただきます。 大人たちもこのことに是非気付いてほしいものです。 日本は何か狭苦しい、とふと思った。道が狭い割に建物はぎっしり詰まっていて窮屈な感じがする。 でも外国だって道が狭い所もあるし、高い建物だって沢山ある。 この違いはなんだろう。 電線や。 何気なく空を見ていて気づいた。 電線が、建物の上や近くにこれでもかと結ばれている。 これが空を分割し、狭苦しく見えるのだ。( 中略 ) 外国は電線のない所が多いのではないか。 これが日本と外国の大きな差だと感じた。 電線一つあるのとないのとでは、同じ所でも見え方が違うと思う。( 後略 ) 」 { 高校生 清谷 望 ( 17 ) 京都府宇治市 } 毎日新聞 平成20年3月28日 『 みんなの広場 』 *1: この桜の起源については、インターネットで調べてもなかなか出てきません。 同じ狩川の2kmほど上流に地元のライオンズクラブが植樹した地域があります ( 下右の写真 ) が、そこには左の写真のような説明文が書かれています。 随分新しい品種なのです。 文中の 「 枝変わり 」 とは Wikipedia には次のように記述されています。 「 枝変わり ( えだがわり ) とは、植物のある枝だけに関して、新芽・葉・花・果実などが、成長点の突然変異などによって、その個体が持っている遺伝形質とは違うものを生じる現象である。 動物であれば、体細胞の突然変異が新たな個体に反映することはまずあり得ないが、植物では成長点から先舳先へと体が作られてゆくため、変異しなかった部分と区別され、形質として固定する可能性がある 」 なお、下から2行目の 「 蜜につく 」 は 「 密につく 」 の誤りですね。 ![]() こういう落ち着かない多忙さの中でも、4日 ( 三島→原 ) と 18日 ( 原→富士駅 ) には旧東海道の駿河路をそれぞれ十数km歩き、 また9日と19日には大学時代の友人たちと2晩、楽しい酒席を共にすることができ、共にストレス解消になりました。 心臓治療の予後についても、医師から二人とも 「 もう完全に大丈夫だ 」 と言ってもらえました。 同年代の友人たちの中には、もっともっと大変でお気の毒な状況の人が沢山います。 1カ月半で終ったこの程度の難儀で愚痴など口にしては罰が当ることでしょう。 上記のルートで2回も快晴の旧東海道の駿河路を歩いて改めて痛感したのは、日本には何と電柱と電線が多い事か!ということでした。 美しい富士山を眺めたり、写真に撮ったりしようとすると、必ずと言ってよいほど、電柱と電線が邪魔をします。 最近は光ファイバーの配線が付け加えられ、しかもそれは配電用の電線や従来の電話線よりもずっと太いので、ますます事態は深刻です。 「 先進国の首都で電線が街中を醜くはいずりまわっているのは東京だけだ 」 と、 ある友人が言っていましたが、全くその通りで、私もこのホームページに以前書きましたが、それほど豊かだとは思えないイタリアの田舎町でさえ、ほとんど電柱や電線は目に入ってこないのです。(*1) ![]() 世界に誇れる日本の自然や歴史的な町並みなどの美しい景観を、これほどまでに電柱と電線によって無神経に蹂躙することにより、電線を埋設をしないで済む分だけ安易に利益を上げている電力会社とNTTを、 私はこの日、改めて憎らしく思ったことでした。 「 慣れ 」 とは恐ろしいものです。 私たち日本人は、街路の両側には電柱が立ち並び、頭上には電線が走っているのが当たり前だと、子供のころから慣らされてしまっているのです。 このような無神経な 「 慣れ 」 から一日も早く脱却しようではありませんか! 少なくとも市街地ではこれらの電線を地中に埋設し直し、電柱を撤去すべきです! そうすれば狭い道路も少しは広くなります。 こんな風に腹を立てずに東海道を歩き続けたかった のでしたが・・・ 冒頭に書いたように今月はカホルもだいぶ疲れたらしいので、子供たちが昨年暮れにボーナスの一部をくれたお金で月末に伊豆の土肥に慰労の一泊旅行をさせてもらって来ました。 そこで気がついたのですが、 今年は 「 うるう年 」 だったのですね。 今月は29日までありました。 1日トクをした気分です。 撮った写真は、このホームページに載せておきました。 残念なことに、美味しい夕・朝食のほか、昼食は二日とも沼津港の有名な魚料理店で食べてしまったこともあって、たちまち0.5kg体重が増えてしまいました。 最後になりましたが、土肥の数km北の小土肥という集落にある 「 象牙美術宝庫 」 、これは近くに行くことがあったらぜひご覧になるとよいでしょう。 超絶技巧の中国の職人たちが親子、さらには孫と受け継ぎ、一つの作品を何十年もかけて彫り上げたという2m近くもある精密極まりない象牙彫刻、それが一つや二つでなく何十も収集されています。 ほかにも、色鮮やかな数万個の石を集め、貼り合わせて描き上げた縦2m×幅数十mの屏風絵とか、その中国人の技巧と根気とは 「 驚嘆 」 としか形容できないさまざまな美術品が、これでもかこれでもかと言うほど沢山集められています。 (*1): 左は自宅の窓から撮った矢倉岳。 右は旧東海道の駿河路を歩いた時、やっとのことで撮れた電線のない富士山の写真 ( 東田子の浦駅付近にて )です。 それでも、共に画面の下の方の一部をトリミングする必要がありました。 (*2): もちろん米国でも、何kmも一軒の家もないような僻地、原野では、道路沿いに電柱が立ち、電線が走っています。 暮にひどく体調を崩して入院した97歳の母も、多くの方々のおかげで何とか回復し、年を越すことができましたが、1月に入ってからも病院との間を行ったり来たり・・・ そんな状況だったので、年賀状も大部分はお正月になってから作って出したりで、例年以上に慌ただしい年末年始でしたが、とにかく無事に1月も終ろうとしています。 ![]() ![]() ![]() ![]() というわけで、熱海にある、昨年、国の重要文化財に指定された (*2) ばかりの 「 旧日向別邸 」 を夫婦して拝見に行きました ( 内部は撮影禁止なので、左の門の部分の写真しかありません )。 亡父が若いころ ブルーノ・タウト に傾倒していたらしいことを知っているので、 かねてからここには行ってみたかったのでした。 ドイツ人の天才建築家タウトは、ユダヤ人ではないが一時期ソ連に関心を示したりもしたため、ナチス政権樹立とともにこれに嫌われて昭和の初めに日本に移住し、 2年半ほど群馬県高崎市郊外の少林寺の一隅の庵に住んで創作活動に励んでいました。 高崎市に生まれ育ち、当時まだ30歳にもなっていなかった父は、専門分野が近かった事もあり、 タウトに大いに傾倒していたらしく、父の書斎にはタウトの名のついた書籍がたくさん並んでいました。 というわけで、幼い私の頭脳にも彼の名前はしっかりと刻み込まれたのでした。 日本ではほとんど建築の設計をさせてもらえなかったタウトの唯一の遺作が、この小さな 「 旧日向別邸 」 です。 熱海駅近くの相模湾を一望できる急斜面に建てられた、桂離宮を熱愛、いや崇敬さえし、 ICH LIEBE JAPANISCHES KULTUR. と言い残してトルコに移って行ったタウトが、日本で作ったただ一つの建築物 (*3) であり 「 ドイツ人が設計した唯一の和風建築 」 です。 亡父の思い出も重なり、非常に印象深い一日でした。 高崎と言えば、1月末には、第二次大戦末期、たった2学期だけ在籍し卒業した高崎市の中央小学校の同窓生たちが、60数年の時間を超えて、伊香保温泉での一泊2日の懇親会に私を招いてくれました。 長い人生を何とか生き抜いて来ると、 こういう珍しくも楽しい思い出に浸る瞬間も訪れてくるものなのですね。 それにしても、全員75歳だというのに彼らの飲みっぷりの豪快な事! 27日の昼前に高崎駅に到着した後、乗り込んだ車の中でいきなり勧められたビール。 旅館に着き、ひと風呂浴びるなり始まった宴席はいつしか夕食となり、その後も延々と深夜1時まで。 そして翌28日も朝食前から午後3時頃解散するまで、起きている間はほとんど飲み続けでした。 積もる話に花を咲かせながらも、酔い過ぎぬよう注意しつつ丁寧に付き合っていたら、最近3カ月節食を続けて、順調にやっと3kg減らした体重が、たった一日で1kgもリバウンドしてしまいました! *1: 後日談として、2月5日頃、アップロードします。 それにしても、江戸時代の旅人達は、防水の履物もなく、防寒の衣類も殆どないのに、あの日の程度 ( 10cmほど ) の降雪はものともせずに元箱根の関所を越えて三島まで歩いていったのでしょうか。 *2: 彼が30歳代の頃ベルリンに作った斬新で美しい集合住宅群は、今も残り、使われていて、近く世界遺産に指定されるという噂もあるそうです。 *3: 彼の名声と才能を畏怖した日本の建築家たちが、彼に日本で仕事をさせないように画策したためと言われています。 2002年の1−6月分はここをクリックしてください。 2002年の7−12月分はここをクリックしてください。 2003年の1−6月分はここをクリックしてください。 2003年の7−12月分はここをクリックしてください。 2004年の1−6月分はここをクリックしてください。 2004年の7−12月分はここをクリックしてください。 2005年の1−6月分はここをクリックしてください。 2005年の7−12月分はここをクリックしてください。 2006年の1−6月分はここをクリックしてください。 2006年の7−12月分はここをクリックしてください。 2007年の1−6月分はここをクリックしてください。 2007年の7−12月分はここをクリックしてください。 2008年の1−6月分はここをクリックしてください。 |
このコラムは、もともとはグリンウッドで働く友人たちとそのご家族向けに、私や家族の動静、
日本や特に足柄地域の出来事などをお知らせしようと、97年初めから「近況報告」
という名でEーMAILの形で毎月個人宛てに送っていたものです。
98年2月以降はホームページに切り替え、毎月下旬翌月分に更新してきました。
ところが最近、日本に住むグリンウッドをご存じない方々も多くご覧になるようになってきたので、
同年7月から焦点の当てかた、表現などをを少し変えました。